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反・反戦派の方々へ
え-、よく晴れたゴ−ルデンウイ−クにネットに向かってるのもネクラなんですが、時間のあるうち、ということで。
今更ですが、反・反戦派、まあ、戦争容認派、反戦懐疑派、いいかたはなんでもいいんですが、の方々の主張は、まとめるとこんなところでしょうか。
1・戦争に賛同するわけでも推進するわけでもないが、無くす手段が無い以上、容認せざるをえない。
2・だから、反戦運動は、無駄である。
3・人間は利益、利害で動くものだから、関係無い他者がいくら死のうが関係無い。
4・もし戦争になって、自分や家族が死んでも、その時は、仕方ない。
>>545
>これは私も怒りとは違うと思います。
私も一生懸命考えてみたんですが、思いつかないんです。(笑)
でも、別の人の意見を聞くことで、自分の視野が広がることってあるじゃないですか。
とりあえず、ぼーんさんのご意見を聞いてみましょう。
>>543
> 穏やかに言うことによって「そうなる場合もあれば、
> そうならない場合もあるでしょう」とも言えるんです。
これはモチロンそうです。
私しては、訴えたい相手の人柄を読み取って、より効果的な方法を模索したいというのが理想です。
相手の人柄を読み取る、というのも、「相手に関心を抱く」という意味で、「相手を尊重する」ことになると思っていますので。
勿論、痛みを直接感じた人は「痛い!」と怒鳴るだけで精一杯だと思います。
そんな時、私は素直に謝るでしょう。
けれど「痛い!」の後に「どけんかい!!!」を付けられたら、私は謝っても、それは恐怖で謝ったのに過ぎず、その人の立場になって心からすまなかったと思えるかどうか… 何故なら、その人は私にとって「恐い人」に過ぎなくなってしまうからです。
> この頃は、少し若者も性根が入っていたと感じるのは、ひいきめでしょうか?
この頃の若者のことはよくわかりません。
説明不足でしたが、私の周りの人間は、皆それぞれの立場を持っている社会人です。
皆、自分の仕事に誇りを持っています。勿論、自分の生き方にも。
だからこそ、他者の生き方に口出しして揉めたくなくて、無難な話ばかりしています。
そこへ生き方を問うような話を持っていくのは難しい…
穏やかな切り口でも「選民意識(誰も気付いてないことを自分は気付いてる)を持ってる」と警戒されます。
「そんな話をしてる人達は、案外身近な人間関係を疎かにしてませんか?」と問われたこともあります。
皆何かしらのコンプレックスを持ってるので、生き方を問うことは、そのコンプレックスを刺激してしまうことになるんでしょうね。
これは、勿論自分にも当てはまることなので、こう推測する訳ですが…
誤解ないよう付け加えますが、私は武蔵さんの方法を否定したい訳ではないのです。
ただ、露夢虫さんのおっしゃるように
> 「無関心」を「関心」に変えるだけでも、それはもう大変大変…
という思いが私にも強いので、
> 魯迅の小説や尹東柱の詩は穏やかでいいなあ、と理解してしまっているとしたら
> 時には反発覚悟で怒鳴らなければならないかも知れません。
ここで怒鳴るというのは逆効果だという気がします。
少なくとも私のような人間には。
理解は自発的なものですが、怒鳴られた時点で「押し付けられた」と感じてしまいます。
>> >…そこをどうするか。どんな風に伝えてゆくか、ですね。
> まだまだこれはお互い堂々巡り、
露夢虫さん、武蔵さん達と同じく、私も迷路をウロウロと彷徨っているところです。
>>544
> 私が >>539 でぼーんさんにお聞きしたいと思ったのは、当事者というよりは、武蔵さんやぼーんさんや私といった、むしろ我
> 々のような「当事者ではない」人達や、「当事者の代弁者」の場合なんです。
怒りの表現の仕方がどうであるかはわかりません。が、ある。と思います。
その怒りに共感できるかどうかってのは、よく考えてみると、それが当事者だからか、というのとは違う理
由によると思います。その怒りに筋が通っていることが納得できれば、それは当事者によるものではなく
ても、理解できるものです。逆に、筋が通っていないものならば、それは当事者のものであっても納得い
かないでしょう。
だからまず第一に、その怒りの要求するものが筋が通っているかどうか。これがあります。
第二に。当事者とは誰か、何の当事者なのか、という問題。
今までのやり取りの文脈では、直接の抑圧・差別の被害者を「当事者」として想起しています。
しかし、それは狭い意味の「当事者」であろう、と僕は考えています。
抑圧される当事者。そして、その抑圧される人を見る者。
前者が当事者で、後者は違う、というわけです。
しかし、後者は、言い換えれば、「その抑圧を目撃するという苦しみを味わう「当事者」」なんですね。
これは瑣末な言い換えではありません。卑近な例にも見出すことができます。
たとえば、犯罪被害者の遺族。彼らは、「遺族となること」の当事者なのです。
もちろん、当事者であるかそうではないか、ということによって語り口や語る内容は変わります。
パレスチナにおける人権抑圧被害の当事者であるパレスチナの子供たちの言葉は身にしみました。
そして、その目撃者である日本人活動家の女性の言葉も身にしみました。
しかし、この両者の語り方は違うものでした。違って当然だと思います。
しばしば問題になるのは、抑圧の当事者の語りを、抑圧の目撃者が真似して語るケースですね。
これは、その語っている人の善意を疑うかどうかは別にして、端的に間違った語り口だと思います。
その意味で、いらぬ疑念を招く可能性が高いでしょう。何より、嘘で人を動かすことは、仮に目的ど
おりに人が動くとしても(この場合は)よくないと僕には思えます。
だから、当事者であるかないか、というよりも、「私は何の当事者であるか」をわきまえて、それを意識
しながら語ることが大事なんかな、と思います。
とはいえ、僕は圧倒的に聞き手の態度の方こそが問題にされるべきであり、それに比べれば、語り口
の少々の不手際など、小さな問題に過ぎない、とは言い添えておきますが。
>>548
は私です。はい。
>>548
ではあまり怒りに言及してないですね。補足します。
> 私が >>539 でぼーんさんにお聞きしたいと思ったのは、当事者というよりは、武蔵さんやぼーんさんや私といった、むしろ我
> 々のような「当事者ではない」人達や、「当事者の代弁者」の場合なんです。
という質問には、「その場合もあるし、そうでない場合もある」と答えるよりありませんね。
ただし、「当事者の怒りでないから聞かない」という人がもしいるならば、その人はそもそも思考自体していない可能性が高い
です。なぜならば、>>548 に書いたように、当事者であるかどうかは、とりあえず関係がないことだからです。
# たとえば、誰かがいじめられてるのを第三者がとめるとき。「なんでお前が言うんや、関係ないやろ」といういじめっ子がい
ますね。そのいじめっ子は、次の2つのうち、本当にはどちらを問題にしたいのでしょうか?
(1) その第三者の口を出す資格を問題にしたい。
(2) 口を出されるのが不都合だから、そもそもその第三者を黙らせたい
圧倒的に(2)の目的のために(1)を装ってる人が多いと思います。その場合には、まじめに自分の当事者性について反省す
るよりも、(2)の本音を暴く方が大事でしょうね。
で、できれば、「いじめを見て見ぬフリをして不正義に加担するという苦しみを味わう当事者」として語るのができればより
ベターではないか。と思います。
>>547
> けれど「痛い!」の後に「どけんかい!!!」を付けられたら、私は謝っても、それは恐怖で謝ったのに過ぎず、その人の
> 立場になって心からすまなかったと思えるかどうか… 何故なら、その人は私にとって「恐い人」に過ぎなくなってしまうか
> らです。
これはそうだと思います。しかし、このことを否定的に見ることもなかろう、と思います。
怒鳴られます。怒鳴られたことへの反射として、つい、謝ってしまった、とします。
そのとき、謝ったことの理由への納得が得られていません。
そのときに、自分の中で、本当に謝るべきであったのか、相手の言っていることが間違っていたのではないか、
私が謝らせられたのは理不尽ではないのか、と思考してみる機会が私たちにはあります。だから、実際に考えて
みましょう。
考えた結果、確かに謝る理由が確認できれば、それはそれでいいでしょう。
謝るべきではなかったと確認できれば、もし可能なら、それを持って言い返しにいけばいいでしょう。
ゆきずりの、言い返す機会がもうない相手であれば、仕方ないのですが、ともかくあれは理不尽だった、と心に
刻んで、次の同様な機会への備えとしましょう。
僕自身が考えることといえば、こういったことですかね。とりあえず。
>>536 の哀Myさんの理解は、僕の読めている限り、100%正しいと思います。
僕の言いたかったことは、まったくそのとおりのことです。
> そこまでは賛同できるとして、(前にもチラと書きましたが)何故皆がαを共有しにくいかというと、自分がそうでも他者はそう
> ではないという不安があるからだと思います。
「不安」についての指摘は、マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」でもありました。
アメリカの銃犯罪の飛びぬけた多さ(平均的な先進国の100倍以上)、暴力的な対外政策、の原因を、
「他者への不信と、「奪われるかもしれない」という不安」だと述べています。
ドメスティック・バイオレンスなんかの原因も、「失うかもしれない」からこそ、「相手をより強く支配しよう」として、暴力という手段
を利用する。そういうメカニズムがあるみたいですね。DV男性についての心理学的分析なんかも参考になるかもしれません。
> 他者より、まず自分の問題(自分はどうするか)だとは思いますが、いかに人々の不安を取り除いていくか、ということがαを
> 広く共有するために不可欠だと思うんですけど、今のところその良い方法が見つからず苦労している有り様です。
不安の原因について、マイケル・ムーアの指摘を僕なりに翻訳すると、「現実に他者を踏みつけにしている・してきた結果とし
ての今の豊かさ」を、私たちは自覚しており、だからこそ他者に対する不安を持つのだ、ということでした。
だとすると、どんなことができますかね?
