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日本茶掲示板同窓会

1匿名:2014/07/28(月) 04:40:24
告知失礼します
スレ立てしました
2chなので匿名で良いと思うので(もちろんHN付きでも可)来て下さい


日本茶掲示板同窓会
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/kova/1405456563/

193キラーカーン:2018/01/28(日) 22:52:03
7.2.5. 政治の「大統領制化」
7.2.5.1. 総説

 本来的には「ネトウヨ化」とは関係はないが、「世界総ネトウヨ化」の促進要因となったものとして最近の(比較)政治学において「大統領制化」という現象がある。

 そもそも、大統領制或いは二元代表制は、行政区域内でただ一人の当選者を選ぶ「究極の庶選挙区制」である。、大統領制は、民主政治の中にゼロサム・ゲームと「勝者総取り」的結果に向かう傾向を導入したともいえる 。この結果、大統領制或いは二元代表制は議院内閣制と比べて国民の間の亀裂或いは分断を固定化・拡大する傾向が強い。

 また、大統領という職責から、大統領(候補者)は有力政党の指導者(≒党首)であることが一般的である。したがって、大統領は「国家の顔」だけではなく「政党の顔」という役割も担わされることとなる 。その「政党の顔」という側面が強くなれば、国全体が、「大統領派」か「反大統領派」に二分される。その結果、大統領制の国家或いは二元代表制の地方自治体においては、反大統領派によるクーデター又は革命を惹起させやすく、その結果、大統領制は議院内閣制よりも民主主義の安定度が劣るとの議論が提起された 。

 当選者が一人という大統領(首長)選挙や小選挙区制においては、有力候補者が2名 に収斂するというのがデュヴェルジェの法則が予測するところである。この法則があるからこそ、「政権交代可能な二大政党制」を目指した日本の政治改革を実現する制度改革として、日本の衆議院選挙に小選挙区制が導入された。

 小選挙区制や大統領選挙のように(有力)候補が二人に収束する選挙戦では「敵か味方か」或いは「共通の敵」を作り出すという二分法が選挙戦術として有効となる場合が多い。そして、国全体でただ一人しか当選者を輩出しない大統領制ではその「二分法」による弊害が最大となる。また、「当選者が一人」ということから、大統領制は独裁制へ転化しやすい 。民主党が2009年の総選挙で政権奪取に成功したのは「反自民」という世論の後押しがあったのは言うまでもない。このような「敵か味方か」という二分法或いは「一ビット脳的政治」を招きやすい大統領制或いは「二元代表制」という特性に便乗して、最近では議会との対立を煽る首長が目立ってきたのはこれまで述べてきたとおりである。

 このような「反○○」という「(共通の)敵を作り出す」手法で当選してきた大統領・首長は、当選後の新たな敵として議会を標的にする。この場合、二元代表制の首長側が大統領・首長と議会との対決姿勢を増幅する働きをする 。我が国においてこの手法を多用しているのが改革派首長或いは所謂維新系政党(「都民ファースト」及び「希望の党」を含む)である。彼らは、「既得権益」などの「敵」を作り上げ、「敵味方」という二分法で有権者の感情を煽る というポピュリスト的手法を活用している。そのような対決型の首長が当選した自治体が増加した(そして、そのような自治体は「劇場型」であるがゆえにニュースとなり易く、世間の注目を浴びる頻度が高くなる)結果、分割政府における統治機能の麻痺・機能不全という二元代表制の弊害が日本においても顕わになってきているのが最近の改革派首長の弊害でもある。

194キラーカーン:2018/01/30(火) 01:00:05
7.2.5.2. 「大統領制化」とは何か

 本節でいう大統領制化 というのは、制度としてのそれではなく、大統領制、半大統領制、議院内閣制という政治体制を問わず、政治権力が行政権の首長、すなわち、大統領又は首相に集中する傾向を指す。具体的には

① 行政府(執政府)及び出身政党における首長(指導者)の権力資源の拡大
② 行政府(執政府)及び出身政党における首長(指導者)の権力の自律性の増大
③ 首長(指導者)の指導性を重視する選挙過程

の3つの特徴を持つという。これは、

① 首長の権力の源泉は議会に依存するのではなく、直接選挙で選出されたことによる
② 首長の指導力は(選挙での勝利を条件として)出身政党の圧力から保護される
③ 首長は「選挙の顔」として選挙結果に直接影響を及ぼす

という大統領制化の効果をもたらす。日本においては、「改革派首長」を淵源とする「首長権力の大統領制化」というものは、橋下元大阪市長をはじめとする「維新系政党」で一応の完成をみた。その正統後継者は小池都知事である 。

 問題は、この「大統領制化」が属人的なものであるのか、構造的・制度的なものであるのかということである。属人的なものであるのであれば、一過性のもので終わる可能性があるが、構造的・制度的なものであれば、ある程度継続的なものとなる。勿論、構造的・制度的なものであったとしても、首長の座に就いた人の属人的な資質によって大統領制化の度合いは変動する 。これは、同じ「大統領制化」といっても、大統領制、反大統領制及び議院内閣制と政治体制が異なれば、その「大統領制化」の範囲も異なることと同様である。

 日本でいえば、地方自治体レベルでは改革派知事或いは維新系政党は制度変更と伴わないため(というよりも、制度自体が大統領制の一種である二元代表制となっているため)属人的色彩が強い 。或いは、既存の制度を活用しただけであり、これまでは、属人的事情で大統領制化が「抑制」されてきたともいえる。

 国政レベルでは小選挙区制導入や首相権力(官邸)の強化という制度改正を伴っていることから、意図的に首相権力を高める方策ととってきたと言える。また、リベラルが主流のマスコミによる批判的な報道にも関わらず。国政選挙での連勝により、安倍総理・総裁への求心力は維持されており、国政では「安倍一強」と言われる政治状況となっている。

195キラーカーン:2018/01/31(水) 00:16:12
7.2.5.3. 「1ビット脳的政治」と大統領制化とポピュリズム

 これまでも述べているように、大統領制或いは二元代表制における大統領選或いは首長選は「究極の小選挙区制」である。勿論、大統領選は国を二分する戦いになる。特に大統領選が決選投票制を採っている場合、その決選投票は文字通り「国を二分する」選挙戦となる。

 このような「国を二分する」選挙戦、「敵か味方か」或いは「反○○」という二分法は、全ての問題が究極的には「0と1」に二分される「1ビット脳的政治」は相性が良い。ここに、ポピュリスト的政治家が付け込めば、「風」に乗って政権を奪取することも可能である。

 この種の問題は大統領制においては「政治の素人」が大統領になるというリスクとして知られている。「素人」は資質・経歴の問題であるが、「ポピュリスト」は政治手法の問題である。但し、全国民(住民)の直接選挙で選ばれる大統領、首長であるからこそ、「素人」或いは「ポピュリスト」という語が選挙に際して有利に働くこともある。

 トランプ米大統領や橋下元大阪府知事のように、この両者は矛盾せずに重なり合うことが往々にして存在する。勿論、アイゼンハワー米大統領 のように「政治の素人」であっても、大統領として及第点を与えられている者も存在するので、「政治の素人」であるから大統領或いは首長として不適格とはならない。従来の経緯や文脈から離れた変革が必要な場合はそのような「外部の血」を入れるという利点もある。日本の例では、官僚出身の「改革派知事」というのが該当する。

 ただし、国家(自治体)全体でただ一人を選出された者に権力が集中していく大統領制化と「1ビット脳的政治」との融合は「右」だけで起きているのではない。それは「左」の側にも起きている。有名な例はスペインの左派ポピュリスト政党の「ポデモス」である。

196キラーカーン:2018/02/01(木) 00:36:48
7.2.5.4. 議院内閣制における大統領制化
7.2.5.4.1. 総説

 (半)大統領制を採る国が「大統領制化」するのはある意味当たり前であるが、前述の『民主政治はなぜ「大統領制化」するのか』においては、議院内閣制をとる国も含めて「大統領制化」という概念が使用されている。昨今の政治体制論における「大統領制化」を巡る議論もこの前提に立っている。

 議院内閣制において「大統領制化」という語が用いられる場合は首相(与党第一党党首)への権力集中という意味で使用されている。最近、議院内閣制においても首相への権力集中・自立化という「大統領制化」が進んでいるというのが、ポゲントゲとウェブの立論である 。

197キラーカーン:2018/02/01(木) 00:37:31
7.2.5.4.2. 日本における首相の「大統領制化」

 この「議院内閣制における『大統領制化』という点において、1990年代に「政治制度改革」を経験した我が国は分かり易い実例となっている。細川内閣の成立以後の日本の「政治改革」は首相権力の強化・自立化という点で一貫している 。

 自民党総裁としては、小選挙区制の導入は自民党の権力の源泉である公認権とそれに付随する選挙運動を総裁-幹事長という党中央で掌握することを可能とし、「党中党」としての派閥の存在意義を消滅させた。

 行政の長としての総理大臣としては、「官邸機能の充実」という掛け声のもと、総理直属の機関が拡充強化されている。これは、行政権を分担管理する各省大臣から独立した総理権力の強化・自律化という結果をもたらす。

 このような、政治制度改革後に強化された総理権力或いは自民党総裁権限を最も効果的に使った総理として小泉総理を第一に挙げるのは衆目の一致するところであろう 。「刺客候補」、「派閥推薦を受けない大臣人事」、「偉大なるイエスマンと自称した幹事長」など、小泉総理の「大統領制化」を語る逸話を挙げるのに苦労はない。

 そのような中で、旧来の派閥政治の経験に依拠した「古い」タイプの政治家は時流に取り残されていった 。総理大臣でいえば、福田康夫氏、自民党脱党組でいえば政調会長、通産大臣を歴任した亀井静香氏といったところであろうか。福田氏は総理退任後存在感を発揮できず政界を引退し、亀井氏は自民党を離党し、国民新党を結成し鳩山政権から野田政権までの間連立与党として一定の存在感を発揮したが、結局、泡沫政党のままで政界を引退することとなった。

 一方、安倍晋三氏は、第一次政権での蹉跌を経て、第二次政権で「安倍一強」とまで言われる政治情勢を現出させたことから見ても「大統領制化」という流れに適応したと判断してよいと思う。また、副総理兼財務相として安倍総理を支える麻生元総理も「キャラが立って」おり、その点では大統領制化と親和性が高い。リーマンショックで解散総選挙の時期を逸した ことで結果として自民党を下野させたが、その「個性」から、第二次安倍政権では副総理兼財務相として独自の存在感を放っており、「暫定」であれば総理再登板の芽が残っているともいわれている。

198キラーカーン:2018/02/02(金) 00:54:34
7.2.5.4.3. 首相の解散権の制約と「大統領制化」

 最近、議院内閣制を採る国において注目すべき傾向がある。それは、首相の解散権の制限を規制する国が増加傾向にある事である。首相の解散権制限は、国会議員の生殺与奪の権を制限するため首相権力の弱体化を意味する。

 しかし、逆に、首相の解散権が制限されるということは国会議員の任期に対する総理の影響力が低くなり、議会の進退と内閣(与党)の進退との独立度が高くなり、議会と内閣との間の関係の独立性が高くなる。その結果、一般的に議会の解散がない ことを特徴とする大統領制へ制度的に接近していくこととなり、一種の「大統領制化」といってよい状況となる 。

 最近になって、首相の解散権に制限を加えた代表的な例は、2011年に「固定任期議会法」を制定したイギリス がある。

199キラーカーン:2018/02/03(土) 01:23:33
7.3. 結論3:将来への展望(「国民国家の「統合」再生への処方箋)
7.3.1. 総説

 グローバル化とそれに対する反発としての「ネトウヨ化」の流れは大陸を超えて存在している。それに対するリベラル・左派の対応は、ネトウヨ化を軽蔑し嘲笑するのみで有効な対策を立てられていない。その結果、国政選挙においてリベラル・左派の主流派は巻き返しの切っ掛けさえ掴めていない。

 更に、インターネットの発達により、発信力という点でリベラル・左派が圧倒的に優勢であるマスコミや学界(特に社会科学分野及び人文科学分野)の優位性が減殺される傾向にある。インターネットは、リベラル・左派が優勢なマスコミや学界の自己矛盾と二重基準を白日の下にさらけ出し、その結果、リベラル・左派は「自壊」或いは「自滅」と言ってよい状況に陥った。その「反リベラル・左派」も「ネトウヨ化」に一役買っている。

 更に、そのようなリベラル・左派の自壊・自滅以外にも「世界総ネトウヨ化」を下支えするような「大統領制化」という傾向もある。現実に、「ネトウヨ化」の流れはG7諸国のみならず東欧にも広がっている。このような昨今の情勢を見る限り、「世界総ネトウヨ化」の流れは「時代の必然」なのであろうか。

 本節では、社会の分断が「ネトウヨ化」を進行させているという認識の下、社会の分断を食い止めるための方策を検討する。
筆者は「ネトウヨ化」のもう一つの主要要因であるリベラル・左派の自壊・自滅については、「自業自得」として冷淡な態度をとるが、もしリベラル・左派の反撃というものが存在するのであれば、どのようなものが考えられるかについても可能な限り考察を試みる。但し、現在のリベラル・左派、特に日本のリベラル・左派の状況では、そのような方策を採ることは事実上不可能に近く「絵に描いた餅」に等しいものとなろう。

 勿論、「21世紀の政治制度改革」だけでネトウヨ化ひいては社会の分断が緩和されるとは思えない。ネトウヨ化ひいては社会に分断が緩和される為には、制度改革だけではなく、実際に指導者(大統領や首相)に就任する人物にもよるところは大きい。どのような人物が指導者に就任しても現在問題となっている「分断」を食い止め治癒できるための政治制度とはどのようなものかについて論ずることは可能である。本節では、代表的な政治体制である、大統領制、議院内閣制及び反大統領制についての概要を述べた上で、「分断」を食い止める或いは緩和するための政治体制はどのようなものかについて考察する。

