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本迹に関して対話するスレッド

472雨煽り:2009/04/25(土) 09:15:52 ID:NjA8zkPc0
解釈の違いが色々あります。

「人」は何を指すのでしょう
「仏」は何を指すのでしょう
「衆生」は何を指すのでしょう
「凡夫」は何を指すのでしょう
「体」とは…
「用」とは…
「総」とは…
「別」とは…


「妙法蓮華経」ですから「差別なし」です。
『総じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身は末法の法華経の行者なり』
『日蓮の弟子檀那』が『法華経の行者』で『如来』なのです。

473ソウイチ:2009/04/25(土) 11:39:16 ID:qZp.bdpw0
やはりそうだった。
あの人が言いたいこと。
>*人が本 仏が迹* は、御本尊、軽視の愚を犯すことです。 
これを言うためにあれだけの自己紹介までやったんです。
おかしいと思っていました。

474ソウイチ:2009/04/25(土) 21:07:42 ID:qZp.bdpw0
人間よりも本尊が優れる宗教に魅力を感じません。
宗教は人間のためにあるのです。
この大原則を外して宗教に意味がありますか?

475雨煽り:2009/04/26(日) 00:09:40 ID:NjA8zkPc0
えっと…

私の論も、東空さんの論も、沖浦さんの論も、表現等の違いはあれ、核心は、あまり違いはありません。が、
沖浦さんの表現だけを見ると、理解出来ない(したくない?)人からは誤解されるかも知れないところがあります。

しかし沖浦さんは、けっして御本尊を軽視している訳ではありません。
家では御本尊に向かって唱題するのですからね。
御本尊の無いところで唱題するのに、御本尊があっても無くても変わらない。と言われているのです。

それと、「用」の部分を強調しているだけです。例えば
「仏とは信心をしている貴方のことです。御本仏と雖も貴方を仏にする為の存在なのです。」
と言うように、主体を「人」にして、論じておられるだけです。
それは正論でしょう。

理解出来ない人がいるだけだと思います。

『一大秘宝義』『本迹論』については正論ですからね。

476雨煽り:2009/04/27(月) 01:52:33 ID:NjA8zkPc0
大事なことは

本迹未分な自性を、
機情に随って、
敢えて立て分けた。
というところです。

な〜んて、書いたって…
解らない人には、全く解らないでしょうね。

東空さんなら解るかも…ね。

477沖浦克治:2009/04/27(月) 05:43:29 ID:AJ3hr85o0
 東空さん

 またおいでなさいね。
 仏が迹が曼荼羅軽視?
 完全な間違いです。
 仏法の基本知識に欠けますね。
 
 仏法は人のための法です。
 人が仏法のためにあるのではないのです。
 これが創価思想の大原則です。
 大聖人様のご精神です。

 この点を先ず認識すべきですね。
 人のための法ならば、人は主体、法は従です。
 AのためのBは、文法上Aが本で主、Bが迹で従。
 これが当然の解釈です。
 ですから、法と人、どちらがどちらのためにあるか?
 これが理解できれば後は極めて単純明快なんですよ。
 人は迹だ。
 この人たちは仏法に無知です。
 人のために説かれる法が仏法ですから、この解釈は完全な誤りで邪義ですよ。
 そして、お曼荼羅も仏も一切は仏法の中に含まれて存在しています。
 ですから、お曼荼羅も仏も迹で従です。
 人は本です。
 この点をよく弁えてから御書を学びましょう。
 貴方があげた文証、

 「生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり云云。」(御書P867)

 人としての姿が迹で、本来は仏だよ。だから衆生は仮に人間の姿をしているが本地は仏なんだよ。
 このように読めばいいと思います。
 仮に人間の姿です。
 方便で死んだり生まれたりするでしょう。
 この世はね、仮の姿なんですよ。
 ですから、方便で死にますね。
 するともう人間じゃないです。
 人では無くなるのです。
 でもね、命はそのままで仏なんです。
 生死ともに仏です。

 『いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。』
 (上野殿後家尼御返事)

 ほらね、このように仰せです。
 簡単な事を複雑にしてしまってはダメですよ。

478雨煽り:2009/04/28(火) 00:19:13 ID:NjA8zkPc0
「本」が「勝」で
「迹」が「劣」ですが…

釈迦の法華経の本門と迹門には「法」の勝劣と「機情」の勝劣があります。
もちろん、本門が「勝」です。

日蓮大聖人の妙法蓮華経には「機情」の勝劣はありません。
本迹とは事理です。

「本」が「事」で
「迹」が「理」です。

「事」とは「事実の上」「現実」ということです。
「理」とは「法」「理屈」等です。

御本尊を例えると…
久遠元初の法が「理」で、曼陀羅本尊が草木成仏の「事」です。

衆生を例えると…
御本尊が「法」・「理」で、自行化他の題目を上げて成仏して行く我々が「事」です。

勝劣では、どこまでも現実が「事」で「勝」だということです。

ですが、大聖人の妙法蓮華経は、釈迦の法華経のような本門・迹門はありません。
本有の本迹で、『はたらかさず・つくろわず・もとの儘』なのです。

479雨煽り:2009/06/05(金) 07:04:25 ID:NjA8zkPc0
>>463
で書き込んだ御書講義録ですが、
理解出来ない人が多いようですので、もう少し補足します。

前々ページに
『法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云』
の文についての講義が書かれています。
その13行目に
『御義口伝巻下に(中略)「是法住法位」を真諦、迹門、「世間相常住」を俗諦、本門と配当した次の文を示されている。』
と、あり、次ページに

真諦     俗諦
是法住法位  世間相常住
迹門     本門

と書かれています。

「是の法法位に住して」が真諦で不変真如で迹門です。
「世間の相常住なり」が俗諦で随縁真如で本門です。

御本尊が真諦で不変真如の理で迹門になり、
題目を唱える我々が俗諦で随縁真如の智で本門になります。

事と理ですが、この事理の認識が理解し難いのだと思います。
例えば…
他人が沢山儲けて、その家にどれだけお金があるのかを、いくら数えても、自分は全く裕福になどなりません。
儲かる方法を教えてもらって、実践し、自分が儲かって初めて自分が裕福になるのです。
と、こんなような話が確か戸田先生の指導にもあったと思います。(よく憶えていませんが)

他人事は、たとえそれがどんなに優れていたとしても、単なる理でしかありません。
自分が実践して初めて自分の現実になり、事になります。

大聖人が末法での成仏の法を示され、御自身をもって成仏の姿を現されました。
が、しかし、それだけでしたら、自分にとっては単なる理屈、理論、方法です。理にしかなりません。
自分が信仰して、実践して、初めて事になります。現実です。

池田先生が仏法を現代に約し、解釈してスピーチして下さいますが、それだけでしたら単なる理です。
それを指導として、人間革命していって、初めて、事です。

自分の家に御本尊があるからといって、成仏などしませんよね。
それがどんなに素晴らしい力のある御本尊であったとしても、それだけでしたら、成仏はできません。
自行化他の題目を唱えて、初めて成仏できるのです。
題目をあげて、己心の九界を仏界へと開くのが、事の一念三千です。
事の一念三千は任用の前に教えられてる筈ですね。

事が本門で、理が迹門です。

480雨煽り:2009/06/07(日) 04:58:22 ID:NjA8zkPc0
ある一事象を見る為に、本迹と立て分けるのですが、
立て分けた本迹に勝劣はあっても、立て分けられる゛そのもの゛に勝劣がある訳ではないのです。
『差別なし』ですからね。

衆生が成仏する。という用を見る為に、衆生を本として、成仏させる働きの仏を迹として、本迹を立て分けます。
本迹ですから、自ずから勝劣が生じてきますが、あくまでも、本と立て迹と立てたところに勝劣がある訳で、
衆生そのもの、仏そのものに勝劣がある訳ではないのです。『差別なし』ですから。

もちろんそれは仏を本と立てても同じです。『差別なし』です。
衆生と仏に勝劣などありません。

ところが、釈迦の法華経の本門と迹門には゛そのもの゛に勝劣があります。
法の勝劣と機情の勝劣です。
故に、釈迦の法華経では、本迹相対が勝劣として成り立つのです。

大聖人の『妙法蓮華経』は、『本迹殊なりと雖も不思議一』で『事理倶勝』です。
そして『差別なし』です。
一事象として、何を見るか、何を主体として考えるかで本迹に相当するものは変わりますが、
変わったところで、『差別なし』は不変です。

勝劣に拘る人の心には、差別があるんじゃないですか?
仏法は内道と言われるように己心の問題ですからね。己心が自分にとっての本です。

481備前:2009/06/07(日) 16:33:49 ID:CTtMwhXY0
 こんにちは、雨煽りさん

 >勝劣に拘る人の心には、差別があるんじゃないですか?

有るのか無いのかは、解かりませんが

私が相手してもらった方々の大半は「本迹=勝劣」の単純化された思考が

底辺にある故「衆生己心の妙法が本・御本尊が迹」が気にくわないと言うのが

現状かと思います。

そしてまた、「衆生己心の妙法が本・御本尊が迹」も一つの立場・見方とは

捉えず、御本尊と衆生の関係の全て思っている所に一因があると

思います。

もっとも「衆生己心の妙法が本・御本尊が迹」を、うまく利用して

立ち回っている御方も見えられるようですし(笑

いやぁ〜、ネットって複雑怪奇ですわ(爆

482粛々坊:2009/06/07(日) 21:34:43 ID:VUuZ458.0
>>481
備前君はオアシスがお似合いだよ。君は教学云云あと20年(未活のぶん)早いようだ。

これだけいっておこう。「本迹」と「本末究竟等」の違い分かるかな?。

483沖浦克治:2009/06/07(日) 23:01:34 ID:AJ3hr85o0
 粛々坊さん

 貴方百年はやい!

 引っ込んでなさい。

484沖浦克治:2009/06/07(日) 23:22:25 ID:AJ3hr85o0
 粛々坊さん

 もう一度レベルの低い揶揄入れたら、長期アク禁ですよ。

 注意してくださいね。

485雨煽り:2009/06/08(月) 00:06:47 ID:NjA8zkPc0
>>481
備前さん

よくある「驕慢だぁ〜謗法だぁ〜」と、のたまう禿人達と同義主張の人達ですね。
ほぉ〜んと、困ったちゃんです。
雨も降ってないのに紅い傘でも差して歩いてるのかも、しかも他人に持たせて…なぁ〜んて(笑)

長年「差別義」の中にいると『如蓮華在水』を忘れてしまって
七識に「仏は上」って組み込まれているのかも知れませんね。

御書には明確に『差別なし』と書いてあるのにね。

486雨煽り:2009/06/08(月) 00:26:35 ID:NjA8zkPc0
>>482
粛々坊さん

他人に質問するより、自分の理解を深めた方が良いと思います。
そんな質問をされているところを見ると、理解が浅いのだと見受けられます。
もう一段深く理解されると真実が見えてくるかも…ヒント『父子』

そんなことより、粛々坊さんが書き込まれると言われていた
『一大秘法義』(でしたよね?)早く書き込んで下さいね。

書き込まれるのを待っているんですから。

487粛々坊:2009/06/08(月) 00:56:39 ID:VUuZ458.0
>>486
一大秘法?あくまで「本門の本尊」ですね。法華経(題目)は御本尊にすべて集約されています。

それよりもなぜ「本末究竟等」と書くとアク禁なんですか?沖さん。

488粛々坊:2009/06/08(月) 00:59:35 ID:VUuZ458.0
>>486
雨煽りさんはぜひ粛板でお待ち申し上げます。

再度、徹底的に教義の検証をしたいと思います。論客揃いですよ(笑)。

489雨煽り:2009/06/08(月) 02:15:55 ID:NjA8zkPc0
>>488
粛々坊さん

何の事ですか?
何の脈絡も無く

>お待ち申し上げます。

と言われてもねぇ〜・・・・・・・
脈絡の無いところが、まるでテラオさんのようです(笑)

490雨煽り:2009/06/08(月) 02:23:58 ID:NjA8zkPc0
>>487
粛々坊さん

書き込むと言われていた事が、

たったそれだけの文章だったのですか?

