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「まじめな話」の板

8231トンチンカン信徒:2019/01/25(金) 15:49:21
>>8225
北朝正統天皇家だけ、征夷大将軍と幕府政治(関東政治)を室町時代から、承認されていたわけである。

1.歴史
1.4.建武政権・室町時代の将軍
建武新政で天皇公家の親政と国衙復活を目指して朝廷の独裁政治となり、恩賞や領地を巡り武家との対立が勃発した。足利尊氏の叛旗で建武政権は瓦解し、尊氏は北朝を奉じて征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏などとの連立政権となり、公武政権の特色が増した。だが、室町幕府3代将軍足利義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。足利義満の王権簒奪で朝廷は統治権を失い、政治権力は史上最も低下した。将軍職は嫡男の義持へ譲ったが権力は治天の位置を占めた義満に集中したままだった。応永15年(1408年)5月、義満の急死後に将軍の権限が急速に回復し細川管領と斯波義将ら宿老との連携の中、将軍権力と幕府機能が復活し義満の政庁北山第も現・金閣を残し取り壊した[20]。以降に天皇と朝廷は揺り戻しや戦国大名の貴族化と猟官への接近による権威再建はあったが、統治権のない権威としての政府となり、幕府こそが日本全土を実質統治する政府となった[21]。足利義教の代には頻繁に守護大名家の相続に介入して独裁的な権力を行使したが、その暗殺と守護大名主導の叛乱鎮圧により再び将軍権力は低下した。足利義政の代には、守護大名間の武力抗争に対し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の足利義尚は実権回復を図り六角氏討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。
南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。


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