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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
205
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/16(月) 23:01:39 ID:1d4drIFg0
時間があるとか、空間があるとか認識するのも観念なのじゃ。
実際にはそれは存在しないのじゃ。
物質の存在と物質の変化を解釈するための観念が空間と時間なのじゃ。
全て一つであるならば時間も空間も無いのじゃ。
206
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/16(月) 23:50:29 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話128
1936年1月5日
数人のフランス人男女とアメリカ人がアーシュラマムを訪れた。
彼らはシュリー・バガヴァーンにいくつかの質間をした。
そのうちの一人が尋ねた。
「西洋に対する東洋のメッセージとは何でしょうか?」
マハルシ
すべてが同じ目標に向かっているのです。
別の質間にシュリー・バガヴァーンが答えた。
マハルシ
あなたはどのように「私は在る」と言うでしょう?
あなた自身を探すのに明かりが必要でしょうか?
それとも、あなたはそれを本の中に見いだしたのですか?
質問者
経験によってです。
マハルシ
そうです。
経験がそれにふさわしい言葉です。
知識は主体と対象を含んでいます。
しかし経験は終わりのない永遠なるものなのです。
207
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/17(火) 22:57:10 ID:1d4drIFg0
知識による認識は認識自体を越えることは出来ないのじゃ。
知識も認識の中で働くものであるからのう。
体験によって人は新しい変容を受け入れることが出来るのじゃ。
気付くという体験によって悟りも訪れるのじゃ。
208
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/17(火) 23:51:26 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話129
1936年1月6日
以前にB・V・ナラシンハ・スワミとともに仕事をしたことがあり、ヴィシシュタアドヴァイタ(限定不二一元論)関係の書籍の著者でもある老紳士がここを初めて訪れた。
彼は転生について質問し、微細身(リンガ・シャリーラ)が融け去って、死後二年以内に転生することは可能かどうかと尋ねた。
マハルシ
確かに可能です。
転生が可能だというだけではなく、たとえ死後二年以内でも、新しい身体の中で二十歳、四十歳、七十歳でいるかもしれないのです。
シュリー・バガヴァーンは『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からリーラーの物語を語った。
マハルシ
シュレヨー・ヒ・ジニャーナン・アビャーサーット・ジニャーナーット・ディヤーナン、ディヤーナーット・カルマパラ・ティヤーガハ。
「努力によって繰り返し修練することよりも、知識のほうが優れている」。
ここでいうジニャーナとは、修練なしの知識を示し、アビャーサは知識なしの修練を、ディヤーナとは知識をともなった修練を意味しています。
修練をともなわない知識は知識なしの修練よりも優れ、知識をともなった修練は修練なしの知識よりも優れています。
カルマパラ・ティヤーガハ、ニシュカーマ・カルマ。
「行為の結果に対する執着を離れた、動機や欲望のない行為」(『ヨーガ・ヴァーシシュタ』)は賢者(ジニャーニ)のもので、それは知識をともなった修練よりも優れています。
質問者
ヨーガと明け渡しの違いは何でしょうか?
マハルシ
明け渡しはバクティ・ヨーガです。
「私」という想念の源にたどり着くことが自我の破壊であり、目標の成就です。
それが明け渡し(プラパッティ)であり、叡知(ジニャーナ)なのです。
*『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からリーラーの物語…
この物語は、宇宙の本質、死と死後の本性、時間と空間の相対性、世界の中に存在する世界、欲望と想念が顕現を生み出す力を説明している。
パドマ王の献身的な妻リーラーは夫を不死にしようと宗教的儀式を行うが、それが不可能であることを悟り、女神サラスワティーに祈る。
彼女の帰依心に満足したサラスワティーは、夫が死んでも彼の魂は彼女の部屋にとどまるようにという彼女の願いをかなえた。
やがてパドマ王は戦争で死に、悲しみにくれる彼女の前に女神サラスワティーが現れる。
女神は王の身体を保存するよう彼女に命じた。
リーラーは夫の死後の状態を知りたいと女神に懇願する。
女神はリーラーにさまざまな次元の世界が不可視のまま相互に関連しながら存在していることを説明し、さらに内的なヴィジョンの中でそれらの世界を訪れる方法を彼女に授けた。
こうして夫の死後の世界を訪れたリーラーは、彼が16歳の若い王として別の王国を統治している姿を見る。
リーラーは驚愕するが、サラスワティーは、リーラーは前世においてヴァシシュタというバラモンの妻アルンダティとして別の世界で小さな小屋に暮らしていたと告げた。
ある日、夫ヴァシシュタはある王が壮麗な行列を従えて行進していくのを見て、自分もあのような王になりたいと願い、その願いを胸に抱きながら死を迎えた。
死別の苦しみに耐え切れない妻アルンダティは、自分自身を夫とともに荼毘に付した。
サラスワティーはこれが一週間前に起こったことで、このバラモンの夫婦がパドマ王とリーラーになったのだと説明する。
この話を疑ったリーラーを納得させるため、サラスワティーは彼女をその世界に連れ戻した。
リーラーは死去したバラモンの夫婦の息子から事実を明らかにされる。
その後、リーラーは瞑想を通して創世記以来の自分の過去世をすべて思い出す。
リーラーとサラスワティーはパドマ王の来世の世界を訪れ、ヴィドゥーラタ王と呼ばれ70歳になっていた彼を見いだす。
彼の現在の妻もやはりリーラーと名乗っていた(ここではリーラーⅡと呼ぶ)。
王の部屋に現れたリーラーとサラスワティーは、王に彼の過去世だったパドマ王について語った。
すると王は再びパドマとして生きたいという願望を抱いた。
リーラーⅡは女神に夫の来世でも彼と共に暮らしたいと懇願する。
やがてヴィドゥーラタ王は戦争で死に、彼の魂は次元を超えて、再びパドマ王の遺体の中に入った。
目を覚まして起き上がったパドマ王は、そこに2人の妻と女神を見いだす。
驚く王にリーラーが状況を説明すると、王は敬意とともにサラスワティーを礼拝した。
サラスワティーは満足すると、祝福として長寿と富、繁栄と真我実現を彼に与えたのだった。
*シュレヨー・ヒ・ジニャーナン・アビャーサーット・ジニャーナーット…『バガヴァッド・ギーター』12-12
ヨーガの修練が無理なら、知識を極めよ。
だが、知識よりも瞑想のほうが優れ、瞑想よりも行為の結果を放棄するほうが優れている。
なぜなら、心の平安は放棄によって得られるからである。
209
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/18(水) 22:58:38 ID:1d4drIFg0
ヨーガは悟りを得るためのあらゆる方法を包含しているのじゃ。
バクティ・ヨーガもその一つなのじゃ。
健康のためのハタ・ヨーガもその一つなのじゃ。
肉体が健康でないと修行も出来ないからなのじゃ。
210
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/18(水) 23:50:14 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話130
シュリー・ラーマクリシュナ・ミッションから来たラクシュマン・ブラフマチャーリーが尋ねた。
「私は誰か?」という探究、あるいは「私」という想念は、それ自体どちらも想念です。
どうしてそれがその過程で破壊されると言うのでしょう?
マハルシ
ラーマが森でリシ(聖者)の姿をして他のリシたちと共にいたとき、シーターはリシの妻たちから、どの人があなたの夫かと尋ねられました。
一人ずつ指で指し示されたとき、彼女はその一人ひとりを否定しましたが、ラーマが示されたとき、彼女はただうつむくばかりでした。
彼女の沈黙は雄弁だったのです。
同様に、『ヴェーダ』もまた「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)において雄弁で、それから沈黙にとどまります。
その沈黙こそが真の境地です。
これが沈黙による教えの真意です。
「私」という想念の源にたどりついたときその想念は消え去ります。
その後に残るもの、それが真我です。
質問者
『パタンジャリ・ヨーガ・スートラ』は同一性について語っています。
マハルシ
「至高なるもの」との同一性とは、自我の破壊を意味するもう一つの名前なのです。
211
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/19(木) 22:23:46 ID:1d4drIFg0
一切を否定する想念も想念の一つでは在るのじゃ。
それが全ての想念を破壊して、その源にたどり着くことでそれ自体も消えるのじゃ。
それまでは有効な方法としてあり続けるのじゃ。
否定の想念も消えて沈黙が訪れるのじゃ。
212
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/19(木) 23:17:54 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話131
スッバ・ラーオ氏が尋ねた。
「ムキャ・プラーナ(主要な生気)とは何でしょうか?」
マハルシ
それはそこから自我とプラーナが生じる源であり、ときにクンダリニーと呼ばれています。
意識は生まれたことがありません。
それは永遠に存在し続けます。
しかし自我は生まれ、その他の想念も同様です。
それらは絶対意識と結びつくことで輝きを得ますが、さもなければ輝きません。
質問者
モークシャ(解脱)とは何でしょうか?
マハルシ
モークシャとは、あなたが生まれたことなどなかったと知ることです。
「静かに在りなさい。そして私は神だと知りなさい」
「静かに在る」ということは、「考えない」ということです。
「考えなさい」ではなく、「知りなさい」がその言葉なのです。
質問者
胸には異なった色の六つの器官があると言われています。
その中のハートは中心線から指二本分だけ右側にあると言います。
しかしハートに形はありません。
それでは、私たちはその形を想像して、それに瞑想すべきなのでしょうか?
マハルシ
いいえ。
「私は誰か?」という探究だけが必要なのです。
深い眠りと目覚めの状態を通して常に存在するもの、それは同じものです。
しかし目覚めには不幸があり、それを除こうとする努力があります。
眠りから目覚めたのは誰かと問われれば、あなたは「私」と答えるでしょう。
今、あなたはこの「私」をしっかりとらえなさいと言われたのです。
もしそうしたなら、「永遠の存在」はおのずと明らかになるでしょう。
「私」を探究することが要点であって、ハート・センターに瞑想することではありません。
内側や外側などというものはありません。
それはどちらも同じ意味か、まったく何も意味しないかのどちらかです。
もちろんハート・センターへの瞑想という修練もあります。
それは修練でしかなく、探究ではありません。
心が活動を止め、静寂にとどまるとき、ハートに瞑想する人だけがその自覚を保つことができます。
一方、他のセンターに瞑想する人はそれほど自覚的にはなれず、心が再び活動し始めたことによってのみ、それが静止していたことに気づくのです。
213
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/20(金) 23:05:13 ID:1d4drIFg0
修練とは集中を意味しているのじゃ。
ハートに集中して集中力を養うのじゃ。
そして自分とは何かを観察して探求するのじゃ。
ハートに集中することは自覚を保てるから他の集中よりも善いとマハリシは勧めるのじゃ。
他の集中では瞑想が深くなると意識がなくなったと感じる者が多いから、それがないハートへの集中が善いというのじゃ。
214
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/20(金) 23:46:08 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話132
教養ある男性が尋ねた。
「絶対なる存在というものがあるのでしょうか?
それと相対的存在との関係性とはどのようなものでしょうか?」
マハルシ
それらは互いに異なったものでしょうか?
すべての質問は心からのみ現れます。
心は目覚めとともに立ち現れ、眠りとともに沈みゆきます。
心が存在するかぎり、そのような質問や疑問は起こるでしょう。
質問者
「絶対なるもの」に達するには、段階的な進展があるはずです。
実在にも段階があるのでしょうか?
マハルシ
実在に段階はありません。
ジーヴァ(個我)にとっては体験の段階がありますが、実在にとってではありません。
新たに得ることができるものなら、やがて失われるときも来るはずです。
一方「絶対なるもの」は、今ここに在るのです。
質問者
もしそうなら、どうして私は無知なままでいるのでしょうか?
マハルシ
誰にとっての無知だと言うのですか?
「絶対なるもの」があなたに、「自分は覆い隠されている」と言うでしょうか?
何かが「絶対なるもの」を覆い隠していると言うのはジーヴァなのです。
誰にとっての無知なのかを見いだしなさい。
質問者
なぜ完全性の中に不完全性があるのでしょうか?
つまり、どうして「絶対なるもの」が相対的になったのでしょうか?
マハルシ
誰にとっての相対性でしょうか?
誰にとっての不完全性でしょうか?
「絶対なるもの」(純粋意識)は不完全ではなく、質問さえできません。
「生命意識のないもの」(身体)も質問できません。
この二つの間に何かが現れ、疑いを感じ、質問をするのです。
それは誰でしょうか?
それは今、現れたものでしょうか?
それとも、それは永遠なるものでしょうか?
完全でありながら、あなたはなぜ不完全だと感じるのでしょう?