・・・・・・・・・・

ナァ〜ンダ・・・・・ オヤスミィ〜

491雨煽り:2009/06/08(月) 02:34:31 ID:NjA8zkPc0
あっ、そうそう…

>>487
文証出してね。

モォイチド・・・・・ オヤスミィ〜

492沖浦克治:2009/06/08(月) 08:49:28 ID:AJ3hr85o0
 粛々坊さん
 
 本末云云えは無関係です。
 自分は知っている、お前達は知らない。
 示唆するだけの無責任がアク禁対象です。
 貴方は私に以前、創価の師弟は云云と言いましたね。

 では、宿題です。
 貴方は、創価の師弟について自分の主張お書きなさい。
 それと、本迹と、本末究竟等の違いについて論じなさい。

 この二つのテーマを終了して後、他の話題を語ることを認めます。
 それ以外を書けば、長期アク禁になります。
 ではどうぞ。

493粛々坊:2009/06/08(月) 09:47:00 ID:VUuZ458.0
それでは簡潔に行きましょうか。

仏教哲学大辞典 第三巻 368ページ



師弟不二・(二)師弟不二を明かされた御文⑫



「方便品にある『本末究竟等』の文。師匠は本であり、弟子は末である。

師匠は弟子を自分と同じ境涯に引き上げようとし、弟子もまた師匠の一切

を受け継ごうとして仏道修行に励む。これ本末究竟等をめざす師弟の姿、

行動であり、この師匠と弟子の人間対人間の生命の奥底におけるふれあい、

つながりの中に、仏法の血脈は伝わるのである。」(引用終わり)

494粛々坊:2009/06/08(月) 11:00:35 ID:VUuZ458.0
>>493
よって師弟関係は「本迹」ではありません。

以上師弟相対・師弟不二は終わりです。簡潔でしたね(笑)。

495沖浦克治:2009/06/08(月) 13:11:29 ID:AJ3hr85o0
粛々坊さん

 答えになっていません。

 これでアクセスをお断りいたします。

496雨煽り:2009/06/08(月) 16:28:07 ID:NjA8zkPc0
>>493
まるで子供が「山の形は三角だ!」と言っているようなものですね。

大「山は三角じゃないよ。」
子「だって三角じゃん、此処から見てよ。三角じゃん。」
大「そこから見ると三角に見えるだけで、山の形は三角じゃないよ」
子「三角ったら三角!」

自分の浅い知識が、その全体などと思わない方が良いですよ。
全体が見えてくるまで、ひたすら信行学に励むことですね。

497雨煽り:2009/06/21(日) 15:53:40 ID:NjA8zkPc0
そもそも本迹とは…

『言語道断・心行所滅』の『大分真如』である妙体を
機情に随って『証分真如』として説いたものなのです。
迹門の機情には『不変真如の理』を説き、
本門の衆生には『随縁真如の智』を明かしたのです。

釈迦の法華経の本迹には、上記の理由で、事・理の違い、久・近の違いがあり、
それがそのまま、法の勝劣、機情の勝劣になります。

しかし、大聖人の『妙法蓮華経』には機情の勝劣などありませんから
当然、法の勝劣もありません。証分真如を説く必要が無いのです。
随縁も不変も大分真如の説明をするものであって、勝劣を論じるものでは無いのです。
故に、『事理倶勝』と…

法の勝劣が無い。其の上での本迹です。本迹ですから勝劣は生じます。
が、あくまでも大分真如の事理の側面で、言語道断・心行所滅の上の勝劣です。
不可思議の中の勝劣です。本有の本迹です。
故に、『本迹殊なりと雖も不思議一』と…

上記を踏まえて、
仏法は、衆生が本来仏であり、仏と開く為に説かれたものですから
衆生を本と立て、成仏させる働きの仏を迹と立てるのです。

もちろん、仏を本と立て衆生を迹と立てても、
それはそれで仏法を論じているのですから間違いはありません。が、
衆生を本と立て仏を迹と立てる論を「間違い」と言う事が間違っている。と主張しているのです。

仏法の一側面や一考察をもって、その全体だ。などとの解釈は成り立ちません。
様々な側面、様々な立て分けがあり、言語道断・心行所滅なのですからね。


一大秘法義と同じく、こちらも、くれぐれも、
邪義だと言われる人は「衆生が本では無い」「仏が迹では無い」という
文証を上げてくださいね。

499沖浦克治:2009/06/21(日) 23:29:25 ID:AJ3hr85o0
 皆様方に

 以前、法華講関係の板で、衆生が本、仏が迹を私が主張し、仏が本、衆生が迹との立場の法華講員の方々と論議を致しました。
 今、小野さん、マグマグさんなどをはじめとする眺め人の方は、当時の法華講員の方と全く同じ発言をしています。
 明日から、少しアップして見ますので、両者を比較してください。
 眺め人教学は、正宗教学です。
 どうして創価を名乗るのでしょうね?
 不思議です。

500雨煽り:2009/06/22(月) 00:19:57 ID:NjA8zkPc0
>>498
ぜんまいさん

沖浦さんを批判し非難している人達の殆んどがそうですよ。
自分達が教学的に未熟で理解出来ないことを「邪義」と言って憚らないのです。

文証を出しても、その文証に書いてある言葉も理解出来ない程の未熟さですが、
もっと未熟な人からは立派な教学に見えるようです。(笑)

「魔」は確か紛らわしいのでしたよね。
尤もらしいことを書き綴って、さも仏法を知ってますよ。みたいな反論を書きなぐっています。
が、その実は、全く違う立て分けを論じて「衆生が本・仏が迹」を否定しているだけです。

それはそのまま、自分の無知を晒し出している。という事です。
否定する文証など無いのですからね。そんな仏法はありませんから。

501沖浦克治:2009/06/22(月) 07:24:59 ID:AJ3hr85o0
 人が迹、曼荼羅本の未熟さは何処から来るか?
 宗門教学ですね。
 この邪義を作ったのは寛師です。
 観心本尊抄の文段に以下の愚論があります。

>就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。

 戒壇様が一大秘法だぞ!
 寛師はこれを言うために手間隙かけてますね。
 理由です。
 同じく文段からですよ。

>答う、実に所問の如し。乃ちこれ終窮究竟の極説なり。当に知るべし、智者大師は隋の開皇十四年、御年五十七歳、四月二十六日より止観を始め、一夏にこれを説いて四年後、同十七年、御年六十歳の十一月に御入滅なり。
吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄を終り、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕して四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり。
これに三事の不可思議あり。

一には天台大姉は五十七歳にして止観を説き、蓮祖大聖は五十八歳にして戒壇の本尊を顕す。また天台は六十歳御入滅、蓮祖は六十一歳御入滅なり。これ則ち像末の教主の序、豈不思議に非ずや。
 
 天台は57歳で本懐である摩訶止観を説いて、60歳で亡くなった。
 大聖人様は、58歳で戒壇様を顕され、61歳で御入滅なされた。
 であるから、戒壇様こそが一大秘法で出世の御本懐だ。
 一年大聖人様が歳を重ねられたのは、像法に対する末法の順番だからだ。
 これね、こじつけですよ。
 御書の何処にこんな文証ありますか〜?
 だから、人師論師はダメなんです。
 こじ付けで人を惑わす事を、紛然と言います。
 眺め人さんは覚えておきましょうね。

>二には天台は四月二十六日に止観を始め、蓮祖は四月二十五日に当抄を終る。天台は十一月御入滅なり。蓮祖は十月御入滅なり。蓮祖は後に生れたまうと雖も、下種の教主なり。故に義、前に在り。
この故に蓮祖は二十五日応当抄を終り、十月の入滅なり。天台は前に生れたまうと雖も、熟益の教主なり。故に義、後に在り。この故に二十六日に止観を始め、十一月の入滅なり。種熟の序、豈不思議に非ずや。

 これも説明する必要のないほど幼稚ですね。
 こう言う低レベルをさも仏法の大事みたいに囃し立ててきたのが宗門教学です。
 それに踊らされているのが眺め人の方々です。
 相当情けないですね。

>三には天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮竟の極説を顕す。寧ろ不思議に非ずや。

 天台は亡くなる4年前に本懐を遂げた。
 だから大聖人様の御本懐は御入滅4年前でしかない。
 これね、相当無理ですよ。
 こう言う場合、どうして弘安2年、10月12日か?
 明確にしないとダメなんです。
 証拠にはなりません。
 弘安2年はね、360日ほどあるんです。
 すると、戒壇様の本懐確立は350分の1ですよ。
 そう言う不確かなものに人生かけますか〜〜??
 ここに橋があって、360回に1回は無事に渡れる強度がある。
 下は千尋の谷底です。
 貴方ね〜〜、渡りますか〜?
 私?
 嫌に決まってますよ。

502沖浦克治:2009/06/22(月) 07:56:04 ID:AJ3hr85o0
 ぜんまいさん、おはようございます
 
 以下眺め人のマグマグさんですよ。
 Fボーからです。

>沖浦克治氏は、三世諸仏の大事、受持即観心の南無妙法蓮華経、即ち「観心の本尊」「本門の本尊」を「迹」であると言いのけ、氏自身のことを「本」であると傲慢にも相対させた。

 先ずこの眺め教学は大間違いですね、前提が過ってます。
 受持即観心は法華経ですね、お題目です。
 曼荼羅じゃないのですよ。
 ところが眺め教学は寛師に騙されて、曼荼羅だと勘違いしてます。
 曼荼羅は迹です。
 当然です。 
 私共の師匠は仰せですよ。
 
 『虚空会の宝塔は衆生己心の妙法を書き写したものだから迹。
 己心の妙法が本体で本。』(趣意)

 曼荼羅は、その虚空会をもう一度書き写したもの。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)

 我恋はふりたる経の摺形木絶えまがちにも成りにける哉
(私の恋は、使い込んで磨り減った摺形木の印字みたいに、あの人との逢瀬が途切れ途切れになってしまったなぁ)
 
 摺形木とはね、当時のコピーの事です。
 虚空会の儀式が迹で、それをコピーした曼荼羅が本??
 ありえませんよ。
 
>沖浦氏と違い、雨煽り氏の「人本仏迹」にないものが一つある―――御本尊は迹で道具だとする「道具」の文言だ。が、本質的には同じだ。沖浦、雨煽りの両氏の邪説「人本仏迹」に何の違いもない。マグマグ

 愚論重ねて恥じかいてうれしい??
 真面目に御書読んだらいかが?
 眺め教学楽しい〜???

