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『web「生命の實相」輪読会』 板

1トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/15(火) 11:09:09 ID:lgv9ASqI
 このスレッドは、生長の家信徒の人達の『web「生命の實相」輪読会』のために作成したスレッドです。『web「生命の實相」輪読会』についての話題は、このスレッドでお願いします。

(注意点)

 基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。

 アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。明らかな他団体や特定の霊能力者の宣伝となる投稿も削除の対象になります。

 このスレッドは、「生命の實相」輪読会という目的だけの使用するスレッドです。それ以外の投稿はできません。目的外の投稿はすぐに削除します。

 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」ならびに輪読会リーダーの判断になります。ご理解下さい。

 目的外の投稿を繰り返す人は、管理人ならびに輪読会リーダーの判断で、投稿禁止にさせていただきます。

 それ以外の注意点は、他のスレッドと同じです。

 ご不明の点は、「コメント」板で管理人または輪読会リーダーへお尋ね下さい。

では、このスレッドを利用して、生命の実相の勉強をお楽しみ下さい! よろしくお願いします。

2a hope:2016/03/16(水) 10:43:17 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第1回 web「生命の實相」輪読会 案内

期間   平成28年3月16日〜4月30日まで
テキスト 「生命の實相」第25巻 教育実践篇 上
内容   人間を作る法〈上〉

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

みなさま おはようございます。

この度、管理人のトキさまが、この掲示板に『web「生命の實相」輪読会』板を開設してくださいました。 
これからも、大好きなこの掲示板で、大好きな「生命の實相」のお勉強が続けられることに心から感謝しています。 

感謝 合掌。

3a hope:2016/03/16(水) 10:45:45 ID:cEpBaIdo

それでは、第1回web「生命の實相」輪読会 を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

4a hope:2016/03/16(水) 10:47:22 ID:cEpBaIdo

つづきまして、「生長の家」とはなにか?を再確認するために、『生長の家の光明宣言』と、
創始者である谷口雅春先生の開教当初のご文章である『「生長の家」とわたし』を謹写させていただきます。

5a hope:2016/03/16(水) 10:48:19 ID:cEpBaIdo

生長の家七つの光明宣言

▽ 吾等は宗派を超越し生命を礼拝(らいはい)し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
▽ 吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。
▽ 吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。
▽ 吾等は生命の糧(かて)は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。
▽ 吾等は神の子として無限の可能性を内に包有(ほうゆう)し、言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し得ることを信ず。
▽ 吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の著述、出版、講習、講演、ラジオ放送、テレビジョンその他凡(あら)ゆる文化施設を通じて教義を宣布するものとす。
▽ 吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦其(そ)の他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に建設せんが為に実際運動を起す。

「生命の實相」第1巻 総説篇 p2 より謹写

6a hope:2016/03/16(水) 10:49:33 ID:cEpBaIdo

「生長の家」とわたし     谷口雅春先生


「わたしはこの『生長の家』の生き方がどんなに善い生活だかということについては、確信をもっている。

諸方の読者から集まって来る多くの賛辞は、わたしのこの確信がただのウヌぼれでないことを第三者として証拠だてている。

なかにはわたしを教祖あつかいにしてくださる誌友もあるが、わたしは『生長の家』の教祖ではない。

わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者(ぐどうしゃ)にすぎない。

わたしがまだこの世的な悩みをいく分でも持っているのはわたしの生活がまだ『生長の家』の生き方には完全になり切っていないからである。

むろんこの雑誌の原稿はわたしの手にもったペンにより書かれる。

しかし、ひとたび『生長の家』を書こうとしてわたしがペンをもって机に向かうとき、わたしはもうふだんのわたしではないのである。

霊きたりてわたしを導く。

弱い性質のわたしにはとても書けない強い言葉が流れるように湧いて来る。

第二号の『生長の家の歌』(現在は『甘露の法雨』)のごときは自分ながら驚くほど強いことが書けている。

わたしが亀岡にいたとき、わたしが専念、教えのことを書いているのをかたわららで見ていた霊視能力者の加藤氏は、わたしと別な霊人が筆をとっている姿を見たといっていた。

それは信じてよいかどうかは知らない。

しかしもし『生長の家』に教祖というべきものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。

およそ宗教的な深さをもったものは、それが教えであると芸術であると問わず、その源(みなもと)は霊界にあるのである。

古来から神品といい神徠(しんらい)といいインスピレーションといったのはこれである。

われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。

しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKの放送に合せなければならぬであろう。

それと同じくわれらがいっそう高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。

ここにわれらは不断に心を清め、心をいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。

この訓練がたりないと雑音が混じる。

受けるインスピレーションが不純なものとなる。

もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである」


「生命の實相」第1巻 総説篇 p14 15 より謹写

7a hope:2016/03/16(水) 10:51:55 ID:cEpBaIdo

(a hope所感)

わたしは、聖典「生命の實相」のご文書を拝読したり謹写していると、自然に背筋が伸びて姿勢がよくなっています。
そして、気持ちが明るくなり、すべての出来事を肯定的に受け止められるようになって、あらゆることに自信がみなぎってきます。

<<われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。
しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKの放送に合せなければならぬであろう。
それと同じくわれらがいっそう高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。
ここにわれらは不断に心を清め、心をいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。>>

「生長の家」のみなさんは、今、どちらのラジオ局にチャンネルを合せていますか?

わたしはもちろん 谷口雅春先生ご放送の「生命の實相」ラジオ局 にチャンネルを合せますよ!

8a hope:2016/03/18(金) 07:56:36 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p3


この世の中に「蛇が蛙を呑む」というごとき状態があるのは事実であります。

この生存競争、弱肉強食の事実を見つめる時、この世は善きものであること、調和せるものであることを認めることはできないとわたしは久しい間考えて悩んだのであります。

この生存競争弱肉強食の事実はその当時の自分にとっては否定することはできなかった。

そしてその嘆かわしい暗い影をじっと生活の奥に見つめてその光明化を思索している状態がしばらくつづいていたのであります。

その時代にわたしは『聖道へ』(現在は相補版)という論文集を書き、その次に小説『神を審判(さば)く』を書きました。

これは、ユダを主人公にした小説で、もしはたして善なる神が宇宙を作ったのならばなぜ世界に蛇が蛙を呑むような肉食または弱肉強食の悲惨がありうるのか、どうして戦争があるのか、どうして病人があるのか、どうして人間は苦しまねばならないのか等々とおよそ無神論者の言いそうなことをあげて神を訴え、神を審判(さば)くような調子で書いた小説でありまして『神を審判(さば)く』と題したのであります。

 (略)

震災後わたしは郷里である神戸に帰ってある心霊雑誌を頼まれて編集していたのでありました。

毎日ひまがありますので、本を読み思索を重ねていたのであります。

そのころ、わたしの心中にひらめいてきた真理がこのわたしの悩みを解いてくれたのであります。

それはこの世界は神のこしらえた世界ではない。

神を訴え、神を審判いたのはわたしのほうがまちがっていたのだ。

この五官に触れる世界は、ただ、われわれの心の現われである。

神は愛である、慈悲深きものである、その神のお創造(つく)りになった真実世界はその完(まった)き知恵と愛と生命とに満ちた大調和の世界である。

この真実の世界、久遠実成の完全世界がすでにあるという真理でありました。

それと同時に「本当の自分」というものが分かってきたのです。

本当の自分は久遠実成の仏である。

すでに久遠の昔から無限者、無限愛、無限生命なる神であるということが分かってきたのであります。

真実の世界、実在の世界は神の国である。

仏の国土である。

肉眼で見えるところの病苦充ち、人生苦満ち、蛇は蛙を呑み、弱者が強者の犠牲にならなければ生きられぬような世界は真実の世界ではない、真実に在る世界ではない。

悲惨満つるこの世界は皆心の影であって、実の存在ではない。

神はこんな世界をこしらえたのではない。

五官に視える世界は虚仮(うそ)の世界である。

かく病苦充ち、人生苦満ち、弱肉強食の修羅場が仮現(かり)のこの世界にあらわれて、在るように見えている時にさえも、神の創造(つく)り給うたままの真実の世界は常楽歓喜の世界である。

そしてわれわれは本来神の子である。

自分の中に無限の生命がある、自分の内に無限の知恵がある。

自分のうちに無限の供給がある。

これが、真実の世界、真実の我であって、この目に見える空間的世界は、われわれの肉体も環境もことごとくただ心の映像(かげ)であるとの自覚が、天の啓示であるかのように、魂の底からひらめいてきたのであります。

この天啓的神徠的信念が生長の家の根本思想になっているのであります。

9a hope:2016/03/18(金) 07:58:34 ID:cEpBaIdo

>>8 a hope所感)

今回のテキスト、「生命の實相」第25巻の冒頭に、【生長の家の根本思想】が、とても丁寧に説明されていました。

<<それはこの世界は神のこしらえた世界ではない。神を訴え、神を審判いたのはわたしのほうがまちがっていたのだ。この五官に触れる世界は、ただ、われわれの心の現われである。神は愛である、慈悲深きものである、その神のお創造(つく)りになった真実世界はその完(まった)き知恵と愛と生命とに満ちた大調和の世界である。この真実の世界、久遠実成の完全世界がすでにあるという真理でありました。
それと同時に「本当の自分」というものが分かってきたのです。本当の自分は久遠実成の仏である。すでに久遠の昔から無限者、無限愛、無限生命なる神であるということが分かってきたのであります。
真実の世界、実在の世界は神の国である。仏の国土である。肉眼で見えるところの病苦充ち、人生苦満ち、蛇は蛙を呑み、弱者が強者の犠牲にならなければ生きられぬような世界は真実の世界ではない、真実に在る世界ではない。悲惨満つるこの世界は皆心の影であって、実の存在ではない。神はこんな世界をこしらえたのではない。五官に視える世界は虚仮(うそ)の世界である。かく病苦充ち、人生苦満ち、弱肉強食の修羅場が仮現(かり)のこの世界にあらわれて、在るように見えている時にさえも、神の創造(つく)り給うたままの真実の世界は常楽歓喜の世界である。
そしてわれわれは本来神の子である。自分の中に無限の生命がある、自分の内に無限の知恵がある。自分のうちに無限の供給がある。これが、真実の世界、真実の我であって、この目に見える空間的世界は、われわれの肉体も環境もことごとくただ心の映像(かげ)であるとの自覚が、天の啓示であるかのように、魂の底からひらめいてきたのであります。>>


上の文章をまとめてみると谷口雅春先生の天啓的神徠的信念である【生長の家の根本思想】とは、

○虚仮の世界(現象世界・五官に触れる世界)の否定と真実世界(実相世界・完全世界)の肯定
○人間仏の子、神の子の自覚
○三界唯心所現の自覚

ということになります。


第1回 web「生命の實相」輪読会の最初に、「生長の家」の根本思想がなんなのか、再確認できたことも、
神さまのお導きのような気がして、感謝の気持ちでいっぱいになりました。 合掌。

10a hope:2016/03/18(金) 08:11:36 ID:cEpBaIdo

「生長の家」のみなさまへ

このweb「生命の實相」輪読会 は、これまでのweb誌友会と同じように進行させていただきます。

今回のテキストは「生命の實相」第25巻ですから、その中の印象に残った文章を謹写してくださるだけでも大歓迎ですし、
わたしのように(所感)を書いてくださってもいいです。

また、わたしやどなたかの謹写した部分や、所感等ににコメントやご意見をくださるのもありがたいです。

ですが、「生命の實相」の真理自体を否定するような内容や、真理の勉強に関係のないような内容のコメントでしたら、
コメント板、もしくは、今回新設された、「生長の家の教義を議論する」板の方にご投稿をお願いいたします。

そちらの方でお返事をさせていただきます。

基本的にこの『web「生命の實相」輪読会』板では、議論は控えひたすら「生命の實相」の輪読を進めていきたいと思っています。

「生長の家の教え」を愛するみなさまのご参加を、心よりお待ちしております。m(__)m

―――――――――――――――――
※りんどく【輪読】
( 名 ) スル
数人が一冊の本をかわるがわる読んで解釈し意見を交わすこと。 「万葉集を-する」

大辞林 第三版の解説より
https://kotobank.jp/word/%E8%BC%AA%E8%AA%AD-660163
―――――――――――――――――

11るん吉:2016/03/18(金) 18:46:39 ID:Jo.00maY
根本真理!すごいですよね。
他の宗教を信じてる人とか、良く「信じれるなあ」。と思いますわ

12a hope:2016/03/19(土) 08:14:20 ID:cEpBaIdo

>>るん吉さま

るん吉さまも、「生長の家」の根本真理がとてつもなくすごいことを察しておられるのですね。
この根本真理はすごすぎるから、一般にはなかなか理解しがたいのだと思うのです。

でもだからと言って、「真理」を補足しようとしたり捻じ曲げて解釈したりしたら、
もはやそれは「真理」からかけ離れたものになってしまいますね。

わたしはここで、ひたすら「生長の家」の聖典『生命の實相』を拝読することで、
谷口雅春先生から生長の家の根本真理を「直接伝授」したいと思っています。

るん吉さまがコメントくださると、やる気が倍増します。

また、いつでもご参加くださいね!

13るん吉:2016/03/19(土) 20:59:37 ID:Jo.00maY
うわぁー!a hopeさま

そんなふうに私の事言ってくださってありがたき幸せです!"(-""-)"てへっ

わたしは、なにかあると「物質あり」になって、現象にとらわれてしまってるバカ者です。何年やってるねん・・(/_;)

「現象無し。」とは 一般の常識からしたら、もう天と地がひっくり返るような お説 ですもの。難しい。(でもこれが真理!)

谷口先生は、ほんとにたくさん真理の御本を残していただいてもう大感謝ですよね。

>>わたしはここで、ひたすら「生長の家」の聖典『生命の實相』を拝読することで、
>>谷口雅春先生から生長の家の根本真理を「直接伝授」したいと思っています。

ほんとにありがとうございます。常に真理の書から離れたらいけないですね!

私の方が、「あ、a hope様が今日も真理の書を謹写してくださってる。」とreal timeで思えて「私も頑張ろう!」って思えて

嬉しさ倍増なんですよ!ほんとにありがとう!!

15a hope:2016/03/20(日) 23:51:46 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p14 8行目〜

わたしがクタクタに疲れて家に帰って来ましても、われ神なりの自覚を喚(よ)び起こして書き出すと、かえってグングン元気が出てきて前よりもいっそう健康になってきたのでありました。

今、自分の内に無限の力がある。今が久遠の生命である。今、無限の富を受けているのである。

その「今」わが生命に無限の力があることが真実に解ってきた時に万事がよくなりだしたのであります。

『生長の家』を三号、四号と重なて執筆してゆきまして、六号あたりまで発行した頃、「あなたの雑誌を読んで、病が治った」と不思議なことを言って来る人が出て来たのであります。

はじめは、どうも妙だ、変なことを言って来る人があるものだくらいに思っていましたが、考えてみますと、それはちっとも変なことではない、釈迦の言ったとおり、三界が唯心の所現であるならば、心が進んで善くなれば生活状態も健康状態もよくなるのは当然であるのであります。

今ではあまり病気が治るものですから、「生長の家」は病気治しの宗教だとまちがわれているような状態でありますが、決して病気治しが「生長の家」の目的ではないのであります。

わたしは病人が大嫌い、それで父親から医者になれと言われるのをやめて文学に志したのでありましたが、わたしの書いた文章の力で読む人の心がうごかされて、人生観が一変し暗い生活が明るくなり、自然と病が治ることになったのであります。

16a hope:2016/03/20(日) 23:57:23 ID:cEpBaIdo

>>15 a hope所感)

<<三界が唯心の所現であるならば、心が進んで善くなれば生活状態も健康状態もよくなるのは当然であるのであります。>>

「われ神なり」の大自覚のある谷口雅春先生がお書きになった「聖典」を拝読することで、
自分にも神の子の自覚が生まれ、心が善くなって、暗い生活が明るくなり、病も治るということですね。

わたしは、このことは本当に実感しています。

どんなに仕事で落ち込むことがあっても子育てで悩むことがあっても、神想観をするか、「聖典」を拝読するか、どちらかちょっとするだけで、
すぐに気持ちが前向きになって明るくなります。

今も、この文章を謹写しているだけで、どんどん元気になってきてますもの・・・\(^o^)/

18るん吉:2016/03/21(月) 14:13:59 ID:Jo.00maY
a hopeさま

ちょっとお伺いしたいのですけど、よろしいでしょうか?

a hope様は、自分の感情をどうしてらっしゃいますか?
幸せな感情とか、楽しい感情は、そのままで良いのですが
苦しい感情とか、つらい感情、腹立ったり、恨みの感情とか。悪感情ですね
雅春先生の「まことに恨み心をもってしては恨み心はなくすことはできない。・・云々中略 恨み無き心でなければ・・」てありますね。
つまり、恨み無き心 を持って来たら、恨み心はなくなる。ということですね。でも恨み無き心は実相の心だから、・・・
難しいかなあ、出すのが。
で、私は訊けさまのブログにお世話になってますから、最近もそこにお邪魔して、よく登場される榎本先生のお言葉を読んだら

そのまま悪感情ちゅう別名暴れ馬はほうっといて、(中々感情はどうすることもできないので)

悪感情はあるがまま、気にしないで「実相を喜んでたら良い」「実相を感謝してたら良い」

と、こうでよいのかなあ。とおもってるんですけど、訊けさまにちょっと聞きたいな。と思ってるんですけど、

a hope 様はどう考えられますか?教えていただいたらありがたいのですが。

19a hope:2016/03/21(月) 23:13:28 ID:cEpBaIdo

>>18るん吉さま

興味深い質問をありがとうございます。

そうですね、わたしは子供のころから感情の起伏が激しかったので、昔はよく泣いたり笑ったり怒ったりしていましたね。

ですが最近では、悪感情(苦しい感情とか、つらい感情、腹立ったり、恨みの感情)にしても、
良い感情(嬉しい感情とか、楽しい感情…)にしても、相変わらず頻繁に感じてはいますが、
若かった時のように、その感情(特に悪感情)を激しく表現することがほとんどなくなってきました。

そんなわたしを見て、昔の激しかったわたし(笑)を知っている親類や親しい友人なんかからは、
「○○は大人になったね」とか、「ずいぶん丸くなったね」とか感心されていますので、
そうなのかな〜と思ってはいましたが…。

今まで、そんな自分の内面の変化を深く考えたことがありませんでした。

たぶん…今のわたしは、そういうさまざまな感情が自分の中に湧き上がってきても、
五官で感じる世界(現象世界)は実際には「ナイ」世界だと悟り始めているので、
無理なく感情抑制ができるようになってきているのかもしれません。

だから、榎本先生風にいえば、「気にしなくなった」のかもしれませんね。


たぶんですが…。

「生命の實相」を拝読して、本当に実相世界の素晴らしさが実感できれば、
いかなる悪感情もまったく気にならなくなるのかもしれませんね。

20るん吉:2016/03/22(火) 02:18:24 ID:Jo.00maY
a hopeさま

回答を下すってありがとうございます。

えっと、>>いかなる悪感情もまったく気にならなくなるのかもしれませんね。

ということは、榎本先生が言われたように

「そういう悪い感情はあっても(悪い感情がありながらも)「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」

こんな感じでしょうか?

要するに私がお聞きしたかったのは、私が実相を感ずるときに(或は実相を感謝するときに)、ついつい

自分の普段持ってしまってるどうにも制御できない悪い感情(例えば自分の嫌いな相手、そしてその者に対する悪感情とかね、色々ネガテイブな感情や考え)
こんな感情を持ってたら、実相を自覚したり実相を喜ぶなんて権利あるのかしら・・?そんな風に思ってしまうときがあるんです。

心を何とかしないとダメ。(←こういう書き方じゃないけど)みたいな、悩み相談でもどっちか言うと心の法則の面に強きを置いた

回答があったりするでしょ。私の廻りにおひとりそういう考え方のお人がおって、その人としゃべってたら自分の悪い感情のことを意識してしまうようになって

それでこんなふうに(こんな自分に、実相を自覚する権利ある?)って考えてしまうようになって


それで、他の人はどうかな?てお聞きしたんです。

榎本先生も、そういう現象の心は放っておいて(現象の心は無いのだから)そのまま「実相を遠慮なく喜んでた良い」て書いて下さってるし。(訊けサンのブログからです)


ほんとはそんな風に(悪い感情等があるから実相を自覚する権利が無い)なんて考える必要はない、て榎本先生がおっしゃてるからだけでなく

自分でもほんとはわかっては いるのですけどね。(もち、榎本先生のお言葉は、色々迷いがある自分には有難いです)訊けサンに感謝)

ただ、横の真理ばかりいうお人(自分の身近にいる)とは、もう真理の話をしたくないかなあ。です・・・有難うございました。おやすみなさい。

何時も、有難う。

21a hope:2016/03/22(火) 11:49:34 ID:cEpBaIdo

>>20 るん吉さま

<< >>いかなる悪感情もまったく気にならなくなるのかもしれませんね。
ということは、榎本先生が言われたように
「そういう悪い感情はあっても(悪い感情がありながらも)「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」
こんな感じでしょうか?>>

たぶん、そうだと思います。

榎本恵吾先生は、「実相独在」を貫かれた先生だとお聞きしています。
でもお若いころは、その「実相」を悟るために、たくさんの修行みたいなこともされ、
その後も谷口雅春先生ご指導の生長の家の教えを真面目に信仰されていたのだと思います。

そんな榎本先生だからこそ「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」
と自信をもってご指導してくださっているのだと思います。


あと、「横の真理」についてですが、「生長の家」がなぜ縦の真理だけでばく「横の真理」も教義とり入れているか?
と考えてみると、答えがみつかるような気がします。

「横の真理」(心の法則)は他者を裁くためにあるのではなくて、
自分自身や他者に「縦の真理」を悟らせるための方便としてあるのだとわたしは理解しています。

生長の家の愛である「自他一体の自覚」をもってみれば、自分の前に現われた人はすべて自分の鏡、つまり観世音菩薩さまですから、
そう考えて、その人にどんなに辛い思いをさせられても、嫌な事を言われても、心から感謝できるようになれば、
相手の「実相」が現れて、すべてがうまくいきますよ・・・。
ということが生長の家の「横の真理」で説かれているような気がします。

でも、るん吉さまのご指摘のとおり、この「横の真理」って、他人から説教されると(特に実践できていない他人だとよけいに…)
素直に聞けないものなのかもしれません。

そんなわたもこの真理はなかなか実践できませんが・・・でもわたしはこの「横の真理」もまた、「縦の真理」を悟るための方便として、
決しておろそかにできない重要な「真理」だと感じています。


最後になりますが、るん吉さまご自身ももうお気づきのようですが、るん吉さまがどんな悪感情を持たれても、どんな悪人であっても、
「神の子」であることには変わりはありませんよね!

だから、榎本恵吾先生の「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」というお言葉通りに、
堂々と、ご自分の「実相」を喜ばれ、感謝されたらいいのではないでしょうか?

23るん吉:2016/03/22(火) 18:23:58 ID:Jo.00maY
>>るん吉さまがどんな悪感情を持たれても、どんな悪人であっても、
「神の子」であることには変わりはありませんよね!
>>だから、榎本恵吾先生の「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」というお言葉通りに、
>>堂々と、ご自分の「実相」を喜ばれ、感謝されたらいいのではないでしょうか?

a hopeさま
再度お答えありがとうございます。ほんとにうれしいです。

はい、そうしますね。一番大事なのは「実相を喜んでたら良い、感謝してたら良い。遠慮したらダメ。」榎本先生の言葉。訊けサンのブログより

いつも有難う。これからも応援します。また書かせてくださいね!

24a hope:2016/03/23(水) 22:56:09 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p22 6行目〜

・・・わたしの教えを受けて以来、母親は
「今あばれているのは、それは息子の仮の相(すがた)である。ほんとの息子は少しも暴れていない癇癪(かんしゃく)も起こしていない神の子である」と信じ、
息子があばれ出すと、わざとその席を去って、あばれている息子の相(すがた)を見ないで、
二階の息子さんの部屋に安置してある大黒像の前に行って、
「息子の実相はこの大黒像のようなにこやかな、おとなしい子なのだ」と息子の円満完全なる実相を念ずるように、されたのであります。

すると今まであばれていた子が、不思議にたちまち静かになったのであります。

しかしこれは少しも不思議ではない。

あばれたり、癇癪をおこしたりすると、その現象を見て、その現象そのものを息子の実相だと思って、
「ウチの息子は悪い、いけない、いけない」と責めつけたり、説教したりして、心の中に悪を描くから、
心に描く者は皆形に顕われるという「心の法則」によってますます息子の悪が増長していたのです。

ところがその悪い現象を心に見ず、「そんなに悪い息子は無い。本当は神の子である」と、
実相を心の中でみるようにすると、すぐ静かになってしまうのであります。

これは事実であって理論ではない。

今ではこの息子さんはすっかり温順(おとな)しくなられて、勉強先から母親宛に実に優しい手紙を書いてよこされた。

わたしはその手紙を見せてもらいましたが、親を思う切々たる情がその手紙に出ていました。

今年は高等学校に入学せられました。

こうしてその息子が救われ、親が救われ、家庭が救われたのであります。

25a hope:2016/03/23(水) 22:57:23 ID:cEpBaIdo

>>24 a hope 所感)

<<あばれたり、癇癪をおこしたりすると、その現象を見て、その現象そのものを息子の実相だと思って、
「ウチの息子は悪い、いけない、いけない」と責めつけたり、説教したりして、心の中に悪を描くから、
心に描く者は皆形に顕われるという「心の法則」によってますます息子の悪が増長していたのです。

ところがその悪い現象を心に見ず、「そんなに悪い息子は無い。本当は神の子である」と、
実相を心の中でみるようにすると、すぐ静かになってしまうのであります。>>


これが、生長の家の教え(横の真理【心の法則】と縦の真理【人間神の子】)による個人救済の典型的な体験談ですね。

26るん吉:2016/03/24(木) 00:41:43 ID:Jo.00maY
a hopeさま

そうですね。
「縦の真理あって、初めて横の真理が生きる。」

横の真理だけいじっててもダメなんですよね。マーフイになっちゃいますよ。引き寄せとかになっちゃう。

本日も有難うございますね。いつも有難う。

27a hope:2016/03/27(日) 09:52:06 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p24 後から1行目〜

誉めるということは実によいことであります。実に人類を光明化するのは誉め言葉であります。

ところがたいていの人はかわいい者ほど誉めない。人前で悪く言う。自分の子を悪くいう。

謙遜のつもりかもしれないけれど、自分の信頼している親が、自分を悪い悪いと言うものだからまちがいはない。

自分は悪い子だと思い込んでしまって、その子供は悪くなってしまうのであります。

誰の前でも、自分の子供を正直に誉めればよいのであります。

世の中では前科者を見ると彼は悪いことをした奴だ、前科者だといって爪はじきする。

だから、刑務所を出ても行くところがない、誰も雇ってくれ手がない。

それでもういっぺん悪事をやれという気になる、「悪人、悪人」というから、言葉の力で悪くなってしまうのです。

これまでの宗教家もそのとおりで、人類を愛するあまり、善くしてやりたいあまり、人類よ、お前たちは罪人であるぞ、悪人であるぞ、そんなことではいかんから善くなれと言って諭すのでありますが、「罪人罪人」と呼ぶ以上、「どうせ自分は善くなれっこはない」とますます悪くなってくるのであります。

宗教家が、人間は罪人である、罪深いものであるから改悛(かいしゅん)してよくならなければならないと、いくら大呼しても世の中を光明化することができなかったのは、「お前たちは罪人だ」という言葉の力であります。

「お前は罪人だぞ、罪人だぞ」といわれていて善くなれるものではありません。

今までの宗教家も決して人類を悪くするつもりではなかった。

母親が愛する子供に対するように、「お前たちは悪い人間である。人類よ、お前たちは罪が深いぞ。悪人よ、早く善くなれよ」といっていた。

ところが言葉の力ということを知らないために、結果は正反対でますます悪くなってきたのであります。

これは少し心理学を研究したほどの人ならだれでもすぐに解る道理であります。

催眠術を少し研究なさった方なら、誰でも知っていらっしゃることであります。

催眠術をかけて、ここにあるコップでも「このコップはとても重い。君は力が無い弱い者だ。あなたはもうこれをあげることはできないぞ。サア上げてごらんなさい」という暗示をかけて上げさせると、どうしてもこのコップをもちあげえないのであります。

今までの宗教家の言葉の使い方はまちがっていたのであります。

「お前は力が無い。サア持ち上げてみよ」と言うと持ち上がらない。

それと同じく「お前は悪人だ。サア善くなれ」と言っても善くなれない。

こうして今までの宗教家は人類を光明化そうと思いながらかえって人類を暗黒化していたのであります。

28a hope:2016/03/27(日) 09:59:16 ID:cEpBaIdo


>>27a hope 所感)

「罪なし」「実相独在」が生長の家の根本真理である「生長の家」は、
たとえ犯罪歴がある人であっても「実相」を見て、あたたかく迎え入れるというわけですね!

そこが、他の「人類暗黒化運動」の宗教との決定的な違いですね!

29a hope:2016/03/29(火) 08:29:42 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p30 6行目〜

中野の結核療養所に入院されていた井上弘治という方も『生命の實相』の分冊、『吾が心の王国』というのをよんで、さっそく元気を回復し退院して、もう病気は無いと豪語せられました。

看護の人や近親の人は井上さんを気が狂ったのではないかと言ったそうであります。

十二月の下旬数回目の大喀血をして衰えていた人が、一月には本を読むだけですっかり元気になって退院した。

退院すると、その足でお礼に光明思想普及会を訪ねて来られた。

来てみると創立当時の社の間口が小さいので「これはやっぱりインチキかな」と思われたが、ともかく、中に入ってみて自分の病気のなおった話をされると、社の人たちはみんな仕事の手をやめて親身になって話をきかれ、わが子の病気が治ったかのように涙を流して喜んでくれた。

それで、やっぱりインチキではない、本物だったとわかったと、大変な喜びようで帰られました。

30a hope:2016/03/29(火) 08:31:28 ID:cEpBaIdo

>>29 a hope所感)

<<来てみると創立当時の社の間口が小さいので「これはやっぱりインチキかな」と思われたが、ともかく、中に入ってみて自分の病気のなおった話をされると、社の人たちはみんな仕事の手をやめて親身になって話をきかれ、わが子の病気が治ったかのように涙を流して喜んでくれた。
それで、やっぱりインチキではない、本物だったとわかったと、大変な喜びようで帰られました。>>


当時の「生長の家」は、他人を自分のことのように思いやるあたたかい愛で溢れていたのですね。

31トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/03/29(火) 20:31:48 ID:LzMmjpuQ
>>30

 生長の家の信徒のことを昔は「家族」と言いましたが、戦前の生長の家のことを覚えている
人に尋ねると、本当に暖かくて、家族的な雰囲気だったそうです。

32a hope:2016/03/29(火) 22:04:29 ID:cEpBaIdo

>>31トキさま

やはり、宗教には「愛」が必要ですね。

お世辞みたいになっちゃいますが、トキさまには「愛」がありますね。
わたしも「生長の家の愛」でトキさまのように、個人救済がしてみたいです。

33a hope:2016/03/31(木) 22:57:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p37 後から5行目〜

・・・その方は有名な人格者であって、額の真ん中に疣(いぼ)があった、それがその校長さんの人相の特徴をなしていたのであります。

ところが、講演をきき終ると同時に、その疣がころりと落ちたのであります。

これは本当の話で、不思議ではない。心が変われば肉体は変わるのであります。

肉体は心の影でありますから、病気を治したい人は、心を変わらすことのみが必要なのであります。

それが言葉の力であります。

なかには、話を聞いても治らない人もある。それは心が治らないからなのであります。

そんなことはあるものかと反抗する気持ちで聞いていたのでは治るものではないのであります。

なるほどと、幼な児(ご)のごとき白紙の心になって受け取る気持になりさえしたら治るのであります。

34a hope:2016/03/31(木) 23:06:45 ID:cEpBaIdo


>>33 a hope 所感)

<<なるほどと、幼な児(ご)のごとき白紙の心になって受け取る気持になりさえしたら治るのであります。>>

これが、『信じるものは救われる』という本来の意味なのではないでしょうか・・・?

