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本迹に関して対話するスレッド

477沖浦克治:2009/04/27(月) 05:43:29 ID:AJ3hr85o0
 東空さん

 またおいでなさいね。
 仏が迹が曼荼羅軽視?
 完全な間違いです。
 仏法の基本知識に欠けますね。
 
 仏法は人のための法です。
 人が仏法のためにあるのではないのです。
 これが創価思想の大原則です。
 大聖人様のご精神です。

 この点を先ず認識すべきですね。
 人のための法ならば、人は主体、法は従です。
 AのためのBは、文法上Aが本で主、Bが迹で従。
 これが当然の解釈です。
 ですから、法と人、どちらがどちらのためにあるか?
 これが理解できれば後は極めて単純明快なんですよ。
 人は迹だ。
 この人たちは仏法に無知です。
 人のために説かれる法が仏法ですから、この解釈は完全な誤りで邪義ですよ。
 そして、お曼荼羅も仏も一切は仏法の中に含まれて存在しています。
 ですから、お曼荼羅も仏も迹で従です。
 人は本です。
 この点をよく弁えてから御書を学びましょう。
 貴方があげた文証、

 「生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり云云。」(御書P867)

 人としての姿が迹で、本来は仏だよ。だから衆生は仮に人間の姿をしているが本地は仏なんだよ。
 このように読めばいいと思います。
 仮に人間の姿です。
 方便で死んだり生まれたりするでしょう。
 この世はね、仮の姿なんですよ。
 ですから、方便で死にますね。
 するともう人間じゃないです。
 人では無くなるのです。
 でもね、命はそのままで仏なんです。
 生死ともに仏です。

 『いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。』
 (上野殿後家尼御返事)

 ほらね、このように仰せです。
 簡単な事を複雑にしてしまってはダメですよ。


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