テスト
(すみません、上のテストは私です。エラーが出てかきこみができなかったので)
ぼーんさん、武蔵さん、こんにちは。
お二方のご意見について、いろいろ聞きたいことや話したいことがあるのですが、オフの方が益々忙しくなり、じっくり掘り下げてお話するのが難しくなってきました。
ですので、これまでの争点と経過をまとめて、大きな流れの中での同意点と相違点を明確にしておきたいと思います。
いちおう自分なりにまとめてみましたが、これに異義があればまた話し合うということで。
---------------------------------------
「価値観の相違」に理解・尊重を得る上での「怒り」の有効性について…その経過:
1)そもそもの発端は、私が「価値観の相違」について両者の理解を深めてゆく上で、「怒り」は第1段階(注1)では有効だが、その先は、真摯に話をするなど「方法を考えてゆく必要がある」という意見に、ぼーんさんが異義を唱えた。
2)その異義の概要は「やむにやまれずやっている人もいるんだから」という「方法も分からない当事者」を弁護するためだったと理解する。
3)で、私の方はどちらかというと「私と武蔵さん」を前提とした話をしていたが、お二方の意見より「前提がズレている」ことに気付いた。
4)対話を進めて行くうちに、三者とも「当事者(注2)の怒り」には理解を示しており、「当事者」の場合は、「怒り」によって「相手の理解・尊重」をも得るケースもあるだろうことは同意できた。
5)また、「代弁者」や「共感者」が「怒り」を伝えることについては、「方法を工夫した方がよい」ということで、同意できたようだ。
ただ、彼等が「問答無用で怒ること」の有効性については、今後の対話の課題として残るかもしれない。
私自身の意見としては「第1段階」で、無関心な人々の注意を喚起するのには有効なケースもあるだろうが、「理解」「尊重」を得るためには、何らかの説明努力が必要と考えている。
(注1)
私が >>504 で述べた、「価値観の違い」を埋めてゆくためのステップ
1.「価値観の違い」に対する無自覚に、気付いてもらう。(第1段階)
2.「価値観の違い」の内容について、知ってもらう。(第2段階)
3.「価値観の違い」について理解し、尊重してもらう。(第3段階)
4.そして出来れば、「価値観の違い」について、共感してもらう。(第4段階)
(注2)「当事者」「代弁者」「共感者」の定義
当事者=実際に弾圧や差別や被害を受けている人々(パレスチナや在日の人々、ハンセン氏病患者、徐京植氏など。ぼーんさんが548で出された「犯罪被害者の遺族」も立派な当事者だと思います。)
代弁者=実際に抑圧解放活動に「主体的に」関わっている人々(ぼーんさんが例に挙げた、パレスチナ解放運動に携わる日本人の女性活動家など)
共感者=このような問題に対して共感を覚える人(武蔵さん、哀Myさんなど。ぼーんさんも私はここに入ると思ってますが)
なおこれらは、上のまとめを理解してもらうために、私が勝手に定義したものです。
ぼーんさんは「この定義上の「共感者」であっても、その抑圧を目撃するという苦しみを味わう「当事者」になりうる」と >>548 で言っておられますが、「なるほど、そういう考え方もあるのか」とも思います。それについては対話の余地もあるでしょう。
とりあえずは、これはお互いの同意点と相違点を確認するための「仮」の定義とお考え下さい。
つづき
---------------------------------------
「聞き手の義務」について:
ぼーんさんとの対話の過程で、私とぼーんさんとの考えに大きな違いがあることが明らかになった。「怒り」に対する意見の齟齬は、むしろここから発しているように思われる。
その違いとは、ぼーんさんが「聞き手にも義務がある」「聞き手の態度が問題にされるべき」と考えているのに対して、私は「聞き手はあくまで自発的に耳を傾けるのであり、義務があると思うのは聞き手自身がそう思うことであって、話し手が言うことではない」と考えている。
よって、私としては、ぼーんさんが何故「聞き手に義務がある」と考えるのかを重点的に理解したいと思っている。
---------------------------------------
こうしてまとめてみるに、私自身が考える「今後の議題」としては、「聞き手の義務」の方が重要と思いますが、如何でしょう?
ただ問題は、私自身がさらに忙しくなって、おそらくこれから1月程はじっくり対話ができないだろうということです。
勝手都合のいいお願いとしては、これからしばらくは「ぼーんさんが何故そう考えるのか」を理解するための質問期間にできたらと思っているのですが、これも相手のあることですから、ぼーんさんのお気持ちを尊重します。
また、ぼーんさんが「何故、聞き手に義務があると考えるのか」について説明していただいて、私がまたじっくり対話できるようになったら再開するということでも結構です。
たまたま別スレでも、同じ様な話題が出ていますし、そちらを読むことで私の疑問も氷解してゆくかもしれないという期待も持っています。
>>537
武蔵さん
上の投稿をまとめていて、随分前のご意見ですが、武蔵さんにお返事を忘れていたことを思い出しました。
>>自分の訴えを相手に理解してほしい、尊重してほしいと願うならば、出来うる限り
>>「相手に伝わるための方法」を研摩し実行してゆく「必要」がある。
>これに賛同します。
まずは、私の主張にご賛同いただき、どうもありがとうございます。
しばらくじっくりと考えられたと思われるだけに、この問題に対する武蔵さんの熱意が伝わってきました。その後の武蔵さんのご意見:
>(伝える方法は)話を聞く人の状況を見て行われる
>(代弁者や共感者の方法は)体験者とはまた違ったものになる
()内は私の注釈
については私も大いに賛同していますから、ここでは、武蔵さんの「賛同のための条件」についてお返事致します。条件次第では「賛同できなくなる」ってことも考えられるでしょうし…
つづき
>全ての人に責任のあることを、「話しての責任」にきして「聞き手は観客的に批判」
>してよいという意味ではありませんよね。
これが武蔵さんの条件と思われるのですが、ちょっとよく意味がわからないのです。(すみません。)
「全ての人に責任があること」とは、どんなことでしょうか?
私が考えられるのは、この議論板のように、「自由意志で対話に参加している場合」なら、聞き手にも話し手にも相互に責任があると言える、と思うのですが。
また「観客的に批判する」とは、話し手が外野から聞き手の態度を批判することですか? そして「聞き手に向かって」批判することですか? 具体的にはどんなことが考えられるのでしょう?
おそらく武蔵さんは、「聞き手」が「話し手」の話を聞くかどうかは、話し手だけの責任なのか、そうでない場合「聞き手」にむかって批判していいのか?という意味で言われたものと推測します。
「話し手」の立場からでも「聞き手」に対しての批判は出てくるでしょう。
ただ、それを「聞き手」に伝えるかどうかについてはケースバイケースじゃないでしょうか。理解がより進むと思われるなら、「聞き手」に伝えることもあるでしょう。
私なら、聞き手を「分析」して、よりよいコミュニケーションの方法を考えると思います。それが「聞き手を批判する」ことにつながることもあるかもしれませんが、それは基本的に「話し手サイド」でやることだと思ってますし、それを「聞き手」に伝える必要があれば、それこそ今まで武蔵さんと話して来たように、「一つの価値観」を伝えるやり方と同様に考えます。
とまあ、ここまで言えば、私は基本的に「聞き手に向かって聞く態度を批判しない」と思われるかもしれませんが、その通りです。これは、現在ぼーんさんとの違いが明らかになった「聞き手の義務」に対する私のスタンスと共通するものです。
ここの議論板のように、自分の意志を持って参加している様なところでは、聞き手にむかって聞き手の態度を批判することもあると思いますし、その批判が正当なこともあるでしょう。でもそれは、話し手も聞き手も、興味を持って自分の自由意志で参加している場所だから言えることであり、「イワシが好きだ」と訴える私も、「見えていないこと」を訴える武蔵さんも、そのことに「無関心で偏見を持っている人」に訴える訳ですから、この場合に相手の「聞き手としての態度」を批判できるのかな〜って思うんですよ。
「無関心な人」も、その人独自の価値観に従って、興味の対象や生き方を決めている訳です。それを尊重するならば、私が興味を持っていることに彼等が興味がないからと言って、その「聞く態度」を批判する資格は、私にはないと言った方がよいでしょう。
私が「話し手が“聞き手に義務がある”と考える」ことに疑問を持つのは、聞き手に義務を強制するならば、それが「ある価値観の押しつけ」につながるのではないかと危惧するからですよ。私はあくまで、それぞれの価値観を「対等に」理解しあうことを目指していきたいんです。
武蔵さんが挙げられた条件を今一つよく理解せずに意見を述べているので、的外れなことを言っていたら、ごめんなさいです。
最後に、これから忙しくなるので、しばらくじっくりとお話することができなくなるような感じです。でも、短い間でしたが武蔵さんとじっくりお話して、武蔵さんの考えや人となりについて、より理解を深めることができたと喜んでいます。
やはり、ただROMしているのと、実際に話すのとでは、その理解の度合は大違いだと実感しました。
それから、武蔵さんが私の愚鈍な問いかけについて一生懸命考えてくれていることが、いろんな所から伝わって来ており、それに対して大変励みに感じています。
しばらくじっくりお話はできなくなるでしょうが、全くカキコミができなくなるわけでもないので、折にふれて「チャチャ入れ」程度のことは書かせてもらうかもしれません。今後ともどうぞよろしくお願いします。
>>557 までの露夢虫さん
私が全ての人に責任があると言うのは、
例えば在日問題だとすれば、問題があるのは在日ではなく日本人のほうです。
そういう意味では、在日に対する日本人問題であり、加害者側に属する日本人全てに責任がある問題だととらえています。
反戦平和も、全世界全ての人類の課題であり、全ての人に責任がある。
ただ、ほとんどの人にはその認識がありません。
その認識を持ってもらうために「あんたの問題やねんで、これは」と口を酸っぱくしていう必要があると思っています。
しかし、訴える方法については、露夢虫さんが言われるように、
「怒り」ですら、より伝わりやすい方法を模索する必要があると思います。
そして、いろんな方法がいろんな人の個性によって取られていいとも思っています。
ナマの怒りの叫び声に揺すぶられて開眼する人と状況もあると思うし
感情を押し殺して淡々と語られることに、より深い理解が得られることもあります。
森繁久弥のようなベテラン役者は、朗読に感情を入れすぎないことに気をつけるとも言われます。
内容を感じてもらうためには、役者が目立ってはいかんということです。
役者はあくまで黒子であると言うのですね。
私には到達しえない境地ですが、ウンチクある言葉だと思いますね。
何やかや言ってきましたが、
よりよく伝える工夫はあったほうがいいが、
たとえ無くとも、無手勝流でも、何もしないよりはした方がいいということです。
>>554
> 共感者=このような問題に対して共感を覚える人(武蔵さん、哀Myさんなど。ぼーんさんも私はここに入ると思ってますが)
相変わらず丁寧な露夢虫さんに脱帽ですが、ここに私の名前を連ねていただくのは誤解を招くかもしれません。
私の差別被差別の境界線は曖昧です。(時には加害者被害者の境界線も)
共感するなら訴える側にも訴えられる側にも(できるだけ)平等にしたいというのが理想です。
糾弾された方も何かしらのレッテルを貼られて疎外されることで被差別者になる可能性もあるからです。
ですから「話し手」も「聞き手」も「それに自分が不都合を感じるなら」うまく伝える努力はすべきでしょう。
何も不都合を感じないのなら、その人に責任を問うことはできないと思っています。
何も不都合を感じないとは、何を言われてもされても、極端な話命を脅かされても平気だって言う人の場合です。
いくつかのスレに共通することなんだと思うので、どこに書こうかどうか迷ったことですが。
露夢虫さんが、非常によくまとめてくださったので、他スレの回答も含めて、ということで。
>「聞き手にも義務がある」「聞き手の態度が問題にされるべき」
これをどうやって知らしめていくか、広めていくか。
他のスレで反戦運動について食い違ったことも、ここに起因しているかと思うのですが。
差別にしても、反戦にしても、環境にしても、全ての人類の問題であり、そういう点では義務が在る。
これは、間違ってはいないと思うのです。
けれど、現実に周囲を見渡してみると、こういったことに意識を持っている人って、どの位いるのでしょうか?
つ-か、パンピ−の多くは
「アラファト議長って、なに?」
だと思うんです。
これは、パレスチナ問題に関して知識がない、ということもあるでしょうが(単なる無知という意味で)ビジネスマンの教養として、国際情勢、少なくとも新聞に出ている内容に付いてはきちんと知っていても、それは、あくまで、取引先との商談で恥をかかない為、というレベルの人もそうです。
そういう人達に義務を訴えても、果して、どうやったら通じるのだろうか?