35a hope:2016/04/02(土) 08:34:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p49 8行目〜

十一、人類無罪宣言

「生長の家」は、在来の宗教家の人類有罪宣言に対して人類無罪の宣言をしたのです。

われわれは罪人にあらず、神は罪を創り給わない。

「生長の家」出現の使命はこの言葉の力によって人類の罪を消すことであります。

罪は本来ない、それは心に描かれた時だけ、アルかのごとき観を呈する。

その人類の罪を言葉の力によって、消すことが「生長の家」の使命であります。

(略)

イエス時代のユダヤ人はイエスが罪を消す事実に驚いた。

が罪を消すということがキリストにできるだけではなく、世のすべての人にできるものであることを生長の家は発見したのであります。

この聖典『生命の實相』を読むだけで、吾れ神の子なる実相を悟り、すべての生物と調和し、家庭はよくなり、人の病気までもどんどん治すことができるということはもう多勢(おおぜい)のみなさんがすでに実証していられるのであります。

「生長の家」は開祖だけが偉いのではない。

今までの宗教はおおむね何教でも釈迦、キリスト開祖自身はそんな説き方をせられないが、後の祖述者が開祖だけを偉くして、他の者は皆罪人であるぞ、お前たちは罪深いものであるぞ、というふうな調子に脅(おど)しつけて開祖を仲介にしてのみ辛(かろ)うじて罪の赦しを得るような説き方をしていたので、人類個々のうちに宿る無限の力を封じてしまっていたのであります。

ところが「生長の家」では、全人類みな神の子である、本来罪なく病なく死なく悩みなく、苦しみなきものであることを宣言して、今までの宗教家が人類罪ありと宣言してその無限生命を縛っていた言葉の呪縛を解いてしまったのであります。

「生長の家」の人類無罪宣言の言葉によって人類を今まで縛っていた言葉の呪縛が解けてすべての人間に無限の力が内から湧いてくるということになったのであります。

36a hope:2016/04/02(土) 08:37:47 ID:cEpBaIdo

>>35 a hope所感)

<<「生長の家」では、全人類みな神の子である、本来罪なく病なく死なく悩みなく、苦しみなきものであることを宣言>>

この真理が生長の家の「唯神実相」「実相独在」つまり、根本真理というわけですね。


※岡正章先生がブログ「みすまるの珠」で、この生長の家の「根本真理」と現教団の教義・運営方針の矛盾をご指摘され、
『教勢回復へ「起死回生」の手立ては、』というタイトルで、勇気あるご発言をされているのでweb「生命の實相」輪読会参考文献板の方に紹介させていただきます。 

http://misumaru.o.oo7.jp/

37トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/04/02(土) 10:05:06 ID:rNf9Lqo.
>>32

 私より、a hope様のほうがはるかに愛深いですよ。

38a hope:2016/04/03(日) 18:13:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p56 後から1行目〜

・・・たいていの人はスリという行為を見て、これは悪いと申しますけれども、なぜ悪いかとよく考えてみますと、ちょっと善悪の判断がつかなくなるのです。

それを善とか悪とかいうのは見る人の立場の相違になるのであります。

たとえば、物を掏(す)るということを一つの芸術として観ますと、それは奥堂に達すれば、天狗飛切りの術というか、忍術の達人というか、一つのすぐれた術ということができるのであります。

これはスリを芸術として観た場合であります。

ところが芸術方面から観たならかくも立派なスリを、悪いというのは、掏られた側から言うと、自分の物が減ったので悪いということになる。

またスリを奨励して、そういうことが殖えてくれば社会秩序をみだすことになり人心を不安ならしめるから悪いということにもなるのであります。

これはスリそのものが悪いのではなく、人の所有権の保護とか社会秩序の維持とかいう尺度というものが、いわば軌道であります。

軌道に乗って、ある一定の尺度から見る場合にはじめて善悪の見(けん)が生ずるのです。

そしてこの行為は、罪悪である、貴様は悪い人間であると判断が下されることになるのです。

そしてひとたびある尺度によって批判を下して、言葉によってお前は悪い者だと、こう断定してゆきますと、その断定を下された者は「わたしは悪人である」という自覚を得てくる、――そうすると、その人はなかなか善人に転向することができなくなってくるのであります。

これに反して、同じ行為をしましても、お前は悪人であると非難せずに、「これだけのことのできる君は天才である。立派な天分をもっている。何もこんなつまらない事をしなくても、良い素質があるのがお前だ」と教えてまいりますと、「そうか、本当はわたしは立派な者であったのか!もう一つ奮発すればこんなちっぽけなスリみたいなことをしなくてもいい人間なんだ」と気がついてくるのであります。

39a hope:2016/04/03(日) 18:34:10 ID:cEpBaIdo


>>38 a hope所感)

『「生長の家」の教義について議論する』板>>46に所感を書きました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/46

40るん吉:2016/04/03(日) 21:05:30 ID:Jo.00maY
a hopeさま

>>「生長の家」では、全人類みな神の子である、本来罪なく病なく死なく悩みなく、苦しみなきものであることを宣言>>

この真理が生長の家の「唯神実相」「実相独在」つまり、根本真理というわけですね。


すごい真理ですね!私が中学の時に読んだ本でダンカスターて人の本ですけど、心の法則の本(マーフイがこの人の本をそっくりそのまま真似してます)なんですが、

罪に対してどういう考えかといいますと、「今はまじめに生きてたら、過去の罪はないのですよ」こんな教えでした。大概こんなことしか考え付かないのですね。

物質無しを知らないのですもの。こんなのしか知らなかったら、苦しかったと思います。谷口雅春先生はほんとにすごいです。

日本人で、そして生長の家のことを知っててよかったですよね!

41a hope:2016/04/05(火) 00:15:09 ID:cEpBaIdo
>>40 るん吉さま

<<罪に対してどういう考えかといいますと、「今はまじめに生きてたら、過去の罪はないのですよ」こんな教えでした。大概こんなことしか考え付かないのですね。>>

そうですね。
一般的に「悔い改める」とか「生まれかわって生きる」などという場合は、
『昔は悪いことをしたけれど、今は反省して真面目に生きています・・・』みたいな感じですものね。

ですが、「生長の家の教え」では「悔い改め」(生まれ更わり)とは、「われ神の子」の自覚であると学びました。

罪を犯したり、悪さをするような自分は本物の自分ではない、わたしたちはみんな神の子なんですよね!

わたしも日本人に生まれて、この教えが学べてほんとによかったと思っています。

42a hope:2016/04/08(金) 00:44:53 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p72 後から1行目〜

生長の家へ来られて、煙草のやまる働き、酒のやまる原理もこの法則なのであります。

一言もわれわれは「煙草を止めなさい」と言いはしないし、「酒を止めなさい」とも言いはしない。

ところが、『生命の實相』を読んでいるうちに自然と煙草がやまり酒がやまるというのは、その人の人生観が変わり、本来「悪」というのもが非存在であるということがわかるので、「悪の魅力」というものが無くなるのです。


p75 後から4行目〜

要するに生長の家の「ねばならぬを解放する教育」というのは、「これをしたらいかん」といういっさいの縛りと制限とを撤廃してしまって、みんな善いものである。みんな善人であるということにしてしまったときに、今まで「悪」だと思えばこそ病的に魅力を感じていたものが、「悪」でないと知ると間もなく、その魅力を失墜して人間は生まれたるままの本性どおりに動き出す。

そうすれば自然に本然の調和が現われ何人も強制しないで、そこに本当の善なる世界が生まれてくるのであります。

「善」とは、一つの行為につけたる正札ではないのでありまして、調和ある相(すがた)に各要素が現われたのを善というのであります。

43a hope:2016/04/08(金) 00:47:37 ID:cEpBaIdo

>>42 a hope 所感)

悪癖にしても、犯罪にしても善いことだと思ってする人間はほとんどいないと思います。
でも、自分の意志だけでは、なかなか止められないのが現状なのではないでしょうか?

それが、『生命の實相』を拝読することで、無理なく止められるようになるのですから、
こんなにありがたいことはありませんね!

44るん吉:2016/04/13(水) 10:54:22 ID:Jo.00maY
>>自分の意志だけでは、なかなか止められないのが現状

そうなんですね。昔ね(昔と言っても4年くらい前かな・・)誰かのブログを読んでたんです。そこにこういうことが書いてあった。

「むか〜し、性格が暗かったので明るくなれるよう思い切ってなセミナーにいってみた。そういうのが流行った時代らしいです、

1週間のセミナーを受けて、「積極的になれて、明るく考えれて、性格も暗くなくなった」そう思えたらしいですが

帰ってきてものの1ッ週間もたたないうちに元の自分に戻ったらしいのです。その場の雰囲気で、性格が変われたように思っただけ。だったそうです。

意思の力、自我の努力って、そうなんですよね。

生長の家以外は「自我の努力」じゃない?「本当の自分は神の子 」ってうたってる本もいっぱいあるけど、

物質無しを知らないから結局「本人の努力、」自我の努力 なんですよね。

45a hope:2016/04/14(木) 10:48:13 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p77 7行目〜

仏教の色即是空の哲学が生長の家において「物質無し」と実に簡単に喝破され、さらに「肉体無し」と断言されるにいたるや、「肉体は眼に見えているのに、それが無いというのは没常識な迷信である」と世人に驚異の眼をみはらしめつつある一方に、その「肉体無し」の断言がいかに人類を病気より、憂患より、生活苦より、回復しつつあるかは、その実績においてこれまことに驚異されつつあることである。

46a hope:2016/04/14(木) 10:50:49 ID:vdNCBnG6

>>45 a hope所感)

今朝、久しぶりに「蓮華日宝王地観」をしました。
その唱えの言葉の中に

物質はない 物質はない 物質はない…
肉体はない 肉体はない 肉体はない…
心もない 心もない 心もない…

とありますが、この生長の家の根本真理である「物質無」「肉体無」「心(人間知・偽我)無」 の真理を、
わたしたちは皆、現象世界に生きているが故になかなか自覚することができないのだなあ〜とぼんやり感じていました。

でも本当は、そう「感ずる(観ずる)心」もない!

47a hope:2016/04/14(木) 10:52:19 ID:vdNCBnG6

>>44 るん吉さま

<<生長の家以外は「自我の努力」じゃない?「本当の自分は神の子 」ってうたってる本もいっぱいあるけど、
物質無しを知らないから結局「本人の努力、」自我の努力 なんですよね。>>

わたしも、そのとおりなのではないかと思います。

「生長の家の教え」で一番肝心なところは、実は『「人間神の子」の自覚』ではなくて、『「物質なし・肉体無なし・心(人間知・偽我)なし」の悟り』なのではないかと…

その悟りがいい加減だと、「人間神の子」の真理を間違って解釈してしまい、増上慢になってしまうか、
もしくは、神を信じられなくなって堕落していってしまうのでないかと・・・

48a hope:2016/04/14(木) 10:54:49 ID:vdNCBnG6
>>47訂正
肉体無なし→肉体なし

49a hope:2016/04/15(金) 09:18:50 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第25巻 後から5行目〜

医学の研究はおおむね病気を起こすところの外的「縁(えん)」の研究であるが、病気を起こす内的「因(いん)」は遠くわれわれの潜在観念(なお、深く探れば念の蓄積すなわち業)の中にあるのである。

しかし「因」ありとも「縁」がなければ病気という「果」を結ぶことはないから、医学は医学で大いに研究してもらいたいものである。

生長の家は内的「因」の撲滅に専念するし、医学は外的「縁」の撲滅に尽してくれる。

「因」「縁」どちらを撲滅しても果(み)は結ばないのである。


たとえばここに植物の種子(たね)があるとする。

その植物の種子は五官に触れない透明な心的存在のようなものであるとする。

それに土壌をかけたとき植物は発生したならば、その土壌しか眼に見えない人間は、土壌が原因でその植物は発生したと思うであろう。

しかし土壌は「縁」であって、透明なる五官に触れない心的存在が原因なのである。

冷たい風に当たって風邪をひいたといえば、冷たい風が原因となって風邪をひいたように見えるが、冷たい風に当っても風邪を引かない人があることを思うと、冷たい風が風邪の原因ではなく、心に発熱痰咳(たんせき)などで象徴されるような因を持った人のみが、冷たい風という「縁」にふれて風邪を引くのである。

50a hope:2016/04/15(金) 09:27:01 ID:vdNCBnG6

>>49 a hope所感)

ここに「因縁果」の法則が説明されています。

今や「人間は病気になる」いうのは常識として、わたしたちの深層真理まで根強く広がってしてしまっていますし、
さらにそれが集団意識となって悪影響を与えてたくさんの人が病気で苦しんでいらっしゃるのが現代社会の現状なのではないでしょうか?

そして、現代医学や保健衛生学では病気の原因を、ウィルスだとか悪い生活環境だとかと考えて、治療を施したり生活改善策を指導したりしています。

ですが、ウィルスや悪い生活環境などは本当の「原因」ではなくて単なる「縁」だったのですね。

<<冷たい風に当たって風邪をひいたといえば、冷たい風が原因となって風邪をひいたように見えるが、冷たい風に当っても風邪を引かない人があることを思うと、冷たい風が風邪の原因ではなく、心に発熱痰咳(たんせき)などで象徴されるような因を持った人のみが、冷たい風という「縁」にふれて風邪を引くのである。>>

どんなにたくさんの良くない「縁」があっても、わたしたちが「病気なし」の悟りの心でいれば、病気を発病することはないという訳ですね!

51a hope:2016/04/16(土) 06:31:26 ID:vdNCBnG6
>>50 訂正
深層真理→深層心理(潜在観念)

52a hope:2016/04/16(土) 06:32:17 ID:vdNCBnG6
>>50補足

<<病気を起こす内的「因(いん)」は遠くわれわれの潜在観念(なお、深く探れば念の蓄積すなわち業)の中にあるのである。>>

実相(病気なし)を悟れば、この「念の蓄積すなわち業」も消えるわけですから病気も消えるということなのだと思います。

実相を悟るには、「生命の實相」の拝読しかありませんね!

53るん吉:2016/04/16(土) 16:17:43 ID:Jo.00maY
a hopeさま
>>実相(病気なし)を悟れば、この「念の蓄積すなわち業」も消えるわけですから病気も消えるということなのだと思います。

>>実相を悟るには、「生命の實相」の拝読しかありませんね!


そうですね!!

>>生長の家の教え」で一番肝心なところは、実は『「物質なし・肉体無なし・心(人間知・偽我)なし」の悟り』なのではないかと…

うん、うん、そうなんですよね!巷にある本なんかでも、本当の自分は「 神と一体」←こういう立派な本はいっぱいあるんですよ。

前にそんな本ばかり探した時期もありました。でも生長の家と違うところは、その人らは何らかの境地に入ってても「物質無し」を知らないのですよ。それを知らないから

神の子なる自分とはいったいどういうのをいうのか?これが、もうひとつうやむや なんです。雅春先生のように「罪無し、病なし、苦しみ無し。」とは教えて下さらないですよね。

何故か?それらのお人は「神と一体なる自分」を知ってはいても、「現象無し」を、知らないからですよね。

54a hope:2016/04/17(日) 09:22:02 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p101 後から6行目〜

人間の実相は神の子である。仏子である。生きとおしの生命であるというようなことは「生長の家」の発明でもなんでもない。

古くから善き宗教はほとんどそのいずれもが口をそろえて説いてきたところであります。

では「生長の家」はどこが違うかというと言葉の力、文章の迫力がちがうのであります。

臨済(りんざい)の一喝といって臨済禅師の一喝をくらうと悟る弟子が多かったという。

一喝にもいろいろあって、耳で聞いたら臨済の一喝も凡僧の一喝も同じかもしれない。

しかしその一喝の中にこもっている生命は、その喝をくらわす指導者の悟りの程度にしたがっていろいろの段階があるのであります。

それで「生長の家」で説くところの宗教的真理は、多くの善き宗教の神髄をなしている宗教的真理と同じであり、むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、どこがちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。

本を読めば病気が治るのもこの随伴的結果なのであります。

この生命の実相というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんいじ)であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の実相を悟らせるようになったところが生長の家の独特なところであるのであります。

今までは真理と言葉が二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心(いしんでんしん)でないと悟ることもできない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、文字と生命とを一体というような域(いき)にまで達せしめたのだろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が多勢(おおぜい)あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、肉体の病気も治り境遇環境まで変化してくるということになってきたのであります。

55a hope:2016/04/17(日) 09:27:41 ID:vdNCBnG6

>>54 a hope所感)

ここのところには、なぜ、「生命の實相」やその他の雅春先生の聖典と呼ばれているご著書を拝読すると真理を悟ることができるのか、その理由が書かれています。

<<人間の実相は神の子である。仏子である。生きとおしの生命であるというようなことは「生長の家」の発明でもなんでもない。
古くから善き宗教はほとんどそのいずれもが口をそろえて説いてきたところであります。>>

とまず最初に、るん吉さまもご指摘のとおり「人間神の子」の真理は昔から他の宗教でも説かれていた真理で、
特別に「生長の家」が説き始めたものではなかったとあります。

ですが、次に、

<<が、【生長の家の】どこが【他の宗教と】ちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。>>(【 】は a hopeが入れました)

と言われています。
『文章による一喝』すごいですね!
これを、もう少し詳しくいうなら、『文章による「無」の一喝』なのではないかとわたしは思うのです。
(参考文献)
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=188

<<ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。
古来、直接説法、以心伝心(いしんでんしん)でないと悟ることもできない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、文字と生命とを一体というような域(いき)にまで達せしめたのだろうと思います。>>

「生命の實相」こそ真(まこと)の聖典、人類の宝ですね!

56a hope:2016/04/18(月) 11:34:48 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p109 4行目〜

かくして小西氏は身を神に捧げられたのであります。

神は生命である、生命は癒す。

その結果、小西氏の腸結核はズンズン治ってしまった。

そして二カ月ほど前から光明思想普及会へ頼って来られました。

今ではわたしなどよりも肥えてどこが腸結核であるかというような健康状態です。

左翼の錚々(そうそう)たる人であり、刑の執行停止中の人でありますので、誰も雇うて生活を保証する人がない。

社会はもっとこういう人を保証して正しい道に進みうるように導いてあげなければならない。

今の社会は、人を見るとすぐ「悪」に見すぎる。

刑余の人であるといっそうそれが甚だしい。

そのためにどれほど善人になるべきはずの人が悪人のままで残っているか。

これではいけない。

生長の家は『法華経』にある常不軽菩薩のように、すべての人の本性に善を見、神を見、仏を見て、その本性を生かしてゆくのです。

これが本当の教育である。

光明思想普及会ではこの小西茂国氏の身柄を非公式に預かって、ただ今編集の手伝いをしていただいているのであります。

時々新聞に出る広告文のうちにはこの小西氏の書いた文章があるのであります。

無神論者が転向して有神論の宣伝文を書いているのであります。

人の本性は本当はみんな善人であり、有神論なのであります。

生長の家はこういうふうに唯物論者を転向させて有神論にならせるのであります。

57a hope:2016/04/18(月) 11:37:20 ID:vdNCBnG6
(a hope所感)

「生長の家」のみなさんは、ここのところを読まれて何を思われますか?
「生長の家」教団のするべきことって、本当は何なんでしょうか?

九州で大きな震災がありました。
その被害の悲惨さと、被災者の救済・援助のはかどらなさを目の当たりにして、日本人であれば心を痛めていない人はいないと思います。

そんなとき、わたしたち「生長の家」の信仰者は何をすべきなのでしょうか?

生長の家の教えは「唯心論」で、さらには「唯神実相論」です。

亡くなった方々や、被災して苦しんでいる人々の心を神に向かわせること。
どんな過酷な状態にいても、本当は救われ済みで、生きとおしの生命であることを知らせてあげること。
それが、現実的に難しかったら、ただただ〝祈る〝 こと。

わたしは、それがまず第一に宗教団体「生長の家」の信徒のすべきことだと思うのですが・・・。

亡くなった方々や、被災された方々の魂の平安を心よりお祈りさせていただきます。合掌。

59a hope:2016/04/19(火) 09:26:45 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p119 4行目〜

こういうように天災でも、心が光明に輝いている人には近づくことはできない。

近づいてもまたその人を害することができないのであります。

かの『観音経』には「あるいは巨海に漂流して竜魚諸鬼(りゅうぎょしょき)の難あらんにも、かの観音の力を念ずれば、波浪も没すること能わざらん」とありますように、われわれの心が光明に輝いてきたならば、どんな天災でもわれわれを害することができなくなるのであります。

天災はのがれることができないと考えるのは、大雨や、暴風や、地震はやはり物質でできていると思うからであります。

そんな程度の唯心論では決して唯物論を根本から破壊することはできない。

大雨も暴風も地震もことごとく唯心の所現であり、業の流転作用でありますから、観音妙智力、すなわち光明思想によって解脱してしまうことができるのであります。

それが理論だけならばなんにもならないのでありますけれども、理論だけでなしに、かくのごとくこれを多くの誌友によって実証させるのが生長の家であります。

観音を念じるというのにはただ観音さんどうぞ助けてくださいということではない。

観自在のその大自在の生命とわが生命と一つであるということを知ることなのであります。

自分が観世音であり、自分が如来であり、自分が神と一体であると知る。

そして環境はただこの自在の生命が念(おも)いによって自由に仮作(けさ)した世界であると知る。

この大自覚を得て自由に環境を征服しうるようになった時、われわれははじめて「人格の自由」というものを得るのであります。

この時「人格の自由」は単なる抽象でも理論でもなく、そのまま「実践」となるのであります。

物的環境がどうあろうともそのままで自分が自由の主体であるということがわかり、欲するとおりに環境が光明化されるといたしますと、もう戦争や直接行動などやっている必要もなくなるのであります。

時間がまいりましたからこれで失礼いたします。

―――昭和十年八月十一日大阪中央公会堂における講演――― より抜粋

60a hope:2016/04/19(火) 09:27:59 ID:vdNCBnG6

>>59 a hope所感)

「生長の家」のみなさま

<<大雨も暴風も地震もことごとく唯心の所現であり、業の流転作用でありますから、観音妙智力、すなわち光明思想によって解脱してしまうことができるのであります。>>

これが、「生長の家」の開祖、谷口雅春先生を通して下された「生長の家大神」のご教示です。

やはり、わたしたち「生長の家」の信仰者がすべきことは、光明思想の伝道で、
人々に「わたしたちは常に大自在の生命(神)と一体である」ということを知らせることなのですね。

そうすれば、

<<物的環境がどうあろうともそのままで自分が自由の主体であるということがわかり、欲するとおりに環境が光明化されるといたしますと、もう戦争や直接行動などやっている必要もなくなるのであります。>>

とあります。

まず人々の「心」を光明化すること、それがなにより重要なのですね。

61るん吉:2016/04/19(火) 23:04:55 ID:Jo.00maY
>>、ただただ〝祈る〝 こと。


〜しますように・・みたいな祈りは・・だめですよね・・

どういう風に祈ったら良いのか・・

既に完全円満な世界(被災された方々の実相を  地震で被災されてしまった地の実相を・・(信じて)感謝したら良いでしょうか・・?

62a hope:2016/04/20(水) 05:13:17 ID:vdNCBnG6

>>61るん吉さま

わたしも、「〜しますように」といい祈りは、「〜していない(不完全)」な状態を認めてしまっている祈りなので、よくないと思います。

以前、わたしも現象的に不幸な状態にある方々に対して、どのような祈りをしていいのか分からなかった時があります。

その問題は、宇治の練成で経験した「祈り合いの神想観」の実修や復興Gさまのご指導で解決しました。

以前の投稿を見つけましたので、ご参考にしてください。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4265

祈りの前に、「同悲の心(愛)をもつ」ことが大切なのだと思います。

63a hope:2016/04/21(木) 09:21:32 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p129 後から7行目〜

われわれの環境は普通それを自分の心とはまったく関係のない、自分の外界の出来事のように思っているのでありますけれども、その環境を打ち破る方法はわが内にあるのであります。

環境にいかにぶつかってゆこうとも、それを外部に厳存(げんぞん)する障礙であると思っているかぎり本当の自由は得られないのであります。

われわれの絶対自由を得る道は、ただ自分たちの実相を知ること以外にないのです。

われわれの本当の相はこの眼に見えるところの肉体ではない、われわれの実相は絶対的存在である。

絶対的存在なる自己が、絶対的環境の中に生活している。

我れ絶対者と一つである。

我れ宇宙と一つであり、我れ動けば宇宙動く。

この自覚を得たとき本当にわれわれは自由を得る。

この絶対自由の主体こそ本当の自分なのだ。

その実相を知らないかぎり、いかなる方法、いかなる実際運動をもってこの社会、この環境をぶち壊してさえも真の自由は得られないのであります。

環境を現実的存在――リアルな抵抗であると観るかぎり、それはリアルな障礙を認めるのであるから決してわれわれは絶対自由は得られない、かくのごときかぎり、左翼思想家がかくも望んだところの人間の自由というものは確保せられないのであります。


ところが、本来絶対的存在であるところの自分、無形の自分、本質において神と同体の、キリスト、釈迦と同体の自分、すでにすべてのものを完(まった)くそなえているところの自分を自覚する時には、忽然として自分の環境、外界の物質、固い、固定した、動かし難い、打ち壊し難い存在と思われていたところの障害は、それはすべて我が心の影の世界であったと分かるのであります。

外界はすべて自分の心の影であって、それはさながら蜃気楼のような世界である。

心に思ったとおりに現れる世界であるということが分かってくる。


この時、我れ宇宙に立って、心の利器をつかんで自由自在にふり廻すとき、環境も困難も自由自在になってくる。

必要に応じて雲を招び、雷霆(らいてい)を駆使し、いっさいの運命を飴のように捻じ曲げることができることが解ってくるのであります。

これが「生長の家」の説く根本真理であります。

64a hope:2016/04/21(木) 09:23:06 ID:xVBwxesw

>>63 a hope所感)

わたしは、この谷口雅春先生のお悟りの部分を拝読していると、超能力者がさわらずにスプーンを曲げたり、
まだ走っていない競馬の結果を当てたりするようなイメージが湧いてきます。

そういえば、聖経「天使の言葉」にも、

________________

汝ら近頃の心霊科学の実験を見しことなきや。
被実験者は椅子に緊縛せられて一毫もその肉体は動く能わずして、
尚、凝念(こころ)の力によりて
或は机を空中に浮揚せしめ、
或は手風琴を空中に飛翔せしめ、
或は空中のメガホーンより声を出ださしめ、
或は空中より手風琴を奏せしむることを得、
これ体なくして物に触れ物を動かしうる実例なり。

___________________

という部分があります。

まずは、いわゆる一般的に「超能力」と呼ばれているような力とか「超常現象」と言われることが信じられないと、
雅春先生が大悟された「生長の家」の根本真理を同じように悟ることはできないのかもしれません。

この「超能力」のことを生長の家の教えでは、「無限能力」といっていますね!

66a hope:2016/04/23(土) 08:34:23 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p140 10行目〜

「生長の家」の教えはどういう教えかといいますと、一言でいえば「人間はみんな神の子である」と、こういう教えなのであります。

『法華経』のなかに常不軽菩薩がすべての人間に向かって合掌礼拝して「あなたは仏になられる方です」といって敬礼されたということがありますが、すべての人に向かって合掌敬礼して、あなたは仏になられる方ですといって拝む働きが、「生長の家」の働きなのであります。

すべての人に向かってあなたは本来仏なのです。すでに神の子であるのです。それゆえに恨み、憎み、怒り、といったような、あらゆる罪は本来ないのです、ということを知らせる――これが生長の家が、全人類を光明化するためにやっている運動なのであります。

ところが『法華経』の中に、すべての人を仏として拝む常不軽菩薩をばあいつは何をいっているのだ、気狂い野郎奴(やろうめ)といって、杖で打擲(ちょうちゃく)したり石をなげつけたものがあったということが経文に書いてある。

しかしながら、誰が何といおうとも、すべての人を神と見、仏と見て合掌して拝んだ常不軽菩薩こそは今釈迦牟尼仏となってここにいると釈迦は説いている。

この釈迦牟尼仏の働き、常不軽菩薩の働き、―――すなわちすべての人は神であり仏であって、罪は本来ないものである。

光の出現によってすべての暗黒が消え去るごとく、すべての罪は「生長の家」の出現によって消え去った、とこう説くのが「生長の家」なのであります。

この間、読売新聞の宗教欄に、武本喜代造という牧師さんが、「贖罪信仰の実際化」と題する稿(こう)を寄せられて、その中に光明思想についてちょっと言及しておられました。

それを読んでみますと、宗教によって病気が治るということは、あるべきことだといってある程度まで肯定しておられるのでありますが、「この頃『人間本来罪も汚れもない』という説があるがそれは受け取れぬ。そんなら強姦しても、その人間は罪がないというのか。そんな馬鹿なことはありえない」といったようなことを書いておられましたが、わたしはそれを読んで、ああいう人は神様の創造ったこの世界に本当に罪がないということが分からない憐れな人だと思わされたのでありました。

われわれがその人の実相を――本来神の子であり、罪なき者でるという本当の姿を――認めた時、その人は強姦することも、泥棒することも、いかなる悪を犯すことも自然にできなくなってしまう。

三界は唯心の所現でありますから、「罪あり」と認めたなら罪が現われ、「罪無し」と認めたら罪が消える。

泥棒や、強姦をするものは、人間とはそういう罪を犯すのがあたりまえの本来「罪アル者」だと思っているものなのです。(拍手起こる)
(つづく)

67a hope:2016/04/23(土) 08:37:33 ID:vdNCBnG6
>>66 つづき)
ところが、自分は神様の子であり、生まれつき正しい聖(きよ)い者だと悟ったら、しぜんにそんな罪を犯さなくなる。

つまり人間の実相はすでに神であり、仏である。

それを認める時に、その人にしぜんに実相の善さが現れてきて、いくら罪を犯そうとしても犯しえない。

いくら左翼思想に走って実際運動に自分を投じようとしても、転向せざるをえなくなるのです。

「生長の家」では、今まで努力して止めようと思っていてもやまらなかった酒や煙草も、しぜんにやまる。

これはしぜんに実相が現れてくるのであって、今までの努力してやめようと思ったのは、悪の存在を認めて、努力によってこれを抑えよう、抑えようとしていたのでありますが、それは最初から悪の存在を、罪の存在を認めてかかるからして、努力しても、その罪が、その悪がやまなかったのです。

ところが、そういう悪の存在をみないで、ただ、人間は神の子で無限に善いもので、本来罪なしと知れば、自然に悪は消え、善が強い力をもってでてくるのであります。(拍手)

これがわれらの光明思想のもつ権威なのであります。

われわれ、自分は神であり、仏である、罪はないと知る時、罪は自然に消えてしまうのです。

罪は本来ないから消滅するのです。

本来有るものならば消え失せることはない。

ないものをあるあると思っているから、あたかもあるがごとくに外界に現れてくるのである。

すべての人間はみんな神の子であり仏の子であって、罪は本来ないと認める時、世界中の人が神の子になり、これを知らされた時にすべての人が釈迦になり、キリストになる。

キリストの再臨ということは、自分に宿る神、仏なるものを見ないで、神は在(いま)さぬ、自分は罪深いものだとして自分の内に宿る神性を罪の観念で縛りつけてハリツケにつけていた、そのしばりを解き放って、本来罪のない神性、仏性を自覚するということであります。

この人間本然の善さをすべての人に知らせること、これこそ人間の本当の教育であります。

この人間の神性、仏性を現わすという真実唯一の教育が「生長の家」の教育法なのです。

68a hope:2016/04/23(土) 08:38:34 ID:vdNCBnG6

>>66 67 a hope まとめ)

○「生長の家」の教え ―― 「人間はみんな神の子である」

○「生長の家」の働き ―― すべての人に向かって合掌敬礼して、あなたは仏(神)になられる方ですといって拝む働き(実相礼拝)

○「生長の家」出現の意義 ―― すべての罪を消しさること(人類無罪宣言)

○光明思想のもつ権威 ―― 悪の存在をみないで、ただ、人間は神の子で無限に善いもので、本来罪なしと知ることで、自然に悪が消え、善が強い力をもってでてくること

○「生長の家」の教育法 ―― 人間本然の善さをすべての人に知らせ、人間の神性・仏性を現わすという真実唯一の教育

69a hope:2016/04/23(土) 08:41:07 ID:xVBwxesw

>>66 67 a hope所感)

この文章が掲載されている第五章は、昭和十年に行われた雅春先生の日比谷公会堂での講演記録ですが、
そこには「生長の家」の教えに触れたことで、今までの人生観をガラリと転向され幸せに暮らされている方々の体験談もたくさん紹介されています。

「人間神の子」の「生長の家」の教えによって、人々が明るくなり、社会が明るくなり、日本が元気になり、世界が平和になる!

この「人類光明化」の流れをつくることが、雅春先生のご悲願だったのでしょうね。

70a hope:2016/04/26(火) 19:05:05 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p156 10行目〜

光明思想の普及事業を世の中の弱者に救恤(きゅうじゅつ)を与える慈善事業のように思っている人があるのはまちがいであります。

光明思想というものは、人生をそういう救済者と被救済者との対立の世界には見ていないのであります。

救われねばならぬような弱者なる人間は、神の造りたまえるこの世に本来存在しないという思想が、光明思想であります。

人間は本来神の子であるというのが光明思想であります。

(略)

……誌友が少なかったころは執筆のかたわら、いちいちわたしが返事を書きましたが、このころはあまりに多数で時間がないので自身で返事が書けないというお断りを差し上げると、それでは「人間は無限能力」だという貴様の根本思想に背反しているではないかというような手酷いお叱り方であります。

けれどもこういうお叱りをせられますのは、光明思想を皆見当ちがいしていられるのであります。

わたしが答える能力がないのではない。

わたしは常に書籍となって答えている。

『生命の實相』全集二十巻を本当にお読みになれば、どんな場合にも応用できる、それに対する答えは書いてあるのです。

それを読まないで、問いを発せられるのでは、これはわたしに答える能力がないのではなく、答えているのに聞く能力がないのであります。

71a hope:2016/04/26(火) 19:07:44 ID:xVBwxesw

>>70 a hope所感)

世間では「生長の家の教え(雅春先生の教え)」はインチキであるとか、古くて現代には適さないだとか、
そんな風に言ったり考えたりしている方々もいらっしゃると思います。

でも、そういう方々は、本当に「生命の實相」を何度も繰り返して拝読されているのでしょうか・・・?

<<『生命の實相』全集二十巻を本当にお読みになれば、どんな場合にも応用できる、それに対する答えは書いてあるのです。
それを読まないで、問いを発せられるのでは、これはわたしに答える能力がないのではなく、答えているのに聞く能力がないのであります。>>

谷口雅春先生は、「生命の實相」ですべてをお伝えしてくださっているとおっしゃっています。

ですから、本来の「生長の家の教え」を否定する人とは、谷口雅春先生に言わせれば、<<聞く能力のない人>>ということになってしまいますね…・


わたしたちには谷口雅春先生のお悟りのすべてが詰まった「聖典」が簡単に手届くところにあります。

こんなに有難いことはありませんね!  感謝 合掌。

72るん吉:2016/04/27(水) 19:39:43 ID:Jo.00maY
>>62 a hopeさま
>>祈りの前に、「同悲の心(愛)をもつ」ことが大切なのだと思います


はい 本当にそうですね。アドバイスをありがとうございます。

73るん吉:2016/04/27(水) 19:44:53 ID:Jo.00maY
>>68
a hope さま

>>68 素晴らしいです。有難いです!

74a hope:2016/04/28(木) 07:24:37 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第25巻 p171 後から4行目〜

三界は唯心の所現であり、業の流転でありますから、その根本原因たる「心」を治さないでいて「不幸」を取り除こうとすると、それが他の形の「不幸」になるのは当然であります。

病気は治ったが貧乏になったという人がありますが、児童の「成績不良」というものも業の所現でありますから、「成績不良」ばかりを治そうとしてやたらに学業を詰め込むと、家庭教師や参考書代に金を払って「成績不良」という「業」の現われは消える代わりに「貧乏」という「業」の現われとなって出るか、あまり詰め込んだり、入学試験に恐怖した結果、児童の健康を損ねて、成績不良が「病気」という業の現われに転換して出て来たりするのであります。

成績不良―病気―貧乏―こういうふうに一つの業の現われは、動悸を与えて流転せしめると形は変化して出るけれども、内容においては、依然としてわれらにとって「不幸」になるものとなって、その人に潜在せる業が形を表わすのであります。

そう言う人が、何か事業に成功して金持ちにでもなるとしますと、子供が不良青年になってみたりして、業が循環流転して、その不幸は尽くるところをしらないのであります。

(略)

苦しい業の顕われは、その一つを避けようとして攻撃すると、このように必ず他の形に業が転じて依然としてわれわれの苦しみは尽きないのであります。


こんなことではわれわれは永遠に業の苦縛(くばく)から脱することはできないのであります。

ではこの業の苦縛から脱する道はないのでしょうか?

