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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
905
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/25(月) 23:41:55 ID:1d4drIFg0
とはいえ知識を否定するのではないのじゃ。
知識を蓄積することは日常生活で役立つから技術的な事態では絶対必要というのじゃ。
知識が適切に用いられれば智慧となるのじゃ。
智慧に拠って他者も導くことが出来るのじゃ。
906
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/26(火) 00:58:17 ID:Q9kJ3fsg0
変化の緊要
学び 3
K 全くそうではないのです!聖人は、社会に認識されなければならないし、いつも社会の聖人たることの概念に順応するのです。そうでなければ、彼は聖人と呼ばれないでしょう。同等に導師は、伝統によって条件づけられている従う人たちにより、それとして認識されなければなりません。それで、導師と学徒はどちらも、彼らが生きる特定の社会の文化的、宗教的条件づけの一部です。彼らが自分たちは真実と接触した、自分たちは知っていると主張するとき、あなたは、彼らが知っているものは真実ではないことを、全く確実だと思っていいのです。彼らが知っているものは、過去からの彼ら自身の投影です。それで、自分は知っていると言う人は、知っていないのです。これらすべてのいわゆる宗教的経験には、認識の認知過程が本来的に備わっているのです。あなたは、前に知っていたものを認識できるだけなのです。ゆえにそれは過去のであるし、ゆえにそれは、時間に縛るし、無時間ではないのです。いわゆる宗教的経験は、利益をもたらさないで、単にあなた特定の伝統、傾向、性癖、願望に応じてあなたを条件づけるだけで、ゆえにあらゆる形態の幻想と孤立を助長するのです。
質問者 あなたが言われるのは、真実を経験できないという意味でしょうか。
K 経験するとは、経験者があるのでなければならないという含意ですし、経験は条件づけすべての本質です。彼が経験するもの・ことは、すでに知られたもの・ことなのです。
質問者 あなたが経験者について話されるとき、それはどういう意味なのでしょうか。経験者がないのなら、あなたは消えさるという意味でしょうか。
K もちろんです。「あなた」は過去ですし、「あなた」が留まる、または「私 'me' 」が留まるかぎり、無量であるものはありえないのです。浅く小さな頭、経験、知識をもち、嫉妬と心配の重荷を負った心をもつ「私 'me' 」は - そういう事物がどうして、始まりもなく終わりもないもの、忘我であるものを、理解できるでしょうか。それで、英知の始まりはあなた自身を理解することなのです。あなた自身を理解しはじめなさい。
質問者 経験者は、彼が経験するもの・ことと違うのでしょうか。挑戦は、挑戦への応答と違うのでしょうか。
K 経験者が経験されるもの・ことであるのです。そうでなければ、彼は経験を認識できないでしょうし、それを経験と呼ばないでしょう。経験は、彼がそれを認識する前に、すでに彼にあるのです。それで、過去はいつも作動して、それ自体を認識しているのです。新しいもの・ことは、古いもの・ことに呑み込まれてしまうのです。同様に、挑戦を決定するのは反応です。挑戦は反応です。二つは分離してありません。反応なしには、挑戦はないでしょう。それで、経験者の経験、または経験者から来る挑戦への反応は、古いのです。というのは、それらは経験者によって決定されるからです。あなたが考えるにいたるなら、「経験」という言葉は、何かを経る、しるす。それを蓄えておくのではなく、それを終了させる、という意味です。しかし、私たちが経験について話すとき、それは現行としては反対の意味なのです。あなたは、経験について語るたびに、そこから行為が始まる何か蓄えられたものについて語るし、楽しんできて再び得たいと要求するもの、または嫌ってきて反復されるのを恐れているものについて語るのです。
それで、本当に生きるとは、累積的過程なく学ぶことなのです。
(´・(ェ)・`)つ
907
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/26(火) 01:03:19 ID:Q9kJ3fsg0
くまめも3
聖人は、社会に認識され、その概念に順応しなければならない。導師は、伝統によって条件づけられている従う人たちにより、それとして認識されなければならない。導師と学徒は、彼らが生きる社会の文化的、宗教的条件づけの一部。彼らが知っているものは、過去からの彼ら自身の投影。
前に知っていたものだけを認識できる。ゆえにそれは過去のであり、時間に縛られる。宗教的経験は、利益をもたらさないで、単に特定の伝統、傾向、性癖、願望に応じて条件づけるだけ、ゆえに幻想と孤立を助長する。
質問者 真実を経験できないという意味か。
K 経験するとは、経験者があるという含意。経験は条件づけすべての本質。彼が経験するものは、すでに知られたもの・こと。
経験者がないのであなたは消えさる。「あなた」「私 'me' 」が留まるかぎり、無量であるものはありえない。浅く小さな頭、経験、知識をもち、嫉妬と心配の重荷を負った心をもつ「私 'me' 」は、始まりもなく終わりもないもの、忘我であるものを、理解できない。経験者が経験されるもの・こと。そうでなければ、彼は経験を認識できないし、それを経験と呼ばない。経験は、彼がそれを認識する前に、すでに彼にある。
新しいものは、古いものに呑み込まれる。挑戦を決定するのは反応。二つは分離してない。それで、経験者の経験、経験者から来る挑戦への反応は古い。というのは、それらは経験者によって決定されるから。
「経験」という言葉は、それを蓄えておくのではなく、それを終了させる。本当に生きるとは、累積的過程なく学ぶこと。
(´・(ェ)・`)
908
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/26(火) 22:46:55 ID:1d4drIFg0
世間で言う聖人や導師は既に伝統による条件付けられているというのじゃ。
そこに真実は無いというのじゃ。
経験する者が居ない時に真の無量であるものがあるというのじゃ。
私もあなたも無い時に本当に生きるということが出来るのじゃ。
909
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/27(水) 00:06:55 ID:HQ/A94Rg0
変化の緊要
情熱と受苦 1
質問者 情熱とは何なのでしょうか。あなたはそれについて話してこられたし、明らかにあなたはそれに特別の意味を与えられるようです。私は自分がその意味を知っているとは思いません。あらゆる男と同じく私は、性的情熱と、速いドライヴや美しい庭の育成のような表面的なものごとへの情熱を、持っています。私たちのほとんどは、何らかの形態の情熱的活動に耽溺します。その人の特別の情熱について話をすると、その人の目が輝くのが見えるのです。私たちは、情熱 passion という言葉が、苦痛を表すギリシャ語から来るのを知っていますが、あなたがこの言葉を使われるとき私の受ける感情は、苦痛のそれではありません。むしろ、西から轟きながら来て、その前のごみくずと雲を追い払う風のそれのように、何か駆り立てる性質のです。私はこの情熱を所有したいように思うのです。どのようにそれに近づくのでしょうか。それは、何について情熱的なのでしょうか。あなたの言われる情熱は、何なのでしょうか。
K 私たちは情欲と情熱は別々のものであることを明らかにすべきであると、私は思うのです。情欲は思考により維持され、思考により駆り立てられるし、思考において成長し、実体を得て、ついに性的に爆発するにいたるし、またそれが権力への情欲であるなら、それ自らの暴力的形態の充足において、です。情熱は何か全然違ったものなのです。それは思考の産物ではないし、また過去の出来事の思い出でもないのです。それは、充足のどんな動機によっても駆り立てられません。それはまた悲しみでもありません。
質問者 性的情熱すべては情欲なのでしょうか。性的応答はいつも思考の結果です。それは、その愛らしさに圧倒される誰かにふいに出会うときのように、接触なのかもしれません。
K どこでも思考が楽しみのイメージを築き上げるところでは、それは必然的に、情熱の自由ではなく、情欲であるにちがいないのです。楽しみが主な駆り立てる力であるなら、そのときそれは情欲です。性的感情が楽しみから生まれるとき、それは情欲です。それが愛から生まれるなら、たとえそのとき大きな歓喜が存在していようとも、それは情欲ではありません。ここで私たちは、愛は楽しみと味わいを排除するのかどうかについて明らかであり、私たち自身で見出すのでなければなりません。あなたは雲を見て、その広大さとそれに当たる光に歓喜するとき、もちろん楽しみはあるのですが、楽しみよりももっと多くがあるのです。私たちは全くそれを非難していません。あなたが、思考や所作において刺激のためにその雲に戻りつづけるなら、そのときあなたは、空想の想像的高まりに耽溺しているし、明白にここでは楽しみと思考が、作動する誘因です。あなたがまず初めにあの雲を見つめて、その美しさが見えたとき、そういう楽しみの誘因は作動していなかったのです。セックスの美しさは、「私 'me' 」、自我の不在なのですが、しかし、セックスの思考はこの自我の定立です。そしてそれが楽しみです。この自我は、すべてのときに楽しみを探し求めているのか、苦しみを回避しているのかのどちらかで、充足をほしがり、よって欲求不満を招いているのです。このすべてのなか、情熱の感情は、思考により維持され、追求されるのです。ゆえに、それはもはや情熱ではなく、楽しみです。憶えられ思い出される情熱の希望、追求は、楽しみです。
(´・(ェ)・`)つ
910
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/27(水) 00:08:05 ID:HQ/A94Rg0
くまめも1
情欲と情熱は別々のもの。情欲は思考により維持され、駆り立てられ、思考において成長し、実体を得て、ついに性的に爆発するし、またそれが権力への情欲であるなら、それ自らの暴力的形態の充足において爆発する。
情熱は思考の産物ではないし、また過去の思い出でもない。それは、充足のどんな動機によっても駆り立てられない。それはまた悲しみでもない。
質問者 性的情熱すべては情欲なのか。
K 思考が楽しみのイメージを築き上げるところでは、情熱の自由ではなく、情欲。楽しみが主な駆り立てる力であるなら、それは情欲。性的感情が楽しみから生まれるとき、それは情欲。
それが愛から生まれるなら、たとえそのとき大きな歓喜が存在していようとも、それは情欲ではない。
ここで愛は楽しみと味わいを排除するのかを自身で見出すのでなければならない。
あなたが、思考や所作において感覚刺激に戻りつづけるなら、そのときあなたは、空想の想像的高まりに耽溺しているし、ここでは楽しみと思考が、作動する誘因。
あなたがまず初めに感覚刺激を得て、その美しさが見えたとき、そういう楽しみの誘因は作動していなかった。
セックスの美しさは、「私 'me' 」、自我の不在だが、セックスの思考はこの自我の定立。そしてそれが楽しみ。この自我は、すべてのときに楽しみを探し求めているのか、苦しみを回避しているのかのどちらかで、充足をほしがり、よって欲求不満を招いている。
このすべてのなか、情熱の感情は、思考により維持され、追求される。ゆえに、それはもはや情熱ではなく、楽しみ。
憶えられ思い出される情熱の希望、追求は、楽しみ。
(´・(ェ)・`)
911
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/27(水) 23:28:17 ID:1d4drIFg0
情熱と情欲は全く違うというのじゃ。
愛から生まれるのが情熱というのじゃ。
快楽に駆り立てられるならば情欲であるのじゃ。
楽しみはあっても善いのじゃ。
それを追い求めたり、苦からの逃避として選ぶならば苦を産むのじゃ。
執着になるからなのじゃ。
912
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/28(木) 03:56:39 ID:Q9kJ3fsg0
変化の緊要
情熱と受苦 2
質問者 それでは、情熱自体は何なのでしょうか。
K それは、喜びと忘我と関わります。これらは楽しみではありません。楽しみにはいつも微細な形態の努力があるのです - 探し求め、奮闘し、要求し、それを保とう、それを得ようと格闘すること、です。情熱には、要求がないし、ゆえに格闘がないのです。情熱には充足のいささかの影もないし、ゆえに欲求不満も苦しみもありえないのです。「私 'me' 」は充足と苦しみのすべての中心ですが、情熱は「私 'me' 」からの自由です。情熱は、有るから、要求しないのです。私は、何か静止したものについて語っているのではありません。情熱は、「あなた」と「私 'me' 」がない自己放棄のきびしさです。ゆえに、情熱は、生、いのちの本質です。動き生きるのは、これなのです。しかし、思考が、持つこと、保つことの諸問題すべてを持ち込むとき、情熱は停止するのです。情熱なしには、創造は可能ではないのです。
質問者 あなたのいわれる創造とは、どういう意味なのでしょうか。
K 自由です。
質問者 どういう自由ですか。
K 環境に依存し環境の産物である「私 'me' 」 - 社会と思考により組み立てられる「私 'me' 」 - からの自由です。この自由は明晰さであり、過去から灯されない光です。情熱はただ現在のみなのです。
質問者 私には、ふしぎな新しい感情が、燃え立ちました。
K それが学びの情熱です。私が日々生きるなか、どういう特定の行為が、この情熱が燃えて作動していることを、確実にしてくれるのでしょうか。
質問者 学びの注意以外に、何もそれを確実にしてくれないでしょう。その注意は行為であり、いまなのです。これには情熱の美しさがあるし、それは「私 'me' 」とその時間の全的放棄です。
(´・(ェ)・`)つ
913
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/28(木) 03:57:39 ID:Q9kJ3fsg0
くまめも2
情熱自体は、喜び、忘我と関わる。これらは楽しみではない。楽しみにはいつも微細な努力がある−探し求め、奮闘し、要求し、それを保とう、それを得ようと格闘すること。
情熱には、要求がないし、ゆえに格闘がない。情熱には充足のいささかの影もないし、ゆえに欲求不満も苦しみもありえない。
「私 'me' 」は充足と苦しみのすべての中心だが、情熱は「私 'me' 」からの自由。情熱は、有るから、要求しない。私は、静止したものについて語っていない。情熱は、「あなた」と「私 'me' 」がない自己放棄のきびしさ。
ゆえに、情熱は、生、いのちの本質。生きるのは、これ。
しかし、思考が、持つこと、保つことの諸問題を持ち込むとき、情熱は停止する。情熱なしには、創造は不可能。創造とは、自由。環境に依存し環境の産物である「私 'me' 」−社会と思考により組み立てられる「私 'me' 」−からの自由。この自由は明晰さであり、過去から灯されない光。情熱はただ現在のみ。ふしぎな新しい感情が、燃え立つこと、それが学びの情熱。私が日々生きるなか、どういう特定の行為が、この情熱が燃えて作動していることを、確実にしてくれるのか。
質問者 学びの注意。その注意は行為であり、いま。これには情熱の美しさがあるし、それは「私 'me' 」とその時間の全的放棄。
(´・(ェ)・`)
914
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/28(木) 22:15:03 ID:1d4drIFg0
自分が無い時に自由があると言うのじゃ。
自分とは環境や社会や思考の産物なのじゃ。
さまざまな記憶から起こる観念なのじゃ。
観念の自分から自由になれば今ここに在ることができるのじゃ。
915
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/30(土) 04:38:36 ID:uVMlvQas0
変化の緊要
思考を終わらせること 1
質問者 あなたの言われる思考を終わらせることは、本当はどういう意味なのかと思われます。私はそれについてある友人に話したのですが、彼はそれはある種の東洋のたわごとであると言いました。彼にとって思考は、最高の形態の智恵と行為で、いのちのまさしく塩分で、不可欠です。それは文明を創り出してきたし、関係すべてはそれに基づいてあるのです。一番偉大な思想家から一番つつましい労働者まで、私たちのすべてがこれを受け入れます。私たちは考えないとき、眠ったり、植物みたいであったり、白昼夢を見ています。私たちは空虚で、鈍く、非生産的なのです。ところが、私たちは目覚めているとき、考え、行い、生き、口論しています。これらが、私たちの知るただ二つの状態です。あなたは言われます - 両方を越えなさい。思考と空虚な無活動を越えなさい、と。これはどういう意味なのでしょうか。
K ごく単純に言うと、思考は記憶の応答、過去なのです。過去は無際限なのか、一秒前なのです。思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去です。意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望です。思考が作用しているとき、それは過去ですし、ゆえに新しい生活は全くないのです。それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去なのです。それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがないのです。何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけません。心が散らかっていないときにのみ、今は生じうるのです。そして、この理由のために私たちは、思考は作動しなくてはならないときにだけ - 対象的に、効果的に - 作動して、止まらなければならないと言うのです。継続すべては思考です。継続があるとき、何も新しいもの・ことはありません。あなたは、これがどんなに重要なのか、分かるでしょうか。それは本当に、生それ自体の疑問です。あなたは過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらかです。それが論点全部です。
