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1 : 【感覚質】意識ハードプロブレム【クオリア】(2) / 2 : イマージュについて(2) / 3 : 英語(4) / 4 : 【論考】(24) / 5 : 運・ツキの名言(5) / 6 : 読書の美学(1) / 7 : 【人格分裂】人格論【人格形成】(1) / 8 : 【差別】やわらかに【主義者】(2) / 9 : デュエル・マスターズ(6) / 10 : 【トラベル】〜〜第二講座〜〜(27)
11 : 【身体論】(1) / 12 : モンテスキュー 名言(1) / 13 : 【イマヌエル】永遠平和のために【カント】(9) / 14 : 猫のキセキ(11) / 15 : 【トラベル】(4) / 16 : 【世界】個々の過程【分析】(10) / 17 : 【ジャック】欲望【ラカン】(2) / 18 : 【写像理論】ウィトゲンシュタイン【命題一致】(4) / 19 : 【嘘を吐くべきか】道徳論【冗談を言うべきか】(1) / 20 : 【仏教】真理の見つけ方【禅問答】(1) / 21 : 【主人と奴隷】ヘーゲル【ジレンマ】(2) / 22 : 【哲学】ヘーゲルスレ【意識論】(8) / 23 : 【懐疑】デカルト【哲学】(2) / 24 : 【言語】ゲーム【処理】〜世界の美学(5) / 25 : [(8) / 26 : 【第三回】喧嘩大会【兵よ、集え】(6) / 27 : [(1) / 28 : おっぱい戦争(1) / 29 : あめぞうのことを知ってほしいです(1) / 30 : 経営(4) / 31 : 言葉の意味(2) / 32 : 漢字(6) / 33 : ヒーリング(3) / 34 : 所得税、返戻金、元本(1) / 35 : 控除(2) / 36 : 漢字(1) / 37 : 理科(3) / 38 : 歴史(1) / 39 : IT 情報技術(1) / 40 : 源泉所得税(1) / 41 : 真 副 対 、真 副 控(2) / 42 : 英語(1) / 43 : 利子と利息(1)  (全部で43のスレッドがあります)

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1 【感覚質】意識ハードプロブレム【クオリア】 (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 1
1名無しさん :2024/10/15(火) 12:58:51
★意識はやがて自己意識へと成る

ヘーゲルは、一義的に、「自己意識」を対象を意識している主体としての意識、という内容であると構想する。

もうひとつ、(「自己意識」を)同じ自己意識をもつ他人と関わり合う自己意識、という内容であると構想する。

意識はそれ自体、能動的な側面を担わない。意識では判別や分析が行われる中で、誤謬と誤解が齎される可能性も十分にある。

意識では対象について、冷静な判断ができず、対象を意識ではなく自己意識から見下ろす必要が出てくることを私はヒントであると断定した。

意識はクオリアと密接に関与していることは、脳科学者の茂木さんが考えている。

意識はやがて、同じ自己意識をもつ他人と関わり合う自己意識、と昇格することが考えられる。

(以下引用)――――――

自己意識のこのような理解の仕方は、デカルトやカントのようなヘーゲル以前の哲学者たちにはなかった。ヘーゲルは自己意識に新しい次元を加えることによって、人間の精神の働きを個人の狭い意識の範囲内に閉じ込めるのではなく、意識を他人との関わり合い、広い意味での社会的な関わり合いの中に置き、その場で人間の本質を明らかにしようとした。この社会的な自己意識を、ヘーゲルは個人とほぼ同義に使っている。だから、自己意識の共同体は、個人からなる共同体という意味で使われることになり、この個人が集まる共同体の生活の中にこそ、人間性の本質があることになる。

――――――

意識はクオリアに感覚質を還元していることも、ヒントであろう。

パー(仲間)、サー(敵)、シー(敵)、マー(敵)、という単語を意識は発信している。

仲間なんて求めない、そういう方には、サーやシー、あるいはマーという単語を意識から発信している。

逆に仲間が大事だと考えている方は、パー(仲間)という単語を意識から発信している。

2名無しさん :2025/06/04(水) 17:34:20
ヤー(ダメ)、という意識的発信もあれば、ポイ(仲間いい)という意識的発信もある。ポイポイ、ポイポイポイという意識的発信もある。

ケム(大丈夫)という意識的発信もある。カム(大丈夫なんだけどなぁーいさぁーむ)

その方の根底にある考え方が意識的に発信される。


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2 イマージュについて (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 2
1名無しさん :2025/05/07(水) 10:34:07
イマージュについて
2008-06-26 06:31:16 | エッセイ


 イマージュは、ベルクソン哲学の要のコトバであろう。イマージュは、言うまでもなく、英語のイメージであり、日本語としても通用している。この用語を常識的に理解しても、イマージュ論でさえある『物質と記憶』は読み解けない。この著作はもっとも難解な書として定評がある。
 とりあえず、手元のスタンダート仏和辞典のimageを引いてみる。(ちなみに、この語は女性名詞である。長いので、以下の引用は記述や項目の一部を省略した箇所がある。)

「①
(a)(水・鏡などに映った)姿・映像
(b)【光】像

(a) (絵や彫刻で表された)姿、彫像、肖像画
(b) 絵、版画
(c) 聖像、宗教画
(d)【映】(フィルムの)絵駒(こま)【テレビ】フレーム
(e) 似ていること、類似

(a) (心に浮かぶ)姿、心像、面影」

私たちが「イメージ」というコトバで捉えている内容と、若干ではあるが、相違しているのではないだろうか。広辞苑では、物足りないくらい、簡潔に説明されている。

「①心の中に思いうかべる像。心像 ②姿。形象。映像」

英語にも、もちろん、フランス語とスペルも同じ「imageイメージ」があるが、煩雑になるので英和辞典の説明は省略する。
仏和辞典と広辞苑のニュアンスの相違は、イマージュが水や鏡あるいはカメラに写し取った像というイメージが基本なの対して、後者は、「心像」と見なして、現実との関係が絶たれて、より観念化が進行しているように思われる。参照した英和辞典にもその傾向が窺われるが、詳しい英英辞典で調べない限り、フランス語と英語のイメージの相違を確言的に言うわけにはいかない。
実は、フランス語に詳しいとしても、必ずしも、ベルクソンのイマージュを正確に理解できるわけではない。フランスにおいてさえも、ベルクソンはイマージュというコトバの選択を間違えたのではないか、と言う向きがあると聞いている。
それくらいイマージュが難解であることを前提として、ベルクソン自身による「イマージュ」の説明を聞いてみよう。彼は自分でも説明し尽くせないと感じたのであろうか、どの文章を引用して良いか迷うほど語っているが、『物質と記憶』(合田正人・松本力訳・ちくま文庫)の始めのところでまず定義風に書いている。

「ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるなるような、最も漠然とした意味でのイマージュのことである」邦訳八頁

