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【懐疑】デカルト【哲学】

1名無しさん:2024/10/12(土) 19:14:45
このスレッドではルネ・デカルトの哲学を考察したいと思います。

★コギト エルゴ スム に関する話

コギト(我思う)エルゴ(ゆえに)スム(我あり)

この命題を考察したい。まず私がいることが前提のように言葉が連なっている。
その私が、思う、と動的に進んでいく。しかし、思う、と判断する原因は見当たらない。それなのに、思う、と断言しているところが不当と言えよう。

我あり、と、思うためには存在が有る、というふうに意見を出す。

思う、ということが成り立つということは何かがある、そして、何かがあるというその何かは、この場合「我」にほかならない、とデカルトは考える。

ここでしかし問題なのが、我とは何か、という分断である。我を見たことも触ったこともないのに、我が我なのだ(同一性)というふうに応えることしかできないであろうか。我とは何か、とする命題は、多くの哲学者を困惑させたに違いないが、どこに我がいるか、最近の思想によると、脳の松果体に存在すると考えられている。

我とは情報統合思念体と捉える考え方があるが、あらゆる情報を取捨選択する理性的な精神と捉える考え方もある。いずれにせよ、我が「思う」というふうに、我の意図する動的なアクションが、「思う」ということとして進めるデカルトのコギト(cogito)を私は根底から疑っている次第である。我が「思う」理由も補足せずコギトとして語るところを私は疑っている所存である。

2名無しさん:2024/10/13(日) 18:25:18
★「思う」とは何か

われ思うの、「思う」とはどういうことなのか、私たちは曖昧なこの事柄に気付いていないであろう。「思う」とは言ってもどこでなにゆえ「思う」のか、私たちは曖昧なまま「これを選べばよいと思う」、あるいは「素晴らしいと思う」と発言してしまうケースがある。

われ思うとは具体的にどういう事象なのか、なにゆえ思うのか。

私たちが洗脳するタイプの存在に洗脳されて、というのも「りんごを思わされる」と洗脳されたとしたら、私たちは、「りんご」と思わされるのが妥当であろう。そして「りんご」と思わされたけれど、自発的に「りんご」と思っておらず、この際に、りんごと思わされた程度で思わされた私たちが存在するとは限らないと私は考える。

もしかしたら神様がひとりだけ存在していて、神様が私たちに「りんご」と思わせたのだとしたら、やはり私たちは存在するとは言い切れない。

さらに、われ思う、と断言したとしても、(われが)思っていることは証明できない。そしてまた、私たちが思わされた、ということも証明できない。

となると、われ思うゆえにわれあり、という命題も証明できないというはこびがここにはある。われ思う、とする考え方は、私が思考している、だから思考している私は存在する、という考え方ではないか。しかし思考していることも現実には証明できないという消息がここにはある。


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