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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

485避難民のマジレスさん:2022/08/05(金) 05:35:15 ID:xFpRaH6I0
2.10.世俗的な日常経験には入間と動物の区別はない  p256-257

  そして、動物等と区別がないからである。動物たちは聴覚等が音声等[の外界の対象]と接触し、不快な音声等の知覚が生ずると、それから退き、また快よい[知覚が生ずる]と、[それに向かって]前進する。[また]棒を持った手を振り上げた男を目の前に見て、「この男は私を打とうとしている」と考えて逃げ始める。[他方]手に青草を一杯持った[男]を見て、その男に向って行く。それと同様に、人間も、たとえ知性が発達していても、恐しい目付きをし、わめき、手に刀を振りかざしている、力の強い男を見て、その男から遠ざかり、そうでない男に向って進んでゆく。それ故に、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験に関しては、人間は動物と同じなのである。また、動物等のもつ直接知覚等の日常的経験は、周知のように、[アートマンと 非アートマンとを]識別しないことに基づいており、たとえ知性が発達していても、人間の直接知覚等の日常的経験は、[動物の]それと等しいことが経験されるから、当面163、[動物の日常的経験と]同じである、と結論付けられる。

  [反対主張]愚かな人々の場合には、その通りであるとしておこう。だが、学識ある 人々は、聖典と諭理に基づいて内的アートマンという真理を理解しているが、その人た ちの場合にも、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験が認められるのである。従って、認識根拠は、無明をもつ者のみに関係しているなどということがどうしてあり得ようか。
  [答論]これに対して[師シャンカラは]、そして、動物等と区別がないからであると答えているのである。確かに、[学識のある人々は]聖典と論理に基づいて、内的アー トマンが身体・器官とは異なる、と認識しているかもしれない。だが、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験の際には、[彼らもやはり]生命体にすきない のであって、[生命体としての]諸属性を超越することはないのである。というのは、 学識ある人々でも、[日常的経験に関しては]獣や鳥など一[それらが]愚かであることには異論の余地がない一の日常的経験と同様であることが経験されているからである。従って、それ(獣や鳥などの日常的経験)と同じであるから、彼ら(学識あ る人々)も、日常的経験の際には、無明を持っているのだ、と推論すべきなのである。 [『註解』本文中の]そしてという語は、[これまで述べてきた理由と以下の論議を]結 びつける意味で[用いられているので]ある。[すなわち。反対主張者の]提示した疑問を退ける根拠としてこれまで述べてきた理由が、[以下の論議でも]認識根拠が無明を持つ者に関係していることを確定するのであるというのが、[そしてという語の]意 味するところである。まさにこのこと(認識根拠が無明を持つ者に関係しているとい うこと)が、動物たちは以下で具体的に論じられているのである。このうち、聴覚等が音声等[の外界の対象]と接触し[という箇所]では、直接知覚という認識根拠がとり あげられており、音声等の知覚が生ずると[という個所]では、その(直接知覚の)結果が述べられており、不快な[という箇所]では、推論の結果が[述べられているのである]。詳論すれば以下の通りである。[動物等は]音声等[の外界の対象]それ自体を知覚し、その種[の音声等]が不快であったことを思い出す。そして、現在知覚している[音声等]はそれと同類のものであるから、不快であると推論するのである。[そして、さらに]例をあげて、捧[を持った手を振りあけた男を云々]と述べているのである。その他[の箇所]の意味については、極めて明瞭である。

脚注
163「当面」を「附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ

486鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/06(土) 00:17:39 ID:55Qf8oCo0
 認識根拠や認識対象等の区別に基づく日常的経験に関しては、人間は動物と同じだというのじゃ。
 
 反論なのじゃ。

 おろかな人間はそうかもしれんが、聖典などでアートマンという真理を理解している者は違うはずというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 学識のある人々は聖典と論理に基づいて、内的アー トマンが身体や器官とは異なる、と認識しているかもしんが日常的な経験では同じというのじゃ。
 ただ知識だけではアートマンを実現したことにならないからなのじゃ。

487避難民のマジレスさん:2022/08/06(土) 03:00:05 ID:CrLGiYa20
2.11.聖典に基づ<日常経験も無明に基づく  p257-259

  しかし聖典に基づく日常的経験[たとえば祭式の執行等]に関して言えば、 たとえ思慮深い人であっても、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては、その資格がない164。それにもかかわらず、ウパニシャッドによって知られ、飢餓等を超越し、バラモン・クシャトリヤ等の区別を離れ、輪廻しないアートマンという真理は、[祭式等を執行する]資格として前提とされていない165。何故なら、アートマンは[その]役に立たないし、また資格 とも矛盾するからである166。しかし聖典は、このようなアートマンの認識が起こる前には機能するから、聖典が無明を持っている者に関係しているという事実に背くものではない。例えば、「バラモンは祭式を執行すべきである」等の諸聖典句は、アートマンに対する、階層・生活期・年齢・状態等167の特殊性の附託に基づいて[始めて]機能するのである。

  [反対主張]直接知覚等は無明を持っている者に関係しているのだとしておこう。しかし、「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」168等の聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能するわけではない。実に、この場合には、来 世で果報を享受するのに適した者に[祭式を執行する]資格があると考えられるのであ る169。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、同じ趣旨のこと(果報を享受する者と祭式を執行する者とは同一であるということ)を、「聖典[に命じられて いる行為の]果報は、[行為を実際に]遂行する人に[生ずる]。何故なら、[そのことは]それ(聖典)から明らかだからである。それ故、[人は、聖典に命じられている行 為を実際に]自分で行わなければならない」170と[述べている]。身体等は[死後]灰 に帰す[ので]、他界(天界)で果報[を享受するの]には適しない。従って、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」等]の聖典は、[祭式を執行する]資格のある者が身体とは異なるなにかであることを暗に意味しているのである。そして、それ(祭式を行う資格のある者すなわち身体とは異なるアートマン)171を理 解することが明知なのである。それ故、聖典が、どうして、無明を持つ者と関係していたりしようか。

脚注
164 聖典の命ずる祭式を行なって天界に生まれる場合、天界に達するのは、死後灰となる身体ではなくて、 アートマンである。従って、アートマンが他の世界(天界)と関係していることを知る必要があるのであ る。
165
166アートマンは、行為主体でも経験主体でもないので、祭式を行ってその果報を享受することはありえ ないのである。
167 個々の具体例及ぴ「等」に何が含まれているかについては、本訳260頁参照のこと。 168この儀軌はあらゆるミーマーンサーの文献の中で常にこの形であらわれるにもかかわらず、このままの形では現存のヴェーダ文献中には見当らない。
169この聖典句の場合、身体は、死後灰に化すわけだから、来世(天界)で果報を享受するのに適した者ではなく、死後も存続するアートマンが天界で果報を享受するのに適した者であることになる。従って、祭式を行なう資格があるのはアートマンであって、身体がアートマンに附託されている必要はないのである。
170 供犠の主催者自身が個々の祭式 を直接行なうべきなのか、それとも、供犠の主催者は供物を捧げるだけで十分であって、個々の祭式は供儀僧にまかせておけぱいいのか、という点が問題となっている。このうち前者が反対主張であ り、後者が定説である。ところで、当該スートラは反対主張に属するものなので、ここで典拠として引用 されているのは一見不適当であるように思われるが、反対主張も定説も、果報のために祭式に従事した人 に果報が生ずることは緩めているので、反対主張に属すスートラをここで典拠としても問題はないとされる。
171
(´・(ェ)・`)
(つづく)

488鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/06(土) 23:32:19 ID:DaOPWT1A0
 しかし祭式の執行等に関しては、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては執行資格はないというのじゃ。
 それでも輪廻しないアートマンという真理の実現は、祭式等を執行する資格として前提とされていないのじゃ。
 アートマンは祭式執行の役には立たず、また資格とも矛盾するからというのじゃ。
 聖典はこのようなアートマンの認識が起こる前には機能するのであるから、聖典が無明を持っている者に説かれることは正しいのじゃ。
 例えばバラモンは祭式を執行すべきである等という諸聖典句は、アートマンに対する、階層や生活期や年齢や状態等の特殊性の附託に基づいて機能するのじゃ。

 反対なのじゃ。

 天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである等と書いてある聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能しているのではないのじゃ。
 この場合には来世で果報を享受するのに適した者に、祭式を執行する資格があると考えられるのじゃ。
 
 身体等は死後には灰に帰すものであるから、天界で果報を享受できないのじゃ。
 そうであるからそれらの聖典は、祭式を執行する資格のある者が身体とは異なるものであることを暗に意味しているのじゃ。
 祭式を行う資格のある者とは、すなわち身体とは異なるアートマンを理解している者なのじゃ。
 そうであるから聖典は、無明を持つ者と関係していないのじゃ。

489避難民のマジレスさん:2022/08/07(日) 02:34:30 ID:AhtPDg9.0
(つづき)   p259
  [答論][以上のような反対主張を]想定して、[師シャンカラは]答えて言う。しか し聖典に基づく[日常的経験]に関して言えばと。[ここで]しかしという語は、聖典に基づく[日常的経験]が直接知覚等の日常的経験とは異なることを言っているので ある。実に、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」とい う、祭式を執行する]資格について[述べている]聖典は、天界を望む者が他界(天 界)と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけであって、 これ(天界を望む者)が輪廻の主体ではないということを[も暗に意味しているわけ では]ない。というのは、それ(輪廻の主体ではないという性質)は、[祭式を執行す る]資格と合わないからである172。また、ウパニシャッドの説くプルシャ(=アートマン)は、行為の主体でも経験の主体で古をい[ので、祭式を執行する]資格と矛盾するからである。何故なら、行為(祭式)を執行する資格のある人、すなわち[行為の]主とは、行為を行う人(prayoktr)、行為から生じた果報の享受を経験する人のことだ からである。この場合、行為の主体でない者が、どうして、行為を行う人であったりしようか。また、経験主体でない者が、どうして、行為から生じた果報の享受を経験したりしようか。それ故、儀軌と禁令を扱う聖典は、[自分を]行為主体、経験主体、バラ モン等一これらの性質は無始の無明から生ずる一だと思い込んでいる人を対象と して、開始されているのである。同様に諸ウパニシャッドも、無明を持つ者だけを対象としている。というのは、認識識主体[・認識対象]等の区別が存在しなければ、そ れ(諸ウパニシャッド)の意味が理解されることはないからである。ただし、それら (諸ウパニシャッド)は、無明を持つ者を教え導いて、無明をすべて拭い去り、その者 を本来の姿に立ちもどらせる。この点だけは、それら(諸ウパニシャッド)が[儀軌と 禁令を扱う聖典とは]異なるところである。従って、諸聖典は無明を持つ者に関係し ているのである、と確定した。

脚注
172 先にミーマーンサー側は、身体は死後灰と化すから、天界に達することはできず、従って、天界で果報を享受する者、すなわち天界を望んで祭式を行なう資格のある者は、アートマンであるはずであるとし ていたが、シャンカラ及ぴBhāmatīに言わせれば、天界で果報を享受する者は、その果報が尽きればま たこの世に戻ってくるわけだから、輪廻の主体であり、一方、アートマンは、輪廻の主体ではないのだから、天界で果報を享受する者、すなわち天界を望んで祭式を行なう資格のある者ではありえない。
173「ヴェーダを学習すべきである」(svādhyāyo adhyetavyah,Taittrī iya Āranyaka Ⅱ.15.7)という 儀軌に従って、ヴェーダの一部であるウパニシャッドを学習すれば、行為主体でも経験主体でもない人 (purusa)が理解される。だが、この人(pumsa)は、行為主体でも経験主体でもないわけであるから、祭式を執行する資格を妨げることになり、しいては、先のヴェーダの学習を命ずる儀軌が祭式の執行を命ずる儀軌を妨げることになってしまう。
174このように、ヴェーダの学習を命じる儀軌と祭式の執行を命ずる儀軌という二つのヴェーダの個々の部分が互いに意味を損ないあうとすると、ヴェーダは整合性のないものになるから、正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

490鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/08(月) 00:02:36 ID:AtgM3b4U0

 答えたのじゃ。

 そのような祭式を執行する資格について述べている聖典は、天界を望む者が天 界と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけというのじゃ。
 天界を望む者が輪廻の主体ではないということを意味していないのじゃ。
 輪廻の主体ではないという性質は、祭式を執行する資格と合わないからというのじゃ。
 
 アートマンは、行為の主体でも経験の主体でもないから、祭式を執行する資格と矛盾するのじゃ。
 何故ならば祭式という行為を執行する資格のある者、行為の主とは、行為から生じた果報の享受を経験する者であるからなのじゃ。
 認識の主体であるアートマンは、行為の主体ではないからなのじゃ。

 そうであるから儀軌と禁令を扱う聖典は、無明によって自分を行為主体、経験主体、バラ モン等と思い込んでいる人を対象と しているのじゃ。
 同じように諸ウパニシャッドも、無明を持つ者だけを対象としているというのじゃ。
 認識識主体や認識対象等の区別がなければ、諸ウパニシャッドの意味が理解されることはないからなのじゃ。
 諸聖典は無明を持つ者に関係しているのである、と確定したのじゃ。

491避難民のマジレスさん:2022/08/08(月) 02:53:03 ID:vI5l2cvI0
(つづき)  p259-261
  [反対主張]ウパニシャッドの説くプルシャは、[祭式を執行する資格と]矛盾するし、[祭式を執行する資格に]適しないので、[祭式を執行する]資格として必要とされることはないが、[それは学習を命ずる儀軌に従うことによって]ウパニシャッドから 理解されるわけだから、[祭式を執行する]資格を妨げることができることになる173。 このように、[ヴェーダの各部分が]互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるであろう174。
  [答論]だから、[師シャン・カラは]、しかし、このようなアートマン[の認識が起る]前には云々と言っているのである。ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。また、 [ヴェーダの各部分の意味が]互いに担いあうということもない。というのは、明知を 備えた者[には祭式を執行する資格はないが]、無明を持つ者[には祭式を執行する資 格がある]というように、[それぞれ関わっている]人の違いに応じて、[ヴェーダの各部分を]区別することが可能だからである。たとえば、「生き物を殺すべきではない」 という[禁令]が、遂行すべき事柄の一部を禁止していても、「敵を殺そうと思う者は シュエーナ祭を執行すべきである」175という聖典があれば、その聖典は、「殺すべきで はない云々」というそれ(禁令)と矛盾しないのである。それはどういう理由によるの かといえぱ、[行為を行う]人が違うからなのである。すなわち、怒りという敵を克服した人々は禁令[に従う]資格があり、一方、怒りという力に支配されている人々は シュエーナ祭を云々と[述べている]聖典に[従う]資格があるのである176。
  [先に、聖典は]無明を持つ者に関係しているという事実に背くものではない、と述 べたが、まさにこのことを[師シャンカラが]例えば以下で明らかにしているのである。 [まず]階層の附託とは、「王はラージャスーヤ祭を執行すべきである」等である。生活期の附託とは、「家住期の人は、同じ[階層の]妻をめとるべきである」等である。年齢 の附託とは、「髪の黒い人(若い人)が火を保つべきである」等である。状態の附託と は、「直る見込みのない病人は、水などに飛び込んで命を捨てるべきである」等である。 [『註解』本文中に]等と述べてあるのは、大罪、小罪、混姓罪(samkarī karana)、不応受罪(apātrīkarana)、不浄罪(malinīkarana)等177の附託をも含めるためである。

脚注
175 176
177「大罪」とは、バラモン殺し等、「小罪」とは牛殺し等であるとされ、「混姓罪」はろば等を殺すこと、「不応受罪」とは非難すべき人から財物を受け取ること等、「不浄罪」とは大小の虫類または鳥類を殺害すること等であり、「等」にはバラモンに苦痛を与えること等の失姓罪等が含まれるとされている。
(´・(ェ)・`)つ

492鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/08(月) 23:59:52 ID:uRaYg.d.0
反対なのじゃ。

 ウパニシャッドの説くプルシャは、祭式を執行する資格と矛盾するというのじゃ。
 聖典には学習を命ずる儀軌があるが、すでにプルシャ、アートマンを実現している者は学習しなくてよいから、祭式を執行する資格がないのじゃ。
 このようにヴェーダの各部分が互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。

 シャンカラはプルシャ、アートマンの理解がある以前には祭式の資格があると説いているのじゃ。

 さらにヴェーダの各部分の意味が互いに担いあうということもないのじゃ。
 明知を備えた者には祭式を執行する資格はないが、無明を持つ者には祭式を執行する資格があるというようにそれぞれ関わっている人の違いに応じて、ヴェーダの各部分を区別することが可能なのじゃ。

493避難民のマジレスさん:2022/08/09(火) 10:25:53 ID:mHBnFMpY0
2.12.附託の具体例  p261-262 132右/229

  附託とはXでないものの中にXを認識することである、と我々はすでに述 べた。例えば、妻子等が病気であれば、「私は病気である」と思い、健康であ れば、 「私は健康である」と思うが、これは外的なものの属性をアートマン に附託しているのである。それと同様に、身体の属性を[アートマンに]附託すると、「私は太っている」「私は白い」「私は立っている」「私は行く」「私は 越える」と思うのである。同様に、感覚器官の属性を[アートマンに]附託す ると、「私は唖者である」「私は片目である」「私は不能である」「私は聾者であ る」「私は盲目である」と思うのである。同様に、内官の属性、すなわち、愛欲・思惟・疑惑・決定等を[アートマンに]附託する。このように「私」とい う観念をもつもの(内官)178を、その一切の活動を観照している内的アートマンに附託し、またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に附託するのである。

  [師シャンカラは]これまで、アートマンと非アートマンとの相互附託を、反対主張 と[それに対する]答論を通じて[まず]明らかにし、次に、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験について論ずることで、[この相互附託を]確固たるもの とした。そして、それ(アートマンとの相互附託)が諸悪の根源であることを[これから]例をあげて詳しく説明するために、[ここで師シャンカラはまず]すでに述べたそれ(相互附託)の本質を[次のように我々に]想起させるのである。附託とはXでない ものの中にXを認識することである、と我々はすでに述べたと。これは、[附託とは]以前に知覚されたXが想起の姿で、別の場所Yに顕現することである179を要約して述 べているのである。この(アートマンと非アートマンとの相互附託の)うち、「私のもの」という[形で経験される]属性の附託の生じていない、単なる基体の同一性の附託 一[それは]「私」という[形で経験される]一は、諸悪の根源ではないのであっ て、属性の附託、すなわち「私のもの」という観念こそが、輪廻という一切の諸悪の直接的な原因なのである。

脚注
178
179 本訳216頁参照。
180『註解』本文では、それそれ、「健康」「病気」を意味するが、BhāmatĪはそれを、「完全」「不完全」の意味にも解している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

494鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/09(火) 23:42:07 ID:cslTyIcU0
 附託とはXでないものの中にXを認識することであるというのじゃ。
 そして愛欲や思惟や疑惑や決定等をアートマンに附託いるのじゃ。
 さらに私という観念をもつものをも、一切の活動を観照している内的アートマンに附託しているのじゃ。
 またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に付託する相互付託をしているのじゃ。
 

 シャンカラは以上のような付託と相互付託を説いたというのじゃ。
 そしてこのアートマンと非アートマンとの相互附託のうち、私という付託は、諸悪の根源ではないというのじゃ。
 属性の附託、私のものという観念こそが、輪廻という一切の諸悪の直接的な原因だというのじゃ。

495避難民のマジレスさん:2022/08/10(水) 00:01:29 ID:ge9fvPmY0
(つづき)  p262-263 
  [このことを、師シャンカラは]例をあげながら詳しく説明して、例えば、妻子等が云々と言っているのである。[人はまず]、身体との同一性をアートマンに附託し、[次 にこの同じアートマンに]妻子等の所有者であるという性質一[これは]やせているという性質と同様に身体の属性である一を附託して、「私は病気(vikala)であ る」 「私は健康(sakala)である」と言うのである。さらに、「所有者」すなわち「支 配者(īśvara)」は、自己の所有物が完全(sakala)180であれば、[その]所有者である という[彼の]性質も完全となるので「完全なのである」、すなわち「満たされている (sampūrna)のである」。同じように、「所有者」すなわち「支配者」は、自己の所有物 が不完全(vikala)であれば、[その]所有者であるという[彼の]性質も不完全とな るので「不完全なのである」、すなわち「満たされない(asampūrna)のである」。こ のように、不完全さという性質等の外的な属性は、[その]所有者という性質を媒介と して、[まず]身体に移される。そして、それ(身体に移された外的な属性)を[人は]アートマンに附託するのである。さて、外的な添性(paropādhi)181に基づく身体の属性一だとえば所有者という性質一の場合には、以上の通りであるとすると、[外的 な]添性に基づかない身体の属性の場合には、いったいどのような話になるのだろう か。このような考えを抱いて[師シャンカラは]、それと同様に、身体の属性を云々と言っているのである。[さらに同様に、感覚器官の属性を以下の]文脈は[次の通りで ある。すなわち人は]身体等よりも内的な器官である諸感覚器官一[それにはすで に]アートマンが附託されている一の属性である唖者という性質などや、さらにこれ(諸感覚器)よりも内的な器官である内官一[それにもすでに]アートマンが附託されている一の属性である愛欲・思惟などをアートマンに附託するのである。

脚注
180『註解』本文では、それそれ、「健康」「病気」を意味するが、BhāmatĪはそれを、「完全」「不完全」の意味にも解している。
I81 「外的な添性」を「息子・妻等を特徴とする添性 と取っている。添性とは、事物.に付加されてその本来的なあり方を限定する、事物そのものにとっては非本来的要素のことで、通常は、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)手・足等の五種の行動器官、(4)聴覚・触覚等の五種の感覚器官、(5)内官、という五種の要素がアートマンの添性を構成するとされるが、ここでは、これら五種の構成要素よりもさらに外的な添性のことを言って いるものと思われる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

496鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/11(木) 00:54:18 ID:Wf71GXdg0
身体との同一性をアートマンに附託し私は病気であるとか、私は健康であると認識するのじゃ。
所有者、支配者は、自己の所有物が完全であれば、所有者であるという性質も完全となるので完全なので満たされていると思うのじゃ。
同じように所有者、支配者は自己の所有物 が不完全であれば、所有者であるという性質も不完全となるので不完全で不満なのじゃ。
 
こ のように、不完全さという性質等の外的な属性は、所有者という性質を媒介として、身体に付託されるのじゃ。
そして、それ身体に移された外的な属性を人は、アートマンに附託するのじゃ。

 諸感覚器官、愛欲、思惟などの内的器官も同様にアートマンに付託するのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2022/08/11(木) 01:04:21 ID:tKHnzmC.0
(つづき)  p263-264
   以上の説明で[師シャンカラは]、属性の附託について述べ[終っ]て、[次に]そ の(属性の附託の)もととなる基体[どうし]の附託について、このように「私」という観念をもつもの(内官)をと言っているのである。[ここで]「私」という観念をもつものとは、「私」という観念すなわち変容(vrtti)が、内官に[生じている]時の それ(内官)182のことであるが、それをその[一切の]活動を観照している一すな わち純粋精神であって無関心な存在であるために内官の活動の観照者である一内的アートマンに附託するのである。以上で、[内官の附託されたアートマンが]行為主体であり経験主体であるということを説明し終った。[そこで次に師シャンカラは、内官 に備わっている]精神牲について、またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に附託するのであると説明しているのである。[ここで]それとは逆に (tadviparyena)とは、内官等とは逆に[という意味である]。すなわち、内官等は物 質的なもので、それと逆のものが精神性をのだが、その[精神性という]姿で(tema)一[この]三格は<特定の性質を備えているものを示す特相(itthambhūtalaksana) を表わす>ためのものである183一[人は内的アートマンを]内官等に附託するので ある184。従って、このように内官等に限定された内的アートマンは「これである(物質である)」[という要素=内官]と「これではない(純粋精神である)」[という要素= 内的アートマン]からなる185精神的存在であって、行為主体、経験主体、二種の無明
一原因としての無明と結果としての無明186一の基体、「私」という観念の対象、輪廻主体、あらゆる悪の集まる容器・個人存在(jīva)・相互附託の質料因なのである。そして[逆に]それ(内官等に限定された内約アートマン)の質料因が附託なのである。
このように、[内官に限定された内的アートマンと附託との関係は]種子と芽のように無始なのである。従って、[この両者が]相互に依存しあう(itaretarāśraya)[という理論的欠陥は]存在しないのである。[このことについてはすでに]述べたところであ る187。