 視覚機能は完全であるにもかかわらず、赤子が外界と接して感じる、ものをものとして分別して、ものとして定着的に捉えられない、すべてが漠然と繋がっている印象であろう。私たちは、ある種の学習によって、物質としてのまとまりを明晰に見分けるのである。その未分明な霞んだような物質世界をとりあえずイマージュと呼んで良いのではないか。ある意味で、それは、人間を除いた、物質世界の真の有り様であろう。それをベルクソンは「私はイマージュの総体を物質と呼ぶ」(十五頁)と端的に言っている。

 続けてベルクソンは次のように書いている。極めて重要な文章であって、前述の引用と相まって初めて彼のイマージュ論の全貌が明らかとなる。

「他のイマージュと際立った対比を成すようなイマージュが一つある。私はそれを単に外部から諸知覚によって知るだけでなく、内部から諸感情によって知る。そのイマージュとは私の身体である」邦訳八頁

 「私の身体」という場合の「身体」に、ベルクソンは特権的な意味を与えている。「身体」は物質であり、従って、物質としてのイマージュである。ところが、「私の」という限定された、「私の身体」は物質であるには違いないが、自分の感情の源泉であり、その感情によって常に彩られていて、外界である物質世界に属しながら、特種な地位、ベルクソン流に言えば特権的な位置にあると言えよう。誰でもが想像がつくように、「私の身体」は物質世界と感情=精神が遭遇する特種なイマージュの場なのである。
 すでに、自分の身体でありながら、自分の思うようにならない性欲について前にふれたが、その葛藤自体が、そのイマージュの有り様であると言えよう。人は、ある意味で、青春時代に自らの物質性をどのような形であれ、集中的な形で、学ぶのだ。

「一方は科学に属する体系で、そこでは、おのおののイマージュは自分自身とのみ関係づけられて絶対値を維持しているのだが、それに対して、他方の体系は意識の世界そのものであって、そこでは、すべてのイマージュが、われわれの身体という中心的イマージュに則り、この身体の諸変化に付き従っている」邦訳二一頁

2名無しさん :2025/05/07(水) 10:35:11
ベルクソンの主要な研究課題である〈物質〉と〈精神〉の関係を、観念論や実在論(おそらく唯物論も含まれるであろう)そして、二元論を超えて考究しようとした書が『物質と記憶』であって、四つの主著の中でも、理論的な意味で、中心を占めていると言えよう。 「私の身体」は、ベルクソン的理論的な考究のための竈であり、レトルトである。
 彼の方法は、発生に遡ることとすでに私は書いた。彼のあらゆる哲学的な研究は、対立に先立つ分岐点に立つことをモットーとしている。精神と物質の二元論的な対立を、その分岐以前の始原に遡る。
イマージュもまた、精神と物質という明晰な領土分けに先立つ概念である。ベルクソンも指摘するように、私たち生活人は、哲学者のように常に精神と物質に分別して決着をつけて考えている訳ではない。イマージュの観点は、常識人の観点でもあるのだ。まず、私たちは、行動するための利便のために物質の性質を研究し、その精神作用として考究するのであって、考えることが面白いからではない。少なくても、人間の知性は、実践的な行動のために、長い年月をかけて開発された能力であろう。
ベルクソンは、こんなことも書いている。
「イマージュは知覚されることなく存在することができる。イマージュは、表象されることなく現存することができる」邦訳三五頁
ここでベルクソンは、知覚対象が失われても、心の中に心像としてイマージュが残るとか、コトバで表されなくてもイマージュは残るなどと言っているのでもないと思われる。そうではなく、彼は、イマージュが、はっきりとした知覚の前に漠然とした世界の反映、つまり、辞書的な意味で、鏡像的な性格を持つことを強調しているのではないか。さらにイマージュの語源には〈動き〉の意味があって、揺れていて定かでないものの含意がある。彼の哲学が〈不動のもの〉ではなく〈動くもの〉に基礎を置くことを忘れてはなるまい。物理世界の正確な反映である純粋知覚は、個々の人間の具体的な知覚を超えており〈物質〉と〈精神〉の橋渡し的役割を果たすべき概念なのであろう。
しかし、私は疑っている。イマージュは哲学的な考究のためにベルクソンが仕組んだ布石的な概念であって、「純粋知覚」と同様に、現実的には存在しない幻ではないかと。
例えば、知覚は必ず記憶によって歪められている。過去の記憶や体験と切り離された知覚は存在しない。イマージュもまた、「漠然とした」ものであれ、見えるからには、記憶と無縁ではない。「純粋記憶」や「純粋持続」の「純粋」にも同様の匂いがする。ベルクソンの「純粋」という用語には、すべて〈イデア=理想〉の匂いがする。
ただ、この布石の理論的な意味は大きい。それこそ、ベルクソン哲学の要石だと私は考えている。次回は、なぜ、そうした布石が必要なのかを考えたい。


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3 英語 (Res:4)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 3
1えな :2015/10/06(火) 18:02:31
★ブース
小さく仕切った空間。例、語学教室の仕切り席、見本市会場の一区画、有料道路の料金所。

★フレッシュ. fresh. 英語で「新鮮な」という意味。例:「フレッシュマン」(新人、新社会人のこと)

フレッシュな感じ(新鮮な感じ)

★シンフォニーの用語解説 - 1 交響曲。2 いろいろの異なった要素がまじり合って、ある効果を生み出しているたとえ

★フェースツーフェース【face-to-face】とは。★面と向かって行うこと。 直接に行うこと

★デッドスペースの用語解説 - 家の中などの、利用できない空間。

★アウトソースとは?日本語表現辞典。 業務の一部を、他の業者などに業務委託すること。 アウトソーシング。

モデルケースの用語解説 -
標準・典型となるような事例。

シュプレヒコール
1 舞台で、一つのせりふを多人数が声をそろえて朗誦すること。2 集会やデモなどで、参加者がいっせいにスローガンを唱えること。「―が起こる」

(pessimist)     悲観論者
(optimist)     楽観主義者

★ギャラリー(英: Gallery). ギャラリー (美術) - 美術品を展示する施設。画廊。 回廊形式の建築。

デスクトップパソコン

2えな :2015/10/11(日) 19:26:03
★デッドスペースの用語解説 - 家の中などの、利用できない空間。

MCの用語解説 - 《master of ceremonies》司会者。進行係。式場係。 また、転じて、ロックコンサートなどで、曲と曲の間での演奏者のおしゃべり。

カリキュラムの用語解説 - 教育内容を学習段階に応じて配列したもの。教育課程。

シラバス (Syllabus) とは、日本では講義・授業の大まかな学習計画のこと。

シンポジウムとは、一つの問題について何人かが異なる面から意見を述べ合い、質疑応答をくりかえす形の討論会。

ファンダメンタル(fundamental)とは、経済用語で「基礎的事項」の意味である。

タスクフォース(task force)とは、軍隊で、任務(タスク)のために編成された部隊のこと。 これから一般化して、軍隊に限らず、具体的な特定の目的のために一時的に編成される部局や組織のこと。 タスクと略すこともある。

ラフ原稿とは、大まかな構想図案のこと
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


3名無しさん :2025/04/17(木) 10:33:20
2019-03-29 19:04:09 | 日記
ある僧が犬(成犬)を怖がった。 A monk feared an adult dog.
しかし、ある日、彼は子犬を怖がって、逃げた。 However, one day, he feared a puppy and ran away.
友人が彼にたずねた。「ただの子犬だ。君は怖がる必要がない。」 His friend asked him, "It was only a puppy. You didn't need to fear it."
その僧が答えた。「近くに親犬がいたに違いない。だから逃げた。」 The monk replied, "There must have been its parental dog nearby. Therefore, I ran away."

