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『web「生命の實相」輪読会』 板

36a hope:2016/04/02(土) 08:37:47 ID:cEpBaIdo

>>35 a hope所感)

<<「生長の家」では、全人類みな神の子である、本来罪なく病なく死なく悩みなく、苦しみなきものであることを宣言>>

この真理が生長の家の「唯神実相」「実相独在」つまり、根本真理というわけですね。


※岡正章先生がブログ「みすまるの珠」で、この生長の家の「根本真理」と現教団の教義・運営方針の矛盾をご指摘され、
『教勢回復へ「起死回生」の手立ては、』というタイトルで、勇気あるご発言をされているのでweb「生命の實相」輪読会参考文献板の方に紹介させていただきます。 

http://misumaru.o.oo7.jp/

37トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/04/02(土) 10:05:06 ID:rNf9Lqo.
>>32

 私より、a hope様のほうがはるかに愛深いですよ。

38a hope:2016/04/03(日) 18:13:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p56 後から1行目〜

・・・たいていの人はスリという行為を見て、これは悪いと申しますけれども、なぜ悪いかとよく考えてみますと、ちょっと善悪の判断がつかなくなるのです。

それを善とか悪とかいうのは見る人の立場の相違になるのであります。

たとえば、物を掏(す)るということを一つの芸術として観ますと、それは奥堂に達すれば、天狗飛切りの術というか、忍術の達人というか、一つのすぐれた術ということができるのであります。

これはスリを芸術として観た場合であります。

ところが芸術方面から観たならかくも立派なスリを、悪いというのは、掏られた側から言うと、自分の物が減ったので悪いということになる。

またスリを奨励して、そういうことが殖えてくれば社会秩序をみだすことになり人心を不安ならしめるから悪いということにもなるのであります。

これはスリそのものが悪いのではなく、人の所有権の保護とか社会秩序の維持とかいう尺度というものが、いわば軌道であります。

軌道に乗って、ある一定の尺度から見る場合にはじめて善悪の見(けん)が生ずるのです。

そしてこの行為は、罪悪である、貴様は悪い人間であると判断が下されることになるのです。

そしてひとたびある尺度によって批判を下して、言葉によってお前は悪い者だと、こう断定してゆきますと、その断定を下された者は「わたしは悪人である」という自覚を得てくる、――そうすると、その人はなかなか善人に転向することができなくなってくるのであります。

これに反して、同じ行為をしましても、お前は悪人であると非難せずに、「これだけのことのできる君は天才である。立派な天分をもっている。何もこんなつまらない事をしなくても、良い素質があるのがお前だ」と教えてまいりますと、「そうか、本当はわたしは立派な者であったのか!もう一つ奮発すればこんなちっぽけなスリみたいなことをしなくてもいい人間なんだ」と気がついてくるのであります。

39a hope:2016/04/03(日) 18:34:10 ID:cEpBaIdo


>>38 a hope所感)

『「生長の家」の教義について議論する』板>>46に所感を書きました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/46

40るん吉:2016/04/03(日) 21:05:30 ID:Jo.00maY
a hopeさま

>>「生長の家」では、全人類みな神の子である、本来罪なく病なく死なく悩みなく、苦しみなきものであることを宣言>>

この真理が生長の家の「唯神実相」「実相独在」つまり、根本真理というわけですね。


すごい真理ですね!私が中学の時に読んだ本でダンカスターて人の本ですけど、心の法則の本(マーフイがこの人の本をそっくりそのまま真似してます)なんですが、

罪に対してどういう考えかといいますと、「今はまじめに生きてたら、過去の罪はないのですよ」こんな教えでした。大概こんなことしか考え付かないのですね。

物質無しを知らないのですもの。こんなのしか知らなかったら、苦しかったと思います。谷口雅春先生はほんとにすごいです。

日本人で、そして生長の家のことを知っててよかったですよね!

41a hope:2016/04/05(火) 00:15:09 ID:cEpBaIdo
>>40 るん吉さま

<<罪に対してどういう考えかといいますと、「今はまじめに生きてたら、過去の罪はないのですよ」こんな教えでした。大概こんなことしか考え付かないのですね。>>

そうですね。
一般的に「悔い改める」とか「生まれかわって生きる」などという場合は、
『昔は悪いことをしたけれど、今は反省して真面目に生きています・・・』みたいな感じですものね。

ですが、「生長の家の教え」では「悔い改め」(生まれ更わり)とは、「われ神の子」の自覚であると学びました。

罪を犯したり、悪さをするような自分は本物の自分ではない、わたしたちはみんな神の子なんですよね!

わたしも日本人に生まれて、この教えが学べてほんとによかったと思っています。

42a hope:2016/04/08(金) 00:44:53 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p72 後から1行目〜

生長の家へ来られて、煙草のやまる働き、酒のやまる原理もこの法則なのであります。

一言もわれわれは「煙草を止めなさい」と言いはしないし、「酒を止めなさい」とも言いはしない。

ところが、『生命の實相』を読んでいるうちに自然と煙草がやまり酒がやまるというのは、その人の人生観が変わり、本来「悪」というのもが非存在であるということがわかるので、「悪の魅力」というものが無くなるのです。


p75 後から4行目〜

要するに生長の家の「ねばならぬを解放する教育」というのは、「これをしたらいかん」といういっさいの縛りと制限とを撤廃してしまって、みんな善いものである。みんな善人であるということにしてしまったときに、今まで「悪」だと思えばこそ病的に魅力を感じていたものが、「悪」でないと知ると間もなく、その魅力を失墜して人間は生まれたるままの本性どおりに動き出す。

そうすれば自然に本然の調和が現われ何人も強制しないで、そこに本当の善なる世界が生まれてくるのであります。

「善」とは、一つの行為につけたる正札ではないのでありまして、調和ある相(すがた)に各要素が現われたのを善というのであります。

43a hope:2016/04/08(金) 00:47:37 ID:cEpBaIdo

>>42 a hope 所感)

悪癖にしても、犯罪にしても善いことだと思ってする人間はほとんどいないと思います。
でも、自分の意志だけでは、なかなか止められないのが現状なのではないでしょうか?

それが、『生命の實相』を拝読することで、無理なく止められるようになるのですから、
こんなにありがたいことはありませんね!

44るん吉:2016/04/13(水) 10:54:22 ID:Jo.00maY
>>自分の意志だけでは、なかなか止められないのが現状

そうなんですね。昔ね(昔と言っても4年くらい前かな・・)誰かのブログを読んでたんです。そこにこういうことが書いてあった。

「むか〜し、性格が暗かったので明るくなれるよう思い切ってなセミナーにいってみた。そういうのが流行った時代らしいです、

1週間のセミナーを受けて、「積極的になれて、明るく考えれて、性格も暗くなくなった」そう思えたらしいですが

帰ってきてものの1ッ週間もたたないうちに元の自分に戻ったらしいのです。その場の雰囲気で、性格が変われたように思っただけ。だったそうです。

意思の力、自我の努力って、そうなんですよね。

生長の家以外は「自我の努力」じゃない?「本当の自分は神の子 」ってうたってる本もいっぱいあるけど、

物質無しを知らないから結局「本人の努力、」自我の努力 なんですよね。

45a hope:2016/04/14(木) 10:48:13 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p77 7行目〜

仏教の色即是空の哲学が生長の家において「物質無し」と実に簡単に喝破され、さらに「肉体無し」と断言されるにいたるや、「肉体は眼に見えているのに、それが無いというのは没常識な迷信である」と世人に驚異の眼をみはらしめつつある一方に、その「肉体無し」の断言がいかに人類を病気より、憂患より、生活苦より、回復しつつあるかは、その実績においてこれまことに驚異されつつあることである。

46a hope:2016/04/14(木) 10:50:49 ID:vdNCBnG6

>>45 a hope所感)

今朝、久しぶりに「蓮華日宝王地観」をしました。
その唱えの言葉の中に

物質はない 物質はない 物質はない…
肉体はない 肉体はない 肉体はない…
心もない 心もない 心もない…

とありますが、この生長の家の根本真理である「物質無」「肉体無」「心(人間知・偽我)無」 の真理を、
わたしたちは皆、現象世界に生きているが故になかなか自覚することができないのだなあ〜とぼんやり感じていました。

でも本当は、そう「感ずる(観ずる)心」もない!

47a hope:2016/04/14(木) 10:52:19 ID:vdNCBnG6

>>44 るん吉さま

<<生長の家以外は「自我の努力」じゃない?「本当の自分は神の子 」ってうたってる本もいっぱいあるけど、
物質無しを知らないから結局「本人の努力、」自我の努力 なんですよね。>>

わたしも、そのとおりなのではないかと思います。

「生長の家の教え」で一番肝心なところは、実は『「人間神の子」の自覚』ではなくて、『「物質なし・肉体無なし・心(人間知・偽我)なし」の悟り』なのではないかと…

その悟りがいい加減だと、「人間神の子」の真理を間違って解釈してしまい、増上慢になってしまうか、
もしくは、神を信じられなくなって堕落していってしまうのでないかと・・・

48a hope:2016/04/14(木) 10:54:49 ID:vdNCBnG6
>>47訂正
肉体無なし→肉体なし

49a hope:2016/04/15(金) 09:18:50 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第25巻 後から5行目〜

医学の研究はおおむね病気を起こすところの外的「縁(えん)」の研究であるが、病気を起こす内的「因(いん)」は遠くわれわれの潜在観念(なお、深く探れば念の蓄積すなわち業)の中にあるのである。

しかし「因」ありとも「縁」がなければ病気という「果」を結ぶことはないから、医学は医学で大いに研究してもらいたいものである。

生長の家は内的「因」の撲滅に専念するし、医学は外的「縁」の撲滅に尽してくれる。

「因」「縁」どちらを撲滅しても果(み)は結ばないのである。


たとえばここに植物の種子(たね)があるとする。

その植物の種子は五官に触れない透明な心的存在のようなものであるとする。

それに土壌をかけたとき植物は発生したならば、その土壌しか眼に見えない人間は、土壌が原因でその植物は発生したと思うであろう。

しかし土壌は「縁」であって、透明なる五官に触れない心的存在が原因なのである。

冷たい風に当たって風邪をひいたといえば、冷たい風が原因となって風邪をひいたように見えるが、冷たい風に当っても風邪を引かない人があることを思うと、冷たい風が風邪の原因ではなく、心に発熱痰咳(たんせき)などで象徴されるような因を持った人のみが、冷たい風という「縁」にふれて風邪を引くのである。

50a hope:2016/04/15(金) 09:27:01 ID:vdNCBnG6

>>49 a hope所感)

ここに「因縁果」の法則が説明されています。

今や「人間は病気になる」いうのは常識として、わたしたちの深層真理まで根強く広がってしてしまっていますし、
さらにそれが集団意識となって悪影響を与えてたくさんの人が病気で苦しんでいらっしゃるのが現代社会の現状なのではないでしょうか?

そして、現代医学や保健衛生学では病気の原因を、ウィルスだとか悪い生活環境だとかと考えて、治療を施したり生活改善策を指導したりしています。

ですが、ウィルスや悪い生活環境などは本当の「原因」ではなくて単なる「縁」だったのですね。

<<冷たい風に当たって風邪をひいたといえば、冷たい風が原因となって風邪をひいたように見えるが、冷たい風に当っても風邪を引かない人があることを思うと、冷たい風が風邪の原因ではなく、心に発熱痰咳(たんせき)などで象徴されるような因を持った人のみが、冷たい風という「縁」にふれて風邪を引くのである。>>

どんなにたくさんの良くない「縁」があっても、わたしたちが「病気なし」の悟りの心でいれば、病気を発病することはないという訳ですね!

