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貧困スレ

1チバQ:2009/10/21(水) 21:46:08
労働運動スレより独立
非正規雇用・母子家族などなど貧困にかかわるさまざまな話題を収集するスレ
主にルポ系の記事がメインになりそうな予感

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009102002000236.html
日本の貧困率15・7% 07年 98年以降で最悪
2009年10月20日 夕刊
 厚生労働省は二十日、全国民の中で生活に苦しむ人の割合を示す「相対的貧困率」を初めて発表した。二〇〇七年は15・7%で、七人に一人以上が貧困状態ということになる。十八歳未満の子どもの貧困率は14・2%だった。
 厚労省は国民生活基礎調査の既存データを使い、一九九八、〇一、〇四、〇七の各年にさかのぼり、経済協力開発機構(OECD)が採用している計算方式で算出。〇七年の全体の貧困率は九八年以降で最悪、子どもは〇一年に次ぐ水準だった。
 長妻昭厚労相は同日の会見で「子ども手当などの政策を実行し、数値を改善していきたい」と述べ、同手当を導入した場合に貧困率がどう変化するかの試算も今後公表することを明らかにした。
 政府は六〇年代前半まで、消費水準が生活保護世帯の平均額を下回る層を「低消費水準世帯」と位置付け増減などを調べていたが、その後は貧困に関する調査はしていなかった。相対的貧困率は、全人口の可処分所得の中央値(〇七年は一人当たり年間二百二十八万円)の半分未満しか所得がない人の割合。
 全体の貧困率は九八年が14・6%、〇一年が15・3%、〇四年が14・9%。〇七年は15・7%と急上昇しており、非正規労働の広がりなどが背景にあるとみられる。


関連しそうなスレ
労働運動
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1114776863/l50
社会福祉総合スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1225898224/l50
農業総合スレ(限界集落もこのスレの対象かも・・・)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1060165378/l50
人口問題・少子化・家族の経済学 (母子家庭など)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1148427444/l50
文部スレ (新卒採用問題なども・・・)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1116734086/l50

170チバQ:2011/11/20(日) 20:43:09
  ◇

 〈たすけて〉

 平仮名で書いた紙の切れ端が入った封筒が男性の部屋に残されていた。

 宛先に書かれていたのは母方の叔父(66)。駅に近いマンションで暮らしている。

 「逃げたと思ってた。餓死とは意外やった。できるか? 40前の男が食えないまま閉じこもって死ぬなんて」

 叔父の言葉は辛辣(しんらつ)だった。

 「誰も悪くない。本人の責任」

 男性の家族が借金問題を起こすたびに親族が尻ぬぐいをしてきたという。男性の収入は少なく、同居する母親の月8万円の年金と叔父らの資金援助が頼りだった。「完全なパラサイト」と断じた。

 「もう、情けないよ……」

 叔父は高卒で地元のセメント会社に就職。「粉まみれになってがんばった」と言う。「金を稼げるならなんちゅうことはなかった」。いまなら3Kと言われる職場だ。先輩後輩、社内の人間関係でつながっていた。簡単に辞めていく人間はいなかった。そうして定年まで勤めあげた。

 叔父にとって、おいっ子は歯がゆい存在だったろう。

 男一人なら生きていける、と母親が病死したあとは援助をやめた。

 男性が飲食店を掛け持ちで働き始めたのはこの後だ。

 食堂の時給680円、居酒屋800円。午前8時から日付が変わるまで働いて、月収は20万円に届くかどうか。

 二つの店と自宅とはほぼ一本道でつながっている。車検が切れた軽自動車で単調な道のりを往復する日々、何を考えていただろう。

 昨年1月、門司区役所に生活保護の相談に行っている。相談記録票には、飲食関係の正社員に限定して求職中と聞き取った内容の記載に続き、「相談結果の処理」の欄にこう書いてあった。

 〈39歳、健康体であれば何か仕事はあるはずである〉

 「幅広く探してみる」と男性は保護を申請せず帰った。

 男性を追い込む直接のきっかけとなった借金の理由は取材ではわからなかった。督促状は丁寧にクリップで束ねられ、6社から計150万円に上った。家に5台も残されていた携帯電話も謎だった。

 頼ったのは結局、親族。昨年2月に大阪にいる4歳上の兄に連絡して金銭的な支援を頼んでいる。叔父は兄からの電話で経緯を聞き、借金問題にはかかわらないように忠告したという。

 その兄に電話で取材を申し込むと、仕事で多忙だから、と断られた。もう一度かけても答えは変わらず、心境を聞くことはかなわなかった。

 未投函(とうかん)の叔父あての手紙。封筒の表書きがぴしっときれいな字で書かれているのに、〈たすけて〉の文字は弱々しかったという。

 出すか、出すまいか。

 命が尽きる寸前まで迷ったのではないか。

 弱い自分をさらけ出し、助けにすがってまで生きる。生き延びたとして、その先に希望があるのか――。電気が切れ、真っ暗な借家で煩悶(はんもん)するやせ細った39歳を想像した。

 叔父の言葉が、私の頭にこびりついている。

 「すがるところが無くなった。だから、死んだ」

 財布に残されていた現金は9円。叔父は、これもメッセージだと受け取った。

 「食えん(9えん)」

 菩提(ぼだい)寺のさい銭箱に投げ入れたという。

 私もやってみた。1円玉4枚と5円玉1枚。軽い硬貨が乾いた音をたてて落ちた。


■救いの手にすがる難しさ


 餓死した39歳の足跡をたどって見えてきたものは、孤立した働き盛りを支える「希望」の無さだった。

 正社員を辞めた時期にバブルが崩壊。職を転々とした男性の生活は、母親の年金や親類の援助で成り立っていた。「自分の店を持ちたい」と周囲に語っていたが、実際には蓄えと呼べるものは無かったようだ。若いころ交際相手がいたが未婚のままで母親と2人で暮らし、その母親を亡くすと、孤立無援になった。

 男性が最後に職を失ったのは、リーマン・ショックのあと。同じ時期に自動車工場を解雇された元同級生(41)は「ひとごとではない」とおびえていた。自分も親がいなかったら生活できなくなっていた、と。

 男性には、支え、支えられる存在としての家族がいなかった。だがほかに助けを求める先は無かったか。

 心配してたびたび様子を見にきていた家主、弁当を持たせた元同級生の母、生活保護の窓口……。すがってもいい、どこかで一言を絞り出してほしかった。(井上恵一朗)
.

171チバQ:2011/11/20(日) 20:44:01
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012290338.html
彼は無表情だった 「孤族の国」男たち―52010年12月30日22時52分
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街宣の様子を撮影し、ネット上に投稿してきた男性=兵庫県内、仙波理撮影

中高生らが襲われた現場を警察庁の安藤隆春長官が視察した。長官が記者らに囲まれる様子を若い女性が携帯電話で撮影していた=27日、茨城県取手市、仙波理撮影
 休み時間は、いつもひとりでいた。本を読むでもなく、携帯電話をいじるでもない。休憩室を出て、日当たりがいい場所に、ただ座っていた。

 茨城県つくばみらい市の工場に勤務する男性(44)は、昨年9月まで部下だった期間契約社員のそんな姿を、よくおぼえている。

 彼は、反物状のフィルムを梱包(こんぽう)し、ラベルを貼り付ける仕事をしていた。仕事は丁寧で、中高年の同僚7人と一緒に黙々と作業を続けていた。

 口数は少ないが、声をかけると丁寧に受け答えをする。女性たちが「お菓子、食べようよ」と誘うと、控えめに輪に加わるが、翌日にはまたひとりで、ひなたに座る。

 元上司は語った。「コミュニケーションが得意じゃないんだろうが、普通の青年だった。あんな事件を起こす人間とは思えない」

 12月17日の朝、JR取手駅前で、中高生らが乗るバスに包丁を持って乱入した。バス運転手の怒号と生徒たちの悲鳴。あごを切られた女子高校生のマフラーが血に染まった。切られたり殴られたりして、14人が負傷した。

 斎藤勇太容疑者(27)。工場を辞めた1年2カ月後、不特定多数の未成年にやいばを向けた。殺人未遂容疑で現行犯逮捕され、「人生を終わりにしたかった」と供述した。

 茨城県警によると、斎藤容疑者は高校を卒業した後、半年ほど予備校に通った。だが大学には進まず、10回ほど職を変える。3年前に母親を亡くし、年金暮らしの父と同居していたという。昨年、工場との契約が切れた後は職に就かず、自宅にこもっていた。

 県警の捜索時、部屋にはテレビやパソコンといった、外界とつながる道具が一切なかった。高校時代に好きだったという本も一冊もなく、友人、知人とつながる携帯電話も持っていなかった。

 取手駅から約9キロ離れた同県守谷市内に、容疑者の自宅はある。事件の2カ月前、近所の60代女性が会っていた。

 髪を肩まで伸ばし、ぶかぶかの部屋着姿だった。一言も発しない。「中学生のころと、ずいぶん変わっちゃったな」と感じた。女性が何より驚いたのは、まったく表情が無かったことだった。

 つながりを断った1年2カ月について、斎藤容疑者は何も語っていない。事件の動機についても、弁護士に「表現しづらい」と話している。

 工場の元上司は思う。ひとりが好きなのだと思っていたが、実は違っていたのかもしれない。してやれることがあったんじゃないか。「でも、子どもたちを傷つけたのは許せない。しかりつけたい」

 弁護士を通じ、元上司がそう語っているのを知った斎藤容疑者は、こうつぶやいたという。「そんなふうに思ってくれている人がいるんだ」

■居場所を探す 宗教にネットに

 12月上旬、中国地方の大学で、大津市の会社員(36)が大学教員ら約40人を前にして、「大学におけるカルト勧誘」をテーマに講演をした。「大学に入ったばかりは、知り合いが少なくて寂しいですよね。ベンチで1人で座っている新入生が狙い目です」。「孤独を狙う」との文字を映し出したスクリーンの前で声を張り上げる。

 「僕もそういう人に声をかけました。例外なく話を聞いてくれました」。自らがしたことへの後悔がこもる。

172チバQ:2011/11/20(日) 20:45:06
■家族より濃い血

 1993年に大学に入学したが、遊ぶことばかりに熱心な同級生に違和感を持った。入試を終え、新しい目標も持てない。話し相手が欲しくなり、前年、受験を前に大学を下見したときに声を掛けられた「人生を考えるサークル」に電話をした。

 講義の選択方法や試験対策を丁寧に教えてくれる。飲み会や食事会、合宿が頻繁に開かれる。サークルが新興宗教の偽装だと分かった後も、キャンパスの外にある「部室」に通い詰めた。少し年上の東大生が、教義をマンツーマンで教えてくれた。まるで兄のよう、いや「家族より濃い血」が流れていると感じた。

 教団で生きていこうと決心した。4年生で大学を中退。「なぜだ」と父は激怒し、母は泣いた。昔の自分のような大学生を、今度は自分が「兄」になって勧誘し、100人以上を誘い込んだ。

 お布施集めにも奔走した。「保険も解約したし、もうだいぶつぎ込んだ。もう出せるものは……」。土下座して号泣する高齢女性を「地獄に落ちますよ」と脅し、50万円をむしり取った。

 認められて本部職員となり、ネット対策を担当した。教団を攻撃するサイト運営者を、告訴すると脅す日々。「おまえ、変わっちゃったな」と言われたくなくて、教団の外にいる知り合いを避け続けた。

 そんなある日、ふと疑問がわいた。なぜ、教団職員の残業代が支払われないのか。なぜ、教団の会長に絶対服従なのか。なぜ、会長はぜいたくな生活をしているのか。外部の人たちが言うことの方が、正しいのでは……。

 12年間在籍した教団を去ると、孤独が押し寄せた。家族より濃いつながりのはずの仲間から、ぱったりと連絡が来なくなった。就職はしたが、同僚との付き合い方が分からず、3回転職した。教団に入る前よりつらい。まるで、焼け野原に一人でたたずんでいるように。

 孤立感から抜け出せたのは3年後。結婚して子どもが生まれ、家を建てた。同じ年齢の男性が送っている生活を、自分も営めるようになったと思えたときだった。

■サイトの有名人

 かき入れどきの土曜だというのに、店のシャッターは閉じていた。朝方までソファでパソコンを操り、そのまま眠ってしまったのだという。

 兵庫県の阪急沿線、駅前に続く通りの一角で、男性は小さな洗車店を営む。だが、実際は休業状態。週1度、食料を買いに出かけるほかは、店舗2階の自室にこもってインターネットに浸る。

 自分のことを「僕」と呼び、眼鏡の奥で人が良さそうに笑う34歳には、ネットの世界にもう一つの顔がある。「bureno(ブレノ)」。動画サイトでは、ちょっとした有名人だ。

 「スパイの子」「日本から出て行け」。画面の中で、日の丸や拡声機を手にした男たちが、ののしり声をあげる。今年8月、右派団体の幹部らが威力業務妨害容疑で逮捕された朝鮮学校前の街宣を、この男性が撮影した。

 ドラマのように軽快な音楽をつけて編集した「作品」はネットに投稿され、累計で数十万回もアクセスがあった。各地の街宣に同行し、投稿を繰り返していた男性は、団体幹部とともに逮捕されたが、「関与が薄い」として不起訴になった。

 「ブレノ」は、滑らかなカメラワークで「ぶれない」という意味を込めた登録名だ。自身の活動を、海上保安官が「sengoku38」の名で尖閣沖の衝突映像を流出させた事件とダブらせる。「日本はもっと怒っていい」

173チバQ:2011/11/20(日) 20:45:18
 自分の居場所はどこだろうか。いつも探してきた。

 小学生のとき両親が離婚した。父と母の家を行き来して育ち、小中だけで五つの学校に通った。捨ててあるラジオやゲーム機を持ち帰り、自宅で一人、分解して遊んだ。

 理系の専門学校を中退し、カプセルホテルのフロントなど職を転々とする。父が亡くなり、遺産を元手に、車の塗装剤の販売を始めたが失敗。洗浄水を特別な濾過(ろか)装置に通した現在の店も振るわない。「自分のこだわりは、世の中には分からない」と強がる。

 動画や書き込みを投稿する度に、引用、転載されていないかを確認する。取材の日に男性が検索すると、以前投稿した写真が17カ所からリンクを張られていた。「ちょっと少ないなあ」

 掲示板には、何百もの投稿が秒単位、分単位で届く。自分の発言に、ほかの人から反応がある時、男性の胸は弾む。一瞬一瞬の反応でいい。認められている、と思える。

 現実の社会で右派団体の撮影にのめり込んだのは、行く度に喜ばれ、必要とされたからだった。だが、会のメンバーの多くは、彼を「ブレノさん」と呼び、逮捕されるまで本名すら知らなかった。

 事業のため、生活のために取り崩してきた父の遺産は間もなく底を突く。最近の夕食は1キロ200円のソーメンを小分けして食べている。「愛国」にすがり、見ないようにしていた現実に目を向ける時期は、近づきつつある。

 本当は何をしたいのか、と聞くと、拍子抜けするほど普通だった。

 「中小企業でこの人がいると便利だなっていう人がいるでしょ。パソコンもサッと使えて、ホームページもチラシもつくれる。本当は、そうやって役に立ちたいんです」(鈴木剛志、西本秀)

■自分を追い込む若者たち

 茨城・取手事件の斎藤勇太容疑者について、彼を知る人を訪ねて歩いた。職場で一緒にお菓子を食べた女性は「あんなことをする子じゃない」と動揺した。元上司も「私たちが知っている斎藤君じゃない」と。

 これらの印象と、忌まわしい凶行との落差が胸につかえている。

 斎藤容疑者は、度重なる転職、失業、母の死などの苦境や不運をいくつか抱えていた。社会から切り離されていく間に、やり場のない怒りを心の中にため込んでいたのかもしれない。突然、爆発するほどに。

 新興宗教に10年以上を捧げた36歳。ネットにのめりこむ34歳。彼らの素顔は、まじめで少し不器用な青年だった。そんな若者たちが、時に日常に背を向け、自分を追い込む。

 社会から認められない。社会とつながっていない。そんな不遇感を募らせるのは彼らだけではないだろう。顔を上げて、すぐ近くに目を向けてみれば、自分はひとりではない、と気付かせてくれる誰かがいるかもしれない。(鈴木剛志)
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174チバQ:2011/11/20(日) 20:46:50
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012310223.html
少女のような目の母と 「孤族の国」男たち―62010年12月31日21時30分
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94歳の母里津子さん(左)に大きな声で話しかける森谷康裕さん。食品雑貨店を営みながらの介護が続く=東京都葛飾区、仙波理撮影
 居間のかもいに、額縁入りの賞状が並ぶ。米寿の祝いなどに贈られた「寿状」は、亡父あても含めて3枚。94歳になるベッドの上の母を、静かに見下ろす。

 介護保険で、最重度より一つだけ軽い「要介護4」。週1の訪問入浴を済ませ、おぼつかない手つきでコップを口元へ。「あっ、こぼすよ」と慌てて近づく長男を、少女のように澄んだ目で見つめる。

 森谷康裕さん(66)は父が逝った10年前から、母里津子さんと2人きりで暮らす。東京都葛飾区にある築39年の木造2階建てで小さな食品雑貨店を営む。

 昨年、母の左太ももの骨折がわかったが「もう治せない」と医者に言われ、ほぼ寝たきりになった。耳が遠くなり、終日つけっぱなしのテレビの音も聞こえているかどうか。最近の会話は「今」と「過去」が入り乱れる。

 そんな母との生活を「自営だから良かった」と思う。お兄ちゃーん、と呼ばれれば、すぐ飛んでいく。親類の消息を問われても「あの人、もう死んじゃったでしょ」と耳元で何度でも正してやれる。

 いつの間にか居着いた猫が、ひだまりの部屋を通り過ぎていく。

 4人きょうだいの一番上だった森谷さんは、高校を中退して16歳で、両親の店を手伝い始めた。すぐにオート三輪を買い、毎朝6時に市場へ。父が作るきんぴらや煮豆は評判で、年の瀬になれば自家製の「お節」を買いに来る常連客を、親子3人でさばいた。

 30歳過ぎで見合い結婚したが、1年足らずで破綻(はたん)した。「サラリーマン家庭みたいに決まった休暇が欲しいと言われても、ね」

175チバQ:2011/11/20(日) 20:47:24
 時代は流れ、街は変わる。

 駄菓子の売れ行きが落ち、主婦は消費期限が表示されたパックの総菜を好むようになった。常連客は老い、店の前を通り過ぎる人々は向かいの駐車場付きスーパーへ吸い込まれていく。

 忘れられた孤島のような商店の陳列棚に品物は少なく、閉店セール最終日のようだ。

 森谷さんはほとんど外出せず、毎日3度の食事を作って母に食べさせ、おむつを替えて寝かしつける。独身の弟(58)が週2回は顔を出すが、妹たちはあまり来ない。「旦那や孫の世話で忙しいんだろう」。ため息がもれる。

 2人の時間は、10年前から止まっているかのようだ。だが、母は卒寿を過ぎ、自分も高齢者と呼ばれる年齢に達して、同じ病院に通う。10年後、一体どんな暮らしが待つのか、考える余裕はない。

 「車いすにさえ乗せられれば、日帰りでも連れ出してやれるんだけど」。そう言いながら、2年前の旅行の写真を手に取った。満開の芝桜を背にした母は、少し不安げに、こちらを見つめている。

■息子介護の本音 言えた

 残業を終えて帰宅すると、母は出走直前の競走馬のような目をしていた。明け方まで続く徘徊(はいかい)の前兆だ。「向こうに行ってろっ」。思わず頭をたたくと、みるみるうちに白髪が鮮血に染まった。急いで病院へ。「次は通報します」と医師は言った。

 数年前のことだ。

 鈴木宏康さん(51)は独身で、アルツハイマー型認知症を患う82歳、要介護3の母を介護する。川崎市の築30年を超す分譲団地の4階、3LKで2人の生活を続ける。

 電機メーカーの下請け会社を辞めたのは46歳。リストラ含みの配置転換で嫌気がさしていたとき、母の病状が悪化した。四六時中、部屋を動き回って、独り言を繰り返す。水道の蛇口は開けっぱなし。そばを離れられなくなった。

 最初はアルバイトに出るつもりだった。でも面接で「欠勤しないで」と言われれば諦めるしかなかった。昼間預かってくれるデイサービスの利用料を差し引けば、時給は実質275円。施設に入れる貯蓄もなく、母の年金で暮らそうと決めた。

 生活は想像を絶した。

 力任せに玄関ドアをたたき続ける母を部屋にとどめておけず、昼も夜も背後から追って、何キロも歩き続けた。たびたび行方不明になり、連絡を受けては連れ帰る。やむをえずデイサービスに預けた晩は、興奮して大暴れ。地域のケアマネジャーに愚痴をこぼすと「育ててくれた親でしょ」と言われ、心が折れそうになった。もう二度と行政には頼るまい、と決心した。