否、否、それはないことはありません。

自己内在の「神の子」を悟ることであります。

自己内在の「神の子」を知ったときに「神の子」はすでにいっさいの業が贖(あがな)われていますがゆえに、もうそのような業の流転の世界に這入ることはないのであります。

75a hope:2016/04/28(木) 07:26:46 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p173 後から5行目〜

ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界にでることができるのであります。

第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。

彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、すでにそれは苦しみではないのであります。

―――
盤根錯節は「生命」がたわむれるための一つの運動具である。
諸君はスキーを多難だと言うか。
登山を不幸だと言うか。
ゴルフを艱難だと言うか。
競泳を悲惨だと言うか。
いかなる苦しみも戯(たわむ)れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いてくる。(『光明の生活法』より)
―――

とあるように、その人にとっては人生のいっさいが、平凡な茶判事も困難も苦痛もいっさいが光明化してしまうのであります。

人生のいっさいが光明を点じ、希望を点じ、興味を点ずるのは「汝、神の子なり」のこの中心教育よりくるのであります。

76a hope:2016/04/28(木) 07:42:44 ID:xVBwxesw

>>75 a hope 所感)

<<ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界にでることができるのであります。>>

『業苦を横超する世界』っていったいどんな世界なんでしょうか?

それは、
<<第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。
彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、すでにそれは苦しみではないのであります。>>

すごいですね。

困難…物事をするのが非常にむずかしいこと。また、そのさま。難儀。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B0%E9%9B%A3-506491#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

とありました。

現象的にはひじょうに難しい状態でっても、それを困難として感じないような心境ってことなのだと思います。

う〜ん、そうか・・・(;’∀’)

ホントに深い教えですね〜「生長の家の教え」って・・・(@_@)

77a hope:2016/05/01(日) 08:37:49 ID:xVBwxesw

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第2回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年5月1日〜5月31日まで
テキスト 「生命の實相」第26巻 教育実践篇 下
内容   人間を作る法〈下〉

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

78a hope:2016/05/01(日) 08:38:48 ID:xVBwxesw

みなさま おはようございます。

5月になりましたので、第2回web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

79a hope:2016/05/01(日) 08:42:12 ID:vdNCBnG6

つづきまして、「生命の實相」第26巻より〝はしがき〝 を謹写させていただきます。


             はしがき


児童に優秀健康児になってもらいたいのは、両親の切なる願いである。

しかしその願いはなかなか完全には叶えられないのが現状である。

学校は鮨詰(すしづめ)教室であるし、日教組の先生がたは教育者としての聖職を忘れてみずから、〝労働者〝 と称しており、教師の真似をして、学業をストライキする生徒も出てくる。

「なぜ先生の言うことをきかないのか」と教師が生徒をなじると、「先生だって文部省の言うことをきかないじゃないか」と平然と答える生徒がザラに出てきたという。

この調子では、子供はなかなか両親の言うことをきかない。

群馬県のある女子高等学校ではその卒業式の答辞に「子供は親のものではありません。わたしたちは親のものではありません。したがって親に孝養を尽す義務も責任もないことをハッキリ知らせていただきました。これがこの学校で四年間教育を受けた収穫であります。ありがとうございます」と感謝したという事実も伝えらている。


こういう危機に立たされた日本の教育はどこに理想をもとめ、いかに教育技術を用うべきであろうか。

愛児をもつ父親も母親もとまどうほかはないであろう。

アメリカも日本も不良児の出現に困っているのである。

アメリカ式教育法の輸入だけではどうにもならないのが現状である。

しかしソ連や中共の教育のように国家がその社会主義目的のために教育を強制することも、戦争の反動で世界中でいちばん自由奔放にながれていっさいの統制を拒絶している日本の教育界では実現の見込みがないのである。

そのようなときに本当に効果をあらわすのは、本書の説く、児童の「実相を観る教育」である。
(つづく)

80a hope:2016/05/01(日) 08:43:10 ID:vdNCBnG6
(つづき)
「実相」とは児童に宿る「生命の本質の完全さ」である。

その人の「実相」を観ずれば、その人の完全さがあらわれるのである。

わたしはかつて、ドストエフスキーの『白痴(はくち)』の映画化を観たことがあったが、無貞操無道徳んお女主人公ナスターシャに公爵ムイシキンが面接して、「あなたは完全です」と言ってじっと彼女を見つめると、彼女に宿る実相の完全さがあらわれて、ムイシキン公爵の前では持ち前の〝あばずれ〝 の姿が消えてしまう。

そして、公爵の純情な求婚にもかかわらず「このような、〝あばずれ〝 が純情な公爵の生涯を汚してはならない」と、かえって雪の中を馬車で、公爵の前から姿を消して行くのである。

それは、「実相を観ずれば、いっさいの悪が面前から消えてゆく」という真理の象徴であるといえるのである。

こうしたわたしたちの教育法は関東医療少年院で採用されて、わたしたちの同志が毎月関東医療少年院へ往って、そこに収容されている少年たちに講話したりして成果をあげているし、わたしたちの練成道場では少年院から練成に送られてくる少年で、実に道徳性の高い立派な人間に更生する実例を出しているので悦ばれているのである。

いくぶん不良じみていて、教師や父兄から持てあまされているような少年ですらも、この教育方法によれば、このように効果があるのであるから、読者の家底にいられるような、普通の自動であったら、すぐに優良児になること疑いないのである。

本書は、このような教育法の立場から、近ごろ問題になっている道徳教育のやり方をはじめとして、早教育、芸術教育、宗教教育、その他、書道、茶道、華道等の技術の習得、修練、その向上などについて、その道の専門家の口をとおして、実際の対談形式をとって説かしめたものである。

卒然として本書からお読みになって、なおいっそう深く、この素晴らしい「人間の実相観入法」について知りたくなった方は、『生命の實相』第一巻、第二巻に収録されてある総説篇、実相篇、光明篇等(頭注版および携帯版では第一巻=第四巻に収録)を読んで、「人間の実相の完全さ」というものについての理解を深められれば、人生百般の問題ついて、自由自在の円熟境に達せられることも不可能ではないと信ずるものである。

昭和三十九年 十一月 十日           著者しるす

81a hope:2016/05/02(月) 21:09:56 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p3 後から4行目〜

さて、しばらくぶりで皆様のお顔を拝しまして、何をお話しようかと改まりますと、何もお話することもないのであります。

要するに言うことなしにただ嬉しいというのが、われわれの生命の実相であります。

生命の実相というものは説こうと思って説けるものではない、ただ、ありがたい嬉しいものであります。

ですから、われわれが自分の生命の実相を悟りまして、それを生活に生きるということになりますと、ただもう生活が嬉しく明るく、家庭が円満に、見る物皆楽しくなってくるのであります。

ではどんなに生活が変わってくるかといいますと、どんなにも変わってこないのです。

やはり朝起きると顔を洗うのであります。(笑声)

そうして神様を拝む習慣の人は拝まれるでしょうし、あるいはご先祖を拝む習慣の人はご先祖を拝まれるでありましょうし、そしてその次に御飯をおあがりになる。

やがて出勤する人は出勤する。

外形を見ていますと生命の実相を悟っても悟らなくても同じことをなさるのです。

いっこう変わりがない。

変わりがないけれども変わりがあるのがこれが悟りであります。

変わりがあるのはまだ悟りが足りないのであります。

よく自動車にでも轢かれて、轢かれたけれども怪我しなかったからありがたいといって、これは「生長の家」のお蔭であるといって、わたしにお礼に来られる人がありますけれども、それはなるほど轢かれて怪我をしたり死んだりするよりはありがたいにちがいありませんけれども惹かれない人はもういっそうありがたいのです。

ところが「轢かれたけれども怪我をしませんでした」といってお礼を言う人はあっても、「先生、わたしは自動車に轢かれませんでした。ありがとうございます。」と言う人はほとんどいないのであります。

本当の悟りとは何事もないことがそのままそれが本当にありがたいということが分かるのでなければなりません。

悟りというものはなんの変哲もない、なんの変哲もないものが悟りなのであります。

何かあると思うのはまだ悟っていないのであります。

82a hope:2016/05/02(月) 21:12:10 ID:xVBwxesw

(a hope所感)

家で、家族と一緒に温かい御飯が食べられること。
それがなによりの幸せなんですね。

でもそう感じても、次の日にはまた、不平不満の感情が湧き上がってきてしまう・・・。

「生命の實相」が手放せない・・・わたしです(/ω\)

84a hope:2016/05/05(木) 06:49:25 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p7 後から4行目〜

生命の実相の悟りというものは、常住坐臥、現象的に何がなくても嬉しい、ありがたい、なんでもないうちになんともいえない、爽やかな一種の喜びが続いているものであります。

この爽やかなありがたさというものが本当に体得でき時に、家庭はむろん光明化しますし、病気も治るし、運命も境遇もよくなるのであります。

これは副産物でありまして、病気が治らなければありがたくないというような悟りではまだ本当の悟りでありませんから病気などもかえって治りにくいのであります。

病気が治ってありがたいのなら、誰でも皆さんは、ここにおられる方々は、百歳くらいまでは長生きせられるかもしれませんけれども、しまいには死んでしまう。

その臨終の時に「ありがたくない」と思って怨めしい思いでしんでゆかねばなりません。

そんなことではせっかく今まで救われておったと思っておっても、それはウソで最後の土壇場で、今までの悟りはウソであったという事実を暴露し、結局、生命の実相の救いはその人にはなんの役にも立たなかったということになるのであります。

85a hope:2016/05/05(木) 06:51:13 ID:xVBwxesw

>>84 a hope 所感)

わたしが数年前、一番最初にこの部分を拝読した時は赤線は引きましたが、
その文章の内容の深さには気づかなかったのではないかと思います。

本当に「生命の実相」を悟っているか、悟っていないか・・・

それは臨終の時にすべてわかってしまうのですね。

86るん吉:2016/05/07(土) 08:40:53 ID:qSZ.KlGM
a hopeさま

>>本当に「生命の実相」を悟っているか、悟っていないか・・・それは臨終の時にすべてわかってしまうのですね。

自分は、今の段階で解ってます・・・・


まだまだ悟ってない。と・・全然かな・・て。

困ったことが何にもなかったら、「神の子なんだありがたい。」ってなるけど

でも生きてたらどうしても色々なことが有るし、その時ですね。その時にほんとに生長の家の真理を悟ってるかが解るんです。

絶対境地かなんかに入ってたら、また違うのかなぁ。とも思うのですけど・・

87a hope:2016/05/07(土) 16:28:16 ID:vdNCBnG6

>>86 るん吉さま

貴重なご意見をありがとうございます。

わたしも、理屈では「物質なし」や「神の子」は大分わかっているんですが、
まだまだ「実相を悟りました。」といえるような状態ではありません。


困難を乗り越えて「悟った!」と思っても、またちがう困難がやってきて、それを乗り越えたとき、また「悟った!」と思う、
そしてまたあらたな困難がやって来て・・・ときどきわたしの人生は、そんなことが永遠に続くのではないかとさえ思ってしまいます。

でも、「人生は魂の学校である」というのも「生長の家」の教えですから、
わたしたちは困難を乗り越えるたびに少しずつ生長していくんですよね。

そして、あるとき突然 「物質はない! 肉体もない! 心もない!」 「あるのは実相だけだ!!!」
って、ドーンって悟るのかな?

るん吉さんのいう、絶対境地ってそういう状態?

いずれにしても、自分の臨終の時に「あーありがたい人生だった」って思える、そんな人生を送りたいですね!

88a hope:2016/05/10(火) 07:00:11 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p25 後から4行目〜

実際、勉強のできない、成績の悪い子を、「勉強のできる、成績の良い子だ」と信頼して思えといっても、そんなことはおもえませんといわれる人がたくさんあります。

それは思えないのがあたりまえなのであります。

それは五官の眼でその子の現象を見ているからであります。

しかし、五官は「信念の反影」を見るにすぎませんから、「できの悪い子だ」と信じているかぎりは、五官の眼で見ているかぎりはできが悪いのは当然です。

そんな時には五官の目を閉じて合掌し、そうして心を鎮めて相手の実相を観るようにすればよいのです。

良人の場合も子供の場合でも同じことです。

子供の場合には「自家(うち)の子供は神の子であって自由にしておいても勉強するのである。人間は勉強が楽しいのであるから、親が心配しなくても勉強するのがあたりまえであるから勉強する」と、こういう意味の言葉を静かに念ずるのであります。

これが「神想観」の応用法であります。

神想観の方法は『生命の實相』第四巻(頭注版・携帯版では八巻)または『詳説神想観』『光明の健康法』という本に発表しておきました。


『法華経』に、常不軽菩薩が、どんな人を見てもみんな仏の子であるとしておがんだということが書いてあります。

この行持(ぎょうじ)を子供に応用すれば子供がよくなり、この行持を良人に応用すれば良人もよくなり、この行持を姑(しゅうとめ)に応用すれば姑がよくなり、家庭が光明化するのであります。

どうぞ皆さん、今後も常不軽菩薩のように相手の実相を拝んで生活せられんことを希望いたします。

89a hope:2016/05/10(火) 07:01:42 ID:xVBwxesw

>>88 a hope所感)

あらためて気づきましたが、「神想観」とは、「実相」を礼拝することだったのですね。
頭ではわかっていることが、実感としてわかるようになるには、やっぱり聖典を拝読し続けるしかありません。

90a hope:2016/05/10(火) 07:15:01 ID:vdNCBnG6

『「生長の家」の教義について議論する』板>>49にわたしの「今の教え」に関する疑問を書きました。
みなさまのご意見をそちらでぜひお聞かせください!

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/49

91a hope:2016/05/14(土) 07:47:28 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p44 7行目〜

その翌日から、一歩も外へ出なかったわたしが早朝から起きて散歩に出かけた、すると、これはまたどうしたことか。

空、大地、小鳥、わたしの目にふれるすべての物が、光り輝いているではないか。

なんという美しさだろう。

わたしの耳にふれるすべての音は、快い諧調を保っている。

わたしの歩いている――武蔵野の小さな一隅――周囲で畑に立つ人、歩く人、すべてが光をはなつ立派な存在ではないか。

わたしは一時間近くも歩き廻った。


わたしは一変した。


今までほとんど床(とこ)についていたものが、わずかの午睡のみにとどまった。

あまり急な変わり方なので、母に嬉しい半面にいくらかの不安があったらしく少しは床に着いたらどうだとまでいう。

これまで、滋養剤と薬を浴びるほど服(の)んでいたのを、すっかり止めてしまう。

毎日必ず体の苦痛を訴えたり、不平を言う必要がなくなった。

食事は与えられたものを全部食べる。

発病以来四カ月半不眠症で悩んでいたのが、眠ろうと思えば、いつどこでもねられるし、起きようと思えばいつでも目が覚める。


人に対しても真の親しみを感じる。

何かの機会があれば、なぐりつけてやろうと思っていた人を連想すると、その人の長所が頭に浮かんできて、逢うのすら厭(いや)であったのに、急に話しかけたくなる。

どんな人に話かけられても、どんな人が来ても前とはまったく異なった喜びを感ずる。

92a hope:2016/05/14(土) 07:49:36 ID:vdNCBnG6

>>91 a hope所感)

これは、当時美術学校の画学生であった、小林正氏のお悟りの体験談「光を観て」p39〜からの抜粋文ですが、
あらゆる手段をつくしてもまったく効果がなかった病状が、服部仁郎先生に面接するだけで、
全快してしまいったという体験談の後半部分からの抜粋です。

人が「生命の実相」を悟ると、目の前にパラダイスが現れるのですね\(^o^)/

93a hope:2016/05/16(月) 12:24:59 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p81 後から7行目〜

・・・たとえば、わたしが講演していて、「わたしが言いたいのは、ここに生命の実相があるのだ」と、「これが生きとおしの生命である」と自分自身の身体を指さしていう。

するとそれを聴いていた人の病気が治ることがある。

これはその意味不明な言葉のうちに、その言葉を媒介として生命の骨髄が伝えられるのです。

むろんわたしのしゃべることはみな『生命の實相』に完全に書いてある。

『生命の實相』を読んだらいいのだ、こっちでしゃべらなくてもいいはずです。

だけれども、実際にこれがこうだと、ここがいいのだと、「ここ」というでしょう。

この言葉の響きの中にですね、達人が言葉に出して教えてくれたらそれがわかるのですよ。

それが先輩師匠のなすべきところであって、ここをこうしなさいよ、こうしなさいよ、こうですよ、とそれの導きがあると、それは実相の響きの鐘がゴーンと鳴ると一方潜在していた鐘の響きが共鳴の原理によって、ゴーンと鳴るのと同様である。

先覚者が側(そば)にいて指導して芸道の悟りをゴーンと撞(つ)き鳴らさなくても自分で発見する人もありますけれども、それは極めて稀(まれ)であって天才なんですよ。

それがもっと楽に天才を引き出すような方法――そこに教育の教育たる所以(ゆえん)がある、先覚の後進を導くことの価値がある。

94a hope:2016/05/16(月) 12:26:51 ID:vdNCBnG6

>>93 a hope所感)

第三章は「芸術教育の神髄を語る」というタイトルがついていて、彫刻家の山根八春氏、服部仁郎氏はじめ、
音楽家の方、軍人の方々、校長先生を始めとする教育家の方々が主に芸術教育について話し合われています。

そして上の謹写部分では雅春先生が、芸術教育の伝授の「コツ」を「生命の実相」の悟りに例えられて説明されています。

子供の習い事なんかを見ていても、良い先生に教えていただけるととても上達がはやいですが、
あまり評判のよくない先生だと上達がおそいばかりでなく、下手をするとその習い事自体への興味を失わせてしまうこともあります。

芸術も宗教も、本物を悟られた本物の達人(先覚者)につくことがとても重要だと思います。

谷口雅春先生は本物でした。

雅春先生が現象界にいらっしゃらない今、わたしたちはその谷口雅春先生の残された聖典を拝読することで、
本物の悟りを得ることが可能なのだと思います。

95a hope:2016/05/17(火) 08:34:56 ID:xVBwxesw

「生命の實相」26巻 p91 後から7行目〜

照井――ここで問題になることですけれども、いつか先生に申上げようと思うておったのですが、神想観の時に口と鼻とここ(眉間)から霊気(いき)が出るということですね。

あれを谷口先生および「生長の家」の方々に申し上げたいと思っておりましたが、わたしがかつて外国でゴロゴロしながら声のことを勉強していながら覚えたことですけれども、声の一番上の出し方では声が眉間からでるのです。

解剖学的に申しますとここに額の骨が下部に来て二枚になりまして頭(眉間)にきて分かれる、横断面的にみるとくるみの内部くらいのうつろがある。

眼と眼の間で、少し眉寄りの間の辺から、それに声がうまいこと共鳴してくれなければ本当の声が出ないのです。

それは谷口先生が合掌の時にここから霊気(いき)が出ることをお書きになったのを見ましたが、それでここが声のほんとの出所(でどころ)だということを感じさせられたのです。

ここからきたものが人に入るのです。(発声の見本を示さる、眉間から声がでるように聞こえる)

これが実に楽なんです。

これを練習していますと、体にかまわずに声ばかり出ているような感じになるのです。

そうでない出し方は、どうしても肉体に執(とら)われ、苦しいですから。

それでほんとの声の出るこの眉間の空洞、これがなんのために存在しているか十八世紀の末葉(まつよう)まではわからなかったのです。

声楽の発声法の研究がだんだん進歩するにつれてこの眉間の空洞が高音を出すために存在しているということを発見したのです。

それが偶然にもこの神想観の時にここから霊気(れいき)が出るのと符合するので、心息の神秘性といったようなことに、非常に感激しているしだいなのです。

生きの調節のしかたが合掌と同じなんです。

96a hope:2016/05/17(火) 08:37:01 ID:vdNCBnG6

>>95 a hope所感)

わたしはつい最近まであるコーラスグループに所属していて、ソプラノを担当していました。
(現在は事情によりお休みしていますが・・・)。

最初のころは、アヴェマリアなどの高音を出すときに、必ず喉を傷めていましたが、
ある時どんなに高音をだしても、まったく喉に負担がかからない方法を見つけました。

自分の声なのに、自分の身体からでていないようなそんな発声です。

わたしはコーラスは初心者の部類なので、その発声がうまくできるときもあればできないときもありましたが、
上手に発声できているときは、必ず、先生から褒められました。

今、この上の謹写部分を拝読して、「そういうことだったのか・・・」とすっきり納得しました(^◇^)

97a hope:2016/05/17(火) 08:41:05 ID:vdNCBnG6
>>95 訂正
生きの調節 →息の調節

98a hope:2016/05/21(土) 12:29:54 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p106 3行目〜

「苦労をありがたく受けてゆける処世のコツがわかる」

栗原――今日は皆さんからいろいろ有益な話をお聞きしましたが、要するにわたしは、苦労というものは人間を研(みが)くものであって、それは何百冊の本を読んだよりもよけいに自分を研いてくれるような気がする。

しかしわたしはこの世に苦労があると思うていたがゆえに、苦労を引き受けていたような観がある。

そうして苦しみどおしで三十七歳の今日まで過ごしてきた。

過去の話は長いが十六歳の時から家を飛び出し、流浪し、苦学し、甚(はなな)だしい時には、二週間近くもごはんをたべられずにいたこもあり、今から顧みればいささかトッピにも思えるが文房具屋に一円五十銭借金してそれが返せないため、一カ月半のあいだ真剣に死ぬことばかりを考えていたこともあった。

こうしたことがしらずしらずのうちに自分を研いてくれたような気がする。

いかなる名誉もこの苦々しい体験から得たところの心の磨きにはとうてい及ぶべくないような気がします。

こうした問題について、教えてくれる学校はないのです。

本当に渇(かわ)き飢えた生命、枯死せんとする生命を蘇らしてくれるところの、真から蘇らしてくれるところの学問というものはない。

それでわたしはずいぶんと無駄に生命を摺り減らしていたような気がするが、やっと生長の家の『生命の實相』がそれを救ってくれたわけなのですが、わたしは小学校から大学を通じてこの生命の教育が本当に心から望ましい。

苦労を不幸だと呪いながらする苦労と、苦労を自分を研いてくれる砥石だとありがたく受けてする苦労とはおのずから千里の隔たりがあり、生命の伸展の上にもたいへんな相違ができてくるわけです。

そうしたなら、生活苦も、就職苦もいっさいが解決されて、人生とはかくも美しく明るいものであるとの、光明一元の生活ができるんですがねえ……。


谷口――あまり時間が長くなりますから、この辺で閉会します。皆様ありがとうございました。

(昭和十年一月二十九日、生長の家本部座談室にて)

99a hope:2016/05/21(土) 12:31:17 ID:xVBwxesw

>>98 a hope所感)

この世の中に苦労や困難がなかったら、わたしたちは何が本当に大切で、なにが本当の幸福なのか考えないまま一生を終えるのかもしれません。

『生命の實相』を拝読し続けていると、本当のことがだんだんとわかってきますね。

100a hope:2016/05/23(月) 20:42:46 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p129 3行目〜

谷口・・・(略)・・・要するにこの宗教というものが、やはり、それを指導する師、家庭の親とか学校の先生とかというものが本当の自覚に入っていない場合には、同じ形式でやっても、お前は神も子であるといっても神とは何だかわからない。

ところが、実際に信じている指導者が、「あんたは神の子だ」とこう一言いえば本当に神の子であるということがわかってくるだろうと思うのです。

どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。

これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。

その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。

101a hope:2016/05/23(月) 20:43:55 ID:vdNCBnG6

>>100 a hope所感)

この第四章は、「宗教教育」がテーマの座談会の内容が紹介されています。
上に謹写した部分は、雅春先生のご発言の一部ですが、わたしはとても考えさせられる内容だと感じました。

とくに後半の、

<<どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。
これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。
その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。>>

という部分ですが、これを、仮にこの現象世界に具体的事実として現れた宗教団体「生長の家」にあてはめてみると、
その中心者は紛れもなく谷口雅春先生でした。

谷口雅春先生の人格に対して人々が集まり、大きな宗教団体となっていったんですよね・・・。

そう考えると、谷口雅春先生がご昇天されてからは、わたしたちはその中心的人格を失ってしまったわけですから、
現象の宗教団体「生長の家」が衰退していくのは当然のなり行きなのかもしれませんね。

102a hope:2016/05/26(木) 06:46:17 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p153 6行目〜

谷口――そこで下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。
宗派に偏した儀式も儀礼もいらないで、簡単に宗教的情操が養われる、十年間坐禅しても得られなかった悟りが得られてというような人がたくさんあります。
手前味噌のようですけれど。

103a hope:2016/05/26(木) 06:47:03 ID:vdNCBnG6

>>102 a hope 所感)

<<下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。>>

これは、谷口雅春先生のお言葉です。
そのために雅春先生は聖典『生命の實相』を残してくださったのですよね!

感謝 合掌。

104a hope:2016/05/26(木) 07:46:47 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p155 8行目〜

井上――いくら学者を呼んだって、宗教的情操ではなしに宗教学的情操ではだめです。
ちょっと情操といっても霊的にならなくちゃだめです。
いくら「物」を練ったってだめです。

谷口――人格的信仰的になってこなくちゃだめですね。

井上――やはり自己の霊を信じなければ。霊の実在を信ずることが最も根本ではないかと思う。
それをまあこれまでは死んだらそれきりという浅薄な考えでやっているのですから。

谷口――来世の存在のことで思い出しましたが、宗教的情操とは、個と全体との融合意識、神と自己との一体感というものであるとして、それが、ずっとこの座談の主題を貫いてまいりました。
これは縦に自己の本質を貫く真理です。
ところが、今、井上先生のお話で思い出しましたが、宗教的情操のもう一つ横の真理となるものは、三世を貫く因果の法則を信ずるということです。
つまり生長の家でいうと「三界は唯心の所現である」というこういう心にこういう結果がくるのであるとうことを信ずることによって初めてわれわれは本当に正しい生き方ができるので、過去現在未来を通じて作用(はたら)く因果の法則を知らす、現世さえ好き候(そうろう)に生きたら後はどうでもいいのだというのじゃ本当の宗教的生活ができない――。

井上――それはどうしてもできないです。

谷口――しかし、三世を貫く因果の法則があるといっても、議論だけで近代人に、そんな
宗教的信念をもたすことはできない。
それには、やはり心の変化によって、いかに肉体の病気や、境遇や、環境がよくなるかという実証を示す威力がなければならない。
生長の家では病気が治るのは病気そのものを治すためではない。
「三界は唯心の所現である」という宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆくためなのです。
……これで宗教的情操の「縦の真理」と「横の真理」がちょうど揃うわけですねぇ。
それではこれで閉会にいたしたいと思います。

105a hope:2016/05/26(木) 07:53:29 ID:xVBwxesw

>>104 a hope所感)

ここで井上氏と雅春先生は、指導者が人々に宗教的教育を施すときに、
『ただ単に「縦の真理」「横の真理」等の宗教的真理を議論だけで説くことは「宗教学的情操」教育であって「宗教的情操」教育ではないので、人々に宗教的信念をもたすことはできない』
というような内容を話し合われています。

そして、雅春先生は、

<<三世を貫く因果の法則があるといっても、議論だけで近代人に、そんな宗教的信念をもたすことはできない。それには、やはり心の変化によって、いかに肉体の病気や、境遇や、環境がよくなるかという実証を示す威力がなければならない。生長の家では病気が治るのは病気そのものを治すためではない。「三界は唯心の所現である」という宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆくためなのです。>>

と結論づけされています。

ここのところを拝読すると「生長の家」のいわゆる「奇跡の体験談」がいかに人々に宗教教育を施す(宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆく)上で重要であるかがわかります。

本当に人々を宗教的に感化するためには、指導者が理屈だけを捏ね回している「机上の空論」者であってはいけないということなのだと思いました。

(参考文献)
きじょう‐の‐くうろん〔キジヤウ‐〕【机上の空論】
頭の中だけで考え出した、実際には役に立たない理論や考え。

https://kotobank.jp/word/%E6%9C%BA%E4%B8%8A%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%AB%96-473791

106トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/05/26(木) 20:41:52 ID:IjaJpifQ
>>103

 この言葉は、極めて重要だと感じます。

 自分でまず本を読み、考えるぐらいの熱意がないと、本物にならないと思います。

107るん吉:2016/05/30(月) 10:35:22 ID:TWYtDbA.
a hopeさま
トキさま

<<下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。>>
<<自分でまず本を読み、考えるぐらいの熱意がないと、本物にならないと思います。>>


わたしも激しく賛同します。

(自分は)今まで根本真理で喜べてたのが、変な指導を受けてしまった結果、却ってわけがわからなくなり

めちゃくちゃになってしまったことがありましたもの。(*‘ω‘ *)ニャは

ちゃんとすごい本を残してくださってるのですものね。

108a hope:2016/05/30(月) 16:11:06 ID:vdNCBnG6

>>106 トキさま、>>107るん吉さま

ご賛同ありがとうございます。

結局、指導者に頼ってばかりいるということは、自分自身の無限力を信じず、
他に依存心を起こしているということですから、そういう意味でも本物を摑めないのだと思います。

自分自身の力を信じて自分の脚で起とうと決心した時、本当の協力者が出て来て助けてくれるような気がしています。

109a hope:2016/05/30(月) 16:14:12 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p184 6行目〜

本部員――叱り方にも、失意落胆させるような叱り方もありますし、激励する叱り方もありましょう。この頃光明寮の御指導の様子を拝見しましたが、時に鉄槌の教育を遊ばせしていらっしゃる。鉄槌(てっつい)的に生徒に迫っていらっしゃるのですね。

この間の「教育」の三月号にも谷口先生の「鉄槌の教育法」ということが載っておりましたですが、それで、今までにお書きになられたことと、この頃お書きになられたことと、そこになんだかこう行き方がちがうようじゃないかといったような感想を、この頃もつ方がありますが、そんなお感じはございませんでしょうか。

『鉄槌の教育これまた愛の教育』

山村――そのお話に関係すると存じますが、この鉄槌の教育、したがってこの努力の教育、つまりその鉄槌を加えて努力を強いるかのごとく聞こえる言葉でありまするが、わたしはその鉄槌の教育なるものがまたこれ愛の教育であるとこう思うのでございまして、愛なるがゆえの鉄槌教育であり、そうしてまたこれが本当であると思うのであります。

最も進んだ状態におきましては、叱ることがいらないのだと思いますし、鉄槌を加えることもいらないと思うのでありますけれども、この過渡期におきましては、その鉄槌の教育が必要だろうと思う、しかしその鉄槌でもって頭を殴りつけるのではなくして、鉄槌で殴りつけられるものは本来のものではない迷いが殴られるのであって、その子供の神の性というものが殴られるのじゃないのです。

わたしはこのあいだもある生徒さんのお母さんに申しましたが、叱ってもよいのです。しかしどういうふうに叱るかと申しますると、たとえばここに百点取るべき成績に対して六十点しかよう取らなかった、その時は大いに叱りなさい。

なんと言って叱るか。

あなたはこんな点を取るあなたではない。こんな拙(まず)い点を取るあなたは実に怪しからぬ、実に贋物だ。本当のあなたはこのような怪しからん贋物の点を取るあなたではけっしてない。本当のあなたは百点取るにちがいないのだ、この六十点の点を取るあなたは虚(うそ)のあなただ、虚のあなたを出してはいけない。本当のあなたを出しなさい。本当のあなたは百点を取るお利口さんであると、こう言って叱りなさいということを申したことがありますが、ここですね、その迷いの方、六十点に縛られている方を、鉄の固い固いやつでガンとやっつける、そして本物の立派な力を激励して出すというのが谷口先生のおっしゃる本当の教育だというふうにわたしは解釈しております。


『「叱る」の真の意味』

本部員――徹梱(てっこん)深切というところですね。

山村――わたしはそう思いますね、けっしてそれは叱るのじゃない。深切に説き聞かせておる。そういう点においてわたしは叱るという言葉を使いたくない。もうわたしの頭にこびりついております。叱られるものの悲哀というものが。ハハ……。

本部員――なかなかおもしろい問題ですね。

山村――決して叱ったらいけない。諭す、これがわたしは必要だと思います。深切に道理を説き聞かしてやる。諭してやることはよいけれども、頭から叱ることはいけない。それでわたしは将来もう叱るという言葉はこれから先も出すまいと思っております。

本部員――今の山村さんのお話はなんですね、結局その実相を見てのお叱りである。実相を見ないところの、従来の叱り方はいけないという点では一致していらっしゃるわけですね。

山村――そうです。

本部員――どならないで、深切に説いて美点を引き出してやるのでこざいますね。

110a hope:2016/05/30(月) 16:15:42 ID:vdNCBnG6

>>109 a hope所感)

一般的に大人は子供が悪いことをすると「なんて悪い子なんだろう」という目で見てしまいがちです。

その対象が大人であってもその人の素行がわるいと「あの人は悪い人だ」「あの人は腹黒い」みたいに表現することが多いのではないでしょうか?

ですが、「生長の家」の教えでは、常に相手の「実相」を観て、その実相を拝み出すようにするんですよね。

でも一方で、まわりの人たちのその人を「悪」だと思う想念が強かったりすると、いくらその人の「実相」を礼拝しても、
その悪い想念に負けてしまい、いつまでたってもその人の「実相」が顕現しないのだと思います。

たとえば、心ある信徒の方々が一生懸命雅宣先生の「実相」を祈っていても、他方で雅宣先生の「実相」を語らず批判ばかりしている人たちがたくさんいたら、
雅宣先生の「実相」は、いつまでたっても顕現しないのではないかと感じています。

愛のない批判はただの悪口ですものね。

111a hope:2016/06/01(水) 09:20:21 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年6月1日〜6月30日まで
テキスト 「生命の實相」第27巻 久遠仏性篇 上
内容   常楽宗教の提唱<上>

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

112a hope:2016/06/01(水) 09:21:33 ID:vdNCBnG6

みなさま おはようございます。

6月になりましたので、第3回web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

113a hope:2016/06/01(水) 09:23:35 ID:vdNCBnG6

今日から、あたらしい巻、「生命の實相」27巻 久遠佛性篇を学びます。
その内容は、『常楽宗教の提唱』です。

常に楽しいと書いて常楽、大辞林によれば、――【仏】永遠の楽しみ。悟りの境地をいう。――とあります。

常楽宗教である「生長の家の教え」を次から次へと学べる幸せ、心から感謝してます!