504沖浦克治:2009/06/22(月) 21:27:01 ID:AJ3hr85o0
 ぜんまいさん、貴方はぜんまい忍者さんですか?
 そうでないなら、自己紹介してくださいね。
 そうなら、ハンネ変更を書き込んでください。

 ご意見はその後にしてください。
 今のところ削除いたします。

505ぜんまい:2009/06/22(月) 21:47:47 ID:MCEII2N20
>>498
では、改めて。雨煽りさん、こんばんは。

>>「衆生が本では無い」
>>これは誰が主張しているのですか?

>沖浦さんを批判し非難している人達の殆んどがそうですよ。

私がロムした限りでは、「衆生が本では無い」とは誰も主張していないと思います。

ただ最近の掲示板の流れが早い為、私が見落とした可能性もあります。「衆生が本では無い」と主張された方の書き込みを

具体的に教えてもらえませんか?

506沖浦克治:2009/06/22(月) 21:54:46 ID:AJ3hr85o0
ぜんまいさん、

 Fボーのマグマグさんです。
 人が迹だと言っていますね。

>簡単に破折すれば、衆生を「本」とすれば、衆生が本体となる。そこへ仏の「用」だけを持って来ても何の役にも立たない。この衆生には十界が互具されていないのか?この衆生には「仏界」が具わっていないのか?一体全体―――成仏させる働きの仏―――とは何を指して言っているのか?

この仏が御本尊のことであるならば、更に不適切な表現となろう。先ず、己心に具わる仏性、仏界を排除することになる。次に、仏の力用を安直に利用していることになる。三つには―――衆生が本来仏であり―――と、氏自身が大前提として書かれていることに矛盾する。本来、仏であるならば、成仏しているのだ。今更、成仏させる働きを他に頼んでどうするのか。前掲の通り、現実にまだ成仏の境涯にないからこそ、大聖人は―――生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり―――と仰せなのではないか?

507沖浦克治:2009/06/22(月) 22:25:38 ID:AJ3hr85o0
 聖地奪回の十字軍は、ヨーロッパでは正義の戦士ですが、イスラムの人々にとっては野蛮極まりない侵略者に過ぎませんでした。

 戒壇様奪回!

 愚の骨頂ですね。
 何の価値も生みません。
 御本尊様に優劣があると思う人で、戒壇様が究竟中の究竟だと信じる人は、サッサト宗門に行くべきです。

 こう言う無駄なことに精力使うより、行動して解決すべきなのです。 
 信教の自由が完全に保障された国に住む意味がありませんね。

508雨煽り:2009/06/23(火) 02:59:55 ID:NjA8zkPc0
>>505
ぜんまいさん

あれっ…
誰もが知ってると思ってましたが、ぜんまいさんは知らなかったのですね。

沖浦さんを批判し避難している人達は殆んどが「衆生(人・己心の妙法)が本・仏(御本尊・大聖人)が迹」と、
「一大秘法題目義」を間違いだ。と言ってます。なかには表現の違う人もおられますが、
教学的にはこの二つです。

私はこの二つを間違いでは無い。と主張しているのですが、
非難している人達の中で理解出来た人は一人もいません。(もしかすると一人だけ理解しつつある人がいるかも)
まぁ、教学未熟な人には理解出来なくて当然ですが…

私がテラオさんと対話してた板の人達もそうですよ。
ただ、反論出来るだけの教学が無くて、直接仏法を出して反論などできず、
他人の尻馬に乗って、反論に同調したレスを書いたりしてます。

日々さんをアク禁にした理由を知っていますか?
「沖浦一派への見せしめ」だそうです。(笑) 
疑義を捏造までしてですよ。

ぜんまいさん、本当に知らなかったのですか。

あっ…
疑ってる訳じゃありませんからね。

509沖浦克治:2009/06/23(火) 07:34:10 ID:AJ3hr85o0
 私は御本尊様を疑ったことは一度もありません。
 だから仏前でお題目を唱えるのです。
 疑っていたらお題目は唱えません。
 私はベース弾きです。
 この楽器今日きちんと音が出るのか?
 このように疑ってはステージングも練習も不可能です。
 同じですよ。
 御本尊様を受持すると言う事が、我が身の仏界を観ることです。
 御本尊様は対境で助縁です。
 本体じゃないのですよ。
 本体は私共の命に本来備わっています。
 面白いと笑いますね。
 漫才見て笑うのは、面白いと言う気持ちが私共に本来備わっているからです。
 無いと笑えません。
 面白い気持ちはね、漫才と言う縁に触れて私共の命から涌現したのです。
 同じなんですよ。

 迹で道具だ。との立て別け。
 なくてもいいですよ、創価を信じるならね。
 ただ、現在の布教のためには、戒壇様本懐論は邪魔なんです。
 世界広布の障害になるんです。
 戒壇様本懐論は寛師です。
 当時は必要でした。
 幕末の攘夷ですよ。
 幕府を倒す口実として強力な武器だったんです。
 新政府が出来たら、邪魔なんです。
 同じですね。
 寛師の時代、邪義が宗門を圧倒してたんです。
 要報寺(この字でしたか?)から100年間法主を派遣してもらった後ですからね。
 で、大石寺の正当性を出すために考え出したものが、たまたま大石寺にあった、戒壇様を蓮祖本懐に祭り上げることでした。
 それで、色々と後付の理屈をつけて戒壇様を荘厳化し、その威力で大石寺の正当化を図ったんです。
 成功したのですね。
 でも、反面、曼荼羅が本である。
 こう言う邪義が付帯して後世に伝わりました。
 創価学会が日蓮正宗時代ならそれでいいんです。
 破門で袂を別ちました。
 すると戒壇様本懐論は創価学会としては困ります。
 だって、戒壇様は日蓮正宗のものですよ、創価学会にはないのですから。
 本懐取られたら道は二つしかありません。

 取り返すか?
 否定するか?

 私は否定するんです。
 元々大嘘なんですから。
 戒壇様が本懐のわけないですよ。
 御書読めば簡単に理解できます。

 今はもう、戒壇様本懐論は邪魔なんです。
 戒壇様本懐論を否定するのは極めて簡単なんです。
 曼荼羅が本、衆生が迹。
 これを覆すといい。
 世界広布のためにはもう少し深くする必要があります。
 それが、本尊は衆生己心の妙法なんだ。
 お曼荼羅はそれを紙に写し取ったもので、衆生が自らの仏界を涌現させるための道具です。
 世界に広めるものは、久遠元初から決まっている、一切衆生が仏の当体であると言う、最大の価値を民衆の心の中に創ることです。
 人間革命の運動の伝播です。
 そのため旗印がお曼荼羅です。
 御書に載っていますよ。 

 私共はね、地涌の菩薩なんでしょう?
 それとも迹化の菩薩ですか?
 本化の菩薩ならね、布教が命です。
 創価を広めたいなら、機根のあった教学を武器として持つ。
 一人で信じんするだけなら、宗門教学で満足する。

 私はね、創価の人間です。
 邪魔されても布教します。

510ぜんまい:2009/06/23(火) 23:08:46 ID:IAhWQBo.0
>>508
雨煽りさん、こんばんは。

>沖浦さんを批判し避難している人達は殆んどが「衆生(人・己心の妙法)が本・仏(御本尊・大聖人)が迹」と、
>「一大秘法題目義」を間違いだ。と言ってます。なかには表現の違う人もおられますが、
>教学的にはこの二つです。

「人が本・仏が迹」と本迹で建て分ける事が間違いであるとは言っていますが、だからといってそれが
=「衆生は本ではない」と主張しているとは違うと思いますが?

私自身教学未熟ですが、自分の目で確かめて考察したいと考えていますので、本迹での建て分けの指摘云々ではなく、
ではなく、明らかに「衆生は本ではない」と主張されている方がいるようでしたら、その方の書き込みを教えて
ください。

511ぜんまい:2009/06/23(火) 23:19:40 ID:JhGoiO1U0
>>510 訂正

>ではなく、明らかに「衆生は本ではない」と主張されている方がいるようでしたら、その方の書き込みを教えて

明らかに「衆生は本ではない」と主張されている方がいるようでしたら、その方の書き込みを教えて

「ではなく、」が2回続いてしまいました。すいませんでした<m(__)m>

512沖浦克治:2009/06/24(水) 06:11:52 ID:AJ3hr85o0
 雨煽りさん、おはようございます

 ぜんまいさんがご指名ですので、私がレスをつけることがお二人に失礼かと存じます。

 どうぞ宜しくお願い申し上げます。

513沖浦克治:2009/06/24(水) 06:56:55 ID:AJ3hr85o0
 小野さんや、他の方々、私が曼荼羅が迹、人が本と言うでしょう。
 そうすると、判で押したように、ご本尊様軽視だ。って、浮かれ騒ぐんですよ。

 馬鹿ですね〜〜、この手合い。
 じゃ、自分たちは人間軽視じゃないですか。
 この単純明快な道理を忘れ果てて浮かれてんです。

 迹が軽視ならね、アンタ方、この世で最も大切な人の命軽視してるんじゃないですか。

 私が19歳の時、近所で火事があったんです。
 創価学会員のお宅で、生まれて一月ほどの赤ちゃんが焼死されました。
 私と幹部が非難場所に激励にいきました。
 すると幹部が、ご本尊様はどうしました?って、聞いたんです。
 ご主人がキット顔を上げられて、子供も出せなかったんです。と、返事されました。
 数日後、妙本寺という寺で友人が出家してたので聞きました。

 この場合どっちが優先なんだ?
 すると、人です。って、即答されたのです。
 私は当時、人よりご本尊様が先だと教えらていたんです。

 以来、31歳まで、ズ〜〜〜〜〜ット考え続けていました。
 ご本尊様と人間、どっちかしか助けられない時、自分はどうするべきなんだろう?
 現場を見て、悩んだ人間の深刻な葛藤でした。
 31歳で耕治が3歳、と1歳、火事になって、子供見捨ててご本尊様助けて本当に正しいのか?
 子供見ながらいつも考えていたんです。
 その時、池田先生の観心の本尊抄のご指導を聞きました。

 『観心とは信心です。
 我が己心の仏界を信じる。
 これが観心です。
 私たち凡夫が信心するためには本尊が要る。
 そのための本尊だよ、本尊のための人間じゃないよ。
 その信心のための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。と、こう読むんです。
 本尊のための人間じゃないよ、人間のための本尊だよ。
 だから大聖人様はありがたいんです。』(趣意)

 その時、長年の疑問がパット解決しました。

 人を先ず助けよう。

 それから、御書の読み方が変わりました。

 人が迹、曼荼羅本。
 絶対に邪儀ですよ。

 人の命より大切なもの、この世にあるはずないじゃないですか。
 それを、人が本で曼荼羅迹だとご本尊様軽視??
 アンタ方ね、命軽視の大謗法です。

 情けない!!