質問者 私はあなたの言われる意味は分かると思うのですが、しかし、いったい全体どのようにして、この思考を終わらせるのでしょうか。私が鳥(の声)を聞くとき、即時にそれはクロウタドリであると語ってくれる思考があるのです。私が通りを歩いていくとき、思考は私は通りを歩いていくと語ってくれ、私の認識し分かるすべてを語ってくれるのです。私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやって戯れるのは、今度も思考です。意味と理解と伝達のすべては思考です。私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしています。私は目覚めているとき考えるし、私は眠っているとき考えるのです。私の存在の全構造が思考です。その根は、私が知るよりはるかに深くあるのです。私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考です - 思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出すのです。思考は殺害するし、思考が許すのです。それで、どうしてそれを乗り越えられるのでしょうか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
916
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/30(土) 04:41:37 ID:uVMlvQas0
>>915
順番を間違えたので、この章は、後回しにするであります。
(´・(ェ)・`)つ
917
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/30(土) 04:43:52 ID:uVMlvQas0
変化の緊要
自己表現 1
質問者 表現は私にはとても重要に思われます。私は芸術家として自己を表現しなければなりません。そうでなければ、私は窒息して深く欲求不満の感じがします。表現は自らの存在の一部です。男が言葉と身振りで女に愛を表現するように、芸術家として私がそれに私自身を捧げることは、自然です。しかし、このすべての表現をとおして、私がよくは理解できない一種の苦しみがあるのです。ほとんどの芸術家は、自らの最も深い感情をカンバスや他のどの媒体に表現するなかに深い葛藤があるということでは私に同意するだろう、と私は思うのです。はたしてこの苦しみから自由になれるのかどうかと思われるのです。それとも、表現はいつも苦しみをもたらすのでしょうか。
K 表現の必要とは何でしょうか。苦痛はどこでこのすべてに入ってくるのでしょうか。いつも、ますます深く過剰に十分に表現しようとしないでしょうか。いったい、表現したものに満足することがあるでしょうか。深い感情とそれの表現は、同じことではないのです。二つの間には多大な違いがあるし、表現が強い感情に相応しないとき、いつも欲求不満があるのです。たぶんこれが、芸術家が自らの感情に与える発言の不適切さへのこの不満足が、苦しみの原因の一つです。ここには葛藤があるし、葛藤はエネルギーのむだなのです。芸術家は、そうとうに真誠である強い感情を持ちます。彼はそれをカンバスに表現します。この表現はある人々を楽しませるし、彼らはその人の作品を買うのです。その人はお金と評判を得るのです。彼の表現は、注目されたし、流行になるのです。彼はそれを洗練させ、追求し、発達させるし、いつのときにも自分自身を模倣しています。この表現は習慣的になり、様式化されるのです。表現はますます重要になり、最終的には感情よりも重要になるのです。感情は結局、蒸発します。芸術家は、成功した画家としての社会的結果とともに、残されます。サロンと画廊の市場、通のくろうと、批評家。彼は、社会のために絵を描き、その社会の奴隷になるのです。感情ははるか前に消えてしまったし、表現は残る空っぽの殻なのです。結果的にこの表現さえ結局、魅力を失います。なぜなら、それは何も表現するものがなかったからです。それは意味のない身振り、言葉です。これが、社会の破壊的過程の一部です。これが良いものの破壊です。
質問者 感情は、表現のなか失われずに、残れないのでしょうか。
K (表現が)楽しめたり、満足できたり、収益が上がるから、表現ばかりが重要になるとき、表現と感情の間に断裂があるのです。感情が表現であるとき、葛藤は生じません。ここには矛盾がないし、ゆえに葛藤がないのです。しかし、収益と思考が介入するとき、この感情は欲をとおして失われるのです。感情の情熱は、表現の情熱とは全然違っているし、ほとんどの人々は表現の情熱に捕らわれるのです。それで、良いものと楽しめるものとの間には、いつもこの分割があるのです。
質問者 私は、この欲の流動に捕らわれずに、生きられるでしょうか。
K 重要であるのが感情であるなら、あなたはけっして表現について訊ねないでしょう。あなたは感情を持っているのか、持っていないのかのどちらかです。あなたは表現について訊ねるなら、芸術性についてではなく収益について訊ねているのです。芸術性は、けっして勘定に入らないものなのです。それは生きることなのです。
質問者 では、それは、生きるとはどういうことなのでしょうか。(生きて)有るとは、それ自体が完全である感情を持つとは、どういうことなのでしょうか。私はいま、表現は的外れであることを理解したのです。
K それは葛藤なく生きることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
918
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/30(土) 04:44:45 ID:uVMlvQas0
くまめも25-1
芸術家は、強い感情を持ち、それを表現する。深い感情とその表現の間には多大な違いがあるし、表現が強い感情に相応しないとき、欲求不満がある。この不満足が、苦しみの原因の一つ。ここには葛藤がある。
表現→人々を楽しませ、その人の作品を買う→金と評判を得る→表現は、注目され、流行→それを洗練、発達させる→いつのときにも自分自身を模倣→表現は習慣的、様式化される→表現はますます重要になり、最終的には感情よりも重要になる→感情は蒸発→芸術家は、成功した画家としての社会的結果とともに、残される→社会のために絵を描き、その社会の奴隷になる。
感情ははるか前に消えたし、表現は残る空っぽの殻。結果的にこの表現さえ魅力を失う。なぜなら、それは何も表現するものがなから。それは意味のない身振り、言葉。これが、社会の破壊的過程の一部。これが良いものの破壊。
質問者 感情は、失われず残れないか。
K 楽しめ、満足でき、収益が上がる→表現ばかりが重要になる→表現と感情の間に断裂。感情=表現→矛盾、葛藤がない。収益と思考が介入→感情は欲をとおして失われる。
感情の情熱は、表現の情熱とは全然違う。人々は表現の情熱に捕らわれる。それで、良いものと楽しめるものとの間には、いつもこの分割がある。
重要であるのが感情→けっして表現について訊ねない。感情を持っているのか、いないのかのどちらか。表現について訊ねる→芸術性ではなく収益について訊ねている。芸術性は、けっして勘定に入らない→生きること
質問者 生きて有るとは、それ自体が完全である感情を持つとは、どういうことか。
K それは葛藤なく生きること。
(´・(ェ)・`)
919
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/05/31(日) 00:08:30 ID:1d4drIFg0
表現とは他人に向けた感情のあらわれなのじゃ。
それによって芸術は金にもなるのじゃ。
芸術が表現に偏るならばもはや金のための商品にもなるのじゃ。
ありのままの感情を現す時、表現は葛藤の無い芸術になるのじゃ。
920
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/31(日) 06:03:50 ID:tFvY.HzI0
変化の緊要
秩序 1
質問者 あなたの教えには、千もの詳細があります。私は生きるなかで、それらすべてを一つの行為へ解消することができなければならないし、いまそれは、私のなすすべてに浸透します。なぜなら、私は生きるなかで、行為するための一つの瞬間が、私の真ん前にあるだけであるからです。頂点のうえに倒立したピラミッドのように、あなたの教えの詳細すべてを一点に持っていく日々生きるなかでの一つの行為とは、何なのでしょうか。
K ・・・危険ですね!
質問者 または違うように言うと、生きることの全的智恵を、一瞬に現在に集中させるだろう一つの行為は、何なのでしょうか。
K 問うべき疑問は、どう混乱、適応、悲惨なく、他の人間たちとの調和的な関係のなか、本当に智恵あり均衡ある活動的な生を生きるのかである、と私は思うのです。あなたがしているいかなることにも、この智恵を作動するよう喚起するであろう一つの行為は、何なのでしょうか。世界にはこんなに多くの悲惨、貧しさ、悲しみがあるのです。あなたは人間として、これらすべての人間的問題に向き合い、何をすべきなのでしょうか。あなたが他の人たちを助ける機会をあなた自身の充足のために使うなら、そのとき、そのときそれは濫用で危害です。それで、私たちは初めから、それを片づけられるのです。本当は疑問はこうなのです - 私たちはどのようにして、どんな種類の努力もなく大いに智恵あり秩序ある生を生きるのでしょうか。私たちはいつもこの問題に外側から接近し、自分自身に「私は、人類の、経済的、社会的、人間的な多くの問題すべてに直面して、何をすべきなのだろうか」と訊ねるように、思われるのです。私たちは、外ということにおいて働いてこれを解きたいと思うのです。
質問者 いいえ。私はあなたに、私がどのように世界の経済的、社会的、政治的問題に取り組んだり、解決したりできるのかを、訊ねているのではありません。それではあまりに愚劣でしょう!私が知りたいすべては、まさにあるとおりのこの世界でどう正しく生きるのかばかりです。なぜなら、それはいまあるとおりにここに私の真ん前にあるし、私はそれを他のどんな形にも望めないからです。私はいま、あるとおりのこの世界に生き、これら環境、境遇のなかで、生きることの問題すべてを解決するのでなければなりません。私はこの生きることを、どう義(ダールマ)の生にするのかを訊ねているのです。それは、外から課されないし、どんな訓戒にも順応しなくてどんな思考によっても養成されない美徳です。
K あなたのいわれるのは、あなたは即時にふいにあなた自身を、大いなる智恵、無垢、愛である恵みの状態に見たい - 過去や未来をもたずあなた自身をこの状態に見たい、この状態から行為したい、という意味でしょうか。
質問者 はい!全くそのとおりです。
(´・(ェ)・`)つ
921
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/31(日) 06:06:58 ID:tFvY.HzI0
くまめも1
質問者 あなたの教えの詳細すべてを一点に持っていく日々生きるなかでの一つの行為とは、何か。
K ・・・危険ですね!
問うべき疑問は、どう混乱、適応、悲惨なく、他の人間たちとの調和的な関係のなか、本当に智恵あり均衡ある活動的な生を生きるのかである。
世界にはこんなに多くの悲惨、貧しさ、悲しみがある。あなたは人間として、これらの問題に向き合い、何をすべきか。他の人たちを助ける機会を自身の充足のために使うなら、そのとき、そのときそれは濫用で危害。
本当は疑問はこう−私たちはどのようにして、どんな種類の努力もなく大いに智恵あり秩序ある生を生きるか。
私たちはいつもこの問題に外側から接近し、自分自身に「私は、人類の、経済的、社会的、人間的な多くの問題すべてに直面して、何をすべきなのだろうか」と訊ねる。
質問者 いいえ。どのように世界の経済的、政治的問題に取り組み、解決できるかを、訊ねているのではない。それでは愚劣。
私はいま、あるとおりのこの世界に生き、これら環境、境遇のなかで、生きることの問題すべてを解決するのでなければならない。
私はこの生きることを、どう義(ダールマ)の生にするのかを訊ねている。
K あなたは即時にあなた自身を、大いなる智恵、無垢、愛である恵みの状態に見たい − 過去や未来をもたずあなた自身をこの状態に見たい、この状態から行為したい、という意味か。
質問者 はい!全くそのとおり。
(´・(ェ)・`)
922
:
避難民のマジレスさん
:2020/05/31(日) 06:18:40 ID:tFvY.HzI0
うむ。
「危険ですね!」
廻光返照
「言を尋ね語を逐うの解行を休すべし」
道元さんも覚者でありますか?
同じことを言ってるであります。
(´・(ェ)・`)b
923
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/01(月) 00:57:44 ID:1d4drIFg0
言葉だけ覚えて繰り返しても無意味なのじゃ。
現実が言葉の通りになることはありえないのじゃ。
それは心の中にイメージを持っていることであるからのう。
ありのままにものごとを観る障碍になるばかりなのじや。
924
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/02(火) 08:36:30 ID:WhCvvMPA0
変化の緊要
秩序 2
K これは、達成、成功、失敗とは何の関わりもありません。確かに、ただ一つの生きる道があるにちがいありません。それは何でしょうか。
質問者 それが私の疑問です。
K 始まりもなく終わりもないし、あなたの願望によって灯されないし、あなたのや他の誰かのではない光を、あなたの内に持つこと。この内的光があるとき、あなたが何をしようとも、いつも正しく真実であるでしょう。
質問者 格闘、探求、あこがれ、疑問のすべてなしに、その光をいま、どのように得るのでしょうか。
K あなたが本当に過去に対して完全に死ぬときにだけ、それは可能です。そして、これは、頭脳に完全な秩序があるときにだけ、できるのです。頭脳は無秩序に耐えられません。無秩序があるのなら、その活動すべては矛盾的で混乱し悲惨になるでしょうし、それはそれ自身とそれ自身のまわりに危害をもたらすでしょう。この秩序は、思考の企画、原理(へ)、権威(へ)、何かの形態の想像された善への服従の企画ではありません。葛藤、抗争をもたらすのは、頭脳の無秩序です。そのとき、この無秩序から逃避するため思考が養成した、宗教的その他のさまざまな抵抗すべてが、生じるのです。
質問者 この秩序は、それ自体が無秩序で矛盾的である頭脳へ、どのようにもたらされるのでしょうか。
K それは、一日中見張ることにより、それから眠る前に、日中になされたことごとくを秩序立てることにより、できるのです。そのとおりに頭脳は無秩序のなか眠りに就きません。これは、本当は(頭脳の)なかとまわりに無秩序があるときに、頭脳が自分自身に催眠をかけて秩序の状態にする、という意味ではありません。昼の間に秩序があるのでなければならないし、眠る前にこの秩序を締めくくることが、一日が調和的に終わることなのです。それは、帳簿を付け、毎晩それを適正に決算し、そのため次の日新たに始めるようにし、そのため眠りに就くとき、心が悩み混乱し心配で恐れているのではなく、静かで空っぽであるようにする人に、似ているのです。彼が目覚めるとき、思考や楽しみの産物ではないこの光があるのです。この光は、智恵と愛なのです。それは、私たちが育てられてきた道徳という無秩序の否定です。
質問者 私は即時に無媒介にこの光を得られるでしょうか。それが、私がまさに最初に訊ねた疑問です。ただ私はそれを違うように表しただけなのです。
K 「私 'me' 」がないとき、それを即時に無媒介に得られるのです。「私 'me' 」は、自らが終わらなければならないことを自分自身で見るとき、終わりになるのです。見ることが理解の光なのです。
(´・(ェ)・`)つ
925
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/02(火) 08:45:19 ID:WhCvvMPA0
くまめも2
K これは、達成、成功、失敗とは何の関わりもない。ただ一つの生きる道がある。始まりも終わりもないし、願望によって灯されないし、あなたのや他の誰かのではない光を、あなたの内に持つこと。この内的光があるとき、いつも正しく真実。
あなたが本当に過去に対して完全に死ぬときにだけ、それは可能。そして、これは、頭脳に完全な秩序があるときにだけできる。
頭脳は無秩序に耐えられない。無秩序があるのなら、その活動すべては矛盾的で混乱し悲惨になるし、それはそれ自身とそれ自身のまわりに危害をもたらす。この秩序は、思考の企画、原理、権威、想像された善への服従の企画ではない。葛藤、抗争をもたらすのは、頭脳の無秩序。そのとき、この無秩序から逃避するため思考が養成した、さまざまな抵抗すべてが、生じる。
秩序は、どのようにもたらされるか。それは、一日中見張ることにより、それから眠る前に、日中になされたことを秩序立てることにより、できる。頭脳は無秩序のなか眠りに就かない。昼の間に秩序があるのでなければならないし、眠る前にこの秩序を締めくくることが、一日が調和的に終わること。
彼が目覚めるとき、思考や楽しみの産物ではないこの光がある。この光は、智恵と愛。それは、私たちが育てられてきた道徳という無秩序の否定。
「私 'me' 」がないとき、それを即時に無媒介に得られる。「私 'me' 」は、自らが終わらなければならないことを自分自身で見るとき、終わりになる。見ることが理解の光。
(´・(ェ)・`)
926
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/02(火) 21:21:01 ID:1d4drIFg0
見る事に拠って私が終わるというのじゃ。
私が無ければ目覚めが在るのじゃ。
目覚めれば条件付けによる観念遊戯も全て終わるのじゃ。
見ることが理解の光であると言うのじゃ。
927
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/03(水) 06:39:47 ID:FyHVc0AM0
変化の緊要
個人と共同体 1
質問者 私はこの疑問の訊ね方をよく知らないのですが、私は、個人と共同体、これら二つの対立的事物の間の関係は、長い危害の歴史であったという強い感じを持っています。世界の(歴史)、思考、文明の歴史は、つまるところ、これら二つの対立的事物の間の関係の歴史です。社会すべてにおいて個人は多かれ少なかれ抑圧されるのです。彼は、理論家たちが決定してきた様式に順応し、適合しなければなりません。個人はいつもこれら様式を破って抜けようとしているし、二つの間の継続的な戦いが結果です。諸宗教は、集団的魂から分離したものとして、個人の魂について話すのです。彼らは個を強調します。(近代)現代の社会は、こんなに機械的になり、標準化され、集団的に活動することになったのですが、この社会では、個人は自分が何なのかを探究し、自分自身を主張し、自分自身を同定しようとしています。格闘すべては、何にもつながりません。私の疑問はこうです - このすべてのどこが、間違っているのでしょうか。