>>554
ホントに手間隙かけてまとめていただいて感謝します。
ほとんどそれでいいと思いますですよ。
> (注2)「当事者」「代弁者」「共感者」の定義
> 当事者=実際に弾圧や差別や被害を受けている人々(パレスチナや在日の人々、ハンセン氏病患者、徐京植氏など。ぼー
> んさんが548で出された「犯罪被害者の遺族」も立派な当事者だと思います。)
> 代弁者=実際に抑圧解放活動に「主体的に」関わっている人々(ぼーんさんが例に挙げた、パレスチナ解放運動に携わる日
> 本人の女性活動家など)
> 共感者=このような問題に対して共感を覚える人(武蔵さん、哀Myさんなど。ぼーんさんも私はここに入ると思ってますが)
> なおこれらは、上のまとめを理解してもらうために、私が勝手に定義したものです。
> ぼーんさんは「この定義上の「共感者」であっても、その抑圧を目撃するという苦しみを味わう「当事者」になりうる」と >>548 で
> 言っておられますが、「なるほど、そういう考え方もあるのか」とも思います。それについては対話の余地もあるでしょう。
> とりあえずは、これはお互いの同意点と相違点を確認するための「仮」の定義とお考え下さい。
たぶん、異なるレベルの、それぞれ区別された当事者性があるのでしょうね。
在日問題に関して言えば、抑圧される当事者、直接的に抑圧する当事者、直接的な抑圧者を傍観することによって加担する
当事者、という異なるレベルの当事者がいる。
日本の戦争責任に関して言えば、それを訴える当事者がおり(被害者)、訴えられる当事者がおり(直接の加害者)、そこに
さまざまな形で力を及ぼしうるという意味での当事者(日本に戦争責任の履行を要求できる日本の主権者、等)、があるので
しょう。
戦争責任に関して言えば、僕は3つめのカテゴリーの当事者です。そして、責任を果たしえないことに少なからず痛い思いが
あります(その痛みは、直接的に痛めつけられた人々の万分の一にもならないでしょうが)。
だからこそ、その責任を果たしたいと思う気持ちがあり、それを果たすためには同じ責任を負っている一人一人を動かさなけ
ればならず、そのときに、決して自分からは動こうとはしない(そして、「自責」という意味での痛みを感じていない)人たちに対
して、少なからず怒りを感じます。その怒りをそのままに表現してよい、という意味ではなく、その怒りは確かに、あります。
> ただ問題は、私自身がさらに忙しくなって、おそらくこれから1月程はじっくり対話ができないだろうということです。
> 勝手都合のいいお願いとしては、これからしばらくは「ぼーんさんが何故そう考えるのか」を理解するための質問期間にでき
> たらと思っているのですが、これも相手のあることですから、ぼーんさんのお気持ちを尊重します。
> また、ぼーんさんが「何故、聞き手に義務があると考えるのか」について説明していただいて、私がまたじっくり対話できるよ
> うになったら再開するということでも結構です。
露夢虫さんのペースで、できる範囲でお願いします。
僕の書き込みなんか読むよりも、徐京植さんの本に直接当たられると、それを軸にして話もできるかもしれません。
『半難民の位置から』は、最新のものでもありますし、お奨めです。
ひとまず。以上。
戦争裁判というのは、戦勝者が戦敗者を裁くものなんでしょうね。
人類が進歩しないのも当然です。
適切な事例が出てきました。2004年5月22日発行 JMM [Japan Mail Media]
「過去と未来の交わる『現在』」 冷泉彰彦
http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html
「死体を前に笑ってポーズ」という写真まで出る中で、それでも「有罪を認めた個人」を「降格除隊」とか「禁固1年」ということでは、そのイラクの、いや世界に秩序を維持するのは不可能だと思います。
捕虜に対する虐待や、殺人という行為は、ジュネーブ条約(戦時国際法)違反です。
これは、戦争を通じて発生した国際的な犯罪行為なのですから、当事国の国内法や軍事法廷では裁けない性格のものです。
私は、これは戦争犯罪であり、国連を中心とした国際機関による特別法廷で裁くべき問題だと思うのです。
戦争犯罪と言うと、日本やドイツ、セルビアのように戦勝国が敗戦国を裁くもの、という先入観があります。
ですが、本来はそのように不公平なものであってはならないはずです。
戦闘には勝ったが、占領と秩序形成には失敗してゆく中で起きた今回の戦争犯罪も、国際的な裁きを受けるべきです。
そうすることで、「東京裁判」という「過去」の亡霊も落ち着くように思うのです。
今更戦後体制はひっくり返せないのに「戦犯のプライド」などに固執して対外関係を不安定にする、そんな情念も「戦勝国にも戦争犯罪は適用される」ことになれば、不要な暴走をしなくて済むでしょう。
何よりも、それが国際社会の公正な秩序と言うことになると思います。
>562
あんたも好きだねぇ(笑)
1 戦争犯罪わ、「戦争当事国間」の問題である。
2 国際法が持つ「強制力」について。
この2点で、あんたは何か勘違いしとるんじゃぁないかと(笑)
イラクわ、アメリカの勝利宣言以前に国としての機能が喪失しとるわけで、既に現在では
「戦争」なんてものは起きておらんわけよ。
だから、「戦時なんたら」なんちゅうもんわ成り立たないんじゃないかえ?
あと、国際法ちうのわ、あくまでも「誰かを非難するためのネタ」にしか過ぎないんだよね。
今まで誰が「国際法違反」で刑務所入ったんだ?
<てか国際法廷ちうのわあるが、1審制だしねぇ。
その前に、「国際検察庁」と「国際刑務所」と「国際警察」がどこにあるのかえ?
せめて、3審制の裁判制度と、それらの組織がないとねぇ(笑)
てか、強制力もないんだよね。
<国際法
562のような御仁の主張を具現化するためには
1 全世界共通の法律
2 上記法律を強制する機関
がないとならんわけで、つまりは現在アメリカがやっておることを正当化するに
過ぎないんだよねぇ(笑)
「世界征服」を、アメリカがやるのが気に入らない、ちうなら話は別だが。
「世界征服わけしからん」ちうらな、筋が通らんわな。
>「世界征服」を、アメリカがやるのが気に入らない、ちうなら話は別だが。
日本人なら当然でしょ。先週の金曜日、遊就館へ行って、見て、考えてきたよ。
http://homepage3.nifty.com/tompei/Yuusyuukan.htm
JMMを見るのも、たまには面白い。
「アメリカ神話の崩壊」http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html
>565
なるほどね。
それわそれで筋が通ってるからええよ。
俺は、別にアメリカが世界征服してもええと思っておるからね。
なんたって、すでにアメリカに征服されちゃってるんだもん(笑)
<日本
んで、別に征服されても不都合感じないから、別にかまわんと、ね。
<俺の意見としては
>>567
世界征服というのは、同一もしくは緩やかな共通の価値観が世界で通用する状態ということでもありますよね。
問題は、
・誰が征服するか
・征服者から受ける制限/束縛はどの程度か
・征服されることによって得られるメリットとデメリットはどちらが大きいか
個性や伝統が完全に消し去られるような、「価値観の交換(旧価値観の廃棄の強制)」というのは受け入れにくいでしょう。
ただ、ある程度の個性や伝統の存在/継続が許され、その上で緩やかな共通項を持つことを求められる、という程度であれば、(人によってどこまでが緩やかな共通項かは違うかもしれませんが)受け入れも可能なのでは?
例えば日本だったら「第一外国語は英語」であったりとか「日常生活に英語/外来語が溢れている」だとか「アメリカ由来の文化が流入定着している」とかという状態が「緩やかな共通項」で、「神社で神輿」「お正月に初詣」「飯は茶碗と箸で食う」なんていうのが「個性と伝統が残っている状態」かな、と。
征服者が「神社に行くな、フォーク以外不可、日曜はミサに行け」という方向の強制をしてくるとまた違ってくるかもしれませんが。
日本は>567 緑装薬4さんの言うように、1945年以降文化的及び政治的にもアメリカに支配されているという点に、実はあまり異論はないんですが、アメリカ支配によって得られたメリットとデメリットを比べると、現時点までのところではメリットの方が優っているのでは? という気もしますね。
戦前に比べれば多くの日本人は平均的に裕福になっていますし。
で、アメリカ神話の崩壊ですが、まあそういう見方もあるんだろうな、というところでしょうか。
自立した日本を目指すなら、在日米軍と同じだけの「実力」を自国の意志だけで動かせるようにならないと無理でしょうし。
それをしないなら在日米軍は否定のしようがないですし。
とりあえず。
・アメリカの世界征服(グローバルスタンダード)に乗っかって利益を得る
・アメリカ以外の世界征服に乗っかって利益を得る
・日本自身が世界征服(八紘一宇)をすることで利益を得る
・誰も世界征服(世界基準や共存のための共通項)をせず、対話のための標準を持たずに実力でつぶし合い
の4つの選択肢が考えられます。
現状で世界征服に近いのはやはりアメリカなのかなとも思いますが、(国連のオーナーですしね)アメリカによる標準化=世界征服を否定する場合、
「代替標準を求める」か
「自分が標準になる」か
「標準化を拒否する」か
しか選択肢はないと思うんですが、中葉さんはどうお考えでしょう?
現状で悲観的であることについては同意します。
>596
なんかようわからんが・・・
アメリカの神話が崩壊するこたぁないよ。
なんたって「自分の家の庭は、常に安全できれいにしておく」ちうことで国民が
一致団結しとるからのぉ(笑)
アメリカわ、ベトナムで負けてからちと迷いが生じておったが、結局今でも世界の大部分を
征服しとるだろ。
失敗から自ら学ぶことが出来る、ちう非常に強い国なんだよね。
一度負けて、同じ基本方針で成功した国、ほかにどこがあるかね?(笑)
私は常に可能性に賭けています。
>>569 ,571
よくわかりませんが(^^;)
目的語のない文章は沈黙と同じですよ?
×私は常に可能性に賭けています
○私は常に( が)( する)可能性に賭けています
何がどうなる可能性に賭けているのでしょう?
可能性に期待をするのは誰もがすることですからかまいませんが、その回答だけでは>>568 の問いの答えにはなりません。
選択肢は以下。
1「アメリカ標準に沿う」
2「代替標準を求める」
3「自分が標準になる」
4「標準化を拒否する」
1)は構築が広範囲に及んでいるアメリカ標準(グローバルスタンダード)を、これまで通り受け入れるということですよね。ほころびはあるでしょうけれども、同一の価値基準を持つことのメリットと比べてどちらが大きいか、ですね。
2)は、一昔前ならソ連(共産圏東側諸国)だったのでしょうけれども、ソ連が崩壊した今となったらそれに次ぐ、対峙する「標準」はどこでしょう。人口ならインド? 新興勢力なら中国? それとも新しいプロトコルを生み出しつつある中東のテロリスト群でしょうか?
別の大国ならまだしも、テロリスト群を代替標準にすると、世界が北斗の拳/蒼天の拳の世界になりそうですが(^^;)
3)は日本が、という意味で言うならまさに「八紘一宇」でしょうね。日本式を世界の標準に広めるということが可能か不可能か、リスクとメリット、デメリットとメリットの差はどうか。
4)は、「あらゆる世界征服を受け入れないのと同時に、あらゆる協調を拒否し、独自の世界観に対して一切の干渉をさせない」といったところでしょうか。
現実には不可能だと思いますが、これも突き詰めると「テロリスト群の標準」への順化か、「北斗の拳的世界の受け入れ」になりますね。
さて、中葉さんはどれ?
勝手な問題を出して一方的に答を要求するあなたって??
滅多に会わない人ですね。
>574
なるほろ。
じゃ、ヤスツさんの上げた区分以外のどれかがあんたの主張だとすれば、それ上げて
みたら?
ヤスツさんわ、あんたの主張がようわからんから、「こんなもんかな?」ちうことで
上げたんだよ。
<俺もようわからんし(笑)
で、あんたわ上記4つの方向性以外の何があるのかな?