《感想》この僧は、よほど犬(成犬)が怖いのだ。もちろん子犬は、小さいし怖くない。しかし近くに親犬(成犬)がいる可能性がある。だから僧は逃げた。「石橋をたたいてわたる」人だ。用心に越したことはない。「取り越し苦労」かもしれないが・・・・。


4名無しさん :2025/04/17(木) 11:03:01
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』第3章「後期フッサール」C「相互主観性」20「他者の経験」(その3):「異他的主観」は「私の直接的経験」から逃れ、それゆえに「他者として経験される」!
2025-04-10 13:48:44 | 日記
※第3章「後期フッサール 時間・身体・相互主観性・生世界」C「相互主観性」20「他者の経験」
※ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』(初刊2003)、工藤和男・中村拓也訳、晃洋書房(2017年新装版)
(30)-4 「異他的主観」(他者)は「私の『直接的』経験」から逃れる!それゆえに彼あるいは彼女はまったく「他者として経験される」!
★私は「他者」を「経験」するのであって、単なる「推論」に関係するのでない。(172頁)
☆とは言え、「異他的主観」(他者)は「私の『直接的』経験」から逃れる。それゆえに彼あるいは彼女はまったく「他者として経験される」。(172頁)
☆フッサールは「他者が経験されている」と言うが、「他者」はまさしく「主観的接近不可能性」において「経験」されている。(173頁)
☆すなわち「主観-主観関係」は「非対称性」を含む。(173頁)

★フッサールは「私が他者を構成する時に、他者を創造も、発明も、産出もしていない」と言う。もしこう言えなかったなら、それは「異他的主観性の否定」を含意し、フッサールは「独我論を逃れることはできなかった」ろう。(174頁)
《参考》いったい「構成」とは何か?「構成」とは「顕現」(※「現出」)と「有意味性」を可能にする過程である。すなわち「構成」とは、「構成されたもの」があるがままに「現出」、「展開」、「分節化」し、「自らを示す」ということを許す過程だ。ハイデガーは言う。「構成すること」は「作る」とか「製作する」という意味での「産出する」ことではない。「構成すること」は「存在者をその対象性において見えさせること」だ。(110頁)


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4 【論考】 (Res:24)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 4
1名無しさん :2024/09/24(火) 18:40:54
本スレッドではあるがままに書き記そうと考えています。

──────
★神様は乗り越えられない試練を与えない、否か

神様は乗り越えられない試練を与えるでしょうか。
たとえば会社で仕事量が山積みになり、「面倒くさいなあ」と思うとき、「でもやんなきゃな」と思うはずです。

試練は乗り越えられないとは限りません。乗り越えられる試練を与えられているのでしょう。

私たちは、少しできた程度で、試練と呼ぶであろう出来事と対峙します。

その少しできたけど、頑張ってもっとできた、それが試練を乗り越えたときでしょう。

試練には有り難いと承知して臨みたいものです。少しできた程度で辞めてしまうのが残念なところなのです。

私たちは試練を乗り越えたときの喜びを噛み締めたい、そして、その噛み締めた内容により幾ばくかの自信に繋がるのだと思います。

自信を付けて成功する癖を付けましょう。

18名無しさん :2024/10/18(金) 11:48:36
★独我論からの解放 part4

独我論に関するお話だが、こんなにもたくさんの生命体や物を作ったのはどうしてだろうか。神様はそんなにたくさんの物を作りたかったのであろうか。

生命体はたくさんいる、としても自分の観測しているところくらいしか事象はない、と考えているのだろうか。

「東京はない」とする思考は、東京があるように見えるだけで、実はない、という考え方だ。

ネット上の文章も本に書かれた文章も、全部自分が書いた、とする独我論もあるであろう。しかしそんなに文章を書いたということは非現実的なのではないだろうか。

神様は会話文をなぜそんなに作ったのであろうか。会話文を作ったと思っている独我論者は、テレビを見たがらない傾向にある。テレビで色々会話文が流れることが、自分で作ったと頷けないからであろう。

神様は独我論においてはひとりだけであろう。しかし2人で作った、という考え方もあるではないか。アダムが自分で、イブがパートナーだ、という考え方もあるであろう。そして、3人で作ったという考え方もあるのに、世界には1人だけしかいないと考えるのはなぜだろうか。


19名無しさん :2024/10/23(水) 12:52:19
★独我論からの解放 part5

神様が自分自身であるというのに、なぜこんな目に遭うのだろうか、と思う事柄がある。神なのに自分の持ち物がなくなったり、こんな微妙な待遇をされたりと、不満な出来事をなぜ抱えていなければならないのか。神なのに、神は神自身を痛めつけ、苦しむ経験をさせたかったのだ、ということも考えるであろう。いっぽう、運がよいと思える出来事が起きたときは、私がその現実を齎したのだ、と嬉しがるであろう。神は神自身にご褒美を齎した、と考えるからこそ、神は調子に乗ってしまう。そして、神にもしくじりがあるというように、神はしくじってしまう。不満な出来事からは何かしら学べると思いたいが、結局のところ肯定できはしない出来事と直面している。それでも神は肯定できない現実を敢えて齎した、あるいはいつか肯定できるはず、と期待するであろう。私たちに神の思想は伝わりにくいものかもしれない。自分を神と思っている独我論者は毎日自分が世界を作ったと思ったり毎日ありとあらゆる出来事を自分が齎したと思っている。そのすべての出来事を過去世に築き上げたと考えている。いっぽう、私たち一般市民は、世界を作ったと思う訳がないと思っている。そして一般市民といっても様々な宗派に分かれている。キリスト教においては、イエス・キリストが世界を創造したと語られる。今現代、仏教においては、輪廻転生を否定せず、輪廻転生はあり得る、と語られている。その輪廻転生や私たちの暮らしを創造主のせいにしなくとも、いや、創造主のせいにするはずもなく、輪廻転生は自然に発生したと私たちは考えるであろう。私たちの暮らしは、創造主のせいにする者もいるが、しかしいっぽうにおいては、創造主のせいにせず、自然や一般市民自身のせいにすることが容易に考えられる。私たちは、自転車や自動車で行動していくものであるが、自動車においては自分が自動車を自発的に運転した、と認識するはずである。その一面において言うならば、創造主が自動車を運転をさせたのではなく、自分自身のせいで運転した、という消息であろう。この自動車運転の真偽も「創造主による様々な干渉」も考えられるが、創造主による干渉と判断しない一例として、自動車の運転が考えられる。自動車は創造主が運転させた場合も考えられるが、この世界の多くの自動車の運転行為は、各個人の責任であったことであろう。これが間違いだとするならば、私は創造主の存在を気にするはずであろう。しかしながら自動車の運転は自分のせいだと知っている者もいることから、自動車の運転のほとんどが各自身のせいだったのではないではないだろうか。私は「知っていることを頼りにする手がある」と思って暮らしているが、嘘だと思う話なら真偽を確かにしてみよ、と思っている。そこで、創造主は存在していたか、その焦点を述べるつもりである。創造主は存在していなかった、と知っている者もいると私は考えているとおり、創造主は存在していなかったと発言する者もいた。そして、創造主が存在していない、と知っている者もいると私は考えているとおり、創造主は存在していないと発言する者もいた。しかしこれでは信憑性に欠けるであろうか。神はいないと知っている者が4000名いると私は知っている、これでどうだろうか。この知っていると主張したい事柄がある際、その知っているという考え方は、誤知であってはならない。誤知とは間違えた認識であり、もし誤知だとするなら、嘘を描いていると言えよう。しかし知っていることを知っている、という事態もある。創造主が存在していなかったと知っていることを知っている、という事態もあり得るであろう。この場合、創造主がいなかったことを匂わせている。


