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神の存在/不在と科学の範囲
304
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 00:12:57 ID:Q7XBVw2.
>NORTON3rdさん
ご指摘ありがとうございます。「中観派」です。
>macskaさん
>>298
あなたにとって仏教が宗教であるとかないとか、何の言い訳にもなりません。ならば創造科学も「宗教ではない」と言えばそれまでになってしまうでしょう。そんなことは何の関係も無い。「価値感であって、信仰ではない」…だから何なのです。あなたにとって仏教が「宗教ではない」もので、「信仰ではなく価値感」だとして、それが仏教である以上は仏説であるはずです。その仏説に対して、あなたはどのように科学で検証して、今にいたるのか、それを示せと言っているのです。
できないことなどないでしょう?見せてご覧なさい。ナザロの復活やマリアの処女受胎などを科学で検証すべきだと言う以上、当然、あなたも自身の受け入れるところの仏説に対して、それを行ってきたはずだ。異教をあれこれ言う前に、自分はこうやったと示す責任がある。仏教徒と称しつつクリスチャンに科学の矢を放つ以上は、それが異教徒への最低限の責任だと言ってもよい。いや、それ以前に、同じ仏教徒への責任でもある。
それと、「ドーキンス流に言えば仏教は宗教にあらず」とは詭弁もはなはだしい。「宗教」という言葉が仏典用語である。「宗(むね)とする教え」だ。仏教が宗教でないことがあろうか。怪異や奇跡を信仰しないこと、むしろ「信仰を去れ」というに近いものであったかもしれないことは私も承知している。おそらく原初の仏説はそうだったのではないかとは私も思うが、その部分だけに逃げて仏教をとらえてはいけない。既に他の人が引用していますが、
*************
かようにわたしは聞いた。あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」「そうではない。」・・・(中略)・・・さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。
かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」すると世尊は、かように教えて言った。「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240〜242頁)
**************
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
科学によってそれらを検証せよ…とのあなたの主張は、仏説に背くものであると思うが如何。だから私は問うている。あなたは、自分の主張をこの仏説に向けたことがあるのか。
それと、ドーキンスの近著に感化されたとのことだが、にわかじこみは恥ずかしいのでやめたほうが良い。ついこのあいだまで、社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかったのに、急にグールドvsドーキンスの深い主題が理解できているとは、到底思えないのだが。
305
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 01:38:40 ID:Q7XBVw2.
一例としてmacskaさんが挙げていた「ナザロの復活」を題材にして、ちょっと長い感想を書きました。ご参考までに。
ttp://d.hatena.ne.jp/keya1984/20070119
306
:
地下に眠るM
:2007/01/20(土) 02:04:12 ID:KGIxSE4o
ま、不毛といえば不毛なことにゃんが
>>233
より
macska「偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるだけ」
馬鹿猫「macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだ」
macska「わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか? 」
>>237
より
>はい、その部分は、本来の議論とは関係のない議論に踏み込んでしまって、分かりにくくなってしまったと思います。しかし、
>>33
の時点から
>>111
の時点までのあいだに「わたしの主張はそれではなくこれです」と何度も説明しているわけで、それだけ離れた発言を連続するものであるかのように書くのは不当です。
>はっきり書かないと分からないようなのでもう一度説明しますが、
>>33
で示した「偶然」についての認識は、わたしは撤回しているのです。なぜなら、それは本来の議論から離れた論点であり、本来わたしが主張していることは、
>>33
で示した認識に依存しないからです。
チミの議論スタイルがよくでているにゃんなあ(呆気
33から111の間に、偶然が無知によるものであるという見解を相対化するような記述は僕には認められなかったにゃ。あるなら具体的に出してよ。
「自分のコトバに責任をもつ」ちゅうのは、議論における最低限のルールのはずだにゃ。
ある言明を行なったのであれば、それを明確に訂正しにゃー限りは過去の言明を持ちだされてつつかれるのはアタリマエもいいところだろ?
>>33
で示した見解を、いったいどこで撤回したの?
>>33
以降も、何回か偶然は無知によるものだという旨の発言は見られるにゃんがね。
「はっきり書かないと分からないようなので」って何様のおつもり?
自分の発言を撤回するのであれば、それを「はっきり」書くのはアタリマエなのではにゃーのかね?(ここは逃げずに答えること)
チミの主張は、どれがいつ撤回されたものなのかわからにゃーんだ。過去ログを読んでいくと、チミの主張には多くの矛盾点がみられるのだけど、どうしていいのかわからにゃー。
だって、明確に撤回がされてにゃー過去発言をもとに(というか、僕には撤回のテの字も読めなかったけど)発言しても、「いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか?」などといわれてしまったうえに、ログからその経緯をひっぱったら不当だとかいわれてしまうのではにゃー・・・・・
NANの指摘したキリストのDNAがどうとかいう問題もそう。
書き手の意図がうまく伝わらにゃーことは多々あるにゃ。それは確かに書き手と読み手双方に問題があることもあるし、書き手あるいは読み手に重大な、あるいは一方的な過失がある場合もあるにゃ。
そして、この件において、ミケ、NANその他の者が「誤読」をしていた(僕もミケやNANと同じように読んでいた)にゃ。読みは正確な連中だと思うんだけどにゃ。また、読み返しても、ミケやNANの読み方が可能(というかそっちのほうが自然に思える)な記述だにゃ。
そして、「誤読」というコトバは、読み手側の一方的あるいは重大なミスと解釈できる。
あんな文を書いておいて「誤読」とか抜かしたら紛糾して当然だろ?
あんな文を書いておいて「お前の読み間違い、こっちの真意はこうだよ」が通じるはずにゃーだろ?
自分の書いた文章に責任を持つのなら、文の記述にいささかなりともプライドを持つのであれば、訂正して謝罪というのがアタリマエ。チミ以外の多くのものはそうしているにゃ。もちろん僕も、表現に問題があったと思えば即刻謝っているにゃ。
>もしあなたも議論をスムースに進めたいと思っているのなら、どうして「相手に明示的に落ち度を認めさせる」ことにそんなに固執するのかなぁと。
>>289
議論をスムースにすすめたいから、自分の発言に責任をもてということなんだけどにゃ。
誤りを認める、とか、撤回する、ってのは「明示的」に行なうものなの。でなきゃ、議論にならにゃーの。
あと、本質に関係のあまりにゃーところで、自らの間違いをさくっと認めることにより、ギャラリーに「自分の間違いを認められるヒト」という印象を与えることができるという特典アリ。多用するといい加減な馬鹿と思われるので逆効果。
お願いだから、自分のコトバに責任を持ってくれ。
今後、僕とチミの見解はまるで別物であること。
やはりチミは無知に基づく宗教批判をしていることを検証するにゃんが、自分のコトバに責任を持ってくれにゃーと、こっちのすることがまるでムダになっちまうにゃ。まあ、ギャラリー向けにサービスするけどにゃ。ただし投稿ペースはだいぶ落ちる。
307
:
カモオオハシ
:2007/01/20(土) 05:52:36 ID:C0VsT.3A
こんにちは。ここにははじめて書き込みますカモオオハシといいます
(第一掲示板には大昔に書き込んだこともあります)。
以前からmacskaさんと地下猫さんのそれぞれの愛読者(ROMですが)
だったもので「ルパン対ホームズ」でも読んでいるような気分でログを
よませていただきました。格下の論敵を相手に徹底的にたたきつぶすという
芸風の(しかもなまじ有能な)二人がぶつかるとこんなふうになるんですね。
まあ、どちらが正しいというより、お互いに信頼関係があれば問題にも
ならないようなちょっとした言い間違いや説明不足が信頼関係がないため
にいちいち問題化し、関係をさらに悪化させている例のように見受けました。
同じ論点が繰り返し出ているのにお互い納得せず、お互い相手が不誠実な
ように感じている、というのは、視点や関心が違うために同じものがまったく
違うように見えている徴候です。相手からはどんなふうに見えているのか、
自分にとって大事な問題が相手にとって瑣末な問題に見えるのは何故なのか、
とお互い想像力をはたらかせてはいかがでしょうか。
macskaさんに対して一つコメントです。
もともとの火種となった、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
という言い方についてですが、そもそも、NATROMさんはこれを
「「いかなる神も存在しない」と示すという問題は科学の範囲外」という意味で
書いたのではないでしょうか(対応する質問も「神はいないのでしょうか」
というものですし)。わたしは少なくともそう理解し、問題を感じませんでした。
まあ、NATROMさん本人があいまいさをみとめて削除された文章ですので
いまさら蒸し返すこともないのかもしれませんが、もしかしたらNATROMさん
はmacskaさんのクレームについて「そんな読解が可能だなんて、あなたに
言われるまで考えもしなかった。」と思ってらっしゃるかもしれません。
308
:
diamonds8888x
:2007/01/20(土) 06:07:17 ID:Zz3oJN62
>>267
「認知の対象とする」ということと「認知した像が正しいか否か」ということは区別した方がわかりやすそうですね。「死んだ子供」も他人が客観的に認知できないとは言えないが、そうやって認知した像は、母親が認知した像とは異なっているし、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
この世界はヒトにとっても昆虫にとっても認知対象には違いないが、ヒトの眼に映る像と昆虫の眼に映る像と、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
この世界は科学にとっても神話にとっても認知対象には違いないが、科学の眼に映る像と神話の眼に映る像と、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
というところでしょうか。
309
:
diamonds8888x
:2007/01/20(土) 06:10:35 ID:Zz3oJN62
AH1さん(
>>300
)、みずすましさん(
>>303
)とも重なりますが。
macskaさんほどの方なら科学哲学や論理学についても一通りは御承知だと思います。とすれば「論理的には、科学のある命題が100%正しいことはありえない」という話は御承知ですよね。科学というより、人間の知覚が有限である以上は人間が何かを100%正しいと断言できることはありえません。科学のどんな命題もその根本には何らかの仮定があります。例えば、
・宇宙のどこもかしこも同じ物理法則が成り立つ
・過去も未来も物理法則は不変
・人間の知覚能力は一人の例外もなく似たり寄ったりである
・世界は論理的に矛盾無くできている
強力で個人的には例外を見つけていない仮定ですけど、100%正しいと断言はできません。とりあえず正しいと見なして前へ進むという科学の方法は間違ってはいませんけど、思索の上では正しくないかも知れないという立場にたつことも可能です。
そういう広すぎる立場にも理解を示していただかないと永遠に平行線だと思います。
310
:
diamonds8888x
:2007/01/20(土) 06:14:26 ID:Zz3oJN62
>>279
,
>>287
,
>>301
数学について別スレッドを立てましたので、よろしければそちらで議論しませんか?
311
:
macska
:2007/01/20(土) 09:00:43 ID:VdHL1C4M
>>304
> あなたにとって仏教が宗教であるとかないとか、何の言い訳にもなりません。
> ならば創造科学も「宗教ではない」と言えばそれまでになってしまうでしょう。
創造科学は科学理論を標榜しています。だから、科学的手法により否定すればそれで済みますね。
わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?
というわけで、
> その仏説に対して、あなたはどのように科学で検証して、今にいたるのか、
> それを示せと言っているのです。
価値観は科学的手法で検証されるものではないと思います。
> ナザロの復活やマリアの処女受胎などを科学で検証すべきだと言う以上
わたしの主張を曲解するのはやめてください。わたしが言うのは、現実世界で起こったとさsれる現象は科学の範疇であるというだけで、たまたまその現象を伝える書物が聖書だったからといって科学の範囲外であるということにはならない、というものです。わたしが「聖書に書かれているからといって特別扱いするべきではない」という要求を突きつけている対象は科学の側であって、キリスト教に対してなんら「奇跡を証明しろ」と要求していません。
> 異教をあれこれ言う前に、自分はこうやったと示す責任がある。
異教をあれこれ言っていない。科学のありかたを議論しています。
> 科学によってそれらを検証せよ…とのあなたの主張は、仏説に背くもので
> あると思うが如何。
そのように主張していません。って、これまでの議論ちゃんと読んでから発言してください。
> ついこのあいだまで、社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度に
> しか見ていなかったのに、
酷い中傷はやめてください。事実に反します。
>>306
わかりました。書き方に誤解を招くような要素があってすみませんでした。
でも、今は真意が分かったわけですから、それをベースに議論していただけないでしょうか。
>>307
> もともとの火種となった、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
> という言い方についてですが、そもそも、NATROMさんはこれを
> 「「いかなる神も存在しない」と示すという問題は科学の範囲外」という意味で
> 書いたのではないでしょうか
そうかも知れませんが、別の意味で解釈可能でした。
> もしかしたらNATROMさん
> はmacskaさんのクレームについて「そんな読解が可能だなんて、あなたに
> 言われるまで考えもしなかった。」と思ってらっしゃるかもしれません。
おそらく、その通りでしょう。そして、その結果あいまいさが減って良い文になったと思います。
>>309
> とすれば「論理的には、科学のある命題が100%正しいことはありえない」
> という話は御承知ですよね。
はい。「宗教にもわからない」という断言は、科学的事実としてではなく、論理的真(人知が及ぶものであれば科学の対象となり得る、人知が及ばないものには「宗教」と名をつけても人知は及ばない)として主張しています。科学的命題はどこまでいっても100%正しいとは断言できませんが、論理的命題は100%正しかったり100%間違っていたりということがあり得ます。
312
:
カモオオハシ
:2007/01/20(土) 10:15:24 ID:C0VsT.3A
>311
>「宗教にもわからない」という断言は、科学的事実としてではなく、論理的真(人知が及ぶものであれば科学の対象となり得る、人知が及ばないものには「宗教」と名をつけても人知は及ばない)として主張しています。
わたしは論点となっているのはやはり論理の問題ではなく方法論的選択の問題だと思います。
われわれは五感によって世界について知ることができると思っています。しかし、哲学的には、五感が世界について知るための信頼のおける道具だとどうして言えるのか、と疑うこともできますし、「人々は五感で世界について知ることができるという思い込みを事実とすりかえている」と批判することもできるでしょう。デカルト以来の哲学の歴史が示すように、これは原理的に論駁不能な批判です。五感によってえられる知識が信頼できると示すためにわれわれが使えるのも五感によってえられる知識だけですから、それを疑われたらほかに手がかりはありません。
さて、多くの宗教は「啓示」や「さとり」という仕方で世界の本当の姿について(特に人間の知覚の及ばない部分について)知ることができると主張します。啓示やさとりなんてただの思い込みだと言われてしまえば、それに反論する証拠を挙げることはできないでしょう。しかしこれは構造的にはさきほどの五感の例とパラレルです。つまり、論理的には、知識を得るための手段としての五感と啓示は懐疑主義に対して同じような問題に直面しているわけです。
もちろん、五感は啓示にくらべていろいろな長所があり、五感のみを信じるという方法論的選択には十分な根拠があると思いますが、それを論理的真の地位に格上げするべきではないと思います。
313
:
酔っ払い
:2007/01/20(土) 10:25:39 ID:2.Oxx5s.
初めまして。といっても2回目ですが。
macskaさんに質問です。
宗教は人知が及ぶものでしょうか。及ぶのなら、科学の対象となり得るのですか。
宗教が人知が及ばないものだとすると、人知が及ばないものが、宗教の対象となり得ますか。
-------
202へ突っ込みいれてくださった方、ありがとうございました。
314
:
macska
:2007/01/20(土) 10:46:23 ID:VdHL1C4M
>>312
よく読んでくださいね。五感によって得られるものが論理的真なのだと言っているわけではなくて、「人知の及ばないものについては、人知は及ばない」という言明が論理的真だと言っているのです。
つまり、仮に「死後の世界」が人知の及ばないものであれば、人知が及ばないわけですから「宗教」という名をつけても人間にはやっぱり分からないでしょう。一方、仮に「死後の世界」に人知が及ぶとしたら、つまりそれについて何らかの確からしい知が得られるとしたら、それは科学的探求の対象となり得るはずです。
「死後の世界」で分かり辛ければ、「天使のさまざまな名前や序列や役割分担」でも構いません。また、アブラハム系宗教だけ例に出すのが不当だというなら「仏様や菩薩のさまざまな名前や序列や役割分担」でも構いません。そのあたりは例示にすぎないので。
>>313
> 宗教は人知が及ぶものでしょうか。
さぁ。「宗教は」と言われても幅が広いのでなんとも言えません。
それからわたしは、例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。もし人知が及ぶのであれば、それは科学の対象となり得るし、もし人知が及ばないならば、それは宗教によっても「知る」ことはできず、「信じる」ことしかできないであろうと言っています。
> 及ぶのなら、科学の対象となり得るのですか。
「人知が及ぶ」ということを、何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈するなら、科学の対象となると思います。この場合「客観」というのは、もちろん哲学的に言って100%確実ということはないので、まぁ常識的な範囲で解釈してください。
> 宗教が人知が及ばないものだとすると、人知が及ばないものが、
> 宗教の対象となり得ますか。
人知の及ばないものを信仰する宗教もあれば、そうではないものもあるでしょう(ドーキンス的には、後者は宗教と呼ばないようですが)。
315
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 11:04:18 ID:Q7XBVw2.