よくわからなかったみたいですね。
つまり、中葉さんが希求するところの公平な云々を成立させるためには、現状の国家群が「同一の基準」に準じる必要があるわけです。
日本国内で、日本人(及び日本に暮らしている外交官以外の外国人)が、日本の法律の束縛を受けるのは、日本の法律という同一の基準の下にあるからですよね。
でも、これが個人同士ではなく国家同士ということになると、それぞれのすべての国家が束縛を受ける、同一の価値基準としての国際法(罰則と強制力を持った法律)というのは今のところないわけです。
これは、「世界各国が同一の基準に倣う」ということですが、これは「誰が提示した基準に従うか?」という問題を常に孕んでいます。
アメリカであれアレクサンダー大王であれアッチラ・フンであれ、なんでもいいんですが、この場合、基準を提示し、それに従わせる先頭に立つ者=征服者、という概念にならざるを得ません。
現状ではアメリカが提示した基準に従うというのが、現実に採用されているわけですが(金融システムとか、インターネットとか、自動車とか、民主主義とか)、これを、
1)「現状。アメリカの標準に従う」
とした場合に、それ以外の選択肢としては、
2)「アメリカ以外が示した基準に従う」
3)「自国(日本)が基準を示しそれにその他の国を従わせる」
4)「誰の基準にも相互に従わない(標準を放棄し、混沌を支持する)」
が考えられます。
もちろん、第5の選択肢もあるでしょうけれども、ここではすぐに思いついたものだけを挙げました。
中葉さんが「アメリカに世界征服をされたくない」のはわかりますが、それでは「誰にされたいか?」「自分がしたいか?」「誰もが支配されないのがいいのか?」について答える必要があるかと思います。
答えなければ、中葉さんは単に「アメリカを批判しただけで、代案を提示していない」ことになるためです。
それではただの野次に過ぎず、議論の態度としてはあまり建設的とは言えませんし、独り言以上の価値は得られないと思いますが、いかがでしょうか。
>>574
> 滅多に会わない人ですね。
確かに、滅多に書き込みするヒマがないもんで、やや遠ざかっていましたが(^^;)
ネットの掲示板というものは、よほどの例外がない限りは「公開されているものに発言をする権利は誰にでもある」わけですし、同時に「質問と回答に時間差があっても許される」し、また「発言者が自分の身分を公にする必要はない」ものでもあります。
誰が言ったかではなく、なんと言っているか。
我々の間にあるのは、それだけのことです。
中葉さんというどこかの誰かが述べた「意見」について、ヤスツというどこかの馬の骨が別の視点からの意見と、中葉さんの意見の真意を質すための質問を述べた、と。
まあ、それだけのことです。
>>568 世界征服というのは、同一もしくは緩やかな共通の価値観が世界で通用する状態ということでもありますよね。
私はこれからの世界は、ジェッシカ・マシューズが
http://www.foreignaffairsj.co.jp/yoshi/9703.html #power
において描いている下のような状態を想定しています。そして、このような
世界において通用する価値観の醸成において、多少のリーダーシップを発揮
することを日本のこれからの使命と考えております。
長く複雑な議論になりますが、多少のことはすでに
ウェストファリア体制の次にくるもの
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=2500&KEY=1046014709&LAST=100
カール・マンハイムについて http://www.geocities.jp/gechi_getuo/k.m.htm
資本主義の精神 http://www.geocities.jp/gechi_getuo/cap.htm
などに記録がありますので、参照いただければ幸いです。
==============引用開始================
もはや「ウェストファリア・システム」の絶対性はすべて解体しつつある。
インターネットに象徴される高度情報化時代にある現在、おカネ、情報、
汚染、大衆文化といった資源や脅威が重要性をましながら拡散し、
「政治的な境界線には殆ど関係のない形」で人々の生活や経済を規定して
いるからだ。新たな問題の多くがトランスナショナルな性格となり、
国際コミュニティが何に対して関与するべきかという概念も広がりを見せて
いるため、国家がもつ力では十分な対応がとれない状態にあり、これを
補完するかのようにNGOや市民団体が台頭し、多国間機構への関心も
高まっている。こうした中で、国民国家がそれ以外を支配するという体制は
弱まり、NGOに一方的にバランスが偏った「パワー・シフト」が起きている。
多元化は市民社会の実現という意味で好ましい面もあるが、その逆に、
民主的な統治を混乱や膠着に陥れる危険も秘めている。しかし、中世に
おける皇帝、王、君主、騎士、法王、大司教、ギルド、町は、帝国を包み
込む世俗的な力をもとに生活していたわけで、このシステムは、帝国崩壊後
の階層的で厳格な国民国家秩序よりも、むしろ、市民団体、国際機構、
国民国家という三次元のネットワークからなる現代により似通っていた。
しかし、この結果が吉と出るか凶と出るかは、これからの舵取りにかかって
いる。ビジネス部門がより広範な政策上の役割を担いうるようになること、
NGOがより視野を広くし、さらに大規模な活動を行えるような存在に変貌する
こと、国際機構が、国家にも市民にも効率的な社会サービスを提供する二重
の舵取り役を担えるようになること、とりわけ、今日におけるトランスナ
ショナルな課題に対応でき、透明度の高い民主的な統治を求める市民の願い
をともに満たすような新たな機構と政治単位が登場することが含まれよう。
==============引用終了================
>578
つまり、「戦国時代になるから、言ったもんやったもんが天下取れる」
ちうことかえ?
なるほど、それは一理あるね。
ただ、最終的には「強制力」を持たないとならないことは、理解できると思うんだよね。
なんか頭が痛くなるよーな論文だったが(笑)
インターネットの基本的な標準(プロトコルやドメインの割り振りなんかね)わ、すでに
アメリカが独占支配しとるよなぁ。
<てか、そもそもアメリカが作り上げたインフラを使わせてもらってるだけだし。
NGOや市民運動も、既存の枠から出た時点で、「単なる反政府ゲリラ」にしかならんわけで。
つまり、ようある「革命熱」みたいなもんに踊らされておるだけじゃぁないかと(笑)
>>578
えーと、「世界」が、これまでの「国民と政府」というだけでなく、「NGO(非政府組織、またはニュアンス上は特定の組織に属さない多国籍組織)」をくわえたトリロジーで構成されていくだろうし、そうなりつつある、というのは理解できます。
つまり、一言で言うと「これからはNGOが力を持ってくるから、そこを重視してNGOに世界共通の価値基準を求めるべきだ」と言いたいわけですよね?
これについては、今のところ「NGOの効用」が少なからず「余剰がある国の国民にとっての、発散したい善意の受け皿」になり、または「国がやるには手続きが多くなりすぎてできない事柄を引き受ける」というメリットがあることから、国民、国の双方からその存在が許容されています。
しかし、ここからが問題です。
NGOは果たして「強制力を伴った権力団体」として許容されるでしょうか?
現状でのNGOは特定ジャンルに活動を限定している、としながらも、その特定ジャンルでは「一部の国民(個人)の善意」と「国の補助」を経済基盤として、出資者には見返りが少ない活動をしている、というものですよね。
NGOと言ってもいろいろありますが(都市再生とか老人介護とか)この場合のNGOは、国際間での支援活動その他をする集団を念頭に置いていると思いますので、以下その路線で述べます。
国際間でのNGOの活動は、今の時点では「強制を伴わない」ものに留まっています。
強制の必要があるようなものについては、NGOは手を出していません。せいぜいがNGOならできるのに、と政府の尻を叩くぐらいでしょうか。
ただ、NGOの存在というのを過剰に評価し、権限拡大を進めることには、私はあまり感心しません。
特定NGOが定めた価値観が、なぜ普及され支持されなければならないのか、に関する根拠が曖昧である、という点がその大きな理由です。
選出方法がいろいろあるとはいえ、政府というのは国民の何らかの支持によってその「強制力」という権力を維持しているわけですが、NGOは「一部有志」であって広範な支持に基づいて設置されたものではありません。
そうした支持がない団体の整備した基準を標準とすることの正当性はどのようにすれば?
また、定められた標準には、それに属する多くの人、国が緩やかにであれ「沿って」いかなければ標準とは言えないわけですが、それを促す、強制するには、やはりなんらかの「相手の妥協や翻意を引き出す手段」が必要になるのでは?
何かと引き替えに(例えば食料支援と引き替えに北朝鮮が拉致家族を帰してきたように、または経済支援と引き替えに平壌宣言に同意したように)とするなら、日本がリーダーシップを発揮するというのは具体的には「札びらで顔を叩いて言うことを聞かせる」という手法でしょうか?
アメリカの場合は「ガタガタ抜かすと空爆するぞ」という前例を示して相手の妥協を引き出していますが、そのような方法でしょうか?
それ以外の方法で、権力基盤(強制力)を持たないNGOが、「標準化」を推し進めるための「原動力」になるようなものを持てるという前提が不確かではないかと思いますが、いかがでしょうか。
PS.文献の例示ありがとうございました。
ただ、文献を例示頂くということは、後はその文献を追っていけば済むことであって、中葉さんご自身は議論に不要ということになってしまいかねません。
ご自身の説の補強に文献を提示したい気持ちはわかりますが、できれば中葉さんご自身の言葉で述べて頂ければと思います。
それがないなら、後は文献を見た上での感想を述べるに留めさせて頂きます。文献の作成者本人がここにいない以上、文献の内容については「感想を述べる」こと以上のことはできませんし、文献を引用した方が自分の言葉で意見を述べているのでないならば、その方に反論しても無意味ですので。
>580
「特定の人間に支持され運営され、その理念を貫く武装NGO」と
「特定の人間に支持され運営され、その理念を貫く日本赤軍」との
違いがようわからんな(笑)
どっちも、同じじゃぁないのかえ?
>>581
同じです(笑)
故に、日本赤軍は武装NGO認定。
NGOの権限や価値を拡大していくと、そういう矛盾が起きてくるわけなんですが、現状追認で「今後はNGOが大きな力を持って」という人ほど、こうした矛盾を解きほぐす示唆を与えてくれないのです。
>>ヤスツ氏
うーん、中葉氏が主張している事ってのは国際政治学では良く言われていることを
少なからず含んでいるんですよね。
ヤスツ氏も理解されているように、
>「世界」が、これまでの「国民と政府」というだけでなく、
>「NGO(非政府組織、またはニュアンス上は特定の組織に属さない多国籍組織)」を
>くわえたトリロジーで構成されていくだろうし、そうなりつつある
っていう部分については。
また、国際政治学においては、権力主体がなくともある種の法・秩序構造が自生的に
創造されることもよく論じられます(例:ゲーム理論のナッシュ均衡解、英国学派、グローバル・ガバナンス論、など)
それらを踏まえると、中葉氏の主張とは
「これまでの『国家主導』の国際秩序ではなく、『多様な主体が参加する』国際秩序がこれから産まれるだろうしそうあるべきでもある」
というものじゃないでしょうか?
そういう理解をした上で、中葉氏の主張の問題点を僕が挙げるとすれば、
まず第一に、
「そういう自生的秩序が創出されるまでには、無数の紛争を経なければならない」ということ。
こういう自生的秩序の例としては、「ネット上のマナー」などが分かり易いですが、
ネット上のマナーも、現行上のものになるまでには無数のぶつかり合いがなければならなかったですし、
またそういうマナーがこれから変化する可能性もない訳ではないですよね?