51a hope:2016/04/16(土) 06:31:26 ID:vdNCBnG6
>>50 訂正
深層真理→深層心理(潜在観念)

52a hope:2016/04/16(土) 06:32:17 ID:vdNCBnG6
>>50補足

<<病気を起こす内的「因(いん)」は遠くわれわれの潜在観念(なお、深く探れば念の蓄積すなわち業)の中にあるのである。>>

実相(病気なし)を悟れば、この「念の蓄積すなわち業」も消えるわけですから病気も消えるということなのだと思います。

実相を悟るには、「生命の實相」の拝読しかありませんね!

53るん吉:2016/04/16(土) 16:17:43 ID:Jo.00maY
a hopeさま
>>実相(病気なし)を悟れば、この「念の蓄積すなわち業」も消えるわけですから病気も消えるということなのだと思います。

>>実相を悟るには、「生命の實相」の拝読しかありませんね!


そうですね!!

>>生長の家の教え」で一番肝心なところは、実は『「物質なし・肉体無なし・心(人間知・偽我)なし」の悟り』なのではないかと…

うん、うん、そうなんですよね!巷にある本なんかでも、本当の自分は「 神と一体」←こういう立派な本はいっぱいあるんですよ。

前にそんな本ばかり探した時期もありました。でも生長の家と違うところは、その人らは何らかの境地に入ってても「物質無し」を知らないのですよ。それを知らないから

神の子なる自分とはいったいどういうのをいうのか?これが、もうひとつうやむや なんです。雅春先生のように「罪無し、病なし、苦しみ無し。」とは教えて下さらないですよね。

何故か?それらのお人は「神と一体なる自分」を知ってはいても、「現象無し」を、知らないからですよね。

54a hope:2016/04/17(日) 09:22:02 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p101 後から6行目〜

人間の実相は神の子である。仏子である。生きとおしの生命であるというようなことは「生長の家」の発明でもなんでもない。

古くから善き宗教はほとんどそのいずれもが口をそろえて説いてきたところであります。

では「生長の家」はどこが違うかというと言葉の力、文章の迫力がちがうのであります。

臨済(りんざい)の一喝といって臨済禅師の一喝をくらうと悟る弟子が多かったという。

一喝にもいろいろあって、耳で聞いたら臨済の一喝も凡僧の一喝も同じかもしれない。

しかしその一喝の中にこもっている生命は、その喝をくらわす指導者の悟りの程度にしたがっていろいろの段階があるのであります。

それで「生長の家」で説くところの宗教的真理は、多くの善き宗教の神髄をなしている宗教的真理と同じであり、むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、どこがちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。

本を読めば病気が治るのもこの随伴的結果なのであります。

この生命の実相というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんいじ)であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の実相を悟らせるようになったところが生長の家の独特なところであるのであります。

今までは真理と言葉が二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心(いしんでんしん)でないと悟ることもできない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、文字と生命とを一体というような域(いき)にまで達せしめたのだろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が多勢(おおぜい)あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、肉体の病気も治り境遇環境まで変化してくるということになってきたのであります。

55a hope:2016/04/17(日) 09:27:41 ID:vdNCBnG6

>>54 a hope所感)

ここのところには、なぜ、「生命の實相」やその他の雅春先生の聖典と呼ばれているご著書を拝読すると真理を悟ることができるのか、その理由が書かれています。

<<人間の実相は神の子である。仏子である。生きとおしの生命であるというようなことは「生長の家」の発明でもなんでもない。
古くから善き宗教はほとんどそのいずれもが口をそろえて説いてきたところであります。>>

とまず最初に、るん吉さまもご指摘のとおり「人間神の子」の真理は昔から他の宗教でも説かれていた真理で、
特別に「生長の家」が説き始めたものではなかったとあります。

ですが、次に、

<<が、【生長の家の】どこが【他の宗教と】ちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。>>(【 】は a hopeが入れました)

と言われています。
『文章による一喝』すごいですね!
これを、もう少し詳しくいうなら、『文章による「無」の一喝』なのではないかとわたしは思うのです。
(参考文献)
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=188

<<ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。
古来、直接説法、以心伝心(いしんでんしん)でないと悟ることもできない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、文字と生命とを一体というような域(いき)にまで達せしめたのだろうと思います。>>

「生命の實相」こそ真(まこと)の聖典、人類の宝ですね!

56a hope:2016/04/18(月) 11:34:48 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p109 4行目〜

かくして小西氏は身を神に捧げられたのであります。

神は生命である、生命は癒す。

その結果、小西氏の腸結核はズンズン治ってしまった。

そして二カ月ほど前から光明思想普及会へ頼って来られました。

今ではわたしなどよりも肥えてどこが腸結核であるかというような健康状態です。

左翼の錚々(そうそう)たる人であり、刑の執行停止中の人でありますので、誰も雇うて生活を保証する人がない。

社会はもっとこういう人を保証して正しい道に進みうるように導いてあげなければならない。

今の社会は、人を見るとすぐ「悪」に見すぎる。

刑余の人であるといっそうそれが甚だしい。

そのためにどれほど善人になるべきはずの人が悪人のままで残っているか。

これではいけない。

生長の家は『法華経』にある常不軽菩薩のように、すべての人の本性に善を見、神を見、仏を見て、その本性を生かしてゆくのです。

これが本当の教育である。

光明思想普及会ではこの小西茂国氏の身柄を非公式に預かって、ただ今編集の手伝いをしていただいているのであります。

時々新聞に出る広告文のうちにはこの小西氏の書いた文章があるのであります。

無神論者が転向して有神論の宣伝文を書いているのであります。

人の本性は本当はみんな善人であり、有神論なのであります。

生長の家はこういうふうに唯物論者を転向させて有神論にならせるのであります。

57a hope:2016/04/18(月) 11:37:20 ID:vdNCBnG6
(a hope所感)

「生長の家」のみなさんは、ここのところを読まれて何を思われますか?
「生長の家」教団のするべきことって、本当は何なんでしょうか?

九州で大きな震災がありました。
その被害の悲惨さと、被災者の救済・援助のはかどらなさを目の当たりにして、日本人であれば心を痛めていない人はいないと思います。

そんなとき、わたしたち「生長の家」の信仰者は何をすべきなのでしょうか?

生長の家の教えは「唯心論」で、さらには「唯神実相論」です。

亡くなった方々や、被災して苦しんでいる人々の心を神に向かわせること。
どんな過酷な状態にいても、本当は救われ済みで、生きとおしの生命であることを知らせてあげること。
それが、現実的に難しかったら、ただただ〝祈る〝 こと。

わたしは、それがまず第一に宗教団体「生長の家」の信徒のすべきことだと思うのですが・・・。

亡くなった方々や、被災された方々の魂の平安を心よりお祈りさせていただきます。合掌。

59a hope:2016/04/19(火) 09:26:45 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p119 4行目〜

こういうように天災でも、心が光明に輝いている人には近づくことはできない。

近づいてもまたその人を害することができないのであります。

かの『観音経』には「あるいは巨海に漂流して竜魚諸鬼(りゅうぎょしょき)の難あらんにも、かの観音の力を念ずれば、波浪も没すること能わざらん」とありますように、われわれの心が光明に輝いてきたならば、どんな天災でもわれわれを害することができなくなるのであります。

天災はのがれることができないと考えるのは、大雨や、暴風や、地震はやはり物質でできていると思うからであります。

そんな程度の唯心論では決して唯物論を根本から破壊することはできない。

大雨も暴風も地震もことごとく唯心の所現であり、業の流転作用でありますから、観音妙智力、すなわち光明思想によって解脱してしまうことができるのであります。

それが理論だけならばなんにもならないのでありますけれども、理論だけでなしに、かくのごとくこれを多くの誌友によって実証させるのが生長の家であります。

観音を念じるというのにはただ観音さんどうぞ助けてくださいということではない。

観自在のその大自在の生命とわが生命と一つであるということを知ることなのであります。

自分が観世音であり、自分が如来であり、自分が神と一体であると知る。

そして環境はただこの自在の生命が念(おも)いによって自由に仮作(けさ)した世界であると知る。

この大自覚を得て自由に環境を征服しうるようになった時、われわれははじめて「人格の自由」というものを得るのであります。

この時「人格の自由」は単なる抽象でも理論でもなく、そのまま「実践」となるのであります。

物的環境がどうあろうともそのままで自分が自由の主体であるということがわかり、欲するとおりに環境が光明化されるといたしますと、もう戦争や直接行動などやっている必要もなくなるのであります。

時間がまいりましたからこれで失礼いたします。

―――昭和十年八月十一日大阪中央公会堂における講演――― より抜粋

60a hope:2016/04/19(火) 09:27:59 ID:vdNCBnG6

>>59 a hope所感)

「生長の家」のみなさま

<<大雨も暴風も地震もことごとく唯心の所現であり、業の流転作用でありますから、観音妙智力、すなわち光明思想によって解脱してしまうことができるのであります。>>

これが、「生長の家」の開祖、谷口雅春先生を通して下された「生長の家大神」のご教示です。

やはり、わたしたち「生長の家」の信仰者がすべきことは、光明思想の伝道で、
人々に「わたしたちは常に大自在の生命(神)と一体である」ということを知らせることなのですね。

そうすれば、

<<物的環境がどうあろうともそのままで自分が自由の主体であるということがわかり、欲するとおりに環境が光明化されるといたしますと、もう戦争や直接行動などやっている必要もなくなるのであります。>>

とあります。

まず人々の「心」を光明化すること、それがなにより重要なのですね。

61るん吉:2016/04/19(火) 23:04:55 ID:Jo.00maY
>>、ただただ〝祈る〝 こと。


〜しますように・・みたいな祈りは・・だめですよね・・

どういう風に祈ったら良いのか・・

既に完全円満な世界(被災された方々の実相を  地震で被災されてしまった地の実相を・・(信じて)感謝したら良いでしょうか・・?