合掌。

114a hope:2016/06/02(木) 08:36:46 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 

(はしがき)

わたしは本書において一点の暗い影もない明朗の宗教を提唱する。今まで宗教はなんらかの意味において暗い影がどこかに潜んでいたのである。曰く、

(一) 人間には原罪というものがある。あるいは因縁とか罪業というものがあってなかなか救われがたい。
(二) 罪を消滅するには苦行が要る。献金が要る。犠牲が要る。そのままではなかなか救われがたい。
(三) 神と富みとには兼(か)ね事(つか)うることはできない。救われるためには貧乏しなければならない。経済的苦痛は忍ばなければならない。
(四) 仏の救いは肉体滅後の世界だけであって、肉体のある間は仏の本願力といえどもどうすることもできない。
(五) 釈迦も出家して家庭生活を破壊し、キリストも「それ我(わ)来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜(しゅうとめ)より分かたん為なり」と言ったごとく、大なる悟りを開くためには、一時は家庭生活を破壊しなければならない。
(六) 悟りを開きまたは、救いを受けるには長途の旅行をつづけて本山に参拝し、多数の日子と、多額の金額とを費やさねばならない。
(七) 宗教的信仰をもつというだけでは、死後救われるかもしれぬが、現在の経済生活、健康状態、児童の学業成績をも左右するということができない。
(八) 一つの宗教的信仰は他の宗教的信仰と衝突して、宗教の名において骨肉相争い、家庭不和の状態を演じ易い。

まだまだあげれば、在来の宗教には無数の暗い影があるが、まず上記はその主(おも)なるものであろう。

われわれはかかるいっさいの暗影を放擲(ほうてき)して、光明一元、神一元、天国のみの実在、浄土のみの実在を高調して完全に光明のみのいとも明朗なる宗教を打ち建てて無数の実際生活に功徳をあげたのであり、現に続々その実証をあげているのであって、その体験実例はわたしたちの機関誌たる『生長の家』『精神科学』『白鳩』『光の泉』『理想世界』等に毎月発表されているのであり、『実相体験集成』という大部の書籍も昭和十二、三年に上下二巻出版されたのである。

最近、『わたしはこうして癌が治った』と題する二十数氏の実際体験を集めた書物も出版されているのであって、現在なお医学界で完全な治療法の見当たらない癌にさえこれだけの治験例を挙げることは注目に値するのである。
(つづく)

115a hope:2016/06/02(木) 08:37:52 ID:vdNCBnG6
>>114 つづき)

その功徳の生ずる原因は――

(一) 人間の罪悪感念の払拭。人間本来神の子・仏子であって本来罪なく、本来救われているという真理を知り、決して因縁罪業等によって縛られなくなる。
(二) 罪本来無きがゆえに、罪を滅するために苦行も、献金も、犠牲も不要である。人間はそのまま救われていると知るがゆえに、自己処罰がなくなること。
(三) この教えをきいて経済問題が解決するのは、神(仏)は、その神の子(仏子)なる人間が貧しくあることを喜び給うはずはない、人間が貧しくあるのは神の無限供給を本当に知らないからにすぎぬ、本当に神を知ったら、すでにここに無限供給が与えられていることを見出しうるからである。
(四) 神仏の絶対力は、肉体と相対立する相対的な存在ではないから、肉体は死ななくても生きていながら人間はそのまま救われていると知るから、不安恐怖が除かれる。
(五) すでに釈迦キリストが悟りを開いて真理を直指(じきし)啓示せられた以上は、その悟りをそのまま生きていればいいわけであって、釈迦キリストのごとく悟りを得るためにいったん家庭生活を破壊する必要はない。
(六) すでに釈迦キリストの開きたる悟りがあり、人間の救われるのは「心」によるのであるから、釈迦キリストの悟りをそのまま平易に解説し、流麗暢達(りゅうれいちょうたつ)なる文章をもって、その悟りが人類の「心」の奥底に流れ込むようにしさえすれば、人類は救われるのである。人類は「足」で救われるのではないから、長途の旅を続ける必要はない。人類は日数で救われるのではないから長期の日子を要しない。人類は旅費で救われるのではないから、多額の旅費を支払う必要はない。ただ流麗暢達なる文章に表現された悟りの本を読むだけで「心」の中に真理が流し込まれて悟りに入るから、読書するだけで功徳が生ずるのである。
(七) この世界は神一元の世界、仏の無礙光尽十方に満つる世界であるから、一の悟りは法界一切のものを救いの無礙光のうちに見出すのである。経済も健康も教育も悉くこの無礙光の中に見る時、いっさいの光明輝くものに変貌するのである。
(八) われらは古今を貫く真理を解明するのであって、敢(あえ)て一宗一派の宗教を樹(た)てるのではないから、どの宗教の信奉者もその教えに接するとき、各自の宗教がその真理を本来各宗教共通の天地一貫の真理になることを悟り、強いて為にするところあって反発するもののほかは、各宗派人悉く互に相和することを得るに到るのみならず、在来の神道仏教キリスト教がとうてい融合しえなかった欠点を補って、完全に神仏耶三教の融合を完(まっと)うして人類が平和に融合しうる基礎を築いたのである。


ともかくわたしはかつて書いた原稿を纂(あつ)めたこの本を校正しながら、自分自身の執筆であるところのこの書の語る真理にまったく打たれて、反省せしめられた幾多の箇所があったことを告白する。

その感想をいちいちここに列挙することは止めるが、唯一つ言っておきたいのは、理想家は善人にありがちな自己虐待の精神がいつの間にか頭をもたげて、ともすれば悲壮の方へ、悲劇の方へ、暗黒の方へと誘惑されやすいのである。

多くの善人は自己虐待が好きで、ともすれば自己を奈落の底に引き落とす暗黒思想に知らず識らずにひきつけられて行きがちである。

聖フランシスやトルストイなどの不幸はその適例である。

われわれが説くところが正しいのは、最近の精神分析の発達に従い、罪悪感念が原因で無数の病気や災難が起っていることが明らかにされたことによって裏書されたのである。

この問題について興味のある人はメニンジャー博士の『おのれに背くもの』に無数の病気や災厄が自己処罰であらわれている実例をあげており、戦争までも大量自己処罰だと説いているから、それを読まれるがよい。

この書は三島由紀夫氏が書評に絶讃していた、日本教文社の発行である。

昭和四十年 一月 十日          著者しるす

116a hope:2016/06/02(木) 08:40:24 ID:vdNCBnG6

>>114 >>115 a hope所感)

毎回感じるのですが、「生命の實相」は(はしがき)も素晴らしくて、決して読み飛ばすことができません。

もっと言えば、ブックカバーの帯に書いてある、キャッチフレーズみたいな文章も素晴らしいです。(これは編集者の方が書いたらしいですが・・・)


第27巻のブックカバーの帯の文章を紹介します。

――――――――――――
「現代をリードする宗教とは」

アメリカまで数時間で行けるという科学の驚異的に進歩した現代、本当の宗教とは如何なるものだろうか……どこか暗い影があった今までの宗教(上段=△)と本書の提唱する明朗な宗教(下段=○)とをならべ、生命的宗教の特長を明示する。

▽人間は生まれながらにして罪がある ○人間本来神の子・仏子であって罪なし
▽罪を滅ぼすには苦行、献金、犠牲がいる ○罪はないから罪を消す苦行は不要
▽救われるには貧乏しなければならない ○人間には無限の供給が与えられている
▽人間は死んでからでないと救われない ○人間は本来そのままで救われている
▽悟りを開くためには家庭は破壊される ○真理を生きる時そのまま家庭は調和する
▽一つの宗教は他の宗教とぶつかる ○全ての宗教は神髄において一致する

本著名『生命の實相』とは――いのちの本当のスガタを書いたものです。
――――――――――――

雅春先生の(はしがき)のご文章が簡潔にまとめられています。
聖典『生命の實相』には無駄な文章が一つもありませんね!

117a hope:2016/06/02(木) 08:43:39 ID:vdNCBnG6
>>116訂正

ブックカバーの帯 → ブックカバーの袖 

着物の一部だと覚えていて間違えました・・・ハズカシ・・・(≧◇≦)

118a hope:2016/06/03(金) 07:37:07 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p4 4行目〜

宗教の使命は、梗塞(こうそく)された生命を解き放って本来の自由に復帰せしむるにあるのであるから、宗教を信じながら、苦しんだり、罪についていつまでも低回(ていかい)して悲しんだ状態にあらしめる宗教がありとするならば、その宗教は宗教としての使命を果たしていないと言わなければならないのである。

抜苦与楽(ばっくよらく)が宗教の使命であるのは何人も肯定して疑わないところであるのである。

(略)

幸福感に満つる生活こそ本当の生活であるのである。

悲しみと不幸に満たされた人々が「生長の家」の教えを受けて旬日(じゅんじつ)ならずして、家庭に夫婦喧嘩は絶え、幸福の空気がその家庭の雰囲気を満たし、喜色が家族たちの顔貌にあらわれ、間もなく、家族の人相まで変わってしまう事実が多くあるのは「生長の家」が悲しみの似非(えせ)宗教でなく、常楽宗教の実相を教える真宗教であるからである。

119a hope:2016/06/03(金) 07:38:39 ID:vdNCBnG6

>>118 a hope所感)

「生長の家」を信仰していると信じていても、その生活が喜びに満たされていなければ、
それは本当の「生長の家」の信仰ではないということなのだと思います。

みなさんは、「悲しみの似非(えせ)宗教」を信仰されていませんか?

みなさん、聖典「生命の實相」を毎日拝読して、まことの「生長の家」を信仰しましょう!

120a hope:2016/06/08(水) 20:42:18 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p51 2行目〜

すべて善き宗教は、教祖が教団をこしらえようと計画してはじめた教えではなかった。

最初はたいてい、普通の常識を超えたことを言うものだから皆気が狂ったのかと思ったけれど本人は気が狂ったのでもなんでもない。

その至誠(しせい)が高次元の世界の神様に感応してそこに神さまからの教えがひらかれたのであります。

最初は教祖の至誠の教えでありましたが、しだいに教えを継いだ宣教者が、人間知恵をもって計画的に教義をこしらえ無理に教勢を拡張しようとしたので躓(つまづ)いたのであります。

121a hope:2016/06/08(水) 20:43:55 ID:vdNCBnG6

>>120 a hope所感)

 頭注より
○至誠…このうえなく誠実なこと。まごころ。
○宣教者…教えを伝えひろめる仕事をする人。


色々、考えちゃいますね・・・(゚∀゚)

122るん吉:2016/06/10(金) 21:08:46 ID:TWYtDbA.
>>a hopeさま
>>罪についていつまでも低回(ていかい)して悲しんだ状態にあらしめる宗教がありとするならば、その宗教は宗教としての使命を果たしていないと言わなければならないのである。

生長の家以外の教えでは罪無しにならないから、苦しいでしょうね・・


>>(宣教者・・)色々、考えちゃいますね・・・(゚∀゚)

にゃはは、ほんとですね。

いつも有難うございます。

123a hope:2016/06/12(日) 08:11:42 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻p61から始まる「石橋さんの体験」はとても印象的でした。
かつて石橋さんは和歌山で鍼灸院を開かれて、とても繁昌していて、家族とも幸せに暮らしていたのですが、
あることがきっかけになり、転落の人生を歩み始めます。

ついには借家の家賃も払えないような貧困になり、管理人から立ち退きを迫られているのをなんとか置いてもらっていたのですが、
そんなとき生長の家の教えに触れ(パンフレット八冊を拝読する)ことで物質への執着心がなくなってきます。

そして、その借家への執着心もなくなり神さまに全托して、管理人のいうように素直に出ていこうと決心した時、
すべてがよい方に方向転換していきました。

(つづく)

124a hope:2016/06/12(日) 08:13:09 ID:vdNCBnG6
>>123 つづき)

「生命の實相」第27巻 p69 2行目〜 「石橋さんの体験談」より抜粋 

・・・今まで管理人をいやな奴だと思い、どうにでもしてこの家にいなければならないと思っていたのに、管理人には本当にすまないという気持になってきたし、これまで「この家におらならん、おらんければ生活に困る」と家に執着していたのに、その執する心がなくなってきた。

ここが大切です、先刻(さっき)は体のことを申しました。

この体をこの体をと思って体ばかりに心をひっかからせていたら病気は快(よ)くなりはしないし、終(しま)いには神経衰弱になってしまうよりほかはないのだということを話しましたが、今度は体ではない、家の話です。

しかし同じことで、物質にひっかかっているかぎり良くなりっこはない、かえって苦しくなるばかりなのです。

それで石橋さんもこの家この家と思って執着していた、その時には管理人が隔日にやって来て大声でどなっても黙って忍ばなければならなかった。

ところがパンフレットを読むにつれて、

「人間は神の子であって生かす力は神から来るのだ。この天地が地上にわれわれを生んだ以上決して人間が食べるものにことかくということはあるはずがない。それなのに食べるものがないという状態にあるのは、神の豊かな供給を自分の心を狭くしていて受け入れなかったからだ。人間みずから詮(せん)をして神の供給を拒んでいるからだ。これからは心をもっと広く持って、お示しのままにもしこの家を出ろといわれたら出ていこう、そこにまたお示しがあるのだ」

と、こういうようにひっかかる心をすべて神様の大きな御手(みて)に委(まか)せる気になられたのでありました。・・・

125a hope:2016/06/12(日) 08:15:33 ID:xVBwxesw
>>124 a hope所感)

この「体験談」は本当に興味深いです。
このあと、石橋さんの心が変わることで、管理人の心にも変化が現れてくるのです。
つまり、石橋さんが管理人に「すまなかった・・・」という気持ちを持ったとき、
管理人の心にも同質の憐みの心が湧き上がって来たのです。


まことの「生長の家」は現象界にはありません。
わたしたちは現象界の「生長の家」に執着しているかぎり、転落人生を歩むことになってしまうかもしれません。

みなさん、聖典を拝読しましょう! 聖典にすべての答えが書いてあります。

126a hope:2016/06/15(水) 06:08:36 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p84 1行目〜

「・・・生長の家というのはいっさいのものと仲良しになって調和するという教えなのです。

考えてもごらんなさい、炊事係の不注意からかもしれないけれども、食事の中に油虫が入っていればこそ、あなたが退院する気持ちになったんじゃありませんか。

もし油虫が入っていなかったら、あなたはまだまだこんな病念の蓄積した所から退院しなかったかもしれない。

食事の中に油虫がいたればこそ、こんなに早く君は退院する気になったのだから、油虫は、いわば恩人じゃないか、そう思うとありがたい油虫だと手をあわして拝まねばならん」(拍手起こる)と懇々と言ってあげられた。

そうすると、ほんとにそうであった、なるほどありがたいことであった、それを恨んでいたというのはわたしのまちがいだった、この世の中にはどこにもありがたいことがあるのだと気がつかれたのでありました。

127a hope:2016/06/15(水) 06:10:13 ID:xVBwxesw

>>126 a hope所感)

そうでした、「生長の家の教え」はすべてに感謝する教えでした。

自分を害するかもしれない、食事の中の油虫にさえもその存在価値を見つけて感謝する・・・。

それができたとき、わたしたちははじめて、「天地一切のものとの和解」を成立させることができるのかもしれませんね!

128a hope:2016/06/15(水) 06:59:13 ID:vdNCBnG6

>>127補足)

ここの「油虫への感謝」のところはちょっとややこしくて混乱するかもしれません。

なぜなら、生長の家の教えでは、一方で「天地一切のものとの和解」を説きながら、他方では「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」と説いているからです。

「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」という意味は、

虚説や黴菌は人間に害を及ぼすので、その害を及ぼす部分(内容)は決して受け入れるな、という意味なのだと思います。

でも、その「虚説」(間違った教え)があるお蔭で、わたしたちは何が真説なのか自ら考えることができるわけです。

そういう意味で、その「虚説」の存在に感謝できるのだと思います。

つまり、油虫に感謝するからいって、油虫の入った料理を食べ続けたら必ず健康を害します。

「真説」は雅春先生のお残しになった『聖典』のなかにあります。
(わたしは、雅春先生のお書きになった愛国書と呼ばれるものは『聖典』だとは思っていません。)

いつまでも「虚説」を食べつづけないように気をつけてくださいね。

129a hope:2016/06/15(水) 08:44:28 ID:vdNCBnG6
頭注より 

油虫・・・ごきぶり。

130a hope:2016/06/17(金) 06:58:33 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p103 後から1行目〜

皆さん、ただ今、眼を瞑(つぶ)って「肉体は無い」と観じ、そうして「南無阿弥陀仏」を称えてごらんなさい、キリスト教の人ならば「神と一体」と称えてごらんなさい、神道の方であれば「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)と一体だ」と考えてごらんなさい。眼を瞑っているから肉体がないように思われ、その無いように思われる程度にしたがって、われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられるのであります。

131a hope:2016/06/17(金) 07:00:34 ID:vdNCBnG6

>>103 a hope所感)

みなさま、おはようございます。

今日は、谷口雅春先生の御命日です。 
大感謝、合掌。

そして、上に謹写したお言葉は、間違いなく谷口雅春先生のお言葉です。

ここに、ハッキリ、<<われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられる>>とあります。

わたしたち人間は本来神様と一体なんですから、まことに〝肉体無し〝 の真理を理解してれば、
「無限絶対の神は、だから感覚できないのである。」などという軽々しい発言は絶対ありえないと思います。

(参照) 『「生長の家」の教義について議論する』板 >>108
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/108-n

132a hope:2016/06/17(金) 07:05:01 ID:vdNCBnG6
>>131訂正
>>103 a hope所感)→(>>130 a hope所感)

133a hope:2016/06/22(水) 18:15:33 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p108 後から6行目〜

「物質は無い」「肉体は無い」ということがわかれば、わが身というものはみんな幻のようなもので何も無いのだと思う観方を「断見」といって、釈迦がまちがった見解の一つして排斥されたところであります。

「物質が無い」と知ったと同時に「実相がある」と知り、「肉体が無い」と知ったと同時に「ほとけ が有る、それが自分だ、神がある、それが自分だ」と知らねばなりません。

「実相がある」「我(が)がある」と言ったら、その実相とはこの肉体の自分のことだ、「この肉体が有る」のだ、と思うのは「常見」といって釈迦はまた排斥されたのであります。

この「断見」「常見」いずれにも堕(だ)さないようにしなければ正しい悟り(正見 しょうけん)ではないのであります。

正しい悟りというものは、「無くて有る」この反対のことを一つに自覚したような状態にあります。

肉体の無がわかっていて、金剛不壊の実相が有ることがわかることが断常二見に堕さない正見なのであります。

この正見を得たときには「無くてしかも有る」ことがわかりますから、肉体が眼に見えていても、それがただちに無いとわかり、実相身が眼に見えないでも、それがただちに有るとわかり、「臨終の一念」を待たないでこのまま、今(いま)成仏していることがわかるのであります。

134a hope:2016/06/22(水) 18:18:25 ID:vdNCBnG6

>>133 a hopeまとめ)

「何もない」・・・断見 ×
「肉体が実相」・・・常見 ×

「(肉体)無くて(実相)有る」・・・正見(正しい悟り)○

135a hope:2016/06/22(水) 18:18:59 ID:xVBwxesw

>>133 a hope所感)

聖典の言葉はどこを拝読しても格調高く、魂に響きます。

それはこの聖典を書かれた谷口雅春先生が、「正見」つまり正しいお悟りを得られた方だったからに他なりませんね。

136a hope:2016/06/24(金) 08:17:39 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p128 3行目〜

生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。

さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。

「現象も現象として在るのであって、かく本体界のみ主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界を混同するのである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われわれは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象無しと自覚するゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。

その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。

「現象は現象として在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展(じじょじてん)が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂(ほうせつ)せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。

生長の家の思想が、かく素晴らしい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截ち切り、「実相独在」を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからである。

※ 本体界・・・実在の世界。実相界。(頭注より)

137a hope:2016/06/24(金) 08:19:49 ID:xVBwxesw

>>136 a hope所感)

「実相独在」・・・これが、まことの「生長の家」の思想なんですよね。

でも、今現在の「生長の家」の現実をみると、現象、現象、現象・・・・

ある団体が運動をしていく上には、現象を見なければ始まらないというのもわかりますし、
「生長の家」教団の総裁としての谷口雅春先生も、現象を見てたくさんの運動を指揮されていたのだと思います。

そしてその一つが、雅春先生の愛国心から生まれた政治運動だったのではないでしょうか?

わたしは、右翼とか左翼とか、政治に関してはよくわかりませんが、今、現象の「生長の家」が分裂して、
大変な危機的な状態にあるのだけはわかります。

なぜこんな状態になってしまったのかな〜と考えたとき、この「現象無し」の「実相独在」の思想が、
信徒の心から忘れさられてしまっているからなのではないか・・・と漠然と感じています。

138a hope:2016/06/25(土) 12:55:37 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p139 後から4行目〜

本当に肉体のお釈迦さんが説いても、まちがいはまちがいであるし、肉体の釈迦が説かなくとも、真理は真理ですから、必ずしも肉体のお釈迦さんが説くからありがたいということではないのであります。

本当にわれわれを成仏させてくれる、「仏」を得、「自由解脱」を得させてくれる教えなら、キリスト教であろうと生長の家であろうと、すべて仏教であり、ホトケ(解脱)の道なのであります。

それだのに「肉体の釈迦」にこだわっていますと、相当の仏教学者が「釈迦は大乗を説かず、小乗仏教のみを説いた。大乗は後世のこしらえた物だ」と言って、仏教の中でも互に喧嘩していなければならなくなるのであります。

しかし喧嘩することが本当の仏教ではありません。

仏教は聖徳太子の仰(おおせ)せ給うたように和(わ)をもって尊(とうと)しとするのであります。

和を説いているのが本当の仏教であるのに、仏教内部で互いに相排擠(はいせい)して争っている。

ちょっと良い説がでると自分の宗教が潰(つぶ)れるといかんと、すぐそれを邪教だと言って、撃滅しなければならぬと、秘かに運動資金を撃滅運動者に回して騒ぎたてるのは、本当の仏教ではないのであります。

そんな撃滅の心がすでにお釈迦さんの心ではないのであります。

139a hope:2016/06/25(土) 12:57:30 ID:vdNCBnG6

>>138 a hope所感)

なんか、ここのところのご文章は、他人事ではないような感じですね・・・。

雅春先生は、現在の「生長の家」の混乱を予測されていたようですが、この文中の「お釈迦さん」を「谷口雅春先生」と置き換えて、
「仏教」を「生長の家の教え」と置き換えて読んでみると、今の「生長の家」の様子にそっくりで驚いてしまいます。

まあ、ここで、わたしが何を発言しても、今の皆さんには何の関心も持っていただけないかもしれませんが
何度でも言わせていただきます。

みなさん、和の心が説かれた真理の書「聖典」を拝読しましょう!

140るん吉:2016/06/25(土) 18:57:48 ID:TWYtDbA.
>>a hopeさま

>>生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。

>>さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

>>「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。


この文、ググっと来ました。(*^-^*)あ〜、うれしっ!

いつもありがとうございます。読ませていただいてますよ。ありがとー。

141るん吉:2016/06/25(土) 19:02:33 ID:TWYtDbA.
現象無し!

なんと「現象無し」ひぇ〜〜〜 あまりにもすごすぎてどう表現してよいのか?くらいすごすぎる真理です。
誰も思いもつかないこの真理。すごすぎですね!

142神の子さん:2016/06/25(土) 19:13:12 ID:nFi3G1bg
生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。
「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。

という生長の家にあって

今の「生長の家」の様子にそっくりで驚いてしまいます。
まあ、ここで、わたしが何を発言しても、今の皆さんには何の関心も持っていただけないかもしれません

なんて現象ありの感想が何処から出て来るのか、不思議です。

143a hope:2016/06/25(土) 19:29:01 ID:xVBwxesw

>>140 るん吉さま

いつも励ましのメッセージをありがとう(*^▽^*)

わたしは「現象なし」って考えると、いろんな現象的な問題があっても負担に感じなくなって、
むしろ、「よーし、魂みがいてやるぞ!」って生きる意欲が湧いてきます。

生長の家の教えは最高ですね!

144a hope:2016/06/25(土) 19:33:00 ID:vdNCBnG6

>>142 曳馬野さま

いつも同じようなメッセージをありがとうございます。

そうですね、わたしも一日も早く「実相独在」を大悟して、ホントの「現象無しの自覚」に入りたいです。

145神の子さん:2016/06/25(土) 20:59:46 ID:nFi3G1bg
『煩悩本来無し、唯菩提あるのみ、現象本来無し、唯実相あるのみ』これ以外無いのが真理であり、これ以外無いのが生長の家である。天地崩るるとも此処以外に心走らない人間であること。

『身は是れ菩提の樹、心は明鏡の臺の如し。時に拂拭して塵埃を惹かしむること莫れ』と示した神州上座の心と、
『菩提は本樹無し、明鏡亦た臺にあらず。本来無一物、何れの處にか塵埃を惹かん』と示した慧能禅師の心と。

慧能は心安穏とし、神秀は心苦しみに覆われていたことであらう。神のみあること。完全のみあること。そして、それ以外には遂に一物の存在も無いこと。今から完全にして行く自分ではないこと。今から完全にしていく自分はないこと。今完全であり、それだけであって其れ以外は無いこと。この自覚に帰るとき、其処が其の儘道であり、神の子である。そして誰もが今此の儘でそれなのであった。

『其の儘でよいのである、人間は其の儘で完全である。人間の其の儘が神である』の恩師の御言葉が新たなる響きを持って身に沁みる今日である。  常楽への道

146a hope:2016/06/26(日) 10:35:30 ID:xVBwxesw

>>145 は吉田國太郎先生の「常楽への道」からの抜粋文でしょうか?

ですが、この板は「生命の實相」の輪読会用の板ですので、次回からは「生命の實相」以外の文献や御子弟やご文章は、
Web「生命の實相」輪読会参考文献板
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458099618/l50
の方に謹写していただき、その旨のコメントをいただけるとありがたいです。

ところで、ご紹介のご文章の中に、中国禅宗の第六祖の法燈をついだ慧能(えのう)大師の「本来無一物」のお話がありますが、
これはとても有名なお話ですね。

わたしは、もう10年以上前になりますが、近所の曹洞宗のお寺の法話で初めてこのお話を聞きました。

今、丁度この輪読会でも、「久遠佛性篇」を学んでいます。

貴重なご文章の紹介に感謝いたします。

147a hope:2016/07/01(金) 06:09:52 ID:vdNCBnG6
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会案内 改訂版

期間   平成28年6月1日〜7月31日まで
テキスト 「生命の實相」第27巻久遠仏性篇 上p117〜 第28巻 久遠仏性篇 下
内容   7月1日〜「われらの祈願および修養」「近眼・色盲等は治るか」「体験談」
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

148a hope:2016/07/01(金) 06:11:34 ID:xVBwxesw

みなさん、おはようございます。

7月に入りましたが、「生命の實相」第27巻の第八章「われらの祈願および修養」は、
第28巻に続く内容となっているため、輪読会の方もそのまま続けさせていただきます。

この第八章「われらの祈願および修養」の最初の文章を紹介させていただきます。

<<これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。生長の家の家族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書がこれにかいてあるのであります。順々にそれを説明いたします。>>

今、現象の「生長の家」はとても混乱しています。

このタイミングで、「生長の家家族の祈願および修養」の内容を学ぶというのは、
わたしたち「生長の家」の信徒の本来の使命とすべきことはなんなのかを学び直すいい機会が与えられたのだと思います。

現象的な運動をする前に、まずは生命の実相の真理の説かれた「聖典」をぼろぼろになるまで拝読しその真理を自分のものとしなければ、
まことに谷口雅春先生の御遺志を継いだ運動をすることは不可能だと思います。

今、この混乱の中で、一人でも多くの信徒さんが本来の「生長の家」の信徒に戻られることをお祈りしながら、
「『生長の家』の家族の祈願及び修養」の箇条書きをすべてここに謹写させていただきます。

149a hope:2016/07/01(金) 06:22:13 ID:xVBwxesw

『生長の家』の家族祈願及び修養 (新編 聖光録 p74 75より謹写)

一、『生長の家』の誌友及び読者はすべて『生長の家』の家族として此の祈願に従いて、生活し、修養し、各々隣人を照す燈台たらん事を期す。

二、吾らは凡(あら)ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す。

三、吾らは自己を神の子(又は仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内なる魂の矜持(ほこり)を傷つけざらん事を期す。

四、吾らは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、大地を、火を、水を、一切の大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、礼し、愛し、苟(いやし)くも浪費せざらんことを期す。

五、吾らは『心の清き者は神を見る事を得(う)』との真理を信じ、心を飽くまで清く尚(たか)く純に素直に保たん事を期す。

六、吾らは『類は類を招(よ)ぶ』の心の法則を以て苟(いやしく)も自己の欲せざることを心におもわざらんことを期す。

七、吾らは自他の悪を云為(うんい)する時間あらば、神を想い、完全を想い、自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。

九、吾らはたとい躓(つまず)くことありとも渋面せず、その瞬間起き上がりて光明に面せんことを期す。

十、吾らは出来る限り悩める隣人を扶(たす)けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。

十一、吾らは自己の好む所を他に施し、自己の好まざる所を他に転嫁せざらんことを期す。

十二、吾らはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光明思想『生長の家』をひろめ全人類に真理を伝えん事を期す。

十三、吾らは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝(ようはい)し奉り、次いで一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇又は仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、且つ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年の如く生きんことを期す。

十四、吾らは実在の実相のみを見、移り変わる仮の相(すがた)にとらわれず、常に光風霽月(こうふうせいげつ)の如き生活を営みて情(こころ)を動ぜざらんことを期す。

十五、吾らは今日一日出来る限り強く明るく正しく充分生き抜き生き尽して悔いなき生活を送らん事を期す。

十六、吾らは常に善と愛と智慧と光明とが人の実相なることを信じ、常につとめて善に還(かえ)り、愛を行い、真理の書を読み、全人格の雰囲気と心の習慣とを神の如く完全なるものたらしめんことを期す。

『生命の實相』「久遠佛性篇」より


ありがとうございます。 合掌。

150a hope:2016/07/01(金) 19:40:12 ID:vdNCBnG6

一、『生長の家』の誌友及び読者はすべて『生長の家』の家族として此の祈願に従いて、生活し、修養し、各々隣人を照す燈台たらん事を期す。

151a hope:2016/07/01(金) 19:41:35 ID:vdNCBnG6
>>150 つづき

【第一条、説明文の抜粋】 副題 「生長の家の意義と誕生について」

生命の實相 第27巻 p177 後から1行目〜 

そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが修養雑誌を出したその雑誌にたまたま付けた名前ではあったのですが、しかしながら本当の「生長の家」というのはこの雑誌の名前だけではない、といってまたわたしの個人の家の名前でもないのであります。

「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするのでありますけれども、「生長の家」というのは「大宇宙」ということであります。

「生長する」というのは創造(クリエート)することで、いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。

だから大宇宙のことを「生長の家」と申しますので、この大宇宙に満ちてる生命創化の法則を研究し、その法則を宣べ伝えて、広く人類を教化しようという目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されています。

「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。

で、この「実相の世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。

(略)

この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して顕われたのが、地上の「生長の家」であります。

皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。

この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。

(略)

ともかく、こういうふうにして、実相の浄土にあるところの、喜びに満てる、光に満てる実相の言葉が地上の雑誌として初めてこの世に現われてきたのであります。

そうしてその言葉に最初触れる人たちが、地上における「生長の家家族」ということになったわけであります。

むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には限らないのであります。

本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家の家族であるわけであります。

だけれども、まず第一にここでは本当にこの生長の家すなわち実相の浄土を地上に生きる第一世として現われた『生長の家』誌友が、この現世を照らす光となり、おのおの隣人を照らす燈台となるようにしようじゃないか、こういうのがわれらの祈願の第一条の標識であります。

152a hope:2016/07/01(金) 19:53:32 ID:vdNCBnG6

>>150 >>151 a hope所感)

わたしは、「生命の實相」を拝読していると、本当に嬉しくて、嬉しくてたまらなくなります。

なぜなら、聖典「生命の實相」は真実のみをはっきり伝えてくださるからです。
今、流行りの言葉で言えば、「聖典はウソをつかない」でしょうか・・・

<<「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。>>

谷口雅春先生が現象世界に生きられていたころから「宗教法人生長の家」と真の「生長の家」とば別物だったわけです。

だったら、現在の「宗教法人生長の家」が、真の「生長の家」ではないのは当然なわけです。

<<むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には限らないのであります。
本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家の家族であるわけであります。>>

言い換えれば「実相の浄土を地上に生きる人」なら教団の信徒でなくても、
雅春先生の崇拝者でなくても、み〜んな「生長の家」の家族ということになります。

わたしは教団にも、どこの団体にも所属していませんから、この真実は本当に嬉しいです。

それでは、「実相の浄土を地上に生きる人」とは具体的にはどんな人なのでしょうか?

輪読をつづけます。

153a hope:2016/07/03(日) 07:19:51 ID:vdNCBnG6
二、吾らは凡(あら)ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す。

【第二条説明文抜粋】副題 各宗教に対する生長の家の立場 

「生命の實相」第27巻 p182 後から5行目〜

いろいろの宗教がこの世に出ておりますけれども、その宗教はどれもみなこの世の光となろうとする使命をもって生まれているのでありまして、電燈の光も、ガス燈の光も、ランプの光も、あるいはマッチの光もことごとくこれ照らさんがために現われているのであります。

(略)

こんなわけで、この世の宗教は、おのおのの総ての電燈は照らす光として働いているのと同じように、すべて人生の燈台となり、人の心を照らす光の働きをしているのであります。
それに、いちいち相手をけなして自分ばかり良いのであると、こういうような宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。
宗教は要するに愛を説くものである。愛とは仏教でいえば慈悲と申しますが、キリスト教でいえばたいてい愛という。愛とは何であるかというと自他一体の実相の働きです。

(略)

すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという実相を知らせ本当の相(すがた)を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同士仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつは撲滅しなければならない、あいつが栄えたらわたしの方の宗教は栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われ他という目的に反(そむ)くわけであります。

かく、宗教というものはこの世を照らす光でありますから、どれだけ他にあってもよいのであります。自分は自分で光ればよいのであって、他は他でまた光ればよい。人類も多種多様であるからその対象たる人類に適するように多種多様の宗教が現われてこれを照らす、五百燭光(しょっこう)の電燈がありさえすれば、懐中電灯は要らぬというわけではない、太陽が出ている時でも、活動写真を映すときには電燈の光が要るのであります。

生長の家では決して他の宗教を悪くいわないのであります。みんな結構である――。

154a hope:2016/07/03(日) 07:20:55 ID:vdNCBnG6

>>153 a hope所感)

<<それに、いちいち相手をけなして自分ばかり良いのであると、こういうような宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。>>

<<すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという実相を知らせ本当の相(すがた)を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同士仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつは撲滅しなければならない、あいつが栄えたらわたしの方の宗教は栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われ他という目的に反(そむ)くわけであります。>>

ほんとに、そうですよねぇ(;´∀`)

でも、きっと宗教争い真っ最中の方々は、ご自分自身が「虚説」だと感じるもの(違和感を覚えるもの)に和解しないために、
一生懸命戦っておられるんだと拝察いたします。

わたし自身、現教団の運動や雅宣先生の教義内容、そして、本流関係の掲示板で見られる教団や雅宣先生への執拗な批判文等には、とても違和感を覚えます。

違和感を覚えれば、排斥したくなるのは当然ですよね。

でも、でも、ですよ・・・ それって、本当に、「虚説」なんでしょうか・・・?