K 本当に大事であるただ一つのことは、生きるなか善と愛と智恵の行為があることです。善は個人的でしょうか、集団的でしょうか。愛は人格的でしょうか、非人格的でしょうか。智恵はあなたのや私のや他の誰かのでしょうか。それがあなたのや私のであるのなら、そのときそれは智恵や愛や善ではありません。善が、自らの特定の趣向や判断に応じた個人や集団の事柄であるのなら、そのときそれはもはや善ではありません。善は個人の裏庭にも集団の広野にもありません。善は両方からの自由にのみ花開くのです。この善と愛と智恵があるとき、そのとき行為は個人や集団ということにおいてではありません。善を欠いて私たちは、世界を個人と集団とに分割するし、さらに集団を宗教、国家、民族、階級に応じて無数の諸集団に分割するのです。これら諸分割を創り出したので、私たちは、新しい集団を形成することによりそれらに橋を渡そうとするのですが、それら(形成される集団)も再び他の諸集団から分割されるのです。私たちは、どの偉大な宗教もすべて仮定では人の同胞愛をもたらすために存在しているが、現行の事実ではそれを防止することが、分かるのです。私たちはいつも、すでに腐敗しているものを改革しようとするのです。私たちは腐敗を抜本的に根絶するのではなく、ただ単にそれらを配置しなおすだけなのです。
(´・(ェ)・`)つ
928
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/03(水) 06:41:46 ID:FyHVc0AM0
くまめも1
本当に大事であるただ一つのことは、生きるなか善と愛と智恵の行為があること。
智恵はあなたのや私のや他の誰かのか。それがあなたのや私のであるのなら、そのときそれは智恵や愛や善ではない。
善が、特定の趣向や判断に応じた個人や集団の事柄であるのなら、そのときそれは善ではない。善は個人の裏庭にも集団の広野にもない。善は両方からの自由にのみ花開く。
この善と愛と智恵があるとき、そのとき行為は個人や集団ということにおいてではない。善を欠いて私たちは、世界を個人と集団とに分割するし、さらに集団を宗教、国家、民族、階級に応じて無数の諸集団に分割する。これら諸分割を創り出したので、私たちは、新しい集団を形成することによりそれらに橋を渡そうとするが、それら(形成される集団)も再び他の諸集団から分割される。
私たちは、どの偉大な宗教もすべて仮定では人の同胞愛をもたらすために存在しているが、現行の事実ではそれを防止することが、分かる。私たちはいつも、すでに腐敗しているものを改革しようとする。私たちは腐敗を抜本的に根絶するのではなく、ただ単にそれらを配置しなおすだけ。
(´・(ェ)・`)
929
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/03(水) 22:59:09 ID:1d4drIFg0
個人の集まりが集団と呼ばれるのじゃ。
個人が無ければ集団も無いのじゃ。
それは分けられない一つのものなのじゃ。
集団のためにすることは個人の欲望のためにすることであり、腐敗は免れないのじゃ。
930
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/03(水) 23:36:39 ID:0u2NzBkU0
変化の緊要
個人と共同体 2
質問者 あなたは、私たちは個人と集団の間のこれら終わりなき取引に時間を費やしたり、それらは異なっているとか、それらは同様であるとかを立証しようしたりしなくてもいい、と言われているのでしょうか。あなたは、ただ善、愛、智恵のみが主題であるし、これらは個人や集団を越えていると言われているのでしょうか。
K そうです。
質問者 では、本当の疑問は、愛、善、智恵が日々生きるなかでどのように行為できるのかであるように、思われます。
K これらが行為するのなら、そのとき個人と集団の疑問は学理的なのです。
質問者 それらはどのようにして行為するのでしょうか。
K それらはただ関係のなかにのみ行為できるのです。存在すべては関係のなかにあるのです。それで、初めのことは、自らのあらゆるものごととあらゆる人との関係に気づくこと、この関係のなか「私 'me' 」がどのように生まれ、行為するのかを見ることなのです。集団と個人のどちらでもあるこの「私 'me' 」、です。分離するのは、「私 'me' 」です。集団的、個人的に行為するのは「私 'me' 」で、天国と地獄を創り出すのは「私 'me' 」です。これに気づくことがそれを理解することです。そして、それを理解することが、それの終わることなのです。それの終わることが善、愛、智恵なのです。
(´・(ェ)・`)つ
931
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/03(水) 23:41:26 ID:0u2NzBkU0
くまめも27-2
質問者 善、愛、智恵のみが主題であり、これらは個人や集団を越えていると言うのか。
K そうです。
質問者 愛、善、智恵が、日々生きるなかでどのように行為できるのか。
K これらが行為するのなら、そのとき個人と集団の疑問は学理的。
質問者 それらはどのように行為するのか。
K それらはただ関係のなかにのみ行為できる。存在すべては関係のなかにある。
初めのことは、自らのあらゆるものごととあらゆる人との関係に気づくこと、この関係のなか「私 'me' 」がどのように生まれ、行為するのかを見ること。集団と個人のどちらでもあるこの「私 'me' 」。分離するのは、「私 'me' 」。集団的、個人的に行為するのは「私 'me' 」で、天国と地獄を創り出すのは「私 'me' 」。これに気づくことがそれを理解すること。そして、それを理解することが、それの終わること。それの終わることが善、愛、智恵。
(´・(ェ)・`)
932
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/04(木) 23:32:11 ID:1d4drIFg0
全ては私から起こるというのじゃ。
分離も、個人と集団の行為も、天国と地獄を作り出すのも全て私なのじゃ。
それが観られて気付いたならば、全ては消え去るのじゃ。
私が無ければ私から創られた全てもなくなるからなのじゃ。
933
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/04(木) 23:50:57 ID:1R/9XXYg0
変化の緊要
冥想とエネルギー 1
質問者 今朝私は、冥想のもっと深い意味、もっと深い感覚に入りたいように思うのです。私は、少しの禅を含めて、その多くの形態を実践してきました。気づきを教える学派はさまざまにあるのですが、それらはすべてむしろ表面的なように思われます。それで、私たちはそのすべてをわきに置いておき、これに入れるでしょうか。
K 私たちはまた権威の意味全体をもわきに置かなければなりません。なぜなら、冥想のなかで、どんな形態の権威も、自分自らのも他の人の権威も、障害になり、自由を防止するからです。新しさ、新鮮さを防止するのです。それで、権威、順応、模倣は完全にわきに置かなければなりません。そうでなければあなたは、単に言われてきたことを模倣し、倣うだけですし、これは心をとても鈍く愚かにするのです。そこには自由がありません。あなたの過去の経験は導き、指導し、新しい道を確立するかもしれません。それで、それさえも去らなければなりません。そのときにだけ、冥想と呼ばれるこのとても深くとてつもなく重要なことに、入れるのです。冥想はエネルギーの本質です。
質問者 長年の間、私は自分が他の誰かの権威やある様式の奴隷にならないようにしてきました。もちろん私自身を欺瞞する危険はあるのですが、私たちが進むにつれて、私はたぶん見出すでしょう。しかし、あなたが冥想はエネルギーの本質であると言われるとき、あなたの言われる「冥想」と「エネルギー」という言葉は、どういう意味なのでしょうか。
K 思考のあらゆる動き、あらゆる行為がエネルギーを要求します。あなたが何をしようと、考えようと、エネルギーが要るのです。このエネルギーは、葛藤、抗争をとおし、さまざまな形態の不必要な思考、情動的追求、感傷的活動をとおして、消散するかもしれません。二元性に、「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」に、観察する者と観察されるもの・こと、思考する者と思考されるもの・こととの間の分割に生ずる葛藤、抗争のなか、エネルギーはむだになるのです。このむだがもはや起きていないとき、気づきと呼べるエネルギーの性質があるのです - そのなかに、評価づけ、判断、非難、比較がなく、単に注意深い観察、思考 - すなわち過去 - の干渉なく内的、外的にものごとをまさに有るとおりに見ることのみがあるところの気づき、です。
質問者 私はこれをとても理解するのが困難だと思います。もしも全く思考がなかったなら、樹や私の妻や隣人を認識することは、可能でしょうか。あなたは樹やお隣の女性を見るとき、認識は必要であるでしょう。
K あなたが木を観察するとき、認識は必要でしょうか。あなたがあの樹を見るとき、あなたはあれは樹であると言うのでしょうか、それともあなたはただ見るだけでしょうか。あなたがそれをニレ、カシ、マンゴーの来と認識しはじめるなら、そのとき過去が直接的観察に干渉するのです。同じように、あなたは、あなたの妻を見るとき、やっかいや楽しみの記憶をもって見るのなら、あなたは本当は彼女を見ていなくて、あなたが彼女について心に持っているイメージを見ているのです。それが直接的知覚を防止します。直接的知覚には、認識が要りません。あなたの妻、あなたの子ども、あなたの家、あなたの隣人の外的認識はもちろん必要です、しかし、なぜ眼、心、頭に過去の介入があったりするのでしょうか。それはあなたが明確に見るのを防止しないでしょうか。あなたが何かについて非難したり、見解を持つとき、その見解や先入観は、観察を歪曲するのです。
(´・(ェ)・`)つ
934
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/04(木) 23:52:32 ID:1R/9XXYg0
くまめも28-1
冥想のなかで、どんな形態の権威も、障害になり、自由を防止する。新鮮さを防止する。それで、権威、順応、模倣は完全にわきに置かなければならない。言われたことを模倣するだなら、それは、心をとても鈍く愚かにする。そこには自由がない。過去の経験は導き、新しい道を確立するかもしれない。それさえも去らなければならない。そのときにだけ、冥想のとても深く、重要なことに、入れる。冥想はエネルギーの本質。
思考のあらゆる動き、あらゆる行為がエネルギーを要求する。このエネルギーは、葛藤、抗争をとおし、さまざまな形態の不必要な思考、情動的追求、感傷的活動をとおして、消散するかもしれない。
二元性に、「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」に、観察する者と観察されるもの・こと、思考する者と思考されるもの・こととの間の分割に生ずる葛藤、抗争のなか、エネルギーはむだになる。
このむだが起きていないとき、気づきと呼べるエネルギーの性質がある。そのなかに、評価づけ、判断、非難、比較がなく、単に注意深い観察、思考、すなわち過去の干渉なく内的、外的にものごとをまさに有るとおりに見ることのみがあるところの気づき。
あの樹を見るとき、あなたは①あれは、木である。②ただ見るだけ③それを〇〇の木と認識しはじめるなら、そのとき過去が直接的観察に干渉する。
同じように、妻を見るとき、記憶をもって見るなら、本当は彼女について心に持っているイメージを見ている。それが直接的知覚を防止する、直接的知覚には、認識が要らない。妻、隣人の外的認識はもちろん必要、しかし、なぜ眼、心、頭に過去の介入があったりするのか。それは明確に見るのを防止する。何かについて非難したり、見解を持つとき、その見解や先入観は、観察を歪曲する。
(´・(ェ)・`)
935
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/06/05(金) 22:44:59 ID:1d4drIFg0
言葉とイメージに拠って過去の記憶から観念が起こるのじゃ。
それが悟っていない者の認識なのじゃ。
それは今ここにあるものごとを観ていないのじゃ。
記憶を観ているだけなのじゃ。
何の分別も無く観ることが気付きなのじゃ。
936
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 00:00:30 ID:2WdNfqJs0
>>935
いつも、簡潔なまとめをありがとうであります。
精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ
937
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 00:01:53 ID:2WdNfqJs0
変化の緊要
冥想とエネルギー 2
質問者 はい、それは分かります。その微細な形態の認識は歪曲するのです。それは分かります。あなたは、これらすべての思考の干渉はエネルギーのむだであると言われます。あなたは、どんな形態の認識、非難、判断もなく観察しなさい、名づけず観察しなさい、と言われます。その名づけ、認識はエネルギーのむだであるからです。それは論理的に現実的に理解できます。そのとき次の点、すなわち、二元性を創り出す観察する者と観察される者・ことの間に存在する分割、分離、あるいはむしろあなたがしばしば表してこられたとおり空間があるのです。あなたは、それもまたエネルギーのむだであり、葛藤、抗争をもたらすと言われます。私はあなたの言われることすべてを論理的だと思うのですが、その空間を取り除くこと、観察する者と観察される者・こととの間に調和をもたらすことを、とてつもなくむずかしいと思うのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。
K 「どのように」はないのです。「どのように」は、機械的になる体系、方式、実践を意味します。もう一度私たちは、「どのように」という言葉の意義を離れなくてはなりません。
質問者 それは可能でしょうか。私は可能という言葉は、未来、努力、調和をもたらそうと奮闘することを含意するのを、知っています。しかし、一定の言葉は使わなければなりません。私たちがそれら言葉を乗り越えられるのを私は願うのです。それで、観察する者と観察されるもの・こととの間の統一をもたらすことは、可能でしょうか。
K 観察する者は観察されるもの・ことにいつも陰を落としています。それで、二つの間の統合をどのようにもたらすのかではなくて、観察者の構造と本性を理解しなければなりません。観察者の動きを理解しなければなりません。その理解のなかおそらく観察者は終わりになるでしょう。私たちは、観察者が何なのかを検討しなければなりません。それは、意識的、無意識的な記憶、人種的、民族的な遺産、知識と呼ばれる蓄積された経験、諸反応をともなう過去なのです。観察者は本当は、条件づけられた事物です。彼は、その人はある、私はあると主張する者なのです。彼自身を保護するなかで彼は抵抗し、支配し、快適と安楽、安全を求めます。そのとき観察者は内的、外的に、自分自身を、観察されるもの・こととは異なる何かとして、分け隔てます。これが二元性をもたらすし、この二元性から葛藤、抗争があるし、これ(葛藤、抗争)がエネルギーのむだなのです。観察者、その動き、その自己中心的活動、その主張、その先入観に気づくには、自分は異なっているという分離主義的感情を築くこれら無意識的な動きすべてに、気づかなければなりません。それは、どんな形態の評価づけもなく、好き嫌いなく観察されなければなりません。ただそれを日々の生のなか、その諸関係のなか観察してください。この観察が明らかであるとき、観察者からの自由がないでしょうか。
質問者 あなたは、観察者は本当は自我であるとおっしゃっています。あなたは、自我が存在するかぎり、彼は抵抗し、分割し、分離する、というのは、この分離、この分割のなか彼は生きていると感じるから、とおっしゃっているのです。それは彼に、抵抗し戦う活力を与えるし、彼はその戦いが慣習となってしまったのです。それが彼の生きる道なのです。あなたは、この自我、この「私 'I' 」が、好き嫌いの感覚のなく、見解や判断のなく、ただ行為のなかこの「私 'I' 」の観察のみがある観察をとおして解消しなければならない、と言われていないでしょうか。しかし、そういうことは本当に起きるのでしょうか。私は私自身をそんなに完全に、真実に、歪曲なく見られるでしょうか。あなたは、私がそんなに明らかに私自身を見つめるとき、「私 'I' 」は全く動きを持たないと言われます。そしてあなたは、これが冥想の一部であると言われるのですか。
K もちろんです。これこそが冥想です。
(´・(ェ)・`)つ
938
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 00:02:51 ID:2WdNfqJs0
くまめも2
質問者 あなたは、観察者は本当は自我であるという。あなたは、自我が存在するかぎり、彼は抵抗し、分割し、分離する、というのは、この分離、この分割のなか彼は生きていると感じるから、と言っている。
それは彼に、抵抗し戦う活力を与えるし、彼はその戦いが慣習となってしまった。
それが彼の生きる道。あなたは、この自我、この「私 'I' 」が、好き嫌いの感覚のなく、見解や判断のなく、ただ行為のなかこの「私 'I' 」の観察のみがある観察をとおして解消しなければならない、と言うのか。
そういうことは本当に起きるのか。
私は私自身をそんなに完全に、真実に、歪曲なく見られるか。
私がそんなに明らかに私自身を見つめるとき、「私 'I' 」は全く動きを持たないと言う。これが冥想の一部であると言うのか。
K もちろんです。これこそが冥想です。
(´・(ェ)・`)
939
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/06(土) 23:25:37 ID:1d4drIFg0
>>936
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
940
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/06(土) 23:33:08 ID:1d4drIFg0
観察する時に観察する者と観察されるものをわけてはいかんというのじゃ。
観察する者こそを観察するべきなのじゃ。
観察する者がどのように観察しているのか理解するのじゃ。
観察する者を観察する事が瞑想だというのじゃ。
941
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 23:43:31 ID:zulUrRnU0
変化の緊要
冥想とエネルギー 3
質問者 この観察は確かに、とてつもない自己修練を要求します。
K あなたの言われる自己修練とはどういう意味でしょうか。自己に拘束服を帰せることにより自己を修練するという意味でしょうか。それとも自分自身(について)、主張し、支配し、野心的暴力的などである自分自身について修学する、それについて学ぶ、という意味でしょうか。学ぶことはそれ自体が修練です。修練という言葉は、学ぶ、修学するという意味です。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要るし、その学びがそれ自体の応答する責任能力、それ自体の活動、それ自体の次元をもたらすのです。それで、それに課されるものとしての修練はないのです。学びがあるとき、模倣はなく、順応はなく、権威はないのです。これがあなたが修練という言葉でいわれる意味であるのなら、そのとき確かに学ぶ自由がありますか。