62a hope:2016/04/20(水) 05:13:17 ID:vdNCBnG6

>>61るん吉さま

わたしも、「〜しますように」といい祈りは、「〜していない(不完全)」な状態を認めてしまっている祈りなので、よくないと思います。

以前、わたしも現象的に不幸な状態にある方々に対して、どのような祈りをしていいのか分からなかった時があります。

その問題は、宇治の練成で経験した「祈り合いの神想観」の実修や復興Gさまのご指導で解決しました。

以前の投稿を見つけましたので、ご参考にしてください。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4265

祈りの前に、「同悲の心(愛)をもつ」ことが大切なのだと思います。

63a hope:2016/04/21(木) 09:21:32 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p129 後から7行目〜

われわれの環境は普通それを自分の心とはまったく関係のない、自分の外界の出来事のように思っているのでありますけれども、その環境を打ち破る方法はわが内にあるのであります。

環境にいかにぶつかってゆこうとも、それを外部に厳存(げんぞん)する障礙であると思っているかぎり本当の自由は得られないのであります。

われわれの絶対自由を得る道は、ただ自分たちの実相を知ること以外にないのです。

われわれの本当の相はこの眼に見えるところの肉体ではない、われわれの実相は絶対的存在である。

絶対的存在なる自己が、絶対的環境の中に生活している。

我れ絶対者と一つである。

我れ宇宙と一つであり、我れ動けば宇宙動く。

この自覚を得たとき本当にわれわれは自由を得る。

この絶対自由の主体こそ本当の自分なのだ。

その実相を知らないかぎり、いかなる方法、いかなる実際運動をもってこの社会、この環境をぶち壊してさえも真の自由は得られないのであります。

環境を現実的存在――リアルな抵抗であると観るかぎり、それはリアルな障礙を認めるのであるから決してわれわれは絶対自由は得られない、かくのごときかぎり、左翼思想家がかくも望んだところの人間の自由というものは確保せられないのであります。


ところが、本来絶対的存在であるところの自分、無形の自分、本質において神と同体の、キリスト、釈迦と同体の自分、すでにすべてのものを完(まった)くそなえているところの自分を自覚する時には、忽然として自分の環境、外界の物質、固い、固定した、動かし難い、打ち壊し難い存在と思われていたところの障害は、それはすべて我が心の影の世界であったと分かるのであります。

外界はすべて自分の心の影であって、それはさながら蜃気楼のような世界である。

心に思ったとおりに現れる世界であるということが分かってくる。


この時、我れ宇宙に立って、心の利器をつかんで自由自在にふり廻すとき、環境も困難も自由自在になってくる。

必要に応じて雲を招び、雷霆(らいてい)を駆使し、いっさいの運命を飴のように捻じ曲げることができることが解ってくるのであります。

これが「生長の家」の説く根本真理であります。

64a hope:2016/04/21(木) 09:23:06 ID:xVBwxesw

>>63 a hope所感)

わたしは、この谷口雅春先生のお悟りの部分を拝読していると、超能力者がさわらずにスプーンを曲げたり、
まだ走っていない競馬の結果を当てたりするようなイメージが湧いてきます。

そういえば、聖経「天使の言葉」にも、

________________

汝ら近頃の心霊科学の実験を見しことなきや。
被実験者は椅子に緊縛せられて一毫もその肉体は動く能わずして、
尚、凝念(こころ)の力によりて
或は机を空中に浮揚せしめ、
或は手風琴を空中に飛翔せしめ、
或は空中のメガホーンより声を出ださしめ、
或は空中より手風琴を奏せしむることを得、
これ体なくして物に触れ物を動かしうる実例なり。

___________________

という部分があります。

まずは、いわゆる一般的に「超能力」と呼ばれているような力とか「超常現象」と言われることが信じられないと、
雅春先生が大悟された「生長の家」の根本真理を同じように悟ることはできないのかもしれません。

この「超能力」のことを生長の家の教えでは、「無限能力」といっていますね!

66a hope:2016/04/23(土) 08:34:23 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p140 10行目〜

「生長の家」の教えはどういう教えかといいますと、一言でいえば「人間はみんな神の子である」と、こういう教えなのであります。

『法華経』のなかに常不軽菩薩がすべての人間に向かって合掌礼拝して「あなたは仏になられる方です」といって敬礼されたということがありますが、すべての人に向かって合掌敬礼して、あなたは仏になられる方ですといって拝む働きが、「生長の家」の働きなのであります。

すべての人に向かってあなたは本来仏なのです。すでに神の子であるのです。それゆえに恨み、憎み、怒り、といったような、あらゆる罪は本来ないのです、ということを知らせる――これが生長の家が、全人類を光明化するためにやっている運動なのであります。

ところが『法華経』の中に、すべての人を仏として拝む常不軽菩薩をばあいつは何をいっているのだ、気狂い野郎奴(やろうめ)といって、杖で打擲(ちょうちゃく)したり石をなげつけたものがあったということが経文に書いてある。

しかしながら、誰が何といおうとも、すべての人を神と見、仏と見て合掌して拝んだ常不軽菩薩こそは今釈迦牟尼仏となってここにいると釈迦は説いている。

この釈迦牟尼仏の働き、常不軽菩薩の働き、―――すなわちすべての人は神であり仏であって、罪は本来ないものである。

光の出現によってすべての暗黒が消え去るごとく、すべての罪は「生長の家」の出現によって消え去った、とこう説くのが「生長の家」なのであります。

この間、読売新聞の宗教欄に、武本喜代造という牧師さんが、「贖罪信仰の実際化」と題する稿(こう)を寄せられて、その中に光明思想についてちょっと言及しておられました。

それを読んでみますと、宗教によって病気が治るということは、あるべきことだといってある程度まで肯定しておられるのでありますが、「この頃『人間本来罪も汚れもない』という説があるがそれは受け取れぬ。そんなら強姦しても、その人間は罪がないというのか。そんな馬鹿なことはありえない」といったようなことを書いておられましたが、わたしはそれを読んで、ああいう人は神様の創造ったこの世界に本当に罪がないということが分からない憐れな人だと思わされたのでありました。

われわれがその人の実相を――本来神の子であり、罪なき者でるという本当の姿を――認めた時、その人は強姦することも、泥棒することも、いかなる悪を犯すことも自然にできなくなってしまう。

三界は唯心の所現でありますから、「罪あり」と認めたなら罪が現われ、「罪無し」と認めたら罪が消える。

泥棒や、強姦をするものは、人間とはそういう罪を犯すのがあたりまえの本来「罪アル者」だと思っているものなのです。(拍手起こる)
(つづく)

67a hope:2016/04/23(土) 08:37:33 ID:vdNCBnG6
>>66 つづき)
ところが、自分は神様の子であり、生まれつき正しい聖(きよ)い者だと悟ったら、しぜんにそんな罪を犯さなくなる。

つまり人間の実相はすでに神であり、仏である。

それを認める時に、その人にしぜんに実相の善さが現れてきて、いくら罪を犯そうとしても犯しえない。

いくら左翼思想に走って実際運動に自分を投じようとしても、転向せざるをえなくなるのです。

「生長の家」では、今まで努力して止めようと思っていてもやまらなかった酒や煙草も、しぜんにやまる。

これはしぜんに実相が現れてくるのであって、今までの努力してやめようと思ったのは、悪の存在を認めて、努力によってこれを抑えよう、抑えようとしていたのでありますが、それは最初から悪の存在を、罪の存在を認めてかかるからして、努力しても、その罪が、その悪がやまなかったのです。

ところが、そういう悪の存在をみないで、ただ、人間は神の子で無限に善いもので、本来罪なしと知れば、自然に悪は消え、善が強い力をもってでてくるのであります。(拍手)

これがわれらの光明思想のもつ権威なのであります。

われわれ、自分は神であり、仏である、罪はないと知る時、罪は自然に消えてしまうのです。

罪は本来ないから消滅するのです。

本来有るものならば消え失せることはない。

ないものをあるあると思っているから、あたかもあるがごとくに外界に現れてくるのである。

すべての人間はみんな神の子であり仏の子であって、罪は本来ないと認める時、世界中の人が神の子になり、これを知らされた時にすべての人が釈迦になり、キリストになる。

キリストの再臨ということは、自分に宿る神、仏なるものを見ないで、神は在(いま)さぬ、自分は罪深いものだとして自分の内に宿る神性を罪の観念で縛りつけてハリツケにつけていた、そのしばりを解き放って、本来罪のない神性、仏性を自覚するということであります。

この人間本然の善さをすべての人に知らせること、これこそ人間の本当の教育であります。

この人間の神性、仏性を現わすという真実唯一の教育が「生長の家」の教育法なのです。

68a hope:2016/04/23(土) 08:38:34 ID:vdNCBnG6

>>66 67 a hope まとめ)

○「生長の家」の教え ―― 「人間はみんな神の子である」

○「生長の家」の働き ―― すべての人に向かって合掌敬礼して、あなたは仏(神)になられる方ですといって拝む働き(実相礼拝)

○「生長の家」出現の意義 ―― すべての罪を消しさること(人類無罪宣言)

○光明思想のもつ権威 ―― 悪の存在をみないで、ただ、人間は神の子で無限に善いもので、本来罪なしと知ることで、自然に悪が消え、善が強い力をもってでてくること

○「生長の家」の教育法 ―― 人間本然の善さをすべての人に知らせ、人間の神性・仏性を現わすという真実唯一の教育

69a hope:2016/04/23(土) 08:41:07 ID:xVBwxesw

>>66 67 a hope所感)

この文章が掲載されている第五章は、昭和十年に行われた雅春先生の日比谷公会堂での講演記録ですが、
そこには「生長の家」の教えに触れたことで、今までの人生観をガラリと転向され幸せに暮らされている方々の体験談もたくさん紹介されています。

「人間神の子」の「生長の家」の教えによって、人々が明るくなり、社会が明るくなり、日本が元気になり、世界が平和になる!

この「人類光明化」の流れをつくることが、雅春先生のご悲願だったのでしょうね。

70a hope:2016/04/26(火) 19:05:05 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p156 10行目〜

光明思想の普及事業を世の中の弱者に救恤(きゅうじゅつ)を与える慈善事業のように思っている人があるのはまちがいであります。

光明思想というものは、人生をそういう救済者と被救済者との対立の世界には見ていないのであります。

救われねばならぬような弱者なる人間は、神の造りたまえるこの世に本来存在しないという思想が、光明思想であります。

人間は本来神の子であるというのが光明思想であります。

(略)

……誌友が少なかったころは執筆のかたわら、いちいちわたしが返事を書きましたが、このころはあまりに多数で時間がないので自身で返事が書けないというお断りを差し上げると、それでは「人間は無限能力」だという貴様の根本思想に背反しているではないかというような手酷いお叱り方であります。

けれどもこういうお叱りをせられますのは、光明思想を皆見当ちがいしていられるのであります。

わたしが答える能力がないのではない。

わたしは常に書籍となって答えている。

『生命の實相』全集二十巻を本当にお読みになれば、どんな場合にも応用できる、それに対する答えは書いてあるのです。

それを読まないで、問いを発せられるのでは、これはわたしに答える能力がないのではなく、答えているのに聞く能力がないのであります。

71a hope:2016/04/26(火) 19:07:44 ID:xVBwxesw

>>70 a hope所感)

世間では「生長の家の教え(雅春先生の教え)」はインチキであるとか、古くて現代には適さないだとか、
そんな風に言ったり考えたりしている方々もいらっしゃると思います。

でも、そういう方々は、本当に「生命の實相」を何度も繰り返して拝読されているのでしょうか・・・?

<<『生命の實相』全集二十巻を本当にお読みになれば、どんな場合にも応用できる、それに対する答えは書いてあるのです。
それを読まないで、問いを発せられるのでは、これはわたしに答える能力がないのではなく、答えているのに聞く能力がないのであります。>>

谷口雅春先生は、「生命の實相」ですべてをお伝えしてくださっているとおっしゃっています。

ですから、本来の「生長の家の教え」を否定する人とは、谷口雅春先生に言わせれば、<<聞く能力のない人>>ということになってしまいますね…・


わたしたちには谷口雅春先生のお悟りのすべてが詰まった「聖典」が簡単に手届くところにあります。

こんなに有難いことはありませんね!  感謝 合掌。

72るん吉:2016/04/27(水) 19:39:43 ID:Jo.00maY
>>62 a hopeさま
>>祈りの前に、「同悲の心(愛)をもつ」ことが大切なのだと思います


はい 本当にそうですね。アドバイスをありがとうございます。

73るん吉:2016/04/27(水) 19:44:53 ID:Jo.00maY
>>68
a hope さま

>>68 素晴らしいです。有難いです!

