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「まじめな話」の板

8238蒼天の實相:2019/01/27(日) 02:14:39
〜シャクシャイン〜
(アイヌ民族)

1.経歴
シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長であった。メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の首長であるカモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、副首長であったシャクシャインが首長となった。
シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661〜1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌへ松前藩への戦いを呼びかけた。1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。松前藩から急報を受けた徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。
クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、松前軍は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた。シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺され、指導者を失った蜂起者たちは松前軍に降伏した。


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2.記念物
2.1.シャクシャイン像
1970年9月15日、シャクシャインのチャシが遺跡として残る新ひだか町・真歌公園に、任意団体「シャクシャイン顕彰会」によって強化プラスチック製の立像が有志の寄付により建立され、1976年に静内町に寄贈された[2][3]。このシャクシャイン像は和人の彫刻家竹中敏洋がデザインしたもので[4]、像は高さ3.5m、杖の先までの長さは4.2m[2]。「風をはらんだカッコロ(マント)を背に、エクンネクワ(山杖)を右手にかざし、神の祈りを聞くシャクシャインの姿」を表現したもので、一部に言われている松前藩の方向へ怒りを表した姿ではないことが、1972年9月30日に発行された児童書「明日に向かって アイヌの人びとは訴える」によって記されている[5]。毎年9月には、新ひだかアイヌ協会が像の前で全道からアイヌを集めた法要祭を行っている[3]。
1972年9月20日、結城庄司ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた町村金五知事(当時)の名を削り取る事件があった。犯行に新左翼の太田竜が加わっていたことから、警察は札幌オリンピックを控えた時期を狙った過激派による事件とし、全国指名手配の末1974年に結城らを逮捕した。しかしこの事件で有罪となったのは太田のみで、結城や足立正生・新谷行など他の4人は起訴猶予となった。
2015年、新ひだかアイヌ協会が老朽化を理由に協会をNPO法人化し寄付を募る形で像の建て替えを決定した[2]。しかし、政府のアイヌ新法検討を踏まえた穏やかな表情のデザインによる新像の発注を行ったアイヌ協会と、すでに定着している従来の像の存置を主張するシャクシャイン顕彰会との間で意見が二分し、新ひだか町は新像完成後に旧像撤去を行う方針だったものの顕彰会の申し出を受けて保留し、町・アイヌ協会・顕彰会による3者会談を行った[3]。しかし話し合いは平行線をたどり、いったんは旧像を残したまま新像も立てることになったが[6]、結局9月20日に新ひだか町は「老朽化が進み、倒壊の恐れがあり危険」として旧像を撤去した[7]。新像は手のひらを上にしてオンカミ(拝礼)をする姿をかたどった高さ約4mのブロンズ製で、9月23日の法要祭で披露された[8][9][10]。その後10月にはシャクシャイン顕彰会が町による旧像の撤去を「対応が乱暴で納得いかない」として、旧像の型枠を用いた独自の再建計画が判明している[11]。


2.記念物
2.2.シャクシャイン古戦場跡碑
2016年10月28日、長万部町は国縫川ほとりの旧国縫小敷地に「シャクシャイン古戦場跡碑」を設置して除幕式が行われた[1]。この碑は台座からの高さ2m、幅3m、奥行き1mの大きさで御影石製である[1]。


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