質問者 あなたは、私をあまりに遠く、おそらくあまりに深く連れていっています。私は、この学びが関係するところでは、あなたにぜんぶは付いてゆけません。私は、観察者としての自己が終わりにならなければならないことが、明確に分かります。論理的にそのとおりですし、葛藤があってはなりません。それはごく明確です。しかし、あなたは、まさにこの観察が学びであるし、学ぶなかにはいつも蓄積があると言われています。この蓄積が過去になるのです。学びは付け加えの過程ですが、あなたは明らかにそれに全く違った意味を与えられています。私が理解したところからは、あなたは、学びは蓄積なき常の動きであると言われています。そのとおりでしょうか。蓄積なしの学びがありうるのでしょうか。
K 学びはそれ自体の行為です。一般的に起きることは、学んでおいて - 私たちは学んできたことにのって行為する、ということなのです。それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきもの・ことと有るもの・こと、またはあったもの・ことと有るもの・こととの間に、葛藤があるのです。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っているのです。すなわち、学ぶことはなすことです。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではないのです。これを理解することがとても重要です。なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、「私に 'me' 」、「私 が 'I' 」、自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性です。「私 'I' 」は過去のまさに本質ですし、過去は現在に触れて、さらに未来になるのです。ここには常に分割があるのです。学びがあるところには、常に動きがあるのです。「私 'I' 」になりうる蓄積はないのです。
質問者 しかし、科学技術の分野には、蓄積された知識があるのでなければなりません。知識なしには、大西洋を飛んだり、車を走らせたり、またはふつうの日々のことのほとんどをすることさえもできません。
K もちろんですね。そういう知識は絶対に必要です。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話しているのです。「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられるのです。「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられるのです。しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめるのです。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるからです。それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではありません。それは、何か他のものを達成するためにそれを用いているのです。それは、有名になるためピアノを用いる音楽家に似ています。彼が関心を持つものは、それ自体での、それ自体のための音楽の美しさではなくて、名声です。私たちは、技術的な知識を除かなければならないと、言っているのではありません。反対に、技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況があるでしょう。しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめるのです。
(´・(ェ)・`)つ
942
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/06(土) 23:47:27 ID:zulUrRnU0
くまめも3
修練とは、学ぶ、修学するという意味。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要る。学びがあるとき、模倣、順応、権威はない。
質問者 蓄積なしの学びがありうるのか。
K 学びはそれ自体の行為。一般的に起きることは、学んでおいて-私たちは学んできたことにのって行為する、ということ。
それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきものと有るもの、またはあったものと有るものとの間に、葛藤がある。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っている。すなわち、学ぶことはなすこと。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではない。
これを理解することがとても重要。
なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、me' 、I' 自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性。「私 'I' 」は過去のまさに本質だし、過去は現在に触れて、さらに未来になる。ここには常に分割がある。学びがあるところには、常に動きがある。「私 'I' 」になりうる蓄積はない。
科学技術の分野の知識は絶対に必要。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話している。
「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられる。
「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられる。
しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめる。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるから。
それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではない。技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況がある。
しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめる。
(´・(ェ)・`)
943
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/07(日) 23:30:16 ID:Jqx6nX820
変化の緊要
冥想とエネルギー 4
質問者 私はあなたの言われていることを理解しはじめていると思います。あなたは、学びという言葉に、全く違った意味と次元を与えられています - それはすばらしいのです。私はそれをつかみはじめています。あなたは、冥想は学びの動きであるし、そこにはあらゆるものごとについて、冥想についてだけではなく、生き方、車の走らせ方、食べ方、話し方、あらゆるものごとについて学ぶ自由がある、と言われているのです。
K 私たちが言いましたように、エネルギーの本質は冥想です。それを違うように言うと - 冥想者があるかぎり、冥想はないのです。彼が他の人たちの叙述した状態や何か経験の閃きを達成しようと試みるなら・・・
質問者 お話を遮らせていただくと、あなたは、学ぶことは常であり、絶え間なき流れ、線であり、そのため学びと行為が一つ、または常の動きであるようでなければならないと、言われているのでしょうか。私はどういう言葉を用いるべきなのか知りませんが、私の言いたい意味は必ず理解なさると思うのです。学びと行為と冥想の間に絶え間があるととたんに、その絶え間は不調和ですし、その絶え間は葛藤です。その絶え間には、観察者と観察されるもの・ことが(あるし)、ゆえにエネルギーのむだ全体があるのです - それが、あなたの言われていることなのでしょうか。
K はい、それが私たちの言っている意味なのです。冥想は状態ではありません。行為が動きであるように、それは動きです。そして、ちょうどいま私たちが言いましたように、私たちが学びから行為を分離するとき、観察者が、学びと行為の間に来るのです。そのとき彼は、隠密の動機のために行為と学びを用いるのです。これが、行為し、学び、冥想する一つの調和的動きとしてごく明確に理解されるとき、エネルギーのむだはないし、これが冥想の美しさです。ただ一つの動きがあるのです。学びは、冥想や行為よりもはるかに重要です。学ぶには、完全な自由が、意識的にだけではなく、深く、内的に、あるのでなければなりません - 全的な自由です。そして、自由には、調和的全体として学び、行為し、冥想するこの動きが、あるのです。全体 whole という言葉は、(語源的に)健全 health というだけではなく、神聖 holy という意味なのです。それで、学びは神聖ですし、行為は神聖ですし、冥想は神聖です。これは本当に聖なることですし、美しさはそれを越えてではなく、それ自体にあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
944
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/07(日) 23:34:37 ID:Jqx6nX820
くまめも4
K エネルギーの本質は冥想。
冥想者があるかぎり、冥想はない。
彼が他の人たちの叙述した状態や何か経験の閃きを達成しようと試みるなら・・・
質問者 あなたは、学ぶことは常であり、絶え間なき流れ、線であり、そのため学びと行為が一つ、または常の動きであるようでなければならないと、言われているのか。
学びと行為と冥想の間に絶え間があるととたんに、その絶え間は不調和だし、その絶え間は葛藤。その絶え間には、観察者と観察されるもの・ことが(あるし)、ゆえにエネルギーのむだ全体がある。それが、あなたの言われていることか。
K はい、それが私たちの言っている意味。冥想は状態ではない。
行為が動きであるように、それは動き。
そして、私たちが学びから行為を分離するとき、観察者が、学びと行為の間に来る。
そのとき彼は、隠密の動機のために行為と学びを用いる。
これが、行為し、学び、冥想する一つの調和的動きとしてごく明確に理解されるとき、エネルギーのむだはないし、これが冥想の美しさ。
ただ一つの動きがある。
学びは、冥想や行為よりもはるかに重要。
学ぶには、完全な自由が、意識的にだけではなく、深く、内的に、あるのでなければならない。全的な自由。そして、自由には、調和的全体として学び、行為し、冥想するこの動きが、ある。
全体 whole という言葉は、(語源的に)健全 health というだけではなく、神聖 holy という意味。それで、学びは神聖だし、行為は神聖だし、冥想は神聖。
これは本当に聖なることだし、美しさはそれを越えてではなく、それ自体にある。
(´・(ェ)・`)
945
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/07(日) 23:46:54 ID:1d4drIFg0
通常の学問では習うことと実践は離れているのじゃ。
数学を習って金勘定をするとかのう。
しかし、悟りのための学びは実践そのものなのじゃ。
自分を学ぶことで理解と気付きが訪れるのじゃ。
道元も仏法とは自己を習うことだと言っているのじゃ。
自己を習うことで自分を忘れる忘我も訪れるというのじゃ。
946
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/08(月) 00:01:34 ID:Jqx6nX820
>>945
鬼和尚、いつもありがとうであります。
ありのままを見ていれることは、ありのままでいいと思えることになり、そこで、また、これで良いのかと、思えてしまうのであります。
そう思えるからこそ、きっと、見続けることができるのでありますね。
たぶん、これで良いのでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ
947
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/08(月) 22:47:46 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに己を観続けるのじゃ。
東西全ての賢者達の教えであるからそれを実践していれば間違うことは無いのじゃ。
ただひたすらに自己を観察し、蓄積無しに自己を習うと善いのじゃ。
948
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 00:21:22 ID:YNKg7Ogo0
変化の緊要
思考を終わらせること 1
質問者 あなたの言われる思考を終わらせることは、本当はどういう意味なのかと思われます。私はそれについてある友人に話したのですが、彼はそれはある種の東洋のたわごとであると言いました。彼にとって思考は、最高の形態の智恵と行為で、いのちのまさしく塩分で、不可欠です。それは文明を創り出してきたし、関係すべてはそれに基づいてあるのです。一番偉大な思想家から一番つつましい労働者まで、私たちのすべてがこれを受け入れます。私たちは考えないとき、眠ったり、植物みたいであったり、白昼夢を見ています。私たちは空虚で、鈍く、非生産的なのです。ところが、私たちは目覚めているとき、考え、行い、生き、口論しています。これらが、私たちの知るただ二つの状態です。あなたは言われます - 両方を越えなさい。思考と空虚な無活動を越えなさい、と。これはどういう意味なのでしょうか。
K ごく単純に言うと、思考は記憶の応答、過去なのです。過去は無際限なのか、一秒前なのです。思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去です。意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望です。思考が作用しているとき、それは過去ですし、ゆえに新しい生活は全くないのです。それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去なのです。それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがないのです。何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけません。心が散らかっていないときにのみ、今は生じうるのです。そして、この理由のために私たちは、思考は作動しなくてはならないときにだけ - 対象的に、効果的に - 作動して、止まらなければならないと言うのです。継続すべては思考です。継続があるとき、何も新しいもの・ことはありません。あなたは、これがどんなに重要なのか、分かるでしょうか。それは本当に、生それ自体の疑問です。あなたは過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらかです。それが論点全部です。
質問者 私はあなたの言われる意味は分かると思うのですが、しかし、いったい全体どのようにして、この思考を終わらせるのでしょうか。私が鳥(の声)を聞くとき、即時にそれはクロウタドリであると語ってくれる思考があるのです。私が通りを歩いていくとき、思考は私は通りを歩いていくと語ってくれ、私の認識し分かるすべてを語ってくれるのです。私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやって戯れるのは、今度も思考です。意味と理解と伝達のすべては思考です。私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしています。私は目覚めているとき考えるし、私は眠っているとき考えるのです。私の存在の全構造が思考です。その根は、私が知るよりはるかに深くあるのです。私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考です - 思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出すのです。思考は殺害するし、思考が許すのです。それで、どうしてそれを乗り越えられるのでしょうか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
949
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 00:28:27 ID:YNKg7Ogo0
くまめも1
思考は記憶の応答、過去。
思考が行為するとき、記憶として、経験として、知識として、機会として行為しているのは、この過去。
意志すべては、この過去に基づき、楽しみや苦しみの回避を志向する願望。
思考が作用しているとき、それは過去だし、ゆえに新しい生活は全くない。
それは、現在に生き、それ自体と現在を修正している過去。
それで、その道には、生に何も新しいもの・ことがない。
何か新しいもの・ことが見つけられることになるとき、過去の欠如がなければならないし、心は思考、恐れ、楽しみ、他のあらゆるものごとで散らかっていてはいけない。
心が散らかっていないときにのみ、今は生じうる。
そして、この理由のために思考は作動しなくてはならないときにだけ-対象的に、効果的に-作動して、止まらなければならない。
継続すべては思考。継続があるとき、何も新しいもの・ことはない。
過去に生きるのか、全く違うように生きるのかのどちらか。それが論点全部。
質問者 私が、考えないという概念を弄ぶとき、このゲームをやるのは、思考。
意味と理解と伝達のすべては思考、
私は他の誰かと伝達しあっていないときさえ、私は私自身とそうしている。
私が考えて、なすすべて、私の存在すべては、思考。
思考が楽しみと苦しみ、欲望、あこがれ、解消、決断、結論、希望、恐怖、疑問を創り出す。どうしてそれを乗り越えられるのか。それを乗り越えることを探し求めるのもまた、思考ではないか。
(´・(ェ)・`)
950
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/09(火) 22:26:57 ID:1d4drIFg0
西洋では思考が最も霊妙な心の働きとされているのじゃ。
動物は思考できないから思考は人間だけの能力であり、人と動物を分けるものと考えているからなのじゃ。
しかし、思考は過去の記憶による観念を操作するだけのものであるから、新しいことは発見できないのじゃ。
新しい発見は科学であっても観察から起こるものじゃ。
自己についても観察に拠ってのみ学ぶことが出来るのじゃ。
951
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 23:11:49 ID:CMlQCb8I0
>>950
おー!!!
