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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

1管理者:2002/03/08(金) 12:20

このスレッドの過去レスにここから移動できます。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/gisaku.htm


他スレッドで問題提起がありましたので、新しいスレッドを立ち上げました。

名前: 秀峰 投稿日: 2001/03/23(金) 12:00

初めてで失礼します。このスレッドと違うのですが、ご存知でありましたらお教え頂けましたら幸いです。
戒壇の大御本尊様につきまして、古来より真偽問題がでています。正宗信徒として御戒壇様が大聖人様の出世の本懐であり、真筆であることを、どのようなことからそのように認識していけばよいのでしょうか。この問題が以前より確信できないでいるものですから、ご指導頂ければ大変幸いです。よろしくお願い申し上げます。趣旨は全く信仰上の純粋な意味で理解したいというものです。よろしくお願いします。

2138管理者:2008/05/11(日) 06:32:04

旦さん

>貴殿の目は節穴としか言いようがない。

もう止めませんか。反論に対して、このような侮蔑で応ずるのはルール違反です。

当掲示板の禁止事項を再掲します。

【禁止事項】

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。なお、管理者の制止を無視して、侮辱表現、侮辱発言を続けられた場合は、以後の投稿をお断りする事になりますので、予め、御承知置き下さい。

このルールにより、あなたのレスは削除します。以前、投稿禁止になったあなたが、臆面も無く、ハンドルを変えて、ルール無視の投稿を続ける事を容認するほど、この掲示板のルールは寛容では有りません。

旦さんを再度投稿禁止にします。

2139れん:2008/05/18(日) 18:44:24
参考までに
1、二箇相承
これは、西暦1400年代に保田と北山の通用により、北山の日浄師から保田の日要師が伝来した北山関係の文書の切り紙の中にあるものと日尊門流の日広師の写本が最古写本ですが、それ以前において確実な文献においては二箇相承の存在を示すものはなく、このことから、二箇相承は、北山の日浄師が、石山や西山との正嫡論争における北山正当論の証拠となる文書として、同寺に所蔵される蓮祖真筆の貞観政要等の筆跡を参考にしつつ作成したものでしょう。また、日要師の写した北山の文書には二箇相承とともに、“本門寺大堂本尊”の“裏書”の写しもあります。北山の日殿師の申状によると、北山では自山を本門の戒壇と規定し、本門寺大堂本尊が三堂の内、本堂(法華本門寺根源)に懸ける漫荼羅としており、当時の北山文書を通読しますと、北山においては、二箇相承に見える“富士山本門寺戒壇”の漫荼羅は“本門寺大堂本尊”であったことが理解出来ます。
このことから分かるように、二箇相承は、あくまで北山で偽作され使用された文献で、石山でいう“唯授一人血脈相承”や石山の“お板”とは何の縁もゆかりもない文献ですね。天正年間の北山と西山の紛争により本門寺大堂本尊と二箇相承が紛失したあと、石山日主が二箇相承と“お板”腰書きの写本を作成していることから、北山の重宝紛失のドサクサに紛れて、日主が日道門流版の“戒壇本尊”を作成し、日道門流の正嫡論を主張したと見るのが至当です。日道門流に於いては、模刻板本尊は日影・日有の時代から見えますが、日道門流に於いて“戒壇本尊”としての漫荼羅(お板)の存在を示す歴代の文献の初見は日主ですので、日道門流における“戒壇本尊”を作成したのは日主でしょうね。

2、日興遺誡置文

これも、日興師の真筆や直弟子による写本は現存せず、確かな最古写本も保田日我師と要法寺日辰師のもので、時代も戦国時代後期まで下るため、日興師真撰説は証明が不可で、寧ろ後世に作成された偽書の可能性が高く、あくまで門流文書として扱うのが普通です。

2140顕正居士:2008/05/18(日) 19:07:26
そもそもこの文書は大石寺との抗争で北山が実物を提出したことがあります。
(以下「素朴な疑問」にずっと前に投稿したものです)

「永正年間大石寺日鎮師は「富士山本門寺なる號は本門戒壇建立以後初めて公称
すべきものなるにも拘はらず重須が本門寺と號するは興師の正意にあらず」と
主張したから重須本門寺日國師は小泉久遠寺日継師と共に之を領主今川氏親に
訴へ、斯くて氏親の前に於て対決となったその時重須方から呈示したのが所謂
二箇の相承である、其時氏親は其等を以て真書として左の判決を下して居る。

従日蓮聖人的々相承並本門寺々號支証明鏡之上領掌無相違者也 仍状如件
永正十二年乙亥(祖滅二三四)六月二十六日 修理大夫 書判 本門寺日國上人」

「富士日興上人身延離山の研究」
(早川一三著、昭和11年刊、同48年再刊ニチレン出版)

*日蓮聖人従(よ)り的々(ちゃくちゃく)相承並に本門寺々號、支証明鏡の
上は領掌相違無き者也、仍(よ)て状(さた)件(くだん)の如し。
*早川一三-後、北山本門寺法主。

2141犀角独歩:2008/05/18(日) 19:18:17

れんさん

『貞観政要』については、上杉師のところにお邪魔した折、お聞きしたことでした。たしか、戦前かに、これを売り出したことがあったということで、そのときの広告のコピーを頂戴した記憶があります。
この『貞観政要』と『二箇相承』の写本は、筆跡で一致しますか。

日主の造立説は、説得性がありますね。腰書きは、ともかく、このときの本体は、何を原本に用いたとお考えになりますか。

2142れん:2008/05/18(日) 21:06:43
顕正居士さん
二箇相承が、北山日国師時代の北山と石山との係争において、北山が使用した実例をお示しくださりありがとうございます。


犀角独歩さん
貞観政要の複製が戦前の北山から刊行されたことは存じ上げております。
二箇相承の正本は天正年間の紛争で紛失してしまったため、筆跡を照合することは不可ですが、二箇相承の日耀写本や日健写本の写真を見る限り、それぞれの筆跡から底本とした二箇相承を忠実に写し取ろうとする意志は伺えるので、それを踏まえて見比べますと、二箇相承写本をみる限り、その底本となった二箇相承は、貞観政要北山本の筆跡を参考にしているのだろうとの印象を受けます。
石山日主が作成した可能性の高い石山版の戒壇本尊については、腰書き写本以上の情報がないので、なにを原本にしたのか、特定は不可能ですが、日鎮・日院・といった日主の先師ならびに日主自身、また日主以後日精辺りまでの歴代の漫荼羅の画像が得られれば、その相貌から、ある程度の当時の彫刻の相貌を推定することは可能かと思われます。そこから、原本を考察出来るかもしれません。

2143犀角独歩:2008/05/18(日) 21:26:06

れんさん

有り難うございました。

「富士山に本門寺…」ではなく、「富士山本門寺」であるとは、かつて顕正居士さんも指摘されたことでしたね。併せて、『貞観政要』からの拾字、もしくは参照したということが立証されれば、さらに二箇相承の実態が闡明になりますね。

日主であれば、安82本尊が、初代彫刻の原本であれば、自然ですね。しかし、そうなると、これをほかの物に何故、取り替えなければならないかの説明がつきません。あの時代に、ほかに戒壇本尊の下図にできるような大幅の本尊が、ほかになにかあったのでしょうかね。

2144れん:2008/05/19(月) 20:23:46
犀角独歩さん

日主の“霊寶虫払い日記”には二通あります。元亀四年八月十九日のものには「御筆之大本尊、一包、同三包」とあり、天正八年七月七日のものには「御正筆御本尊、四包」とあります。これにより、日主の時代には蓮祖真筆として伝来した漫荼羅が四幅あったことが分かります。包の字が鋪の字の当て字ならば、この四幅は紙幅と判断されます。この四幅が現存の石山のどの紙幅の漫荼羅に該当するかは不明ですが、この中には日影・日有の時代からの伝来が確認される安82が必ず入っていると見るのが至当ですから、元亀のモノに見える「御筆之大本尊」は安82と見てよいかもしれません。
犀角独歩さんのご指摘のように、私も石山におけるそもそもの戒壇本尊として用意したのは安82であったろうと思えます。が安82は弘安三年ですから、お板を作成した際は、安82を底本としつつも、例のパッチワーク技術で底本の年月日は使用せず、且つ日興師の漫荼羅を参考に、明星天や龍樹・天親・章安・妙楽を加えて別幅の漫荼羅を作成し、腰書きとの一応の整合性を持たせた可能性も有りと思われます。

2145れん:2008/05/19(月) 21:12:15
なぜ、他のものと取り替えなければならなかったのか、を考えますと、江戸時代に入り、京都要法寺から入寺した貫首あたりの発案でしょうか?安82を紫宸殿御本尊と称するようになってから、別仕立ての“戒壇本尊”が必要になったが故…ということでしょうか。となると、初代彫刻は案外安82のままで(さすがに年号は使わなかったでしょうが)、二代目以降から安82と歴代漫荼羅のパッチワークや、その後入手した漫荼羅を底本として再造が繰り返されたということになると存じます。