 たまに元同僚や友人から飲み会へ誘われたが、断った。苦しい胸のうちを訴えたところで何になるのか。そもそも母を置いて外へ出られない。周囲に壁を築き、2人だけで閉じこもるような日々。

 ボランティアの女性(63)が訪ねてきたのは、この頃だ。「気になる親子がいる」というケアマネらの訴えで、様子を見にきた。片時も落ち着かぬ母の横で、ふてくされてたばこを吸い続けていると、集まりに顔を出して、としつこく誘われた。足を運ぶうち、「本を書いたら」とすすめられた。

 2人きりの閉じられた空間に、少しずつ新しい空気が入っていく。

 日記を書いたこともないのに真夜中、パソコンに向かった。2009年、単行本「息子介護」を出した。つたなくも過激な表現で、孤立無援な日々に正気を失いかける心境をつづる。「自分自身の人権なんて言ったら、介護なんてできない」「日にいく度か心の中で殺すのです。お袋を」

 単行本は話題を呼んだ。同居の親をみる無職の独身男性の「本音」を聞きたいと、介護職や行政担当者らが続々とやってくる。介護関係者の会に誘われることも増えた。

 鈴木さんは気が向くと、母を連れて、そんな会に参加する。「キャバクラに行く方がいいに決まってます」などと憎まれ口をたたきながら。(高橋美佐子)

176チバQ:2011/11/20(日) 20:48:17
■「ごめん」2階に父の遺体

 2階に上がると、目の前の部屋の床には楕円(だえん)形のしみが広がっていた。北関東の新興住宅地の一角にある、築14年の木造戸建て。薄茶色のフローリングに広がるしみは周囲が黒く、中心部は白い。

 1人でここに住む男性(39)が7カ月間、父親の遺体を寝かせていた跡だ。

 「仏様だから、頭は北に向けて、こうやって、そっと布団の上に寝かせて……」

 丸刈りの男性は、遺体を布団に乗せた様子を、腕を広げて示した。刺繍(ししゅう)の入ったジャンパーにジャージーのズボン。家の中には、ゲームセンターで取ったぬいぐるみがいくつも飾ってある。

 2009年2月のある日。66歳の父親が心臓発作が起きたように苦しみ始めた、という。「心臓マッサージのようなことをして、発作が治まったのでよくなったと思って寝ちゃって」

 目覚めると、父は息を引き取っていた。呼びかけても、返事はない。

 「医者に診断書を書いてもらうためのお金もなくて、お葬式代もないし、家のローンも残っているし、もうどうにもならなくて」

 ほとんど使われていなかった一番きれいな部屋に遺体を寝かせた。毎日、「ごめんな、ごめんな」と声をかけ、顔を触り続けた。

 遺体と2人きりの生活が終わったのは、「父親の姿をみない」という近所の通報があったからだ。父の死後も年金を受け取っていたとして、男性は詐欺容疑で逮捕された。死亡を届け出ていれば保険でローンを返済できたことは、取り調べで初めて知った。

 「所在不明高齢者」の存在が明らかになった昨夏以降、この種の事件が各地で発覚した。首都圏の住宅地で、地方都市で、山村の集落で、同じことが起きている。男性の場合、生活の歯車が狂い始めたのは10年ほど前。母の病気が悪化したことが理由だった。

 当時は父、母、妹との4人暮らし。ローン返済には父親の収入が不可欠だったため、男性が仕事を辞めて看病や家事をした。さらに父が交通事故で大けがをし、両親の面倒をみなければならなくなった。収入は1カ月おきに振り込まれる、約30万円の年金だけになった。

 母は、06年冬に死亡。1年半たたないうちに、今度は妹が心臓の病気で亡くなった。国民健康保険料すら払えず、父親の容体が急変しても、医療費が心配で119番できなかった。

 「住宅ローンの保険のことを知っていれば」。猶予つきの有罪判決を受けて自宅に戻った男性は、家族3人の遺影が並んだ仏壇の前でそう語る。相談できる知人や親族はいなかった。父親が役所に頼ることを嫌がっていたので、公的機関にも駆け込まなかった。孤立に導かれるように、男性は年金詐取に走った。

177チバQ:2011/11/20(日) 20:48:47
 今、生活保護を受けている。就職のあてはない。将来どうするのか、日が暮れると考え込む、という。

 年を取っても親と同居している人は年々増え、収入は年金頼みということも多い。家族関係の研究を続けてきた、山田昌弘・中央大教授は「年金パラサイト」と表現する。

 「寄生」が、「介護放棄」になることもある。12月22日、津地裁の法廷に立った桐本行宏被告(57)は、そんな一人だ。

 「年金を半分あげる」と言われて母親と同居を始めた。だが数年後、ささいなことから対立。食事を運ばなくなり、さらには当時80歳の母の部屋が開かないよう、ふすまに釘を打った。母の死を確認した後も約1年半、年金をもらい続けていた桐本被告は詐欺のほか、保護責任者遺棄などの罪に問われている。

 「お母さん、ごめんなさい。愚かな息子です。恥ずかしく、情けないです。小学校の入学式の時につないだ手の温かさを覚えています。もしできるのなら、あのころに戻りたいです」。留置場で壁を眺めながら考えたという謝罪の手紙を弁護人が読む間、桐本被告は声を上げて泣いた。(中井大助)

■介護で引きこもり 防ぐ手を

 私の兄は44歳の独身サラリーマン。都内の実家に住んでいたが、最近一人暮らしを再開した。以前は「結婚して独立を」とせかした妹の自分が、ここ数年は、老いた両親のそばに兄がいる「安心感」に寄りかかってきたことに気づく。

 介護をする家族で最も孤立しやすいのが「高齢の親と同居する独身の息子」とされる。家事に不慣れで近所とのつながりが薄く、地域の見守りや緊急支援の対象からも外れてしまう。高齢者虐待のトップも息子で、夫や娘をはるかにしのぐ。

 「介護のせいで職を失ったのに、落後者という負い目に苦しむ」と春日キスヨ・松山大教授は警告する。介護する息子の「声にならないうめき」は、時に命を危機にさらす。

 老いた親と経済的に苦しむ子が、「家」という密室に引きこもるのを防ぐため、早い段階から他者がかかわる必要がある。「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」が、一昨年設立された。受け皿は、各地に生まれつつある。(高橋美佐子)

178チバQ:2011/11/20(日) 20:50:04
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101020168.html
聞いてもらうだけで 「孤族の国」男たち―72011年1月2日22時43分


「聞き上手倶楽部」を利用する浅見真さん。携帯から聞こえる声にやすらぎを感じるという=埼玉県入間市、仙波理撮影
 きらきらと光る装飾がつけられたハンドルを握り、埼玉県の重機オペレーター、浅見真さん(39)は帰路につく。今日は電話しよう、そう思うと一日の疲れが和らぐ。

 祖母の作った夕飯を食べ、風呂に入って一段落してから、電話に手を伸ばす。相手は、有料の話し相手サービス「聞き上手倶楽部」。話を聞いてもらう。それだけのために10分千円のお金を払う。

 指名するのは、代表の菊本裕三さん(51)。顔は写真でしか知らない。会いたいわけでもない。でも、友達のような存在だ。いや、この世で自分のことを一番よく知ってる人かもしれない。

 最初の電話は4年前だった。高額請求を警戒して、プリペイド携帯電話でかけた。

 「離婚しました」

 「何で?」

 意外にあっさりと話せた。月に数度は利用するようになった。中身はもっぱら仕事の愚痴だ。会社はゼネコンの下請けで、リーマン・ショック以降、年収は半減し、社員も減らされた。不安が募る。

 「中間管理職みたいな立場なんすけど、現場の不満を上に伝えても何も変わらない。でも下からは突き上げられて、板挟みなんですよ」

 「職場で元気なのは外国人だけ。日本人は下向いて歩いてて指図聞くだけ。俺って、沈んでいく日本のど真ん中にいるんだと思うんです」

 「聞き上手倶楽部」の菊本さんは元美容師。客の話に耳を傾ける美容師ほどリピーターが多く、「聴く」大切さは身にしみて感じていた。うつ病の増加が話題になっていた2006年、「一歩手前で予防することができれば」と考え、サービスを開始。「話し相手のいない高齢者」を想定していたが、実際は違った。家族も友達もいて仕事もしている、まじめな人が多い。

 家族に何回も同じ話はできない。周りに聞いてもらえない。利用者から漏れるのはこんな言葉だ。

 顧客は数千人になり、同業者も増えている。事業は順調だが、半面、菊本さんは少し寂しさも感じている。「嫌なやつと思われたくない、うっとうしがられたくない、だから愚痴や悩みを言えない。もっと甘えてもいいのに」

 浅見さん自身、一緒に暮らす祖母や父との関係が悪いわけではない。肉体労働で鍛えた体にストリート系ファッション。友達も彼女もいる。でも、深刻な話はしない。愚痴をいうと雰囲気が悪くなる。「話しても仕方ないなって思うんすよ。自分をさらけだせる人、いないっすね」

 「10年後は大した楽しみもなく引きこもってるんだろうな。さみしいっていうより、すごくひとりなんじゃないかな。孤独死、するかもな」

 こんな話、身近な人には、したことがないし、サービスを利用していることはこれまで誰にも話していなかった。思いをはき出したら、翌朝、また現場に向かう力が湧いてくる。(仲村和代)

■赤の他人に救われた

 石油ストーブでほどよく暖まった畳敷きの部屋、60代の男性2人が、ちゃぶ台を前に向き合う。聞こえるのは、小さな声、そしてインコが鳥かごを揺らす金属音だけだ。

 「少しずつ進んでしまう病気ですから。1ページずつ、記憶を破っていくわけです」

 「はい」

 「私が夫であるかどうかも、わからない状況になっていくわけです」

 「はい」

 語り手は、千葉県船橋市に住む徳田利彦さん(67)。相づちを打っているのは同市の小柳嘉一郎さん(69)。2人は数カ月前まで、まったく面識のない赤の他人だった。

 傾聴ボランティア。高齢者ら悩みや寂しさを抱えた人の話し相手になる運動だ。自治体としては船橋市が初めて、9年前から始めた。ボランティアは現在286人、昨年度の訪問回数は3717回。

 勧められてボランティアを受け入れた徳田さんは、最初は懐疑的だった。初回は仕事の話題だけ。こんなことをして意味があるのか、と思ったが、ふと気が変わった。

 この人に話してみようか。自分のこと、妻のことを。

 「家内がアルツハイマーだとわかったのは7年前です。今思えば、20年近く前から始まっていたのかもしれない。家に帰ると、暗い部屋でひとり座り込んでいて。どうして気付いてやれなかったのか」

179チバQ:2011/11/20(日) 20:50:30
 話し始めると、次から次へと思いが湧く。92歳の母親も施設に入っていること。妻や母のことを相談したいが、息子たちも不況で収入が減り、それどころではないこと。

 「家内と夜中にドライブしました。死のうと思って、直線道路でスピードを出して、母さん、これでいいかいって。その時だけ家内は真顔で、いいよ、と言うんです。かえって踏み切れなかった」

 小柳さんは余計な口を挟まない。ただ話を聞くだけ、といっても簡単ではない。同市福祉サービス公社の40時間の講習を受けなければボランティアにはなれず、会話の内容には守秘義務が課せられる。

 「家内がこうなったのは、私のせいなんです。夫婦は空気のようなものと思い、ずっと無視してきた。家内を介護施設に入れてから、ひとりでいると、おかしくなってしまいそうになる。テーブルをたたき、泣きわめいて……」

 徳田さんは、自分の生きてきた道を語り始める。高校を卒業し、鹿児島から集団就職列車で上京したこと。転職を重ね、睡眠時間3時間で何年もがむしゃらに働いたこと。

 「人がつながりを失って、今のような世になったのは私たちに責任があるんですよ。がむしゃらに働いて、家族にいっぱい迷惑をかけて」

 小柳さんはただ、深くうなずく。同世代の男性2人。同時代を背負ってきたからこそ分かり合えることがある。

 徳田さんの顔に、次第に赤みがさしていく。(真鍋弘樹)

■話すことは生きること

 苦境にあるとき。悩みを抱えているとき。誰かに話しても、決して問題が解決するわけではない。それでも胸中を吐き出せば、心の荷物が軽くなる。

 家族が「孤族」へと姿を変えている今、話し相手の不在に悩む人たちは今後も増えていくだろう。ボランティアや有料の話し相手も、選択肢のひとつとなっていくに違いない。

 船橋市の傾聴ボランティアでは、話し手と聞き手のペアが7年間も続いたケースがあったという。人を固く結ぶのは、決して血縁や地縁だけではないのだ。

 話すことは、息をすることに似ていると思う。普段は意識をしなくても、人はこれなしには生きていけない。(真鍋弘樹)
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180チバQ:2011/11/20(日) 20:52:26
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101030274.html
最後に人とつながった 「孤族の国」男たち―82011年1月3日22時41分
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炊き出しに合わせ、健康不安を抱える山谷地区の男性らのために相談窓口を設けた「コスモス」の看護師たち=3日午後、東京都墨田区、仙波理撮影
 がん末期で入院を拒否し、一人暮らしをしている人がいると聞き、昨年10月半ば、71歳の男性の部屋を訪ねた。

 東京都台東区の山谷地区にある古い木造アパートの2階。畳の上の介護用ベッドに、男性がうっすらと目をあけて横たわっていた。

 「つらいよねー」。そう声をかけながら、看護師が胸に医療用麻薬を貼る。男性の表情が次第に和らいでいく。

 1日2回、看護師が訪問する。医師が適宜往診し、ヘルパーも1日3回。だが、その合間や夜間は一人きりだ。

 家族のいない、独居の人が自宅で最期を迎える。医療の見守りを受けつつ、たった一人で。そんなことができるのだろうか。病院に死を任せるのが当たり前の今の日本で。

 男性が病院から自宅に帰ってきたのは6月だった。

 口腔(こうくう)底がんが進行し、手術、化学療法、放射線治療ともできず。余命数カ月。気管切開、胃に管で栄養を直接入れる「胃ろう」。生活保護。病院からの受け入れ要請を受けて、地元で「あやめ診療所」を営む伊藤憲祐医師(40)は言葉を失った。

 がんは早期に発見されたにもかかわらず、手術のタイミングを逃していた。何度入院しても勝手に退院してしまう、という。もう、ほかに頼るところはない。

 山谷地区では、簡易宿泊所などに住んでいる日雇い労働者たちの高齢化が進んでいる。そんな男性たちに医療や介護を提供するNPOの訪問看護ステーションや介護サービスが、医師とチームを組んだ。費用は、生活保護の医療扶助などでまかなう。

 トラブルは、初日から起きた。入浴サービスを受けるとき、指定時間より早く自分で施設に来た揚げ句、待たされたと怒って帰ってしまったのだ。自分のペースを貫き、針を逆立てたヤマアラシのように、いつも周囲に突き刺さる。そんな人だった。

 男性は、半生をほとんど語らず、訪ねてくる親類や知人もいなかった。温泉とこけしで知られる宮城県の鳴子出身。生活苦で中学生のときから働きはじめたのだという。その性格から、人と群れずに生きてきたのだろう。

 その後も、「自己流」は続いた。看護師が訪問する時間にわざと外出する。胃ろうに入れる栄養剤に、自分で缶コーヒーや豆乳を混ぜる……。

 そんな身勝手の数々を、スタッフらはあえて受け入れ、休日さえつぶした。

 男性を担当した訪問看護ステーション「コスモス」看護師の平野智子さん(35)は、その理由を語る。「人を待つ」ということが今、医療の場で失われている。病院ではどうしても医療が中心になるが、在宅なら患者のこだわりを大切にできるはず、と。

181チバQ:2011/11/20(日) 20:55:57
■閉じた心 開いた医療ケア

 室温で氷がとけていくように男性は変わっていった。看護、介護が終わると、何度も手を合わせるようになった。病状が進み、会話が難しくなるとペンを握った。「すみません」「たすかります」

 その頃、ある高齢の女性が、部屋を訪ねた。50年以上会っていなかったという男性の姉(84)だった。

 本人は不義理を気に病み、身寄りのあることを隠していた。伊藤医師が説き伏せ、半ば無理やりに連絡をとった。

 「あなたも安心して、感謝を忘れずに最期を全うしなさい。私もすぐにいくから」

 姉は、肉親でなければ口にできない言葉を、ほほ笑みながら言った。義姉のはからいで親や兄と同じ墓に入れることも伝えた。看護師の目には、男性の表情がすっと楽になったように見えた。

 衰弱し、血圧が低下していく。それでも残された力を振り絞り、胸の前で手を合わせようとする。最期は、かすかに布団が動くだけになった。

 ありがとう、と。

 男性が亡くなったのは、10月末の深夜だった。朝、ヘルパーの渡辺博幸さん(47)が部屋に入り、いつも通りに声をかけながら布団をめくると、胸が動いていなかった。

 翌週、斎場に集まったのは医師、看護師、ヘルパー、姉と義姉、そしてボランティアの僧侶と記者の私。男性が残したのは、数十枚の写真と数枚のCD、腕時計、そして鳴子産のこけし二つ。

 男性は、みとる人もいない深夜、一人暮らしの部屋で、この世から去った。世間の尺度を当てはめれば、孤独な死だったのだろう。でも、たった一人で生きてきた男性は、死の直前に、大切な何かを取り戻したようにみえる。

 伊藤医師は言う。「人の死は点ではないんですよね。いい生が続けば、いい死になるんです、きっと。男性は、最後に人とつながった」

 ヘルパーのひとりは、男性が亡くなる数日前に見せた表情が忘れられない。

 部屋にあったビートルズのCDをかけると、男性は曲を口ずさもうとした。顔には、確かに笑みが浮かんでいた。

■山谷地区での試みに希望

 「人は誰でも死ぬんですよね。私も、あなたも」。男性の介護をしたヘルパーが、取材中、ふいにそう言った。

 そう、人は例外なく死ぬ。孤独死を恐れる人は多いが、死ぬ時は誰でも一人きりだ。孤族と多死の時代、「幸せな死とは何か」という問いの答えは、それぞれ自分でみつけるしかない。在宅死を望む人も、きっと増えるだろう。

 大切なのは、死の直前まで不安を取り除き、手を携えてくれる人の存在だ。孤立した単身男性が多く住む東京の山谷地区には、志を持った医療・介護関係者が集まっている。彼ら、彼女らの試みに希望をみたい。(真鍋弘樹)

182チバQ:2011/11/20(日) 20:57:19
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101040348.html
ひきこもり抜けたくて 「孤族の国」男たち―92011年1月4日21時56分
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男子学生のアパートを訪問した宮西照夫教授(左)=和歌山市、仙波理撮影
 庭先で、マツが腰をひねり枝を広げる。奥には、どっしりとした瓦ぶきの家屋。その2階に男性の部屋はある。

 「僕がひきこもっているのは、父さんへの復讐(ふくしゅう)だ」。そう家族に訴え、30年間、社会と接点を持たずにきた48歳の男性が、昨秋、中部地方の専門病院に通い始めた。

 結婚して家を出ている姉によると、通院へ背中を押したのは、反発しながらも同居してきた80代になる父の死だった。「病院へ行こう」。1人になった男性に姉が促すと、素直にうなずいたという。

 対人不安から、会話は親類と医師に限られる。記者も、姉に付き添われて歩く姿を離れて見守った。病院へ送り、実家に食品を届ける姉は疲れ果てる。「世間から見ると大人。でも、自立はまだ」

 高校3年、最初は不登校から始まった。母の死、いじめ、進路選択などが重荷となり、思春期の心を閉ざした。

 「母さんが甘やかした」「卒業して就職しろ」。仕事中心で、亡くなった母に子育てを任せてきた父は、叱るほか接し方を知らなかった、と姉は言う。それが息子を逆上させ、時に暴力となった。

 一つの家に冷蔵庫が二つ。父子は別々に食事した。体面から家族で抱え込み、医師にも相談しなかった。「でも、父なりに弟を愛していた」と姉は思う。将来を案じ、年金保険料を代納し、貯金を続けた。スーパーの警備員など定年後も75歳まで働いた。

 ひきこもりの長期化に、当事者と家族が追い詰められている。国の推計で当事者は全国70万人。「親の会」の調査では平均年齢30歳を超す。

 関東地方の36歳の男性。大学になじめず、うつ状態になり自殺を図った。人と会うのが怖い。昨年から介護施設で週1回のバイトを始めたが、気分に波がある。取材後、携帯に電話してもつながらず、数日後に「落ち込んで、出られなくて」。67歳になる元高校教師の父の年金が頼りだ。

 大学院の時に就活に失敗した東北地方の29歳の男性は、30歳を前に自分で入院を決めた。同世代が仕事をこなし、結婚する時期。30代になると就職も難しくなるため、長期化させない治療の節目と言われる。「退院したら教員免許をとりたい」「まだ間に合うだろうか」。焦り、揺れる。