わかりやすいであります。
いつも、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
952
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 23:12:48 ID:CMlQCb8I0
変化の緊要
思考を終わらせること 2
K 私たちは両方とも、思考が止まっているとき、何か新しいもの・ことがありうる、と言いました。私たちは両方ともその点を明確に見ましたし、それを明確に理解することが思考が終わることなのです。
質問者 しかし、その理解もまた思考です。
K そうでしょうか。あなたは、それが思考であると想定しますが、しかし、現行にはそうなのでしょうか。
質問者 それは、意味をもつ精神的動きで、自分自身への伝達です。
K それが自分自身への伝達であるのなら、それは思考です。しかし、理解は、意味をもつ精神的な動きでしょうか。
質問者 はい、そうです。
K 言葉の意味とその意味の理解は、思考です。それは生のなかで必要です。そこでは思考は効果的に作用しなければなりません。それは技術的な事態です。しかし、あなたはそれを訊ねていないのです。あなたは、思考はあなたの知るとおり生のまさに動きであるのに、どうしてそれが終わりになりうるのかを、訊ねているのです。それは、あなたが死ぬときにだけ、終わりうるのでしょうか。それが本当はあなたの疑問であるでしょう。
質問者 はい。
K それが正しい疑問です。死になさい!過去に、伝統に対して死になさい。
質問者 しかし、どのように。
K 頭脳は思考の起源です。頭脳は質料ですし、思考は質料です。頭脳は - あらゆる挑戦と要求に対するその反応、即答のすべてとともに - その頭脳は静かに止まりうるのでしょうか。それは、思考を終わらせるという問題ではなく、頭脳が完全に静かでありうるのかという疑問です。それは必要なときに十全な能力で行為し、そうでなければ静かであることができるでしょうか。この静けさは物理的な死ではないのです。
頭脳が完全に静かであるとき、何が起きるかを見てください。
何が起きるかを見てください。
質問者 あの空間にはクロウタドリがいました。緑の樹、青い空、お隣でハンマーを打つ人、樹々のなかの風の音、私の心臓の鼓動、体の全的な静けさ。それですべてです。
K クロウタドリの歌っているという認識があったなら、そのとき頭脳は活動的であったし、解釈していたのです。それは静かではありませんでした。これは本当に、ものすごい鋭敏さと修練(を要求するのです。)、成果や楽しめる新しい経験を達成したいというあなたの無意識的な願望によって課されたり、もたらされたりするのではなく、それ自体の修学をもたらす注視を、要求するのです。ゆえに、昼の間に、思考は効果的に健全に作動し、そしてまたそれ自体を注視するのでなければなりません。
質問者 それは容易ですが、それを越えることについてどうでしょう。
K 誰がこの疑問を訊ねているのでしょうか。それは、何か新しいもの・ことを経験したいという願望でしょうか、それとも探究でしょうか。それが探究であるのなら、そのときあなたは思考の営み全体を探究、究明し、完全にそれに親しみ、その仕掛けと微妙さのすべてを知るのでなければなりません。あなたはこれをしたのなら、思考を乗り越えるという疑問は空っぽなものであることを、知るでしょう。思考を乗り越えるとは、思考は何なのかを知ることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
953
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/09(火) 23:18:40 ID:CMlQCb8I0
くまめも2
K 思考が止まっているとき、何か新しいもの・ことがありうる、それを明確に理解することが思考が終わること。
質問者 その理解もまた思考。それは、意味をもつ精神的動きで、自分自身への伝達。
K それが自分自身への伝達であるのなら、それは思考だが、理解は、意味をもつ精神的な動きか。
質問者 はい、そうです。
K あなたは、思考は生のまさに動きであるのに、どうしてそれが終わりになりうるのかを、訊ねている。。。
それは、あなたが死ぬときにだけ、終わりうるのかがあなたの疑問。それが正しい疑問。死になさい!過去に、伝統に対して死になさい。
質問者 しかし、どのように。
K 頭脳は思考の起源。頭脳は静かに止まりうるのか。思考を終わらせるという問題ではなく、頭脳が完全に静かでありうるのかという疑問。頭脳が完全に静かであるとき、何が起きるかを見る。
静けさは、これはものすごい鋭敏さと修練、成果や楽しめる新しい経験を達成したいというあなたの無意識的な願望によって課されたり、もたらされたりするのではなく、それ自体の修学をもたらす注視を、要求する。
ゆえに、昼の間に、思考は効果的に健全に作動し、そしてまたそれ自体を注視するのでなければならない。
質問者 それは容易だがそれを越えることについてどうか。
K 誰がこの疑問を訊ねているのか。それは、何か新しいもの・ことを経験したいという願望か、それとも探究か。
それが探究であるのなら、そのときあなたは思考の営み全体を探究、究明し、完全にそれに親しみ、その仕掛けと微妙さのすべてを知るのでなければならない。
あなたはこれをしたのなら、思考を乗り越えるという疑問は空っぽなものであることを、知る。
思考を乗り越えるとは、思考は何なのかを知ること。
(´・(ェ)・`)
954
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/10(水) 21:42:48 ID:1d4drIFg0
>>951
どういたしまして、またおいでなさい。
955
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/10(水) 21:45:10 ID:1d4drIFg0
気付きや理解は思考ではないのじゃ。
思考に拠らず一瞬にして起こるものじゃ。
他人に対して説明したり、自分で記憶しようとする時に脳がそれを思考して言語にするのじゃ。
それまでは思考は入っていないのじゃ。
956
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/10(水) 22:35:12 ID:LGcECsDQ0
変化の緊要
新しい人間 1
質問者 私は改革者で、社会事業をする者です。世界にあるとてつもない不正を見て、私の一生は改革に捧げてきました。私はかつて共産主義者であったのですが、私はもはや共産主義とはやってゆけません。それは暴政に終わってしまいました。それでもなお私はやはり、人が尊厳と美しさと自由のなか生きて、自然が人に与えたと思われ、人自身はいつも仲間の人から盗んできたと思われる潜在能力を実現することができるように、社会の改革に献身しているのです。アメリカにはある種の自由がありながらも、そこでは標準規格化と宣伝広布が、とても強いのです - マスメディアすべてが、心に対してものすごい圧力を行使するのです。テレビ、(すなわち)人が発明したこの機械的なものの力は、それ自体の性格、それ自体の意志、それ自体の勢力を発達させてきたように、思われます。そして、たぶんだれも - おそらくどんな一つの集団さえも - 社会を感化するためにそれを意図的に用いていないけれども、その動向は私たちの子どものまさに魂を形作るのです。そして、民主主義国すべてにおいて、これは程度はさまざまでも同じです。中国では、人の尊厳や自由への希望は全くないように見えますし、インドでは、政府が弱く、腐敗し、非効果的なのです。世界の社会的不正すべては絶対に変化しなければならないように、私には思われます。私は情熱的にそれを何とかかしたいのですが、それでも、どれにどこから取り組みはじめるべきなのかを知らないのです。
K 改革はさらにいっそうの改革が要るし、これは終わりなき過程です。
そこで、それを違ったように見つめましょう。改革の思考全部をわきに置きましょう。私たちの血から拭い去りましょう。世界を改革したというこの考えを完全に忘れましょう。そのとき、世界中で何が起きているのかを、実際に見ましょう。政党はいつも、制限された計画を持っています - たとえ実現されても、間違いなく危害をもたらすし、そのときもう一度訂正されなくてはならない計画です。私たちはいつも、大変重要な行為として、政治的行為について話していますが、しかし、政治的行為は道ではないのです。それを私たちの心から出してしまいましょう。社会的、経済的改革すべては、この範疇に収まるのです。そのとき、信念、理想主義、観念論、教条主義、いわゆる神の救済法への順応に基づく、宗教的な行為の定式があるのです。これには、権威と受け入れ、服従と自由の全くの拒否とが、関与しているのです。諸宗教は地上の平和について話をするkれども、彼らは分離の要因であるから、無秩序へ貢献するのです。そしてまた教会は、危機の時にいつも何か政治的立場を取ってきました。それで、教会は本当は政治的団体ですし、私たちは政治的行為すべてが分割的であることを見てきました。教会は本当に戦争を拒絶したことがないのです。反対に、教会は戦争を行ってきたのです。それで、政治的定式をわきに置くように、宗教的救済法をわきに置くとき、何が残っているのでしょうか。何をなすべきなのでしょうか。当然に、市民的秩序は維持されなければなりません。水道の蛇口には水がなくてはなりません。市民的秩序を破壊するなら、初めからもう一度出発しなくてはなりません。それで、何をなすべきなのでしょうか。
質問者 それが、私が実際にあなたに訊ねていることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
957
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/10(水) 22:36:50 ID:LGcECsDQ0
くまめも30-1
質問者 私は改革者で、社会事業をする者。世界の社会的不正すべては絶対に変化しなければならないように思われる。情熱的にそれを何とかかしたいが、どれにどこから取り組みはじめるべきなのかを知らない。
K 改革はさらにいっそうの改革が要るし、これは終わりなき過程。
そこで、それを違ったように見つめる。
改革の思考全部をわきに置く。
政治的定式、宗教的救済法をわきに置くとき、何が残っているか。何をなすべきか。
当然に、市民的秩序は維持されなければならない。市民的秩序を破壊するなら、初めからもう一度出発しなくてはならない。それで、何をなすべきなのか。
(´・(ェ)・`)
958
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/11(木) 22:21:20 ID:1d4drIFg0
社会は常に変化しているが本質は変っていないのじゃ。
常に権力闘争の中にあるだけなのじゃ。
それは人を救うことは出来ないのじゃ。
個人が自らを学ぶことで永遠の安楽も得られるのじゃ。
それだけが唯一の人の救いなのじゃ。
959
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/12(金) 17:44:39 ID:d/ENCUjM0
変化の緊要
新しい人間 2
K 根本的変化、全的革命に関心を持ちなさい。ただ一つの革命は、人と人との間、人間存在の間の革命です。それが私たちのただ一つの関心です。この革命には、青写真がなく、イデオロギーがなく、概念的理想郷がないのです。私たちは人々の間の現行の関係という所作を取り、それを根本的に変化させるのでなければなりません。それが本当のことなのです。そして、この革命は即時、無媒介でなければなりません。時間が掛かってはありません。それは、進展 -- すなわち時間 - をとおして達成されないのです。
質問者 それはどういう意味なのでしょうか。歴史的変化すべては、時間のなかで起きてきました。それらのどれ一つとして即時、無媒介ではありませんでした。あなたは、何か全く不可思議なことを提起されています。
K もしあなたが、変化するのに時間を掛けるのなら、変化するのに掛かる時間の間、生は留保されているとお考えでしょうか。生は留保されません。あなたが変化させようとしているものごとすべてが、境遇により、生自体により、修正され、永続化されつつあるのです。それで、それに終わりはないのです。それは、汚れた水で常に満たされつつある貯水槽の水を浄化しようとするのに、似ています。それで、時間はだめなのです。
ここで、何がこの変化をもたらすことになるのでしょうか。それは意志や決意、選択や願望ではありえません。なぜなら、これらすべては、変化しなくてはならない事物の一部分であるからです。それで、私たちは、いつも葛藤、抗争の行為である意志と主張癖の行為でもって、現行として何か可能なのかを、訊ねなければなりません。
質問者 意志と主張癖の行為ではない行為が、あるのでしょうか。
K この疑問を訊ねるかわりに、はるかに深く入りましょう。そもそも変化しなければならないのは、現行として、ただ意志と主張癖の行為のみであることを、見ましょう。なぜなら、関係におけるただ一つの危害は、諸個人の間や諸個人のなかの葛藤ですし、葛藤が意志と主張癖であるからです。こういう行為なく生きるとは、私たちが植物のように生きるという意味ではありません。葛藤が私たちの主な関心です。あなたが触れた社会的病弊は、各人間存在の心のこの葛藤の投影です。ただ一つ可能な変化は、いつか漠然とした未来においてではなく今の、あなたの諸関係すべてにおけるあなた自身の根本的変革です。
質問者 しかし、私はどうすれば私自身のこの葛藤、この矛盾、この抵抗、この条件づけを、完全に根絶できるのでしょうか。私は、あなたの言われる意味は知的には理解できるのですが、私はそれを情熱的に感じるときにだけ変化できるのですが、私はそれを情熱的に感じません。それは私にとって単に観念です。私は心でそれが分かりません。私はこの知的理解によって行為しようとするのなら、私自身のもう一つのもっと深い部分と、葛藤におかれているのです。
K あなたが本当にこの矛盾を情熱的に分かるのなら、そのときまさにその知覚こそが革命です。あなたがあなた自身において、頭と心の間のこの分割が分かる - それを現行として分かり、理論的に構想するのではなく、それが分かるのなら、そのとき、問題は終わりになるのです。世界と変化の必要に情熱的である人は、政治的な活動、宗教的な順応と伝統から自由でなければなりません - それは、時間の重さから自由、過去の重荷から自由、意志の行為すべてから自由、という意味です。これが新しい人間です。ただこれのみが、社会的、心理的革命で、政治的革命でさえもあるのです
(´・(ェ)・`)つ
960
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/12(金) 18:17:32 ID:d/ENCUjM0
くまめも2
根本的変化、全的革命に関心を持て。ただ一つの革命は、人と人との間、人間存在の間の革命。
この革命には、青写真がなく、イデオロギーがなく、概念的理想郷がない。
私たちは人々の間の現行の関係という所作を取り、それを根本的に変化させるのでなければならない。
この革命は即時、無媒介でなければならない。それは、時間をとおして達成されない。
何がこの変化をもたらすことになるのか。
それは意志や決意、選択や願望ではありえない。なぜなら、これらすべては、変化しなくてはならない事物の一部分であるから。
そもそも変化しなければならないのは、現行として、ただ意志と主張癖の行為のみであることを見よう。なぜなら、関係におけるただ一つの危害は、諸個人の間や諸個人のなかの葛藤だし、葛藤が意志と主張癖であるから。
葛藤が私たちの主な関心。
社会的病弊は、各人間存在の心のこの葛藤の投影。
あなたが本当にこの葛藤、矛盾を情熱的に分かるのなら、そのときその知覚こそが革命。
あなたがあなた自身において、頭と心の間のこの分割が分かる、理論的に構想するのではなく、それが分かるのなら、そのとき、問題は終わりになる。
世界と変化の必要に情熱的である人は、政治的な活動、宗教的な順応と伝統から自由でなければならない。それは、時間の重さから自由、過去の重荷から自由、意志の行為すべてから自由、という意味。これが新しい人間。ただこれのみが、社会的、心理的革命で、政治的革命でさえもある。
(´・(ェ)・`)
961
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/13(土) 01:47:39 ID:1d4drIFg0
自分自身が変らなければ何も変らないのじゃ。
世界は自分の心で出来ているからなのじゃ。
自分が変れば世界は変るのじゃ。
それこそ真の革命なのじゃ。
個人の革命が世界の革命なのじゃ。
962
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/13(土) 18:35:59 ID:vgXnTAJE0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 1
互いに疎通しあうことは、たとえ私たちが互いにとてもよく知りあっているとしても、極めて難しいのです。私のとは違った意義をあなたにとって持つかもしれない言葉を、私は使うかもしれません。理解は、私たちが、あなたと私が、同時に同じ水準で出会うとき、訪れるのです。それ [理解]は、人々の間に、夫と妻の間に、親しい友だちの間に、ほんとうの愛情があるときだけ、起きるのです。それがほんとうの親しい交わりです。瞬時の理解は、私たちが同時に同じ水準で出会うとき、訪れるのです。
互いにたやすく、効果的に、決定的な作用をもって親しく交わりあうことは、とても難しいのです。私は、単純であり専門的でない言葉を使っています。なぜなら、私は、どんな専門的な種類の表現も、私たちが自分たちの難しい問題を解決するのを助けてくれそうに思わないからです。それで私は、心理学のでも科学のでも、どんな専門的な用語も使おうとしていません。私は幸いにも、心理学についてのどんな書物も、またどんな宗教書も読んだことがありません。私は、私たちが日常の生活で使うとても単純な言葉によって、より深い意義を伝えられたらと思うのです。しかしあなたはどのように聴くべきかを知らないなら、それはとても難しいのです。
聴くことの芸術があります。ほんとうに聴くことができるには、すべての先入観、前もっての定式化、日常の活動を、捨てるか、脇へ置くべきです。あなたが受け入れる精神状態にあるとき、ものごとはたやすく理解できるのです。あなたのほんとうの注意が何かに向けられているとき、あなたは聴いています。しかし不幸にも、私たちのほとんどは、抵抗の幕 [スクリ-ン] をとおして聴きます。私たちは、宗教的でも霊的・精神的でも、心理的でも科学的でも先入観の幕で-または私たちの日常の諸々の悩み、欲望、恐れの幕で覆い遮られています。そしてこれらを幕として、私たちは聴くのです。ゆえに私たちは、ほんとうは言われていることではなく、自分自身の騒音、自分自身の音を聴くのです。私たちの訓練、諸々の先入観、傾向、抵抗を脇へ置くこと、言葉上の表現を乗り越えて、私たちが瞬時に理解するように聴くことは、極めて難しいのです。それが私たちの困難の一つになろうとしています。
この会話の間、何かあなたの考え方と信念に反することが言われるとしても、ただ聴いてください。抵抗しないでください。あなたが正しいかもしれません。私が間違っているかもしれません。しかし一緒に聴くことと考えることによって、私たちは何が真理であるのかを、見出そうとしているのです。真理は、誰かによってあなたに与えられえません。あなたがそれを発見しなければなりません。そして発見するには、直接の知覚のある精神の状態がなくてはなりません。抵抗、安全装置、保護があるとき、直接の知覚はありません。理解は、有るものに気づくことをとおして訪れます。有るもの、真実、現実を、解釈せず、非難も正当化もせずに正しく知ることが、確かに英知の始まりです。私たちが真理を見失うのは、私たちが自分たちの条件づけに応じ、自分たちの先入観に応じて解釈し、翻訳しはじめるときだけです。結局、それは研究・調査に似ています。何か或るものが何であるか、それがまさに何であるかを知るには、調査が必要です-あなたはそれを自分の気分に応じて翻訳できません。同様に、私たちが有るものを正しく見、観察し、聴き、気づけるなら、そのとき問題は解決されます。そしてそれが、私たちがこれらすべての会話で、やろうとしていることです。私は有るものをあなたに指摘しようとしています-私の夢想に応じてそれを翻訳しようとするのではありません。あなたもまた自分の背景や訓練に応じて、それを翻訳したり解釈したりすべきではありません。
(´・(ェ)・`)つ
963
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/13(土) 18:46:35 ID:vgXnTAJE0
くまめも1-1-1
互いに疎通しあうことは、極めて難しい。
瞬時の理解は、私たちが同時に同じ水準で出会うとき、訪れる。
ほんとうに聴くことができるためには、すべての先入観、前もっての定式化、日常の活動を、捨てるか、脇へ置くべき。
あなたが受け入れる精神状態にあるとき、ものごとはたやすく理解できる。
しかし私たちは、抵抗の幕 [スクリ-ン] をとおして聴く。私たちは、先入観の幕で-または私たちの日常の諸々の悩み、欲望、恐れの幕で覆い遮られている。そしてこれらを幕として、私たちは聴く。ゆえに私たちは、言われていることではなく、自分自身の騒音、自分自身の音を聴く。
私たちは何が真理であるのかを、見出そうとしている。真理は、誰かによってあなたに与えられえない。あなたがそれを発見するには、直接の知覚のある精神の状態が必要。
抵抗、安全装置、保護があるとき、直接の知覚はない。
理解は、有るものに気づくことをとおして訪れる。有るもの、真実、現実を、解釈せず、非難も正当化もせずに正しく知ることが、確かに英知の始まり。私たちが真理を見失うのは、私たちが自分たちの条件づけに応じ、自分たちの先入観に応じて解釈し、翻訳しはじめるときだけ。
私たちが有るものを正しく見、観察し、聴き、気づけるなら、そのとき問題は解決される。私は有るものをあなたに指摘しようとしている。私の夢想に応じてそれを翻訳しようとするのではない。あなたもまた自分の背景や訓練に応じて、それを翻訳したり解釈したりすべきではない。
(´・(ェ)・`)
964
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/13(土) 22:11:45 ID:1d4drIFg0
同じ言語を使うもの同士でも個人の経験で同じ言葉に別の意味を持ってしまっていたりするものじゃ。
そうであるから意志の疎通は難しいのじゃ。
意味の違いで誤解したまま疎通したと思ってたりもするのじゃ。
誰もが自分の創った世界から抜け出せずに声を発しているだけなのじゃ。
965
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/14(日) 01:15:25 ID:tVL255ok0
Kは、数学、科学、技術的な世界の話は別と、解してるようであります。
Kは、物事の見方、考え方に付き、言葉を尽くして、語ろうとしているようであります。
見方、考え方、しかも、記憶を排した、捉え方でありますから、超難しいであります。
記憶によらずにとは、言っても、技術的な知識、記憶は別でありますから、要は、ありのままを捉える方法を説いてるのでありましょうか?