74a hope:2016/04/28(木) 07:24:37 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第25巻 p171 後から4行目〜

三界は唯心の所現であり、業の流転でありますから、その根本原因たる「心」を治さないでいて「不幸」を取り除こうとすると、それが他の形の「不幸」になるのは当然であります。

病気は治ったが貧乏になったという人がありますが、児童の「成績不良」というものも業の所現でありますから、「成績不良」ばかりを治そうとしてやたらに学業を詰め込むと、家庭教師や参考書代に金を払って「成績不良」という「業」の現われは消える代わりに「貧乏」という「業」の現われとなって出るか、あまり詰め込んだり、入学試験に恐怖した結果、児童の健康を損ねて、成績不良が「病気」という業の現われに転換して出て来たりするのであります。

成績不良―病気―貧乏―こういうふうに一つの業の現われは、動悸を与えて流転せしめると形は変化して出るけれども、内容においては、依然としてわれらにとって「不幸」になるものとなって、その人に潜在せる業が形を表わすのであります。

そう言う人が、何か事業に成功して金持ちにでもなるとしますと、子供が不良青年になってみたりして、業が循環流転して、その不幸は尽くるところをしらないのであります。

(略)

苦しい業の顕われは、その一つを避けようとして攻撃すると、このように必ず他の形に業が転じて依然としてわれわれの苦しみは尽きないのであります。


こんなことではわれわれは永遠に業の苦縛(くばく)から脱することはできないのであります。

ではこの業の苦縛から脱する道はないのでしょうか?

否、否、それはないことはありません。

自己内在の「神の子」を悟ることであります。

自己内在の「神の子」を知ったときに「神の子」はすでにいっさいの業が贖(あがな)われていますがゆえに、もうそのような業の流転の世界に這入ることはないのであります。

75a hope:2016/04/28(木) 07:26:46 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p173 後から5行目〜

ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界にでることができるのであります。

第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。

彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、すでにそれは苦しみではないのであります。

―――
盤根錯節は「生命」がたわむれるための一つの運動具である。
諸君はスキーを多難だと言うか。
登山を不幸だと言うか。
ゴルフを艱難だと言うか。
競泳を悲惨だと言うか。
いかなる苦しみも戯(たわむ)れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いてくる。(『光明の生活法』より)
―――

とあるように、その人にとっては人生のいっさいが、平凡な茶判事も困難も苦痛もいっさいが光明化してしまうのであります。

人生のいっさいが光明を点じ、希望を点じ、興味を点ずるのは「汝、神の子なり」のこの中心教育よりくるのであります。

76a hope:2016/04/28(木) 07:42:44 ID:xVBwxesw

>>75 a hope 所感)

<<ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界にでることができるのであります。>>

『業苦を横超する世界』っていったいどんな世界なんでしょうか?

それは、
<<第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。
彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、すでにそれは苦しみではないのであります。>>

すごいですね。

困難…物事をするのが非常にむずかしいこと。また、そのさま。難儀。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B0%E9%9B%A3-506491#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

とありました。

現象的にはひじょうに難しい状態でっても、それを困難として感じないような心境ってことなのだと思います。

う〜ん、そうか・・・(;’∀’)

ホントに深い教えですね〜「生長の家の教え」って・・・(@_@)

77a hope:2016/05/01(日) 08:37:49 ID:xVBwxesw

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第2回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年5月1日〜5月31日まで
テキスト 「生命の實相」第26巻 教育実践篇 下
内容   人間を作る法〈下〉

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

78a hope:2016/05/01(日) 08:38:48 ID:xVBwxesw

みなさま おはようございます。

5月になりましたので、第2回web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

79a hope:2016/05/01(日) 08:42:12 ID:vdNCBnG6

つづきまして、「生命の實相」第26巻より〝はしがき〝 を謹写させていただきます。


             はしがき


児童に優秀健康児になってもらいたいのは、両親の切なる願いである。

しかしその願いはなかなか完全には叶えられないのが現状である。

学校は鮨詰(すしづめ)教室であるし、日教組の先生がたは教育者としての聖職を忘れてみずから、〝労働者〝 と称しており、教師の真似をして、学業をストライキする生徒も出てくる。

「なぜ先生の言うことをきかないのか」と教師が生徒をなじると、「先生だって文部省の言うことをきかないじゃないか」と平然と答える生徒がザラに出てきたという。

この調子では、子供はなかなか両親の言うことをきかない。

群馬県のある女子高等学校ではその卒業式の答辞に「子供は親のものではありません。わたしたちは親のものではありません。したがって親に孝養を尽す義務も責任もないことをハッキリ知らせていただきました。これがこの学校で四年間教育を受けた収穫であります。ありがとうございます」と感謝したという事実も伝えらている。


こういう危機に立たされた日本の教育はどこに理想をもとめ、いかに教育技術を用うべきであろうか。

愛児をもつ父親も母親もとまどうほかはないであろう。

アメリカも日本も不良児の出現に困っているのである。

アメリカ式教育法の輸入だけではどうにもならないのが現状である。

しかしソ連や中共の教育のように国家がその社会主義目的のために教育を強制することも、戦争の反動で世界中でいちばん自由奔放にながれていっさいの統制を拒絶している日本の教育界では実現の見込みがないのである。

そのようなときに本当に効果をあらわすのは、本書の説く、児童の「実相を観る教育」である。
(つづく)

80a hope:2016/05/01(日) 08:43:10 ID:vdNCBnG6
(つづき)
「実相」とは児童に宿る「生命の本質の完全さ」である。

その人の「実相」を観ずれば、その人の完全さがあらわれるのである。

わたしはかつて、ドストエフスキーの『白痴(はくち)』の映画化を観たことがあったが、無貞操無道徳んお女主人公ナスターシャに公爵ムイシキンが面接して、「あなたは完全です」と言ってじっと彼女を見つめると、彼女に宿る実相の完全さがあらわれて、ムイシキン公爵の前では持ち前の〝あばずれ〝 の姿が消えてしまう。

そして、公爵の純情な求婚にもかかわらず「このような、〝あばずれ〝 が純情な公爵の生涯を汚してはならない」と、かえって雪の中を馬車で、公爵の前から姿を消して行くのである。

それは、「実相を観ずれば、いっさいの悪が面前から消えてゆく」という真理の象徴であるといえるのである。

こうしたわたしたちの教育法は関東医療少年院で採用されて、わたしたちの同志が毎月関東医療少年院へ往って、そこに収容されている少年たちに講話したりして成果をあげているし、わたしたちの練成道場では少年院から練成に送られてくる少年で、実に道徳性の高い立派な人間に更生する実例を出しているので悦ばれているのである。

いくぶん不良じみていて、教師や父兄から持てあまされているような少年ですらも、この教育方法によれば、このように効果があるのであるから、読者の家底にいられるような、普通の自動であったら、すぐに優良児になること疑いないのである。

本書は、このような教育法の立場から、近ごろ問題になっている道徳教育のやり方をはじめとして、早教育、芸術教育、宗教教育、その他、書道、茶道、華道等の技術の習得、修練、その向上などについて、その道の専門家の口をとおして、実際の対談形式をとって説かしめたものである。

卒然として本書からお読みになって、なおいっそう深く、この素晴らしい「人間の実相観入法」について知りたくなった方は、『生命の實相』第一巻、第二巻に収録されてある総説篇、実相篇、光明篇等(頭注版および携帯版では第一巻=第四巻に収録)を読んで、「人間の実相の完全さ」というものについての理解を深められれば、人生百般の問題ついて、自由自在の円熟境に達せられることも不可能ではないと信ずるものである。

昭和三十九年 十一月 十日           著者しるす

81a hope:2016/05/02(月) 21:09:56 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p3 後から4行目〜

さて、しばらくぶりで皆様のお顔を拝しまして、何をお話しようかと改まりますと、何もお話することもないのであります。

要するに言うことなしにただ嬉しいというのが、われわれの生命の実相であります。

生命の実相というものは説こうと思って説けるものではない、ただ、ありがたい嬉しいものであります。

ですから、われわれが自分の生命の実相を悟りまして、それを生活に生きるということになりますと、ただもう生活が嬉しく明るく、家庭が円満に、見る物皆楽しくなってくるのであります。

ではどんなに生活が変わってくるかといいますと、どんなにも変わってこないのです。

やはり朝起きると顔を洗うのであります。(笑声)

そうして神様を拝む習慣の人は拝まれるでしょうし、あるいはご先祖を拝む習慣の人はご先祖を拝まれるでありましょうし、そしてその次に御飯をおあがりになる。

やがて出勤する人は出勤する。

外形を見ていますと生命の実相を悟っても悟らなくても同じことをなさるのです。

いっこう変わりがない。

変わりがないけれども変わりがあるのがこれが悟りであります。

変わりがあるのはまだ悟りが足りないのであります。

よく自動車にでも轢かれて、轢かれたけれども怪我しなかったからありがたいといって、これは「生長の家」のお蔭であるといって、わたしにお礼に来られる人がありますけれども、それはなるほど轢かれて怪我をしたり死んだりするよりはありがたいにちがいありませんけれども惹かれない人はもういっそうありがたいのです。

ところが「轢かれたけれども怪我をしませんでした」といってお礼を言う人はあっても、「先生、わたしは自動車に轢かれませんでした。ありがとうございます。」と言う人はほとんどいないのであります。

本当の悟りとは何事もないことがそのままそれが本当にありがたいということが分かるのでなければなりません。

悟りというものはなんの変哲もない、なんの変哲もないものが悟りなのであります。

何かあると思うのはまだ悟っていないのであります。

82a hope:2016/05/02(月) 21:12:10 ID:xVBwxesw

(a hope所感)

家で、家族と一緒に温かい御飯が食べられること。
それがなによりの幸せなんですね。

でもそう感じても、次の日にはまた、不平不満の感情が湧き上がってきてしまう・・・。

「生命の實相」が手放せない・・・わたしです(/ω\)

84a hope:2016/05/05(木) 06:49:25 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p7 後から4行目〜

生命の実相の悟りというものは、常住坐臥、現象的に何がなくても嬉しい、ありがたい、なんでもないうちになんともいえない、爽やかな一種の喜びが続いているものであります。

この爽やかなありがたさというものが本当に体得でき時に、家庭はむろん光明化しますし、病気も治るし、運命も境遇もよくなるのであります。

これは副産物でありまして、病気が治らなければありがたくないというような悟りではまだ本当の悟りでありませんから病気などもかえって治りにくいのであります。

病気が治ってありがたいのなら、誰でも皆さんは、ここにおられる方々は、百歳くらいまでは長生きせられるかもしれませんけれども、しまいには死んでしまう。

その臨終の時に「ありがたくない」と思って怨めしい思いでしんでゆかねばなりません。

そんなことではせっかく今まで救われておったと思っておっても、それはウソで最後の土壇場で、今までの悟りはウソであったという事実を暴露し、結局、生命の実相の救いはその人にはなんの役にも立たなかったということになるのであります。