200キラーカーン:2018/02/04(日) 00:52:08
7.3.2. なぜ、日本型ネトウヨ政党は消滅の危機にあるのか

 欧米各国では、「極右勢力」の台頭により、国内の「分断」が深刻化しているといわれている。著者もその見解に同意する。そのような「世界総ネトウヨ化」の中で、「ネトウヨ政党」が消滅の危機にある唯一の国と言ってもよいのが日本である。

 これまで述べたように、日本型ネトウヨ政党は事実上自民党に吸収され、事実上消滅したといってよい状況にある。それは、安倍晋三総理が自民党の右に位置する政治家であり、彼が総理であり、彼の出身母体である清和会が自民党主流派である限り、「ネトウヨ政党」として独立して存在する意義を持たないからであろう。衆議院の小選挙区制や参議院ではの一人区が多く占めていることも、大政党の公認を得た方が有利であり、小政党であった日本型ネトウヨ政党の自民党への吸収傾向を後押ししていた。

 我が国の「リアルの社会」において、「ネトウヨ化」が認知されだしたのは、小泉総理の退陣後、第一次安倍政権が誕生した後である。これは、先の記述と一見矛盾するようではあるが、第一次安倍政権もリベラル・左派からは「右翼」や「極右」とみなされており、リベラル系のマスコミや市民運動などの攻撃が強まった反作用として「リアルの社会」に「ネトウヨ」が飛び出していったという経緯があるからである。

 この経緯については「在特会」創設者であり、「ネトウヨ政治家」の代表格である桜井誠氏も2006年の河野談話撤回要求運動は転機であると述懐していたことからも裏付けられる 。

 これは、欧米各国では、「欧米型ネトウヨ勢力」の受け皿として既存政党が機能せず、彼らが独自に政治勢力(≒政党)を結成せざるを得なかったことと対蹠的である。そして、欧米各国では、その政党が泡沫政党の地位から脱したとしても、オーストリアといった少数の例外を除き、既存政党側から連立与党として招聘されない状況にある 。

 この例から言えば、我が国で「ネトウヨ」が独立した政治勢力となるには、安倍政権が退陣し、自民党が旧宏池会や旧経世会を中心とした「自民党内リベラル」が主流派となる「自民党の左旋回」という状況が起きるような状況にでもならなければ、日本型ネトウヨ政党が独立した政治勢力となる見込みはないであろう。

201キラーカーン:2018/02/05(月) 00:25:50
7.3.3. リベラル・左派の反撃はあるのか

 これまでに述べたようなリベラル・左派の傲慢が現在の「極右」の台頭を招いたという反省から、欧州のリベラル・左派勢力には、「原点回帰」の立場から「没落した中間層」への支援を真剣に考えるべきとの動きも出ている。その代表格は英国のコービン労働党党首、仏国のメランション氏、米国のサンダース上院議員であり、彼らは一般的に「急進左派」と呼ばれている。

 近年選挙があった米国、英国、仏国では、急進左派の側からそのような「大きな政府」路線を掲げる候補・政党が現れ、一定の支持を集め
① 米国ではサンダース上院議員が民主党の大統領予備選において最後までヒラリー・ク
 リントン氏に食い下がり
② 英国ではコービン氏が率いる労働党が健闘し、保守党が第一党の座を死守したものの
 過半数割れに追い込み
③ 仏国ではメランション氏が大統領選で「4強」の一角として、最後まで決戦投票進出
 の可能性を残していた。

 現在は「セレブ」と化し、「没落した中間層」をはじめとする貧困層を見下すようになり貧困層からの支持を得られなくなったリベラル・左派であるが、元来(冷戦終結前)、リベラル・左派は貧困層の救済となる社会福祉充実のため「大きな政府」を志向する傾向があった。そのようなリベラル・左派の原点に立ち戻り、「没落した中間層」の支持を取り戻そうとしている、急進左派の動きは20世紀(或いは冷戦終結)まで見られたリベラル・左派への原点回帰ともいえる。

 米国では2016年大統領選挙の民主党予備選挙においてサンダース上院議員が「社会主義」的な政策を掲げ、民主党予備選挙における「絶対的本命」と言われたヒラリー・クリントン氏に最後まで食い下がった。当選した共和党のトランプ大統領も共和党の中では小さな政府への志向度が一番小さいといわれている 。

 英国では、EU離脱交渉を前に政権基盤の強化を図って解散総選挙に打って出た保守党が過半数を割り込み、当初劣勢が伝えられていた労働党が意外な検討を見せた。英国労働党が善戦した要因として、労働党が医療サービス支出増など、既得権益バッシングの「ない」「反緊縮」政策をとった事が挙げられている 。

 仏国では、大統領選挙で急進左派ともいわれるメランション氏が労働者保護を掲げ、支持率を伸ばした。メランション氏はマクロン大統領らと「4大候補」の一角を占め、マクロン、ルペン両候補を僅差で追いかけ、決選投票進出の可能性を残すまでに「健闘」した。

 英国や仏国或いは米国のサンダース氏ように、健闘した左派・リベラルが掲げた「没落した中間層」を取り込む「反緊縮」或いは「大きな政府」路線はメランション氏のような急進左派のものとなった。冷戦終結後における左派・リベラルの主流派である「グローバリズムと多様性」では、最早「没落した中間層」から「福祉排外主義」に移行しつつある国民多数派の支持を得られないような状況になっている。

 このように、欧米では、リベラル・左派が「没落した中間層」を「グローバル化の敗者」として嘲笑し、救済する価値もない存在として切り捨て、彼らの救済を「国家に押し付けた」 。それと引き換えにリベラル・左派は「国境を超える」グローバリストとしてのアイデンティティーを確固たるものとしたのであった。そして、「没落した中間層」の代わりに、そのグローバリストとしての存在を満足させるための「弱者」としてグローバリストの救いの手が差し伸べられたのが「難民」であった。

 リベラル・左派の主流派がそのような現状に甘んじている限り、リベラル・左派の復活はなく、「左派の復権」はメランション氏に代表される「急進左派」によって成し遂げられることになろう。

202キラーカーン:2018/02/07(水) 00:19:52
7.3.4. 分断を緩和する可能性のある政治体制は存在するのか
7.3.4.1. 総説

 本節では、大統領制、議院内閣制及び反大統領制の各制度について解説する 。

 なお、本稿では、政治体制としては、(立憲)君主と大統領は国家元首として同値であるという前提に立っている。もっと単純化していえば、「元首が非世襲であれば大統領制、世襲であれば(立憲)君主制」との前提に立っている。このため、(立憲)君主制の項は存在しない。必要に応じ、「大統領」を「君主」に置き換えれば良い。

 議院内閣制と大統領制は二律背反であると思われているが(一般論としては正しい)、端的な例を挙げれば、(半大統領制ではない)「大統領が存在する議院内閣制」という政治体制も存在する。
大統領と首相と双方が存在する政治体制において、どちらが政治的実権を握っているか、即ち、大統領制化議院内閣制かということを判別する分かり易い目安として、「サミットに誰が出席するか」ということが挙げられる。例えば、G7サミットでいえば、大統領が出席する国は大統領制(米国)又は半大統領制(仏国)であり、首相が出席すれば議院内閣制(日本、英国、独国、伊国及びカナダ)である。G7諸国で議院内閣制を採っている国のうち、日本、英国、カナダ の3カ国が立憲君主制、独国、伊国の2カ国が大統領を有する議院内閣制である。

203キラーカーン:2018/02/08(木) 00:35:31
7.3.4.2. 大統領制
7.3.4.2.1. 総論

 政治体制論でいう大統領制は「大統領」という役職(国家元首)が存在しているという政治体制を指すという意味ではない。言い換えれば、役職の名称の如何を問わず、国家元首が以下のような性質を持っている場合に「大統領制」に分類される。
① 国家元首を(実質的 )直接選挙で選出する
② 国家元首は議会により、任命又は罷免させられない
③ 大統領と内閣との間に「二重の権威」を認めない。国家元首は内閣を指揮する

 当然のことながら、上記の条件を満たさない、「大統領が存在する『議院内閣制』」という政治体制が存在するのも、既に述べたとおりである。。

 サルトーリは「大統領制はあまり機能しなかった。アメリカ合衆国を唯一の例外として(中略)それらは決まってクーデターや革命に屈した。」と大統領制の安定性について厳しい評価をしている 。逆に、だからこそ、唯一の成功例としての米国の大統領制を「ベスト・プラクティス」として分析する意味はある。

7.3.4.2.2. 失敗例としての南米諸国

 南米諸国は19世紀に相次いで独立を果たすが、独立後の政治体制については、米国を参照とし、大統領制を採用した。しかし、多くの国でクーデターなどによる民主制(大統領制)の崩壊を経験している。この原因は、「強力な大統領」という「幻影」に怯え、大統領権力を弱体化する方向へ政治力学は働いた結果、「決められない政治」に陥ったというものである 。

7.3.4.2.3. 成功例としての米国
 「世界に冠たる民主主義国家」としての米国の名声は不動のように思える。勿論、人種差別など米国の民主主義にも問題がないわけではないが、「世界一の民主主義国家」として米国を挙げることに異を唱える人は少数派であろう。その米国が「大統領制発祥の地」であることから、「君主制の改良型」である議院内閣制よりも、民選の元首である大統領制の方が「民主的」であるとの「イメージ」も強い 。しかし、米国以外の大統領制は必ずしも「民主度」は高くない。サルトーリは米国の大統領制が成功している理由について、
① 思想的な無節操
② 脆弱で無期率な政党
③ 地域中心的な政党
の3つを挙げている 。

 つまり、米国の政治風土が党派的、思想的な原因により議会の対立軸が固定化されることを回避する、言い換えれば、その時々の議員個人の選挙区の利害関係によって議会での態度(投票行動など)が決定されるということである。また、このことを裏面から表すものとして「(米国の大統領は)建国の父たちが、党派的な対立から超越してそれを抑制する存在として設計したものである 」という表現もある。その議員の利害を纏め望む法律案を成立させるためには、議員を調停できる「強い大統領」を必要とした。

 これらを纏めると、
① 議会内の対立軸は案件により異なり、政党間で固定化されてい「ない」
② 大統領は議会内の対立から超然としているべきである
というのが元来の米国の大統領制の制度設計であったといえる 。

 サルトーリは、このような分断が固定化されていない米国の政治環境が米国の大統領制を「成功」に導いたとしている。言い換えれば、大統領制においては、行政府を掌握している「強い」大統領と、案件に応じて党派性を超えた投票行動を容認する「弱い議会政党」が成功する大統領制の条件である(分離から融合)。

7.3.4.2.4. 米国大統領制の黄昏?-トランプ大統領を生み出したものは何か

 米国においても、大統領は「行政の長」よりも「政党の顔」としての比重が大きくなってきている。このため、大統領の議会への働きかけ自体が党派的対立を招くようになったとされている 。また、法案に対する大統領の立場表明によって、それを支持するか否かで二分されやすいという傾向にある 。

 これらのことから考えれば、党派対立から「超然」とした行政府の長としての大統領とを、ここ数十年の傾向として、共和・民主の二大政党に対応した党派性に基づく二分化の傾向が強まってきた議会 との相乗効果によって、米国政治も二分化される傾向にあるとの推測は成り立つ。その党派性による分極化・分裂がトランプ大統領の登場により誰の目にも明らかになってきたのでないかと推測できる。

204キラーカーン:2018/02/09(金) 00:00:19
7.3.4.3. 議院内閣制
7.3.4.3.1. 総説

 議会と政府との完全分離或いは相互独立性を基盤とする大統領制とは異なり、議院内閣制とは、政府(内閣)の存立が議会の投票結果により、政府(内閣)全体或いは政府の長が誕生し、必要な場合には議会は政府に対する支持を表明し、罷免される政治体制である 。このため、政府の任期議会の信任が無くなるまでであり、政権存続期間は一定しない 。この政府の存続が議会の信任に依存している結果、議院内閣制においては立法権と行政権(執行権)は(連立)与党において共有されることとなる 。

7.3.4.3.2. 首相の立場による分類

 議院内閣制は、(米国)大統領制のように一人の人間に権力(行政権或いは執行権)が集中することを排除する政治形態である。この結果議院内閣制における首相の地位、権力については与党議員との関係に依るため、次の3つに分かれるとされている 。
① 非同輩者の上に立つ第一人者(a first above unequals)
  与党議員から不信任を突きつけられる可能性がなく、閣僚を意のままに任免できる
② 非同輩者中の第一人者(a first among unequals)
  閣僚を罷免することはできるが、自身は罷免されない
③ 同輩者中の第一人者(a first among unequals 或いは primus inter pares)

  自身が自由に任免できない(押し付けられた)閣僚が存在する
議院内閣制においては、フランス第三、第四共和政のような「強い議会」と「弱い首相」の組み合わせではなく、英国やドイツのような「非同輩者の上に立つ第一人者」による政府(内閣)が与党からある程度の独立性をもって行う政治システム(宰相システム )の方が安定するといわれる(融合から分離)

205キラーカーン:2018/02/10(土) 01:33:57
7.3.4.4. 半大統領制
7.3.4.4.1. 総説

 半大統領制とは、国民の直接投票で選出される行政府の長である大統領と議会の信任に依存する首相との間で行政権(執行権)を共有している体制を指す。即ち、大統領は首相行政府の権限を共有し、首相は議会(与党)と権限を共有する。

 とはいっても、大統領と首相が「並立」しているのではない。大統領の出身政党と議会多数派が同じである場合には、大統領制が優位に立ち、そうでない場合には、首相が優位に立つ。但し、劣位になった方の権力・権限がゼロになる事(つまり、純粋な大統領制と議院内閣制との「交代」)にはならない 。