514沖浦克治:2009/06/25(木) 17:20:39 ID:AJ3hr85o0
  『去十月十日に付られ候し入道・寺泊より還し候し時法門を書き遣わし候き推量候らむ、已に眼前なり仏滅後二千二百余年に月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に天親・竜樹内鑑冷然外適時宜云云、天台・伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや。』
 (富木入道殿御返事) 文永八年十一月 五十歳御作

 ここで大聖人様は、一大事の秘法をこの国で始めて既にひろめた。と明確に仰せです。
 その後、観心本尊抄を、文永十年四月に顕されます。
 更に、その三ヶ月後、佐渡で始めてお曼荼羅をご図顕になられます。

 わずかでも常識があるなら、大聖人様が最初にお広めになられたのはお題目であって、そのお題目が一大事の秘法であり、それがそのまま開けば三大秘法を示す事が理解できますね。
 その後、難を呼び寄せれら、佐渡に御流罪、その地でお曼荼羅を顕されておられる。
 一大事の秘法を既に広めたと仰せの時、お曼荼羅の御図顕前ですので、文字曼荼羅はありません。
 この事実を先ずきちんと把握すべきです。

515エルフ:2009/06/26(金) 05:25:17 ID:FJCtL.4M0
自己紹介依頼ですが、久しぶりにコメントさせて頂きます、沖浦さんの言う人の命とご本尊どっちが優先なんだとの話、妻と話しましたが私たちも子供を、人の命を優先致します。沖浦さんの本迹論争、私なりに活動の合間にネットで拝見してました、正直、教学2級程度の私には難しい話もありますが、沖浦さんの考え方は私の心に深く響く事ばかりでした。これからも色々勉強させてください。

516沖浦克治:2009/06/26(金) 06:12:53 ID:AJ3hr85o0
 エルフさん、おはようございます

 世界中で紛争、内乱、テロが起き、多くの民衆が犠牲になっています。
 創価の広布は、大きな戦争を抑止しました。 
 キューバ危機のとき、あるマスコミが識者達に対して、第三次世界大戦が将来起こると思うか?と質問をしました。
 多くの識者に混じって、飛びぬけた回答がたった一つありました。

 断じて起こさせてはいけない。(趣意)

 池田先生です。
 この先生の一念が大戦を止めました。
 今、世界が大きな戦争から守られているは、先生の強き一念だと思います。
 
 紛争、内乱、テロ、の抑止は私共弟子の仕事です。
 これ等の不幸の原因が宗教にあすます。
 神が本、人が迹。
 人は道具なんですよ、この思想では。
 自爆テロをごらんなさい。
 方法論による解決も当然必要です。
 でも、この不幸の原因は間違った思想なんです。 
 神や仏のために人間が作られている。
 一凶です。
 これと真正面から戦う事が世界広布の絶対条件です。
 そのために勝ち取った破門です。

 眺め人にはわからないのですね。

517雨煽り:2009/06/26(金) 18:16:54 ID:NjA8zkPc0
>>512
沖浦さん
こんにちは

「ホスト規制でエラー」になり、書き込めませんでした。
自分の創った文章でも、消えてしまうと何を書いたのか忘れてしまいます。(笑)汗)

のんびりと思い出しながら書き込んでみます。

518雨煽り:2009/06/26(金) 19:19:44 ID:NjA8zkPc0
>>510
ぜんまいさん

遅くなりましたが返答します。
まず、何処に書いてあるのか。は、私にはお答えできませんので了承下さい。
「本迹に立て分けることが間違い」だと言われている人もおられるのは解りますが、
常識で考えてみて下さい。
「衆生が本・仏が迹」を間違いだと書き込まれている人に対して
「衆生が本では無い」「仏が迹では無い」という文証を上げて下さい。と言っているのです。

「立て分けることが間違い」だと言われる人になら、
「立て分けることが間違い」という文証を上げて下さい。と言います。

自分の考えをただ主張するだけなら、解釈の一つと考えますから、文証を上げて下さい。とは言いませんが、
こちらの主張した「衆生が本・仏が迹」を否定し、邪義だと言われます。
邪義だと言われるのなら、確たる文証を上げて戴けなければ、論議になりません。
故に、文証を上げて下さい。と言っているのです。

「立て分けるのが間違い」だと言いながら
『生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり云云』を引用し反論する人は、
「人が本・仏が迹」に『人は迹・仏は本なり』を当てて来ているのであり、
「立て分けるのが間違い」だとの主張は道理が通りません。

そして、「人が本・仏が迹」と『人は迹・仏は本なり』では、違う立て分けですから、
違う立て分けで否定する事はできません。同じに論じられないのです。
反論される殆んどの人が、その、違う立て分けを同じに論じています。解らないのでしょう。
教学未熟故に生じる問題だと思われます。
摩り替え、道理の通らない論を為すのも、他論を理解出来無いのも未熟なる故でしょう。

「衆生が本では無い」も「本迹に立て分けることが間違い」も文証がどこにあるのでしょうね。
私の知る限りでは、御書にはどこにもありませんが…

519沖浦克治:2009/06/26(金) 20:59:07 ID:AJ3hr85o0
 雨煽り さん

 ごめんなさいね。

520雨煽り:2009/06/26(金) 21:51:19 ID:NjA8zkPc0
沖浦さん

私は「アク禁ってこんな状態なのかぁ〜」って、知ることが出来ただけ
儲け者だと思っています。(経験する機会がないので)

書き込め無くなっても私自身には、あまり影響は無いので大丈夫ですよ。
無礼な書き込みをする人がいる。のが問題なのですからね。

521ぜんまい:2009/06/26(金) 23:27:12 ID:ncfZ7giE0
>>518
雨煽りさん、こんばんは。

>「本迹に立て分けることが間違い」だと言われている人もおられるのは解りますが、
>常識で考えてみて下さい。
>「衆生が本・仏が迹」を間違いだと書き込まれている人に対して
>「衆生が本では無い」「仏が迹では無い」という文証を上げて下さい。と言っているのです。
>
>「立て分けることが間違い」だと言われる人になら、
>「立て分けることが間違い」という文証を上げて下さい。と言います。


「衆生が本・仏が迹」を間違いだと言われる方は「仏が本・衆生が迹」と主張されているという意味ですか?
「立て分けることが間違い」と言われる方とは別に「仏が本・衆生が迹」を明確に主張されている方がいる
ということですね?

私が見たところ、「仏が本・衆生が迹」と主張される方を見つけることはできませんでした。よろしければ、
「仏が本・衆生が迹」と明確に主張されている方が、どのように書き込みされているか教えて頂けませんで
しょうか?

522佐藤義徳 ◆4cVqan2W..:2009/06/26(金) 23:52:48 ID:KryGZVx.0
何方か、この二つの御文を通解していただきたいのです。
よろしくおねがいいたします。m(__)m。


親父釈迦仏の入滅の日をば阿弥陀仏につけ又誕生の日をば薬師になしぬ、八幡大菩薩をば崇るやうなれども又本地を阿弥陀仏になしぬ、本地垂迹を捨つる上に此の事を申す人をば・かたきとする故に力及ばせ給はずして此の神は天にのぼり給いぬるか、但し月は影を水にうかぶる濁れる水には栖ことなし、木の上・草の葉なれども澄める露には移る事なれば・かならず国主ならずとも正直の人のかうべには・やどり給うなるべし。

四条金吾許御文  1197ページ


我が釈尊・法華経を説き顕し給いしより已来十羅刹女と号す、十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体の異名・本地垂迹の利益広大なり、日神と月神とを合して文字を訓ずれば十なり、十羅刹と申すは諸神を一体に束ね合せたる深義なり、日蓮の日は即日神・昼なり蓮は即月神・夜なり、月は水を縁とす蓮は水より生ずる故なり、又是生とは日の下の人を生むと書けり。
は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり、今久遠下種の寿量品に云く「今此三界皆是我有主君の義なり。

日蓮産湯相承事  879ページ

523夕焼け:2009/06/27(土) 14:55:52 ID:sZcjHcOQ0
「人本仏迹」について。

沖浦さんの主張を考えると、「人本仏迹」という言葉は適当ではないと思います。

普通に読むと、人が本地で仏が垂迹ということだが、
逆にすると、「仏本人迹」で仏が本地で人が垂迹となる。

このような四字熟語は「神本仏迹」という造語を連想させられるが、
神が本地で仏が垂迹、つまり神の分身または影が仏となって地上に現れたとするもので、
戦時中の正宗の僧が権力におもねいて編み出したものだ。

凡夫(人)も仏も見かけや生物学的には人間以上でも以下でもない。
額を割られれば血がでるし、船に酔えば苦しむし、風邪を引けば食事も喉を通らないし、
邪義には怒りをあらわにするし、母の病に祈らずにはいられない。
要するに、日蓮大聖人の実在そのものが本来の仏(本門の仏)であり、
教機時国に当てて現れる、人とかけ離れた姿の仏は、
未顕真実の仏(迹門の仏)で本来の姿ではない。
いわゆる、凡夫(人)が本仏で仏(色相荘厳)が迹仏の本迹は判るが、
人と仏を二元論的に上流下流論的に本迹で表現してしまう、
この四字熟語はどこかおかしいし、誤解を生むと思う。

人と仏を別のものという前提で比較しているから、おかしくなる。
人と仏は別の存在とするのは釈迦仏法。
人と仏は同じ存在とするのが日蓮仏法。
仏も人なんだから、本も迹も無い。

どうしても表現するなら、「人本仏本」だが、
わたしなら「人即仏」とします。
人は信、即は南無妙法蓮華経、仏は日蓮となります。


「御本尊は道具」について

この言葉も独り歩きして誤解を生む言葉です。

かつて戸田先生が御本尊を幸福製造機とおっしゃったことがあるが、
あくまでも譬えで話されたことで、
御本尊をその辺の掃除機や洗濯機と同じだとは言ってません。
御本尊を単なる道具でしかないとするのは誤りです。
母親は自分が生まれてくるための道具に過ぎない、というようなものです。

大聖人は法華経の一字一句は生身の仏だとおっしゃっています。
御本尊には自分の命がそそがれているともおっしゃっています。
土も石も草木も動物も人も、宇宙のあらゆる存在は妙法の当体であり、
御本尊は大聖人と信じるのが、わたしたちの信仰ではないでしょうか。

御本尊に唱題し、人はその本地を観じているのです。
悪事を見て、悪口を聞いて、ふつふつと怒りを覚えるように、
御本尊に唱題することで、ふつふつと仏の生命が湧き上がるのです。

御本尊は御本尊。
あとは人の問題ではないでしょうか。
衣裏繋珠の譬えのように、譬えとして物に置き換えるのはいいですが、
道具にしか過ぎないと誤解されないよう、言い方を工夫すべきです。

525胸やけ(コカコーラ急に飲み過ぎて):2009/06/27(土) 17:39:35 ID:8FNX.yWoO
どうも。日々朗らか(大勝利)ですm(__)m。
仕事が終わり、喉が渇いたのでコカコーラを飲んだんだけど(^_^;)。急に飲んだのでクルチイです(^_^;)。
で……これから”夕焼けさん”と、”朝焼けさん”で対話が進むのでしょうか?。

であれば、期待します。
お続けください。

526雨煽り:2009/06/27(土) 17:39:42 ID:NjA8zkPc0
>>521
ぜんまいさん

もしも、本当に、本迹に立て分けることが間違いだ。と思っておられたとしたら、
何の為に『生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり云云』を引用するのでしょうか。
本迹に立て分けることは間違いだけど、仏を本と立てる本迹は正しい。とでも言いたいのか、
それとも、本迹に立て分けることが間違いだから、『人は迹・仏は本なり』も嘘で偽書だ。とでも言いたいのでしょうか?