脚注
182アートマンの本性である純粋精神が物質的な内官に附託されると、内官はアートマンの形相をとって 変容し、「私はアートマンである」という観念が内官に生ずる。この観念が「私という観念」であり、この ような変容は内官そのものにほかならないから、「私という観念をもつもの」とは内官のことである。
183「特定の性質を備えているものを示す特相を表す三格とは、たとえば、「(彼は)もつれた髭をしているから 苦行行者である」という場合にみられ、この場合、この三格は、苦行者性という特定の性質を備えているものを示す特相を表している。同じように、この本文の場合にも、三格は、精神性という特定の性質を備えている もの(ここでは精神性の附託された内官)を示す特相(精神性)を表している。
184「それとは逆に」とは、『註解』本文では、「内官等を内的アートマンに附託するのとは逆に、内的アートマンを内官等に附託する」という意味にすぎないが、それをBhāmatīは次のように解するのである。 すなわち、これまでは、活動を備えていない内的アートマンが行為主体、経験主体でありうるのは、活動を備えた内官等が内的アートマンに附託されているからであるということを説明してきたので、これからは、物質的な内官等が精神的活動(認識活動)を行ないうるのは、アートマンの精神性という姿が内官に附託されているからだ、ということを説明するのであるという意味で、「それとは逆に」と言っているの だと解するのである。
185 「これであるとこれでないからなるを「精神性と物 質性の混ざりあった」駐しているので、これに従って補った。
186「原因としての無明」と「結果としての無明」が何を指すのかは明確ではないが、二種の無明について、「無始の実体としての無明」と「それぞれ前の錯誤より生ずる潜在印象としての無明」と解している。だが、Bhāmatīは、アートマンと非アートマンとの相互附託を無明と解し (cf.島,1983)、この相互附託を、基体の附託と属性の附託とに区別し、前者が後者の原因だと考えてい る(261頁参照)ので恐らく、「原因としての無明」とは、アートマンと非アートマンとの基体どうしの附託のことを、「結果としての附託」とは、アーマンと非アーマンの属性の附託のことを指しているものと 思われる。
187本訳216頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

498鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/11(木) 23:52:46 ID:DRtoFtpI0
 属性の附託のもととなる、基体の附託である私という観念をもつ内官を説くのじゃ。
 私という観念をもつものとは、私という観念による変容が、内官に生じている時の内官のことなのじゃ。
 それは活動を観照している内的アートマンに附託するのである。
 内官の附託されたアートマンが行為主体であり経験主体であるというのじゃ。

 人は内的アートマンを内官等に附託するのであるから、内官等に限定された物質である内官と、純粋精神である内的アートマンからなる精神的存在なのじゃ。
 行為主体であり、経験主体であり、因果としての無明の基体、私という観念の対象、輪廻主体、あらゆる悪の集まる容器が個人存在という認識を生む相互附託の質料因だというのじゃ。
 そして逆に内官等に限定された、内約アートマンの質料因が附託なのじゃ。
 このように内官に限定された内的アートマンと附託との関係は、種子と芽のように無始であるというのじゃ。
 この両者が相互に依存しあうという理論的欠陥はじゃ。

499避難民のマジレスさん:2022/08/12(金) 00:15:59 ID:4VSQE6nw0
3.本書の目的:ウパニシャッドの目的はアートマンの唯一性に関 する明知を得るところにある   p264-265 134左/229

  このように始めも終りもない生得的な附託は、誤った観念という姿をして おり、行為主体、経験主体という観念を生み出し、万人によって直観される。この悪の原因を滅し、アートマンの唯一性に関する明知を得るために (pratipattaye)、すべてのウパニシャッドが開始されるのである。そして 我々は、これ(アートマンの唯一性に関する明知を得ること)188がすべてのウ パニシャッドの目的であることを、以下のシャーリーラカ・ミーマーンサー189において明らがにするつもりである。

  [ここまでで師シャンカラは」、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験 [について論ずること]によって、附託を確固たるものとしてきたが、 [これからは]、 学生の利益のために、世の人々すべてが直接に理解できるような形で[附託の]本質に ついて述べ、それによって、附託をさらに確固たるものにするのである。 [『註解』本文中の]このように始めも終りもないとは、真理が認識されなければ滅することはで きない[という意味である]。[そして]始めも終りもない理由が、生得のと述べられているのである。[また]誤った観念という姿をしておりとは、誤った観念の姿は、[実在 であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであるが、それ(このような姿)をそれ(附託)は備えているのである、ということを言っているのである。つまり、[附託は実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだという意味なのである。
  [次に師シャンカラは]この悪の原因を滅するために[述べて、この序論の]主題を を結論付けているのである。
  [反対主張][附託と]対立する観念がなければ、どうしてこれ(附託=悪の原因) を滅することなどできようか。
  [答論]そこで[師シャンカラは]、アートマンの唯一性に関する明知を得るために (pratipattaye)と答えているのである。[ここで]得ること(pratipatti)とは獲得 (prāpti)のことで、そのために[すべてのウパニシャッドが開始されるのであり、それは]単に低唱(japa)のためでもなけれぱ、祭式を行なうためでもないのである。[また]アートマンの唯一性とは、多様性(prapañcatva)がすべて消えさることである。 [従って]諸ウパニシャッドは、歓喜そのものである実在の獲得を疑いなくもたらして、 附託を根絶するのである。

脚注
188
189「シャーリーラカ」とは「身体を有するもの」の意味で、個人存在を指している。この個人存在に関する考察、すなわち、個人存在と絶対者ブラフマンは同一であるということを明らか にすることが、『ブラフマ・スートラ』の主題であるところから、「ブラフマ・スートラ』が「シャーリーラカ・ミーマーンサー」と呼ばれているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

500鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/12(金) 23:05:25 ID:qe7/Ue9w0
 附託は誤った行為主体、経験主体という観念を生み出し、万人によって直観されるというのじゃ。
 この悪の原因を滅し、アートマンの唯一性に関する明知を得るために、すべてのウパニシャッドが説かれるというのじゃ。
 
 始めも終りもないとは、真理が認識されなければ滅することはで きないという意味なのじゃ。
 生得の性質であるから始めも終りもないと述べられているのじゃ。
 誤った観念とは実在であるとも非実在であるとも表現し得ない姿を附託は備えているからというのじゃ。
 つまり附託は実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものだという意味なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 附託と対立する観念がなければ、どうして附託を滅することができるのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンの唯一性に関する明知を得れば、対立観念がなくとも付託は滅するというのじゃ。
 アートマンの唯一性とは、多様性がすべて消えさることなのじゃ。
  諸ウパニシャッドは、歓喜そのものである実在の獲得を疑いなくもたらして、 附託を根絶するのじゃ。

501避難民のマジレスさん:2022/08/13(土) 03:15:52 ID:xSe4xYGY0
(つづき)   p265-266
  以上述ぺてきたことの趣旨は次の通りである。もし、「私」という観念の対象がアー
トマンであって、その観念が正しいものなら、[アートマンと同一である]ブラフマン は、[「私」という観念によって]すでに知られていることになり、[ブラフマンに関する考察は]意味(目的)のないものとなってしまう。従って、[ブラフマンを]知りたい という欲求が[生ずることは]ありえないであろう190。そして、それ(ブラフマンを 知りたいという欲求)がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習す るということはなく、[諸ウパニシャッドは、それが本来]意図していない意味で、低 唱にのみ用いられるということになろう。[だが]その場合には、実に、ウパニシャッドの説くアートマンに関する[「私」という]観念は、正しい認識根拠とはならないのである191。そして、この誤った[観念]は、反復したところで、アートマンが行為主 体・経験主体等であるという<真実>を否定することはできない。というのは、附託された姿は真理の認識によって否定されるが、<真実>が虚偽の認識によって否定さ れることはないからである。実に、縄が縄であることは、蛇の観念が千連続して[現われて]も、否定することができない。だが、誤った観念によって生み出された姿は、真理の認識によって否定しうるのである。そして、誤った認識[から生じた]潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象、 [それは]真理の認識を注意深く、絶え間なく、長い問、繰り返すことによって生ずる一によって[否定し]うるのである。
   [反対主張]それはその通りかもしれない。[だが]諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想(upāsanā)I92も、しばしば見うけられるではないか。その場合にも、どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところ にあると[言えるのか]。
  [答諭]だから[師シャンカラは]、そして我々は、これ(アートマンの唯一性に関 する明知を得ること)がすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャー リーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのである。
[ここでは]身体(śarīra)それ自身がシャリーラカ(śārīraka)であり、そこ(身体) に住む者がシャーリーラカ(śārīraka)、すなわち個人存在(jīvātman)のアートマン なのである。[そして]「汝」という語で表現されているそれ(個人存在のアートマン) と「それ」という語で表現される最高存在193との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのである。

脚注
190 本訳201頁参照。
191 「属性のないアートマンに、『私は行為主体である』『私は経験主体である』 という行為主体性、経験主体性等の属性をひきおこす『私』という観念は、正しい認識根拠ではない」と いう意味に解しており、ここではそれに従った。
192 「ブラフマンを生気として念想する者たち...」という生気に関する念想について述べている章句がある。
193「汝はそれなり」という有名な聖典句において、「汝」という語は個人存在のアートマンを指し、「それ」という語は最高存在(ブラフマン)を指しており、この聖典句は、両名が同一であることを示している。この聖典句は、個人存在と最高存在との同一性を示す有名な典拠(大文章)として、不二一元論学派では非常に重要視されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

502鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/13(土) 23:06:49 ID:UbsNfmlE0
 もし、私という観念の対象がアートマンであって、その観念が正しいものなら、アートマンと同一であるブラフマン はすでに知られていることになり、ブラフマンに関する考察は意味のないものとなってしまうというのじゃ。
 ブラフマンを知りたいという欲求がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習するということはなく、それは低唱にのみ用いられるということになるのじゃ。
 その場合はウパニシャッドの説くアートマンに関する私という観念は、正しい認識根拠とはならないのじゃ。

 この誤った観念を反復したところで、アートマンが行為主体であり、経験主体等であるという誤認を否定することはできないのじゃ。
 附託された姿は真理の認識によって否定されるが、真実が虚偽の認識によって否定されることはないからなのじゃ。
 誤った認識から生じた潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象によって厭離されるのじゃ。


  反対なのじゃ。
 諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想も、しばしば見うけられるのじゃ。
 どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところにあるというのかというのじゃ。


 答えたのじゃ。

 シャンカラはアートマンの唯一性に関する明知を得ることがすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャーリーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのじゃ。
 身体がシャリーラカであり、身体に住む者がシャーリーラカ、すなわち個人存在のアートマンだというのじゃ。
 汝という語で表現されている個人存在のアートマンとそれという語で表現される最高存在との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのじゃ。

503避難民のマジレスさん:2022/08/14(日) 01:34:39 ID:u1Q0ogOM0
(つづき)   p266-267 
  ここで、[以上述べてきた]ことを要約すれば以下の通りである。
  [反対主張](1)ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌194から明らかなように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、「ヴェーダの学習」という語で表現されている全 ヴェーダの意味が理解されることになる。[従って]諸ウパニシャッドも、「ヴェーダの 学習」という語で表わされる[わけだから]、祭式に関する儀軌・禁令のように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、意味が理解されることになる。このことが、ヴ ェーダの学習[を命ずる]儀軌から分かるのである。(2)[さらに]「しかし、聖典の 意味は[通常の用法と]異ならない」という格言(nyāya)195から[も明らかなよう に]、諸ウパニシャッドの意味は、真言(mantra)の場合のように196、通常のものな のである。(3)[そして]諸ウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりであって、行為主体であるとか経験主体であるということは無関係で、多様性のない、唯一 の内的アートマンが理解されるのである。[だが、この(1)(2)(3)]にもかからず、 諸ウパニシャッドは、「私」という観念一[それは]疑問や拒斥とは無縁のもので、 アートマンを行為主体・経験主体で、苦しみ・悲しみ・迷妄に満ちたものだと考えている一と矛盾する[ので]、本来の意味からはずれていることになる。[すなわち、諸 ウパニシャッドは]比喩的意味をもつか低唱のみに用いられるかのいずれかであって、 [本来]意図していない意味をもつものなのである。従って、そ(諸ウパニシャッド) の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサー一[それは]四章からな る一は、開始すぺきではないのである197。
  [答論]もし、「私」という観念が正しい認識根拠であれば、それ(反対主張)はその 通りであろう。だが、それ(「私」という観念)は、天啓聖典等を拒斥することができな いし198、また、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められ ていないので、附託されたものなのである。従って、諸ウパニシャッドは、[本来]意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相(laksana)をもっているものなのである。[そして]内的アートマンこそが、それら (諸ウパニシャッド)の一義的意味(mukhyārtha)なのである。[そして]これから述 べるように、これ(内的アートマン)は、疑間の余地のあるものであってかつ意味(目的)のあるものなので、[この内的アートマンについて]考察するのは正当なのである。
以上のような理由で、 『ブラフマ・スートラ』の作者は、そ(内的アートマン=ブラフ マン)の考察をスートラという形で199、[次のように]述べているのである。そこで、 この故に、ブラフマンの考察が[開始されるべきである](Brahmasūtra I.1.1)と。

脚注
194 195
196「真言」(mantra)とは、ヴェーダを構成する五部門、儀軌・真言・余命・禁令・釈義の一つで、祭式の執行と関連した事物を想起させるヴェーダの章句 のことを言う。
197「シャーリーラカ・ミーマーンサー」すなわち「ブラフマ・スートラ」は、四章からなり、諸ウパニ シャッドの意味の考察を目的とするわけだが、諸ウパニシャッド自体が本来的な意味をもたなければ、それについて考察しても無意味なので、『ブラフマ・スートラ』を開始する必要はないというである。
198 天啓聖典は人間の作ったものではないので絶対的権威があり、「私」という観念と矛盾する場合には、 「私」という観念のほうが否定されるべきであるという論議については、本訳207頁以下参照。
199「スートラ」をBhāmati,は次のように定義している。「賢者は、簡潔で、意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスートラと呼ぶ」
(´・(ェ)・`)つ

504鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/15(月) 00:14:40 ID:rC.0kWJY0

 反対なのじゃ。
 
 ヴェー ダを学習すれば、全ヴェーダの意味が理解されることになるのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりである多様性のない、唯一の内的アートマンも理解されるじゃろう。
 それによってもはや理解できるのであるから、ウパニシャッド の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサ一は、開始すぺきではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 私という観念は、天啓聖典等を拒斥することができず、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められていない、附託されたものなのじゃ。
 そうであるから諸ウパニシャッドは、本来意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相をもっているものというのじゃ。

 内的アートマンこそが、それら(諸ウパニシャッドの一義的意味なのじゃ。
 そして内的アートマンは、疑間の余地のあるものであり、悟りという目的のあるものなのじゃ。
 このような理由で内的アートマンについて考察するのは正当なのである。

505避難民のマジレスさん:2022/08/15(月) 02:44:29 ID:9tk31Kbk0
『バーマティー』I.1.1 p269-270 136右/229

1.ブラフマンの考究には目的があり、疑問の余地がある

  これから詳細に説明しようとしている「ウパニシャッドの考察に関する聖典」(VedāntaMīmāmsāśāstra=Brahmasūra)のなかで、次のものが 最初のスートラである。

  そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである](atha atho brahmajijñāsā,BS I-1-1)

  [スートラ中の]「考究」[という語]によって、[ブラフマンの考究には]目的(意味) と疑問[の余地のあること]が暗に示されているのである200。このうち、[ブラフマン の考究の]目的がブラフマンの知識であることは、[スートラ中の「考究」(=知りたいという欲求,jijñāsā)という語によって)はっきりと示されている。というのは、[ブ ラフマンの知識はブラフマンを知りたいという]欲求によって直接に覆われている201 (欲求の直接の対象だ)からである。もし[ブラフマンの知識のあとになにかあれぱ] これ(ブラフマンの知識)は二次的な目的となるだろうが、祭式に関する知識のあとに [祭式の]執行があるのとは異なり、ブラフマンの知識のあとにはなにも存在しないそれどころか、疑問の余地のないブラフマンの知識一[それは]あらゆる苦しみの止滅を本質としており、歓喜そのものであって、諸ウパニシャッド([その]内容は、ブラフマンの考察(BrahmaMīmāmsā)と呼ばれる考察法(tarketikartavyatā)を通して知られる)によって伝えられてきた一こそが、最高の目的なのである。というの は、賢者たちは、まさにその目的に対して向かって行くからなのである。そして、それ (最高の目的=ブラフマンの知識)は、すでに獲得されているにもかかわらず、無始の無明のせいであたかも獲得されていないかのようであるので、得たいと望まれるのである。[それは]ちょうど、ネックレスが首にかかっているのに、なにかの思い違いのせいでないと思っている人が、他人に指摘されると、まるで[それまで]なかったもの であるかのように、[そのネックレスを]獲得するようなものである。
  また一方、「考究」は疑間の結果なので、その原因である疑問を暗に示していることになる。そして、疑問が考察を開始させるのである。このようにこのスートラは、賢者が聖典[『ブラフマ・スートラ』]へと向かう原因となる疑問や自的を暗示しているから、聖典の最初にあるのが妥当なのである。だから、神聖なる註解作者は、われわれがこれがら詳細に説明しようとしている「ウパニシャッドの考察に関する聖典」のなかで、次のものが最初のスートラである、と述べているのである。
  [この註解中の]考察(Mīmāmsā)という語は、尊ばれている論考(vicara)を意味する。(そして)論考が尊ばれるということは、[その論考の]結果、人間の最高の目的の原因である最も微妙な事柄が確定される、ということなのである。[そして]その考察に関する聖典が「考察に関する聖典(Mīmāmsāśtra)」なのである。というのは、それ(聖典)が弟子たちに対してそれ(考察)を教授し、真に明らかにするからである。さらにスートラとは、多くの意味を暗示するから[スートラ]なのである。たとえば[それは]次のように定義されている。「賢者たちは、簡潔で、もろもろの意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスー トラと呼ぶ」202と。

脚注
200ブラフマンの考究には目的(意味)と疑問の余地があるので、ブラフマンは考究の対象に価するというこの論議に関しては、本訳201-213頁参照のこと。
201ブラフマンを知りたいという欲求が領域を覆うもので、ブラフマンの知識が領域を覆われるものであって、前者の存在する領域の中に後者が含まれているので、ブラフマンを知り たいという欲求が存在すれば必ずブラフマンの知識も存在するという意味。なお、領域を援うものと領域を覆われるものとの関係については、脚注14参照のこと。
202 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

506鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/16(火) 00:17:16 ID:0g9kA3Ck0

 スートラ中の考究という語によって、ブラフマンの考究には目的と疑問[の余地のあること]が暗に示されているというのじゃ。
 この中のブラフマン の考究の目的がブラフマンの知識であることは、考究という語によって)はっきりと示されているのじゃ。

 ブラフマンの知識は、実はすでに獲得されているにもかかわらず、無始の無明のせいで獲得されていないかのように人は苦るしむから、得たいと望まれるのじゃ。
 例えばそれは、ネックレスが首にかかっているのに、思い違いのせいでないと思っている人が、他人に指摘されて気づいてネックレスを獲得するようなものじゃ。

 さらに考究は疑間の結果であるから、その原因である疑問を暗に示しているというのじゃ。

507避難民のマジレスさん:2022/08/16(火) 00:23:27 ID:tUSbF34A0
2.スートラの語義解釈(I) 「そこで」の語義
p270-271 137左/229

  この[スートラの]中で、「そこで」(atha)203という語は「直後」(ānantarya) という意味に解すべきであって、「新しい論題の導入」(adhikāra)という意味に[解すぺきでは]ない。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるべきものではないからである204。 また[この語は、「吉祥」(mańgala)205の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意 味]は[スートラの]文意に合わないからである。何故なら、「そこで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられても、[その語を]聞くだけで、吉祥の 効果があるからなのである。さらに[この語は、「前に主題とされた事柄への 言及」(pūrvaprakrtāpeksa)の意味に解すぺきでもない]。とういうのは、 「前に主題とされた事柄への言及」とは結局[前に主題とされた事柄の]「直後」にほがならないがらである206。

脚注
203「そこで(atha)」という語に「直後」「開始」「吉祥」等の意味がある。
204 Brahmajijñāsāのjijñāsāという語は、「知りたいという欲求jñānecchā)」か「考察(vicāre)」の 意味がのどちらかだが、前者だとすると、考察が新しい論題ごとに開始されることはあっても、知りたいという欲求が新しい論題ごととに開始されることはないから、理に合わない。一方、後者の場合だと、「開 始すべきである」という語を最後に補わなけれぱならないことになるが、athaという語に「新しい論題の導入(すなわち開始)」という意味があるのが余計になる。従って、athaは「新しい論題の導入」とい う意味ではない。
205mańgalaとは、著作を著すに際して、著作が無事完成することを祈って、自己の帰依する神や師等に対して捧げる詩句のことであるが、この『ブラフマ・スートラ』にはそのような詩句がみあたらないので、スートラの最初の語athaにこのmańgalaの意味があるのではないかとする議論である。
206この一節の意味は、諸註釈も諸訳もまちまちではっきりしないが、ここではBhāmatīに従った。

2.1.「そこで」の語義(1)ー「直後」という意味である

  このようにスートラの趣旨を説明したのちに、[師シャンカラは]、その(スートラ の)最初の語「そこで」を、[次のように]説明している。この[スートラの]中で、「そこで」という語は「直後」という意味に解すべきであると。[すなわち]スートラ中 の諸語の中で、この「そこで」という語は「直後」という意味である、というのが文脈 なのである。
(´・(ェ)・`)つ

508鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/16(火) 23:10:19 ID:U6BnA6720

 このスートラのそこでという言葉は直後と意味だというのじゃ。
 新しい議題との導入とか、吉祥でもなく、前に主題とされた事柄への言及でもないというのじゃ。

509避難民のマジレスさん:2022/08/17(水) 00:19:01 ID:lIUFXdqk0
2.2.「そこで」の語義(2)ー 「新しい論題の導入」の意味では ない  p271-272

  [反対主張]「そこで」という語には「新しい論題の導入」という意味もみられる。 たとえばヴェーダ聖典には、「そこでこのジュヨーティ祭が[開始されるべきである]」 207と[いう例が]あるし、また世俗的[な用法]では、「そこで言葉に関する教えが[開始されるべきである]」208、「そこでヨーガに関する教えが[開始されるべきである]」 209と[いう例が]ある。従って、どうして「新しい論題の導入」の意味に解さないのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、次のように]言っているのである。「新しい論題の導入」という意味に[解すぺきでは]ない。何故か。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからである。すなわち、考究.(知り たいという欲求)がブラフマンやその(ブラフマンの)知識よりも主要なものであることは、スートラの中で、[「ブラフマンの考究」(brahmajijñāsā)という]語[自体] から分かるからである210。

  [反対主張]たとえば、「棒を持った僧が、神々を勧請することを許可する真言(praisa) と勧請が終わったことを伝える真言(anuvacana)とを唱える」という場合には、[「棒」 という語は]主要なものではないが、「棒」という語の指すものが意図されているものであるように211、ここ(スートラ中)でも、ブラフマンとその知識[が意図されてい るものなのである]。