そうであれば、その様な自生的な秩序が創出されるとしても、それが現行の秩序に対して「紛争を起こす可能性が低い」
とも言えないし、また「現行秩序に対して安定している」とも言えない訳です。
特に「ある秩序」から「別の秩序」への移行を予想しているような場合においては。
よって未来に希望を持つことは大切ですし、その様な理想に向かい現在を変革しようとする努力も大切ですが、
「未来は現在よりも優れている(平和的である)」とは誰に断言できない訳です。
次に第二に
「そもそもの問題提起である>>562 のような「裁判形式」での法執行については、「権力機関」の存在は不可欠」
であることを中葉氏はすっかり忘れている、という事です。
これも上での「ネット上のマナー」に対比しますと良く判りますよね。
ネット上のマナーを強制あるいは担保しようとすれば、それは二通りの手段しかない訳です。
一つは「自己執行」、例えば掲示板上での説得・アクセス制限などの手段がありますよね。
このような手段のみに依存するとすれば、「ネット上のマナー」はその実効性においては
いわゆる「法律」よりも、甚だ欠けるものにしかならないことは明らかです。
そしてもう一つの手段としては「外部機関による強制」、つまりはネット世界外の存在である
現実の裁判所に訴えることです。
この場合、確かに実効性は上がるでしょうが、結局の所それは外部世界を関与させているのであり、
「一つの閉鎖世界における自生的秩序」という観点からは破綻していると言えるでしょう。
これをそもそもの問題提起である「戦勝国に対する戦時国際法の適用」という観点から評価しますと、
「戦勝国に対して国際法を「自己執行」できる敗戦国って存在するの?」
「世界最強国に対して国際法を強制できるものって存在するの?
よしんば存在するとして、そういう無理矢理な強制って新たな戦争原因になるんじゃない?」
っていう批判は免れないでしょうね。
>538
ちまり、窓口が増える、ちうことでええのかな?
何か問題が起きたら、「国家」ちう窓口一本でお互いに話し合うなり殺しあうなり
しましょうよ、ちうのが今の国際社会の秩序だわなぁ。
窓口が増えりゃ、混乱しかないと思うんだが・・・
「非公式なチャンネル」ちう意味で、窓口が増えれば、そら話し合いのチャンスわ
増えてええかもせんが、最終決定する窓口が増えるとなると、そらあほだわなぁ。
このての「新秩序」を賞賛する人って、要するに「既存の枠だと自分でわ絶対に仕切れないから
別の切り口作ってボスになりたり」だけじゃぁないかと。
がんばって総理大臣にでもなりゃ、日本ちう国の代表者になれるのにね(笑)
その努力もせんと、日本の王になりたいたぁ、一度病院行ったらどうかえ?
>>583 中葉氏が主張している事ってのは国際政治学では良く言われていることを少なからず含んでいるんですよね。
おっしゃる通りです。
というよりも、私はまだ主張を始めていません。
主張の前段階の確認を始めたばかりです。
例えば、>>578 は、内容のすべてがジェッシカ・マシューズの1997年3月発表論文の引用でした。
従って、
>>583 中葉氏の主張とは
> 「これまでの『国家主導』の国際秩序ではなく、『多様な主体が参加する』国際秩序がこれから産まれるだろうしそうあるべきでもある」
> というものじゃないでしょうか?
は誤読で、正しくは、
> ジェッシカ・マシューズ氏の主張とは
> 「これまでの『国家主導』の国際秩序ではなく、『多様な主体が参加する』国際秩序がこれから産まれるだろうしそうあるべきでもある」
> というものじゃないでしょうか?
と書かれるべきです。
そして、もしも反論があるとすれば、巧妙なマシューズ女史
http://www.ceip.org/files/about/Staff.asp?r=18
に対してなされるべきです。もしもそうであれば、私は反論者を尊敬します。
ミスを訂正しておきます。
巧妙なマシューズ女史⇒高名なマシューズ女史
>>584 そういう理解をした上で、中葉氏の主張の問題点を僕が挙げるとすれば、
ここは>>587 で修正提案したように、
そういう理解をした上で、マシューズ女史の主張の問題点を僕が挙げるとすれば、
と読み直すことになります。
そして、587で申し上げたように、「高名なマシューズ女史の主張の問題点を挙げられた」とすれば壱学生さんを尊敬します。
そして、恥ずかしながら、マシューズ女史に替わって回答申し上げることとします。
最近ジェッシカ・マシューズ氏と同じような主張をするフランス人で
アラン・ジョックス氏というのがフランスに現われ、
5月30日付け朝日でインタビュー記事になっている。
簡単には
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=2500&KEY=1046014709&START=26
に紹介しておいたので、見ておいてください。
)壱学生氏
確かに、未来が現在よりも優れていると断言は出来
ませんが、それを理由に脱構築を拒めば、正当性は
確保できたとしても、正統性が確保できない為に、
社会にエントロピーが増大して、結果社会秩序は崩
壊します。
壱学生氏における人間モデルにおいては、ホッブスの
言う生命を懸けてリヴァイアサンに立ち向かう契約論
的な人間は考慮されていないのでしょうが、権力行使
において重要な事柄は強制もさることながら、自発的
服従をさせる正統性を提供することにあると言えるの
です。
>>583-584
ご無沙汰していますm(__)m
>>583 が中葉さんの主張だとする、として。
そうならば私もやはり>>584 と同じ疑問が出てきます。
>>591
何が言いたいのか分かりません。
>592
つまり・・・
「俺わ加護ちゃんが肉まんを好きなことを理解している。俺の肉まんについての意見は
加護ちゃんと同じ意見である。だがそれは俺の意見でわない。しかし、肉まんが好きな
ことに対する意見については俺が聞いて答えよう。」
ちうことじゃぁないかと。
ようわからんが。
しかし、初めてのケースでつねぇ。
「これは自分の意見じゃないけど、俺が代わって答える」
ちうのわね(笑)
あ・・・「なんたら教の信者」もそうかぁ・・・
>中葉氏
えーと、じゃあ仮に>>562 が中葉氏の意見じゃないとして、それでは中葉氏が何のために
このスレで発言をしているのか、僕には全く理解できませんが?
僕が昔読んだ「大学入試小論文の書き方」って本には、「引用だけで自分の意見を述べていない論文は不合格」って書いてあったけどなー。
いくら引用内容が高度でも、自分の意見を述べないようでは(あるいは伝わらないようでは)
修士論文どころか大学入試の小論文テストにすら通らないでしょうね。
後もう一つ、>>587 のような
「偉い人の言うことには反論できないだろ!」的な回答の仕方は、かなり態度が悪いですよ。
と言うか、「お前はその人の言ってることを理解できてないだろ!」だとか「権威主義者だね」だとか
「偉い人だろうが何だろうがそこに批判的検討を加えるのが『学問的態度』ですが、それが何か?」とかのツッコミを入れられますよ。
もっと端的に言えば、「お前頭悪いだろ?」って思われかねませんよ?いくら引用が高度な内容を含んでいても。
このスレは書評スレじゃないですし(書評にしたってそこには「評者の見解」が含まれるものですが)、
「自分の意見」があるならそれを判り易く書くことは必要不可欠な行為ですが。
>>562 が中葉氏自身の意見じゃないとするならば、僕もヤスツ氏も緑装薬4氏も中葉氏の意見を理解できていません。
もう少し他人の目を意識してレスをしてはいかがでしょうか?
>>591
前段については、
「そうなるだろう」と「そうなるべきだ」との違いを理解できていないようですね。
僕はそれを区別して「『そうなるだろう』、だけどそれが『そうあるべき』かについては楽観すべきではない」と述べたのですがね?
ナンでもカンでも「脱構築」すれば良いってモンじゃないでしょ?
それに「脱構築」自体を否定してる訳じゃないんだしさ。
後段についても、
「国際社会と人間社会を単純な比喩関係で比較する」というミスを犯していますし。
「個々人の力」にそれほど大きな差がない人間社会と
「国家間の間に致命的に大きな差がある」国際社会とを比較すれば、
単純にホッブズ・モデルを国際社会に適用するわけにはいかないのは明らかでしょう。
このような国際社会においては、「力のある覇権国」のルールがそのまま「国際社会のルール」になりやすい構造があります。
このような国際社会の構造が「覇権国のルール」を否定する方向に移行するとすれば、
「全ての国家が大量破壊兵器を保有して国力の差が関係なくなる」ような「単位拒否システム」とか、
「非国家アクターが大量破壊兵器を保有して主権国家システムそのものが崩壊する」ような「暗黒的世界無秩序(僕が命名(w)」
などが(力との関係においては)考えられますが、あまり理想的な未来ではないようですね(w
結局の所、「覇権国を束縛するシステム」ってのは「システムそのものからのしっぺ返し」か「システム外の要素(宇宙人とか)」
しか考えにくいのが現状ではないでしょうか。
「国際社会」というシステムは「外部社会」を持たない閉鎖的なシステムですから。
あぁ、もちろん「単位拒否システム」において「国際社会のリヴァイアサン」、つまりは超国家が成立する可能性も否定できませんが、
それが成立するまでにはおそらく何回かの核戦争を経なければならないでしょうね。
>595・596
添削乙でつ。
昔、小松左京(だったかな?)のSFで、ゴエモンちう妙な日本びいきな宇宙人がやってくる
小説がありまして、同じよーな話をしとった記憶が・・・(笑)
「超大国が核ミサイル持ってるから問題なんだ。各家庭が核ミサイル持てばええ」
みたいな問答が・・・
もう2・30年前に、すでに結論が出てるなぁ・・・なんて思ったりして(笑)
)壱学生氏
なんでもかんでも脱構築しなさいと言っているので
はなく理念においては脱構築、現実においては実践
主義、この両方を同時進行で行うべきだと言ってい
るのです。
国際政治においては、政治の分野においてはホッブス
モデルは絵空事と笑われますが、国際秩序を語る上で
死を恐れず権力に抵抗する独立人が、どれほど影響を
及ぼすかは9.11以降の世界情勢で実証されています。
国家間の関係のみにおいて国際秩序が構築されていた
時代は過去のものになりつつあるのです。
この様な事実から見れば、壱学生氏の言われるリアリズ
ムこそ、実は架空の理論であり、カーの指摘するユート
ピアンそのものではありませんか?
あと、壱学生氏はあまりにも政治学がとる前提根拠を過信
しすぎだと思われます。あくまで理論はモデルに過ぎない
事を忘れてはなりません。
自己決定の話でも同様でしたが、自己が個人の内部にある
と『決めつけて』論理を構築されていましたが、自己は社
会的な関係性により決められるものですから、自己決定論
は、社会的に自己を構築することを認められる背景がない
と成立しない論理なのです。
>598
>死を恐れず権力に抵抗する独立人
ビンらディンひとりで、アメリカの市民殺したとでも?
「話し合いという解決手段をとらないで、金に物言わせて自己主張する」
ことが、そんなにええことなのかのぉ。
いあ、大した平和主義さんだね(笑)
「殺し合いに至る以前に、さまざまなチャンネル通して話し合いで解決」する
ための枠組みなんだよねぇ。
<国家って
「国家」がすべてをコントロールするから、話し合いしとるときに勝手に戦争
始めないんじゃぁないのかえ?(笑)
つまり、そーいった秩序を破壊するから、テロやらその他どんな美名のもとにおいても
そーいったこたぁ許さない、ちうわけでねぇ。
>>598
またちゃんと読まないでレスをしてるね。
貴方の問題提起は既に>>596 において僕が触れていますよ。そしてその問題点についても。
それに貴方の言いようだと、「テロリストも秩序構築が出来る」と言っているかのようですが?
