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【哲学】ヘーゲルスレ【意識論】
1
:
名無しさん
:2024/10/07(月) 19:13:53
このスレッドではヘーゲルの哲学を語ります。
★自己意識というものについてヘーゲルは他者との関係において「不確か」である事柄を見出します。というのも他者の意識は自己の意識では把握できないものであり、間主観的に考えても捉えようのないものだからです。こうした得体の知れない意識というものは、ヘーゲルの哲学において往々にして独自に展開されています。それも独特な語り口で「転ばない意識がいい」と遺しています。これはデカルトからの伝達です。
また、「意識は素晴らしい」とも言い伝えられています。自己意識というものは右往左往されるものでしょうか。空気を吸って肺を満たす、というとき、私たちは生きていることを実感します。そして肺困窮だったのが肺が膨らむことで助かった気分になることがあります。こうした緊迫した中で私たちは自己意識を右往左往してしまっていると言わざるを得ません。落ち着いているときに泣ける体験をすることで意識は変化をもたらすでしょう。泣ける体験の後にはまた落ち着いて、そのあとは笑ったりして、こういうのを喜怒哀楽と似ていると私は考えています。ヘーゲルは喜怒哀楽はいい、と述べています。
2
:
名無しさん
:2024/10/08(火) 13:36:49
★自己意識は自己であるか?
意識態としての自己というものは存在するでしょうか。意識態は意識を担う性質があります。
私たちは自分が理性的な精神であることを納得することができます。
自分は精神であり、ヘーゲルは遠征に来たナポレオンを絶対精神と呼びました。
絶対精神は世界精神とも言われています。ナポレオンは彼が革命を起こすたびに世界を変革するほどの世界精神だというのです。
プラトンのプラトニズムという思想があります。これは人生はすべてを思い出す旅である、という思想です。
ナポレオンはすべてを思い出しなら改革していく、という考え方があり、人生の主人公であるという考え方もあります。
しかし、私たちひとりひとりがプラトニズムに沿って生きている可能性もあります。
となると、私たちの誰かしらが世界の中心のように成っている可能性があります。
また、私たちの身体には肩がありますが、肩を後ろから僧侶に竹刀で叩かれても、
私が叩かれた、と誤解してしまう場合があります。本当は私の身体の一部が叩かれた、と解釈すべきです。
私というものは、脳の松果体に存在すると考えられています。
意識態は松果体に存在するでしょうか。誰もこの意識態を見ることはできません。
人間は、夜が来ると睡眠することが多々あります。これは意識態をスリープさせているということでしょうか。
3
:
名無しさん
:2024/10/08(火) 16:30:52
★睡眠中は意識はどうなっている?
私たち人間は人生の1/3(3分の1)を睡眠で過ごしています。
これは睡眠をしない透明人間に比べてみると、大きなロスに考えられます。
1日の3分の1は8時間であり、透明人間の方が8時間分有意義に過ごせる可能性があります。
とはいえ、努力しない透明人間がいることも事実です。
人間だからといって透明人間に成績で敗けるとは限りません。
透明人間も1日の限られた集中力があります。8時間も勉強するなら、それは大したもんすよ。
人間も1日に十六時間勉強するのは難しく、食事の時間、風呂に入る時間、トイレで過ごす時間、といったものに時間を費やしてしまいます。
しかしトイレで過ごす時間は、壁に覚えたい内容を書いておき、それを見ながら排泄するという解決策があります。
風呂に入っても壁に元素記号を羅列して書いて、見ながら風呂に浸かるという解決策があります。
食事の時間は休みつつ、栄養を摂ります。
無理して勉強すると、ノイローゼになってしまうので、コツコツ頑張りましょう。
4
:
名無しさん
:2024/10/08(火) 18:46:56
★睡眠中は意識はどうなっているか
睡眠に至る前には、意識レベルが低下し、そのためスムーズに睡眠することができます。
これは全く意識がないというわけではありません。
もし意識がなくなっているなら、死亡している可能性が考えられます。
意識レベルが下がることで、睡眠に入りやすくなるのです。
しかし安楽死といったものは、人間が眠っているときに起こり得ると考えられます。
睡眠中に意識がなくなって死亡、すなわち安楽死が起こり得るのです。
意識は松果体にあると私は知っています。しかし意識態が松果体にあるとは知っていません。