脚注
207「そこでこのJyoti祭が[開始されるべきである]云々」)という聖典句は、すでに執行するよう命じられているJyotistoma祭とは異なる新たな祭式であるJyoti祭等を行うよう命じているとされている。すなわち、Jyoti祭等は、すでに執行するように命じられている。
すなわち、Jyoti祭等は、すでに執行するように命じられているJyotistoma祭とは別に、新しい祭として導入されたものだと解釈されているのである。
208 athaを「新しい論題の導入」ととっている。
209 athaを「新しい論題の導入」の意味に とっている。
210
211「棒を持った僧が神を勧請が 終ったことを伝える真言を唱える」)との関連で、「祭官が勧請することを許可する真言を唱え、そして勧請が終わったことを伝える真言を唱える」という 聖典句を挙げ、さらに、次のような説明を加えている。adhvaryu祭官か 実際に供物を捧げるのにたいし、maitrāvarna祭官は供物の準備をし、hotr祭官は供物が準備できしだ い神を勧請する役割にある。maitrāvaruna祭官が供物を準備し、adhvaryu祭官がその準備に満足すると、maitrāvaruna祭官は、āśrāvayaという真言を唱えて、hotr祭官に神を勧請する許可を与える。勧 請が行われると、maitrāvaruna祭官は、astu srausatという真言を唱えてそのことをadhvaryu祭官に 伝える。このうちはじめの真言がpraisa、あとの真言がanuvacanaと言われる。さてここで、これら 二種の真言をmaitrāvaruna祭官が唱えるぺきであることは、maitrāvarupah presati云々という聖典 旬から理解されるわけであるから、この聖典旬は、単に同じこと、すなわち maitrāvaruna祭官がこれらの真言を唱えるべきことを繰り返しているだけではなく、これらの真言を唱 える際にmaitrāvaruna祭官に棒をもつ資格があることを示していると解釈される。従ってこの場合に は、棒を持つ人という語は、言葉の上では棒という語が主要なものではないが、棒を持っ人よりむしろ棒のほうに意味がおかれているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

510鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/17(水) 23:27:42 ID:JqRbnjB20
反対なのじゃ。

 そこでという語には新しい論題の導入という意味もあるというのじゃ。


 答えたのし゜ゃ。
 シャンカラは新しい論題の導入という意味に解すぺきではないといっているのじゃ。
 何故ならばブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからなのじゃ。
 考究とは知りたいという欲求であるから、それがブラフマンやブラフマンの知識よりも主要なものであることは、スートラの中でブラフマンの考究という語でわかるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 
 スートラ中でも、主題としてブラフマンとその知識が意図されているというのじゃ。

511避難民のマジレスさん:2022/08/18(木) 00:15:50 ID:o9ybA/5s0
(つづき)   p272-274
   [答論]それは正しくない。というのは、[考究は]ブラフマンの考察に関する聖典へと[賢者たちが]向かう契機となる疑問と[考察の]目的とを暗に示すことを目的と しているから、 [その]考究こそが[スートラの]意図するところなのである。もしそれ(考究)が意図されていなければ、これら(疑問と考察の目的)が暗に示されていな いことになるから、賢者たちは、烏の歯212の考察に向かわないのと同じように、ブラフマンの考察に向かうことほないであろう。その時には実に、ブラフマンあるいはそ の(ブラフマンの)知識が主題(abhidheya)や目的となることはない。というのは、 諸ウパニシャッドは、附託が行われていない[と一般に考えられている]「私」という 観念と矛盾するので、このような種類の(疑問の余地と考察の目的の暗示されていな
い)対象に対して正しい認識根拠たりえないからであり213、また、[ウパニシャッドが 本来]意図していない意味、たとえば、比喩的な意味一[それは一義的には人々を] 祭式へと向かわせるから[比喩的なのである]一や「フム」等の低唱に役立つもの は、ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌に基づいて理解することが可能だからである214。 従って考究は、疑問と[考察の]目的を暗示しているのであって、ここ(スートラ中) では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されていてしかるぺきなのである。
  さらに、もし[考究が各論題ごとに新たに導入されるようなものであれぱ]、それ(考究)[という語]の近くにある「そこで」という語は、「新しい論題の導入」の意味に[解し]うるだろうが、考究(知りたいという欲求)は、(各論題ごとに)新たに導入されるようなものではないから、新しい論題として導入されるぺきものではないのである。
  一方、考究の限定詞(viśessnp)であるブラフマンの知識は、新しい論題として導入 されるぺきものであろうが、それは[「ブラフマンの考究」という語のなかで]主要なものではないから、「そこで」という語と結びつかないのである。
  またもし、[考究(jijñāsā)と考察(MĪmāmsā)が同じであれば]、ヨーガに関する教えのように、新しい論題として導入することができるだろうが、考究は考察ではない。というのは、「測る」という意味の動詞語根māń215一[この動詞語根は]不規則的に nで終わることがある一、あるいは、「尊敬する」という意味の動詞語根mān216に関 する、「[sanという接尾辞は]man,badha云々」217という[パーニニの規定]に基づいて、欲求の意味をもたない[接尾辞]sanを付加して作られたMīmāmsā(考察)と いう語は、尊ばれている論考(vicāra)を表し、一方「考究」(jijñāsā)という語は、知 りたいという欲求(jañāna-icchhā)を表しているからである。実に、「考究(知りたい という欲求)」は、[人々を]「考察(Mīmāmsā)」へと向かわせるもの(pravartaka)なのである。そして、向かうべき対象(pravartya)と向かわせるもの(pravartaka)と は同一ではない。何故なら、同一だとすると、その(両者の)関係が成り立たないから である。
  さらに、[「考究」という語が]本来の対象(知りたいという欲求)を示しうる時に、 それ以外の対象(考察)を示していると想定するのは正しくない。何故なら、[語の意 味を]広げすぎるという誤謬に陥るからである。従って[以上のような理由で、師シャ ンカラは、ブラフマンの]考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからで ある、と的確に述べているのである。

脚注
212 いうまでもないが、鳥には歯がないので、鳥の歯についての考察は無意味である。 213この議論に関しては、本訳210-213頁参照。
214この議論に関しては、本訳265頁以下参照。
215 216 217
(´・(ェ)・`)つ

512鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/18(木) 23:01:28 ID:KMC7q63o0
答えたのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。
 考究は賢者達がブラフマンの考察に関する聖典へ向かう契機となる疑問と、考察の目的とを暗に示すことを目的としているからだというのじゃ。
 考究こそがスートラの意図するところなのじゃ。

 考究は疑問と考察の目的を暗示しているのであって、スートラの中では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されているのじゃ。
 
 考究は各論題ごとに新たに導入されるようなものではないのじゃ。

 文法からも否定されるのじゃ。

 さらに考究という語が本来の対象を示しうる時に、 それ以外の対象を示していると想定するのは間違いなのじゃ。
 何故ならば語の意味を広げすぎるという誤謬に陥るからなのじゃ。
 以上のような理由でシャンカラはブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではない述べているのじゃ。

513避難民のマジレスさん:2022/08/19(金) 01:39:32 ID:BhC18BJU0
2.3.「そこで」の語義(3) 「吉祥」の意味ではない  p274-275 139左/229

  [反対主張]「そこで」という語は、どうして「吉祥」の意味ではないのか。その場合にスートラは、「ブラフマンの考究は吉祥の原因であるから毎日行うべきである」という意味になるであろう。
  [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して、次のように]答えているのである。また[この語は、「吉祥」の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意味]は[スートラの]文意に合わないからである。実に、文意に合う (文意と文脈上結合する)のが語意であり、それは明示されている(Vācya)か暗示され ている(laksya)かのいずれかである。しかし今の場合には、吉祥はrそこで」という語 によって明示されているわけでも暗示されているわけでもなく、太鼓(mrdańaga)や 法螺貝の音の場合のように、「そこで」という語を問いただけで[生ずる]結果(kārya) なのである。そして、[語より生ずる]結果や[語から]知られるもの(jāpya)が文意に合う(文意と文脈上結びつく)ことは、語の用法上みられないのである218。以上が[『註解』本文の]意味である。
   [反対主張]ところで果たして、「そこで」という語は、吉祥という意味であちこち
で用いるぺきではないのだろうか。[もしそうだとすると]、「オームという語とそこで という語のこれら両者は、太古にブラフマンの喉から発せられたものである。だから両者は吉祥なのである」219という聖伝書に反することになろう。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して]、何故なら、「そ
こで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられた時にでも、[その語を]聞くだけで、吉祥の効果があるからなのである、と答えているのである。「そこで」という語は、 [吉祥]以外の意味、すなわち「直後」等[の意味]で用いられた時に、[その語を]聞 けば、すなわち聞くだけで、竹笛や琵琶の音のように吉祥さを生み出すので、他の目的で運ばれてきた水壼を見た時のように220、吉祥の効果があるのである。従って、聖伝書に反することはない。すなわち、この(スートラの)場合、[「そこで」という語は]、「直後」という意味であっても、[その語を]聞いただけで吉祥の意味がある、という意 味なのである。

脚注
218 文は語の集合であるから、当然文意は語意の集合であることになる。そしてこの 語意には、語によって直接に明示されているもの(たとえば「壼」という語が萱を意味する場合)と、間 接的に暗示しているもの(たとえば「ガンジス河に牛飼部落がある」と言った時、河に牛飼部落のあるはずはないので、この場合には「ガンジス河」という語はガンジス河岸を意味するような時)がある。語に 活用語尾が含まれるかどうか、語意どうしを結合させて文意を形成させる条件はなにか、というような問 題はさておいて、「そこで」という語と「吉祥」という意味の関係に的をしぽると、「吉祥」という意味は、「そこで」という語が直接に明示しているわけでもないし、間接的に暗示しているわけでもなぐ、「そこで」 という音と感覚器官が接触して生じた結果なのである。また、「煙」という語から、煙があるところには常に存在する火が同時に知られることもあるが、これも語意ではないので、文意と結びつくこ とはない。
219 出典不明。
220 意図不明
(´・(ェ)・`)つ

514鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/19(金) 23:30:37 ID:g1ui.JIQ0
反対なのじゃ。
 そこでという語は、吉祥という意味ではないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはこの語は、吉祥の意味に解すぺきでもないと言っているのじゃ。
 なぜならば吉祥という意味はスートラの文意に合わないからなのじゃ。
 暗示でも明示でも合わないから違うというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 そこでという語は、吉祥という意味で聖伝に説かれているのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そこでという語は、吉祥以外の意味に用いられた時にでも、その語を]聞くだけで、吉祥の効果があるのじゃ。
 直後という意味でも吉祥の効果はあるというのじゃ。

515避難民のマジレスさん:2022/08/20(土) 01:44:19 ID:mtPwygT60
2.4.「そこで」の語義(4)ー「前に主題とされた事柄への論及」 という意味ではない   p275-276

  [反対主張]atha(そこで)という語は「直後」という意味でなくても、「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]でいいのではないか。それはたとえば、まさ にこのatha(そこで)という語を主題として、「このathaという語は直後[という意味]なのか、それとも(atha)、新しい論題の導入[という意味]なのか」と考えるようなものである。[すなわち]この疑問文(vimarśavākya)において、atha(それとも)という語は、前に主題とされたatha(そこで)という語に論及して、まず第一の見解 (「直後」という意味)を紹介し、[次に]別の見解(「新しい論題の導入」という意味) を紹介しているのである。まずこの[atha(それとも)という語]は、「直後」という 意味ではない。というのは、[このatha(それとも)という語と]前に主題とされた事柄(atha=「そこで」という語)[とのあいだ]には、第一の見解の紹介が介在しているからである。また[このatha(それとも)という語は]前に主題とされた事柄に反していないわけではない。というのは、[atha(それとも)という語は、それ(前に主題とされた事柄)に論及していなければ、それ(前に主題とされた事柄)を主題とし ていないことになるから、[atha(それとも)という語の前後の]主題が共通でないことになり、その結果[atha(それとも)という形での]選択(vikalpa)が成り立たなくなってしまうからである221。何故なら、「アートマンは永遠なのか、それとも(atha)、 統覚機能は無常なのか」という[選択]は、決して存在しないからである。従って、ここ(スートラ中の)athaという語は、「直後」という意味でなくても、「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]でいいのではないか。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して、次のように]答えているのである。というのは、「前に主題とされた事柄への論及」とは結局[前に主 題とされた事柄の]「直後」に(ほ)かならないからであると。この[『註解』本文の]意味 は以下の通りである。われわれは、やみくもに「直後」という意味を好んでいるわけではなくて、むしろブラフマンの考究の原因である<前に主題とされた事柄>を確定するために、[「直後」という意味を好むのである]。というのは、それ(「直後」という意味)は、「そこで」という語が「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]であっても成り立つので、「直後」という意味に決めようとわれわれが執着するのは無意味だからである。だからこそ[『註解』本文に]、結局と述べられているのである。しかし厳密に言えば、前に主題とされた事柄へ論及するのは、[Aそれとも(atha)Bというように]別の見解を紹介する場合であり、ここ(スートラ中)では別の見解が紹介されて いないから、消去法に基づいて「直後」という意味だけが[残ることになるのである]。

脚注
221「そこで」と訳したathaという語には、この反対主張にみられるように、「あるいは」という意味もある。そして「XはAなのかあるいはBなのか」という場合、この「あるいは」(atha) という語は、Xというすでに主題とされた事柄に論及しながら、「AなのかそれともBなのか」という選択をせまっているわけである。もし、この「あるいは」という語が、すでに主題とされたことからXに論 及していなければ、ここに述べられているように「AなのかそれともBなのか」という選択はそもそもなりたたない。
(´・(ェ)・`)つ

516鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/20(土) 23:20:00 ID:m2mt7pXY0

 反対なのじゃ。
 そこでという語は前に主題とされたことへの論及でもよいのではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは結局、直後という意味に他ならないというのじゃ。

517避難民のマジレスさん:2022/08/21(日) 00:55:14 ID:d34t4rOI0
3.何の直後にブラフマンの考究が開始されるべきか 140右/229
3.1.ヴェーダの学習の直後ではない  p277-278

  [「そこで」という語が]「直後」という意味だとすれば、ダルマの考究222には前提条件として必ずヴェーダの学習が必要なように、ブラフマンの考究にも必ずなにかが前提条件として必要である[ので]、それについて述べなけれ ばならない。しかしながら、ヴェーダの学習(svādhyāya)223の直後というのは、[ダルマの考究とブラフマンの考究の両者に]共通であって、[必ずしもブラフマンの考究にのみ必要な前提条件ではない]。
 
  [反対主張][「そこで」という語は]「直後」という意味だとしておこう。だとすれ ぱどうだというのだ。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、「そこで」という 語が]「直後」という意味だとすれば云々と答えているのである。この場合にはまず、 なにかの直後だと言うべきではない。というのは、それは言わずもがなのことだからである。実に人は、必ずXを行ったのちに、Yを行うものなのである。またわれわれは、[なにかの]直後だけでは、目に見えるものであれ見えないものであれ、[なんら] 意味を認め[ることができ]ない。従って、Xがなければブラフマンの考究が存在せず、Xがあるときに[ブラフマンの考究が]まさに存在するような、そのXの直後だと言うぺきなのである。だから[師シャンカラは]、次のように言っているのである。 [ブラフマンの考究にも]必ずなにがが前提条件として必要であると。
  [反対主張]ダルマの考究と同じように、ブラフマンの考究にもあてはまるので、 ヴェーダの学習の直後に[ブラフマンの考究が開始されるべきである]。というのは、 (1)ダルマと同じようにブラフマンも、聖典という認識根拠に基づいてのみ知られ、(2) それ(聖典)が理解されなければ、[聖典]それ自身の対象(ダルマとブラフマン)に関する知識は生じず、(3)[聖典の]理解は、「ヴェーダ(svādhyāya)を学習すべきで ある」224と[命じられている]学習(adhyāya)によってのみ必ず生ずるからである。
それ故、ブラフマンの考究の場合にも、ヴェーダの学習の直後こそが、「そこで」という語の意味なのである。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して]、しかしながら、ヴェーダの学習(svādhyāya)の直後というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究 の両者に共通であって、[必ずしもブラフマンの考究にのみ必要な前提条件ではない] と答えているのである。ここ(『註解』本文中)で、「ヴェーダ」(svādhyāya)という[学習の]対象[を示す語]は、それ(ヴェーダ)を対象とする学習を表しているのである225。ところで、[もしこのスートラが、ヴェーダの学習の直後に開始されるのだとすると]、このこと(ヴェーダの学習の直後ということ)は、「そこで、この故に、ダルマ の考究が[開始されるべきである]」226というスートラからだけでも分かるので、この スートラ(「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである)」)を開始 する必要はない。というのは、ダルマという語は、ヴェーダの意味するものすべてを表 しており、ダルマ同様ブラフマンも、ヴェーダの意味するものである点では変わりがな いから、[両者は、]ヴェーダの学習の直後に教示されるという点で共通だからである。

脚注
222 ダルマは「そこで、この故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]]」 とMīmāmsā学派の主題とされており、「[ヴェーダの]教令によって規定されている好 ましき事柄がダルマである」と定義されている。
223ヴェーダの学習の直後にのみダルマの考究が開始されるぺきであるとされている。
224
225『註解』本文の訳では、svādhyāyaという語をヴェーダの学習の意味にとったが、ここでBhāmatīは、この語をヴェーダの意味にとり、学習という意味も含むと解釈しているのである。
226
(´・(ェ)・`)つ

518鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/21(日) 23:49:51 ID:TqJjTAe.0

 ヴェーダの学習の直後というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究の両者に共通だというのじゃ。

 反対
 それはどいういうことかときいたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンの考究にも前提条件として必要なものがあるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究にも、ヴェーダの学習の直後が、そこでという言葉の意味゛というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ダルマとブラフマンの考究が、ヴェーダの学習の直後に教示されるというのじゃ。

519避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 05:45:32 ID:aWTxRF5w0
3.2.祭式に関する知識の直後であるという反対主張

  [反対主張]この(ブラフマン)の場合には、祭式に関する知識の直後というのが[ダルマの考究と]異なるところである。

3.2.1.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(1)一一義軌と禁令の場合  p278-279

  [反対主張]この[ブラフマンの考究]の場合には、祭式の知識の直後というのが、ブラフマンの考究がダルマの考究と異なるところである。この(『註解』本文の)趣旨は次の通りである。[すなわち]、何故なら、「[人々は]供犠によって(yajñena)知ろうと望む」227という場合には、供犠等は、三格で明言(śruti)されているので、ブラフマンの知識に対して従属するもの(ańga)として用いられている(viniyyga)からであ る。というのは228、[知識は知りたいという]欲求の目的(karma)であるから、知識のみが主要なもの(pradhāna)であり、主要なものではないそれ以外のもの(padārtha) は、主要なものに関連している(従属している)からである。だがこの場合にも、供犠等は[天啓聖典の]文章の意味の理解(jñāna)が生ずるのに従属する(前提として必 要である)わけではない。というのは、文章の意味の理解は、文章それ自身から生ずるからである。
  [反対主張に対する反論][天啓聖典の]文章は、[それを理解する]補助として祭式 を必要とする。
  [反対主張]それは正しくない。というのは、祭式を行わなくても、語および語の意味 の繋がりを知り、言葉に関する規則(śabdanyāya)についての真理を理解し、主従関係 (gunapapradhanabhāva)・前後関係にある語の意味どうしの相互依存関係(ākaniksā)・ 近接関係(sannidhi)・適合関係(yogyatā)229に注意を払っていれば、文章の意味の 理解がなんの障害もなく生ずるからである。もし[このようにして文章の意味の理解が]生じないとすると、儀軌と禁令の文章の意味が理解されないことになるから、それ(儀軌の文章)の意味するもの(すなわち儀軌の文章が命ずる行為)を遂行せず、それ (禁令の文章)の意味するもの(すなわち禁令の文章が禁ずる行為)を避けないという 誤謬に陥ることになろう。またもし、[天啓聖典の文章の理解には祭式の執行一すなkわち儀軌の文章が命ずる行為を執行することと禁令の文章が禁ずる行為を避けること一が必要で、かつ]それ(儀軌と禁令の文章の)理解に基づいてそれ(儀軌と禁令の文章)の意味するものを遂行したり避けたりするのだとすれぱ、それ(儀軌と禁令の文章の理解)が存在する時に、それ(儀軌と禁令の文章)の意味するものを遂行したり避けたりし、またそれ(儀軌と禁令の文章の意味するものを遂行したり避けたりすること)に基づいて、それ(儀軌と禁令の文章)が理解されるという相互依存[に陥ること)になろう。

脚注
227
228viniyogavidhiとは、従属するものと主要なものとの関係を教える儀軌のことである。
たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う」というviniyogavidhiの場合、この手段 を表す三格で示されているdadhiは、それによって実現される目的である護摩(主要なもの)に対して従属する関係にあることが示されているのである。なお次の、動詞の表す行 為の目的(karma)は、行為者の最も望んでいるものであるから主要なものである。
229この三種は、Nyāya学派で、文章の意味の理解を生ずる原因とされている。すなわち、文章の意味 は、先行する語と後続する語に相互依存関係がない場合、たとえば「牛は、馬は、人は」というような文章 の場合や、個々の語の示す意味相互の間に適合関係のない場合、たとえば「火で水をかけよ」というよう な文章の場合、また語と語に近接関係のない場合、たとえば「牛を」と言って何時間がたったのちに「連 れて来い」と言うような場合には、理解されないのである。
(´・(ェ)・`)つ

520鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/22(月) 23:20:26 ID:LGZBOB/k0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究の場合には、祭式の知識の直後というのが、ブラフマンの考究がダルマの考究と異なるところであるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 天啓聖典の文章は、理解する補助として祭式 を必要とするのじゃ。

 反対なのじゃ。
 祭式を行わなくても、語および語の意味 の繋がりを知り、言葉に関する規則についての真理を理解し、主従関係や前後関係にある語の意味どうしの相互依存関係とか 近接関係とか適合関係に注意を払えば文章は理解できるからなのじゃ。

521避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 23:43:58 ID:BEBLCLy60
3.2.2.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(2)一ウパニシャッドの場合 p280

   [反対主張に対する反論]ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解する
のに祭式が必要なのであり、それ以外の文章の場合にはそうではない。
  [反対主張]それは正し(く)ない。何故なら、[そんなふうに考える]特別の理由がないからである。
  [反対主張に対する反論]心の清らかでない人たちは、「汝はそれなり」という230[ウ パニシャッドの]文章から、「汝」という語の意味するもの、すなわち、行為の主体であり経験の主体である個人存在と、「それ」という語の意味するもの、すなわち最高存在一[それは]本性上永遠で、清浄で、悟っており、無関心である一とが、そのままで同一であると、即座には理解することができない。何故なら[「汝」という語の意味するものと「それ」という語の意味するものとのあいだに]、適合関係がないことは確実だからである。しかし、供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは、信仰をそなえている[ので]、まず[「汝」という語の意味するものと 「それ」という語の意味するものとのあいだの]適合関係を理解し231、さらに[個人存在と最高存在とが]同一であることを理解するであろう。
   [反対主張]もしそうだとすると、[語の意味どうしの]適合関係を確定する根拠は、
正しい認識根拠にある[のに、それが]正しい認識根拠でない祭式から[生ずる]のだとでも、あなたは言うことにきめているのだろうか。それとも、直接知覚等以外に祭式も正しい認識根拠だ[とでも言うことに決めているのだ]ろうか。だが[いずれにせよ、ウパニシャッドの文章の語どうしの]適合関係は、ウパニシャッドに反せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づく論理の力によって確定されるのだから、祭式は余分なのである。

脚注
230
231「汝」という語は個人存在を指し、「それ」という語は「最高存在」を指すので、通常の意味では両者は異なるから、両者の間には、r汝=それ」というような形で表現されるような適合関係は存在しないは ずだが、心が清らかになり、信仰をそなえると、個人存在と最高存在が本質的に同一であることに気づいてくるから、適合関係が理解されるようになってくるのである。


3.2.3.ブラフマンの念想(修習)には祭式が必要である  p280-281

  従って、「汝はそれなり」等[のウパニシャッドの文章]を聞くと生ずる知識によって、個人存在が最高存在であると理解し、さらに[それを]それ(ウパニシャッド)に 基づく論証によって確定したのち、それ(個人存在と最高存在が同一であること)を 長い間、絶え間なく念想一別名修習(bhāvanā)ともいう一すれば、その果報としてブラフマンの直証が[得られるのだが、その念想に]供犠等が役立つのである。[そ のことが]例えば、「しかし、それ(修習abhyāsa)は、長い間、絶え間なく専念して 実行されると、堅固な境地に到達する」232と述べられているのである。そして[ここ で]、「専念」というのは、不淫、苦行、信仰、供犠等のことなのである。またまさに同
じ理由で、「賢明なバラモンは、まさにそれ(アートマン)を知り、智慧を働かせるべきである」233という天啓聖典句がある。論理に支えられた聖典の言葉によって「知り」、 「智慧」すなわち修習を働かすべきである、というのが[この天啓聖典句の]意味なの である。

脚注
232 233
(´・(ェ)・`)
(つづく)

522鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/23(火) 23:20:59 ID:CC8dBTgM0
答えたのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解するのに祭式が必要だというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 そのように考える特別の理由などないからだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは信仰があるから、汝はそれなり、という言葉から自らの主体とアートマンが一つであると気づくのじゃ。
 そのように知識を得るのに祭式も必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の言葉の適合関係は、ウパニシャッドに反せず、ウパニシャッドに基づく論理で確定されるのであるから祭式は不要というのじゃ。

523避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 01:12:12 ID:fZuL8T/c0
(つづき)  p281-283
  ところである者は、「供犠等は至福の敵である汚れを滅する有益である」と[言う]。 また別の者は、「[供犠等は]人を浄化するから[有益なのである]」と[言う]。というのは、人は、供犠等によって浄化されて、ブラフマンを注意深く、絶え間なく、長い問、修習すれば、無始の無明の潜在印象を根こそぎ絶滅でき、そうすれば、その人の内的アートマンはとても清らかで、純粋で、汚れなくなるからである。そしてまさに同じ理由で、[次のような]法典の句があるのだ。「[五]大供犠と[その他の]供犠 によって、人身はブラフマンに到達しうるものとなる」234「これらの四十八の浄化式[およびアートマンの八つの徳]を備えて[いない]人は、[ブラフマン]との合一にも ブラフマンと同じ世界にも達しない」235と。だが別の者は、祭式は三つの債務を弁済 するという点で、ブラフマンの知識に役立つと言う。というのは、「三つの債務を弁済したのち、心を解脱に向けるべきである」236という法典の句があるからである。とこ ろが、別の者は、「バラモンはヴェーダの学習によって、また供犠によって、まさにそれ(アートマン)を知ろうと望む」237等の天啓聖典句に基づいて、「諸々の祭式は、それぞれの果報のために[行うよう]命じられてはいが、[ある時にはそれぞれの果報と]結びつき(samyoga)、[ある時にはそれぞれの果報を]離れて(prtaktva)、[ブラ フマンの修習と結びつく]から、ブラフマンの修習に対して従属関係にある」と主張 している。[それは]ちょうど、「しかし、同一のものに二つの性格がある時には、結合と分離(samyogaprtaktva)[という関係]がある」238という原則に従って、供犠のためのものであるカーディラ木が、[供犠の主催者が]強くなるためのもの[でも]あ るようなものである239。そしてまさに同じ理由で、[次のような]偉大な聖者(バー ダラーヤナ)のスートラがあるのである。「そして、あらゆるもの(あらゆる宗教的行為)が必要である。というのは、供犠等[の必要性を説く]天啓聖典句があるからであ る。ちょうど馬の場合のように」240と。[ここで]「あらゆるもの」とは、供犠、苦行、布施等であり、ブラフマンの修習にはそれらが必要である、という意味である。従って、もし天啓聖典等が正しい認識根拠であり、またもし、偉大な聖者のスートラ(ブラフマ・スートラ)が[正しい認識根拠で]あれば、いずれにせよ、三つの限定詞(注意深く、長い間、絶え間なく)つきの<ブラフマンの念想>は、供犠等の祭式行為と併合されると、無始の無明およびその潜在印象を滅することによって、ブラフマンの直証一別名解脱とも言う一を生みだすから、その(ブラフマンの念想しいてはブ
ラフマンの直証)のために、諸々の祭式が必要なのである。[ところで]、祭式はそれぞれ互いに異なっており、[それぞれの祭式には]一連の従属要素(ańga)241がつきものである。[そして、その従属要素には、ヴェーダ聖典中に]直接教示されているも の(aupadéika)と[ヴェーダ聖典中の教示を]拡張解釈することで理解されるもの (ātideśika)242とがあり、[それぞれの従属要素は、その遂行の]順序が決まっている。 [さらに、これらの従属要素には、主要な祭式に]内属して目に見える果報あるいは目に見えない果報[を生みだすの]に役立つ原因(drstādrdtsāmavāyikārpakārahetu) となる[祭式行為]と、[主要な祭式の<最終的な目に見えない果報>を生みだすのに] 直接役立つ原因(ārādupakārahetu)となる[祭式行為]とがある243。そして、諸々の祭式は、[このようなそれぞれの]祭式の性質と、それらの[祭式を行う]資格のあ る人(adhikārin)についての知識とがなけれぱ、執行することができない。さらにその知識は、ダルマの考察に学ばなければ[生じ]ないのである。だから[『註解』本文中に]祭式に関する知識の直後というのが[ダルマの考究と]異なるところであると的確に述べられているのである。すなわち、ブラフマンの念想が祭式の執行と併合されるのは、祭式の知識によってである、という意味なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

524避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 01:14:42 ID:fZuL8T/c0
(つづき)  p281-283
脚注
234五大供犠とは、生物、人間、父祖、神、ブラフマンに対する供犠のことである。
235四十八の浄化式については、
236三つの債務とは、聖仙、祖霊、神に対する債務(つまりこれらを祭ること)である。
237 脚注227参照。
238
239このsūtraに対するŚabaraの註によれば、祭式に従属する同一の要素、たとえばkhādira木という 同一のものが、一方では、「khādira木に獣をつなぐべきである」という聖典句によって、祭式に用いら れる道具として祭式に欠かすことのできないものとされ、他方では、「強さを望むものはkhādira木の杭 を作るべきである」という聖典旬によって、祭式に必ず必要な要素ではないが強くなりたい人の場合には 必要なものとされるような場合、同一のものが異なる二つの目的に用いられても、これは矛盾だと考えられない。従って、同一祭式が、一方ではそれ固有の果報のために、他方ではブラフマンの修習のために用 いられても、別段矛盾はないのである。
この「馬の場合のように」を、人は歩いていけて も、早く行きたい時には馬に乗るように、早くブラフマンを知りたい時には、祭式を行うという解釈をしている。
241従属要素とは、祭式のために用いられるものや祭式のための行為など祭式に従属するものすぺてをいう。
242 脚注34参照。
243 祭式の従属要素のうち、祭式のための行為がこの二種に分類される。祭式の際の諸行為は、行為を行ったのちすぐに滅するのに、何故、その果報が長い時間を経たのちに生じうるのか(たとえば、祭式を行っても、その果報として天界に生まれるのは死んでからである)、という疑問に答えるため、Mīmāmsā学派は、目に見えない果報(adrsta=新得力apūrva)というものを想定する。そうすることで、行為自体はすぐに滅しても、その果報であるadrsta=apūrvaは、アートマンの層性としてアートマンに残っているから、長い時間ののちにそれが熟して、天界等の果報を生じうると考えるのである。さて、先の祭式のための行為のなかには、たとえばDarśapūrnamāsa祭の場合、聖典の教令に従って穀粒を打って籾殻を取り除くという行為や、穀粒に水をかけるという行為があるが、前者は籾殻がとれるという目に見える果報のある行為であるのに対して、後者はとりたてて目に見える果報を生まない。しかし、ヴェーダ聖 典にはなんら無意味なことは述べられていないとするMīmāmsā 至学派にとっては、聖典が命じている以上、この穀粒に水をかけるという行為が無意味であるはずはないので、この場合には、なにか目に見えない果報が生ずるとされる。しかし、このように果報に違いはあるものの、この両者はともに主要な祭式 であるDarśapūrnamāsa祭に内属した行為である。これが、「主要な祭式に内属して目に見えるあるいは目に見えない果報を生みだすのに役立つ祭式行為」である。一方、Darśapūrnamāsa祭の前に行われ るPrayāja祭等の祭式は、主要な祭式であるDarśapūrnamāsa祭に従属はしているが、別個の祭式であってDarśapūrnamāsa祭に内属しているわけではない。この祭式の場合には、この祭式から生じた果報が他の様々な祭式行為から生じたadrstaと一緒になって、Darśapūrnamāsa祭の最終的な目に見えない果報(最終的新得力)一これが天界とという果報を生む一を生みだすのに直接役立つのである。
(´・(ェ)・`)つ

525鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/24(水) 23:16:25 ID:nbztfViE0
 人は供犠等によって浄化されて、ブラフマンを注意深く、絶え間なく、長い問、修習すれば無始の無明の潜在印象を根こそぎ絶滅できるというのじゃ。
 その人の内的アートマンはとても清らかで、純粋で、汚れなくなるからであるというのじゃ。
 五大供犠とその他の供犠 によって、人はブラフマンに到達しうるものとなるのじゃ。

 注意深く、長い間、絶え間なくという注釈つきのブラフマンの念想は、供犠等の祭式行為と併合されると、無始の無明およびその潜在印象を滅することができるのじゃ。
 それによってブラフマンの直証、解脱を生みだすのじゃ。
 ブラフマンの念想やブラフマンの直証のために、諸々の祭式が必要なのじゃ。

 諸々の祭式は、祭式の性質と、祭式を行う資格のある人についての知識とがなけれぱ、執行することができないのじゃ。。
 その知識は、ダルマの考察に学ばなければ生じないのじゃ。
 そうであるから註解本文中に祭式に関する知識の直後というのがダルマの考究と異なるというのじゃ。
 ブラフマンの念想は祭式の知識によって、祭式の執行と併合されるというのじゃ。

 つまり儀式や祭式をするには長時間のマントラ唱呪や式次第の執行が必要になるのじゃ。
 それによって集中力が高められるのじゃな。
 その集中力によってブラフマンを追求すると、ブラフマンの直証とか悟りも訪れるというのじゃな。

526避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 23:34:22 ID:H/Jsl/Hc0
3.3.祭式に関する知識の直後ではないという答論  143右/229

3.3.1.理由(1)祭式に関する知識以前でもブラフマンの考究は可能である 祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立 つだけでブラフマンの念想に祭式は必要ではない  p283-284

   [答論]そうではない。ダルマの考究以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからである。
 [答論]そこで[師シャンカラは]、これ(以上の反対主張を)退けて[言う]。そうではないと。何故か。何故なら、祭式に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからである。
ここ(『註解』本文中)の趣旨は以下の通りである。「ブラフマンの念想一別名修習とも言う一一には祭式が必要である」と[反対主張]に述べられていた。そこでわれわ れは尋ねる。「一体どのような点で、これ(ブラフマンの念想)に祭式が必要なのか」と。アークネーヤ祭等の場合、最後に生ずる果報(天界)へと導く<最終的な目には見 えない果報(Paramap耐ava)>が将来生ずるのに、サミト祭が必要であるように244、 [ブラフマンの念想の]結果[が生ずるの]に[祭式が必要なの]だろうか。それとも、 まさにそれ(アークネーヤ祭等)には、二つに切った祭餅(Purodāsa)などの供物とアグニという神格等が必要であるように245、 (ブラフマンの念想)それ自体に[祭式 が必要なの]であろうか。

脚注
244Darśapūranamāsa祭は新月の日に行われるDarśa祭と満月の日に行われるPūrna祭からなる が、それぞれ、重要な儀式として、三種の儀式がある。そしてさらに、これらの三種 の儀式にそれぞれ従属する儀式としてSamitという儀式がある。•••長いので省略
245 供物と神格は祭式の本質的要素であり、それらがなけれは祭式自体が成り立たない。
(´・(ェ)・`)つ

527鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/25(木) 23:38:51 ID:L2Ws2G1U0

 答えたのじゃ。
 シャンカラは祭式に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だというのじゃ。
 ブラフマンの念想の結果が生ずるのに[祭式が必要なのか。
 あるいはブラフマンの念想それ自体に祭式 が必要なのかと問うのじゃ。

528避難民のマジレスさん:2022/08/25(木) 23:57:59 ID:oNRFovp20
3.3.1.1.ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(1)一 ブラフマンの直証はutpādya,vikāraya,samskārya,prāpyaではない p284-285

  まず第一に、[ブラフマンの念想の]結果[が生ずるの]に[祭式は必要]ではない。 何故なら、そのような[見解]は疑問に耐えることができないからである。詳論すれば 以下の通りである。[まず]プラフマンの念想の結果は、ブラフマンの本性を直証することであると認めるべきである。だとすれば、それ(直証)は、[小麦粉に練り粉を]混ぜて[できる小麦粉の]玉のように生みだされるもの(utpādya)246か、籾殻を取っ た穀粒のように変化してできるもの(vikārya)247か、[水を]振りかけた日のように浄化されるもの(samskārya)248か、しぼった牛乳のように獲得されるもの(prāpya)249か[のいずれか]であろう。[このうち]まず第一にけ生みだされるものではない。 実にブラフマンの直証は、壼等の直証(直接知覚)一[それは]物質であることを本 性とする壼等とは異なる一が感覚器官などによって生みだされる(ādheya)ように、 修習によって生みだされることはありえないのである。というのは、(1)ブラフマンは(自己)以外のものに基づいて輝く(認識される)わけではないので、その(ブラフマンの)直証はそれ(ブラフマン)の本性上永遠であり、従って、[その直証が]生み だされることはありえないからである。(2)また、直証がブラフマンとは本性が異なり、かつ修習によって生みだされるとすると、それは想像上の観念と同じで疑問につつまれているから、正しい認識根拠であることはありえないからである(というのは、 そのような種類のもの(想像上の観念)は、それ(修習)に助けられていても、しばしば[正しい対象から]はずれること(vyabhicāra)が見られるからである)。実に、推論より生じた火を修習してはいるが、体の各部はひどい寒さで極度に硬直していて寒さに震えている人の場合、もつれた髪のように炎のゆらめく火を[修習によって]直証すること(直接体験すること)は、ほかの認識根拠と合致しないのである。というのは、[この場合には、修習により火を直証している(直接体験している)にもかかわら ず、実際には寒さは知覚しているというように、直証がほかの認識根拠と]合致しな いことがしぱしば経験されるからである。従って、正しい直証という結果[が念想から生みだされること]はないから、念想から[直証という結果が]生みだされるのに 祭式は必要ではない。また、変異することなく永遠で、すべてに遍在するブラフマン [一これがブラフマンの念想の結果である直証の本性である一]が、念想によって 変化してできたり、浄化されたり、獲得されたりすることはない。
  [反対主張]ブラフマンの直証が、生みだされるものなどのかたちで、念想から[生ずること]はないとしておこう。しかし、幕に隠された踊子は、舞台係が幕をあける と、[観客の目に現れる]ように、[ブラフマンの直証は、実在であるとも非実在であるとも]表現しえない二種の無始の無明というヴェイルが取り除かれると、浄化され[て現れてく]るのであろう。そしてこの場合には、祭式が役立つのである。だが、[ブラフマンの直証と踊子を直接目にする(直証する)こととには]、次に述べる程度の違いがある。すなわち、幕があがると観客たちは踊子を直接目にすることになるが、これ (ブラフマンの直証)の場合には、無明というヴエールが取り除かれるだけであって、 それ以外のものが生みだされるわけではない。というのは、ブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としており、永遠なので、生みだされることはないからである。

脚注
246 「練り粉を混ぜる」と命じられて混ぜた場合に生み だされる玉のようなもの、という説明を加えている。
247 「穀粒を打つ」と命じられて打った場合に、籾殻が とれて変化した穀粒のようなもの、という説明を加えている。
248 「水を注ぐ」と命じられて水を注いだ場合に浄化される臼の ようなもの、という説明を加えている。
249 「牛乳をしぼる」と命じられてしぼった場合獲得され る牛乳のようなもの、という説明を加えている。
(´・(ェ)・`)つ

529鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/26(金) 23:30:51 ID:nL.wdU1g0

 そしてブラフマンの念想の結果が生ずるのに[祭式は必要ではないというのじゃ。
 プラフマンの念想の結果とは、ブラフマンの本性を直証することであるのじゃ。
 それは生み出されるものでも、変化して獲得されるものではないからというのじゃ。

 ブラフマンはそれ以外のものに基づいて認識されるのではないから、ブラフマンの直証は本性上永遠であり、その直証が生み だされることはありえないのじゃ。
 さらに直証がブラフマンとは本性が異なり、かつ修習によって生みだされるとすると、それは想像上の観念と同じ妄想なのじゃ。
 正しい直証という結果が念想から生みだされることはないから、念想から直証という結果が生みだされるのに 祭式は必要ではないのじゃ。
 変異することなく永遠で、すべてに遍在するブラフマン念想によって 変化してできたり、浄化されたり、獲得されたりすることはないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの直証は、実在であるとも非実在であるとも表現しえない二種の無始の無明が取り除かれると、浄化され[て現れてくるというのじゃ。
 そしてその場合には、祭式が役立つというのじゃ。
 ブラフマンのち直証は、無明が取り除かれるだけであって、生みだされるわけではないのじゃ。
 ブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としており、永遠なので、生みだされることはないのじゃ。

530避難民のマジレスさん:2022/08/27(土) 04:50:56 ID:hxnEjUqg0
3.3.1.2一ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(2)、 ブラフマンの念想とブラフマンの直証について
  p286-287 145左/229

   [答論]一体このブラフマンの念想とは何か。単なる聖典に基づく知識が連続してゆ
くこと(samtati)なのか。それとも、聖典に基づく疑問の余地のない知識が連続してゆくことなのか。もし単なる聖典に基づく知識が連続してゆくことだとすると、これは反復したとしても、無明を滅することができるのだろうか。[いや、できるわけはない]。真理を確定し、それ(真理の確定)を反復すれば、錯誤(viparyāsa)はその潜在印象とともに滅せられるであろうが、疑問や[まだ疑問の余地のある]単なる一般的な認識を反復しても[錯誤が滅せられることは]ないのである。というのは、「柱か人かである」という認識や、「高くて大きなものである」という認識は、確定的な認識がなければ、百回反復しても、「まさに人である」と確定するのに十分ではないからである。
   [反対主張]「[「汝はそれなり」等のウパニシャッドの文章を]聞くと生ずる知識によって、個人存在が最高存在であると理解し、さらに論証によって[それを]確定する」250と、[すでに]述べたように、念想一「それは」聖典に基づく疑問の余地のない知識が連続してゆくことにはかならない一が、祭式に助けられて、二種の無明を 滅する原因となるのである。
  [答論]これ(念想)は、ブラフマンヘの開眼(anubhava)を生じなければ、それ(二 種の無明)を滅するのに十分ではない。というのは、錯誤は直接的な体験(sāksātkāra) であって、直接的な体験(直証)である真理の認識によってのみ、滅せられるのであ り、間接的な認識(paroksāvabhāsa)によって[滅せられるの]ではないからである。 何故なら、方角を誤ること、火輪、動く木251、屡気楼の水等の誤認が直接に現れている時には、方角等についての正しい認識が直接に現れることによってのみ[誤認が]取り除かれるのが経験されるからである。実に、聖典の言葉や徴標などによって正しい方角等が確定されても、方角を誤ること等[の誤認]が取り除かれることはないので ある。従って、「汝」という語の意味するもの(個人存在)が、「それ」という語の意味するもの(最高存在)であるという直証が、望まれるぺきなのである。というのは、このような[直証]によって、苦しい・悲しい云々という、「汝」という語の意味するも の(個人存在)の直接的な体験が滅せられるのであり、それ以外の方法によるのでは ないからである。そしてこの直証は、たとえ考察に助けられても、聖典という認識根拠に基づく結果ではなくて、直接知覚の結果なのである。というのは、いつでもそれ (直接知覚)にだけそれ(直証)という結果がある、と決まっているからである。何故なら、さもなければ、クタジャの種からでもバニヤンの芽が生ずるという誤謬に陥るからである。従って、[聖典の]文章の疑問の余地のない意味についての修習が熟す(完全なものとなる)のに助けられて、内官がそれ(個人存在)の添性を否定することによって、「汝」という語の意味するもの(個人存在)一[それは]直接経験されてい る一が、「それ」という語の意味するもの(最高存在)であるということに、[人を] 開眼させるのだ、[と考えるの]が正当なのである252。

脚注
250本訳280頁22行以下参照。
251船に乗っている人には、岸辺の木が動いて見える
252マンダナミジュラとヴァーチャスパティ・ミシュラの系統では、聖典の言葉それ自体が直接にブラフマンを知らしめるのではなく、感覚器官の一種である内官が、聖典、論証等によって得られた知識に助けられて、ブラフマンを知らしめるとされる。一方、Vivarana学派では、聖典の言葉それ自体がブラフマンを直接に知らしめるのだとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

531鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/27(土) 23:11:58 ID:Q3T3fAyM0

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの念想とは何かというのしや。
 聖典に基づく知識の連続ではないかというのじゃ。
 そのような知識がいくらあっても無明はなくならないというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章による知識で個人存在が最高存在であると理解し、さらに論証によって確定すると、念想が祭式に助けられて無明を滅する原因となるというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 念想はブラフマンへの開眼がなければ二種の無明を滅するのに十分ではないというのじゃ。
 錯誤もまた直接的な体験であるから、直証である真理の認識によってのみ、滅せられるからなのじゃ。
 聖典からの知識という間接的な認識によっては滅せられないのじゃ。

532避難民のマジレスさん:2022/08/28(日) 01:13:47 ID:smMTmFAo0
(つづき) p287
  またもし、[開眼がブラフマンを本性とするもの]であれば、生ずることはないであろうが、この開眼はブラフマンを本性とするものではない。そうではなくて、[開眼とは]まさにブラフマンを対象とする内官の変容の一種(vτttibheda)なのである。しかしだからといって、ブラフマンが[自己]以外のものに基づいて輝く(認識される)ことにはならない。何故なら、聖典に基づく知識によって照らしだされるブラフマンが 自ら輝かないわけはないからである。というのは、[聖典にはブラフマンは]あらゆる添性をはなれており、自ら輝くと唱い上げられており、[ブラフマンに]添性があるとは[述べられて]ないからである。[このようにブラフマンは自ら輝いていても対象でありうることについて]、たとえば神聖なる註釈者(シャンカラ)が、これ(内的アー トマン=ブラフマン)は絶対に対象ではないというわけではない253と述べていたでは ないか。
  またこれ(ブラフマン)は、直証一[それは]内官の変容にほかならない一されている時にでも、すべての添性を離れているわけではない。何故なら、まさにそれ(ブラフマンの直証)は、[それ自身]滅びつつある状態にあるので、自己および[自己] 以外の添性とは対立するものではあるが、[やはり]それ(ブラフマン)の添性である、 と知られているからである254。というのは、さもなければ、内官の変容は、それ自身物質的なものであるので、精粋性が反映されていなければ、白ら輝くことはありえず、従って直証でありえなくなるからである255。

脚注
253 本訳244頁参照
254ヴァーチャスパティ・ミシュラによれば、無明に覆われているのは、添性に限定されたブラフマンであって、添性に限定されていなブラフマンは完全無欠なので、決して無明に覆われたり、無明が取り除かれて現れてきたりすることはない。従って、直証されているのも限定されたブラフマンであることにな る。というのは、覆ったり、現れたりする場合には、主客の関係が存在するが、この場合ブラフマンはなにものにも限定されていないわけではないからである。そして、ブラフマンが直証されている場合、直証は、それ自体が内官の変容であるので、ブラフマンの添性である。だがこの添性(直証)は、他の添性とは異なり、それ自身滅ぴつつあるものであり、また他の添性を滅ぼすような性質のものなのである。
255 たとえば、壼の認識というような外的な対象の知覚の場合、壷は、内官が視覚を通して対象である壼のほうへ向かって外へ出て、壷に達し、そこで変容して壼の形をとったとき認識されるのだが、この内宮の変容自体は物質的なものなので、それに精神性が反映されていなければ、壼の認識とはなりえない。同じように直証の場合も、たとえ直証がブラフマンを対象としていたとしても、それが内官の変容という物質的 なものであることは、壼の認識の場合とかわりないので、この直証が認識であるためには(自ら輝くためには)、萱の認識の場合と同様、精神性が反映されてなけれぱならないのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

533鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/28(日) 23:01:05 ID:BHST3W8k0
 開眼はブラフマンを本性とするものではないというのじゃ。
 開眼とはブラフマンを対象とする内官の変容の一種なのじゃ。
 聖典に基づく知識によって照らしだされるブラフマンが自ら輝くのじゃ。

 ブラフマンは自ら輝いていても対象でありうることについて、シャンカラも内的アートマン、ブラフマンは絶対に対象ではないというわけではないと述べていたのじゃ。
 ブラフマンは、直証されている時にでも、すべての添性を離れているわけではないのじゃ。
 ブラフマンの直証は、それ自身滅びつつある状態にあるから、自己および自己以外の添性とは対立するが、やはりブラフマンの添性であるのじゃ。
 内官の変容は、それ自身物質的なものであるので、精粋性が反映されていなければ、白ら輝くことはありえず、直証でありえないからなのじゃ。