>>311
>創造科学は科学理論を標榜しています。だから、科学的手法により否定すればそれで済みますね。わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?価値観は科学的手法で検証されるものではないと思います。
何をムニャムニャ眠たいことを言っておるか。価値観を持たない宗教があるか。仏教が価値観であるのは当たり前であり、仏教も宗教であるのは自明のことだ。というか、「宗教」という言葉が仏典用語だと書いただろ。「宗教とは仏教なり。されどreligionにあらず」というなら別だが、そういう主張がしたければ、最初から言葉の再定義を自分でしてからにすべきですな。
でも、そんな作業は本件にはあまり関係ない。いいからサッサと、「自分は仏説について、釈尊の言行録について、自分の主張としてこのように検証してみた」と示してみたまえ。なぜそんな簡単なことができぬ。自分の主張を自分の価値観に対してやって見せよ、と言っているのだ。
ナザロの復活やマリアの処女受胎だって、ただポツンと出来事が挙げられれているのではない。それも彼らの価値観のよりどころではないか。「価値観は科学的手法で検証されるものではない」…?ならばあなたの主張は、あなたの言い逃れによって否定されるだけのことだぞ?いやそれ以前に、創造科学その他の似非科学だって科学理論を応用した価値感ではないか。何を言っておるのだ、君は(苦笑)。
それと、現実世界で起こったこと云々、現実世界への介入うんぬんというが、考え方が雑なんだよ。というか言葉が雑。私のブログにも書いたが、キリスト教は「ナザロを復活させたように誰でも復活させてあげますよ」と説いているのか?そういう介入の仕方ではないではないか。腐乱死体は蘇生せぬ…ということは百も承知のことを述べているだけだろ。
>わたしが言うのは、現実世界で起こったとさsれる現象は科学の範疇であるというだけで、たまたまその現象を伝える書物が聖書だったからといって科学の範囲外であるということにはならない、というものです。
>わたしが「聖書に書かれているからといって特別扱いするべきではない」という要求を突きつけている対象は科学の側であって、キリスト教に対してなんら「奇跡を証明しろ」と要求していません。異教をあれこれ言っていない。科学のありかたを議論しています。
科学のありかたを議論するために異教の教義をあれこれ引っ張り出して、科学の側につきつけているではないか。アホかおまえ。だから、今ここでの科学論の題材として具体的に何か選ぶんなら、異教ではなく自分の宗教、つまり仏説を引用して科学の側につきつけよと私は言っている。それにあたって、自分が自分にそうしてみた経過を示せと言っている。なぜ、それができぬ?相手につきつけることを自分にはつきつけないのはあなたの悪癖だが、それで済む話じゃないだろ、これは。
316
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 11:06:21 ID:Q7XBVw2.
なお、ついこのあいだまで、あなたが社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかったのは中傷でも何でもない。オルコックがブラウンミラーの一節を引いて批判した一文(および長谷川眞理子の邦訳部分)を、反フェミプロパガンダとして片付けようとしていたではないか。私がさも進化生物学と社会構築主義が対立するものと考えているようだとの誤解をあなたがしていたから、そうではないとしてグールドvsドーキンスを挙げてみた。ところが、大山鳴動して鼠一匹のポスモダ大騒ぎだぐらいにしか認識しておらなかったではないか。その件の話は別の人とすることになったけど、まったくついてこれなかっただろ?相手の人はmacskaさんにも参加してほしいと言っていたのに。
もちろん、知らない話に加わらなくてもいい。だけど、ついこのあいだまでその程度の認識だったのは事実じゃないか。最近になってドーキンスの近著を読んで感化されたのならそれは大歓迎です。だけど、にわかじこみは恥ずかしいからやめておけ、と言っただけだよ。それを中傷だという感覚こそ恥ずかしいことだ。
317
:
酔っ払い
:2007/01/20(土) 11:51:01 ID:2.Oxx5s.
>>312
回答ありがとうございます。
>「宗教は」と言われても幅が広いのでなんとも言えません。
了解しました。これについては、もう暫く考えてみます。
また、
人知が及ぶことに関して、人は科学の対象として扱える
人知が及ばないことに関して、人が「知る」ことはできない
と理解していますが、これに間違いないでしょうか。信じることしか出来ないかどうかは、人知が及ばないことからは導けないので外していますけれども。
もう一点、
> 例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。
とのことですが、macskaさんの立場、
>>33
(人知が及ぶことと)「原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべき」なのではなかったのでしょうか。
--------
こういった議論に慣れていないもので、回答はだいぶ遅くなります。申し訳ありません。
318
:
酔っ払い
:2007/01/20(土) 12:03:14 ID:2.Oxx5s.
失礼しました。
×
>>33
○
>>31
に訂正します。
319
:
macska
:2007/01/20(土) 12:05:22 ID:VdHL1C4M
>>315
> 価値観を持たない宗教があるか。
それはごもっともですが、価値観があれば全てが宗教というわけではありません。わたしの場合、わたしは仏教を信仰しているわけではなく、価値観として仏教を参照していると言っているのです。それを宗教と呼ぶかどうかは定義によりますが、ドーキンスの定義によればそういうものは宗教とは呼ばないことになっています。
> いいからサッサと、「自分は仏説について、釈尊の言行録について、自分の主張として
> このように検証してみた」と示してみたまえ。なぜそんな簡単なことができぬ。自分の
> 主張を自分の価値観に対してやって見せよ、と言っているのだ。
自分の主張は、キリスト教やユダヤ教に対するものではなく、科学に対するものです。
また、わたしは「科学的な検証の対象となり得るはずだ」と主張しているだけで、実際の検証を行なっているわけではありません。
> ナザロの復活やマリアの処女受胎だって、ただポツンと出来事が挙げられれているのではない。
はい、その通り。だから仮にイエスのDNAが発見されて、イエスの生物学的な父親が人間であったことが判明したとしても、処女受胎伝承の宗教的な意義は失われないと思います。わたしが言っているのは、仮にそうした物的証拠があればそれは科学的検証の対象となり得るというだけのことであり、宗教的な意義が科学によって否定されると主張したことは一度もありません。
> ならばあなたの主張は、あなたの言い逃れによって否定されるだけのことだぞ?
わたしの主張は、現実世界で起きた事象は科学の対象となり得るということです。そのどの部分がどう否定されるというのでしょうか?
> だから、今ここでの科学論の題材として具体的に何か選ぶんなら、異教ではなく自分の宗教、
> つまり仏説を引用して科学の側につきつけよと私は言っている。
例に挙げるのであれば自分の宗教から例を出せ、というのはもっともなのですが、わたしは何ら超自然的なものを信仰していないのでそれは不可能です。
まぁ例えば、わたしは釈尊(と表記します)が歴史上に実在した人物だと思っていますが、かれが実在したかどうかは科学的検証の対象となるでしょう(そして、もし科学的証拠によってその実在が否定されたら、「へぇ、そうだったのか」と受け入れます)。また、その伝記が正確かどうかも、具体的な記述について何らかの物的証拠があれば検証可能でしょう(そしておそらく、誇張や創作も含まれているでしょう)。そんなこと当たり前ですし、それらの事実が科学的な検証の範囲外だと主張する人はまずいません(現実問題として、検証するに足る証拠が入手不可ということはあり得ますが)。したがって、これらのことが科学の対象であるとわたしがことさら主張する必要はありません。
ところが超自然的な信仰となると、「それは科学の範囲外である」と主張する人が大勢います。しかし、超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。超自然的な主張であっても、現実世界において何らかの現象が起きた(起きる)という主張であれば、それは科学的検証の対象となり得るからです。大勢の人が科学の範囲を間違って狭めて理解していることは科学にとって問題ですから、それはおかしいと主張しました。
その際、例として聖書をとりあげたのは、単純にわたしが生まれ育った環境においてキリスト教やユダヤ教の影響があり、聖書について詳しく知っているからです。仏説やコーランについても勉強中ですが、聖書の方が断然よく知っています(そのため、聖書の知識を他の宗教に一般化しているのではないかというおしかりも受けました)。また、マリアの処女受胎など聖書の中には有名な伝承が数多くあるので、読んでいる方にも理解しやすいと思って例にしました。キリスト教やユダヤ教を何ら冒涜あるいは否定する意図がないことは再三説明しています。
320
:
macska
:2007/01/20(土) 12:07:16 ID:VdHL1C4M
>>316
> オルコックがブラウンミラーの一節を引いて批判した一文(および長谷川眞理子の邦訳部分)を、
> 反フェミプロパガンダとして片付けようとしていたではないか。
全然違います。
芥屋さんが言っているのは、以下のエントリのコメント欄のことだと思います。
ttp://macska.org/article/138
ここで、わたしはオルコックや長谷川の批判をわたしは「反フェミプロパガンダ」として片付けた事実はありません。ブラウンミラーの主張が米国でアンチフェミニズムの側に曲解されて批判されているのは事実ですが、ブラウンミラーに対する批判のすべてが「反フェミプロパガンダ」で済ませられない(とわたしが認識している)ことは、わたし自身がブラウンミラーに批判的であると表明していることから明らかではないかと。
てゆーか、全然関係ない過去の議論から、一方的な解釈を持ち込まないでくれませんか?
別のスレッドなり掲示板で議論しろというなら応じますから。
> その件の話は別の人とすることになったけど、まったくついてこれなかっただろ?
> 相手の人はmacskaさんにも参加してほしいと言っていたのに。
こちらは、いつの話だか分からないです。
たまたまわたしが忙しくて見てないことだってありますし、掲示板において「議論に参加しなかったこと」を責められてもねぇ。
> だけど、ついこのあいだまでその程度の認識だったのは事実じゃないか。最近になってドーキンス
> の近著を読んで感化されたのならそれは大歓迎です。
わたしはずっと以前から(97年頃?)ダーウィニアンフェミニストを自称しているし、進化論とか進化心理学とかについてずっと以前から発言してますよ。その中で、もちろん社会的事象に対する進化論の過剰適用や濫用を批判することもあるけれど、それは基本路線として進化論の有効性を認めているからこその批判じゃないの。ドーキンスの近著の影響はもちろんあるけど、ドーキンスの無神論的な主張を読んだのはそれが初めてではないし。「ついこのあいだまで反フェミプロパガンダとして片付けていた」とか「ドーキンスの近著で感化された」なんていうのは中傷だから、止めてくださいね。
> にわかじこみは恥ずかしいからやめておけ、と言っただけだよ
にわかじこみであろうとなかろうと、おかしな部分があれば批判してくださるとうれしいです。
しかし、過去の経緯をあれこれ一方的に決めつけて中傷するのは迷惑です。
321
:
カモオオハシ
:2007/01/20(土) 13:10:33 ID:C0VsT.3A
>>314
>仮に「死後の世界」が人知の及ばないものであれば、人知が及ばないわけですから
>「宗教」という名をつけても人間にはやっぱり分からないでしょう。
「人知が及ばないものに人知は及ばない」というのはもちろんトートロジーで、だれもそれには反対していないと思いますが、まさかmacskaさんも宗教家がその意味で(つまり論理的矛盾として)「人知の及ばないことについて特別な知識を持っている」と主張しているとはおもってらっしゃいませんよね。
しかし、この引用した箇所で書かれている「人知の及ばないものについては分からない」というのは実質的な主張ですよね。もし、同じエントリーで書かれているように「人知が及ぶ」という言葉を「何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈する」のなら、客観的観測が可能でないような仕方で分かることもあるだろう(そして啓示というのはまさにそういうやりかたで知識を得る方法だ)と主張する宗教家はいるでしょう。また、そのように解釈しないのなら、今度は「人知が及ぶものは科学の対象となりうる」という主張があやしくなりますね(これも311で「論理的真」の中に含めてらっしゃるようですがこちらはどう考えても論理的な真ではないですね)。
なお、私から見ても芥屋@keya1984さんの書き込みはほとんど言いがかりではないかと思えます。macskaさんご本人がいちいち的確に答えておられるので繰り返しませんが。
322
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 13:17:18 ID:Q7XBVw2.
>>320
自分にとって仏教が宗教ではないから、それがドーキンスの定義するreligionに該当しないから、自分の仏教は自分が主張している科学的検証の対象にはならない…か。何じゃそりゃ(笑)。そんな論法が通用するなら、およそどんな宗教も科学的検証をさせない口実が立つだろう。
あなたが何をどう言おうが仏教は宗教なの。超自然的な怪異や奇蹟をよりどころとするものは(広義の)宗教の一部でしかない。「宗教」についての自分の貧困な知識をさらけ出して、何を馬鹿なことばかり言っておるか。いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果をここに開陳して見せろって。それができないなら、自分ができないことを他人に要求するな。
いいかね?ドーキンスのreligion批判とあなたの今ここでの主張は同じレベルのものでもないし、そもそも今件、ドーキンスの定義するところにしたがう必要もないわけだ。というか、ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?
>自分の主張は、キリスト教やユダヤ教に対するものではなく、科学に対するものです。
だから、その科学につきつける主張に用いる具体例を自分の仏説にしてみろと言ってるんだ。なぜできない?
>はい、その通り。だから仮にイエスのDNAが発見されて、イエスの生物学的な父親が人間であったことが判明したとしても、処女受胎伝承の宗教的な意義は失われないと思います。わたしが言っているのは、仮にそうした物的証拠があればそれは科学的検証の対象となり得るというだけのことであり、宗教的な意義が科学によって否定されると主張したことは一度もありません。
んなこたぁ誰もがわかっている。相手がわかっていることをわかっていないかのように見せかけて繰り返す悪癖は直らんようだが、通用せんよ。
>例に挙げるのであれば自分の宗教から例を出せ、というのはもっともなのですが、わたしは何ら超自然的なものを信仰していないのでそれは不可能です。
しかし、仏説にも超自然的なものはいくらでもあるだろ。それをどうやって自分の価値観から除外したか、どのようなものが科学的検証をしたか、示せと言ってるんだ。サッサと汁。以下のごたくは無用。
323
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 13:30:42 ID:Q7XBVw2.
>なお、私から見ても芥屋@keya1984さんの書き込みはほとんど言いがかりではないかと思えます。macskaさんご本人がいちいち的確に答えておられるので繰り返しませんが。
↑
こういうのを、言いがかりというんですけどね。
324
:
macska
:2007/01/20(土) 14:20:08 ID:VdHL1C4M
>>322
> 自分にとって仏教が宗教ではないから、それがドーキンスの定義するreligionに該
> 当しないから、自分の仏教は自分が主張している科学的検証の対象にはならない…か。
> 何じゃそりゃ(笑)。そんな論法が通用するなら、およそどんな宗教も科学的検証を
> させない口実が立つだろう。
あのねー、ヒトの発言を勝手に切り刻んで任意に繋ぎ合わせて「論法としておかしい」なんて言うとは、言いがかりですよ。わたしは「自分にとって仏教は信仰ではない(宗教ではない、とは言っていない)」「自分にとっての仏教はドーキンスの定義するreligionには含まれない」「自分にとっての仏教はただの価値観であり、価値観は科学的検証の対象にはならない」とそれぞれ言いましたが、最初の2つから3つ目が導き出される、という「論法」は使っていません。言っていないことをでっちあげたうえで「何じゃそりゃ」と嘲笑してみせるのはやめてください。
ある教義が科学的検証の対象かどうかの基準は、それが現実世界における現象について言及しているかどうかである、と繰り返し述べています。当然、そこにキリスト教でも仏教でも違いはありません。「それはおかしい」というなら議論に応じますが、あなたの言いがかりは迷惑なだけで議論のしようがありません。
> いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果をここに開陳
> して見せろって。それができないなら、自分ができないことを他人に要求するな。
「他人に要求するな」と言われても、わたしは誰に向かっても「あなたの宗教を科学的に検証しなさい、その結果を示しなさい」と要求していません。一切要求していないことを「要求するな」と言われても困ります。
> ドーキンスのreligion批判とあなたの今ここでの主張は同じレベルのものでもないし
そりゃそうでしょう。ドーキンスと同じレベルだとうぬぼれてはいません。
てゆーか、そもそもわたしは宗教やreligionを批判していないし。
> ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?
それは気付いていなかったです。新説ですか?