2146犀角独歩:2008/05/20(火) 10:45:29

れんさん

重ねてご教示、有り難うございます。
仰る筋、賛同します。

2147彰往考来:2008/05/25(日) 13:45:56

日主師のお虫支払い記録にある御本尊

日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅がどれをさすのかは興味ある点です。
元亀4(1573)年8月19日のお虫払いでは、
「御筆の大本尊一包同く三包」(『富士宗学要集 第8巻』(以下『富要集8巻』と略します)昭和53年、創価学会、43頁)とあり、
天正8(1580)年のお虫払いでは、
「御正筆の本尊四包」(『富要集8巻』44頁)とあります。要はこのころ四幅の宗祖御本尊が富士大石寺にあったという記録内容です。なお、私は“包”は“幅”の略字ではなく、まさしく御本尊が包んであったと解釈しています。「御つゞら(葛篭)」(『富要集8巻』43, 44頁)が出てきますので葛篭に入っていたことは間違いないでしょう。
さて、この四幅の中に弘安3年3月の紫宸殿御本尊(第82番本尊)が含まれるであろうことはこの御本尊が文安2(1445)年に9世日有師により模刻され(『富要集8巻』194頁)、紙幅の御本尊が現在も富士大石寺に蔵されている(『富要集8巻』178頁)ことから疑問はないでしょう。
では、他の三幅がどれであったか推定できる可能性のある資料をみてみましょう。
京都要法寺の日陽師による「祖師伝 同付録」の「釈の日陽」の項(『富要集5巻』59頁)に、
「(元和三(1617)年)四月廿四日大石寺に着く、(中略)御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅、病即消滅曼荼羅、其の外曼荼羅数幅」
とあります。この記録は元和3(1617)年はお虫払いのあった天正8(1580)年と時期的に極めて近く、かつ御本尊数もほぼ一致するので参考にできます。「紫宸殿御本尊」が記載され、それとともに「病即消滅曼荼羅」が記載されています。この「病即消滅曼荼羅」は、『富要集8巻』177頁に「建治二年太才丙子八月十三日」とある御本尊が該当すると考えます。これは『日蓮正宗大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、89頁)に、
「病即消滅不老不死御本尊
建治二年(1276)太歳才丙子八月十三日の大聖人ご真筆の御本尊である。讃文に「病即消滅不老不死」の経文がしたためられてあるので、古来この称がある」
とあることから明らかです。建治二年の「病即消滅曼荼羅」(「病即消滅不老不死御本尊」)が日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅のうちの一幅であることはまず間違いないとみてよいでしょう。四幅のうち二幅が明らかになったと考えます。

2148彰往考来:2008/05/25(日) 13:46:40

2147の続きです。

天正8(1580)年のお虫払いからもう少し時代が下がりますが、文政6(1823)年の富士大石寺44世日量師による「富士大石寺明細誌」(『富要集5巻』335頁)に、
「一、蓮祖真筆大漫荼羅 三枚継    一幅
 弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云ハく広布の時至りて鎮護国家のために禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云云。
一、同本門寺重宝大漫荼羅      一幅
傍書に云ハく弘安三年庚辰十一月、本門寺重宝たるべきなり。
一、同 病即消滅の漫荼羅      一幅
傍書に云ハく建治二年丙子八月十三日、又死活の本尊と号するなり。
一、同 紺紙金泥の漫荼羅     一幅
傍書に云ハく文永元甲子二月十五日。
一、同 漫荼羅          九幅       」
とあります。
ここで日主師のお虫支払いの記録にある御本尊四幅のうちの二幅と思われる「紫宸殿御本尊」と「病即消滅曼荼羅」を含めた四幅の御本尊記載が「富士大石寺明細誌」にあることは興味があるところです。板本尊以外の宗祖御本尊総数は十三幅ですが残り九幅は十把からげです。
「富士大石寺明細誌」にある弘安三年十一月の「本門寺重宝大漫荼羅」と文永元年の「紺紙金泥の漫荼羅」が天正8(1580)年のお虫払い時の残り二幅であると断定はできませんが可能性はあるでしょう。

弘安三年十一月の「本門寺重宝大漫荼羅」は、『富要集8巻』177頁に「弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり」とある御本尊が該当すると考えます。弘安二年と弘安三年の違いがありますが、これはどちらか判断できません。『日蓮正宗大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、89頁)には、
「本門寺重宝御本尊
弘安三年(1280)太歳庚辰十一月 日、俗日増授与の大聖人ご真筆の御本尊である。
「本門寺重宝たるべきなり」との日興上人のご加筆があるので、〝本門寺重宝御本尊〟という。
(丈49センチ 幅41センチ)                   」
とあり、寸法から一紙の小振りの御本尊であることがわかります。
『富要集8巻』では「弘安二年太才己卯」、『日蓮正宗大石寺』では「弘安三年太歳庚辰」と干支(己卯&庚辰)がそれぞれの元号年(弘安二年&弘安三年)に対応して書いてあるのにはあきれます。これでは「二」と「三」の見間違いという単純なものではなく、どちらかが完璧に間違っています。実見できれば相貌だけで弘安二年であるか弘安三年であるかは解かるはずです。
管見に入った日蓮正宗関係の資料ではどう書いてあるか相別してみましょう。

2149彰往考来:2008/05/25(日) 13:47:31

2148の続きです。

<弘安二年とあるもの>
堀日亨編『富士宗学要集 第8巻』昭和53年、創価学会、177頁
山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』1993年、山喜房佛書林、154頁
阿部日顕監修『日蓮大聖人正伝』昭和56年、日蓮正宗総本山大石寺、476頁

<弘安三年とあるもの>
日量「富士大石寺明細誌」(『富要集5巻』335頁)
『日蓮正宗大石寺』昭和45年、東西哲学書院、89頁
『富士年表』昭和56年、富士学林、48頁

といったところです。
これではどちらが正しいのか判断できませんが、私は弘安三年ではないかと思っています。『日蓮正宗史の基礎的研究』は『富要集8巻』の引用みたいですし、意外に誤記があります。『日蓮大聖人正伝』は読んでいても史実感が伝わってきません。
反対に『日蓮正宗大石寺』は『日蓮正宗史の基礎的研究』の誤記箇所が間違っていません。
例えば富士大石寺蔵の日禅授与御本尊について『日蓮正宗史の基礎的研究』では「弘安三年太歳庚辰卯月日」(154頁)としていますが、『日蓮正宗大石寺』では「弘安三年太歳庚辰五月九日」(90頁)としています。また富士大石寺蔵の優婆夷一妙授与御本尊について『日蓮正宗史の基礎的研究』では「優婆塞一妙」となっていますが『日蓮正宗大石寺』では「優婆夷一妙」です。この御本尊は『御本尊集目録』の第116番本尊でここでは「優婆夷一妙」です。
この富士大石寺蔵の優婆夷一妙授与御本尊はなぜか『富要集8巻』に入集していませんが、堀日亨『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会、786頁)に「富士宗学要集に脱漏したが脇書は左の如しである。弘安四年太歳辛巳十二月日、優婆塞一妙に之を授与す、(興師加筆)遠江の国相良の小尼に給う本尊なり。(中略)御筆はまったく疑いのない御正筆である」とあって「富士宗学要集に脱漏」とあります。ここで「優婆塞」とありますが、「小尼に給う本尊」であったことから第116番本尊の写真図版と併せやはり優婆夷が正しいと判断します。
『日蓮正宗大石寺』では記載されているすべての御本尊の寸法記載があります。これは何らかの形で実物を調査したか、または調査結果が使用されているためで、その分信憑性があると考えます。
『富士年表』では当該箇所に(8-177)とあり、これは(『富要集8巻』177頁)の意味です。上述のとおり『富要集8巻』177頁では弘安二年との記載がありながら弘安三年の項に記載されているわけで実物調査結果が反映されているためと考えます。
これらのことから弘安三年である可能性が高いと考えたわけです。

2150彰往考来:2008/05/25(日) 13:48:20

2149の続きです。

さて、この日増授与の弘安三年(もしくは弘安二年)十一月の「本門寺重宝大漫荼羅」ですが、これが弘安二年十月十二日の戒壇本尊の原本ではないかという説が木下日順編著『板本尊偽作の研究』(発行年不詳、本門社、40頁)にあります。

木下日順師は「富士大石寺明細誌」と『富要集8巻』の記載を校合して、
「堀日亨の記録と明細誌を校合した場合は、左の三幅である。
一、建治二年八月十三日 死活の曼荼羅
一、 弘安二年十一月 日 日増授与曼荼羅
一、 弘安三年三月 紫宸殿御本尊」
の三幅をピックアップし、
「しからば本門戒柤(引用者注:“戒柤”ではなく“戒壇”ですが原文のママ)の板本尊の模写の原本はと云えば、弘安二年十一月 日『俗日増授与曼荼羅、日興加筆、本門寺重宝たるべきなり』と云う御真筆が、クローズ、アップされる。編者が、日蓮正宗の僧侶なら、問題は今すぐでも解決するのであるが、他派、他門流に属するので、まことに、もどろかしいが、実地調査ができないので、机上の空論を進めて行かねばならない。
(中略)
今、仮に、編者の云う如く、板本尊の十界座配と、弘安二年十一月の、俗日増授与の曼荼羅とサイズがぴたりと合ったら、拍手喝采をお願いします。若し、此の二つのサイズが合はなかったら、編者の浅学と、おゆるしください」
としています。
『富要集8巻』では「弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人加筆)本門寺重宝たるべきなり」とあり、「富士大石寺明細誌」(『富要集5巻』335頁)では「一、同本門寺重宝大漫荼羅  傍書に云ハく弘安三年庚辰十一月、本門寺重宝たるべきなり」とあって、両資料とも木下師の如き文ではありません。特に「漫荼羅」は「曼荼羅」とは記載されていません。また木下師はこの段階で弘安二年としていますし、文章も『富要集8巻』のほうがどちらかといえば近いので出処は『富要集8巻』でしょうが、「富士大石寺明細誌」に弘安三年とある点について全く触れておらず、「日増」と「俗日増」の用語不統一などもありかなり杜撰です。
日増授与の弘安三年(もしくは弘安二年)十一月の「本門寺重宝大漫荼羅」は写真図版などが公開されていないので最終判断はできませんが、『日蓮正宗大石寺』(89頁)に丈49センチ 幅41センチとありますので、寸法から考えて一紙の小さい御本尊であり戒壇本尊の原本には成り得ないと考えます。