7.3.4.4.2. 半大統領制の持つ「曖昧さ」

 このように、半大統領制は大統領制と議院内閣制との間を揺れ動く「曖昧な政治体制」ということもあり、論者によって半大統領制に該当する国家には異同がある。ここでは、代表的な論者として、「半大統領制」という語の生みの親であるデュヴェルジェと「交代大統領制」(この語については後述)の提唱者であるサルトーリを例に引く(図3参照) 。

 デュヴェルジェは、フランス、ヴァイマール・ドイツ、ポルトガル、フィンランド、スリランカ、オーストリア、アイルランド、アイスランドの8カ国を半大統領制の国としている。一方、サルトーリはオーストリア、アイルランド、アイスランドの3カ国については、大統領の権限が名目化していると判断して議院内閣制としている。「半大統領制」という語はフランス第五共和制の政治体制を説明するためにデュヴェルジェが作った語であるが、デュヴェルジェもサルトーリも第五共和制以前に消滅した政治体制であるヴァイマール・ドイツを反大統領制に分類しているのは興味深い 。

 この「元首(大統領)」の権限が実質化したために、政治体制が議院内閣制に移行したという事象は、欧州における多くの立憲君主国に見られたのみならず、戦前期日本の「憲政の常道」期にも見られたものである。半大統領制か(大統領の権限が名目化した)議院内閣制かの判定は、民主政の発展段階にある立憲君主制における君主の権限と首相の権限との判別、或いは、立憲君主国に多く見られる君主権力の名目化と同様の問題である。しかし、半大統領制はその「曖昧さ」を活かして、政治状況に応じ、大統領制と議院内閣制を「切り替える」ことを可能とする政治体制なのかもしれない。

 そして、半大統領制の持つ大統領制と議院内閣制との間の「振動」という性質に着目し、その可能性に着目したサルトーリは「交代大統領制」(後述)提唱する 。また、「交代大統領制」の実例とはみなされていないが、実質的に大統領制(超然内閣)と議院内閣制(憲政の常道)の間を揺れ動いた体制として大日本帝国憲法体制、特に「1900年体制」がある。このように、大統領制でも議院内閣制でもなく 、その両者の間を「振動する」政治体制が、現在のような「ネトウヨ化」した社会において分断を緩和する可能性のある政治体制として以後述べていくこととする。

206キラーカーン:2018/02/11(日) 01:37:57
7.3.5. 「分断」を食い止める政治体制
7.3.5.1. 総説

 先に述べたように、大統領制、議院内閣制、半大統領制それぞれに長所と短所がある。一般的に大統領制は硬直的であり、議院内閣制は柔軟であるといわれている。そのことを示す言葉として「議院内閣制の危機は体制の危機ではなく政府の危機である」というものがある 。また、選挙制度においても小選挙区制と比例代表制では相反する長所と短所がある。このため、政治危機に応じて最適な政治体制を柔軟選択又は変更できる体制を構築しておくのが理想的である。

 しかし、憲法を英語で「constitution」というように、憲法では国家権力行使に関しての構造化、制度化が主眼の一つである。言い方を変えれば、憲法は「最高」の国家行政組織法でもある。したがって、どのような政治体制を採用するかについての基本的構造は憲法に規定しなければならない。これは、先の述べた「政治危機に応じて柔軟に政治体制を変更できる 」とは二律背反する要求である。

 現在「ネトウヨ化」と並んで問題となっている「分断」であるが、その「分断」を食い止める或いはその分断を治癒できるための政治制度はどういうかを選択できる融通性を持った政治体制 を憲法にどのように規定するのかついて考察を行いたいと思う。
安定し、効果的な統治をもたらす政治体制は
① 大統領制においては、強い大統領による議会への働きかけで大統領への支持を調達
 (大統領と議会との分裂からの統合)
② 議院内閣制では、強い首相による内閣(行政府)の与党からの独立性の確保
 (首相と議会(与党)との融合から分離)
③ 反大統領制においては、政治状況に応じた大統領制と議院内閣制との「切り替え」
 (状況に応じた大統領と首相(与党)との間の最適バランス)
ということになる。

 しかし、これまで述べてきたように、大統領制は、現在、「国家元首」というよりも、「政権与党の顔」としての役割が増大しており、「党派的傾向」が強くなってきている。それと「大統領制化」と言われる状況とも相まって、「分断」を拡大させ、固定化させこそすれ、その分断を押しとどめる効果は少ないと考えられる。これは、議院内閣制と小選挙区制(≒二大政党制)との組み合わせを選択した場合においても生じやすい。

207キラーカーン:2018/02/12(月) 01:21:07
7.3.5.2. 政治体制はどの程度まで憲法で規定すべきか

 憲法典において規定されている事項は各憲法典によって異なる。先に述べたように日本国憲法は統治機構についての規定が粗いため、他国では憲法改正を要するような統治機構改革も法律改正で可能と言われている。

 大日本帝国憲法に至っては、更に規定が粗く、天皇と大臣のみしか規定されておらず、天皇を各大臣が輔弼するという体制のみが規定されていた。したがって、首相の権限をはじめとする内閣の職務権限、或いは首相任命手続などについては憲法ではなく、法律レベル で規定されていたか或いは「慣行」に任されていた。

 現代においては、そこまで「粗い」ということは許されないであろう。少なくとも、
① 大統領制、半大統領制、議院内閣制のいずれか
② 国家元首について(非世襲≒大統領制、世襲≒君主制)
③ 政府の長(首相又は大統領)の任命資格及び任命手続政府の長と各閣僚との関係
④ 内閣の権限内閣の組織
⑤ 大統領弾劾或いは内閣不信任と議会解散
については憲法において規定されるべきであろう。

 また、サルトーリのいう「交代大統領制」を採用する場合には
⑥ 大統領制、半大統領制、議院内閣制が変更される要件
についても規定する必要がある。

 選挙制度については、議論が分かれると思うが、
① 大統領制を採用する場合には大統領選挙
② 連邦制を採用する場合には、上院(州代表)と下院の議員資格及び選挙制度
は規定する必要があると思われる 。

208キラーカーン:2018/02/13(火) 00:03:19
7.3.5.3. 緊急避難としての「(挙国一致)大連立」の効用
 政治体制の基本は憲法で定めるべきであるという大原則を是認したとしても、憲法レベルでの規定が不可能である「事実上の」政治体制がある。それは「(挙国一致)大連立」である。

 大連立とは、平事においては政権を争うライバル関係にある政党或いは政治勢力が、国家的危機などに際して一時的に連立を組むということをいう。このような事態は、まさに、国家消滅の危機でなければ是認し得ないものである。歴史上では、英国が第一次及び第二次の両世界大戦時に対外戦争を行う際に実施した「(挙国一致)大連立」が有名な例である。

 最近、特に本稿の趣旨でいえば、「極右政党」の台頭により既存の政治体制の安定が損なわれるため、既存の政治勢力(≒政党)が連合することによって既存の政治体制を維持しようという動機が生まれる。そして、それまで政権を争っていた各勢力が連合することでしか過半数を確保できないという状況になったときに、極右政党を連立与党から排除するために大連立を組むということがある。現在、ドイツにおいて行われているCDU/CSUとSPDとの大連立交渉がこの例である 。

 政治的危機を乗り切るための劇薬としては有効な場合もあるが、長期間にわたると、政権交代の可能性が無くなり一党優位制へ転換する契機も生まれる。したがって、大連立は、大連立を必要とした状況がある程度緩和された段階で解消するのが正しいと思われる。

209キラーカーン:2018/02/13(火) 00:04:07
7.3.5.4. 緊急避難としての「超然内閣」の例(イタリア)

 現在、所謂先進民主主義諸国において、一番「交代大統領制」に近い政治体制を採っているのがイタリアである。イタリアは基本的に議院内閣制であり、下院第一党党首が首相になる事を原則としている。しかし、タンジェントポリ のような多くの国会議員を巻き込んだ政治危機の際には、大統領の決断により、疑惑の当事者となっている国会議員による内閣ではなく、非議員による「超然内閣」 を結成して政治危機を乗り切るという手法を採ることがある。

210キラーカーン:2018/02/13(火) 23:11:51
8. 試論:「ネトウヨ化」への処方箋としての「交代大統領制」
8.1. 総説

 本節では、前節の内容を受けて、ネトウヨとリベラル・左派との間の分断を緩和する可能性のある政治体制としての「交代大統領制」とその実例としての「1900年体制」について述べていく。

8.2. 「交代大統領制」とは何か

 交代大統領制は政党政治の比較分析などとして世界的に高名なジョバンニ・サルトーリ氏の提案である 。サルトーリは「交代大統領制」の根幹制度を
① 政府は総選挙時に終了し、総選挙の結果発足する政府は議院内閣制である
② 内閣不信任の際は大統領が「超然内閣」を組織する(大統領制への移行)
③ 大統領は直接選挙により有権者の過半数で選出され、任期は議会の任期と一致する。
とする。

 サルトーリは、これにより、議院内閣制と大統領制との間での「体制の均衡」が成立するとしている。その理由として
① 議員は倒閣運動に参加しても閣僚になれない
② 「政府の長」としての大統領には再選がない
としている。

 このような、議院内閣制を基準としながら、政治危機には時限大統領制で対処するという考え方は、イタリアにおける緊急避難的な超然内閣を思わせる 。

211キラーカーン:2018/02/15(木) 00:46:47
8.3. 「交代大統領制」の実例としての「1900年体制」
8.3.1. 総説

 本節では、サルトーリが提唱した「交代大統領制」の実例としての我が国の「1900年体制」を紹介する。1900年体制はサルトーリの提唱前であるが 、先に述べたイタリアの例を除き、交代大統領制の実例として一番適当であると考えられる。また、日本語で書かれた本稿においては、日本の実例を引いた方が適当であると考える。

 議院内閣制と超然内閣の「いいとこ取り」で戦前日本において政治が一番安定していた時期であったといっても過言ではない。本節では、1900年体制を「ネトウヨ化」ひいては国家の分断を緩和するための「ベスト・プラクティス」として論じてみたい。

212キラーカーン:2018/02/15(木) 00:48:23
8.3.2. 「1900年体制」とは何か

8.3.2.1. 一般的な意味における「1900年体制」

 「1900年体制」とは板野潤治氏の創案とされている 。詳細は同書に譲るが、「1900年体制」を簡潔にいえば

 伊藤博文率いる政友会と山縣有朋率いる官界が疑似二大政党的に交互に政権を担当する政治体制

といえる。この体制の大枠が明治33年(1900年)の立憲政友会の設立で定まったことから「1900年体制」と板野は名付けた。しかし、この体制の下で伊藤或いは山縣が首相となったことはなく、事実上、山縣の後継者である桂太郎と伊藤の後継者である西園寺公望が交互に政権を担当した「桂園時代」の別称 として用いられている。

 この時代は、内閣史の観点から見れば、大日本帝国憲法下の日本で一番政権が安定していた時代であった。これは、超然内閣(桂)と政党内閣(西園寺)とが交互に政権を担当することにより、「交代大統領制」が期待した効果を挙げた時代であるともいえる 。

213キラーカーン:2018/02/15(木) 00:49:35
8.3.2.2. 拡張された「1900年体制」(本節における「1900年体制」

 本節では、一般的な意味における「1900年体制」を拡張して

政党指導者と官界の指導者が交互に総理大臣となることが基本であった第一次大隈内閣から清浦内閣まで

とする。これは、実際の「政局」ではなく、内閣の性質(政党内閣か超然内閣か)に着目したものである 。

 但し、第一次大隈内閣と第二次山縣内閣は1900年体制確立のための前段階(移行期)とした方が正確かもしれない。というのも、
① 第一次大隈内閣の与党となった憲政党は大隈の改進党と板垣の自由党との合同に元老
 が政権担当意欲をなくしたための「突発的」政権交代であり、「体制」とまで制度化され
 ていなかったこと
② 第二次山縣内閣は松方、西郷といった元老が閣僚として名を連ねており、「最後の藩閥
 内閣」
という性格も持つ
ということから、純然たる1900年体制とは言い難い面がある。この点に配慮して、本稿では、この両内閣を「第0期」としている。

 そして、政党(選出勢力)と官界(非選出勢力)との間の疑似二大政党制的政権交代構造の維持が不可能になったことが白日の下に曝された時点(第二次護憲運動から加藤憲政会内閣の成立)によってこの「広義」の1900年体制は終わりを告げることとなる。

214キラーカーン:2018/02/16(金) 00:21:39
8.3.2.3. 「山縣スタイル」(現役軍人首相)の発生
8.3.2.3.1. 総説

 ここで、1900年体制において鍵となる概念である「山縣スタイル」について触れなければならない。

 「山縣スタイル」とは現役軍人のまま首相に就任するということを指す言葉であり、この形態で初めて首相に就任した第三代総理の山縣有朋に由来する 。その後、桂太郎、山本権兵衛、寺内正毅、加藤友三郎、東条英機、東久邇宮稔彦王と敗戦まで断続的にこの類型の首相を輩出してきた

 そのような実例に反して、大日本帝国憲法体制の下では「山縣スタイル」は予定されていなかった。というのは、予備役制度発足(明治21(1888)年12月)と同時に、部外の文官職に専任となった武官は予備役に編入されるという規定が創設されたからである。この規則に従う限り、現役軍人の総理大臣は存在しえない。なぜなら、総理大臣はどの省にも属さない「文官職」であるからである。

 この規則の例外として、「同じ軍内の文官職」に専任となる場合には現役残留が可能であった。例えば、文官の学校教官が充てられる職(例:英語教官)に駐米武官経験者を充てる場合には現役残留が可能である(勿論、予備役編入の上「文官」として就任することも可能)。

 このように「現役軍人首相」が不可能な制度設計であったのにも拘らず、
① 「山縣スタイル」が発生したのはなぜか
② 「現役軍人首相」がなぜ日本では「平穏無事」に成立したのか
③ 「文民・文官」首相ではなく、現役軍人首相がなぜ選択されたのか
という「1900年体制」を生み出した理由について考察していきたい。