> だから、その科学につきつける主張に用いる具体例を自分の仏説にしてみろと
> 言ってるんだ。なぜできない?
わたしは超自然的な現象を何ら信仰していないから、具体例もないのです。
超自然的でない部分についても、例えば釈尊の伝記の具体的な箇所についてそれが歴史的事実かどうかというのは(史料の分析などによって)科学的検証が可能だと言っています。しかし、それが検証可能だということはそもそも誰も疑っていないので、わたしが言うまでもないでしょ。
> んなこたぁ誰もがわかっている。
つまり、わかっているのに、まるでわかっていないかのように言いがかりをふっかけているんですね。
> しかし、仏説にも超自然的なものはいくらでもあるだろ。それをどうやって
> 自分の価値観から除外したか、どのようなものが科学的検証をしたか、示せ
> と言ってるんだ。サッサと汁。以下のごたくは無用。
わたしは仏教を信仰しているのではなく、仏教の価値観に大いに影響を受けている立場であると既に言いました。信仰心というのは科学的検証をして受け入れたり除外したりするものではなく、何かを聞いてそれを信じられるか信じられないかという問題ではないでしょうか。
わたしの場合、聖書であれ仏説であれ、超自然的なものへの信仰を迫るような部分を読んでもちっとも信仰心が湧き出て来ないのです。つまり、何かの基準があって超自然的な部分を除外したわけではなく、ただ信じられないものは信じられないというそれだけのこと。「どうやって除外したのか示せ」と言われても答えられません。信仰の有無とは、そういうものではないかと。
ですから、わたしは誰に向かっても「信仰の根拠を示せ」と要求したことはないですし、科学によって信仰が否定できるとも思っていません。ただ「教義の対象となっている現象について科学的な検証をするのはやめてくれ」という要求に科学の側が屈してはいけない、と主張しているだけです。
325
:
macska
:2007/01/20(土) 14:35:44 ID:VdHL1C4M
>>321
> まさかmacskaさんも宗教家がその意味で(つまり論理的矛盾として)「人知の
> 及ばないことについて特別な知識を持っている」と主張しているとはおもって
> らっしゃいませんよね。
さすがにそういう風に聞かれれば「そういう主張はしていない」と答えるでしょうが、だったらどういう主張をしているのかよく分からないのです。
> もし、同じエントリーで書かれているように「人知が及ぶ」という言葉を「何
> らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈する」のなら、客観的観測
> が可能でないような仕方で分かることもあるだろう(そして啓示というのはま
> さにそういうやりかたで知識を得る方法だ)と主張する宗教家はいるでしょう。
まあ、そう解釈するしかないでしょうね。
しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。
一方、そうした「知」も科学とは違った別のクレーンであるという人もいて、そちらの考え方には興味を持っていますが、まだその説をよく理解していないので、前提となる信仰を抜きに超自然的な「知」が可能なのかどうかは分かりません。
いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからないことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。
326
:
いど
:2007/01/20(土) 14:58:34 ID:NdEDLjDw
>macskaさん
はじめまして いどと申します
過去ログ読んできたんですがちょっと不明な点があったので質問させていただいてよろしいでしょうか?
以前の書き込みで「水をワインに」というものがあったと思います。
【事象】
ある場所に聖人が現れて神の奇跡とし水をワインにするという奇跡が起きた
【質問】
(1)上記事象は現実世界に影響を与えています。この場合科学の対象であり検証可能という主張であると思いますがこの認識であっているでしょうか。
(2)((1)が真である場合)どのような検証になるでしょうか?
(3)その検証は何を検証するための検証でしょうか?
327
:
ミケ
:2007/01/20(土) 15:29:17 ID:???
酔っ払い さんの
>>317
>> 例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。
>とのことですが、macskaさんの立場、
>>31
(人知が及ぶことと)「原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべき」なのではなかったのでしょうか。
にmacska さんがどう答えるか、興味があります。
誠実に議論するならば、これはスルーしてはいけない質問かと。
矛盾していると受け取られた部分については
訂正なり、真意の解説なり、何らかの対応をとる必要があります。
論者としてギャラリーの信頼を得たいのならば。
328
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 17:07:44 ID:Q7XBVw2.
1.「自分にとって仏教は信仰ではない(宗教ではない、とは言っていない)」
2.「自分にとっての仏教はドーキンスの定義するreligionには含まれない」
3.「自分にとっての仏教はただの価値観であり、価値観は科学的検証の対象にはならない」
そう、こう言って通用するのであれば、およそあらゆる宗教がそう言えるだろう、と私は指摘している。1と2から3を導出したわけじゃない?だから何ですか。なるほど私は1と2から3という書き方をしたから、「そうじゃありません。1と2と3は横並びです」と言われれば、それで構いません。その横並びと同じくして、上記「仏教」を○○教や××科学にしてみたらよい。
>ある教義が科学的検証の対象かどうかの基準は、それが現実世界における現象について言及しているかどうかである、と繰り返し述べています。
A「昔々、どこそこで何某という人が神の力で死者を蘇生させたということです」
B「今ここで、わたしが死者を蘇生してあげますが、これこれ条件があります」
現実世界における現象として科学的検証が可能なのはBだけだと思うが?Aは古典であり、宗教価値とか文芸価値とかを問われる場合はあるだろう。まずはそこをふまえておかないといけない。
現実世界への介入というなら、現実世界においてキリスト教会が病院や大学の生死に関わる研究部門に「何とかして蘇生術を証明せよ」とか「イエスの真似事の研究などけしからん」とか、介入したことなどあるのかね。要するに、あなたは全く架空のお話をして、AとBとをごっちゃにして「科学につきつけて」いるわけだ。だから批判されてるの。
>「他人に要求するな」と言われても、わたしは誰に向かっても「あなたの宗教を科学的に検証しなさい、その結果を示しなさい」と要求していません。
するとクリスチャンの科学者はどうなるのだ?あなたは、科学のあり方という一般論として述べているのだから、仮に今ここに該当者がいなくても、そういう要求をしているのと同じだろう。というか、私はあなたがそういう要求をしているとは言ってない。異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。簡単な話だ。
>>ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?
>それは気付いていなかったです。新説ですか?
彼の出世作からですよ。そうは明言していないが、そうなることになる。『利己的な遺伝子』、読むべし^^。
>わたしは超自然的な現象を何ら信仰していないから、具体例もないのです。
しかし仏説にも怪異や奇蹟の叙述はある。具体例は山ほどあるじゃないか。いくらでも出せるだろ、あなたがそれを信仰していようがいまいが。なぜいまだに出せぬ?仏説の中で、あなたがここで主張することに相当するものはない、と考えているわけではなさそうだから、あるはずだろ、あなたなりにこれだというものが。じゃぁ私から聞いてみるが、たとえば梵天勧奨はどうよ?ブラフマー神が釈尊にひざまづいたというアレね。
>ですから、わたしは誰に向かっても「信仰の根拠を示せ」と要求したことはないですし、科学によって信仰が否定できるとも思っていません。
考えすぎ。今はそんな話、あなた以外の誰もしていない。
>ただ「教義の対象となっている現象について科学的な検証をするのはやめてくれ」という要求に科学の側が屈してはいけない、と主張しているだけです。
だからそれだよ。いったい、いつ、そんな要求があったのだ。ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。単純直裁に言って、たとえば死体がどのように腐敗していくかとか、なぜ蘇生がありえないのかとか、そういった研究はごくごく普通に行われてきているではないか。いつ、キリスト教会がそれを抑制した?医科学的見地から「ナザロの復活などありえんだろ」と思う人もいるだろうが、「ナザロの復活」があるからといって、それに触れる科学研究が抑制されたという話そのものがないだろうよ。
屈するな?ありもしない何に屈するなというんだ。そんなアジテーションを飛ばすために、自分は己の仏説について何も語らず、ナザロ復活やアリア処女受胎の古伝と万能薬詐欺と同列に並べること自体、異教に対する冒涜だろうが。気付けよ。
329
:
baku22
:2007/01/20(土) 17:21:18 ID:pNzc/oDo
> 超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、
科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。
ざっと読んでみましたが、この主張自体に反対している人は、誰もおられないようですね。
なのになぜ紛糾するのか。
あくまで自分の場合、なんですが、
macskaさんのブログに書かれていた
■いわゆる「科学と宗教の住み分け」は不可能!
■てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)
■科学に分からないことはある。でもそれらは宗教にだって分からない
という主張と、先の「超自然的・・・云々」の主張の結びつきが未だに分からないんです。
どうして後者の一連のかなり強い主張と、前者が結びつくのか。
背景の「アメリカのかなり酷い状況」をこちらで推測して、「暴言」をなんらかの事実命題の表現ではなく、
政治的発言と読み替えて受け取るのが、今の所やっとです。
その時勝手に「こちらで推測して」と、やっている自分が我ながら少し気持ち悪いです。
330
:
macska
:2007/01/20(土) 17:48:14 ID:VdHL1C4M
>>327
うっかり読み飛ばしていました。ご指摘感謝。
というわけで、
>>317
31 で「死後の世界」を「人知の及ばないもの」としたのは、一般にそう言われているモノだという意味です。しかし論理的には、「人知の及ぶ対象として死後の世界がある」という立場もありえるので、その場合どうなるかにも対応した議論を行なっています。
つまり、はじめのうちは一般的に「死後の世界」は人知の及ばないものであるという常識に従った立論をしていましたが、人知が及ぶかもしれないという意見を受け入れ、どちらの場合にでも通用するような主張に改めました。
>>326
> (1)上記事象は現実世界に影響を与えています。この場合科学の対象であり検証可能と
> いう主張であると思いますがこの認識であっているでしょうか。
それが喩え話ではなく現実に起きた事件だと主張されるのであれば、それは科学的検証の対象となるでしょう。
ただし、証拠が十分にないなどの理由で、現実的に検証が不可能であったりすることはあり得ます。「検証の対象となり得る」ことと、現実に「検証可能である」ことはそのため微妙にずれており、わたしが主張するのは前者の方です。
> (2)((1)が真である場合)どのような検証になるでしょうか?
その液体が本当にワインであるのか、まぁ常識的には飲んだら分かりますし、分析が可能なはずです。もちろん、もともとワインが入っていた可能性もあるし、何らかのトリックで入れ替えた可能性も考えられるので、それらの事前のチェックも必要でしょう。
もしそれが一回だけのもので、過去のいつかの時点で起きたことであったならば(例えば、そのワインが既に飲み干されていたら)、それを検証するのは非常に難しいでしょう。なぜなら十分な証拠が得られないからです。しかし、そういった事情により「現実問題として検証が困難なモノ」であれ、例えば「人生の意味」などといった「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」と違い、科学的検証の対象と「なり得る」現象だと言えると思います。
> (3)その検証は何を検証するための検証でしょうか?
何をって、「水がワインに変わった」というのが事実かどうかが調べられるだけです。もし再現性があるなら、さらに研究を進めて水がワインに変わるメカニズムを解明できたら、みんなが安くワインを飲めるようになって嬉しいかもしれません(ワインメーカーや農家はたまらないですが)。が、多分そういうことはないだろうと思っています。
331
:
AH1
:2007/01/20(土) 18:01:40 ID:MM7DYpv2
ROMに戻りますと言った舌の根も乾かないうちに何ですが・・
macskaさんは繰り返し「これは科学の側への要求であって宗教には何も要求していない」と表明しておられますが、そうだろうか?
1「科学的にわかる事なら、科学は知ることができる」これはほとんどトートロジー。
2「科学的にわかる事だけを『知』と呼ぶ」
3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」
これは知」や「現実世界」についてmacskaさんの用語法を全員が了解している限りはまあそれでいいかもしれないが、
そうでない場合、複数の知の体系が「知」と「現実世界」を奪い合うことになる。なぜなら、上の1〜3は「原理的に科学にわからない部分だけは宗教に開放する、しかし現実世界と接点があったり、「知っている」という言葉を使ったりしてはならない」となるからです。
いわば「日本政府は『北方四島は日本の領土だ』と主張せよ、と言ってるだけです!」という表明と同じですね。確かにロシアに「かえせ」とは言っていない。しかし、ロシアは絶対にこの主張を看過しないはずです。
前にもちょっと書きましたが、単なる用語の問題というより、用語法を通して「現実世界」や「知の体系である事」を奪い合う結果になるから紛糾するんですよ。
332
:
Josef
:2007/01/20(土) 18:34:11 ID:uPoVYQoU
baku22さんの仰るようなことはあるでしょうね(
>>329
)。
ファンダメンタリストの多いアメリカとは日本は事情が違うので、問題意識からして違う。「知る」の一語を取ってみても、macskaさんは限定的な意味で使っていて、その限りでは「その通り」と思うてのですが、この広い意味の言葉をそのように限定しなければならない必然性をここの人たち(私を含めて)は持っていない。だから特定の意味に限定すること自体に納得がいかない。
macskaさんは
>>325
>いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからない
>ことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、
>ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。
と仰いますが、そもそも何で「証拠の有無」が問題になるのか。「私はかくかくしかじかの神を知っている」と言う人がいても、宗教的次元の話だから誰も「証拠を出せ」とは言いませんね。証拠を云々する類の知ではないと認識しているから、もともとそういう発想をしない。
で、言葉が出てくる「文脈」が分からないので、読者は「文脈」を想像して、たとえば「宗教を罵倒している」と言い、「罵倒ではない」と返す、そういう不毛なやりとりが多いと思います。
baku22さんの挙げる「対等」にしてもそうで、どうして根本的に違うものを比べる必要があるにのか、その背景が分からない。何らかの尺度を設定すれば比べることはできるだろうけど、どうしてそういう尺度が必要なのかもたぶん納得しがたいでしょう。
日本ではむしろ科学信仰の方が問題として重要だと思います。だから科学の限界(実際的にも原理的にも)を強調する必要性の方が高い。ここの皆さんもそういう志向が強いのではないかと思います。
333
:
macska
:2007/01/20(土) 18:53:09 ID:VdHL1C4M
>>328
> そう、こう言って通用するのであれば、およそあらゆる宗教がそう言えるだろう、
> と私は指摘している。
言えません。なぜなら、あらゆる宗教に価値観は含まれるけれど、「あらゆる宗教が価値観だけ」ではないからです。現実世界における現象や歴史的事実について(こういう意味である、とかこういう意義がある、ではなく)「こうである」と教える教義を持つ宗教は、その点において検証可能な(少なくとも検証の対象となり得る)主張をしていることになります。
> 現実世界における現象として科学的検証が可能なのはBだけだと思うが?
> Aは古典であり、宗教価値とか文芸価値とかを問われる場合はあるだろう。
> まずはそこをふまえておかないといけない。
だから、A が寓話や文学として提示されるのでしたら、それが事実かどうかと問うことに意味はありません。しかしそれが歴史的事実として主張されるのであれば、科学的な物証をもとに検証の対象となり得ます(もちろん、必ず解明できるとは言っていません)。
わたしは、何も進んで宗教の教義を科学的事実かどうか検証せよと言ってはいませんよ。そうではなく、科学の範囲には、現実世界における事象であるなら、宗教の教義によって「こうである」と教えられている対象を含みうる、という、当たり前のことを言っているのです。
> 現実世界においてキリスト教会が病院や大学の生死に関わる研究部門に「何と
> かして蘇生術を証明せよ」とか「イエスの真似事の研究などけしからん」とか、
> 介入したことなどあるのかね。
そんな誰も言っていないような極端な例を出してなんになるんでしょうか。
> 要するに、あなたは全く架空のお話をして、AとBとをごっちゃにして「科学につ
> きつけて」いるわけだ。だから批判されてるの。
架空の話をしているのはあなたでしょ。
> するとクリスチャンの科学者はどうなるのだ?あなたは、科学のあり方という一
> 般論として述べているのだから、仮に今ここに該当者がいなくても、そういう要
> 求をしているのと同じだろう。
もし仮に、クリスチャンの科学者が「聖書に書かれている内容は、現実世界に関する言及であれ一切科学的に検証してはいけない」と言うのであれば、わたしはそれは科学者としてふさわしい態度ではないと批判しますよ。それがなにか? そんな馬鹿なことを言う科学者は、現実にはいないでしょうけどね。
> 私はあなたがそういう要求をしているとは言ってない。
言ったでしょ、
>>322
で。
> いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果を
> ここに開陳して見せろって。それができないなら、自分ができないこ
> とを他人に要求するな。
わたしは、他者に向かって「自分の宗教を検証した経緯や結果を示せ」と要求していませんが、この部分を読むとあなたはわたしがそうした要求をしているかのように言っています。もしわたしがそうした要求をしていないと分かっているなら、どうして「自分ができないことを他人に要求するな」と言うわけですか?