2151彰往考来:2008/05/25(日) 13:49:28
2150の続きです。

次は「富士大石寺明細誌」に、「紺紙金泥の漫荼羅  一幅  傍書に云ハく文永元甲子二月十五日」とある御本尊です。
享保年間(1720年頃)に作成された、日寛上人・抜書雑雑集(『研究教学書第九巻』)
インターネット資料:
http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/nukigaki.htm
にも紺紙金泥の漫荼羅の記載(「当山紺紙の御本尊 文永(甲子)元年也」)があることから、「富士大石寺明細誌」が成立した文政6(1823)年より少なくとも100年はその存在確認を文献上遡ることができますので、文永元年の紺紙金泥の漫荼羅が日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅のうちの一幅である可能性が高くなります。
しかし、この文永元年の紺紙金泥の漫荼羅は『富要集8巻』、『日蓮正宗大石寺』、『富士年表』、『日蓮正宗史の基礎的研究』など主要な資料に入集しておらず、つまりは御真筆として扱われていないのです。それは図顕日が文永元年であること、紺紙金泥であることから後世の偽筆と判断できます。このようなものが戒壇本尊の原本に成り得るとは考え難いと思います。
図顕日については日蓮正宗宗務院発行の『日蓮正宗要義』に「佐渡流謫の直前、相州依智発足の前日の十月九日、初めて楊枝をもって妙法曼荼羅を書き顕わされた」(昭和53年、日蓮正宗宗務院、152頁)とあることから、日蓮正宗でも宗祖の本尊図顕は竜の口の法難以後、文永8年になってからで第1番本尊からということになっています。つまりそれ以前の漫荼羅は怪しいということです。
紺紙金泥について寺尾英智氏は「曼荼羅本尊においても、日蓮より後のものについては紺紙金泥などの実例が豊富に存在しているが、実見した日蓮真蹟には、紺紙や紫紙、黄紙などの染紙が使用されている例はみられなかった。長い年月にわたり香の煙りに燻された結果、本来の紙色が判別つき難い場合もあるが、写真版によっても紺紙などの使用は一幅も見受けられないのであって、日蓮の曼荼羅本尊には基本的に染紙は用いられなかったといえよう」(寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』平成9年、雄山閣出版、10頁)と指摘しています。なお同書同箇所の注記5に「身延山にかつて伝わっていた曼荼羅本尊に紺紙金泥のものが一幅存在するが、諸尊の座配に類例がなく、真偽の検討を要する。山中喜八「日蓮聖人漫荼羅図集」(初出は『大崎学報』第一○二号、一九五四年。ここでは同『日蓮聖人真蹟の世界』上<雄山閣出版出版、一九九二年>による)七六頁」(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』20頁)とあります。
山中喜八「日蓮聖人漫荼羅図集」(『日蓮聖人真蹟の世界 上』76頁)には「迹化菩薩のかくの如き配位は、その例を見ない。紺紙金泥もまた他に例がない」とあります。この漫荼羅はC(Ⅱ)3に分類され文永11年に顕されたと推定されていますが、佐渡期に紺紙金泥は確かに不自然です。『日蓮聖人真蹟の世界 上』11頁に「普賢・文殊を上段(所謂仏部)の低位に、薬王・弥勒を中段に配せられたもの(C(Ⅱ)三)但し在疑」とあり、山中氏は明確に“在疑”としています。

以上、日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅について考証しました。考証結果から日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅のうち戒壇本尊の原本となりうるのは紫宸殿の御本尊だけであり、案外日有師が作成したこの御本尊の模刻が初代戒壇の板本尊だったのではないかとも考えられます。
>2144石山におけるそもそもの戒壇本尊として用意したのは安82であったろうと思えます
というれんさんの考えは的を得ていると思います。

by 彰往考来

2152パンナコッタ:2008/05/25(日) 22:57:23
すみません。単純にNO.82と板のサイズを比べると
 NO.82 95.5×50.5    板 144×65(聴聞抄佳跡上サイズ)
たて約150% よこ約130% 大きく、籠抜をそのままにレイアウトをずらしたとしても
文字をかなり拡大しない限り、ちと無理なサイズではないでしょうか。
逆に言えば初代の板サイズは、実は小さかったのではないかなと。

後の時代の峯妙興寺日憲図では、聴聞抄のサイズよりちと大きく章安の勧請が気になりますね。
やはり、彰往考来さんが以前指摘なさっていた火事後の再造、別物なんでしょうね。

時代は下って明治の時代、板サイズの制約(竪五尺弱・横二尺ちょっと)があったがために
NO.82ではなく、売りに出されていたという日禅授与が採用されたのかもしれませんね。

2153:2008/05/29(木) 14:40:12
独歩氏の入手写真、僧侶が撮影したものであるというのは、本当でしょうか。

2154宗麟:2008/06/04(水) 00:53:59
この撮影は確実に信徒が実行。
原画を出さない所に悪意が見えますね。
大石寺を食い物にしている宗教ゴロとのコラボレーションです。

2155犀角独歩:2008/06/04(水) 07:03:51

写真の撮影者が、僧か族かは置きます。

大石寺は煮ても焼いても食えないでしょう。
しかし、大石寺が食い物にしてきたのは、東京都の人口に匹敵した信者でした。
それにもかかわらず、2154のように、自らが騙され、食い物にされることなく、他者攻撃の道具とされていることに気づけないものがいまだにいることを気の毒に思います。

2156犀角独歩:2008/06/04(水) 07:05:02

【2154の訂正】

誤)族 正)俗

2158宗麟:2008/06/05(木) 04:59:28
例えばだが、日蓮正宗が仮に消えてもそれはそれで世界は変わらない。

そんな煮ても焼いても食えないものこそにこだわり続けている姿こそが実に未練がましく人に映る。

まるで創価学会や日蓮正宗のしていることと同じこと。

2159偶ロム偶ログ:2008/06/05(木) 13:20:40
>>2154
>>2158

宗教詐欺というのは良いことではないですよね。
無自覚的にも、かつては加害者であったという忸怩たる思いや、その反省とか償いをふくめ、新たな被害を生まないための行為を何故批判することができるのでしょうか。

>原画を出さない所に悪意が見えますね。

どのように悪意が見えるのでしょうか。
たんなる印象で語ることは「気分のファシズム」への一里塚です。

>大石寺を食い物にしている宗教ゴロとのコラボレーションです

具体的に「宗教ゴロ」の氏名と、何故「宗教ゴロ」であるかの説明をお願いします。

>日蓮正宗が仮に消えてもそれはそれで世界は変わらない

ひとそれぞれの考え方がありますが、悪いものを世の中からなくしたいと思い行動することは無駄ではありませんよ。

>そんな煮ても焼いても食えないものこそにこだわり続けている姿こそが実に未練がましく人に映る

未練という言葉の意味を御存知ですか。
独歩さんのしていることは、正義感からでていることは、ブログを読めばわかりそうなものですが、日本語が理解できないのでしょうか。

>まるで創価学会や日蓮正宗のしていることと同じこと

理由を具体的に挙げてくださいませんか。
宗教団体である創価・正宗・顕正・妙観・正信などは宗教詐欺まがいの教義教学で、会員信徒たちから金銭や時間を収奪していますが、独歩さんはそのようなことをしていませんよ。

独歩さんを中傷するあなたは、創価・正宗・顕正・妙観・正信などの宗教詐欺まがいを、そのまま許して認める立場ということでしょうか。
もし、あなたがなんらかの宗教に入っておられるのであれば、それはどこなのか教えていただけませんか。
そうすれば抽象的な書き込みをしなくてすみます。
私は、現在どの教団にも入ってはいません。

ちなみに、私が書いた、
「宗教団体である創価・正宗・顕正・妙観・正信などは宗教詐欺まがいの教義教学で、会員信徒たちから金銭や時間を収奪しています」
という記述の論拠については、掲示板で過去に多くの方たちにより論議し尽くされていますので、ここで改めて説明する必要もないと思います。

2160犀角独歩:2008/06/05(木) 19:20:30

ここは証憑を課した議論の場です。
ですから、2158のような為にする批判の類は、捨てておくことにします。

なお、一点のみ記せば、何を目的に、宗麟さんは、投稿しているのだが存じませんが、ここに投稿するあなたは、何に未練を懐いて、ここに顔を出しているのでしょうか。あなたの投稿こそ、未練がましく、そして、その投稿スタイルこそ、「まるで創価学会や日蓮正宗のしていることと同じ」ではないでしょうか。

単に批判、悪口を記すことは、当掲示板のルールに抵触します。
繰り返すようであれば、管理人さんに削除依頼をいたします。

以上です。

2161再挑戦者:2008/06/08(日) 22:01:42
2158>,、、煮いても、、焼いても、、>>、自らがだまされ、、、、。

 横からごめんです。  貴方のご意見ですが、ドーモ、シックリとは理解できません。
 ドーモ、周り回っての結論は、、==<<創価・正宗の路線の継続推奨の宣伝のようでもあります、?
 なぜなら、「、エエカゲンな戒壇??さまを吹き込み、その対面功徳を強調した登山会、、など」にはほおかむりのようでしょうか、? 残念ですネ。

2166再挑戦者:2008/07/13(日) 20:34:05
  その後の、検索にて、小生の100%に相当する状況・誤認でした。 改めてお詫び致します。
 貴殿御主張のごとく「、某団体は、今の批判には全く耐えられないニセ、!! 戒壇なる、? 疑惑大だが、」、「ダマシの継続を少しも、、止めめません、!!!」、。これらの団体には「組織犯罪処罰の法律」にて、当該のトップ方らは刑務所にブチ込めないのでしょうか、?!