85a hope:2016/05/05(木) 06:51:13 ID:xVBwxesw

>>84 a hope 所感)

わたしが数年前、一番最初にこの部分を拝読した時は赤線は引きましたが、
その文章の内容の深さには気づかなかったのではないかと思います。

本当に「生命の実相」を悟っているか、悟っていないか・・・

それは臨終の時にすべてわかってしまうのですね。

86るん吉:2016/05/07(土) 08:40:53 ID:qSZ.KlGM
a hopeさま

>>本当に「生命の実相」を悟っているか、悟っていないか・・・それは臨終の時にすべてわかってしまうのですね。

自分は、今の段階で解ってます・・・・


まだまだ悟ってない。と・・全然かな・・て。

困ったことが何にもなかったら、「神の子なんだありがたい。」ってなるけど

でも生きてたらどうしても色々なことが有るし、その時ですね。その時にほんとに生長の家の真理を悟ってるかが解るんです。

絶対境地かなんかに入ってたら、また違うのかなぁ。とも思うのですけど・・

87a hope:2016/05/07(土) 16:28:16 ID:vdNCBnG6

>>86 るん吉さま

貴重なご意見をありがとうございます。

わたしも、理屈では「物質なし」や「神の子」は大分わかっているんですが、
まだまだ「実相を悟りました。」といえるような状態ではありません。


困難を乗り越えて「悟った!」と思っても、またちがう困難がやってきて、それを乗り越えたとき、また「悟った!」と思う、
そしてまたあらたな困難がやって来て・・・ときどきわたしの人生は、そんなことが永遠に続くのではないかとさえ思ってしまいます。

でも、「人生は魂の学校である」というのも「生長の家」の教えですから、
わたしたちは困難を乗り越えるたびに少しずつ生長していくんですよね。

そして、あるとき突然 「物質はない! 肉体もない! 心もない!」 「あるのは実相だけだ!!!」
って、ドーンって悟るのかな?

るん吉さんのいう、絶対境地ってそういう状態?

いずれにしても、自分の臨終の時に「あーありがたい人生だった」って思える、そんな人生を送りたいですね!

88a hope:2016/05/10(火) 07:00:11 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p25 後から4行目〜

実際、勉強のできない、成績の悪い子を、「勉強のできる、成績の良い子だ」と信頼して思えといっても、そんなことはおもえませんといわれる人がたくさんあります。

それは思えないのがあたりまえなのであります。

それは五官の眼でその子の現象を見ているからであります。

しかし、五官は「信念の反影」を見るにすぎませんから、「できの悪い子だ」と信じているかぎりは、五官の眼で見ているかぎりはできが悪いのは当然です。

そんな時には五官の目を閉じて合掌し、そうして心を鎮めて相手の実相を観るようにすればよいのです。

良人の場合も子供の場合でも同じことです。

子供の場合には「自家(うち)の子供は神の子であって自由にしておいても勉強するのである。人間は勉強が楽しいのであるから、親が心配しなくても勉強するのがあたりまえであるから勉強する」と、こういう意味の言葉を静かに念ずるのであります。

これが「神想観」の応用法であります。

神想観の方法は『生命の實相』第四巻(頭注版・携帯版では八巻)または『詳説神想観』『光明の健康法』という本に発表しておきました。


『法華経』に、常不軽菩薩が、どんな人を見てもみんな仏の子であるとしておがんだということが書いてあります。

この行持(ぎょうじ)を子供に応用すれば子供がよくなり、この行持を良人に応用すれば良人もよくなり、この行持を姑(しゅうとめ)に応用すれば姑がよくなり、家庭が光明化するのであります。

どうぞ皆さん、今後も常不軽菩薩のように相手の実相を拝んで生活せられんことを希望いたします。

89a hope:2016/05/10(火) 07:01:42 ID:xVBwxesw

>>88 a hope所感)

あらためて気づきましたが、「神想観」とは、「実相」を礼拝することだったのですね。
頭ではわかっていることが、実感としてわかるようになるには、やっぱり聖典を拝読し続けるしかありません。

90a hope:2016/05/10(火) 07:15:01 ID:vdNCBnG6

『「生長の家」の教義について議論する』板>>49にわたしの「今の教え」に関する疑問を書きました。
みなさまのご意見をそちらでぜひお聞かせください!

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/49

91a hope:2016/05/14(土) 07:47:28 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p44 7行目〜

その翌日から、一歩も外へ出なかったわたしが早朝から起きて散歩に出かけた、すると、これはまたどうしたことか。

空、大地、小鳥、わたしの目にふれるすべての物が、光り輝いているではないか。

なんという美しさだろう。

わたしの耳にふれるすべての音は、快い諧調を保っている。

わたしの歩いている――武蔵野の小さな一隅――周囲で畑に立つ人、歩く人、すべてが光をはなつ立派な存在ではないか。

わたしは一時間近くも歩き廻った。


わたしは一変した。


今までほとんど床(とこ)についていたものが、わずかの午睡のみにとどまった。

あまり急な変わり方なので、母に嬉しい半面にいくらかの不安があったらしく少しは床に着いたらどうだとまでいう。

これまで、滋養剤と薬を浴びるほど服(の)んでいたのを、すっかり止めてしまう。

毎日必ず体の苦痛を訴えたり、不平を言う必要がなくなった。

食事は与えられたものを全部食べる。

発病以来四カ月半不眠症で悩んでいたのが、眠ろうと思えば、いつどこでもねられるし、起きようと思えばいつでも目が覚める。


人に対しても真の親しみを感じる。

何かの機会があれば、なぐりつけてやろうと思っていた人を連想すると、その人の長所が頭に浮かんできて、逢うのすら厭(いや)であったのに、急に話しかけたくなる。

どんな人に話かけられても、どんな人が来ても前とはまったく異なった喜びを感ずる。

92a hope:2016/05/14(土) 07:49:36 ID:vdNCBnG6

>>91 a hope所感)

これは、当時美術学校の画学生であった、小林正氏のお悟りの体験談「光を観て」p39〜からの抜粋文ですが、
あらゆる手段をつくしてもまったく効果がなかった病状が、服部仁郎先生に面接するだけで、
全快してしまいったという体験談の後半部分からの抜粋です。

人が「生命の実相」を悟ると、目の前にパラダイスが現れるのですね\(^o^)/

93a hope:2016/05/16(月) 12:24:59 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p81 後から7行目〜

・・・たとえば、わたしが講演していて、「わたしが言いたいのは、ここに生命の実相があるのだ」と、「これが生きとおしの生命である」と自分自身の身体を指さしていう。

するとそれを聴いていた人の病気が治ることがある。

これはその意味不明な言葉のうちに、その言葉を媒介として生命の骨髄が伝えられるのです。

むろんわたしのしゃべることはみな『生命の實相』に完全に書いてある。

『生命の實相』を読んだらいいのだ、こっちでしゃべらなくてもいいはずです。

だけれども、実際にこれがこうだと、ここがいいのだと、「ここ」というでしょう。

この言葉の響きの中にですね、達人が言葉に出して教えてくれたらそれがわかるのですよ。

それが先輩師匠のなすべきところであって、ここをこうしなさいよ、こうしなさいよ、こうですよ、とそれの導きがあると、それは実相の響きの鐘がゴーンと鳴ると一方潜在していた鐘の響きが共鳴の原理によって、ゴーンと鳴るのと同様である。

先覚者が側(そば)にいて指導して芸道の悟りをゴーンと撞(つ)き鳴らさなくても自分で発見する人もありますけれども、それは極めて稀(まれ)であって天才なんですよ。

それがもっと楽に天才を引き出すような方法――そこに教育の教育たる所以(ゆえん)がある、先覚の後進を導くことの価値がある。

94a hope:2016/05/16(月) 12:26:51 ID:vdNCBnG6

>>93 a hope所感)

第三章は「芸術教育の神髄を語る」というタイトルがついていて、彫刻家の山根八春氏、服部仁郎氏はじめ、
音楽家の方、軍人の方々、校長先生を始めとする教育家の方々が主に芸術教育について話し合われています。

そして上の謹写部分では雅春先生が、芸術教育の伝授の「コツ」を「生命の実相」の悟りに例えられて説明されています。

子供の習い事なんかを見ていても、良い先生に教えていただけるととても上達がはやいですが、
あまり評判のよくない先生だと上達がおそいばかりでなく、下手をするとその習い事自体への興味を失わせてしまうこともあります。

芸術も宗教も、本物を悟られた本物の達人(先覚者)につくことがとても重要だと思います。

谷口雅春先生は本物でした。

雅春先生が現象界にいらっしゃらない今、わたしたちはその谷口雅春先生の残された聖典を拝読することで、
本物の悟りを得ることが可能なのだと思います。

95a hope:2016/05/17(火) 08:34:56 ID:xVBwxesw

「生命の實相」26巻 p91 後から7行目〜

照井――ここで問題になることですけれども、いつか先生に申上げようと思うておったのですが、神想観の時に口と鼻とここ(眉間)から霊気(いき)が出るということですね。

あれを谷口先生および「生長の家」の方々に申し上げたいと思っておりましたが、わたしがかつて外国でゴロゴロしながら声のことを勉強していながら覚えたことですけれども、声の一番上の出し方では声が眉間からでるのです。

解剖学的に申しますとここに額の骨が下部に来て二枚になりまして頭(眉間)にきて分かれる、横断面的にみるとくるみの内部くらいのうつろがある。

眼と眼の間で、少し眉寄りの間の辺から、それに声がうまいこと共鳴してくれなければ本当の声が出ないのです。

それは谷口先生が合掌の時にここから霊気(いき)が出ることをお書きになったのを見ましたが、それでここが声のほんとの出所(でどころ)だということを感じさせられたのです。

ここからきたものが人に入るのです。(発声の見本を示さる、眉間から声がでるように聞こえる)

これが実に楽なんです。

これを練習していますと、体にかまわずに声ばかり出ているような感じになるのです。

そうでない出し方は、どうしても肉体に執(とら)われ、苦しいですから。

それでほんとの声の出るこの眉間の空洞、これがなんのために存在しているか十八世紀の末葉(まつよう)まではわからなかったのです。

声楽の発声法の研究がだんだん進歩するにつれてこの眉間の空洞が高音を出すために存在しているということを発見したのです。

それが偶然にもこの神想観の時にここから霊気(れいき)が出るのと符合するので、心息の神秘性といったようなことに、非常に感激しているしだいなのです。

生きの調節のしかたが合掌と同じなんです。

96a hope:2016/05/17(火) 08:37:01 ID:vdNCBnG6

>>95 a hope所感)

わたしはつい最近まであるコーラスグループに所属していて、ソプラノを担当していました。
(現在は事情によりお休みしていますが・・・)。

最初のころは、アヴェマリアなどの高音を出すときに、必ず喉を傷めていましたが、
ある時どんなに高音をだしても、まったく喉に負担がかからない方法を見つけました。

自分の声なのに、自分の身体からでていないようなそんな発声です。

わたしはコーラスは初心者の部類なので、その発声がうまくできるときもあればできないときもありましたが、
上手に発声できているときは、必ず、先生から褒められました。

今、この上の謹写部分を拝読して、「そういうことだったのか・・・」とすっきり納得しました(^◇^)