無分別の教えとは、ちょびっと違うようで、ありながら、実は、無分別の捉え方の具体的な実践法の様な気もするであります。
アートマンが、無我に至るための、具体的な実践法であるのと同じような、気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ
966
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/14(日) 18:45:39 ID:6WGU8YJM0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 2
それでは、あらゆるものごとにあるがままに気づくことは、可能ではないのでしょうか。そこから始めると、確かに、理解がありえます。有るものを認めること、気づくこと、発見することが、格闘を終わりにします。私は、自分が嘘つきであることを知り、それが自分の認識する事実であるなら、そのとき、格闘は済んでいます。自らが何であるかを認めること、気づくことが、すでに英知の始まり、理解の始まりです-それが、あなたを時間から解放するのです。時間-年代的な意味ではなく、媒介として、心理的な過程、精神の過程としての時間-の性質をもたらすことは、破壊的ですし、混乱を造り出します。
それで、私たちは有るものを、非難せず、正当化せず、同一化せずに認識するとき、それについての理解を持てるのです。人が一定の条件に、一定の状態にあることを知ることが、すでに解放の過程です。しかし、自分の条件、自分の格闘に気づいていない人は、何か自分以外のものになろうとします-それが習慣を生じさせます。ですから、そのとき、私たちは有るものを検討したい、何が現実であるのかを、どんな偏向も加えず、どんな解釈もつけずに、正しく観察し、気づきたいということを、心に留めておきましょう。有るものに気づくこと、付いていくことは、とてつもなく機敏な精神、とてつもなく柔軟な心を必要とします。なぜなら、有るものは常に動いていて、常に変化を受けているからです。そして精神は、信念に、知識に繋がれているなら、それを追求するのを止めます。有るもののすばやい動きに付いていくのを止めます。有るものは、確かに静止していません-それは、あなたがとてもきっちりと観察するならわかるように、常に動いています。それに付いていくには、あなたはとてもすばやい精神と柔軟な心を必要とします-それは、精神が静止して、信念に、先入観に、同一化に固定されているとき、否定されます。そして干からびた精神と心は、有るものにたやすく、すばやく付いていけません。
人は、あまり多くの議論、あまり多くの言葉で表現しなくても、集団的とともに個人的な混沌、混乱、悲惨があるということに気づいていると、私は思います。それはインドにおいてだけでなく、まさに世界中至るところにあるのです。-中国、アメリカ、イギリス、ドイツ、世界中に、混乱、次第に高まっていく悲しみがあります。それは国家的・民族的なだけではありません。それは特にここというわけではありません。それは世界中なのです。とてつもなく激しい苦しみがありますし、それは個人的なだけではなく集団的です。ですから、それは世界の大惨事です。それをたんに地理的な地域に、地図の色づけされた区域にだけ制限することは、不合理です。なぜなら、そのとき私たちは、個人的とともに世界的規模のこの苦しみの充分な意義を、理解しないであろうからです。この混乱に気づくと、今日、私たちの応答は何でしょうか。私たちはどのように反応するのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
967
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/14(日) 19:00:34 ID:6WGU8YJM0
くまめも1-1-2
あらゆるものごとにあるがままに気づくことは、可能か。有るものを認めること、気づくこと、発見することが、格闘を終わりにする。
自らが何であるかを認めること、気づくことが、すでに英知の始まり、理解の始まり。それが、あなたを時間から解放する。時間-年代的な意味ではなく、媒介として、心理的な過程、精神の過程としての時間-の性質をもたらすことは、破壊的だし、混乱を造り出す。
それで、私たちは有るものを、非難せず、正当化せず、同一化せずに認識するとき、それについての理解を持てる。人が一定の条件に、一定の状態にあることを知ることが、すでに解放の過程。しかし、自分の条件、自分の格闘に気づいていない人は、何か自分以外のものになろうとする。それが習慣を生じさせる。だから、そのとき、私たちは有るものを検討したい、何が現実であるのかを、どんな偏向も加えず、どんな解釈もつけずに、正しく観察し、気づきたいということを、心に留めておく。有るものに気づくこと、付いていくことは、機敏な精神、柔軟な心を必要とする。なぜなら、有るものは常に動いていて、常に変化を受けているから。そして精神は、信念に、知識に繋がれているなら、それを追求するのを止める。有るもののすばやい動きに付いていくのを止める。それは、精神が静止して、信念に、先入観に、同一化に固定されているとき、否定される。そして干からびた精神と心は、有るものにたやすく、すばやく付いていけない。
人は、集団的とともに個人的な混沌、混乱、悲惨があるということに気づいている。それは世界中至るところにある。この混乱に気づくと、今日、私たちの応答は何か。私たちはどのように反応するのか。
(´・(ェ)・`)
968
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/14(日) 22:50:52 ID:1d4drIFg0
>>965
そうじゃ、真理を発見するには直接の知覚のある精神状態でなければならなんというのじゃ。
それこそ記憶や言葉から離れたありのままを捉える観察なのじゃ。
瞑想をしていない者には難しいことではあるがのう。
969
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/14(日) 22:57:32 ID:1d4drIFg0
正しく観察し、気付くためにはとてつもなく機敏な精神、とてつもなく柔軟な心が必要だとクリシュナムルティも説いているのじゃ。
それは瞑想に拠って培われるものじゃ。
しかし、習慣的な瞑想では逆に心は鈍重になり、硬直してしまうというのじゃ。
それが難しいのじゃ。
瞑想にすら囚われずに観察しなければならないのじゃ。
970
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/15(月) 20:00:55 ID:YNKg7Ogo0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 3
政治的、社会的、宗教的な苦しみがあります。私たちの心理的存在全体が混乱しています。そして政治的、宗教的な指導者たちすべては、私たちを失望させてきました。書物すべてはそれらの意義を失ってしまいました。あなたは、バガバッド・ギ-タ-や聖書や、政治や心理学についての最近の論文に向かうかもしれません。そしてあなたは、それらが真理のあの響きを、あの性質を失ってしまっていることを、見つけるでしょう。それらはたんなる言葉にすぎなくなってしまいました。あなた自身は、それらの言葉の反復者ですが、混乱し、不確実ですし、言葉のたんなる反復は、何も伝えません。ゆえに、言葉と書物はそれらの価値を失ってしまいました。すなわち、あなたが聖書とかマルクスとかバガバッド・ギ-タ-を引用するなら、それを引用するあなたは、自分自身が不確実で混乱しているので、あなたの反復は嘘になるのです。なぜなら、そこに書かれていることは、たんなる宣伝にすぎなくなるし、宣伝は真理ではないからです。それで、あなたは反復するとき、自分自身の存在の状態を理解するのを止めたのです。あなたはたんに自分自身の混乱を、権威の言葉でもって覆い隠しているだけです。しかし私たちがやろうとしていることは、この混乱を引用でもって覆い隠してしまうのではなく、それを理解することです。それで、それに対するあなたの応答は何でしょうか。あなたは、このとてつもない混沌、この混乱、この存在の不確実性に対して、どのように応答するのでしょうか。私がそれを議論するにつれて、それに気づいてください。私の言葉にではなく、あなたにおいて活動している思考に、付いていってください。私たちのほとんどは、ゲ-ムに参加することにではなく、観客であることに慣れています。私たちは書物を読みますが、決して書物を書きません。観客であること、フットボ-ルゲ-ムを見物すること、著名な政治家と演説家を見つめることは、私たちの伝統、私たちの国民的、普遍的な習慣になってしまいました。私たちは、たんに見物している部外者にすぎません。そして創造的能力を失ってしまいました。ゆえに私たちは吸収し、参加したいのです。
しかし、あなたはたんに観察しているだけなら、たんに観客にすぎないなら、この会話の意義を全く失うでしょう。なぜなら、これは、あなたが習慣の力から聴くべきである講義ではないからです。私はあなたに、百科事典で拾い上げられる情報を与えようとしていません。私たちがやろうとしていることは、互いの思考に付いていくこと、できるかぎり遠く、できるかぎり深く、私たち自身の感情の暗示、応答を追求すること、です。それでどうか、この原因に対する、この苦しみに対するあなたの応答が何であるかを、見出してください-他の誰かの言葉が何であるのかではなく、あなた自身がどのように応答するのかを。あなたは苦しみにより、混沌により利益を得るなら、経済的、社会的、政治的、心理的、いずれかの利益を、それから引き出すなら、あなたの応答は無関心のものです。ゆえにあなたは、この混沌が継続するとしても、気にしません。確かに、世界に困難があればあるほど、混沌があるほど、人は安全を求めます。あなたはそれに気づいたことはないでしょうか。心理的に、そしてあらゆる点で、世界に混乱があるとき、あなたは、何らかの種類の安全-銀行預金のかイデオロギ-のか、いずれかの安全に、自分自身を囲い込みます。そうでないと、あなたは祈りに向かいます。寺院に行きます-それはほんとうは、世界で起きていることから逃避することです。世界中で、ますます多くの党派が作られています。ますます多くの「主義」が発生しています。なぜなら、混乱があればあるほど、あなたは、指導者を、誰かこの混乱からあなたを導き出してくれる者を、欲しいと思うからです。それであなたは宗教書に、または最近の教師たちの一人に向かうのです。そうでないと、あなたは、問題を解決するように見える体系、左翼や右翼いずれかの体系に応じて行為し、応答します。それが、まさに起きていることです。
(´・(ェ)・`)つ
971
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/15(月) 20:02:06 ID:YNKg7Ogo0
くまめも1-1-3
政治的、社会的、宗教的な苦しみがある。
私たちの心理的存在全体が混乱している。
私たちがやろうとしていることは、この混乱を理解すること。
あなたは、この混沌、この混乱、この存在の不確実性に対して、どのように応答するのか。
あなたの応答が何であるかを、見出してください-他の誰かの言葉が何であるのかではなく、あなた自身がどのように応答するのかを。あなたは苦しみにより、混沌により経済的、社会的、政治的、心理的、いずれかの利益を、それから引き出すなら、あなたの応答は無関心のもの。ゆえにあなたは、この混沌が継続するとしても、気にしない。
確かに、世界に困難、混沌があるほど、人は安全を求める。あなたは、何らかの種類の安全-銀行預金、イデオロギ-、いずれかの安全に、自分自身を囲い込む。そうでないと、あなたは祈りに向かう。それはほんとうは、世界で起きていることから逃避すること。
(´・(ェ)・`)
972
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/15(月) 22:42:11 ID:1d4drIFg0
伝統の教えも言葉になり、長く伝わると意味も失われ、ただの同じ言葉の繰り返しになったりするものじゃ。
聖典の言葉を記憶して何年も唱えればよいとか思ってしまうのじゃ。
更には死人に向かって唱えたりするのは言語道断なのじゃ。
全ての聖典は生きている者のためにあるのであるからのう。
聖典は生きている者に自らの心を追求することを実践せよと教えているのじゃ。
973
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/16(火) 19:48:43 ID:2WdNfqJs0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 4
あなたは、混乱に、まさに有るものに気づいた瞬間、それから逃避しようとします。経済的、社会的、宗教的な苦しみの解決のための体系をあなたに提供するそれらの党派は、最悪です。なぜなら、そのとき、人ではなく体系が重要になるからです-それが宗教的体系でも、左翼や右翼の体系でも。人ではなく体系が重要になります。哲学、観念が重要になります。そして観念、イデオロギ-のために、あなたは進んで全人類を犠牲にしようとします-それがまさに世界で起きていることです。これはたんに私の解釈だけではありません。あなたは観察するなら、それがまさに起きていることであることを見つけるでしょう。体系が重要になってしまったのです。ゆえに、体系が重要になったので、人は、あなたと私は、意義を失うのです。そして宗教的でも社会的でも、左翼のでも右翼のでも-体系の制御者が権威を身につけ、力を身につけて、ゆえにあなたを、個人を犠牲にするのです。それがまさに起きていることです。
では、この混乱、この悲惨の原因は何でしょうか。内側にだけでな外側にも、この悲惨、この苦しみ、戦争の-勃発しようとしている第三次世界大戦の-この恐れと予感は、どうして生じたのでしょうか。その原因は何でしょうか。確かにそれは、すべての道徳的、霊的・精神的価値の崩壊と、すべての感覚的価値、手や精神により作られたものごとの価値の讃美を表示しています。私たちが感覚のものごとの価値、精神や手や機械の産物の価値以外の他の価値を持たないとき、何が起きるでしょうか。私たちがものごとの感覚的価値に意義を与えれば与えるほど、混乱が大きくなるのではないでしょうか。またもや、これは私の理論ではありません。あなたは、あなたの価値、あなたの富、あなたの経済的、社会的存在が、手により、または精神により作られたものごとに基づいているということを見出すのに、書物を引用しなくてもいいのです。それで私たちは、感覚的価値において生き、作用し、自分たちの存在をどっぷり浸しているのです-それは、ものごとが、精神のものごと、手と機械のものごとが重要になった、という意味です。そしてものごとが重要になるとき、信念が優越的に意義深くなるのです-それがまさに世界で起きていること、ではないでしょうか。
こうして、感覚の価値にますます多くの意義を与えることが、混乱をもたらすのです。そして混乱 [の状態] にあると、私たちは、宗教的、経済的でも社会的でも様々な形をとおし、また野心をとおし、力をとおし、真実への探求をとおして、それから逃避しようとします。しかし真実は近いのです。あなたはそれを求めなくてもいいのです。そして真理を求める人は、決してそれを見つけないでしょう。真理は有るものにあります-そしてそれが、その美しさです。しかしあなたは、それを考え出した瞬間、それを求めた瞬間、格闘しはじめます。そして格闘する人は、理解できません。そういうわけで、私たちは静止して、観察して、受動的に気づいていなければならないのです。私たちは、自分たちの生活、自分たちの行動が、いつも破壊の領域の中に、悲しみの領域の中にあるということが、わかります。波のように、混乱と混沌がいつも私たちに襲いかかります。生存の混乱には、間隔がないのです。
現在、私たちが何をしても、混沌につながるように見えます。悲しみと不幸せにつながるように見えます。あなた自身の生を見つめてください。するとあなたは、自分たちの生活がいつも悲しみのきわにあるということが、わかるでしょう。私たちの仕事、私たちの社会的活動、私たちの政治、戦争を阻止するための国々の様々な集まり、すべてがさらなる戦争を生み出します。破壊が、生活のすぐあとに付いてきます。私たちが何をしても、死につながります。それが、現実に起きていることです。
(´・(ェ)・`)つ
974
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/16(火) 20:05:56 ID:2WdNfqJs0
くまめも1-1-4
あなたが、混乱から逃避しようとするとき、苦しみの解決のための体系をあなたに提供する党派は、最悪。なぜなら、そのとき、人ではなく体系が重要になるから。
体系の制御者が権威、力を身につけて、ゆえにあなたを、個人を犠牲にする。
この混乱、悲惨の原因は何か。それは、すべての道徳的、霊的・精神的価値の崩壊と、すべての感覚的価値、手や精神により作られたものごとの価値の讃美を表示している。私たちがものごとの感覚的価値に意義を与えるほど、混乱が大きくなる。
私たちは、感覚的価値において生き、作用し、自分たちの存在をどっぷり浸している。-それは、精神のものごと、手と機械のものごとが重要になった、という意味。
そしてものごとが重要になるとき、信念が優越的に意義深くなる。
混乱 の状態にあると、私たちは、宗教的、経済的でも社会的でも様々な形をとおし、また野心をとおし、力をとおし、真実への探求をとおして、それから逃避しようとする。
しかし真実は近い。真理を求める人は、決してそれを見つけない。真理は有るものにある。それが、その美しさ。しかしあなたは、それを考え出した瞬間、それを求めた瞬間、格闘しはじめる。そして格闘する人は、理解できない。私たちは静止して、観察して、受動的に気づいていなければならない。自分たちの生活、行動が、いつも破壊、悲しみの領域の中にあるということが、わかる。
現在、私たちが何をしても、混沌に、悲しみと不幸せにつながるように見える。私たちが何をしても、死につながる。それが世界中で起きていること。
(´・(ェ)・`)
975
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/16(火) 20:06:53 ID:2WdNfqJs0
うむ。
真理は、こねくりまわされた観念な中には無い。
ありのままの中から、直接受け取るしかない。と、言うようなことでありますかね。
(´・(ェ)・`)b
976
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/16(火) 22:31:35 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
混乱から逃避するために観念の体系が作られ、それがますます混乱を招くのじゃ。
その積み重ねが観念からの離脱を困難にしているのじゃ。
心を静止して、観察して受動的に気付いているとそれに気づくというのじゃ。
そして観念からの厭離も起こるのじゃ。
977
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 00:33:40 ID:2l4.MmVk0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 5