2167龍門:2008/07/31(木) 15:13:40
最近、大日蓮に金原さんへの反駁文がでてますね。

2168彰往考来:2008/08/02(土) 17:05:01

戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す

http://homepage3.nifty.com/y-maki/dainitirenn/kinnbara/mokuji.html

まあ、反論になっていないですね。

2169犀角独歩:2008/08/05(火) 11:07:04

水島さんが「…犀角独歩なる者が『大石寺彫刻本尊の鑑別』と題して偽作説を立てている。今回の金原の悪書はこれらの邪説の寄せ集め」と整理していますが、まあ、その“寄せ集められた”一人として感想を述べれば、大石寺のいうことはなんら反論になっておらず、また、そこで使われる言辞から、実に差別的、侮蔑的で、これが本当に僧侶といった世に「聖職」と言われる立場にあるものが書いたものなのかと呆れるばかりの人間性の低さを露呈しています。

この文章を読んで、人々が誘引されるのは、自分たちを批判するものへの憎悪と侮辱、自分たちだけが勝れているという選民意識、間違ったものは人間性を侮辱してもよいという非人間性。これは反論とか、考証といった範疇のことではなく、「大石寺僧侶の人間性」がどのようなものであるのかを示す好見本であるとわたしは観察しました。

水島さんは批判するものを「哀れ」と書いていますが、哀れで、さらに無様なのは自分たちであると、信者以外が読めば、そう思うことを少しは自覚したほうがよいでしょうね。

2170犀角独歩:2009/01/07(水) 11:40:49
私が提供を受けた写真が「捏造」だと GREE やモバゲーで騒ぐ法華講員国分ひろしさんに対する反論を書きました。ご高覧、ご批正をいただければ有り難く存じます。

奉安堂彫刻本尊写真“捏造”に反論する
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51481490.html

2171問答迷人:2009/01/07(水) 19:51:37

犀角独歩さん


「日禅授与本尊を基にした捏造写真」とは、面白いことを言うものですね。「戒壇板本尊が偽物だ」と、日顕師の発言として記録された川辺メモの内容と、ほとんど変わらない所まで、到達しているわけですから、その批判者はそれは却って立派な者ですね(笑)。もう少し踏み込んで、独歩さんが提示した写真が捏造なのではなくて、その写真の被写体たる戒壇板本尊が捏造品なんだと気が付けば、100点満点なのに、惜しいですね(笑)。

独歩さんの精緻な論考は残念ながら、今後とも、まともな批判は唯の一つも現れることは無いと思っています。有難う御座いました。

2172犀角独歩:2009/01/07(水) 22:20:12

問答名人さん

いえいえ、戒壇本尊と日禅授与本尊の類似性に一番最初に気づかれたのは、問答さんです。わたしは図形で鑑別して、証明しただけです。

それにしても、この子、可愛いでしょう。あの写真は日禅授与本尊だ、だから偽物だというのです(笑)

そりゃ、そうですよね、あの彫刻、日禅授与が原本なんですから、そのとおり。ところが彫刻、オリジナルだと思っていますから、捏造したのはわたしだというのです。捏造したのが大石寺であるにもかかわらずですよ(爆笑)

さすがに大石寺も、顕正会も、もともと、これが日禅授与が原本であることはわかっていますから、こんなことは言わない。この子が思い詰めた結果の思いつきでしょう。ああ、こんなふうに考えるのかとビックリしました。

それにしても、わたしが提供したとおりの本尊画像を実際に捏造するとしたら、これはかなりたいへんですね。なにせ、熊田(由井)写真とも、金原本とも違う、さらに鮮明なショットなわけですから、画像のプロでも作れませんよね、こんな画像。これだったら、火星人や、UHO写真を作るほうが、ずっと簡単だと思いますね。

ここまで、大石寺を庇う姿を見ると、滑稽と言うより、哀れみを通り超え、慈愛すら覚えますね(笑)

2173宗教はアヘン:2009/01/12(月) 00:29:28
犀角様の説に従えば、戦後日本最大の宗教団体(正宗・創価学会・正信会・顕正会・日蓮実宗など所謂正宗系の合計)
にしてこの有様ということになる。では他に正しい教団はあるのか?私はどれもこれも同じようなものと考える。
結局、唯一正しい宗教団体なんてこの世に存在しないのである。その証拠に第二次世界大戦では日本中の神社・仏閣が戦勝祈願したけれども
結果はアメリカに原爆2個落とされて惨敗。300万人以上が戦死すると共に、
好むと好まざると中国人など敵兵を殺して殺生という罪を犯した人々も多数生み出して
しまった。キリスト信者が多い長崎に原爆を投下したアメリカもアメリカだ。
現在も中東ではイスラエルとパレスチナが殺し合っている。正しい神が存在するなら無駄な殺し合いを
不思議な力で止めるはずだが止まらない。ところで宗教団体は立派な建物を保有しているが
派遣切りにあってホームレスになろうとしている派遣村の人たちをどうして
助けようとしないのか?教団や神社や寺院がホームレスを収容したらよいではないか?
日頃は宗教法人で免税されて優遇されているのだから未曾有の経済危機の
今こそ活躍したらよさそうなものを。生きるか死ぬかの人々を見捨てるとは
随分と冷たい神や仏ですね。布教といっても会費や御供養金を払える人しか
勧誘していない宗教団体は邪教だ。金も家も失ったホームレスをまず救うべきだ。
それをしない教団が世界布教だ、人類救済だと言っても何の説得力もない。
戦後高度成長期やバブル時代は国民は終身雇用だし、給料も定期昇給したし、電化製品や車、マイホームも
持てた。これを宗教団体は「功徳が出た」と宣伝していた。しかしこれからはそうはいかない。
世界経済は益々悪化していく。失業もドンドン増える。犯罪も増えよう。
「功徳」が出にくい世の中になる。宗教はアヘンということが明確になってくるであろう。

2174宗教はアヘン:2009/01/12(月) 11:25:25
創価学会が急速に拡大できたのは、一つは他に類をみない過激な折伏大行進を敢行した事、
二つは高度成長期に田舎から都会へ出てきた労働者たちが心のよりどころとした事。
三つは共産主義が広がるよりマシと判断した国家権力が戦後は弾圧しなかったこと。
いや創価学会だけではない。新興宗教が発展したのは経済成長の恩恵を功徳だと
説明したことであろう。労働者は生活が向上すると功徳だと錯覚したのだ。
創価学会が正本堂を建設した頃は他の宗教団体も相次いで巨大神殿を建設している。
皆が儲かった時代だ。しかし、今は違う。いくら拝んでも悪くなるばかり。
功徳はでない。経済が回復しないかぎりドンドン悪くなる。超高齢化だから
病人も増える。いくら拝んでも病気になる。悪質な教団は「功徳がでないのは
拝み方が足りないから、供養が少ないから」と信者をさらに搾取する。
しかし、無いものはない。いくら金を要求されても出せない。第一、貧乏人にそんなに
金を要求する神仏は神仏ではなく悪魔だ。人里離れた聖地参拝を強要しても
超高齢者は長時間移動は無理。腰や膝も痛いし、小便も近い。少子化で
聖地参拝者も減少の一途で維持できなくなるだろう。

2175犀角独歩:2009/01/14(水) 21:32:28

問答名人さん

熱原三烈士の件、種々ご回答を頂き、有り難うございました。

少しこちらのスレに係ることで、ご賢察を賜りたくお願いいたします。

今回、自称法華講員のつまらぬ悪口を尽くされ、わたしが提供を受けた写真が豪勢だ何だと悪し様に書かれ、その反論をいたしました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51485358.html

この際、提供写真と、日禅授与本尊を比較したのです。
わたしは、この提供写真の文字は、大石寺所蔵より、むしろ、北山所蔵に似ているという印象を抱いております。

これはあくまで直裁にお感じになる感覚でけっこうなのですが、問答名人さんは如何がお感じなりますか。

2176問答迷人:2009/01/14(水) 21:50:27

犀角独歩さん

>この提供写真の文字は、大石寺所蔵より、むしろ、北山所蔵に似ている

御免なさい、僕は、大石寺所蔵の日禅授与を見たことが有りません。どこかで、それが手に入ったのでしょうか。もし入手されておられるのなら、是非とも拝見したいと存じます。

2177犀角独歩:2009/01/15(木) 07:15:15

問答名人さん

ご返信有り難うございます。
石山所蔵は金原本所載の写真から印象でした。

2178問答迷人:2009/01/15(木) 08:42:51

難しいですね。どれもほとんどそっくりですから。まぁ、敢えて言えば、提供写真は熊田本とは少し感じが異なり、金原本と酷似しているのではないかと思います。蓮字のヒゲのカーブや、華字の下横線の左側の形状が金原本に酷似していると思います。

想像を逞しくすれば、熊田本は奉安殿当時の板で、金原本は正本堂当時の板、今回の提供写真からは、正本堂当時の板が奉安殿に化粧直しをして安置されているのではなかろうか、と思います。つまりは、奉安殿当時の板と、提供写真の板は別の板ではないかと思います。

奉安殿で御開扉を受けたときの印象が、正本堂で御開扉を受けたときに、「色直しをすると随分と印象が変わるものだ」と感じましたが、その時に受けた印象の違いが、こうやってまじまじと比較すると、化粧直しによる違いではなく、板の違いに因るのではなかろうか、と感じるわけです。

2179問答迷人:2009/01/15(木) 08:46:05

訂正です。

× 正本堂当時の板が奉安殿に化粧直しをして
〇 正本堂当時の板が奉安堂に化粧直しをして

2180犀角独歩:2009/01/15(木) 21:48:29

問答名人さん

今回のご投稿を拝見し、わたしとは違う印象をお持ちなので、やはり、人それぞれずいぶんと違うものだと改めて感心しました。

> 提供写真は熊田本とは少し感じが異なり、金原本と酷似している

この点については、既に図形検証を行ってみました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51203640.html

結果、提供写真と熊田本がほぼ一致。金原本がずれました。
このことから、わたしの類推は、奉安殿(熊田)と正本堂(金原)が違い、奉安堂を立てたときに奉安殿のものをまた戻した(提供)のではないかという類推です。

