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「まじめな話」の板

8243蒼天の實相:2019/01/27(日) 19:16:02
〜坂上宝剣と征夷大将軍〜

概要
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。
忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。
坂上宝剣では坂家。


1.生涯
1.2.征夷大将軍
延暦15年(796年)1月25日に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、10月27日に鎮守将軍も兼任すると、翌延暦16年(797年)11月5日には桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政を指揮する官職を全て合わせた[7]。延暦17年(798年)閏5月24日に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将となると、延暦19年(800年)11月6日に諸国に配した夷俘を検校のために派遣されている[8]。
延暦20年(801年)2月14日に節刀を賜って、4万の軍勢、5人の軍監、32人の軍曹を率いて平安京より出征。記録に乏しいが『日本略記』には、9月27日に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、討伏という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている[9]。10月28日に凱旋帰京して節刀を返上すると、11月7日に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」と従三位を授けられる。12月には近衛中将に任じられた[9]。


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