 つまりブラフマンも悟りに導く法であるから、知覚の対象になるのじゃ。
 観念であり、性もあるものじゃ。

 しかし法として対象はなく、添性もないと説かれるのじゃ。
 そのように法と、法の現すものの区別に注意しなくてはならんのじゃ。

534避難民のマジレスさん:2022/08/29(月) 01:43:37 ID:SrlHKUME0
(つづき)   p288
  また「これ(直証)は、推論に基づいて修習した火についての直証(直接体験)のように、想像上のものであるので、正しい認識根拠ではない」256というのは、[正しく]
ない。何故なら、その(火についての直証)の場合には、火自身の特質が間接的であるのに対して、この(ブラフマンの直証の)場合には、個人存在は添性によって汚されてはいて[も、本来は]ブラフマンを本質としており、もともと最初から直接的[に経験 されている]あるからである。というのは、清浄であり、悟っている等の性質は、実際 にはそれ(個人存在)と異ならないからである。実に[聖典にも]、あれこれの添性を 離れた個人存在こそが、清浄であり、悟っている等々を本性とするブラフマンなのだ、 と唱い上げられているではないか。また、あれこれの添性を離れることも、それ(ブ ラフマン)と異ならないのである257。従って、音楽理論の書の意味(音楽理論)に関 する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた、耳という感覚器官によって、[人が]シャドジャ等の一連の音階に関して、上昇音、下降音258の区別を直接経験するよ うに、ウパニシャッドの意味に関する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた [個人存在は]、内官によって、個人存在がブラフマンであることを、[直接に体験する のである。]

脚注
256 本駅258頁参照。
257 この一文は、以下のような反対主張に対する答論であるとされている。「あれこれの添性を離れることは、真実なのかそれとも非真実なのか。後者の場合、すなわち添性を離れたものが非真実である場合には、添性が真実であることになるから、それ(添性)はブラフマンと異なることになり、不二一元論が損なわれることになる。前者の場合でも、添性を離れたものは、真実であってブラフマンと異なるのだから、不二一元論が損なわれることになる。」
258インド音楽の音階には、七音階があるが。それには上昇音と下降音があり、•••従って•••上昇音の場合と下降音の•••区別は音楽理論についての知識がなければ理解できないのである。
(´・(ェ)・`)つ

535鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/30(火) 00:16:03 ID:a/Epxlw20

 ブラフマンの直証の)場合は、個人存在は添性によって汚されてはいても、本来ブラフマンを本質としており、もともと最初から直接的に経験 されているというのじゃ。
 個人存在はもともと清浄であり、悟っているのじゃ。

 聖典にも添性を 離れた個人存在こそが、清浄であり、悟っていることを本性とするブラフマンなのだ と説かれているのじゃ。
 添性を離れることも、ブ ラフマンと異ならないのじゃ。
 ウパニシャッドの意味に関する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた個人存在は、内官によって、個人存在がブラフマンであることを、直接的に体験するのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのじゃな。
 無明の覆いが無ければ、みんな悟っているのじゃ。

536避難民のマジレスさん:2022/08/30(火) 02:28:36 ID:zubZC57E0
3.3.1.3.ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(3)一 さまざまな反対主張を退ける  p289 146右/229

  [反対主張]内官の変容というブラフマンの座言正を生ずるのに、それ(ブラフマン) の念想は祭式を必要とするのである。
  [答論]そうではない。それ(ブラフマンの念想)と祭式の執行とが共存することは ないから、[ブラフマンの念想が]それ(祭式)と協同することはありえないからである。実に人は、「汝はそれなり」等の文章に基づいて、疑問の余地のない唯一のアートマンー[それは]本性上清浄で、悟っており、無関心であって、行為者ではないという性質をそなえ、バラモンという性質等のカーストとは無縁で、身体とは異なる一 を理解すると、[自己の]祭式に対する資格を理解することができないのである。[こ のように祭式に対する資格を理解]できない人がどうして、[祭式の]執行者であったり、[祭式を執行する]資格のある人であったりしようか。
  [反対主張]たとえ真理が確知されても、錯誤に基づいて日常的経験が継続するのが経験されるではないか。たとえば、砂糖は甘いと確知しても、甘い[砂糖]を吐き出して捨てることから分かるように、感覚器官が黄疽で損なわれている人には、あいかわらず苦く感じられるようなものである。従って、無明の潜在印象が続くから、祭式の執行は存在しており、それ(祭式の執行)が明知と協同してそれ(無明とその潜在印象) を滅ぼす、というのは妥当なのである。
  また、「無明を本質とする祭式が、どうやって無明を滅するのか。また、無明を滅ぼすものである祭式が、何によって滅せられるのか」と言うべきではない。というのは、 自己および自己以外の同類のものと対立する(を滅する)存在がしばしば認められるからである。たとえば、牛乳はほかの牛乳を腐らせ
、またそれ自身腐ってゆくし、毒はほかの毒を鎮め、また自らも鎮める。さらにカタカの屑は、ほかの屑で濁った水の中に 投げ込まれると、ほかの屑を沈澱させまた自らも沈澱して、水をきれいにする。このように祭式は、無明を本質としていても、ほかの無明を除去し、自らも消え去ってゆくのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

537鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/30(火) 21:57:24 ID:Ew4smaMg0

 反対なのじゃ。
 内官の変容というブラフマンの直証を生ずるために、ブラフマンの念想は祭式を必要とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの念想と祭式の執行とが共存することは ないというのじゃ。
 そうであるから、[ブラフマンの念想が祭式と協同することはありえないのじゃ。
 聖典の汝はそれなり等の文章に基づいて、疑問の余地のない唯一のアートマンを理解すれば、祭式の資格もなくなるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 真理が確知されても、錯誤に基づいた日常的経験が継続するのではないかというのじゃ。 
 悟っても砂糖は甘いというように。
 祭式は、無明を本質としていても、ほかの無明を除去し、自らも消え去ってゆくのであるから必要だというのじゃ。

538避難民のマジレスさん:2022/08/31(水) 02:25:19 ID:BkE9XLdk0
(つづき)  p289-290
   [答論]その通りである。「愛児よ、[太初には]この[世界]は有のみ[であった]」で始まり、「汝はそれなり」で終わる章句259一[それは]ブラフマンの考察に役立ち、よく復唱される一に基づいて、身体一[その]質料因が無始の無明である一とは異なる内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続してゆく。にもかかわらず、これらの日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じない。それはちょうど、黄疽で感覚器官の損なわれた人は、砂糖を吐き出して捨てても、それ(砂糖)が苦いと[信じてはいない]ようなものである。また 同様に、[祭式の]行為、行為者、行為手段、行為方法、果報などの様々なものが実在しないと確知している者に、どうして[祭式を執行する]資格があろうか。というのは、 [祭式を執行する]資格があるのは賢者だからである。さもなければ、動物や奴隷にも [祭式を執行する]資格があると認めざるをえないであろう。そしてここ祭事部では、 [祭式の]行為、行為者等の本質の違いを知っている者(vidsyamāna)260が、賢者だと思い込まれているからである。まさにこのような理由で、神聖なる註釈者(シャンカ ラ)は、聖典が無明を持つ者に関係していると説明していたのである261。従って、バラモンや庶民というカーストに属すと思い込んでいる人は、王族というカーストに属す と思い込んでいる人が執行者であるラージャスーヤ祭262に対して、[執行の]資格がな いように、再生族、行為者、行為、行為手段等の区別[があると]思い込んでいない人 は、それら[の区別があると]思い込んでいる人が執行者である祭式に対して、[執行 の]資格がないのである。また、[執行する]能力はあっても[執行する]資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は、バラモンやクシャトリヤの行ったヴァイシュヤストーマ
祭263のように、果報を生みださないのである。従って、目に見える果報のために[行われる]祭式の場合には、[執行の]能力のある人が執り行えば、[果報は]目に見えるので、[その]果報を得るであろうが、目に見えない果報のため[に行われる祭式]の 場合には、[その]果報は聖典に基づいてのみ理解される[ので]、[執行の]資格のな い人にもたらされることはないであろう。以上のような理由で、[ブラフマンの]念想 の結果[が生ずる]のに祭式は必要ではないのである。

脚注
259
260ここで知者を表すのに、未来形の分詞を用いている理由について、実際は賢者でないのに、賢者に見える人という意味をもたせるためだとしている。
261 本訳257-258頁参照。
262この祭式は王の即位式である。
263この祭式は庶民が行うものとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

539鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/31(水) 23:45:32 ID:O4EMOl5U0
答えたのじゃ。
 その通り内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続するというのじゃ。
 しかし、日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じないのじゃ。
 そうであるから祭式の行為や行為者や行為手段や行為方法や果報などが実在しないと確知している者には祭式を執行する資格がないというのじゃ。
 それは動物とかが意味を理解しないで祭式を執行するのと同じだというのじゃ。
 
 祭式を執行する資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は果報を生じないのじゃ。
 そうであるからブラフマンの念想の結果が生ずるのに祭式は必要ではないのじゃ。

540避難民のマジレスさん:2022/09/01(木) 05:03:34 ID:i53sF5860
(つづき)   p290-291
  [反対主張]祭式一[それを執行する]資格には人間であるという思い込みが含まれている一が命じられている時には、そういった思い込みのない人には[祭式を執行 する]資格がないように、禁令の場合も、[それを実行する]資格に人間[であるという思い込みが含まれている]ので、そのような思い込みのない人には、動物などと同じ ように、それ(禁令)に対する資格もないことになろう。従って、この者(人間だという思い込みのない人=ブラフマンの念想が完成した人)264は、禁じられている[行為] を行って[も]、獣などと同じで堕落することはないので、[自己]以外の者[に適し た]行為[を行っている]ということ(bhinnakarmatā)265になってしまうであろう。
  [答論]そうではない。実にこの者(ブラフマンの念想が完成した人)に、人間であ るという思い込みがまったくないわけではない。そうではなくて、この者の場合でも、 無明の潜在印象は継続しているので、そういった(人間であるという)思い込みがすこしは続いているのである266。
  [反対主張]「継続してゆく[日常的経験や諸観念]が虚妄であると考えている人は、 [それらを実在だとは]信じていない」267と述べられていたが、もしそうだとすると、 だからどうだというのか。
  [答論]だから以下の通りなのである。すなわち、儀軌を信じている人が[祭式を執行する]資格のある人であって、信じていない人はそうではないのだ。従って、人間で ある等の思い込みに対して信仰をいだいていない人は、儀軌[を説く]聖典に対して資 格がないのである。そして同じ趣旨で「信仰なしに、供えられた供物、与えられた布施云々」268という聖伝句がある。だが、禁令[を説く]聖典は信仰を必要とせず、それどころか禁じられた行為に向かう人に対してのみ作用するのである。従って、信仰 によってブラフマンという真理を理解した人でも、輪廻の状態にある人と同じように 禁令を犯して活動して堕落するので、「[その人は自己]以外の者[に適した]行為[を行っているのだ]」という[反対主張者の]見解は、認めることができないのである。 [ともかく]以上の理由で、[ブラフマンの]念想の結果[が生ずるの]に祭式は必要でないのである。

脚注
264
265 自分に行う資格のない祭式(行為)を行っても、祭式(行為)の果報を得ることができないという原則があるので、人間だという思い込みのない者は、人間に対して禁じられている行為を行っても、地獄に落ちるというような悪い結果は生じないことになってしまう。
266 悟ったがまだ生きている人は、まだ依然として修行階梯にあるのか、それとも修行を完 成した人であるのか、あるいはまた、その人に無明が残っているのか、それとも無明の潜在印象だけが残っているのかという問題について、ヴァーチャスパティ・ミシュラがどう考えていたかという 点に関しては•••
267 本訳290頁1行参照。
268
(´・(ェ)・`)つ

541鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/02(金) 00:51:46 ID:ECK.c7KU0
 
 反対なのじゃ。
 祭式と同じく、自分という思いがなく禁令も効果を生じないならば、それはもはや人間に適した行為ではないというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。 
 ブラフマンの念想が完成した人でも無明の潜在印象は継続しているので、人間であるという思い込みがすこしは続いているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの念想が完成した人は日常的経験や諸観念が虚妄であると信じていると述べられていたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 禁令を説く聖典は信仰を必要とせず、禁じられた行為に向かう人に対してのみ作用するのじゃ。
 信仰 によってブラフマンという真理を理解した人でも、輪廻の状態にある人と同じように 禁令を犯して活動すれば堕落するのじゃ。
 そうであるからブラフマンの]念想の結果が生ずるのに祭式は必要でないのじゃ。

542避難民のマジレスさん:2022/09/02(金) 02:42:23 ID:W56OOOXo0
3.3.1.4.ブラフマンの念想それ自体が生ずるのに祭式は必要でない  p292 148左/229

  まさに同じ理由で、[ブラフマンの]念想が生ずるのにも[祭式は必要では]ない。 [というのは、すでに]述べたように、聖典に基づく疑問の余地のない知識が生じたのちには、祭式に対する資格というものが存在しないからである。そして同じ趣旨で、「[人 は]祭式によっても、子孫によっても、また財産によっても[不死に達しない]。放棄 によってのみ不死に達するのである」269という天啓聖典句があるのである。

脚注
269

3.3.1.5.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つ(1)一一供犠等の場合 p292-293

  [反対主張]さて、ところで祭式は、この世でまったく無用なのだろうか、もしそうだとすると、「供犠によって知ろうと望む」等の天啓聖典句が矛盾することになろう。
   [答論]そうではない。というのは、供犠等の祭式は[ブラフマンの知識が生ずるのに]間接的に役立つ(ārādupakāraka)からである。詳論すれば次の通りである。バラモンは、このアートマンを、ヴェーダの学習によってすなわち常にヴェーダを学習す ることによって、知ろうと望むすなわち知りたいと欲するが、知るわけではない。というのは、知識は実際には主要なものであるが、[/vidという]語根(prakrti)の意味なので、言葉の上では従属的な位置にあるのに対し、欲求は[sanという]接尾辞の意味なので主要なものであり、さらに行為は主要なものと一致する(sampratyaya) からである270。実に、「王の家来を連れて来い」と言われた時には、実際には王が主要なものであるが、それは家来を修飾しているので、言葉の上では従属的な位置にある (upasarjana)271[から、王を]連れて来ることはない。そうではなくて、言葉の上ではそれ(家来)が主要な位置にあるので、まさに家来を[連れて来る]のである。このように供犠も、ヴェーダの学習と同じように、欲求[を生ずる]手段として命じられているのである。苦行すなわち節食の場合もまた同じである。苦行とは、欲望のままに食べないことである。実に、清らかな良いものを適度に食べる人に、ブラフマンを知 りたいという欲求が存在するのである。だが、まったく食べない人には、[ブラフマンを知りたいという欲求が存在し]ない。死んでしまうからである。また、cāndrāyana 等の苦行(断食)272に没頭している人にも、[ブラフマンを知りたいという欲求は存在し]ない。気持ちの平静さが崩れること(dhātuvaisamya)になるからである。

脚注
270ここで語根と訳したprakrtiは、語が変化する以前の元の形のことを言い、実際には動詞語根と名詞語幹のことを言うが、ここでは内容的には語根のほうを指しているのでこう訳した 。なお語根や語幹より接尾辞の意味のほ うが主要である。
271従属的な位置にあるものとは、compoundにおいて第一格で示されるものであるが、第六格が第一格で示されているので、compound 中の第六格はupasarjanaである。
272
(´・(ェ)・`)つ

543鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/02(金) 23:18:58 ID:BVnktc520

 今まで述べたように、ブラフマンの知識が起きたらブラフマンの念想が生ずるのにも祭式は必要ではないというのじゃ。
 人は祭式とか、子孫とか、財産によっても不死にはなれないのじゃ。
 放棄によってみ不死に達するというのじゃ。

 自我の放棄じゃな。


 反対なのじゃ。
 それでは祭式は全く必要はないのかと聞いたのじゃ。
 そうだとすると聖典が間違いということになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つのじゃ。
 祭式はヴェーダの学習と同じく、ブラフマンを知りたいという欲求を起こすのに役立つのじゃ。

544避難民のマジレスさん:2022/09/02(金) 23:43:37 ID:Ts/y8tnc0
3.3.1.6.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接白勺に役立つ(2)一時に日々義務 として行わなければならない祭式の場合 p293-

   さらに、これらの日々義務として行わなければならない祭式は、すでに身についた罪を滅ぼすことによって、人を浄化するのである。同じ趣旨で、「実に、『この自己の一部はこれによって浄化される。この自己の一部はこれによって増大する』と知る者が、自己に対する供(犠)を行う者(ātmayājin)である」273という天啓聖典旬があるが、[そこで]「これによって」で言及されているのは、供犠等だと考えるべきである。また、「これらの四十八の浄化式を備えて[いない]人は、[ブラフマンとの合一にもブラフマンと同じ世界にも達しない]」274という法典句もある。さらに、日々義務として行わなければならない祭式と臨時に行わなければならない祭式を執行することによって、汚れが(滅)せられて、心が浄化され、さらに知りたいという欲求が生じて知識が生ずるのは、無知な人の場合だけであることを示す、アタルヴァ・ヴェーダ系統の[次のような]天啓聖典句がある。「しかし、心が浄化された人は、瞑想しながら、こうして部分のないそれ(ブラフマン)を見る」275と。また、「祭式に基づいて罪が滅せられると、人に知識が生ずる」276という聖伝句もある。日々義務として行わなければならない祭式はし常に行えば、すでに身についた罪を滅して人を浄化する、とまさに確定しているので、それは、[浄化の結果である]知識の生起に対して従属関係にある。そして、 [この従属関係が]成り立つ時には、結合と分離という関係による直接的な従属関係277[を想定するの]は正しくない。想定がまわりくどくなってしまうから(gaurava)で ある278。詳論すれば以下の通りである。日々義務として行わなければならない祭式を執行すれば、ダルマが生ずる。それから罪が止滅する。それ(罪)はまさに、無常で、 不浄で、苦である輪廻を・永遠で・清浄で・楽であるとする錯誤によって、心の中の鈍 質(Cittasattva)279を汚しているのである。従って、罪が止滅すると、直接知覚と論理の道が開かれるので、直接知覚と論理によって、輪廻が無常で、不浄で、苦であるとなんの障害もなく理解する。そしてこの[理解]から、それ(輪廻)に対する離欲、 [それは]無執着(anabhirati)とも呼ばれる一が生ずる。それから、それ(輪廻)を 捨てたいという欲求がめぐってくる。それから、[輪廻を]捨てる手段を捜し求める。 そして捜し求めている時に、アートマンという真理がその手段であると聞いて、それ (アートマンという真理)を知りたいと望む。それから、聴聞等280の順序に従ってそれ (アートマンという真理)を知る。従って祭式は、心の純質を浄化することによって、真理の知識が生ずるのに間接的に役立つ、[と考えるの]が正しいのである。まさにこの同じことを、『バガヴアッド・ギーター』も[次のように]述べている。「ヨーガ[の高み]にのぽろうとする聖者こは、祭式が手段であると言われる。その[聖者]がヨー ガ[の高み]にのぼった時には、安息が手段であると言われる」281と。

脚注
273
274 脚注235参照。
275
276 出典不明。
277 脚注239参照。
278 ある事柄を説明するために想定された考えは、より簡潔明瞭であるほうが優れているわけだが・「祭式が罪を滅して心を浄化し、その結果、知識の生起に役立つと考える」のと、「祭式が、一方ではその固有の果報に役立ち、他方ではブラフマンの念想が知識を生ずるのに役立つ」と考えるのを比べると、前者 のほうが後者の前半部がない分だけ簡潔である。
279
280「等」には思惟、瞑想が含まれる。
281
(´・(ェ)・`)つ

545鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/04(日) 00:11:43 ID:9wee1HQQ0

 祭式は身についた罪を滅ぼすことによって、人を浄化するのじゃ。
 聖典には心が浄化された人は、瞑想してブラフマンを見ると説かれているのじゃ。
 祭式に基づいて罪が滅せられると、人に知識が生ずるともいうのじゃ。
 
 祭式によって罪が止滅すると、直接知覚と論理の道が開かれるので、それによって輪廻が無常で、不浄で、苦であるとなんの障害もなく理解するのじゃ。
 そしてこの理解から、輪廻に対する離欲がおこるのじゃ。
 そして輪廻から解脱したいという欲が起こり、輪廻を捨てる手段を求めるのじゃ。

 そしてアートマンの法を知り、法を聞いたりして真理を知るのじゃ。
 このように祭式は間接的に役に立つのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2022/09/04(日) 01:44:29 ID:jWMkK7ss0
3.3.1.7.結論一祭式に関する知識以前でもブラフマンの考究は可能である  p294-295 149左/229

  だとすれば、祭式を執行しなくても、前世に行った祭式の効力で心が浄化され、さら に輪廻には実質がないと見て取ることで離欲が生じていれば、その人には、祭式の執行 一[それは]離欲を生みだすのに役立つ一は余分だということになる。何故なら、前世で祭式を執行するだけでそれ(離欲)はすでに完成されているからである。そして、この同じ特に優れた人に関して、天啓聖典句は「あるいは、もしそうでなければ、 学生期のあとすぐに遊行すべきである」282と述べている。だから[「註解』に]、祭式 に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからであると述べられていたのである。また同じ理由で、学生期の者には[三つの]債務がないのである(もし[彼等に三つの債務が]あれば、それらを弁済するために祭式を執行すべきであろうが)283。そして、「実にバラモンに生まれた者は三つの債務を背負って生まれるのである」284という[法典句]は、これ(先の天啓聖典旬)と合うように、家住期の者のことを説明しているのだと解釈すべきである。さもなければ、「もしそうでなけれぱ、学生期のすぐあとに〔遊行すべきである]」285という天啓聖典句に矛盾が生じることになるからである。だが家住期の者の場合でも、債務を弁済するのは心を浄化するためなのである。また、老衰による死に[際して執行される祭式] 関する規定、灰に帰すことに関する規定、葬式(antyesti)286は、祭式に麻痺した無知 な人に対するものであって、アートマンという真理に精通した人に対するものではないのである。従って「そこで」という語は、Xがなければブラフマンの考究が存在せず、Xがある時にそれ(ブラフマンの考究)がまさに存在するような、そのXの直後にという意味なのである。だが、祭式に関する知識はそのようなものではない。それ故、 祭式に関る知識の直後というのは、「そこで」という語の意味ではない、とすぺてが明らかになったのである。

脚注
282
283 本訳281頁参照。
284 出典不明。
285 脚注282参照。
286 それぞれ人が、老衰あるいは病気等でまさに死なんとする時に行うぺきとされている葬式に関する規定、火葬に関する規定、生涯に渡って供犠を行ってきた人の場合に息子が執行する葬式のこと。
(´・(ェ)・`)つ

547鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/04(日) 23:04:11 ID:Yb3y/KCc0

 そうであれば前世から祭式を実践していて浄化されていて、輪廻からの離欲もしていれば祭式は不要だというのじゃ。
 すでに離欲は完成しているからなのじゃ。
 祭式 に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だというのじゃ。

 以上の理由で、そこでという言葉は祭式に関する知識の直後ではないというのじゃ。

548避難民のマジレスさん:2022/09/05(月) 02:27:36 ID:1UY5tJm60
3.3.2.理由(2)ダルマの考究ののちにブラフマンの考究へという 順序は意図されていない    p295-297

  また、[供犠に用いる動物の]心臓等を切り取ること[を命ずる儀軌]の場合には、[心臓ののちに舌を切り取る云々という]順序が意図されているので、 [「そこで」が]直後であることは決まっているが287、この(ダルマの考究と ブラフマンの考究の)場合には、そんなふうに順序が意図されているわけで はない。というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究には、従属するもの (śesa)と主要なもの(śesin)という関係288や、資格ある者(adhiklra)にとっての資格(adhikāra)という関係289を示す認識根拠が存在しないからで ある。