私たちは、混乱と悲しみの波にいつも捕らわれつづけるのではなく、この悲惨をすぐに止められるでしょうか。すなわち、ブッダでもキリストでも、偉大な教師たちがやって来ました。彼らは信仰を受け入れて、彼ら自身を、おそらくは混乱と悲しみから自由にしてきました。しかし彼らは決して悲しみを防ぎませんでした。彼らは決して混乱を止めませんでした。混乱は続きます。悲しみは続きます。あなたは、この社会的、経済的混乱、この混沌、この悲惨を見て、宗教生活と呼ばれるものに引きこもって、世間を捨てるなら、これら偉大な教師たちに加わっていると、感じるかもしれません。しかし世間は、その混沌、その悲惨と破壊、その富める者と貧しい者の永遠の苦しみを続けるのです。それで私たちの問題、あなたのと私の [問題] は、私たちがこの悲惨から瞬時に踏み出せるかどうか、です。世間で生きながら、あなたはその一部であることを拒絶するなら、他の人たちをこの混沌から助け出すでしょう-未来にではなく、明日ではなく、今です。確かにそれが私たちの問題です。戦争が、たぶんもっと破壊的で、もっとおぞましい姿で近づいています。確かに、私たちはそれを防げません。なぜなら、問題点があまりに強すぎ、近迫しすぎているからです。しかし、あなたと私は、即時に混乱と悲惨を知覚できるのではないでしょうか。私たちはそれらを知覚しなければなりません。そのとき他の一人に、真理についての同じ理解を目覚めさせる位置にいるでしょう。言い換えれば、あなたは瞬時に自由になれるでしょうか-なぜなら、それが、この悲惨から抜け出す唯一の道であるからです。知覚は、現在においてだけ、起こりうるのです。しかし、あなたは「私は明日それをやろう」と言うなら、混乱の波があなたに襲いかかるし、そのときいつも混乱に巻き込まれるのです。
(´・(ェ)・`)つ
978
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 00:36:17 ID:2l4.MmVk0
くまめも1-1-5
私たちは、混乱と悲しみの波にいつも捕らわれつづけるのではなく、この悲惨をすぐに止められるか。
ブッダやキリストは信仰を受け入れて、彼ら自身を、おそらくは混乱と悲しみから自由にした。
しかし彼らは決して悲しみを防がず、混乱を止めなかった。
私たちの問題は、私たちがこの悲惨から瞬時に踏み出せるかどうか。
世間で生きながら、あなたはその一部であることを拒絶するなら、他の人たちをこの混沌から助け出す。未来にではなく、今。
あなたと私は、即時に混乱と悲惨を知覚できる。そのとき他の一人に、真理についての同じ理解を目覚めさせる位置にいる。言い換えれば、あなたは瞬時に自由になれるか-なぜなら、それが、この悲惨から抜け出す唯一の道であるから。
知覚は、現在においてだけ、起こりうる。しかし、あなたは「私は明日それをやろう」と言うなら、混乱の波があなたに襲いかかるし、そのときいつも混乱に巻き込まれる。
(´・(ェ)・`)
979
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 00:38:45 ID:2l4.MmVk0
Kは、釈迦の信仰とは、梵我一如のことと、理解していたのでありますかね。
その上で、その実践法を説こうとチャレンジしてるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)
980
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/17(水) 22:55:23 ID:1d4drIFg0
↑知っていたじゃろう。
真の実践法を教えたいと思っていたのじゃ。
理解することも困難であるがのう。
瞬時に自由になれるというのじゃ。
自己に気付くことが出来ればそれは瞬時に起こるのじゃ。
明日に引き伸ばすことはできないのじゃ。
今ここでのみ知覚は働くのであるからのう。
981
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 23:31:18 ID:4uL.bxCk0
最初と最後の自由 第一部
第一章 導入 6
そこで、あなた自身が真理を瞬時に知覚し、ゆえに混乱を終わりにするときのその状態に至ることは、可能でしょうか。それは可能ですし、それが唯一の可能な道であると、私は言います。それは仮定や信念に基づいてではなく、できるし、やらなければならないと、私は言います。このとてつもない革命をもたらすこと-それは、資本家を取り除いて、もう一つの集団を据えるという革命ではありません-このすばらしい変容、すなわち唯一の真の革命をもたらすことが、問題なのです。一般に革命と呼ばれるものは、たんに左翼の観念に応じた右翼の修正か継続です。左翼は結局、修正された形での右翼の継続です。右翼が感覚的価値に基づいているなら、左翼は、程度や表現においてだけ異なった同じ感覚的価値の継続でしかありません。ゆえに真の革命は、あなたが、個人が、他の一人との関係において気づくときだけ、起こりうるのです。確かに、他の一人と [の関係] 、あなたの妻と、子どもと、上司と、隣人との関係において、あなたが何であるかが、社会です。社会は、それ自体では存在しません。社会は、あなたと私が、私たちの関係において造り出したものです。それは、私たち自身の内側の心理的状態すべての外側の投影です。それで、あなたと私が自分たち自身を理解せずに、たんに外部、すなわち内部の投影であるものを変化させるだけなら、何の意義も持たないのです。すなわち私があなたとの関係において私自身を理解しないかぎり、社会における意義ある変更や修正はありえないのです。自分の関係において混乱していると、私は、あるがままの自分の複製、外側の表現である社会を造り出します。これは明白な事実です。それを私たちは議論できます。社会、外側の表現が私を生み出したのか、それとも私が社会を生みだしたのかどうかを、私たちは議論できます。
ゆえに、他の一人との関係におけるあるがままの私が社会を造り出すということ、そして私自身を根本的に変容させることなしに、社会の本質的作用の変化はありえないということは、明白な事実ではないでしょうか。私たちは、社会の変容のために体制・体系に頼るとき、たんに問題を回避しているだけです。なぜなら、体制・体系は、人を変容させられないからです。人がいつも体制・体系を変容させるのです。それは歴史が示しています。私があなたとの関係において、私自身を理解するまでは、私が混沌、悲惨、破壊、恐れ、残忍性の原因です。私自身を理解することは、時間の事柄ではありません。私は私自身を、まさにこの瞬間に理解できるのです。私は、「私は私自身を明日、理解するだろう」と言うなら、混沌と悲惨をもたらしています。私の行動は破壊的です。私は理解する「だろう」と言った瞬間、時間の要素をもたらし、そのためすでに混乱と破壊の波に捕らわれているのです。理解は、明日ではなく、今です。明日は、怠けた精神、ものぐさな精神、興味のない精神のためにあるのです。あなたは何かに興味があるとき、それを瞬時にやります。即時の理解、即時の変容があります。あなたは今変わらないなら、決して変わらないでしょう。なぜなら、明日起きる変化は、たんに修正にすぎないからです。それは変容ではありません。変容は即時に起こりうるだけです。革命は明日ではなく、今です。
それが起きるとき、あなたは完全に問題なしです。というのは、そのとき自己はそれ自身について悩んでいないからです。そのとき、あなたは破壊の波を越えています。
(´・(ェ)・`)つ
982
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 23:41:01 ID:4uL.bxCk0
くまめも1-1-6
あなた自身が真理を瞬時に知覚し、ゆえに混乱を終わりにすることは、可能だし、それが唯一の可能な道。
真の革命は、個人が、他の一人との関係において気づくときだけ、起こりうる。
社会は、それ自体では存在しない。社会は、あなたと私が、私たちの関係において造り出したもの。それは、私たち自身の内側の心理的状態すべての外側の投影。それで、あなたと私が自分たち自身を理解せずに、たんに外部、すなわち内部の投影であるものを変化させるだけなら、何の意義も持たない。すなわち私があなたとの関係において私自身を理解しないかぎり、社会における意義ある変更や修正はありえない。自分の関係において混乱していると、私は、あるがままの自分の複製、外側の表現である社会を造りだす。
私たちは、社会の変容のために体制・体系に頼るとき、たんに問題を回避しているだけ。なぜなら、体制・体系は、人を変容させられないから。私があなたとの関係において、私自身を理解するまでは、私が混沌、悲惨、破壊、恐れ、残忍性の原因。
私自身を理解することは、時間の事柄ではない。私は私自身を、まさにこの瞬間に理解できる。私は、「私は私自身を明日、理解するだろう」と言うなら、混沌と悲惨、混乱と破壊をもたらしている。理解は、明日ではなく、今。あなたは何かに興味があるとき、それを瞬時にやる。即時の理解、即時の変容がある。あなたは今変わらないなら、決して変わらない。なぜなら、明日起きる変化は、たんに修正にすぎないから。それは変容ではない。変容は即時に起こりうるだけ。
それが起きるとき、あなたは完全に問題なし。というのは、そのとき自己はそれ自身について悩んでいないから。そのとき、あなたは破壊の波を越えている。
(´・(ェ)・`)
983
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/17(水) 23:45:36 ID:4uL.bxCk0
うむ。社会は、実際には無い。
即時に他との関係に於いて自分を理解すれば、一切の苦は、消え去る。
明日から、どのように理解すれば良いかの、お話しが、始まるのでありましょう。楽しみであります。
(´・(ェ)・`)b
(´・(ェ)・`)
984
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/18(木) 22:16:19 ID:1d4drIFg0
左翼や右翼の革命とやらも所詮は同じ権力争いのためのイデオロギーなのじゃ。
それは何も変えることは出来ないのじゃ。
人を真に変えることができるのは、今ここでしかないのじゃ。
今ここで自分自身を理解することで全ての問題も消えるのじゃ。
985
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/18(木) 23:28:45 ID:KCqMKKeM0
最初と最後の自由 第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 1
私たちのほとんどが求めているのは何でしょうか。私たち各自が欲しいのは何でしょうか。特に、この落ち着きのない世界では、あらゆる人が、何らかの種類の平和、何らかの種類の幸せ、避難所を見つけようとしていますが、確かに、見出すことが重要ではないでしょうか-私たちが求めようとしているのは何なのか、私たちが発見しようとしているのは何なのかを。たぶん、私たちのほとんどは、何らかの種類の幸せ、何らかの種類の平和を求めているのです。騒乱、戦争、競争、闘争で苦しめられている世界で、私たちは何らかの平和がありうる避難所が欲しいのです。それが、私たちのほとんどが欲しいものであると、私は思います。それで私たちは追求し、一人の指導者からもう一人へ、一つの宗教組織からもう一つへ、一人の教師からもう一人へと向かうのです。
そこで、私たちが求めているのは幸せでしょうか、それとも私たちが求めているのは、そこから私たちが幸せを引き出したいと願うところの何らかの種類の満足なのでしょうか。幸せと満足との間には違いがあります。あなたは幸せを求められるでしょうか。おそらく、満足は見つけられますが、確かに幸せは見つけられません。幸せは派生的です。それは、何か他のものの副産物です。それで、私たちは、何か多大のまじめさ、注意、思考、気づかいを要求するものに、私たちの精神と心を注ぐ前に、見出さなければならないのではないでしょうか-私たちが求めているのは何なのか、それは幸せなのか、満足なのかどうかを。残念ながら、私たちのほとんどは満足を求めていると、私は思います。私たちは満足したいのです。私たちは探求の終わりに充足感を見つけたいのです。
結局、平和を求めているなら、それはとてもたやすく見つけられます。何らかの種類の大義に、 [一つの] 観念に、盲目的に身を捧げ、そこに避難できます。確かにそれは問題を解決しません。閉鎖的な観念でのたんなる孤立は、葛藤・抗争からの解放ではありません。それで、私たちは見出さなければならないのではないでしょうか-外側とともに内側にも、私たち各自が欲しいのは何なのかを。私たちはその事について明確であるなら、そのときどこへも、どんな教師にも、どんな教会にも、どんな組織にも行かなくていいのです。ゆえに私たちの困難は、自分たちの意図に関して自分たち自身において明確であること、ではないでしょうか。私たちは明確になれるでしょうか。そしてその明確さは、探求をとおし、他の人たち-最高の教師から街角を曲がった教会のふつうの説教師に至るまで-の言うことを見出そうとすることをとおして訪れるでしょうか。あなたは見出すために、誰かのところへ行かなければならないでしょうか。けれどもそれが、私たちのしていることではないでしょうか。私たちは無数の書物を読みます。私たちは多くの会合に出席して議論します。私たちは様々な組織に加わります-それにより、私たちの生の葛藤・抗争の、悲惨さの治療を見つけようとしています。または、私たちはそのすべてをしないとしても、見つけたと思うのです-すなわち私たちは、特定の組織、特定の教師、特定の書物が、私たちを満足させてくれると言うのです。私たちはそのなかに、あらゆる欲しいものを見つけたのです。そしてそこにとどまって、凝結し、閉じこめられるのです。
私たちは、このすべての混乱をとおして、何か永久的なもの、何か永続するもの、何か真実、神、真理と呼ばれるものを、求めていないでしょうか-何でも好きなものです。名前は大事ではありません。言葉は実体ではありません。確かです。それで、言葉に捕らわれないようにしましょう。それは専門の講師に任せておきましょう。私たちのほとんどには、何か永久的なものへの探求があるのではないでしょうか-何か私たちがすがりつけるもの、何か私たちに保証、希望、永続する熱狂、永続する確実性を与えてくれそうなものへの。なぜなら、私たち自身があまりに不確実であるからです。私たちは自分たち自身を知らないのです。私たちは、事実について、書物が言ってきたことについて、たくさん知っています。しかし私たちは自分たち自身では知らないのです。私たちは直接の経験を持っていないのです。
(´・(ェ)・`)つ
986
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/18(木) 23:58:49 ID:KCqMKKeM0
くまめも1-2-1
苦しめられている世界で、私たちは何らかの平和がありうる避難所が欲しい。
私たちは探求の終わりに充足感を見つけたい。
結局、平和を求めて、何らかの種類の大義に、 一つの観念に、盲目的に身を捧げ、そこに避難することは、問題を解決しない。閉鎖的な観念でのたんなる孤立は、葛藤・抗争からの解放ではない。
それで、私たちは外側とともに内側にも、私たち各自が欲しいのは何なのかを見出さなければならない。私たちはその事について明確であるなら、そのときどこへも、行かなくていい。ゆえに私たちの困難は、自分たちの意図に関して自分たち自身において明確であること。その明確さは、探求をとおし、他の人たちの言うことを見出そうとすることをとおして訪れるか。あなたは見出すために、誰かのところへ行かなければならないのか。
私たちは、特定の組織、教師、書物が、私たちを満足させてくれると言う。そのなかに、あらゆる欲しいものを見つけた。そしてそこにとどまって、凝結し、閉じこめられる。
このすべての混乱をとおして、何か永久的なものへの、何かすがりつけるもの、何か私たちに保証、希望、永続する熱狂、永続する確実性を与えてくれそうなものへの探求がある。なぜなら、私たち自身があまりに不確実であるから。私たちは自分たち自身を知らない。私たちは直接の経験を持っていない。
(´・(ェ)・`)
987
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/19(金) 00:01:54 ID:KCqMKKeM0
苦からの避難所はない。
自分の外側にはない。
自分を知るしかない。
(´・(ェ)・`)b
988
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/19(金) 23:01:44 ID:1d4drIFg0
社会的な組織や団体は闘争と混乱しかもたらさないのじゃ。
孤独と不安から人々はそれらにしがみつき、ますます混乱して行くのじゃ。
そのような組織や団体には真の自己を知る道は無いのじゃ。
組織よりも書物にある言葉よりも今ここにある自分を知ることだけが真の幸福への道なのじゃ。
989
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/20(土) 10:48:15 ID:a5QLuWbE0
最初と最後の自由 第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 2
そして永久的と呼ばれるのは何でしょうか。私たちが求めているもの、すなわち私たちに永久性を与えてくれるだろう、または与えてくれるだろうと願うものは、何でしょうか。私たちは、永続する幸せ、永続する満足、永続する確実性を求めていないでしょうか。私たちは、何か永遠に続くであろうもの、私たちを満足させてくれそうなものが、欲しいのです。私たちは、言葉と文句すべてを剥ぎ取って、現実にそれを見つめるなら、これが、私たちの欲しいものなのです。私たちは永久の楽しみ、永久の満足が欲しいのです-すなわち神、真理と呼ばれるもの、何であれ、です。
たいへん結構です。私たちは楽しみが欲しいのです。おそらく、それ [その言い方] は、それ [私たちの実状] をとても粗雑に述べているかもしれません。しかしそれが、現実に私たちの欲しいものです-私たちに楽しみを与えてくれそうな経験、明日によって萎んでしまわない満足、です。そして私たちは色々な満足を実験してきました。そしてそれらはすべて消えてしまいました。そして私たちは今や、真実に、神に、永久の満足を見つけたいと願うのです。確かにそれが、私たちが皆求めているものです-利口な者と愚かな者も、理論家と何かを求めて奮闘している実際家も、です。そして永久の満足はあるのでしょうか。何か永続するようなものがあるのでしょうか。