334
:
macska
:2007/01/20(土) 18:53:35 ID:VdHL1C4M
>>328
> 異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。
だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。もちろん、わたし自身が信仰していないけれども、ほかの仏教徒が信仰している教えであれば例に出せたかもしれません。しかしそうしたところで、わたし自身にとってそれが「他者の信仰する内容」を例に出していることには違いがないわけ。どうせ「自分が信仰していない例」を挙げるなら、よりよく知っているーー内容だけでなく、その歴史的背景なども含めてーー体系から例を出すのが当たり前でしょ。
それに、これはこれまで公の場で言ったことがないけれど、わたしは仏教の教えに影響を受けているのと同じくらい、キリスト教やユダヤ教の伝統にも影響を受けています。高校時代は毎週教会に通っていたし、現在ではユダヤ教の祝日に年数回ほど出席したりしていますし。それでもわたしが仏教徒を名乗りキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗らないのは、わたしの理解するところキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗るには神を信仰しなければならないけれども、仏教徒を名乗るのにそういう要件はないからです。
> 『利己的な遺伝子』、読むべし^^。
学生時代に読みましたが、かなり前の話なのでそのうち再読してみます。
> だからそれだよ。いったい、いつ、そんな要求があったのだ。
そのような単純化したかたちでの要求はさすがにありません。しかし多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、「科学と宗教は重なり合わない異なる領域を持ち、双方がお互いの領域を侵してはならない」というような、いわゆる「科学と宗教の紳士協定」のようなものを主張しています。しかし現実には、多くの宗教は「科学の領域」である現実世界の事象についても言及しているので(つまり、科学の領域と宗教の領域は完全には分離できない)、科学の側が宗教の教義を侵害しないことを最優先すれば、科学の領域を不当に狭めることになりかねない。だから、「紳士協定」を盾にとった圧力や自己欺瞞に科学は屈してはならない、というのがわたしの論理です。
> ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する
> 研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。
くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。
335
:
macska
:2007/01/20(土) 18:54:53 ID:VdHL1C4M
>>329
> という主張と、先の「超自然的・・・云々」の主張の結びつきが未だに分からないんです。
> どうして後者の一連のかなり強い主張と、前者が結びつくのか。
ええと、暴言はまぁ自分で暴言と言っているくらいですから許してください。
その他は、これまで書いてきたことで説明しているはずです。
>>331
> 1「科学的にわかる事なら、科学は知ることができる」これはほとんどトートロジー。
はい、トートロジーです。
> 2「科学的にわかる事だけを『知』と呼ぶ」
とは言っていません。科学以外にも知の体系がある可能性を認めますが、「空からのフック」を必要とする体系を「知」とは呼ぶことに抵抗があるのです。もっと簡単な言い方をすると、信仰と知識はイコールではない、と言っているだけなんですが、それがどこかおかしいですか?
> 3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」
これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。
> そうでない場合、複数の知の体系が「知」と「現実世界」を奪い合うことになる。
> なぜなら、上の1〜3は「原理的に科学にわからない部分だけは宗教に開放する、
> しかし現実世界と接点があったり、「知っている」という言葉を使ったりしては
> ならない」となるからです。
まず、現実世界と接点があることについて宗教が何かを主張することに、わたしは何ら反対していません。創造論でも天動説でも、科学だと標榜しない限りにおいて自由に信仰・布教する権利があります。どうしてそれを否定していると誤解されるのか、全然理解できません。
次に、「信じる」と「知っている」という言葉を区別して使って欲しいというのは、確かにわたしはそう願っています。宗教だけでなく、誰でも「信じている」に過ぎないことを「知っている」と言い換えるのはあんまり望ましいことではないんじゃないでしょうか。もちろん宗教において言葉を特別な用法で使うということはあるでしょうが、あんまりまぎらわしい用法を使わないで欲しいなぁと思っています。まぁ、要求と言えば要求になるでしょうが、希望といったレベルですね。
> いわば「日本政府は『北方四島は日本の領土だ』と主張せよ、と言ってるだけです!」
> という表明と同じですね。確かにロシアに「かえせ」とは言っていない。しかし、
> ロシアは絶対にこの主張を看過しないはずです。
それは、領有権が排他的だからでしょう? あるものが「科学的検証の対象となり得る」と主張することは「宗教的信仰の対象となり得る」可能性を排除しませんから、そのたとえは通用しないと思います。
336
:
いど
:2007/01/20(土) 18:58:10 ID:NdEDLjDw
macska さん、ご回答頂きありがとうございます。
>>330
>何をって、「水がワインに変わった」というのが事実かどうかが調べられるだけです。もし再現性があるなら、さらに研究を進めて水がワインに変わるメカニズムを解明できたら、みんなが安くワインを飲めるようになって嬉しいかもしれません(ワインメーカーや農家はたまらないですが)。が、多分そういうことはないだろうと思っています。
「水がワインに変わった」という事が事実かどうかを調べられるだけなんですね?
これでは「"奇跡により"水がワインに変わった」という事の検証にはなりません。
この検証結果により「水をワインに替えたトリックは確認できなかった」とします。しかしここで言えるのはあくまでもソコまでであり
・偶然起きたのか
・神の御業により起きたことなのか
は判別できません。
(A)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話が本当に起こった事柄なのか
(例:本当に水がワインに変わったか、本当に高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
(B)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話は本当に「奇跡として起こった」のか
(例:"奇跡により"水がワインに変わったか、"奇跡により"高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
皆さんが科学の対象外としているのは(B)ではないのでしょうか?
(間違っていたら突っ込みお願いいたします)
そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?
事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…
(一通りログ読んだつもりですがすでに既出であり、類似質問に対する答えがどこかにあればお教えください)
>>329
>baku22さん
>> 超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。
>ざっと読んでみましたが、この主張自体に反対している人は、誰もおられないようですね。
>なのになぜ紛糾するのか。
それだけの主張であれば「そうよね」でおしまいだと思うんですが、
>>17
>現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、
>その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる。
というのがキーなのではないかと…
337
:
Hiju
:2007/01/20(土) 18:59:14 ID:kwkFD2KY
>>205
>>222
に関して。
>> つまり、宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
>> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
>> だけだと認めろ、と、“宗教に対して科学側は主張すべきだ”と。
> いや、この件についてはわたしが「宗教にも分からない」と言っているだけであって、科学の側がことさらそう宗教に向けて主張するべきだとは言っていません。
了解しました。
>> macskaさんの定義そのものが、宗教的知を科学的知より不確かで範囲の狭い
>> ものであることを認めろ、という主張に読めます。
> 宗教的知というのが、(文脈上)現実世界の外側の事象に対する、人間の知覚によって何の確認も取れない物事についての知識であるとすれば、それは科学的知より不確かであると言って問題ないのではないでしょうか。
すみません,意味がわかりませんでした。どうして「科学的知より不確かである」
と言えるのですか。同等ならわかりますが。
また,私は「不確か」よりも,「範囲の狭いもの」の方が問題だと思っています。
繰り返しますが,
> 宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> だけ
ならば,
> 宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
> てしまう。
のでは?という点が気になったのですね。
#おそらく他の方が繰り返してらっしゃるのもこの点では,と思うのですが。
あと,
> それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
> 「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
> 存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
> と認められるんでしょうか?
というのは,純粋な疑問として聞きたいです。後で知の定義をなさっている
のでこれは議論の対象にならなりませんが,純粋な疑問です。
338
:
Hiju
:2007/01/20(土) 19:07:41 ID:kwkFD2KY
>>336
いどさんの
> (A)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話が本当に起こった事柄なのか
> (例:本当に水がワインに変わったか、本当に高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
> (B)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話は本当に「奇跡として起こった」のか
> (例:"奇跡により"水がワインに変わったか、"奇跡により"高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
> macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
> 皆さんが科学の対象外としているのは(B)ではないのでしょうか?
> そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?
> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…
に賛成します。宗教的知って,(B)だと思います。
339
:
酔っ払い
:2007/01/20(土) 19:09:17 ID:2.Oxx5s.
>macskaさん
回答ありがとうございます。
>>330
> つまり、はじめのうちは一般的に「死後の世界」は人知の及ばないものであるという常識に従った立論をしていましたが、
> 人知が及ぶかもしれないという意見を受け入れ、どちらの場合にでも通用するような主張に改めました。
了解しました。主張が改まったのは
>>125
「もしそういう次元で「死後の世界」が発見されるのであれば、もちろんそれは科学の対象ですね」から、だと考えてよろしいですか。
なお、改変後の主張は、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」であっても、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えない、と考えていますが、この認識で間違いないでしょうか。
また、
>>311
>>314
で仰られていた件、下記の通りの認識で構わないのでしょうか。
人知が及ぶことに関して、人は科学の対象として扱える
人知が及ばないことに関して、人が「知る」ことはできない
ひとまずのところ、この認識が正しい前提で、話を進めさせていただきます。
さて、macskaさんは
>>161
文学作品のよしあしは、価値観であって現象ではないでしょう。もちろん価値観が脳内の物理現象の反映であるならば(そうだとわたしは言っていませんが)、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないですが、いきなり脳の研究をするのは有効な研究だとは思えません。文化の研究にはそれに適したツールが別にあるはずです。
>>311
わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?
と仰っていますので、ひとまず価値観を「科学的手法では否定(も肯定も)できず、現象でもなく、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないもの」としてみます。
なお、ここでも「人知が及ぶ」ということを、
>>314
「何らかの客観的な観測が可能である」と解釈してます。
この解釈上では、価値観は現象ではなく、科学的手法では否定も肯定も、今のところできません。確かに究極的には科学的な検証対象かもしれませんが、これだけですと、「人知が及ぶ」と言えるのかどうか不安です。ですが、「科学とは別の適したツール」が使えるのならそれで十分だとも思えます。
次に、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」を考えてみます。例えば「死後の世界」、ですね。
ここで、価値観と死後の世界の共通点を見ていきますと、死後の世界は現象ではなく、科学的手法では否定も肯定もできない。究極的には科学的な検証対象かもしれないけれども、違うかもしれない点も同様です。
残っているのは「科学とは別の適したツール」が使えるかどうかになりますが、価値観、文化の研究にはそれに適したツールが別にあるように、「死後の世界」にも、同様に「科学とは別の適したツール」が存在しています。
そしてその「科学とは別の適したツール」、それらが通常「宗教」と呼ばれているのだと思うのですが、この認識に、問題はありますでしょうか。
340
:
AH1
:2007/01/20(土) 19:21:58 ID:MM7DYpv2
>とは言っていません。科学以外にも知の体系がある可能性を認めますが、「空からのフック」を必要とする体系を「知」とは呼ぶことに抵抗があるのです。もっと簡単な言い方をすると、信仰と知識はイコールではない、と言っているだけなんですが、それがどこかおかしいですか?
いや、当初から紛糾した理由は、最初の頃にそう仰っていた事、あるいは(「暴言だった」と発言されているもののレスに埋もれて忘れていた)「宗教と科学は住み分けできない」という表現、そういった部分にあっただろうという意味です。
「知」と呼ぶことには抵抗がある、というくらいの言い方であれば私はそれほど違和感を覚えないですが、当初はもっと強い主張をしておられたように感じたので。
>> 3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」
>これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。
失礼。「科学に扱えないことは現実世界に含めない」なら良いですか?いやまて、これもおかしいな。
当初は「科学的にわかる事だけを現実世界とする」のように主張されていたと思ったんですが、記憶違いかも?だったら失礼いたしました。
>次に、「信じる」と「知っている」という言葉を区別して使って欲しいというのは、確かにわたしはそう願っています。宗教だけでなく、誰でも「信じている」に過ぎないことを「知っている」と言い換えるのはあんまり望ましいことではないんじゃないでしょうか。もちろん宗教において言葉を特別な用法で使うということはあるでしょうが、あんまりまぎらわしい用法を使わないで欲しいなぁと思っています。まぁ、要求と言えば要求になるでしょうが、希望といったレベルですね。
そうは感じられなかった、というのが理由の一つでした。希望であって要求しているわけではない、ということであれば、一応了解です。
>それは、領有権が排他的だからでしょう? あるものが「科学的検証の対象となり得る」と主張することは「宗教的信仰の対象となり得る」可能性を排除しませんから、そのたとえは通用しないと思います。
「住み分けできない」発言を撤回されているとのことですので、これは私の誤解でした。
失礼しました。
現実の取り扱いについてまだ複数の知的体系の間にコンフリクトを招きそうな部分があったように思うんですが、とりあえずお返事のみ。
341
:
diamonds8888x
:2007/01/20(土) 19:46:36 ID:Zz3oJN62
>>319
>「人知の及ばないものについては、人知は及ばない」という言明が論理的真だと言っているのです。
それは人知というものが全てのヒトに共通であるという暗黙の前提に立っていますよね?
> 「人知が及ぶ」ということを、何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈するなら、科学の対象となると思います。この場合「客観」というのは、もちろん哲学的に言って100%確実ということはないので、まぁ常識的な範囲で解釈してください。
まさにその常識の範囲が食い違っていると思うのですが。客観的というのは「多くの普通のヒトにとって」と解すればよいと思いますが、啓示なんてのはその意味では客観的ではありませんよね?
というのはカモオオハシさん(
>>321
)と重なってるのかな?
342
:
diamonds8888x
:2007/01/20(土) 19:47:25 ID:Zz3oJN62
>>328
>異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。簡単な話だ。
宗教の例として何を持ってくるかは本筋とは無関係でしょう?
343
:
diamonds8888x
:2007/01/20(土) 20:04:20 ID:Zz3oJN62
そう言えば、法的な真理というものも科学的検証の対象とは言えないような気がする。
344
:
NAN
:2007/01/20(土) 20:13:20 ID:op1ePviI
このスレに投下すべきネタかどうか迷ったけれど、まぁ紛糾そのものは収束しつつあるようだし、あとは個別対応ということで、私としては一連の流れを読んで少し考えたことを書きます。
>>339
でも再提示されていますが、「死後の世界」はまぁ…実を云うとこの世は全部死後の世界で、誰かが死んだ後の世界なので…みたいなネタも散見されますが、それも置いておいて…
宇宙論とか量子力学とか理論物理学とかを紐解くと、かなりの初学者向けの文献でさえ「高次元宇宙」だとか「折り畳まれた多次元宇宙」なんて概念が出てきます。私自身、この辺の数学的記述なんかちっとも理解できませんが、なんとなく面白いし、ワケも分からず考えてみたりするものです。
さて、その高次元宇宙あるいは「我々が住む4次元時空以外の宇宙」においても、重力がどう振舞うだろうとか空間の曲率がどうだろうとか、そういう基本的な項目については「科学もしくは数学(幾何学)モデルとして」予測することが可能らしいですね。しかし、そういう宇宙には「私たちには想像もつかない何か」が存在するんだろうか?という問いかけに対して、科学はなんと答えるんでしょうか。
あるいは、そういう宇宙…つまり概念として(おおまかな)モデル化ができるのに、実際に観測したり測定することが原理的に難しい事象に対して、なにかを実証したり反証するという行為は可能でしょうか。
#想像もつかないなにかについて言明することは不可能なのに、想像もつかないなにかを入れておける「器」については想像つくってのが、なんだか逆説的で面白い、と私は思う。
345
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 20:22:59 ID:Q7XBVw2.
>>332
引用されたmacskaさんの
>>325
の
>いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからない
>ことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、
>ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。
これについてです。私は、macskaさんが自分のブログに列挙した一文は「本の帯の惹句のようなもの」だと思っていましたので、多少は過激に誇張があっていいと思っています。帯の惹句だけ見て本の内容も読まずに「そうだそうだ!」とか「けしからん!」とか決めつけて終わる奴は、ただの馬鹿だと思いますし。それだけに、「macskaさん、マジで言ってたのかよ…」みたいな感じはありますね。
譲歩して共通了解を…って、政策会議やってるんじゃないんだけどな。「私の考えすぎだったようで、こう考えてみようかと修正しようと思うのですがどうでしょう…」みたいには言えない人なんですが。
346
:
macska
:2007/01/20(土) 20:28:42 ID:VdHL1C4M
>>336
> macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
その通りです。
(B)=宗教的意味付けが検証できると主張しているわけではない、と再三説明しているのですが。
> そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?
その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。仮に奇跡であった場合、「現時点での科学では原因が解明できない不思議な現象」として立ち現れるでしょう。
> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実
> における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…
厳密には、科学的検証の対象となり得る、ですね。
実際に検証可能かどうかはまた別の話だというのはその通りだし、何度もそう書いてきました。
>>337
> すみません,意味がわかりませんでした。どうして「科学的知より不確かである」
> と言えるのですか。同等ならわかりますが。
うーん、「信憑性が確認された証拠に基づく知識」と「確認もできなければ証拠もない知識」では前者の方が「より確か」という言明が疑問でしょうか?