20名無しさん :2024/10/23(水) 18:07:00
★独我論からの解放 part6

神が何故こんな目に遭わせるのか、と思う事柄があるという説は書いたが、具体的に遭っていた内容はどのようなものなのだろうか。自転車を運転中に、何らかの拍子で転んだ、ということはいかがだろうか。自転車から転んだときの痛さはこんなものだ、と思い知ったから好しとするであろうか。また、自転車から転ぶことが恐怖になって、あるいはトラウマになってよくないであろうか。自転車から転落することは決してわるいとは限らないが、身体を怪我してしまって微妙である可能性がある。私たちは自転車を運転するときは注意しているはずだが、わざと転ぶのも微妙であろう。他には、自動車の交通事故である。車を運転中に交通事故になることは、よくありそうな出来事である。交通事故に遭った者の中には、神を恨む者もいたであろう。また、自動車が破損して、大変な目に遭った方もおられるであろう。神はなぜ自動車交通事故に遭わせたのか、と疑問に思う方もいられるであろう。また、地震によって甚大な被害に遭った方もいるであろう。神はなぜ地震による被害を設けたのか、と疑問に思う方もいらっしゃるであろう。原子力発電所が爆発したことは記憶にある方も存在しているであろう。神はなぜ原子力発電所を爆発させたのであろうか、と疑問に思う方も実在しているであろう。田原総一朗という政治家は、「神様は悪戯好きですよ」と言ったが、神様は悪戯で地震や災害を起こしたのであろうか。もしそうだとしたなら神様は性格が悪い、あるいは意地悪ではないか。神様は地震を齎したことを思うと残念な気持ちになるではないか。火山が爆発することもないとは限らない。火山をコントロールしているのは神様なのであろうか。天気予報が外れるように仕向けるのも神様のせいなのであろうか。神様は私たちに何をプレゼントしたかったのだろうか。愛のある温和な家庭の建設や大企業の設立も神様の仕業なのだろうか。私たちは神様に関する問いかけにおいて疑問解消の区別をつけるべく知る一歩を踏み出してみるべきだろうか。そこで知ったことを書きたい。私は、地震は神様が起こしてないと知った場合があった。原子力発電所を爆発させたのは人工的な理由があった。神様は原子力発電所を爆発させてないと知った。火山は神様が爆発させてないと知った。火山は神様がコントロールしてない、とか、神様は火山をコントロールしていた、とは知れなかった。温和な家庭の建設を目指していたとは知れなかった。神様は意地悪だと知っていた。神様が性格が悪いと知っていた。神様といえば私も神様と言われることがあるが、私は意地悪でもなく、性格が悪いわけでもない。創造主は火山をコントロールしていなかったとも知った。私は創造主が火山と関わりを持たなかったと考え、すべてを作った者はいなかったとも考えている。殺人事件を神様は齎さなかったとも知っている。殺人事件は創造主は齎さなかったとは知れなかった。火山と創造主においては知れなかった事柄が浮上した。


21名無しさん :2024/10/24(木) 18:39:10
★独我論からの解放 part7

ネットには様々な文章で溢れかえっているが、神はネット上の文章すべてを築いたのでしょうか。サイトも無数にあるというのに、どうやって築いたのであろうか。細かく考えていくと、やはり無理が生じているように思われる。ネット上に書き込んだ内容のすべてを築いたのには多大なる年月がかかるたろうが、神にはそんなことはできていないと私は考える。lineにおける会話文やイニシャルも、どれもかれも作っていないと私は考える。神が作ったと思ったとしてもそんなに会話文を仕掛けるところが疑問であり、すなわち会話文を仕掛けたいなか考えても、仕掛けること自体不思議に思える。どうしてそんなに会話文を作ったのか、誰も答えられないではないか。ということは、誰も会話文すべてを作ったとは言い切れない。そして、あらゆる微生物が存在すること自体、不思議でならない。微生物を作ったという事象、そして微生物を配置したこと、それらは絵空事ではないだろうか。髪の毛を作った方法は、まだ解明されていないが、神は髪の毛を一本一本作ったとは言い切れないであろう。神は髪の毛は創造できなかったと考えた方が理に叶うのではないだろうか。車やバイクをひとつひとつ作ってはいないとも私は考える。人形や服装に関する物を神はひとつひとつ作ってはいないとも考えられるではないか。バキュームカーは誰も作ってはいないとも知っている者もいるではないか。眼は作っていないのではないかと考える者もいるし、眼は作っていないと知っている者もいるではないか。神は世界を作っていなかった、それが見いだせればいいのである。神は世界を作っていないとしてひとまず話の矛先を変えてみよう。神は何を作ったと考えるか、に関するお話である。