ただし、これはあくまで憶測に過ぎません。

問答さん、近く新刊が脱稿します。
この校正で、どうしてもしておきたいことがあります。

彫刻と日禅授与本尊の類似性にいち早く、お気づきになり、河辺メモに言及されたのも問答さんでした。この功績は、決してわたしが冠することではありません。この点を記し、今回の彫刻原本の解明の史実を正確に書き留めたいと思っています。そのために、こちらでいくつかご質問をさせていただきたいのですが、如何でしょうか。

2181問答迷人:2009/01/15(木) 22:39:29

犀角独歩さん

>近く新刊が脱稿します。

おめでとう御座います。

>こちらでいくつかご質問

お役に立てることなら、何なりとお申し付け下さい。協力を惜しむ事は有りません。

2182犀角独歩:2009/01/16(金) 17:33:51

問答名人さん

ご快諾有り難うございます。
では、少しずつお聴きしてまいりたいと思います。

まず、最初に河辺メモの信憑性にお気づきになった時期と、あの彫刻への疑惑と、またこの本尊への信仰への変節をお願いできますでしょうか。

2183問答迷人:2009/01/16(金) 18:40:59

【河辺メモの信憑性に気付いた時期】

このメモを見たのは、確か1999年の八月か九月、創価新報の紙面で見たのが最初だったと思います。一読して、このメモは阿部師の肉声を書きとめたものだと直感的に思いました。その後の色々な宗門と学会とのやり取り、とりわけ、宗門の発表と河辺師の釈明を読んで、ますます阿部師の肉声であると確信を深めました。

2184問答迷人:2009/01/16(金) 18:53:53

【板本尊への疑惑】

阿部師の判断が正しいのかどうか、これは判断する材料を一切持ち合わせていませんでしたので、保留というか、宙に浮いたままでしたが、たまたま、北山本門寺のパンフレットに日禅授与曼陀羅の写真が載っていると、当掲示板にご参加の方からお聞きし、その方にパンフレット戴きました。この時期は、手元にある日禅授与曼陀羅のファイルの作成年月日が2002年の9月28日となっていますのでその少し前ではないかと思います。これを見て、不鮮明な画像ながら、中尊の南無妙法蓮華経の文字は、これは本当に良く似ているな、と思いました。そして、恐らくは、阿部師の判断が正しいのだろうと感じました。

2187問答迷人:2009/01/16(金) 19:54:56

【この本尊への信仰への変節】

これは、犀角独歩さんが鑑別した結果を教えてくださった時から、板本尊への盲信は完全になくなり、一体これから先、何を信じて行けば良いのかと、途方に暮れました。やがて、日蓮聖人の本意は何で有ったのか、日蓮聖人の見た世界を追体験したい、という願望に変わりました。この時期は、たしか、記憶に間違いが無ければ、2004年の10月頃ではなかったかと思います。この時期については独歩さんが良くご存知の事と思います。

2188犀角独歩:2009/01/17(土) 07:01:48

問答名人さん

ご返答、有り難うございます。

仰るとおり、わたしがはじめてHPに『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』を載せたのは'04年2月19日のことでした。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

既にこの段階で、問答さんがアップされた2つの写真を重ねる図形処理を行い、この彫刻が、日禅授与本尊を原本としたものであることは確認していました。

思い返せば、あれから5年の歳月が流れました。
問答さんと議論をさせていただくようになってから10年が経ちましたね。

大石寺の実像はこの10年の間にずいぶんと闡明にできました。
創価学会と蜜月にあった頃、信徒数は2000万にも届くと豪語していたのに、いまでは数十万。やがて、数万人と減り、さらに減って、静岡県の観光地の一つ程度となっていくことでしょうね。

そうした大石寺凋落の一幕を問答さんたちと、実像解明に一役買ったことになります。

問答さんが今でも熱烈な日蓮を仰いでいることを、むしろ、わたしは嬉しく思います。いまのわたしは再生(輪廻)といったことを信じているわけではありませんが、もし、日蓮がこの様をご覧になっていれば、ご当人の実像を明らかにし、そして、いまでも唱題行を勤める問答さんを賞賛なさることでしょう。

一方、おかしな彫刻を造って、立派な同宇を作り拝観料(御開扉料)を取って商いをなす在り方を厳しく糾弾なさることでしょう。

わたしのように、今となっては一闡提を呼ばれる者をしても、日蓮は、まやかしの商いをなす者より寛恕をしてくださるだろうと思います。

もう少し、心情面と言った細やかな点も含めてお聞かせ願えればと存じます。
また、ご質問させていただきたくお願い申し上げます。

2189問答迷人:2009/01/17(土) 08:18:16

犀角独歩さん

>はじめてHPに『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』を載せたのは'04年2月19日のことでした。

あっ、そうでしたか。それでは、東京駅でお聞きしたのは、そのもう少し前、2002年の1月頃だったのでしょうね。

>もう少し、心情面と言った細やかな点

承知いたしました。よろしくお願い致します。

2190れん:2009/01/20(火) 19:57:15
犀角さんと問答さんの議論の緒を折る様で、申し訳ありません。

閲覧専用板で「本寺の祖廟に謁し戒壇に登る」が石山日有氏の言葉として引用されていたので、帰宅後確認しましたら、堀日亨氏による“註解”つまり解釈文でした。もっとも、日有さんの言葉には「大石は父の寺・重須は母の寺・父の大石は本尊堂・重須は御影堂…彼は所生・此れは能生即本因本果本国土妙の三妙合論の事の戒壇…」というのが残っていますので、これまで議論されてきたように、六代の日時さんから日有さんの間に、初代彫刻が作られ今日の石山流の三大秘法義が確立したのであろうことは想像に難くないですね。

2191管理者:2009/01/20(火) 20:05:59

れんさん

>閲覧専用板で「本寺の祖廟に謁し戒壇に登る」が石山日有氏の言葉として引用されていたので、帰宅後確認しましたら、堀日亨氏による“註解”つまり解釈文でした

誠に有難う御座います。電子版の宗学要集でヒットした為、解釈文と気付かずにいました。今、その点確認しましたので、早速、閲覧専用掲示板の該当部分を訂正いたします。

2192そううそ:2009/01/21(水) 18:48:56
こんばんは
みなさん。

抜粋掲示板にもう一つだけ記載可能かもしれない点が1つ
あるので、皆さんで議論をして頂けないでしょうか?
私にはとても議論は出来ませんので御願いします。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51262446.html

こちらのれんさんのご意見はこちらの皆さんにとって
どれくらい確度の高い内容なのでしょうか?

「お前ン所の本尊をよこせ」だなんて大御本尊がなかった証拠かと。
それと本尊を渡す渡さない感覚にも驚かれます。

2193問答迷人:2009/01/21(水) 20:00:54

そううそ さん

結局、大石寺戒壇板本尊を作ったのは誰か、という議論なんだと思います。これが特定できれば、又、そこから新しい展開が開ける可能性が有りますね。

れんさんの御教示を待ちたいと思います。或いは、既にお示し戴いているのでしたら、再掲をお願いいたしたいと存じます。

2194問答迷人:2009/01/21(水) 20:31:41

犯人探しをする場合、やはり、その第一は動機でしょうか。強い動機を持っていた人物が犯人である可能性が高いのだと思います。

2195れん:2009/01/21(水) 21:18:10
犀角独歩さんのブログで自分の意見を書いた時は、石山十四代の日主さんが、彫刻の腰書きを書写したもの(金原本に写真掲載)が石山歴代の中での彫刻の存在を示す初見であるので、日主さんが作成したのではと思いましたが、日有さんにズバリではありませんが「日有云く、また云く、大石は父の寺・重須は母の寺・父の大石は本尊堂・重須は御影堂・大石は本果妙・重須は本因妙・彼は勅願寺・此は祈願寺・彼は所開・此は能開・彼は所生・此は能生・即本因・本果・本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(文庫版・富士日興上人詳伝下巻)という、石山を本尊堂・事の戒壇とする意見・主張が見えるので、今、考え直しますと石山を自分のものとした日時さんの時代を上限として日有さんの代には、初代彫刻は作成されていた可能性が高いと考え直しました。つまり、日有さんの代には、初代彫刻を中心とした石山流の三大秘法の教義が確立されていた可能性も十分考えられると思います。

室町時代には、重須でも“本門寺大堂本尊”という宗祖直筆とされていた漫荼羅(天正年間の西山を首謀とする重宝強奪事件で紛失)を戒壇の本尊とすると主張(日殿申状など)しておりましたから、やはり石山が重須等の他の興門寺院に対抗するために、石山を手に入れた日時さんの代を上限に、室町初期から室町中期までに、日道さん門下における戒壇の本尊として、初代彫刻は作られたものと愚考します。

2196れん:2009/01/22(木) 13:08:17
問答名人さん・そううそさん

補足いたしますが、動機という観点から見ますと、石山の戒壇本尊=彫刻の作成者として考えられるのは六世日時師ですね。
日時師は、日郷師門下の所有地だった石山の東坊地を、あの手この手の係争における裁判で勝ち、自身の所有地としますが、日時師を頂点とする日道門下には、安房妙本寺において継承された文永十一年の大本尊・正御影、重須本門寺において継承されていた本門寺大堂本尊(安房妙本寺文書によると、日要師が招来した重須六代日浄師所持の切り紙文書に「本門寺大堂本尊裏書云、日興上人授 此本尊 日蓮大事也 日蓮在判」云々とあり、日興門下上代の文献に見える“上人号授与の漫荼羅”の可能性が高い)・生御影に匹敵するものが無かったことから、日時師は、安房妙本寺や重須本門寺に対抗するために自門用の御影を作成し(現在の石山御影堂安置のもの)、ついで自門流の根本の本尊として、初代彫刻を作成した可能性も高いのではないかと考えます。たとえ日時その人の代の作成ではなくとも、先に引用した日有師の言葉から、日有の代には、日有自らが事の戒壇と規定した石山の根本の本尊として、日有の代には初代の日道門下にとっての戒壇本尊=彫刻の初代が作成されて、やがて石山流の三大秘法の教義の根幹に据えられていったのだろうと愚考します。