もちろん、究極的には科学的知識の一番奥底にも「現実世界や自然法則が存在する」「われわれの五感は現実世界を把握するための道具としてそこそこ信頼できる」みたいな前提があり、それら自体が確かだという確証はないかもしれません。しかしより常識的なレベルで、では科学的知識も科学的根拠を持たない知識も対等かというと、とてもそうとは言えないと思うのです。
> > 宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> > についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> > だけ
>
> ならば,
>
> > 宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
> > てしまう。
>
> のでは?という点が気になったのですね。
うーん、そういうまとめ方をすると何やらわたしが恣意的に「宗教の知の範囲」を狭めているように読めてしまうんだけれど、それはわたしが制限しているんじゃなくて、人間が得ることのできる知の範囲というのにはどうしても限界があって、わたしたちの知覚や論理の及ばない、現実世界の外側のことについては何ら分からないんだから、仕方がないんじゃないでしょうか。宗教の知の範囲じゃなくて、人間の知の範囲が有限なの。
> あと,
>
> > それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
> > 「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
> > 存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
> > と認められるんでしょうか?
>
> というのは,純粋な疑問として聞きたいです。
その人は、何か具体的な(クレーン式の)根拠があって神の存在を「知る」に至ったんでしょうか? もしそうでないなら、どうして神の存在を「知っている」と言えるのか、とても不思議に思います。というか、その人は使い分けは確かにしているようだけれど、おそらくわたしが主張する使い分けーーというか、一般社会における定義の通りだと思うんだけどーーとは違った使い分けをしているのではないでしょうか。
いや、もちろん、その人が実際に神の存在を証明してしまったという可能性もありますよ。もしそうであるなら、ぜひ今すぐ発表していただきたいものです。
347
:
macska
:2007/01/20(土) 20:29:08 ID:VdHL1C4M
>>339
> なお、改変後の主張は、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう
> 証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」であっても、究極的には
> 科学的な検証対象にならないとは言えない、と考えていますが、この認識で間違いな
> いでしょうか。
違います。「原理的に〜分からないモノ」は、やはり科学的検証の対象にはならないでしょう。しかし、あるモノがそのカテゴリに該当するかどうかは、究極的には分からない。現時点でそういうカテゴリに含まれると考えられているものが、将来のある時点には「科学的検証を受け付ける、現実世界の現象」とみなされるようになるかもしれないし、その逆もあるかもしれない。
例えばわたしは霊というものが現実世界に物理的に実在するとは信じていませんから、霊は科学的検証の対象とはならないと考えています。しかし、もしかすると霊というものは物理的に構成されているのかもしれない。そして、もしそうだと科学的に解明されれば、それはもちろん科学の範囲になります(というか、解明された時点で既にそうなってますね)。
「死後の世界」については、わたしはそれは「原理的に〜分からないモノ」の一種であるという前提ではじめは議論していたのですが、「どうして原理的に〜分からないモノだと言えるのか」という意見をいただき、「それは確かにそうだ、わたしにはそれが原理的に〜分からないモノだと断言できない」と思ったので、主張をリファインしました。
> 残っているのは「科学とは別の適したツール」が使えるかどうかになりますが、価値観、
> 文化の研究にはそれに適したツールが別にあるように、「死後の世界」にも、同様に
> 「科学とは別の適したツール」が存在しています。
>
> そしてその「科学とは別の適したツール」、それらが通常「宗教」と呼ばれているのだ
> と思うのですが、この認識に、問題はありますでしょうか。
問題があるというわけではありませんが、よく考えてみると実は宗教がそれに適しているという主張には何の根拠もありません。また、「死後の世界」についてあれこれツールを用意して考察することに価値があるという根拠もありません。もっとも、文学作品の価値が文学に分かるか、とか、そもそも文学に価値なんてあるのか、というのもまた難しい話なんですが… 文学にしても宗教にしても、社会にその価値を認めてもらうためにはそれなりの努力が必要ということでしょうね。
それはともかく、宗教がもともとあなたの言うような領域について答えるために発達したものだというのは事実だと思いますが、その領域は宗教だけが独占するものでもないと思います。哲学だとか、宗教と呼ぶに至らないような伝統だとか、芸術だってその領域のニーズを満たすかもしれません。
348
:
macska
:2007/01/20(土) 20:31:08 ID:VdHL1C4M
>>340
> > これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。
>
> 失礼。「科学に扱えないことは現実世界に含めない」なら良いですか?いやまて、
> これもおかしいな。
ちゃんと回答するべきでした。わたしの意見は「現実世界の現象は、すべて潜在的に科学的探求の対象となり得る」です。わからないことはいくらでもあるけれども、わからないことは「科学の範囲外」であることと同義ではない、と考えます。
> 「住み分けできない」発言を撤回されているとのことですので、これは私の誤解でした。
えーと、「住み分けできない」というのは撤回したわけではありませんが、誤解を招いたのは事実なようなので、追加説明させてください。
ここでわたしが「住み分け」と表現しているのは、
>>334
で説明したような「科学と宗教の紳士協定」のことです。この協定によれば、科学と宗教はそれぞれ独立した領域の中にとどまるべきで、お互いに相手の領域に侵入してはいけない、とされています。しかしわたしは、「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。
ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。その結果、科学と宗教で同じ事象についての見解が対立してしまうのは、仕方がないこととして受け入れるべきだと考えています。科学が過剰に宗教に気を配って遠慮するべきではないし、宗教の意義というのは科学が何を示そうとそれによって否定されるものではないと。
北方領土の例に話を戻すなら、わたしの主張は「日本とロシアのあいだに排他的な国境を引くのはやめ、両方の人々が共存すればいいじゃないか」というものです。もちろん現実の国境問題にこういった解決はあり得ませんし(というか、場合によってはあり得ますが日本とロシアのあいだにはあり得ないでしょう)そのような主張はしませんが、科学と宗教のあいだにおいては「現実世界」という領土を排他的に考える必要はないと思うのです。
349
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 20:45:09 ID:Q7XBVw2.
>>334
>だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。
あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。自分が信仰していないナザロ復活やマリア処女受胎を出せるのに、なぜだ?答えてみな。
>もちろん、わたし自身が信仰していないけれども、ほかの仏教徒が信仰している教えであれば例に出せたかもしれません。
だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。
>どうせ「自分が信仰していない例」を挙げるなら、よりよく知っているーー内容だけでなく、その歴史的背景なども含めてーー体系から例を出すのが当たり前でしょ。
じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、ということか。すると仏教よりはキリスト教をよりよく知っているから、ナザロ復活とマリア処女受胎とを、万能薬詐欺と同列に扱うこともできるんだ、と。あなたにとって「よりよく知っている」とは何なのだ?
>それでもわたしが仏教徒を名乗りキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗らないのは、わたしの理解するところキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗るには神を信仰しなければならないけれども、仏教徒を名乗るのにそういう要件はないからです。
いい加減なもんだなぁ。要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところがある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだけじゃん。いやさ、それでもいいんだけどね、だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか、こういうときに異教の教義を平気でつきつける…ってのは恥知らずもいいとこだな。同じ仏教徒として、偉い迷惑な話だわなぁ。
350
:
baku22
:2007/01/20(土) 20:48:36 ID:pNzc/oDo
昔スピノザって人の本を読んだのをふと思い出したんですが、
彼の語る「神」は、かなり「科学的」な人でも受け入れやすいんじゃないかと思いました。
彼の「神」はそもそも世界の「創造主」ではないようですし。
そういう神の概念に愛着があることを、匿名の身ながらこそっと告白しておきます。
351
:
いど
:2007/01/20(土) 21:05:06 ID:NdEDLjDw
>>346
>> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実
>> における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…
>
>厳密には、科学的検証の対象となり得る、ですね。
つまり
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
ではなく
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
ということですね?
しかし前述したとおり
検証できるのは「奇跡として語られた話が実際に起きたか」というだけです。
それが「本当に奇跡だったかどうか」は確認できないのですよね?
ではどのようにして「『神』の存在」を確かめるのでしょう?
352
:
酔っ払い
:2007/01/20(土) 21:11:18 ID:2.Oxx5s.
>macskaさん
回答ありがとうございます。
>>347
「それが原理的に〜分からないモノだと断言できない」点、了解しました。誤読に関してお詫びします。
また、
>その領域は宗教だけが独占するものでもないと思います。哲学だとか、宗教と呼ぶに至らないような伝統だとか、芸術だってその領域のニーズを満たすかもしれません。
これは全くその通りだと思います。その点に関して、完全に同意します。
では、きりもよいようですので、ROMに戻ります。ありがとうございました。
353
:
AH1
:2007/01/20(土) 21:17:09 ID:MM7DYpv2
>「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。
はい、私もまさにそのように思いますし、現実とは?知るとは?という点が議論になったのだと理解しております。
>ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。
ああ、なるほど。議論の途中で「もしかするとそのような光景を思い描いておられるのでは?」と思ったりもしたのですが、確信できませんでした。そのような御意見であれば異論はありません。
「四島は日本の尺度では日本の領土ですな」
「その通り、そしてロシアの尺度ではロシアの領土でもあります。ハラショー」
ということですね。
やっぱり202の酔っ払いさんの投稿(の特に後半部)のパクリみたいなものですが。
今度は、より納得が行きました
354
:
macska
:2007/01/20(土) 21:41:37 ID:VdHL1C4M
>>349
> > だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。
>
> あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。
だから、自分が信仰していないモノなら、聖書かれでも仏教からでも出せますよ。でもあなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。仏教から例を出したとしても、それはわたしにとって「他者の信仰」であるという点で聖書からの例と変わらないのです。
…って、分かって言ってるでしょ? 言いがかりはやめてほしいなぁ。
> だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。
どうなんだよって、何が言いたいの?
梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの? 仏教から例を引けば結論が何か変わるかもしれないと思っているわけですか?
> じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、
> ということか。
釈尊が何を言った(とされているか)くらいなら、仏教徒を名乗るくらいですからそこそこ知っていますよ。でも、その宗教学的な位置づけや解釈の歴史なんてことにはそれほど詳しくありません。ユダヤ教・キリスト教については、聖書編纂の歴史や神学的なことを含めてそこらの一般人よりはるかに知っていると思います。だから、より自信を持って例に出せるという意味では、その通りです。
> 要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところ
> がある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだ
> けじゃん。
このように、相手の思想背景について決めつけて中傷するのはやめてよね。進化論についても、芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、ああこの人とは政治的な立場は違うけれども進化論への関心は同じだと思って少し嬉しかったのに、芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。
> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか
不当な引用で中傷するのはやめてください。
これまできちんとあなたの批判にこたえてきたつもりですが、あんまりこうした中傷が続くようなら、無視しますよ。
それに、別の掲示板での発言に疑問があれば、そちらでお応えしますって言ってるでしょ。
355
:
macska
:2007/01/20(土) 21:43:57 ID:VdHL1C4M
>>351
> つまり
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
> ではなく
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
> ということですね?
もう1カ所違いました。
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。
# 前回は後半だけしか書かなかったので、その前に何が来るのか分かりにくかったと思います。
なかなか理解してもらえなくて困っているのですが、ここで「科学の対象となり得る」というのは、現実に検証が可能かどうかとはとりあえず関係なく、科学の議題となる潜在性がある、ということです。現実世界に物質的な介入をする知的な存在というのは、現実世界に生息しているか、少なくとも介入する時点において現実世界との接点を持っているはずですから、それが未来永劫どんなことがあっても絶対に科学の議題とはなり得ないとは決して言えないはず。それに対し、現実世界の外にあり人知が届かないとされるもの(例えば、一般に言われる所の「死後の世界」)は、原理的に絶対に科学の議題とはなり得ません。
356
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 22:14:23 ID:Q7XBVw2.
>>333
はグチャグチャ言い訳してるだけだから割愛。
>>334
の後半ね。
>多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、(中略)というのがわたしの論理です。
あのね、それは「わたしの論理」ではなくドーキンスの主張。しかし、あなたがそれを自分の主張に流用しているのが幼稚で見てらんない。「わたしの論理」はひとまず置いておく。ドーキンスがなぜそう言っているかというのは、あなたがいうような、ナザロ復活とかマリア処女受胎が「科学的にあり得ない」「超常現象は信じられない」という話じゃないんだ。
たとえば「奇跡」ね、ドーキンスはどう言ってる?それがなぜホモ・サピエンスという種にとって「奇跡」と思えるかと言えば、その生理的な初期条件からして知覚して認識できる範囲を超えているから…ことに「体験を意識できる時間のスパン」の問題ね…それが「奇跡」に思えるんだ…というところから掘り起こしてゆく。で、彼はそこで何を訴えているか。
それが人間の思考能力の限界を超えていても、決して「奇跡」じゃないんだ、その「奇跡」を示すことで「神」が人に何かを示そうとの意志があったとかじゃないんだ…それは「ありえないことではないんだと考えて探求してゆくべし」と…科学としては、そこまで言わなくちゃだめなんだ、そう言っているんだよ。
なぜそこまで言わなくちゃだめなのか(その種の宗教と「紳士協定」を結んで「お互いそれを言わないことにする」という妥協をしてはだめなのか)といえば、そういう考え方でも良しとしたが最後、科学は科学としてやっていけなくなるじゃないか、ということですよ。科学者なら、そこは絶対にお茶を濁すな…ということね。彼の、グールドに対する批判(というか忠告ね)もその線もあったのだ。あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと、こういうところで見落としが出るから。よく見てね。
>>ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。
>くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。
そう、そんなわけない。よって、くだらねぇのはmacskaさんなのだよ。ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂。それが史実としてあったかことかどうかなど、それは歴史学の領分。科学としては、「現在の科学としては、そのようなことがありえるとは言えない。しかし、そういうことがあったというのだから興味をもって調べてゆきたい」とは言える。そこが科学の「限界」なのでも「領域」なのでもない。
「それを科学的に調べるな」と言われても屈するな…などという、あなたの主張は絵空事なのだよ。そんなわけがないのだから。しかし問題はそんなことじゃない。科学が、「そんなことはあり得ないことだと現時点での理知でもって決め付けるかたわら、それをことさらに言わず適当に現時点での教会との穏便な社交を優先して、さらなる探求を行わないようようなら科学の自殺」なんだ。しかしこれはドーキンスのreligion批判の片面。もう片面は、私が指摘した「神は存在することになる」の意味がわかってからにしたほうがいいと思うので、ここでは言わない(このスレッドの主題から離れるし)。
357
:
いど
:2007/01/20(土) 22:46:35 ID:NdEDLjDw
>>355
>なかなか理解してもらえなくて困っているのですが
申し訳ありません。
今しばらくわたくしにもお付き合い願えますでしょうか。
>>355
>「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。
了解いたしました。対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。
さて、以前に以下のような書き込みを頂きました。
>>346
>その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。
それを考慮に入れた上で疑問点があります。
【前提】
ある宗教ではAという奇跡が起きることを「神の存在の証」としています。
Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。
【質問】
(1)奇跡Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)奇跡Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
358
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 22:49:07 ID:Q7XBVw2.
>あなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。
言ってないよ。信仰していようがしていまいが、と言っている。落ち着いてよく嫁。
>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。
だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。
>梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの?
ぜんぜん違う。神の子イエスを通じて父なるヤハウェーが語って人に命じるのと、人の子ガウタマに主神ブラフマーがひざまづいて教えを請うのとでは、同じレベルではない。つうか何だ?その「レベル」ってのは。
梵天勧奨を信じられなければ仏教とは言えない。というか、上で引用した釈尊の言葉も理解できたことにはならない。単に仏説の一部に賛成しただけ。で、あなたにとっての「よりよく知っている」の意味はわかった。あぁ、やっぱりそういう種類の人か、と思った。「知っている」のは「わかっている」ことを意味しはしないんだがね。
>芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、
そうだよ。だからジェンフリに代表される進歩派の反科学も、一部の保守派の似非科学も、ぶっ叩く。
>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。
そうですか。でもあなたが自分で言ったことなので、仕方ないと思います。たとえば、
>>だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか
>不当な引用で中傷するのはやめてください。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1082;id=keya1984
359
:
いど
:2007/01/20(土) 22:51:45 ID:NdEDLjDw
訂正
>>357
誤)Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。
正)Aという奇跡は神の御業であると宗教では言っており、その奇跡の内容は現実世界に影響を与えるものです。
瑣末なことかもしれませんが一応…
360
:
カモオオハシ
:2007/01/20(土) 22:55:01 ID:C0VsT.3A
>>325
>しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。
どうもお返事ありがとうございました。そこで
>>312
の書き込みに戻るのですが、ここでの用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみればフック式なわけです(そうなる理由は
>>312
で書いたことで理解いただけるかと思いますが)。要するに、五感への信仰が先にあって、それが前提となって個々の知覚の確からしさが担保される、と。こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」
これも、そういう場面で唯一証拠になりうるもの(啓示やらさとりやら)の証拠能力を否定すればもちろん証拠はないにきまっていますが、そこが争点なわけですよね。
361
:
HAKASE
:2007/01/20(土) 22:55:17 ID:ZC/gbS1c
macskaさん.