以前、復興Gさまに『「虚説」とは無いものである。』と教わりました。
「本来無いもの」をありとして見て、批判し続ければ、それは当然現象となり現れてきてしまう・・・、
それが、「心の法則」なのではなかったのでしょうか?


ですがだからと言って、
<<生長の家では決して他の宗教を悪くいわないのであります。みんな結構である――。>>

この、聖典のお言葉の意味を軽く考えていると、本当に「虚説」に和解することになってしまいます。


自分が違和感を覚えることには従わず、「自己内在の神」を信じて、自分が正しいと思う信仰をし続ければいいのだと思います。

「自己内在の神」を信仰すること、それが、本来の「生長の家」の信仰だとわたしは信じています。

155a hope:2016/07/05(火) 10:57:51 ID:xVBwxesw

三、吾らは自己を神の子(又は仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内なる魂の矜持(ほこり)を傷つけざらん事を期す。

【第三条説明文の抜粋】 副題 「神の子の生活を今生きよ」

さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、そのわかった神の子を生きて行くということが必要なのであります。

「自分は神の子である」とわかりながらそれを今生きて行かないというのは、これは実に矛盾したことであります。

そういう人は実際は、本当は神の子であるとわかっていないのであります。

そういう人が神の子であると思うのは、偽存在(にせもの)の自分を神の子であると思っている場合にそうなるのであります。

偽存在(にせもの)の自分、我の働きが神の子であるとこう思っている、その場合には、いくら聖典を読んでも実際に神の子らしき行いとしてそこに現われてこないのであります。

真鍮の指輪をもってきて、磨いたら黄金になるであろうと思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであります。

それと同じく、この偽存在の自分をもって「神の子である、神の子である」とこう思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。

それでわれわれは神の子でありという自覚を実相から出してくるということが必要であります。

(略)

それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は神の子を生きるということで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うとまちがいであります。

つまり、「知る」とは「生きる」ということである。

(略)

本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」この自覚で生ききるのが信心であります。

156a hope:2016/07/05(火) 11:00:11 ID:xVBwxesw

>>155 a hope所感)

わたしは、聖典「生命の實相」の真理に感動して「生長の家」教団に入信しました。
なので、その聖典の真理を説かない教団には、なんの未練も愛着もなかったので、すぐに退会しました。

ですが、退会した後も宇治別格本山の練成会には何度も参加だせていただきました。

当時の宇治別格本山には、楠本加美野先生もおられて、霊的な雰囲気に満たされていて、魂が震えるような体験を何度もしました。

「人間は神の子だ」「神の子なんだー」「嬉しい楽しいあっはっはー」「お父さん、ありがとうございます。 おかあさん、ありがとうございます。」・・・

今でも、練成の思い出がはっきりと蘇ってきます。

自殺未遂をされた自営業の男性、若い娘さんを亡くされたお父さん、拒食症の少女、末期がんを宣告された女性、職場で窃盗をしてしまった青年・・・。

ほとんどの方が、心に大きな不安や悲しみ、絶望を抱きながら、最初は暗い暗い表情で練成に参加されていました。

それが、練成最終日には見違えるように元気になって明るい表情で帰って行く・・・。

もちろん、全員がそうなったわけではありませんが、最終日までしっかり参加されていた方のほとんどは、生きる希望を取り戻されていました。

今思えば、参加者のみなさんは、練成によって「辛い現象はすべて影」であり、
本当の自分は「神の子」であったと自分の実相を知り、「神の子を生きる」決意をされていたんですね。

宇治別格本山の練成会は、本当に素晴らしかったです。

157神の子さん:2016/07/06(水) 21:19:00 ID:1ThqK4Lc
それにしても輪読会、盛り上がらないスね。。

皆、教団の内紛とか政治の話の方が好きなんでしょうね。

158トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/06(水) 21:24:13 ID:D6liK7g.
 いえ、じっくりと読む人が多いので、この輪読会は人気ですよ。

159神の子さん:2016/07/07(木) 13:29:51 ID:ylBQgeIU

現象に完全を求むることなかれ

 「現象は時間と空間の制約を通し

  実相が展開する過程なり。

  過程は常に中途にして完璧ならざること、

  楽曲が中途にして完結すること能わざるが如し。

  汝、人生の楽曲を正しく味わうべし。

  曲の最中に

  完結を急ぎて声上ぐるは愚かなり。

  曲は必ず完結するが故に、

  心静かに曲の進行と転調を楽しむべし。

  世界の実相、必ず完全なるがゆえに、

  創造神を信じ

  人生の変化と多様な進展を味わうべし。」

(『観世音菩薩賛歌』より)

160法の精神:2016/07/07(木) 13:31:11 ID:ylBQgeIU
>>159は私です。

161a hope:2016/07/07(木) 16:14:31 ID:xVBwxesw
四、吾らは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、大地を、火を、水を、一切の大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、礼し、愛し、苟(いやし)くも浪費せざらんことを期す。


【第四条 説明文抜粋】 副題 「いっさいのものを拝め」

生命の實相 27巻 p199 後から4行目〜
そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一ヶ条のところでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。

寂光土というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、この無限創造の宇宙たるやどういうものであるかというと、聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに美しい世界があるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貌(すがた)は見えないけれども、妙なる世界のうつしとし、写真として見える。【たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相(すがた)は写真に比べると、もっと複雑な相(すがた)をし、もっと複雑な次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色の平面の姿に写っている。】

それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の世界の複雑微妙な無限次元の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海(あおうみ)や、大地や、火や、水や、いっさいの大自然や、生物や、味の少ない世界とは見ないで、その奥の奥を観て、もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを念願とするのが生長の家の生き方であります。

「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。

原始人は物の奥の奥にある実相などというものを知らない。

だから生命礼拝といっても浅薄な現象生命の礼拝であったので、現象そのものを不思議がって礼拝していたのであります。

(略)

「生命の實相」第28巻 p6 1行目〜
ともかく、われわれは現象を見ても現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。

その現象の奥にある実相を見、そこに十全なる神の相(すがた)、実相の円満な相を観て、そうしてそれに対して敬礼をするという気持ちにならなければならないのであります。

(つづく)

※十全・・・少しも欠けたところがなく、すべて完全なこと。頭注より

162a hope:2016/07/07(木) 16:16:00 ID:xVBwxesw


>>161 a hope所感)

ここで説かれている内容を簡単に要約すると、わたしたちが五官で確認できる三次元の世界はそれがどんなに美しく見えても感じてもそれがすべてではない。
その奥にある無限次元の世界の「実相」を観て、「生命の実相」を礼拝せよということなのだと思います。

つまりそれが副題の「いっさいのものを拝め」いう意味になるのだと思います。

だから、ここでいう「いっさいのもの」とは、現象的に見えているものの奥にある実相が含まれるわけですね。

そしてその「実相(生命)礼拝」こそが、わたしたち「神の子」の活動であると・・・。

世の中のほとんどの社会運動は、現象社会の不完全さを良くしようとして始められるのだと思いますが、
「生長の家」の人類光明化運動は、実相世界の完全円満さを人類に伝えていく運動なわけです。

だから「生長の家」の運動は他の社会運動とはまったく〝 次元〝 が違う、「実相世界の運動」なんですね!

163a hope:2016/07/07(木) 16:19:11 ID:vdNCBnG6

>>159 法の精神さま)

『観世音菩薩賛歌』の一節をご紹介くださいましたが、ここは「生命の實相」の輪読会板です。
「生命の實相」以外の聖典やその他の文献のご文章の紹介はご遠慮ください。

また、今回『観世音菩薩賛歌』の一節をご紹介くださった理由はなんでしょうか?
もし、質問等があるのであれば『「生長の家」の教義について議論する板』の方にお願いいたします。

164るん吉:2016/07/07(木) 22:18:07 ID:TWYtDbA.
>>それにしても輪読会、盛り上がらないスね。


一番、好きなスレッドですが?

165a hope:2016/07/08(金) 10:29:46 ID:xVBwxesw

>>158 トキさま >>164るん吉さま

ありがとうございます(*^^*)

166a hope:2016/07/09(土) 08:18:34 ID:vdNCBnG6
>>161 つづき)

「生命の實相」第28巻 p6 4行目〜

蓮如常人(れんにょじょうにん)は「一枚の紙もすべて仏物(ぶつもつ)である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。

「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いてあります。

「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字くらい書いて紙屑籠に捨てると、これは大変経済循環をよくしていいことだろう、こう考える人もあるかもしれない。

しかし、それは嘘である。

本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使うのじゃないのです。

われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命を見、神の無限の光を見、神の無限の愛を見、これを拝まずにはおれない。

これを礼拝して使わずにはおられない。

今までは「もったいない」ということは棚の上に上げて蔵(しま)って置くとこういうふうな考え方が多かった。

それで「もったいない、もったいない、食べたらもったいない。着たらもったいない」と戸棚や箪笥に入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。

実に立派なものであるから、この立派なものを、その顕われている生命の働きを十二分に発現させて使えば使うほど増えるということになるのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃないのであって、用途に従ってそこに顕れている神の生命を使えば使うほど、神の生命がはっきり顕わされてくる、それが無限供給である。

「物質は無い」ということは、そこに何も無いということではない。

みんな仏物である、みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。

その奥には物質ならぬ実相があるということであります。

これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。


生命は生きる、生きるから生活であります。

我れ神の子なりと知ったら、神の子を今生きるということ、これが神の子を知るということであると申しました。

それを客観界のものにしましたならば、紙が一枚ここにある。

この紙一枚が、その奥にある実相を見れば、それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現れているということを知れば、それを生きるということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるということです。

この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。

すると使えば使うほど殖えるのであります。

この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに神の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

167a hope:2016/07/09(土) 08:20:34 ID:xVBwxesw

>>166 a hope所感)

現象に見える物質は本来ないものだけれども、その肉眼で見える物質の背後に神の生命を見、
神の無限の光を見、神の無限の愛を見、それを礼拝して使う・・・

その「心」が大切なんですね。。

「天地の萬物(すべてのもの)へ感謝せよ」とはこのことだったのですね・・・。

今、わたしのまわりにあるすべてのものが光り輝いて見えます。

168a hope:2016/07/12(火) 09:04:32 ID:vcpdnQEI
五、吾らは『心の清き者は神を見る事を得(う)』との真理を信じ、心を飽くまで清く尚(たか)く純に素直に保たん事を期す。


【第五条、 説明文の抜粋】 副題「心を清く空虚にせよ」
「生命の實相」第28巻 p10 7行目〜

『心の清き者は神を見ることを得(う)』ということは、キリスト教のバイブルにある句であります。

「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。

何もない人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。

この幼児(おさなご)の心を持ったものが初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるのでありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

(略)

世の中には妙な人があって、生長の家では病気が治る事実があるのに、「宗教で病気が治るはずがない、若(も)し治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起になっている人もあります。

理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら仕方ないのであります。

それと同じくわれわれが「神の子である」とはなぜ人間は神の子であるか、なぜ人間は神の子でないのかとこういったところが、神の子であるから神の子である、これはもう理屈ではないのです。

神の子であるから神の子である。

(略)

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている人は事実があっても本当に素直に受容(うけい)れることができない。

現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減っている事実を見ても、全人口でどこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる人を、こういう我の理屈や塵埃(ごもく)を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが出来ない人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。

心の中に塵埃(じんあい)が一パイにないからするすると真理が入るのであります。

(略)

それで、われわれは『生命の實相』を読んでも、この心の清き人ものになって『生命の實相』を読まなければならないのです。

『生命の實相』を読んでもすぐに病気が治らないような人は、きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな意味ではないのです。

――知恵や学問の塵埃(ごもく)でいっぱいに詰っている、そういう人ほどかえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――まず一遍いっさいの知恵学問を捨てて『生命の實相』を読まなくてはならない。

いっさい人知を否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍(かたわら)のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。

コップの中に濁った液体を入れておいて、その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚(からっぽ)にしておいて入れる。

この虚無のこの心、空虚(からっぽ)の心が「清きもの」であって、嘘を吐く(つ)かぬとかそういうふうなことじゃないのであります。

本当にこの虚無(からっぽ)の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

169a hope:2016/07/12(火) 09:05:53 ID:vcpdnQEI

>>168 a hope所感)

<<――知恵や学問の塵埃(ごもく)でいっぱいに詰っている、そういう人ほどかえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――まず一遍いっさいの知恵学問を捨てて『生命の實相』を読まなくてはならない。>>

この情報化が過剰に進んだ社会で生きてゆくためには、わたしたちはそれが正しい情報なのか間違った情報なのかを見分ける力が必要です。

それと同じことが宗教や思想に関しても言えるのだと思います。

ですがまずは、その宗教や思想が真理なのか虚説なのか、自分自身で考え、判断することが大切ですね。

実際、「生長の家」と名乗っている現教団の思想は、「生長の家」の教えとはまったく別物になってしまっています。

まちがいない「真理」を学びたいのであれば、『生命の實相』を心を空っぽにして拝読し続けるのが一番確かな方法なんですね。

170a hope:2016/07/14(木) 12:18:28 ID:HpPPMIUs
六、吾らは『類は類を招(よ)ぶ』の心の法則を以て苟(いやしく)も自己の欲せざることを心におもわざらんことを期す。

【第六条 説明文の抜粋】 副題 「自己の欲せぬことを思うな」
生命の實相 第28巻 p15 10行目〜

「類は類を招(よ)ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心の所現」である。

これは現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を顕わしたものであります。

業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によって流転しているのであります。
(つづく)

171a hope:2016/07/14(木) 12:20:04 ID:HpPPMIUs

>>170 a hope所感)

この第六条では「横の真理」である心の法則(三界唯心所現)と、「縦の真理」である神の子の自覚(唯神実相)の関係が説明されています。

この関係性がよくわかっていないと、『現象は時間と空間の制約を通し実相の展開する過程なり』みたいな、
間違った思想をもつことになってしまいます。

上に謹写した部分に、<<現象界が展開して来る、業の流転してくる法則>>という部分がありますが、
現象界の展開は業の流転による影の世界の展開なんですから、悪い念(迷いの心)を持っていれば悪い結果が現れるし、
良い念(悟りの心)を持っていれば実相さながらの現象が現れてくるということになるのだと思います。

ですから、頭で「実相」が完全だとわかっていても、自分の悪い念(迷いの心)をなおざりにしていては、
いつまでたっても現象に良い結果は現われてこないということになります。

それでは、悪い念(迷いの心)を捨て去り、良い念(悟りの心)を持つためにはどうしたらいいのでしょうか?

つづけて謹写していきます。

172a hope:2016/07/14(木) 12:25:31 ID:HpPPMIUs
>>170 つづき)

「生命の實相」第28巻 p22 5行目〜

病気の人を見て人の心持ちを何でも良く当てることができるのは「類は類を招ぶ」ということによって、心のとおりの相(すがた)が肉体に現われているのを看破(かんぱ)するから当てられるのです。

このように、肉体は心の影でありますから、われわれが円満完全な相好(そうごう)をし、円満完全健康な肉体をし、円満完全で何不自由なき境遇になろうと思うならば、まず心が円満完全にならねばならないのであります。

その円満完全なる心になろうとしましても、修養や克己(こっき)で、腹立つ心を抑えたり、憎む心を制したり、不平不足な心を抑えたり、いろいろわるいことを一つ一つ抑えてゆこうとすると、こいつはなかなかむつかしいのである。

けれども、われわれは、そういう怒る心、腹立つ心、憎む心というような一つ一つの心を抑えなくても急所がある。

猫でも首の上のところを撮(つま)んでひょいっと上げる、急所を捉(つか)むとじっとしている。

それと同じで、われわれの感情でも急所を把(つか)んでひょっと上げるともう温和(おとな)しくなってしまうのです。

その急所はどこにあるかというと「実相」です。

われわれは「生命の実相」を捉(つか)む、人間の実相を捉んでぶら下げると誰でもみな温和しくなる。

ほかの修養では心を外から抑えてゆこうとしますが、「生長の家」では『生命の實相』を読んでいるうちに「実相」を表現した文章の力、言葉の力で、読むだけで心が和んでき、心の欠点が直ってくるようになっていて、外から無理に抑えなくても万事がよくなるようになっているのです。

それでそんなに意地悪な姑(しゅうとめ)さんでも猫と同じことで、こちらの心が穏やかになって、相手の実相――神の子――という急所を把むと、そうするとみんな猫のように、イヤそうじゃない、神の子のように温和しくなりまして、そうしてみんなあの人も神の子である、この人も神の子であると、本当に大調和した世界が、家庭にも環境にも実現してくると、自分のゆくところ神の子たらざる人はないというようになって円満完全な調和した世界が現われるということになるのであります。

173a hope:2016/07/14(木) 12:32:27 ID:HpPPMIUs

>>172 a hope 所感)

「生命の實相」を拝読するだけで、「迷いの心」が消えて「悟りの心」が現れる・・・、
そして「類は類を招ぶ」の法則によって、周りの環境もどんどん良化していくんですね!

聖典を拝読しない人って、なんか、すっごく損しちゃってる感じですね。

174a hope:2016/07/16(土) 08:33:40 ID:9YJfssAE
七、吾らは自他の悪を云為(うんい)する時間あらば、神を想い、完全を想い、自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

【第7条 説明文の抜粋】 副題「自他の悪を思わず常に光明に転向せよ」

生命の實相第28巻 p26 3行目〜

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と申しますが、なおいっそうそれよりも真実なのは「健全なる肉体は健全なる精神の反映である」ということであります。

概して健全なる肉体を反映するところの健全なる精神は、

『自覚(さとり)の心』
一、 平和の心
二、 明るい心
三、 悦びの心
四、 深切の心
五、 有難い心
六、 無我の心
七、 自在の心

でありまして、その反対の

『迷いの心』
一、 不安、焦燥、恐怖の心
二、 暗い心、陰鬱の心
三、 不平、不満足な心
四、 冷淡な心
五、 忘恩的な心
六、 利己的な心、嫉妬、猜疑、羨望
七、 一事物に引っかかる心

などは病気を起こす心であり、その症状も心の状態相応の形をもって現われるのであります。

細かく分類すれば、病気の数だけ「迷いの心」もあるわけですが、それを一つに纏(まと)めると、「迷いの心」とは、「我執の心」であります。

我執があるから、一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱、不平、不満足、冷淡、忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などがおこってくるのであります。

(略)

不安、焦燥、恐怖が起ってきたときには、不安に思うまい、イライラすまい、焦るまいと思ってそれを抑圧してもたいていは駄目であります。

不安に思うまいと努めれば務めるほど焦り出し、焦るまいと思えば思うほど焦り出し、恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出すのがわれわれの心であります。

それは「不安を……」と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に描きますから、心に描いたものが強く現れるのが心の法則でありますから、「不安を……抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。

「不安」をなくするには、「不安を……」とすら考えないで、全然別なる完全なる状態に心を集中しなければならないのであります。

すなわち、この時こそわれらは、「神を想い、完全を想い」心を旧我から一転せしめて、「神と一つなる自分」を新しく発見するように努めなければならないのであります。

その方法の一つとしては、神想観を行うに当って招神歌(かみよびうた)を誦(とな)え終ると次のように念ずるのがよろしい。

「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。神と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけであっていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。我は神の子であり、我が環境はわが心の影であるから、我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と生命と供給とが満ちているのである」

この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を思わず、今現実に大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達してその神想観を終わり、神想観後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を持続するように努めれば、現実の苦難の状態は克服され実相世界の完全なる状態がしだいに現実生活にまで再現してくるのであります。

175a hope:2016/07/16(土) 08:34:46 ID:9YJfssAE

>>174 a hope所感)

日常生活に追われていると、つい「神想観」を怠りがちになってしまうことがあります。
そんなときは、自分の心が「迷いの心」で満たされているな〜と感じることが多いです。

先日「神想観」の時に、初めの経験ですが、完全に「我執の心」がなくなったように感じました。(自分の存在が無くなったような不思議な感覚)

今まで、坐禅をしても、ヨガの瞑想をしてもそういう気持ちになったことはありませんでした。

生長の家の「神想観」は自分一人が行ずるのではなくて、「生長の家の大神さま」のお導きとお守りがあって行ずるわけですから、
神さまと波長さえ合えば「神さまを感じる」ことができるのだと思いました。

176るん吉:2016/07/17(日) 12:59:44 ID:TWYtDbA.

>>先日「神想観」の時に、初めの経験ですが、完全に「我執の心」がなくなったように感じました。


すんごい体験ですね!
Congratulations on your mysterious experience!(*^▽^*)

177a hope:2016/07/18(月) 08:48:03 ID:xVBwxesw
八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。

【第八条 説明文の抜粋】 副題 「神と偕(とも)に無畏無憂(むいむゆう)の生活を送れ」

われらの心の明朗の極点は「神の無限力」と一体で生きているという自覚であります。

他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さであります。

また次なる重大なる事件が起こってくるとともに、その明朗さは破壊せられずにはいないのであります。

どんな重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件をわれらの真の幸福にまで導き給うものであるとの自覚さえありさえすれば、われわれはその重大なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐れるべきは「重大なる事件」そのものではなく、重大なる事件に驚愕し周章(しゅうしょう)狼狽して「神吾と偕(とも)に在り」との自覚を失ってしまうことであります。

この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光(しょこう)が見えはじめます。

しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、その人は加速度をもって危殆(きたい)の世界に押しやられて行くのであります。


ですから、われわれは何事が起ろうとも事件そのものは恐ろしくない。

どんな成功者といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。

しかし彼が成功したのは普通ならば「失敗」として悲観し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのでありあす。

ヘンリー・フォードは言っています。

「自分はいまだかつて事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共に科学の実験としては成果を収めているのである」と。

まったく常住「楽観病」と評されるヘンリー・フォードが言いそうなことであります。

この常住「楽観病」こそ事業を成功にまで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであります。

取越し苦労患者は、常住楽観者の反対であります。

常住楽観者は失敗の中にでも成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労患者は成功の中でも失敗を見るのであります。

こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったいない」とか、「幸福が続けば必ず不幸がくるのだ」とか。「悪」を心に描いて恐怖します。

そして実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施すところをしらないのであります。


およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネルギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労もせずに名案が浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしまい、時局を好転するに必要なる縦横(じゅうおう)な機略は姿を潜(ひそ)めて出て来なくなるのであります。


取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦(とりで)は神であるから恐るるところのものはない」と断々乎(だんだんこ)として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつけるがよい。

またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗はない、どんな体験も次なる成功に達する一段階であると喜び勇んで、その現在の地点を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。

178a hope:2016/07/18(月) 08:49:33 ID:vdNCBnG6

>>177 a hope所感)

わたしは「現象は無いんだ、すべて影なんだ」って思うと、反対に「この現象世界で思いきり生きてみよう!」という力が湧いてきます。

なぜなら、この現象が影だったら、必ずその影を映し出す元の光があるわけで、
それは、とてつもなく大きくて明るい一つの光 …… つまり「神」なんですよね。

そして、現象でどんな悲惨なことが起っているように見えても、わたしたちは常に「神の光」の中にいるんですから、そう思うと、わたしはとてつもない安心感と幸福感につつまれます。

179a hope:2016/07/18(月) 08:55:02 ID:xVBwxesw

>>176 るん吉さま ありがとうございます(#^^#)

You will have the same experience as me if you do ' sinsoukan ' every day.

Let's enjoy our spiritual life!


わたしも英文で、がんばってみました💦

180誌友会ファン 一読者です。:2016/07/20(水) 12:21:04 ID:j41BUutM
トキさんへ
ユタカですけど?

181トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/20(水) 12:29:11 ID:mh4XEL12
>>180

『web「生命の實相」輪読会』へのご参加を心から歓迎申しあげます。
また、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。

今後とも宜しくお願いします。

宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

182a hope:2016/07/20(水) 15:15:23 ID:xVBwxesw
>>180 ユタカさま

お久しぶりです\(^o^)/

183a hope:2016/07/20(水) 15:15:57 ID:xVBwxesw
九、吾らはたとい躓(つまず)くことありとも渋面せず、その瞬間起き上がりて光明に面せんことを期す。

【第九条 説明文】副題 躓く刹那に光明に転向せよ
「生命の實相」第28巻 p34 9行目〜

人生にはいろいろのことが起こってきます。それは無限創造の世界であるからであります。

われわれが自分だけの小さき立場から、かくあれかしきと祈っても、事件は自分の欲するとおりに展開しないことがあります。

しかしそれは神が諾(き)き給わないのだろうか。

否々否(いないないな)、この時こそ神がわれらにいっそう大なる生長を遂げしめんためにわれわれの内部より無限の力を引き出さんとしてその動機を与え給うているのであります。


あまり裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、なんの苦労なくしていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に育った子女たちは一面においてはまことに不幸な人たちであります。

なぜなら、そういう人たちは、すべての善き物はことごとく外からのみ与えられて、自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。

本当の幸福というものは、自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。

他から与えられた幸福は他(ひと)が立派な着物を着ているのと同じであって、自分自身の立派さでないのです。

自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。自分自身に力がつくほかに自分の強くなる道はないのです。


かかる意味において逆境はわれわれを鍛えて、われわれの中味の善さを引き出してくれる冶金の坩堝(やきんのるつぼ)なのです。

冶金の中に投げ入れられて、われわれは鉛か金か、鍍金(めっき)か本物かがわかるのです。

われわれは好んで逆境を招(よ)ぶのではありませんが、逆境がいかにわれわれを捉えようとも、それはわれわれをいっそう聖化し強化するところの機会だとして、内より奮迅(ふんじん)の力を奮い起こすものはついに大成して逆境を脚下に蹂躪(ふみにじ)ることができるのであります。


されば逆境の来たるごとに※莞爾(かんじ)として感謝せよ。これが「生長の家」の生活であります。

微笑は心の中に光明を点じていっさいの苦難を耐え易からしめ、失われたる希望を喚(よ)びおこし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであります。

キリストは「死にし者は死にし者に葬らせよ」と言っています。

すでに来れる逆境を嘆いたとてなんになりましょう。すでに来たり終われるものは「すでに死せる者」なのです。

「すでに死せる者」について歎いてみたとてなんになりましょう。すでに来たり終れるものを嘆き悲しむ暇(いとま)あらば、莞爾として新しい幸福に突進すべきであります。

光明に満てる微笑こそはわれらによき運命の微笑を招ぶのです。我れ渋面すれば運命も渋面するのです。

「嬉しいぞ、これから運命が開けるのだ。」苦難に捉われず、難関の来たるごとに、莞爾として微笑しつつ奮迅の勇気を奮い起こすものこそ生長の家の生活であって、必ずいかなる難関をも征服して自己自身の力で幸福になる運命を建設することができるのであります。

※莞爾… にっこり。 (頭注より)7

184a hope:2016/07/20(水) 15:19:54 ID:xVBwxesw

>>183 a hope所感)

「生長の家」の伝道とは、もちろん、個人指導をして現実的な悩みを解決してあげることも含まれると思いますが、
それよりも重要なことのは「真理」を自分自身で追究し、悟り、すべての悩みを自分の力で解決できるように
人々を導いていくことなのではないかとと思っています。

いつまでも人の力に頼っていては、その人の魂の生長はないと思うのです。


次の第十条には、どうして隣人救済(個人救済)が重要なのか、どんな風に助けていったらよいかが詳しく説明されています。

素晴らしい内容なので、みなさんも第28巻をお持ちでしたらぜひ拝読してみてください!

186トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/20(水) 21:00:48 ID:mh4XEL12
>>184

 そうですね、基本的に生長の家というのは、生命の実相を読んで感激した
人達が自発的に集まって、この喜びをみんなに広げよう、という運動を始め
たのです。それが、いつの間にか、変な方向へと曲がりましたが、本当は
一人一人が神の子の自覚を持つことなんですね。

 以前、復興G 様が、一人一人が法灯継承をする、ということを言われまし
たが、そういう発想が大事なのかもしれません。

187a hope:2016/07/23(土) 22:10:50 ID:xVBwxesw
十、吾らは出来る限り悩める隣人を扶(たす)けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。

【第十条 説明文の抜粋】 副題 隣人を光明生活に生かせ
生命の實相第28巻 p36 後から6行目〜

人間は自己が幸運を築き上げたばかりで満足すべきではありません。自己が幸福になったならばこの幸福を人に及ぼさなければなりません。

われわれは肉体的には周囲の人とはなんの関係もない孤立した存在のように見えますけれども、その実、われらはことごとく一体なのでありますから、周囲の人が本当に幸福にならない限りは、自分一個人も本当には幸福になれないのであります。

単に病気の問題のみからいってみましても、良人の病気が妻の心の反映から来ている場合はザラにあります。妻の病気が良人の心の反映から来ている場合もたびたびあります。子供の病気が親の心の反映で起こっている場合もたびたびあります。

さらに祖先の霊魂の霊界での悩みが現実の世界の子供に不幸や病気を起こしていて、祖霊に対して『生命の實相』を読んで聞かせるだけで子孫の病気が消えたり、運命が好転したりしてくる場合がたびたびあります。

そのほか他人の嫉視憎悪反感がわれらに不幸をもたらし、それが解消することによって不幸が消えてなくなることもあります。

このようにわれわれの肉体としては離ればなれのように見えましても、心の世界では一つでありますから、自分自身が本当に幸福であるためには、推し及ぼして周囲の隣人をも幸福にしてあげなければならないのであります。
(つづく)

188a hope:2016/07/23(土) 22:14:46 ID:xVBwxesw

>>187 a hope所感)

ここの部分を拝読すると、なぜ、隣人救済をすることが自分の本当の幸せに繋がるのかががよくわかります。

これは「情けは人のためならず」という日本のことわざの意味とも通じると思います。


※情けは人の為ならず (故事ことわざ辞典より)

【読み】 なさけはひとのためならず
【意味】 情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。人には親切にせよという教え。

http://kotowaza-allguide.com/na/nasakewahitono.html 


それでは、いったいどういう「情け」をかければ本当に隣人が救われて、自分自身も本当の幸せを感じることができるのでしょう・・・。

189a hope:2016/07/24(日) 07:16:41 ID:vdNCBnG6
(>>187 つづき)
p37 8行目〜
ある場合には物質で扶(たす)けてあげることもよろしい。しかし物質で扶けることは一時的の救助になっても永遠の救いとはならないことが多いです。

物質で扶けてもらう習慣性がつきますと、その人の他に頼る依頼心が増大し、かえってその人の永久の救いとならないことが多いものです。

ですから隣人を救うには、心に光明を点ずる方法を教えてあげる方がいっそうよろしいのであります。

といって、全然「物質」で隣人を扶けるのが悪いというわけではありません。「物質」で人を扶けてよい場合は、……

(略)
p38 後から6行目〜
いつも物質を与えるばかりで人を助けるのは、年中消化剤を与えて胃腸を丈夫にしようとするのと同じことです。そんなことをすれば本人自身の自活能力は減ってしまうのです。これでは人を助けたことにならないのです。

本当に助けることは本人の力を強め、価値を高め、その人格を向上さし、神の子そのままの自主的完全さにまで生長せしめてあげることでなくてはなりません。

(略)
p39 8行目〜
「物質では短期間助けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。

温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。

明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛嬌ある微笑、「何、大丈夫だよ」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。

かかる光明を降らすような交わりこそ生命の泉であります。その生命の泉に触れるときわれわれの衰えた活力は蘇生(よみがえ)るのです。

これは外のものに頼るところの依頼心ではありません。われわれの愛が、相手の内に埋蔵(かく)されていた無限の力を喚び起こすのです。

これこそ本当に隣人への助けです。

生長の家の誌友は互いに兄弟なのですから、ただひとり聖典を読んで高慢に他(ひと)を批評するようなのは本当ではありません。

本当の悟りは人間互いに兄弟であることを悟って、互いに好意の花葩(はなびら)を投げかけ合うことです。

好意ある微笑、希望に満ちた光明の掛声こそ失意のドン底にある人々にとってどんな物質的扶助(たすけ)よりも、大きなる助けになるのです。

悟りとは、人を審判(さば)くところの鋭い知識のメスを研ぎすますことではありません。

悟りとは広く大いなる明るい人物になることです。

悟りとは山に籠って行いを澄ましていることではありません。

市(まち)に下って誰にてもあれ、魂の光明を打ち開いてその光で相手を包んでしまう人のことです。
(つづく)

190a hope:2016/07/24(日) 07:17:55 ID:vdNCBnG6

>>189 a hope所感)

本当にここの第十条の説明文には、まさに、わたしたち「生長の家」の家族がどういう態度、
どういう心持で隣人扶助をなすべきかが述べられているとても重要な箇所であるとわたしは感じていますが、
みなさんはどう思われますか?

省略した部分にもとても大切なことが書かれているので、本当は全文を謹写したいのですが、
それではすごい長文になってしまうので涙を呑んで割愛しています。

「生長の家」のみなさん、ぜひ、聖典「生命の實相」第28巻のp36「隣人を光明生活に生かせ」を全文を拝読してみてください。

<<「物質では短期間助けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。
温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。
明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛嬌ある微笑、「何、大丈夫だよ」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。
かかる光明を降らすような交わりこそ生命の泉であります。その生命の泉に触れるときわれわれの衰えた活力は蘇生(よみがえ)るのです。>>

特にこの部分を拝読している時、わたしは、宇治別格本山で受けた練成会での数々の素晴らしい出会いを思い出していました。


ところで、いつだったか、純子先生がブログで、月1回「子供食堂」をはじめられたと発表されていましたが、
あれは現在も継続されておられるのでしょうか?