 出てくるのを待たず、専門家の医師が迎えに行こう。そんな試みがある。

183チバQ:2011/11/20(日) 20:57:31
■「おるかー」医師が迎えに

 「おーい、おるかー」。呼び鈴を押しても反応がない。和歌山大学そばのアパートの2階。玄関口で宮西照夫教授(62)が声を張り上げて20分たったころ、やっと開いた。

 師走の夕暮れ。無精ひげの男子学生(24)は湯船の中で寝ていたという。ベッドの枕元の壁には、「怠けたい自分に打ち克(か)て」と手書きの張り紙が掲げてあった。

 精神科医の宮西教授は、大学の保健管理センターの所長を務める。ひきこもる学生らの自宅を訪問してカウンセリングし、外出を促す独自のプログラムを実践。8割以上を復帰させてきた。

 男子学生は、留年を機に夏まで不登校を続けていた。復学後も1週間以上休むと、教授や友人が自宅を訪ねる。

 この学生の場合、一人暮らしのアパートを初めて教授が訪ねたのは昨年6月。呼び鈴を押しても反応がなく、ポストに手紙を残した。「元気か」「また来るよ」。それをくり返し、4度目の訪問となった7月、ドアが開いた。

 「最初は面倒くさいと居留守した」と男子学生。「でもこのままじゃダメだという思いが募ってくるタイミングがある。その時にノックされるとドアを開けられる」

 一方、両親から外に出るように言われると、心配かけてるな、申し訳ないなと、ますます落ち込むという。当事者や家族が問題を抱え込み、孤立する事例を見てきた宮西教授は、「行き詰まった親子に第三者が介入し、風穴を開けることが大事」と訴える。

 「宮西プログラム」には番外編がある。信頼を築き、部屋を出られると食事に誘うのだ。この日、床に座って1時間近くひざ詰めで語った後、別れ際に玄関口で学生の肩を抱いた。「今度、一緒にラーメン行こな」

■親も高齢化 態勢づくりを

 なぜか、ひきこもる人々の6、7割を男性が占める。進学や就職をめぐり、周囲が男性に寄せる期待の高さがストレスになっている、と専門家は見る。さらに、最近の不景気が社会復帰を阻んで長期化を招き、加えて就職難が新たに20、30代になってひきこもる高年齢層も生んでいる。

 親の高齢化も深刻だ。「全国引きこもりKHJ親の会」の奥山雅久代表は66歳。自身も末期がんを患い、長期化する当事者を支える制度実現を訴える。記事の48歳の男性のように、抱えてきた親が亡くなる事態はすでに始まっている。家族に依存しない態勢づくりが急務だ。(西本秀)

184チバQ:2011/11/20(日) 20:58:01
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101050366.html
自殺中継 ネットに衝撃 「孤族の国」男たち―102011年1月5日21時29分
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インターネットで自殺中継した男性に対する書き込みを学生は悔やんでいる=仙波理撮影
 男性の体が動かなくなった。画面の中で、ベランダの向こうの空だけが明るくなっていく。「これ、ガチ(本当)だぞ」「やべえ」。ニュースはあっという間にインターネット上に広がった。

 「来週自殺します」という予告が、ネット掲示板2ちゃんねるに載ったのは昨年11月上旬だった。予告した男性は自室にカメラを設置。生中継動画をネット配信し、書き込みを見ながら思いを語っていた。中継は最期の瞬間まで続いた。

 掲示板には、「どうせ死ねないだろ」「早くしろよ」と、匿名の書き込みが相次いでいた。24歳の男子学生も、その中にいた。

 興味本位で動画を見始め、同年代が泣きながら語る姿に、「これはやばい」と思った。学生も突然大学に行けなくなり、うつ病と診断されていた。手首に包丁をあて、痛みに耐えられずにやめた。八方ふさがりだった。

 画面の向こうで、その男性は語った。うつ病で休職中であること、大学時代の友人と離れて寂しいこと、容姿へのコンプレックス。ひとごととは思えない。「死ぬのはやめろ」。そう書き込み、朝まで中継につきあった。

 翌日、男性は「昨日は途中で寝ちゃってごめん」とまた配信を始めた。「死ぬ気ないな」。掲示板の書き込みはだんだん、あおる方向へ変化していく。「さっさと死ね」。学生もばかばかしく思って、何度か言葉を浴びせた。最期の映像を見ても、現実感はなかった。

 「あおったヤツは人殺し」。今度は掲示板に、そんな言葉があふれた。

 それから1カ月。取材に応じた学生は「書き込みと自殺の因果関係はないと思う」と話した後、続けた。「ほかの人があおってる中で『生きろ』と書き続けて、『空気を読め』っていわれるのが嫌だったのも事実。死ぬわけないって思ってた。でも、人が亡くなった以上、言い訳でしかない」

 2ちゃんねるは「習慣」だった。1日10時間以上パソコンの前にいたこともある。現実の友達とは違う、独特のつながり。出会いもあった。

 しかし、大学に行けなくなった時、真っ先に頼ったのは両親。相談すると、郷里から数時間かけて、すぐに駆け付けてくれた。大学の先生や友人も見守ってくれている。

 あの男性は、そんな存在に気づけなくなっていたのだろうか――。学生は事件を機に、ネット漬けの生活を卒業する決意をしている。


■救いと牙と 紙一重の空間


 自殺した男性も24歳。大学を卒業し、昨年4月から仙台市で働きはじめたばかりだった。上司は「ごく普通の職場の、ごく普通の青年」と語った。

 例年の倍以上の難関となった入社試験をくぐり抜けた。飲み会でも「がんばります」と明るかった。ところが5月末、突然「調子が悪い」と休みを申し出たという。

 「ゆっくり休むように伝え、親御さんとも連携してケアしていたつもりだった」。ショックを隠しきれない様子の上司は繰り返した。「自殺をあおるサイトがあるなんて、理解できない」

 男性の自殺の衝撃が、水紋となって同世代に広がる。

 事件の後、残された動画を見た神奈川県のフリーター(23)は「誰かに分かってほしい、かまってほしい。彼にとってその場所が、ネットだったんだ」と思った。

 17歳の頃から、生きる意味を見いだせずにひきこもった。何度も死を考えた。分かり合える人を求めて、ネットをさまよった。同じようにつらい人がたくさんいることを知り、少し、救われた。

 固定した人間関係が苦手だから、正社員にはなりたいとも思わない。親がいなくなって生活できなくなったら死ねばいい、と低い声で話す。

 それでも、一歩ずつ前に進もうと、もがく自分がいる。生活を立て直そうとする姿を連日、ブログにつづる。「4カ月くらい安定剤を断っている。がんばってるな、おれ」

 共感したいと願う人たちが誰かに寄り添ったり、時に傷つけたり。膨大な情報が飛び交うネットは、プラスにもマイナスにもなる、と思う。

 最近、派遣社員として販売の仕事をするようになった。いつもは昼夜逆転の生活だから昼間に働くのはつらいが、徐々に人前に出ることに慣れてきた。今なら、前向きな人たちとつながることもできるかもしれない。

 ネットでも、現実でも。

185チバQ:2011/11/20(日) 20:58:19
■つまずいてもやり直せる道を


 ネット上でどぎつい言葉を交わす彼らは、実際は礼儀正しく、まじめな若者たちだった。実社会でつまずき、自己否定の言葉を連ねる彼らを追いつめているのは何だろう。

 若者の生きづらさをテーマに取材をする渋井哲也さんは「少子化で子どもへの期待値が高まり、逃げ道がなくなっている」と指摘。小さな集団で育つ分、異質な人と対話する力が落ちていると感じる。

 周囲と同じ歩調で歩むことを求められ、一度つまずくと元の道には戻れない。その恐怖が、彼らを閉じこもらせているように感じる。何度でもやり直せる、そんな「空気」が必要なのだと思う。(仲村和代)

186チバQ:2011/11/20(日) 20:59:35
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201101060454.html
動かぬ体 細る指 外せぬ指輪「孤族の国」男たち―112011年1月6日22時12分


伴侶を亡くした人がカラオケの席を囲んだ「気ままサロン」の忘年会。歌詞を聞いて、時折しんみりとなった=東京都新宿区、仙波理撮影
 ベッドを降りて5メートルほど離れたトイレへ歩く。引き戸を開けてまた数歩。便座に腰掛ける。「つえをつかんと行けた。治ったんや」。うれしさと同時に目が覚める。

 兵庫県西部の特別養護老人ホームに入所している男性(78)は、繰り返しこんな夢をみる。布団に横たわっている自分の右半身は、脳梗塞(こうそく)の後遺症で動かない。

 仕事も、遊びも。そんな半生だった。働いていた妻とはすれ違いが続き、1987年に離婚届を突きつけられた。早期退職して得た退職金と、自宅を売って作った計6500万円を慰謝料として渡した。

 それでも、遊び癖は直らない。転職してからも大阪の盛り場・キタで毎日のように飲んだ。スポーツクラブに週5日通い、悲惨な老後とは無縁と思っていた。

 5年前の春、カーテンを取り換えようとして上を向いたとき、頭の後ろに痛みを感じた。入院して1週間後に意識がなくなり、目覚めたのは2カ月後だった。

 話こそできるようになったが、つえがなければトイレにも行けない。食事以外は6畳ほどの自室にこもる。親しく話せる入所者はおらず、一言もしゃべらない日もある。

 離婚後も元妻とは連絡をとっていたが、病気になってからは途絶えた。「死んどると思っとるやろな。僕のことが新聞に載ったら、誰かが妻に伝えてくれますかね」

 入院しているうちに、私物は親類にほぼ捨てられた。残ったのは結婚指輪だけだ。やせた薬指には合わず、中指にはめている。半身不随になり、年老いた今になって切実に思う。妻がいたら、子どもがいたら、と。

 「指輪を外されへんのは、近くに妻がおったらなと思うからかな。結局、自分のことしか考えてない。勝手放題にしてきた僕への罰ですわ」

■死別の悲しみ分かち合う

 東京都心からJR中央線で約1時間半の山梨県上野原市。駅を囲むように広がる住宅街の一角に、武田繁男さん(64)は暮らす。

 家のことは妻に任せきり。休みの日は家でごろごろするだけ。当たり前だと思っていた生活は、4年前、妻の突然の死で終わりを告げた。あと半年で定年を迎えたら、2人で旅行を、と考えていたところだった。

 電車の中で泣きそうになる。誰もいない家でぽろぽろと涙をこぼす。おいしいものを食べると、「食べさせてやりたかったな」と思う。

 何より心残りなのは、感謝の言葉を伝えられなかったことだ。「優しい言葉、いえないんだよね、俺たちの世代は。だめだね」

 今、多くの時間を、縁側のそば、深緑の山並みを望むこたつで過ごす。左手に電話とパソコン、目の前にテレビ。手の届く範囲で、ほとんどの用が足りる。

 そこでほぼ毎日、欠かさずにするのが、メールの送信だ。宛先は、配偶者を亡くした人の会「気ままサロン」のメーリングリスト。

 〈一瞬に終わった一年。エスカレーターの駆け上がり、いつまで続けられるか。脱兎(だっと)のごとくいければ〉

 〈子供達(たち)は昨夜あわただしく帰京。よって、お一人様生活に戻りました〉

 ほぼ毎日、日常生活や気づいたことを取り留めなくつづる。パソコンの向こうにいる仲間たちが、話し相手の代わりになる。

 みな、同じような喪失感を味わっている。千葉県柏市の公平(こうへい)敏昭さん(70)は4年前に、東京都日野市の堀野博資さん(69)は10年前に妻を亡くした。深くて冷たい海の底にいるよう。そんな思いを、同じ境遇だからこそ安心して伝えられる。

 「男の方がめそめそしていますよ。カミシモつけて素直に気持ちを吐き出せないんだよね」と堀野さんは言う。

 時には顔を合わせ、共に過ごす。年末、平日の昼間、新宿のカラオケボックスで開かれた「気ままサロン」の忘年会には20人以上が集まった。東京都板橋区の井出弘明さん(74)が選んだ古い洋楽に、1人の女性が涙をぬぐった。

 「主人が好きだった歌で」

 「いやあ、女性を泣かせちゃったな」。井出さんはそういって、場を和ませた。

 井出さんも、家に帰れば1人。「行ってくるよ」と声をかけても、答える人はいない。ついでに買い物を頼まれることもない。かっこ悪いからと嫌がったネギだって、今なら買ってくるのに……。

 そんな気持ちを抱えるのは一人だけじゃない、そう仲間たちは教えてくれる。

 悲しみは決して消えない。でも、分かち合う友がいれば少しだけ、心が軽くなる。(鈴木剛志、仲村和代)

187チバQ:2011/11/20(日) 20:59:55
■つながりがあれば前向きに

 死別や離別で伴侶を失った人、そしてその人たちが過ごす時間は、長寿に伴って増えていくだろう。男性の場合、家事能力の低さが苦しみに拍車をかける。「孤族」の時代、よりよく生きるために、最低限の生活能力は必要だ。

 一方、喪失感は簡単に埋められるものではない。「残された者を最期まで気遣っていた夫や妻の思いをおろそかにせず生きよう。そのために仲間がいる」。気ままサロンの佐藤匡男代表の言葉だ。

 共感できる人とのつながりがあれば、伴侶と生きた時間をいとおしみながら、前向きに生きることもできるのだと感じた。(仲村和代)=第1部おわり

188チバQ:2011/11/20(日) 21:01:11
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107230603.html
震災 死悼む身内なし 「孤族の国」3・11から2011年7月23日22時51分

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 震災に吸い寄せられるように、被災地を訪れる人たちがいる。

 7月上旬の深夜、仙台市中心部の公園。真っ暗なベンチに一人の男性が座り、宙を見つめていた。荷物は小さなキャリーバッグだけ。仕事を求め、名古屋から来た労働者だった。

 44歳、独身。両親は他界し、故郷の大阪に住む兄とは20年以上、連絡をとっていない。派遣の仕事を転々としていたが、昨年末から生活保護を受けている。

 そんな彼に、震災はチャンスに映った。がれき処理の仕事に手を挙げ、仙台へ。しかし、実際の仕事は家屋の解体だった。日当7千円。契約途中で辞め、ネットカフェや公園で寝泊まりを始めて5日がたった。

 次に福島の原発周辺の復旧作業を狙っている。20日間限定で昼4万円、夜5万円との募集を見た。「今は満員だけど、次回に来てくれって」。翌日、彼に連絡をとろうとしたが、携帯電話はつながらなかった。

    ■

 震災の犠牲になりながら、その死を悼む身内すらいない人たちがいる。

 宮城県石巻市の中心部に近い古い木造の平屋で、70代の夫婦は、10年ほど前から暮らしていた。時折笑い声が外まで響いたが、近所との交流はなかった。近くの大家(62)も、生活保護を受けていること以外、身の上は知らなかった。

 3月11日、近くの川から押し寄せた津波は、2メートル近くの高さに達した。何日かたって、ビニールシートにくるまれた2人の遺体が、平屋から運び出された。

 4月に入って、大家が警察に呼ばれた。身元を確認できる身内は見つからず、2人の名は県警の「所持品等から推察される氏名等事項一覧」に掲載された。

 ようやく犠牲者として名を刻まれたのは、震災から4カ月後だった。(平井良和、仲村和代)

    ■

 朝日新聞が昨年末から始めた連載「孤族の国」は、人のつながりが変化し、社会から孤立する人々が急増していることに焦点をあてた。東日本大震災という未曽有の災害が列島を襲い、被災者、そして被災地以外の人々にも孤立化の危機はより身近となっている。

 先送りにすることのできない問いを、私たちは突き付けられている。あの日、2011年3月11日から。

189チバQ:2011/11/20(日) 21:01:39
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107240491.html
集落解散 消えるつながり 「孤族の国」3・11から―1【全文】2011年7月24日22時20分

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管理人として住み込むリゾートマンションの最上階から太平洋を眺める佐藤俊一郎さん、芳子さん夫妻=静岡県熱海市、仙波理撮影

孤族の国と震災
 6月半ばの昼下がり、神奈川県のJR小田原駅ホームで一人、電車を待っていた佐藤芳子さん(53)の携帯電話が鳴った。

 ふるさとの宮城県石巻市にいる友達からだ。

 心が弾んだ。

 それなのに、涙で声が出ない。津波で壊滅した故郷を出て2カ月余り、寂しさが抑えきれない。「せっかくかけてくれたのに、ごめんね」と電話を切った。

 その日から、「また泣くだけかも」と思い、電話に出られなくなった。

 夫の俊一郎さん(53)と2人、石巻の漁師町・雄勝町から静岡県熱海市へ移った。家も仕事も失う中、東京で暮らす長男の勤め先がリゾートマンション管理人の住み込みの仕事を紹介してくれた。「自分たちは恵まれている」と思う。

 熱海駅から車で10分、プール付きのマンションは、夏だけ訪れる会員用の部屋が半数を占める。海が見えない管理人室にある故郷の品は、壊れた家から持ち出した位牌(いはい)と線香立てだけ。

 住民たちは優しく声をかけてくれ、石巻から来たことを知ると何かと気遣ってくれる。だが、夫の俊一郎さんは「余計な心配をかける」と感じ、自分から故郷の話をしなくなった。

    ■

 故郷の雄勝町は、ホタテやカキの養殖業が中心の約4千人の町だった。200人が住む明神集落で育った俊一郎さんは、高校を出て船に乗り、25歳で隣町の芳子さんと結婚。33歳で腰を痛めて船を下りた後は、町内の水産加工場で働いた。

 3月11日。津波は家と勤め先を流し、愛犬をさらった。66戸の明神集落は58戸が全壊、100人以上が地区の避難所に身を寄せた。

 電気も水道もない避難生活を俊一郎さんは「つらいけど、楽しかった」と言う。夜には、互いを知り尽くした仲間と思い出を語った。海で泳ぎながら野球をしたこと、神社の柿を盗んだこと。北洋漁業が栄えた高度経済成長期、町の人口は1万人を超えていた。

 4月初め、避難所を出る時、「逃げるようで申し訳ない」と思った。

 そんな俊一郎さんを気遣うように、今も明神の友人から長靴や下着、懐中電灯などが届く。「こっちは何でもそろうのに、くだらないものばっか。それが、たまらなくうれしいんだ」

190チバQ:2011/11/20(日) 21:01:56
   ■

 その明神集落は、「解散」の危機にある。仮設住宅用の高台がなく、住民の大半が集落を去った。自治会は6月末に「お別れ会」を開き、斎場の修繕費などの積立金を分配した。

 津波が来なくても、こんな日が来たのか。「震災は、町を出ようかとずっと悩んでいた人の背中を押したのかもしれない」。10年近く、自治会長を務めた鈴木力夫さん(65)は思う。

 1970年代後半、200カイリ規制で遠洋漁業が勢いを失うと、町人口は減り続けた。2005年に石巻市に合併する頃には、高齢化率が4割に近づく過疎地になった。

 家を失った鈴木さんは、市中心部のアパートに住むことを決めたが、それでもまだ、避難所にいる。「別れ難い。つながりを消したくない、と思うんだ」

 残る鈴木さんは消えゆく集落に惑い、離れる佐藤さんは心に大きな空洞を抱える。震災は被災地に、こんな人々を数多く生んだ。

 繁忙期のお盆に帰省できない佐藤さん夫妻は、7月初め、集落に残る先祖の墓に参った。俊一郎さんが墓前でつぶやいたのは、こんな言葉だった。

 「死ぬまで墓は守るから安心してくれ。そうできるよう、お願いします」

 責任感半分、願いが半分。いつ戻れるのか、わからない。それでも思う。

 家や集落すら、なかったとしても、俺の心が安らぐ場所はここなんだ、と。

■「望まない孤」寄り添えるか

 住む人がいなくなって何年もたった空き家。各集落に点在する廃校の跡。細りつつあった雄勝の町で、家族を超えて助け合う共助の力は、集落の支えだった。

 津波は理不尽に、それを断った。決して便利な生活でなくとも、つながりの中に身を置くことで平穏を感じた人たちに、故郷を離れて生きることを強いた。隣人を知らないことも珍しくない都会への移住、その孤立感は計り知れない。

 「望まない孤」に惑う人たちに気づき、支える力がこの社会に残されているか。震災は、そう問うているようだ。(平井良和)

191チバQ:2011/11/20(日) 21:05:54
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107240524.html
細る開拓地 外国人妻涙 「孤族の国」3・11から―2【全文】2011年7月24日23時20分

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. がらんとした牛舎に、牧草や牛ふんの甘くすえた臭いが漂う。

 原発で 手足ちぎられ 酪農家

 壁の黒板にチョークで書かれた「辞世の句」が、消されずに残っていた。

 福島県相馬市の副霊山(ふくりょうぜん)地区で、酪農を営む男性(54)が自死したのは先月。携帯電話の電波も途切れる山あいの農場に、小1と幼稚園児の2人の息子を抱えた妻(33)が残された。

