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「まじめな話」の板
8206
:
蒼天の實相
:2019/01/08(火) 09:52:11
〜征西大将軍〜
(征西将軍宮=日本国王)
概要
懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう[1]、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。
南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。
2.日本国王良懐
1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている[3]。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川了俊に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。
しかし、明側では「良懐」を冊封したことは既成事実となった。そのため、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」の位を受けるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を詐称する偽使を送らねばならなかった。その足利義満も、当初は明国から「良懐と日本の国王位を争っている持明の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している[3]。
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