215キラーカーン:2018/02/16(金) 00:22:26
8.3.2.3.2. 大日本帝国憲法体制の例外としての「山縣スタイル」

 なぜ「山縣スタイル」が発生したかといえば、政治家としての山縣の特別な地位に由来する。山縣は元勲元老の中でただ一人現役軍人であり続けた人物である 。予備役制度創設時、山縣は「陸軍外の文官職」である内務大臣であったが、現役武官の監軍(後の教育総監)が内務大臣を兼任 するという形で現役に留まっていた。しかし、山縣が首相となれば、監軍兼首相というわけにはいかない。しかし、首相に相応しい武官職がないため、このままでは首相専任とならざるを得ないが、それでは山縣は予備役編入となる。

 山縣の政治家としての権力の主な源泉は「現役軍人」である。当時の政治情勢から見て山縣が首相に就任するのは当然視されていた 。首相に就任するからと言って山縣が予備役編入となることはあり得ないというのも当時の政治家にとって「常識」であった。この二律背反を解消するために、「勅語」による現役残留という「超法規的措置」ととらざるを得なかった 。これが「山縣スタイル」の始まりである。

 その後、終身現役である元帥で首相になった第二次山縣及び寺内内閣を除き、桂太郎(第一次、第二次)、山本権兵衛(第一次)、加藤友三郎が首相に就任する際もこの方式が踏襲された。この結果「現役軍人が首相の大命降下」を受けた場合、勅語を受けて現役に残留するのが「異例の慣例」となった 。

 そして、この歴史的経験の上に、東条内閣という「戦時内閣」、そして、東久邇宮内閣という「終戦処理」が成立するが、それは「現役軍人首相」という形態のみを借用したものであり、「1900年体制」下の現役軍人首相とは性格が異なっている 。

 但し、この「勅語による現役残留」は現役軍人が首相に就任する場合「のみ」に発出されるのを原則とした 。したがって、現役軍人は首相と軍部大臣以外の閣僚に専任となる場合には閣僚就任とともに予備役編入となった。予備役制度創設時、西郷が「陸軍中将の海軍大臣」であるが故に予備役編入されたのもこの延長線上にある。

216キラーカーン:2018/02/17(土) 02:35:08
8.3.2.3.3. 「革命政権」としての維新政府が「山縣スタイル」を生んだ

 明治維新(維新政府)は戊辰戦争という内戦を経て樹立されたことは言うまでもない。また、その維新政府の一応の完成は1877(明治10)年の西南戦争終結後ということも異論は少ないであろう。偶然にも、維新の三傑はこの前後に全員が相次いで亡くなる
。しかし、そのような内戦を経て確立された維新政府において、戊辰戦争から西南戦争までの「軍功」により政府高官の地位を占めた者は少なくない。

 元勲元老(格)である黒田清隆や山田顕義は陸軍中将でありながら軍部大臣以外の閣僚として活躍している。「山縣スタイル」の創始者であり、終身現役の元帥として陸軍に影響力を維持していた山縣も軍部大臣以外の閣僚や枢密院議長の経験がある。その他にも、例えば、維新政府では軍人にならなかった板垣退助は戊辰戦争で討幕軍の総督、参謀としての軍功、軍歴がある。更には、目立った軍功があったわけではなく「軍人政治家」に含まれることはないが、西園寺公望も戊辰戦争では総督や参謀を務めたという軍歴がある。

 このように、日清戦争の頃まで、軍功により軍以外の政府高官の地位を占める者が存在し、ひいては、軍功などにより陸海軍の将官にまで上り詰めた上で軍部大臣以外の閣僚に就任する「軍人閣僚」或いは「軍人政治家」が一定数存在したことにつながる 。例えば初代内閣である第一次伊藤内閣では、首相も含めた10名の閣僚中「軍人閣僚」は過半数の6名であり、維新政府内閣(1900年体制より前の内閣)の掉尾を飾る第二次山縣内閣では、同じく10名の閣僚中5名が軍人閣僚である。

 現役軍人首相内閣であるが、軍人閣僚率が15名中の5名(うち現役3名)である東条内閣を「殆ど軍部の直接支配」と評する のであれば、維新政府内閣の最初と最後を飾る第一次伊藤内閣や第二次山縣内閣で軍人閣僚率が50%以上というのは、「軍事独裁政権」と言っても過言ではない。しかし、そのように評する人は管見の限り見当たらない。

 つまり、維新政府内閣において軍人閣僚率が高いのは、軍部支配というよりも、内戦を経て成立した明治維新政府であったため、維新政府の高官を占めるべき「建国の功労者」の中に軍人が多かったということである。それは、ジョージ・ワシントンが米国初代大統領となり、ド・ゴールが第二次世界大戦終結後に政府首班を務めた事例に近い。

 そのような維新政府における「軍人政治家」頂点に位置したのが山縣有朋であるということについては衆目の一致するところであろう。その意味において、政治家としての山縣を温存する「山縣スタイル」というのは当時の政治情勢から生み出された一種の必然でもあった。「現役」であることに拘った山縣という存在が「山縣スタイル」そしてそれを一般化した「現役軍人首相内閣」という政軍関係理論上の「特異点」を生み出した 。

 しかし、それは山縣個人或いは山縣とともに戊辰戦争や西南戦争を戦った軍人政治家に対する「属人的例外措置」を正当化するものであっても、彼ら以後の世代である桂以後の軍人政治家が「山縣スタイル」によって首相就任することを正当化するものではない。山縣と同世代ではない彼らが「山縣スタイル」を踏襲するのであれば、「属人的例外措置」を「制度化」するそれ相応の理由が必要である。次節ではその理由ひいては「1900年体制」の基礎条件を「軍人閣僚」を補助線として考察していくこととする。

217キラーカーン:2018/02/18(日) 01:45:18
8.3.2.3.4. 維新政府の名残としての「山縣スタイル」或いは軍人閣僚

 本節では「山縣スタイル」の補足として、首相以外の軍人閣僚について述べることとする。軍人閣僚といえば軍部大臣(陸軍大臣及び海軍大臣)が代表的存在であるが、明治時代においてはそれ以外の大臣にも軍人(陸海軍将官)が就任している。本節ではそのような「軍人閣僚」に焦点を当てる。

 ここでは、将官(少将以上)で大臣(首相及び班列を含む)に就任した者とする。本稿で軍人閣僚を将官以上に限定した理由は、当該大臣が形式的な軍歴があるだけではなく、「軍人(武官)であることを主要な理由として 」大臣に任命されたという実質的要件を担保するためである。任官後短期で退官し、退官後の経歴が認められて大臣に任用された場合はもとより、徴兵経験者の大臣を排除する必要もあるからである。

 「将官」以上に限定するもう一つの理由は大臣の任用資格との関係である。大臣のにんよう資格については、
① 軍部大臣の任官資格が中将以上
② 軍部大臣を含め国務大臣は親任官
とされていることから、それとの均衡上必要とされる「軍歴」は中将以上である。百歩譲って、「軍歴+α」の「合わせ技一本」で大臣に任用される場合であっても、「軍人政治家」と称されるに足る軍歴として将官以上の軍歴は必要となる 。

 内閣制度草創期には現役・非現役問わず、将官でありながら軍部大臣以外の閣僚(非軍部大臣)に就任する者が一定数存在した。また、将官以上で軍部大臣や総理大臣を含む閣僚に就任した者のうち軍部大臣のみの閣僚経験は一人(仁礼影範)だけである。

 このことは、明治維新後約20年経過しても、軍が大臣級高官の主要な人材供給源であったことを示している。国家機構整備が軌道に乗り、官僚から大臣が輩出できるようになると軍人閣僚は減少していき 、日露戦争後には、軍人政治家としての出世コースは軍部大臣から総理大臣のみとなった。

 このように、日露戦争の頃には、ヒラ閣僚級では軍人閣僚に頼らなければならないという状態は脱することができた。しかし、官僚出身者が非選出勢力を取りまとめるだけの実力を持つ「大物政治家」となるにはもう少し時間を要した。日露戦争から約10年経過し、元号も大正へと変わった頃になり、ようやく、平田東助、清浦圭吾という「官僚政治家」が首相候補に名乗りを上げるようになった。

 しかし、それでも、当時、の軍人政治家の筆頭格と目されていた桂太郎、山本権兵衛、更には山縣や桂の後継者と目された寺内正毅よりもより見劣りするのは否めなかった。政党政治家にめを転じてみても、大隈重信や板垣退助という「明治の元勲」から政争に敗れ政党政治家に転じた者、或いは、戊辰戦争に従軍した西園寺公望といった公家政治家ともかく、松田正久、原敬という「純粋」な政党政治家が首相候補に名乗りを上げるのはまだ先のことであった。
このような状況では、非選出勢力を纏めるのは引き続き軍の領袖である「軍人政治家」の役割であり、そのような軍人政治家が現役のまま首相に就任する場合、「山縣スタイル」という前例を踏襲するのは合理的である。

 官界と政党が十全な政権担当能力を身に着けていない時代であった1900年体制においては、山縣が政治の第一線を退いた後も山縣の後継者である桂や寺内という軍人政治家が官界を含めた非選出勢力全体の領袖である事が求められたため、「山縣スタイル」を継続しなければならなかった。

 大正の末期になり、官界と政党(特に憲政会)が首相輩出勢力として一本立ちし、その一方で総力戦遂行の観点から軍(特に陸軍)としても(現役)軍人首相を求めなくなった時代となったことで、「山縣スタイル」ひいては「1900年体制」はその歴史的使命を終えた。そして、時代は政党政治に親和的な「最後の元老」西園寺公望と「憲政の常道」の時代へと移っていくことになった。

218キラーカーン:2018/02/19(月) 00:27:38
8.3.3. 「1900年体制」前史(「藩閥内閣」から「大日本帝国憲法体制」へ)

8.3.3.1. 総説

 明治政府が薩長或いは薩長土肥という雄藩を主力とする藩閥政府であったということはよく知られている。維新政府樹立後、征韓論などで明治政府を追われた者が自由民権運動ひいては帝国議会(衆議院)を活躍の場とし在野の知識人などを糾合していった。その代表的人物が、板垣(征韓論で下野)や大隈(明治十四年の政変で失脚)であった。
 一方、明治政府に残留した者は国家機構の整備に伴い、文武官を糾合していった。前者(選出勢力)の代表人物が板垣退助及び大隈重信であり、後者(非選出勢力)の代表人物が山縣有朋であった。
 後に立憲政友会総裁となり、「政党政治家」へ転身する伊藤博文は、の死後、政府で頭角を現してきた伊藤博文は、長州閥ひいては藩閥政治家の領袖となるように、元々は藩閥政治家側の人物であった。しかし、伊藤は、大日本帝国憲法の実質的起草者であったことにより「憲法伯」の別名を持つことからも、国会(大日本帝国憲法上は「帝国議会」)特に衆議院の果たす役割を軽視していなかった。

 伊藤は、日清戦争後には、政党の関与・協力がなければ政府運営は不可能であるとの認識に立っていた。その結果、政党に拒否反応を示す他の元老、特に山縣との政治的立場を異にしていく。そして、第一次大隈内閣総辞職後の1900年、旧自由党(板垣系)と伊藤系の官僚を糾合して立憲政友会を設立した。官僚側はその反作用的に、山縣を盟主とする「非選出勢力」としてまとまっていった。ここに、20世紀最初の25年間の政治体制を規定した1900年体制が確立したのであった。

219キラーカーン:2018/02/19(月) 00:29:44
8.3.3.2. 「元老」とは何か。

 ここで、大日本帝国憲法体制を語る上で避けることのできない、元老に触れる。

 元老の一般的定義は、「国政の重要事項について影響力を行使し、首相奏薦について天皇の下問を受け、その他宮中関係事項について発言する指導者層」とされており、当初の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、黒田清隆、松方正義、大山巌、西郷従道の7名に桂太郎及び西園寺公望の2名を加えた9名を指すのが一般的とされている。

 元老は明治維新後の政治状況の中で自然発生的に生まれた集団であるため、明確かつ統一的な定義が存在しない。一般的には「『元勲優遇の勅語』 を授かった者」を元老の定義とすることが多いが、少なくとも伊藤から西郷までの7名(以後、「元勲元老」という。)は当該勅語を授かる前から元老であった 。例えば、西郷はその死去まで当該勅語を授かっていないが、西郷を元老の一員に含めることについての異論は見られない。

 その後、大正になり、元老を追加する必要に迫られた際、「追加された元老」であることの対外的証明として「元勲優遇の勅語」を授けられることが取り沙汰された。しかし、「最後の元老」西園寺が元老の追加に反対したため、桂太郎及び西園寺公望を最後に元老は追加されず、その結果として、「元勲優遇の勅語」を賜った者はいない。

 では、元に戻って元老を如何にして定義すればよいのか。それは、彼ら(特に元勲元老)の閲歴から判断して帰納的に彼らが元老とされた条件を抽出するしかない。そして、元勲元老とその他の政治家(「維新の三傑」を除く)を区別するための基準は彼らの経歴を見れば明らかとなった。明治維新の功労者の中で、元勲元老とその他の元勲とでは明らかな違いがある。それは

維新政府における太政官制終了時において参議以上の職を占めていた者で内閣制度創設とともに引き続き天皇の(政治的)輔弼職(閣僚及び内大臣)に留まった者

である。現代における元老研究の第一人使者と言っても過言ではない伊藤之雄氏も彼らに共通するこの経歴に注目している 。

 この定義を厳密に解釈すれば、黒田清隆が外れ、山田顕義と三条実美の2名が加わるので、「元勲元老」の7名と差異が生じる。

 しかし、黒田は、当時、長州閥の領袖であった伊藤と並んで薩摩閥の領袖であったことから、第一次伊藤内閣発足時の入閣は憚られたものと考えられる。事実、黒田は、伊藤の対抗として初代首相候補にも名前が挙がっており、第一次伊藤内閣の後、「(山田を含む)元勲元老の総意」で第二代首相に就任した。このことから見ても、第一次伊藤内閣発足時に入閣しなかったのは、黒田の政治生命が尽きたのではなく、当時、薩長藩閥内で伊藤に次ぐ地位にあったため、入閣が憚られたためであったことは明白である。

