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「まじめな話」の板
8240
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 03:32:11
〜坂上宝剣、②〜
2.関連する出来事
2.2.鎌倉時代
鎌倉時代に後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統との間で皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあった。
『増鏡』「みなれ川」では、1272年(文永9年)に死去した後嵯峨は、次代の治天は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけを示された。後深草と亀山はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨の正妻であり後深草と亀山の生母でもある大宮院に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。後嵯峨は長講堂領と呼ばれる荘園や播磨国、熱田神宮などを後深草が相続できるようとりはからっていたが、皇室伝来の将軍坂上田村麻呂の御佩刀[14]が後嵯峨の意向により崩御の後、直ちに内裏へと奉られたことで亀山に伝えられ、大宮院も関与していたことに後深草の不満は「女院のうらめしき御事」と収まらなかった。この一件は幕府にも不満を伝え、後に幕府の介入を招くことになる[12]。
坂上宝剣はその後、両統迭立の正式な始まりとされる後二条天皇の時に、亀山から恒明親王へと与えられた[12]。
3.関連する刀剣
国文学者の荒木浩は関連する刀剣として壺切御剣を挙げている。壺切御剣は坂上宝剣と同じく、後深草を超えて亀山へと伝授されたことで、どちらもレガリア的役割を深く担った。両刀剣が決定的に異なっているのは、後三条天皇の頃に消失した壺切御剣は実検と復元、新造と発見という真偽を超えた対応で処遇され、象徴としてのモノとしてすでに儀礼化の中に位置していた。それに対して坂上宝剣は『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』乾元二年五月九日と裏書に、刀身に彫られた文字まで克明に記録されたように、実物として存在する歴史的実在性が権威化の象徴であった[13]。
4.俗説
4.1.牧秀彦説
時代小説作家の牧秀彦は、坂上田村麻呂が征夷副使となった第二次征伐の際に佩用した太刀が坂上宝剣であるとしている。最初は標剣(そはやのつるぎ)とも呼ばれ、811年(弘仁2年)に没した田村麻呂の遺愛刀の標剣が皇室の御剣に加えられたのち、歴代天皇や親王の側に置かれて、現在は鞍馬寺に所蔵されていると著書で述べている[14]。しかし牧秀彦説は引用された史料が挙げられておらず疑問点も多い。
標剣とは蝦夷征討において天皇から征夷大将軍に賜与される節刀の事を指し[18]、『日本紀略』によると第二次征伐では794年(延暦13年)1月1日に大伴弟麻呂が節刀を賜与されているものの、征夷副使である田村麻呂が賜与された事実は無いことから、田村麻呂が第二次征伐で標剣を佩用していたとは考えられない。田村麻呂は第三次征伐で征夷大将軍となった801年(延暦20年)2月14日に節刀を賜与されているが、同年10月28日に帰京して天皇に節刀を返還しており、また征夷大将軍に還任した804年(延暦23年)では翌年に徳政相論が起こって桓武天皇が蝦夷征討を中止しているため出征はなく、節刀を賜与されることもなかった事から、生涯に渡って標剣を持ち続けていた事実は確認できない。標剣をそはやのつるぎともしているが、標剣とそはやのつるぎを結びつける一次史料が挙げられていないため、標剣をそはやのつるぎとしている点にも疑問が残る。
同様に、鞍馬寺が所蔵する黒漆剣についても田村麻呂が戦勝祈願に訪れ無事に凱旋した時に奉納した大刀とのみ口伝で寺に伝わるため[15]、鞍馬寺の大刀が坂上宝剣であるとする牧秀彦説は信憑性に欠ける。坂上宝剣には刀身の両面にそれぞれ「上上上 不得他家是以為誓謹思」「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていた事が記録に残るが、黒漆剣には坂上宝剣を示す金象嵌はない。
このように牧秀彦説には多数の疑問点がみられることから俗説と考えられ、近年では坂上宝剣と標剣、そはやのつるぎ(騒速)、黒漆剣の4振りの刀剣はそれぞれ同一ではない、または同一であるか定かではないと説明されるのが一般的となっている[16][17]。
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