 小柄で目がくりっとしたフィリピン国籍の妻は、自分を責め、家にこもっていた。「私がそばにいたら、死なずに済んだかも」と。

 夫の死を知ったのは、ルソン島の実家へ一時帰国している時だった。原発事故後、フィリピン政府の呼びかけに応じ、子供を連れて避難していた。

 「農場再開のめどが立たないんだ」。夫とは、数日前に国際電話で話したばかり。息子の手を引いて成田空港に降り立ち、手荷物を受け取るのも忘れて福島に舞い戻った。

 子供らに涙は見せたくない。だが、夜になると抑え切れなくなる。日本語もままならず、夫の死に伴う法的手続きを、周囲に頼る自分がもどかしい。

    ■

 「高3の孫に、酪農を継がせてよいものか……」

 仲間の自死を機に、近くで農場を営む村松征吉さん(73)は悩む。原発から北西50キロの副霊山は放射線量が比較的高い。事故後、原乳出荷が一時止められた。

 酪農の盛衰を肌で知る。終戦の翌年、兵隊帰りの農家の次男三男や旧満州引き揚げ者らが山林を開墾した開拓地だ。戦災復興と食糧増産の右肩上がりの時代。115世帯すべてが酪農に取り組み、「電気や電話が通じ、牛が増え、暮らしがみるみる良くなった」。

 だが、1970年代がピークだった。「物価の優等生」と呼ばれる乳価は抑えられ、少子化で給食用など牛乳消費量も低迷する。住民は75世帯にしぼみ、うち酪農家は自死した男性を含め6世帯に。原発事故はそこを突いた。放射能を避け、自主避難も始まる。

    ■

 細る地域を支えるのが、アジアからの外国人だ。

 毎朝、副霊山の一角に、若い女性の中国語が響く。鶏肉処理場へ通う20人の中国人実習生たちである。地区人口の1割を占める。

 工場は、酪農を諦めた農家の多くが養鶏に転じ、設立された。だが、海外から安い鶏肉が大量に輸入されるようになると、農家は養鶏から撤退し、働き手も外国人へ重心を移した。

 家族の維持にも貢献している。東北の農村が「外国人花嫁」を積極的に招き始めたのは80年代半ば。いま福島県には2千人超のフィリピン人が暮らす。副霊山にもフィリピン人2人、中国人3人がやってきた。

 99年に業者を通じてフィリピン人女性と結婚した地区の男性(51)は言う。「朝夕2回、乳を搾り、休めない酪農は3K職場。日本の嫁さんは来ない」

 自死した男性の妻は、02年冬に来日した。最初は雪の冷たさや、朝5時起きの生活に戸惑った。慣れると、軽トラを操り牧草を運んだ。月1度の休み、家族で近くの温泉に出かけたのが懐かしい。

 これからどうしよう。自分にとってここは異国。でも、息子らにとっては故郷だ。気持ちは揺れる。

 「残るならストロング・マザーにならなくちゃ」。静まり返った農場を見つめた。(西本秀)
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192チバQ:2011/11/20(日) 21:07:07
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107250770.html
避難の母 支えきれなくて 「孤族の国」3・11から―3【全文】2011年7月25日22時15分

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仮設住宅で独り暮らしをする太田和子さん。必要最小限の生活用品しかない部屋で、趣味の手芸をして一日を過ごすことが多いという=宮城県石巻市、仙波理撮影
 また、泣いている。背を向けて、声も出さずに。

 宮城県石巻市の実家が津波で流され、東京都江東区の小林真智子さん(52)のマンションに身を寄せた母の太田和子さん(77)は、部屋にこもって縫い物ばかりしていた。「東京にいたら何もすることがない。死ぬの待ってるだけだ」

 母に合わせ、生活時間帯も、食事も変えた。出かけることもできない。なのに――。つい言葉がきつくなり、自己嫌悪に陥った。

 震災前は、認知症の父(84)を母が世話する「老々介護」の状態だった。ベッド脇に便器があり、そこで父は食事をする。母は夜中に何度も起こされる。そんな生活がいつか限界を迎えることはわかっていた。

 これからは、もっと頻繁に実家に帰ろう。そう考えていた矢先、地震が東北地方を揺さぶった。

     ◇

 震災の1週間後、石巻に駆けつけた真智子さんが見たのは、別人のような母だった。錯乱状態になって避難先で暴れ、父と一緒に総合病院に搬送されていた。「毒が入っている」と食事に手をつけず、やせ細っている。

 急患であふれる病院には、いつまでもいられない。高齢者2人の居場所を求め、漂流が始まった。

 県の紹介で仙台の介護施設へ入ったものの、母の錯乱の原因は一時的な水分不足と診断され、長居はできなかった。「石巻で暮らす」と言い張る母を連れ、父を施設に残して東京へ。だが、家族3人に母が加わった生活は、想像以上のストレスだった。

 受け止めきれなかった。

 1カ月ほど経った頃、母の地元の友人から電話があった。方言で楽しそうに話す母を見て、決断した。「仮設住宅に申し込もう」。それから、母は、みるみる元気になった。

 一方、石巻に戻る母に同行した真智子さんは、すぐに帰りたくなった。30年離れていた故郷は異文化のよう。母とも、細かいことですぐ言い争いになる。

 ショッピングセンターで、見知らぬ男性が話しかけてきた。「娘のとこにいたけど、気い使って、3日で帰ってきたよ」。家族や知人を頼った縁故避難の難しさに悩むのは、自分たちだけではなかった。

 結局、2週間で逃げるように東京に戻った。誰にも話せず、何かをする気力もない。母も、同じ思いだったのか。

     ◇

 「ごめんくださーい」

 和子さんの暮らす石巻の仮設住宅に、近所の女性がいなりずしを持って訪ねてきた。新しい「ご近所さん」とも、食べ物を分け合う生活が始まっている。

 「東京だと、家族以外と話さないの。ここは、散歩にいけば知り合いがいるし」。自ら願った故郷での暮らし。介護からも解放されたが、1人の時間は長い。先のことを考えるとパニックになるから、縫い物や草取りで時間をつぶし、考えないようにしている。

 仙台の介護施設を出て以来、夫とは会っていない。「私のことばかり心配してんだって。かぁは料理がうまい、っていってやんだそうです」。うれしそうに話したが、一緒に暮らしたいかを尋ねると言葉を濁した。「これからどうなるかもわかんないしね」

 先が見えないのは、真智子さんも同じだ。たとえ命は縮めても、家族が一緒に暮らした方がいいのではないか。いや、1日でも長く生きてほしい。揺れながら、自分に言い聞かせる。

 今はこうするしかない、と。

■同居の負担 分かち合える場を

 せっかく親族宅に「縁故避難」したのに、被災した自宅や環境の悪い避難所に戻る被災者は少なくない。家族だから支えたい。そう思っても、価値観の違う世代が共に暮らすのはそれほど簡単ではない。家族が縮小し、支える側の負担も大きい。これは、子育てや介護とも通じる問題だ。

 真智子さんは、取材に思いをはき出し、少し楽になったという。当事者同士で分かち合うだけでも、救われる人は多いはずだ。行政やNPOの支援に頼るだけでなく、自力でどれだけそんな場を作れるか。胸に手を当ててみる。(仲村和代)
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193チバQ:2011/11/20(日) 21:12:12
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107260749.html
心帰る場所流され「孤族の国」3・11から―4【全文】2011年7月28日22時8分

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実家に帰った鈴木重光さん。築100年を超す蔵は地震でひび割れし、近く解体される。幼い頃いたずらをする度に罰として閉じ込められた=福島県いわき市、仙波理撮影
 眠れぬ夜が続く。

 ネイルサロン開設の夢に向けて、4月から簿記を学び始めていたのに。東京都足立区の阿部明奈さん(27)は、医者の勧めで5月半ばから休んでいる。

 東日本大震災の10日後、故郷の岩手県大槌町に息子(5)と娘(4)を連れて入った。祖母や兄の連絡が途絶えていた。

 実家があるはずの場所にあったのは、見覚えのあるれんが造りの土間だった。玄関だ。土台の枠しか残っていない家を、記憶を頼りにたどる。ここは茶の間、ここはおっかぁの部屋。

 がれきを前に泣いた。

    ■

 「おっかぁ」とは、祖母のソヨさん(77)のことだ。両親が離婚し、代わりに自分を育ててくれた。

 高校を卒業して、18歳で東京に出た。岩手にはない仕事があり、夢をつかむチャンスがあると信じた。都内の飲食店や魚市場で働きながら、21歳で結婚した。2人の子が生まれたが、3年前に離婚した。

 交通費を工面できない時を除き、盆と正月は決まって帰省した。夏は海で泳ぎ、夕方に墓参りをする。満天の星の下の花火。

 東京へ帰る日は「また来(く)っから」と別れると、「気をつけでいけーよー」とソヨさんは見送ってくれた。

 二つ違いの兄、勝孝さんの遺体が見つかったのは震災から2カ月近くたった頃だった。ソヨさんと祖父の妹のサヨさん(90)の行方は、今も分からない。

 「あっこ、帰ってきたんか。ずっといろ」と、帰省中に声をかけてくれた近所の人もいない。息子や娘をあやしてくれた向かいのまきちゃん、ひろちゃん、中学時代に気にかけてくれた同級生のお母さん。みんな、いなくなった。

 「やったぐなったら、帰ってこぉ」。嫌になったら、帰っておいで。おっかぁの言葉を電話で聞くだけで、元気になれたのに。

 帰る場所がなくなった。

194チバQ:2011/11/20(日) 21:12:35
   ■

 青々と輝く田を、風が吹き抜ける。戸を開け放った縁側に座り、鈴木重光さん(39)は母親が切り分けたスイカにかぶりついた。

 震災後、福島県いわき市の実家に戻るのは、5月の田植えに続いて2度目だ。その前は、いつ帰ったか、忘れるほど昔なのに。

 「この家も見納めだからかな」。どっしりとカーブを描く瓦屋根を見上げる。地震で基礎が浮き、傾いてしまい、秋には取り壊す。

 4人きょうだいの長男で名前には祖父と曽祖父の名が1字ずつ入っている。家を継ぐのは当たり前、そんな圧力への反発が、故郷を出る背中を押した。

 就職氷河期に世に出たロスジェネ世代だ。20代半ばに仙台でやっと見つけた正社員は商工ローン会社だった。資金繰りに苦しむ中小企業経営者らを居丈高に値踏みした。支店が閉鎖し、次はお年寄りを狙ったリフォーム訪問販売に。2004年、川崎市のトラック工場で派遣労働を始めた。

 車体にブレーキやクラッチを取り付ける班だった。今までで一番、人に喜ばれる仕事だと感じていたのにリーマン・ショック後の08年末に派遣切りされた。

 取り壊す実家は、代わりに家を継ぐ弟夫妻が2世帯住宅に建て直す。もう自分の居場所はない。原発事故のあった福島で仕事を見つけるのも、難しいだろう。

 失ってわかる。いつでも帰れる場所があったから、これまで頑張れた、と。(佐々波幸子、西本秀)

■ふるさとの温かさ、失って痛感

 東京で暮らす阿部明奈さんのもとにソヨさんからよく、段ボール箱が届いた。田んぼでとれた米やみそ、畑のネギやジャガイモが詰まっていた。帰省したときは米1俵としょうゆを持たされ、宅配便で送った。

 仕事の選択肢の少ない田舎を飛び出したものの、故郷の存在はどんどん大きくなる一方だったという。家族は束縛でもあり、心のよりどころでもある。この震災で失ったものの大きさは、東京生まれの私の想像を超えるものだったろう。

 お盆をどこでどう過ごすか。明奈さんはまだ決めかねている。(佐々波幸子)
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195チバQ:2011/11/20(日) 21:13:19
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201107270760.html
避難所出た途端、独り 「孤族の国」3・11から―5【全文】2011年7月31日21時56分

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日が暮れる頃、避難所近くの仮設住宅を訪ねた岩波政美さん。自身は「知り合いもいないから」とアパートへの入居を決めた=福島県郡山市、仙波理撮影
 「山一つ越えれば、こうも気候が違うのかね」

 福島県中部の大玉村で、県内最大規模、630戸の仮設住宅の一室に暮らす小薬(こぐすり)栄次さん(62)が、エアコン全開の車に乗り込む。

 阿武隈の山並みを左に国道4号を南へ。その向こうが自宅のあった富岡町だ。「浜通りの夏は涼しくて住みやすかったんだけど」

 45分後、車は郡山市の「ビッグパレットふくしま」についた。福島第一原発の事故で、町民が役場ごと移った避難所だ。

 顔なじみが集うホールの一角に腰を下ろす。「3カ月もいたからかなあ。やっぱ、落ち着くんだよねえ、ここが」。テレビに目をやりながら、独りごちた。

 仮設住宅に移って1カ月。週に1、2度は避難所と行き来する。30代で妻と父を相次いで亡くし、高齢の母を独りにはできないと東京から帰郷した。その母も他界して4年になる。

 「避難所が閉鎖したら、いよいよ行き場を無くしちゃうなあ」。先週末、数日ぶりに足を運ぶと、親しい顔なじみが何人か、姿を消していた。

    ■

 ビッグパレットには今も約250人が暮らす。小薬さんの居場所から100メートルほど離れた通路で、岩波政美さん(60)は7月半ば、久しぶりに響く子どもたちの歓声に目を細めた。

 「にぎやかでいいねえ」。避難所の夏祭り、周囲に焼きそばの匂いが漂う。

 3年前、富岡町へUターンした。仕事を辞めて故郷でのんびり過ごそうと、兄がいる実家へ身を寄せた矢先、原発事故が起きた。

 福島第一原発の着工1年前、15歳で埼玉へ働きに出て、28歳の時に難病を患った。縁談を断ってきたのは、持病を抱えて妻子を養えるはずがないとの思いからだったが、最近は後悔の念にかられる。

 「自由なんだけど、張り合いがないんだよね」。そう語りながら、涙がほおを伝う。このまま老いたら、どうなるのか。避難所の通路で体を横たえる夜、不安が頭をもたげる。

    ■

 被災者は避難所を出た途端、「孤」にばらけて、個人情報保護の壁の前で見えにくくなる。

 岩手県大船渡市の仮設住宅「地ノ森団地」に住む鍼灸(しんきゅう)マッサージ師菅原史生さん(58)は、弱視で身体障害者手帳3級を持つ。心臓ペースメーカーを付ける父(88)、肺がんを患う視覚障害の妻(55)は1級だ。

 「市の方針で、高齢者や障害者が優先入居の条件らしいんです」。敷地内に慣れ親しんだ顔は少ない。

 陸前高田市の「仲の沢団地」は96戸中、一人暮らし世帯が24戸を占める。自治会長の熊谷省二さん(66)が「支援物資を配るのに必要」と説得して調べた。

 実は、孤独死対策だ。持病は何か。身内は近くにいるのか。「本当はかかりつけの病院まで知りたいが、そこまでは難しくて」

 “はさみ状格差”。大災害後、時間の経過とともに、被災者の中で「元気な人」と「落ち込む人」の差が、はさみが開くように広がっていく現象を指す。

 菅原さんは仮設で営業を再開したが、患者数は震災前の3割に減った。仮設に住む被災者はまだ、一人も来ていない。玄関に車いす用スロープを付けた家が4軒に1軒。「互いの家を行き来するほどの人間関係は想像できません」

 施設のバリアフリーは整備されても、仮設住宅で「人付き合いの壁」を崩すのは簡単ではない。この夏、被災地では、5万戸を目標に仮設住宅の建設が進んでいる。(兼田徳幸、高橋美佐子)

=終わり

■中高年単身世帯へ目配りを

 「妻子を食わせられないくらいなら」と結婚をあきらめた岩波政美さんは、戦後の「標準的な家族像」にとらわれた犠牲者のように思えた。コンビニなどがあれば単身でも普通に暮らせる現代。選び取った「個」でも、ふとしたきっかけで「孤」に傾くことを、震災は改めて浮き彫りにした。

 孤立を防ぐ「見守り」の取り組みが各地で進む。ただ高齢者に比べ、中高年以下は見落とされがちだ。故郷を追われて「地縁」を失い、失業などで「社縁」もはぎ取られた単身世帯への目配りも不可欠だ。(兼田徳幸)

196チバQ:2011/11/21(月) 23:40:37
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111121-00000021-kyt-l26
ホームレス支援雑誌「ビッグイシュー」 震災後、売り上げ減
京都新聞 11月21日(月)14時9分配信


街中に立ってビッグイシューを販売する光冨さん。震災後、売り上げが減っているという(京都市下京区・四条河原町交差点)

 ホームレスの自立を支援する雑誌「ビッグイシュー」の販売部数が、東日本大震災以降、全国的に落ち込んでいる。震災後6カ月の売り上げは前年同期比2割減で、発行元は「原発事故の影響や、被災地への募金活動が優先されたことが理由では」とみている。
 ビッグイシューは街頭でホームレスが1冊300円で販売し、売り上げのうち160円が売り手の収入となる仕組み。震災前は毎月約3万部を販売していたが、震災後は約2万5千部に落ち込んだ。
 京都市下京区の四条河原町交差点を拠点にする光冨紳弥さん(59)は「雑誌は外国人観光客にも人気があったので、原発事故などの影響で外国人客が減ったことが売り上げに響いた」と話す。
 ビッグイシュー日本(大阪市)によると、各地の販売者からは「原発事故後は放射能の影響を避けるため人通りが減った」「節電で駅や繁華街の照明が暗くなり、薄暗い雰囲気を嫌って立ち止まってくれる人が少なくなった」などの声が寄せられているという。
 経営悪化はホームレスの販売者にとって死活問題となるだけに、ビッグイシュー日本の佐野章二代表(69)は「地道に仕事をしている販売者のためにも、誌面改革や販売戦略の見直しを進めたい」と話している。

197チバQ:2012/01/31(火) 12:32:29
http://www.asahi.com/national/update/0131/TKY201201310116.html
求職者の望む仕事把握せず ハローワークに改善勧告

 ハローワーク(公共職業安定所)が求職者の希望を正確に把握しないなどずさんな業務をしている事例があるとして、総務省は31日、厚生労働省に改善を勧告した。

 総務省は過去1年間、全国31カ所のハローワークを調査。うち29カ所で求職者の「希望する仕事」「希望勤務地」を把握していない事例があった。求人内容の確認も不十分で、不正確な労働日数が記された求人票が23カ所、最低賃金を下回っていたのも6カ所でみられた。また求職相談1万682件のうち7割にあたる7589件の記録に不備があった。求人紹介後、採否結果を確認していなかったケースも14カ所であった。

198とはずがたり:2012/02/08(水) 13:12:01

単身女性32%が「貧困」 20〜64歳、国立研究所分析
http://www.47news.jp/47topics/e/225432.php

 単身で暮らす20〜64歳の女性の3人に1人が「貧困状態」にあることが国立社会保障・人口問題研究所の分析で8日、分かった。生活の苦しい人の割合を示す「相対的貧困率」が32%だった。単身の20〜64歳男性は25%で、女性の苦境が際立っている。

 同研究所の阿部彩(あべ・あや)部長は「以前から女性が労働環境で置かれている地位は低く、貧困状態も女性に偏る傾向がある」としている。

 厚生労働省の2010年の国民生活基礎調査のデータを基に同研究所が分析。相対的貧困率は国民1人当たりの可処分所得を高い順に並べ、真ん中となる人の所得額(中央値)の半分に満たない人が全体の中で占める割合を示す。10年調査では年間の可処分所得112万円未満の人が該当する。

 65歳以上の単身で暮らす女性の貧困率は47%で、やはり男性の29%よりも高かった。

 また、19歳以下の子どもがいる母子世帯の貧困率は48%だった。

 阿部部長は「最近は若い男性にも貧困が浸透しており、若年層に向けた国の雇用対策が課題となる」としている。

 (2012年2月8日、共同通信)
2012/02/08 11:25

199とはずがたり:2012/02/08(水) 22:13:45

浜松市の生活困窮求職者支援施設 来年度も継続へ
(2/ 4 08:38)
http://www.at-s.com/news/detail/100097023.html

 生活困窮などで自立生活が困難な求職者の就労支援施設として、昨年5月に同市中区のザザシティ浜松中央館に開設された「浜松市パーソナル・サポート・センター」が2012年度も継続運営されることが3日までに、関係者への取材で分かった。
 同センターは内閣府のモデル事業の一環。浜松市の実施計画が採用され、国から8600万円の交付金を受けてことし3月までの期間限定で試験運用している。関係者によると、来年度も引き続きモデル事業に採用され、国から1億円余りの事業費が市に交付されることが内定したという。
 運営はNPO法人「青少年就労支援ネットワーク静岡」(理事長・津富宏県立大教授)に委託していて、来年度も同法人に委託する可能性が高いという。

200チバQ:2012/02/20(月) 00:28:49
http://www.asahi.com/national/update/0218/SEB201202180041.html
2012年2月19日10時24分
返せぬ奨学金、返還訴訟が急増 背景に若者の困窮機構が起こした訴訟件数の推移