そこで、あなたは、永久の満足を求めて、それを神または真理または何であれ、 [そう] 呼ぶなら-名前は大事ではありません-確かに、あなたは理解しなければならないのではないでしょうか-あなたが求めているものを、です。あなたは、「私は永久の幸せ-神または真理または何でも好きなもの-を求めている」と言うなら、また探求している者、探求者、求める者をも理解しなければならないのではないでしょうか。なぜなら、永久の安全、永久の幸せといったものは、ないかもしれないからです。真理は、何か全く違ったものであるかもしれません。それは、あなたが見、考え、定式化できるものとは全く違っていると、私は思います。ゆえに、私たちは何か永久のものを求める前に、求める者を理解することが、明白に必要ではないでしょうか。求める者は、彼が求めるものとは違っているのでしょうか。あなたが「私は幸せを求めている」と言うとき、求める者は、彼の探求の対象とは違っているのでしょうか。思考者は、彼の思考とは違っているのでしょうか。それらは分離した過程というより、むしろ共同の現象ではないでしょうか。ゆえに、それが本質的 [・不可欠] ではないでしょうか-彼 [求める者] が求めているのは何なのかを、あなたが見出そうとする前に、求める者を理解することが、です。
それで、私たちは、平和、幸せ、真実、神、何であれ、他の誰かによって与えてもらえるのかどうかを、ほんとうにまじめに奥深く、自分たち自身に訊ねる時点に至らなければなりません。この絶えざる探求、この憧れが、あのとてつもない真実の感覚、あの創造的存在を-すなわち私たちがほんとうに自分たち自身を理解するとき訪れるものを、私たちに与えられるでしょうか。自己認識は、探求をとおし、他の誰かに付いていくことをとおし、何か特定の組織に属することをとおし、書物を読むことなどをとおして、訪れるでしょうか。結局、それが主要な論点ではないでしょうか-私が私自身を理解しないかぎり、私は思考のための基礎を持たないし、私のすべての探求はムダになるだろうということが、です。私は幻影の中に逃避できます。私は競争、闘争、格闘から逃げ出せます。私は他の一人を崇拝できます。私は他の誰かをとおして、自分の救いを捜せます。しかし、私が自分自身について無知であるかぎり、私が自分自身の総合過程に気づかないかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たないのです。
(´・(ェ)・`)つ
990
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/20(土) 10:49:36 ID:a5QLuWbE0
くまめも1-2-2
私たちは何か永久のものを求める前に、求める者を理解することが、必要。求める者は、彼が求めるものとは違っているのか。あなたが「私は幸せを求めている」と言うとき、求める者は、彼の探求の対象とは違っているのか。思考者は、彼の思考とは違っているのか。それらは分離した過程というより、むしろ共同の現象ではないか。ゆえに、彼 [求める者] が求めているのは何なのかを、見出そうとする前に、求める者を理解することが、本質的 [・不可欠] ではないか。
それで、私たちは、平和、幸せ、真実、神、何であれ、他の誰かによって与えてもらえるのかどうかを、奥深く、自分たち自身に訊ねる時点に至らなければならない。
自己認識は、探求をとおし、他の誰かに付いていくこと、何か特定の組織に属すること、書物を読むことなどをとおして、訪れるのか。結局、私が私自身を理解しないかぎり、私は思考のための基礎を持たないし、私のすべての探求はムダになるだろうということが、主要な論点ではないか。
私が自分自身について無知であるかぎり、私が自分自身の総合過程に気づかないかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たない。
(´・(ェ)・`)
991
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/20(土) 11:11:25 ID:saJEBlPE0
思考者は、彼の思考と分離した過程ではなく、共同の現象。ゆえに、求めているのは何なのかを、見出そうとする前に、求める者を理解することが不可欠。自己認識は、外からは訪れない。
私が自分自身について無知であるかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たない。
(´・(ェ)・`)
992
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/20(土) 23:47:28 ID:1d4drIFg0
自分自身を理解しない限り全ての探求は無駄になるというのじゃ。
真に理解すべきは自分自身なのじゃ。
何かを求める者そのものが自分自身なのじゃ。
それを理解するべきなのじゃ。
993
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 00:36:32 ID:Vph/N6Jw0
最初と最後の自由 第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 3
しかし、それは、私たちが最も欲しがりそうにないものです-私たち自身を知ることが、です。確かに、それが、私たちがその上に築ける唯一の基礎です。しかし、私たちは築ける前に、変化させうる前に、非難したり破壊したりできる前に、私たちのあるがままを知らなければなりません。出かけて行って、教師たち、導師(グル)たちを求め、取り替え、ヨ-ガを実習し、呼吸 [法] をし、儀式を執り行い、大師たちに付いていくこと、その他すべては、全く役立たないのではないでしょうか。それは意味がありません-たとえ私たちの付いていく人たちそのものが「あなた自身を研究しなさい」と言うとしても、です。なぜなら、私たちのあるがままが、世界であるからです。私たちが卑小で、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であるなら-それが、私たちが自分たちのまわりに造り出すものです。それが、私たちの生きている社会です。
私たちは、真実を見つけ、神を見つける旅に出かける前に、行為できる前に、他の一人とどんな関係でも-すなわち社会を持てる前に、初めに自分たち自身を理解しはじめることが、本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。まじめな人は、特定の目標にどのように達するかにではなく、初めに、これに完全に関心のある人であると、私は考えます。なぜなら、あなたと私が、私たち自身を理解しなければ、どうして私たちは行動において、社会に、関係に、私たちがするどんなことにも、変容をもたらせるでしょうか。そして、それは明白に、自己認識は関係と対立するとか、関係から孤立するとかいう意味ではありません。それは明白に、大衆とは対照的に、他の一人と対照的に、私、個人の強調という意味ではありません。
そこで、あなた自身を知ることなく、あなた自身の考え方と、なぜあなたが一定の事を考えるのかを知ることなく、あなたの条件づけの背景と、なぜあなたが芸術と宗教について、あなたの国とあなたの隣人について、あなた自身について一定の信念を持つのかを知ることなく、どうして何かについて真に考えられるでしょうか。あなたの背景を知ることなしに、あなたの思考の実体と、それがどこから来るのかを知ることなしには、確かに、あなたの探求は全く無効であり、あなたの行動は意味を持たないのではないでしょうか。あなたがアメリカ人であってもインド人であっても、またあなたの宗教が何であっても、何の意味もありません。
(´・(ェ)・`)つ
994
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 00:49:14 ID:Vph/N6Jw0
くまめも1-2-3
私たちのあるがままが世界である。
真実を見つける旅に出かける前に、自身を理解しはじめることが、不可欠。
自己認識は関係と対立するとか、関係から孤立するとかいう意味ではない。個人の強調という意味ではない。
(´・(ェ)・`)
995
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/21(日) 22:56:53 ID:1d4drIFg0
自分を知ることは多くの者が嫌がるものじゃ。
今まで逃避してきた苦を見る事になるからのう。
しかし、自分を知らなければ全ての世界を知らないことになるのじゃ。
世界とは自分の心が作り出すものであるからのう。
自分も世界も知らなくては、闇から闇に移り住むだけの人生になるのじゃ。
996
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 23:23:58 ID:0a9GWmog0
最初と最後の自由 第一部
第二章 私たちは何を求めているのか 4
私たちは、生の最終目的が何であるか、戦争、国家的・民族的敵対、葛藤・抗争、全体的紛糾状態-そのすべてがどういう意味なのかを見出せる前に、自分たち自身をもって始めなければならないのではないでしょうか。それはとても単純に聞こえます。しかし、それは極めて難しいのです。自分自身に付いて行くには、自分の思考がどのように作動するのかを見るには、とてつもなく鋭敏でなければなりません。そのため自分自身の考えることと応答と感情の複雑さに対してますます鋭敏になりはじめるにつれて、自分自身にだけでなく、関係のなかにある他の人に、より大きな気づきを持ちはじめるのです。自分自身を知ることは、行動すなわち関係において自分自身を研究することです。困難は、私たちがあまりに性急であることです。私たちは成功したいのです。私たちは目的に到達したいのです。そのため、学び、観察するための機会を、自分自身に与える時間もまたきっかけもないのです。あるいはまた私たちは色々な活動-生計を立てること、子供たちを育てること-に関与してきたり、また色々な組織の一定の責任を引き受けてきました。私たちは異なった仕方でこんなにも関与してきたので、そのため、観察し、学ぶべき自己反省のための時間がほとんど何もないのです。それでほんとうは、反動の責任は、他の人にではなく、自分自身にかかっているのです。世界中での「グル(導師)」と彼らの体系の追求、あれこれについての最新の書物を読むことなどは、私には全く空しく、全く無効に見えます。というのは、あなたは地球中をさすらうとしても、自分自身に帰って来なければならないからです。そして、私たちのほとんどは、総合的に自分自身に気づいていないので、自分たちの考えること、感じること、行うことの過程を、明確に見はじめることは、極めて難しいのです。
あなたは自分自身を知れば知るほど、明確になるのです。自己認識には終わりがありません-あなたは達成に至りません。あなたは結論に至りません。それは終わりのない川です。それを学ぶにつれ、それにますます入って行くにつれて、平和を見つけるのです。精神が平静であるときだけ-課された自己修練をとおしてではなく、自己認識をとおして-そのときだけ、その平静さに、その静けさに、真実が生じうるのです。至福がありうるのは、創造的行動がありうるのは、そのときだけです。そして、この理解なしに、この経験なしに、たんに書物を読むこと、講話に出席すること、宣伝をすることは、あまりに幼稚である-あまり意味のないただの活動であるように、私には見えます。ところが、自分自身を理解し、それによりあの創造的幸せ、あの何か精神のものではないものの経験をもたらすことができるなら、そのときおそらく、私たちのまわりの即時の [・当面の] 関係に、そのため私たちの生きている世界に、変化がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ
997
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 23:27:30 ID:0a9GWmog0
くまめも1-2-4
自分の思考がどのように作動するのかを見るには、鋭敏でなければならない。
鋭敏になるにつれて、自分自身にだけでなく、関係のなかにある他の人に、大きな気づきを持ちはじめる。
自分自身を知ることは、行動すなわち関係において自分自身を研究すること。
自己認識には終わりがない。それを学ぶにつれ、平和を見つける。精神が平静であるときだけ、真実が生じうる。至福がありうる。
自分自身を理解し、それによりあの創造的幸せ、あの何か精神のものではないものの経験をもたらすことができるなら、そのときおそらく、私たちのまわりの即時の [・当面の] 関係に、そのため私たちの生きている世界に、変化がありうる。
(´・(ェ)・`)
998
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/21(日) 23:39:55 ID:0a9GWmog0
>>995
そうなのであります。
集中の瞑想に慣れて、記憶のおもちゃ箱が整理されて、心が鎮まることの安らぎを知ってしまうと、自分の本心をほじくり返して、苦しむことを避けたくなってしまうのでありますが、
実は、そうではないのであります。
本心を知ろうとする、覚悟さえできて、負の思いをしっかりと気づき、見据えることさえできれば、苦は消えてしまうのであります。簡単なことなので、カエルくんにも教えてあげたいのでありますが、難しいようであります。
(´・(ェ)・`)っ
999
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/22(月) 23:26:07 ID:1d4drIFg0
↑そのようなこともあるじゃろう。
しかし、その境地も永遠のものではないのじゃ。
死と共に失われてしまうものじゃ。
永遠の幸福を手に入れるには更なる境地を求めなければならないのじゃ。
階段を昇るには下の段から離れて上にいかなければならないようなものじゃ。
永遠に至るまで更に昇り続けるのじゃ。
1000
:
鬼和尚
◆qx3.49AOzA
:2020/06/22(月) 23:28:51 ID:1d4drIFg0
世界の全ての意味を知るためには自分自身から始めなければならないのじゃ。
どのような聖者の教えを聞こうと、正しい教えは必ず自分自身を知ること教えられるのじゃ。
それならば今ここで自分自身を知ることに勤めたほうが善いのじゃ。
世界中をさまよって正しい教えを探す必要は無いのじゃ。
1001
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 00:08:50 ID:a0VRmIUo0
最初と最後の自由 第一部
第三章 個人と社会 1
私たちのほとんどが直面する問題は、個人はたんに社会の道具にすぎないのか、それとも社会の目的なのか、ということです。個人としてのあなたと私は、社会と政府によって使われ、指令され、教育され、制御され、一定の様式に会わせて形作られるべきものなのでしょうか。それとも社会、国家は個人のために存在しているのでしょうか。個人は社会の目的なのでしょうか。それとも彼はたんに教えられ、搾取 [・利用] され、戦争の道具として屠殺されるべき操り人形にすぎないのでしょうか。それが、私たちのほとんどが直面している問題です。それが世界の問題です-個人は、たんなる社会の道具、 [諸々の]影響力に型どられるべきおもちゃにすぎないのか、それとも社会は個人のために存在しているのか、ということが、です。
あなたはこれをどのように見出そうとしているでしょうか。それは深刻な問題なのではないでしょうか。個人がたんに社会の道具にすぎないなら、そのとき社会のほうが個人よりはるかに重要です。それが真実であるなら、そのとき私たちは個性をあきらめて、社会のために働かなければなりません。私たちの教育体系全体が全く革命化され、個人は、使われ、破壊されるべき道具に変えられ、粛清され、取り除かれなければなりません。しかし社会が個人のために存在しているなら、そのとき社会の機能 [・役割] は、彼をどんな様式にも順応させることではなくて、彼に自由の感じ、衝動を与えることです。それで私たちは、どちらが偽りなのかを見出さなくてはなりません。
あなたはこの問題をどのように探究するのでしょうか。それは命がけの問題なのではないでしょうか。それは、右翼のでも左翼のでもどんなイデオロギ-にも依存していません。それが一つのイデオロギ-に依存しているなら、そのときそれはたんに意見の事柄にすぎません。観念はいつも憎しみ、混乱、葛藤・抗争を産み出します。あなたは、右翼や左翼の書物や、聖典に依存するなら、そのとき、ブッダのでもキリストのでも資本主義、共産主義のでも何でも、たんなる意見に依存するのです。それらは観念です、真理ではありません。事実は決して否定できません。事実についての意見は否定できます。私たちはその事柄の真理が何であるかを発見できるなら、意見に依存せずに行動することができるでしょう。ゆえに、他の人たちが言ったことを切り捨てることが必要なのではないでしょうか。左翼の人や他の指導者たちの意見は、彼らの条件づけから出てきたものです。それであなたは、自分の発見のために書物で見つけられることに依存するなら、たんに意見に縛られているにすぎません。それは知識の事柄ではありません。
どのようにしてこれについての真理を発見すべきでしょうか。それに従って、私たちは行動するでしょう。これの真理を見つけるには、宣伝すべてからの自由がなければなりません。それは、あなたが意見に依存しないで問題を見つめる能力がある、という意味です。教育の仕事全体は個人を目覚めさせることです。これの真理がわかるには、あなたはとても明晰でなくてはならないでしょう。それは、あなたが指導者に依存できないという意味です。あなたは指導者を選択するとき、混乱 [の中] からそうするのです。それであなたの指導者もまた混乱しているのです。それが世界で起きていることです。ゆえにあなたはあなたの指導者に導きや助けを頼れないのです。
(´・(ェ)・`)つ
1002
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 00:10:24 ID:a0VRmIUo0
くまめも1-3-1
問題をイデオロギ-に依存して、探求するなら、それはたんに意見の事柄。観念はいつも憎しみ、混乱、葛藤・抗争を産み出す。
事実は決して否定できない。事実についての意見は否定できる。
私たちはその事柄の真理を発見できるなら、意見に依存せずに行動することができる。
どのようにしてこれについての真理を発見すべきか。それに従って、私たちは行動する。これの真理を見つけるには、宣伝すべてからの自由がなければならない。それは、意見に依存しないで問題を見つめる能力がある、という意味。教育の仕事全体は個人を目覚めさせること。これの真理がわかるには、とても明晰でなくてはならない。それは、あなたが指導者に依存できないという意味。
(´・(ェ)・`)
1003
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 00:15:09 ID:a0VRmIUo0
>>999
くまのは、境地などと、言えるものでは全然無いであります。
瞑想の、超入り口のところであります。
それでも、くまでも、楽になれたのだから、誰でも、くま程度には楽になれると思うのであります。
(´・(ェ)・`)つ
1004
:
避難民のマジレスさん
:2020/06/23(火) 08:22:45 ID:wCRrWiVM0
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/
(´・(ェ)・`)b 次スレ
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