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「まじめな話」の板

8172蒼天の實相:2018/12/30(日) 23:03:46
〜宇治天皇〜

菟道稚郎子
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▼目次
概要
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年[1])は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇の異母弟。

1.概要
菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。


2.名称
表記は次のように文書によって異なる。本項では「莵道稚郎子」に統一して解説する。
宇遅能和紀郎子 - 『古事記』[原 1]
菟道稚郎子皇子 - 『日本書紀』[3]
宇治若郎子 - 『山城国風土記』逸文[原 3]
宇治稚郎 - 『日本後紀』[原 4]
菟道稚郎子 - 『日本後紀』逸文[原 5]
宇治稚彦皇子 - 『続日本後紀』[原 6]
兎道稚郎皇子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
兎遅稚郎子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
菟道稚郎皇子 - 『延喜式』諸陵寮[原 8]
これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇」[原 9]も菟道稚郎子を指した表記と指摘される[1]。


2.名称
2.1.「ウジ」について
名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている[12]。『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。
地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ[3]、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている[3]。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[14][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている[3]。なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある[16]。


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