どちらにしても、その程度の論、その程度の教学だという事でしょう。
道理が通りません。論理として成り立ちません。
自らが引用した文証によって自らの主張の破綻を招きます。未熟な所以でしょう。

本迹に立て分けることが間違いだ。と言われる人は『仏界は本・唱うる我等九界は迹なり』をも含めて
百六箇抄を否定する。という事だと思われますが、どうでしょうか。

私のROMした限りですので、確かな事は言えませんが、同じ引用をされていた人は4名程おられましたよ。

余談ですが、例えば『有情界に限り』を、御書とは全く逆の意味に読まれている人もおられましたが、
他の人からは立派な教学だと思われている様です。所詮そんな程度なのです。

「人が本・仏が迹」を、認めようが認めまいが自由ですし、いいのですが、間違いだ。と言う事が間違いで、
邪義だと言う人は文証を上げて下さい。と主張しているのです。
その趣旨から言えば「立て分けるのが間違い」だとの文証でも良いと思います。
しかし、違う立て分けを、いくら引用しても、否定は出来無い。という事です。

私が引用している講義録が理解出来れば、かなりの範囲で理解できるようになると思います。
その中に御義口伝も書かれていますから、文証として、何ら遜色の無いものと考えます。
私の書き込んでいる「本迹」は「事理」とか、事理の立て分けとかは理解できますか?

前回と重複しますが、何処に書いてあるのか。は、私にはお答え出来ませんので、ご了承下さい。

527ぜんまい:2009/06/27(土) 22:11:53 ID:xDX/IlFo0
>>526
雨煽りさん、こんばんは。話がかみ合いませんね(苦笑)。

私は「衆生は本ではない」、「仏が本・衆生が迹」であると主張されている方が、どのように書き込みされているかを
自分の目で確かめてみて、考察したいと考えていました。しかし、自分でロムした限りでは見つかりませんでした。

雨煽りさんが(理由はわかりませんが)、2回も「私にはお答え出来ません」との回答でしたので、これ以上お願いしても
無理でしょう。

前にも質問させて頂きましたが、雨煽りさんの考えとして「衆生が本・仏が迹」を間違いだと言われる方は=「仏が本・衆生が迹」
と主張されているというとらえ方ですか?

528ぜんまい:2009/06/27(土) 22:45:46 ID:xDX/IlFo0
>>523
夕焼けさん、はじめまして。

夕焼けさんの書き込みに興味を持ちました。尚且つ、分かりやすい説明ありがとうございます。

529雨煽り:2009/06/28(日) 00:16:42 ID:NjA8zkPc0
>>527
ぜんまいさん

私もかみあわないなと思ってました。(笑)
きっと、私により他の人に聞かれた方が良いかと思います。

>「衆生が本・仏が迹」を間違いだと言われる方は=「仏が本・衆生が迹」と主張されているというとらえ方ですか?

「=」で限ったものでは無い。と思います。と言うより、法では無く感情的に非難されてる人が多いと見受けられます。
例えば、沖浦さんが「自分が本・御本仏と雖も迹」旨の発言をされた事とか、
「(人が本・仏が迹と言ってる)私が正しいのです」旨の発言をされた事とかが気に入らないのでしょうね。
法と解釈すれば「衆生が本・仏が迹」の具体論ですから、間違いではないのですが…

それと、反論するとなれば、本迹の立て分け方が間違っているか、本迹と立て分けることそのものが間違っているかの
どちらかしか無いと考えます。
私のように、どちらも間違いでは無い、立て分けが違うだけだからどちらでもいい。と考える人は反論などしないと思います。

立て分けの違うものを引用して、道理の通らない反論にならない反論を何時までも続けて、
邪義だとまで言われるのですから、「衆生が本では無い」という文証を上げれば、話は済みます。
邪義だと言うからには、確たる根拠があるのでしょうからね。

まぁ、「漫荼羅」という字を間違いだと言うくらい浅識な人のようですから
どれほどの根拠なのかは疑問ですがね。

ぜんまいさん、また今回もかみあいませんでしたか?(笑)

530日々朗らか(大勝利):2009/06/28(日) 07:18:01 ID:8FNX.yWoO
ぜんまいさんo(^-^)o♪。お久しぶりです(^0^)/♪。

私から”ピントの合ったヒント”を(笑)(^_^;)♪。
参考にしてみてください。

【人本仏迹】【人迹仏本】

これらはデジタル(二進法)なんです。

夕焼けさんは、それに気づいておられ【○即○】に置き換えました。

そもそも【その二進法の表現】は、沖浦さんの”アナログ(十進法)な書き込み”を、一部のヒト(天城さんやいぬ。)が二進法にムリクリ変換した造語です。


はい。これをヒントにしてください。

ってコレ、意味わかりませんかね(^_^;)(あはは汗)?。

531夕焼け:2009/06/28(日) 09:13:48 ID:IgnaZtmY0
おはようございます。

今日は、出かけて家に居ません。
帰ってきたらビールを飲んで寝ようと、今からたのしみにしてます。

ところで、沖浦さんの発言の言葉は、おかしいと思うところ多々あります。
一歩間違ってしまうと危うい とハラハラするところでもあります。
しかし、その心情には共感をしますし、まったく同じくするところ多です。

私が考えるところ、本迹は絶対的な認識の範疇にはない概念だと思うのです。
つまり、何々とすると、何々は本、何々は迹、という使い方になります。
たとえば、仏は寤、凡夫(人)は夢、というと、仏は本、人は迹となります。
本迹だけ見ると、沖浦さんの主張と正反対になります。

時間がないのでここまでとします。

532沖浦克治:2009/06/28(日) 23:03:05 ID:AJ3hr85o0
 夕焼けさん、ぜんまいさん

 明日朝書きますね。

533沖浦克治:2009/06/29(月) 06:50:53 ID:AJ3hr85o0
 朝焼けさん、自己紹介をどうぞ。
 書き込みは削除いたします。

534沖浦克治:2009/06/29(月) 07:02:09 ID:AJ3hr85o0
 夕焼けさん、おはようございます
 
 少しお答え致します。
 人本仏迹との名前は、神本仏迹に引っ掛けて眺め人が作った造語ですね。
 あれが精一杯の造語でしょうね。
 元々教学を知らない連中です。
 論では勝てないので、イメージで頑張る種類の人なんです。
 現実社会では無力で、ネットで吼えて戦う気持ちになっている。
 この境涯の顕れが、あの造語ですね。

>どうしても表現するなら、「人本仏本」だが、
わたしなら「人即仏」とします。
人は信、即は南無妙法蓮華経、仏は日蓮となります。

 わたしならと言われていますね。
 どうぞご自由にしてください。
 貴方のご意見は貴方のご自由です。

>かつて戸田先生が御本尊を幸福製造機とおっしゃったことがあるが、
あくまでも譬えで話されたことで、
御本尊をその辺の掃除機や洗濯機と同じだとは言ってません。
御本尊を単なる道具でしかないとするのは誤りです。
母親は自分が生まれてくるための道具に過ぎない、というようなものです。

 ここは貴方の幼い教学が如実です。 
 御本尊様はね、物質ですよ。
 尊い母親の出産と比較する事自体、人を蔑む行為なんですよ。
 よくないですね。

>御本尊は大聖人と信じるのが、わたしたちの信仰ではないでしょうか。

 どうぞこのあたりはご自分の信条の部分ですので、お好きにしてください。
 私もほとんど同じ意見ですがね。

>御本尊に唱題することで、ふつふつと仏の生命が湧き上がるのです。

 この書き方でわかりますね。
 貴方はふつふつと沸きあがったことがないですね。
 経験していればこう言う表現にはなりません。
 所詮理屈の教学です。
 よくないですね。
 貴方はね、ネットで長文書くより、現実生活で同苦の祈りをする事です。
 そこがスタートなんですよ。

>道具にしか過ぎないと誤解されないよう、言い方を工夫すべきです。

 『戒壇様といっても物で出来ている。
 いつかはなくなっちゃうんです。』(趣意)

 コメントをどうぞ。

535沖浦克治:2009/06/29(月) 07:16:48 ID:AJ3hr85o0
 ぜんまいさん、おはようございます

 雨煽りさんは、人が本、仏が迹。を破折するための絶対条件として、自分はこの問題をどう捉えるか?と言う立場の表明が必要ですあって、自分の立場を明確に出来ない人は、他者と議論は不可能だと言われているのです。
 例えば、会議で誰かに、貴方の考えはテーマの趣旨を理解していない。と言う人は、テーマの趣旨を理解している必要があります。
 相手に、なるほどでは貴方はテーマの趣旨をどう理解されていますか?
 と切り返されて答える必要がありますから。
 でないと、相手が趣旨をどのように取り違えているかを説明できません。
 もし、そう聞き返されてまともに説明できない場合、反対のための反対意見として扱われ、発言者は以後その会議では信頼をされなくなります。
 無責任な人だと判断をされてしまう。
 これは世間での常識なんです。

 眺め人はこのような人ですね。
 人が本、仏が迹。は、仏法の道理を取り違えている。と言いますね、あの人たちは。
 ならば、自分がどのようにその道理を取っているか?
 これを明確にせねばなりません。
 所が、貴方がどう読んでも人が迹で仏が本だとの発言が見あたらない。
 これは事実ですね。
 直接的な表現がないのです。
 自信の確たる意見を持っていない連中なんですよ。

 私はね、この点に最も大きな眺め人の欠点があると思います。

536沖浦克治:2009/06/29(月) 07:18:44 ID:AJ3hr85o0
 夕焼けさん

>ところで、沖浦さんの発言の言葉は、おかしいと思うところ多々あります。
一歩間違ってしまうと危うい とハラハラするところでもあります。

 別に貴方の心情に保険をかけるつもりは私にありません。
 このあたりもご自由にどうぞ。
 貴方のこの感覚には興味をもてませんのであしからず。

537夕焼け:2009/06/29(月) 09:23:12 ID:75l2QCa.0
沖浦さん、おはようございます。
そして、ご返事ありがとうございます。

時間がないので、御要望のコメントします。

>>『戒壇様といっても物で出来ている。
 いつかはなくなっちゃうんです。』(趣意)

 異存ありません。
 これは、物に限らず そうですね。
 物質でいうと物質そのものは無くなりません。
 様態を変化させるため、人にはそう見えます。
 (分子・素粒子の世界での話しですが、)
 (もっともこの範疇では物質と物資でないものの境界が不確かなものになります。)

 それと、いろいろ大変でしょうが、
 そう、つっかからないで、お話できると助かります。

538沖浦克治:2009/06/29(月) 16:37:50 ID:AJ3hr85o0
 夕焼けさん

 つっかけていませんよ。
 ただね、貴方は少しばかり思い込みが激しいと思うんです。
 私は御本尊様を単なる道具だと言った事は一度もないですね。
 人類史上最高の発明品だと言っています。

 少し先入観をなくしてどうぞ。

539夕焼け:2009/06/29(月) 21:51:09 ID:75l2QCa.0
沖浦さん、こんばんは.
よく、読んでいただきたいのですが。

最初に、
>「御本尊は道具」について
>この言葉も独り歩きして誤解を生む言葉です。
最後に、
>道具にしか過ぎないと誤解されないよう、言い方を工夫してください。
と書いてあるように、

沖浦さんの主張の真意を前提に、少し擁護してるつもりなのですが、(全面的ではないですが)
未熟な書込みで、反省いたします。

それと、大変でしょうから、
総てにコメントいただかなくても、わたしはかまいせん。
必要だと思うとき、意義があると思うときだけでいいですよ。

最後に先生の言葉を載させていただき、反省といたします。 

対話は、自説に固執した自己主張のぶつけ合いではない。
単なる言葉の往復でもない。
対話を通して、互いの語る言葉の「意味」を共有し、理解しあうことである。
そして、新たな価値を創造しゆく作業なのだ。

人間世紀の光 -192- から

540沖浦克治:2009/06/29(月) 22:08:51 ID:AJ3hr85o0
 夕焼けさん

 言葉が独り歩きして誤解を生むことはありますね。
 私も注意していますよ。 
 真面目に読むならわかります。
 でもね、何が何でも私を邪義の教祖にしないと困る人たちがネットをこれまで仕切っていたのです。
 この人たちはね、正常な意見は理解できませんし、自分に都合の悪い意見は認めません。
 ですので、あまりこの連中の反応は考慮しないのです。

541粛々坊:2009/07/01(水) 00:22:08 ID:VUuZ458.0
沖浦氏の「漫荼羅と御本尊の違い」をどう解釈したらよいか悩んでいます(笑)。

漫荼羅が本迹では「迹」・御本尊は「本」ですか?