97a hope:2016/05/17(火) 08:41:05 ID:vdNCBnG6
>>95 訂正
生きの調節 →息の調節

98a hope:2016/05/21(土) 12:29:54 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p106 3行目〜

「苦労をありがたく受けてゆける処世のコツがわかる」

栗原――今日は皆さんからいろいろ有益な話をお聞きしましたが、要するにわたしは、苦労というものは人間を研(みが)くものであって、それは何百冊の本を読んだよりもよけいに自分を研いてくれるような気がする。

しかしわたしはこの世に苦労があると思うていたがゆえに、苦労を引き受けていたような観がある。

そうして苦しみどおしで三十七歳の今日まで過ごしてきた。

過去の話は長いが十六歳の時から家を飛び出し、流浪し、苦学し、甚(はなな)だしい時には、二週間近くもごはんをたべられずにいたこもあり、今から顧みればいささかトッピにも思えるが文房具屋に一円五十銭借金してそれが返せないため、一カ月半のあいだ真剣に死ぬことばかりを考えていたこともあった。

こうしたことがしらずしらずのうちに自分を研いてくれたような気がする。

いかなる名誉もこの苦々しい体験から得たところの心の磨きにはとうてい及ぶべくないような気がします。

こうした問題について、教えてくれる学校はないのです。

本当に渇(かわ)き飢えた生命、枯死せんとする生命を蘇らしてくれるところの、真から蘇らしてくれるところの学問というものはない。

それでわたしはずいぶんと無駄に生命を摺り減らしていたような気がするが、やっと生長の家の『生命の實相』がそれを救ってくれたわけなのですが、わたしは小学校から大学を通じてこの生命の教育が本当に心から望ましい。

苦労を不幸だと呪いながらする苦労と、苦労を自分を研いてくれる砥石だとありがたく受けてする苦労とはおのずから千里の隔たりがあり、生命の伸展の上にもたいへんな相違ができてくるわけです。

そうしたなら、生活苦も、就職苦もいっさいが解決されて、人生とはかくも美しく明るいものであるとの、光明一元の生活ができるんですがねえ……。


谷口――あまり時間が長くなりますから、この辺で閉会します。皆様ありがとうございました。

(昭和十年一月二十九日、生長の家本部座談室にて)

99a hope:2016/05/21(土) 12:31:17 ID:xVBwxesw

>>98 a hope所感)

この世の中に苦労や困難がなかったら、わたしたちは何が本当に大切で、なにが本当の幸福なのか考えないまま一生を終えるのかもしれません。

『生命の實相』を拝読し続けていると、本当のことがだんだんとわかってきますね。

100a hope:2016/05/23(月) 20:42:46 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p129 3行目〜

谷口・・・(略)・・・要するにこの宗教というものが、やはり、それを指導する師、家庭の親とか学校の先生とかというものが本当の自覚に入っていない場合には、同じ形式でやっても、お前は神も子であるといっても神とは何だかわからない。

ところが、実際に信じている指導者が、「あんたは神の子だ」とこう一言いえば本当に神の子であるということがわかってくるだろうと思うのです。

どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。

これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。

その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。

101a hope:2016/05/23(月) 20:43:55 ID:vdNCBnG6

>>100 a hope所感)

この第四章は、「宗教教育」がテーマの座談会の内容が紹介されています。
上に謹写した部分は、雅春先生のご発言の一部ですが、わたしはとても考えさせられる内容だと感じました。

とくに後半の、

<<どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。
これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。
その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。>>

という部分ですが、これを、仮にこの現象世界に具体的事実として現れた宗教団体「生長の家」にあてはめてみると、
その中心者は紛れもなく谷口雅春先生でした。

谷口雅春先生の人格に対して人々が集まり、大きな宗教団体となっていったんですよね・・・。

そう考えると、谷口雅春先生がご昇天されてからは、わたしたちはその中心的人格を失ってしまったわけですから、
現象の宗教団体「生長の家」が衰退していくのは当然のなり行きなのかもしれませんね。

102a hope:2016/05/26(木) 06:46:17 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p153 6行目〜

谷口――そこで下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。
宗派に偏した儀式も儀礼もいらないで、簡単に宗教的情操が養われる、十年間坐禅しても得られなかった悟りが得られてというような人がたくさんあります。
手前味噌のようですけれど。

103a hope:2016/05/26(木) 06:47:03 ID:vdNCBnG6

>>102 a hope 所感)

<<下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。>>

これは、谷口雅春先生のお言葉です。
そのために雅春先生は聖典『生命の實相』を残してくださったのですよね!

感謝 合掌。

104a hope:2016/05/26(木) 07:46:47 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p155 8行目〜

井上――いくら学者を呼んだって、宗教的情操ではなしに宗教学的情操ではだめです。
ちょっと情操といっても霊的にならなくちゃだめです。
いくら「物」を練ったってだめです。

谷口――人格的信仰的になってこなくちゃだめですね。

井上――やはり自己の霊を信じなければ。霊の実在を信ずることが最も根本ではないかと思う。
それをまあこれまでは死んだらそれきりという浅薄な考えでやっているのですから。

谷口――来世の存在のことで思い出しましたが、宗教的情操とは、個と全体との融合意識、神と自己との一体感というものであるとして、それが、ずっとこの座談の主題を貫いてまいりました。
これは縦に自己の本質を貫く真理です。
ところが、今、井上先生のお話で思い出しましたが、宗教的情操のもう一つ横の真理となるものは、三世を貫く因果の法則を信ずるということです。
つまり生長の家でいうと「三界は唯心の所現である」というこういう心にこういう結果がくるのであるとうことを信ずることによって初めてわれわれは本当に正しい生き方ができるので、過去現在未来を通じて作用(はたら)く因果の法則を知らす、現世さえ好き候(そうろう)に生きたら後はどうでもいいのだというのじゃ本当の宗教的生活ができない――。

井上――それはどうしてもできないです。

谷口――しかし、三世を貫く因果の法則があるといっても、議論だけで近代人に、そんな
宗教的信念をもたすことはできない。
それには、やはり心の変化によって、いかに肉体の病気や、境遇や、環境がよくなるかという実証を示す威力がなければならない。
生長の家では病気が治るのは病気そのものを治すためではない。
「三界は唯心の所現である」という宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆくためなのです。
……これで宗教的情操の「縦の真理」と「横の真理」がちょうど揃うわけですねぇ。
それではこれで閉会にいたしたいと思います。

105a hope:2016/05/26(木) 07:53:29 ID:xVBwxesw

>>104 a hope所感)

ここで井上氏と雅春先生は、指導者が人々に宗教的教育を施すときに、
『ただ単に「縦の真理」「横の真理」等の宗教的真理を議論だけで説くことは「宗教学的情操」教育であって「宗教的情操」教育ではないので、人々に宗教的信念をもたすことはできない』
というような内容を話し合われています。

そして、雅春先生は、

<<三世を貫く因果の法則があるといっても、議論だけで近代人に、そんな宗教的信念をもたすことはできない。それには、やはり心の変化によって、いかに肉体の病気や、境遇や、環境がよくなるかという実証を示す威力がなければならない。生長の家では病気が治るのは病気そのものを治すためではない。「三界は唯心の所現である」という宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆくためなのです。>>

と結論づけされています。

ここのところを拝読すると「生長の家」のいわゆる「奇跡の体験談」がいかに人々に宗教教育を施す(宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆく)上で重要であるかがわかります。

本当に人々を宗教的に感化するためには、指導者が理屈だけを捏ね回している「机上の空論」者であってはいけないということなのだと思いました。

(参考文献)
きじょう‐の‐くうろん〔キジヤウ‐〕【机上の空論】
頭の中だけで考え出した、実際には役に立たない理論や考え。

https://kotobank.jp/word/%E6%9C%BA%E4%B8%8A%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%AB%96-473791

106トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/05/26(木) 20:41:52 ID:IjaJpifQ
>>103

 この言葉は、極めて重要だと感じます。

 自分でまず本を読み、考えるぐらいの熱意がないと、本物にならないと思います。

107るん吉:2016/05/30(月) 10:35:22 ID:TWYtDbA.
a hopeさま
トキさま

<<下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。>>
<<自分でまず本を読み、考えるぐらいの熱意がないと、本物にならないと思います。>>


わたしも激しく賛同します。

(自分は)今まで根本真理で喜べてたのが、変な指導を受けてしまった結果、却ってわけがわからなくなり

めちゃくちゃになってしまったことがありましたもの。(*‘ω‘ *)ニャは

ちゃんとすごい本を残してくださってるのですものね。

108a hope:2016/05/30(月) 16:11:06 ID:vdNCBnG6

>>106 トキさま、>>107るん吉さま

ご賛同ありがとうございます。

結局、指導者に頼ってばかりいるということは、自分自身の無限力を信じず、
他に依存心を起こしているということですから、そういう意味でも本物を摑めないのだと思います。

自分自身の力を信じて自分の脚で起とうと決心した時、本当の協力者が出て来て助けてくれるような気がしています。

109a hope:2016/05/30(月) 16:14:12 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p184 6行目〜

本部員――叱り方にも、失意落胆させるような叱り方もありますし、激励する叱り方もありましょう。この頃光明寮の御指導の様子を拝見しましたが、時に鉄槌の教育を遊ばせしていらっしゃる。鉄槌(てっつい)的に生徒に迫っていらっしゃるのですね。

この間の「教育」の三月号にも谷口先生の「鉄槌の教育法」ということが載っておりましたですが、それで、今までにお書きになられたことと、この頃お書きになられたことと、そこになんだかこう行き方がちがうようじゃないかといったような感想を、この頃もつ方がありますが、そんなお感じはございませんでしょうか。

『鉄槌の教育これまた愛の教育』

山村――そのお話に関係すると存じますが、この鉄槌の教育、したがってこの努力の教育、つまりその鉄槌を加えて努力を強いるかのごとく聞こえる言葉でありまするが、わたしはその鉄槌の教育なるものがまたこれ愛の教育であるとこう思うのでございまして、愛なるがゆえの鉄槌教育であり、そうしてまたこれが本当であると思うのであります。

最も進んだ状態におきましては、叱ることがいらないのだと思いますし、鉄槌を加えることもいらないと思うのでありますけれども、この過渡期におきましては、その鉄槌の教育が必要だろうと思う、しかしその鉄槌でもって頭を殴りつけるのではなくして、鉄槌で殴りつけられるものは本来のものではない迷いが殴られるのであって、その子供の神の性というものが殴られるのじゃないのです。

わたしはこのあいだもある生徒さんのお母さんに申しましたが、叱ってもよいのです。しかしどういうふうに叱るかと申しますると、たとえばここに百点取るべき成績に対して六十点しかよう取らなかった、その時は大いに叱りなさい。

なんと言って叱るか。

あなたはこんな点を取るあなたではない。こんな拙(まず)い点を取るあなたは実に怪しからぬ、実に贋物だ。本当のあなたはこのような怪しからん贋物の点を取るあなたではけっしてない。本当のあなたは百点取るにちがいないのだ、この六十点の点を取るあなたは虚(うそ)のあなただ、虚のあなたを出してはいけない。本当のあなたを出しなさい。本当のあなたは百点を取るお利口さんであると、こう言って叱りなさいということを申したことがありますが、ここですね、その迷いの方、六十点に縛られている方を、鉄の固い固いやつでガンとやっつける、そして本物の立派な力を激励して出すというのが谷口先生のおっしゃる本当の教育だというふうにわたしは解釈しております。


『「叱る」の真の意味』

本部員――徹梱(てっこん)深切というところですね。

山村――わたしはそう思いますね、けっしてそれは叱るのじゃない。深切に説き聞かせておる。そういう点においてわたしは叱るという言葉を使いたくない。もうわたしの頭にこびりついております。叱られるものの悲哀というものが。ハハ……。

本部員――なかなかおもしろい問題ですね。

山村――決して叱ったらいけない。諭す、これがわたしは必要だと思います。深切に道理を説き聞かしてやる。諭してやることはよいけれども、頭から叱ることはいけない。それでわたしは将来もう叱るという言葉はこれから先も出すまいと思っております。

本部員――今の山村さんのお話はなんですね、結局その実相を見てのお叱りである。実相を見ないところの、従来の叱り方はいけないという点では一致していらっしゃるわけですね。

山村――そうです。

本部員――どならないで、深切に説いて美点を引き出してやるのでこざいますね。

110a hope:2016/05/30(月) 16:15:42 ID:vdNCBnG6

>>109 a hope所感)

一般的に大人は子供が悪いことをすると「なんて悪い子なんだろう」という目で見てしまいがちです。

その対象が大人であってもその人の素行がわるいと「あの人は悪い人だ」「あの人は腹黒い」みたいに表現することが多いのではないでしょうか?