 学生時代に受けた奨学金の返還に行き詰まる例が相次いでいる。国内最大の奨学金貸与機関、独立行政法人・日本学生支援機構が返還を求めて全国の裁判所に起こした訴訟は、過去5年間で9倍近くに急増した。背景に、就職の失敗や就職先の倒産で生活に困窮する若年層の姿が浮かぶ。

 「最初に就職した会社がつぶれなければ、こんなことにはならなかった」。昨年夏、機構から奨学金の一括返済を求める訴訟を起こされた北九州市小倉北区の男性(28)は悔しがった。

 約220万円の奨学金を受け、2006年3月に福岡県内の私立大を卒業。呉服販売会社に就職し、同年4月から毎月1万3千円ずつ返し始めた。ところが、わずか5カ月後の8月末、会社が破産手続きに入り、いきなり解雇された。10月に飲食店に再就職したが、手取り月給は約14万円に減り、家賃や車のローン、生活費に消えた。やむなく機構に返済猶予を申し出た。

 07年9月に結婚して返済を再開。1年弱は支払ったが、子育て費用などで再び行き詰まり、08年夏ごろ、2度目の猶予を申請。10年6月には飲食店を辞め、日雇い派遣などでしのいだ。同年12月に3度目の就職が決まったが、昨年春には、機構から未返済の190万円の一括納付を求める郵便が届くようになった。

 「まだ大丈夫だろう」と思っていた昨年夏、機構の担当者から電話で告げられた。「裁判になりました」。男性は、その後、23年1月まで月1万5千円ずつ、延滞金を含め計約200万円を支払うことで機構側と合意した。

■過去5年間で9倍に

 日本学生支援機構の奨学金には、無利息の「第1種」と、利息がつく「第2種」があり、2011年度時点の貸与額は新規と継続分を合わせて1兆781億円(予算ベース)。不況のせいか、奨学金を利用する学生は増える一方だ。11年度は約127万人で、10年前の約1.7倍に。延滞額も増え続けている。10年度は852億円で、5年前の約1.5倍に増えた。

201チバQ:2012/02/21(火) 22:29:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120221-00000301-wedge-pol
生活保護化する原発就労補償 震災から1年 被災地雇用の現実
WEDGE 2月21日(火)12時14分配信

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南相馬市へ向かう途中で通った飯館村。行き交う車は少なくないが、歩いている人は見かけなかった。「除染モデル事業実施中」との立て看板が見える。

 「福島の再生なくして日本の再生はございません」

 昨年9月の就任演説でこう強調し、12月には東京電力福島第一原発の冷温停止状態を宣言した野田佳彦首相。だが、現場からは「国の方針が見えない」「雇用の受け皿がない」など、厳しい声ばかり聞こえてくる。1月下旬、南相馬市を訪ねた。取材を通じて、原発就労補償が“生活保護化”する現実が広がりつつある実態が見えてきた。

■飯舘村でトラック数十台とすれ違う

 降り積もった雪が残るJR福島駅から車で南相馬市へ向かった。国道114号線から県道12号線を進み、しばらくすると、飯舘村に入る。原発から20キロ圏外だが、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトとなる計画的避難区域で、全村避難を強いられている。人の気配はまったく感じられない。途中で寄った道の駅は、「臨時休業します」の張り紙が貼られたままだった。

 だが、車はひっきりなしに往来し、ガレキを積んでいるわけでもない、何十台ものトラックとすれ違った。後で、海岸沿いの国道6号線が原発事故で不通となったため、南相馬市から南関東に向う工業製品などを乗せたトラックが迂回しているのだと聞いた。

 また、「除染モデル事業実施中」の立て看板が目に付いた。日本原子力研究開発機構が公募し、大手ゼネコンを中心とする共同事業体(JV)が現在、除染作業を行っているためだ。

■赤ちゃんが消えてスーパーも開かない

 「震災以降、放射能汚染を恐れ、この町から、主婦と赤ちゃん、そして、子供たちが消えました」

 南相馬市議会議員の奥村健郎さんは、ため息交じりにつぶやいた。奥村さんによると、震災前には約7万3000人いた人口も今では約4万人に減少している。また、市内にある太田小学校は震災前、約130人もの児童がいたが、現在は50人近くまで減少しているという。

 最大の課題は、除染をどう進めていくかということだ。除染なくして、復興はない。「20キロ圏内の警戒区域には200〜300人の従業員を雇用する工場がいくつかありました。4月1日をメドに警戒区域を解除するとの方針が示されましたが、自由に出入りできるのか、できないのか、まったくわからず企業も困っているはずです」(同)。

 事実、ゴルフのシャフトなどを製造する藤倉ゴム工業小高工場は、昨年2月に100名規模の工場を稼働させたばかりだった。「どのように対処すべきか検討中」(同社総務・広報チーム)というように、撤退か存続か、多くの企業が悩んでいることは間違いない。

 問題はそれだけではない。人手不足で、一部のスーパーでは再開のメドが立たないために住民は、不自由な生活を強いられている。「赤ちゃんや子供と一緒に多くの主婦が避難したため、再開しようにも、従業員が集まらない」(ハローワーク相双統括職業指導官の菊池正広さん)という状況が続いているからだ。

202チバQ:2012/02/21(火) 22:29:34
■“民”の力を結集した除染プロジェクト

 南相馬市はいま、警戒区域と計画的避難区域とそれ以外と、3つの区域に“分断”されている。車を走らせると、市内の至る所に「立入禁止」の立て看板があり、警察官の姿も見える。道路一本を挟んで向かい合う、整備された農地と荒れ果てた農地が“分断”を象徴している(写真)。

 南相馬市は昨年11月、除染計画をまとめ、2014年3月末までに、除染を行うことを決めた。住宅や学校などの生活圏を担当する市の除染対策室によると、「2月中に作業を開始できるように現在、業者を選定中」だという。
だが、除去土壌等の仮置き場が決まらない中、計画どおりに進むとは限らない。このままでは人口流出がますます進む恐れもある。こうした事態を乗り越えようと、南相馬市の原町商工会議所青年部を中心に有志メンバーによる除染プロジェクトが立ち上がった。

 「炎天下の昨年6月に、汚染された畑を何とかしようとするおじいさんの姿に心を打たれました。行政や東電に任せていても、ほとんど進みません。自分たちの手で、この町をなんとかしようと決意しました」

 こう語るのは、建材の販売施工会社の経営者で、みなみそうま除染企業組合理事長の但野英治さん。組合員は約20人で、業務もさまざまだ。但野さんは言う。

 「足場、塗装、掃除、土建など、多岐にわたります。除染方法は検討中ですが、みんなで手を組めば、住宅の屋根や壁の除染ができると考えています。今後は、福島大学や東北大、北里大の研究チームとも連携する予定です」

 但野さんは、このプロジェクトが地元住民の雇用の受け皿になることも視野に入れている。

 「行政の除染計画では、大手の建設会社に発注することになります。そうなれば、地元の会社は下請けになり、黙っていたらゼネコンにピンハネされる可能性もあります。そのためにも自分たちの力でやらなければ」

 背景にあるのは、「原発事故に伴う就労補償が生活保護のようになってしまっている」ことに危機感を覚えているためだ。「もちろん、仕事ができない状態にした東電の責任は大きい」と怒りを押し殺しながら、但野さんはこんな事情を教えてくれた。

 「就労不能になれば、以前の収入の不足分は補償され、人によっては、原発事故以前よりも1.5倍ほどの収入になったと聞きます。というのも、家族が町から避難すれば、1人あたり10万円ということもあるからです。もちろん、そうなることを望まない人もいるでしょうが、以前の収入よりも、原発事故に伴う補償のほうが多くなり、就労意欲が著しく失われる人が見受けられます」。話し終えると、但野さんはやりきれないという表情を浮かべた。

 南相馬市では、工場が閉鎖されるなどして雇用が失われる一方で、人が戻ってこないことや、就労意欲が削がれることで労働力不足が生じていた。

203チバQ:2012/02/26(日) 16:50:50
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120226-00000070-san-soci
餓死者、バブル崩壊後急増 セーフティーネット不備映す
産経新聞 2月26日(日)7時55分配信

 さいたま市で親子3人が餓死とみられる状態で見つかった問題で、全国の餓死者はバブル崩壊後の平成7年に前年の約2・8倍の58人に急増、それ以降、高水準で推移していることが25日、分かった。22年までの30年間の餓死者数は1331人で、うち7年以降が8割以上を占めた。専門家はセーフティーネット(安全網)のあり方の見直しを呼びかけている。

 厚生労働省の「人口動態統計」によると、死因が「食料の不足(餓死)」とされた死者は昭和56年から平成6年まで12〜25人だったが、7年に58人、8年には80人を突破。それ以降、22年に36人となるまで毎年40人以上で推移し、過去30年間の最高は15年の93人だった。

 50代の死者が多いのも特徴だ。22年までの16年間で50代の死者数は348人、60代が252人、40代が185人に上り、40〜60代で全体(1084人)の72%を占めた。男女比は30年間で男性が女性の約4・5倍と圧倒的に多かった。

 死亡場所は「家(庭)」が多く、59〜85%(7〜22年)を占める。このため、行政や地域社会のセーフティーネットから、何らかの理由でこぼれ落ちていた可能性も指摘されている。

 貧困問題や生活保護に詳しい小久保哲郎弁護士は「餓死者の急増はバブル崩壊後、急速に景気が悪化した時期と重なっている。当時、雇用状況の悪化に伴ってリストラなどで失業者が増加した」と指摘する。

 また、高齢者ではない「50代男性」の餓死者が多いことには、「稼働層といわれる働き手世代のうち、年齢的に再就職が難しいことから50代が突出したのではないか」と分析した。

 女性よりも男性が多いことについては、「男性は自立できるはずという強い社会規範がある」とし、行政などから助けを受けることに心理的抵抗を感じている可能性があるとみている。

 不況が続き、今後も餓死者が増える恐れがあることから、小久保弁護士は「労働と社会保障の仕組み全体を改善する必要がある」と話している。

204チバQ:2012/02/28(火) 22:56:40
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012022500173
住民登録、生活保護申請なし=行政、困窮世帯把握に課題−3人餓死・さいたま
 さいたま市北区のアパートで20日、60代の夫婦と30代の息子とみられる男女3人の遺体が見つかった。3人は餓死した可能性が高く、埼玉県警は住人とみて身元の確認を進めているが、この3人は同市に住民登録しておらず、生活保護の申請もしていなかった。
 県警によると、アパート管理会社社員が「昨年11月から連絡が取れない」と通報、警察官とともに訪れ遺体を発見した。死後約2カ月。室内で見つかった現金は一円玉数枚だけで、冷蔵庫に食料品はほとんどなかった。
 捜査関係者によると、息子が以前建設関係の会社に勤務していたとみられる書類が見つかったが、最近の3人の就業状況は不明だ。
 アパート所有者の男性(57)によると、3人は11年前に秋田県大館市から引っ越してきた。アパートの間取りは2K、家賃は約6万円。(2012/02/25-14:10

205チバQ:2012/03/10(土) 18:14:16
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120310/waf12031018000016-n1.htm
あの「芦屋」で生活保護世帯が増え続ける「理由」
2012.3.10 18:00 (1/5ページ)

山の手に位置する高級住宅地「六麓荘町」。眼下に大阪湾も見え、見晴らしは抜群だ=兵庫県芦屋市
 高級住宅地のイメージのある兵庫県芦屋市で生活保護世帯が増え続け、今年1月末時点で1年前と比べ約70人増えて594人に達した。市は平成24年度予算案に、生活保護経費として初めて10億円を超える10億3400万円を計上。市の担当者は「生活保護受給者が増えているのは全国的な傾向」といい、不況の影響を受けているのは芦屋だけではないという。芦屋に住んでいるのは、“お金持ち”だけではないのだろうか。(加納裕子)

 

高級住宅地のイメージ


 芦屋市は兵庫県東南部に位置し、六甲山と瀬戸内海に挟まれた面積約18平方キロメートルの自治体。大阪や神戸のベッドタウンとして住宅開発が進んだ。市域を縦断する芦屋川沿いや、昭和初期に開発された高級住宅地「六麓荘町」には財界人などの豪邸が次々と建てられた。

 芦屋市の今年2月時点での人口は約9万4千人(推計)。大企業などが存在しないため法人市民税による収入は少なく、市の財政は所得に応じて増額される個人市民税に頼っている。市によると、平成22年度決算での住民1人当たりの個人市民税は約11万9千円で日本一。市の担当者は「いつからかは分からないが、阪神大震災で被災した平成7〜8年度を除けば、おそらくずっと日本一なのでは」という。

 住民のブランド意識も高い。六麓荘町では住民の強い要望を受け、市は敷地面積400平方メートル以上の豪邸しか建てられない住宅地として条例に規定した。平成21年7月には全市域が景観地区となり、その後、芦屋川沿いの地域はさらに建築規制の強化された特別景観地区として指定。別の条例でパチンコ店などの出店も規制され、市内にはパチンコ店が1店もない。

 一方、厳選した飲食店を紹介する「ミシュランガイド京都・大阪・神戸・奈良2012」には芦屋市内の飲食店が8店掲載されており、人口比でいえば高い割合である。市域全体が上質なイメージでブランド化されているのが、芦屋なのだ。

206チバQ:2012/03/10(土) 18:14:49
生活保護が増えたといっても…


 そんな芦屋で、生活保護受給者が少しずつ増えている。

 芦屋市によると、生活保護世帯は平成18年4月時点では359人だったが、昨年4月には528人と5年間で約170人増えた。それが今年1月末には594人と1年足らずで70人も増えており、増加のペースは上がっている。生活保護経費の予算も増大しているという。

 ただ、生活保護が増えているのは全国的な傾向。人口に対する生活保護受給者の割合は0・6%で、全国的にみればむしろ相当に低い水準といえる。

 厚生労働省によると、昨年11月時点の全国の生活保護受給者は約207万人で、人口に対する割合は1・6%。生活保護の割合が高い大阪市の受給者は約15万人で人口の5・6%を占め、予算規模も数千億円にのぼっている。

 芦屋市生活援護課によると、市内で新たに生活保護を受ける人たちは、もともと市内で暮らしていた人が高齢になったり病気になったりして仕事もできず、預貯金が底をついた−などの事情が多く、困窮した人が流入する傾向のある大阪市などとは異なるという。

 芦屋市内のスーパーや飲食店などは、価格設定が高めの店が多い。市の担当者は「生活保護受給者にとって暮らしやすい町とはいえないのではないか」と本音を漏らす。

 

イメージを維持しながら多様な住民で活性化


 そもそも芦屋は、東京の高級住宅地である田園調布や成城、麻布などの限られた街区とは違い、一つの自治体である。市民のすべてが広い豪邸に住むセレブのはずがなく、賃貸住宅に住むサラリーマン家庭ももちろんいる。とくに近年、市民の所得階層が分散する傾向にあるという。

 昨年10月に芦屋の歴史、経済、まちづくりなどを総合的に研究する「芦屋学研究会」を立ち上げた芦屋大臨床教育学部の楠本利夫客員教授は「芦屋市は市域が狭くかつては大規模開発はできなかったが、昭和40年代以後、臨海部が埋め立てられ、市内に集合住宅が数多く建設された。阪神大震災、長引く不況の影響もあり、住民の年齢、所得階層、国籍が多様化してきた」と指摘している。

 楠本客員教授はこうした現状を踏まえ、「高級住宅地のイメージを維持しながら住民の多様性を生かして芦屋を活性化していくことが必要だ」と強調。芦屋学研究会でも「都市イメージの維持と住民の多様化」を研究テーマの一つに掲げて分析を進めるという。

 全国的な水準と比べれば芦屋の生活保護受給者の割合は高いとはいえないものの、不況や高齢化といった問題は確実に影を落としている。芦屋は今後、大きな転機を迎えるのかもしれない。

207チバQ:2012/03/10(土) 22:17:55
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120310-OYT1T00034.htm
地震保険と義援金で被災者の生活保護打ち切り



. 巨大地震
 東日本大震災で被災後に受け取った地震保険金などが収入にあたるとして、宮城県塩釜市から生活保護を打ち切られた女性(63)が県に審査請求し、県側が市の生活保護打ち切りを取り消す裁決をしていたことが9日、分かった。

 同日、支援団体が記者会見して明らかにした。女性は震災当時住んでいた多賀城市のアパートが全壊。転居した塩釜市で昨年5月に生活保護を受け始めたが、女性が受け取っていた地震保険金約57万円や義援金が収入とされ、7月に市から生活保護を打ち切られたという。

 県の裁決書は今月5日付で、市側が女性の生活再建に必要な資金の確認や検討をせず、保険金などを収入と認定したのは妥当性を欠くとし、生活保護の打ち切りを取り消すと結論づけた。

 塩釜市社会福祉事務所は「地震保険金や義援金で、女性が当面生活できると判断した。裁決を踏まえ適切に対応する」としている。

(2012年3月10日16時07分 読売新聞)

208チバQ:2012/03/20(火) 19:06:55
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120225/CK2012022502000141.html?ref=rank
福島第一で過労死認定 御前崎の原発作業員
2012年2月25日

「心配するな」言い残し
 東京電力福島第一原発事故の収束作業中に心筋梗塞で死亡した御前崎市の作業員大角(おおすみ)信勝さん=当時(60)=の遺族が、横浜南労働基準監督署(横浜市)に労災申請していた問題で、労基署は24日、「短時間の過重業務による過労死」として労災認定した。厚生労働省によると、同原発の事故をめぐる作業員の過労死認定は初めて。

 同日夕、静岡県庁で会見した遺族代理人の大橋昭夫弁護士は「防護服、防護マスクを装備した不自由な中での深夜から早朝にわたる過酷労働が、特に過重な身体的、精神的負荷となり心筋梗塞を発症させた」と認定理由を説明した。遺族には国から労災保険金が支給される。

 労災は昨年7月、大角さんの妻でタイ国籍のカニカさん(53)が申請。申請書によると、大角さんは元請けの東芝の四次下請けに当たる御前崎市内の建設作業会社に臨時で雇われ、昨年5月13日から集中廃棄物処理施設で放射性物質に汚染された水を処理する配管工事に従事した。

 13日は未明に宿舎を出発し、防護服などに着替えた後、午前6時から3時間、作業に従事。昼食を取り、午後3時ごろ宿舎に戻った。翌14日も未明に宿舎を出て午前6時から作業に入った。約40分後に体調不良を訴え、その約2時間40分後に福島県いわき市内の病院に搬送されたが、死亡が確認された。死因は心筋梗塞で、被ばくの影響はないとされている。

妻「ようやく認められた」
 「福島へ行かなかったら、きっと夫は今も生きていた」。24日夜、夫婦で暮らしていた御前崎市池新田のアパートで、弁護士から労災認定の知らせを聞いた大角さんの妻カニカさん。すぐに夫の遺影に手を合わせ「ようやく認められたよ。良かったね」と涙を流して報告した。

 カニカさんはタイ出身で、2002年に大角さんと結婚。浜岡原発などで働く大角さんと新婚生活をスタートさせた。

 夫が福島に向かう時「心配するな。おれは元気だし、大丈夫だ」と声を掛けられたという。「夫は病気もなく、元気だった。福島では大変な作業だったんだと思う。引き留めればよかった」と悔やむ。

 大角さんは病死と判断され、カニカさんは「何の補償も受けなかった」という。現在も同じアパートで1人で暮らし、生活のために週5、6日、パートを続けている。

 「優しい夫が突然いなくなり、独りぼっち。生活も苦しく、つらい毎日です」とカニカさん。労災認定の朗報に「夫が好きだったカレーライスを作り、ねぎらいたい」と悲しげな笑顔を見せた。

過酷な環境 毎日3000人
 福島第一原発事故収束作業の現場で働く東京電力社員や下請け企業の作業員は今も1日約3000人に達する。政府・東電は昨年12月に「事故収束」を宣言したが、大量被ばくのリスクは変わらない。事故から間もなく1年、今も過酷な環境での労働が続く。

 作業員たちは体や衣服に放射性物質が付着するのを防ぐため、不織布製の防護服を着て全面マスクを装着。累積線量管理のための線量計も手放せない。

 事故当初は食事、物資の補給が間に合わず、作業後に体育館や会議室の固くて冷たい床で寝る日々が続いた。東電社員や作業員の中には、自宅が津波に襲われて「被災者」となった人も多い。中には家族の安否が分からないまま勤務を続けた人もいた。

 夏には、暑さと汗で防護服の中は“蒸し風呂”状態に。エアコンを完備した休憩所の整備が遅れたこともあり、熱中症で倒れる人が相次いだ。

 東電は、作業員に適切な休憩を取るよう呼び掛けたが「同僚に迷惑を掛ける」「休んでいたら工期に間に合わない」との責任感から、休まず作業を続ける人が相当数に上った。

209チバQ:2012/03/20(火) 19:08:16
http://www.j-cast.com/kaisha/2012/02/28123581.html
過労死をなくす、たったひとつの方法
2012/2/28 11:10