……あれ?見つからなかった……でもあった……文章である、様々な文章である、本とかなら作ったと考えられるであろう。


22名無しさん :2024/10/25(金) 16:40:09
★独我論からの解放 part8

私たちは神がいたと仮定して、神は何を作ったと考えるか、という命題がここに表れる。この消息においては、文章を書いたことが挙げられた。LINEにおける文章や本屋で販売される本に書いてある文章は神が付け加えたのではないか。また、ネット上の文章を見てみると、神が付け加えた文章もあるではないか。メールの交換も神が意図的に発信させたのではないか、というはこびがある。私たちは田んぼを開拓しないかもしれない。しかし神は田んぼをちゃんと作れるのではないか。ガソリンスタンドで給油を上手くさせることもできるのてはないか。山に関して言えばゼウスが森林を燃やしていると言われているではないか。「山林を燃やしたい」、という言葉の意味は、「ゼウスいい」という意味があり、これは女子語の美学に相当する。「森林を燃やす」という言葉の意味は、これも「ゼウスいい」という意味である。そうしたゼウスが醍醐味とする女子語の美学があるからこそ、ゼウスは森林を燃やすという行為に手が及ぶのではないか、と私は考えるのだ。「燃やす」という言葉の意味は、「ゼウス神」という意味がある。何かを燃やすことに必死になっているこのゼウスさんは、森林を燃やしてしまうほどの能力があると私たちは考えられる。ヨーロッパの森林を燃やすその行為だけでなく、森林を切ったり破壊したりしているといった話も聞いている。最近は一念を込めて自殺して、その後幽霊が現れたと見受けられる。幽霊が自殺したら次は別の幽霊が現れたのだと考える。さて、ゼウスは神なのだろうか。いいや、ギリシャ神話に出てくるゼウスと同名だからといって、神と認定するのは早計であろう。ゼウスは森林を燃やす能力があれど、理性が足りていないのだ。ゼウスは燃やすことを是としているのだろうが、森林を燃やすことは倫理的に間違いである。


23名無しさん :2024/11/17(日) 13:03:14
★独我論からの解放 part9

独我論に入るタイミングとはどのようなタイミングでしょうか。言葉の意味が考えるよりも前から配偶されていたのを確認して、自分が意味を作ったとする考え方があります。世界生誕の際に自分が意味を作ったという考え方です。しかし意味を作ったというデータはありません。自分が自分がばかりで自己中心になっている独我論者がいます。こんなに言葉の意味がデータにあることについて、自分が遥か昔の神のときに行った事柄を原因としていると考える者が独我論者です。自分がデータを作った、そして夢を見ているのかは、自分の行動が原因であり、見ている夢は当然自分が作ったデータである、と考える者が独我論者です。睡眠時の夢は私は誰のせいかとは思いません。独我論者は睡眠時の夢も実生活で見ている夢も自分が原因だと考えるのです。自分が原宇宙のときに来世でこんなふうに夢を見るように築き上げたと考えるのです。

この現実は夢なんだ、dreamなんだ、という考え方があります。自分がどこで終わるかわからない、そんな夢では嫌でしょう。どこまでも生き続けたいのが神思想を担っている者です。独我論者はいつか終わる夢より、永久に続く夢を体験したいですよね。独我論者はエッチに興味を持ちます。エッチをする未来を描いて離そうとしません。しかしレイプはいけません。レイプは犯罪です。エッチもレイプならしてはいけません。


24名無しさん :2025/04/11(金) 10:24:54
★独我論からの解放part10

自分自身を神と思えど仏もいるかもしれない。神が自分であっても仏だって世界創世に関与しているかもしれない。

神は一つだけではないかも知れない。神はGodであっても他の誰かもGodであるかも知れない。自分一つだけで他者と協力もせず世界を創造することは想像できるかもしれないが、他者と協力していたという観念も懸念される。

神が自分でも他者も神であって協力していた神同士があったという観念も懸念される。神と仏が世界創世に協力していたのかもしれない。一つの神が独りよがりにこの世界を作ったのであろうか。神は協力することも考えていたのであろうか。


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5 運・ツキの名言 (Res:5)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 5
1名無しさん :2024/11/05(火) 12:27:20

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1.
(自分が)選んだ道は、自分で幸運の道にしてやると思えばいい。
( 高橋がなり )

自分の目指す道を貫き、幸運を手にいれたいものです。大丈夫、何とかなるさ。

2名無しさん :2024/11/05(火) 12:29:02
2.
やるかやらないか、
違いはそれだけ、
迷わずやるだけ、
あとは運まかせ。
( 小椋佳 )

やることから始めてもいいかもしれませんね。

3.
自分の運を信じな。
みんな自分の運を信じないから、右に左にと迷う。
( 高橋がなり )

自分は運がいいんだと思って生きましょう。


3名無しさん :2024/11/05(火) 12:30:15
4.
何くそと、逆境や不運に辛抱している時、人は体をかがめ、次の跳躍のためのエネルギーを蓄えているのだ。
あとは、そのエネルギーを一気に解放し、目標を実現するだけである。
( ながれおとや )

エネルギーをマイナスなものとして蓄えないようにして、頑張るだけですよ。


4名無しさん :2024/11/06(水) 10:29:53
5.
いつか幸運が訪れることを期待して、
努力を続け、
ボールを打ち続けなさい。
( ボビー・ジョーンズ )

努力を続けること、それが基本ですね。

6.
「不幸や不運には必ず意味がある」とでも思わなきゃ、人間やってられない。
( ながれおとや )

自分の過去の不幸を肯定しましょう。しかし悪意を抱くような真似はしない。

7.
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


5名無しさん :2025/01/29(水) 13:39:48
21.
強く願えば夢は実現する。
他のことをすべて犠牲にする覚悟があれば、
人生で叶わない夢はない。
( ジェームス・バリー )

夢を叶えましょう。


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6 読書の美学 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 6
1名無しさん :2025/01/07(火) 09:48:46
★読書の作法

スピードを速く読書をすることも面白いと思うかもしれないが、精読することが大事である。

ゆっくり文章を吟味して読み進めることが大切である。

文章を読んだ実績のおおむねは、自分にかえって来る。

抽象的な思考をした成果として、文章を書くことの柔軟性が付くことがある。

他の人たちが速く読んでいると思っても、実は普通だったりする。

焦って本を読まないで、急がないで、着実に本を読もう。

本を読むと頭が良くなる、というケースは少なくない。

本を丁寧に読んでいけば、きっと何かしら実になるであろう。

読書をしてスキルを付けて、書評も書くといいであろう。

書評を書くことで、自分の考えがまとめられるであろう。

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7 【人格分裂】人格論【人格形成】 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 7
1名無しさん :2024/12/26(木) 13:51:32
★人格の形成

幼い頃から「優しい子だね」と言われて育つと優しい存在になるのは本当らしい。

明るいねえ、よく喋るねえ、と褒められると生長するのが私たち人民ですね。

イジメに遭うと人格を曲げてしまう存在もいらっしゃいます。

人格を適格値まで持っていくのに、躾、というものがあります。

身を美しくする、と書いて「躾」です。

躾をされると人格が素晴らしくなったりするものです。

誰かに教えられるということは辛いかもしれないけれど、躾は忘れてはならないのです。

誰かに躾されるのは怖いかもしれないけれど、躾をされると自分が磨かれるものです。

何も言われなくなったら終わりだよ、とは言いますが、躾されてなんぼですよね。

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8 【差別】やわらかに【主義者】 (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 8
1名無しさん :2024/10/28(月) 17:13:28
障害者というワード、一度は聞いたことがあるかと思います。

