(歌が聴こえた様な気がしたのです。何処で、叫ぶような、囁くような、呟くような、普通にお喋りするような、そんな声で紡がれる歌が聴こえた気がしたのです。だからという訳ではないけれど、やけに頑なに静寂を守った森の中を男は急ぎ、何かに急かされ、自らを叱り付け、何処の誰かに指摘されたその足音を響かせていきました。一体誰がこんな場所を造ったのか、其れもまた潤んだ瞳から逃げてきた自分には語る資格もないのでしょうが、綺麗な円形にくり貫かれた草原の広場に、枯れた男は立っていました。けれど。何の根拠からか此処から歌声は産まれた、そんな不確かな確信を抱いていたにも関わらず、歌声の主は其処にはいません。此処にはいません。何処にも、彼方にも、此方にもいません。そうして泡の溶けた湖を見て、男は、何故如何してか理解するのです。察するなんて紳士なことを男は死んでもしませんが、ただ、静かに荒立った心を摑みながら理解したのです。一瞬ざわりと心が揺れたような気がしたけれども、周りの風が、草が、森が、空が、月が、野暮にざわめくようなことをしないので、自分の手もただ、そっと其処にあったはずの髪に触れるように宙を撫でるだけに留まりました。自分の胸元の位置を只管、そっと。そうして中央が波打っているように見える湖に近づき、近づき、水際までやってきても男の足は止まらずに、皮製のブーツが半分ほど浸ってしまいながらも進んでいくと、ちゃぷちゃぷと揺れる水面にそっと手を翳してみます。冷たいはずの表面は何故か熱を孕んだように感じられ、其の侭ずぷりと腕を沈めて。嗚呼、まるで誰かの熱を、体温を、涙を、声を感じるように熱い。その熱に直接触れられないのならせめてと水面に唇を寄せ、その感触に何時ものように笑ってみせれば、誰に薄情だと言われた気がしてならないのです。ほんの少し濡れた唇を手元で拭って、それ以上進むことはやめて水際に戻ろう。変わらず空に浮かび微笑み続ける満月と顔を合わせると、何を感じ取ることも出来ない自分に馬鹿らしい苦々しさを感じるから。歩き出すことが前向きと呼ばれるなら、自分はゆっくりと後退しようか。この温くて冷たい湖に、静かに沈んでいった此の街の象徴とも言える存在を其の名に持った少女のことを、じわりと胸に留めながら)
I kiss a coffin in my country at parting time.―――The name was a thing only for you till the last so that you disliked a full moon how long.
(遠い遠い昔のことだ。まだ私が少女で、まっさらだった頃に教えてもらった歌をふと思い出した。全部捨てたと思ったのになぁ、と呟いた声は、襤褸の教会の高い天井に吸い込まれて、消えた。赤い靴のつま先でつついた壊れかけのオルゴールは、悲しげにラの音を一つ立てて止まった。全部壊れかけなのに、どうして私だけが戻ろうとするの。もういや、あんなところになんか居たくなかったから、ここに来たのに。どうして思い出すんだろう。腹立たしくなって、マリアまで続く赤い絨毯の上で丸くなった。胎児のように。壊れちゃえばいいのに、全部忘れられればいいのに、つらいこともいやなこともわすれられないことも。そうすればきっと、ずっと幸せになれるのに。胎内に広がった金髪が、ステンドグラスから入り込む月光を跳ね返して僅かに光る。逆さになったマリアを、少女は薄紫の瞳で見つめていた)――……どうして、私は人なのかなぁ。なんで愛がほしいんだろう、愛なんかきっと、痛くて冷たいだけ。そうでしょ?……あったかくて、きらきらしてるなんて嘘よ。嘘よ。(慈悲に満ちたマリアの微笑みを与えてもらえる、「彼」が羨ましかった。手に入らなかった玩具に難癖を付けたがる子供のように呟いて、ゆっくりと目を細めて、思い出した歌の一節を口遊んで)――……Que de partager leur cercueil