ワタミの過労自殺問題で、渡邉美樹社長に対するバッシングが盛り上がっている。責任の所在については経営者に帰せられるのは当然なので、別に異論はない。ただ、同様の悲劇を防ぐための対策は別途考える必要がある。というのも、経営者にお灸を据えた程度では、この種の問題は決して根絶しないからだ。

まず、そもそもの大前提として、日本に「従業員が死んでもいいから働き続けろ」と考えている経営者はいない。当たり前の話だが、従業員が過労死や過労自殺することによって受ける社会的信用の毀損は、月に100時間残業させることで稼げる利益よりケタ違いに大きいからだ。

ワタミのようにトップが目立ちたがり屋の企業ならなおさらで、きっと今ごろ人事部門の責任者は社内で責任を追及されているはずだ(とはいえそれを監督するのがトップの務めであるわけで、やはり最終的に渡邉社長自身の責任問題だろう)。

忙しかったら従業員をじゃんじゃん採用しろ
では、管理職や人事部にはっぱをかければ、この種の出来事は未然に防ぎきれるだろうか。筆者の経験上、それは難しいと考える。たとえば、厚労省は過労死の認定基準について、以下のように定めている。

「発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できることを踏まえて判断すること」
月に100時間、もしくは2か月間連続で80時間以上残業している従業員全員と面談し、メディカルな部分まで含めてチェックできるかというと、現実にはなかなか難しい。

筆者は以前、担当事業所で3か月連続で100時間を越える従業員のチェックを担当していたが、やっている自分の残業時間が150時間を越えてしまった。それでも十分なチェックができていたとは思えない。当時(自分も含め)誰も死ななかったのは運が良かっただけの話である。

では、抜本的な対策は何か。もうこれは単純に、厚労省が言うように、月の残業時間を80時間未満に抑えるしかない。つまり、忙しかったら従業員をじゃんじゃん採用しろということだ。そして人的リソースをジャブジャブにした上で、

「残業するなんてバカじゃないの?」
という他国ではごく常識的な価値観を社会全体で共有すればよい。

210チバQ:2012/03/20(火) 19:08:35
「人を雇うと発生するしがらみ」を減らせ
もちろん、そのためには「企業がどんどん人を増やしやすくなる環境整備」が必要となる。社会保険料の事業主負担や最低賃金といった「企業が負担せねばならない社会保障コスト」を思い切って減らしつつ、雇用契約の見直しを柔軟に認める流動化が必須だろう。

人を雇うと発生するしがらみを減らすことが、もっとも多くの雇用を生み出すのだ。

実は筆者は、上記のような政策が、労働者の側にもう一つの、目には見えないが強力なセーフティネットを作りだしてくれるのではないかと強く期待している。

それは「辞めたくなったらいつでも辞められる環境づくり」だ。このご時世、せっかく入った会社を辞めたくても辞められない人は多いだろう。中には歯を食いしばって、月百時間以上の残業に耐えている人もいるはずだ。

そんな時、いつでもアクセス可能な流動的な労働市場があれば、状況は大きく変わるのではないか。

「石の上にも3年」というのは日本独自の美徳だが、美徳が生命の上に位置してはならない。そんなことはやりたい奴が勝手に我慢比べをしていればいいだけの話で、そうでない人のための抜け道を整備するのが、究極の過労死対策だろう。

城 繁幸

211チバQ:2012/03/20(火) 19:28:10
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120320-00000019-yonh-kr
韓国総選挙 与党の比例名簿1位は女性科学者
聯合ニュース 3月20日(火)15時32分配信

【ソウル聯合ニュース】韓国与党のセヌリ党は20日、4月11日投開票の総選挙(国会議員選挙)の比例代表名簿を発表した。韓国原子力研究院の閔丙珠(ミン・ビョンジュ)研究委員が1位に登録された。党の選挙対策委員長を務める朴槿恵(パク・クンヘ)党非常対策委員長は当選予想圏の中間ラインとされる11位だった。
 名簿に登録されたのは計46人。閔氏を含め女性候補が上位10位までに5人入った。この中には元卓球韓国代表の李エリサ氏(9位)が含まれている。
 北朝鮮脱出住民(脱北者)で初めて1級公務員になった趙明哲(チョ・ミョンチョル)統一教育院長が4位に登録されたほか、昨年大ヒットした映画「ワンドゥギ」に出演したフィリピン出身の李ジャスミンさんが17位に登録された。
 名簿を発表した党公職候補者推薦委員会の鄭フン原(チョン・フンウォン)委員長は「どれだけ国民に感動を与えられるかを最も考慮した。分野別の役割や功績も参考にした」と述べた。
sarangni@yna.co.kr 最終更新:3月20日(火)15時32分

212チバQ:2012/03/20(火) 23:15:10
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120107/wec12010712000000-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(1)復興の犠牲者たち】
美談で済まされぬ「フクシマの英雄たち」
2012.1.7 12:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

福島第1原発で働く東京電力の社員ら原発労働者は、第2原発の体育館で防護服のまま雑魚寝していた=2011年5月(谷川武愛媛大教授提供)
 福島第1原発の事故収束にあたった原発労働者や消防・自衛隊員たちが、スペイン王室のアストゥリアス皇太子基金から「フクシマの英雄たち」として表彰された。基金は創設約30年と歴史は浅いが、過去には国境なき医師団など国際平和に貢献した個人や団体に平和部門賞を授与しており、欧州ではノーベル賞に匹敵する権威ある賞として知られている。


作業開始40分後に倒れ…死亡


 「彼らは極限状態にあるにもかかわらず、さらなる大惨事が起きるのを避けようと闘った。義務感や自己犠牲の精神という、日本社会に根付いた価値を示してくれた」。授賞理由にはそうあった。だが、10月21日の授賞式に原発労働者の姿はひとりもなかった。

 東日本大震災による大津波で炉心溶融(メルトダウン)を起こした原子炉は、冷温停止の達成目標が年内に前倒しされたとはいえ、今も「誰か」が放射線に身をさらさなければ、制御できない。

 厚生労働省によると、福島第1原発では毎日約2千人が働き、フクシマの英雄たちは、東京電力の社員と下請け労働者だけで、10月の段階で累計1万9237人にのぼっているというのだ。

 一方でこんな現実もある。3〜6月に作業に当たった下請け労働者のうち、341人が一時、所在不明となった。

 「推測にはなるが、労働者たちが過酷さや恐怖のあまり逃げ出した可能性がある」。原発労働に詳しい関西労働者安全センターの事務局次長、片岡明彦(52)はこう指摘する。「無名の労働者たちによる献身という美談で、済まされる話なのだろうか」


自然に息さえも…


 真夏の作業。高線量の放射線から原発労働者の身を守った防護服は、代わりに42人を熱中症にした。

 防護服は、微細なポリエチレン繊維を幾層にも重ねた特殊シートが素材で、空気をほとんど通さない。場合によっては厚手の上着や雨がっぱを上から着込み、酸素ボンベ付きの人工呼吸器を背負うこともある。

 暑さに加えて息苦しさも追い打ちをかける。顔面を覆う防護マスクには、放射性物質を吸着する活性炭入りのフィルターが組み込まれているためだ。福島第1を含む原発3カ所で約30年前、下請け労働を体験したフリーライターの堀江邦夫は、著書「原発ジプシー」(現代書館)の中で、その過酷さをこうつづる。「ごく自然に息をすることさえできない−こんな生理的・精神的な苦痛を伴う労働が他にあるだろうか」

213チバQ:2012/03/20(火) 23:15:28

死と隣り合わせの重圧


 静岡県御前崎市の配管工、大角信勝=当時(60)=は5月14日、汚染水処理施設の配管設置工事にあたっていたさなか、心筋梗塞で死亡した。雇い主である建設業者の説明は、こうだ。

 深夜に宿舎を出発し、午前3時半、前線基地である「Jヴィレッジ」で防護服に着替えた。その後、約20キロ離れた福島第1原発で朝礼を受け、6時から作業を開始。重さ約50キロの機械を同僚と2人で運ぶ途中、体調不良を訴え意識を失った。6時40分ごろのことだったという。

 構内には当時、医師は常駐しておらず、東電の業務用車両に乗せられJヴィレッジに引き返し、さらに約45キロ先の福島県いわき市内の病院に搬送されたが、すでに倒れてから約2時間40分も経過していた。

 大角は作業2日目に死亡したが、生活は楽ではなく半年前からは建設現場でガス溶接の仕事に当たっており、狭い所に無理な姿勢で潜り込む厳しい作業が続いたことから、毎日のように「しんどい。大変だよ」と妻に漏らしていたという。

 7月13日、妻は労働基準監督署へ労災を申請している。代理人を務める弁護士の大橋昭夫(63)はこう語る。「直前までの負担に加え、死と隣り合わせの環境で緊張を伴い、さらに防護服による蒸し暑さにも耐えようとした。これは、れっきとした過労死だ」

(敬称略)





 

 「karoshi」として世界に知られてしまった日本の過労死問題。第2部では、東日本大震災の復興に立ち向かう人々が直面する“震災過労死”を追う。

214チバQ:2012/03/20(火) 23:16:06
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120107/wec12010719000003-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(2)復興の犠牲者たち】
日給2万円…原発労働の対価と代償
2012.1.7 19:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

福島第1原子力発電所事故で、1号機の格納容器につながる配管を切断する作業員=2011年10月(東京電力提供)
 「おまえ、裏切ったな!」

 福島第1原発事故の収束作業中に死亡した静岡県御前崎市の配管工、大角信勝=当時(60)=の妻、カニカ(53)は、夫が勤めていた建設業者の社長の言葉が忘れられない。

 社長は50万円と引き換えに、ある書類に判を押すよう迫っていた。タイ国籍で日本語が不自由なカニカには読めなかったが、示談書のたぐいだったことは間違いないだろう。一度断ると、社長は金額を倍の100万円に引き上げ、それでも頑としてうなずかないカニカに、そう怒鳴りつけたという。

 最初から社長はこんな態度をとっていたわけではない。福島市内の斎場で大角が荼毘(だび)に付されるまで、カニカにかかった宿泊費や交通費を負担した。大角が働いた分の給料も払い、生活に困るカニカに米を10キロ差し入れもした。

 だが、カニカは市役所の無料相談を通じて代理人弁護士の大橋昭夫(63)と連絡をとり、労災申請の準備を進めていた。

 「裏切ったな」という社長の言葉は、弁護士に助けを求めたことに対する逆恨みだけではなかったはずだ。背景には、労災が認められれば経営が傾きかねないという抜き差しならない事情があるのだ。大橋は端的に言う。

 「元請けから仕事が来なくなるのを心配したのだろう」


「協力会社」の欺瞞


 この業者は、東京電力が工事を発注した大手企業からみて4つめの下請けに当たる。電力会社が呼ぶところの「協力会社」である。

 「協力を強いられているのに、あたかも進んで協力していると錯覚させる欺瞞(ぎまん)に満ちた名称だ」。そう批判するのは、約40年間にわたり原発労働者を取材してきたフォトジャーナリスト、樋口健二(74)だ。樋口は言う。

 「底辺の労働者が何社もの下請け業者から搾取されている構造の上に、日本の原発は成り立っている」

 汚染水処理施設の配管設置工事で、社長が大角に約束した賃金は、日給2万円だった。ただし、東電が発注した際の人件費が日給いくらと見積もられていたかは、定かでない。

 2万円という日給が、危険とストレスの大きい仕事に見合った金額だったかはともかく、大角夫妻にとっては願ってもない条件だった。自宅アパートは6畳2間の2DKで、家賃は4万5千円。カニカが働くコンビニ弁当の製造工場の月給は、手取りで10万円強だ。

215チバQ:2012/03/20(火) 23:16:27
 一方で、配管工としての大角の仕事は、この不況ともなれば収入も限られる。浜岡、島根、志賀…。大角の放射線管理手帳には、少なくとも平成3年から各地の原発を転々として働いていた記録があった。生きていくには、その経験を生かすしかなかったのだ。


最後の晩餐、愛の言葉


 「福島での仕事が決まったとき、私は『頑張ってな』と言ってしまった。止めたらよかった」。カニカはそう涙をぬぐった。

 自宅アパートは中部電力浜岡原発から約2キロの住宅地にある。停電の多いタイの農村で生まれ育ったカニカは、世界有数の技術力で電気を量産する日本の原発が、たとえ事故を起こしていても危険なはずはないと考えていた。出発の前日、夫とともに旅行かばんと作業着を買いに行き、食卓に好物のカレーと刺し身、缶ビール2本を並べてささやかに前祝いまでした。

 「お父さん、周りの人に迷惑かけちゃだめよ」

 「心配するな。母ちゃんは自分のことを考えな。そして2年でお金をためて、早くタイで暮らそう」

 カニカが労災を申請したのは、「原発事故の収束のために死んだのだから、仕方がない」と思われることが、耐えられなかったからだ。カニカは言う。「地震や津波でさよならも言えず亡くなった方々は大勢います。私よりつらいと思います。でも私もつらいんです」

(敬称略)

216チバQ:2012/03/20(火) 23:17:04
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120108/wec12010815010003-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(3)復興の犠牲者たち】
津波被害との闘いの果てに…
2012.1.8 15:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

救援物資の受け入れ作業に奮闘する七ケ浜町職員=2011年4月、宮城県七ケ浜町(佐藤裕介撮影)
 東日本大震災から1週間たった3月18日未明。集中治療室に搬送された宮城県七ケ浜町の税務課長、佐藤栄一郎=当時(60)=は、輸血をされながらあるうわごとを言った。「心配するな。早く役場に戻ってくれ」。付き添いに町職員がおらず、家族だけだと知ると、妻の久美子(55)に「ごめんな」と言い残し、息を引き取った。


町民から「税金で食ってる、当然だ」


 仙台湾に面した七ケ浜町は、町内の約4割が津波にのまれた。死者・行方不明者は107人。隣接する石油コンビナートは火災で4日間、燃え続けた。電気は復旧までに2週間、水道は1カ月以上を要している。

 非常用の発電機でしのいでいた町役場で、佐藤は当時、部下らとともに不明者の安否確認や炊き出しに追われていた。不眠不休で働き、職場で吐血し倒れたという。

 こんな非常事態に、帰宅することは絶対にない、と久美子が悟っていたとおり、辛うじて被害に遭わなかった自宅に、佐藤は震災後、一度も戻らなかった。家族旅行や子供の行事よりも仕事を優先する男だ。久美子は、夫を誇りにこそ思っても、責める気持ちになどならなかった。

 久美子は言う。「主人は死ぬまで役場で働けて、本望だったんじゃないかと思うんです」


労災申請に“罪悪感”


 実は、佐藤にはC型肝炎の持病があった。3月末で定年退職する予定だった佐藤は、あと20日余りで治療に専念できるはずだったのである。

 「震災さえなければ、佐藤さんは死んでいなかった」−。

 ともに震災に立ち向かった七ケ浜町役場の職員たちはそう痛感し、公務員の労災にあたる公務災害を率先して申請した。もちろん、持病があっても、長時間労働や過重なストレスなどが原因で持病が悪化したと証明されれば、過労死と認定される可能性はある。

 ただ、遺族は是が非でも過労死だと認めてほしいと思っているわけではない。最も気にかけているのは、佐藤の名誉を守ることであり、次女の美佳(28)は「申請が父の遺志に反しているのではないかと考えることもある」と、迷いさえ打ち明ける。

217チバQ:2012/03/20(火) 23:17:27
 家族を失った町民がおり、海岸沿いには津波がえぐり取った家々の残骸がうち捨てられている。自分たちだけが公務災害にこだわる状況ではないと思ってしまう、いわば“罪悪感”のような感情なのだという。


いらだちの矛先


 原発事故の収束と同じく、震災復興もまた、誰かが担わなければ前には進まない。ただあのとき、被災した市町村に勤める自治体職員なら、誰もが過重労働をするしかないという現実があった。

 七ケ浜町役場の職員は約160人がいたにすぎなかったが、町民約2万1千人の絶望は、ときにいらだちとなって押し寄せてきた。「いつになったら給水の順番が回ってくるのか」「食料が届かないじゃないか」。「税金で食っているんだから、働いて当然だ」と、面と向かって言われた職員もいた。

 復興にあたる自治体職員のなかでも、とりわけ住民と接する機会の多い職員は、いまもよく似たストレスを感じているという。美佳は「人手が足りていないのに、自衛隊や警察と違って目立つ仕事をしていない自治体職員は、あまり感謝される機会もなかった。職員も同じ被災者なのに…」と語る。さらに久美子は、長引く復興への道程をこう案じる。

 「私たちと同じ思いは誰にも味わってほしくありませんが、こうした状態が続けば、震災過労死が起きるのは避けられないのではないでしょうか」

218チバQ:2012/03/20(火) 23:18:01
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120108/wec12010818010004-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(4)復興の犠牲者たち】
男泣きに泣いた父「訴えぬのは、いい息子でいさせたかったから」
2012.1.8 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

新潟県中越地震から復興した旧山古志村の人々。東日本大震災の被災地・大槌町を訪れ、演歌歌手の小林幸子さんと炊き出しを行った=2011年5月、岩手県大槌町(古田貴士撮影)
 「俺、疲れたよ」。村の麓で会った同僚に、復興へ向けて走り回っていた青年は、ぽつりと言った。少し休んでいくよう勧められても「こうしちゃいらんねえ」と車を走らせた。車はその後、信号柱に激突し、青年は帰らぬ人となった。

 新潟県山古志村(現長岡市山古志)の村職員、星野恵治=当時(32)。東日本大震災と同じ最大震度7を記録した平成16年10月23日の新潟県中越地震は、棚田や闘牛場、ニシキゴイの養殖池が点在する村の風景と同様、恵治の生活を激変させた。

 全村民2167人が自衛隊のヘリで隣の長岡市に逃れ、恵治は避難所になった高校の体育館に入った。ボランティアとの交渉や村民からの相談を夜遅くまで受け、夜明け前に出発しては、孤立した村へ徒歩で入る日々を続けた。手塩にかけた簡易水道の被害状況を確認するためだ。

 雪が降り積もる前に被害額を確定させなければ、復旧の予算がおりない。職員78人の中でやり遂げられる可能性があったのは、12年余りかけて簡易水道を全戸に敷設した恵治だけだ。孤軍奮闘するしかなかった。


村のため“本望”


「東北も依然、大変な状況なのだから、際限のない仕事を無理して全部やろうとしたり、一人だけに仕事を押しつけられたりすれば、恵治のように過労死してしまう」。母、信子(64)の訴えは切実だ。

 地震2カ月後の12月22日に死亡した恵治は、復興に伴う長時間の過重労働があったとして、公務員の労災にあたる公務災害が認定されている。ただ、それは“震災過労死”の証明にはなっても、復興を願う被災者でもあった両親には、複雑すぎる感情しかもたらしていない。

 父、祐治(69)は「そんなに疲れていたなんて…。俺が気づいてやれなかった」と、7年たった今も悔やむ。両親は地震後、恵治のいる避難所に身を寄せていたが、恵治とはほとんど顔を合わせず、たまに会っても話しかけなかった。村職員が村のために必死で働くのは当然、と思っていたからだ。

219チバQ:2012/03/20(火) 23:18:21
「東北も依然、大変な状況なのだから、際限のない仕事を無理して全部やろうとしたり、一人だけに仕事を押しつけられたりすれば、恵治のように過労死してしまう」。母、信子(64)の訴えは切実だ。

 地震2カ月後の12月22日に死亡した恵治は、復興に伴う長時間の過重労働があったとして、公務員の労災にあたる公務災害が認定されている。ただ、それは“震災過労死”の証明にはなっても、復興を願う被災者でもあった両親には、複雑すぎる感情しかもたらしていない。

 父、祐治(69)は「そんなに疲れていたなんて…。俺が気づいてやれなかった」と、7年たった今も悔やむ。両親は地震後、恵治のいる避難所に身を寄せていたが、恵治とはほとんど顔を合わせず、たまに会っても話しかけなかった。村職員が村のために必死で働くのは当然、と思っていたからだ。

 山古志村が長岡市と合併した後、衆院議員に転身した長島は、中越地震と復興に向けた日々を回想した著書「国会議員村長−私、山古志から来た長島です」(小学館)の巻頭言に、こう記した。「山古志復興に尽くして亡くなった星野恵治氏に−この本を捧(ささ)げる」。そして、恵治の過労死に直面したとき、村長を辞職しようと思った、と告白している。

 著書での長島の言葉にはこうある。「悔やんでも悔やみ切れない気持ちは今も胸に抱いている。でも私がどれだけ悔やもうとも、彼はこの世にはいない。そのことの重さは生涯忘れるつもりはありません」

220チバQ:2012/03/20(火) 23:18:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120109/wec12010918000001-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第2部(5)復興の犠牲者たち】
「なぜ主人が2度も派遣された…」
2012.1.9 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

「全国過労死を考える家族の会」の寺西笑子代表。自身も飲食店店長の夫=当時(49)=を亡くし、過労死防止基本法の制定を目指している(小野木康雄撮影)
 「被災地に2度も行かなければ、主人は死んでいなかった。なぜほかの職員ではなく、主人が派遣されてしまったのか。その思いだけは、ずっとある」