ダウン症の障害者の方は、顔にダウン症のような形跡を持っています。

彼らを差別することは、悪いことなのでしょうか。

ダウン症の方にも働きたい方は多数おり、現に職場で働いているダウン症の方はいらっしゃいます。

ダウン症の方はAという仕事をする、そして健常者の方はBという仕事をする、というように差をつけることは大事なことなのではないでしょうか。

ダウン症の方は一生懸命に生きていることが多く、頑張っているように見受けられます。また、仕事における努力も率先して取り組んでいます。

障害者の方は差別されたいとは考えていませんが、障害者の方ために差別というありかたで援助してあげる、そうした考え方もあるかと思います。障害者年金という大事な一点があるように、障害者の方は差別されて受給しています。障害者の方が生きやすいように、私たちは気を配っていきたいものです。

2名無しさん :2024/12/15(日) 21:41:40
★差別と個性

差別されるアフリカの難民が多いことで残念に思います。うんこさんだから食事はしないという風にうんこさんだから食べないから食費はかからないというのが現実です。うんこさんは幸運なことに食事をしなくても生きていけるはずです。

うんこさんにも個性があります。例えばうんこさんは強かったり可愛かったりするかと思います。うんこさんは差別されることを嫌います。うんこさんはキスをするとうんこが口に付いて微妙と考えます。でも差別してはならない。彼らも自分自身がうんこさんであることに悩んでいるケースが多々あります。差別されずに傷つかないで生きてほしい。


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9 デュエル・マスターズ (Res:6)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 9
1名無しさん :2024/09/22(日) 18:50:33
今日は一回戦敗け

ドリームメイトデッキが相手で、メイ様が出て7体も並んで、メイ様の効果でゲームで相手が勝った。

◯ビキくん、強いね

2名無しさん :2024/09/29(日) 18:32:54
今日は3回戦負け

普通の白赤に勝ち

5色に勝ち

ドリームメイトデッキに敗けた。

ドリームメイトは2マナ目が大事。

そこで出すと勝てる割合が高い。


3名無しさん :2024/10/09(水) 10:34:52
10月6日は一回戦敗け

白赤ドラゴンに敗けました。

「頂上連結 ロッド・ゾージア5th」を出され、

その後コスト7のドラゴンを展開されました。

トップで強いカードを連続して出す強みがありました。(強いドラゴンを連続で出すこの方)

この方の兄弟(姉)に出会いました。(今日)


4名無しさん :2024/10/28(月) 09:20:55
★10月27日は1回戦敗け

5Cコントロールが1回戦の相手のデッキ。馬さんだった。

先行取られデドダムを出されまずい感じに。ブレインスラッシュで3枚引いた後、グレイトフルベンを出され墓地のカードをマナに置かれる……次は優勝するぞ。


5名無しさん :2024/11/10(日) 16:39:55
★11月10日は一回戦敗け

ジャビビル、アビスで圧倒された。

闇緑デッキだった。

ペルフェクト使えるか?


6名無しさん :2024/12/15(日) 13:17:53
★零文明で出た (アドバンス採用の大会)

相手。バロムの章改造の方(フットボールアワーの兄である三男)のはずが、村岡さんが代わって対戦した。

一回戦敗けでした。


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10 【トラベル】~~第二講座~~ (Res:27)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 10
1名無しさん :2024/11/26(火) 10:17:35
1.13 論理的空間内の全事実が世界だ。

1.2 世界は諸事実に分解する。

1.21 ひとつのことがらは、その他の総ては同じままに、あるいは成り立ちあるいは成り立たないことがあり得る。

2 成り立っていることがら、事実は諸事態の存立〔das Bestehen〕だ。
2.01 事態は諸対象(諸事物、諸々のもの)の結びつきだ。
2.011 ものにとって何らかの事態の成分になり得ることは本質的だ。
2.012 論理においては何も偶然的ではない。ひとつのものがひとつの事態に現われ得るならば、当の事態の可能性はそのものにおいて予め定められているはずなのだ。

世界は諸事実に分解する。、とはてきとうに書いたものであるという。1.21では、成り立つこととと不成立のことがたしかにあり得るという文脈である。

2では、成り立っていることがら、事実は諸事態の存立だ。、というのも上手い書き方である。

諸事態の存立=成立=事実、という考え方であるようにも見受けられる。

2.01にある「事態は~~結びつきだ。」というのはてきとうに書いたらしい。

2.011における「ものにとって何らかの~~本質的だ。」というのはてきとうであるという。

私はウィトゲンシュタインがてきとうに書いたことを、許せない気持ちとして湧いてきた。

てきとうに書いた作品が他にもあるという現実に、ウィトだけではないのだから、と慈悲を出そうと思った。

ーーーーーー

2.0121 もっぱら単独で存立し得るものに、あとから何らかの状況が当てはまったならば、それはあたかも偶然のように見えることだろう。
どんなものでも、それが何らかの事態に現われ得るならば、そのことはとうにそのもののうちに在るはずだ。
(論理的なことがらはただ可能なだけではあり得ない。論理はあらゆる可能性を扱い、総ての可能性は論理の事実だ。)
そもそも空間的対象を空間の外に、時間的対象を時間の外に考えることなどできないように、我々はどんな対象も他の諸対象との結びつきの可能性の外に考えることはできない。
ひとつの対象をひとつの事態の脈絡において考えることができるとき、私はそれを当の脈絡の可能性の外に考えることはできない。

この「~~外に考えることはできない」という書き方もてきとうであるらしい。

21名無しさん :2024/12/03(火) 09:31:55
6.121 論理の文は、諸文を結びつけて内容の無い文にすることによって、それらの論理的属性をデモンストレートする。
この方法をひとは零位法〔eine Nullmethode〕と呼ぶこともできるだろう。ひとつの論理的文において、諸文は互いに平衡にされ、そして、その平衡状態が、それらの文が論理的にどんな状態にあるはずかを呈示する。
6.122 このことから、我々は論理的文など無しにも済まし得ることが判明する。我々は、適当な表記法において、諸文の形式的属性を当の諸文の単なる外観を通じて認識することができるのだから。
6.1221 例えば、ふたつの文「p 」と「q 」が「p ⊃ q 」という結びつきでトートロジーになるならば、q が p から帰結することは明らかだ。
例えば、「q 」が「p ⊃ q . p 」から帰結することを、我々は両文そのものから察知するが、それを、我々は、また、それらの文を結びつけて「p ⊃ q . p : ⊃ : q 」とし、そして、これがトートロジーであることを示すことによっても、示すことができる。
6.1222 このことは、論理的文全般が経験によって反証され得ないのと同様確証もされ得ないのは何故か、という問いに光を投じる。論理の文は、どんな可能的経験によっても反証され得てはならないばかりか、そうした経験によって確証され得てもならない。
6.1223 いまや、「論理的真理」全般が我々によって「要請」されなければならないかのようにひとがしばしば感じたのは何故かが明らかになる。我々は、十分な表記法を要請し得る限りにおいて、論理的真理全般を要請し得るのだ。
6.1224 また、どうして論理学が形式の、そして推論の学と呼ばれることになったのかも明らかになる。
6.123 ひとつの論理法則そのものがまた何らかの論理法則に従属してはならないことは明らかだ。
(それぞれの「タイプ」にラッセルが考えたように固有の矛盾律が存在する訳ではない。矛盾律は、それ自体には適用されないのだから、ひとつで足りる。)