   [反対主張][ダルマの考察とブラフマンの考察の場合、両者の]順序は、アグニホ-トラ祭と粥の場合とは異なり、[それぞれの]目的(用途artha)に基づくことはない であろう290。しかし、明言に基づく(śrauta)291[順序]は存在するであろう。というのは、「家住者となったのち森住者となるべきである。森住者となったのち遊行すべ きである」292というジャーパーラ[・ウパニシャッド]の聖典句が、「家住者」という語によって供犠等の遂行を暗示しているからである。また、「儀軌とともにヴェーダを 学習し、ダルマに基づいて息子をもうけ、できるかぎり供犠を行ったのち、心は解脱に 向かうのである」293という聖伝句もある。さらに、「再生族の者は、ヴェーダを学習せず、子供をもうけず、供犠を行わずして、解脱を望めば、地獄に落ちる」294という非難の言葉もある。
  [答論]だから[師シャンカラは、以上の反対主張に対して]、また、[供犠に用いる 動物の]心臓等を切り取ること[を命ずる儀軌]の場合には、[「そこで」が]直後で あることは決まっていると言っているのである。何故か。何故なら、「まず心臓を、そこで舌を、そこで胸を切り取る」295という場合には、「まず」と「そこで」という語によって、順序が意図されているからである。[だが]、この[ダルマの考究とブラフマンの考究の]場合には、そんなふうに順序が意図されているわけではない。というのは、 「もしそうでなけれぱ、学生期のすぐあとでも、家住期のあとでも、森住期のあとでも 遊行すべきである」296という天啓聖典旬が示しているように、そのようには(直後であるとは)決まっていないからである。実に[この天啓聖典旬は]、離欲を暗示しているだけなのである。同じ理由で、「欲を離れたまさに同じ日に、遊行に出るべきである」 297という天啓聖典句もある。また[先の]非難の言葉は、不浄な心を持った人に対して向けられたものである。すなわち、心の不浄な人は、解脱を望みながらも、怠慢なためにその(解脱の)手段に向かわないまま、家住期のダルマである日々義務として行わなければならない祭式や臨時に行わなければならない祭式を遂行せずに、一一瞬一瞬溜 め込まれてゆく罪を背負って地獄への道を行く、という意味なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

549避難民のマジレスさん:2022/09/05(月) 02:29:27 ID:1UY5tJm60
(つづき)
脚注
287
288 śesaとは、ほかのもののためのものであって、それには、供物、祭式の際に唱えられる真言、祭式の準備、祭式中の個々の行為、これは果報のためのものである、果報、これは人の ためのものである、人、これは祭式中の諸行為のためのものであるがあるとされる。そして、 このśesaとśesinの関係は、たとえばkarmaとphaIaの場合、karmaを行う人とphalaを享受する入が 別入であれば、そのkarmaがphalaのためであるというような関係が成立しないように、行為者が同一である時に成り立つのである。そして、行為者が同一であれば、śesaとśesinのどちらかが先に行われるはずであるが、たとえばkarmaとphaIaの場合、karmaを行ってそのphaIaを享受するという順序が あるように、śesaが先でśesinが後に行われるのである。
289Dārsapūrnamāsa祭を行った者にSoma祭を行う資格があるというような場合、両祭式のあいだに、 どちらかがどちらかに従属するという関係があるわけではないが、両祭式を行う人は同一であるので、当然Dārsapūrnamāsa祭が先でSoma祭が後であるという順序がある。
290 諸祭式行為間の遂行順序を知る認識根拠として、明言、目的、 用途、言及、位置、主要、開始の六種を挙げている。この うち・ここにでてくる二番日のarthaとは、次の通りである。 たとえば「アグニホートラ祭を行う」という聖典句と、粥を 料理する」という聖典句とがある時、両者の順序は、粥はアグニホートラ祭に用いられるものであるか ら、粥を料理するほうが先であると決定する。これがartha(目的、用途)による順序である。ところ で、ダルマの考究とブラフマンの考究の場合、前者が後者のためのものであるとか、後者のために用いられるというような関係はない。
291 次に一番目のśrutiに基づく順序とは、聖典句の一文中で、「まず」「次に」等の語、ablative case,,一ktvε接尾辞(ともに順序を示す機能がある)などで、順序が明言されているような場合である。
292 293 294
295 脚注287参照。
296 脚注282参照。
297
(´・(ェ)・`)つ

550鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/05(月) 23:48:28 ID:NeLjGvWw0

 ダルマの考究と ブラフマンの考究には、順序が意図されているわけではないというのじゃ。
 なぜならばダルマの考究とブラフマンの考究には、従属するものと主要なものという関係や、資格ある者にとっての資格というような関係がないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 明言に基づく順序は存在するというのじゃ。
 ジャーパーラ・ウパニシャッドには家住者という語によって供犠等の遂行を暗示しているのじゃ。
 儀軌とともにヴェーダを 学習し、ダルマに基づいて息子をもうけ、できるかぎり供犠を行ったのち、心は解脱に向かう」という聖伝句もあるのじゃ。
 さらに「再生族の者は、ヴェーダを学習せず、子供をもうけず、供犠を行わずして、解脱を望めば、地獄に落ちる」という非難の言葉もあるのじゃ。

 それらが明言された順序なのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究の場合には、そんなふうに順序が意図されているわけではないのじゃ。
 学生期のすぐあとでも、家住期のあとでも、森住期のあとでも 遊行すべきである」という天啓聖典句が示しているように、直後であるとは決まっていないのじゃ。
 さらにその非難の言葉は、不浄な心を持った人に対して向けられたものなのじゃ。

551避難民のマジレスさん:2022/09/06(火) 01:21:26 ID:xOFkdVm.0
3.3.2.1.ダルマの考究とブララフマンの考究には従属するものと主要なものという関係がないからである  p297-298 150右/229

  [反対主張]明言に基づくものであれ、目的(用途)に基づくものであれ、[ダルマの考究とブラフマンの考究の間に]順序は存在しないとしておこう。だが、言及(pātha) [の順序]・[占める]位置(sthāna)[の順序]・主要(mukhya)[祭における順序] ・ 開始(pravrtti)[した順序]という認識根拠に基づく298順序が、どうしてないことが あろうか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、従属するものと主要なものという関係を示す認識根拠が存在しないからであると言っているのである。 従属するものとはサミト祭等であり、主要なものとはアークネーヤ祭等で、[それらは] 同一の果報に限定されている[ので]、同一の果報に役立つものと知られており、同一の執行儀軌から理解され、同一の[執行]資格を持つ人によって執行され、同一の時期 すなわち新月あるいは満月の日に属す299。しかし、[それらを]同時に執行することは不可能なので、その結果順序を決めなければならないことになるが、このように特定のそれ(順序)が必要な時には、言及[の順序]等[の認識根拠]によって、その(順序の)区別を決定することが可能なのである。しかし、サウルヤ、アールヤマナ、プラージャーバティヤなどのように、従属するものと主要なものという関係がない場合300、ま た同一の資格という限定がない場合には、順序を区別する必要がないので、言及[の順序]等は特定の順序を決定する認識根拠ではない。[しかし、順序がまったくないと いうわけではない301]。というのは、その(サウルヤ等の)場合、[「サウルヤ云々」等
の聖典句を同時に唱えるのは不可能なので、人間の恣意によるものであれ]302、それ (特定の順序)が避けがたいものとして了解されているからである。そして、このダルマの考究とブラフマンの考究の場合も、従属するものと主要なものという関係を示す 認識根拠すなわち明言などのうちのどれか一ーーは存在しないのである。

脚注
298 言及の順序とは、ヴェーダ聖典のなかで言及されている順序に従って諸祭式行為間の順序が決定されるということ。たとえば、Darśapūrnamāsa祭の前に行われる従属祭として、 聖者を神に捧げる儀式があるが、その場合それらの順序は、ヴェー ダ聖典の言及の順に従うのである。なお、一文中に順序が示されていない点が、明言に基づく順序とは異 なる。次に、位置の順序とは、ある祭式行為が祭式のなかで占める位置に基づいて決まる順序のことで、たとえば、基本祭であるJyotistoma祭に対して、応用祭Sādyaskra祭があり、その祭 では、Jyotistoma祭では三日に渡って別々に捧げられた三匹の動物(第一日目がagnīsomīya、第二日目 がsavanīya、第三日目がānubandhya)が、一日(第二日目)で捧げられるが、この時には、Jyotistoma 祭と異なり、savanīyaが最初に神に捧げられる。というのは、これらの三匹の動物が捧げられるのが、第二日目、すなわち基本祭Jyotistoma祭ではsavanīyaの捧げられる日に位置するからである。さらに, 主要祭おける順序とは、応用祭における祭式行為の順序は基本祭の順序に準ずるとい うことである。最後に開始した順序とは、たとえば、vājapeya祭で十七匹の動物を捧げる時、水をかけて清める等の儀式をどの順序でやるぺきか決まってはいないが、もし最 初の儀式を動物(1)から動物(17)の順で始めたとすると、以下の儀礼はそれと同じ順序で行わなけれ ぱならないような場合である。
299Darśapūrnamāsa祭は、新月の日に行われるDarśa祭と満月の日に行われるPūrna祭からなり、さらに、前者は三種の祭式から、後者は別の三種の祭式からなる。このDarśa祭と、pūrpa祭にはそれぞれ、先駆祭・後続祭等の従属祭が付属している。そしてSamit祭は、Prayāja祭のひとつである。これらの祭式は、すべてがDarśapūrnamāsa祭を構成しているので、Darśapūrnamāsa祭の執行儀軌という同一の儀軌から理解され、これらの祭式すべてからら生じたapūrvaが集まって天界という同一の果報を生じる。そしてこの果報は、同一の人、すなわちDarśapūrnamāsa祭を執行した人に生ずるのである
300saurya祭等「望ましい果報を欲して行う祭式」 には主従関係がない。
301 302
(´・(ェ)・`)つ

552鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/06(火) 23:20:44 ID:6JJtvqTQ0

 反対なのじゃ。
 言及の順序とか、主要な祭式の順序などの認識根拠に基づく順序があるはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは主要なものと従属するものという関係を示す認識根拠がないから、それはないというのじゃ。
 従属するものと主要なものという関係がない場合とか、同一の資格という限定がない場合、順序を区別する必要がないので、言及の順序等は特定の順序を決定する認識根拠ではないのじゃ。
 そうであるからこのダルマの考究とブラフマンの考究の場合も、従属するものと主要なものという関係を示す認識根拠である明言などのうちのどれも存在しないのじゃ。

553避難民のマジレスさん:2022/09/06(火) 23:51:47 ID:GwuJ8BsY0
3.3.2.2ダルマの考究とブラフマンの考究にはすでに資格ある者にとっての資格という関係がないからである   p298-300

  [反対主張]従属するものと主要なものという関係が存在しない場合でも、順序が決まっていることが見られるではないか。たとえば、ダルジャプールナマーサ祭の従属要素(水を振りかける儀式)の際に[用いられる]牛乳の容器一[これは祭式(ここでは水を振りかける儀式)のためのものではなく]人間のためのものである一の場合303や、「ダルジャプールナマーサ祭を行ったのち、ソーマ祭を行うべきである」という時のダルジャプールナマーサ祭とソーマ祭の場合には304、従属するものと主要なも のという関係は存在しないが、[一定の順序が決まっているのが見られる]ように。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、資格ある者にとっての資格という関係を示す認識根拠が存在しないからであると言っているのである。こ れが[『註解』本文の]文脈なのである。すなわち、ダルジャプールナマーサ祭[を執 行する]資格のある者一つまり天界を望む者一であってかつ家畜を望む者に、水を振りかける儀式一[それは]ダルジャプールナマーサ祭のためのものである一に基 づく牛乳の容器(を用いる)資格がある305。実に、牛乳の容器という用具は、[それ自体で]作用することはないから、直接に家畜を生みだすことができない。また、[牛乳の容器が水を振りかけること]306以外の作用と関わるとも、天啓聖典に述べられてもいない。何故なら、[もし水を振りかけること以外の作用と関わっていれば、その牛乳の容器は]、それ(ダルジャプールナマーサ祭)の従属要素の[執行]順序の範囲外に なってしまうからである。だが、[それが]水を振りかける儀式に基づくことは、[次の理由から]理解される。すなわち、(1)[牛乳の容器と水を振りかける儀式が]、「チャマサ杯で水を振りかけるぺきである。家畜を望む者の場合には、牛乳の容器で」307と 一緒に述べられており、さらに、(2)それ(牛乳の容器)は水を振りかけるのに適しているからである308。従って、牛乳の容器は、祭式のためのものである水を振りかける儀式に基づくから、人間のためのものであっても、牛乳の容器には、それの順序に従って順序がある、と確立されるのである309。また、ダルジャプールナマーサ祭(isti) 310とソーマ祭[には、執行の]順序[がある]のと同じように、[ダルマの考究とブラフマンの考究にも]順序[があるという考え]も、明言に基づく論破によって退けられるのだ311、と知るべきである。

脚注
303Darśapūrnamāsa祭のなかに水をふりかける儀式があり、この祭式自体は、 Darśapūrnamāsa祭のためのものであるので、従属要素の定義に従って、これは祭式に対する従属要素である。だがその時に、家畜を望む人が任意に用いて水をかける道具である牛乳の容器は、家畜を望んでいる人のためのもの、すなわちその人に従属するのであって、水をかける儀式に従属するのではない。従って、この牛乳容器と水をかける儀式には主従関係はない。にもかかわず、牛乳の容器で水を汲むのが先で水をかける儀式が後という順序が見られる。
304この両祭式が主従関係になく、「Darśapūrnamāsa祭を 執行したのちSoma祭を行うべきである」は、単に時間的な前後関係について述べているにすきない。なお、この両祭式の場合、 Darśapūrnamāsa祭を行う資格のあるものにSoma祭を行う資格があるということが言われているわけだから、前者が先で後者が後である。
305 Darśapūrnamāsa祭を執行する資格は、天界を望む者であることであり、この祭式の中の水をふりかける儀式において牛乳の容器を用いる資格は、家畜を望む者であることである。従って、後者の資格は前者の資格を前提としているので、前者が先で後者が後である。
306
307 出典不明。
308 これをすなわち、sāmarthya(効力)というlińgaによる説明であるとしている。
309 牛乳容器は水をかける儀式に基づき(従属し)、水をかける儀式はDarśapūrnamāsa祭に従属する。従って・この従属の順に牛乳の容器で水をすくい、水をかけ等々の順序で行われるのである。だか、 ダルマの考究とブラフマンの考究にこのような従属関係係がないことは、すでに説明済みである。
310istiがDarśapūrnamāsa祭を意味する。
311 Darśapūrnamāsa祭とSoma祭の場合には、順序が一 ktva接尾辞によって明言されているが、ダルマの考究とブラフマンの考究の場合はそう ではない 。
(´・(ェ)・`)つ

554鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/07(水) 23:30:13 ID:Jhtm4LM20

 反対なのじゃ。
 主要なものと従属するものという関係がみられない場合でも、順序が決まっていることもあるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは資格ある者にとっての資格という関係を示す認識根拠が存在しないから順序はないというのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究に]順序があるという考えも、明言に基づく論破によって退けられるのじゃ。

555避難民のマジレスさん:2022/09/08(木) 08:08:06 ID:.s3PLAMs0
3.3.3.理由(3)ダルマの考究とブラフマンの考究には果報と考究 の対象に違いがある  p300-301 152左/229

  また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には]果報と考究の対象に違いが あるからである。[すなわち]、ダルマの知識の果報は繁栄であり312、それは [祭式の]遂行に基づく。一方、ブラフマンの知識の果報は至福であり313、それはなんら[行為の]遂行に基づかない。また考究の対象であるダルマは、の ちに実現されるべきも(の)であって、考究の時点においては存在しない。何故なら、人間の努力に基づくからである。しかし、考(究)対象であるブラフマンはこの 世にすでに存在しているものである。というのは、ブラフマンは永遠に存在 し、人間の努力に基づかなしいからである。

  [反対主張]たとえ、従属するものと主要なものという関係、あるいは、すでに資格 のある者にとっての資格という関係が存在しなくても、もし同一の果報という限定があれば、順序は意図されていることになるであろう。たとえば、天界という同一の果報によって限定されている、アークネーヤ等の六つの祭式の場合のように314。あるい は、もしダルマが考究の対象であるブラフマンの一部であれば、ダルマの考究とブラフマンの考究は、考究の対象が同一であることになるので、順序が意図されていることになるのであろう。それはちょうど、[『ブラフマ・スートラ』]四章[全体]で明らかにされるブラフマンが、各章でそれぞれなんらかの観点から明らかにされている時、 四つの章は[その]考究の対象に違いがないので相互に関連しており、その場合には [四章間に]順序が意図されているのと同じである。
  [答論]これら[の条件が]両者とも存在しないという意図で、[師シャンカラは]、 また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には]果報と考究の対象に違いがあるからで あると言っているのである。[さらに]、果報の逢いを区別して、ダルマの知識の果報は繁栄である云々と[言っているのである]。すなわち、考究(知りたいという欲求)は 事実上知識に基づいているので、知識の果報は考究の果報にほかならない、という意味 である。また、ただ単に本性上果報が異なるだけでなく、それ(果報)を生みだす方法 にも違いがあるので、それ(果報)が異なるのである。だから[師シャンカラは]、それ は[祭式の]遂行に基づく。一方、ブラフマンの知識の果報は至福であり、それはなんら[行為の]遂行に基づがないと言っているのである。すなわち、「聖典に基づく知識を反復すること以外の[行為の]遂行に基づかない。というのは、[ブラフマンの念想が]、日々義務として行わなければならない祭式や臨時に行わなければならない祭式と共存するということにしては、すでに論破したからである」315という意味なのである。
  [さらに]考究の対象が完全に異なることを、ダルマは、のちに実現されるべきも(の)で あって云々と言っているのである。のちに実現されるべきもの(bhāvya)とは、のちに生ずぺきもの(bhavitr)のことで、[bhāvyaという語の]krtya接尾辞(一ya)は、 行為主体を表しているのである316。そして、のちに生みだされるぺきものは、生みだ す人の活動によって実現されるから、それ(生みだす人の活動)に基づいているので、 それ(生みだす人の活動)以前一すなわち[のちに生みだされるぺきものが]知られた時点一には存在していない。これが[『註解』のこの箇所の]意味である。[一方]、 すでに存在しているものとは真実(実在)のことで、[それは]絶対に真実(実在)であって、どんな時でも決して非真実(非実在)ではない、という意味である。

脚注
312 天界のこと。
313 解脱のこと。なお、Śańkaraは祭式により繁栄が、知 識により至福が得られるとして、この二つの道をはっきりと対置させている。(くま注、Śańkaraのńはnの上に・であるが、活字がないのでńとした。以下同)
3I4 脚注244,299参照。
315 本訳280頁参照。
316krtya接尾辞(bhavyaの一ya)が行為者(kartr)を表し得ることについてーーの論議は、通常karma(行為の対象)を示す接尾辞一yaが自動詞/bhūにつくのはおかしいとい
う反対主張に対する答論であるとされる。
(´・(ェ)・`)つ

556鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/08(木) 23:22:38 ID:AQuD3DP.0

 ダルマの考究とブラフマンの考究には果報と考究の対象に違いがあるのじゃ。
 ダルマの知識の果報は繁栄なのじゃ。
 ブラフマンの知識の果報は至福なのじゃ。

 考究の対象であるダルマは人間の努力によって実現するのじゃ。
 考究の対象であるブラフマンはすでに存在していて、人間の努力によらずともあるじゃ。

 反対なのじゃ。
 従属するものと主要なものという関係や、すでに資格のある者にとっての資格という関係が存在しなくても、同一の果報という限定があれば、順序は意図されていることになるというのじゃ。
 さらにダルマが考究の対象であるブラフマンの一部であれば、ダルマの考究とブラフマンの考究は、考究の対象が同一であることになるのじゃ。
 そこには順序もあるのじゃ。


 答えたのじゃ。
 シャンカラはダルマの考究とブラフマンの考究には、前記の通り果報と考究の対象に違いがあるからこれらの条件が両者とも存在しないというのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究は果報も、考究の対象も違うのじゃ。
 ダルマは人が実践するものであるから、人が実践する前には存在しないのじゃ。
 ブラフマンは人が実践しなくとも、真実として常にあり続けるものであるから違うのじゃ。

557避難民のマジレスさん:2022/09/08(木) 23:35:51 ID:.s3PLAMs0
3.3.4.理由(4)ダルマの考究とブラフマン考究にはヴェーダの教 令の機能の仕方に違いがある  p302-303

  また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には、ヴェーダの]教令の機能[の仕方]に違いがあるからである。というのは、教令(codana)は、ダルマの特徴であって317、[人に]それ自身の対象(祭式)を実行するように命じながら人に教えるが、一方、ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだが らである。[後者の場合]、知識は教令から生ずることはないから、入は教令に よって]知識を得るように命じられているわけではない。たとえば、目と対象が接触すれば対象に関する知識が生ずるが、その場合と同じなのである。

  考究の対象は、ただ単に本性上異なっているだけでなく、知識を生みだす認識根拠にも違いがあるので、異なっている。だから[師シャンカラは、ヴェーダの]教令の機能[の仕方]に違いがあるからであると言っているのである。[ここで]教令とは、 ヴェーダの言葉のことを言っているのである。何故なら、[教令という]特殊によって [ヴェーダの言葉という]一般が間接的に表示されているからである318。[さらに]機能の違いを区別して、というのは、教令は、ダルマの云々と[言っているのである]。 人間の手になるものではないヴェーダの場合は、人間の意図によって異なる命令等の余地がないので、教令とは教えのことである。同じ趣旨で「それ(ダルマ)を知る手段 が教えである」319とも述べられている。そして、それ(教令)は、それ自身から生み だされる志向(bhāvanā)320、すなわち人間の活動、さらにはその(志向)の対象で ある供犠等を、[実行するよう人に命ずるのである]。実にそれ(供犠等)が志向の対象 なのである。何故なら、(1)志向すなわち[人問の]努力は、それ(供犠等)に基づいて決定されるからであり、(2)対象(visaya・くま注sな下に・)という語は、「siñ[(くま注sな下に・)という語根]は結びつけるという意味である」と[パー二二の規定にある]、この(siñという)語根から派生したものだからである321。[教令は、直接に]志向に基づいて、あるいは[間接的に]それ(志向)を通して322、供犠等が望んでいるもの(天界)[を得る]手段であることを[まず人に]理解させ、[次に]それ(供犠等)に対する欲求を起こさせること によって人に[供犠等を]実行するように命じながら、供犠等のダルマを教えるのである。それ以外のやり方によってではない。一方、ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみである。[人を活動に]向かわせながら教えるのではない。何故か。知識は活動と無縁であって、教令から生ずることはないからである。

脚注
317codanāは、「[人を]行為へと向かわせる言葉」と定義されている。一方、Bhāmatī は、「ヴェーダ の言葉」と解釈する。なお。codanāが、このようにヴェ-ダ全体を意味し得るという解釈は他にも見られる。
318 319
320「天界を望む者は供犠を行うべきである」等のヴェーダの文章を聞くと、人に供犠を行おうという意図が生じ、供犠を行う。通常の命令の場合は、人Aが人Bに その命令を行おうという意図を生じさせるのだが、ヴェーダの場合には、ヴェーダの 文章自体が人にそれを実行しようという意図をおこさせるのである。
321対象という語には語源的に結びつけるという意味があるから、志向は対象に対して結びつけられているのである。
322
(´・(ェ)・`)
(つづく)

558鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/10(土) 00:12:33 ID:TSoLXVsA0
 さらにダルマの考究とブラフマンの考究には、ヴェーダの教令の機能に違いがあるというのじゃ。
 教令はダルマの特徴であり人にそれ自身の対象である祭式を実行するように命じながら人に教えるのじゃ。
 ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだというのじゃ。

 考究の対象は、ただ単に本性上異なっているだけでなく、知識を生みだす認識根拠にも違いがあるので、異なっているのじゃ。
 教令とはヴェーダの言葉であり、神から授かった教えだというのじゃ。
 ダルマの教令は人間の活動と、志向の対象である供犠等を実行するよう人に命ずるものというのじゃ。
 供犠等が志向の対象なのじゃ。

 ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだというのじゃ。
 人を活動に向かわせながら教えるのではないのじゃ。。
 知識は活動と無縁であり、教令から生ずることはないからだというのじゃ。