すべての宗教の教えとはそのようなものです。
体験がどのようなものであろうと、体験者は一人であり、同じなのです。
「私」はプールナ──完全です。
眠りの中に多様性はありません。
それが完全性を示しているのです。
215
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/20(金) 23:47:19 ID:FXk.y0gQ0
質問者
完全でありながら、なぜ私はそれを感じられないのでしょう?
マハルシ
深い眠りの中では不完全性も感じられませんでした。
眠りの中の「私」は完全なのに、なぜ目覚めの状態では不完全だと感じるのでしょう?
なぜなら不完全さを感じるのは、無限なるものから区別され、神から分離した偽りの派生物(自我)だからです。
質問者
三つの状態の中にあって私は同じままです。
自我が私を覆い隠したのでしょうか、それとも私自身からそれに巻き込まれたのでしょうか?
マハルシ
あなたなしに何かが現れるでしょうか?
質問者
私は常に同じです。
マハルシ
なぜなら、あなたがそれを見るから、それは現れたように見えるのです。
眠りの中でもこの疑問を感じましたか?
今、新しく現れたものは何ですか?
質問者
感覚と心です。
マハルシ
そう語っているのは誰でしょうか?
眠っている人ですか?
もしそうなら、彼は眠りの中でもこの質問をするでしょう。
眠っていた人は消え去り、偽りの派生物である自我が現れ、自分自身を区別して、今そう語っているのです。
永遠で完全なるものなしに、何か新しいものが現れるでしょうか?
このような議論自体、際限のないものです。
関わらずにいなさい。
内側に向かいなさい。
そしてこのようなことはすべて終わらせてしまいなさい。
論争に終わりはないのです。
質問者
このすべてを終わらせる恩寵をお与えください。
議論をしにここに来たのではありません。
私はただ学びたいのです。
マハルシ
まず、あなたが何なのかを学びなさい。
そのためには聖典も学識も要りません。
これはシンプルな体験なのです。
「存在」の状態は常に、今ここに在ります。
自分自身を見失って、あなたは他者に指導を求めています。
哲学の目的は、あなたを内面に向かわせることです。
もしあなたが真我を知れば、悪は寄りつかないでしょう。
あなたが尋ねたから、私は教えたのです。
自我は立ち現れ、あなたをとらえています。
あなた自身をとらえなさい。
そうすれば自我は消え去るでしょう。
それが起こるまでは、賢者は「在る」と言い、愚者は「どこに?」と尋ねるでしょう。
質問者
問題の核心は「汝自身を知れ」にあるのです。
マハルシ
そう、まったくそのとおりです。
216
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/21(土) 22:01:20 ID:1d4drIFg0
全ての賢者達の全ての教えは自分自身を知ることなのじゃ。
瞑想もそのための方法の一つに過ぎないのじゃ。
自分を知ること無しに悟りが訪れることはありえないのじゃ。
自分という幻想を知ることで無我になり、悟りも訪れるのじゃ。
217
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/21(土) 23:33:25 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話133
マハルシ
アドヴァイタ哲学には二つの学派があります。
(1)ドリシュティ・スリシュティ(同時創造)と(2)スリシュティ・ドリシュティ(段階的創造)です。
タントラ系のアドヴァイタは三つの基本原理であるジャガト、ジーヴァ、イーシュヴァラ、つまり世界、魂、神を認めています。
これら三つも実在ではあるのですが、実在はそこで終わらず、その彼方へと超えて行くのです。
それがタントラ系アドヴァイタです。
実在は無限です。
三つの基本原理は絶対的実在から離れて存在するわけではありません。
実在がすべてに遍在していることは誰もが認めるところです。
神(イーシュヴァラ)が個我(ジーヴァ)を満たしているからこそ、ジーヴァは永遠の存在を得たのです。
彼の知識に限界はありません。
限られた知識とは彼の想像でしかなく、真理における彼の知識は無限です。
無限の知識の果てには沈黙があります。
この真理はダクシナームールティによって明らかにされました。
いまだに(世界、魂、神という)三つの基本原理を知覚する者にとっては、それらは実在だと言えるでしょう。
しかしそれらは自我に付随したものなのです。
神々のイメージは細部に渡って描写されてきました。
そのような描写は究極的実在を指し示しているにすぎません。
さもなければ、なぜ詳細にわたって特別な意義が与えられてきたのでしょうか?
考えてみなさい。
イメージは単なる象徴にすぎません。
名前と形の彼方にあるもの、ただそれだけが実在なのです。
シャイヴァ・シッダーンタとアドヴァイタ・ヴェーダーンタは同じ真理に基づく共通の目的を共有しています。
そうでなければ、どうしてアドヴァイタの偉大な唱道者、シュリー・シャンカラーチャーリャが神々の賛歌を歌ったのでしょう?
明らかに、彼はすべてを知りながらあえてそうしたのです。
質問者は非常に真剣に、彼のシャイヴァ・シッダーンタとアドヴァイタへの信仰心がバハーイ教の経典を読んだ後で揺らぎ始めたことを伝えた。
「どうかお救いください」と彼は言った。
マハルシ
今ここにある真我を知りなさい。
そうすれば、揺らぐことはなくなるでしょう。
質問者
バハーイ教徒は人の心を読み取るのです。
マハルシ
それは可能です。
あなたの想念は別の人に読み取られます。
そこにはあなたの心を「知る者」がいるはずです。
それが実現されるべき常在の真理なのです。
真理が揺らぐことはありません。
質問者
恩寵をお与えください。
マハルシ
恩寵は常に在り、与えられるものではありません。
なぜバハーウッラー(バハーイ教の教祖)の良い点や悪い点を気にするのですか?
あなた自身を知りなさい。
すべてを真理と見なしなさい。
彼もまた真理だと見なしなさい。
彼は真理から離れて存在できるでしょうか?
あなたの信仰は変わるかもしれません。
しかし真理は変わらないのです。
質問者
シッダーンタの真理をお示しください。
マハルシ
彼らの教えにしたがいなさい。
そのうえで、もし疑いがあるなら尋ねてもよいでしょう。
その教えを固持するなら、それはあなたをただ沈黙へと導くでしょう。
相違が見られるのは外的なことにだけです。
もしあなたが彼らの教えにしたがうなら、あらゆる区別は消え去るでしょう。
王子と呼ばれる人は、王の息子以外にはありえません。
同様に、完全である「それ」だけが「完全」と呼ばれるのです。
弟子となること、入門の儀式や帰依(明け渡し)の儀式などに満足するべきではありません。
それらは単なる外的現象にすぎないのです。
すべての現象の根底にある真理を忘れてはいけません。
質問者
ダクシナームールティの沈黙の意義とは何でしょうか?
マハルシ
学者や賢者たちがさまざまな説明を与えてきました。
あなたの気に入ったものを受け入れなさい。
218
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/22(日) 22:36:47 ID:1d4drIFg0
余計な知識が多ければむしろ実践の妨げになるものじゃ。
別の宗教の経典や不可思議な力や恩寵や真理等というものは観念の中にあるものじゃ。
観念を超えることはできないのじゃ。
自分を観る事でのみひとは観念を超えて悟りにいたることができるのじゃ。
219
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/22(日) 23:27:47 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話134
1936年1月14日
ハートに関する質問があった。
マハルシ
真我を探究し、それを実現しなさい。
ハートは自動的にその役割を果たすでしょう。
実現の座がハートなのです。
それは外側とも内側とも言えないものです。
質問者
バガヴァーンは最初の体験において、ハートを実現の場所として感じられたのでしょうか?
マハルシ
私はハートに関する文献を見てから、その言葉を使うようになったのです。
それは私の体験に基づいています。
220
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/23(月) 20:27:00 ID:1d4drIFg0
実践では常に体験が先に在るのじゃ。
言葉はそれを他人に伝えるために仮設しているだけなのじゃ。
脳が記憶による分別を止めた時、ハートに意識は感じられるのじゃ。
それは同じ体験をしなければ理解できないのじゃ。
そこに至るまで言葉を超えて実践し続けるしかないのじゃ。
221
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/23(月) 23:33:21 ID:FXk.y0gQ0
ラマナ・マハルシとの対話135
1936年1月15日
神智学協会から訪れた三人の西洋人女性が尋ねた。
「神の計画全体は本当に善いものなのでしょうか?
それとも、それは私たちが最善を尽くす他ないという本質を含んだ失策なのでしょうか?」
マハルシ
計画は、実際善いものです。
過ちは私たちの側にあります。
私たちが自分自身を正せば、すべては正しくなるでしょう。
質問者
眠っている間の私たちの行為を思い出すことによって、自分自身を正す方法があれば教えていただけますか?
マハルシ
何の手段も必要ありません。
誰もが幸福に眠り、その間何も覚えていないということを体験しています。
それ以外には何も体験されていないのです。
質問者
その答えでは納得がいきかねます。
私たちは眠っている間アストラル界をさ迷いますが、覚えてはいないのです。
マハルシ
アストラル界は夢と関係していますが、深い眠りとは関係していません。
質問者
世界の苦しみの原因についてどうお考えですか?
個人として、あるいは集団としてどうすればそれを変えることができるでしょうか?
マハルシ
真我を実現しなさい。
それが必要なすべてです。
質問者
より偉大な奉仕のために、啓蒙を促進することができるでしょうか?
それはどのように為されるのでしょうか?
マハルシ
自分自身を救えないからこそ、私たちは至高なるものに完全に自分を明け渡さなければならないのです。
そうすれば神は世界も私たちのことも加護してくれるでしょう。
質問者
ゴールは何だとお考えですか?
マハルシ
真我実現です。
質問者
各人が自分に合ったグルに出会うための方法があるでしょうか?
マハルシ
強烈な瞑想がそれをもたらすでしょう。
222
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/24(火) 22:00:14 ID:1d4drIFg0
自分自身を救えない者が世界を救えるはずも無いのじゃ。
世界は自分の心が創ったものであるからのう。
自分を救えないままで、どのように世界を変えても救われない世界ができるだけなのじゃ。
自らを救えば世界はもはや救われていると知れるのじゃ。
223
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/24(火) 23:18:51 ID:IMv4YTvA0
ラマナ・マハルシとの対話136
数日ここに滞在していた若いオランダ人のG・H・ミース博士がシュリー・バガヴァーンに尋ねた。
「深い眠りは何かサマーディに非常に近いものだという印象を受けるのですが、そうなのでしょうか?」
マハルシ
質間するのは目覚めている「私」であって、眠っている「私」ではありません。
もしあなたが目覚めた状態において、サマーディと同じである「目覚めた眠り」という状態に達したなら、疑いは起こらないでしょう。
サマーディとは人の本来の状態です。
それは三つの状態すべての根底に流れています。
「私」がそれらの状態の中にあるのではなく、それらの状態が「私」の中にあるのです。
もし私たちが目覚めているときにサマーディに入るなら、それは深い眠りの中でも持続するでしょう。
意識と無意識という区別は心の領域に属しますが、心は真我の境地において超越されるのです。
質問者
仏教の見解には、個人の魂という概念に一致した永続する実体は存在しません。
これは正しいのでしょうか?
これは輪廻転生する自我というヒンドゥー教の概念と一致するのでしょうか?
魂は何度も繰り返し転生する永続的な実体なのでしょうか、それとも単なるサンスカーラ(生来の精神的傾向)の塊にすぎないのでしょうか?
マハルシ
真我は永遠に存在し、影響を受けません。
転生する自我は低次元、つまり想念に属します。
それは真我実現によって超越されるのです。
輪廻転生は自我という偽りの派生物ゆえに起こります。
それゆえ、それは仏教徒に否定されました。
現在の状態は、チット(意識)とジャダ(生命意識のないもの)の混同によるものなのです。
224
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/25(水) 22:48:29 ID:1d4drIFg0
自我があるという幻想の上で輪廻もあるという幻想が成り立つのじゃ。
自我が無いと気づけば輪廻も無いと知れるのじゃ。
今まで幻想の生まれかわりを辿ってきたと気付くのじゃ。
悟ればそれを思い出すことは出来るが、夢を一々思い出すように意味の無いことじゃ。
225
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/25(水) 23:40:47 ID:IMv4YTvA0
ラマナ・マハルシとの対話137
シュリー・ラーマクリシュナ・ミッションから来たラクシュマン・ブラフマチャーリーが尋ねた。
「人は自分自身を想念の観照者と見なすことができるでしょうか?」
マハルシ
それは自然な状態ではありません。
それは単に心を静めるためのアイデアです。
そうイメージしようとしまいと、真我は常に観照しています。
心を静める目的でなければ、そうイメージする必要はありません。
真我としてとどまることが最善なのです。
226
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/26(木) 22:09:09 ID:1d4drIFg0
無理に観念によってアートマンのイメージを創らなくて善いのじゃ。
それはまた観念となって苦の原因になるものじゃ。
アートマンは自らの心にあるからそれに到達すれば善いのじゃ。
すべてを否定して真のアートマンに到達しなければ法そのものが無意味なのじゃ。
227
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/26(木) 23:42:14 ID:IMv4YTvA0
ラマナ・マハルシとの対話138
マイソールの財政事務官が尋ねた。
「ポール・ブラントン著の『秘められた道』はインド人にとっても有益なのでしょうか?」
マハルシ
すべての人にとって有益です。
質問者
身体や感覚などは「私」ではありません。
それは私たちの間で共通の認識です。
しかしそれはどのように修練するのでしょうか?