精神が睡眠中に夢を見ることは、記憶の整理であることが候補として考えられます。
視覚野で夢を見ていますが、目は閉じているからこそ、夢は見やすいのだと考えられます。
5
:
名無しさん
:2024/10/09(水) 13:08:47
ヘーゲルは「真理」を不変のものとは捉えませんでした。
意識はある、という事象は不変的ではないと考えられています。意識は死が訪れるその瞬間に「無」となるからです。
タンポポのそれぞれの一本の毛が、アスファルトに埋まって、またタンポポを生成する。
こうした「運動性」をヘーゲルは「真理」と呼びました。
私たちが、リンゴを食べるといった行動をしたり、そのリンゴが体内で形を変え、そしてうんことして外化する、そういった流れを「運動性」と捉えているのでしょう。
ヘーゲルは、「真理」とは「時間性」こそにある、と述べました。
理念は時間をかけて作り上げるもの、伸ばしていくもの、とヘーゲルは言います。
理念はじっくり熟慮して、適切に練り上げるもの、だと私は考えます。
理念という言葉の意味は、「ファイアーだ」という意味があります。
意識という言葉の意味は、「ファイファイファイファイファイ」という意味があります。
6
:
名無しさん
:2024/10/09(水) 16:38:28
★カントとヘーゲル
カントは形式的に物自体は知れない、と主張したかったらしいです。これに対しヘーゲルは、現象の識別と客観の識別は同一である、と考えました。
これにより、私たちは、迷妄にならずに済みました。物自体は判断できない、とするカント哲学は、決して害悪しかなかったわけではありません。
カント哲学の後期にトンボや猫の現象の識別、あるいは視覚野においては、人間と異なる配色で現象を見ている、とする科学が発展しました。
トンボは眼球が後ろを目撃できるほど、上下左右前後、ほぼすべてが見えているらしいです。後部の一部だけが少し死角になっているだけです。
カントの物自体は認識できない、するカント哲学は、他にも神様が物自体をお作りになった、という考え方にも及びます。全知全能の存在こそ物自体を認識することが可能であり、被造物の私たちには物自体が分からない、ということなのではないか、とカントは考えました。
7
:
名無しさん
:2024/10/14(月) 19:06:55
★意識とはどう働くか
怖くて嫌な相手に出逢ったら、相手を見たために、意識がこわばる、あるあは微妙感の意識状態になるという結果が考えられる。意識は起きている間は常に活動的であり、能動的な側面を担っている。意識はそれ自体でも本質的に真のありかたを表明すらすることはできない。では意識は何と関係を有するのであろうか。それは、まず知覚としての側面があると私は考える。
「蚊」が鳴きながら近くにやって来て、「うるさい」と判断するときは、飛んできたと意識が気付いていた、という消息であろう。またそのときは、知覚も働いていた、というはこびである。
存在が燃えるのは意識で体感するものであろう。しかしこれは知覚とは関与しないと考えられています。
燃えるのは意識、知覚するのはカウンセレーマー…… こういう消息がある。
知覚って喜びだよちがらくれめーだよそうだよそうだよそうだよ見逃すな……
こういう消息がある。
8
:
名無しさん
:2024/10/22(火) 13:19:26
★厚かましいと しおらしい
厚かましい存在というのは、時に厚顔を想像させる。厚顔無恥という存在は、自分の要求ばかり口に泡を吹かせて堂々としている。
私は、このような人物になってはよくないと、肝に銘じている。
しおらしい、とは何だろう。これは、厚かましいと対義語である。
しおらしい、とは、おとなしく従順で、かわいい。いじらしい。 という意味がある。
おとなしく従順で、という意味があるのが私には好感が抱いた。
かわいい、のだから厚かましいとは全然違った存在なのだろう。
そしていじらしいという言葉。
弱いものが一所懸命に努める有様や心根が、いたいたしくあわれだ。共感してかわいそうがるほど、けなげだ。けなげで可憐(かれん)だ。
「乙女心が―」
このような意味がある。けなげだ、けなげで可憐だ、という言葉が並べられる。
読み方:かれん. [名・形動]《「憐(あわれ)むべき」の意から》姿・形がかわいらしく、守ってやりたくなるような気持ちを起こさせること。また、そのさま。「—に咲く野の花」「少女の—な瞳」
かわいらしく、という言葉が並べられる。
言葉の意味のジェットコースターというループもあるかと思う。
かわいい→いじらしい→可憐だ→かわいらしく→かわいい
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