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「まじめな話」の板
8217
:
蒼天の實相
:2019/01/12(土) 18:25:49
>>8216
〜ソシモリ〜
概要
蘇志摩利(そしまり)とは、雅楽の一曲。別名長久楽(ちょうきゅうらく)・蘇尸茂利(そしもり)。
右方(高麗楽)に属する6人舞。なお新楽では4人舞。高麗双調(こまそうじょう)。
『教訓抄』高麗部に記載がある。近衛天皇の久安年間(1145年-1150年)に此樂今者絶とされる。『日本紀通證』(谷川士清)において、高麗曲に樂名蘇志摩利 又樂具蘇志麻理ありとされるという。『日韓古史斷』参照。
明治に再興されたが1905年(明治38年)に第二次日韓協約・韓国統監府設置記念で林広継に再興が命じられたとも、1911年(明治44年)に芝葛鎮による再興との説があるという。[1] 近年では2001年(平成13年)に明治神宮で舞われた。[2]
由来[編集]
『和名類聚抄』二十巻本第10卷にある蘇志摩利の記述[3]を引用した『先代旧事本紀』(日本紀講筵の際提出された偽書とされる)巻第四 地祇本紀[4]の素戔烏尊によるヤマタノオロチ退治の前段の分注記事による。
素戔烏尊率其子 五十猛神 降到於新羅曾尸茂梨之處矣 曾尸茂梨之處 纂疏新羅之地名也 按倭名鈔高麗樂曲有蘇志摩利 疑其地風俗之歌曲乎 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作船 乘之東渡 到于出雲國簸之河上與安藝國可愛之河上所在鳥上峰矣
スサノオは子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨に降りた(曾尸茂梨は新羅の地名である。倭名鈔(和名類聚抄)の高麗樂曲にある蘇志摩利はその地の風俗を歌う曲である。)スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸之河上と安芸国可愛之河上にある鳥上峰に至った。
そしもり[編集]
曾尸茂梨については『日本書紀』 卷第一[5] 第八段 一書第四のヤマタノオロチ退治の前段に記述がある。
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇
スサノオは子のイソタケルと新羅に降り曾尸茂梨に居た。スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸川上にある鳥上之峯に至った。
また素尸毛犁については偽書とされる『桓檀古記』所収の「檀君世紀上編」[6]の三世檀君 嘉勒の条に次の記述がある。
( 戊)申十年豆只州?邑叛命余守己 斬其酋素尸毛犁自是稱其地曰素尸毛犁今轉音爲牛首國也 其後孫有陜野奴者逃於海上據三島僭稱天王
戊申十年(161年)豆只(ずし)州の?邑(わいゆう)で謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬った。これよりその地を素尸毛犁と称す。今転音し牛首國という。その孫に陝野奴がおり、海上へ逃げ三島で、天王を潜称す
曾志茂利という名が関連する神社は、熱田神宮の末社(孫若御子神社の北に南面)に祭神は居茂利大神(スサノオ)とされる曽志茂利社がある。
諸説[編集]
『釈日本紀』(述義)にある陽成天皇による878年(元慶2年)の日本紀講筵の元慶度講書(878年(元慶2年)-881年(元慶5年))で、惟良宿禰高尚(惟良高尚)がソシモリを今の蘇之保留と解説し、その分注に「此説甚可驚云々」とされた。その後、江戸時代の国学勃興者までながらく議論らしきものはなかったが、江戸時代から戦前にかけて『日本書紀』の曽尸茂梨が現在のどこにあたるのか盛んに議論され、候補地をあげる説が次々あらわれ、その数は戦前の段階で北は咸鏡北道から南は済州島まで、朝鮮半島の各地に8ヶ所にも及んだが決着はついていない(最近の学界では、普通名詞または神話上の概念として、特定の実在の場所に当てはめない傾向がある)。
それらの中で比較的有名な説は、吉田東伍の「古代半島諸国興廃概考」(1891年(明治24年)8月号『史学会雑誌』21号p.21〜22。)で、曽尸茂梨を春川の牛頭山とし、漢の春秋戦国時代の西暦紀元前4世紀と推定した。同論文は後に、『日韓古史斷』(1911年(明治44年))[7]の34-35ページの記述[8]となり [9]、この説に準拠して朝鮮の江原道春川郡の牛頭山に江原神社がつくられた。(1918年(大正7年)に社が建てられる[10]1941年(昭和16年)10月1日、国幣小社になった。)
またソシモリの語源や語義についてはこの他にも戦前から現在まで多くの説があるが、正確なところは不明である。
二三の例をあげると、金沢庄三郎は『日鮮同祖論』(復刻版 成甲書房、1978年(昭和53年))で「曽尸茂梨の(助辞)尸を除いたソモリは、徐伐すなわちソホリと音韻上一致するもので、モとホすなわちmp音の相通である」とした。また韓国の宗教文化研究院長の崔俊植(梨花大学教授)は、ソシモリは、「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意とした。
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