559避難民のマジレスさん:2022/09/10(土) 02:29:07 ID:hwrjf2p60
(つづき)  p303-304
   [反対主張]ウパニシャッドは、「アートマンは知られるべきである」323という儀軌
と同一の文脈を構成するから、その儀軌に従属しており(のためのものであり一para)、 [人を]知識へと向かわせる324。[そして]人は、それ(ウパニシャッド)によって、ブラフマンを知るのである。だから、ダルマに関する教令とブラフマンに関する教令は 同じなのである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、人は[教令によっ て)知識を得るように命じられているわけではないと言っているのである。その趣旨は以下の通りである。まず第一に、人はブラフマンの直証を実行するよう命じられるはずはない。何故なら、それ(ブラフマンの直証)は、ブラフマンを本性としているので、永遠であり、行為の結果ではないからである。また、〔ブラフマンの]念想を[実行するよう命じられるはず]もない。というのは、それ(ブラフマンの念想)は、知識 を優れたものとする原因であって、一致(anvaya)と矛盾(vyatireka)という方法によってすでに確立したものとして了解されているので325、教令によって命じられるものではないからである。さらに、聖典に基づく知識を得るように[命じられるはずも ない]。何故なら。人がヴェーダを学習し、話とその(語の)意味を知り、言葉の規則 に関する真理を理解していれば、それ(聖典に基づく知識)は、なんの障害もなく生じてくるからである。まさにこのことに関して例を[挙げて、師シャンカラは]たとえぱ目と対象が云々と述べ、[その例を]例によって示されているものと結びつけて、その場合と同じなのであると[言っているのである]。さらに、ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌に従属している(のためのもの)とすると、アートマンという真理は聖典に基づいて確知されないことになろう。というのは[その場合には]、それ(ウパニシャッド)は、そのアートマンという真理のためのものではなく、その(アー
トマンの)知識を命ずる儀軌のためのものであることになり、それ(ウパニシャッド) がそれ(アートマンの知識を命ずる儀軌)のためのものであれぱ、それ(アートマンの 知識を命ずる儀軌)がそれ(ウパニシャッド)の意味であることになるからである。ま た、「知識は知識の対象に基づき[知識の対象を]必要としているから、[知識]以外の ものを目的とするものからでも、知識の対象が確知される」326ということはない。何 故なら、それ(知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要するということ)は、附託 によっても成り立つからである327。従って、ウパニシャッドは知識を命ずる儀軌に従属しない(のためのものではない)と確定した。

脚注
323
324この論議に関しては、BSBh I.1.4.の、ウパニシャッドは釈義であるという反対主張を参照のこと。
325「AはBである」という同一判断を示す文において、AとBという語に両立し得る意味を追求してゆくのが、一致の方法であり、AとBという語に両立しない意味を排除してゆくのが矛盾の方法である。たとえば、「汝はそれなり」という文において、「汝」という語の意味のうち、「それ」(すなわちブラフマン)と両立し得る意味(すなわち内的アートマン)を追求し、両立しない意味 (すなわち身体等の非アートマン)を排除するのが、一致と矛盾という方法なのである。
326この箇所は次のような趣旨の反対主張であるとされている。限定儀軌、たとえば「ソーマによって供犠を行うべし」という儀軌)の場合、その供犠は直接的には被限定者(ソーマによって限定されている供犠、すなわちソーマを用いる供犠)を行うよう命じているのであって、限定者(ソーマ)を用いることを命じているわけではないが、間接的には限定者(ソーマ)を用いることも命じていることになる。これと同じように、ウパニシャッドは、アートマンの知識以外のもの一すなわちアートマンを命ずる儀軌一を目的とするものであっても、この儀軌がアートマン という対象に限定されている限定儀軌なのだから、限定者であるアートマンもこのアートマンという対象に限定された、理解を命ずる儀軌の力で確知されるのである。
327縄を蛇と誤認するような場合で、この蛇の認識は誤った認識であっても、蛇の附託された縄という対象に基づき、その対象を必要としているわけだから、知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要とするからといって、対象が確知されるとはかきらない。
(´・(ェ)・`)つ

560鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/11(日) 00:01:08 ID:Jb7igCBA0
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドはアートマンは知られるべきであるという儀軌と同一の文脈を構成するから、儀軌に従属しており人を知識へと向かわせるというのじゃ。
 人はウパニシャッドによって、ブラフマンを知るのじゃ。
 そうであるからダルマに関する教令とブラフマンに関する教令は 同じなのじゃ。


 答えたのじゃ。
 シャンカラは人は教令によって知識を得るように命じられているわけではないと言っているのじゃ。
 まず人はブラフマンの直証を実行するよう命じられていないのじゃ。
 何故ならばブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としているから永遠であり、行為の結果ではないからなのじゃ。

 さらにブラフマンの念想を実行するよう命じられることともないのじゃ。
 ブラフマンの念想は、知識 を優れたものとする原因であって、一致と矛盾という論理的方法によってすでに確立したものとして了解されているのじゃ。

 聖典に基づく知識を得るように命じられるはずもないのじゃ。
 人がヴェーダを学習し、話とその語の意味を知り、言葉の規則に関する真理を理解していれば、聖典に基づく知識は、なんの障害もなく生じてくるからというのじゃ。

 ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌に従属しているとすると、アートマンという真理は聖典に基づいて確知されないことになるのじゃ。
 それは聖典の否定なのじゃ。
 ウパニシャッドはそのアートマンという真理のためのものではなく、アートマンの知識を命ずる儀軌のためのものであることになりるからなのじゃ。
 ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌のためのものであれぱ、アートマンの 知識を命ずる儀軌がウパニシャッドの意味というこになるのじゃ。

 知識は知識の対象に基づき、必要としているから、知識以外のものを目的とするものからでも、知識の対象が確知されるということもないのじゃ。

 知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要するということは、附託によっても成り立つからなのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドは知識を命ずる儀軌に従属しないと確定したのじゃ。

561避難民のマジレスさん:2022/09/11(日) 00:10:19 ID:hwrjf2p60
3.4。四種の条件の直後にブラフマンの考究が開始されるべきである  p304- 306 154左/229

  従って、Xの直後にブラフマンの考究が教示されるそのXが何か述べられ なければならない。答えて言う。それは、永遠なものと無常なものとを識別すること、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、心の平静(śama)・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと,dama)328等の手段を得ること、解脱を求める者であることである。というのは、これらが存在していれば、ダルマの考究の前でも後でも、ブラフマンを考究して知 ることができるが、その逆ではないからである。従って、「そこで」という語は、ここに述べたような手段を得た直後を示しているのである。

  [師シャンカラは、これまで論じてきた]主題を結論づけて言う。従って、Xが何か述べられるべきあると。[すなわち]、Xが存在しない時にブラフマンの考究が存在せず、Xが存在する時にそれ(ブラフマンの考究)がまさに存在するような[そのXが述べられるべきである]という意味である。そこで[さらに]言う。答えて言う。永遠なものと無常なものとを識別すること云々と。永遠なものとは内的なアートマンのことで、無常なものとは身体・感覚器官・対象等のことである。
  [反対主張]もしそれ(内的アートマン=ブラフマンと身体等)を識別することが確知であれば、このブラフマンの考究は余分なものとなろう。何故ならブラフマンは [この段階で]すでに知られているからである。
  [反対主張に対する反論]識別することとは単なる知識であって確知ではない。
  [反対主張]その場合には、これ(識別すること)は、錯誤とは異なるが、疑間の余 地があることになろう。だとすれば、[それが]離欲を生ずることはないであろう。[離欲を]生ぜずしてどうして、ブラフマンの考究の原因でありえようか。
  [答論]だから、以下のように説明すべきなのである。永遠なものと無常なものは、 永遠なものと無常なものの中に存在しているから、その属性のことであり、永遠なものと無常なものの基体およびその諸属性を識別することが、永遠なものと無常なものとを識別することなのである。その趣旨は以下の通りである。
  「この永遠なものが真実であり、この無常なものが非真実である」というような形で、特定の基体を識別することはないであろう。そうではなくて[人は]、永遠なものと無常なものの基体一般およびその諸属性を区別して、確実に知るだけなのである329。そして永遠であるということは真実であるということであり、それ(永遠であるとい う性質)のあるものは真実なものであるから、[永遠なものは]欲求の対象となるので ある。[一方]、無常であるということは非真実であるということであり、それ(無常であるという性質)のある無常なものは非貞実なものであるから、[無常なものは]欲求の対象にならないのである。さらに、これら「汝」という観念の対象である客観と 「私」という観念の対象である主観が経験されている時に、あるものが永遠すなわち真実すなわち幸福であると確定すれば、それは欲求の対象となるであろう。一方、あるものが無常すなわち非真実すなわち三種の苦しみ330にとりつかれている[と確定すれぱ]、それは放棄されるであろう。そして、この永遠なものと無常なものとを識別することは、前世あるいは現世に行った祭式によって心の浄化された人に、経験と論理に基づいて生ずるものなのである。
  また、「実に真実なものはまったく存在しない」と言うべきではない。それ(真実なもの)が存在しなければ、それ(真実なもの)に基づく非真実なものも成り立たないからであり、また、[すべては]空であると主張する人たちの場合にも、空性自体が真実だからである。そこで、この優れた人、すなわち経験と論理に基づいて上手に考察する人は、自己および生命体の世界[全体]を[次のように]考えるのである。すなわ ち、「和および生命体すべては、生死を繰り返しながら331、サティヤ界からアヴィーチ 界332のあいだを巡っており、一瞬・ムフールタ・ヤーマ・一昼夜・半月・一季節・半年・一年・一ユガ・四ユガ・マヌ期・帰滅・最終的帰滅・最初の創造・中問的な創造[と いう時期的区分]のある333輪廻の海の波に、どうしようもなく翻弄されて、三種の苦しみにとりつかれている」と。すると[この優れた人には]、この輪廻の世界は本質的 に無常で、不浄であって、苦しみに(ほ)かならない、というプラザンキヤーナ念想334が 生じてくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

562避難民のマジレスさん:2022/09/11(日) 00:11:16 ID:hwrjf2p60
脚注   (つづき)
328
329「永連性・無常性という属性が、アー トマンと非アートマンとの集合体に存在しているが、それらの属性はその基体に基づいて存在しているにちがいない」ということが確知されるにすきないのである。
330 331
332 サティヤ界とは最高の天界のことで、アヴィーチ界とは最低の地獄のことである。 333ムフールタとは一昼夜の三十分の一(48分)、ヤーマとは一昼夜の八分の一(3時間)である。またユガ期にはクリタ・ユガ(4,800年)、トレータ・ユガ(3,600年)、ドヴァーパラ・ユガ(2,400年)、カ リ・ユガ(1,200年)の四期(合計12,000年)があり、神の一年は人間の360倍なので、神の四ユガ期は12,000x360=4,320,000年となり、これがマヌ期と呼ばれる。そして、このマヌ期の二千倍、すなわち8,640,000,000年が、ブラフマー神の一昼夜すなわち劫(kalpa)と呼ばれ、世界は劫を周期として発生持続帰減を繰り返すとされる。
334この念想は、知行併合論の代表。ここBhāmatī では肯定的に評価されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

563鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/11(日) 23:10:24 ID:RKi7m0KQ0
 今まで論じてきた何の直後にブラフマンの考察をするのかということをやっと語るのじゃ。
 それは永遠なものと無常なものとを識別すること、現世と来世に利益を享受したい欲を捨てること、心の平静とか感覚器官の制御、あるいは心を馴らす等の手段を得ること、解脱を求める者となることなのじゃ。
 つまりは悟りを求めるための条件を満たすことじゃな。
 このような条件を満たしていれば、ダルマの考究の前でも後でも、ブラフマンを考究して知ることができるからなのじゃ。

 永遠なものとは内的なアートマンのことで、無常なものとは身体や感覚器官や感覚の対象等のことなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 内的アートマンであるブラフマンと身体等を識別することが確知であれば、このブラフマンの考究は余分なものだというのじゃ。
 何故ならばブラフマンはこの段階ですでに知られているからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 識別することとは単なる知識であって確知ではないのじゃ。
 つまり内的アートマンとか、ブラフマンとか知識を得ただけではいかんのじゃ。
 自分の心の中にそれを追求する実践をして、確知を得なければいかんのじゃ。

 知識ではなく、気づきによって人は悟りを得るというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それでは識別は錯誤ではないが、まだ不完全なものとなるというのじゃ。
 不完全なものが離欲を生ずることはないというのじゃ。
 離欲を生じないものがブラフマンの考究の原因とはなれないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 人は永遠なものと無常なものの基体一般およびその諸属性を区別して、確実に知るだけなのじゃ。
 そして永遠であるということは真実であり、永遠であるという性質のあるものは真実なものであるから、永遠なものは修行者の欲求の対象となるのじゃ。
 無常であるということは非真実であるということであり、無常であるという性質のある無常なものは非真実なものであるから、欲求の対象にならないのじゃ。
 要するにこの世の無常を観て考察すれば、永遠である内的アートマンを求めるようになるというのじゃな。

 そうであるから真実なものはまったく存在しないと言うべきではないのじゃ。
 真実なものが存在しなければ、真実なものに基づく非真実なものも成り立たないからじゃ。
 さらにすべては空であると主張する人たちの場合にも、空性自体が真実なのじゃ。
 仏教徒のことじゃな。

564避難民のマジレスさん:2022/09/12(月) 06:20:41 ID:b9y8PlGw0
(つづき)   p306-307
  そののち、このようなプラザンキヤーナ念想一[その]特徴は永遠なものと無常 なものとを識別するところにある一から、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てることか(ら)生ずるのである。[ここで利益というのは]、求められている もの、望まれているものという意味、すなわち果報等の意味である。[そして]、それ (利益)を捨てることとは、[その利益を]享受しないことを本質とする無関心な気持ち (buddhi)のことである。それから、心の平静・心を馴らすこと等の手段を得ることが [生ずる]。というのは、食欲等の汚れという酒に酔った心(思考器官,manas)は、感覚器官をそれぞれの対象に様々に向かわせ、善悪という果報を生みだす様々な活動を 生じさせて、人を輪廻という火山一[それは]様々な苦しみという業火の混ざり合っ たものである一の中に供物として投げ込むのである。しかし心(思考器官)は、プラサンキヤーナ念想を反復することで得られた離欲が完成する(熟する)と、食欲等の汚れという酒の酔いから醒めて、人に克服すなわち制御されるのである。[そして]、離欲を原因とする、まさにこの心(意)の克服が、心の平静(śama)とも「心の制御と 呼ばれているもの」335とも言われるのである。そして、克服された心(思考器官)は、 真理という対象に対して適応しやすくなる。まさにこの[適用]しやすさが、心を馴らすこと(dama)なのである。たとえば、「この若い牛は飼い馴らされている」というのは、「鋤や荷車などを運ぶのに適すようになった」ということである、と理解するようなものである。[『註解』本文中の]等という語には、対象を捨てようという欲求 (titiksā)、それ(対象)から退くこと(uparama)、真理を信ずることが含まれる336。 同じ趣旨で、「従って、[このように知る者]は、平静で、心が馴らされており、[対象 から]退いていて、[対象を]捨てたいと望んでおり、信仰をそなえた者となって、自己の中にアートマンを見、すべてをアートマンの中に見るのだ」337という天啓聖典旬がある。この心の平静・心を馴らすこと等の手段を得ること、すなわち[それらの手段が]優れたものとなることが、心の平静・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと) 等の手段を得ることなのである。そののち、この人(優れた人)に、輪廻の束縛から解脱したいという欲求が生ずるので、[師シャンカラは]、解脱を求める者であることであ ると言っているのである。そして、ブラフマンー[それは]本性上永遠で、清浄で、 悟っており、解脱しており、真実である一の知識が解脱の原因であると聞いて、ダルマの考究の前であろうと後であろうと、この人(優れた人)に、それ(ブラフマン)を 知りたいという欲求(考究)が生ずるのである。従って、[ブラフマンの考究は]まさ に、それら(永遠なものと無常なものとを識別すること等の四種の条件)の直後であって、ダルマの考究の[直後]ではない。だから[師シャンカラは]、というのは、これらが云々と言っているのである。そして、[これらの四種の条件がそろっていれば]、単 に考究だけでなく知識も[生ずる]というので、知ることが[できる]と言っているのである。[そして最終的に]結論づけて、従って云々と[言っているのである]。

脚注
335 336
337ここではUpanisadの原意よりBhāmatī の解釈にあわせて訳した。
(´・(ェ)・`)つ

565鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/12(月) 23:23:51 ID:h54.WZ4o0
 
 そして永遠なものと無常 なものとを識別するラザンキヤーナ念想によって、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てる心構えが生ずるというのじゃ。
 仏教では無常の観想にあたるものじゃな。
 現世が常に移り変わり、一切皆苦であることを観じて、この世を捨てて悟りを目指す決意和するのじゃ。

 現世の利益を捨てる決意をすることで、心の平静や修行の成果を得られるようになるのじゃ。
 そのようにして克服された心は、真理という対象に適応しやすくなるのじゃ。
 信仰を備えた者となって自己の中にアートマンを見て、全てをアートマンの中に見ることができるのじゃ。

 ブラフマンの考究はまさ に、永遠なものと無常なものとを識別すること等の四種の条件の直後であって、ダルマの考究の直後ではないというのじゃ。

566避難民のマジレスさん:2022/09/13(火) 01:39:55 ID:G7UG7Xt20
4.スートラの語義解釈(II)一「この故に」の語義 p.308 156/左229

  「この故に」という語は理由の意味である338。すなわちヴェーダは、「行為 によって得られた世界がこの世で滅びるように、善行(punya)によって得られた世界は来世で滅びる」339等々と、繁栄を達成する手段であるアグニホートラ祭340等の果報が無常であることを説き、また同じように、「ブラフマンを知る者は最高に達する」341等々と、ブラフマンの認識から入 人間の最高の目的 (解脱)342[が得られること]も説いている。それ故、先に述べた[四種の]手投を得た直後に、ブラフマンの考究が行われるべきなのである。

  [スートラ中で「そこで」の]次にくる「この故に」という語を、[師シャンカラは、 次のように]説明している。「この故に」という語は理由の意味であると。[そして]、 「この故に」という語の[示す]理由の中味をヴェーダは云々と述べているのである。
ここで以下のように反対主張が提示される。

脚注
338、339
340 再生族の者(バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ)で家住期にある者が、死ぬまであるいは遊行者となるまで、日に二回朝夕に義務として行わなければならない祭式で、牛乳等の供物を火に捧げるものである。
341、342 人間の目的には、実利、ダルマ(宗教的義務)、解脱の四種があるとされるが、ここではそのうちの解脱のことである。
(´・(ェ)・`)つ

567鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/13(火) 23:21:22 ID:AqcnZMQg0

 さらに続く、この故に、という語は理由の意味であるというのじゃ。
 ヴェーダは、行為 によって得られた世界がこの世で滅びるように、善行によって得られた世界は来世で滅びる、等々と、繁栄を達成する手段である祭式等の果報さえも無常であることを説いているのじゃ。
 ブラフマンを知る者は最高の境地に達する等々と、ブラフマンの認識から人間の最高の目的である(解脱が得られることも説いているのじゃ。
 そうであるから先に述べた四種の手投を得た直後に、ブラフマンの考究が行われるべきだというのじゃ。

568避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 06:36:10 ID:G7UG7Xt20
>>566 と本日の2カ所の
「手投」は「手段」の誤植かなと思うであります。
(´・(ェ)・`)b

569避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 06:40:02 ID:G7UG7Xt20
4.1.四種の手投(→段)を得たのちにブラフマンを考究することは不可能 であるという反対主張
   p308-309

  [反対主張]その通りである。先に述べられた[四種の]手投(→段)を得た直後に、ブラフマンの考究が存在するのである。だが[そうだとすると]、それ(ブラフマンの考究) は不可能である。というのは、現世と来世において果報を享受したいという欲求を捨てることは、不可能だからである。すなわち、果報の特徴は欲求の村象であるというところにあるので、果報は好ましいものだと知るべきなのである。そして、[このようにそれ自体]執着の原因であるそれ(果報)に対して、[人は]執着を捨てることがで きないのである。
   [反対主張に対する反論][楽しみは]苦しみと裏腹なので、楽しみにかける執着を捨てることさえあるではないか。
   [反対主張]ああ、なんということを。[では]どうして、「[苦しみは]楽しみと裏腹だから、苦しみに対する執着を捨てることさえある」とはならないのか。従って、[人 は]楽しみを享受している時には、苦しみを避けるよう努力すぺきなのである。[そして]避けられないものとして苦しみが訪れた時でも、[その苦しみを]捨てて、楽しみ のみを享受すぺきなのである。それはたとえば、魚を得たいと思っている人が、苔や 刺のついた魚を取ってくると、取るべきもの(魚)だけ取って[あとは]捨てたり、あ るいは、穀粒を得たいと思っている人が、殻のついた穀粒を取ってくると、取るぺきも の(穀粒)だけ取って[あとは]捨てたりするようなものである。従って、「現世と来 世における楽しみは、好ましいものだとは知られてはいて[も]、苦しみを恐れるため に捨てられるのだ」というのは適当ではない。実に人は、獣がいるからといって、米の 種をまかないというわけではないし、また、乞食がいるからといって、調理用の鍋を火にかけないわけではないのである。
  さらに、白檀や女性などと接触することから生じる目にみえる楽しみは、[それらが] 滅するものだというところからくる苦しみのほうがうわまることがあるので、極めて 臆病な人ならあきらめるかもしれないが、天界などの来世の[楽しみ]は、滅すること がないので、そんなことはないのである。実に聖典にも、「我等はソーマ酒を飲んだ。 我等は不死となったのだ」343と述べられているし、また同じ趣旨で、「実にチャートルマースヤ祭を行った人の善行は、滅することがない」344と[いう聖典句も]ある。
  また、この[天界の]場合には、「作りだされたものだから、滅するものである」345と いう推論は成り立たない。人間の頭蓋骨が清浄であるという推論346と同じように、[その推論の]中味が、聖典によって否定されるからである。従って、先に述べられた[四種の]手段を得ることはありえないので、ブラフマンの考究は存在しえない、と結論づ けられるのである。

脚注
343
344チャートルマースヤ(Cāturmāsya)祭とは、四ヶ月毎に行われる季節祭のことで、れには、春の到来を告げるVaiśvadeva祭、雨季の到来を告げる Varunapraghāsa祭、秋の到来Sākamedha祭の三種がある。
345「天界は滅するものである。何故なら、作り出されたものだからである。たとえば、壼等のように」という反対主張者の推論が挙げられている。
346「人間の頭蓋骨は清浄である。何故なら、生きものの部分だからである。たとえば、法螺貝ように」という推論は、「人は骨に触れたら沐浴し、着物をまとって水に入 るべきである」(出典不明)等の聖典句と矛盾するので、否定されるとされている。
(´・(ェ)・`)つ

570避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 07:19:15 ID:G7UG7Xt20
4種の手投→
1、永遠なものと無常なものとを識別すること、
2、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、
3、心の平静(śama)・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと,dama)328等の手段を得ること、
4、解脱を求める者であることである。
(´・(ェ)・`)b

571避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 22:25:56 ID:esgAx5y60
>>570
4種の手投→4種の手段
(´・(ェ)・`)b

572鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/14(水) 23:43:33 ID:eRiEmGmY0

 反対なのじゃ。
 四種の手段を得た後にブラフマンの考究をするのは不可能というのじゃ。
 現世と来世の果報を欲求する執着を捨てるのは、不可能だからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 苦楽は表裏一体と知って、安楽への執着を捨てることもできるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 苦が起きた時でも、苦を捨てて楽しみを享受するべきだというのじゃ。
 天界の楽しみは滅しないからあきらめてはいかんというのじゃ。
 そうであるから四種の手段を得ることはありえないからブラフマンの考究は存在し得ないというのじゃ。

573避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 23:49:05 ID:esgAx5y60
4.2.四種の手段を得たのちにブラフマンを考究することは可能で あるという答論  p310-311