マハルシ
その本の中に述べられている三段階の方法によってです。
質問者
呼吸制御は探究に必要なものでしょうか?
マハルシ
必ずしも必要ではありません。
質問者
本の中には「そこに空白状態が現れる」と述べられています。
マハルシ
そうです。
そこで止まってはいけません。
誰にとって空白状態が現れるのか、それを見なさい。
質問者
「帰依の道を歩む人(バクタ)にとって空白状態はない」と述べられています。
マハルシ
彼らにとっても潜在的状態(ラヤ)は起こります。
それでも、しばらくすれば心は再び目を覚ますのです。
質問者
サマーディの体験とはどのようなものでしょうか?
マハルシ
それはあるがままの状態です。
外側から見ている人にとっては恍惚状態に見えるでしょう。
修練している人にとっても、初めのうちはそのように感じられるかもしれません。
何度か繰り返されるうちに落ち着いてくるでしょう。
質問者
そのような体験はナディー(霊的な神経経路)を穏やかになだめるのでしょうか、それとも興奮させるのでしょうか?
マハルシ
初めのうちは興奮するでしょう。
体験が続けて起こるごとに、それは普通の状態となり、もはや興奮することもなくなります。
質問者
道を着実に安全に進んでいくには、不快な体験があってはならないはずです。
興奮は穏やかな存在状態にとっても、修練活動にとっても不適切です。
マハルシ
心がさ迷っているなら道を誤ったのです。
帰依心だけが正しい道の上にあるのです。
*三段階の方法
『秘められた道』の「自己分析の方法」の章で、ポール・ブラントンは真我に目覚めるために、熟考、分析、瞑想を用いて(1)身体、(2)心ー感覚、(3)知性を否定していくという三段階の方法について説明している。
*潜在的状態(ラヤ)
精神的活動が一時的に停止している状態。
228
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/27(金) 23:08:44 ID:1d4drIFg0
本を読んで、修行すればこのようになるとか、あのようであってはならないという思い込みは実際には修行の障害になるものじゃ。
煩悩の一つである愚であるとも言えるのじゃ。
人の体質や性質によってさまざまな道があり、その途中の体験もまた異なるのじゃ。
先入観を持たずにありのままの自らの心を観て進むしかないのじゃ。
229
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/27(金) 23:44:29 ID:IMv4YTvA0
ラマナ・マハルシとの対話139
1936年1月19日
セーラムから来た立法府議員のエラッパ・チェッティアール氏が尋ねた。
「心を内側に向けるだけで十分なのでしょうか、それとも『私はブラフマンである』という確言に瞑想すべきでしょうか?」
マハルシ
心を内側に向けることが最も重要です。
仏教徒は「私」という想念の流れへの洞察を解放と見なしています。
一方、私たちは、そのような流れはその根底にある唯一の実在から生じたものと見ています。
なぜ「私はブラフマンである」に瞑想すべきなのでしょうか?
「私」の消滅だけが解放なのです。
しかしそれは「私ー私」を常に視野に入れることによってのみ達成できます。
そのためには「私」という想念を調べることが必要です。
「私」を手放さないかぎり、探究者に空白状態は起こりません。
さもなければ、瞑想も眠りに落ち入ってしまうでしょう。
常に存在するのは唯一「私」だけです。
しかし偽りの「私」という想念が時あるごとに立ち現れてきます。
一方、そのような想念が立ち現れる前でさえ、直覚的「私」は常に自ら輝き続けているのです。
粗大な身体の誕生が自己の誕生ではありません。
自我の誕生が自己の誕生なのです。
解放にとって、新たに獲得されるべきものは何もありません。
それは原初の状態であり、変わることなく在り続けるからです。
*仏教徒は「私」という想念の流れへの洞察を解放と…
ある仏教徒は「『私』という想念は絶えず変化し続ける感覚的印象の連鎖でしかなく、束の間のはかない存在であり、実体を持たない。それゆえ『空』である」という洞察と理解が解放をもたらすと見なす。
しかし、「私」という根が断ち切られていないため、「空」の洞察は得ても、その洞察を得た者(自我)はまだ生き残っている。
釈尊自身の説く究極的な解脱は、空の洞察ではなく自我の寂滅(ニルヴァーナ)であり、それはマハルシの説く「私」の消滅と変わらない。
230
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/28(土) 23:11:31 ID:1d4drIFg0
何かの想念に対して瞑想するより、自らの心の中を観るべきなのじゃ。
想念を追っていては観念遊戯に陥るだけなのじゃ。
常に自らの心の中を観て、自分とは何かをありのままに捉えるのじゃ。
それが出来れば自我も滅するのじゃ。
231
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/28(土) 23:17:20 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話140
質問者
実在とは何でしょうか?
マハルシ
実在は常に真理であるに違いありません。
それは名前や形をともないません。
名前や形の根底に存在するもの、それが実在です。
それは「限定されたもの」の根底にありながら、それ自体は無限であり、束縛を受けません。
それは「非実在なるもの」の根底にありながら、それ自体は実在として在ります。
存在するもの、それが実在です。
それはあるがままに在り、存在や非存在などといった言葉や表現を超えているのです。
232
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/29(日) 22:32:38 ID:1d4drIFg0
名前と形は観念の要素なのじゃ。
実在は名前や形をともなわないとは、観念が無いということなのじゃ。
一切の観念が無い時、実在は実感されるのじゃ。
それはどこか遠くの世界のことではなく、肉体を含む全ての今ここでのありようなのじゃ。
233
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/29(日) 23:41:07 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話141
同じ紳士が『カイヴァリャ・ナヴァニータム』から引用した後で尋ねた。
「一度達成された真我の知識(ジニャーナ)が失われることはあるのでしょうか?」
マハルシ
ひとたび明らかになった真我の知識は、確立されるまでに時間がかかります。
真我は確かに誰もが直接体験していることですが、私たちが想像しているようなものではありません。
それはただ「あるがまま」に在るのです。
この体験がサマーディです。
火は呪文などの方法で身を守る人を焼くことはできませんが、そうでない人は焼いてしまいます。
同様に、真我は心の潜在的傾向(ヴァーサナー)に覆い隠されていますが、ヴァーサナーがなくなれば顕わになるのです。 ヴァーサナーの変化変動ゆえに、真我の知識は確立されるまでに時間がかかります。
確立されていない真我の知識に、輪廻転生を止めるだけの十分な力はありません。
ヴァーサナーがあるかぎり、真我の知識は不動となりえません。
確かに偉大な師の臨在のもとに在れば、ヴァーサナーは活動を止め、心は静まり、サマーディは起こるでしょう。
それは何かの方法で火に焼かれずにすむようなものです。
こうして弟子は師の臨在のもとで真の知識と正しい体験を得ます。
その中にとどまるには、さらなる努力が必要とされます。
最終的に、彼はそれが自分自身の真の存在であることを知り、生きながらに解脱するでしょう。
目を閉じたままのサマーディは確かに良いものですが、行為と無為が対立しない状態に達するまで、さらに進まなければなりません。
活動によってサマーディを失うことを恐れるなら、それは無知のしるしでしかありません。
サマーディは誰にとっても自然な生活の根底であるべきです。
そこには私たちの努力や無努力を超えた状態があります。
それが理解されるまで、努力は必要です。
一度でもそのような至福を体験すれば、繰り返しそれを得ようと試みるようになるでしょう。
平和の至福をひとたび体験すれば、誰もそこから出て他のことに関わりたくなどなくなります。
アジニャーニにとっては想いから自由になることが難しいように、ジニャーニにとっては想いを起こすことが難しいのです。
普通の人たちは自分自身を知らないと言います。
彼らは多くの想念に巻き込まれ、想念なしにとどまることができません。
しかしジニャーニはどのような活動にも影響を受けません。
彼の心は永遠の平和の内に在るのです。
234
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/09/30(月) 22:38:02 ID:1d4drIFg0
サマーディに至るだけでは悟りではないのじゃ。
それから更に無我になり、無認識にまで至らなければならないのじゃ。
その状態が真の実在であり、ありのままの在り様であると気付かなければならんのじゃ。
それでこそ大悟徹底なのじゃ。
235
:
避難民のマジレスさん
:2019/09/30(月) 23:23:49 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話142
1936年1月20日
ベズワダから来たプラカーシャ・ラーオ氏が尋ねた。
「ブラフマンとの自己同一性が実現される前でも、マーヤー(幻影、世界の現れ)の働きがなくなることはあるのでしょうか?
それとも、それは実現の後でさえ続くのでしょうか?」
マハルシ
ヴァーサナーが消滅した後に幻影が続くことはありません。
ブラフマンとの自己同一性の知識を得てからヴァーサナーが消滅するまでの間では、幻影は現れるでしょう。
質問者
どうしてブラフマンとの自己同一性が実現された後にさえ、世界が彼に影響を与えられると言うのでしょう?
マハルシ
まず実現しなさい。
それから見てみなさい。
そのとき、もし必要ならこの質問をすればいいのです。
質問者
私たちが自分自身のアイデンティティを知っているように、それを知ることはできるのでしょうか?
マハルシ
あなたは心と異なったものでしょうか?
いったいどうやってそれを知れると言うのでしょう?
質問者
心の全領域(チッタ・ヴィラーサ)を知ることはできるでしょうか?
マハルシ
ほお!
それがブラフマンとの自己同一性だと言うのですか?
無知が消え去ったときその後に残るもの、それがそれ自体を顕わにするのです。
それは体験であって、知識の領域にはないのです。
236
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/01(火) 22:19:59 ID:1d4drIFg0
知識すらも又悟りには不要なものなのじゃ。
知識が全てと思い込んでいる者には受け容れがたいことであるかもしれんがのう。
悟りを得ることは知識を得ることではないのじゃ。
悟りによって正しい知識を得ることは出来るがのう。
実在であることは智識をも超えたことなのじゃ。
237
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/02(水) 00:01:21 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話143
1936年1月23日
ポール・ブラントン氏がシュリー・バガヴァーンに、「この丘は空洞なのでしょうか?」と尋ねた。
マハルシ
『プラーナ』(太古の聖典群)はそう述べています。
ハートは空洞だと言われています。
その中に突き進んでいくと、それが光の広がりであることがわかります。
それと同じように、この丘も光なのです。
洞窟などはその光に覆われています。
質問者
内側に洞窟があるのですか?
マハルシ
私はヴィジョンの中で洞窟や通りのある街々、そして世界全体を見ました。
質問者
シッダ(超自然能力者)もその中にいるのでしょうか?
マハルシ
すべてのシッダがそこにいると言われています。
質問者
シッダだけですか、それとも他の者たちもですか?
マハルシ
それはちょうどこの世界のようなものです。
質問者
シッダはヒマラヤにいると言われています。
マハルシ
カイラースはヒマラヤにあります。
それはシヴァの住処です。
一方この丘はシヴァ神自身なのです。
彼の住処にあるべき品々も、彼自身がいるところにあるに違いありません。
質問者
バガヴァーンはこの丘が空洞であることを信じていますか?
マハルシ
すべては個人の観点によるのです。
あなた自身もヴィジョンの中でこの丘に隠者の庵を見たと本に書きましたね。
質問者
そうです。
それは丘の表面でした。
ヴィジョンは私の内側にあったのです。
マハルシ
まさにそのとおりです。
すべては人の真我の内に存在するのです。
世界を見るには、それを見る人がいなければなりません。
真我なしには世界もありません。
真我はすべてを包み込んでいます。
事実、真我がすべてであり、真我以外には何も存在しないのです。
質問者
この丘の秘密は何なのですか?
マハルシ
あなたが『秘められたエジプト』の中で「ピラミッドの秘密は真我の秘密である」と述べているのと同じように、この丘の秘密も真我の秘密なのです。
チャドウィック少佐
私には真我が自我と異なったものなのかどうかわかりません。
マハルシ
深い眠りの中のあなたはどのようでしょうか?