えと,「科学に分からないことはある。でもそれらは宗教にだって分からない」っていう話についてですが….
工学ばたの私の立場からの解釈ですが,科学的手法というは『その手法が使える「適用範囲」を明確にしたうえで,その適用範囲内にある現象については,ある一定の「誤差範囲(真偽がどの程度の割合で成立するか等を含めて)」内での予測や再現などが可能であることが(現状で観測し得る範囲での実証的な検証過程を経て)保証されている手法』と私はとらえています.
# 真理を探究するという立場の人(あるいはそれに近い他の立場の人も)いるかもしれませんが,私は基本的にはそのスタンスはとりません.
で,macskaさんの先の主張を,私は『ある科学的手法では,その「適用範囲」外にある事象について,その「誤差範囲」内での予測はできない(できる保障はない)けれども,なんらかの宗教的な手法(?)によって,同じ誤差範囲内での予測が可能かといえば,やはりそれはできない(と思える).』という趣旨だと勝手に解釈して,納得してたのですが,あってますか?
あと,「てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)」っていうのも(まあ誤解を与えかねない暴言ではあると私も思いますが),『宗教が「適用範囲」や「誤差範囲」をあいまいにしているのに対して,科学ではそれらを示したうえで,それらを現状よりもさらに厳密にするために実測や検証を繰り返している(あるいはそうするようつとめている)ので,その点で(どっちが上とか下とかは別にして,予測可能性について)両者を対等に扱うのはおかしい』という趣旨なのかなぁと推測して,こちらも納得してました.
# ↑宗教がこれらをあいまいにしていることについては,良い面もあれば悪い面もあると思うし,私の意見は『「宗教でもそれらを厳密にすべき」という趣旨ではない』ので,その点は誤解しないでください(大丈夫だとは思うけど一応…(^^;).
macskaさんの主張には,おそらくこれ以上の話も含まれているとは思うんですが,基本的には上の話を含んでいると考えて良いでしょうか?
他の細かい議論にはついていけてないのですが,私はとりあえず上の範囲の話であれば同意見なので,その点表明しておこうと思って書き込みしました.
362
:
tema
:2007/01/20(土) 23:03:38 ID:???
祭りのさなかに、あえて関係ないことを話すのも、オツなものです。
HAKASEさんへ
temaとしては、「量子の実証的検証は、将来的にも観測できる可能性は低いだろう」と考えます。
理由を以下に示します。なお、パイロット仮説が正しいという前提で記述しています。
>>302
>(前略) 「各データ観測時刻で同じ特性を持つ」という前提条件は少しおおざっぱで,もう少し書くと「観測系がカオス的でないことが明らかである場合」という事でした.
問題は、観測系も量子で出来ているという点です。
たとえ機械的誤差などの影響をゼロにできたとしても、量子の影響はゼロにはできません。そして、その影響はカオス的なのです。
つまり、観測系がカオス的で「ある」ことが明らかなのです。
このため、工学がどれほど発達しても、量子の振る舞いをカオス時系列解析の対象とすることは不可能と考えます。
ただし、対象とする量子は1個であり、観測系は膨大な量子からなっています。もしかすると、観測系の量子が与えるカオス的影響をノイズと見なせるような、そんな数学的アプローチが出来るかも知れません。そうなれば、不可能では無いでしょう。
さて、確かに主要な意見は合意できたと思います。
カオス理論について学ぶこともでき、楽しかったです。ありがとうございました。
363
:
カモオオハシ
:2007/01/20(土) 23:13:58 ID:C0VsT.3A
>>358
>>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。
>だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。
芥屋@keya1984さんは事実判断と価値判断の区別をしてらっしゃらないのですか?macskaさんは仏教の教えの一部分である価値判断の体系を受け入れているだけだと言っているわけです。価値判断の問題にどうやって白黒つけるかというのは難しい問題ですが、少なくとも実験や観察で白黒つくと思う人は宗教者か否か、科学者か否かをとわずほとんどいないでしょう。創造科学など、現実世界についての事実判断をする立場とmacskaさんの立場を同列に扱うのは不当だと思います。
364
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 23:15:14 ID:Q7XBVw2.
>>343
>そう言えば、法的な真理というものも科学的検証の対象とは言えないような気がする。
難しいですね…進化生物学界隈ではそれをやっていくようなので、賛否両論かしましいのでしょうね。
365
:
macska
:2007/01/20(土) 23:22:32 ID:VdHL1C4M
芥屋@keya1984さんは不当な言いがかりを繰り返すだけですし、他に相手にしている人もいないようなので、この掲示板では今後極力議論の相手にはしません。もしわたしにどうしても問い詰めたいことがあれば、芥屋さん自身の掲示板はたまに覗いているのでそちらでお願いします。わたしのサイトの掲示板でも結構です。
以下は、わたしの主張を他の方に誤解されては困るので、中傷部分だけ指摘。
>>356
> あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと
そのように見ていない。ポスモダ大騒ぎというのは意味不明。
> ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂
あげつらったことはない。
>>358
> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか
それは、チベット文化研究所のペマ・ギャルボさんが「オウム真理教の信者は(仏教徒を名乗っているが)仏教徒ではない」という発言をした、という引用を読んで、(オウムを擁護するわけではないが)「それを言い出せば、わたしから見ればチベット仏教は仏教本来の教えからかなり離れているように見えます」と答えた部分ですね。
文脈をきちんと理解して欲しいのですが、わたしは「チベット仏教は本来の仏教ではない」とは言っていません。そうではなくて、チベット仏教の立場から「オウムの信者は(仏教徒を自称していても)仏教徒ではない」と決めつけるのであれば、チベット仏教だってわたしの立場からは否定できてしまう、と言っているのです。わたし自身は、チベット仏教が「本来の仏教ではない」と決めつけることも、オウムの信者が「仏教徒ではない」と決めつけることにも、どちらにも反対です。
そうした文脈を無視し、わたしが「チベット仏教は本来の仏教ではない」という意見を言った、という風に引用するのは、悪質な中傷です。これ以上繰り返さないでくださいね。
366
:
芥屋@keya1984
:2007/01/20(土) 23:35:53 ID:Q7XBVw2.
>>363
>芥屋@keya1984さんは事実判断と価値判断の区別をしてらっしゃらないのですか?
そこでいう「事実判断と価値判断の区別」とは何でしょうか?
とりあえず今、私が批判しているのは古伝承の取り扱いですね。古伝承に神異譚はつきものですが、その神異譚の「事実判断と価値判断の区別」を、どのようにつけることができるとお考えでしょうか。
macskaさんはここへ来て「それが歴史的事実であるかどうか」という言葉を出していますが、その神異譚が史実かどうかという「事実判断」を、科学的見地で行えるとお考えですか?
たとえば神武天皇ことイハレヒコもしくはヒコホホデミのみこと。彼の母と祖母は姉妹で、ともに海神の娘であり、その正体はワニ(鮫のことか?)だったという古伝があります。しかし生物学的に考えてみれば、人と鮫の合いの子というものは考えられません。「よって、史実ではない」…そんな馬鹿なことを言う人はいないと思います。
その実在性うんぬんは実証史学の主題であり、科学としては「人間と魚類の混合種はありえませんよ」としか言えません。しかしだからと言って、そのことがただちに古伝承の事実判断につながりはしません。トーテミズムによる描写かもしれませんからね。
まぁその逆に、「神武天皇のY遺伝子」などと言い出した日には、それは「ホモ・サピエンスのY遺伝子」と言ってるのと同じです。そういうことですよ。「いや、だからね、海神の娘だとか正体は鮫だとか言うけど云々」と語り出したが最後、神武の二人の兄イナヒとミケイリヌが「我らは海神の子なのに、海よ、なぜそのように荒れて我らの行く手をさえぎるのだ!?」と言って海に入り「波の穂を踏んで母の国へ渡ってしまいました」「サヒモチの神(=鮫の類のことらしい)になりました」という古伝が、ふっとんでしまう。
そういう古伝は、事実であったかどうかの判断…そこに科学的検証など、何になるんでしょうね。それで何事か検証して「事実判断」ができると考えるような浅はかな理知の思い上がりを私は批判しております。
367
:
Josef
:2007/01/20(土) 23:38:06 ID:5DAxksug
>>350
遍在する神ですね。macskaさんのいう「自然を神と呼ぶ」に分類されるものだと思います。
かのアインシュタインも自分の神は「スピノザの神だ」というようなことを言っていたそうです。
368
:
macska
:2007/01/20(土) 23:39:50 ID:VdHL1C4M
>>357
> 対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。
重要なのはそこじゃなくて、そういう神の存在は「奇跡とされる現象を検証することによって」検証可能なのではなく、そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だと言っているのです。なんだかこのスレの最初の方の議論は間違って「奇跡」の方向に進んでしまいましたが、奇跡というのは「現実に対する介入」の言い換えとして言っただけであり、現実に介入する神の存在が科学の範疇であることと、奇跡の検証とは直接関係していません。「現実に介入する神」を「奇跡を起こす神」と(近似値的に)言い換えられる、というだけです。
>>360
> どうもお返事ありがとうございました。そこで
>>312
の書き込みに戻るのですが、ここでの
> 用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみれば
> フック式なわけです
(略)
> こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特
> 権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。
これについては、
>>361
で HAKASE さんがお答えになっていることに同意します。
>>361
わたしがあいまいにしか説明できなかったことを、分かりやすく言い換えてくださってありがとうございます。
369
:
いど
:2007/01/21(日) 00:00:40 ID:NdEDLjDw
>>368
>そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だと言っているのです。なんだかこのスレの最初の方の議論は間違って「奇跡」の方向に進んでしまいましたが、奇跡というのは「現実に対する介入」の言い換えとして言っただけであり、現実に介入する神の存在が科学の範疇であることと、奇跡の検証とは直接関係していません。
では以前の書き込み(
>>357
)を以下のように読み替えていただけますでしょうか?
【前提】
ある宗教ではAという事象を「神の現実への介入」であるとし「神の存在の証」としています。
【質問A】
(1)事象Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)事象Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
370
:
芥屋@keya1984
:2007/01/21(日) 00:12:44 ID:Q7XBVw2.
>芥屋@keya1984さんは不当な言いがかりを繰り返すだけですし、
にわかじこみはやめとけと忠告したのに、ドーキンス、ドーキンスと繰り返すから、仕方なしに「あなたが流用するドーキンスの主張は、あなたの言ってるようなものじゃないよ」と説明したら、それが「不当」なのか(苦笑)。まぁ、いつものことだからいいや。
>そのように見ていない。ポスモダ大騒ぎというのは意味不明。
【ma】
そもそも「進化生物学派」と「社会構築学派」を対立させて比較するのがおかしい。
【芥】
おかしくないでしょう。そりゃぁ、「じゃぁスティーヴェン・J・グールドは?」と問うなら、それはもちろん、そうです。全く完全に二分できるかと言えば、もちろんそうでない人もいます。でもそれ言うんだったら「保守派vs進歩派」も「フェミvs反フェミ」も無効じゃないですか。だから「学派」としたわけです。おおむねそういう構図だったでしょ?
それにね、私は「社会構築主義」と「進化生物学」が、論理階層として対立するほかないのだなどとは、どこでも述べてないでしょう。それどころか、一致できる点や学び合う(知見を交換させること)が有意義だと思われることもあるはずだという趣旨で書いてるわけで。「社会構築主義を生物学的なものと対立させて考える」だなんて、私の意見のどこを読んだらそういう見解になるんですか。「社会構築主義の立場から生物学的なものを対立させて考える」人がいるようだが、そうではないでしょうと書いているんです。それが、わかりませんか?
【ma】
おかしいですよ。対立する考え方ではないもの。例えば、「社会構築主義であり、なおかつ進化論」の立場に立つ主張だってあり得ます。
【芥】
対立して終わるとは思われない、と私も大隅先生のブログに書きましたよ。理由や具体例も含めて。でも、当時の社会生物学論争は、学派間の衝突の構図になっていたんじゃないのですか?
【ma】
それは、一部ポモ論者のもったいぶった思わせぶりな記述があって、そこから想像されるようなハードな社会構築論に一部の科学者が猛反発したわけで(笑)、現実にはそんなハードな社会構築論者なんてそんなにいませんでしたというくだらない結論。
【芥】
なんだ、あの論争をそうとしか見てないのか。だったらこの話をmacskaさんとしても仕方がありませんね。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=34;id=keya1984より関連部分抜粋。
>チベット仏教の立場から「オウムの信者は(仏教徒を自称していても)仏教徒ではない」と決めつけるのであれば、チベット仏教だってわたしの立場からは否定できてしまう、と言っているのです。
何でやねん、んなわけないだろうが…。あなたの立場の仏教って、どんなよ?
>わたし自身は、チベット仏教が「本来の仏教ではない」と決めつけることも、オウムの信者が「仏教徒ではない」と決めつけることにも、どちらにも反対です。
まじかよ…つうかmacskaタン、オウムの残党?
371
:
芥屋@keya1984
:2007/01/21(日) 00:25:11 ID:Q7XBVw2.
あ。よく見たら、すげぇ捏造されてる。
>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。
私がいつ、「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけた?私は「macskaは社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」とは書いたがね。ちょっと気を抜くとこれだ…
では、おやすみなさい。
372
:
macska
:2007/01/21(日) 01:05:16 ID:VdHL1C4M
>>371
それは捏造じゃなくて書き損じです。書き損じたことについては謝ります。
しかしあなたのやっている捏造や中傷は、いい加減どうにかしてもらえませんか?
議論の邪魔にしかなっていませんよ。
# 芥屋さんはこのスレでは以後無視するつもりでしたが、自分の書き損じを
# 訂正するくらいはやるべきだと思ったので書きました。
373
:
baku22
:2007/01/21(日) 02:01:00 ID:pNzc/oDo
大分主張に納得しかかっていたのですが、
>>368
>神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だ
という表現にはやはり抵抗を感じます。
ID論的「神」の存在検証も科学の範疇だ、という主張とうまく切り分けられないんです。
科学的に検証されうる事を直に主張したりやったりしそれを根拠とする「神」なら、
どんな突飛なものでも、さほど怖くないと思います。
ID理論はもうちょっと狡猾ですよね。
検証しうるもの中に自らをカウントさせることで、その他の実在と
「対等」になろうとする訳ですから。
374
:
Josef
:2007/01/21(日) 08:36:26 ID:uPoVYQoU
>そういう神の存在は「奇跡とされる現象を検証することによって」検証可能なのでは
>なく、そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇
>だと言っているのです。
これは不正確でしょう。多くの場合「神」は物理的存在ではないから「存在それ自体」は科学の範疇ではありません。あくまでもその「神」が行ったとされる行為が科学の範疇だというだけですね。
「おまえの本には神のことが書いてないではないか」というナポレオンの問いかけにラプラスが「閣下、私は神という仮定を必要としないのです」と答えたという話がありますが、科学は現象の検証を通して「そういう神の行為は見出せない→神を仮定しなくてもその現象は説明しうる」と言えるだけでしょう。説明しえない現象があれば、その現象自体が科学の新たな対象となりうるだけであって、どこまでいっても神の存在それ自体には到達しえないと思われます。
375
:
芥屋@keya1984
:2007/01/21(日) 20:43:32 ID:Q7XBVw2.