542沖浦克治:2009/07/01(水) 05:28:22 ID:AJ3hr85o0
 粛々坊さん

 曼荼羅は御本尊様と同じですね。
 自分の己心の妙法が自分の本尊です。 
 この場合自分の本来持っているものですので、本尊とは言いますが、私は御本尊とは言いません。
 御は敬語ですね。
 自分には付けませんから。

543沖浦克治:2009/07/01(水) 06:09:25 ID:AJ3hr85o0
曼荼羅は、虚空会に建った宝塔を書き写したもの。
 御書にありますよ。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)

 『すりかたぎ』とは、書き写すとの意味ですね、現在の印刷やコピーです。
 お曼荼羅は虚空の宝塔を書き写したもの。ですので、宝塔が本来の姿で本、お曼荼羅は書き写されたもので迹です。
 双方の対比では必然的にこうなります。
 
 では、虚空の宝塔は何を書き写したものか?
 先生のご指導にありますね。

 『この宝塔は、衆生己心の妙法を虚空に写し取ったものですから迹です。
 衆生己心の妙法が本です。』(趣意)

 これではっきり致しました。
 お曼荼羅は、宝塔に対して迹。
 宝塔は、衆生己心の妙法に対して迹。
 ですので、衆生己心の妙法は双方に対して本。
 お曼荼羅は他の二つに対して必ず迹。

 粛々坊さん、これね、物凄く単純なんですよ。
 所が複雑にして飯食って多種の人がいるんです。
 日蓮正宗という宗派のボンさんですよ。
 以下に彼らの邪義を貼っておきます。
 天城さんや、恋さん、その他の眺め人が、この通りの意見を何度も何度も書いていますね。

 【破邪顕正】創価教義検証館 から、抜粋引用。

 池田名誉会長と教学部幹部は、「如来神力品第二十一」における釈尊から地涌の菩薩への付嘱を題材にとって、
仏と九界の衆生との垣根を取り払い、「凡夫でしかない」という従属的な信仰的立場から、
「凡夫こそ仏なのだ」「人間こそが最高に尊貴なのだ」という主体的な信仰への変革こそが法華経の心 であるとしている。
その文証として日蓮大聖人御書全集から『諸法実相抄』の 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(全集P1358)
同じく、『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』(全集P1359)を、その究極の表現として挙げ、
 「信仰実践者である衆生・凡夫こそ本仏であり、教えを説く仏は衆生の影(迹)の役割となる。
であるから、仏は我等衆生にとって主師親三徳を備えているのではなく、実は我等衆生が主師親三徳を被らせることによって仏を尊貴たらしめているのである。」
 「凡夫こそ本仏。仏は迹仏にすぎない。」
という、まさに「仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言」であると宣揚している。
 さらに、「絶対者と思われている神仏は、 実は凡夫=人間の影であり、用(働き)であり、人間のための手段にすぎない」として
「人間のための宗教」の大宣言であるとし、「人間が上、仏が下」とする創価学会独自の法義解釈を展開している。

544沖浦克治:2009/07/01(水) 06:21:01 ID:AJ3hr85o0
名誉会長  飛躍した言い方になるが、結論から言えば、人法一箇の南無妙法蓮華経如来の功徳を賛嘆しているのです。

 「久遠実成の釈尊」も「上行菩薩」も宇宙の御本仏であられる南無妙法蓮華経如来の「迹(影)」です。

   南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。

 その十界のうちの「仏界」を、法華経では「久遠実成の釈尊」と「多宝如来」として説き、南無妙法蓮華経如来の「九界」を「上行菩薩」等として説いたのです。

   同じ根本仏の己心の仏であり菩薩です。だから、ここでは南無妙法蓮華経如来を賛嘆してもしきれないと言っていると拝してよい。

南無妙法蓮華経如来は、諸仏を生んだ「根源の師」ですから、師匠を讃えていることでもある。

545沖浦克治:2009/07/01(水) 06:52:01 ID:AJ3hr85o0
 よく眺め人たちが、私が

 自分の人生は自分自身が当然本。であるから、ご本仏様である大聖人様も、自分自身の人生に限れば迹のお立場となる。

 これはね、依正不二の立場からの本迹の立て別けです。
 大聖人様を迹仏だとは一度も言っておりません。
 しかし、天城さんや恋さん、河内さん、公爵さん、マグマグさん、小野さんたち眺め人さんは、これが理解できません。
 天城さんは以下の愚論を唱えていますし、これらの方々もその天城さんの愚論を賞賛しています。
 
 以下彼の掲示板より抜粋引用。

 沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を、正当と誤解している会員がいるようなので、検証してみたい。
 該当箇所は下記の記述であるようだ。
「池田先生が、曼荼羅は虚空会の儀式を紙に写し取ったものだ。(趣意)と言われている。 そして、虚空会は迹。と明言されておられる。虚空会が迹で、写し取った曼荼羅が迹は理の当然じゃないですか。」
これについて、下記を文証として、氏の論が正しいと考えているようである。
 〜中略〜
 創価学会教学では、日蓮大聖人と南無妙法蓮華経とは人法一箇であり、日蓮大聖人や根源の法を「迹(影)」などと定義しない。「人が本、大聖人は迹」とする沖浦氏親子の論は、大聖人の仏法を歪曲化した邪説であることは、一目瞭然である。
 〜引用おしまいです〜

 ホラね、この人嘘付いてますよ。 
 この人愚かです、大聖人様が人間である事忘れています。 
 人間だから、大聖人様はご自身の人生で当然本ですよ。
 でも、同じ人間でも自分が自分の人生では本。
 当たり前じゃないですか。
 若鷹で長年戦う?と、こうなる見本ですね。
 まんま、日蓮正宗教学です。
 何故創価名乗るんでしょうね〜〜。

 この人ね、戒壇様本懐論ですよ、きっと。
 天城さんに宿題出しておきましょう。

 ① 戒壇様は大聖人様の御本懐である

 ② 本懐ではない

 ③ わからない

 三択ですよ。

546夕焼け:2009/07/01(水) 17:49:10 ID:75l2QCa.0
人と仏の本迹について、

仏については前に >>523 で示しましたが、
人について考察すると、

不信によって生命が無明に覆われ、六道に迷う姿は「迹」。
信をもって御本尊に唱題し、人に仏法を語り続ける姿は「本」。
人にも「本」と「迹」があるのです。
この視点がないと「人が本」ということも、変な方向に向かうことになります。。

この視点から見ると、
御本尊は「迹」といえども「本」なのです。
人は「本」といえども「迹」なのです。

かごの中の鳥がさえずると、外の鳥が呼び寄せられ、
外の鳥が鳴くとかごの鳥は外に出ようとします。
かごの扉が開けば、鳥は外に飛び出し、供にさえずり、
大空に羽ばたいていきます。

これは御書に語られた譬えです。
御本尊に唱題し、仏法を語ることが、扉を開く力となります。

言葉・文字・影像は実物・実態を形容化・形象化したもので、迹と言えます。
実物・実態は、本となります。
言葉・文字・影像は実物・実態そのものではないが、
言葉・文字・影像でしか人は表現できない。
(言葉・文字・影像の限界がここにあります。)
しかし、表現した言葉・文字・影像は、
人の心に働きかけます。実物・実態を浮かびあがらせます。

この意味から、虚空の宝搭を「本」として御本尊は「迹」と考察できます。
虚空の宝搭といっても、釈迦が人の己心の宝塔(妙法)を表現したものだから、
人の己心の妙法は「本」となります。
ここで注意しなければいけないことは、人=人の己心の妙法ではありません。
簡単に言うと、鳥+かご=鳥でないのと似ています。
御本尊は日蓮大聖人の己心の妙法を「本」とした「迹」と考察できます。
御本尊に南無妙法蓮華経日蓮となっていることや、御書の言葉が根拠です。

人に限らず生命が尊いのは、日蓮大聖人と同じ、この己心の妙法を内包しているからです。

547夕焼け:2009/07/02(木) 18:11:28 ID:75l2QCa.0
こんばんは。

言葉というのはむずかしいですね。
「迹」ですから、考えや思いを語りきれない。
伝えきれないもどかしさがあります。

・火事場の御本尊
・依正と本迹
・一大事の秘法と題目
・大御本尊と本懐

と話をしたいことは、まだまだあるのですが、
正念場の戦いがやってきておりますので、とりあえず、ここまでといたします。
また、近いうちに来させていただきます。

548沖浦克治:2009/07/02(木) 18:26:41 ID:AJ3hr85o0
 夕焼けさん

 何時なりともどうぞ。

549沖浦克治:2009/07/03(金) 07:42:47 ID:AJ3hr85o0
 命の顕れ方です。

 大聖人様の人としてのお姿は迹ですね。
 少し微妙な問題ですが整理いたしましょう。

 『下種最後直授摩頂の本迹 久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本人は迹なり。』
 (百六箇抄)

 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
 (百六箇抄)

 この御文が本物かどうか?
 ひとまずおきます。
 人として生きる姿は、命の永遠性から見ると、迹です。
 命そのものが己心の妙法で本で仏。
 私はこのように思います。
 ですので、私共も、大聖人様も現世は仮の姿で迹。
 命そのものが本です。

 『故聖霊は此の苦をまぬかれ給いすでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず、』
 (上野殿後家尼御返事)

 命そのものは火にも焼けない。
 このように仰せですね。

 方便現涅槃。と言いますが、死ぬ事は方便だと説かれます。
 ですので、生きる事も方便です。
 命が、死んだり生きたりする事自体が命の性質の現われで、本質は更に深いところにある。
 これが仏法です。

 若退若出が命の本性です。

 『生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり』
 (御義口伝巻下)

 ですので、大聖人様も私共もこの世は仮の姿です。
 そして、仏と衆生も仮の姿なんですよ。

550沖浦克治:2009/07/06(月) 06:45:12 ID:AJ3hr85o0
 富士ボーのクレアさん

 貴方完全に間違ってますよ。
 憲法。ってご存知ですか?
 国の法の大原則です。
 法律は憲法に違反すると廃止されます。
 この憲法に当たる部分がね、大聖人様の仏法では、

 仏法は全体が衆生のため!

 なんですよ。
 あらゆる仏法の発想や教義の研究は、この観点を忘れたり、離れたりしてはいけないのです。
 その上で、本迹を思索なさいね。
 頑張るんですよ。

551沖浦克治:2009/07/06(月) 07:36:54 ID:AJ3hr85o0
 クレアさんにかぎらず、あちらこちらで本迹を論じる人たちね、物凄く大切なことを置き去りにしてます。
 マグマグさん、天城さん、恋さん、白猫さん、その他の宗門教学支持の人たちですね。

 仏法が人のためか?
 人が仏法のためか?
 