質問者
私にはわかりません。
マハルシ
誰がわからないのでしょうか?
それは目覚めている自我ではないでしょうか?
あなたは深い眠りの中での自分の存在を否定するでしょうか?
質問者
私は存在していました。
そして私は存在しています。
しかし深い眠りの中では誰がそこに存在していたのかわからないのです。
マハルシ
そのとおりです。
目覚めた人は、「眠りの状態では何も知らなかった」と言います。
現在、彼は物事を見ていますし、自分がそこに存在していることも知っています。
ところが、眠りの中では物事もなければ、それを見る人もいません。
今、語っている人は深い眠りの中にも存在していました。
これら二つの状態の違いとは何でしょうか?
そこには物事があり、感覚が戯れています。
それらは眠りの中には存在していませんでした。
新しい実体である自我がその合間に現れ、それが感覚を通して物事を見、それ自身を身体と混同し、「自我が真の自己だ」と言うのです。
真実は、深い眠りの中に存在していたものが、現在も存在し続けているのです。
真我は不変です。
二つの状態の合間に現れたのは自我です。
立ち現れては沈みゆくものは自我であり、不変のままとどまるものが真我なのです。
238
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/02(水) 22:55:18 ID:1d4drIFg0
深い眠りの中でさえ意識はあるのじゃ。
それは死者の意識とも同じなのじゃ。
寝ているときと同じく、死んでも意識はなくならないと気付くのじゃ。
全てと同じ意識が死によっても変わらずあるのじゃ。
239
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/02(水) 23:27:05 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話144
プラカーシャ・ラーオ氏が尋ねた。
「マーヤーの根本原因は何でしょうか?」
マハルシ
マーヤーとは何でしょうか?
質問者
マーヤーとは誤った知識、幻影です。
マハルシ
誰にとっての幻影でしょう?
そこにはそれに惑わされる人がいるはずです。
幻影とは無知のことです。
無知な自己があなたの視点にしたがって対象物を見るのです。
対象物自体が存在しないとき、どうしてマーヤーが存在できるでしょうか?
マーヤーとはヤー・マー(存在しないもの)なのです。
何も存在しないときそこに残るもの、それが真我です。
もしあなたが対象物を見ると言うなら、あるいはもしあなたが真の統合を知らないと言うなら、そこには二人の自己がいるはずです。
一人は知る者で、もう一人は知られる対象です。
自分自身の中に二人の自己がいると認める人は誰もいないでしょう。
目覚めた人は「ぐっすりと眠っていた間、気づいていなかった」と言いますが、「眠っていた人と現在話している人は違う人だ」とは言いません。
存在するのはただ真我だけです。
真我は常に気づいています。
それは不変です。
真我以外に存在するものは何もないのです。
質問者
アストラル体についてはどうでしょうか?
マハルシ
あなたは夢の中で身体を持っていませんでしたか?
それはベッドで横たわっていた身体とは異なるのではありませんか?
質問者
私たちは死後も存続するのでしょうか?
アストラル体は物理的な身体の死後も存続するのではないでしょうか?
マハルシ
夢の中でいくつかの奇妙な体験をした後に目覚めるように、物理的な身体の死後も別の身体を見つけるといったことが起こるのです。
質問者
アストラル体は死後四十年でさえ存続すると言われています。
マハルシ
現在の身体の中で、あなたは夢の身体をアストラル体と呼びます。
夢の中でもそう呼んだでしょうか?
今考えれば、アストラル体だった夢の身体も、夢の中では現実に思えます。
この視点からすれば、現在の身体そのものがアストラル体なのです。
一つのアストラル体ともう一つのアストラル体に何の違いがあると言うのでしょう?
何の違いもないのです。
P・ブラントン氏
実在には段階があります。
マハルシ
今は夢見の身体が非現実的に思え、今のこの身体が夢の中では非現実的に思えるということが、実在の段階を示すわけではありません。
深い眠りの中では身体の体験はまったくありませんでした。
常に、唯一存在するもの、それが真我なのです。
240
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/03(木) 22:04:17 ID:1d4drIFg0
マーヤーがなにものか知らない者には全てがマーヤーになるのじゃ。
全く同じところに一緒に居ながら悟った者には全てがアートマンであり、ブラフマンなのじゃ。
それは実在するものが違うのではなく、心の了解が違うのじゃ。
実在しないものに迷わされているうちはアートマンも見えないのじゃ。
241
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/03(木) 23:34:22 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話145
P・ブラントン氏
なぜ宗教は神や天国や地獄について語るのでしょうか?
マハルシ
それらが世界と同程度のものでしかなく、ただ真我だけが実在だということを人々に理解させるためです。
宗教は探究者の観点によるのです。
『バガヴァッド・ギーター』を例にとれば、アルジュナが、「王国を継承するために、親族や年長者と闘い殺し合うことはできない」と言ったとき、シュリー・クリシュナは、「彼らや、あなたや、私は、以前に存在していなかったわけでも、今存在しないわけでも、これ以降存在しなくなるわけでもない。何も生まれなかったし、何も死にはしなかった。これ以降そうならないというわけでもない」などと説きます。
後に彼は論題を発展させ、「私は同じ教えを太陽神に伝え、太陽神はイクシュヴァークに伝えた」と宣言しました。
アルジュナは疑問をもたげ、「どうしてそんなことがありえるのでしょう?あなたは何年か前に生まれましたが、彼らは幾世代も前に生きていたのです」と問いただします。
するとシュリー・クリシュナはアルジュナの論点を理解して、「そうだ。今まで私もあなたも数知れない転生を通ってきた。私はそのすべてを知っているが、あなたは知らないのだ」と語ります。
このような言葉は一見矛盾して見えますが、それでも質問者の観点からすれば、それは正しいのです。
キリストもまた、「私はアブラハム以前に存在していた」と宣言しています。
質問者
宗教におけるそのような描写の目的は何なのでしょうか?
マハルシ
ただ真我の実在性を確立させるためです。
質問者
バガヴァーンはいつも最高位の観点から語られます。
マハルシ
(微笑みながら)人々は単純な裸の真理──彼らの日常の、常に存在する、永遠の体験の真理を理解しません。
その真理とは真我の真理なのです。
真我に気づいていない人がいるでしょうか?
彼らは真我について聞きたいとさえ思いません。
その反対に、人々は何か彼方なるもの──天国や地獄、輪廻転生などについて熱心に知りたがります。
なぜなら、彼らは神秘を愛しており、裸の真理を愛してはいないからです。
それゆえ、宗教はただ真我の周辺に彼らを連れてくるだけのために、欲しいまま与えて甘やかします。
あちらこちらをさ迷い歩いたあげく、結局は、他でもない真我に戻ってこなければならないのです。
ならばなぜ、今ここで真我として在ろうとしないのでしょうか?
天国や地獄は、それを見る者あるいは考える者である自己を必要とします。
天国や地獄の実在性は、それを見る者あるいは考える者と同程度でしかないのです。
天国や地獄は見る者なしには存在できません。
それゆえ、それらは自己と異なりません。
たとえ無知な人でさえ、物事を見るときは、ただ自己だけを見ているのです。
しかし彼は困惑し、身体や感覚やこの世の劇(ドラマ)といった対象と真我を同一視してしまいます。
主体も対象も、すべては真我の中に融け入るのです。
そこには見る者も見られる対象も存在しません。
見る者も見られるものも真我だからです。
多くの自己が存在するわけでもありません。
すべてはただ一つの真我なのです。
242
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/04(金) 21:02:19 ID:1d4drIFg0
どのような知識もマハリシにはアートマンのためにあるものなのじゃ。
迷信に囚われた者にはそれが最も良い説法なのじゃ。
衆生を迷信から解放させるために常にアートマンを説くのじゃ。
それ以外に説く必要はないと知っているからなのじゃ。
243
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/05(土) 01:13:40 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話146
1936年1月26日
上流階級の教養あるインド人女性リーナ・シャラバーイの質問に、シュリー・バガヴァーンが答えた。
マハルシ
平静な状態が至福の状態です。
『ヴェーダ』の中の「私はこれだ、あるいはあれだ」という宣言も、心の平静を得るだけのためにあるのです。
質問者
それでは、一つの目的を持って探究することは間違いなのですね?
マハルシ
もし到達されるべき目的地があるとすれば、それは永遠のものではありえません。
目的地は、すでにそこにあるものでなければなりません。
私たちは自我によって目的地に到達しようとしています。
しかし目的地は自我が現れる以前から存在しているのです。
目的地は私たちの誕生、つまり自我の誕生以前から存在しています。
私たちが存在するため、自我も存在するように見えるのです。
もし私たちが自己を自我として見なせば、私たちは自我となり、もし自己を心として見なせば、私たちは心となります。
もし自己を身体として見なせば、私たちは身体となるのです。
さまざまな形で私たちを包みこむ心の鞘(コーシャ)をつくり出すのは想念です。
水面に映る影は揺らいでいるように見えます。
影の揺らぎを止めることができるでしょうか?
もし揺らぎが止まれば、あなたは水に気づくことなく光だけを見るでしょう。
同じように、自我とその活動に注意を払うことをやめ、ただその背後にある光だけを見なさい。
自我とは「私」という想念です。
真の「私」が真我なのです。
質問者
それが真我実現への一歩です。
マハルシ
実現はすでにそこに在ります。
想念から自由になった状態だけが真の境地であって、実現といったような行為はないのです。
真我を実現していない人がいるでしょうか?
自分の存在を否定する人がいるでしょうか?
実現を語ることで、そこには二人の自己があることを暗示しています。
実現する自己と実現される自己です。
まだ実現されていないものは、実現されなければなりません。
ひとたび私たちが自分自身の存在を認めるなら、どうして真我を知らないということがあるでしょうか?
質問者
それは想念、心のせいなのです。
マハルシ
そのとおりです。
私たちの幸福を妨げ、覆い隠すのは心なのです。
どうやって私たちは自分が存在していることを知るのでしょうか?
もし私たちを取り巻いている世界があるからだと言うなら、どうして世界のない深い眠りの中でも、あなたが存在していたことを知っているのでしょうか?
質問者
どうすれば心を取り除くことができるでしょうか?
マハルシ
心を殺したいと思っているのは、心そのものではないでしょうか?
心がそれ自体を殺すことはできません。
それゆえ、あなたの仕事は心の真の本性を見いだすことにあるのです。
そうすれば、心が存在していないことを知るでしょう。
真我が探究されたとき、心はどこにも見当たりません。
真我の内にとどまれば、心の心配をする必要はなくなるのです。
質問者
どうすれば恐れから自由になれるでしょうか?
マハルシ
恐れとは何でしょうか?
それはただの想念でしかありません。
もし真我以外に存在するものがあるなら、恐れる理由もあるでしょう。
誰が自分以外のもの(外側にあるもの)を見るのでしょうか?
最初に自我が現れ、外側に物事を見ます。
自我が立ち現れなければ、真我だけが存在し、自分以外のものは何もなくなるのです。
自己の外側に何かがあるとしたら、それは内側に見る者がいることを暗示しています。
その見る者を探し出せば、疑いや恐れは起こらなくなるでしょう。
恐れだけではありません。
自我を取り巻くすべての想念も、それとともに消え去るのです。
質問者
この方法は一般に言われる「解脱のために探究者に必要とされる特質」(サーダナ・チャトゥシュタヤ)を培うよりも早い効果があると思います。
マハルシ
そうです。
自我という中心の周辺を、あらゆる悪い質が取り巻いています。
自我が消え去ったとき、実現は自然に起こります。
真我の中には良い質も悪い質もありません。
真我はあらゆる質から自由だからです。
質は心だけに属します。
しかし「それ」は質を超えているのです。
もし単一性があるなら、そこには二元性もあるということです。
一という数が、その他の数を生じさせるからです。
しかし真理には一も二もありません。
「それ」はあるがままなのです。
244
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/05(土) 01:14:55 ID:5cT9Awlw0
質問者
困難は無想の境地に在ることです。
マハルシ
無想の境地のことは放っておきなさい。
それはあなたが関わることではないのです。
歩くとき、あなたは意図せずに歩を進めます。
行為においても同じです。
しかし無想の境地はあなたの行為の影響を受けないのです。
質問者
行為における識別とはどのようなものでしょうか?
マハルシ
識別は自動的で直観的なものになるでしょう。
質問者
では直観だけが重要なのでしょうか?