 残る三条と山田2名は元勲元老の一員とされることはまずない。学術研究の政界においても正式に元老の列に加えている研究者はいない。しかし、山田及び三条も他の元老に伍して元老的な役割を果たしたとの見解 が存在することは事実である。このため、彼らを「元老以前の元老」と見做せば、この定義と矛盾をきたさない。

この両者を「元老以前の元老」と表現した理由は
① 山田は「元勲優遇の勅語」を賜る前に死去した(これは西郷と同じ)ため
② 三条はその死まで内大臣の職にあり、「元勲優遇の勅語」を賜る機会がなかったため
であったと考えられるからである 。

 元勲元老の後継者として「追加された元老」には桂と西園寺と両名を挙げるのが一般的であるが、桂については元老格となってから短期間で死去したため、元老に含めない見解もある 。

 ちなみに、元老とよく似た言葉で「元勲」という言葉がある。「(維新の)三傑」と並んで「元勲」も明治維新の功労者として用いられるが、元老よりも広い範囲で用いられる。この語も明確な定義がないのは元老と同じであるが、敢えて「元勲」を定義すれば

(家柄ではなく)明治維新の功績により、維新後、参議以上の職に上り詰めた者

となるであろう。

220キラーカーン:2018/02/20(火) 00:19:33
8.3.3.3. 半大統領制の「大統領」としての元老

 元老は、大日本帝国憲法体制において、事実上の「政治面での天皇の代行者」つまり、政治体制論上において大統領制或いは半大統領制の大統領或いは君主と同視すべき存在であった。但し独任制である大統領とは異なり、元老は複数人であるという時代の方が長い。このため、元老個々人が「大統領」(「君主」)であるというよりも、政治家集団としての「元老」が大統領(君主)と同値であるということである。

つまり、
① 事実上の大統領制:元老である彼らが現役の政治家として首相(閣僚)となっている
           時代。所謂「超然内閣」(図3の「レベル2」或いは「レベル1 」)
② 事実上の議院内閣制:政党内閣の下で、彼らの存在が名目的(図3の「レベル4」)
③ 事実上の半大統領制:元老(特に山縣)が健在の政党内閣(図3の「レベル3」)
となる。

 松方が死去し、元老が西園寺のみになる(大正13年)までにおいて、首相が元老と異なる政治勢力に属している(前述の「レベル3」)場合、元老と首相との間での「コアビタシオン」状態となる。

 このように、元老が健在の間の大日本帝国憲法体制は、元老と首相との力関係により、事実上の政治体制が変化するという「柔軟性」に富んだ体制でもあった。そして、その「柔軟性」が本節でいう、「交代大統領制」のベスト・プラクティスとしての1900年体制論へと展開される。

 この観点からも「元老」というのは政治体制の安定剤として機能し、大日本帝国憲法に規定がない存在でありながら大日本帝国憲法体制の安定に大きく寄与した。このように「元老」は大日本帝国憲法体制を読み解くうえでの鍵となる存在でもある 。そして、明治維新による「革命政府 」から「憲政の常道」(「議院内閣制」)までの「事実上の政治体制の変更」を許容する大日本帝国憲法体制というものの「懐の深さ」も特筆すべきものがある 。

221キラーカーン:2018/02/21(水) 00:15:37
8.3.4. 「1900年体制」本論
8.3.4.1. はじめに

 「1900年体制」とは、先に述べたように、政権担当能力のある2大勢力の間における疑似二大政党制的政権交代構造が確立されたということである。この場合は、伊藤博文が総裁として率いる立憲政友会(選出勢力)と、山縣有朋を盟主として結集した文武官による「山縣閥」(非選出勢力)である。しかし、1900年体制において伊藤と山縣が首相となることはなかった 。

「1900年体制」の存続期間は、大略、伊藤博文による立憲政友会の結成から二個師団増設問題に伴う第二次西園寺内閣の崩壊までということになる。この時期における総理大臣は短命に終わった第四次伊藤内閣を除けば、桂太郎と西園寺公望の両名のみであったことから、結果的に、事実上「桂園時代」の別名ともなっている。ここでは、政党内閣(政党指導者が首相である内閣)と超然内閣との政権交代構造である点に注目して、「桂園時代」を離れて時代区分を設定する。

222キラーカーン:2018/02/21(水) 00:16:23
8.3.4.2. 第0期:「プレ1900年体制」(第一次大隈内閣から第四次伊藤内閣)

8.3.4.2.1. 政党との連携から政党内閣へ

 この時期は、第一次大隈内閣⇒第二次山縣内閣⇒第四次伊藤内閣と、政権交代形態から見れば1900年体制と同じである。但し、この時期は「体制」というわけではなく、当時の政治情勢の結果として偶発的にそのような政権交代になったという方がより正確であろう。

 明治31(1898)年、板垣系の自由党と大隈系の進歩党との合併により衆議院に圧倒的多数を占める第一党(憲政党)が成立した。このような状況を受け、当時首相(第三次伊藤内閣)であった伊藤は総辞職を決意し、大隈と板垣の両名を次期首班として奏薦すべきとの立場を取った。

 他の元老は政党党首を首班にするのは反対であったが、かといって、誰も首相を引き受ける者がいなかったので、初の政党内閣である第一次大隈内閣が誕生することとなった。

 第一次大隈内閣成立前においても、政党と超然内閣との連携は模索されており、第二次伊藤内閣では板垣が内相として入閣し、続く第二次松方内閣では大隈が外相として入閣 している。また、結果として超然内閣となったが、第三次伊藤内閣も発足時は自由党及び進歩党との連携を模索していた。しかし、この時点では、政党は飽く迄「招かれた政治勢力」であり、単独で政権を担うだけの政治勢力とはみなされていなかった。

 第一次大隈内閣は、軍部大臣以外は全員政党員という当時の政治体制においては最も「政党内閣度」が高い内閣であった 。しかし、自由党と進歩党との合併から間もないため、両派の融合が進んでおらず、両派の内紛という形でこの内閣は半年足らずで総辞職となった。

223キラーカーン:2018/02/22(木) 00:54:26
8.3.4.2.2. 憲政党結成の反作用としての「山縣閥」の形成と第二次山縣内閣

 第一次大隈内閣の後を襲ったのは、第二次山縣内閣であった。第一次大隈内閣までの政党勢力の伸長への対抗上、官僚勢力は山縣 を結集軸とした。そして、下野していた伊藤も自身が率いる政権担当能力のある政党の結成を目指していた。

 このように、憲政党の結成から第一次大隈内閣の誕生を契機として、選出勢力と非選出勢力への二分化による棲み分け相互依存による両勢力間の政権交代構造が確立されつつあった。また、第一次大隈内閣から、内閣総辞職によって軍部大臣以外の閣僚が「総入れ替え」になり、名実ともに「内閣総辞職」となっていった 。これが、この時期を「第0期」とした理由でもある。

 第二次山縣内閣は超然内閣ではあったが、国会対策上、憲政党(旧自由党系)と連携した。この点も桂園時代の「情意投合」を彷彿とさせる。しかし、第二次山縣内閣は松方や西郷という元勲元老が入閣していたため、「最後の藩閥内閣 」という側面も持つ。

224キラーカーン:2018/02/22(木) 00:54:57
8.3.4.2.3. 立憲政友会結成と第四次伊藤内閣

 明治33(1900)年9月伊藤が旧自由党系と自身に連なる官僚を主体として立憲政友会を結成した。山縣は政友会の体制が整わないうちに総辞職し、政友会内閣としての第四次伊藤内閣が発足した。第一次大隈内閣のような「突発事故」ではなく、政治体制として超然内閣と政党内閣とが交代に誕生するという政権交代形態が形作られたのがこの時期(第二次山縣内閣⇒第四次伊藤内閣)である。

 山縣の目論み通り、第四次伊藤内閣は一年足らずで総辞職となった。これを最後に元勲元老が入閣はおろか、首相になるのも最後となった 。伊藤と山縣は「1900年体制」を残して次の世代へ明治政府を引き渡すこととなった。このようにして内閣史上では、元勲元老の時代が終焉し桂園時代が幕を開けることとなった。

225キラーカーン:2018/02/23(金) 00:26:19
8.3.4.3. 第1期:「桂園時代」(第一次桂内閣から第二次西園寺内閣)

 第四次伊藤内閣総辞職後、次期首相の座は、時存命中の元勲元老で総理未経験者であり且つ総理就任への意欲を持っていた井上馨に下った。しかし、井上は蔵相に希望していた渋沢栄一に入閣を断られ、また、与党と頼む立憲政友会 も第四次伊藤内閣総辞職の痛手から立ち直っておらず、井上は組閣断念に追い込まれた。

 ここに及んで、元勲元老から首相を輩出することは不可能となった。元老が選んだのは陸軍大臣を長く務め、山縣の後継者の立場を固めつつあった桂太郎であった。桂は山縣閥に連なる官僚を主体として第一次桂内閣を発足させた。

 桂よりも先に入閣した山縣閥の官僚(芳川顕正、清浦圭吾)が存在したのにも拘らず桂が首相となったのは、当時において、帝国大学による官僚の人材育成が軌道に乗っておらず、軍人が非選出勢力を取りまとめざるを得ない状況にあったことを伺わせる。

 その傍証として、桂内閣では現役軍人である児玉源太郎が陸相から内務大臣(一時文相も兼任)に転じている 。第一次伊藤内閣以降超然・藩閥内閣にほぼ一貫して見られた非軍部軍人閣僚は児玉内相で一時途絶え、226事件後に復活する。このように非軍部軍人閣僚となった児玉は「最後の維新型軍人政治家」ともいえる。

 第一次桂内閣は、元老との良好な関係もあり、日露戦争を挟んで4年超の存続期間を誇る。これは、1内閣の存続期間としては、日本国憲法が改正されない限り更新不可能な最長不倒内閣である 。また、国会対策では西園寺率いる政友会との良好な関係構築に成功し、「情意投合」とも言われる政権たらい回し構造の確立に成功する 。この時期においては、次期首相指名のための元老会議は事実上開催されていない。

 桂は、この体制のもと、第一次内閣で4年超、第二次内閣で3年超の長期安定政権を築く。一方の西園寺も、第一次内閣で約2年半、第二次内閣で二個師団増設問題があったものの約1年4カ月と比較的長期政権を築くことに成功した。第一次、第二次の西園寺内閣は純然辰政党内閣ではなかった ものの、政権担当能力を示すことに成功し1900年体制の安定化に寄与した。

 しかし、この桂園時代の安定は意外なところから綻びを見せ始める。それは、明治45(1912)年7月30日、明治天皇崩御がきっかけであった。

226キラーカーン:2018/02/23(金) 00:29:42
8.3.4.4. 変動期:「大正政変」(第三次桂内閣)

 立憲政友会と山縣閥との間の棲み分けと相互依存関係を基盤とする1900年体制に桂は飽き足らなくなっていた。通算総理在職日数が最長となった桂は、山縣以下の元勲元老の影響力を排除した上で、伊藤のように自らが政党を結成することによって政友会を凌ぐ政治勢力を築こうとしていた。

 その桂の「野望」を看取した山縣は、明治天皇崩御、大正天皇践祚に乗じ、桂を内大臣兼侍従長に「押し込む」ことに成功する。皇室事務と一般政務との峻別は厳格になされるべきという考え方の実施形態である「宮中府中の別」が確立されていた当時、内大臣や侍従長といった宮内官に就任することは政治家としての引退を意味していた 。

 丁度その頃、二個師団増設問題を巡って、増設の実施を求める陸軍と財政上の理由から延期を企図する西園寺政友会との対立が深まっていた。政友会は海軍・薩派と連携して師団増設の延期を決定する。これに反発した上原勇作 陸相 は師団増設の旨を帷幄上奏の上単独辞任し、陸軍が後任陸相を推薦しなかったため、第二次西園寺内閣が総辞職に追い込まれる事態が発生した 。桂は、この機を逃さず、元老会議で次期首相の指名を受けることに成功する。しかし、陸軍大臣の帷幄上奏で総辞職した内閣の後継首相が「陸軍大将」の桂太郎であったことに民衆は激昂する。

 激昂した民衆及び民党(政府に批判的立場を採るな政党)は「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに掲げ桂倒閣運動へ突進していく。このため、第二次西園寺内閣総辞職から第三次桂内閣総辞職までの政治的混乱を「大正政変」或いは「第一次護憲運動」という。

 この政治的混乱を桂は即位間もない大正天皇の詔勅や勅語で乗り切ろうとするが、逆に即位間もない大正天皇の「政治利用」 であるとして「詔勅をもって弾丸となし、玉座をもって胸壁となす」と咢堂尾崎幸雄に批判される始末であった。桂は、後備役陸軍大将 であることを活かして自身に連なる官僚や国会議員を糾合し、政友会に対抗する政党(当時「桂新党」と呼ばれていた)を結成しようとした。

 しかし、「混乱を収拾するように」という勅語を受けた西園寺政友会総裁の協力も得られず、桂は、在任2カ月程で総辞職に追い込まれる 。ここにおいて、10年以上にわたり存続し、日本の政治的安定をもたらした桂園時代は終わりを告げることとなった。

227キラーカーン:2018/02/24(土) 02:30:59
8.3.4.5. 第2期:「変動の時代」(第一次山本内閣から第二次大隈内閣)

8.3.4.5.1. 総説

 桂園時代を支える基盤であった山縣閥と政友会との「棲み分けと相互依存」による政権寡占状態は大正政変で変動を余儀なくされた。当時、桂の権力基盤である山縣閥と西園寺の権力基盤政友会が非選出勢力と選出勢力を代表する二大勢力であったのは言うまでもないことであるが、非選出勢力及び選出勢力双方にそれ以外の「第二勢力」が存在した。非選出勢力においては海軍であり、選出勢力であれば大隈系(憲政本党⇒桂新党⇒同志会⇒憲政会⇒民政党)であった。この時点で桂園という二極体制は山縣閥+海軍(非選出勢力と政友会+同志会(選出勢力)という「2+2体制」へと変化した。