2197問答迷人:2009/01/22(木) 13:37:16

れんさん

ご教示、誠に有難う御座います。日時師ですか。

河辺メモの「その他は時師か有師の頃の筆だ。」と比べてしまいました。

もっとも、河辺メモが言うところの戒壇本尊は初代とは考えられず、たしか三代目だったでしょうか。にも関わらず、河辺メモが、その三代目を日時師や日有師の筆だ、というのは不思議ですね。この辺りをどう考えれば良いのでしょうか。

2198そううそ:2009/01/22(木) 23:06:02
れんさん

コメント有り難うございます。

しかしこちらでは「彫刻の初代が作成」とあるように
彫刻が複数ある認識が当たり前になっていますね。

本門戒壇の大御本尊は日蓮真筆、日法彫刻なんて美しい伝説を
信じ込まされたわけですが、一体何をおがんでいるのやら。。。

引き続き議論を御願いします。>みなさんへ

2199れん:2009/01/23(金) 13:41:00
問答名人さん・そううそさん

問答名人さんのご指摘の通り、河辺メモにおける阿部日顕氏の発言「その他は時師か有師の頃」というのは、私も気になるところです。石山の彫刻本尊の場合、諸賢のご指摘の通り、日憲図・完則図・現在の彫刻と、その勧請の十界の記名が異なるので、複数説が指摘されていますが、河辺メモの場合、現在の彫刻の首題・四大天王以外が「時師か有師の頃」という訳ですね。この場合は、現在の彫刻が時師から有師の頃に作られたということで、日顕氏は複数説を否定している訳ですね。日顕氏は本尊研究を能くされたと謂いますから、実見の上の見識ですから、説得力があります。
ただ、この場合、日時師や日有師の時点で、原本である禅師授与大漫荼羅が石山になければならないので、河辺メモの日顕氏の説には、少なからず懐疑的にはなりますね。

但し、日郷師門流の富士久遠寺の所伝(「日蓮宗の本山めぐり」の記事)では、同寺にある板本尊を真似て、石山が彫刻を作成したという伝承があります。富士久遠寺の本寺である安房妙本寺では、日郷師御遷化直後と応永年間に板本尊を造立しており、室町初期の頃、富士久遠寺が建立された時、その本堂安置の本尊として、本寺の先例に倣い、現存の富士久遠寺の板本尊が作成されたと考えられますので、石山における彫刻造立は富士久遠寺の板本尊作成安置の以後のことと思っております。

2200問答迷人:2009/01/23(金) 14:33:11

れんさん

有難う御座います。

以前、日禅授与本尊について、由井小雪によって偽造された曼陀羅ではなかろうか、という議論が有ったと思いますが、それだと、日禅授与本尊は江戸初期の1640年頃に制作されたものと年代が特定できます。
同年代の大石寺歴代を考えると、第十七世日精師が該当します。これがもし三代目の彫刻ならば、この時、日精師が、何らかの理由で、日禅授与曼陀羅と、日時、或いは日有師の曼陀羅の両方からパッチワークしたと考えれば、一応、辻褄は合いますね。真相は果たしてどうなのでしょうか。
ただ、日顕師は、日禅授与曼陀羅をはじめとして、日時、日有の曼陀羅も見ることが出来る立場に有りましたから、僕は、河辺メモが真相を言い当てている可能性が極めて高いと考えています。

2201れん:2009/01/24(土) 19:11:27
問答名人さん

なるほど、由井正雪ですか、由井=由比ならば、西山本門寺の開山日代師の実家の一族でしょうか?日禅授与が由井正雪が作成したものかどうかは、不明であるものの、正雪が西山の関係者ならば、重須の重宝が天正度に一時、西山に納められていたことがあるので、その際に、日禅授与の摸本が作成されたとして、正雪がそれを下書きとして、さらに摸本を複数作成したもの一つが、石山により入手され、それをもとに、日精師の代に十界の筆跡は日時筆に依って彫刻が作成されたとすれば、ご教示の点、なる程それもあり得ると思いました。

2202問答迷人:2009/01/24(土) 19:21:33

れんさん

有難う御座います。由井正雪は由比正雪とも書きますね。もし、そうなら面白い展開ですね。

ところで、北山の重宝に日禅授与本尊、つまりは北山万年救護本尊は、何時頃までその記録が遡れるのでしょうか

2203れん:2009/01/25(日) 21:29:53
問答名人さん

北山の日禅授与本尊が確認出来る初出文献ですが、矢張り、石山日精師の家中抄ではないでしょうか?北山に石山日精師以前の北山の歴代による目録があればそれに載っているかもしれませんね。
石山日精師の“保田妙本寺諸役僧中”に「富士門流御本尊重須に十壹幅、大石寺に六幅、西山に二幅、久遠寺に二幅、貴寺(引用者註・安房妙本寺な事)に八幅」とありますので、日精が挙げた重須の十一幅の中に、日禅授与は入っているでしょうが、家中抄以前の物はそれ以前の北山関係の記録は残念ですが管見に入ってません。

2204問答迷人:2009/01/25(日) 21:50:24

れんさん

有難う御座います。

やはり、日精師が最初ですか。そうすると、北山の日禅授与も大石寺の日禅授与も共に由比曼陀羅の可能性が高まると僕には思えてなりません。由比が二幅作って、北山と大石の両方に売り込んだと。大石寺の日禅授与は板曼陀羅の原本として利用され、用済みになった大石寺日禅授与曼陀羅は、密かに大石寺門流の何処かに隠されてきたが、それが何らかの理由で売りに出されて、それを又法道院が見つけて買取り、最終的に本山に収めたと、こう言う筋書きが一番解り易いストーリーですね。これは現三代目板曼陀羅の製作に関してです。やはり、三代目は日精師が一番疑わしいと思いますが。

2205れん:2009/01/26(月) 20:02:35
問答名人さん


話の緒を折るようで、恐縮ですが、由井正雪が書いた蓮祖大漫荼羅の模写は現存するのでしょうか?
現存する由井漫荼羅と比較しなければ、日禅授与が由井正雪による創作であるとは断定は出来ないと思います。なお、昨年、彰往考来さんが北山の日禅授与を直見されていますので、ご意見を伺えればと存じます。

その他の部分の問答名人さんのご意見は、私も、その可能性は高いものと思います。

2206犀角独歩:2009/01/26(月) 20:43:37

れんさん

金原本でサンプルを得て、北石両山所蔵の日禅授与本尊の比較は既にしてみました。結論として、片方が模写であり、相剥ではないと思われます。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51208577.html

由井贋作の可能性は、仰るとおりの比較して答えを出すべきであると思います。

しかし、わたしは金原さんなどが言うように、石山蔵の日禅授与本尊が真筆である可能性は低いと思います。

いうまでもなく、『御本尊集』には3舗の石山蔵が入集されます。この段階で堀さんが、日禅授与本尊を確認していたかどうか、これは一つの決め手になると思えます。この内外両舌を恣にした日亨さんは、しかし、富士宗学要集第8巻ではこの本尊に取り上げていますね。しかし、雪山坊に写真製版から模を作って執心するほどなのに、日禅授与には関心を示さなかったのは故なきもないと思えます。

堀の眼力は、ほとんど当てになりませんが、しかし、既に堀さんが確認していた石山蔵日禅授与本尊につき、碩学達の雑談に上らなかったこと自体、弥不自然と映じます。『御本尊集』入集の3舗も写真での提供という話もあります。つまりは、真筆として俎上に上った故でしょう。しかし、日禅授与本尊に関しては、その後もさした話題になっていません。つまりは、この本尊、はなから真筆などと思われていなかったのではないでしょうか。

あと、板本尊、また、所謂「本門戒壇の大御本尊」の初代以来の造立を考えるうえで看過できない1体があります。それは日応氏、日達さんも取り上げた日有の身代わり本尊です。この本尊の実態を明らかにすることは非常に意味のあることと思えます。

2207問答迷人:2009/01/26(月) 22:45:11

れんさん

>現存する由井漫荼羅と比較しなければ、日禅授与が由井正雪による創作であるとは断定は出来ないと思います。

仰るとおりです。一つの仮説として考えているに過ぎません。北山日禅授与の由比曼陀羅ではなかろうか、と言うのは、独歩さんもご指摘のように、これが「御本尊集」に入っていないからに外なりません。ですから単なる憶測でしか有りません。

ただ、判らない事について考える場合、いろんな仮説を考えて、一つずつ消してゆく、そして、そこに真相が浮かび上がる。このような事を期待して、仮説を述べているに過ぎないとご理解賜りますれば幸いです。

2208れん:2009/01/27(火) 19:23:40
問答名人さん

おっしゃる旨、了解致しました。現在のものは日禅授与を原本にしてますから、江戸時代に作られたとすれば、日精あたりが入手した模写が原本の可能性も十分あると、私も考えます。



犀角独歩さん

なる程、確かに仰る通りですね。日禅授与が「御本尊集」に掲載されなかったことは決して軽い事柄ではなく、仰る通り、北石のものは共に“御真筆”ではなかったことの証左だと思います。

ご指摘の“身代わり本尊”ですが、これは日有の造立にかかるものですが、以前もどこかで議論の俎上に乗ったとおもいますが、これが二代の可能性はあると思える場合も考えられますね。石山上代で身代わり本尊の原本の“御筆”は日有以前から複数模刻されており、この原本が、日時以降の石山門でかなり重要視されていた印象を受けます。としますと、石山で最初に戒壇本尊として持ち出したのが、身代わり本尊の原本で、続いて日有の代に、石山の本尊堂安置用に身代わり本尊が作成され、その後、例の腰書きの付された、いわゆる戒壇の板本尊が作られたという流れの可能性も考えられるところといった感じでしょうか?