僕は「テロリストは既存の秩序の破壊はできても、新たな秩序を意図的に構築するのは不可能」だと考えているのですが。
総じて貴方に言える事は
「ちゃんと相手の発言を読む!
自分が分からない事は相手に聞くか口を挟まない!
何でもカンでも自分の狭い論理に引きつけて全てを説明しようとしない!」
とかの、「人とコミュニケーションをする上で当たり前の事」に欠けている、ということでしょう。
レスするならちゃんと>>596 の発言を読んだ上でして欲しいものですね。
>>640 大神さん
> わざわざ関与について調べる必要はないのでは?
>>597
> 日本軍の関与を問題にしているのではなくて、日本軍が主導して
> 慰安所設置を行ない、慰安婦派遣に於いても主体であり、業者は
> あくまでも従でしかない事を確認しておきたいのです。
慰安所を設営したのは、日本軍である証拠を提示してきました。
何故ならば、この問題は日本軍・政府の責任が問われているか
らです。
>>641
> 先ず、中田さんは日本の遊郭の公娼制度の枠組から外れる=だから違法
>
> と思っているのでしょうか?そしてそれは
>
> 中田さんが独自に考えられた事でしょうか?
>
> 先ずはそれをお聞きしたいのですが。
公娼制度と私娼問題を詳しく考察していく過程で従軍慰安婦制度
そのものが公娼制度の形式から逸脱したもので違法行為だと分か
ってきました。
> それと食堂を戦地で開くに際して、保健所のように日本内地から営業の
> 許可をする役人が来てからでないといけませんね。中田さんの言っている
> ことだと
>
> と言った事に対して反論がないのは何故でしょうか?
戦地だけでなく当時の国内で食堂をオープンする場合、どのような手続き
をしなければならないのか知りませんので即答できないです。
> >食堂と慰安所を同列に扱うのは、単なるはぐらかしでしかありません。
>
> 反論できないからといって「はぐらかし」といっても仕方ないですよ。
> 同じサービス業なのですから
>
> そ れ と も
>
> 中 田 さ ん は
>
> 職 業 差 別 す る ん で す か ?
職業差別はしていません。同列に扱えないと言っているのです。
当時、廃娼運動が行われていて、それなりの成果を上げていた事はご存じ
ですか。
中公新書版の竹村民郎『廃娼運動』から引用します。
----------------------------------------------------------------
一九二八(昭和三)年埼玉県議会が廃娼決議を可決した。一九三○(昭
和五)年十二月二七日、埼玉県知事丹羽七郎は県会の廃娼決議どおり、
ついに公娼制度廃止を指令した。
この結果、廃娼実行県は群馬、埼玉の二県となった。北海道および三
府四十三県中すでに廃娼決議を宣言した県は、秋田、福島、福井、新潟、
長野、神奈川、沖縄の七県に達した。一九三一(昭和六)年現在で、全
国の約五分の一の県が廃娼実行県または廃娼決議県となったのである。
この他、一九三○年末の各地県会においては否決になったが、廃娼意
見書の提出されたもの、または廃娼質問が提出されたものは六、七県に
もおよんだ。
----------------------------------------------------------------
食堂の女子従業員を廃止せよという運動は、寡聞にして私は聞いたこと
がありません。当時の社会状況を踏まえて考察しなくてはなりません。
同じサービス業だからという大神さんの見解は今の時代から過去を裁断
しているのではありませんか。
> それと水交社って何か分かっています?もちろん戦後の水交社ではないですよ。
海軍の親睦団体です。
>>602
間違って投稿してしまいました。どうもすいませんでした。
管理人の方で削除出来るのでしたら、お願いします。
>>601
私は、壱学生氏が政治学の理論で物事を語られている
事は理解していますし、貴方が問題提起をされている
ことも承知しています。
それを踏まえた上で私が申し上げているのは、政治学
モデルで説明できない事例に対して、どの様に対応し
社会秩序を成すのかを尋ねているのです。
それに対しての回答がいつも頂けないから対話の流れが
淀むのではありませんか?
自己決定の対話にしても、自己なんて社会的に所与された
ものに過ぎない事実性を無視して自己が自明にある事を前提
にして論理を構築して一方的に話を進めるから、対話が淀ん
だでしょう?
社会科学の理論はあくまでモデルです。例えばビルを建てる
際に模型や図面を造るのと同じで、模型は模型であり実物で
はないのです。
>>604
でも、社会学はできあがったビルを外から写生してるだけでしょ?
>>604
えーと、いつも「対話の流れが淀む」のは、適切な読解と返答ができていない
貴方のせいだと僕は思うんですが?
例えば今回にしても「モデルの抽象性」だけを理由にしてモデル批判するなんて僕には理解できないんですが?
そんなことこちとら百も承知なんですが。貴方、ちゃんとゼミとかで討論したことはありますか?
「事象Aについてモデルαで説明します」と言っているのに
「でもモデルαは現実ではないですよね?」っていう批判をされたところで、
「そうですがそれが何か?」としか返すことができないんですが。
この場合なら「でもその分析では事象Aの中の小事象bについては説明できないんですが?」とか
「モデルαは理由βによりモデルとして使用するのは不適切」だとかいう
「 適 切 な 論 理 に よ る 批 判 」なしにはモデルのモデル性だけを理由に批判してもしょうがないでしょ?
その程度のことすら理解できてないから「対話の流れが淀む」のです。
もう少し判り易く言えば、
>社会科学の理論はあくまでモデルです。例えばビルを建てる
>際に模型や図面を造るのと同じ
という例えに則れば、貴方は
「でもそれは設計図でしか過ぎませんよね?」と言っているに過ぎないんですが。
だから何?
>>606
私は、理論を用いることに対して批判をしているわけ
ではありません。理論を用いる点では私も同様なので
す。
私が批判しているは『壱学生氏の理論では説明しきれ
ない事柄がありますよね?』(例えば>>598 のホッブス
問題)とする私の問いかけに対して、壱学生氏の回答が
旧来の政治学理論を前提にしてしか回答しない、つまり
『そんなことは、ありえない』と事実を否定している点
についてなのです。
現に生命を捨ててまでリヴァイアサンに立ち向かう契約
論の中の人間、今までは非現実的とされてきた人間が、
現前しているではありませんか?
壱学生氏は何か思い違いをしておられる様ですが、私が
貴方の理論の前提に同意をするとは限りませんし、仮に
対話の末に合意しても、それをどうやって現実社会に持
ち帰り合意形成を行うのか?複雑なシステムを様する社会
では、その様な事はほぼ不可能ですし、そもそも合意形成
を行う為の討議の前提すら討議なしでは合意できないでは
ありませんか?
つまり、政治学理論を社会が受け入れるか否かは正統性な
しでは不可能なのです。政治は下位システムの一つにしか
過ぎず、他の下位システムが政治学理論を前提にするとは
限らないのです。
まして、事実を無視した空論を振り回しても、仮に正当性
は得られたとしても、正統性が得られませんから、エント
ロピーが増大し社会システムにとってははなはだ面白くな
い事態になるのです。
で、何を言いたいのでしょうか?
ザッとの理解で言うと。
(そして、猫氏には「ザッと説明し、概要をわからせる説明」は100%絶対にできないのですが(笑))
政治学>「これからどうするかについて、過去のノウハウを鑑みて理論、計画を立てる。実用性が高くて現実的。社会にコミットするための方法論を考える」
社会学>「すでに起きていることに意味づけをする。自説の説明に都合のよい事柄を過去の類例から探し出して当てはめる。未来については考えない(観察対象である社会にコミットしない)」
まあ、猫氏はどう言ったところで自分と同じ言葉を同じように使わない限り「そうではありません」「全然分かってない」と、歴代民主党代表のように答えると思いますが(笑) 過去の経験から推測すると。
社会学の定義を私も紹介しよう。
(こんなことで自己主張する気はないから、例によって引用だが、結構役に立っている。)
別冊宝島176「社会学入門」より
大澤真幸:「社会秩序はいかにして可能か」は社会学の基本的な問いである!
橋爪大三郎:(少し定義が多いから羅列する。)
・社会学は人間と人間の「関係」を扱う学問である。(私はこれを組織学と理解している。)
・20世紀の社会学のキーワードは「システム」(私の専門は社会システム論の応用)
・(最後に)社会学は19世紀から20世紀、やがて21世紀になろうとする社会の変化を長い目で見て、その制度が変わりうるための条件を明らかにしていく――社会学はこうしたスタンスで問題を研究していくことだと言えるのではないだろうか。
私が共感しているのは橋爪氏の最後の示唆。(政治学と近いね。)
それをやった学者で私淑しているのは、古くは知識社会学のカール・マンハイム、新しくは「善い社会」などのロバート・ベラー。
社会学については、「これ、という定型はない」とも聞きましたが。
極論すると、社会学者の数だけ「社会学」というものがあり、時代の趨勢やブーム(笑)で「社会学の本流」と言われるものも変わる、と。
猫氏の社会学については、「20年くらい前の流行」ということですが、中葉さんの捉えた社会学というのは、いつ頃の流行のものでしょうか?
>>610 の橋爪大三郎氏の引用の末尾にある( )は、中葉さんの解釈でしょうか?
ちなみに、文物芸術の流行や衰退も社会学の範疇に入るわけですが、それらにしても「社会という対象を観察することで、その法則性を見出そうとする(私が「写生」と言ったのはそのあたりを指してですが)のが社会学」かな、と。
例えば、18世紀の歴史や政治を見て、そこから法則性を導き出すことはできるでしょう。
でも、あくまで「社会の動きから法則性を見出す」のが社会学だとすれば、社会学は「後付けで意味づけ」をする以上のことはできないのでは?
(社会学者自身が観察対象にコミットすることで、観察対象を質的に変えてしまう、というのは、社会学の研究スタイルとしてはOKなんでしょうかね?)
ただ、社会学というのは本当に「いろいろなスタイル」があるらしく、いわば「社会学者です」と言ってしまえば、人文系はなんでもやれそうな感じすらしてしまうのですが(^^;)
猫氏の主張は当人の説諭能力の低さによりなんだかよくわからないので(いつものことですが)置くとして、中葉さんの念頭に置かれている「社会学」は、究極には
「人間の行動は技術・文明上の差異があったとしても、行動の法則性を見つけ出すことによってある程度、歴史の展開を統計的に予測できる。これを踏まえて、今後起こりうるできごとを段階を踏んで予測し、備えることも可能だ」
とする、心理歴史学者ハリ=セルダンの思想と一致するようなものでしょうか?
えーと、トコトン物分かりが悪いようですが、
貴方が>>598 で指摘している(と思い込んでいる)批判は
既に>>596 で僕が述べている中で検討済みなんですけどね。
ちゃんと読まずに批判してたら、そりゃマトモに相手されませんって。
例えるなら
「10階まで書いてある設計図について、図面上で検討する段階」で「その設計図では2階について書いてませんね」という的外れな批判をした挙句、
「ちゃんと設計図を読めよ!」と言われても「それは設計図でしかありませんね」と言っている馬鹿のようにしか僕には思え無いのですが。
もう少しちゃんとした批判、例えば「設計図での強度計算の根拠は?」とかいうような感じの内容なら
こちらとしてもちゃんとした対応を取るのですが、「設計図を正しく読み取れない」者が批判をしたところでチャンチャラ可笑しいのですがね。
>>611 中葉さんの捉えた社会学というのは、いつ頃の流行のものでしょうか?