6.1231 一般的妥当性は論理的文の徴ではない。
一般的であるとは、たまたま総てのものに当てはまることを意味するに過ぎないのだ。一般化されていない文は一般化されている文と全く同様にトートロジカルであり得る。
6.1232 論理的な一般的妥当性を、ひとは、例えば「総ての人間は死ぬべきさだめにある」のような偶然的なものと対照的に、本質的と言うことができるだろう。ラッセルの「還元公理」のような文は論理的文ではない。そして、このことは、そうした文は、真だとしても、もっぱら都合のいい偶然によって真であり得ているだけなのではないか、という我々の感じを説明する。
6.1233 還元公理が通用しないような世界は考えられ得る。だが、論理は我々の世界が実際そうであるか否かという問いには何の関わりもないことは明らかだ。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


22名無しさん :2024/12/10(火) 10:17:58
6.125 最初から総ての「真である」論理的文の何らかの記述を与えることは可能だ。しかも、論理の旧い解釈に随ってさえ。
6.1251 だから、論理においてはまた思いがけないことなど決して起り得ない。
6.126 或る文が論理に属すかどうかを、ひとは、当のシンボルの論理的諸属性を計算することで、計算することができる。
そして、それを我々は論理的文を「証明する」ときにおこなっている。我々は、意味や意義など気にかけること無く、ひとつの論理的文を他の諸論理的文から単なる諸記号規則に随って形成するのだから。
論理的文全般の証明は、我々がそれらの文を他の諸論理的文から或る種のオペレーションのサクセッシヴな適用によって生じさせる点に在る。はじめの諸トートロジーから繰り返しトートロジーを生み出すような、そんな諸オペレーションの。(しかも、ひとつのトートロジーからは諸トートロジーだけが帰結する。)
もちろん、論理の文全般がトートロジーであることを示すこの方法は、論理には全く非本質的だ。なにしろ、そこから証明がはじまる当の諸文は、証明無しでそれらがトートロジーであることを示さなければならないのだから。
6.1261 論理においてはプロセスと結果は同等だ。(だから、思いがけないことはひとつも無い。)

>>論理においてはプロセスと結果は同等だ。

プロセスと結果、という言葉の意味は、ウィトゲンシュタインいい、という意味がある。
ウィトは自分に都合のいい言葉を意図的に加工して述べているのではないか。

6.1262 論理における証明は、トートロジーの認識を、それが込み入っている場合でも容易にするための、メカニカルな補助手段に過ぎない。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


23名無しさん :2024/12/10(火) 10:41:23
6.21 数学の文は何の思考も表現しはしない。
6.211 我々が生活において必要とするのは、決して数学的文ではないのだ。我々は数学的文をもっぱら数学に属さない諸文から同じく数学に属さない諸文を推論するのに利用する。
(哲学において、「我々はそもそもあの語、あの文を何のために用いるのか」という問いは繰り返し貴重な洞察を齎す。)
6.22 論理の文全般がトートロジーの形をとって示す世界の論理を、数学は等式全般で示す。
6.23 ふたつの表現が等号で結びつけれらるとき、それは、それらが互いに置換可能なことを意味する。だが、それが成り立つかどうかは、両表現そのものに自ずと顕現するはずだ。
ふたつの表現が互いに置換可能なことは、それらの論理的形式を特徴づける。
6.231 ひとがそれを二重否定と解し得ることは、肯定の一属性だ。
ひとがそれを「(1 + 1) + (1 + 1)」と解し得ることは、「1 + 1 + 1 + 1」の一属性だ。
6.232 フレーゲは言う。これらふたつの表現は、同じ意義〔Bedeutung〕をもつが、相異なる意味〔Sinn〕をもつ、と。
等式で本質的なのは、だが、等号が結びつけるふたつの表現が同じ意義をもつことを示すのに当の等式は必要ではないということだ。それは両表現そのものから察知され得るのだから。
6.2321 そして、数学の文一般は証明され得るということが意味するのは、数学の文の正しさは、それが表現していることがらそのものがその正しさの点で事実と比較されるのを必要とすること無く、悟られ得るということに過ぎないのだ。
6.2322 ふたつの表現の意義の同一性は主張され得ない。というのは、それらの意義について何かを主張し得るためには、私はそれらの意義を知る必要があるが、それらの意義を知ることで、私はそれらが同じものを指すのかそれとも別々のものを指すのかを諒解するからだ。
6.2323 等式は、私がそこから当のふたつの表現を考察するその観点、つまり、それらの同義性という観点をマークするだけだ。
6.233 ひとは数学的問題一般の解決に直観を必要とするか、という問いに対しては、まさに言語がここで必要な直観を提供する、という答えが返されるはずだ。
6.2331 計算のプロセスこそがその直観をとりなす。
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24名無しさん :2024/12/10(火) 10:55:30
6.341 例えば、ニュートン力学は世界記述にひとつの統一的形式を提供する。不規則な黒い斑点のある白い平面を考えよう。そこで、我々はこう言う: どんな図柄がそれによって生じようと、当の平面を適当に細かい正方形の網で覆い、そして、それぞれの正方形について、それが白いのか黒いのかを述べることによって、私はその図柄の記述に望むだけ近づくことができる。私はこの方法によって件の平面の記述にひとつの統一的形式を与えおおすだろう。この形式は任意だ。三角形や六角形の目から成る網を同様の成功裡に用いることもできただろうから。三角網による記述の方が簡単にいったということもあり得る。つまり、我々は、件の平面を、細かい正方網よりも粗い三角網を使った方が正確に記述できた(あるいはその逆)等々ということも。別々の網には別々の世界記述のシステムが対応する。力学は、世界記述の文の総ては幾つかの所定の文――力学の諸公理――から或る所定の方法で得られるのでなければならない、と述べることで世界記述の一形式を規定する。それによって、力学は、科学的建築物の建設に資材を供給し、そしてこう言う: どんな建築物を建てるつもりにせよ、それをお前はもっぱらこれだけの資材でもってどうにかしなければならない。
(数のシステムによってあらゆる任意の数を書下すことができるように、ひとは力学のシステムによって物理学のあらゆる任意の文を書下すことができるはずだ。)
6.342 そして、いま、我々には論理と力学の相対的ポジションが見える。(ひとは件の網を例えば三角形と六角形からというように種々の図形から成るようにすることもできただろう。)先に述べられたような図柄が或る適当な形式の網によって記述され得ることは、当の図柄について何ごとも言明しはしない。(そのことはその種の図柄の何れについても当てはまるのだから。)だが、その図柄が特定の細かさをもつ特定の網によって完全に記述され得ること、これは当の図柄を特徴づける。
同様に、世界がニュートン力学によって記述され得ることは、世界について何ごとも言明しはしないが、しかし、世界がかの力学によってこのことがまさに成り立つとおりに記述され得ることは、世界を特徴づける。また、一方の力学によっての方が他方によってよりも世界は簡潔に記述され得るということも、世界についてなにがしかを述べている。