直観は発展します。
マハルシ
偉大な真理を発見した人たちは、真我の深い静寂の中でそれを発見したのです。
自我は大地に映る自分の影のようなものです。
それを埋めようとするのは愚かなことです。
真我はただ一つです。
もし限定されていれば、それは自我であり、限定されていなければ、それは無限の実在なのです。
水泡は一つひとつ異なり数知れません。
しかし海はただ一つです。
同様に、自我は数多くとも真我は一つ、ただ一つなのです。
「あなたは自我ではない。実在を実現しなさい」と言われたにもかかわらず、なぜまだ自我と自分自身を同一視するのでしょうか?
それはちょうど「薬を飲むときに猿のことを考えてはならない」という諺のようなもので、不可能なことです。
普通の人々にも同じことが起こります。
実在について教えられたのに、なぜ「私はシヴァである」(シヴォーハム)や「私はブラフマンである」(アハン・ブラフマースミ)に瞑想し続けるのでしょう?
その真の意義を見極め、理解しなければなりません。
単に言葉を繰り返したり、それについて考えたりするだけではだめなのです。
実在とはただ自我を失うことです。
自我のアイデンティティを探し出すことで、それを破壊しなさい。
自我には実体がないため、それは自動的に消え去ります。
そうすれば、真理はひとりでに輝き出すでしょう。
これが直接的方法です。
一方、他のすべての修練方法は自我を保持しなければできません。
それらの道を選べば多くの疑いが起こり、究極の問いは最終的に直面されるまで残るでしょう。
しかし真我探究では、最後の問いだけが唯一の問いです。
そして最初からこの問いなのです。
この探究にはいかなる修練(サーダナ)も必要ありません。
実在として在りながら、私たちは実在を獲得しようと探究しています。
これ以上の不思議はないでしょう。
私たちは実在を隠している何かがそこに在り、実在が獲得される前にそれが破壊されなければならないと思っているのです。
それはばかげています。
あなた自身があなたの過去の努力を笑う日がやって来るでしょう。
あなたが笑うだろうその日もまた、今、この瞬間なのです。
質問者
それでは、それは見せかけの大芝居(ゲーム)なのですか?
マハルシ
そうです。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』にはこう述べられています。
「実在は私たちから隠され、偽りが真実として顕わになっているのだ」と。
私たちは実際、実在のみを体験しています。
それにもかかわらず、私たちはそれを知らないのです。
これほどの不思議があるでしょうか?
「私は誰か?」という探究こそ、自我を断ち切る斧なのです。
*薬を飲むときに猿のことを考えてはならない…
「この薬を飲めばあなたの病気は治る。だが1つだけ条件がある。それは薬を飲むときに猿のことを考えてはならないということだ」と医者に言われ、猿のことを考えまいと努力したが、薬を見るなり猿のことを考えてしまい、結局薬を飲んでも効かなかったという昔話に由来する諺。
いくら「私は自我ではない。私はブラフマンだ」という真理に瞑想しても、「私は自我だ」という思い込みを消し去ることはできない。
自我を消し去ることができるのは真我探究しかない、とマハルシは説いている。
245
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/05(土) 22:42:21 ID:1d4drIFg0
アートマンについての知識があってもそれは観念に過ぎないのじゃ。
観念をいくら追いかけても悟りは得られないのじゃ。
自ら自分を観察してそれが実在ではないと気付けば厭離が起こるのじゃ。
そして無我になればアートマンも知れるのじゃ。
その他に道は無いのじゃ。
246
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/06(日) 00:33:00 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話147
カルナータカ州から来たサンニャーシーの質問に、シュリー・バガヴァーンが答えた。
マハルシ
心には異なった段階がありますが、実現は完全なものです。
心によってそれを理解することはできません。
「全知の境地」(サルヴァジニャートヴァ)とは「すべて」(サルヴァム)として在ることです。
その「すべて」は心にのみ属しています。
心を超越したとき、あなたは真我としてとどまります。
現在の知識は限られたものですが、「あの」知識は無限です。
それゆえ、それは現在の知識では理解できないのです。
知る者として在ることをやめなさい。
そうすれば完全な知識が現れるでしょう。
247
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/06(日) 22:51:29 ID:1d4drIFg0
知識を信奉する者は知識が最も尊いものとして、執着してしまうのじゃ。
それもまたこの世で生きるために役立つ観念に過ぎないものじゃ。
多くなればなるほど迷いも多くなるのじゃ。
知識を捨てて知る者として在る事がなければ、真の知識が現われるのじゃ。
248
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/07(月) 00:49:14 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話148
1936年1月27日
グジャラート州から来た紳士が言った。
「私は音(ナーダ)に精神を集中させています。
この方法は正しいでしょうか?」
マハルシ
ナーダに瞑想することは、推奨されている修練方法の一つです。
この方法を実践する修練者は、特別な恩恵がそれにはあると宣言しています。
彼らによれば、それは最もやさしく直接的な方法です。
子守唄が子供を眠りに誘うように、ナーダは心をなだめ、サマーディの状態へと誘います。
王が長旅から帰還した王子を楽隊で迎え入れるように、ナーダは帰依者を快い手法で神の王国へと誘うのです。
ナーダは集中を助けますが、その後、修練自体をゴールとするべきではないことに気づくようになるでしょう。
ナーダが目的なのではなく、主体をとらえなければならないのです。
さもなければ、空白状態に陥ってしまうでしょう。
その空白状態にあってさえ主体は存在しています。
それでも、さまざまな音(ナーダ)が止まったことに彼は気づかないでしょう。
その空白状態にあってさえ気づくようにするためには、自分自身を覚えていなければなりません。
音への瞑想(ナーダ・ウパーサナ)は良い方法です。
もし探究(ヴィチャーラ)と組み合わせるなら、さらに良くなるでしょう。
その場合、ナーダはチンマヤ(純粋意識、知識)との組み合わせ、またタンマヤ(真我への没入)との組み合わせとなります。
ナーダは集中を助けるのです。
249
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/07(月) 22:41:56 ID:1d4drIFg0
マハリシも集中と探求の二つを教えているのじゃ。
ただ集中するだけではサマーディに到達し、更に対象のないサマーディにまで到達しなければならないのじゃ。
それでは時間もかかり、才能の無い者には無理なのじゃ。
集中と自己の探求をあわせて悟りも速やかに訪れるのじゃ。
250
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/07(月) 23:45:58 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話149
1936年1月20日
サードゥが尋ねた。
「バクティ(帰依、信愛、明け渡し)には身体を忘れる状態があるのでしょうか?」
マハルシ
なぜ身体を気にするのですか?
バクティを実践しなさい。
身体に何が起こるかは心配せずにいなさい。
251
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/09(水) 00:22:40 ID:1d4drIFg0
実践に対して不安が一つでもあるならば、どのような答えを聞いても次から次へと不安は湧いてくるじゃろう。
知識とはそのように増えていくものじゃ。
知識があれば不安が生まれ、不安を解消するための知識が又不安を産むのじゃ。
その繰り返しを続ければ実践も出来ないのじゃ。
知識を捨てて実践することが聖者の真の教えなのじゃ。
252
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/09(水) 03:32:37 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話150
アメリカから来た年配のケリー夫妻とその同行者が尋ねた。
「瞑想で座るときの足の痛みや蚊に刺されたときなどの不快感を克服し、集中を得るには何をすべきでしょうか?」
マハルシ
もしあなたの集中が正しく行われれば、不快感に悩まされることはないでしょう。
不快感については気にせずにいなさい。
瞑想中の心を安定させなさい。
蚊に刺されることに耐えるほどの精神力と忍耐力もないのに、どうして真我実現を望めると言うのでしょう?
実現は人生におけるあらゆる苦難の只中にあるべきものです。
快適な環境を整えてべッドに行くなら、眠ってしまうばかりでしょう。
困難に直面しながらも、瞑想の内に安定しなさい。
253
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/09(水) 22:45:28 ID:1d4drIFg0
本当に集中していれば何が起きても気にならないのじゃ。
瞑想中にそばで雷が落ちて人が死んでも気付かなかったという行者も居るのじゃ。
気になるのは集中していないからなのじゃ。
対象に没入して自分も忘れれば気になることなど一つも無いのじや。
254
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/09(水) 23:18:36 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話151
1936年1月31日
アメリカ人紳士は耳が少し不自由で聞き取ることが困難だった。
「若いころから自分で自分の面倒を見てきたので、自然と聴覚の衰えに不安を感じているのです」と語った。
マハルシ
あなたは自分で自分の面倒を見てきたのではなく、自我があなたの面倒を見てきたのです。
自我に頼ることがなくなり、本当に真我に頼るようになるのは良いことです。
心配することはありません。
感覚を克服することは真我実現の前提として欠かせないものです。
一つの感覚がすでに神によってあなたのために抑制されたのです。
そのほうがずっと良いではありませんか。
質問者
マハルシのユーモアはありがたく思うのですが、それでもまだ自尊心が傷つくのです。
マハルシ
真我はただ一つです。
もしあなたが自分の間違いを責めたり叱ったりしたなら、あなたは傷つくでしょうか?
もし真我をとらえれば、あなたを責める他者(あなた以外の人)は存在しないのです。
世界に目を向けると真我を見失ってしまいます。
その反対に、真我をとらえれば世界は現れないのです。
255
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/10(木) 22:28:59 ID:1d4drIFg0
制感が為されればアートマンに近づくのじゃ。
自分ではなく、自分のものでも無い感覚を失くすのは苦ではないのじゃ。
自我が投射されていれば苦と思うのじゃ。
本来無いものを失ってもアートマンから何一つ欠けるものはないのじゃ。
永劫に無欠なのじゃ。
256
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/10(木) 23:35:16 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話152
1936年2月1日
ケリー夫人は瞑想を学ぶ最善の方法を知りたいと願っていた。
シュリー・バガヴァーンは彼女に、今までジャパを試みたことはあるかと尋ねた。
彼女は「いいえ」と答えた。
マハルシ
神や神の本質などについて考えたことはありますか?
質問者
そのような問題について読んだり話したりしたことはあります。
マハルシ
もしそれと同じことを感覚を通して表現せずに心の中で熟考するなら、それが瞑想なのです。
質問者
私は『秘められた道』や『私は誰か?』に書かれているような瞑想のことを意味していたのです。
マハルシ
心が帰依の中に融け去るほど、それを熱烈に求めなさい。
樟脳が燃え尽きたとき、後には何の燃え滓も残りません。
心とはその樟脳なのです。
心が何の跡も残さず真我の中に消え去ったとき、それが真我実現です。
257
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/11(金) 22:39:06 ID:1d4drIFg0
神を信じる者には帰依が最も早い道なのじゃ。
自我を忘れるほど神に帰依すればサマーディにも入れるのじゃ。
ジャパは神の名を唱えることなのじゃ。
それもマントラなのじゃ。
マントラもまた神への帰依を実現する手段の一つなのじゃ。
258
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/11(金) 23:28:48 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話153
1936年2月4日
ペシャワールから来た数人の訪問者の中に、陪審員と教養ある誠実な若者がいた。
若者はパラマートマン(至高の真我)とジーヴァートマン(個的真我)が異なった存在であることに強い確信を抱いていた。
その彼が質問した。
シュリー・バガヴァーンは彼のさまざまな疑いを、この一言で晴らした。
マハルシ
アートマンからパラムやジーヴァという属性を取り除いてみなさい。
それでもまだ違いをそこに見るでしょうか?