2209犀角独歩:2009/01/27(火) 21:01:46

れんさん

ありがとうございます。ご承知の通り、わたしは、彫刻作成の張本人は日精という考えできたのですが、れんさんの近日のご投稿に揺らがされています(笑)
ご賢察をさらに期待します。

2210彰往考来:2009/01/28(水) 07:55:03

れんさん

>2205 由井正雪が書いた蓮祖大漫荼羅の模写は現存するのでしょうか?・・・彰往考来さんが北山の日禅授与を直見されていますので、ご意見を

以前、由井漫荼羅について調べたことがあるのですが管見に入った限りでは中尾堯氏の「真蹟遺文と肖像からみた日蓮の実像」(『駒澤大學佛教學部論集 第24号』平成5年、駒澤大學佛教學部、62頁)に少しばかりの記載があるのが唯一の資料でした。そこには、
「贋作について、江戸時代前期に由井正雪が反乱を起こすにあたり、日蓮の真蹟を数多く作って高値で売り捌き、軍資金を集めたという伝承がある」とあるのみです。
ここで中尾氏にあえて苦言を呈せば、「日蓮の真蹟を数多く作って」というのは変です。「日蓮の贋作を数多く作って」とか、「日蓮の真蹟と詐称する贋作を数多く作って」というなら解かりますが、「日蓮の真蹟を数多く作って」では言葉足らずでしょう。

由井漫荼羅とはどういうものなのでしょうか。かつて某氏に伺ったところでは、
・ 日蓮宗系の寺院に相当寺宝として所蔵されている
・ 出来はかなりよい。真蹟として扱われているのが相当数ある
・ 日蓮聖人の真蹟御本尊は砧で叩いてあるが、由井漫荼羅は砧で叩いていないのが特徴
ということでした。
由井漫荼羅と称する実物を私は拝見したことがないので、はっきりしたことは言えませんが、由井正雪の伝記などを紐解くと、紀州家の徳川頼宣と関係があったことが解かります。(例えば、進士慶幹『由比正雪』昭和61年新装(初版:昭和36年)、吉川弘文館)
この観点で、『太田区史 資料編 寺社(2)』(昭和58年、東京都大田区)の「伝・日蓮本尊」(1263頁)の項をみてみると、「寄進主 紀州中納言宗直卿」といった紀州家由来の裏書のがある「伝・日蓮本尊」の存在に気が付きます。これら紀州家の裏書のある偽筆本尊が由井漫荼羅である可能性はあるでしょう。ただ、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していた史実がありますので、あるいはこのことが由井漫荼羅伝説になっていった可能性もありよく分かりません。

さて、お尋ねの北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅が由井漫荼羅であるかどうかです。
由井漫荼羅と称する偽筆御本尊の実物を見たことがないので比較考証はできないのですが、結論から言って私は北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅は由井漫荼羅ではないと考えています。北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅は相剥の影本である可能性が高いので砧で叩いてあるかどうかは鑑定の判断基準になり得ませんが、北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅の紙質が江戸期のものではなく鎌倉期のものではないかと実見した際に思いました。
つまり紙質から北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅は江戸期のものではない(=由井漫荼羅ではない)と判断した次第です。

彰往考来

2211れん:2009/01/29(木) 09:08:28
犀角独歩さん

文献上、かなり詳しく石山中心の歴史を紡いだのが日精ですし、石山歴代で彫刻を最初に自分の著作で宣伝したのも日精ですので、彫刻作成の張本人を日精に比定する犀角独歩さんのお考えも一理も二理もありますね。
先に問答名人さんのご指摘の、彫刻を作成する“動機”という点から考えれば、日時・日有・日主に、それぞれ動機はありますので、日精以前に石山が彫刻を作ったとすれば、この三人に絞られると考えております。
日時は、安房妙本寺との裁判に勝ち、石山境内を全て我が物として、日道門流=富士大石寺門流を形成しますが、元来、日道門下には安房妙本寺や北山本門寺に匹敵する本尊・御影が無いので、日時は自ら願主となって御影を造立しましたし、本尊も用意または作成した可能性があります。日有は石山歴代で初めて、石山=事の戒壇・本尊堂という主張をしておりますので、自らの主張に見合う戒壇本尊を用意または作成した可能性があります。日主の代に、北山本門寺から、西山との出入りにより、北山において信仰の中心とされ戒壇本尊としていた本門寺大堂本尊が紛失するという事件があり(この後北山では生御影信仰が中心に据えられていくことになる)、この機会を捉えて、日主は、石山こそ真の戒壇という類での正統性を主張し、自身の主張に見合う戒壇本尊を用意または作成した可能性があります。

以上、少なくとも日精以前に石山で彫刻またはそれに準ずる漫荼羅の用意または作成するということをやった可能性の高い人物を挙げるとしますと、日時・日有・日主の三人が“動機”の面で浮かび上がるということになりますね。

2212れん:2009/01/29(木) 20:48:00
彰往考来さん


由井漫荼羅と北山の日禅授与漫荼羅についての御教示有難うございました。

実体は分からないものの由井漫荼羅が日蓮系寺院において真筆と“認識”されて所蔵されているとのこと、出来が良すぎるくらいの“偽物”なのですね。
北山の日禅授与漫荼羅は、紙質からは、江戸時代以前のものということで、由井正雪による創作ではないことは分かりました。
ご教示有難うございました。

2213犀角独歩:2009/01/29(木) 23:22:00

れんさん

お立てになった時系列、説得性がありますね。

あと、北山の日禅授与本尊、これは大石寺の日禅授与本尊の相剥でないことは、既に図形鑑別で検証しました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51208577.html

いちばん問題なのは、北山の本尊が由井の贋作かというより、大石寺日禅授与本尊が日蓮真筆かどうか、これを真筆だといったのは、日亨さんですが、この人の鑑識眼は問題外。最近では金原さんですか。それ以外で、この本尊を真筆だといっている話は聞きませんね。

2214犀角独歩:2009/02/04(水) 17:47:18

日寛書写本尊と完則図につき、ブログに投稿しました。
ご批正を頂戴できれば有り難く存じます。

日寛本尊は、完則図原本の模写か?
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51496935.html

2215阿佛棒:2010/01/20(水) 15:36:31
皆さんは大御本尊樣をニセモノだのインチキだのいいますが
本当にそうでしょうか?

あえて大御本尊様を擁護する論陣を張りその功徳で成仏したいですw

今日の歴史学においてブッダの没年は
紀元前383年(中村説)とされ末法は江戸時代に到来したものと考えられます。
そこで、

仮設1
日蓮の秘密の遺言(後に消失)によってこの大御本尊は江戸時代に製作されたもの

仮設2
大御本尊には人格が宿っており江戸時代に富士派の僧侶と佛師をあやつり
自然に世に現れ世の人々を救わんと富士派の僧侶らに超自然の力で語りかけた
かんなぎ説w

もちろん学問的には荒唐無稽ではありますが
信仰とは本来こういうもの。

もし私が正しいなら私には無量の功徳があり
大御本尊を誹謗した諸兄らは阿鼻獄に入らん

ちょっと脅かしてみましたw

2216問答迷人:2010/03/06(土) 12:51:47
このスレッドにて、日顕上人の述べた偽作説について詳しく議論されています。

2217阿佛棒:2010/03/13(土) 17:49:31
それについては存じておりましたが、改めて拝見。

科学的な年代測定を行うのが1番でありましょう。
素材、塗料などからあるていど年代が測定できるものと心得ます。

が、

究極、日蓮が書いたものでなくても本門戒壇であると
末法の本佛とその眷属の使いである創価学会が認めるなら
本門の戒壇となる。

これはもう信仰の問題なわけです。解釈としては末法に相応して出現したと自称する創価学会こそが
宝塔であり、三代秘法そのままなのであると強弁してしまうことも可能

ここまで言い切ってしまうともう日蓮宗の枠におさまらず正に池田教ではないかとの謗りもありましょうが
それくらい突き抜けてしまってもいいのではないかと思う今日この頃

2218阿佛棒:2010/03/13(土) 17:55:56
そして、同じ主張を顕正会や他の法華諸宗教団体が行うことも可能。

ミレニアムを超えた今こそ新たに全創価学会員の発願で
新御本尊を製作するのもまた可でしょう。

と、これは偽作説のスレから外れてしまった話になりました.すみません。

2219ひきこもり:2010/08/28(土) 22:17:37
大御本尊が偽作であるという事が決定したらば、日蓮正宗は全滅ですよ。

2220問答迷人:2010/08/29(日) 05:21:43

ひきこもり さん

僕も同じ意見です。

そもそも日蓮正宗は、日蓮門下の中では異端だと思います。日蓮正宗が全滅して、却って日蓮聖人の教えの全貌が明らかになると僕は考えています。

日蓮聖人の教えでないものを、日蓮聖人の教えだと言って布教するのは如何なものか、という事です。

2224三船敏郎:2010/11/12(金) 11:04:06
創価学会内部改革派憂創同盟 最後の警告 というサイトを立ち上げている元創価学会員です。
日蓮正宗法華講に入っていましたが、犀角独歩さんの論文を読み、日蓮正宗法華講を辞める決心をしました。
そして保田妙本寺に入ろうとしましたが、民衆救済の精神がないことから入るのを辞めることにしました。
今、自分一人です。ヤフーの知恵袋で頑張っています。
創価学会に戻ることを考えています。

2225問答迷人:2010/11/12(金) 13:52:08

三船敏郎さん

どこかの組織に付かないと、日蓮法華信仰は出来ないのでしょうか、そんなことはないと思います。僕は何処かに所属する信仰はもう止めました。

それでも、僕は信仰を捨てたわけでは有りません。日々、生活・人生の糧として日蓮法華信仰に励んでいます。指針は日蓮聖人の真蹟遺文です。

こうした信仰の有りかたは、伝統仏教は認めようとしませんが、伝統仏教の宗派から、インチキ教義とインチキ解釈を刷り込まれた身としては、ずっとずっと晴れ晴れとした信仰だと自負しています。