 自分の寄って立つ位置がどちらか?
 これを全く明快にしませんね。
 私はね、2002ねん9月からネットやってます。
 最初から、

 仏法は人のため教えだ。

 宣言しています。
 ところがね、眺め人の方々、小野さん筆頭に全くこれには触れませんね。 
 眺め人さん、貴方方一体どっちのお立場ですか??
 人が仏法のためならね、創価やめて日蓮正宗に行きなさい。
 創価とは正反対ですから。

 で、一体どっち〜〜???

552沖浦克治:2009/07/06(月) 20:22:58 ID:AJ3hr85o0
 7月号の大白蓮華お読みですか?
 63ページの上の段に、一大事。に関する先生のご指導が載っています。

 『幸せな生活の源泉となる、一大事。とはなにか。
 それは信心です。
 これが無ければ最後の勝利はありません。
 信心が一大事です。』

 一大事とはね、一大秘法です。
 それが、信心なのです。
 信心についての先生のご指導です。

 『観心とは信心です。
 我が己心の仏界を観じる。
 すなわち、我が己心の仏界を信じることなんです。
 そのための本尊を五の五百歳に始めておいたよ。
 こう読むんです。
 我々凡夫が仏になるためには本尊がいる。
 その本尊だよ。
 信心のための本尊だよ。
 本尊のための人間じゃないよ。
 だから、大聖人様はありがたいんです。』(趣意)

 これが創価の原点ですよ。
 これが信じなれないなら、サッサト宗門にいく方がいいですね。

553沖浦克治:2009/07/06(月) 22:05:39 ID:AJ3hr85o0
 同じく大白蓮華の53ページです。

 大きな白抜き文字で、


 われら衆生こそ

     妙法蓮華経の当体


 こう書いてありますね。
 読んでますか?
 眺めててわかりませんよ。

554沖浦克治:2009/07/07(火) 08:22:10 ID:AJ3hr85o0
 仏が法華経で、お曼荼羅で、自分の命の外にある。

 外道ですね。

 『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。』
 (一生成仏抄)

 この、・のところには以前、粗と言う文字があてられていました。
 粗末な法との意味ですね。
 いくらお題目を唱えても、お曼荼羅が法華経で仏であって、自分の中には法華経も仏も存在しないと思うなら、それは妙法ではなく、粗末な考えなんだよ。
 お題目を唱える時は、自分の一念に向かって唱えなさい。
 このように仰せなんです。
 お曼荼羅はそのための道具ですね。
 更に、後段には、

 『然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教還同外見と釈せり、然る間仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり、』

 だから、天台はもし自分の命が仏なんだと信じないなら、罪は滅しないし、修業は苦行でしかない。
 その様な人たちは、仏教を学ぶ格好をしている、外道なんだよ。
 こうご指摘です。

 曼荼羅至上主義者はね、外道なんです。
 戒壇様本懐論は外道です。
 この御文に照らし、ご本懐は戒壇様じゃありません。
 もし、そうなら、こう言う事を仰せになるわけ無いですよね。

555雨煽り:2009/07/08(水) 00:36:39 ID:NjA8zkPc0
日顕書写から日寛書写の御本尊に交換された人は沢山おられます。
私もそうですからね。

一言に御本尊と言っても、常住御本尊もあれば御形木御本尊もあるし、
その他多種の御本尊があります。

何故、曼荼羅御本尊は多種あるのでしょう。
何故、曼荼羅御本尊は交換出来るのでしょう。

自己の生命は交換など出来ません。
題目も交換などありえません。
不変真如も交換などありえません。
もちろん己心の妙法も交換などありえません。

「衆生が本・仏が迹」を批判非難している人は
何故、曼荼羅御本尊は交換出来るのか
自説との整合性がとれますか?

甚だ疑問に思いますが…

556沖浦克治:2009/07/08(水) 05:30:12 ID:AJ3hr85o0
 雨煽りさん、おはようございます

 私が戒壇様本懐論を疑うきっかけは、お形木様と常住様の二種類のご本尊様の存在でした。
 更に葬式で使う導師曼荼羅を見て疑問が深くなったのを覚えております。
 当時は御本尊様に対する質問が禁句の時代でした。
 しかし胸中の疑問は押さえがたく、昭和52年から53年にかけての池田先生のご指導に接し、氷解いたしました。
 物凄く運がよかったと思います。

 今、曼荼羅原理主義者は、眺め人となって、最後の足掻きをしております。
 ノルマンディー上陸作戦の時、ある兵士が海岸で心臓を撃ち抜かれ、200メートルを走ってから息絶えました。
 戒壇様本懐論者達は、最後の200メートルを走っているのですよ。

557佐藤義徳 ◆4cVqan2W..:2009/07/09(木) 23:12:57 ID:KryGZVx.0
9 :佐藤義徳 ◆4cVqan2W..:2009/07/09(木) 15:53:08
>>7
白ネコさん。 その通りですよ。

人間主義ですよ。

宇宙の森羅万象すべてが、衆生を取り巻く全ての環境が衣報でもあるが、妙法であり御本尊でもあります。 肉眼で見ることができます。曼陀羅も同じく肉眼で見ることができます。

衆生己心の妙法も御本尊であり正報に例えられます。
勿論、肉眼で見ることができません。

日本古来では、主にアイヌ民族が先住民族であると、政府は認め始めていますよね。
アイヌ民族の前身は縄文人であり、日本人の祖先なのです。

大陸からの北方系渡来人とは違いますが、どちらも日本人であることは間違いありません。

アイヌ民族は人間を取り巻く環境全てに感謝をし、【本】と捉え、祈りを捧げてきました。
衆生の生命には神は内在しないという考え方です。
これを一応は、多神教、偶像崇拝、曼陀羅崇拝と類似しています。

外道信仰とも言います。

私たち衆生己心の妙法そのものが御本尊です。
肉眼では見えませんが、正報に例えられます、衆生己心の妙法【本】の仏界を喩現させるには、お題目をあげることです。
これを内道信仰と言います。

日蓮正宗の内道信仰との違いを、スタンスの違いを明確にしなければなりませんよ。
白ネコさん、

558佐藤義徳 ◆4cVqan2W..:2009/07/09(木) 23:20:08 ID:KryGZVx.0

自称創価学会員、白ネコ氏の掲示板から引用転載。

13 :佐藤義徳 ◆4cVqan2W..:2009/07/09(木) 23:05:30
>が、曼荼羅本尊と衆生は、本迹関係にありません。

○ 白ネコさん、その曖昧さが宗門の邪義を認めることになるのですよ。

>その内実に「差別なし」(当然、信の一字が必要ですが)ですね。

○(信の一字)当然ですね。  「差別なし」この言葉は宗門に言うべきですね。

>だから、衆生の内在本尊も、大聖人様と同じく尊貴なのですから。

○ 当たり前のことですね。
 白ネコさん、分っているではないですか。
  宗門は、曼荼羅御本尊が【本】 大聖人様が建立した本門の戒壇が【本】 衆生己心の妙法は【迹】という教義を主張しているのですよ。

>つまり、日蓮大聖人の御精神のとおりの「実践」「実証」は、現在では
創価学会、そしてSGIにしかありません。
これは、繰り返し繰り返し、先生の指導にもあるとおりです。

○ 白ネコさん、分っているじゃないですか。 
 日蓮大聖人の御精神の血脈は創価学会、SGIにしかないことをわかっているのなら、
 日蓮正宗と同じ教義ではいけないですよ。
 創価学会は大聖人様から期待を一身背負い、広宣流布へと邁進する団体ですよ。
 日蓮正宗は、創価学会のの前進を阻止することに全力を注いでいる組織ですよ!
 日蓮正宗と同じ教義のスタンスを、大聖人様が許す訳がありませんよ。
よくお考えなさいね。

○ 平和への歩みを止めようとする、三類の強敵にはどのような対処をしたら良いのか?
 あなたは分っていますか?
 分っているのならば、破邪剣正という威勢を何処に向けたらよいのかは、おのずとわかることですよ。
 これが解からなければ、あなたの魂は創価学会にあらず、という事になりますが??



>正式な「仏法用語」に基づいて、教義議論をしないと、若鷹の皆さんも、相手にできなくなるのです。

>是非、正式な「本迹」に徹してみたらどうですか。
>そうすれば、若鷹に限らず、皆さんも、お相手してくれますよ。


○その上から目線、その言葉は、創価学会員というスタンスを取りながらも、

本来はアチラさん、【創価学会員成りすまし】という本来ののスタンスが丸見えですよ。(笑)。
他の創価学会員は騙せても、この私だけは絶対に騙されませんよ! 白ネコさん?

559沖浦克治:2009/07/14(火) 20:56:37 ID:AJ3hr85o0
 白ネコさんはね、曼荼羅至上主義者なんですよ。
 書き込みに如実でしょう。
 あの人はね、人の命より曼荼羅が大事なんです。
 それはさすがにいいにくいので、曼荼羅と拝む人に本迹はない。
 と、言い訳するんです。
 ところがね、本迹は立場の差でもあるんですよ。
 拝んで感激したり、決意したりするのは、拝む人で、お曼荼羅ではありません。
 この、行動する主体が本なんです。
 ピアノを弾いて感動を生む人がいて、コンサートで聴衆を魅了します。
 音はね、楽器から出ますが、音楽そのものはミュジシャンの命から湧き出ているのです。
 どんな立派なピアノがステージにおいてあっても、弾き手が弾いて初めて音楽が出ます。
 この、弾き手が本ですね。
 楽器は道具で迹です。

 お曼荼羅も全く同じ理屈です。
 所が、それは曼荼羅軽視だ。と、ありもしない屁理屈言って自分を正当化するんです。
 御書には、

 『経に云く「諸法実相」是なり、妙楽云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云、又云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」等と云云、』
 (日女御前御返事)

 このように仰せですよ。
 仏法は必ず世法である。
 こう仰せです。
 ですから、お曼荼羅だけは世法の範疇にない。
 これは明らかに邪義なんです。
 これじゃ困る人達がいますね。
 日蓮正宗と言う宗派の人です。
 お曼荼羅、特に戒壇様が、唯一無二で、人より大事なんだ。
 こう権威付けないと、自分達の宗派は存在できなくなるんです。
 だから、手を変え品を変え、紛らわしい理屈を考え出して、人が本、仏が迹を否定しますよ。
 その証拠にね、天城さんと言う宗門の方がいて、

 自分は人が迹で、仏が本だとは一度も言ってない。

 と、イケシャーシャーと言いますよ。
 回りも乗せられて、そうだそうだ、本来お曼荼羅と人で本迹なんかない。て、浮かれます。
 ところがね、大聖人様はそうはおっしゃらない。

 『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』
 (百六箇抄)

 あらゆる事で、本迹を弁えなさい。
 この様に仰せなんです。
 ですので、白ネコさん、天木さん小野さんはね、創価どころか、蓮祖門下じゃないのです。
 この方々も、御書にありますね。

 『第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云』
 (兄弟抄)

 紛らしく魔は競い起こる。
 従えば悪道に落ちる。
 畏れれば創価は出来ない。
 このように仰せです。
 あの人達紛らわしいですね。

 人のための法なら、人が本。
 法のために人がいるなら、人が迹。
 どっちかですよ。
 中間はありません。
 中間がぼんやりとあると思わせるのが、紛然。です。
 魔の本質です。
 だから、大聖人様は、

 『万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』

 と、紛然を阻止されておられますよ。
 騙されたらいけないですね。

 『いい事をやらないのは、悪い事をするのと同じだ』(趣意)

 牧口先生です。
 人の命こそが尊極の当体なんだ。
 創価の原点です。
 思想宗教の違いが多くのテロを引き起こし、尊極の人命が世界中で失われている現在、最も重要な思想です。
 これを世界中に、人間革命の運動。として広めることこそが、現代社会の最善なんですよ。

 それを、小理屈ひねりまわして否定する人。
 悪いことをする人なんですよ。

560雨煽り:2009/07/16(木) 10:28:22 ID:NjA8zkPc0
『迹門不変真如の理』
『本門随縁真如の智』
迹門と本門です。御書にちゃんと書いてありますね。
読めませんか?