25名無しさん :2024/12/10(火) 11:35:44
6.343 力学は我々が世界記述に必要とする総ての真な文をひとつのプランに随って構成する企てだ。
6.3431 論理的機構全体を通じて、物理法則全般は世界の対象全般について語るのだ。
6.3432 我々は、力学による世界記述が恒に全く一般的であることを忘れてはならない。力学で話題にされるのは、例えば、特定の諸質点では決してなく、恒に不特定の諸質点ばかりだ。
6.35 我々の図柄における斑点は何れも幾何学的図形ではあるが、もちろん、幾何学はそれらの実際の形や位置については全く何も述べ得ない。件の網は、だが、純粋に幾何学的だ。その総ての属性はアプリオリに特定され得る。
根拠律等々のような法則は網を主題としている。網が記述するものをではない。
6.36 因果法則なるものが在ったならば、その内容はこうかも知れない: 「諸自然法則が存在する」。
だが、もちろん、ひとはそう言うことはできない。それは自ずと明らかになるのだ。
6.361 ヘルツの口吻でひとはこう言うかも知れない: ただ法則通りの聯関だけが思惟可能だ。
6.3611 我々はひとつのプロセスを「時の経過」と較べることなどできない――時の経過は存在しない。ただ何か別のプロセスと(例えばクロノメーターの動きと)較べ得るだけだ。
だから、時間的推移の記述は、もっぱら我々が何か別のプロセスに拠る限りにおいて可能だ。
全く同様のことが空間にも当てはまる。ひとが、例えば、ふたつの(両立しない)出来事について、他方でなく一方が起るべきどんな理由も存在しないのだからどちらも起り得ない、と言うとき、実際に問題になっているのは、どんな非対称性も存在しないならば、ひとはそれらふたつの出来事のうちのひとつを記述することなど全くできないということだ。そして、そのような非対称性が存在する場合、我々はそれを一方が現実のものとなり他方がならないことの理由と解し得る。
6.36111 カント流の右手と左手の問題、それらをひとは重ね合わし得ないという問題は、平面でも、それどころか一次元空間でも存立する。そこでは、a と b のようなふたつの合同な図形でさえ、当の空間の外へ動かされること無く重ね合わされることはあり得ない。

右手と左手は実は全く合同だ。しかし、そのこととひとがそれらを重ね合わし得ないことは何の関わりもない。
右手袋を四次元空間で回転させることができたならば、ひとはそれを左手に着け得ることだろう。
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26名無しさん :2024/12/10(火) 11:59:09
6.41 世界の意味は世界の外に在るはずだ。世界においては総ては在るがままに在り、生じるがままに生じる。世界の中には何の価値も存在しない――それに、存在したとしても、それは何の価値ももたないことだろう。
価値をもつ価値なるものが存在するならば、それは総ての生起と相在〔So-Seins〕の外に在るはずだ。総ての生起と相在は偶然的なのだから。
それを非偶然的にするものは、世界の中には在り得ない。在り得たとすれば、そのことはまた偶然的だろうから。
それは世界の外に在るはずだ。
6.42 したがって、倫理の文なども存在し得ない。
文は高次のものを何も表現し得ない。
6.421 倫理は言い表わされ得ないことは明らかだ。
倫理は超越論的だ。
(倫理と美学はひとつのものだ。)
6.422 「お前は ・ ・ ・ すべきだ」という形式の倫理法則を立てる際の最初の考えはこれだ: だが私がそれをしない場合には? しかし、倫理が通常の意味での罰および賞とは何の関わりもないことは明らかだ。だから、或る行為の諸帰結についてのこの問いは重要ではないはずだ。――少なくとも、そうした帰結は出来事であってはならない。件の問題設定にも何か正当なところはあるはずなのだから。たしかに、或る種の倫理的な罰や倫理的な賞は存在するには違いないが、しかし、それらは当の行為そのもののうちに在るはずだ。
(また、賞が何か好ましいことがらで、罰が好ましくないことがらである必要があることも明らかだ。)
6.423 倫理的なものの担い手としての意志は語られ得ない。
そして、現象としての意志はただ心理学の興味を惹くだけだ。
6.43 善き志なり悪しき志なりが世界を変えるにしても、それは、ただ世界の限界を変え得るだけであり、事実全般を変えることはできない。言語によって表現され得ることがらを変えることはできない。
要するに、世界は、そのときそれによって、そもそも別ものになるはずだ。世界は謂わば全体として減るか増えるかするはずだ。
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27名無しさん :2024/12/10(火) 11:59:57
6.5 言い表わし得ない答えについては、ひとは当の問いも言い表わし得ない。
当の謎は存在しない。
そもそも或る問いが立てられ得るならば、それはまた答えられ得る。
6.51 懐疑論は、それが問われ得ないことがらを疑おうとするのならば、論駁不能なのではなく、明らかにナンセンスだ。
というのは、懐疑は何らかの問いが存立する場合にもっぱら存立し得て、問いというものは何らかの答えが存立する場合に、そしてその答えは何ごとかが述べられ得る場合に、もっぱら存立し得るからだ。
6.52 我々は、たとえ総ての可能な科学的な問いが解答されても、我々の生の問題は全く触れられないままだと感じる。もちろん、そのときにはもう何の問いも残ってはいないのであり、そして、このことこそが答えだ。
6.521 生の問題の消失によって、ひとは当の問題の解決に気づく。
(或る種の人間、彼らにおいて生の意味が長い懐疑の末に明らかとなったような、そんなひとびとが、当の意味がどんな点に在るのかを述べることができなかったのは、このことに由るのではないか。)
6.522 それでも、言い表わし得ないことがらは存在する。このことは自ずと明らかになる。それが神秘だ。
6.53 哲学の正しい方法は本来こうだろう: 述べられ得ること以外は、したがって、自然科学の諸文以外は――したがって、哲学に何の関わりもないこと以外は――何も述べないこと、そして、他人が何か形而上学的なことを言おうとしたら、彼がそうした文における或る種の記号に何の意義も与えてはいなかったことを明らかにしてみせること。この方法はその者には満足がいかないことだろう――彼は我々が彼に哲学を教えているという感じをもたないことだろう――が、しかし、これが唯一厳正な方法だろう。
6.54 私の諸文は、私を理解する者が、それらを通じて――それらによって――それらの上へと昇ったあげく、それらがナンセンスだと認識すること、そのことを通じて解明する。(彼は、謂わば梯子を登ってしまってから、それを抛棄しなければならない。)
彼はこれらの文をのりこえなければならならず、そうすれば、彼は世界を正しく見て取る。
7 語り得ないことがらについては、ひとは黙らなければならない。


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