もしまだ疑いがあるなら、「疑っているのは誰か?」「考えているのは誰か?」と自分に問いなさい。
それを見いだせば、疑いは消え去るでしょう。
259
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/12(土) 22:59:56 ID:1d4drIFg0
言葉による教義の違いなど何の意味も無いのじゃ。
自ら実践してアートマンに至れば言葉も消えるのじゃ。
言葉による教義はアートマンに導く標に過ぎないのじゃ。
実践しない教義は無意味なのじゃ。
260
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/12(土) 23:27:39 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話154
1936年2月5日
翌日、同じ若者がプラーナーヤーマ(調息)について尋ねた。
マハルシ
叡知(ジニャーナ)に相応するプラーナーヤーマとは、
「ナーハム」私はこれではない=呼気
「コーハム」私は誰か?=吸気
「ソーハム」私は彼だ=呼吸保持
これは探究(ヴィチャーラ)であり、この探究が望ましい結果をもたらします。
この探究をするほど進んでいない人には、結果として呼吸静止をもたらし、心を落ち着かせるような瞑想が向いているでしょう。
心の制御は呼吸の制御を自然にもたらします。
それは呼気や吸気に注意を払わずとも、自然な呼吸静止(ケーヴァラ・クンバカ)をもたらすのです。
これもできない人にとっては、調息が心を静める助けとなります。
呼吸が制御されているかぎり、静寂は続きます。
それは一時的なものであるため、プラーナーヤーマが最終目標でないことは明らかです。
それはプラティヤーハーラ(制感)、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(禅定)、サマーディ(三昧)にまで達します。
これらの段階は心の制御を扱います。
以前にプラーナーヤーマを修練してきた人にとっては、それらは容易となるでしょう。
プラーナーヤーマは心の制御を含めた高次の段階へと導いていきます。
それゆえ、心の制御はヨーガの目標でもあるのです。
さらに進歩した人は、呼吸制御に時間を費やすことなく、直接、心を制御するでしょう。
単にプラーナーヤーマのみが進歩すると、多くの人があこがれる超自然能力 (シッディ)がもたらされることになるのです。
食事制限について尋ねられ、シュリー・バガヴァーンはミタ・ヒタ・ブク、「適切な食べ物を適切な量だけ」と答えた。
バクティの効用について質間があった。
マハルシ
ヴィバクティ(分離)があるかぎり、バクティ (帰依)がなければならず、ヴィヨーガ(分離)があるかぎり、ヨーガ(合一)がなければなりません。
二元性が存在するかぎり、神と帰依者は存在せざるを得ないのです。
探究(ヴィチャーラ)についても同様です。
ヴィチャーラがあるかぎり、二元性もあることになります。
しかし源に融け入れば、そこには「一なるもの」だけが在ります。
それはバクティにおいても同様です。
帰依によって神を実現すれば、そこに存在するのは「一なるもの」だけでしょう。
神もまた真我の中で真我によって考えられたものです。
それゆえ、神は真我と同一なのです。
もし神への帰依心を抱きなさいと言われた人がすぐさまそのとおりにするなら、それでよいでしょう。
しかし自らを振り返って「そこには二人がいる。神と私だ。遥か彼方にいる神を知るよりも、より身近で、より親しい『私』を知りたい」と言う人もいるのです。
このような人にこそ、真我探究の道(ヴィチャーラ・マールガ)が説かれるベきです。
実際、真我探求と帰依には何の違いもないのです。
261
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/14(月) 22:14:40 ID:1d4drIFg0
バクティも呼吸もアートマンを探求する役には立つのじゃ。
神を信じられない者には直接、自分を知ることでアートマンを探求する道が在るのじゃ。
どんな者も唯一つの道を行かなければならないと言う事は無いのじゃ。
全ての者に自分にあった道が在るのじゃ。
262
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/14(月) 23:14:36 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話155
同じ男性が再びサマーディの本質とサマーディに至る方法について尋ねた。
マハルシ
サマーディの本質とサマーディに至る方法について尋ねる人が消え去ったとき、サマーディは達せられるでしょう。
チャドウィック少佐
マハートマー(偉大な魂、聖者)が帰依者をひと目見るだけで十分であり、偶像崇拝や巡礼などにそれほどの効果はないと言われています。
私がここに来てすでに三ヵ月が経ちましたが、マハルシによって見られたことで自分がどのような恩恵を受けたのかわかりません。
マハルシ
グルの眼差しには浄化作用があります。
その浄化を目で見ることはできません。
石炭を発火させるには長い時間が必要ですが、木炭であれば短い時間ですみます。
火薬であれば発火は瞬時に起こるでしょう。
マハートマーのもとを訪れる人の段階もそれと同じなのです。
コーエン氏
私が瞑想に入ると平和で黙想的な状態に達します。
次の段階はどうすべきでしょうか?
マハルシ
平和が真我実現なのです。
平和は乱されてはなりません。
ただ平和だけを目標とすべきです。
質問者
しかしそれでは満足がいかないのです。
マハルシ
なぜなら、あなたの平和は一時的なものだからです。
もし永久的であれば、それが実現と呼ばれるのです。
263
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/15(火) 22:55:04 ID:1d4drIFg0
十分に心の準備が出来た修行者ならば師匠の一瞥でも悟りに至るというのじゃ。
お釈迦様にもアングリマーラが会っただけで悟ったという伝説が在るのじゃ。
十分に苦しんで悟りを求めていたからじゃろう。
自らの探求がなければ師匠も何も出来ないのじゃ。
自らの実践がすべてなのじゃ。
264
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/15(火) 23:47:05 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話156
1936年2月9日
質問者
孤独は修練の助けとなるでしょうか?
マハルシ
孤独とはどういう意味でしょうか?
質問者
他者から遠ざかることです。
マハルシ
なぜそうすべきなのでしょうか?
それはただ恐れに駆り立てられているにすぎません。
孤独の中でさえ、他者から侵害されるのではないかと恐れることになります。
しかも孤独がどれほどの想念を消し去れると言うのでしょう?
それは現在の環境の中でされるべきではないでしょうか?
質問者
しかし現在の心は散漫なのです。
マハルシ
なぜ心を放っておくのですか?
孤独は心を静めますが、それは大勢の人の中でも可能です。
狐独によって想念を消し去ることはできません。
それをするのは修練です。
そしてその修練はここでもできるのです。
265
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/16(水) 23:03:35 ID:1d4drIFg0
オショーも修行のために独り山にこもるのは無意味だといっているのじゃ。
孤独は心の中にあるものであるからのう。
山の中でも他人を想っていたら何の意味もないのじゃ。
街中に居ても修行を続けるならばそれが閑居なのじゃ。
266
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/17(木) 00:18:00 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話157
質問者
「私」の探究において、探究者はある段階で恩寵が入り込むようにするために、心を否定的な態度に保つよう指導されます。
しかし否定的な態度がどうして積極的な結果をもたらせると言うのでしょうか?
マハルシ
真我は常に存在しています。
それは新たに得られるようなものではないのです。
質問者
私が尋ねたいのは、恩寵を受けるに値するだけの何が否定的な態度によってもたらされたと言うのでしょうか、ということです。
マハルシ
あなたはこの質問を恩寵なしに尋ねているのですか?
恩寵は始まりにも、中間にも、そして終わりにも存在しています。
恩寵とは真我なのです。
真我と身体との偽りの自己同一化ゆえ、グルも身体を持っていると見なされています。
しかしグルの視点から見れば、グルは真我でしかありません。
真我はただ一つの存在です。
グルは「ただ真我だけが存在する」と告げます。
だとすれば、真我があなたのグルではないでしょうか?
それ以外のどこから恩寵が注がれると言うのでしょう?
それはただ真我からしかありません。
真我の現れは恩寵の現れであり、その反対もまた然りです。
これらの疑いはすべて、誤った観点と自分の外側の物事に結果を期待するために起こります。
真我の外側に存在するものは何もないのです。
質問者
私たちの質問は私たちの視点から見たものであり、シュリー・バガヴァーンの答えは彼の視点から見たものです。
質問は答えを得ただけではなく、知らぬ間に拭い去られたのです。
267
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/17(木) 22:12:12 ID:1d4drIFg0
全てが恩寵であるならば、否定的な態度であろうとなかろうと何の違いも無いのじゃ。
積極的な成果は積極的な態度からしか起こらないというのも間違いなのじゃ。
ただ自我に囚われて抜け出せ無い者に、すべてを否定するアートマンの道が示されるのじゃ。
アートマンは積極的な成果ですらないのじゃ。
すべてであるだけなのじゃ。
268
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/17(木) 23:24:23 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話158
1936年2月11日
フリードマン氏
ジャナカ王はジニャーニでありながら王国を統治しました。
行為は心の活動を必要とするのではないでしょうか?
ジニャーニの心の働きにはどのような理論的根拠があるのでしょうか?
マハルシ
あなたは、「ジャナカ王はジニャーニでありながら活動的だった」と言います。
ジャナカ王がこの質問をするでしょうか?
この問いはあなたの心の中だけにあるのです。
ジニャーニは真我以外の何にも気づいていません。
彼にこのような疑いは起こらないのです。
質問者
それはおそらく夢のようなものなのでしょう。
私たちが夢について語るように、彼らは彼らの行為も夢のように見ているのでしょう。
マハルシ
夢でさえあなたの心の中にあります。
この説明でさえあなたの心の中だけにあるのです。
質問者
はい。
わかります。
すべては真我から現れたラマナ・マーヤーなのですね。
マハルシ
もしそうなら、そこに二元性はなく、語るべきこともありません。
質問者
真我を実現することによって、人はより効果的に世界を救うことができるのです。
そうではありませんか?
マハルシ
もし世界が真我から離れてあるというのであれば。
269
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/18(金) 22:47:33 ID:1d4drIFg0
世界は自分の心が作り出した観念であるから救われることも救われないこともないのじゃ。
全てはアートマンなのじゃ。
アートマンが実現されることでアートマンが救われることも無いのじゃ。
個人の観念が無ければアートマンも実現するのじゃ。
270
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/19(土) 03:17:41 ID:5cT9Awlw0
ラマナ・マハルシとの対話159
1936年2月12日
コーエン氏が尋ねた。
「トランス状態は真我実現に必要不可欠なものなのでしょうか?」
マハルシ
あなたは常に真我の内に在るのです。
今も、トランス状態においても、深い眠りの中でも、実現したときもです。
もしあなたが真我を手放して自分を身体や心と同一視するなら、トランス状態はあなたに取り付くかのように見えるでしょう。
それは空白状態のように見えるかもしれません。
しかし、それでもあなたは永遠の存在である真我なのです。
質問者
シュリー・オーロビンドは「頭の中にある光をハートへ降ろさなければならない」と言っています。
マハルシ
真我はすでにハートの中に在るのではないでしょうか?
いったいどうやってすべてに遍在する真我を一つの場所からもう一つへ移すと言うのでしょうか?
質問者
カルマ・ヨーギーやバクタ(帰依者)もトランス状態が必要なのでしょうか?
マハルシ
心を一点に集中するとき、あなたはその中に没入します。
この没入状態がトランスと呼ばれるものです。
他のすべては消え去り、ただ真我だけが残ります。
カルミー(行為の道の修行者)もバクタもこの同じ体験をしなければならないのです。
271
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/19(土) 23:04:16 ID:1d4drIFg0
ここでいうトランス状態とはサマーディと同じ状態なのじゃ。
心を一点に集中して自分を忘れた状態なのじゃ。
自分が忘れられたならばそこにアートマンが在ることを実感するのじゃ。
それは認識主体である認識されないものなのじゃ。
272
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/20(日) 00:11:37 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話160
質問者
フリダヤ(ハート)とその中にあるスプラナ(「私-私」という輝き)とは何でしょうか?
それらはどのように現れるのでしょうか?
マハルシ
フリダヤとスプラナは真我と同じものです。
スプラナは現れるための土台を必要とします。
このことは『真我探究』(ヴィチャーラ・サングラハム)という本の中に説明されています。
質問者
スプラナはどのように現れるのでしょうか?
光や動きとしてでしょうか?
マハルシ
どうしてそれを言葉で表現できるでしょう?
それはそれらすべてを含んでいるのです。
それは真我です。
あなたの注意をそれにとどめなさい。
そしてその究極的特質をとらえたまま放してはなりません。
*『真我探究』(ヴィチャーラ・サングラハム)
1901年、シュリー・ラマナが22歳のときに与えた教えを弟子が書き記した最も初期の記録。
…それゆえ、死骸となった身体は死骸として捨て置き、「私」という言葉さえ口にせずに、「『私』として現れているそれは、いったい何なのか」と鋭く探究するべきである。
そうすれば、多数に分割された想念は消え去り、単一で分割不可能な純粋意識である「私-私」という無音のスプラナ(輝き、振動)がおのずと輝き出すだろう。
その体験を離れずにそのまま静寂の内にとどまれば、自我の形である「私は身体だ」という個我の感覚は完全に破壊され、スプラナさえも静まるだろう。
賢者や聖典は「ただこれのみが解脱である」と断言している。
273
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/20(日) 23:20:33 ID:1d4drIFg0
単一で分割不可能なものとは正にアートマンに他ならないのじゃ。
純粋観照者であるアートマンは認識すらされないものであるから、分割も出来ない一つのものなのじゃ。
そして一つですらないのじゃ。
あるものはアートマンだけであるから一とか二とかの観念もないからなのじゃ。
唯一無一の存在なのじゃ。
274
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/21(月) 00:06:45 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話161
1936年2月13日
アナンタプルから来た初老の男性が、ホールで『ヴェーダ』の詠唱を聞いた後、立ち上がって尋ねた。
「ブラーフマナ階級でない人たちは、『ヴェーダ』の詠唱を聞いてはならないと言われています」
マハルシ
他人事に干渉せず、あなたがここに来た目的を果たすことに努めなさい。
なぜそのような問題に時間を無駄にするのですか?
