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本迹に関して対話するスレッド

546夕焼け:2009/07/01(水) 17:49:10 ID:75l2QCa.0
人と仏の本迹について、

仏については前に >>523 で示しましたが、
人について考察すると、

不信によって生命が無明に覆われ、六道に迷う姿は「迹」。
信をもって御本尊に唱題し、人に仏法を語り続ける姿は「本」。
人にも「本」と「迹」があるのです。
この視点がないと「人が本」ということも、変な方向に向かうことになります。。

この視点から見ると、
御本尊は「迹」といえども「本」なのです。
人は「本」といえども「迹」なのです。

かごの中の鳥がさえずると、外の鳥が呼び寄せられ、
外の鳥が鳴くとかごの鳥は外に出ようとします。
かごの扉が開けば、鳥は外に飛び出し、供にさえずり、
大空に羽ばたいていきます。

これは御書に語られた譬えです。
御本尊に唱題し、仏法を語ることが、扉を開く力となります。

言葉・文字・影像は実物・実態を形容化・形象化したもので、迹と言えます。
実物・実態は、本となります。
言葉・文字・影像は実物・実態そのものではないが、
言葉・文字・影像でしか人は表現できない。
(言葉・文字・影像の限界がここにあります。)
しかし、表現した言葉・文字・影像は、
人の心に働きかけます。実物・実態を浮かびあがらせます。

この意味から、虚空の宝搭を「本」として御本尊は「迹」と考察できます。
虚空の宝搭といっても、釈迦が人の己心の宝塔(妙法)を表現したものだから、
人の己心の妙法は「本」となります。
ここで注意しなければいけないことは、人=人の己心の妙法ではありません。
簡単に言うと、鳥+かご=鳥でないのと似ています。
御本尊は日蓮大聖人の己心の妙法を「本」とした「迹」と考察できます。
御本尊に南無妙法蓮華経日蓮となっていることや、御書の言葉が根拠です。

人に限らず生命が尊いのは、日蓮大聖人と同じ、この己心の妙法を内包しているからです。


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