 東日本大震災の復興支援で大阪府から岩手県に派遣された職員、垣内祐一=当時(49)、仮名=は平成23年5月14日夜、宮古市内の宿泊先で倒れた。脳内出血だった。4月3〜7日に続いて2度目となった派遣のさなかのことだ。運転手である祐一は、同じく応援組の保健師や栄養士を車に乗せ、宮古市内の避難所20カ所あまりを巡回していた。

 妻の友子(49)=仮名=は、搬送先の宮古市内の病院に駆けつけたとき、被災地での運転が想像していた以上に大変だっただろうと痛感した。震災から2カ月たっていても、がれきのほかに何もない光景は、テレビで見ていたよりずっと悲惨だったからだ。

 2度目の派遣が決まったとき、祐一は友子に不安げにこう語っていた。「被災地は困っている。でも誰も行きたがらない。だから、少しでも道に慣れた自分が行くべきなんだろうな」

 だが、上司からの打診に対し、祐一は表向き「わかりました」と即答している。2度目だから断ってもいいと告げられたのに、冗談交じりに「もっと長く被災地にいてもいいですよ」とも応じていた。


曖昧な境界、暗黙の強制


 上司とのやりとりを伝え聞いた同僚たちの中には「祐一が被災地への派遣を志願した」と誤解した人もいるが、友子にとって「わかりました」という即答は、強い責任感の表れだったとしか思えない。

 甲南大名誉教授(労使関係論)の熊沢誠(73)はこう指摘する。「人間として断れない状況に追い込まれるのであれば、たとえ災害派遣でも、強制という側面があるのではないか」

 熊沢は過労死問題を「強制された自発性による悲劇」ととらえる。例えば、少しでも残業代を得るために深夜まで働くことは「自発的」とは限らない。基本給だけで生活できないのなら、そのような働き方は「強制された」とも受け取れるからだ。「強制と自発の境界があいまいになっている日本の労働現場は、過労死を起こしやすい」という熊沢の観点からみれば、祐一の死もまた、強制された自発性による悲劇といえるかもしれない。


橋下行革の果て、畑違い業務に

221チバQ:2012/03/20(火) 23:19:10
「『被災地派遣で過労死』大阪府職員遺族、公務災害申請へ」と、8月25日のMSN産経ニュースで報じた通り、友子は祐一の死について、公務員の労災にあたる公務災害を申請した。「誰も恨まないけれど、主人も『復興の犠牲者』という証明がほしいと思うはずだから」と友子は語る。

 もともと、祐一は技師として大阪府に採用され、20年以上にわたり医療機器の操作を担当していた。それが、橋下徹知事流の行政改革のあおりで、約2年前、運転手に配転された。

 まぶしさを感じすぎる軽い白内障を患っており、必ずしも運転に向いていたわけではない。それでも祐一は、新しい仕事に慣れようと懸命に働いた。支給される地図だけでは道に迷うからと、自費でカーナビを購入し、公用車に取り付けていたほどだ。

 大阪府で運転手をしている職員は約30人。祐一と同じく保健師らを乗せる避難所の巡回業務は、3月24日から7月2日まで派遣が続いた。祐一を2回選んだ府健康医療部は「介護や子育てといった家庭の事情、本人の体調、日常業務の都合を加味して誰を出すか決めていた」と説明する一方、期間中に一度も派遣されなかった運転手がいたことも明かしている。

 被災自治体に派遣された全国の職員の総数は、7月1日までだけで延べ5万6923人を数える。被災自治体の職員を兼任する辞令を伴った派遣もあり、長い人では今年24年の3月まで現地にとどまるという。

 “震災過労死”のリスクは、まだ続いている。

222チバQ:2012/03/20(火) 23:19:51
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120317/wec12031718010009-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(1)若者に迫る危機】
ワープア、ブラック企業、鬱で自殺…悪循環
2012.3.17 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

貧困問題に詳しい作家の雨宮処凛さん。右は「ゆとり教育」推進の元文部省官僚の寺脇研さん、左は北海道大学准教授の中島岳志さん=2011年、シンポジウム「『橋下』主義(ハシズム)を斬る」
 昨2011年世界規模で起きた、ある重大ニュースの発信源は米ニューヨークだった。「ウォール街を占拠せよ」。格差社会に疑問を持つ若者たちによって9月に自然発生したデモが、フェイスブックやツイッターといった新しいメディアを通じ、わずか1カ月間で東京を含む1400以上の都市に波及したのだ。


非正規20代の2割、月10万円みたぬ収入


 デモは、先導者がおらず統一した要求もないという異例づくしだったが、だれかが必ずこんなプラカードを掲げていた。「We are the 99%」(私たちが99%だ)。1%の富裕層が招いた金融危機を99%の貧困層が尻拭いしているという批判を込めた言葉だ。これが、日本の若者たちの間でも共感を呼び続けているという。

 貧困問題に詳しい作家の雨宮処凛(36)は「デモの広がりは、非正規労働者と正社員が対立するという構図が、嘘であることを気づかせてくれた」と説明し、過労死問題について重要な指摘をしている。「非正規労働者の貧困と正社員の過労死は、表裏一体の社会問題なのだ」と。

 派遣社員やパート、アルバイトといった非正規労働者の待遇が悪くなれば、正社員は明日はわが身と感じて会社にしがみつく。正社員は過労死のリスクを抱え、非正規労働者は仕事を奪われてますます貧困に陥る−。そんな悪循環が、日本の労働現場に起きつつあるというのだ。


30代3割が精神発症で労災申請…20代も2割


 兆候は、若い世代にほど顕著に表れている。一昨年の厚生労働省調査によると、20代前半の働く男性のうち、非正規労働者の割合は46%。うち44%が月収10万円にも満たない。

 大阪過労死問題連絡会会長で関西大教授の森岡孝二(67)は言う。

 「ワーキングプアと過労死は、特に“ブラック企業”の中で併存している」

 ブラック企業−。低賃金での長時間労働やサービス残業を強いたり、暴言などのパワーハラスメントが当たり前だったりする会社を意味する言葉だ。

 この呼び方は、ネット掲示板への書き込みを書籍化した黒井勇人の「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」(新潮社)で知られるようになった。

 出版された平成20(2008)年は、ちょうどリーマン・ショックと「年越し派遣村」で、非正規労働者の貧困問題が注目された年だ。

 年越し派遣村の出現を境に、若者に迫る過労死の危機が表面化したと考えるのが、NPO法人「POSSE(ポッセ)」事務局長、川村遼平(25)だ。川村は、POSSEが受ける年間約350件の労働相談に、ある変化を感じている。派遣切りに続いて、入社1〜2年目の正社員が不当に解雇されはじめ、それがなおも続いているというのだ。

223チバQ:2012/03/20(火) 23:20:15
 「相談者の大半が、自分でも気づかないうちに過労死寸前まで働き、心を病んだ末に退職を強要されている」。川村はそう明かす。


パソコン相手、孤独な労働


 厚労省によると、働き過ぎや職場でのストレスから鬱病などの精神疾患を発症したとする労災申請は22年度、過去最多の1181件にのぼった。年代別では、30代の390件(33%)が最も多かったが、20代も約2割を占めていた。

 「karoshi」が英語として使われだした約20年前は、40代の働き盛りが急死する例が目立っていた。

 それが今は、精神疾患を悪化させて正常な判断力を失い、自ら命を絶つ「過労自殺」として、若者に蔓延(まんえん)している。これこそが、過労死問題に取り組む弁護士や学者、遺族たちに共通する、現状への危機感だ。

 甲南大名誉教授の熊沢誠(73)は「今の若い労働者はコンピューターに向かう孤独な作業が多く、上司の圧力にも1人で対峙(たいじ)しなければならない」と指摘し、こう持論を述べる。

 「若者は昔に比べて弱くなった、という精神論は必ず指摘されるが、それは本質的な問題ではない。ワーキングプアの若者が過労自殺の危機に直面しているいまだからこそ、社会は過労死問題と真剣に向き合わなければならないのだ」

(敬称略)






 第3部では、日本の将来を担う若者たちが過労自殺という形で「karoshi」に至る現実を探る。

224チバQ:2012/03/20(火) 23:20:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120318/wec12031818000002-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(2)若者に迫る危機】
“正社員”餌に残業100時間 「マジで無理…」首つり
2012.3.18 18:00 (1/3ページ)[karoshi過労死の国・日本]

男性が自殺する直前の業務日報のコピー。「無理」などの記述がある
 「本人には悪いが、息子は就職戦線での“負け組”でした」。長男を「過労自殺」で亡くした父親は、そう言葉を絞りだした。

 平成20(2008)年8月2日朝、村井義郎(65)=仮名=は兵庫県尼崎市の自宅で長男、智志=当時(27)、仮名=の変わり果てた姿を見つけた。スーツのズボンに白い肌着という出勤時に着る服装のまま、首をつっていたという。

 智志は、死のわずか4カ月前に「正社員」になったばかりだった。それまでの5年間を、アルバイトなどの非正規労働者として働きながら就職活動に費やしていたのだ。

 智志が大学を卒業したのは、就職氷河期まっただ中の15年3月。前年10月時点での就職内定率は、64・1%だった。いまや24年3月の卒業予定者で59・9%というさらに厳しい時代を迎えているが、当時でも智志は3年生から応募を始め、書類選考だけで落とされ続けたという。

 ようやく面接にこぎつけた会社からは、容姿をけなされる“圧迫面接”を受け、自信を失ったこともあったが、希望は捨てなかった。義郎を安心させたいという思いが強かったのだろう。回り道の末に採用が決まったとき、智志は「やっと正社員になれたよ」と笑顔で報告している。


「朝7時15分〜午後4時15分」で求人、実際は


 就職先は大手飲料メーカーの孫請けで、自動販売機に清涼飲料水を補充する会社。コンピューター関係の仕事に就きたいという夢を持ち、資格取得に向け勉強もしていた智志にとって、求人広告にあった午前7時15分〜午後4時15分という勤務時間は魅力だった。

 だが、実態は違った。朝は6時台に出社し、清涼飲料水を運ぶトラックの洗車を済ませておかねばならない。トラックで自販機を回り、商品補充を終えて夕方帰社しても、翌日分の積み込み作業とルート確認、在庫管理などに追われ、帰宅は深夜になった。

 補充自体も過酷な肉体労働だ。1日のノルマに加え、自販機の故障や客からの苦情があれば、急行しなければならない。「倒れそうです」。自殺1週間前の7月26日の日報にはこう記したが、智志だけでなくほかの従業員も「まじで無理!!」とつづっていた。

 「耐えられないなら、辞めてもいいよ」。姉の寛子(34)=仮名=は何度もいたわったが、智志の答えはいつも同じだった。

 「せっかく正社員になれたんやから、もう少し頑張ってみるよ」 


実際は「元請けの契約社員」


 智志の死後、義郎と寛子は会社を訪ねて遺品を受け取った。そのとき、机の引き出しから見つかったある書類に、2人は目を疑った。智志が正社員ではなく、元請けの契約社員であると明記してあったのだ。

 書類の日付は7月11日。自殺の約3週間前だ。これ以降、日々の出費や雑記がこまめに記されていた手帳は、ほぼ空白になっている。「正社員だと信じて疑わずに就職したのに、本人は相当なショックを受けたに違いない」。義郎はわがことのように悔しがる。

 智志の過労自殺は22年6月、直前1カ月間の時間外労働(残業)が100時間を超えていたなどとして労災が認定され、義郎は会社を相手に民事訴訟を起こした。智志が本当に正社員でなかったのかは、まだはっきりしないが、義郎は少なくともこう確信している。

 「会社は正社員という餌をちらつかせて、アリ地獄のように待ち構えていた。健康でまじめに働く息子はいい獲物だったはずだ」

 夢を持ちながら頑張り抜いた智志を、義郎は就職戦線の負け組とは口にしても、人生の負け犬だとは、決して思ってはいない。

(敬称略)


=次回は20日7時にアップ

225チバQ:2012/03/20(火) 23:21:44
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120320/wec12032007010001-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(3)若者に迫る危機】
“国策”地デジの影…SEは鬱率3倍
2012.3.20 07:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

58年間、番組を送り続けてきたアナログ放送の送信をとめるため、停波のスイッチを押すNHKの職員=平成23(2011)年7月24日午後11時59分、東京都港区の東京タワー(早坂洋祐撮影)

最後の言葉「もう一度だけ、会社に戻る」


 「命が大事。もう会社を辞めて」

 神戸市須磨区の西垣迪世(みちよ)(66)は平成17(2007)年秋、鬱病で休職し帰省していた一人息子の和哉に、たまりかねて言った。見るからに疲れ果てていたからだ。

 就職氷河期のさなか、システムエンジニア(SE)として川崎市内の会社に入って4年目。日本有数の大手企業の子会社だったが、人間らしく働かせているとは到底思えなかった。

 「もう一度だけ、会社に戻るよ。それでダメなら帰ってくる」。最後に和哉は母を気遣うようにそう言い残し、社員寮へと戻った。そして復職から約2カ月後の18年1月、鬱病の治療薬を大量に飲んで死亡した。27歳だった。

 生前、和哉は迪世にこう漏らしている。同僚にも鬱病患者が多く、自分だけ弱音を吐くわけにはいかないこと。上司の期待に応えたい気持ちがまだあること。もしこのまま退職しても、再就職は難しいこと…。


すし詰め231人、昼夜ブロイラー状態


 厚生労働省が発表する新卒とパートを除く有効求人倍率は5年以降、毎年1倍を切っている。正社員に転職したくても、全員には職がないという現実は、たしかに厳然としてあったのだが、「同僚にも鬱病患者が多い」とは、何を意味していたのか。

 「過労自殺」につながる精神疾患での労災申請が急増している現状を踏まえ、厚労省は昨年11月、新しい認定基準をまとめた。2カ月連続で月120時間残業すれば「強い心理的負荷」に当たる−などと例示し、審査を迅速にするのが目的だ。

 迪世のケースは同年3月の東京地裁判決で労災認定されるまでに、約5年を要している。その過程で会社側は、和哉と同じ14年入社組の6人に1人がメンタル不調を訴えた経験があった事実までも明かしていた。

 「なぜ僕が止められなかったんだ」。同僚の一人で和哉の友人でもあった清水幸大(29)=仮名=は、突然の訃報を聞かされたとき、自責という言葉では足りないほどの怒りが自分に対してこみ上げた。清水もまた、鬱病を患っていた。和哉と違ったのは、病状の悪化に耐えられずに退職し、営業職の非正規労働者に転職していたことだ。

226チバQ:2012/03/20(火) 23:22:06
合併や再編…メンタル対策継続できぬIT業界
 当時、清水は和哉と食事をともにした機会に、見かねて「体を動かす職人のような仕事をした方がいい」と勧めていた。和哉は「そうやな」と答えただけだったという。

 「和哉がSEに誇りをもって働いていたのは分かっていた。ただ僕は、心と体を壊してまでやる仕事じゃないと思った。もっと強く辞めろと言っていればよかった」。清水は悔やむ。

 2人が鬱病になったきっかけは、入社1〜2年目の平成15年に相次ぎ投入されたプロジェクトだった。在京テレビ局の地上デジタル放送のシステム開発だ。昨23年7月の完全移行に向け、地デジ化への準備は当時、すでに始まっていた。

 失敗の許されない“国策”だったためか、会社はワンフロアに最大231人ものSEを集め、作業を急がせた。狭い机と人いきれの中、2人は昼夜を問わず働き続けた。食事は弁当をかき込むだけ。終電を逃せば机に突っ伏して朝を迎えた。仮眠室やソファが与えられなかったからだ。

 著書「ITエンジニアの『心の病』」(毎日コミュニケーションズ)がある精神科医の酒井和夫(60)は、SEなどのIT技術者は機械相手で会話が少なく、仕事を抱え込むおとなしい性格の人が多いため「一般企業の会社員に比べ鬱病の発症率が2〜3倍ほど高い」と指摘している。

 酒井は警告する。「IT企業は、合併や再編が多く、大半が継続してメンタルヘルスに取り組んでいない。IT時代は若いSEを大量に生んだが、こうした若者も過労自殺の危険にさらされているのだ」

(敬称略)

227チバQ:2012/03/20(火) 23:22:49
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120320/wec12032012010004-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(4)若者に迫る危機】
ITに無理解、労災認定2.2%
2012.3.20 12:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

労働基準監督署を視察する長妻昭・厚生労働相(左から2人目)ら=平成22(2010)年4月、東京都渋谷区(代表撮影)
 「職業の専門家であるはずなのに、あの人たちはシステムエンジニア(SE)やIT業界がどういうものなのかを知らなすぎた」。元SEの清水幸大(29)=仮名=は、そう振り返った。かつての同僚、西垣和哉=当時(27)=の死をめぐる労災申請に協力し、「労働保険審査会」で証言したときのことだ。

 「過労自殺」を含む広義の過労死の労災申請は“三審制”を敷いている。まず会社のある労働基準監督署に申請し、認められなければ各都道府県にある労働局の審査官に不服を申し立てる。それでも棄却された場合に再審査を求めるのが、厚生労働大臣が所管する労働保険審査会だ。

 法廷に似た小さな一室に、裁判官役の委員3人が並ぶ。委員は「労働問題に関する識見を有する学識経験者」と法に定められており、任命には国会の同意も必要とされている。

 だが、清水に対する質疑は当初予定の10分を大幅に超えて1時間以上に及んだものの、その大半はSEに対して理解がないとしか思えない内容だったという。

 そして、決定は覆らなかった。


残業80時間なら“過労死ライン”


 労働保険審査会は“狭き門”で知られる。労災を逆転認定したケースは、平成22年度で2・2%にすぎないのだが、棄却という裁決を下された大多数の中には、さまざまな事情から、その先にある行政訴訟をあきらめざるを得なかった過労死遺族がいることも確かだ。

 大阪府八尾市の富原美恵(61)は20年1月、東京の大手企業に勤め始めてわずか10カ月だった営業マンの長男、貴史(たかふみ)=当時(23)=を、過労自殺で亡くした。

 美恵は労災を申請したが、労基署と労働局審査官からは棄却されていた。自殺直前の時間外労働(残業)が“過労死ライン”である月80時間に満たないと判断されたためだ。

 それでも、貴史が鬱病を発症していたことは明らかだった。死の4日前には、先輩社員に少し話を聞いてもらっただけなのに「このご恩は一生忘れません」と、目に涙をためて頭を下げた。「仕事がやばい。自殺を考えている」。交際中だった女性に対する憔悴(しょうすい)しきった告白は、もっと直接的だった。

228チバQ:2012/03/20(火) 23:23:19
上司「10時間超す残業を付けるな!」

 実は、貴史の労働時間は勤怠表の記録よりも長かった可能性がある。上司は「残業を月10時間以上つけるな」と叱責したことがあったからだ。取引先の接待が午後10時すぎまであった日でも、記録上は6時終業になっていたという。

 労働保険審査会に臨むにあたり、美恵はかつて貴史と同じ部署で働いていた元社員と会うために、移住先のオーストラリアへ飛んだ。自殺の1カ月前から会社で寝泊まりする機会が増えていたこと。パソコンが動いている時間が労働時間と数えられるため、電源を切ってまで仕事していたこと…。元社員は、貴史の知られざる働き方を明かし「労災が認定されるように」と陳述書を書いた。

 美恵は、この元社員を含む同僚5人から陳述書を取りつけ、事前に提出した。当然のように質疑があると考えていたが、当日、委員3人は「陳述書はもちろん拝見しています」と言ったきり、ほとんど質問もせずに審査を打ち切った。「本当に読んでくれているのだろうか」。美恵がそう感じたのはこの日、ほかの審査が実に10件以上入っており、時間をかけたくないという態度がありありとうかがえたからだった。


いくら状況証拠を集めても…


 裁決は棄却だった。美恵は、実際の残業時間を証明する有力な証拠を独力で集めることができず、行政訴訟を断念した。美恵は言う。「これだけ状況証拠を集めても、だめなんだと痛感した。厚労省には心の底から失望しています」

(敬称略)

229チバQ:2012/03/20(火) 23:23:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120320/wec12032018000005-n1.htm
【karoshi過労死の国・日本 第3部(5完)若者に迫る危機】
労基署さえサービス残業…根絶へ防止法を
2012.3.20 18:00 (1/4ページ)[karoshi過労死の国・日本]

「過労死防止基本法」制定への活動は全国で続いている=大阪市北区
 「過労死の労災が認定されるかどうかは、ある意味“運”もある。担当者の力量に左右されるからだ」。労働基準監督署で約20年間勤務していた元職員、後藤圭次郎(40)=仮名=はそう明かす。労災申請の窓口となる労基署は全国に321あり、ハローワークと同様、47都道府県にある労働局が管轄している。

 後藤の勤務先では、労災審査の担当職員を「輪番制」で決めていた。つまり申請のあった順に、機械的に割り振っていたのだ。新人、ベテランを問わず、ましてや過労死問題に詳しいかどうかは関係ない。