 大正政変で打撃を受けた山縣閥及び政友会が首相を輩出することが不可能となり、『正調』1900年体制が継続していれば首相になれるはずもない山本(海軍)及び大隈に首相の座が回ってきた。しかし、首相を輩出したとはいえ、海軍も同志会も独力で内閣を組織できるだけの力はなかった。このため、山本も大隈も山縣閥か政友会のいずれかを提携相手として選択しなければならなかった。桂園時代からの因縁もあり、山本は政友会を選択し、大隈は山縣閥を選択した。

 このように、大正政変の結果を受け、非選出勢力(現役軍人首相)と選出勢力(政党党首)との間の政権交代構造という1900年体制の大枠は維持しつつ、二大勢力である山縣閥或いは政友会のいずれからも首相を輩出できなかったという点で、この時期は「変動の時代」といえる。

228キラーカーン:2018/02/24(土) 02:33:10
8.3.4.5.2. 第一次山本内閣

8.3.4.5.2.1. 「第三の男」山本権兵衛

 大正政変で総辞職した第三次桂内閣の後を襲ったのは海軍の山本権兵衛であった。山本は、「桂園権」の「権」として桂や西園寺と並び称されることもあったが 、それでも桂、西園寺に次ぐ「第三の男」であった。山本は海軍武官で初めて首相の印綬を帯びたものであった。これ以降、海軍武官(大将)が首相の印綬を帯びることが度々発生するが、その場合、

本命、対抗双方とも何らかの事情で首相に就任できない事態において「誰も反対出来ない中間派」として首相に指名されるという

場合が多い。

 その場合の本命及び対抗は時期によって変動するが、この場合、その両者は、山縣閥と政友会であったことは間違いない。大正政変で桂が内閣総辞職に追い込まれ、西園寺も「混乱を収拾するように」という勅語を守れなかったという「違勅」により一時的な政治的蟄居に追い込まれた 。

 このように、桂はもとより西園寺までも傷を負い、第三次西園寺内閣が不可能となった。かといって、山縣閥及び政友会に桂及び西園寺に代わる首相候補は存在しなかった。そのため、自他ともに認める桂園に次ぐ「第三の男」山本に首相の座が回ってきた。
8
.3.4.5.2.2. 政友会との「連立内閣」

 政治家としての山本の基盤は海軍及び薩派であった。しかし、両者とも、山縣閥や政友会のように独力で政権を維持できるだけの勢力ではなかった。この点に関しては、第二次西園寺内閣において、海軍と政友会は「師団増設反対」で利害が一致していた経緯もあり、山本と政友会との提携に落ち着いた。副総理格の内相には、政友会代表として第一次、第二次西園寺内閣で内相を務めた原敬が第一次西園寺内閣、第二次西園寺内閣に続き三度目の就任となった。
原の内相就任に加え、政友会の協力の条件として、現役軍人であるため、正党員資格を持たない首相、陸相、海相の3名に(外交は一党一派に偏しないという観点から政党内閣であっても非政党員も許容される )外相を加えた4名以外の閣僚の就任については政友会員又は政友会への入党が条件となった 。この結果、第四次伊藤内閣以来初、西園寺内閣でも実現できなかった、過半数が政友会員である内閣を実現した。このことは、第一次山本内閣が「海軍と政友会との連立内閣」或いは「山本(海軍)をみこしに担いだ政友会内閣」である事を如実に示すものであった。

 このように、第一次山本内閣は桂園時代とは異なり、現役軍人を首相とする事実上の政党内閣というキメラのような内閣であった。但し、武官が政党を基盤に内閣を組織するという点において、第一次山本内閣は第三次桂内閣の延長線上にあった 。

8.3.4.5.2.3. 軍部大臣現役武官制の撤廃と政治的任用職の拡大

 現役海軍軍人が首相ではあるが政友会員が過半数を占める第一次山本内閣において、政党側に有利な制度改正がなされていく。その代表例は
① 軍部大臣現役武官制の撤廃
② 高位の文官職の政治任用対象ポストの拡大
であった。

 このように、初めて政党員首相となり、また閣僚の過半数を政党員が占めた第一次大隈内閣において政党員が行為の文官職を占めたことの反動で第二次山縣内閣において制定された政党員の登用を防ぐ規定が緩和されていった。

8.3.4.5.2.4. ジーメンス事件の発覚から総辞職へ

 山本と原の政治家としての力量も申し分なく、安定政権 かと思われていたこの内閣が急転直下総辞職に追い込まれることとなった。海軍高官も関与した疑獄事件として有名な「ジーメンス事件」であった。

 ジーメンス事件の詳細については省略するが、本件については、海軍高官が関与した贈収賄事件であったことから、現役海軍大将である山本首相に対する貴族院からの追及が厳しく、予算案が貴族院で否決されたことを見届けた上で山本内閣は総辞職となった。

8.3.4.5.2.5.  第一次山本内閣の意義

 第一次山本内閣は、桂園時代の政権交代構造である山縣閥(桂)と政友会との政権構造を維持しながら、第三次桂内閣で果たせなかった、「軍人首相と政党との融合」という政官軍を縦断する内閣であった。これ以降、海軍大将が「誰も反対できない中間派」として首相となる場合であったも、政党員を閣僚とするなど政党との協力関係構築が前提となっていく。

229キラーカーン:2018/02/25(日) 00:35:58
8.3.4.5.3. 第二次大隈内閣
8.3.4.5.3.1. 難航する首相選定

 第一次山本内閣の総辞職を受け、元老は次期首相の選定を始めた。海軍・政友会連立内閣であった山本内閣が総辞職した以上、後継首相・内閣はそれ以外の政治勢力から選ばれるのは当選の成り行きである。とすれば、次期首相は山縣閥から輩出する順番となる。しかし、次期首相選定は難航する。

 当時、桂を失った陸軍にはこの時点で推したい首相候補がいなかった 。勿論、当時においても寺内正毅という首相候補は存在した。しかし、大正政変から2年も経っておらず、また、第一次山本内閣も軍(海軍)の汚職事件で総辞職したことから、陸軍から首相を輩出することは憚られる情勢であった。

 結局、元老会議は、これまで首相を輩出した政治勢力(山縣閥(陸軍系)、海軍、政友会)とは無縁であり、政治的には無色の「徳川16代将軍」である徳川家達 を次期首相に指名した。しかし、徳川が辞退したため次期首相選定は振出しに戻った。

 徳川が辞退したため、、次期首相は山縣閥の文官系から選定することが第一選択肢となった。当時、山縣閥の文官系で首相候補となり得るのは、平田東助と清浦奎吾がいた。元老会議は清浦を次期首相に指名する。清浦は組閣作業に着手するが、海軍大臣予定者の加藤友三郎に辞退され 組閣辞退に追い込まれた 。

 清浦の大命拝辞で非選出勢力の首相候補が払底した。とはいっても選出勢力側に首相候補となり得る人物も存在していなかった。第一次山本内閣総辞職の経緯から政友会から首相を出さないことは「当然の前提」となっており、「桂新党」改め立憲同志会側の首相候補である桂は既に鬼籍に入っていた。桂の死後、同志会は加藤高明を指導者としてまとまりつつあり、官僚系の同志会員としては大浦兼武もいた。しかし、両名とも元老からは首相としては「今一歩」とみなされていた。

 ここで、井上馨が「大隈再登板」という奇手を提案した。大隈は明治十四年の政変で失脚するまでは、元老の上席を占める参議、且つ、元首相であり、経歴の点では問題はない。また、内閣制度創設後も閣僚として元老達と席を並べていたこともある。更に、大隈は同志会の前身と言ってもよい進歩党⇒憲政本党の指導者であり「同志会名誉総裁」と言ってもよいくらいの立場であった。他の元老も大隈以上の候補者が思い当たらず、「明治十四年の政変」以来の行きがかりもあるが 、「反政友会連合」という観点から、次期首相は大隈に決した。

8.3.4.5.3.2. 第二次大隈内閣の成立

 ともあれ、次期首相は大隈に決定した。同志会を与党とするため、加藤高明外相他、幾名かの閣僚は第三次桂内閣以来の再任である。また、山縣閥の「反政友会」の観点から好意的中立であった。山縣閥は2個師団増設、同志会は衆議院第一党の座を奪取という点で共闘していた「呉越同舟」でもあった。

 難産の末に第二次大隈内閣が発足したが、衆議院の多数派は依然として原が率いる政友会であった。このため、陸軍の悲願ともいえる2個師団増設に関する予算案は衆議院で否決され、1914(大正3)年12月、内閣は解散総選挙に打って出ることとなった。

8.3.4.5.3.3. 同志会の総選挙勝利と憲政会の結成と内閣の陰り

 先に述べたように、山縣閥は、二個師団増設或いは文官任用令の再改正 、同志会は政友会を総選挙で破り衆議院第一党の座を獲得すること、即ち、衆議院で政友会を第一党の座から引きずり落とすという点で利害が一致したことで提携関係が成立していた。

 依然として衆議院第一党であった政友会は2個師団増設に関する予算を否決したことを契機に、内閣は解散総選挙に打って出た。同志会は大隈の知名度を最大限に利用した選挙戦 を行い、381の議席を争った。結果は同志会153、政友会108と同志会が念願の第一党を奪取した。また、同志会の他に中正会など大隈内閣を支持する勢力を合算すれば過半数となり、ここに「反政友勢力」の悲願が達成された。

230キラーカーン:2018/02/25(日) 00:36:20
8.3.4.5.3.4. 加藤外相の「強情」から「苦節十年」へ

 ここで、時計の針を少し前に戻す。1914(大正3)年6月、オーストリア=ハンガリ帝国皇太子フォランツ・フェルディナンドがサラエボで暗殺されたことがきっかけとなって第一次世界大戦が発生した。

 列強各国は中国に権益を有していたため、日本も影響を受けないわけにはいかなかった。しかし、当時の筆頭元老である山縣は「欧州の内戦」として静観すべきとの立場であった。しかし、外相の加藤高明は日英同盟に基づき英国側で参戦することを企図していた。

 当時まで、和戦の決定など国家の存立にかかわる決定は元老の了解を得るというのが不文律であった。それは、名実ともに明治国家の「建国の父」である元勲元老自身の実績に基づく権威がそうさせていた。

 しかし、加藤外相は元老の同意を得ることなく日英同盟に基づく参戦を決定する。大日本国憲法上、外交大権の輔弼者は外務大臣(と総理大臣)である事を根拠に、加藤外相は山縣以下の元老の要請或いは抗議を無視しした 。元老が大日本帝国憲法上の規定に基づかない、自身の実績と天皇の信任に基づくという「属人的制度・不文律」である事の弊害がと呈した形となった。

 また、加藤外相は、参戦に併せ「対華21ヶ条要求」を中華民国に提示し、その秘密条項で対中利権獲得を露わにしたことから、中華民国はもとより列強の不信を買った。この一連の「失策」で加藤は「首相候補として『落第』」との判定を下された。これも、第二次大隈内閣総辞職後、同志会(憲政会)が与党に返り咲くまで10年 を要した一因でもある 。

8.3.4.5.3.5. 総選挙の勝利から総辞職へ大隈の「元老待遇」

 総選挙は同志会以下の与党(反政友会勢力)の勝利に終わった。しかし、この総選挙で大浦内相による選挙干渉が問題となり、大浦内相は辞任を余儀なくされる。内相という「副総理格」であり、且つ、同志会における官僚派の筆頭格ともいうべき大浦が閣外に去ることは第二次大隈内閣の屋台骨を揺るがす大事件でもあった。

 この事態を受け、閣内は総辞職派と内閣改造派に分裂した。大隈首相も一時は総辞職に傾いたが、大正天皇の即位を理由にして内閣継続を望んだ。結果として、選挙干渉を行った大浦内相に加え加藤高明外相ら総辞職を主張した閣僚を更迭する内閣改造による内閣続投ということとなった。

 第二次大隈内閣は、師団増設と大隈首相を支持する同志会以下の「反政友会連合」が衆議院の過半数という内閣発足当初の目標を達成した。そのことは、第二次大隈内閣を成立させていた山縣閥と同志会との呉越同舟もまた終わりに近づいたことを意味した。その結果大正天皇の即位の例が滞りなく挙行されてから程なく第二次大隈内閣は総辞職した。

8.3.4.5.3.6. 大隈の「元老待遇」

 第二次大隈内閣が小辞職した時、統治機構において大きな問題が持ち上がっていた。それは「元老の枯渇」であった。

 第二次大隈内閣成立時、元老は、山縣、井上、松方、大山の4人であった。元老の資格があった西園寺は大正政変のあおりで「政治的蟄居」状態であり、元老として活動できる状態ではなかった。第二次大隈内閣の間に井上が死去し、大山も第二次大隈内閣総辞職直後にこの世を去る。

 このような状況の中で、元老制度を維持するのであれば、元老を補充する必要がある。「政治的蟄居」中の西園寺を復権させたとしても、元老は山縣、松方、大山、西園寺の4名である。桂は既に鬼籍に入り、「第三の男」山本はジーメンス事件により「政治的蟄居」を余儀なくされている 。西園寺の同世代或いは次世代の政治家で元老に手が届きそうな人物は当時存在していなかった 。

 西園寺は元政友会総裁であったことから、その均衡上、「新元老」は憲政会系が好ましい。そのような思惑から、大隈が新元老候補として浮上する。大隈の経歴は元老達に匹敵することは自他ともに認めるところである。このような経緯もあり、大隈が総理を退任する際に、内容が「元勲優遇の勅語」に類似した「御沙汰書」を大隈が賜った。