子供食堂で無料、もしくは格安の金額で食事を提供するのは、物質的援助に当たると思われますが、
「生長の家」の白鳩会総裁であられる純子先生はすでに物質的援助は終了されて、生長の家のお山のオフィスから市井に下られて、
生活難や病気で苦しんでおられるたくさんの市井の方々を生長の家の「温かい愛」で救済されてくださっておられるのでしょうか?

191a hope:2016/07/28(木) 14:02:17 ID:xVBwxesw
>>189 つづき)

「生命の實相」第28巻 p40 8行目〜

われわれの心が狭くなれば、われわれは生長したのではなく、縮小したのです。

宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。

誰にてもあれ、人を審判(さば)く一つの尺度を持つようになったならば、その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる代わりに小さくなったのであります。

その時その人には人を排斥する力ばかりが強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停(とま)ってしまうのであります。

皆さんはただその人の側へ坐るだけでもなんとなく険しい、気詰まりな、憂鬱な、窮屈な感じを受ける人がありましょう。

またある人の側に坐ると春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)のような感じがして、なんでも打ち明けて話したい、その人の胸に飛び込んで抱擁されたいような感じがすることがありましょう。

これは人それぞれの人格の雰囲気でありまして前者のような感じがする人は何事をやっても発達しない人であり、後者のような感じのする人は何ごとをやっても発達する人であります。

192a hope:2016/07/28(木) 14:04:10 ID:vdNCBnG6

>>191 a hope 所感)

<<宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。
誰にてもあれ、人を審判(さば)く一つの尺度を持つようになったならば、その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる代わりに小さくなったのであります。
その時その人には人を排斥する力ばかりが強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停(とま)ってしまうのであります。>>

「生長の家」のみなさんはこの聖典のお言葉を読まれてどう解釈されますか?

193神の子さん:2016/07/28(木) 14:21:32 ID:IN5M8yuw
>>「生長の家」のみなさんはこの聖典のお言葉を読まれてどう解釈されますか?

他人のことはどうでもいいでしょう。自分の見ている世界は自分の心で翻訳した世界ですから。
目を瞑っている時だけ実相世界に住んでいて、目を開いている時には違う世界が見えるのであれば、あなたが違う世界に住んでいるというだけのことです。

194a hope:2016/07/28(木) 14:48:36 ID:vdNCBnG6

>>193

そうですね、ここは「生命の實相」を拝読して、自分の所感を述べる輪読会板でした。

それでは、a hopeの>>191の所感を述べますね。

わたしは、現在の「生長の家」教団も本流関係のどこの団体もまことの「生長の家」を信仰されていないと思っています。

理由は、和解されていないからです。

でもだからと言って、今のわたしにはそれを批判するつもりはまったくありません。

これからも、どこの団体にも属さず「生長の家」を信仰して行きたいと思っています。

195神の子さん:2016/07/28(木) 15:13:02 ID:IN5M8yuw
>でもだからと言って、今のわたしにはそれを批判するつもりはまったくありません。

気持ちは分かりますが

>これからも、どこの団体にも属さず「生長の家」を信仰して行きたいと思っています。

となりますとほかの団体に所属している人達から見れば、この人は『私たちの生き方は可笑しいと思っているのだ』と考えるでしょうね。
本流を自認する人たちが教団の中で、自分たちの生き方により、教の理解の正しさを証明したらよかったけれど、五官で環境を見てしまった結果今の状態になったのでしょう。

大調和の神示の実践は難しいものですね、自分がある人にとっては、虚説とは和解してはならないというけれど、虚説を信じている人とどのようにして現実に和解するのでしょうか。

196a hope:2016/07/28(木) 15:57:30 ID:vdNCBnG6
>>195

<<となりますとほかの団体に所属している人達から見れば、この人は『私たちの生き方は可笑しいと思っているのだ』と考えるでしょうね。>>

はい、そう思っています。

<<本流を自認する人たちが教団の中で、自分たちの生き方により、教の理解の正しさを証明したらよかったけれど、五官で環境を見てしまった結果今の状態になったのでしょう。>>

いえ、それは、組織の中にいたらとても難しいことだと思います。


本流を自任する人たちの生き方に原因があるのではなくて、
「生長の家」の総裁・副総裁が「生命の實相」の教えを実践していないということが、
今の生長の家騒動の、一番の原因になっているのだと拝察しています。

197a hope:2016/07/28(木) 16:30:41 ID:vdNCBnG6
「生命の實相」第28巻 p42 7行目〜

生長の家とはわたしの家でもなければ、また「生長の家」という表札を出してある大きな建築物をいうのではないのです。

心の法則に従って宇宙生々の雰囲気を漂わせている皆様自身の家庭が生長の家なのです。

そういう家庭の満つる国家は、「生長の国家」であり、全世界がそういう国家ばかりになったら、地上に天国が成就したことになるのです。

何でも一歩からです。

まず一人が和顔愛語の「生長の人」になることが肝心です。

顧みて自分が和顔愛語の人たらずして、人の好意と深切とを受ける雅量なく、順序を誤ったからどうだとか、体面にかかわるからどうだとか、手続きにまちがいがあるからどうだとか、形にあらわれている一つ一つの欠点を拾い上げて、相手を審判(さば)いているようなことでは、あなたの事業は生長の家ではなくて伸びるべきものも伸びなくなるのですから、この点大いに御注意ありたいのであります。

198a hope:2016/07/28(木) 16:32:26 ID:xVBwxesw

>>197 a hope所感)

正直にいえば、わたしの現象の家庭は<<心の法則に従って宇宙生々の雰囲気を漂わせている家庭>>とはいいがたい状態です。

だから、わたしはどなたのことも批判はできないのです。

ただ、自分の思っていることを、ここで素直に述べさせていただいています。

そして、一人でも多くの人に聖典「生命の實相」の素晴らしさを再確認していただいて、まことの「生長の家」の信仰を取り戻していただきたいと思っています。

わたし自身も、一日もはやく常に和顔愛語の「生長の人」となれるように「生長の家」を信仰しつづけます。

199a hope:2016/07/30(土) 19:07:39 ID:vdNCBnG6
十一、吾らは自己の好む所を他に施し、自己の好まざる所を他に転嫁せざらんことを期す。

【第十一条 説明文の抜粋】  副題「まず自分に深切であれ」
「生命の實相」第28巻 p43 

この「生長の家」の生き方はどこから出てくるかと申しますと、われわれの実相から出てくるのであります。

自分の好まないところを他人(ひと)に施さず自分の好む所を他人に施す、これは実践道徳上の最も根本となる指導方針であります。

生長の家では「自分に深切であれ」という金言があります。

世間普通の道徳では「他人に深切であれ」というのでありますけれども、生長の家ではまず「自分に深切であれ」というのであります。

キリスト教の聖書にも「己を愛するがごとく神を愛せよ」あるいは「己を愛するがごとく隣人を愛せよ」というような言葉がありますが、この聖句を考えてみますに、「己」というものが、神を愛し隣人を愛する基準になっているのであります。

神を愛するのも、己を愛するのも、まず「己を愛するがごとく」でありますから、もしわれわれが本当に自分を愛することができなかったならば、本当に神を愛することも、また本当に隣人を愛することもできないのであります。

それで、われわれの道徳の根本原因になるのは、いかに自分を愛することができるか、という程度にあるのであります。

それでは「自分自身を愛する」とはどういうことであるか、と申しますと、自分というものを最も尊敬すること、自分の実の相(すがた)を本当に知って尊敬することであります。

自分の実の相が神の子である、あるいは仏の子であるということを根本的に知ることこそ、自分を本当に愛するということになるのであります。

普通世間の人は「自分を愛する」といえば、自分が金儲けするとか、あるいは地位や名誉を得るとか、そういう利己的なことで得をすることを「自分を愛する」ことだと思っていますけれども、それは本当は自分を愛するものではないのであります。

自分自身を愛するということは、自分自身を最も大きく観るということであります。

この自分自身を最も大きく観ることができる人にして、はじめて他の人をも愛することができるのであります。

自分を愛する程度にしたがって本当に他をも愛することができるのです。

人間なんてつまらないものだと考えて自分を軽蔑している人は、その同じ人間であるところの他人をも軽蔑する人であります。

200a hope:2016/07/30(土) 19:09:50 ID:xVBwxesw

>>199 a hope所感)

以前「わたしかわいい」を連発してひんしゅくを買っているアイドルがいましたが、
「生長の家」の「自分を愛する」とはそういうことでもありませんね(笑)

ここでいう「自分を愛する」というのは、現象の自分に自己陶酔(ナルシシズム)することではなくて、
「神の子」である自分の実相を自覚することなのですね。

だから、どんなにかわいい子でも、「神の子」らしからぬ行動をしたら、ピシッと叱ってあげ、
「本当のあなたはそんなことはしないはずよ」と教えてあげるのが、本当にその子を愛するということになるのだと思います。

それは、相手が大人であっても同じですよね?

「あなたのしていることは間違ってますよ」と教えることこそ、本当に深切な、本当にその人を愛することなのだと思いました。

201a hope:2016/07/31(日) 19:52:51 ID:vdNCBnG6

みなさん こんばんは。

今日で7月も終わりますが、第8巻が終わらないので第3回「生命の實相」輪読会をこのまま継続させていただきます。

「われらの祈願および修養」は、生長の家の信徒の「神の子」としてとしての心構えや、なすべきことが確認できる素晴らしい内容です。
みなさまのご参加を心からお待ちしています\(^o^)/

202a hope:2016/07/31(日) 19:53:24 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会案内 改訂版

期間   平成28年6月1日〜8月31日まで
テキスト 第28巻 久遠仏性篇 下
内容   8月1日〜「われらの祈願および修養」p43〜
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

203a hopea:2016/08/04(木) 18:09:38 ID:vdNCBnG6
十二、吾らはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光明思想『生長の家』をひろめ全人類に真理を伝えん事を期す。

【第十二条 説明文の抜粋】 副題 「真理を伝えるのは愛の道」
生命の實相第28巻 p53 10行目〜

さて、この光明思想「生長の家」を人類に弘めるということは、何も自分が物質的利益を得るために弘めるのでもなければ、自分は人に道を説くところの第一番の高き導師(どうしであるという名誉心を満足せしめるために弘めるのではない。ただわれわれは、自分が仏であるという自覚を得たときに、そうしてまた他の人々も同じく仏であるということを知った時に、その仏であるべき人間が仏でないような相(すがた)の現われているのを見た時に気の毒になってたまらない、自分は仏である、あの人も仏であるのに、あんなに仏でないと思って、あんなに貧しい相(すがた)をし、あんなに病める相(すがた)をしている、あんなに悲しい相(すがた)をしている、とどうも気の毒でならない、とこう気がついた時に、どうしてもその人が仏であるという実相を知らせてあげなくてはならない衝動に駆られるのです。

これは結局「自分と他とは本来一体である」事実から出てくる衝動であって、自分が仏であるということがわかったら相手に対しても仏であるということを知らせずにおれない。

自分が神であるということがわかったら相手に対してもまた神であるということを知らさずにはおられない――これが自他一体の愛――仏の愛であり、神の愛である。

そしてそれを実行するのは菩薩の行であるわけであります。
(つづく)

204a hopea:2016/08/04(木) 18:10:45 ID:vdNCBnG6

>>203 a hope 所感)

ここに、真理を大悟された谷口雅春先生が、人類の苦悩を見て大慈悲心をおこされ、
「生長の家」の火をかざさして人類の前に起たれた時の心境が述べられています。

「気の毒でならない… 実相を知らせてあげなくてはならない… 衝動に駆られる…」と、
心の内側から湧き起こってくる感情(慈悲心)に突き動かされた様子がとてもよく伝わってきます。

まことに「自他一体」を悟ると、自分の利益や名誉などどうでもよくなり、人類救済のために起たずにはいられなくなってしまうようですね。

206a hopea:2016/08/08(月) 12:55:30 ID:xVBwxesw
(>>203つづき)
「生命の實相」第28巻 p54 7行目〜

ですから、この「生長の家」を弘めるというと、何か雑誌を弘めるというようにお考えになる方もあるかもしれませんけれども、これは雑誌を弘めるのではない、「仏」を弘めるのである、「神の子」をひろめるのである。

すべての人間を「仏」にし、「神の子」にする言葉の響きを弘めるのであります。

キリストは路傍で説教した。日蓮は辻説法した。

これは何も自分自身のためにするところの運動ではない。

辻で説法するのは下品だとか何だとかいっておれないのは人類を愛するからなのです。

すべての人間を、われ自らのごとく愛するから、その悟った真理を伝えずにはいられないので、世間から見たら格好が、悪いのいいのといってはいられないのです。

自分自身が「神の子」であり「仏」であると悟ったらそれを全人類に弘めなくてはいられない。

ですから今までいろいろ宗教が現れてきておりますが、すべての教祖はその已(や)み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、「神の子」を伝えたのであります。
(つづく)

207a hopea:2016/08/08(月) 12:56:54 ID:xVBwxesw

>>206 a hope所感)

本当は「仏」「神の子」を人類に伝えるのが、「生長の家」の人類光明化運動なんですよね…。

ですが、

<<すべての教祖はその已(や)み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、「神の子」を伝えたのであります。>>

とありますから、悟り切れていないわたしたち信徒には、その<<已(や)み難き衝動>>が足りないのかもしれませんね。

谷口雅春先生が起こされた「生長の家」も、谷口雅春先生が天界に昇天された今はこのように混乱してしまっています。

つづけて謹写していきます。

208a hopea:2016/08/08(月) 17:03:17 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p55

しかしそれぞれの時代、その環境に応じて、その教えを伝え広める形式は変わってきたのであります。

過去の時代には、通信機関や印刷機関が不便でありましたので、おおむね直接説法によらなければならないから、説法のコトバの力で「仏」を大量生産することができなかったのであります。

ところが、現代においてはこの「生長の家」が出現して、印刷物によって「仏」をヒビキ伝えるという不思議な、現代応現の用(はたらき)というものが出てきたのであります。

現代のようにこんなに人口が殖え、そうして学問が進歩し、印刷術が発達している時代に、今までのような姑息な、単に教会という一つの建物、あるいは寺院という一つの建物の中で牧師や坊さんが喋っているというだけでは、なかなか人類全体に「仏」を伝えることはできないのです。

ですから、この時代に最も相応(ふさわ)しく、活字の力というもの、印刷の力というものを以て、また大量生産的に「仏」の響きを出させて、したがってまた大量生産的に救われるということになったのであります。


そんなわけで、この「生長の家」からでる出版物は、活字を組んで列(なら)べてあるだけでありますけれども、その列んでいる言葉そのものは「仏」のヒビキでありますから、解脱して自由自在になった生命のヒビキでありますから、『生長の家』がある誌友のところへ着いただけでその誌友の病気がよくなったとか、あるいは乱視が治ったとかいうふうな不思議なことも往々起こってくるのは、「生長の家」の出版物が単に活字を列べて紙の上に印刷してあるというだけのこのではない、そこに文字に「仏」の自在無礙の響きがあり、言葉に「神の子」の解脱の響きがあるからであります。

その言葉の響き、文字の響きを全世界に弘め、これによって全世界が光明化され、それを受け取りそれを読んだすべての人が自己のうちに宿っている仏の響きに共鳴して、発現されて、そうしてみなみな自分が仏であるということを自覚することができる。

こうなれば「仏陀(ほとけ)」の大量生産が成就するのであります。

209a hopea:2016/08/08(月) 17:04:24 ID:xVBwxesw
>>208 a hope所感)

そうなんですよ。
たとえ、谷口雅春先生がもうこの現象界にいらっしゃらなくても、わたしたちには「生命の實相」を始めとするたくさんの聖典があるのです。

たくさんの聖典を残して下さった雅春先生に心から感謝します。
ほんとにわたしたちは幸せですね!

210a hopea:2016/08/09(火) 19:10:17 ID:xVBwxesw
十三、吾らは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝(ようはい)し奉り、次いで一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇又は仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、且つ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年の如く生きんことを期す。

【第十三条 説明文の抜粋】副題 「皇室および一家の祖先を礼拝せよ」
「生命の實相」第28巻 p65 後から3行目〜

このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。

これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝(ようはい)し」ということの意義もわかりません。

皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。

いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈(こうりゅうふちん)はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の重心のごとくドッシリとして、その中心がどんな時にも日本国が立ち直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇のこの御恩沢(ごおんたく)を忘れてはならない。

恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠(まこと)を捧げるのであります。

211a hopea:2016/08/09(火) 19:11:16 ID:xVBwxesw

>>210 a hope所感)

天皇陛下が生前退位に関するお気持ちを表明された映像を拝見しました。

一つ一つのお言葉に気持ちをこめられて、丁寧に文章を読みあげられている天皇陛下を拝見していて、
たいへん不遜ではありますが、わたしの心に肉身のお父さんの言葉を聞いているような不思議な感情が湧き上がってきました。

天皇陛下は、全国民のことを、自分の肉身の子供のようにお感じになっておられるのではないか・・・?

お言葉の中に、「とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」という件がありましたが、
天皇陛下におかれましては、わたしたち全国民が家族であるとお感じになって、
その家族の心からの安寧を思っての今回のお気持ちの表明だったのではないかと感じました。

わたしは、天皇国日本に日本人として生まれたことを誇りに思っています。

そして、天皇陛下、皇后陛下を心から敬愛しています。

212a hope:2016/08/13(土) 11:26:20 ID:xVBwxesw
>>211 訂正

肉身→肉親と置き換えて読んでください。大変失礼しましたm(__)m

213a hope:2016/08/13(土) 11:26:55 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p68 6行目〜

「実相の生命」には来世ということはない、生まれ更(か)わるということはないのでありますが、仮存在としての生命は生まれ更わるのであります。そうしてこの肉体の世というものもこの仮存在の一つであります。さて、その仮の世というものが何でできているかと申しますと、業でできているのです。業というのは何であるかというと、「念波」であります。「念波」の集積が業であります。

そこでわれわれの肉体というものは、科学的にはこれは物質の体(たい)で、物質の体とは何であるかというと、エーテルの波の中にできた渦巻の塊(かたまり)である。そのエーテルも本来無いというような最近の説もありますが、結局「何もないもの」無の一種の波であることになっているのであります。

そんなわけで、この肉体というものも何もないものも一種の波であるのでありますが、肉体として現われている波と、霊魂として現われている波とがあるのです。眼に見える波動(すなわち肉体)だけを存在すると思ってはなりません。眼には見えない、われわれの五官に触れない無数の波動が存在することを知らねばなりません。赤外線でも紫外線でも眼に見えませんが、眼に見える可視的光線よりもかえって強い働きを現わすのであります。

われわれはこの地上の生活においては肉体という眼に見える波動的体を現わして、この物質界という波に触れることによって、この波の世界ならでは体験するできない経験を得て、だんだん修行しつつ、この地上の生活によって「有」の第一段階を終えると、今度は肉体という粗雑な波動の体を脱いで、そうしていっそう精妙な霊体の波だけになるのであります。これがいわゆる日蓮上人のいわれた「魂魄(こんぱく)」であり、霊体の波だけになってそうしていろいろまた霊界において活動するということになるのであります。

われわれの祖先も肉体を滅しても霊体の波はやはり存在しておりますので、その霊体の波たるや、その人の悟りの程度にしたがって千差万別の状態を現わしているのであります。それは現世においてもこの肉体という波動的存在がその人の悟りの程度にしたがっていろいろの波を現わして、健康であったり病気を顕わしたりしているのと同じことであります。

(略)

p70 後から6行目〜
ですから、われわれが自身が霊界に行きましても、この世で生活が下手な人は霊界でも生活が下手である。霊界で病気している霊魂もあれば、悩んでいる霊魂もある。それはちょうど、下手な画家であれば板の上に描いても布カンバスに描いても依然として下手であるというのと同じであります。ですからわれわれ自身がまたは他(ひと)の霊界における生活状態というものを良くしようと思うと、やはりどんなカンバス――現世とか来世とかいうカンバスがどんなに変わっても――どんな画布(カンバス)の上に描いてもいい絵がかけるようにしておかなくちゃならない。

われわれは「現世」とか「来世」とかいうカンバスに何でも絵を描くかというと、念波で絵を描くのであります。念波といる絵具をもって絵を描くのでありますから、その念波を善くし、またよくしてあげることが必要であるのであります。

最もよい念波は何であるかと申しますと、悟りの念波なのであります。この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施というものでありまして、最も尊い施しであります。われわれは人に物を施すのは、物施といって物を施すのと、それから法施といって悟りの念波を施すのとがありますが、真理(さとり)の念波を施すということが本当の最も根本的な供養になるのであります。
(つづく)

214a hope:2016/08/13(土) 11:28:49 ID:vdNCBnG6

>>213 a hope所感)

本当に不思議に感じるのですが、ここで聖典「生命の實相」を学んでいると、その時の状況にピッタリの内容を学ぶように導かれていきます。

わたしは、この輪読会板(web誌友会板)では、ただひたすら第1巻から順番に何の作為もなく聖典「生命の實相」を学ばさせていただいています。

ですが先日、ちょうど天皇陛下が生前退位のお気持ちを表明された映像を拝見した直後に開いたページには、
日本において皇室がどれほど大切なものであるかが述べられていて驚きました。

そしてお盆の入りの今日、謹写した部分には、まさに先祖供養の重要性が書かれています。

本当にわたしは、何かに導かれてここでお勉強をさせていただいているとしか考えられません。

心をこめて、聖典「生命の實相」のお言葉を謹写させていただくことも、とてもよい先祖供養になると思われます。

謹写をつづけさせていただきます。 合掌。

215a hope:2016/08/13(土) 13:02:32 ID:vdNCBnG6
>>213つづき)p71 9行目〜

むろん、われわれは霊界へ行きましても、しばらくの間はこの地上における薫習(くんじゅう)が脱げないのでありまして、地上において御飯を食べておったような霊魂たちは、霊界へ行っても「御飯を食べたいな」というふうな感じがするのであります。

そういう霊魂たちに対して食物をお供えしてあげるということは必要であります。

「食物をお供えしても、お下がりを見ると何も食っておらん。何も食っておらんからあんなことはただ形式的である」とこうお考えになる人もあります。

けれども本当はそうじゃない。

霊魂は何を食べるかというとわれわれがこれをお供え申したいという「念波」を食べるのであります。

それでリンゴならリンゴをわれわれが持って行って「リンゴをお供え致します」と、本当にその念を切実に念ずると、われわれの心にリンゴというものが念によって描かれ、そうして念に描かれたリンゴと、あの人にあげたいというすなわち念送の原動力が結合する。

すなわちリンゴを祖先の霊(みたま)に送ろうという念波の放送により、供える人の念によって造られたリンゴというものが霊魂の世界へ念波の放送に乗って行くということになるのであります。

すると霊界には念によって仮作されたリンゴが出来上がる、そうすると「あれはわたしに供えて下さったのだからいただこう」という気が起こると、すっと自分の口へ入ってしまって、そうして「おいしい、ああ満足した」という気持ちが起こるのであります。

その状態は「無量寿経」に書かれている極楽浄土の状態のようなものであります。

霊界は念波で作られた世界であって、われわれは供養の念を供えて、食べていただくということになるのであります。

むろんもっと向上した霊魂――肉体は無い、何も食べなくてもわれわれは神の生命によって生かされているのであるという自覚を得た霊魂たちは決して何も食べたいとは思わないのでありますけれども、しかし、自分に対する愛念をもって供えて下さったという愛の念(こころ)はやはり喜びとなり、その人を生長させることになるのであります。

霊界は念の世界であって霊魂たちというものは何を食物として生きているかというと、念を食物として生きているのです。

善念は最も生長せしめる滋養物となるし、悪念は霊魂を低下せしむる害物となるわけであります。
(つづく)

216a hope:2016/08/13(土) 13:03:19 ID:vdNCBnG6
>>215つづき)p72 後から1行目〜

ですから、われわれは近親者が旅行でもするという時に、陰膳(かげぜん)というのを据える人がある。

あれもまたはなはだよいことであって、迷信ではないのであります。

その人を目当てに陰膳を据えて、「どうぞおあがり下さい。どうそ健康でいらっしゃいますように……」と念ずると、必ずその念波がその人に通じて、その人が食物に不自由しない、あるいは不自由するようなことがあってもあまり腹が減らないで、念波の食物を吸収しているから腹が減らないで、不思議に元気で働けるということになるのであります。

そういうふうに霊魂の食物というものは、われわれから与えられる善念をもって最も滋養物とするのであります。

ことに、われわれが真理(さとり)の念波を放送して、真理の念波を相手方の霊魂に吸収させてあげるということは霊魂には絶大な供養になる。

それですから、この『甘露の法雨』のようなお経でも、『生命の實相』でも、また真理が書いてあるものならキリスト教の聖書でも、仏教のお経でもよろしいのです。

それを先祖の霊魂に、意味がわかって読んで誦(あ)げるということは大変よろしい。

ただ意味の分からぬ漢文の棒読みを、何が何やら分からないで誦(あ)げているのでは、供養の愛念の放送としてはいくぶん効果があっても、それはサトリの念波ではないから最高の救いにはならないのであります。

最高の救いは、やはり真理のお経を意味が本当に分かって読むに限るのです。

そうしますとそのお経を捧げられる相手方の霊魂は非常に心が富み、心が満腹し、生命が生長するということになるのであります。

ですからわれわれは暇があれば朝晩は必ず「祖先の霊魂の悟りのための供養として……」といって生長の家の聖経『甘露の法雨』を誦(よ)むなり、先祖から伝わっている宗教の経典を読むということにされることが祖先に対する子孫の務めなのであります。
(つづく)

217a hope:2016/08/13(土) 13:04:22 ID:xVBwxesw
>>216つづき)p74 4行目〜

よく病気の方で、あんたは祖先の障(さわり)りがあるからこれを誦んであげなさいと申しますと、治ったら読まなくてよいかというようなことを考えておられる利己主義者の人もありますけれども、これは自分が病気でなくても、病気が治っても、治らなくともわれわれは祖先というものがあって今ここに生きている機縁を与えられているのでありますから、その祖先に対してわれわれが供養する、お経をよんで真理の念波を供養する、実相のサトリを供養するということは実に大切な子孫の務めであります。

この子孫の務めを行うことそのことが善事であって、その結果自然とわれわれに幸福が恵まれてくるということは、これは副作用とでもいいますか、随伴的な功徳であって、その功徳そのものを目指すのではないのであります。

しかし実際上祖先に対してよく真理を施しておられる人々は、祖先の守護も多く、また自分の善念の具象化として不幸というものがないのであります。

218a hope:2016/08/13(土) 13:05:42 ID:vdNCBnG6
>>215>>217 a hope 所感)

生長の家の信徒の方だったら、当然先祖供養には「甘露の法雨」を読誦されておられると思いますが、
わたしは聖典「生命の實相」をじっくり拝読することもまた、最高の先祖供養になるのではないかと感じています。

祖先は木の根っこ、そして両親は幹、わたしたちは枝であると教わりました。

わたしたちの生命はいつも祖先と繋がっている・・・本当にありがたいですね!

合掌。

219浄円月:2016/08/19(金) 19:57:57 ID:USIpXU9o
私も生命の實相や、真理の吟唱を拝読することも、ご先祖供養に繋がると思います。
この板は、素晴らしいですね。
以前投稿したことがありましたが、久々の投稿です。

220a hope:2016/08/20(土) 11:02:05 ID:xVBwxesw
十四、吾らは実在の実相のみを見、移り変わる仮の相(すがた)にとらわれず、常に光風霽月(こうふうせいげつ)の如き生活を営みて情(こころ)を動ぜざらんことを期す。

【第十四条説明文の抜粋】副題 「ものの内在生命の尊さに目覚めよ」

「生命の實相」第28巻p79 後から3行目〜

生長の家でよく「肉体はない」「物質はない」などと申しますと、何もないかのようにお考えになり、何物も無いと思って、「物質なんて粗末にしてもいいんだ、物質は無いのだから」というような人があります。

これは空思想に捉われた断見であります。

何も無いのではないのであって、そこに実相があるのであります。

物質は無い。物質は無い代わりに実相があるのであります。

「物」を見て「物質」だと思うからいけないのです。

神の生命だと見るのであります。

(略)

p81 5行目〜

……物質と見えるものの観方にも、それを単に「物質」と見る観方と、生命の表現として見る観方と二つあります。

生長の家の教育は物質を物質と観ないで生きた生命の表現として観、そこから生命を引き出すという芸術的観方であります。

(略)

p82 2行目〜

すべてのものは物質を見ていると善さが分からない。ジッと実相を見るとそのよさがわかってくるのであります。

芸術家は表現の上に生命の善さを現わし、教育家は生活の上に生命の善さを引き出すのであります。

すべての人々の実相を見るという立場になった時に、すべての人間がすなわち生命である――神の子であるということが感得されるのであります。

そういう立場において、はじめてすべてのものが、なるほど美しいものである、善なるものである、調和したものであると感じられるのであります。

こう感じるように生命を引き出すのが本当の教育であり本当の宗教であり、本当の芸術であります。

生長の家の生き方はすべての事物に対してその奥底にある善さを見出して、それを生かす生活であります。

221a hope:2016/08/20(土) 11:03:18 ID:vdNCBnG6
(a hope 所感)

「物質なし」の教えを「何もない」って解釈すると、虚無感だけが増してたいへんなことになってしまいます。

つまり、わたしたちが物質だと思っているものは「影」に過ぎないけれども、その影を映しだしている実相は確実に実在している、
だから、「物質を物質と見ずにその奥にある実相を見よ」というわけなんですね!

222a hope:2016/08/20(土) 11:12:05 ID:vdNCBnG6
>>219 浄円月さま

輪読会ご参加、そしてあたたかいお言葉をありがとうございます。
とてもマイペースですが、ここでお勉強を続けさせてただくことが生活の励みになっています。

浄円月さま、またいつでもご参加くださいね!

223浄円月:2016/08/20(土) 13:31:46 ID:pWbnGXMw
a hope様

ありがとうございます。また参加させてください。
物は物ではなくて、神の生命の現れなのですね。
生長の家の生き方は、すべての事物に対してその奥底にある神を見出してそれを生かす生活であるとのこと。。家庭も会社もすべてに通じますね。
目の前に自動車がありますが、この車をどう観て使用していくか。。
何に対してでも言えますよね。
午後もすべてに神を観て生活していきます。

224a hope:2016/08/20(土) 21:15:24 ID:xVBwxesw

>> 233 浄円月さま

<<物は物ではなくて、神の生命の現れなのですね。
生長の家の生き方は、すべての事物に対してその奥底にある神を見出してそれを生かす生活であるとのこと。。家庭も会社もすべてに通じますね。
目の前に自動車がありますが、この車をどう観て使用していくか。。
何に対してでも言えますよね。
午後もすべてに神を観て生活していきます。>>

素晴らしいご指導をありがとうございます。合掌。

お恥ずかしいのですが、わたしは「実相」や「神」のことは頭では理解できているんですが、、
なかなか実践できないのが現状なんです(/ω\)

それに、最近はちょっと新しい事をはじめたりして、生活(心境?)に余裕がなくなってきてしまっています。

でも、こんなときこそ、もっともっと聖典を拝読して神想観を実修したいと思います。

浄円月さまの<<午後もすべてに神を観て生活していきます。>>のお言葉で目が冷めました!

またのご参加を心からお待ちしています!

225るん吉:2016/08/21(日) 12:53:26 ID:Bu2jtqiM

ちょっと忙しかったので久々に来させていただきました。(*ノωノ)ohisa
沢山の心にグッとくる文章、有難うございます。
来てよかったー。

>>最近はちょっと新しい事をはじめたりして、生活(心境?)に余裕がなくなってきてしまっています。

そうなんですか?具体的なことは解らないけど、頑張ってくださいね。
人生、色々ありますね。自分も(ここに書きませんが)色々ありまして「しんどいなぁ」って思うことがあるんですけど
それが人生なんですね。
>>午後もすべてに神を観て生活していきます

それ、すごいですねぇ。(*^。^*)物を神の生命だと見るんですね。

えっと、私がいま、しっくり来るのは「、たかが現象ぽっち。(こんなの無いのだから)無いものに、とらわれないよーだ!」
ですね。アハうまく書けないけど。実相には存在しない状況が現象に表れてる時ね。

うまく書けないや。ごめんなさいね、とりとめのない書き方で・・。

毎日、お忙しいのに、本当に有難うございますね。
お身体ご自愛くださりませね。

226a hope:2016/08/21(日) 15:10:12 ID:vdNCBnG6

>>225るん吉さま

ご参加ありがとうございます。

わたしが始めている新しいことって、具体的には書けど、すっごくインターナショナルなことです。
だから、英語ももちろん使ってるし、世界各国のいろんな人とお話する機会があって、
特に、途上国の人たちと話ていると、自分がいかに恵まれた環境で生活をしているかに気づかされます。

「たがが現象ぽっち」ほんとにそうですね!
たかが現象、だから現象は本物ではないから決してとらわれないけど、
でも、自分がこの現象で生かされていることにも大切な意味があるような気がします。

つまり神さまからの課題は、この「現象で何を学んでどう生長しますか?」なんだと思うんです。

もしかしたら、神さまは、生長する能力のある人間には特に大きな試練を与えるのかもしれませんね。
だから、わたしはどんなに現象が悲惨でも、神さまの愛を信じたいです。
そして、この与えられた現象の中で思いっ切り神の子を表現して生きていきたいです。

るん吉さまのご参加にはいつも励まされています。
あー、わたし一人じゃなかったって・・・(#^^#)。

 これからも、ご参加どうぞよろしくお願いいたします!

