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「まじめな話」の板

8173蒼天の實相:2018/12/30(日) 23:09:54
>>8172

〜宇治天皇〜

3.系譜
3.1.古事記・日本書紀
(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇と和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である[20]。同母妹には矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女/八田若郎女:仁徳天皇皇后)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)がいる。
応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)は異母兄にあたる。また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹の小?媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。
なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。
 
関係略系図
系図は左から右。実線は実子、点線は婚姻関係、数字は天皇即位順を表す。表記は『日本書紀』に基づく。
[4]前ページ
(2.2.「イラツコ」について) [6]次ページ
(3.2.先代旧事本紀)
20. 『古事記』応神天皇記、『日本書紀』応神天皇2年3月条。


3.系譜
3.2.先代旧事本紀
『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖)九世孫の物部多遅麻連(もののべのたじまのむらじ)の女の山無媛連(やまなしひめのむらじ)を母とする[原 7]。また『古事記』『日本書紀』同様、山無媛連は矢田皇女と雌鳥皇女の母でもあるとしている[原 7]。
この記載と関連して、後述のように、菟道稚郎子の御名代の部との関係がうかがわれる宇治部氏や宇治氏は、物部氏一族とされている。これらが物部氏を称したのは『先代旧事本紀』の伝えるように菟道稚郎子の外戚が物部氏であったことに基づくと推察して、母を和珥氏とする『古事記』『日本書紀』の記述は誤りの可能性があるという指摘もある[21]。


4.記録
4.1.日本書紀
『日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐と王仁を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された[22]。応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り捨てている[23]。応神天皇40年1月に皇太子となった[24]。
翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだという[25]。
この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという[26]。


4.記録
4.2.古事記
『古事記』では、叙述を宮主矢河枝比売(宮主宅媛)から始めており、応神天皇が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まう比売と出会い、郎子が生まれるまでが描写される[原 1]。
その後は『日本書紀』と概ね同様の所伝を記す。大山守皇子の遺骸に向けて詠まれた歌も、ほぼ同じものが収録されている[27]。一方皇位継承については、単に宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)が早世したため、大雀命(仁徳天皇)が即位したと記している[原 1]。


4.記録
4.3.風土記
『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子が住んだ宮は「桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや)」と記載される。また「宇治」の地名の由来はこの宮が営まれたためとし、それ以前の当地は「許乃国(このくに)」と言ったとする[原 3]。
『播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載があり[原 9]、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚郎子を指すと見られている[1]。


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