 しかし、大隈は「元老」として振る舞うことはなかった。それは、政党指導者として今更、憲法上に規定のない天皇との個人的信頼に基づく元老の一員になる事は不可能であったからである。しかし、退任時に加藤高明を次期首相に推薦することや、個人的に意見を求められた際には「元老格」として意見を述べることはあった 。
 その後、元老補充問題は、原首相暗殺後、西園寺が「一人元老」となった時点で次期首相指名に際しての「御下問範囲拡張問題」として再燃することとなる。

231キラーカーン:2018/02/25(日) 23:54:43
8.3.4.6. 第3期:「桂園時代の『復活』」(寺内内閣から原内閣)

8.3.4.6.1. 総説

 第一次山本内閣及び第二次大隈内閣は、「2+2」体制の中で、選出勢力及び非選出勢力双方の「+2」が相次いで首相を輩出した点で「1900年体制」の「変動期」であったと言える 。「+2」が双方とも首相を輩出する間に体制を整えていた「2」側が「満を持して」出馬したのがこの時期の寺内内閣及び原内閣である。

 寺内、原の両名とも桂園の正統後継者というべき地位にあった。その点では、まさに「正調1900年体制」への回帰と言ってもよい時期である。この時期は第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵、第一次世界大戦の終結とパリ講和会議、そして、ワシントン軍縮会議からワシントン体制への参加と日本の対外政策に関する大事件が生じているが、本節で述べる政治体制論、特に「交代大統領制」に関しては「正調1900年体制」へ回帰した以外、特記すべき事項は余りない。

 但し、「初の本格的政党内閣」と称されることもある原内閣で初めて「純政党内閣」をこの時期の主役である寺内及び原双方とも「元首相」として政治的影響力を行使することはできなかった。寺内は首相退任後程なくして死去し、原は首相在任中に暗殺されたからである。このように、元勲元老の衣鉢を継ぐべき政治が相次いで亡くなり、その役目を貫徹できたのは、「最後の元老」となった西園寺、もう少し広く取っても「準元老」として並び称された山本と清浦であった。

 これまで参議、閣僚、首相、元老と地位や呼び名は変わっても、明治の太政官制末期から大日本帝国憲法体制を支えてきた元勲元老(大隈を含む)も、原首相の暗殺(1922(大正11)年11月)と前後して山縣及び大隈が死去する(1923(大正12)年2月)。この時点で、元老の持つ「政治的な天皇の代行者(≒大統領)」としての機能は事実上消滅することとなる。それは、「交代大統領制」としての「1900年体制」が名実ともに滅亡したことを意味した。

232キラーカーン:2018/02/27(火) 01:15:49
8.3.4.6.2. 原内閣と陸軍

 原内閣は、初の「本格的」政党内閣と言われることがある。これは、それまでの「政党内閣」は、
① 短命内閣(1年未満):第一次大隈内閣、第四次伊藤内閣
② 軍部大臣及び外務大臣以外の閣僚にも与党員ではない閣僚が存在
 (第一次、第二次西園 寺内閣、第三次桂内閣、第一次山本内閣、第二次大隈内閣)
であったことから、大手を振って「政党内閣」と呼称することを憚られる事情が存在したからである。

 しかし、原内閣は、そのような政党内閣を称することを「憚る」事情が存在しない初の内閣でもあった。また、原は初の平民(華族ではない≒爵位を持たない )の総理大臣となったことから「平民宰相」 との異名を持つ。そのような経歴も「本格的政党内閣」という原内閣の性格を強化することに繋がっている。

 1900年体制の主役である政友会と山縣閥を率いる者として原と山縣は当然のことながら政治家としては対立関係にある。原の首相指名についても、山縣は最後まで抵抗している。このため、陸軍対策として、原は筆頭元老でもある山縣と田中陸相との二正面作戦を展開した。結果として原首相は陸軍の統制に一応の成功をおさめた。

 陸軍の側も、第一次世界大戦が「総力戦」となった現実を踏まえ、政党との協力関係を構築する必要を感じていた。政党は国民だけではなく、経済界も統合する実力を持つ。三菱財閥は大隈や加藤高明を通じて憲政会と密接な関係にあった。一方、三井財閥は井上馨(政友会設立に関与)及び西園寺公望(実弟が住友家の当主)を通じて政友会と密接な関係にあった。

 総力戦を遂行するためには、政党の国内各勢力を束ねる能力を利用すべきだという見解が陸軍内でも発言力を増していった 。このため、陸軍は首相の座には拘らず、陸相を通じて政党内閣を「裏から」利用した方が都合がよいとの考えも出てきた。特に原内閣のような強力な政党指導者が組織する政党内閣に対して真っ向からの対立姿勢を採るということも、政治力学上困難であった。これに、ワシントン軍縮会議への海軍大臣出席に際しての海相代理問題に端を発して、軍部大臣武官制の撤廃まで具体的な検討になっていった。

233キラーカーン:2018/02/27(火) 23:25:30
8.3.4.6.3. 政党と軍とのパワーバランスの変化(軍部大臣武官制撤廃問題他)

 軍部大臣武官制撤廃は、大正政変の際にも「政変の元凶」として問題となったが、結局現役武官制の撤廃に留まった。しかし、非現役武官は政党員の資格があるので、非現役大中将まで軍部大臣任官資格を拡張すれば政党員の軍部大臣も可能となるという点において大きな意味を持つ改正であった。

 軍部大臣は閣僚の一員とはいえ軍の代表という側面もあるため、軍部大臣の任用資格は1900年体制の主役である山縣閥と政友会の権力バランスの決定する大きな要素である。第一次山本内閣で副総理格の内相として文官任用令の改正により政治的任用職を拡大し、軍部大臣現役武官制を軍部大臣武官制に改正した当事者でもあったことから、自身が首相である原内閣が軍部大臣の任用資格についてをどのように扱うのかは注目を集めていた。

 当時は軍部大臣現役武官制ではなかったため、原内閣では予備役或いは後備役の大中将の軍部大臣を起用するのではないかという観測もあった 。しかし、原は現役の田中義一を指名した。これは、山縣以下の陸軍と決定的な対立を避け、陸相を通じて陸軍を統制しようとする原首相の姿勢を示すものであった 。

 それから時は流れて、「本格的政党内閣」となった原内閣は、第一次大戦後の世界情勢の変化を見据え、他国間協調主義そして対米協調主義に舵を切るべきだと考えていた。そうした折、ワシントン軍縮会議が開催されることとなり、日本からの全権として加藤友三郎海軍大臣が出席することとなった。

 海軍大臣が長期にわたって不在となることから、(正式な肩書はともかく)海軍大臣臨時代理の任命が避けられない情勢であった。軍に対する政治側の優位を確立しようとする原政友会は勿論のこと、海軍における軍政面の責任者である加藤海相自身も軍部大臣に武官でない者が就任すること(軍部大臣文民制度)もあり得るとの考えを持っていた。

 結局、敗戦までに文民海軍大臣は実現しなかったが、原首相が海軍大臣事務管理に就任した。事務管理とはいえ、事実上の「文民海軍大臣」が現実のものとなった 。原首相が暗殺されたため、原内閣での文民軍部大臣問題はここで突然の終焉を迎えることとなった 。しかし、この問題は以後も政軍関係上の重要問題としてくすぶり続ける。

 軍部大臣任用資格の他に政軍関係上重要な制度改正としては、朝鮮、台湾領総督に武官でない者(所謂「シビリアン」)の任用が可能となったことである。原内閣で両総督の任用資格が改正されるまで、両総督には現役将官が任命されてきた 。原内閣はこれを改正し、両総督に文民或いは文官を任用することを可能とした 。勿論、これまで通り、現役武官からの任用も可能であった。以後、朝鮮総督は非現役大将の任命はあったもの、文民や文官からの任用は敗戦までなかったが、台湾総督には文官総督が実現した。

234キラーカーン:2018/03/01(木) 00:25:59
8.3.4.6.4. 原内閣の突然の終焉

 原内閣は発足から3年を超え、長期安定政権を気づいていた。最大のライバルである山縣閥に対しても山縣本人との良好な関係構築ともに田中陸相通じて陸軍に対して影響力を及ぼしていた。また、原は松田正久の死後、政友会における「唯一無二」の指導者であり、政友会を完全に掌握し、衆議院においても安定多数を擁していた 。原内閣は、当時(そして現在においても)最長である第一次桂内閣を上回る長期政権が視野に入ってきた。

 病気で天皇としての執務を遂行が困難になりつつある大正天皇の摂政として皇太子裕仁親王(昭和天皇)の摂政就任の準備を着々と進め、欧州外遊、久邇宮良子女王 との婚約発表を終え、あとは11月の摂政就任を待つだけとなっていた。

 最大の政敵である山縣にもその力量を認めさせ、将来は盤石に見えた原内閣であるが、その終焉は唐突にやってきた。皇太子裕仁親王の摂政就任を約1か月後に控えた1921年10月、原は東京駅で暗殺される。原首相を屠った凶刃は、原首相・内閣のみならず、約四半世紀にわたって日本政治の安定と漸進的民主化に多大な貢献をした1900年体制をも同時に屠ったのであった。

235キラーカーン:2018/03/02(金) 00:06:38
8.3.4.7. 第4期:「1900年体制の終焉」(高橋内閣から清浦内閣)

8.3.4.7.1. 総説

 この時期は、原首相の暗殺と政友会の混乱、そして、現役軍人首相候補の払底と山縣の死去による山縣閥の終焉により、「1900年体制」の時代が終焉したことを日本全体に周知するための時期である。

 大正10年後半から翌11年初めの間、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の摂政就任、原首相の暗殺(大正10年10月)、山縣、大隈両元老(格)の死去(大正11年2月)、そして、大正13年には松方も死去し、西園寺が「ただ一人の元老」となり、時代の変わり目を意識せざるを得ない事象が連続して生起した。

 内閣も原首相の暗殺の後、高橋内閣、加藤友三郎内閣、第二次山本権兵衛内閣、清浦内閣と推移していくがいずれも短命に終わり(加藤友三郎内閣は加藤首相の死去という突発事象によるものではあるが)、政友会及び海軍の政権担当能力の低下が明らかになっていた。

 一方、陸軍も総力戦に対応するには、現役陸軍軍人が首相になるよりも政党内閣の下で総力戦体制を構築する方が効果的との見解が(後の統制派に連なる軍人を中心に)有力となりつつあり、山縣閥(陸軍)と政友会との棲み分けと相互依存による政権交代構造を前提とする「1900年体制」の限界が白日の下に曝された。

 時代は、元勲元老が全員死去し、事実上の新帝即位である摂政皇太子就任に相応しい「新しい体制」の必要性を感じさせるものとなった。

 この「新しい時代」は現在では「憲政の常道」と呼ばれている。その時代をもたらした原動力は、一度は元老達に「不合格」の烙印を押された加藤高明憲政会総裁であった。加藤高明は「苦節十年」を耐え切り、首相就任後の「西園寺の追試」に合格する。一方の政友会は憲政会と革新倶楽部との「護憲三派連立内閣」から離脱し、原内閣の陸相であった田中義一を総裁に迎え、来るべき将来の政権奪取に向け体制を立て直しつつあった。「護憲三派」の一角を占めていたが、小政党であった犬養毅率いる革新倶楽部は憲政会、政友会の間で埋没し、犬養は革新倶楽部を政友会に吸収合併させ、犬養自身は政界引退を表明した 。

 清浦からの禅譲路線(これは、情意投合的な1900年体制の延長線上の発想であり、当時においては「王道」の考え方であった)を期待した政友本党は政友会へ出戻るか憲政会に合流するかで事実上分裂する。

 こうして非選出勢力(山縣閥と海軍)と選出勢力(政友会と同志会)との疑似二大政党制的政経交代構造、更には超然内閣とい政党内閣との政権交代構造という「交代大統領制」というの「成功例」としての「1900年体制」は終わりを告げたのであった。

236キラーカーン:2018/03/03(土) 01:06:22
8.3.4.7.2. 原の暗殺と政友会の迷走

 首相の急死による内閣総辞職であったため、次期総理も政友会から出すということは衆目の一致するところであった。とはいえ、 原という絶対的指導者を失った政友会は混乱に陥る。全政友会総裁でもある元老西園寺の再登板も取りざたされたが、後継総裁が高橋是清蔵相に決まり、高橋が首相兼蔵相となり、その他全閣僚留任の上高橋内閣が発足した。 このように、高橋内閣は「居抜き」で発足したが、高橋の指導力は原と比べるべくもなかった。程なくして閣内対立を招き、高橋内閣は約半年で総辞職を余儀なくされる。

 高橋内閣が総辞職した後を襲うべき陸軍には、当時、衆目の一致する首相候補が存在しなかった。このため、ワシントン軍縮会議の後始末もあり、加藤友三郎が首相に就任する。首相が加藤友三郎に決定する過程で、当時の筆頭元老の腹案は「本命が加藤友三郎、対抗が加藤高明」であった。これを知った政友会が加藤県政系内閣成立を阻止すべく、加藤友三郎内閣への全面的閣外協力を申し出たことで、次期首相は加藤友三郎に決定している。このような軍(現役軍人首相)と内閣との協力形態はこれまで存在した、「情意投合」や「第一次山本内閣」とも異なるため、しなかったため、「変態内閣 」と称された。

 加藤友三郎は海相を兼任し、海軍軍縮といったワシントン会議の後始末を堅実にこなしていたが持病が悪化し、在任1年余りで総理在任のまま死去した。

 加藤友三郎が死去したことで、陸軍、政友会、海軍の首相候補が払底し、加藤高明憲政会総裁は未だ「首相の器」とはみなされていなかった。残る候補は、当時、唯一人の「元首相」である山本権兵衛か山縣閥(官僚系)の重鎮であり、山縣の後継者として現任の枢密院議長であり、「鰻香内閣」で「事実上の元首相」でもある清浦の両名しか残っていなかった。当時、両名を指して「準元老」という呼称もあり、名実ともに、西園寺に次ぐ長老政治家とみなされていた。

