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イマージュについて

1名無しさん:2025/05/07(水) 10:34:07
イマージュについて
2008-06-26 06:31:16 | エッセイ


 イマージュは、ベルクソン哲学の要のコトバであろう。イマージュは、言うまでもなく、英語のイメージであり、日本語としても通用している。この用語を常識的に理解しても、イマージュ論でさえある『物質と記憶』は読み解けない。この著作はもっとも難解な書として定評がある。
 とりあえず、手元のスタンダート仏和辞典のimageを引いてみる。(ちなみに、この語は女性名詞である。長いので、以下の引用は記述や項目の一部を省略した箇所がある。)

「①
(a)(水・鏡などに映った)姿・映像
(b)【光】像

(a) (絵や彫刻で表された)姿、彫像、肖像画
(b) 絵、版画
(c) 聖像、宗教画
(d)【映】(フィルムの)絵駒(こま)【テレビ】フレーム
(e) 似ていること、類似

(a) (心に浮かぶ)姿、心像、面影」

私たちが「イメージ」というコトバで捉えている内容と、若干ではあるが、相違しているのではないだろうか。広辞苑では、物足りないくらい、簡潔に説明されている。

「①心の中に思いうかべる像。心像 ②姿。形象。映像」

英語にも、もちろん、フランス語とスペルも同じ「imageイメージ」があるが、煩雑になるので英和辞典の説明は省略する。
仏和辞典と広辞苑のニュアンスの相違は、イマージュが水や鏡あるいはカメラに写し取った像というイメージが基本なの対して、後者は、「心像」と見なして、現実との関係が絶たれて、より観念化が進行しているように思われる。参照した英和辞典にもその傾向が窺われるが、詳しい英英辞典で調べない限り、フランス語と英語のイメージの相違を確言的に言うわけにはいかない。
実は、フランス語に詳しいとしても、必ずしも、ベルクソンのイマージュを正確に理解できるわけではない。フランスにおいてさえも、ベルクソンはイマージュというコトバの選択を間違えたのではないか、と言う向きがあると聞いている。
それくらいイマージュが難解であることを前提として、ベルクソン自身による「イマージュ」の説明を聞いてみよう。彼は自分でも説明し尽くせないと感じたのであろうか、どの文章を引用して良いか迷うほど語っているが、『物質と記憶』(合田正人・松本力訳・ちくま文庫)の始めのところでまず定義風に書いている。

「ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるなるような、最も漠然とした意味でのイマージュのことである」邦訳八頁

 視覚機能は完全であるにもかかわらず、赤子が外界と接して感じる、ものをものとして分別して、ものとして定着的に捉えられない、すべてが漠然と繋がっている印象であろう。私たちは、ある種の学習によって、物質としてのまとまりを明晰に見分けるのである。その未分明な霞んだような物質世界をとりあえずイマージュと呼んで良いのではないか。ある意味で、それは、人間を除いた、物質世界の真の有り様であろう。それをベルクソンは「私はイマージュの総体を物質と呼ぶ」(十五頁)と端的に言っている。

 続けてベルクソンは次のように書いている。極めて重要な文章であって、前述の引用と相まって初めて彼のイマージュ論の全貌が明らかとなる。

「他のイマージュと際立った対比を成すようなイマージュが一つある。私はそれを単に外部から諸知覚によって知るだけでなく、内部から諸感情によって知る。そのイマージュとは私の身体である」邦訳八頁

 「私の身体」という場合の「身体」に、ベルクソンは特権的な意味を与えている。「身体」は物質であり、従って、物質としてのイマージュである。ところが、「私の」という限定された、「私の身体」は物質であるには違いないが、自分の感情の源泉であり、その感情によって常に彩られていて、外界である物質世界に属しながら、特種な地位、ベルクソン流に言えば特権的な位置にあると言えよう。誰でもが想像がつくように、「私の身体」は物質世界と感情=精神が遭遇する特種なイマージュの場なのである。
 すでに、自分の身体でありながら、自分の思うようにならない性欲について前にふれたが、その葛藤自体が、そのイマージュの有り様であると言えよう。人は、ある意味で、青春時代に自らの物質性をどのような形であれ、集中的な形で、学ぶのだ。

「一方は科学に属する体系で、そこでは、おのおののイマージュは自分自身とのみ関係づけられて絶対値を維持しているのだが、それに対して、他方の体系は意識の世界そのものであって、そこでは、すべてのイマージュが、われわれの身体という中心的イマージュに則り、この身体の諸変化に付き従っている」邦訳二一頁

2名無しさん:2025/05/07(水) 10:35:11
ベルクソンの主要な研究課題である〈物質〉と〈精神〉の関係を、観念論や実在論(おそらく唯物論も含まれるであろう)そして、二元論を超えて考究しようとした書が『物質と記憶』であって、四つの主著の中でも、理論的な意味で、中心を占めていると言えよう。 「私の身体」は、ベルクソン的理論的な考究のための竈であり、レトルトである。
 彼の方法は、発生に遡ることとすでに私は書いた。彼のあらゆる哲学的な研究は、対立に先立つ分岐点に立つことをモットーとしている。精神と物質の二元論的な対立を、その分岐以前の始原に遡る。
イマージュもまた、精神と物質という明晰な領土分けに先立つ概念である。ベルクソンも指摘するように、私たち生活人は、哲学者のように常に精神と物質に分別して決着をつけて考えている訳ではない。イマージュの観点は、常識人の観点でもあるのだ。まず、私たちは、行動するための利便のために物質の性質を研究し、その精神作用として考究するのであって、考えることが面白いからではない。少なくても、人間の知性は、実践的な行動のために、長い年月をかけて開発された能力であろう。
ベルクソンは、こんなことも書いている。
「イマージュは知覚されることなく存在することができる。イマージュは、表象されることなく現存することができる」邦訳三五頁
ここでベルクソンは、知覚対象が失われても、心の中に心像としてイマージュが残るとか、コトバで表されなくてもイマージュは残るなどと言っているのでもないと思われる。そうではなく、彼は、イマージュが、はっきりとした知覚の前に漠然とした世界の反映、つまり、辞書的な意味で、鏡像的な性格を持つことを強調しているのではないか。さらにイマージュの語源には〈動き〉の意味があって、揺れていて定かでないものの含意がある。彼の哲学が〈不動のもの〉ではなく〈動くもの〉に基礎を置くことを忘れてはなるまい。物理世界の正確な反映である純粋知覚は、個々の人間の具体的な知覚を超えており〈物質〉と〈精神〉の橋渡し的役割を果たすべき概念なのであろう。
しかし、私は疑っている。イマージュは哲学的な考究のためにベルクソンが仕組んだ布石的な概念であって、「純粋知覚」と同様に、現実的には存在しない幻ではないかと。
例えば、知覚は必ず記憶によって歪められている。過去の記憶や体験と切り離された知覚は存在しない。イマージュもまた、「漠然とした」ものであれ、見えるからには、記憶と無縁ではない。「純粋記憶」や「純粋持続」の「純粋」にも同様の匂いがする。ベルクソンの「純粋」という用語には、すべて〈イデア=理想〉の匂いがする。
ただ、この布石の理論的な意味は大きい。それこそ、ベルクソン哲学の要石だと私は考えている。次回は、なぜ、そうした布石が必要なのかを考えたい。


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