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「まじめな話」の板
8212
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 16:43:34
>>8211
〜関東管領〜
3.分裂する関東管領
近年の関東地方の戦国時代史研究の進展の中で、享徳の乱以後の鎌倉府組織の分裂状況の中で関東管領またはそれと同義の職名を自称する動きがあったことが知られるようになった。
越相同盟の交渉が本格化した永禄12年(1569年)頃に北条氏康によって書かれたとされる「北条氏康条書」(伊佐早文書所収)には亡父(北条氏綱)が古河公方足利晴氏の命を受けて国府台で小弓公方足利義明を討ったことにより「依勲功官領職仰付」と記されている。これは、国府台合戦の戦功によって後北条氏は古河公方より「関東管領に任命された」と主張しているもので、ここからその後の北条氏による足利義氏の古河公方擁立の正統性と関東管領上杉憲政及びその後継者である上杉輝虎の関東管領としての正統性を否認する立場を取っていたことが窺える。当然、上杉氏側から見れば足利義氏の古河公方就任は後北条氏が関東管領であることを前提にするものであって容認できず、代わりに関東管領上杉氏が擁立する古河公方が必要とされ、それが足利藤氏であったとされている(なお、後北条氏関東管領論は越相同盟によって古河公方足利義氏と関東管領上杉輝虎を相互承認したことで消滅したと考えられている)。
更に享徳の乱では上杉氏と争い、その後の戦国期には後北条氏と争った安房里見氏も関東管領を自称した形跡がある。これは里見氏が大檀那であった鶴谷八幡宮及びその別当寺であった那古寺の奉納された棟札に古河公方を「鎮守府将軍源朝臣」、里見氏当主を「副帥源○○(当主名)」と記されていることである。現在知られている同様の棟札は7通であるが、注目されるのは那古寺に納められた享禄2年(1529年)に「副帥」源(里見)義豊によって納められている事実である。里見義豊が禅僧玉隠英與と親交が深かったことが、玉隠の『玉隠和尚語録』(東京大学史料編纂所所蔵)によって知られているが、同書には同じく交流を持っていた関東管領上杉氏を「関東副元師(帥)」と記している。里見氏が名乗っていた「(関東)副帥」とは関東管領の異名である「関東副元帥」と同一のものであったと考えられ、里見氏もまた関東副帥=関東管領を自称していた可能性が強いとされている[7]。
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