227a hope:2016/08/25(木) 19:01:08 ID:vdNCBnG6
十五、吾らは今日一日出来る限り強く明るく正しく充分生き抜き生き尽して悔いなき生活を送らん事を期す。

【第十五条 説明文抜粋】副題 『「久遠の今」の生命を発掘せよ』
「生命の實相」p82 後から1行目〜

 この「今日一日をできるかぎり強く明るく正しく」生きるという――生きるというのは「生命を引き出す」ということであります。

「今日一日」ということが大切でありまして、明日からやろうというようなことでは駄目なのであります。

われわれが今、ここに生命を享けて生きているということは、今生きているのであって、この「今」を看過したらわれわれは永久に生命を引き出す機会というものを失ってしまうのであります。

「今生きる、」――「今、生命を引き出す」――この「今」が大切であります。

(略)

本当の教育の仕方、生長の家式の教育の仕方といいますと、この今を生かすということなんです。

228a hope:2016/08/25(木) 19:03:01 ID:vdNCBnG6
>>227 a hope 所感)

第十五条の説明文は、このあと「生命の教育」に関して述べられています。

日本で「教育」というと、親や教師が子供や生徒を指導するというイメージがありますが、本当の教育とは相手の「生命を引き出す」ことなのですね。

でも、相手を「良くしよう、良くしよう」と思っても駄目ですね。
まずは自分の生命を引き出して自分が良くならないことには、相手の生命も引き出せない・・・。

今ふっとそんなことを思いました。

229a hope:2016/08/28(日) 07:35:35 ID:xVBwxesw
十六、吾らは常に善と愛と智慧と光明とが人の実相なることを信じ、常につとめて善に還(かえ)り、愛を行い、真理の書を読み、全人格の雰囲気と心の習慣とを神の如く完全なるものたらしめんことを期す。

【第十六条 説明文抜粋】 副題「善と愛と智慧と光明とを生かせ」
「生命の實相」第25巻 p110 後から3行目〜

これを要するに、人間は本来善であって悪人というものはない。物を破壊するというようなことでも、それが自然に出て来たときにはけっしてそれは悪ではないのであぅて、それが大人の立場、経済的の立場から考えたら、悪に見えるために、「お前こんないたずらをして悪人である」こう言葉で宣言するために悪というものが出現して悪童、悪い子供というものが出来上がるのであって、それまでは「わるい子供」というものはないのである、こう申しましたが、赤ん坊がだんだん生長して、乳児期から少年期に移るというふうな時代になりますと、だんだんものを愛撫するというふうな心持が起ってくるのであります。

ものを愛撫する心持ちが起ってきて、たとえばここに百合の花があるとしますと、その百合の花を見るとそれをなんとなしに摑(つか)んでみたいというような心持が起ってくる。

ところがこの百合の花を摑んでみるということは子供にとっては百合の花を愛撫するということなのです。

しかし大人にとっては美しい花を引っ掴まれてたまるものか、摑んだら毀してしまうというふうなことを考える、「そんなことをしてはいかぬ、お前はまたわるい子である」とこういうふうにともすれば言おうとするのです。

これは子供の内に動いている愛というものを押し消している教育になっているのです。

最初は愛撫するつもりでも、どのくらいに摑んだら毀れるものであるかということがわからないのであって、ただかわいいから摑みたいというふうな気持ちが起ってくる。

摑んでみて毀れたら、その時はじめて、「ああ、この花は毀れてかわいそうだ」という感じが子供にも起こる。

この時「ああ、かわいそうに!百合さん」と言って、お母さんが残った百合の花を毀さないように軽く撫でる格好をする。

するとその程度の愛撫では花は傷つかないことが子供にもわかる。

そこで子供は真似をして、「かわいそうに、百合さん」と言って愛撫の真似をする。

こうすると愛撫の心は押し消されないで、かえって愛撫の心が養われながら、物の大切な扱い方というものが解ってくる。

230a hope:2016/08/28(日) 07:37:21 ID:vdNCBnG6


>>229 a hope所感)

最近、日本では少年や大学生、芸能人にまでおよんでリンチ殺人や強姦致傷等の痛ましい犯罪が横行しているようで、
いったい日本はどうなってしまっているのだろう・・・と不安が募ります。

この、幼児期における「ものを正しく愛撫する心持ち」が犯罪を起こしてしまった青少年たちにきちんと育っていれば、生身の人間を暴行したり、
強姦したりするような気持ちは決しておこらなかったのではないかと感じてしまいます。

また、「友だちが大切」というも一考する機会なのではないかと思います。

日本で「引きこもり」が多いのは、しかるべくして起こっている社会現象なのではないでしょうか?
こころの優しい青少年が社会にでれば、その優しさに付け込んで利用しようとする悪の手があちこちにあります。
ですから、彼らは引きこもることによって自分自身を守っているのかもしれません。


今の日本にこそ、「生長の家」の「生命の教育」が必要なのだと感じてしまいます。

でも、でも、でも、、、「生命の教育」は「生命の尊さ」「和解の重要性」を体得した覚者にしか施せない・・・。

まずは、谷口雅春先生の弟子であるわたしたち「生長の家」の信徒が和解をして、
手本をしめさなければ誰も感化することはできないと感じています。

231tapir:2016/08/28(日) 21:36:01 ID:Cw7YWKn2
>>230

a hope様

初めまして。

先日、知人の年配の女性信徒が、「なぜ15,6才の少年がリンチ殺人など起こすのだろう」
と嘆いていたのですが、以下のa hope様のコメントに、その答えがあるように思いました。
今度、その女性に会ったときに、このような話をしようと思います。
ありがとうございました。

>最近、日本では少年や大学生、芸能人にまでおよんでリンチ殺人や強姦致傷等の痛ましい犯罪が横行しているようで、
いったい日本はどうなってしまっているのだろう・・・と不安が募ります。

この、幼児期における「ものを正しく愛撫する心持ち」が犯罪を起こしてしまった青少年たちにきちんと育っていれば、生身の人間を暴行したり、
強姦したりするような気持ちは決しておこらなかったのではないかと感じてしまいます。

232a hope:2016/08/29(月) 10:56:21 ID:xVBwxesw
 >>229つづき

「生命の實相」第28巻』p112 3行目〜

ところが、「この子は百合の花でもなんでも毀す悪い子供だ、子供というものはどうも乱暴なもので、美しいものでも何でも毀すもので、悪い者だ」こういう言葉を持ってゆくと、そこにせっかく愛撫の気持ちをもって行動した、そのことが悪いことだった、と子供にとっては実に変な矛盾した感じになって、子供の内部生命の愛が芽を吹こうとしているのが迷ってしまうことになるのであります。

だから人間は本来悪人はない、いわんや子供に本来悪人はないと知って、実相を見るようにし子供が花を愛撫するために花を摑んでもこれは愛撫する心でしたのであるから決してわるい心でない、どの程度に摑んだらいいのかわからないために失敗したのだ。

傷ついたら、傷ついたのを機会に本当の愛撫の仕方へ誘導する。

子供の頬っぺたを軽くつつきながら「可愛い坊ちゃんだね、可愛い可愛い」と言葉で言うと、「お母さんは可愛いね」と言って子供もお母さんの頬ぺたをつついて撫でる。

そこで愛というものが本当にどんな気持のものであるかということがわかってくる。

お母さんにそうしてあげると、お母さんがまたうれしそうな顔をする。

こうして、その子供は、自分の喜びは母親の喜びである、あるいは自分の喜びは百合の花の喜びである――百合の花に触れれば百合の花も喜んでいるものであるということがわかってくることになるのであります。

こういうようにして、この自と他と、自分と外界とのすべてが一つの生命に支配され、愛の世界に融け込んでおって、自分の喜びはすべてのものの喜びであるということが幼児の時から自然と感ぜられるように仕向けるということによって子供の愛の本能を本当に大きく生長さしてゆくということができるのであります。

大きな大人になってから「本来自他一体である」なんて言っても、理屈みたいで、かえって素直に這入らないのだけれども、赤ん坊の小さな芽生えの時には、自他一体ということが実によく理屈なしにわかっているのであります。

「ああ、可愛い」と言って自然と花でもなんでも撫でる、そうするとまた、母親から撫で返してもらって「ああ可愛い」という愛撫の善さがわかる。

この乳児の体験が成長してからのすべての愛の基(もとい)となってくるのであります。

そういうふうにして子供を教育して行きますと、自然と内部に宿っている神なるもの、神性、仏性というものが現れてきて、悪とか、冷酷とか、憎悪とかいうようなことを自然考えないなってしまい、この世からすべての悪というものが形を消してしまうのであります。

こうして言葉の力というものが実に偉大な感化を及ぼすものだということがわかってきましたならば、善き言葉の書籍にまとめたものを読ませるということの大切さも、類推されるのであります。

子供が十歳か十二、三歳にもなると聖賢の書物を読ませる、偉人の書物を読ませるということは尊い感化をその子供に及ぼすことになるのであります。

お伽噺の選択を誤ってはなりません。

悲惨なもの、憂鬱なもの、恐怖を感ぜしめるものはいけません。

聖賢の話を読ませると、自分のうちにもやはりこういう偉い人と同じ素質があるものである、自分もこうなれるという心持が内部から勃然と湧き起こってくる。

どんな聖賢の偉人も皆自分と同じものである。

みんな神の子である、自分のもできないことはないのである、という自覚が子供を高め上げて、ついにそれらの子供が聖賢偉人の足跡を辿(たど)るようになるのであります。

この生長の家式の新しい教育法については『生命の實相』第七巻、第十三巻および第十五巻(頭注版では第十三・十四・二十五・二十六・二十九・三十巻)に詳しく書いてありますから、ご併読下さるよう希望します。

久遠佛性篇 「常楽宗教の提唱〈下〉」終わり

234a hope:2016/08/29(月) 11:00:00 ID:xVBwxesw
(a hope所感)

<<「ああ、可愛い」と言って自然と花でもなんでも撫でる、そうするとまた、母親から撫で返してもらって「ああ可愛い」という愛撫の善さがわかる。
この乳児の体験が成長してからのすべての愛の基(もとい)となってくるのであります。>>

「乳児期の母子間の愛着形成(attachment)はその後の発達に大きく影響する」、とかつて大学の心理学で学んだ記憶があります。
まさに、ここではそのことが述べられていますね!

谷口雅春先生は、宗教的天才だっただけではなく、心理学、教育学、芸術、科学・・・ありとあらゆる知識を幅広く学ばれるという努力もされています。

だからこそ、雅春先生のお残しになった聖典はどんな人をも感動させるし、感化する力があるのだと思います。

あ〜本当にありがたいな〜 聖典読めて幸せだな〜、わたしは谷口雅春先生が大好きです!

236a hope:2016/08/29(月) 11:07:15 ID:xVBwxesw

>>231 tapir さま

輪読会ご参加ありがとうございます!

俳優の息子が捕まった女優さんの会見なんかを拝見していますと、同じ母親として胸がつぶれそうになります。
どんな親だって自分の子どもは可愛いですから、「よく育てよう」と努力しているんだと思うんです。

でも、それがうまくいかない・・・ なぜ?

これは、わたしにとっても永遠の課題なんですが、不思議なことに子育てに躓くたびに、聖典に回答があります。

たとえ、子供が成長してしまっていても、犯罪を犯してしまったとしても遅すぎるということはないと思います。

だって「生長の家」の教えのすごい所はそういう人たちをも、「人間神の子」に目覚めさせて救済できるところですものね!

大切なのは「正しい教え」の伝道…ですね・・・やっぱり。

237どっちもどっち:2016/08/30(火) 06:06:37 ID:OyLgcxCA
<だって「生長の家」の教えのすごい所はそういう人たちをも、「人間神の子」に目覚めさせて救済できるところですものね!>


a hope さんから見ると雅宣総裁は救われていないのでしょう。
誰も救ってやることが出来ない教えということを証明しているのではありませんか?

まして教えをよくわかっているという本流派の人達には。辞めろ辞めろの合唱しかできないのですから。

238トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/08/30(火) 09:09:00 ID:/A76/nJM
>>237

 誌友会の内容に不適当な内容だと思います。
誌友会リーダーの指示があった場合、削除または移転をします。

合掌 ありがとうございます

管理人

239tapir:2016/08/30(火) 20:49:37 ID:Cw7YWKn2
>>230

a hope様

素晴らしい輪読会のリーダーをつとめていただき、ありがとうございます。

『生命の實相』の真理の言葉と、a hope様のやさしさあふれるコメントを
読ませていただき、心が清まる思いです。

「継続は力なり」ですね。良い言葉を積み重ねていくことがきっとよい実を
結ぶと思います。

これからも時々参加させていただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

240a hope:2016/09/01(木) 13:54:40 ID:xVBwxesw

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第4回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年9月1日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第28巻 真理體験篇
内容   近眼・色盲等は治るか p117〜
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

241a hope:2016/09/01(木) 13:55:53 ID:vdNCBnG6

みなさま こんにちは。

9月に入りましたので、第4回 web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

242a hope:2016/09/01(木) 14:04:17 ID:vdNCBnG6

この「近眼・色盲等は治るか」という体験篇は、聖典の真理の身体への影響が特によく実感できるところではないかと思います。

実はわたしはもう老眼になってきても全然おかしくない年齢なんですが、
なぜか先日の健診では「近眼」が進行していると言われてしまいました・・・(;´∀`)

でも、わたしは焦りませんよ。
だって、わたしには聖典がありますから・・・\(^o^)/

また、丁度よいタイミングで、この「近眼・色盲等は治るか」の体験篇が勉強できます。
わたしにはこの篇を読み終わる頃には、自身の視力がグーンとupするという確信があります。

でも聖典を肉眼の視力upを目的に読んだのでは効果は期待できません。
「心の生長」あっての「視力up」ですから、まっさらな素直な心で拝読することが大切だと思います。

素晴らしい体験談がたくさん紹介されています。
みなさんもぜひ拝読してみてください、心の扉が開いて目の前が明るくなりますよ!

243a hope:2016/09/05(月) 08:15:49 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第28巻 p120 4行目〜

谷口―― 私は眼の治った人であり、また治した人であるわけであります。

この、五官における障害――目が見えないとか、耳が聞こえないとか、臭いが嗅げないとか、あるいは皮膚の感覚の麻痺、食物の味覚の麻痺とかいう、すべての感覚器官の障害は、要するに自分に与えられたる恵みをありがたく受け取らない人が、肉体を投じ出した姿でありますから、まずありがたく受け取る気持ちが起こりさえすれば、そうした障害は自然と消え去ってしまうのであります。

美しいというものは何か、といいますと、そこに生命が顕われていることであります。

生命が顕われているというのは神の光、神の恵み、神の愛をありがたく受け取らないで、半分くらい受け取って、不平ばかり言っているような心を持っていると、それが目に現われれば目が見えなくなったり、色盲になったりするのであります。

また目の先の現象だけを見て、現象の奥底を流れる神の愛、神の恵みが分からないと、その人は近視眼になるというぐあいになるわけなので、こういう私も以前には近眼であったのでありました。

244a hope:2016/09/05(月) 08:17:30 ID:vdNCBnG6

>>243 a hope所感)

わたしは今、この雅春先生のご文章を謹写しているだけで聖典やパソコンの文字がハッキリ見えはじめましたよ!

大切なのは信じること・・・。

あ〜、今日も聖典謹写できて幸せだな!
今日も家族が健康でいてくれて幸せだな!
今日は仕事がお休みで、掃除やお料理がたくさんできて幸せだな!
午後にはママ友とお茶できて幸せだな!

神さま、ありがとうございます\(^o^)/

245a hope:2016/09/11(日) 05:21:34 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p131 3行目〜

四 色盲たちまち癒(い)ゆ

柳沢―― 僕は色盲でした。

僕は谷口雅春先生に「色盲は、あれは嫌い、こらは気に入らんと撥ねつける心の現われだ」ということを教えていただいて、とても心をうたれました。

僕は子供の時から非常にわがままで少しも母のいうことをきかなかったものですから、いつも母と喧嘩ばかりしていました。

それでみんなから「お代官様」って呼ばれていました。

まるで強情の凝り固まりみたいな人間だったんです。

家では母が「生長の家」に入る前から叔母が入っていて、始終僕や母に「生長の家」の話をきかせてくれていました。

けれど「肉体は無い」なんてだいたい馬鹿にしていると思って叔母の言うことをちっとも聞かないですっぽかしていました。

そしてそのまま月が経って今度は母がとても「生長の家」に熱心になってきました。

それで僕に熱心にすすめるのです。

僕もそれなら行ってみようかという気になって、実は最初はひやかし半分にお山に来たのでした。

そしたら先生が僕のことをきいてこういわれたのです、「要するに目は心の窓であって、あれは気に入る、あれは気にいらんという片よった心の現われで色盲になっているんです。目上の人の言うことをよくきいて、選り好みをしないで、満遍なく受け入れる心になりなさい」と言われたんです。

それを伺って僕は、「ああそうか」ととても心をうたれて帰りました。

それは四月の二十六日だったと思います。

その翌日のことです。

ちょっとしたことから僕は叔母と、妹と三人で大喧嘩をしていました。

その時母は二階にいました。

僕たちは下で喧嘩をしていました。

そしたら、僕たちの怒鳴り声をききつけた母は、二階から降りて来て何とも言わずに僕たち三人の険悪な空気の真只中に坐りこんで、やがてのほどに大声で『甘露の法雨』を読み出したのです。

僕は黙ってそれを聞いているうちに、どうしても仏壇に向かって手をあわせなければならない気持ちになってきました。

それで仏壇の前にいって合掌しました。

そしたら涙が出て涙が出て、どうにも止まらないんです。

「昨日(きのう)先生にあんなにいっていただいたばかりじゃなかったか、それにまた頑固な心を起こして喧嘩してしまったか」と思うと、本当にすまない気がしてくるのでした。

僕は合掌したまま悪かったと謝りました。

それから二階の自分の書斎に上がって行って、窓を開けて外を見ると庭に咲いている夾竹桃(きょうちくとう)の赤い花がとても美しく見えるんです。

おやっと思って自分の机に帰って、色盲の検査本を開けて見ました。

そしたら一等むずかしいところが出て来たのです。

だけどちゃんと見えるんですね。

緑色に赤色のアの字がちゃんと浮き出して見えるんですね。

それから夢中になって色盲検査の本を一枚一枚めくって見ました。

どれも完全に見えます。

それっきり僕の色盲は治ってしまいました。

その時のありがたい気持、どのくらい嬉しかったか分かりません。


立仙――大変いいお話でございました。

色盲は医学上からはとうてい治らないものとされているのに、実にすばらしい御体験ですね。

世間には色盲で悩んでいる方は大勢おありでしょうに、その方たちにこのお話を知らせてあげることができたらと本当に思いますねえ。

246a hope:2016/09/11(日) 05:23:05 ID:vdNCBnG6

>>245 a hope所感)

ほんとうに、色盲が治ってしまったのですね・・・。

先日マザーテレサがカトリック教会の聖人認定をされましたが、その条件のひとつに自身の死後に二つの奇跡をおこしたこととありました。
マザーテレサに祈ったことでインドの女性が自身の腫瘍を消し、ブラジルの男性が脳腫瘍を回復させたそうです。
http://okutta.blog.jp/archives/6197438.html

わたしたち生長の家の信徒が天界の谷口雅春先生に「病気を治して下さい」と祈るということは在り得ませんね。

「生長の家」の教えからすると、病気が治るというような奇蹟が起こるのは「唯心所現」「現象は心の影」という真理の悟り、つまり自分自身の心の変化によるものですから、
このマザーテレサの例のように他者に依存心を起こしているような信仰は本物ではないと感じてしまいます。

ですがもし、患者がマザーテレサを思うことでマザーテレサの深い信仰心に自身の魂が共鳴し、
心が洗われて奇跡が起きたのだとすれば、それは「唯心所現」の真理の悟りであったのかもしれません。

上に謹写した青年の場合を考えみても、 色盲が治るという奇蹟が起きる前日に谷口雅春先生に直接ご指導を受けられています。

そして谷口雅春先生の深い信仰心と悟りのオーラに彼自身の心が影響を受けたのだと考えられます。


いずれにしても、奇跡が起きるのは「真理」を知ったことにより心に、懺悔、感動、感謝・・・という大きな感情の変化が起こるからなのだと思います。

その「真理」に満たされているのが聖典ですから、聖典を拝読することが奇跡を起こす一番の近道なのだと思います。

247a hope:2016/09/17(土) 07:37:12 ID:xVBwxesw

「生命の実相」第28巻p152 7行目〜

鈴木――じゃ私がよし子に代わりまして話させていただきましょうか。

この子の母親が二度の近眼なんでございまして、この子も幼稚園に通っております時から目が悪く、小学校に入ります時には、もう眼鏡をかけておりました、今度双葉女学校の二年ですから、八年間眼鏡をかけていたことになりますね。

それがまた追々度が進んでまいりまして、昨年は大変不自由になりましてね、春日町の明々堂で四日がかりで検眼していただいて眼鏡を変え、やっと見えるようになっておりました。

そんなふうでございますから、始終陰気な子でございました。

それがね。

このお休みになりまして、私の家へ泊りに来たのでございますが、私が毎晩お山にお伺いいたしますのを、ある夜女中と一緒に迎えにまいりまして「伯母さま、毎晩お通いになるけど、何していらっしゃるの」って聞きましたのでございます。

それで私、いろいろと「生長の家」のことを話してやりました。

そうしましたら、「伯母様の話伺って、自分と肉体というものは全然別であることがはじめてわかって、それを大変感じた」と申しました。

それで私が「あなた肉体無しということが、そんなによく解ったのだったらこれを読んでごごらん」と申して『甘露の法雨』を読ませたのでございます。

半分ほど自分で読んでおりましたが、眠そうにしていますので、よし子を寝さしまして残りは私が読んでやりました。

それで翌日六時半頃でございましたが、目を醒ましましてね。

眼鏡なしで廊下に出まして庭を眺めておりましたが、急に「伯母様、伯母様」って私を呼びますんで、びっくりして何事かと行ってみますと、「伯母様、私、眼鏡をかけてないのにお庭の百合に花がちゃんと見える」って申しますの。

「いくらなんだって昨日までのひどい近眼が、そんなことがあるものか」って申しましてね。

はじめは私たちでさえも信じなかったんですの。

けれども白い百合の花が一輪と、つぼみが二つちゃんと見えるって申しました。

それから部屋に入りまして、掛額の字が見えると言っておりました。

次に柱時計の長針と短針が見えました。

ちょうど七時半でございましたが、その次に時計の小針がみえて……十時頃でございましたね、それは、本当にびっくりいたしました。

よし子もびっくりしておりました。

前夜私の話を聞いた時も別にどこも治りたいなどと思わなかったそうでございます。

それに近眼が治ってしまいまして、その時つくづく、肉体は心の影ということが解ってハッと思ったと申しますから、「それなら あなた ここを読んでごらんなさい」と申しまして、『生命の實相』の一部を示してやりましたら、夢中になって読んでおりました。

そしてしばらくしましたら、とても臭いハナがたくさん出てまいりました。

ところがそれで蓄膿症が綺麗に治ってしまったのでございます。

それからその翌日、ひどい咳をしきりといたします。

痰を吐きます。

どうしたんでしょうと話しておりましたら、間もなく止まりました。

それで気がついてみますと、長年痼疾(こしつ)の左右の扁桃腺がすっかり治っておりました。

滝内――よし子さん、えらいですね。

谷口――そうだ、本当に自分の悟りで治したから偉いのだ……・

248a hope:2016/09/17(土) 07:38:31 ID:vdNCBnG6

>>247 a hope 所感)

よし子さんは、伯母さんの話を聞いて「自分と肉体が別物である」と悟った後に『甘露の法雨』を読んで近眼が治ってしまって、
その後『生命の實相』を拝読して、蓄膿症も、扁桃腺も治ってしまいました。

雅春先生もおっしゃっていますが、よし子さんは「近眼や病気を治すこと」が目的ではなく、
伯母さんの導きはあったにせよ自分の力で真理を悟られた、だから偉いのですね。

249a hope:2016/09/18(日) 05:32:41 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p159 9行目〜


十七 近視や、斜視や、乱視の起るわけ


立花――時間がずいぶん延びましたが、最後に先生に少しお話を願いとうございます。


谷口――今日おいでの方の中に、遠視が治ったという方が大分おありのようでしたが、こうしてみると、遠視はなかなか多いらしいですね。

私がよく近視は、この現象界のことばかり見て実相を見ないチカメだということを申しますと、それでは遠視は何か、とお問いになる方がありますが、老人の遠視というのは、日暮れて道遠しという感じで、先のものを先のものをと焦る心の現われです。

年を取ると、老後のことばかりを考えて、取越し苦労をして「今」を完全に生ききらないことが多いのであります。

「今」を完全に把握して生きることができたら、それはすぐに治ってしまうのであります。

私の申しました「今」というのは、現象の目の先の今のことではないので、この「今」の中にはいっさいのものが含まれている――永遠生きとおしとしての実相の「今」であります。

もう一つは遠視が老衰から起こってくることがありますが、人間が老衰するというのは、永遠生きとおしの今にわれわれは生きていて、永遠の若さを持つものであるということの分からないためであって、老衰して血管が硬化するのは、すなわち心が頑なになる――人のいうことをきき入れないとか、心の融通がきかないとかいうようなことから起こってくる。

人間の目はどっちかというと遠視であることが普通だそうです。

それがわれわれの目に直接機能があるためにうまく調節されて、ちょうどよく見えているのですが、老衰して心が頑なになってしまうと、直接機能も固定してしまって、その働きを失ってします。

それで調節を失った目がもとの遠視に戻ってしまうのです。

また、見たくないものがある場合に起こることもあります。


また、斜視、乱視というものがあります。

これはものを見るのにまともに正しく見ないで、斜めの方からひねくれて見る心の現われであり、乱視もやはりまん丸いものを丸く見ないで楕円形に見るというような心の現われたのでありますから、よく人を見て、その点を指摘してさしあげて、まるいものは円いと、正しく、真正面から見る心に調節してゆかれれば、すぐに治ってしまうのであります。

結局私が今話しましたようなことをよく摑んで、人を見て機に応じて上手に相手にそれを話してあげるようにすれば、近視でも、遠視でも、また斜視でも、乱視でも、完全に治してあげることができるわけですね。


服部――私も人の目を治したという話をたくさん持っておりますが、それも目を治すのが目的で、直接目に向かって呼びかけて治したという経験は一度もないので、ただ私の宅に集まりになる方々の実相を観て、その方たちが本当に実相をお現わしになることができるように、谷口先生のお言葉をお伝えしているだけなのであります。

そしていつも皆様の心に向かって呼びかけていますうちに、この間も一晩に五人も近視が治られた、というようなことがございました。

先生のお話を伺っているうちに、眼鏡がいらなくなってしまったというようなことがこれまででもあまりに頻繁にあったものですから、私は目の治ることは枝葉の、ごくあたりまえのことのように思って、別に何とも思っておりませんでした。

人様にお話するという場合でも、目のことなんか、ちっとも気にかけていなかったようなわけです。

しかし先生の先ほどおっしゃっていました「今」を完全に摑んで生きるということ、その「今」ということは本当に解れば、体の病であろうと目であろうと、また病気であろうと、すべてがよくなってゆくのでございます。


谷口――そうですよ。

ここに来られる方でも目を治したいと言って来られる方はほとんどありませんよ。

それで私の話を聞いたり『生命の實相』を読んだりしていられるうちに心の目が開いて、その結果として自然に現象のこの目もよくなってくるのですね。


立仙――先生、お忙しい時間をお割(さ)き下さいましてありがとうございました。

みなさまありがとうございました。

これで閉会にいたします。

250a hope:2016/09/18(日) 05:34:45 ID:vdNCBnG6

>>249 a hope所感)

【近視、遠視、斜視、乱視の原因まとめ】

・近視――この現象界のことばかり見て実相を見ないからおこる。

・遠視――取越し苦労をして「今」を完全に生ききらないからおこる。

・斜視――斜めの方からひねくれて見る心の顕われ。

・乱視――まん丸いものを丸く見ないで楕円形に見るというような心の現われ。


医学の試験で上の回答をしたら、完全に不合格ですね(笑)。
でも、この真理を悟り、心(実相)の目を開いたことで、本当に目が治ってしまったという実例がたくさんあるわけで、
その事実は、わたしたちが眼科に行って治療を受けたり、眼鏡やコンタクトレンズを毎日つけて生活したりという煩わしい手間を完全になくしてくれます。

信じるも勝手、信じないも勝手、わたしたち日本人には「信仰の自由」が認められていますからね(*^▽^*)

251a hope:2016/09/24(土) 07:56:29 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第28巻 p168 後から1行目〜

三 色盲癒ゆ、前途洋々

僕は東京府立四中の五年生です。

木枯らしの風の吹きすさぶ去年の冬休みのある日、僕は多摩川近くの鵜ノ木の高台にある叔母の家を訪れたのでした。

その時にはちょうど八月の海軍兵学校の体格検査に色盲の故をもって、はねられて、父の後を継いで海軍の人となることにほとんど定めていた僕の前途は、突然、大暗礁にのりあげた船のようで、いったい僕はどの方向に進路をとろうかしら、と考えては前途の暗雲にただ拱手(きょうしゅ)してすっかり悲観していたのでした。

その日の午後のこと、叔母が「この本を読んでごらん」と言って、出してくれたのが、聖典『生命の實相』でした。

ただなんとなく心に惹かれるものを感じて、披(ひら)いてみたのです。

するとその本には従来のわれわれの思想と、あまりにも懸隔(かんかく)のあること――すなわち、「肉体は本来無い。病気も本来無い。」というようなことが書いてあったのです。

ですから病気のうちでも遺伝で不治だとされていた色盲でもって、目的に勇往邁進(ゆうおうまいしん)できず、前途を悲観していた僕としては、どうしても反駁(はんばく)せずにはいられませんでしたし、もちろん信ずる気にはなれなかったのです。

ことにその頃の僕は、わがままいっぱいの少年だったので、今考えてみれば、実に下らない反駁ですが、その時は大真面目で『生命の實相』に書かれてある事々が、本当に荒唐無稽(こうとうむけい)のように考えられて、『生命の實相』を持ち前の強情から投げ出して、放りっぱなししておいたきり、それきりになってしまっていたのでした。

それから四カ月後、機縁が熟したというのでしょうか、母が再び「生長の家」の話を、僕に伝えてくれました。

その時はまだ突っぱっていてちょっと行ってみてきてやれ、というような気持ちで、四月二十八日に母と共に家をでたのです。
本部へついてから、母が谷口先生に色盲について質問させていたただいたのに対して、先生は次のようにお答え下さったのです。

「要するに目というのは、心の窓のようなものであって、それに色盲が表われて色が見えないというのは、君にはすべての色を万遍なく受け容れる心が無いからだ。あれは気に入らん、これも気に入らん、という心が、窓である目に表われて、色盲が形を現わしているのだから、すべての物と和解して、何でも受け入れるような心になりなさい。親には孝行をし、目上の方々の言われることをよく聞き入れ、世の中のあらゆる物に、ありがたいという気持ちをおこすようにしなさい。そうすればなおりますよ」

ということでした。

そこで考えてみると、先生のお言葉とおりの僕であることが、ひしひしと感じられて、先生のおっしゃられたとおりの心になれるよう、聖典をもっと何回も拝読しようと、自分に言い聞かせたのでした。

一日おいて二十九日には、本部の神想観に自分から行くようにまで、突っ張りが和らいだのでした。

しかし何としたことか、翌三十日の午後に、叔母と妹とが有名な映画、「未完成交響曲」と「ながれ」を観に行くと言っているのを聞いて、どこからともなくわがままが飛び出して、三人で大喧嘩をしてしまったのでした。

その時でした。

母が静かに二階から下りてきて、僕たちの険悪な空気の中で、仏壇に向かって聖経『甘露の法雨』を読みだしたのです。

「或る日天の使い生長の家に来たりて歌い給う――」と。

するとどうしたことか、僕はどうしても仏壇に向かい、合掌せずにはおられなくなったのです。

ただ、涙――。

ありがたいような、温かいものが僕の全身を包んでくれたような気でいっぱいでした。

やがて、母の朗読は終わりました。
(つづく)

252a hope:2016/09/24(土) 07:57:37 ID:vdNCBnG6
>>251 つづき)

先刻の喧嘩こそ、僕にとって、また皆にとって、自壊作用だったに違いありません。

すると、僕の唇をついてでたのは、ただありがたいという一語だったのです。

喧嘩の相手だったとてその喧嘩の結果、僕の気持が和らいでくれたとすればなんとありがあたいことではありませんか。

これだったのです。

谷口先生のおっしゃられた「ありがたいと思いなさい」とは。

そして、その時は三時頃だったのでしょうか。

僕は二階の勉強部屋へ行って、何の気なしに色盲検査票を披いてみると今までもやもやして分からなかった字が浮き上がって鮮やかに見え、と同時に庭の夾竹桃(きょうちくとう)の花が、実に美しく見えるようになっていたのです。

ああ僕の色盲は消えたのです。

本来の無に戻ったのです。

これがありがたくなくてどうしましょう。

ただ、ありがたいあるのみです。

僕の前途は輝いてきました。

僕は前途に対して叫ぶのです。

「ああわが進む前途よ。お前はすでにわたしにとって実相の前途なのだ。私はこの輝きに満ち、光明に満ちた前途を、ただ神に我身をお任せして進むのだ。ああ我が前途は洋々たり」と。
(東京、○○、○○町○○ 柳沢○○)

253a hope:2016/09/24(土) 08:17:53 ID:vdNCBnG6

>>251 252 a hope所感)

この体験談は>>245に謹写した体験談と同じものですが、体験者の柳沢さんがあらためてその時の体験した内容を詳しく文章にされたもののようです。

<<喧嘩の相手だったとてその喧嘩の結果、僕の気持が和らいでくれたとすればなんとありがあたいことではありませんか。これだったのです。谷口先生のおっしゃられた「ありがたいと思いなさい」とは。>>

かつての「生長の家」では、未成年の青年ですら「生長の家」の『感謝』が何であるかを自ら悟り、家族と和解をして色盲を治してしまっていたのですね。

今、わたしは柳沢くんを見習わってすべてに感謝しなくては・・・と感じています。

ですが一方では、わたしにも「感情」がありますから、喧嘩の相手にすら感謝するなんてとても難しいことのようにも感てもいます。

でも、「ありがとう(有難う)」とは、『難しいが有る』とも読めますね。

わたし「生長の家」の信徒だもの、がんばろうっと・・・。

254a hope:2016/11/01(火) 07:43:04 ID:xVBwxesw

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第5回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年11月1日〜11月30日まで
テキスト 「生命の實相」第29巻 女性教育篇
内容   母、妻、娘の聖書 
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

みなさま、おはようございます。
11月になりましたので、第5回 web「生命の實相」輪読会を開会したいと思います。
10月は事情があり輪読会を継続できませんでしたが、今月からまた開会させていただきます。
これからも「生命の實相」の素晴らしさを、一人でも多くの方と共感させていただけたら幸いです。
それでは、いつものように祈りの言葉を掲載させていただきます。

255a hope:2016/11/01(火) 07:44:02 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆

256a hope:2016/11/01(火) 07:45:43 ID:xVBwxesw

はしがき

生命の在るところ必ず道がある。

生命とは道であるからである。

それは一切所(いっさいしょ)に充ち満ちているからコレだといって凝縮して見せうるような形はない。

しかし生命をわれわれが宿しているとき、おのおのの生命の顕現の位置に従って、その道の現われ方は異なる。

亭々(ていてい)たる松の樹の伸び方には松の木にあらわれたる生命の道がある。

聱牙(ごうが)として磐屈(ばんくつ)する梅の古木には梅の古木としての道がある。

あるいは絢爛なる桜の花、あるいは純潔なる百合の花、あるいは触れれば散らんばかりの罌粟(けし)の花、あるいは濃艶情趣(のうえんじょうしゅ)を滴(したた)らす牡丹の花、皆それぞれに道がある。

道は形なく一つなれども、その顕れは無限である。

男性には男性の道があり、女性には女性の道がある。

ひっくるめて人の道を守ればそのままで人生は幸福だということはできないのである。

人のみちも一つにして同時に多く岐(わか)れているからである。

わたしは既刊の『生命の實相』において、男性にも女性にも子供にも大人にも老人にも当て嵌(は)まる総括的な人の道を説いてきた。

男性にも女性にも子供にも読まれるべき人生光明化の一般的教えにおいては特に女性のみに関する特殊の道を説くことができなかった。

それを補うために出たのが本書二十九巻である。……

(略)

……男性の専制に対して立ち上がっても、女性は真に幸福にはならないのである。

われらの使命は女性がより多く女性であるがゆえに、男性が専制になろうとしても専制になりえないような大調和の世界の創造にある。

昭和四十年五月十日  

著者しるす

257a hope:2016/11/02(水) 07:36:50 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第29巻 p4 8行目〜

男性にとっての第一の幸福は、自分が女性の心を純粋に摑んでいるという自覚です。

妻である女性が、経済的な功利的観念から、生活手段として自分に愛情を示しているかもしれぬという疑いのあるほど、男性にとって不安な不愉快な家庭生活なないのであります。

家庭生活の長い期間には、時たま、夫婦喧嘩をした時などには、「もしわたしの経済生活が独立しているならば、こんな良人に世話にならないで、家を飛び出してしまうのに」とお考えになる奥様もおありでしょう。

飛び出したくなっているのに、経済生活が独立していないために、やむをえずに良人に隷属(れいぞく)している奥様をもっている良人ほど不幸な者はありません。

258a hope:2016/11/02(水) 07:43:20 ID:xVBwxesw

>>257 a hope所感)

最近は「離婚」はあたりまえになってしまいましたが、昔は世間体などの問題も関係して、愛情が冷めても仮面の夫婦を演じている方は多かったのでしょうね。
ですが現代でもまだ、こういう打算的な考えで結婚生活をされている女性は意外に多いのかもしれません。

以前のわたしはたった一度の人生だから困難はできるだけさけて楽に生きたいと思っていました。
ですが、「生命の実相」を知った今は、”すべての環境は自分の心の影”であることがわかりましたから、
自分が変わることで環境を変えられると信じられるようになりました。

「生命の實相」拝読し続けます!