主観的には21世紀だと思っています。
客観的には:
宝島掲載のものは20世紀のサブカルチャーだと思います。
マンハイムのものは1947年死去時の未完成原稿で、知識社会学創始者の遺言みたいなもので、その後の発展はないようです。
私が知っている唯一の後継者はUCLA名誉教授のJohn Friedmannによる
Retracking AmericaとPlanning in the Public Domain
でやはり少数派、社会学とは言えないでしょう。
ベラーについては、やはり社会学から見れば異端だと思います。内容は預言的です。いわば、社会学一般に対する批判の書。
私に影響を与え、役に立っているだけの意味です。
余談になりますが、同じ「第三の道」に関する本でも、ギデンズのものとマンハイムの「自由・権力・民主的計画」とではずいぶん違います。
上記を書いてアップしてから気になって確かめてみたのですが、私の立場はイカフライ氏の以下に近いようです。
>>2 5・現行の反戦運動に疑問があり、それを解決して欲しい。
見落としたヤスツさんの質問に対する簡単な回答です。
>>611 >>610 の橋爪大三郎氏の引用の末尾にある( )は、中葉さんの解釈でしょうか?
イエス、サーテンリー。
>>614
>>2 の5であれば、おそらくは私も同じかと。
ただ、それに対するアプローチが、おそらく皆さん(私も中葉さんも)異なる、ということではないかと思われます。
談話室での議論に関わって、もう2年目(そろそろ3年目?(^^;))になりますが、ここに至るまでの間に「複数の異なる立場・視点からのアプローチ」が存在するにもかかわらず、「自分のアプローチと異なるものは、すべて排斥する」という態度を採る論者を何人も見てきました。
中には「自分の視点と異なる意見に対しては、理解する努力すらしない」という人もおりました。
これではいかんだろう、と思いました。
また、多くの智慧に長けた方々の意見を拝聴する機会にも恵まれました。
このことは、自分の拙い思考を鍛え育てる上で、ずいぶんと勉強にもなりました。
しかし、当人が持つ知識を、他人に分け与えることが極めて不得意な論者もいる、ということを知りました。
対立する意見、異なる視点を共有できて、相手の視点からものを見ることができるようになってこそ、「相手を理解した」と言えるのでは、と思うようにもなりました。
自分自身の視点を相手に「盗まれないように」と、わざわざ理解されにくいように振る舞う人もたまにいますが、それでは「相互理解」や「異なる視点を共有する」ことからは遠のくばかりだとも思いました。
私としては、「引用と文献の紹介」だけがある方(ほど、そういう「知識の独り占め」的傾向が強かったので)に、少々の警戒がありますが、やはり多くの深い知識と知恵とも学ばせて頂ければと思っています。
中葉さんにおかれましては、「文献名、文献の著者名」「文献の内容の引用」に留まらず、「その文献を引用する意図」や「どのような思想・思考、主張をお持ちであり、その補強のために文献をどのように引用なさっているのか」までをご教示いただければと思います。
くれぐれも、過去に(そして実は今も)いたような、「文献を羅列して、自身の文献に関する知識をひけらかすことで満足してしまう」ようなことがない方であることを期待しております。
別のスレですが、
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2500/1062679957/766-767
にあるように、私の趣味のひとつに「パズル」があります。
自分及び自分以外の人の思考を読み解く経緯はパズルの解法を探すのにも似ています。
が、議論そのものは「パズルを解くこと」が主眼にあるわけではなく、「パズルを解くのと似た概念や技術を要求されるが、目的は相互理解(少なくとも相手の理解)にある」と考えています。
相手の立脚点、相手が根拠とする文献、思想、相手の思考、そうしたものを理解することによって、相手が「次にどのような主張を持つか」を知りたい、と考えています。
相手を理解することで、自分と共有できる点があるか、ない場合でも共存できるかどうか、そうしたものを見つけることができれば、世の不理解はひとつずつでも解決していけるのではないかと、切に願っております。
>>616 >>614 >>2 の5であれば、おそらくは私も同じかと。ただ、それに対するアプローチが、おそらく皆さん(私も中葉さんも)異なる、ということではないかと思われます。
なるほど、おっしゃることは大体分かります。
そこで、私の違いを明確にすることができそうです。私の主張ではなく実践指針は以下のような感じです。
6.現行の反戦運動に疑問があり、私は疑問のない反戦運動を実践しています。
逆に言えば、理論闘争には、実践に関係ない限り、興味を持つゆとりはありません。
>>618
>現行の反戦運動に疑問があり、私は疑問のない反戦運動を実践しています。
疑問のない反戦運動、これは具体的にはどんな運動でしょうか?
>>618
疑問のない反戦運動、それには大変興味があります。
自分の選んだ行為に対してまったく疑問を差し挟むことなく没入できる反戦運動というのは逆に危険ではないですか?
>>620
>自分の選んだ行為に対してまったく疑問を差し挟むことなく没入できる反戦運動というのは逆に危険ではないですか?
危険、ということに関して思うことですが。
ヤスツさんの言われることは解るつもりですし、また、懐疑派(という呼び方、分類ももはや意味が無くなってきていますが(^^ゞ)の方々の意見も、ここにあるのかな、とも思います。
反戦運動、に関らず、運動と言うものを行う時、当事者は疑問を持っては出来ない、という部分はあるとは思うんです。
これは運動に限らずなんでもそうかも知れない、学歴社会に疑問を持ったら受験勉強なんぞ出来ないだろうし、体育・スポーツの意味の運動にしても人より速く走れることになんの意味があるの?車に乗ればもっと速いよ、なんて思ってしまったら、苦しい練習なんて耐えられないでしょうから。
実際に市民運動的なものに携わっている人は、時間やエネルギーやお金をなんらかの形で犠牲にしていますね。
その行為に上記のような疑問を持ってしまったら、やってらんなくなる、ということはあると思うんです。自分の行動が無意味になるんだから。
とは言え、自分が今行っていることを、常に自問していくことはすごく大切だし必要だと思うんですよ。
新しく運動に加わろうとしている人間の疑問を、否定したり、自分達の主張通りに取りこもうとしていくのではなく、その立脚点から解いていこうとすることこそ必要だと思う。
ヤスツさんが616-617で言われているような事ですが。
ただ、反面、疑問を持つと何も行動できなくなる、ということも確かではあるのですよね。
反戦運動とは少し違いますが、前に掲示板でこんな意見を読んだことがあるんです。
ある主婦の方ですが、どうもその人はいわゆる「裕福な奥様」らしいのですね。
で、主婦業をしているだけではなくなにか社会に貢献したい、という気持ちがあって、ボランティア活動とかに興味は持っている。
ただ、そういう所でいわゆる「プロ市民」みたいな人にオルグされたりするのはたまらないなあ、という警戒心があって、と。
どういう活動を選べばよいのか迷っている、ということだったんですよ。
随分前に「偏った反戦運動」云々、という話を出したのもそのあたりの感覚はあるのですが。
私は裕福な奥様でありませんが、時間とお金の許せる範囲で出来ることがあるならしたい、と思っています。
実際、私の周辺にも全くそういうことに興味無い、という人も居ますが、ごくごく小さなことですが地道になんらかの事を行っている人も居ます。
具体的に言えばユニセフのカード買ったり、定期的な募金をしたり、使用済みポリペイドカード集めたり、程度のことですが。
そういう事以上に、というか、プラス何か出来ないか、と思っている人は多いと思うんです。
疑問を持ちながらの反戦運動というのがあれば、私も賛意を表します。
そういう主義者にお目にかかりたいです。また、そういう論を聞きたいです。
ハッキリ言ってしまいましょうね。
私がこれまで付き合った中では、クエーカーの人々が長い間続けている反戦運動は、もっとも疑問の少ない運動でした。
しかし、疑問はゼロではありません。そこを修正したのが私の反戦運動です。
詳しくはお目にかかった折にでも。
私の方法論の弱点は、言葉ではほとんど説明できないことです。
つまり、文脈依存性(コンテクスト ディペンデンシー)が極めて高いことです。
もう一度言っておきます。
理論闘争には、実践に関係ない限り、興味を持つゆとりはありません。
>623
何やら闘争が好きな反戦活動家さんらしいが(笑)
>私の方法論の弱点は、言葉ではほとんど説明できないことです。
言葉で説明でけんなら、それは「ようわかってない」ちうことだよ。
言葉が難しいなら絵で説明してもええし、踊りで表現してもええが、おそらく
わからんままだろうなぁ(笑)
人に説明できて、説明された人が賛否は別にしてもとりあえず理解できて初めて
「あなたは、理解している」と言えるんだよね。
>つまり、文脈依存性(コンテクスト ディペンデンシー)が極めて高いことです。
ようわからんが、言葉で説明でけんで文脈で説明してるってことかえ?
つまり、「なんとなく分かれよこの野郎!」ってな意味でつなぁ。
>理論闘争には、実践に関係ない限り、興味を持つゆとりはありません。
つまり、理論のない実践がお好きだと?(笑)
お掃除するんだって「どこからどのように掃除を始めるか」ちう「理論構成」が
ないとでけんだがなぁ・・・
>624
まあ、何やらようわからんが、とにかく行き詰まりちうか悩んでるこたぁようわかったわ。
あんたの主張わようわからんが、とりあえず「自己矛盾」起こしておるようだから
よう整理してみるとええぞ。
「何も考えずにただただ何か正しいことを黙々としたい」ちうなら、宗教でもやったら?(笑)
「神様わエライ、ただただエライ、ありがたやありがたや」ちうのわ、楽だからな。
「自分の伝えたいことを相手に分かるように説明する」ちうのわ、それこそ
世界平和の第一歩だと思うがな(笑)
>>622-624
>私がこれまで付き合った中では、クエーカーの人々が長い間続けている反戦運動は、もっとも疑問の少ない運動でした。
この運動に付いては、無知ゆえ存じておりません。
クエーカーの人々、というとアメリカにおける反戦運動なのでしょうか?
で、中葉さんはクエーカーの運動を修正した活動を行っている、ということですか?
具体的な、なんらかの組織があるのでしょうか? あまり具合名を出すと個人情報上、問題があるのでしょうか?
>理論闘争には、実践に関係ない限り、興味を持つゆとりはありません。
お忙しい、と言う理解でよいのでしょうか?
実際リアルでの活動があるので、ネットにはそう時間を避けない、ということでしたら、リアルの活動の方が勿論重要ですので。
ただ、なにかヒントだけでも教えて頂けないのでしょうか?
私も、中葉さんからどう見えるかどうかは解りませんが「実践」ということは常に考えています。
>>621 で書いたことも、そういう気持ちで書きました。
>>627 「自分の伝えたいことを相手に分かるように説明する」ちうのわ、それこそ世界平和の第一歩だと思うがな(笑)
無条件で賛成。
ところで緑装薬4さんは私の説明(講義や論文)を聞いたり読んだりできますか?
できるのだったら無料で提供しますよ。
>>628 クエーカーの人々、というとアメリカにおける反戦運動なのでしょうか?
反戦運動とは限りません。もう少し広い、一般的な社会改革における非暴力直接行動の方法論です。
今調べてみたら私たちが昔手ほどきを受けた団体のThe Movement for a New Societyに関する割に詳細な説明が見つかりました。
http://www.free-definition.com/MNS.html
をご覧下さい。30年前からは相当変わっているようです。
私と一緒に1972年に日本で初めて彼らから勉強した人たちの一部は
非暴力平和隊・日本 (Nonviolent Peaceforce - Japan)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~npj/index.html
を組織して活動しています。私は現在全く無関係ですが、役員名簿を見ると懐かしいです。
>>628 お忙しい、と言う理解でよいのでしょうか?
