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Web誌友会 板/2

4265a hope:2014/09/04(木) 23:51:56 ID:cEpBaIdo

>>4262 トキさま

<< 実相論から発言すると、実際に被害にあった人からは不愉快に思われる場合が
あるので、気をつける必要はあります。が、それはテクニカルな部分で、問題の
本質とは異なります。神様の世界には「悪」はない、という事です。>>


例えば、災害等で身内を亡くして悲しんでいる人や病気で苦しんでいる人に、
いきなり『生き通しの生命』や『現象無し』『肉体無し』の真理を説いてみても、聴く耳は持ってもらえないのではないかと思います。

これは、わたし自身が実際に宇治の練成で何度か実修し、さらにこのweb誌友会でも復興Gさまから教えていただいたことですが、
相手も自分も「祈り」によって救われるという神想観に「祈り合いの神想観」がありますが、
その神想観の祈り方の方法として、完全円満な実相を観ずる(実相直視)前に、
祈って上げる相手の心の痛みや苦しみを自分のことのように観じる(「同悲の心」を起す)というご指導がありました。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/216n-


<<相手のために祈るということは、譬えてみると、相手のシャツの汚れを電気洗濯機で洗濯してあげるようなものである。

 相手のシャツを洗濯するためには、まず、相手がどんなに汗臭かろうとも、相手のところに近づいて行って、
「さあ、シャツを洗濯しましょう。貸してごらんなさい」と言って、まずシャツを自分の手許に取り込むことが必要である。

 祈ってもらいたいと出て来られた人に対し、
「あの人は、これだけお話をきいているのに、まだあんなことを悩んでいる。悟っていないねえ」
 などという気持は、シャツを自分のもとに取っていないのである。

「友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う」という友情をうたった歌があるが、相手の悩みを見て、
「もしも、私があの人の立場だったら、どんなにつらいことだろう。あの人の悲しみは、我が悲しみだ。何とかしてあげたい」と、
真に相手の悲しみを我が悲しみと感じ、共に手をとり涙を流さんばかりの気持となるとき、
相手の悲しみが吾がうちに摂取されるのである。相手の汚れたシャッを自分の手許にとり込むことになるのである。

 聖書には、イエスが他の人のために祈った心がよく示されている。
ラザロが死んで、その家族達が嘆き悲しんでいる所にイエスが来たとき、「イエス涙を流し給えり」とある。
 相手の人の苦痛や嘆きに対して、この、共に涙を流すほどの同悲の心があってこそ、神癒が行われるのである。>>



「現象は本来無い」ものだけれども、それを完全に悟りきれなければ、わたしたち人間は誰だって現象の出来事に心を捉われて、
悲しんだり、苦しんだり、怒ったり、妬んだり、どうしても許せなかったり、怨んだりという悪感情をもってしまうものだと思います。
そして、それら悪感情をもてば必ず「心の法則」が作用し、病気になったり不幸な運命を招くということになってしまいます。


創刊号 の「『生長の家』出現の精神とその事業」を拝読すると、実相世界を悟った谷口雅春先生は、
そのような「心の法則」を知らず、自分自身を苦しめ不幸になるという悪循環に陥っている人類に同悲の心を起されて、
「生長の家の火」をかざし人類光明化運動を始められたようですね。


だから、『現象は無し』『肉体は無し』は確かに「生長の家」の真理ですけれども、目の前で悩み苦しんでいる人に対しては
まずは、同悲(愛)の心を持ち、じっくり話を聞いて心境を理解してあげることがとても大切なのではないかと感じています。


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