ですが、「生長の家」の教えでは、常に相手の「実相」を観て、その実相を拝み出すようにするんですよね。

でも一方で、まわりの人たちのその人を「悪」だと思う想念が強かったりすると、いくらその人の「実相」を礼拝しても、
その悪い想念に負けてしまい、いつまでたってもその人の「実相」が顕現しないのだと思います。

たとえば、心ある信徒の方々が一生懸命雅宣先生の「実相」を祈っていても、他方で雅宣先生の「実相」を語らず批判ばかりしている人たちがたくさんいたら、
雅宣先生の「実相」は、いつまでたっても顕現しないのではないかと感じています。

愛のない批判はただの悪口ですものね。

111a hope:2016/06/01(水) 09:20:21 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年6月1日〜6月30日まで
テキスト 「生命の實相」第27巻 久遠仏性篇 上
内容   常楽宗教の提唱<上>

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

112a hope:2016/06/01(水) 09:21:33 ID:vdNCBnG6

みなさま おはようございます。

6月になりましたので、第3回web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

113a hope:2016/06/01(水) 09:23:35 ID:vdNCBnG6

今日から、あたらしい巻、「生命の實相」27巻 久遠佛性篇を学びます。
その内容は、『常楽宗教の提唱』です。

常に楽しいと書いて常楽、大辞林によれば、――【仏】永遠の楽しみ。悟りの境地をいう。――とあります。

常楽宗教である「生長の家の教え」を次から次へと学べる幸せ、心から感謝してます!

合掌。

114a hope:2016/06/02(木) 08:36:46 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 

(はしがき)

わたしは本書において一点の暗い影もない明朗の宗教を提唱する。今まで宗教はなんらかの意味において暗い影がどこかに潜んでいたのである。曰く、

(一) 人間には原罪というものがある。あるいは因縁とか罪業というものがあってなかなか救われがたい。
(二) 罪を消滅するには苦行が要る。献金が要る。犠牲が要る。そのままではなかなか救われがたい。
(三) 神と富みとには兼(か)ね事(つか)うることはできない。救われるためには貧乏しなければならない。経済的苦痛は忍ばなければならない。
(四) 仏の救いは肉体滅後の世界だけであって、肉体のある間は仏の本願力といえどもどうすることもできない。
(五) 釈迦も出家して家庭生活を破壊し、キリストも「それ我(わ)来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜(しゅうとめ)より分かたん為なり」と言ったごとく、大なる悟りを開くためには、一時は家庭生活を破壊しなければならない。
(六) 悟りを開きまたは、救いを受けるには長途の旅行をつづけて本山に参拝し、多数の日子と、多額の金額とを費やさねばならない。
(七) 宗教的信仰をもつというだけでは、死後救われるかもしれぬが、現在の経済生活、健康状態、児童の学業成績をも左右するということができない。
(八) 一つの宗教的信仰は他の宗教的信仰と衝突して、宗教の名において骨肉相争い、家庭不和の状態を演じ易い。

まだまだあげれば、在来の宗教には無数の暗い影があるが、まず上記はその主(おも)なるものであろう。

われわれはかかるいっさいの暗影を放擲(ほうてき)して、光明一元、神一元、天国のみの実在、浄土のみの実在を高調して完全に光明のみのいとも明朗なる宗教を打ち建てて無数の実際生活に功徳をあげたのであり、現に続々その実証をあげているのであって、その体験実例はわたしたちの機関誌たる『生長の家』『精神科学』『白鳩』『光の泉』『理想世界』等に毎月発表されているのであり、『実相体験集成』という大部の書籍も昭和十二、三年に上下二巻出版されたのである。

最近、『わたしはこうして癌が治った』と題する二十数氏の実際体験を集めた書物も出版されているのであって、現在なお医学界で完全な治療法の見当たらない癌にさえこれだけの治験例を挙げることは注目に値するのである。
(つづく)

115a hope:2016/06/02(木) 08:37:52 ID:vdNCBnG6
>>114 つづき)

その功徳の生ずる原因は――

(一) 人間の罪悪感念の払拭。人間本来神の子・仏子であって本来罪なく、本来救われているという真理を知り、決して因縁罪業等によって縛られなくなる。
(二) 罪本来無きがゆえに、罪を滅するために苦行も、献金も、犠牲も不要である。人間はそのまま救われていると知るがゆえに、自己処罰がなくなること。
(三) この教えをきいて経済問題が解決するのは、神(仏)は、その神の子(仏子)なる人間が貧しくあることを喜び給うはずはない、人間が貧しくあるのは神の無限供給を本当に知らないからにすぎぬ、本当に神を知ったら、すでにここに無限供給が与えられていることを見出しうるからである。
(四) 神仏の絶対力は、肉体と相対立する相対的な存在ではないから、肉体は死ななくても生きていながら人間はそのまま救われていると知るから、不安恐怖が除かれる。
(五) すでに釈迦キリストが悟りを開いて真理を直指(じきし)啓示せられた以上は、その悟りをそのまま生きていればいいわけであって、釈迦キリストのごとく悟りを得るためにいったん家庭生活を破壊する必要はない。
(六) すでに釈迦キリストの開きたる悟りがあり、人間の救われるのは「心」によるのであるから、釈迦キリストの悟りをそのまま平易に解説し、流麗暢達(りゅうれいちょうたつ)なる文章をもって、その悟りが人類の「心」の奥底に流れ込むようにしさえすれば、人類は救われるのである。人類は「足」で救われるのではないから、長途の旅を続ける必要はない。人類は日数で救われるのではないから長期の日子を要しない。人類は旅費で救われるのではないから、多額の旅費を支払う必要はない。ただ流麗暢達なる文章に表現された悟りの本を読むだけで「心」の中に真理が流し込まれて悟りに入るから、読書するだけで功徳が生ずるのである。
(七) この世界は神一元の世界、仏の無礙光尽十方に満つる世界であるから、一の悟りは法界一切のものを救いの無礙光のうちに見出すのである。経済も健康も教育も悉くこの無礙光の中に見る時、いっさいの光明輝くものに変貌するのである。
(八) われらは古今を貫く真理を解明するのであって、敢(あえ)て一宗一派の宗教を樹(た)てるのではないから、どの宗教の信奉者もその教えに接するとき、各自の宗教がその真理を本来各宗教共通の天地一貫の真理になることを悟り、強いて為にするところあって反発するもののほかは、各宗派人悉く互に相和することを得るに到るのみならず、在来の神道仏教キリスト教がとうてい融合しえなかった欠点を補って、完全に神仏耶三教の融合を完(まっと)うして人類が平和に融合しうる基礎を築いたのである。


ともかくわたしはかつて書いた原稿を纂(あつ)めたこの本を校正しながら、自分自身の執筆であるところのこの書の語る真理にまったく打たれて、反省せしめられた幾多の箇所があったことを告白する。

その感想をいちいちここに列挙することは止めるが、唯一つ言っておきたいのは、理想家は善人にありがちな自己虐待の精神がいつの間にか頭をもたげて、ともすれば悲壮の方へ、悲劇の方へ、暗黒の方へと誘惑されやすいのである。

多くの善人は自己虐待が好きで、ともすれば自己を奈落の底に引き落とす暗黒思想に知らず識らずにひきつけられて行きがちである。

聖フランシスやトルストイなどの不幸はその適例である。

われわれが説くところが正しいのは、最近の精神分析の発達に従い、罪悪感念が原因で無数の病気や災難が起っていることが明らかにされたことによって裏書されたのである。

この問題について興味のある人はメニンジャー博士の『おのれに背くもの』に無数の病気や災厄が自己処罰であらわれている実例をあげており、戦争までも大量自己処罰だと説いているから、それを読まれるがよい。

この書は三島由紀夫氏が書評に絶讃していた、日本教文社の発行である。

昭和四十年 一月 十日          著者しるす

116a hope:2016/06/02(木) 08:40:24 ID:vdNCBnG6

>>114 >>115 a hope所感)

毎回感じるのですが、「生命の實相」は(はしがき)も素晴らしくて、決して読み飛ばすことができません。

もっと言えば、ブックカバーの帯に書いてある、キャッチフレーズみたいな文章も素晴らしいです。(これは編集者の方が書いたらしいですが・・・)


第27巻のブックカバーの帯の文章を紹介します。

――――――――――――
「現代をリードする宗教とは」

アメリカまで数時間で行けるという科学の驚異的に進歩した現代、本当の宗教とは如何なるものだろうか……どこか暗い影があった今までの宗教(上段=△)と本書の提唱する明朗な宗教(下段=○)とをならべ、生命的宗教の特長を明示する。

▽人間は生まれながらにして罪がある ○人間本来神の子・仏子であって罪なし
▽罪を滅ぼすには苦行、献金、犠牲がいる ○罪はないから罪を消す苦行は不要
▽救われるには貧乏しなければならない ○人間には無限の供給が与えられている
▽人間は死んでからでないと救われない ○人間は本来そのままで救われている
▽悟りを開くためには家庭は破壊される ○真理を生きる時そのまま家庭は調和する
▽一つの宗教は他の宗教とぶつかる ○全ての宗教は神髄において一致する

本著名『生命の實相』とは――いのちの本当のスガタを書いたものです。
――――――――――――

雅春先生の(はしがき)のご文章が簡潔にまとめられています。
聖典『生命の實相』には無駄な文章が一つもありませんね!