>>372
議論の邪魔?中傷で捏造だ?何を勘違いしているんだ。
1.「科学主義者による宗教への攻撃」と誤解され議論が紛糾していた。
2.その誤解を解きたければ、自分で仏教徒であるむね表明し仏説を例示すれば足りた。
3.本人がそれをなさないどころか誤解を煽り紛糾しているので私がそれに言及し、本人の姿勢を糾した。
4.それに言及する以上、過去の関連事例に触れるのは当然。
5.ただし、ここで以前の無回答について返答しなくて良い、ここでの質問に答えよとしてある。
過去の事例のことにつき、捏造だ中傷だとしてさらなる紛糾をはかっているのは、あなたではないか。過去の無回答事例については、あなたの無回答をもってこちらが簡潔にまとめるのは当然である。私はまさかあのまとめで中傷だ捏造だなどと反論があるとは思いもしなかったが。私のまとめが適切かどうかはソースを見て読者が判断できるのだから、それでいいはずだろう。なにをいまさらここでグチャグチャ言い出すのかね。私が書いた表現に不服なら、無回答で済ませずに再反論して構わないが、それはよそですべきだろう。
あなたのブログのエントリについては私の質問で終わっているのだから、続けたければ自分のブログに返答から始まる続編でも書きたまえ。私の掲示板についての話は、続けたければ当該スレッドか新スレでも立ててそこに書きたまえ。あなたは私にそうするように言うが、何で私がせねばならないのか、理由がわからない。私としては、あなたが無回答ならそれでかまわないのだから。「その件については誤解です。わたしのorあなたのところに続きを書きましたから、そちらへどうぞ」が筋だろう。ここに、続きを書くな。それこそ他人迷惑じゃないか。
そもそも、私は討議中の話題に横レスしたのではなく、あなたに「話を元に戻しますよ」として別個に参加したのだよ。あなたが他の人と行っている議論の邪魔などしていないのだから、変な言いがかりはよしにしていただきたい。まだあなたが回答していない他の人の質問も残っているではないか。よもや、「芥屋が邪魔をするので続行できなくなった」などと、後になって言い出す気かね。遠慮なく続けたまえ。会議室じゃないんだ、掲示板はそれが可能なところだろ。
あなたは自分が返答に窮する質問や指摘を含む批判を受けると(あるいは過去に無視したり無回答だった関連事項を持ち出されると)、途端に「中傷だ捏造だ」とわめきちらし「議論の邪魔」だとか言って議論を放擲するけど、私は慣れているので別に構わない(はじめてのことで驚いた人もいたようだけど)。しかし議論上、慣れているから放置、というわけにはいかないこともある。私はだいたい、ここであなたに言うべきことは今のところ言い尽くしたけど、以下の部分はここで新たに出された件なので、ここで返答しておく。
376
:
芥屋@keya1984
:2007/01/21(日) 20:46:13 ID:Q7XBVw2.
>>372
捏造したんじゃなくて書き損じたんだ…とのこと。わざとじゃなかったんだということは、了解した。しかし嘘を重ねて恥の上塗りをするな。再掲するが、
>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。
ショックを受けたんだろ?君は自分が書き損じてからショックを受けるのか?
書き損じたのではない、「ついこのあいだまで社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかった」と書いてあるものを読んだ時、すでに頭の中でゴッチャになったんじゃないか。自分も進化論には接してきたのに何でそんなことを言うんだ…という頓珍漢なレスが上にあったが、そういうことだろ?あなたの自己投影だ。
つまり、社会生物学論争をどう見ているかというあなたの認識は、
>>370
で引用したころと今も大きな変化はない、ということじゃないか。しかし少なくとも私は過去形で書いたのだ。それを中傷や捏造と呼ぶことは不当である。以上。
以下、自己レスの訂正です。
1.「梵天勧奨」と書いてますが、「梵天勧請」が正しいようです。
*検索では「梵天勧奨」でも出てきましたが僅かでした。
2.「ドーキンスは明言していないが」と書きましたが、明言してました。
*『利己的な遺伝子』を読み直して気付きました。
377
:
HAKASE
:2007/01/22(月) 19:52:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.
観測装置がカオス的にならざるを得ないという点のご指摘ありがとうござます.
これについては,カオス制御の分野などでカオス的な出力をそうでない出力に変換する工学的な技術なども検討されているので(直接の適用は無理としても発想は使える気がするので),私は可能性があるかもしれないと感じます.ただ,量子等への利用や応用がホントにできるかはわからないし,カオス制御自身が現在研究段階の技術でもありますし,私が言えるのはやっぱり「可能性」までです(^^;
ということで,主要意見は合意ですね.ありがとうございました.
378
:
baku22
:2007/01/22(月) 20:33:59 ID:pNzc/oDo
遅レスかつ寄り道ですが、
>>367
アインシュタインの話は知りませんでした。ありがとうございます。
となると彼の、「神は賽をふらないという確信」にはスピノザ哲学からの影響があったのだろうか・・・
などと、しばし空想にふけってしまいました。
379
:
地下に眠るM
:2007/01/22(月) 20:58:00 ID:cizMQ0FI
>>225
に関連して、こんなのはどないだにゃ?
ttp://polylogos.org/books/polanyi.html
いろいろと説明のやりかたを考えてはいるんだけど、どうもソーカル事件がアタマをよぎるにゃー
ここの議論を放り出すつもりはにゃーという意思表示をかねて
380
:
Josef
:2007/01/23(火) 20:41:35 ID:uPoVYQoU
>>378
>となると彼の、「神は賽をふらないという確信」にはスピノザ哲学からの影響があったのだろうか・・・
スピノザの神もまた決定論的ですからね。十分可能性はあるでしょう。天才的な劇作家ビューヒナーもスピノザに強く影響されたと言われていて、その作品に見られる歴史宿命論と関係づけて論じられることが多いようです。
381
:
Josef
:2007/01/23(火) 21:13:47 ID:uPoVYQoU
>>225
に関して少しだけ。
>数学がなぜ自然科学においてこれほど役に立つか、ちゅうのはなかなか答えがいのある問いかもしれにゃー。
言い換えると、地下に眠るMさん言うところの「純粋な思弁の自己運動」がなぜ外部の対象に「的中」するのか。これは未だ正答の見つからない難問ですね。
>僕たちの脳は、数十億年におけるトライ&エラーで貯えた莫大な情報を物質的に構造化
>した器官だといえにゃーだろうか? ニンゲンの脳内における法則は、外界・自然界の
>法則と相当程度にパラレルな関係にあるのではにゃーだろうか? だからこそ、ほぼ純粋な
>思弁の結果である数学が、外界の事象の解析にあれだけの力を発揮するのではにゃーのだろうか?
という方向を、乱暴にあっさり逆転させてしまえば、脳の活動もまた自然法則に則っているのだから、そもそも脳は本質的に自然法則に反する思考をすることができない、とも言えそうな気がします。なぜ思考が外的世界に的中するか、ではなく、「的中しないことができない」という逆転です。
もちろん実際には思考の結果が間違っている(=的中しない)ことはあります。しかしそれはデータが不足していたり、生得的な知覚パターンによる錯覚(その錯覚も元々は生存に適するべくプログラムされたもの)があったり等々の理由、つまり思考の出発点における不備に起因する。その場合、思考(論理的推論と言ってもいい)は「正しい推論」を通して「必然的に間違う」のであり、思考そのものが間違っているわけではない。
また、もちろんいい加減な推論をやれば、出発点が正しくても間違える。しかし数学のように、論理を尽くして考えれば誰もが必ず同じ結論に達することができる、という程度に厳密化されて出された結論ならば、それは自然法則に則ってしか機能することのできない脳が「これと同程度に厳密で、かつこれに反する結論は出しようがない」と判断しているのであり、それはいわば自然法則そのものの写像となっている。但し書きとして「人間的かつ不完全な」を加えなければなりませんが、どんなに不完全であってもその断片たちは常に自然法則と平行している、つまり常に正しい。それが数学というものである。
…などといういい加減な考え方についてはどう思われるでしょうか?
382
:
Josef
:2007/01/24(水) 20:18:59 ID:uPoVYQoU
後で気づきましたが、チョムスキーは言語について上と似たような考えをしたかもしれません(直接読んだことはないのでいい加減)。
言語は様々だが、人間の頭から生まれた以上、表層は異なっても深層では必然的に同じ構造を持つ。いや、同じ構造しか持ちえないはずだ。この、唯一しか存在しない深層構造からすべての言語は生成した。よって一つの言語を調べれば、そこで得られる論理構造はすべての言語に共通する。そして各言語は、一つの深層構造から生成するプロセスとして(歴史的プロセスではなく構造的プロセス)記述できるはずだ。
…と考えたかどうかは知りませんが、大きく間違っていないとすると、この「深層構造」なるものは「スカイフック」的発想によるものということになりそうですね。
383
:
地下に眠るM
:2007/01/25(木) 10:27:48 ID:O39sy2IQ
>>381
>という方向を、乱暴にあっさり逆転させてしまえば、脳の活動もまた自然法則に則っているのだから、そもそも脳は本質的に自然法則に反する思考をすることができない、とも言えそうな気がします。なぜ思考が外的世界に的中するか、ではなく、「的中しないことができない」という逆転です。
それをもう一度ひっくりかえすこともできるにゃ。
ニンゲンは自らの脳内の法則にしたがってしか外界を知覚・認識できにゃーという逆転ね。脳内法則を外界にあてはめて認識しているので、不一致はおこりようがにゃーという理屈。
まあ、「マクロコスモスとミクロコスモのすの照応」というのは由緒正しい神秘主義の中心概念のひとつでしてにゃ。ニンゲンはニンゲンの脳内で可能なロジックをもってしか、外界を知覚・認識できにゃーということは間違いにゃーでしょう。
このあたりの議論は、ユクスキュルの「環世界」概念とも関係するにゃんな。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
より引用
***************************
環世界(Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。
すべての動物はそれぞれに特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。 時間や空間もそれぞれの動物にとって異なった時間・空間として知覚されている。 動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。
***************************
ユクスキュルの理屈で言えば、生物の外界認識は「正しいが部分的」となるでしょうにゃ。
そしてこういった捉え方は、ドイツ神秘主義、ドイツ観念論の源流ともいえる否定神学にもみられるわけですにゃ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6
で、この否定の道でのみ語られうる神、という概念はまさにストロースのいう「浮遊するシニフィアン」になるのですにゃ。
このあたりの話は、某所で書こうとしていることなんだけど、なかなか書けにゃー。まとまったらこっちにもあげるにゃ。
384
:
地下に眠るM
:2007/01/25(木) 10:49:06 ID:O39sy2IQ
ありゃりゃ、
「マクロコスモスとミクロコスモのすの照応」
ではなく
「マクロコスモスとミクロコスモスの照応」
ですにゃ。
普段から推敲をしてにゃーし、軽微な書き損じはほっておいてるんだけど、さすがにキメ台詞は訂正しておきますにゃ。
さて、ついでだにゃ
>>379
でのリンク先からの引用
***********************
人間には、科学的な知や、言語で表現できる知を越えた暗黙的な知がそなわっていることを明確に指摘した古典的な書物。この知は言語で語ることができず、しかも言語化された知の背景となり、これをもたらすことができるもの、科学的な発見をもたらし、研究の指針を教えてくれるものである。
中略
科学では、主観性を排した客観的な知識の確立が求められると考えがちだが、「暗黙的な思考はすべての知識の不可欠の部分をなしている、ということを考えるならば、知識の個人的な(パーソナルな)要素をすべて除去するという理想は、実際にはすべての知識の破壊をめざしていることになる」(38)のはたしかである。科学は普遍をめざすが、その普遍には個の軸のようなものが必要なのである。
*******************
クレーンとスカイフックという比喩をmacskaは多用しているにゃんね。
しかし、この「クレーン」の土台に暗黙知があるということは、ほとんど否定することは難しいのではにゃーのだろうか?
そして、この暗黙知って「スカイフック」なのではにゃーのかな?
つまり、クレーンの足場はスカイフックでもたらされている、ちゅうことだにゃ。数学の足場もやっぱりスカイフックでもたらされているのではにゃーのかな?
デネットがグールドなどを批判するのに「スカイフック」という概念を使うのは悪くにゃーと思う。
なぜなら、カガクはとりあえず自らの足場を自明なものとみなし、そこからクレーンをつかって積み上げている体系だからだにゃ。
しかし、「知」を考えるときに「スカイフック」を否定することはできにゃーだろう。
どのようなクレーンも、その足場はスカイフックによってもたらされているのだにゃ。
カガクとかテクノロジーとか、道具の有用性に目をくらまされると、そうしたことが見えなくなるのだにゃ。
宗教という知は、そうしたことを忘れたことは1度だってにゃーんだ。
385
:
地下に眠るM
:2007/01/25(木) 16:52:38 ID:cizMQ0FI
職場でお茶を飲みつつ
ttp://transact.seesaa.net/
ここの常連はほとんどご存知の「忘却からの帰還」ですにゃ。IDに関するウォッチサイトとしては質・量ともにもっとも「使える」サイトのひとつにゃんね。
07年1月25日付けの記事から引用するにゃ
原文は英語だけど、翻訳部分だけを引用
**************************
残念ながら、米国の大半の市民は科学についてちゃんとした理解がない。特に仮説や理論が反証可能でなければならないという点について、科学的方法をほぼ誤解している。さらに、理論は何かを証明するものではなく、証拠によって支持されるものだ。ほとんどの人々はこれを逆だと思っている。人々は科学は何かの存在を証明し、科学的真理が絶対確実な法則になるのだと思っている。私がよく聞く科学的真理の例は「科学は地球が太陽の周りを公転することを証明した」というもので、これはまったく正しくない。あらゆる科学は証拠によって駆動され、証拠は地球が太陽の周りを公転するという理論を支持する。この理論はそれでもなお、特定の証拠によって反証されうる。そんな証拠が見つかるとはまったくないと思うが、それが科学というものだ。新しい考えを花開かせ、固まった教義を奨励することを拒否するように、常に扉は開いている。
インテリジェントデザイン支持者たちは、この無知につけこんだ。ほとんどの人々は科学的理論が反証可能でなければならないことを知らないので、インテリジェントデザイン支持者たちは、反証不可能な理論を提示できて、人々は無知ゆえにこれを受け入れる。
**************************
macskaによると、検証が不可能でも、つまり反証の可能性のないことでも現実におこることであればカガクの対象だと主張しているわけですにゃ。
しかし、この理屈って、もちろんカガクにとって何の益もにゃーだけでなく(カガクに携わる者、科学哲学を少しでもかじったことのある者ならわかるだろ)、社会的にも有害なシロモノなんでにゃーのか?