 「最後の元老」西園寺は加藤友三郎路線の継続も含みで山本権兵衛を選択する。山本は海軍大将ではあったが、首相在任中(第一次山本内閣)のジーメンス事件の余波で現役を去っており、当時は退役海軍大将であった。このこともあり、組閣には薩摩人脈が活躍している。この他には錦城学校卒業生から4人の閣僚を輩出しており、政党から唯一入閣した犬養毅も一時期、薩摩の錦城学校の教員をしていた。しかし、この内閣も虎の門事件(摂政宮狙撃事件)で総辞職を余儀なくされ、約3カ月という短命内閣に終わった。

 山本本人には責のない事件とはいえ、総辞職を余儀なくされ、政治の表舞台から退場した以上、残る首相候補は清浦しか残されていなかった。元政友会総裁という経歴を持つ元老西園寺は、清浦の後は非選出勢力(陸軍、海軍及び官界)の首相候補が払底するとの認識に立っており、清浦の後は体制を立て直した政友会を本命と見ていた。

 清浦は超然内閣として発足した。この時点で、清浦内閣は来るべき総選挙までの「選挙管理内閣」となることが事実上決定した。加藤友三郎、第二次山本、清浦と非政党内閣が三代連続したことから、当時の二大政党である政友会と憲政会、そして、小政党の革新倶楽部は政党内閣復活を要求し、清浦内閣と対決姿勢を打ち出すに至った。この運動を「第二次護憲運動」という。この動きの中で、衆議院で圧倒的多数を有していた政友会が野党派と与党派(清浦からの禅譲路線)に分裂し、後者が政友本党を結成したという政友会の分裂が生じた。このため、運動の主体となった政友会、憲政会、革新倶楽部の三党を「護憲三派」と称するようになった。

 このような中で総選挙が行われ、結果は護憲三派の圧勝であった。この結果を受け、清浦は退陣を決意し、後継首相は、比較第一党党首である加藤高明が就任し、政友会及び革新倶楽部と「護憲三派連立内閣」を組んだ。

 非選出勢力にとって「最後の手札」というべき山本、清浦という「準元老内閣」であってに短命に終わり、陸軍以外の非選出勢力が政権担当能力を消失したことが明らかになった。清浦内閣の下で行われた総選挙で護憲三派連合が勝利したことから、山縣閥と政友会との棲み分けと相互依存による疑似二大政党的政権交代構造を基盤とする「1900年体制」は名実ともにその命脈が尽きた。

237キラーカーン:2018/03/04(日) 00:52:19
8.3.4.7.3. 山縣の死去と山縣閥の終焉

 非選出勢力の主力ともいうべき山縣閥も転換期を迎えていた。第一次世界大戦が「総力戦」であったことから、政党の持つ民衆統合機能を活用し軍は政党を支援して総力戦体制を構築すべきという考え方が、後に「統制派」と呼ばれる軍人から出てきた 。

 この考え方によれば、最早「現役(陸軍)軍人首相」に拘泥する時代ではないということになる。原内閣における田中陸相のように、強力な指導力を発揮できる(文民)首相と協調して(陸軍の組織的利益を確保することは前提としつつも)軍政優位の立場から総力戦体制を構築することが最適解となる。これは、「1900年体制」からの離脱に他ならない。

 さらに、1900年体制というよりも大日本帝国憲法体制の保証人でもあった筆頭元老の山縣も天寿を全うし鬼籍に入る。山縣の死の直前には大隈も鬼籍に入っており、「元勲元老(格)」も過去のものとなりつつあった。政界、官界、陸軍を束ねる「扇の要」であった山縣が没すると、山縣閥自身が陸軍と官界・政界(貴族院勢力)に分割され、前者は「首相輩出勢力」から一歩身を引いた形となった 。

 このようにして、1900年体制の一方の主役であった山縣閥はその歴史的使命を終えた。それは、別の観点から見れば、国家体制整備が完成の域に達し、「元勲」や「元老」という属人的な統合ではなく、国家組織に基づいた統合或いは「縦割り」という時代に移行したともいえる。

238キラーカーン:2018/03/05(月) 00:33:16
8.3.4.7.4. 「第二次護憲運動」と1900年体制の完全なる終焉

 高橋内閣の総辞職から加藤(友)、第二次山本、清浦と(政党からの支援があったことが明白であったとしても)非政党内閣が3代続いたことは1900年体制においても異例のことである。1900年体制の主役である政友会はもとより、第二党として政権交代構造に参画したい憲政会双方とも、この状況に不満を持っていた。このような中で、政党内閣を目指すという点で利害が一致した政友会、憲政会及び革新倶楽部の三党は清浦内閣打倒を目指すこととなる。

 政友会内部では、①清浦内閣との対決路線、②清浦内閣からの禅譲路線、という政権奪取戦略を巡っての路線対立があり、後者は政友会から分離して「政友本党」を設立する。このような情勢を背景に、政友会、憲政会及び革新倶楽部の3党は俗に「護憲三派」と称されるようになる。

 清浦内閣で行われる総選挙は日本初(そして大日本帝国憲法下では唯一)の「政権選択選挙」 となった。その選挙結果は
① 護憲三派の勝利
② 憲政会が比較第一党(第二党は政友本党)かつ護憲三派内での過半数確保
という憲政会の「完全勝利」であった。

 この選挙結果を背景に、加藤高明憲政会総裁は「苦節十年」の末に念願の首相の座に就いた。加藤内閣は途中で護憲三派連合が崩壊し、憲政会単独内閣となったが 、治安維持法、普通選挙法などの成立など課題を着実にこなしていった。加藤は元老西園寺の「追試」に合格し、「二大政党」の一角としての座を確実なものとし、「山縣閥と政友会」の政権交代構造から「政友会と憲政会(民政党)」という政権交代構造の変革に成功した。

 以後、515事件まで二大政党による政権交代の時代を「憲政の常道」の時代という。ここにおいて、1900年体制はその歴史的役割を終えた。

239キラーカーン:2018/03/06(火) 01:30:10
8.3.4.7.5. 1900年体制の終わりと「御下問範囲拡張問題」

 西園寺は「最後の元老」という異名で語られることが多い。政治家としての西園寺を一言で言い表すなら、「桂園時代」よりも「最後の元老」の方が相応しいというのは衆目の一致するところであろう。

 この時代のもう一つの特徴として、大隈も含めた元勲元老が全員鬼籍に入り、元老が「最後の元老」西園寺公望のみとなったことである。また、西園寺自身も70歳を超えており、決して若くはなかった。したがって、憲法習律上元老のみに与えられてきた機能、即ち、次期首相の奏薦機能を今後(特に西園寺死後)どのように担っていくのかという問題が政治問題するのもこの時期からである。

 次期首相の奏薦以外にも、元老は和戦の決や宮中事項について関与してきた。しかし、和戦の決など国家の重要事項については第二次大隈内閣の加藤高明外相が元老に諮らず参戦を決定するなど、既に元老が関与することは憲法習律ではなくなっていた。また、宮中事項については元老の所掌とされているが、内大臣、宮内大臣、侍従長など宮中の官僚組織も確立されていることから、元老がいなくなっても特段の問題は生じないと思われていた。このため、「西園寺死去後」を見据えた元老機能再編問題は、次期総理選定の際にける「御下問範囲拡張問題 」に収束することとなった。

 「御下問範囲拡張問題」の解決策として考えられるものは、①元老を補充するか否か、②元老を補充しない場合、どの機関(既存、新設)に元老の権限を代行させるかに大別される。

 前者の元老の補充であれば、当時「準元老」とも称された山本権兵衛及び清浦圭吾の両名を元老に任命すれば当面の危機は回避できる 。但し、問題点としては、その次の世代の政治家で元老に相応しい者が軒並み鬼籍に入っており、元老候補の人材が枯渇していたことにあった。寺内は首相退任後程なくして無くなり、原、加藤(友)、加藤(高)の3名は在任中に死去(暗殺を含む)したため、彼らが「元首相」として活躍することはできなかった。

 では、後者の「元老の機能を他に移譲する」という方策も同様の問題点を抱えていた。天皇の諮問機関としては、国務では枢密院、統帥(軍事)分野では元帥府或いは軍事参議院、宮中では宮中顧問官という機関が存在していたが、元老に匹敵する人的集団であるとは言えなかった。というよりも、そのような機関の一員に留まらない「大物政治家」だからこそ元老と呼ばれたのであった。そのような経緯からすれば、既存の機関に元老の機能を委譲することは「元老の格下げ」に他ならないということになる。そこで「大物政治家」を一堂に会した最高諮詢会議の設立も検討された。

 しかし、西園寺はそのいずれの方策も取らず、一人で元老の職責を果たすことを決意した。しかし、完全に単独ではなく、内大臣と協議した上で次期首相の奏薦を行うこととした 。この時期まで、内大臣 の殆どは、元老(格)若しくは元老に準ずる政治家が就任しており、元老の相談相手或いは協議相手として最も適当であると考えられていたため「元老内大臣協議方式」はすんなりと受け入れられた。

 また、丁度、憲政会が政権担当能力を身に着けつつあり、元老が消滅したとしても、英国のような「憲政の常道」路線で首相が決定される見込みが高い。そうであれば、元老の次期首相奏薦機能は形式的なものでよい。

 このように、二大政党制の確立と西園寺の意思という二つの偶然が重なり、西園寺が「最後の元老」となることが決定した。しかし、時代はそれを許さず、515、226事件など、元老の機能が形式化することはなかった。そして、515事件以後、「御下問範囲拡張問題」は内大臣が主宰し、首相経験者と現任の枢密院議長が構成員となる「重臣会議」に移行し、昭和20年の敗戦を迎えたのであった。

240キラーカーン:2018/03/07(水) 00:36:30
8.3.5. 「交代大統領制」或いは「1900年体制」を支える「影の条件?」

 このような交代大統領制或いは1900年体制のような「幅広い」或いは「節操のない」政権交代構造が可能となるためには、そのような政権交代が「些細な事」であると思わせる明野国家元首(大統領或いは君主)に絶対的権威があるということが必要なのかもしれない。そのような存在自身が「国内の分断を治癒する」存在となり得る

241キラーカーン:2018/03/07(水) 00:41:10
8.3.6. まとめ

 大日本帝国憲法の規定は簡潔であったため、幅広い政治体制の包含が可能であった。特に、大日本帝国憲法には「内閣」や「内閣総理大臣」という文言すらなく、「国務大臣及び枢密顧問」として第五十五条第一項に「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ズ」、同第二項に「凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス」とのみ規定されているだけである。したがって、内閣の性格はその時々の政治情勢によって変化し得る体制であった。これが、大日本帝国憲法体制において幅広い政体を採ることができる要因でもあった。

 また、「元老」という憲法に規定のない「政治面での天皇の代行者」というべき存在もあり、元老と内閣との関係ひいては天皇大権の行使と内閣の権限行使の態様も両者の力関係により変化した。現実の歴史に見るように、大日本帝国体制下における内閣は(選挙を経ない疑似)大統領制的内閣である超然内閣から議院内閣制まで多様な形態を採り得た(「図3」のレベル2からレベル5)。このように憲法上許容される政体の幅が広いのも大日本帝国憲法体制の特徴である。大日本帝国憲法体制における政権交代、特に「山縣スタイル」の内閣を樹立するためには、タイのように「クーデター⇒民政移管⇒クーデター⇒以下繰り返し」のように憲法改正或いはクーデターを必要とする。

 しかし、大日本帝国憲法体制においては、「平穏」な通常の政権交代手続で可能であった。そして、現代においても「平穏且つ公然、そして合法的で体制変革を伴わない」正規の政権交代としてある買われている。このような「柔軟な政権交代構造」により、クーデターや革命或いは憲法改正を経ずに政治状況に応じ最適な政権形態を選択することが可能であった。

 この結果、非選出勢力との政権交代構造を維持することで立憲政友会に代表される選出勢力が政権担当能力を身に着ける時間を稼ぐことができ、他国に比べれば、円滑或いは平穏に権威主義体制路言ってもよい超然内閣から「憲政の常道」までの政治体制変革を成し遂げることができた。

 もう一つの効果として、その時点における政治体制を憲法の枠に縛られず「自由」に選択できるということが挙げられる。諸般の事情から、政党内閣ではなく「各政党から中立な超然内閣」という選挙管理内閣で「政権選択選挙」を行い、その結果を見定めてから民選内閣制に移行するという手法も「当たり前のように」可能となる。これは、大日本帝国憲法体制下において西園寺が清浦内閣で使った手法でもある。また、類例は、現代のイタリアでも見られる(例モンティ内閣(2011〜2013年)。。

 このように、「1900年体制」はサルトーリが提唱した「交代大統領制」という概念を先取りしたものである。この観点からも、「1900年体制」特に「山縣スタイル」に代表される現役軍人首相(内閣)の果たした役割を「非民主主義的で権威主義的体制」であるとの否定的側面だけではなく、円滑に憲政の常道にまで移行させたという観点からの再評価をすべきではないかと思われる。実際に、政党政治家は元老、特に山縣という「巨大な壁」に挑むことで政権能力を身に着け「憲政の常道」時代を自らの力で引き寄せたのであった。

 そして、現在、俗に「右傾化」(本稿では「ネトウヨ化」)と言われているものの要因とされてきた、「大統領制化」と「リベラル・左派の暴走・自滅」によってなされた「敵味方」を峻別する「1ビット脳的政治」によってもたらされた修復不能とも見える分断による隘路を潜り抜け、国民或いは国家統合を回復するための手掛かりを「1900年体制」は示しているのかもしれない。

242キラーカーン:2018/03/07(水) 00:45:37
長くなりましたが、これで終わりです。
実際には、ここに書き込んでから修正した個所は多多あります。
また、ここには掲載できませんでしたが、図表や脚注、参考URL
などもあります。


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