「私は詠唱を聞いた」とあなたは言います。
その「私」とは誰なのですか?
「私」とは何かを知ることもなく、あなたはその言葉を使っているのです。
その意味を知れば、疑いは起こらないはずです。
まず「私」を見いだしなさい。
それ以外のことについては、その後で話せばいいでしょう。
続けてシュリー・バガヴァーンは言われた。
マハルシ
「法典はあることを語っている。それらはもはや現代には通用しない。私が世界を改革して、法典を書き直そう」。
人々は遥か昔からこう言って騒ぎ立てています。
そのような改革者たちが現れては消えていきました。
それでも太古の法典はいまだに守られているのです。
なぜそのようなことに時間を無駄にするのですか?
各自が自分で自分の面倒を見ればよいのです。
そうすればすべて問題はなくなるでしょう。
275
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/21(月) 22:18:18 ID:1d4drIFg0
新しく書かれたヴェーダにはバラモンの家に生まれた者しか聖典を読んではいけないとか、悟れないとか書いて在るのじゃ。
それは嘘なのじゃ。
最古のヴェーダにはバラモンや武士や商人などの職種が巨人の頭や手足から生まれたとあるだけなのじゃ。
それは行ないによる職種であるだけなのじゃ。
バラモンは頭として人の心と智慧を司り、手である武士は敵を防ぎ、胴体である商人は富を増やし、足である肉体労働者が社会を進ませる力となるのじゃ。
そこには生まれや上下の区別はなく、ただ行いによって全ての職種が社会に貢献することを説いただけなのじゃ。
それを知ってお釈迦様もマハリシも全ての者に悟りの道が開かれていることを正しく説いたのじゃ。
276
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/22(火) 00:15:25 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話162
1936年2月23日
マハーラーシュトラ州から来た中年の女性は、『ギャーネーシュヴァリ』、『バーガヴァタ・プラーナ』、
『ヴィチャーラ・サーガラ』を学び、眉間に精神集中する修練を続けてきた。
その修練で震えや恐れを感じて進歩が止まっていたため、彼女は指導を求めた。
マハルシは「見る者を忘れてはいけません」と彼女に語った。
「見られる対象は眉間に固定されていても、見る者が視野に入っていません。
見る者を常に忘れなければ、すべてはうまくいくでしょう」
277
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/22(火) 23:13:14 ID:1d4drIFg0
恐れを感じたりして修行をやめてしまうのは自我があるからなのじゃ。
自我の消える恐れとか、自分がコントロールできなくなる恐れを感じるのじゃ。
それらを全て観ている意識と同調すれば、恐れも流していけるのじゃ。
変化があるのは進んでいる証拠であるから恐れる必要は無いのじゃ。
278
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/23(水) 00:15:30 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話163
1936年2月24日
七十歳に近いアメリカ人のヘンリー・ハンド博士が尋ねた。
「自我とは何でしょうか?」
マハルシ
自我は外側ではなく内側にあるのですから、あなたにとって明らかなはずです。
質問者
その定義は何でしょうか?
マハルシ
定義もまた自我から生じるのです。
自我がそれ自身で定義しなければならないのです。
質問者
魂とは何でしょうか?
マハルシ
自我を見いだしなさい。
そうすれば、魂も見つかるでしょう。
質問者
では、それらは同じものなのですね?
マハルシ
魂は自我なしでも存在しますが、自我が魂なしに存在することはできません。
それらは水泡と海のような関係なのです。
質問者
それで疑問は晴れました。
アートマンとは何なのでしょうか?
マハルシ
アートマンと魂は同じものです。
279
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/23(水) 22:53:00 ID:1d4drIFg0
アートマンとは認識できない認識主体なのじゃ。
それをマハリシ魂と同じものというのじゃ。
アートマンから自我も生まれるというのじゃ。
自我を追及する事でアートマンも見出せるというのじゃ。
280
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/24(木) 00:50:36 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話164
もう一人のアメリカ人が想念の形態について尋ねた。
マハルシ
想念の源をたどりなさい。
そうすれば、それらは消え去るでしょう。
質問者
想念は物質化するのです。
マハルシ
想念があれば、それは物質化され、想念が消え去れば、物質化されるようなものは何もなくなります。
さらに、もしあなたが物質的であれば、世界も物質的に見えるのです。
あなたが物質なのかどうか、自分で見いだしなさい。
質問者
どうすれば私は神の世界で役立てるようになるでしょうか?
マハルシ
世界の神聖な部分と「私」が異なっているかどうか見てみなさい。
あなたは自分自身を救うことさえできないのに、世界を救おうとして世界の神聖な部分に救いを求めています。
しかし真実は、神があなたを指揮し、操っているのです。
深い眠りのとき、あなたはどこに行くのでしょうか?
あなたはどこから現れ出るのでしょうか?
質問者
私は行為や想念に影響されてきたのです。
マハルシ
行為も想念も同じものです。
質問者
守護天使などの超常現象を感じ取る方法はあるでしょうか?
マハルシ
見られる対象の状態は、見る者の状態にしたがうのです。
質問者
集団はみな同じものを見ます。
マハルシ
なぜなら、見る者全員の背後にあるのはただ一人の「見る者」であり、現象には多様性があるからです。
あなたは深い眠りの中で多様性を知覚しますか?
質問者
私たちはずっと以前に死んだアブラハム・リンカーンを見ます。
マハルシ
見る者なしに対象が存在するでしょうか?
その体験は真実かもしれません。
対象は見る者の状態にのみ依存するのです。
質問者
私の助手の一人は戦争で殺されました。
彼の死後九年経って別のグループ写真が撮られたのですが、その写真の中に彼の姿が現れたのです。
これをどう思われますか?
マハルシ
おそらく想念が物質化されたのでしょう。
その根源に行きなさい。
質問者
どうすればよいのですか?
マハルシ
もし道が外側に向かっているのなら方向を示すこともできたでしょう。
しかしそれは内側にあるのです。
内面を探しなさい。
真我は常に実現されています。
まだ実現されていないものは、新たに探すこともできるでしょう。
しかし真我はあなたの体験の中にあるのです。
質問者
そうです。
私が私自身を実現するのです。
マハルシ
私自身……。
そこには私と私自身という二人がいるのですか?
質問者
そういう意味ではありません。
マハルシ
誰が実現した、あるいはしなかったと言うのでしょうか?
質問者
ただ真我だけが存在するのです。
マハルシ
そこに二人が存在するときだけ、質問は起こるのです。
真我と非真我との誤った同一化を放棄しなさい。
281
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/24(木) 00:53:11 ID:/ZpCQ3Mc0
質問者
私はより高い段階の意識を意味していたのです。
マハルシ
段階などありません。
質問者
なぜ人は即座に光明を得ないのでしょうか?
マハルシ
人は光明そのものです。
彼が輝かせているのです。
質問者
あなたの教えは他の師たちの教えとは異なりますか?
マハルシ
道は一つであり、実現もただ一つです。
質問者
それでも、人々は多くの方法について語っています。
マハルシ
方法は彼らの精神状態によって異なるのです。
質問者
ヨーガとは何でしょうか?
マハルシ
ヨーガ(合一)はヴィヨーガ(分離)の状態にある人のためにあります。
しかしそこにはただ「一なるもの」だけが在るのです。
真我を実現すれば相違はなくなるでしょう。
質問者
ガンジス川で沐浴することに恩恵はあるのでしょうか?
マハルシ
ガンジス川はあなたの内側にあります。
このガンジス川はあなたに冷たさも寒気も感じさせません。
その中で沐浴しなさい。
質問者
ときどき『バガヴァッド・ギーター』を読むべきでしょうか?
マハルシ
いつも読むべきです。
質問者
聖書を読んでもよろしいでしょうか?
マハルシ
聖書と『ギーター』は同じものです。
質問者
聖書は「人は罪とともに生まれ来る」と教えています。
マハルシ
人間は罪なのです。
深い眠りの中では「人間である」という感覚はありませんでした。
身体という想念が罪という概念をもたらします。
想念の誕生自体が罪なのです。
別の質問に答えて師が語った。
「誰もがただ真我だけを見ています。神の姿は実在という海の中の水泡、あるいはスクリーン上の画像にすぎません」
質問者
聖書は「失われた魂」について述べています。
マハルシ
「私」という想念は自我であり、それが失われるのです。
真実の「私」は「私は私で在るものである」です。
質問者
オーロビンドの教えとマザーの教えには矛盾があります。
マハルシ
まず初めに自我を明け渡しなさい。
それから矛盾を一致させなさい。
質問者
放棄とは何でしょうか?
マハルシ
自我を明け渡すことです。
質問者
それは所有物を棄て去ることではありませんか?
マハルシ
所有者をもです。
質問者
人々が他の人たちのために所有物を棄て去るなら、世界は変わるでしょう。
マハルシ
まずあなた自身を放棄しなさい。
それから他の事を考えればよいのです。
282
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/24(木) 00:54:13 ID:/ZpCQ3Mc0
別の質問に答えてシュリー・バガヴァーンが言った。
マハルシ
修練方法は個人の気質にしたがって、容易に見えるものとそうでないものがあります。
それは、以前に何の修練をしてきたかによります。
質問者
実現を即座に得ることはできないのでしょうか?
マハルシ
実現とは新しいものではありません。
それは永遠なるものです。
頓悟も漸悟もないのです。
質問者
輪廻転生はあるのでしょうか?
マハルシ
もしあなたが今、肉体を与えられて存在していると言うのなら、輪廻転生もありえるでしょう。
しかし今でさえあなたは生まれていないのです。
別の質問に答えて。
マハルシ
自我がすべての病気の根源です。
それを棄て去りなさい。
そうすれば、病気というものはなくなるでしょう。
質問者
もしすべての人が放棄したなら、世界は機能できるのでしょうか?
誰が耕し、誰が収穫すると言うのでしょう?
マハルシ
まず真我を実現しなさい。
それからどうなるか見てみなさい。
実現による助けは、言葉や思考や行為による助けをすべて超越します。
もしあなた自身の実在性を悟れば、師やリシたちの実在性も明らかになるでしょう。
師はただ一人です。
そしてそれが真我なのです。
質問者
すべての師が沈黙と受容性を強調します。
どうしてでしょうか?
マハルシ
沈黙とは何でしょうか?
それは永遠に雄弁なものなのです。
質問者
受容的な心とはどのようなものでしょうか?
マハルシ
乱されることのない心のことです。
質問者
二国間で教授など知識人の交流や交換を図ることで、アメリカとインドが親交を深めるのは有益でしょうか?
マハルシ
そのようなことは自発的に起こるでしょう。
国家の運命を導いている力というものがあるのです。
このような質問は、あなたが実在から切り離されているときにだけ起こります。
アメリカやインドはあなたから離れて存在しているでしょうか?
それをとらえて、見てみなさい。
質問者
シュリー・ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダを育成しました。
その背後にある力とは何でしょうか?
マハルシ
力はただ一つであり、すべての中に存在しているのです。
質問者
その力の本質とは何でしょうか?
マハルシ
それは鉄くずが磁石に引き寄せられるようなもので、その力は外側ではなく内側にあります。
シュリー・ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダの中に存在していたのです。
もしあなたがヴィヴェーカーナンダを身体と見なすなら、ラーマクリシュナもまた身体です。
しかし彼らは身体ではなかったのです。
ラーマクリシュナが彼の内面に存在していなかったら、ヴィヴェーカーナンダがサマーディに入ることもできなかったでしょう。
283
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/24(木) 00:54:53 ID:/ZpCQ3Mc0
質問者
なぜ人はサソリに刺されたとき苦しむのでしょうか?
マハルシ
身体と世界の現れの原因とは何でしょうか?
質問者
それは宇宙的な心の一部です。
マハルシ
では、そのようなことは字宙的な心に悩まさせればよいのです。
もし個人が知ることを望んでいると言うなら、その個人に真我を探させなさい。
質問者
硝酸を飲んだり、毒を飲み干したり、火の上を歩いたりするヨーギーの秘法は、彼らの波動の状態によるのでしょうか?
マハルシ
物理的身体にその質問をさせればよいのです。
あなたは物理的ではありません。
なぜあなたではないものについて気にするのですか?
もし真我が何らかの形を持つなら、それは物事の影響を受けるでしょう。
しかし真我に形はありません。
それゆえ物質との接触で影響を受けることはないのです。
質問者
「愛の海」の意義とは何でしょうか?