いいえ、歳は言いませんが、忙しいということは全くありません。
優先順位とお考え下さい。
>>612
私は、壱学生氏の理論を理解できていないのでは
なくて理論の問題性を指摘しているのです。
契約論的な人間モデルは、現実とは関連性が低い
と言う反論は、9.11以降の現実を見れば非現実的
であると述べる事のどこが理論を理解していない
のですか?
実際に、壱学生氏の構造機能主義的な方法論では
社会秩序を安定・維持させることは困難ではあり
ませんか?
環境の変化に合わせて社会システムを柔軟に変化
させて、その都度に相対的に見て安定性を有する
構造を造る方が、社会秩序を構築する上で合理的
なのです。
>>628 ただ、なにかヒントだけでも教えて頂けないのでしょうか?
ご質問をありがとうございます。真面目に答えます。
>>613 UCLA名誉教授のJohn FriedmannによるRetracking AmericaとPlanning in the Public Domain
Retracking America http://dogbert.abebooks.com/abe/BookDetails?bi=297255360
Planning in the Public Domain http://pup.princeton.edu/titles/2594.html
の2冊は、私にとってほとんどバイブルです。
>632
「現状にあわせてとりあえず対処する」ちうのわ、状況判断としてわ正しいと思うが、
「行き着く先」をよう考えないと、真の状況判断たぁ言えないわな。
時間的レンジをどう見るかによって、結論が違ってくるんじゃぁないのかねぇ。
>>628 >>621 で書いたことも、そういう気持ちで書きました。
そういうお気持ちで書かれたことは、文章によく現われています。
>629
笑った!
>ところで緑装薬4さんは私の説明(講義や論文)を聞いたり読んだりできますか?
あんたの講義や論文かえ?
そら、ここに書いてくれりゃ読むことわ出来るがな。
<多少不自由だが日本語わ出来るつもりだからな。
>できるのだったら無料で提供しますよ。
はあ、無料でねぇ・・・
あんた、物売りかえ?(笑)
時々くるうさん臭い物売りと同じようなもったいぶった言い方が笑えるんだが。
まあ、好きに書いてみてよ。
疑問質問わするかもせんからねぇ。
>>634
行き着く先?
壱学生氏の様な構造機能主義的な方法論だと
テロは増えこそすれ減りません。
テロを抑止したいのであれば、彼らかテロを起
こす背景を、その前提を替えなければほぼ不可
能でしょうね。
皆が正しい価値規範を共有させる事により平和に
なると言うのは、もっともですが、これもほぼ不
可能。少人数での対話を通して合理的な合意がなさ
れたと仮定しても、複雑なシステムを有する社会で
は、そんなことありえません。又、議論をすると言う
てもお互いの前提すら合意できるかどうか疑問ではあ
りませんか?
価値合意などなくても、システム統合さえすれば問題
はありません。システムにコミットすると言う最低限
の合意は常に脱構築する機能構造主義的なもので対応
すれば良いのではありませんか?
>637
めずらしいねぇ、俺にレスするなんて(笑)
前提条件については、同意だね。
>価値合意などなくても、システム統合さえすれば問題
>はありません。システムにコミットすると言う最低限
>の合意は常に脱構築する機能構造主義的なもので対応
>すれば良いのではありませんか?
これの意味がようわからんが。
価値観が違う御仁同士が、どうやって共通のシステムの傘下に入れるもんなのかねぇ。
てか、システム(仕組み)って、具体的にどんなもんなの?
あと
「脱構築する機能構造主義的なもので対応」
って・・・
構築から脱する、機能構造主義的??
すまん、誰か中学生でもわかる程度に翻訳してくれ(笑)
全く見えん。
>>637-639 すまん、誰か中学生でもわかる程度に翻訳してくれ(笑)全く見えん。
このやり取りと末尾には感服した。実によく判る。ここから私も再スタートしようと思う。
このスレが一日でこんなに動くのも珍しいですね。
>>621
少し昔であったなら、イカフライ女史にこれほどのご理解を得られるということはなかったかもしれません。
同意が得られるかどうかは別問題としても、理解は確実に進んでいるのではないかと「会話」や「対話」に光明を感じてなりません。
私の言う「疑問は常に抱くべきだ」というのは、「結論が出るまでは始めるな」ということではなく、「考えながら次の一歩を出せ」ということかもしれません。
「考えすぎて一歩も歩けなくなる」のは問題でしょうけれども、「歩く方向が間違いなく正しい」かどうかの確信が持てないなら、一歩歩くたびに確かめる、くらいのことはすべきだろうな、と、まあ、その程度の意味で。
>>622
反戦運動について、私の立場を言えば「単純に現象としての戦争を嫌う」ことは無意味である、というものです。
戦争はよくない、という意識は、戦争を「やむを得ない」と支持する側にだってあります。
ただ、「戦争をしてでも」であったり「戦争するしか」といった考えが消えない以上、戦争の発生を完全に抑止することは不可能だろう、と。
それを踏まえると、戦争の起こる原理や戦争でなければならないやむを得ない理由を十分に考慮することなく、現象としての「戦場」を生理的に嫌うだけの反戦運動には大いに疑問がある、ということです。
>>623
これは、>>624 で緑装薬4さんも述べておられますが、「口頭で説明できない方法論」では、方法論や運動の共有は不可能なのではありませんか?
それと、理論闘争をするつもりは特にありません。
うまい方法があるなら共有すべきだろうし、その方法が共有されることで利益を得るならどんどん推進すべきだろう、と考えています。
しかし、それが「広く広範囲に伝え、共有できる方法」であるならともかく、「直接会った人にしか伝えることができない方法」だとするならば、数千年オーダーでの伝播ならともかく、十年以下のオーダーで「具体的な手法として普及定着させる」のは不可能では?
>>629
緑装薬4さんには直接お会いしたことはないので、年齢、性別、本人が自称するのではない本当の職業(笑)の全てを私は知らないのですが、これまでの言動を拝聴する限りではこの方は「情報把握と要素の洗い出し、小難しい理論の要約・意訳」については、相当高い能力をお持ちかと思います。
これを踏まえて言いますと。
理論闘争をしている人や、高度な理論を持っている(と自負している)人の多くは、それを平易にして一般化することが【できない】という人がそのほとんどを占めていました。
>>629 の中葉さんの挑発的な(たぶん自覚はないと思いますが)言葉から、中葉さんもまた「自説を平易に意訳して説明することができない」人なのかな、と不安に感じました。
理論や資料を、難しいままに引用するのは、図書館の司書が書名と著者名から本を選んでくることと変わりありません。
その内容を引用者当人が平易(というか、この場合は相手のレベルに合わせて翻訳ですね)に説明できて、初めて「その引用者自身の理解を、相手に共有させた」ことになるのでは。
多くの「研究者」は、たびたび「自分の理論が理解できないなら黙ってろ」的な言説が多く見受けられたわけですが、「たったひとつの冴えたやり方」であっても相手に説明できなければ、多くの人に広められなければ、まるで無価値なのではと思うのですがいかがでしょうか?
やはり、「たったひとつの冴えたやり方」は、賢い方の専有物であり、それを理解できない下々の者達は、愚かしくも戦いを辞めることはできない、ということでしょうか?
ちなみに、「自分にしか理解できない自分言語」を繰り返すばかりで、「自説を平易に翻訳して一般化すること」ができず、「理論を演説することと、相手の理解を引き出すための説明の区別」がつかない人に、三毛猫ナナという人がいるわけですが。
そういうレベルの話なのでしょうか?
(つまり、相手が自分のレベルにあがってくるべきで、自分が相手のレベルに降りる必要はない、という)
中葉さんの意図はおそらく違うのだろうと思いますが、もしよろしければあなたの崇高で完璧な反戦運動について、門外漢にもわかるようにご説明いただければと思いますがいかがでしょうか。
>>637
じゃ、テロを減らす方法を具体的によろしく。
といって、貴方の口からそういう具体論が出てきたことはありませんから、特に期待はしていませんが。
・共通の価値観は共有できない
・前提すら合意できない以上、議論による対話・理解は不可能
・価値を共有できなくてもシステムを統合すれば問題ない
というのが、>>637 の要約なわけですが。
じゃあ、世界は資本主義に統合すれば無問題ですか?
共通言語としては通用する国が多いという理由で英語にすれば無問題ですか?
価値合意をせずに、システムを統合するというのはそういうことかと思いますが。
>>640
>>642 で「緑装薬4さんは情報把握能力は高い方」と書いていますが、それを越えて「相手に理解させるつもりがまったくない説明の仕方」をする三毛猫ナナ氏のようなやり方だと、仮に猫氏の説が「たったひとつの冴えたやり方」であっても、まったく理解されないし、普及もしない、ということです。
どちらにせよ、重要なのは我々は「年齢、性別、経験、職業(実社会での立場)に左右されずに、意思疎通や意見交換をするシステム」にコミットしている、ということでしょうか。
そういう「相手のレベルがわからない場所」で対話をする場合、相手に「このくらいはわかっているはずだ」という盲目的な基準を求めると、「なんだか呪文を唱えている人」としてしか受け入れられません。
相手に意見、意志、主張を「通じさせたい、誤解されたくない」のは発言者側ですから、相手の理解を引き出し、自分の主張への同意や協調、主張の普遍化を目指すのであれば、「相手の視点に降りる」ことが重要なのではないかと思います。
幼稚園児に道徳を説くとき、大人の視点でモノをいい、大人のリクツを理解しろと言っても通じません。
幼稚園児の目線に降りて、彼らの視点でわかるように説明しなければなりません。
これが大学での授業などなら、「学ぼうとする側が、教える側のレベルに這い上がろうとするのが当然だ」ということになるのだと思いますし、それは理解できます。
が、「反戦運動をしよう」であったり、「世の中をよくしよう」であったりといったテーマの場合、「相手が自分のレベルに上がってくるのが当然だ」という姿勢であるより、「如何にして無知・無理解な相手から理解を引き出すか?」を踏まえて「教える側が理解して欲しい側のところに降りていく」という姿勢が重要ではないかと思います。
反戦運動やそれに関する方法論というものは、ハイレベルな一部の人たちが占有することで、残りの人たちは何もしなくても恩恵を受けられるという性質のものなのでしょうか?
もし、「うまいやり方」を広く共有することで、反戦運動の「目的」が達成されるのであれば、そのやり方は【無償】で広められるべきではないかと思いますし、可能であるなら子供のうち、幼児のうちから理解せしむるべきだろうとも思います。
大人で、学があり、高等教育を受け、恵まれた環境にある人でなければできない方法では、子供で、学がなく、初等教育も受けられず、恵まれない環境にある人には実行できません。
そうした恵まれない環境にある人の人数のほうが恵まれた人より遙かに多く、戦争が発生する場所に居合わせるのも、戦争が発生する原因を抑止できないのも、戦争の影響を大きく受けるのも、その恵まれない環境にある人々であると思います。
反戦運動が、そうした「恵まれない環境の人を救済するためのもの」だとするなら、むしろ多数の不遇な人に理解される説明がなされなければならないのでは? とも思いますがいかがなものでしょう。
「金持ちで学のある恵まれた環境の人こそが、残りの衆愚を救うのだ」という思想であるとしたら、なかなか受け入れられがたいと思いますが(^^;)
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