必要なのはカガクとは何かということについての地味で継続的な啓蒙だにゃ。macskaの主張するカガクの対象の範囲の定義では、まともな啓蒙活動に何の益もたらさず、混乱をまねくだけに終わると考えられますにゃ。
386
:
Josef
:2007/01/25(木) 19:07:23 ID:uPoVYQoU
>>383
>それをもう一度ひっくりかえすこともできるにゃ。
>ニンゲンは自らの脳内の法則にしたがってしか外界を知覚・認識できにゃーという
>逆転ね。脳内法則を外界にあてはめて認識しているので、不一致はおこりようがにゃーという理屈。
そう、いとも簡単に逆転できるんです。
たとえばデカルト風に「今こうして考えているということは疑いえない」という地点から出発する立場からは、自分の外に世界が存在することを前提とする自然科学はすべてスカイフックでしょう。フックとクレーンという比喩はもともと相対的なんですね。
「世界は存在する」という飛躍を前提としなければ、確かだと言えるのは「この認識」だけになります(「認識内容」ではなく「認識しているということ」)。ここから出発すれば、どうしたって観念論、つまりは形而上学にならざるをえないわけで(現象学がその例)、このことは「形而上学は天からつり下げられたフックではにゃーのだ」(
>>225
)という「独り言」とも関連してくるような気がします。
387
:
Josef
:2007/01/25(木) 19:08:46 ID:uPoVYQoU
>>385
>macskaによると、検証が不可能でも、つまり反証の可能性のないことでも現実におこることであればカガクの対象だと主張しているわけですにゃ。
これはおかしい。
何がおかしいかというと、「検証が不可能でも・・・現実におこること」という文言。macskaさんが言ってるのは、現実に起こることなら原理的には検証が可能なはず、ということですね。「検証が不可能でも・・・現実におこる」という事態そのものがありえない、という主張だと思われます。
ただ、上に書いた「認識しているということ」なんかは、当人にとってはこの上なく確実な「現実」であるにもかかわらず、検証は不可能です。あるいはヴィトゲンシュタインは世界が「私の世界」であることを強調しますが、この「私の」というこの上ないリアリティは検証しなえい(「共感」できるかできないかです)。
つまりmacskaさんの言う「現実」とは、非精神的な外的世界(自分の身体も含む)ということでしょう。
388
:
ラク
:2007/01/26(金) 00:30:54 ID:.LrraLno
>何がおかしいかというと、「検証が不可能でも・・・現実におこること」という文言。macskaさんが言ってるのは、現実に起こることなら原理的には検証が可能なはず、ということですね。「検証が不可能でも・・・現実におこる」という事態そのものがありえない、という主張だと思われます。
難しいことは解りませんけどポパーは、科学 ⊃ 検証可能 とは言っているようですが、現実 ⊃ 検証可能 とまでは言っていないのではないでしょうか。
だとすれば、(検証不可能 ⊃ 非現実)=×。
なので私的には、∴検証不可能 ⊃ 非科学的…みたいな感じですけど。
389
:
diamonds8888x
:2007/01/26(金) 06:08:06 ID:HFzGgWdI
>>387
,
>>388
誰にとって検証可能なのかという問題でしょうね。一般には「普通の人間なら誰にでも」という意味で使いますが、「私にとって検証可能でも他人には検証不可能」という現象もあるということですね。
それから「原理的に検証可能」と言ったときに、検証のためにどこまでの道具を認めるかでも違いが出てきますね。タイムマシン、はともかくとして過去を直接観測できるタイムスコープとでも言うべき道具も認めるかどうか、人の脳内の思考を直接観測できる機器とか超能力?とかも認めるかどうか。何せ、将来も発明されないとも言えませんし。
そうなると作図問題みたいに、「使えるのはコンパスと定規だけ」とか規定しとかないと・・。
390
:
Josef
:2007/01/27(土) 17:39:02 ID:uPoVYQoU
>>388
ポパーは科学の科学たる条件として検証、というか「反証」ですかね、「反証」に対して開かれたシステムであることを挙げたと理解しています。現実に起こったことや起こったとされることを科学的に検証する、という時の「検証」とは指すところが違っているでしょう。
で、当然のことながら科学は「現実」のすべてを対象とすることはできません。「現実」の中の、科学的手法で扱えるものしか扱えない。枝葉の部分はともかく、この、ごく当然のことをmacskaさんは言っているだけで、何か新しい提言をしているわけではないと思います。
ある人が突然死した。宗教家が「神の怒りに触れたからだ」と言った。そしたらもう突然死の原因を科学的に解明することはできなくなるのか。そんなわけねーだろ、ってこと。でもそれじゃああんまり当たり前すぎるから、いくらなんでももうちょっと問題性のあることを言っているのではないかと思っていろいろ勘ぐってしまう。その総体がこのスレッドだと思います。
>>389
考えてみると「原理的」もかなりいい加減な言葉ではあります。が、SF的設定とか超能力とかは(内容次第ではありますが)、想像世界で「原理」自体を変えてしまうことを意味するのではないでしょうか。「自分の髪を掴んで沼から自分を引き上げる」とか「まん丸な形をした三角形」とかは原理的に不可能ですが、「それがありうる世界(人)なら」と仮定したとたん、原理自体がその想像世界では変えられている。だからそういう設定が「想像」として語られる限り、科学はそれを「原理的に」検証することができない、ということになるような気がします。
391
:
ラク
:2007/01/27(土) 21:56:47 ID:T.C8oAB.
>>390
>ポパーは科学の科学たる条件として検証、というか「反証」ですかね、「反証」に対して開かれたシステムであることを挙げたと理解しています。
そうですね、どうも「反証(可能性)」と「検証」を混同していたようです。
>現実に起こったことや起こったとされることを科学的に検証する、という時の「検証」とは指すところが違っているでしょう。
とすれば、ある理論が科学的かどうかの「検証」が反証可能性ということでしょうかね。
392
:
baku22
:2007/01/28(日) 05:46:15 ID:pNzc/oDo
スレッドが紛糾した原因に関してですが、宗教(ID論含めて)をもっと場合分けした方が良かったのかも、と思いました。
ざっと思いつくのが、
1:迷信。現世的奇跡を根拠にする教祖など
2:ID論的なもの。反証不能なものを起点に、手を広げてゆくもの。
3:カトリック主流派的なもの。反証不能なものを教義に含みつつ、自らを哲学の一種にカテゴライズする。
2 が相手だと、科学の側で己の輪郭をはっきりさせて、相手の主張をまず分節する必要がある。
この「政治」が人によっては科学の弱腰、道学者的に映るのかもしれない。
macskaさんの主張も動機もそこら辺が動機になっているのかな、と考えていました。
393
:
baku22
:2007/01/28(日) 05:51:45 ID:pNzc/oDo
ミス。主張も動機も→主張も、です。
394
:
baku22
:2007/01/28(日) 06:48:48 ID:pNzc/oDo
補足:
最初macskaさんのように神を場合分けしようと思いましたが、
やってみると頭が混乱してきました。
395
:
Josef
:2007/01/28(日) 18:32:03 ID:uPoVYQoU
>>391
>ある理論が科学的かどうかの「検証」が反証可能性ということでしょうかね。
そう言っていいと思います。その意味で「神のデザイン」という主張は非科学的ということになるでしょう。
>>392
>スレッドが紛糾した原因に関してですが、宗教(ID論含めて)をもっと場合分けした方が良かったのかも、と思いました。
前提が違ってたんでしょうね。
macskaさんに反論する人たちを「論理的思考のトレーニングが足らない人たち」と呼んだ恥ずかしい「解説」もありましたが(
>>246
)、むしろ論理的&科学的思考に慣れているからこそ、「神」という超越は科学の対象になりえないことを皆さんイヤになるほど理解していたのでしょう。つまり、NATROMさんの
>>7
>そんなことで否定できるしょぼいカミサマなんて神じゃないような気もしますが。
という辺りが、おそらくここの常連さんたちの「常識」で、macskaさんの念頭にある「しょぼいカミサマ」とは神概念が最初から大きく隔たっていたと思われます。やりとりを重ねてmacskaさんが科学の対象だととする「神」が理解されるにつれて、「なるほど!」ではなく「なーんだ(ツマンネ)」となっていったように見えます。知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。
396
:
シカゴ・ブルース
:2007/01/30(火) 16:52:13 ID:KNmRxfBE
>>395
>という辺りが、おそらくここの常連さんたちの「常識」で、macskaさんの念頭にある「しょぼいカミサマ」とは神概念が最初から大きく隔たっていたと思われます。やりとりを重ねてmacskaさんが科学の対象だととする「神」が理解されるにつれて、「なるほど!」ではなく「なーんだ(ツマンネ)」となっていったように見えます。知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。
Josefさん、お久しぶりです。
macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。私のようなレベルの低い者には macskaさんの主張はとても論理的で分かりやすいのですが、ハイレベルの議論をなさる方には非論理的に見えるのでしょうか。その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、レベルの低い(失礼!)macskaさんが終始冷静でおられるのはとても不思議です。
まあ、それもこれも私がレベルの低い科学的思考しかできずレベルの高い哲学的な思考が苦手なせいかもしれません。しかし、こんなギャラリーもいるのだということを言いたくて闖入いたしました。
それでは。
397
:
ラク
:2007/01/30(火) 21:50:27 ID:.HJIF4uU
>神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。たとえば、現実社会において奇跡を起こしたり悪人に罰を与えたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の「神」であれば、その存在は(実際に証明もしくは反証は難しくても)原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうるのではないですか。
>macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。
ちなみに門外漢の印象としては、「科学の範囲」としては、「(実際に証明もしくは反証は難しくても)」、「実際に証明もしくは反証」できる可能性がゼロではないという判断があるあるならば、「原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうる」のは当然でしょう。
だとすれば思考が導かれるのは、だからどうしたのですか?という問題の所在ではないのかという気がするんですけどね。
398
:
地下に眠るM
:2007/01/31(水) 00:30:44 ID:wI1zz7WI
あのね、macskaのおっしゃっているカガクの対象云々という話は、チミたちの考えているようなマトモな話ではにゃーんだよ。
>>234
を参照すること。
234の最後の部分の「カガクの独占」という部分についてはmacskaから反論がでているけれど、その前のカガクの対象についての話には本人からも異論はでてにゃー。
つまりは、検証の可能性がなくても現実世界におこることならカガクの対象だというゴミ理屈。
精神年齢が極端に低い僕としては、燃料を投下してくれたシカゴ・ブルースにお礼をいいたいところにゃんね。やるといっていておあずけになっていた宿題をここでやるきになってきたにゃんよ。クソ忙しいけど。
なににしろ、この場所におけるmacskaの発言の多くはゴミだし、宗教に対する根の深い侮蔑感情があることはまちがいのにゃーところだろう。
そのあたりは論証していくにゃ。
とにかくさ、「私は差別・侮蔑をしていない、そんな意図はない」といえば差別や侮蔑をしてにゃーことになるのなら、この世に差別主義者はほとんどいなくなるにゃ。
僕は悪意や暴言はまだ嫌いではにゃーんだがね。無知に基づく侮蔑はいかんともしがたいにゃ。
399
:
シカゴ・ブルース
:2007/01/31(水) 02:23:28 ID:KNmRxfBE
>>398
地下に眠るMさん、こんにちは。
>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
たしかに誤解を招きかねない表現ですね。ただ、私は「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」はとりあえず科学的探求の対象となるだろうと思います。まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのことです。macskaさんの主張はそういうことなのではないかと私は読み取っていたのですが、何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。
そういうわけで、
>カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ
とまで、macskaさんは言っていないのではないかと私は思います。
実際には、科学的に検証ないし反証できそうなことがらであっても、それをするだけの意味があるかどうかはまた別の問題ですね。そのあたりは各人の価値観の領域であり、私はといえばあまり興味が湧かない。
>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?
燃料を投下したつもりはないので、「宿題」の方はどうでもいいです。お忙しいようですし。私の真意がご理解いただければそれで結構です。
400
:
地下に眠るM
:2007/01/31(水) 10:57:51 ID:XojOj2WM
>何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。
うん。チミの読み落とし。
>>107
において僕は本質的な偶然性という概念をひっぱりだしてきているにゃ。これはそもそもカガク的に検証できるものではにゃー。
そうしたあたりもふまえた(はずの)うえで、macskaのいくつかの発言があるわけだにゃ。
それに、この読みをしているのは僕だけではにゃーぞ。ミケも同様の読みをしているようだにゃ。そのあたりも踏まえて
>>234
を書いたんだけどにゃ。
なによりmacska自身が僕の(あるいはミケの)読みを否定してにゃーわけ。ミケは何度も確認しているんだけど、答えはにゃーからな。
そもそもね、僕だって「まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのこと」という主張をmacskaはしているかもしれんと思ったので、原理的にカガクの対象となりえにゃーような事例を出して聞いてみたわけ。それでえられたのが「現実世界でおこることは検証ができなくとも全てカガクの対象だ」とかいうゴミ主張なのよ。
>>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
>これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?
にゃるほど。チミはmacskaの宗教に対する知見と「世の大方の宗教観(それも啓蒙主義的な宗教観)」は同じようなものだと考えているわけにゃんな。僕も同意するけどにゃ。macskaの宗教についての見識は、不勉強がゆえの「世の大方の宗教観」の域を一歩もでていにゃー。
macska本人がそのあたりを率直に認めているのならば、話はこじれてにゃーだろうね。
>燃料を投下したつもりはないので、「宿題」の方はどうでもいいです。
僕は精神年齢が低いっていってるだろ(ニコニコ
401
:
地下に眠るM
:2007/01/31(水) 12:16:32 ID:XojOj2WM
とりあえず我慢のできにゃーところを
>>118
>>125
>>177
>>184
>>185
>>197-198
>>200
あたりの流れ
>宗教とはこういうものであるという自分の見解(あなたの書いているものとほぼ同じです)を述べただけ
>>200
僕はmacskaと同じことを述べたおぼえはにゃー。
macskaのいったのは
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
>>118
その具体例として
>これは宗教的倫理を見れば明らかです。(旧約)聖書によれば、安息日に仕事をした人は死刑にしなければならない。しかし、「安息日に仕事をした人を死刑にするのは正しいですか」と聞けば、ほとんどのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者は「その規則は現代にはふさわしくない」と答えます。キリスト教についてはイエスの登場により「この規則は現代にはふさわしくない」という合理的な理由がありますが、その他にとっていつこの規則が失効したのでしょうか? 世間が「それはいくらなんでも乱暴すぎる」と思うようになったから、それに合わせて解釈を訂正したのではないですか?
>>125
対して僕は
安息日規定はそもそも弱者保護規定であり、どのような罰を与えるかについては律法解釈の余地が最初からある。つまり、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替え」てなどいない。
という旨のレスをしているにゃ
もともとmacskaは、「多くの宗教者は自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えている」と主張し、その具体例としてユダヤ教の安息日の話を出したわけだにゃ。
それに対して僕は、ユダヤ教の安息日は弱者保護がその趣旨であり、十戒も最初から多義的な解釈が可能なように書かれている。趣旨にのっとった解釈が要請されているとの旨を述べたにゃ。
>>185
でmacskaが理解に苦しむといった、安息日における「あかり」の扱いも弱者保護の趣旨で解釈してみせたしにゃ。
律法でガチガチに定められたものを、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えている
と
律法では最初から解釈の余地があり、その趣旨に従った解釈が要請され、また行われている
のどこが同じなんだよ?
前者は原理原則がないといっている。後者は原理原則を遵守しているといっている。
ユダヤ教のような契約宗教に対し、原理原則がないといったら、それはヒデエ侮蔑だろ?
macskaは自分の発言が侮蔑であることを理解できてにゃー。
差別主義的環境で育ち、差別主義を自明のものとみなすガチガチで愚昧な差別主義者には、自分の発言がなぜ侮蔑であるのかを理解できにゃーことがよく見られるにゃんがね。
402
:
地下に眠るM
:2007/01/31(水) 12:56:13 ID:XojOj2WM
これなんかもヒデエ
「夢」の取り扱いの話ですにゃ。ま、典型的な事例にゃんが。
>宗教の側がどう解釈するかはかれらの勝手ですが、傍目から見ていて「分かっている」ようには見えません。
やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」。
>>290
「傍目からみて」ちゅうのはどういうことなんだろうか? macskaが見ているのなら尋ねてみたいところにゃんが、どういう宗教が夢をどう扱っているかの事例を多く知ったうえでなければ、こういう発言は本来はできにゃーと思うんだよね。
宗教を侮蔑するな、いや、侮蔑なんてしていない、などというやりとりをさんざんしてきた場所で、「傍目から見ていて」程度のイイカゲンな知識で「「分かっている」ようには見えません。やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」」などと暴力的に断言してしまうのだからスゲエ。
夢はシンボルやメタファーを用いた意味解釈とも捉えることができ、そうしたシンボルやメタファーとその意味解釈をごっそり貯蔵している宗教的な知の体系が適切な解釈を与えうることなんて、想定されてアタリマエだと思うんだけどにゃ。
何も知らにゃーで、しかも無知にいなおって否定し侮蔑するというmacskaのスタイルは、結局最後まで変わるところがなかったのだにゃ。そして、自分が侮蔑しているという意識すら持てにゃーほど凝り固まってしまっている。
ついで(実は前からいいたかった)
>サービスして一つだけ言うと、創造神的な神の反証には argument from design が有効だと思います。
>神のような複雑で素晴らしいものが、進化したわけでもなく独りでに生まれたとは考えにくい。
>>83
いや、万能の神という概念に対してはまるで無効だって。
進化というプロセスでは、けっして「万能」なものは生まれることはにゃーのだ。知性ある存在、ならば進化で生まれえるけどにゃ。
そもそも教義において、最初の存在者とされているのだから、そんなことを言いだしても他者の宗教の教義を否定するだけの無礼で低能な侮蔑にすぎにゃー。
ただし、argument from designという考え方は、ID(インテリジェントデザイン)説における、「デザイナー」の存在に対しては有効な論点だにゃ。IDの連中は、自分たちのいっていることが特定宗教の神だということを認めることができにゃーので、万能の神を持ちだすことができにゃーんだよ。
正直いって不勉強だにゃ。IDのデザイナーのようなチンケな神を否定する理屈で、創造神を否定できると思ってもらったら困る。
Josefもいっているにゃんが、macskaの持ちだした神概念は、最初からチンケなものだったように思われますにゃ。だから、必然的に宗教批判・侮蔑的な発言を繰り返すことになった。チンケな神を叩いているだけなのに、宗教がどうとかいっているから反発をくったのではにゃーだろうか?
403
:
ミケ
:2007/01/31(水) 13:09:02 ID:???
>>399
横レス失礼。
>これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?
世の大方の〜 という言い方をするならば、
世の大方の「科学観」というものは
【真理、あるいは絶対に正しいもの】
みたいな感じじゃないでしょうか。(残念ながら)
でもここでは、科学について、誰もそういう見方では話してないですよね。
ならば、宗教についても、
そういういい加減な見方に基盤を置いて主張するのは慎重になった方がいいかと思われます。
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