2226問答迷人:2010/11/13(土) 15:05:38

追伸です。

「伝統仏教の宗派から、インチキ教義」と書きましたが、僕の場合の伝統仏教とは『日蓮正宗』であり、インチキ教義とは、「日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊」と「唯授一人の血脈相承」という二つの『我田引水の邪義』です。蛇足ながら申し添えます。

創価学会は、いまだにこの二つの日蓮正宗譲りの邪義に固執しています。まぁ、僕はこんなインチキ団体には近づかないのが良いと考えています。君子危うきに近寄らず、です。

2227ひきこもり:2010/11/28(日) 18:47:00
>>2226
それでは日蓮正宗も創価学会も嘘の宗教であり、終戦後の動乱状態を騙して、
脅迫である罰論や誘惑である功徳論を展開して、信者を集めた団体と言うことになっ
てしまうではありませんか。

僕は中学生の時から、「人は信仰を持たないと何をするか分からない」と言う理由で
入会しましたが、騙されていたのではたまりません。

日蓮正宗も創価学会も嘘の宗教だったら、もう科学で宗教を研究しなければなりませ
ん。しかし自分の体験から戸田先生の「生命論」は間違いありませんよ。体験こそ真
実ですから。

2228問答迷人:2010/11/29(月) 06:51:28

ひきこもりさん

>それでは日蓮正宗も創価学会も嘘の宗教

これは、僕は間違いの無いところだと認識しています。

「日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊」と「唯授一人の血脈相承」

この二つの日蓮正宗の根幹教義が史実に基づく教義である事証明する事は不可能だと考えています。

>自分の体験から戸田先生の「生命論」は間違いありませんよ。体験こそ真
実ですから。

戸田師の生命論に、「日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊」と「唯授一人の血脈相承」を直接述べた部分は有りましたでしょうか?

戸田師の生命論が間違いないとしても、それで、戒壇本尊や唯授一人の血脈が史実だと証明されるわけではない。日蓮聖人の教えが正しい、というのなら分りますが・・・ここに混同があると思います。

僕は日蓮聖人の教えを深く信奉しています。しかし日蓮正宗の様な、似非日蓮は断固否定しています。

2229ひきこもり:2010/11/29(月) 21:52:32
>>2228
分かりました。御書のどこにも死んでこの世に再生すると言う文言はないですね。
「折伏経典」は戸田先生ではなく、次期会長と目されれていた、石田次男氏が書い
たものと分かりましたが、、戸田先生と石田さんは生命論を知っていましたよね。

2230ひきこもり:2010/11/30(火) 21:05:12
>>2228
問答迷人さん。私は池田先生の「若き日の日記」に「死んで眠りたい永久に」と書かれてあったことに
高校生時代に驚きました。あと柏原ヤス全国婦人部長が電車の中の中吊り広告に「1回だけの人生をど
うするか」と書いてあったのを見て驚きました。また2年ぐらい前の聖教新聞に池田先生が「1回だけ
の人生」を発言していたことが記載されていました。先生は生命論を理解していないのではないかと疑問
に思いました。あとあれだけ反戦平和の公明党が自民党と癒着してから、もう私は神経が参っています。

私が少年時代に良く唱題しに行った池袋の常在寺の前には、いつも黒い車が駐車していて、私の少年時代
とは大変わりになってしまいました。創価学会も日蓮正宗もインチキ宗教だったのならば、損害賠償金を
国に訴えますよ。

2231ひきこもり:2010/11/30(火) 21:23:15
>>2224
三船敏郎さん。僕は創価学会に入会する前までは、気が弱い少年でした。しかし虐めに遭って
創価に入会した後、創価の人達は僕を助けてくれました。勉強嫌いが御書や人間革命をむさぼ
り読むようになり、最高学府まで出ることができました。創価学会なくしては、今の私は無い
と思います。他の宗派はありますが、苦しんでいる人達を救おうとした団体はありません。

今は経済的にも恵まれていて、平穏な毎日を送っています。中学生の時に入会して厳しい指導
を受けてから、猛勉強をしました。

2232問答迷人:2010/12/01(水) 15:28:41

ひきこもり さん

僕は、17才で単身、創価学会に入会し、約10年間信仰に励みました。創価学会の組織には人情があり、助け合いの姿がありますね。特に縦線の時代は、人間関係が豊かだったと思っています。創価学会で学んだものは沢山有ります。また、失ったものも沢山有ります。

その後、板本尊謹刻問題で、創価学会を辞めて、日蓮正宗の末寺に付きました。ここでは学んだものも失ったものもそんなにはありません。まぁ、時間の浪費は有ったと思いますが・・・

そして、戒壇板本尊が偽物だと知って、日蓮正宗を離れました。

最初は、何処かに付かなければ信仰できない、との脅迫観念に苦しみましたが、どの教団も似たようなもので、日蓮聖人の教えが正しく伝えられている訳でもない、と感じましたので、教団探しは止めにしました。

今は、静かに日蓮法華信者として、現当二世を祈る生活を送っています。

何か、内村鑑三の無教会主義を真似ているような感じです。

創価学会や日蓮正宗を恨む気持ちは全然有りません。却って、日蓮法華信仰を教えてくれた恩人の様な捉え方すらあります。かと言って、創価学会や日蓮正宗に戻ろうとは毛頭考えていません。「日蓮法華信者」で有りつつけることは誰からも邪魔されません。これで良いのだろうと考えています。

2233ひきこもり:2010/12/03(金) 21:47:41
>>2232
そうですよね。僕は14歳の時に日蓮正宗の信徒になり、同時に創価学会の会員になりました。
14歳なんて今から思えばまるで子供でしたねw

創価は悪い団体ではありませんよ。真面目な人がほとんどです。

2234常修二番弟子:2013/10/21(月) 18:17:09
下記サイトを見て、本門戒壇の大御本尊が、大聖人の御真筆であること、確信しました。
一度見て下さい!
エイチティティピーコロン、スラッシュスラッシュ
zyoushuin2.web.fc2.com/

2235サム:2015/10/14(水) 14:38:37
私(サム)は、

日蓮聖人漫荼羅一覧
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/mandaraitiran.html

にある他宗門公開の全ての現存大聖人御真筆御本尊と比較して、

『石山(せきざん)本尊の研究』京都要法寺僧侶 柳澤宏道編著
http://www.hachisubunko.com/%E3%81%AF%E3%81%A1%E3%81%99%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/
に紹介されている石山本尊の研究-01.pdf、にある楠板本尊との間に、

決定的な違いを見出したのです。 
(かなりの学会員さんは、既に発見されていたかも知れませんが。)

楠板本尊の座配図を書かれた京都要法寺僧侶の柳澤宏道氏は
「板マンダラの写真は『日蓮聖人』(熊田葦城著・明治44年発行)と『聖教乃正義』(荒木清勇著・大正4年11月11日発行)(二人とも大石寺の信者)の口絵に掲載されたものが全貌を示すものだが、巷間で批難されているがごとく不鮮明なものである。しかし、著者はこの写真から、正確に座配図を読み取るため、マイクロ写真にて「AO版」(畳1枚程の大きさ)まで拡大して検証した結果、既刊の研究書とはかなり異なる結果となった」
と述べており、実際の楠板本尊の相貌に間違いないであろうと推考します。

決定的証拠

①御真筆で図顕年月日が記載されている御本尊は全て「干支」も付記されているが、楠板本尊には「干支」の記載が無い。 干支の無記載は日興上人以降の様式である。
②弘安元年七月以降の御真筆本尊は全て「仏滅度後」との讃文だが、弘安二年十月御図顕とされる楠板本尊は「仏滅後」の表示である。

私が調べた処では①②共に例外はありません。
7月末に某掲示板に発表して現在9月3日に至るまで、法華講員さんの明確な反論は一切ありません。 
今からでも結構ですので、戒壇本尊肯定者や、法華講の方々で、御自分で調査するなり、講役員や宗門関係者にお聞きするなりして、反論・ご意見を募集しております。

反論が無ければ、結局、『本門戒壇本尊とされる楠板本尊は後世の模作だった』と結論します。

今こそ『楠板本尊は、大聖人の出世の本懐ではなく後世の模作である』と創価学会総体が、宣言した時こそ、私は「創価学会の発迹顕本の時」だろう、と信じています。

2236サム:2015/10/14(水) 14:48:41
御図顕或いは御書写の年月日に干支が記載されている御本尊は、

『石山(せきざん)本尊の研究』京都要法寺僧侶 柳澤宏道編著
http://www.hachisubunko.com/%E3%81%AF%E3%81%A1%E3%81%99%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/
に、紹介されている石山本尊の研究-01.pdf、石山本尊の研究-02.pdf、から調査しますと、
(文末の分数は、年月日記載の本尊に対する干支必掲本尊数です。)

開山日興上人では、0/19
3世日目上人では、1/1
26世日寛上人では、2/3
33世日元上人では、1/1
48世日量上人では、1/1
51世日英上人では、1/1
52世日霑上人では、1/1
なお、近代の法主は、全て干支を付記していません。

堀日亨上人の「第三、漫荼羅脇書等」(富要集8巻177頁)に依りますと、

開山日興上人では、6/188
3世日目上人では、0/8
4世日道上人では、2/6
5世日行上人では、0/8
6世日時上人では、26/28
7世日影上人では、1/2 (日亨上人は日影上人を7世としている)
9世日有上人では、4/22
12世日鎮上人では、5/9
13世日院上人では、2/5
14世日主上人では、9/11
15世日昌上人では、7/11
16世日就上人では、1/11

日蓮聖人漫荼羅一覧
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/mandaraitiran.html
では
日蓮大聖人は、104/104

となり、大聖人以外の石山法主の御本尊は、干支を付記したり、しなかったりしているのですよ。

2237通りすがりの人:2019/08/21(水) 17:31:21
管理人さんはお元気なのでしょうか?


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