  [答論]このような[反対主張者の]結論に対して、神聖なるスートラ作者は、この故にと答えているのである。[そして]その意味を、『註解』の作者は、すなわち、 ヴェーダは云々と説明しているのである。その趣旨は次の通りである。
  確かにその通りである。獣や乞食などは料理人や農夫が追い払うことが可能である。 しかし、様々な原因から生じた様々な苦しみは、取り除くことができないのである。というのは、[自己以外の外的な]手段に頼ることからくる苦しみと[楽しみは]滅するものであるというところからくる苦しみとは、最終的には、作りだされたあらゆる楽しみと常に共存しているからである。実に、最もすぐれた職人でも、蜜と毒のまじった食べ物から毒[だけ]を捨てて、蜜のついた[食べ物]を食べることはできないのである。また、「行為によって得られた[世界]がこの世で[滅びる]ように云々」347とい う聖典句は、[天界は]滅するものであるという推論に裏付けられて、[天界が]滅するものであることを明らかにしており、[その場合には]「我等はソーマ酒を飲んだ云々」 等の聖典旬は、文字通りの意味であることが不可能なので、二義的な意味(比喩的な意味)をもつものであることになる。たとえば、プラーナに精通している人は、「元素に
帰るまでの状態が不死性と呼ばれるのである」348と述べているのである。
  そしてここでは、ブラフマンという語によって、それ[を知る]認識根拠であるヴェーダが思い起こされるのである349。さらに[ヴェーダのなかでもこのスートラの主題に]適したものということで、「行為によって得られた[世界]がこの世で[滅びる]よう に云々」等のそれ(ウパニシャッドの聖典句)が、「これ故に」[の「これ」という]代 名詞によって言及され、さらに[「これ故に」の「故に」にあたる]理由を示す第五格によって示されているのである350。
  [反対主張]天界等の作りだされた楽しみは、苦しみと裏腹である。ブラフマンもそれと同じであろう。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは]また同じように、 ブラフマンの認識がら[最高の人問の目的(解脱)が得られること]も云々と答えてい るのである。その意味するところは以下の通りである。すなわち、「この故に」=「天界等が滅するものであることを明らかにし、かつブラフマンの知識が人間の最高の目的であることを明らかにする聖典に基づいて」、先に述べた[四種の]手段を得、それ からブラフマンの考究が[行われるべきである]、と確定したのである。

脚注
347 348
349この箇所は、バースカラの次のような見解に対する答えである とされている。「永遠なものと無常なものとを識別すること等が主題となっているわけではないので、それ(永遠なものと無常なものを識別すること等)の直後というのは、「そこで」という語の意味ではない。従って、「この故に」という語は、祭式の果報が可滅であり、ブラフマンの知識が解脱の原因であるとい うことに言及しているわけではない、とするのが正しいのである」。すなわちここでは、このような見解 に対して、スートラ中のブラフマンという語から、ヴェーダなかでも祭式の果報が(可?)滅で、ブラフマンの知識が解脱の原因であることを説くウパニシャッドの聖典句が思い起こされ、「この故に」の「この」が、そのウパニシャッドの聖典匂に言及しているので、このバースカラの見解は正しくないというのである。
(´・(ェ)・`)つ

574避難民のマジレスさん:2022/09/15(木) 17:19:16 ID:Pz2aH0Zs0

脚注
350「この故に」というのは、代名詞「これ」に第五格を示す接尾辞がついたもの である。
(´・(ェ)・`)b

575鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/15(木) 23:32:08 ID:P/npat6E0

 答えたのじゃ。
 スートラにはさまざまな原因から起こる苦は取り除くことができないと述べられているのじゃ。
 どのような苦も最終的には、あらゆる楽しみと常に共存しているからなのじゃ。
 さらに聖典には天の世界も、やがては滅すると書かれているのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 天界の楽しみは苦がないはずなのじゃ。
 ブラフマンも同じだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、 ブラフマンの認識から人問の最高の目的である解脱が得られるというのじゃ。
 つまりは苦から逃れるには、悟りを得るしかないというのじゃ。
 天界等も滅するものであり、ブラフマンの知識が人間の最高の目的であるという聖典により、四種の手段を得てから、ブラフマンの考究が行われるべきであるというのじゃ。

576避難民のマジレスさん:2022/09/16(金) 02:06:16 ID:Pz2aH0Zs0
5.スートラの語義解釈(III) ーー「ブラフマンの考究」の語義  157右/229
5.1.「ブラフマンの」というのは行為の対象を表す第六格である  p311

  「ブラフマンー考究」(brahmajijnāsā)とは、ブラフマンの考究のことで ある351。そしてブラフマンの定義とは、[ブラフマンとは]それ基づいて この[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と[次のスートラI.1.2で]述べられるであろう。従って、ブラフマンという語に[バラモン というような]カースト等の別の意味を想定すぺきではないのてある352。「ブラフマンの」(brahmanh)というのは、行為の対象を表す第六格であり、 それ以外の関係を表す(śese)353[第六格]ではない。何故なら、考究には 考究の対象が必要であり、かつ、[ブラフマン]以外の考究の対象は示されていないからである。

脚注
351
352「ブラフマン」という語には、絶対者としてのブラフマンという意味以外に、バラモンというカーストという意味や、ヴェーダという意味などがあるが、ここでは絶対者としてのブラフマンという意味にとるぺきであるということである。
353「それ以外の場合に第六格が[用いられる]」とあり、ここではこれを前提としている。なお「それ以外の場合」とは、行為の対象等を示す場合および名詞語幹の意味を示す場合以外のことで、所有、被所有の関係等を示す場合であるとされている。

5.1.1.「ブラフマンの考究」という語は第六格の格限定複合語である  p312

  [スートラ中の]「ブラフマンー考究」という[複合]語を説明して、[師シャンカラ は]、ブラフマンの[考究のことである]と言っているのである。[このように]第六格の複合語[であること]を示すことによって、これまでの註釈者たちの[解釈]、すなわちブラフマンのための考究が「ブラフマンー考究」であるという第四格の複合語[とする解釈]を退けているのだと知るべきである354。というのは、(1)「第四格の複合語の場合には、素材と[その]産物(prakrtivikrri)とが理解されるべきである」355という力一テイヤーヤナの言葉によって、祭式用の杭と[その素材である]木などのように、素材と[それの]産物という関係のあるものの場合にのみ、第四格の複合語となると決まっているので、素材と産物という関係のないこの(ブラフマンと考究)等の場合’には、それ(第四格の複合語とすること)は禁じられているからであり、(2)「馬のかいば等は第六格の複合語であるべきである。」等[の文章]が、かいば等の場合には、第 六格の複合語[となること]を規定しているので、[「ブラフマンー考究」が]第六格の複合語であっても、ブラフマンが実際には主要なものであるということは成り立つか らである356。

脚注
354
355 第四格は、素材(prakrti)と その産物(vikrti)の場合に用いられるとされている。
356また同じ箇所で、「馬のかいば」という複合語の場合には、「馬のためのかいば」という意味の第四格のと解されるから、第四格のを素材とその産物だけに限るのは不適当ではないか、という反論に対して、この場合には、第六格と解すぺきであるとされている。そしてこの場合、かいばは馬のためのものであるから、馬のほうが主要なものである。
(´・(ェ)・`)つ

577鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/16(金) 23:00:59 ID:dNtawhug0
ブラフマンと考究の複合語である、Brahmajijnasa とはブラフマンの考究のことであるというのじゃ。
 バラモン階級をあらわすブラフマンではないというのじゃ。
 Brahmanaとは行為の対象を示す第六格の言葉であり、ブラフマンが考究の対象であるというのじゃ。
 ブラフマンが考究の対象として主要なものであるというのじゃ。

578避難民のマジレスさん:2022/09/16(金) 23:52:41 ID:3HJ9Ki4o0
5.1.2.「ブラフマン」という語は最高のアートマンを意味している  p312

  [反対主張]ブラフマンの考究と言った時に、ブラフマンという語にはいろいろな意味 があるので、どのブラフマンの考究なのかという疑問が生ずる。ブラフマンという語は、 「バラモン殺し」357(brahmahatyā)という場合のように、バラモンというカーストの意味で[も用いられるので]ある。また、「ヴェーダを捨てること」358(brahmojiham) という場合のように、ヴェーダという意味で[も用いられるので]ある。また、最高の アートマンという意味で[用いられることもある]のである。たとえば、「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」359という場合のように。
  [答論]まさにこの疑問を、[師シャンカラは次のように]退けているのである。そしてブラフマンの定義は[次のスートラI-1.2で]述べられるであろうと。[このよう に師シャンカラは]、ブラフマンの考究を提唱したのちに、それ(ブラフマン)を認識させるために、最高のアートマンだと定義づけているので、われわれは、これ(ブラフマンの考究)とは最高のアートマンの考究のことであって、バラモンというカーストなどについての考究ではないのだ、と理解するのである。これが[「註解』のこの箇所の]意味なのである。

脚注
357 358 359

5.1.3.「ブラフマンの」というのは行為の対象を表わす第六格である  p313 右158/229

  [反対主張]第六格の複合語であることは認めるにしても、これは行為の対象を示す第六格ではなくて、それ以外の関係を示す[第六格]である。そして、それ以外の関係とは、一般的関係のことであるので、「ブラフマンの考究」というのは、「ブラフマンに関係する考究」ということである。従って、「ブラフマンの考究」[という語]によって 理解されるブラフマンの考究の中味は、ブラフマンの本質、[ブラフマンを知る]認識根拠や論理、[ブラフマンに達する]手段、[ブラフマンを知る]目的に関するもろもろの考究すぺてなのである。というのは、[ブラフマンの本質、ブラフマンを知る認識根拠等は]、直接的間接的にブラフマンと関係しているからである。だが、行為の目的を示す第六格の場合には、ブラフマンという語の示すものは、[考究という]行為の対象であって、それはとりもなおさず[ブラフマンの]本質のことであるので、それ(ブラフマン)[を知る]認識根拠等は含まれないことになろう。従って、認識根拠等に関する考察は、命題として提示されていない事柄に対するものとなってしまうであろう。
   [答論]このように考える人たちに対して、[師シャンカラは次のように]答えてい
るのである。「ブラフマンの」というのは、行為の対象を表す云々と。[そして]その理由を、[何故なら]、考究には云々と述べているのである。すなわち、知識は、[知りたいという]欲求を達成することと結びついており、知識にとってその対象はブラフマ ンである。[そして]実に、知識はその対象がなければ形をなさないし、考究(知りた いとう欲求)は知識がなければ形をなさないのである。従って考究は、[知りたいとい う欲求を]達成することと結びついているので、なによりもまず[欲求という]行為の対象を必要とするのであって、[それに]関するもの[一般]を[必要とするの]で はない。それ(行為の対象)に関係するもの[一般]が存在しなくても、行為の対象が
存在すれば、それ(考究:知りたいという欲求)は形をなすからである。実に、太陽と月を見て、「これは何に[関係しているのか]」と、[太陽や月と]関係するものを詮索 することはないのである。そうではなくて、知識といった時には、「何がその対象なの か」という形で対象を詮索するのである。従ってブラフマンは、[考究に]まず第一に 必要なものなので、対象として[考究と]関係しているのであって、[考究に]関係するもの一般として[関係しているの]ではないのである。というのは、それ(考究に関係するもの一般)は、二次的なものだからである。従って、[「ブラフマンの」というの は]、行為の対象を表す[第六格]であって、それ以外の関係を表す[第六格]ではな いのである。以上が[『註解』本文の]意味である。
(´・(ェ)・`)つ

579鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/17(土) 23:30:27 ID:/8BnkeKE0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンという語にはいろいろな意味があるから、どのブラフマンの考究なのかという疑問があるというのじゃ。
 バラモン階級とか、ヴェーダとか、最高のアートマンとかなのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンの定義は次のスートラで述べられるといったのじゃ。
 ブラフマンの考究を提唱した後、ブラフマンを認識させるために最高のアートマンを求めるべきだと定義づけているので、ブラフマンの考究とは最高のアートマンの考究のことだとわかるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究というのは、ブラフマンに関係する考究ということだというのじゃ。
 ブラフマンの、というのが行為の対象を表す言葉であれば、認識根拠等に関する考察は命題として提示されていない事になるからなのじゃ。

答えたのじゃ。

 知識は、[知りたいという]欲求を達成することと結びついており、知識にとってその対象はブラフマンなのじゃ。
 知識はその対象がなければ形をなさないし、考究は知識がなければ形をなさないのじゃ。
 考究は、知りたいという欲求を達成することと結びついているから、なによりもまず欲求という行為の対象を必要とするのじゃ。
 それに関するもの一般を必要とするのではないのじゃ。
 行為の対象に関係するもの一般が存在しなくても、行為の対象が存在すれば、考究は形をなすからなのじゃ。 

 
 知識という時には、何がその対象なのかという形で対象を詮索するのじゃ。
 ブラフマンは考究にまず第一に必要なものであるから、対象として考究と関係しているのじゃ。
 考究に関係するもの一般として関係しているのではないのじゃ。
 そうであるからブラフマンの、というのは行為の対象を表す第六格であり、それ以外の関係を表す第六格ではないというのじゃ。

580避難民のマジレスさん:2022/09/17(土) 23:49:44 ID:FeYARfGE0
5.2.「ブラフマンの」が行為の対象を表わす第六格である理由 p314-316 159左/229

  [反対主張][「ブラフマンの」という第六格を行為の対象]以外の関係を表 す[第六格だ]と認めたとしても、ブラフマンが考究の対象であることは矛盾 しないのではないか。何故なら、一般的な関係は特殊[な関係]に基づくからである。
  [答論]たとえそうであっても、ブラフマンが直接の対象であるということを否定して、一般的[関係]を媒介とすることによって、間接的に対象である と想定するのは無駄な努力であろう。
   [反対主張]無駄ではない。ブラフマンに関係するすべて[の事柄]について考察することを約東するという意味があるからである。
  [答論]そうではない。主要なものが認識されれば、それ(主要なもの)に基 づくものは[すべて]付随的に理解される(arthāksipta)からである。[そして]実にブラフマンは、知識によって最も得たいと望まれているものなので、主要なものなのである360。その主要なものである考究の対象が理解された時には、それらが考究されなければブラフマンが考究されたことにならないような事柄は、まさに付随的に理解されるので、[それらを]別個にスートラで述べる必要はないのである。たとえば、「かの王が行く」と言った時には、王が従者とともに行くことが述べられていることになるが、それと同じである。さらに、[このようにブラフマンが考究の直接の対象であるとするのは]、天啓聖典句と一致するからなのである。すなわち、「実にそれよりこれらの諸存在が生じてきた云々」361で始まる諸天啓聖典句は、「それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」362と、ブラフマンが考究の対象であることをまさに直接に示しており、それら(諸天啓聖典句)は、[スートラ中の「ブ ラフマンの」という語を]行為の対象を表す第六格に取った時に、スートラと一致するのである。従って、「ブラフマンの」というのは、行為の対象を表す 第六格なのである。

  ある者がその意図を隠して、[次のように]反対主張を提示している。
   [反対主張][「ブラフマンの」という第六格を行為の対象]以外の関係を表す[第六格だ]と認めたとしても云々と。すなわち、一般的関係は特殊な関係と矛盾しないので、考究は、[ブラフマンが考究という]行為の対象であることと矛盾せずに、形をなすことができるからである、というのが[その]意味なのである。
   [師シャンカラ自身も]まさにその意図を隠して、[次のように反対主張を]批判しているのである。
   [答論]たとえそうであっても、ブラフマンが直接の云々と。すなわち、[ブラフマンが考究の]対象であることは、聖典に]直接述べられており、また[それは]考究がまず第一に必要とし、かつ考究とまず第一に関係してしかるぺきである[のに]、[その対象であるという]関係を放棄して、[考究に]関係するもの一般一[それは]のちになってなんとか必要となってくるものである一との関係[を想定するの]は、最後のものを最初にし、最後のものを最初にすることになる。とすれば[ここでは]、諭理 の)原理がなんとうまく説明されていることか(全く説明されていないことになる)。 そして、直接のとか間接にと言っているのは、「主要な」とか「主要でない」あるいは 「明らかな」か「明らかでない」という意味なのである。
  反対主張者が自己の意図を明らかにする。
  [反対主張]無駄ではない。ブラフマンに関するするすぺて云々と。 これはすでに説明したところである。
  答論者も自己の見解を明らかにする。
  [答論]そうではない。主要なものが理解されれば云々と。ブラフマンは、[言葉の上では主要なものではないが]、実際には主要なものなのである363。その他の意味は、 例も含めて、不明なところはない。また、天啓聖典句の趣旨も不明なところはない。
  以上のように、[「ブラフマンー考究」という]複合語を、[自分の]望んだ通りに、 [行為の対象を表す第六格の複合語だと]確定したのち、[師シャンカラは次のように]、 「考究」という語の意味を述べているのである・ [考究とは]知りたいという云々と。

脚注
360行為の村象(Karma)の定義によれば、行為の対象とは、「行為者にとってもっ とも得たいと望まれているものである」とされており、この定義がここで前提となっていると思われる。
361 362
363脚注210参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

581鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/19(月) 00:08:12 ID:IpT5Tkiw0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの、というの一般的な関係であっても、考究の対象であることと矛盾しないというのじゃ。
 特殊な関係も一般的な関係に基づくからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンが直接の関係ではなく一般的な関係を媒介にして、間接的に対象とするのは無意味なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンに関する全てを考察するから無意味ではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 主要なものが認識されれば、主要なものに基づくすべてが付随的に理解されるから必要ないのじゃ。
 ブラフマンは主要なものなのじゃ。
 そうであるからブラフマンのというのは、行為の対象を表す第六格なのじゃ。

582避難民のマジレスさん:2022/09/19(月) 07:37:04 ID:PGamRFVQ0
6.スートラの語義解釈(IV) 「考究」の語義
   p316-319 160左/229

  「考究」とは知りたいという欲求のことである。[そして]理解(悟り,avagati) をもって終わる知識が、san[という語尾]によって表されいる欲求の対象な のである364。何故なら、欲求はその結果を対象とするからである365。さらに、知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのが、ブラフマンなのである366。というのは、ブラフマンの理解(悟り)は、輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので、人間の目的だからである。従って、 ブラフマンが考究されるべきなのである。

脚注
364「考究」(jijñāsā)という語は、「知る」(/jña)という語根にsanという欲求を示す接尾辞がついてできたものである。
「村に行く」というような場合には、行くという行為の対象は村であり、行くという行為の結果は村に到着することであるというように、行為の対象と行為の結果は異なるが、欲求の場合には、結果を望んでいるわけであるから、欲求という行為の対象がそのままその行為の結果となるので、両者は一致するのだとされている。
366 脚注360参照。

6.1.ブラフマンの知識は欲求の対象が否か

  [反対主張]知識は欲求の対象ではないであろう。楽しみを得て苦しみを避けるこ と、および、それらを媒介としてそれら(楽しみを得て苦しみを避けること)の手段 が、欲求の対象となるのである。[だが]ブラフマンの知識はそうではない。それは実 に、好ましいものだとも好ましくないものを止滅させるものだとも経験されていない のである。さらに、それら両者(楽しみと苦しみ)を得る手段でもない。というのは、 それ(ブラフマンの知識)がある時でも、特別の楽しみは見られないし、苦しみは引き
続いていて止滅することがないからである。従って、スートラの作者の言葉にのみ基 づいて、知識が欲求の対象であるとすぺきではない。
  [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。理解(悟り)をもって終わる云々と。ただ単なる知識が望まれているのではない。

そうではなくて、理解(悟り)すなわち直証を生み出す「理解(悟り)をもって終わる [知識]」が、San[という語尾]によって表されている欲求の対象なのである。何故か。 欲求はその結果を対象とするからである。すなわち欲求は、その結果が得られるまで、 それ(結果)[を得る]手段を対象とするというのが、言外の意味なのである。
[反対主張]知識は理解(悟り)をもって終わるとしておこう。[だが]だからといっ て、望ましいものとなるのだろうか。というのは、必要とされていないものを対象と する知識は、たとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないからである。 [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。さらに知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのがブ ラフマンなのであると。 [反対主引長]ブラフマンを対象とする理解があるとしておこう。たとえそうでも、 [その理解は]どうして望ましいものなのか。
[答論]このような[反対主張]に対して、[岬シャンカラは]、というのは、ブラフ マンの理解(悟り)は、人間の目的だからであると答えているのである。それは繁栄で あろうか。そうではない。そうではなくて、至福なのである。すなわち、苦しみとの関 わりがすべてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ること([それは] ブラフマンの本質にはかならない)、それこそが至福であり、人間の目的なのである。
(´・(ェ)・`)つ

583鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/19(月) 23:51:04 ID:ij8ZaVPk0
 考究とは知りたいという欲求であり、その知識はブラフマンの理解である悟りで終わるものであるから、欲求の対象となるのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは、輪廻の原因である無明を滅するから人間の目的なのじゃ。
 そうであるからラフマンが考究されるべきなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 知識は欲求の対象ではないというのじゃ。
 苦を避け、快楽を求めるものが欲求の対象となるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 欲求はその結果を対象とするから知識も対象となるのじゃ。
 欲求はその結果が得られるまで、結果を得るための手段である知識も対象となるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 必要とされていないものを対象とする知識はたとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識という認識根拠によって、理解という悟りを得たいと人々が最も望んでいるのがブラフマンなのであるから知識も欲求の対象となるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンを対象とする理解があるとしても、その理解が望ましいものとはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは、人間の目的であるから望ましいのじゃ。
 それは至福なのじゃ。
 最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ることが至福であり、人間の目的なのじゃ。

584避難民のマジレスさん:2022/09/20(火) 03:35:29 ID:S56uQNvI0
6.2.ブラフマンを知ることは人間の目的か否か   p317-318 160右/229

  [反対主張]ブラフマンの悟りは人間の目的ではない。何故なら、人間の目的は、人間の活動によって、その存在する領域が覆われていなけれぱならない(vyāpya)367からである。だが、これ(ブラフマンの悟り)は、ブラフマンをその本性とする[ので]、生じたり、変化してできたり、浄化されて現れたり、獲得されたりすることがありえな いのである。というのは、そのような場合には、[ブラフマンは]無常であることになり、その(ブラフマンとしての)本性をそなえることが成り立たないからである。そして、生ずること等が存在しなければ、[ブラフマンの悟りが]、活動によって、その存在する領域を覆われることはないのである368。従って、ブラフマンの悟りは人間の目的ではない。
   [答論]以上のような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので云々と。確かに、ブラフマンをその 本性とするブラフマンの悟りに、生ずること等はありえない。だが、[実在であるとも 非実在であるとも]表現することのできない無始の無明のせいで、ブラフマンの本性は、輝いているのに輝いていないかのように、[自己]以外のものに基づくことなく輝 いているのに[自己]以外のものに基づいて輝いているかのように369、身体・感覚器官等とは異なるのに異ならないかのように見えるので、輪廻の原因である無明等の悪が滅せられる以前には獲得されていないかのようであって、それ(無明等の悪が滅せられること)が存在する時に獲得されたかのように見えるのである。そのため人に望まれるので、人問の目的なのであるとするのが正しい。

脚注
367 人問の目的は人問の活動の目的であるから、人間の活動が存在する領域のなかに人間の目的の存在する領域が含まれて必要がある、というのである
368ブラフマン=ブラフマンの悟り=解脱が、生じたり、変化してできたり、浄化されて現れたり、獲得されたりするものでない。このようにブラフマンの悟り が生じたりしなけれぱ、人間の活動の対象ではないことになるので、人問の活動の存在する領域のなかに含まれていないことになるのである。
369 不二一元論学派によれば、ブラフマンは自らに基づいて輝いている認識そのものであって、通常の対象の場合とは異なり、ブラフマン自身以外のものに基づいて認識されるというようなものではないとされ ている。

6.3.解脱を望む者はブラフマンを考究すべきである  p318

  なお[『註解』本文の]無明等の等という語からは、その(無明の)潜在印象が理解 されるのである。また、無明の止滅は、念想の結果である直証一[それは]内官の変 容の一種である一から[生ずる]と理解すべきである370。[さてここで師シャンカラ は、次のように]結論づけている。従って、ブラフマンが先に述べたような特徴をそな えた371解脱を望む人によって考究されるべきなのであると。実に、その(ブラフマンの)知識がなければ、無明一[それは]潜在印象をともない、様々な苦しみの原因で ある一が滅せられることはない。そして、それ(無明)が滅せられなけれぱ、苦しみ との関わりがすぺてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンと[自己の]アー トマンとが同一であるという直証は、個人存在に現れることがないのである。従って、 歓喜そのものであるブラフマンと[自己の]アートマンとの同一性を望む者によって、 それ[を知る]手段である知識が求められるぺきなのである。
(´・(ェ)・`)つ


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