マハルシ
魂、聖霊、実現、愛などは、どれも同義なのです。
質問者
実に、実に啓蒙を受ける会話です。
N・スッバ・ラーオ氏
ヴィシシュタアドヴァイタ(限定不二一元論)とは何でしょうか?
マハルシ
それはこれ(不二一元論)と同じです。
質問者
彼らはマーヤーを認めているのではないでしょうか?
マハルシ
私たちは「すべてがブラフマンだ」と言います。
彼らは「ブラフマンはすべての中に限定されたまま存在している」と言い続けています。
質問者
彼らは世界が実在だと言います。
マハルシ
私たちもそう言います。
シャンカラーチャーリャはただ「世界の背後にある実在を見いだしなさい」と言いました。
ある人が幻影と呼ぶものを、別の人は変転変化するものと呼ぶのです。
最終的には、どちらも同じことです。
ハンド博士
マハルシ!
どうぞ私たちのことを悪がきだと思わないでください。
マハルシ
私にそう言ってもだめです。
それでも自分のことを悪がきだなどと思う必要はありませんよ。
みなが笑って五時に解散した。
数分後、シュリー・バガヴァーンは言った。
「もうしばらくここに滞在すれば、彼らも静かになるでしょう」
*頓悟と漸悟
頓悟は修練に依らず、ただ自己の本性に目覚めることで忽然と真我実現すること。
漸悟は目標を定め、段階的な修練を通して真我実現に達すること。
284
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/24(木) 22:20:42 ID:1d4drIFg0
どのように教義が変ろうと説かれていることは同じなのじゃ。
全てはブラフマンなのじゃ。
お釈迦様もブラフマンの法を説いているのじゃ。
全ては人がブラフマンに辿りつくための方法に過ぎないのじゃ。
285
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/24(木) 23:50:53 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話165
N・スッバ・ラーオ氏
人はサマーディの中に入って行かないものなのでしょうか?
マハルシ
今ここにサマーディがないと言うのですか?
質問者
サマーディは永遠のものなのでしょうか?
マハルシ
そうでなければ、どうしてそれが実在でありえるでしょう?
質問者
だとすれば、それからどうすればよいのですか?
マハルシ
「それから」も「今」もないのです。
質問者
そうあるように見えますが?
マハルシ
誰にとってですか?
質問者
心です。
マハルシ
心とは何でしょうか?
私とは誰でしょうか?
質問者
(沈黙)
286
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/25(金) 23:04:50 ID:1d4drIFg0
自分とは何かを追求することが悟りへの道なのじゃ。
サマーディもまたその通過地点に過ぎないのじゃ。
なくてもよいものじゃ。
ただひたすらに自分とは何か追求し綴るのじゃ。
287
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/25(金) 23:45:36 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話166
質問者
神の力を取り入れることで、老いと病気を撃退することはできるでしょうか?
マハルシ
あなたは身体そのものを撃退できるのです。
質問者
どうやって神の力を取り入れるのでしょうか?
マハルシ
それはすでにそこに在るのです。
取り入れる必要などありません。
もしあなたがその外側に在ると言うならそれも可能でしょう。
しかしそれは「あなた」なのです。
取り入れたり与えたりするようなことはないのです。
質問者
食制限のような肉体的戒律にしたがう必要があるでしょうか?
マハルシ
それらはすべて想像でしかありません。
288
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/26(土) 22:56:39 ID:1d4drIFg0
身体は悟りを得るための道具に過ぎないものじゃ。
用がなくなれば捨て去るものじゃ。
いつまでも持っていられないものなのじゃ。
自己を追求しない者には戒律による肉体の制御も無意味なのじゃ。
289
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/26(土) 23:40:29 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話167
ある人が精神集中のできないことに悩んでいた。
マハルシ
今でさえそれは「一なるもの」なのではないでしょうか?
それは常に「一なるもの」として在り続けるのです。
多様性はあなたの心の中にのみ存在しています。
「一なる存在」を獲得しようとする必要はないのです。
290
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/27(日) 22:50:23 ID:1d4drIFg0
集中することはアートマンを実現する手段の一つに過ぎないのじゃ。
それがうまく出来ないからと嘆くのは本末転倒なのじゃ。
常に変らぬアートマンそのものであることを見逃しているのであるからのう。
修行は自分を変化させることではなく、変らぬ自己の真髄であるアートマンを見出すことなのじゃ。
291
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/27(日) 23:50:41 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話168
ある人が語った。
「真我実現した人は食べ物などを必要としないはずです」
マハルシ
あなたの理解は、あなたの状態にしたがうのです。
292
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/28(月) 21:02:25 ID:1d4drIFg0
アートマンにもさまざまな迷信が付きまとっているのじゃ。
自ら実現しなければそれが迷信とはわからないのじゃ。
アートマンを実現して食べ物を必要としないということがどのようなことかわかるのじゃ。
自分の今の境地からしかアートマンの真実は理解できないのじゃ。
293
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/28(月) 23:38:35 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話169
質問者
どのように心を制御すればよいのでしょうか?
マハルシ
心をとらえなさい。
質問者
どのようにしてでしょうか?
マハルシ
心とは何でしょうか?
見いだしなさい。
それは想念の集まりです。
質問者
どうすれば性的衝動を根絶できるでしょうか?
マハルシ
身体が真我だという誤った観念を根こそぎにすることによってです。
真我の中に性はありません。
質問者
どうすればそれを理解できるでしょうか?
マハルシ
あなたが自分を身体だと考えるため、他者のことも身体として見なして性別という観念が起こるのです。
しかしあなたは身体ではありません。
真我として在りなさい。
そこに性は存在しません。
294
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/29(火) 23:03:28 ID:1d4drIFg0
性別も観念から起こるのじゃ。
自分が男とか女とかの観念から異性を求める観念があるのじゃ。
時に観念が一般とは違う方向に条件付けされると、同性愛とか物体を愛する者もできるのじゃ。
観念遊戯なのじゃ。
295
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/30(水) 00:15:55 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話170
質問者
ヨーギーは過去世を知ることができるのでしょうか?
マハルシ
あなたは過去を知りたがっている現在の人生を知っているのですか?
現在を見いだしなさい。
そうすれば他のことは明らかになります。
現在のこの限られた知識にあってさえこんなにも苦しんでいるというのに、なぜより多くの知識の重荷を自分に負わせなくてはならないのでしょうか?
もっと苦しむためですか?
質問者
断食は実現の助けとなるでしょうか?
マハルシ
助けとはなっても、一時的なものにすぎません。
精神的な断食のほうが本当の助けになります。
断食自体が最終的な目的なのではありません。
そこには同時に霊的な進展もなければならないのです。
完全な断食は心を弱めることもあり、霊的探究のために十分な力を引き出すこともできなくなります。
それゆえ節度ある食事を取り、修練に励みなさい。
質問者
一ヶ月間の断食の後、十日もすれば心は純粋となり、安定したまま永遠にとどまると言われています。
マハルシ
そうです。
もし断食の間も霊的探究を正しく続けるならばですが。
296
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/10/30(水) 22:34:17 ID:1d4drIFg0
断食だけで悟れるとか、心も浄化されるというのは嘘なのじゃ。
肉体は健康になるが、心には影響しないのじゃ。
脳が良くなることもあるがのう。
脳の病が治り、記憶力とか思考力がよくなるだけなのじゃ。
297
:
避難民のマジレスさん
:2019/10/31(木) 00:02:40 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話171
別の質問に師は答えた。
「ハートからハートに語られ、ハートからハートに聞かれることが最善です。
それが最高の教え(ウパデーシャ)なのです」
質問者
グルからの指導が必要なのではありませんか?
マハルシ
あなたはグルから離れているのですか?
質問者
グルの近くに在ることは助けとなるのでしょうか?
マハルシ
あなたは身体的な近さを意味しているのですか?
それが何の役に立つと言うのでしょう?
ただ心だけが重要なのです。
心がグルとのつながりを持たなければならないのです。
298
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/11/01(金) 00:52:49 ID:1d4drIFg0
弟子が完全にグルを信頼していたならば、即座に忘我に達することも出来るじゃろう。
信じていれば病もなおるのじゃ。
そこまで信頼するのは難しいがのう。
奇跡も信じることから起こるのじゃ。
299
:
避難民のマジレスさん
:2019/11/01(金) 01:09:26 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話172
1936年2月28日
質問者
瞑想と探究(ヴィチャーラ)の違いとは何でしようか?
マハルシ
どちらも等しい結果をもたらします。
探究に向いていない人は瞑想を修練しなければなりません。
その修練において、修行者は自分自身のことを忘れて「私はブラフマンである」や「私はシヴァである」に瞑想します。
こうして彼はブラフマンあるいはシヴァをとらえ続けます。
これが究極的には最後に残る存在であるブラフマンあるいはシヴァに至り、シヴァが純粋な存在、真我であることを悟るのです。
探究にたずさわる人は、「私は誰か?」と尋ね、自分自身をとらえることで真我が明らかになるのです。
質問者
直接体験によって得られた知識が、後になって失われることはあるのでしょうか?
マハルシ
『カイヴァリヤ・ナヴァニータム』は失われることもあると述べています。
すべてのヴァーサナー(心の潜在的傾向)が根絶されないままに得られた体験は確固としたものではありません。
ヴァーサナーを消滅させるためには努力をしなければなりません。
さもなければ、死後の再誕生は避けられないでしょう。
ある人は、直接体験は師から真理を聞くことで起こると言います。
ある人は、真理を熟考することによって得られると言います。
また別の人は、精神を一点に集中させること、あるいはサマーディによって得られると言います。
表面的にはそれらは異なって見えますが、最終的には同じことなのです。
すべてのヴァーサナーが根絶された後にのみ、知識は揺るぎないものとなるのです。
300
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/11/01(金) 22:58:11 ID:1d4drIFg0
ヴァーサナーとは心の習慣によるものなのじゃ。
それは完全な観察によって気付かない限りなくならないのじゃ。
道に落ちている縄が完全に見られて蛇ではないと気付かない限り、恐れが残るようにのう。
完全に観察されれば消えるのじゃ。
301
:
避難民のマジレスさん
:2019/11/02(土) 00:00:03 ID:/ZpCQ3Mc0
ラマナ・マハルシとの対話173
1936年2月29日
質問者
どうすれば自我の束縛を弱めることができるでしょうか?
マハルシ
新たなヴァーサナーを加えないことによってです。
質問者
どれほどジャパをしても自我の束縛を弱めることができないのです!
マハルシ
どうしてですか!
しかるべき時が来れば自我は弱まり消え去るのです。
302
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/11/02(土) 22:29:36 ID:1d4drIFg0
行うことは自我を強めることになるじゃろう。
行わないことで自我も弱くなるのじゃ。
行いが無く、行う自分がなければ自我も無いのじゃ。
そのための工夫が法なのじゃ。
303
:
避難民のマジレスさん
:2019/11/02(土) 23:51:45 ID:YmiFN7jk0
ラマナ・マハルシとの対話174
1936年3月2日
アメリカ人紳士、ハンド博士が尋ねた。
「自我の源を見いだす方法は二つあるのでしょうか?」
マハルシ
二つの源があるわけではなく、二つの方法があるわけでもありません。
源も方法もただ一つです。
質問者
瞑想と真我探究の違いは何でしょうか?
マハルシ
瞑想は自我を保たなければできません。
そこには自我と瞑想の対象があります。
この方法は間接的なものです。
一方、真我はただ一つです。
自我を見いだすこと、すなわちその源を探究することで、自我は消え去ります。
その後に残ったもの、それが真我です。
この方法は直接的なものです。
質問者
では私はどうすればよいのでしょうか?
マハルシ
真我をとらえなさい。
質問者
どのようにするのですか?
マハルシ
今でさえ、あなたは真我なのです。
しかしあなたはこの自我意識と絶対意識を混同しています。
この偽りの自己同一化は無知によるものであり、自我が消えるとともに無知も消え去ります。
それゆえ、自我を殺すことだけが唯一為すべきことです。
実現はすでにそこに在ります。
実現を達成しようと試みる必要はありません。
なぜなら、それは外側に在るのではなく、新しい何かでもないからです。
それは常に遍く存在し、しかも今ここに在るのです。
304
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/11/04(月) 22:05:20 ID:1d4drIFg0
本来自己を探求することだけが、真の修行なのじゃ。
その一つだけが真の修行なのじゃ。
しかし、直接それをすることが難しい者のために瞑想や其の他の修行もあるのじゃ。
ただ今ここにあり続けることが出来るならば、アートマンも実現できるのじゃ。
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