117a hope:2016/06/02(木) 08:43:39 ID:vdNCBnG6
>>116訂正

ブックカバーの帯 → ブックカバーの袖 

着物の一部だと覚えていて間違えました・・・ハズカシ・・・(≧◇≦)

118a hope:2016/06/03(金) 07:37:07 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p4 4行目〜

宗教の使命は、梗塞(こうそく)された生命を解き放って本来の自由に復帰せしむるにあるのであるから、宗教を信じながら、苦しんだり、罪についていつまでも低回(ていかい)して悲しんだ状態にあらしめる宗教がありとするならば、その宗教は宗教としての使命を果たしていないと言わなければならないのである。

抜苦与楽(ばっくよらく)が宗教の使命であるのは何人も肯定して疑わないところであるのである。

(略)

幸福感に満つる生活こそ本当の生活であるのである。

悲しみと不幸に満たされた人々が「生長の家」の教えを受けて旬日(じゅんじつ)ならずして、家庭に夫婦喧嘩は絶え、幸福の空気がその家庭の雰囲気を満たし、喜色が家族たちの顔貌にあらわれ、間もなく、家族の人相まで変わってしまう事実が多くあるのは「生長の家」が悲しみの似非(えせ)宗教でなく、常楽宗教の実相を教える真宗教であるからである。

119a hope:2016/06/03(金) 07:38:39 ID:vdNCBnG6

>>118 a hope所感)

「生長の家」を信仰していると信じていても、その生活が喜びに満たされていなければ、
それは本当の「生長の家」の信仰ではないということなのだと思います。

みなさんは、「悲しみの似非(えせ)宗教」を信仰されていませんか?

みなさん、聖典「生命の實相」を毎日拝読して、まことの「生長の家」を信仰しましょう!

120a hope:2016/06/08(水) 20:42:18 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p51 2行目〜

すべて善き宗教は、教祖が教団をこしらえようと計画してはじめた教えではなかった。

最初はたいてい、普通の常識を超えたことを言うものだから皆気が狂ったのかと思ったけれど本人は気が狂ったのでもなんでもない。

その至誠(しせい)が高次元の世界の神様に感応してそこに神さまからの教えがひらかれたのであります。

最初は教祖の至誠の教えでありましたが、しだいに教えを継いだ宣教者が、人間知恵をもって計画的に教義をこしらえ無理に教勢を拡張しようとしたので躓(つまづ)いたのであります。

121a hope:2016/06/08(水) 20:43:55 ID:vdNCBnG6

>>120 a hope所感)

 頭注より
○至誠…このうえなく誠実なこと。まごころ。
○宣教者…教えを伝えひろめる仕事をする人。


色々、考えちゃいますね・・・(゚∀゚)

122るん吉:2016/06/10(金) 21:08:46 ID:TWYtDbA.
>>a hopeさま
>>罪についていつまでも低回(ていかい)して悲しんだ状態にあらしめる宗教がありとするならば、その宗教は宗教としての使命を果たしていないと言わなければならないのである。

生長の家以外の教えでは罪無しにならないから、苦しいでしょうね・・


>>(宣教者・・)色々、考えちゃいますね・・・(゚∀゚)

にゃはは、ほんとですね。

いつも有難うございます。

123a hope:2016/06/12(日) 08:11:42 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻p61から始まる「石橋さんの体験」はとても印象的でした。
かつて石橋さんは和歌山で鍼灸院を開かれて、とても繁昌していて、家族とも幸せに暮らしていたのですが、
あることがきっかけになり、転落の人生を歩み始めます。

ついには借家の家賃も払えないような貧困になり、管理人から立ち退きを迫られているのをなんとか置いてもらっていたのですが、
そんなとき生長の家の教えに触れ(パンフレット八冊を拝読する)ことで物質への執着心がなくなってきます。

そして、その借家への執着心もなくなり神さまに全托して、管理人のいうように素直に出ていこうと決心した時、
すべてがよい方に方向転換していきました。

(つづく)

124a hope:2016/06/12(日) 08:13:09 ID:vdNCBnG6
>>123 つづき)

「生命の實相」第27巻 p69 2行目〜 「石橋さんの体験談」より抜粋 

・・・今まで管理人をいやな奴だと思い、どうにでもしてこの家にいなければならないと思っていたのに、管理人には本当にすまないという気持になってきたし、これまで「この家におらならん、おらんければ生活に困る」と家に執着していたのに、その執する心がなくなってきた。

ここが大切です、先刻(さっき)は体のことを申しました。

この体をこの体をと思って体ばかりに心をひっかからせていたら病気は快(よ)くなりはしないし、終(しま)いには神経衰弱になってしまうよりほかはないのだということを話しましたが、今度は体ではない、家の話です。

しかし同じことで、物質にひっかかっているかぎり良くなりっこはない、かえって苦しくなるばかりなのです。

それで石橋さんもこの家この家と思って執着していた、その時には管理人が隔日にやって来て大声でどなっても黙って忍ばなければならなかった。

ところがパンフレットを読むにつれて、

「人間は神の子であって生かす力は神から来るのだ。この天地が地上にわれわれを生んだ以上決して人間が食べるものにことかくということはあるはずがない。それなのに食べるものがないという状態にあるのは、神の豊かな供給を自分の心を狭くしていて受け入れなかったからだ。人間みずから詮(せん)をして神の供給を拒んでいるからだ。これからは心をもっと広く持って、お示しのままにもしこの家を出ろといわれたら出ていこう、そこにまたお示しがあるのだ」

と、こういうようにひっかかる心をすべて神様の大きな御手(みて)に委(まか)せる気になられたのでありました。・・・

125a hope:2016/06/12(日) 08:15:33 ID:xVBwxesw
>>124 a hope所感)

この「体験談」は本当に興味深いです。
このあと、石橋さんの心が変わることで、管理人の心にも変化が現れてくるのです。
つまり、石橋さんが管理人に「すまなかった・・・」という気持ちを持ったとき、
管理人の心にも同質の憐みの心が湧き上がって来たのです。


まことの「生長の家」は現象界にはありません。
わたしたちは現象界の「生長の家」に執着しているかぎり、転落人生を歩むことになってしまうかもしれません。

みなさん、聖典を拝読しましょう! 聖典にすべての答えが書いてあります。

126a hope:2016/06/15(水) 06:08:36 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p84 1行目〜

「・・・生長の家というのはいっさいのものと仲良しになって調和するという教えなのです。

考えてもごらんなさい、炊事係の不注意からかもしれないけれども、食事の中に油虫が入っていればこそ、あなたが退院する気持ちになったんじゃありませんか。

もし油虫が入っていなかったら、あなたはまだまだこんな病念の蓄積した所から退院しなかったかもしれない。

食事の中に油虫がいたればこそ、こんなに早く君は退院する気になったのだから、油虫は、いわば恩人じゃないか、そう思うとありがたい油虫だと手をあわして拝まねばならん」(拍手起こる)と懇々と言ってあげられた。

そうすると、ほんとにそうであった、なるほどありがたいことであった、それを恨んでいたというのはわたしのまちがいだった、この世の中にはどこにもありがたいことがあるのだと気がつかれたのでありました。

127a hope:2016/06/15(水) 06:10:13 ID:xVBwxesw

>>126 a hope所感)

そうでした、「生長の家の教え」はすべてに感謝する教えでした。

自分を害するかもしれない、食事の中の油虫にさえもその存在価値を見つけて感謝する・・・。

それができたとき、わたしたちははじめて、「天地一切のものとの和解」を成立させることができるのかもしれませんね!

128a hope:2016/06/15(水) 06:59:13 ID:vdNCBnG6

>>127補足)

ここの「油虫への感謝」のところはちょっとややこしくて混乱するかもしれません。

なぜなら、生長の家の教えでは、一方で「天地一切のものとの和解」を説きながら、他方では「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」と説いているからです。

「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」という意味は、

虚説や黴菌は人間に害を及ぼすので、その害を及ぼす部分(内容)は決して受け入れるな、という意味なのだと思います。

でも、その「虚説」(間違った教え)があるお蔭で、わたしたちは何が真説なのか自ら考えることができるわけです。

そういう意味で、その「虚説」の存在に感謝できるのだと思います。

つまり、油虫に感謝するからいって、油虫の入った料理を食べ続けたら必ず健康を害します。

「真説」は雅春先生のお残しになった『聖典』のなかにあります。
(わたしは、雅春先生のお書きになった愛国書と呼ばれるものは『聖典』だとは思っていません。)

いつまでも「虚説」を食べつづけないように気をつけてくださいね。

129a hope:2016/06/15(水) 08:44:28 ID:vdNCBnG6
頭注より 

油虫・・・ごきぶり。

130a hope:2016/06/17(金) 06:58:33 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p103 後から1行目〜

皆さん、ただ今、眼を瞑(つぶ)って「肉体は無い」と観じ、そうして「南無阿弥陀仏」を称えてごらんなさい、キリスト教の人ならば「神と一体」と称えてごらんなさい、神道の方であれば「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)と一体だ」と考えてごらんなさい。眼を瞑っているから肉体がないように思われ、その無いように思われる程度にしたがって、われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられるのであります。

131a hope:2016/06/17(金) 07:00:34 ID:vdNCBnG6

>>103 a hope所感)

みなさま、おはようございます。

今日は、谷口雅春先生の御命日です。 
大感謝、合掌。

そして、上に謹写したお言葉は、間違いなく谷口雅春先生のお言葉です。

ここに、ハッキリ、<<われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられる>>とあります。

わたしたち人間は本来神様と一体なんですから、まことに〝肉体無し〝 の真理を理解してれば、
「無限絶対の神は、だから感覚できないのである。」などという軽々しい発言は絶対ありえないと思います。

(参照) 『「生長の家」の教義について議論する』板 >>108
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/108-n

132a hope:2016/06/17(金) 07:05:01 ID:vdNCBnG6
>>131訂正
>>103 a hope所感)→(>>130 a hope所感)

133a hope:2016/06/22(水) 18:15:33 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p108 後から6行目〜

「物質は無い」「肉体は無い」ということがわかれば、わが身というものはみんな幻のようなもので何も無いのだと思う観方を「断見」といって、釈迦がまちがった見解の一つして排斥されたところであります。

「物質が無い」と知ったと同時に「実相がある」と知り、「肉体が無い」と知ったと同時に「ほとけ が有る、それが自分だ、神がある、それが自分だ」と知らねばなりません。

「実相がある」「我(が)がある」と言ったら、その実相とはこの肉体の自分のことだ、「この肉体が有る」のだ、と思うのは「常見」といって釈迦はまた排斥されたのであります。

この「断見」「常見」いずれにも堕(だ)さないようにしなければ正しい悟り(正見 しょうけん)ではないのであります。

正しい悟りというものは、「無くて有る」この反対のことを一つに自覚したような状態にあります。

肉体の無がわかっていて、金剛不壊の実相が有ることがわかることが断常二見に堕さない正見なのであります。

この正見を得たときには「無くてしかも有る」ことがわかりますから、肉体が眼に見えていても、それがただちに無いとわかり、実相身が眼に見えないでも、それがただちに有るとわかり、「臨終の一念」を待たないでこのまま、今(いま)成仏していることがわかるのであります。

134a hope:2016/06/22(水) 18:18:25 ID:vdNCBnG6

>>133 a hopeまとめ)

「何もない」・・・断見 ×
「肉体が実相」・・・常見 ×

「(肉体)無くて(実相)有る」・・・正見(正しい悟り)○

135a hope:2016/06/22(水) 18:18:59 ID:xVBwxesw

>>133 a hope所感)

聖典の言葉はどこを拝読しても格調高く、魂に響きます。

それはこの聖典を書かれた谷口雅春先生が、「正見」つまり正しいお悟りを得られた方だったからに他なりませんね。


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