259神の子さん:2016/11/03(木) 12:20:04 ID:CxVXlSJM

>>256 
>>257  a hope 様


『生命の實相』輪読会、再開していただき、ありがとうございます。

真理の言葉は、何度も読むことで、新しく生まれ変わらせていただくことができます。


>>われらの使命は女性がより多く女性であるがゆえに、男性が専制になろうとしても専制になりえないような大調和の世界の創造にある。<<


以前は「男性に伍する」とか、感じ方や意見を男性に合わせる女性の活躍がもてはやされた時代だったと思います。


最近は、男性に優るとも劣らない才能を持ちながら、女性的な感性を持ち合わせている女性の活躍が目立つようになりました。

ファッションも女性的で美しくなり、より自然のままになっていることは、とてもよい事だと思います。

「より多く女性的である」ことを、この機会に、考えていきたいと思います。



>>男性にとっての第一の幸福は、自分が女性の心を純粋に摑んでいるという自覚です。<<

何よりも夫婦の間で、このことを知っていることは、真の幸福をもたらすのにとても重要ですね。

これが実行できた時、夫婦の間の問題は、根本から解決できますね。


素晴らしい御文章を書写していただき、ありがとうございます。

260トキ:2016/11/03(木) 12:36:08 ID:I6WXgJAI
>>259

素晴らしいご投稿、ありがとうございます。

厚かましいのですが、ハンドルネームをご利用いただけると助かります。
宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

261tapir:2016/11/03(木) 14:25:54 ID:CxVXlSJM

トキ様、a hope様


>>259でハンドルネームを入れ忘れたのはtapirです。失礼いたしました(^^;)。

他の板では自動でハンドルネームが入っていたので油断しました。

ご迷惑をおかけしてすみませんでした。以後、気を付けます。

262a hope:2016/11/03(木) 20:53:02 ID:xVBwxesw

Tapirさま

輪読会ご参加ありがとうございます。
実はこの1か月、いろんなことがありまして、わたし自身の夫婦関係についてもちょっと悩んだりしていたのです。

ですから、今回の輪読会のテキストが「女性教育篇」であることも、神さまのお導きのような気がしています。

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>>259
>>われらの使命は女性がより多く女性であるがゆえに、男性が専制になろうとしても専制になりえないような大調和の世界の創造にある。<<

以前は「男性に伍する」とか、感じ方や意見を男性に合わせる女性の活躍がもてはやされた時代だったと思います。
最近は、男性に優るとも劣らない才能を持ちながら、女性的な感性を持ち合わせている女性の活躍が目立つようになりました。
ファッションも女性的で美しくなり、より自然のままになっていることは、とてもよい事だと思います。
「より多く女性的である」ことを、この機会に、考えていきたいと思います。

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ほんとですね!

最近は、女性が女性らしくありながらも男性とおなじように社会で認められるようになってきているような気がします。

“自然のままに生きる” ということが大切なのかもしれません……。


とてもマイペースになってしまますが、これからも輪読会を続けさせていただきます。
よろしかったらTapirさまも、お気に入りの聖典の箇所などご紹介くださるとうれしいです。

そしてもちろん、a hopeはこちらをご覧のみなさまのご参加も心よりお待ちしていますよ!

263tapir:2016/11/04(金) 09:11:36 ID:CxVXlSJM

>>262 :a hope様


お気に入りの聖典の箇所をというお言葉に甘えて、ご紹介させていただきます。

私は『生命の實相』29巻8頁〜9頁の以下の御文章が好きです。


『女性が男性に凭(よ)りかかる心を捨てたとき、女性的ななよなよしい魅力がなくなるとあなたはお考えになるかもしれません。しかし凭(よ)りかかる中風患者や猫背の美は本当の美ではないのです。それは病的な美であって、本当の女性美ではありません。女性は一人で街路を闊歩(かっぽ)しても、女性そのものの美を失うわけではありません。「美」そのものの本質は永遠的の存在ではありますが、時代の推移に従って顕われとしての女性美も進歩するのです。元禄娘のなよなよとした姿態の美よりも、近代の男性は、もっと知的な美を愛します。教養が明眸(めいぼう)に輝いているような美を愛するのです。内から生気が輝いているような女性美を愛するのです。どんなに目鼻立ちがすぐれていても無知な表情の女性はしだいに男性を魅する力はなくなりつつあります。』


特に「女性は一人で街路を闊歩しても、女性そのものの美を失うわけではありません。」の個所が好きでした。

『アナと雪の女王』など、勇気ある女性が活躍するアニメがたくさんありますね。
オリンピックの、レスリングや柔道でも活躍する女性たちをとてもたのもしく思います。
強いけれども、試合の後に見せる笑顔は若い女性らしくて、とても愛らしく思えます。


「近代の男性は、もっと知的な美を愛します。教養が明眸(めいぼう)に輝いているような美を愛するのです。内から生気が輝いているような女性美を愛するのです。」

ここも素敵ですね!


本当に自信のある男性は、女性が教養を身につけることや知的に進歩することを、心から応援してくれます。

そういう男性と女性の支え合いによって、日本がますますよくなっていくとよいなと思います。

264tapir:2016/11/05(土) 13:02:27 ID:CxVXlSJM

>>262  a hope 様


コメントの順番が前後しますが、私のコメントに共鳴していただきありがとうございました。

>>“自然のままに生きる” ということが大切なのかもしれません……。<<

“自然のままに生きる”ことがそのまま神さまの御心にかなっていたら素晴らしいです。
 特に家庭の中は“自然のままに生きる”安らぎの場でありたいですね。


ちょっと話がさかのぼりますが以下の言葉について、谷口雅春先生が書いていらっしゃることに関連して、感動した話をいたします。


>>男性にとっての第一の幸福は、自分が女性の心を純粋に摑んでいるという自覚です。<<


生長の家の行事で、奥様が心の底から旦那様を愛していることを表現することについて、奥様が心をこめて「うちのお父さんは世界一」とか「うちの旦那様は世界一の旦那様」とか「世界で一番あなたが大好き!」と言うとよいですよ、という話を聞きました。

「世界一!」って素晴らしいですよね。

70億人の人類の中からたった一人、縁があって結ばれた伴侶なのですから、「世界一」と遠慮なくいってよいのだと思いました。


言われた旦那様は照れて黙ってしまうこともあるようですが、気難しい方が一日でやさしい旦那様に変わる話もたくさんありますね。

もちろん旦那様が先に御教えを知ったら。「君はいつもきれいだね。美人の妻を持ってうれしいよ!」とか「料理上手だね!」とか「良くできた妻だ!」とかほめれば、奥様がとてもやさしくなられるという話もあります。


生長の家で、「効き目抜群」の言葉を教えられて幸せです(^^)

265神の子さん:2016/11/06(日) 01:02:38 ID:WEtcG5fg
a hopeさま

266るん吉:2016/11/06(日) 01:09:59 ID:WEtcG5fg
上、送信してしまいました。

a hopeさま

おかえりなさい。良かった。体の具合・・悪いのかなって・・違う違う,えんぎでもない。って

とにかくよかった。お身体やお心しんどくない?大丈夫でしょうか?無理しないでね。しんどい時は。

それにしても>>インターナショナルな活動、英語も勿論使います。 か・・イイナ!(*^-^*)

私は・・私は・It is not going so well these days.とほっ。でも頑張りますね!

267a hope:2016/11/11(金) 19:38:26 ID:vdNCBnG6

>>263 >>264 tapir さま

お気に入りのご文章の紹介と、素晴らしいご文章をありがとうございます。
返信が遅くなり大変失礼しました。

夫婦の調和がすべての基本なんだということを、今実感しています。
特に、夫婦の中が険悪だと子供にすぐに影響してしまいますね(;´∀`)

<<「君はいつもきれいだね。美人の妻を持ってうれしいよ!」とか「料理上手だね!」とか「良くできた妻だ!」とかほめれば、奥様がとてもやさしくなられるという話もあります。>>

こんな言葉を主人にかけられたら、わたしの人生バラ色に変わるんですが・・・(笑)、主人に心からそう言ってもらえるように自分磨きを続けたいです。

268a hope:2016/11/11(金) 19:40:48 ID:vdNCBnG6

>>266るん吉さま

お久しぶりです。
ご心配をおかけしましたm(__)m
わたしは元気なのですが、家族に色々変化がありまして忙しくしてました。

英語の勉強は続けていらっしゃいますか?
英会話力は語学力も勿論ですが、コミュニケーション能力が低いとなかなか上達しません。
わたしはコミュニケーション能力の高い人はみな、他者に対する好奇心がとても強いと感じています。

「生長の家」の「人間神の子」の教えはこのコミュニケーション能力も高めてくれる素晴らしい教えだと思います。

これからも一緒に学んでいきましょうね!

269トキ:2016/11/11(金) 20:06:35 ID:NZvgqq5Q
 皆様、輪読会ご参加ありがとうございます。

 ネットの良いところは、好きなときに投稿できる点ですね。
お仕事やご家庭など、いろいろと変化がありますが、無理をせず、マイペース
で続けて参りましょう。

 宜しくお願いします。

270a hope:2016/11/18(金) 05:25:00 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」 第29巻 p40 後から6行目〜

谷口――わたしが「物質は無い」というのは、「物質」と見えていても、物質そのものはそこにないので、そこに神の恵みの投影したものがあるというのです。

大根一本抜くのでも「拝んで抜け」と言われた金光教祖の心持ちがそれです。

大根一本を物質であると見れば「拝んで抜く」必要はありません。

拝んで抜く気になるのは、その大根一本を物質は見ないで「神徳」のあらわれとして見るからです。

石炭も神徳の現われであり、机も神徳の現われであるというのに、その石炭を生かすように智慧と愛とで燃やさないで、石炭を殺し、机を殺し、人間の能率を殺すように燃やしている――わたしはそれを見ただけでも、失礼でございますが、あなたのお店の営業成績がこの半期に落ちると判断しました。

それではまったく生長の家の経営法とちがいます。

出せば出すほど殖えるというのは、生かすように、智慧と愛とを出した時に限ります。

271a hope:2016/11/18(金) 05:26:03 ID:vdNCBnG6

>>270 a hope所感)

第四章は「無限供給の経済の立て方」というタイトルがついていて伊田氏という経営者が、
生長の家の「出せば出すほど殖えるという“無限供給”」の教えに従って経営をしてきたが、
実際にはうまくいかない、と雅春先生に反論されています。

それに雅春先生が伊田氏の心持ちの問題点を指摘して、厳しくもとても親切にお答え下さっています。

この章は経営者の方には必読の章だと思いますが、わたしはこの章が第29巻の女性教育篇に収録されているのか最初はよくわかりませんでした。

ですが最後まで拝読してその訳がわかりました。

272a hope:2016/11/18(金) 05:27:34 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第29巻 p45 3行目〜

谷口――(略)―――「空」に執えられ、「物質無」に捉えられ、「無限供給」に執えられ、「空執」によって「神の細心の智慧」をことさらに男子の豪快事とし、無駄をはぶくことをもってケチと称し、泥川へ金銭を捨てるようなやり方を生長の家の経営法だと誤認しているやり方を見ていると、危なかしくて見ていられないのです。

干渉がましところがあったらごめんなさい。

生長の家の「空」の真理は、執えたと思うとき逃げてゆくのですから、ひとかどあなたほどの人でも「空」にとらえられて、事業に処する自由自在の智慧を失ってしまうのです。

伊田――なるほど、これから気をつけましょう。


谷口――これはお店の経済だけではありません。

一家の経済の立て方でも同じことなんですよ。月給取りなどの家庭で「出せば出すほど殖える」と言って生長の家の経済の立て方を生半可に理解して浪費している細君に、「それじゃから生長の家は困る」といって争われる良人が往々にありますが、それはみんなこういう奥さんの「空執」から来るのですよ。

273a hope:2016/11/18(金) 05:29:04 ID:vdNCBnG6

>>272 a hope所感)

この章には、生長の家の「無限供給」の教えを生半可に理解して実行してしまうことへの警鐘があると思います。

それは事業経営を悪化させるだけではなく、家庭の経済をも悪化させてしまうのですね。

「天地一切のものへの感謝の気持ち」これが自然に出て来たとき、初めて生長の家の「無限供給」が実現するのだと思いました。

274a hope:2016/11/20(日) 05:23:59 ID:vdNCBnG6
「生命の實相」第29巻 

p47 9行目〜
不幸な女性を奥様に持った良人ほど気の毒な良人はありません。男性が本当に幸福であるためには、女性が本当に幸福でなければなりません。

   (略)

p47 後から3行目〜
幸福な心の人のそばにいれば、その人はなんとなく幸福な感じがするのです。それは精神波動の感応です。妻のそばにおってもなんとなく幸福な感じがしないのは、家が本当に幸福でないからです。妻たる女性が心に奏でる音楽が幸福なメロディーを韻(ひび)かせることがぜひ必要です。

   (略)

p48 後から6行目〜
多くの男性は女性が幸福の表情をしたら自分の生命でも投げ出すのです。家庭に良人を引き付けておこうとするには、奥様自身が幸福になり、奥様自身が幸福の表情をしなければなりません。

275a hope:2016/11/20(日) 05:25:18 ID:vdNCBnG6

>>274 a hope 所感)

ここまで拝読して、わたしは、ある「生長の家の歌」を思い出していました。
それはわたしの大好きな「歌」で、4年以上前に聖典引用板の方に紹介させていただいています。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/210

そうしたら、この29巻の5章の最後にも、ちゃ〜んとその「歌」が紹介されていました\(^o^)/

聖典板の再掲ですが、もう一度紹介させていただきます。

みなさま、素晴らしい日曜日をお過ごしください!

276a hope:2016/11/20(日) 05:26:27 ID:vdNCBnG6

「光明と暗黒」

君は絶えず暗黒を撒いて歩く
不快な人間を見たことはないか、

君は眉をひそめた
悲しい表情の人々に接したことはないか、

君は表情が、
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


悲しい表情をした人間は
悲しみを撒いて歩く、

不快な表情をした人間は
不快を撒いて歩く、

それは黴菌を撒いて歩くよりも
尚大きな罪悪である。


また君は絶えず光明を撒いて歩く
愉快な人間を見たことはないか。

君は絶えずその唇に
幸福な微笑をだだよわし
逢う人毎に
幸福をうつして歩く人間を見たことはないか。

君は表情が
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


君は与えるものがないことを
嘆いてはならない。

君は与えるものがなくとも
幸福な表情を与えることが出来るのだ。

子供の顔を見るとき
良人の顔を見るとき
妻の顔を見るとき

兄弟の顔を見るとき
姉妹の顔を見るとき

八百屋に挨拶するとき
風呂場で知った人に遇うとき

君が幸福な表情さえすれば
君は幸福を与えて歩く。


幸福な表情をした人間は
幸福を撒いて歩く、

愉快な表情をした人間は
愉快を撒いて歩く

それは物を与えるよりも
一層好い贈り物であるのだ!

277a hope:2016/11/25(金) 07:35:11 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第29巻 p91 後から2行目〜


「本来無い不幸」がどうして現われるかというとすべて「我(が)」の心が邪魔になるのであります。

「我」というものは「本来一体」のものを取りちがえて分裂感(わかれたかんじ)を起こしたものであります。

ちょうど大海の水のように、われわれの生命は、「神」と「自」と「他」と、その三つは一体である。

それが波と波とのように分れて、本来一体でないと思い、「我(われ)」だけであくせく苦労しなければならないと思う、これが「我(が)」の心であります。

この「我(が)」の心で苦労すると本来一体が一体でなく見える。

大海の水が一体でありながら無数の波に分かれているように見え、満月は本来マン円(まる)いにかかわらず、壊(くだ)けて不完全に見えるように不幸は本来ないにかかわらず、不幸の相(すがた)が表面に現われてくるのであります。

ですから幸福を招きたい人は「我(が)」の心を捨て、引っかからない、素直な心、そのまま受ける心、神様におまかせした、全体の動きにおまかせした、明るい焦らない朗らかな心をもつことが大切であります。

「我(が)」があったら人間は明るくなれません。


「我(が)」をとったら明るくなる。

明るい世界に暗い影は這入ってこないのですから、常に心を明るい浄(きよ)らかな嬉しい嬉しい状態でおきますと、万事都合よくそのままで何でも整うようになるのであります。

278a hope:2016/11/25(金) 07:36:57 ID:vdNCBnG6
>>277 a hope所感)

第七章は「ダリアの花に題して」という副題がついていて、上に謹写した文章は章の最後の文章です。

この章の内容は、一つの見苦しいダリアの球根から美しいダリアの花が咲くことに例えて、
わたしたち人間もその「生命」を素直に発揮すれば、だれでも幸福な人生を送ることができるというものです。

聖典の文章はどこを拝読しても素晴らしいのですが、わたしは今回のような「ダリアの花」や「朝顔の花」の理念の具象化の例え話を拝読するたびに心が洗われています。
過去に「朝顔の花」のお話を「訊け」さまと復興Gさまも聖典引用板の方に謹写してくださっていますので紹介させていただきます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/284
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/470

ダリアの花のたとえ話は、今回のテキストのP78にありますのでぜひご拝読くださいね!

279るん吉:2016/11/30(水) 05:44:07 ID:h3ODWWgg
>>278
>>「我(が)」の心が邪魔になるのです。

a hopeさまこれ、難しいですねぇ・・我をなくすのが。

我がなかったらその人はもう 悟りの境地 だし・・。修養でも無理かな・・というより修養なんて却って無理ですね

で、やっぱり 実相の自覚 でしょうか。結局、全て(の解決)は、本当の我は肉じゃない、神の子。という実相独在の根本真理を知ることなんですかね。」

いつも有難うございます。

280a hope:2016/12/04(日) 12:26:10 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第6回 web「生命の實相」輪読会 案内

期間   平成28年12月4日〜12月31日まで
テキスト 「生命の實相」第30巻 児童教育篇
内容   子供への光
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

みなさま、おはようございます。
12月に入りましたので、第6回 web[「生命の實相」輪読会を開会したいと思います。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆

281a hope:2016/12/04(日) 12:27:25 ID:vdNCBnG6

みなさま こんにちは

案内がおそくなり申しわけありませんm(__)m
はやいですね、もう12月になりました。
人間神の子の「生長の家」の教えに出会えたことに感謝して、今年最後の1か月も元気に明るく過ごしたいですね!

282a hope:2016/12/04(日) 12:30:04 ID:vdNCBnG6

>>279 るん吉さま

ご投稿ありがとうございます!
るん吉さまにとって「修養」ってどんなことですか?

わたしは今までの人生を自分の「我」のままに生きて来ましたが、その結果起こることがすべて人生の「修養」なんだなって気がしています。

「生命の實相」や「甘露の法雨」を拝読したり早朝神想観をしたりできるのは、「実相とはなにか」を体得できる喜びの行事ですから、
わたしにとって「修養」って感じではなくて、むしろ快い行事です。

でも、最近は仕事や生活に追われてしまっていてその歓びの行事をする時間がなかなか取れていません。

きっとそのうちにまた余裕がでてくると思っていますが・・・
すべては神さまにお任せしています。

少しずつですが、輪読を続けていきますので、またご参加くださいね!

283a hope:2016/12/06(火) 04:42:41 ID:vdNCBnG6

第30巻「はしがき」より抜粋

真の教育はしょせん、人格と人格との接触によって行われなければならないのである。

人たるものの人格の本質(実相)は、“仏性”または“神性”である。

教師が内部にある自己の神性を開顕して、児童に接触するとき、児童の内部に宿っている神性が引き出されるのである。

教師みずからがその肉体的労力を賃金によって切売りする労働者にすぎないと自覚して肉体的な利己的、我欲的面のみを露呈して児童を教育するならば、児童は利己的、我欲的な面のみ発達せしめられて円満完全な人格を成長させることはむつかしいのである。(p2 1行目〜)


わたしが本書において唱道(しょうどう)している教育の根本は、まず、「児童に人格の自由をみとめる」ことである。

「児童に行為の選択の自由を与える」のである。

叱責や刑罰で恐怖心を与えて児童を先導しようと思っても、それは反対効果を得るだけである。(p2後から7行目〜)


わたしは三十年間わたしの新しき教育法を多くの教師または父母たちに実践せしめてきて、それが実際に効果があることの実証を得てきたのである。

この革新的教育法は、わたしが創めたところの三十年間においてはもちろん新しかったが、三十年後の今日、戦後の民主主義教育時代にが、なおいっそう適する喫緊(きっきん)な教育法となってきているのである。

今ではこの教育法を中心に多くの大学高等学校中小学校などの教職員と父母の連名である「新教育者連盟」というものができて、それがますます全国に広がりつつある現実である。

本当に新しいものは、やがて古くなるところの流行的新しさではないのである。

常に永遠に新しいものこそ、本当に新しいものである。

そのような意味において、常に新しさを失わない教育法こそ本書に説かれている教育法である。(p3 5行目〜)

284a hope:2016/12/06(火) 04:46:35 ID:vdNCBnG6

>>283 a hope 所感)

「真の教育はしょせん、人格と人格との接触によって行われなければならないのである。
人たるものの人格の本質(実相)は、“仏性”または“神性”である。
教師が内部にある自己の神性を開顕して、児童に接触するとき、児童の内部に宿っている神性が引き出されるのである。」

どんなに取り繕っても、その人の内面の人格というものはにじみ出て来てしまうのですよね・・・。
特に、子供たちは大人の人格を見抜く天才だと感じていますが、同時にとても影響を受けやすく、良くも悪くも感化されてしまいます。
教師(指導者)や親は常に自分を研くことが大切だと感じています。


「本当に新しいものは、やがて古くなるところの流行的新しさではないのである。
常に永遠に新しいものこそ、本当に新しいものである。
そのような意味において、常に新しさを失わない教育法こそ本書に説かれている教育法である。」

『永遠に新しい』ってすごい表現ですね!

例えば、どんなに表面を美しくしてみてもそれは本当の美ではなくて、いつかは醜く朽ちてしまう、虚偽の美しさ・・・。

メリル・ストリープ主演の「永遠に美しく」という映画がありますが、あの主人公はまさに虚偽の美を追求してどんどん醜悪になっていきます。

わたしは、生長の家の教えを学んで、常に『永遠に新しく』を目指したいです!

285うのはな:2016/12/07(水) 00:32:48 ID:R9GcJyNI

人をどれだけ愛したのでしょうか?

 自分の子どもさえ、そうでない子どもであさえ。

 結局信仰って、不出来な私がこれだけ人を愛するつもりになってただかだけです。

 それは実証できないし、やらなくていいんです。

 でも、私は誰かを愛してたっていうことが言いたくて生きている。

 それは大事なことだと思います。

286a hope:2016/12/07(水) 05:21:49 ID:vdNCBnG6

>>285うのはなさま

輪読会ご参加ありがとうございます。

「愛」の定義は難しいですね。

でも、うのはなさまからのメッセージにわたしはインスパイアされましたよ!

わたしは「愛」は「無償の愛」でなければ本物ではないと感じています。
人は「我」があるとどうしても見返りを期待してしまう。
「これだけしてあげたのにお礼もいえないのか・・・」とかね(笑)
でも少しでも見返りを期待してしまったら、もうそれは純粋な「愛」ではなくなってしまいます。


神さまの愛は常に無償です。
本当は、この世界はその神さまの愛で満たされているのに、わたしたちはそれになかなか気づかない・・・。
そのことに気がついて感謝の気持ちが溢れ出て来たとき、それが本当の「天地一切のものへの感謝」の気持ちなのだと思うのです。
神さまとの相思相愛かな?


それは、わたしたちが「感謝しよう」とか「愛そう」とか思ってできるものではなくて、
人間が成熟した時、神の子が自覚できたときに、自然にあふれ出てくる感情ですね。
でも、それって言いかえれば、「真理を大悟」したってことですから、
現象的に生きているわたしたちにとっては、とても難しいことだとも感じています。

「難しい」という言葉を、嫌う人もいらっしゃるかもしれませんが、わたしは反対に「難しい」に感謝しています。

だって、「難しい」があるからわたしたちは生長できるわけですから・・・。

つまりは、「ありがたい(有難い)」=「愛」ってことですね!

287a hope:2016/12/09(金) 05:20:57 ID:vdNCBnG6

生命の實相 第30巻 p34 6行目〜

「生長の家の教育は点取り虫の養成ではない」

かくのごとく、この生長の家の教育法を応用すれば人間の記憶力をじつに大きく伸ばしてゆくということができるのであります。

しかしこの生長の家の教育法を児童の学校成績をよくする――勉強せずにいて点数を余計取る狡い方法だくらいに考えられますと、大変なまちがいであります。

生長の家の教育法の目指すところは、そんな単なる小さな問題ではないのでありまして、もっと大きな問題がある。

それはいかなる困難に遭遇するも決して崩折れてしまわない「大いなる自己」の発見であります。

学校はたとい及第するにしても落第するにしても決してそれによって崩折れてしまわない、挫折してしまわないところの無限の内在する力を見出さしむることが生長の家の教育法の目指すところであります。


必ずしも点数がよくて席順が上がるばかりが能ではないのであって、世界中の人間が皆生長の家へ入って、同じ教育法を受けて、みんな試験場へ臨んで同じような最高点数を取ったら、現在では学校の数は生徒全部を入れるほどには足りないから、誰かがまた落第しなくちゃならぬことになるかもしれません。

そういうふうな時に挫折してしまうのでは生長の家の教育法はなんにもならぬわけであります。

全ての人間は学校を落第した時でも、人生に落第しないところの、どこからでも自己の魂を太らす栄養を吸収する大きな力を摑んでおかなければならないのであります。

この「大きな力」を摑ませておくのが生長の家であります。

288a hope:2016/12/09(金) 05:22:41 ID:vdNCBnG6

>>287 a hope 所感)

<<それはいかなる困難に遭遇するも決して崩折れてしまわない「大いなる自己」の発見であります。>>

どんな困難にも挫けない「大いなる自己」・・・かっこいいですね!

289a hope:2016/12/09(金) 21:43:50 ID:vdNCBnG6

>>286でわたしは、「難しい」に感謝していると発言しましたが、
これは決して「不幸」になることや「受難」することに感謝しているという意味ではありません。

それでは受難礼賛になってしまいます。

本当に人を愛するのは「難しい」つまり本当に悟るのは「難しい」という意味です。

でも、その「難しい課題」があることに感謝しているという意味です。

生長の家は受難礼賛の教えではありませんから、「不幸は無い!病気もない!」ですよね?

でも、そのことを本当に悟るのは「難しい」という意味です。

「難しい」ということを自覚するのは、野狐禅にならないためにもわたしは必要だと感じています。

皆さんはどう思われますか?

290神の子さん:2017/03/01(水) 00:07:47 ID:GFWemD/o
150万円程度の中性子線測定器で正常値が0.00μSv/hのはずの中性子線が特定個人の元ではか不明だが測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=8R0luOy8ce8

新幹線の中やその付近でも27万円程度の測定器で正常値が0.058μSv/hのはずのガンマ線が特定個人の元ではか不明だが最大測定値を上回る形で測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=41lQN7rF3fQ

ベータ線(ガンマ線)を一つ計測すると、一回"ピィ"と鳴る測定器で正常値が約55カウント/min程度のはずが観測者の自宅では大きくそれを上回ってしまって測定されてしまう
https://www.youtube.com/watch?v=4veAJaorl1s

291トキ ◆NeaLgIQX3w:2017/03/01(水) 00:57:42 ID:WE6FhVws
>>290

すみませんが、同じ投稿を複数回投稿するのはおやめください。
それと、生長の家とどういう関係があるのでしょうか?
ご説明をお願いします。ご返答がない場合は削除します。

管理人

295トキ:2017/04/06(木) 01:03:30 ID:lhwrNPJA

第8回 web「生命の實相」輪読会(日程変更あり) (581)
日時:2017年03月01日 (水) 15時53分
名前:a hope

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第8回 web「生命の實相」輪読会 案内

期間   平成29年3月1日〜4月30日まで
テキスト 「生命の實相」第33巻 随喜篇 
内容   
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 以下をご覧ください。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=toki2&amp;mode=res&amp;log=108

298ドキ:2018/12/19(水) 02:03:54 ID:MFd7sHPM
あれ?新羅人の志恩さん (8427)
日時:2018年12月18日 (火) 08時52分
名前:シオン観測隊

何故、ヤオハンの話題をしたら、新羅人=志恩さんだと、バレきたかしら
注目投票をする(0)


1 (8429)
日時:2018年12月18日 (火) 09時53分
名前:トキ

1

299栃木恩:2018/12/19(水) 02:08:08 ID:MFd7sHPM


毎回明確な、検証のシオン観測観測隊 (8431)
日時:2018年12月18日 (火) 16時54分
名前:シオン観測隊

毎回明確に新羅人の志恩さんの検証、分析をコメントしてる、シオン観測隊。志恩さん、日野ボンのコメント出来る立場では無いのである。

3680:志恩

18/04/26(木) 23:06:31 ID:6hRUvSRg
私は、フリーなので、教団の方も学ぶ会の方も、行けるのです。

============
(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年もに、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪

============

(何故なら、生長の家無関係者だからで、ある。シャンソンさんに指摘されてる。文句あるなら、傍流に来てみなさい)

NAME
志恩
SUB
ほんと、元信徒様のご指摘するように、この応酬はメビウスの輪、出口のない迷路になってると私も思いました。
MES
ほんと、元信徒様のご指摘するように、
この応酬は メビウスの輪状態....
これを続けても、終わりは無限に無く、
出口のない迷路になってると私も思いました。


それに
本音の時代さまは
教団側と本流側の組織の上層部の方たちのことを指して
おっしゃっておられますのに対して、

日野智貴さまは、
上層部の方たちのことではなく、
組織に属している 部下の方々のことを指して言ってる。

日野智貴さまー
>>これも何度も言うけれど、組織の内部で教団の腐敗を糾すために
戦っておられる方を私は何人も知っています。
組織を見捨てた方よりも、そういう方の方が素晴らしい、と私は思います。<<

この言い方ですと、
教団に残って、教団の上層部の腐敗と戦ってる
教団に所属している部下の人達の方が、

教団という組織を見限って
教団組織から離れて行った 

例えば、学ぶ会に行った部下の人達よりも
より素晴らしい人たちだと思う...と言ってるように聞こえます。

今回のテーマは、
双方の上層部の方たちについてのことであり、

部下や、信徒の、どちらが、素晴らしいか素晴らしくないか、
ということではないと思います。


投稿日時
2018年12月18日 (火) 03時09分

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

こんな、嘘コメントは、本人為に、ならない

300神の子さん:2018/12/28(金) 23:04:26 ID:7W2PGskg
「したらば」掲示板一時閉鎖のお知らせ (5323)
日時:2018年09月21日 (金) 10時46分
名前:トキ

 平素は「生長の家「本流復活」について考える」をご利用くださり、感謝申し上げます。

 旧 生長の家「本流復活」について考える(したらば版)ですが、最近、シャンソン様などが書き込みを繰り返しているので、正常な状態ではなくなってしまいました。とはいえ、このまま「掃除」をしても、イタチゴッコです。そこで、一旦、書き込みを停止し、その間にアラシ投稿を削除したいと思っています。閉鎖の日時は後日おしらせします。清掃が終わった後に、再開したいと思います。

 なお、この「生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)」は閉鎖などはしませんので、ご安心ください。
 
 以上、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。


管理人敬白

301神の子さん:2019/02/21(木) 01:49:45 ID:RtDjbkIM
この掲示板は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」について、自由に議論をするため に作成したスレッドです。
生長の家に関連する話題なら、広く受け付けます。
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。
生長の家創始者・谷口雅春先生のご人格や教えへのご批判をされる内容の投稿は一切許可しません。
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
アラシ投稿や他の投稿者様を誹謗中傷する投稿をする人は、警告なしに削除します。また、アラシ投稿をする人は投稿制限をかけます。
以上の方針に同意された方のみ入室してください。


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