本・迹は随縁・不変のことで、事・理で、俗諦・真諦です。
読めないのか、読んでも理解出来ないのか知りませんが、
これが理解出来なければ、私の引用した文証も理解出来ないでしょう。

まぁ、『難信難解』ですから理解出来なくても不思議はありません。
しかし、自分が理解出来ないからといって、邪義や邪論等と言うのは謗法です。
邪義・邪論と言いたければ、文証を上げてから言えば良いのです。が、
まだ一人も文証を上げた人はいませんね。

「人が本・仏が迹」を非難している人は、誰でもいいですから文証を上げてください。
「人が本ではない」もしくは「本迹には立て分けられない」等の文証を上げてください。
非難している人で、文証を上げられる人、誰かいないのですか?

もしかすると、『不変真如』『随縁真如』の意味が解らないのかな?
『真諦』『俗諦』の意味も解らないのかな?
『事』『理』も解らず『本』『迹』が解る訳無いでしょうね。

561沖浦克治:2009/07/16(木) 22:56:36 ID:AJ3hr85o0
本迹は、一面から捉えるならば、理論と行動の差ですね。
 理論が迹。
 大聖人様の仏法は、法それ自体は普遍真如の理です。
 お題目は変化しません。
 ではお題目を唱え祈り、行動をする。
 これは、随縁真如の智で本になります。
 現実に当てはめると、眺め人は教学は述べるが行動が無いので迹。
 私共は行動をするので本。
 こう言う立てわけです。
 
 『本当の教学は智慧です。
 それは全ての戦いに生きてくるのです。
 世間は逆です。信心なしで、行動するからうまくいかない。
 御書を通して髄縁真如の智をもってやっていくのです。』

 先生の当体義抄講義からです。
 要は、ネットと言う閉鎖空間で、ハンネと言う匿名性に隠れて、小理屈を言い合って戦った気分になっている人は、人生そのものが迹なんですよ。
 ネットで述べる、現実で戦う。
 このコンビネーションが上手く行ってない人は、髄縁真如の智のない、空回りの人生です。
 仏法者ではないですね。

562夕焼け:2009/08/11(火) 18:24:21 ID:CNUGShjo0
「本」・「迹」で捉えるとき、
絶待・相対の二妙で捉える必要があると思います。
特に大聖人の仏法では絶待妙の上から本迹を捉えていく必要があります。
頭は混乱しますが。(^^!

御本尊について考察するとき、
人が「本」だから自己の本尊に唱題すればいいなどと言い始めたら、それは邪義です。
これが、人が「本」という言葉の危うさで、鬼神・魔のつけ入るところです。 
用心いたしましょう。

御本尊は万物下種の種子といえるものです。
日蓮大聖人の教えのとうり、御本尊に唱題することが信心の根本で、
日蓮大聖人が示されたとうり、難を乗越え広宣流布に生きることが成仏の要諦ではないでしょうか。

563夕焼け:2009/08/14(金) 20:27:36 HOST:OFSfa-07p7-168.ppp11.odn.ad.jp
本迹について

本と迹は幾つかの捉え方があると思う。
考えられるものを列挙してみると、

一、理と事で捉える。
一、理と名で捉える。
一、体と用で捉える。
一、因と実で捉える。
一、法と相で捉える。
一、冥と顕で捉える。
一、内証と外用で捉える。

まだあると思うが、引用はまた次回。

いずれにせよ、日蓮大聖人は本迹殊なりと雖も不思議一としている。

564沖浦克治:2009/08/15(土) 06:29:54 ID:AJ3hr85o0
 本迹を最も世間で納得を得られる捉え方は、目的が本、手段が迹。でしょう。

 何のため、の、何が本、ためが迹。
 一言の中に本迹があります。
 そして、分割はふかのうです。
 セットですね。

 行為と、目的です。
 目的があっても、行為がないと達成は不可能ですし、目的がなければ正しい行為は起こせません。
 衆生救済という目的があってはじめて菩薩の行が可能ですね。
 衆生が本で、菩薩は迹ですが、菩薩の中だけでは、四弘誓願と言う誓いが本、そのための行動が迹。
 然しながら、行動にも本迹があります。
 誓願にそった行動が本、外れた行動が迹。
 本迹はいくらでも細かく判定可能です。
 
 仏法と衆生では、衆生のための仏法ですから、人が本、仏法全体が迹ですね。
 仏は仏法の中に含まれますので、

 仏が迹、衆生が本。
 衆生のみにかぎると、本来は仏様ですので、仏としての立場が本、人としての立場は迹になります。
 人は本来仏様ですので、自身の命が全て備えた仏であり、三大秘法も全て自身に備わったものだ。
 こう決める事が本覚です。
 虚空会とか、御本尊様はその説明です。
 これが、仏法の基本原則です。
 これを外すと、外道になります。

 『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。』
 (一生成仏抄)

 素直に拝すれば簡単に理解が出来ますね。
 所が複雑に読む職種の人がいます。
 日蓮正宗の僧侶と言う生業の方です。
 この人たちは、一切衆生と仏を別次元にし、その次元の狭間で受け渡しをすることがご商売です。
 イタコですね。
 霊界と現世の橋渡し役です。
 仏法では霊界はありません。
 若退若出が命の本質です。

 『又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、』
 (御義口伝巻下)

 イタコは不要ですね。
 同じく、凡夫のことを人間と言い、仏が本来で衆生が仮の姿。
 これが仏法ですから、ご本仏様と、法と、お曼荼羅があれば、誰でも成仏可能です。
 すると、僧侶は不要になりますね。
 指導者は必要ですが、僧侶と言う職業にはこだわる必要がありません。
 過たず方向を示せるコーチングが必要ですが、仏法は現実社会で開く教えなので、在家しかいりません。
 出家は不要です。

 曼荼羅至上主義の眺め人は、出家待望論ですね。
 邪義です。

565:2009/09/15(火) 18:52:51 ID:U5u.EwPE0
沖浦さん はじめまして
本迹についての 質問をしたいんですが よろしいでしょうか?
単なる質問です。

566沖浦克治:2009/09/15(火) 21:43:26 ID:AJ3hr85o0
 Rさん

 先ず自己紹介をどうぞ。
 その後ご質問をしていただいて結構ですよ。

567:2009/09/15(火) 23:09:52 ID:U5u.EwPE0
えっと 簡単ではありますけど、自分は学会2世で男子部に所属しています。
近辺の男子部や壮年部の先輩にはちょっと聞けないので、
直接掲示板で聞いてみようと思いました。
HNなので信憑性に欠けますけど、自称でもかまいません。
信心の体験については共感や納得できる部分もありますし、
ただ、僕の未熟な教学力ではわからない部分もありますけど、
書いている内容についての純粋な質問なので、ご迷惑でなければ、
お時間があるときでかまいませんので、教えてください。

いわゆる、人が本、仏法全体が迹というのは、
仏道修行を指して言われているんでしょうか?  
つまり、仏道修行の中で、人と法を本迹相対しているんでしょうか?

富士宮ボーイというサイトの掲示板で、
分けて相対できないとの主旨の書き込みを見たんですが、
ところが仏道修行としてみた場合、その中に
修行する人と、その為の法、という見方が出来ると思うんですが、
富士宮ボーイで書かれているような、人と法という見方ではなくて、
仏道修行を一つとして見たときに、その中に人と法があるという事なんでしょうか?

法のための修行ではなく、人のための修行ですから、
本分が人になり、余分が法に、相対出来てしまうと思えるわけです。
つまり、一見、人と法を直接、本迹相対しているように見えますが、
実のところ、仏道修行を本迹相対しており、その中に人と法があって、
本分が人になり、余分が法になるとの事なんでしょうか?

568沖浦克治:2009/09/16(水) 06:28:26 ID:AJ3hr85o0
Rさん、おはようございます
 貴方のレスの最初の部分を自己紹介のスレッドに貼っておきました。
 本迹に関してですね。
 仏道修行と言う観点では、修業をする人間が本、そのための法全体が迹。
 要するに主体はどちら側なのか?
 これが基本です。

 例えば、貴方や私が御本尊様にお題目を唱える。
 この時唱えると言う唱題行を行う私や貴方が本、お曼荼羅はもったいなくも迹。
 こう言うたて分けになります。
 創価のご観念文に、

 一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り

 とあります。
 ですが、南無の対象は迹、帰命する側が本。
 大聖人様の仏法はこう言う原則です。
 この場合、人が本であるから御本尊様軽視だ。と、浮かれ騒ぐ愚人も多々おりますが、捨てて置いて結構かと存じます。
 個人の矮小な思い込みと、創価思想は無縁のものでございます。

 『されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり」と判じ給へり、』
 (諸法実相抄)

 この通りです。
 何故今こう言う相対が必要なのか?
 世界広布のためです。
 世界中で起こる不幸の原因は、過てる宗教が原因です。
 その根源の一凶は、人が神や仏の下位に位置づけられる思想にあります。
 自爆テロに代表されるこれらの思想が、本来尤も尊いものである、人の命を神仏の名の元に虚しく散らす元凶となっております。
 仏法は、別けても大聖人様、別けても創価思想は、人こそ本よ、人こそ本仏よ。との革命思想です。
 この思想以外、世界の民衆を救済する法はございません。

 人が迹、仏特に曼荼羅が本との邪義は、日蓮正宗の26世、寛師の唱えた戒壇様本懐論が起源です。
 一大秘法が戒壇様との邪義は、宗門のもので、創価にはその考えはございません。
 以上ですが、他にご質問があおりでしょうか?

569:2009/09/17(木) 01:38:36 ID:U5u.EwPE0
回答ありがとうございました

行動を本迹されてるというのが分かりました
仏道修行、広宣流布、唱題にしても、本分となるものを本、他を迹。
個別にみたら人法一箇ですから、差別はないと書かれてますから、
行動、そのものの本質を本迹相対してますね。
そういう相対でしたら、御書や池田先生の指導と何ら矛盾しないと思います。
言わんとしていることが分かりました。

570沖浦克治:2009/09/17(木) 07:40:04 ID:AJ3hr85o0
 Rさん

 何時でもどうぞ。

571岩志九郎:2013/10/26(土) 13:41:53 ID:???0
新しい掲示板を見つけました。 宗教掲示板を紹介します。 

http://shizu.0000.jp/cult/index2.html
宗教@しずちゃん ■ ▼  宗教に関する話題です。
http://shizu.0000.jp/cult/index2.html

創価カルト、池田先生のスレッドが沢山あって、面白いですよ。
カルトの皆さんも、どんどん投稿しましょうね。


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