 労災の認定は「労災保険金」の支払いを意味するため、輪番制にはこんな弊害もあったという。「労働者保護の観点から、払えるだけ払おうとする職員もいれば、民間の損保会社並みに渋る職員もいる」

 労災保険金の原資は、ハローワークの失業給付金と同じ「労働保険料」だ。主に企業から徴収され、厚生労働省所管の特別会計で運用されている。平成23年度当初予算では、徴収予定の3兆2210億円のうち、労災保険金には7930億円(24・6%)しか回されず、大半は失業給付金に充てられてしまう実態があるのだ。


積極認定なら過労死を減らせる


 担当になった職員は申請者本人から話を聞いた上で、同僚や上司、人事管理者らから事情を聴く。検察官や警察官と同様に“調書”を取り、署名と押印も求める。合わせてタイムカードや賃金台帳、出勤簿の提出を求めて証拠を集める。

 「企業は、労災認定の先にある責任追及やイメージダウンを恐れる。だから非協力的になることが多い」。ただし、虚偽や妨害などには6月以下の懲役または30万円以下の罰金を科すというから、担当職員には強い権限があるといえる。

 後藤が問題視するのは、それでもこの権限を使いきることができない内部事情だ。「担当職員が抱えている案件が多すぎる。笑えない冗談だが、職員もサービス残業をしている」

 在職中、後藤は「過労自殺」やそれにつながりかねない鬱病などの精神疾患の事案を、10件以上担当した。近年はやはり若者の事案が多いことを痛感していたが、調査の人手が足りないというお粗末な状況では、認定のハードルは高かった。

230チバQ:2012/03/20(火) 23:24:15
 「労災保険金を早くもらえれば、申請者は症状が軽いうちに治療に専念できる。行政が積極的に認定すれば、亡くなるほどの深刻な事案は減るのだが…」。後藤はそう考えている。


署名100万人、超党派で


 既存の労働行政と法令だけでは若者たちが過労自殺してしまう現状は打破できないのではないか。過重労働を課すことは、企業にとって短期的に利益になっても、長期的には人材の流出や枯渇を招くだけではないのか−。そんな思いが今、過労死問題に取り組む弁護士と遺族を突き動かしている。

 昨年11月18日、衆議院第1議員会館で「過労死防止基本法」の議員立法による制定を目指す院内集会が開かれた。参加者約250人のうち、国会議員は党派を超えた約20人(代理を含む)。100万人の賛同署名を集めようと決議したこの集会は、大阪過労死問題連絡会が中心になって仕掛けたものだった。

 法案には、国や企業の責務を明確にし、国が調査研究にあたって過労死対策を立てることなどが盛り込まれる。連絡会事務局長で弁護士の岩城穣(ゆたか)(55)は言う。

 「働き方と働かせ方だけでなく、日本の根幹を変える法律になる。わたしたちはそれに挑戦し、過労死の根絶を目指す」

(敬称略)






 この連載は小野木康雄が担当しました。

231チバQ:2012/03/20(火) 23:25:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613050005-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(1)繰り返される悲劇】
tsunami、復興…なぜ死ぬほど働くのか
2011.8.8 14:35 (1/3ページ)[karoshi過労死の国・日本]

現在は英和辞典にも掲載されるようになった「karoshi」。「日本における超過勤務による過労死が1980年代後半から注目されたことから」と注釈がある (ジーニアス英和辞典より)
 「震災で業務量が増えた。帰宅は毎日午前3時で、睡眠は3時間程度しかとれない」。建設業の30代男性は、電話越しにこう訴えたという。

 

震災復興の影で


 東日本大震災から3カ月がたった6月18日、過労死弁護団全国連絡会議が行った無料電話相談「過労死110番」には、全国から震災に関連する過重労働のSOSが10件以上相次いだ。

 死者も出ていた。被災地に派遣されたある自治体職員の男性は、多忙な業務に追われ、鬱病を発症した末に自殺した。作業員の健康が問題となっている福島第1原子力発電所の事故も含め、今回の震災は、過労死という新たな犠牲を生む危機に直面している。

 過労死問題に詳しい弁護士、松丸正(64)は言う。「復興に向け、極限の状況で働く人々が存在するいまこそ、私たち日本人は過労死と向き合うべきだ」

 日本の過労死は、世界的に知られた社会問題だ。しかし、震災で世界が息をのんだ「tsunami」(津波)と同様に「karoshi」(過労死)もまた、ローマ字表記で世界に通じる単語であることは、あまり知られていない。

 tsunamiは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が1897(明治30)年、村人を避難させた豪商の物語「稲むらの火」の原作を英語で書いた際に使った。1946(昭和21)年には、アリューシャン地震で米ハワイが津波に襲われ、日系人が英語に定着させたとされる。一方、karoshiは2002(平成14)年、オックスフォード英語辞典のオンライン版に掲載されている。

世界が見つめる


 「あなたの国、日本はkaroshiを克服できないのか」

 世界181カ国が加盟する国際労働機関(ILO)の前理事、中嶋滋(66)は昨年11月までの在任中、他国の理事や海外の労働組合関係者から、よく過労死について説明を求められた。中嶋によれば、国際社会で労働問題に取り組んだことのある日本人ならほぼ例外なく、外国人のこうした質問に直面するという。

 オックスフォード英語辞典オンライン版に、karoshiの意味は「働きすぎや仕事による極度の疲労が原因の死」とあるが、日本の実態はこれだけで説明できないほど深刻だ。年間何人が過労死しているのかさえ、だれも正確に把握していない。

 厚生労働省によると、平成22年度に労働災害(労災)と認定された過労死による死者は113人。長時間労働や職場のストレスから鬱病などになって自殺する「過労自殺」は、未遂を含め65人にのぼる。だが、過労自殺を含めた広義の過労死の申請に対する認定率は約4割にとどまるうえ、申請自体をあきらめた例も相当数あるとみられる。

 「統計に表れる死者数は氷山の一角にすぎない」。大阪過労死問題連絡会会長で関西大教授の森岡孝二(67)の実感だ。

232チバQ:2012/03/20(火) 23:26:10
「必要悪」の風潮


 ILOは1993(平成5)年、年次報告で過労死問題について、日本に警告を発した。それでも「過労死をなくせ」と強硬に求めているわけではない。

 文京学院大特別招聘(しょうへい)教授で、ILO事務局長補などを歴任した堀内光子(67)は意外な理由を明かす。「日本は労働時間の規制に関するILO条約を一本も批准していない。批准しない政府には、監視も改善勧告もできない」

 世界では、過労死に直結する長時間労働の制限が92年前に始まった。1919(大正8)年、ILOは初めての総会で、工場労働者に1日8時間を超えて働かせてはならないという第1号条約を採択している。これを含め、労働時間に関する条約は現在約10本ある。

 一方で日本の労働基準法は、昭和22年に制定されて以来、会社が労働者の代表と協定を結べば残業や休日出勤を認めている。

 過労死弁護団全国連絡会議の幹事長で弁護士の川人(かわひと)博(61)は、日本では過労死を建前では拒絶しながらも、本音では必要悪とみなすような風潮があると指摘する。そして、こう訴える。「人間は生きるために働くのに、なぜ死ぬほど働かねばならないのか」(敬称略)





 第1部では、日本のkaroshiを世界に知らしめてしまった、ある男性の話を通じ、日本の抱える過労死問題の知られざる実態に迫る。

233チバQ:2012/03/20(火) 23:26:58
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613100006-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(2)繰り返される悲劇】
米紙が1面で報じた「経済戦争の戦死者」
2011.8.9 14:22 (1/3ページ)[karoshi過労死の国・日本]
 「仕事に生き、仕事に死ぬ日本人」。1988(昭和63)年11月13日、米紙シカゴ・トリビューンはこんな見出しをつけ、日本の過労死問題を1面トップで報じた。海外メディアでは初めて、過労死を「karoshi」というローマ字表記で紹介し、「経済戦争の戦死者」として、その年の2月に過労死したある工場労働者を取り上げている。

 ベアリング大手「椿本精工」(現ツバキ・ナカシマ)の工場班長、平岡悟=当時(48)。63年2月23日夜、大阪府藤井寺市の自宅に戻って数時間後に、急性心不全で死亡した。

 中間管理職でありながら製造ラインに立ち、日勤と夜勤を1週間ごとに繰り返していた。度重なる早出と残業が加わり、1日当たりの労働は12〜19時間。年始から51日間、まったく休みがなかった。

 作業着を脱ぎ風呂に入っても、体に染みついた工場の臭いがとれない。少しでも仕事から離れて仮眠してほしいと願った家族は、夜勤明けにクラシック音楽のコンサートに誘ったが、残業で行くことは叶(かな)わなかった。死の2日前のことだ。

心に響かぬ弔辞


 葬儀の席で当時の社長が述べた弔辞は、悟をこうたたえた。「幾多の同志とともに、いばらの道を切り開き、苦難を乗り越えながら、まさに椿本精工の発展の歴史とともに、人生を歩んでこられました」。だが妻、チエ子(69)の心には響かなかった。

 確かに悟はまじめに働いてきたが、実直な性格に乗じて休ませなかったのは会社ではなかったか。死の背景には会社の理不尽な働かせ方があったのではないか。労働災害(労災)を申請し、後に会社へ損害賠償を求める訴訟を起こしたのは、そう疑ったからだ。

 会社はタイムカードなどの資料提供を拒否。担当者は「平岡さんのような労働は、ほかにも7人ほどやっています」と説明し、労働組合の関係者までもが「残業代が出て生活が楽になって、良かったんじゃないですか」などと心ない言葉をぶつけた。

 チエ子は実名と顔を出して、新聞やテレビの取材に応じた。世間に訴えるしかないと考えたからだ。思いが通じたのか、悟の過労死は全国ニュースで報道され、反響を呼んだ。

「狂信的な献身」


 シカゴ・トリビューンは記事の中で「労働への狂信的な献身が、日本を戦後の廃虚から世界で最も豊かな国に引き上げた」と、高度成長の負の側面として過労死をとらえていた。

 いまや国内総生産(GDP)で中国に抜かれた日本だが、当時は「東洋の奇跡」を起こしたわが国への関心の高さから、皮肉なことに「karoshi」は国際語として定着していった。ただし、シカゴ・トリビューン掲載時、チエ子は「主人の生きた証しを残せた」という以上の感慨を持てなかったという。

 「それよりも、過労死をなくす運動を根づかせたり広げたりしたいという思いが強かった。そうすることが、会社に対する最大の抵抗だと考えていました」

 チエ子自身は、悟の死に直面するまで過労死という言葉を知らなかった。日本には、働きすぎやストレスで死んでいく労働者が多いという実態があることを、想像すらしていなかった。

 意識を変えたのは、四十九日を終えたばかりの4月19日、偶然目にした新聞の、ある“ベタ記事”だった。それは弁護士や医師らでつくる大阪過労死問題連絡会が、全国に先駆けて初めて行う無料電話相談「過労死110番」の開催を告知していた。

(敬称略)

234チバQ:2012/03/20(火) 23:27:33
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613120007-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(3)繰り返される悲劇】
先進国なのに…24時間働かせても合法
2011.8.10 13:37 (1/2ページ)[karoshi過労死の国・日本]
 米紙シカゴ・トリビューンに「経済戦争の戦死者」として取り上げられた大阪府藤井寺市の工場労働者、平岡悟=当時(48)=の妻、チエ子(69)は昭和63年4月23日、大阪過労死問題連絡会による初の無料電話相談「過労死110番」が始まった午前10時きっかりに電話を鳴らし、くしくも第1号の相談者となった。

 電話を受けたのは、連絡会の結成に尽力した弁護士の松丸正(64)。悟は1日12〜19時間も働き続けた末に亡くなっていたが、松丸が問題と考えたのは、そこまでの長時間労働を可能にした「三六(さぶろく)協定」と呼ばれる協定だった。

 日本の労働基準法が許す労働時間の上限は、国際基準並みの1日8時間、週40時間である。ただし、同法第36条では、会社が労働組合などの労働者の代表と協定を結んで労働基準監督署に届け出れば、残業や休日出勤を可能にしている。

 その協定が、条文の数字にちなんで三六協定といわれているのだ。


三六協定が温床


 「長時間労働を許す三六協定が、過労死の温床になっている」

 これは今も変わらぬ松丸の持論だ。

 しかし、悟の勤務先である椿本精工(現ツバキ・ナカシマ)の三六協定が、労基署から開示されたときばかりは、さすがの松丸も目を疑った。

 残業可能な時間を「1日15時間」で労使が合意していたからだ。それは、法定の労働時間8時間と休憩1時間を足せば、実質24時間働いても合法になることを意味していた。

 三六協定の存在は、国際労働機関(ILO)が採択した労働時間に関する条約約10本のうち、日本が一本も批准していないことと密接に関係している。

 ILO前理事、中嶋滋(66)は「一本も批准していない先進国は珍しく、日本も早く批准すべきだという国際的な圧力があることは事実だ」としたうえで、こう指摘する。

 「もしも批准をしたら即、実態が条約違反に問われてしまう。批准しないのではなく、できないと言った方が正しい」

 ILOには、批准各国で条約が適用されているかどうかを調べる専門家委員会がある。労働法や国際法に詳しい学者ら18人で構成され、現在、委員長は初の日本人として法務省特別顧問の横田洋三(70)が務めている。

 条約を批准していない日本に対し、改善を勧告することはできないが、横田は「ILOの国際基準に沿って、日本の実態を変えた方がいい」と話す。    

「青天井」で物議


 悟の過労死は、平成元年5月に労基署から労働災害(労災)と認定され、その後、チエ子が椿本精工を相手に起こした民事訴訟は、同社が全面的に責任を認めて6年11月に和解した。裁判の過程では、労務部長が「残業時間は青天井だった」と証言して物議を醸した。それでも、三六協定があることから、労働基準法違反には問えなかった。

 「悟は自分の意思で残業し、過労になった」と主張していた会社側は、最終的にチエ子に謝罪した。チエ子は、まじめに堂々と働いてきた夫の名誉を守ることができたが、引き換えに過労死をなくすという理想を実現する手段を失ったようにも感じた。

 悟の過労死から23年。三六協定をめぐる状況はほとんど改善されていない。次に取り上げる、ある若者の過労死をめぐる訴訟では、まさに三六協定に関して信じがたい主張を、会社側が行っている。

(敬称略)

235チバQ:2012/03/20(火) 23:28:14
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613140008-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(4)繰り返される悲劇】
「23年前の繰り返し」激安を支える月100時間残業
2011.8.11 14:50 (1/2ページ)[karoshi過労死の国・日本]
 ドイツの公共放送「ARDドイツテレビ」の日本特派員だったマリオ・シュミット(41)は昨年8月、報道番組で日本の過労死問題を取り上げた。「仕事のために自分を犠牲にするという倫理観のある日本だけでなく、ドイツでも『自分は仕事で疲れ切って死ぬかもしれない』と追いつめられる人は少なくない」との思いがあったからだ。

 EU加盟国の中でも労働時間短縮に率先して取り組むドイツは、週35時間制を敷く国として知られるが、シュミットによると、それは「夢の世界」。現実には、過重労働に悩まされている国民は多いという。

 ARDドイツテレビの取材を受けた京都市北区の吹上了(さとる)(63)と妻、隆子(56)は平成19年8月、長男の元康=当時(24)=を急性心不全で亡くした。東証1部上場の居酒屋チェーンの新入社員として滋賀県内の店舗で働きはじめてから、わずか4カ月後のことだ。


給与のからくり


 元康はほぼ毎日、従業員のだれよりも早く午前9時ごろには出勤し、終電で帰宅していた。仕込み、昼営業、仕込み、夜営業と間断なく仕事を強いられ、休憩時間は包丁の練習や使い走りに費やされていた。

 そうした実態もさることながら、問題は会社の給与体系にあった。公表していた初任給は19万4500円。ところが、実際には基本給を12万3200円に抑えた上で、残りを「役割給」と称し、月80時間残業しなければ満額支給しない仕組みをとっていたのだ。

 厚生労働省が脳・心臓疾患の危険が生じると判断する平均残業時間は、まさに月80時間である。

 きちょうめんな性格だった元康は、入社後の研修で知らされた初任給のからくりを、ノートに書き残していた。死後、ノートを見つけた隆子は「組織ぐるみで長時間の残業をし向けられていた」と痛感したという。

 吹上夫妻は、会社に加え、経営陣4人を相手に、安全配慮を怠ったとして民事訴訟を起こし、1、2審とも勝訴した。過労死をめぐって大手企業経営陣の個人責任を初めて認めた判決だったが、会社側は上告している。


価格破壊の裏側


 実は、役割給のほかにもうひとつ、見過ごせない争点があった。残業時間の上限を労使で決める「三六(さぶろく)協定」だ。この会社では繁忙期などの特別な事情があるときに限ってではあるが、月100時間に設定しており、1審判決が「労働者への配慮がまったく認められない」と指摘する根拠となった。

 すると会社側は、2審になって同業他社13社の三六協定を証拠として提出。中には特別な事情があるときの上限を月135時間に決めている企業もあり、これを基に「外食産業で、残業を上限100時間とすることは一般的だ」と主張した。

 企業は利益を出すために人件費を抑える。従業員は安い給料を残業代で補おうとする。価格破壊の裏側にあるこの構図が、長時間労働を常態化させている。

 吹上夫妻の代理人を務めた大阪過労死問題連絡会の弁護士、松丸正(64)は「低価格を売りにする外食産業が、過労死の危険のある三六協定を常識としているなら、社会常識に反している」と批判した。

 2審判決は「誠実な経営者なら、労働者の生命・健康を損なわない体制を構築し、過重労働を抑制する義務があることは自明」と断じている。

 ただ、三六協定が問題になり、海外メディアに取り上げられたという点では、元康の過労死は、23年前に米紙が初めて報じた「karoshi」と何ら変わりがなかった。

(敬称略)

236チバQ:2012/03/20(火) 23:29:02
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120106/wec12010613160009-n1.htm
【karoshi 過労死の国・日本(5)繰り返される悲劇】
国際労働機関の大株主…ニッポン特有の国内問題扱い
2011.8.12 13:43 (1/3ページ)[karoshi過労死の国・日本]
 2009(平成21)年10月、パリで行われた労働法に関する弁護士の国際会議に、過労死弁護団全国連絡会議の弁護士、尾林芳匡(よしまさ)(50)の姿があった。西欧諸国の弁護士ら約200人を前に、尾林は「日本からの報告」として、過労死関係の短いスピーチをした。

 多くの日本人が脳・心臓疾患の危険が生じるとされる月80時間以上の残業をしていること、法定の週40時間を超えた残業を合法にする「三六(さぶろく)協定」が存在すること…。尾林が列挙した日本独特の背景は注目されたが、とりわけ地元フランスの弁護士からは、次のくだりが反響を呼んだという。

 「国際競争力をつけるために、労働者を保護する規制は緩和されてきたが、どんな競争にもルールは必要だ。労働者の生命と健康を危険にさらす競争は、不公正ではないか」

 無理もない。2007(平成19)年には、パリ郊外にある自動車大手「ルノー」の新車開発拠点で、従業員3人が4カ月の間に相次ぎ自殺したことが判明。プジョー・シトロエングループも同年、5カ月間で自殺者を6人出してしまった。多くの事例は遺書や遺族が仕事のストレスを原因に挙げており「過労自殺」とみられている。


貧困克服を優先


 翌2008(平成20)年、トヨタ自動車は世界販売台数で米ゼネラル・モーターズ(GM)を抜いて初の世界一になった。経済のグローバル化が進むとともに、言葉だけでなく実際の「karoshi」までもが、国境を越えて広がってしまったのだろうか。

 尾林は、日本で過労死の被害者救済に取り組むことはもちろん、“外圧”を通じて過労死を防ごうとしている。特に、国際労働機関(ILO)が過労死を深刻な国際問題ととらえれば、日本も改善せざるをえなくなると考えている。

 だが、その見通しはきわめて厳しい。厚生労働省元局長で元ILOアジア太平洋総局長の野寺康幸(68)はこう断言する。「今後、ILOが過労死対策に取り組む可能性は、まずない。過労死が大事でないとは言わないが、優先順位は低い」

 第一次世界大戦後の1919(大正8)年に設立されたILOは、憲章の中で「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」とうたっている。以来90年以上にわたり取り組んできた課題は、ひとことで言えば、戦争をもたらす貧困の克服にほかならない。

 加盟181カ国の中には、労働組合を結成しただけで弾圧されてしまう国や、スラム街で露天商や売春などを仕事とする人が際立って多い国もある。こうした国々への支援を最優先にすることこそ、ILOの使命だと野寺は言う。  


拠出金は第2位


 もう一つ、注目すべき背景もある。加盟国の分担金に頼るILOの資金力だ。日本は毎年約55億〜69億円を負担しており、2010(平成22)年の分担金率は16%余り。上限の22%を払う米国に次ぐ2番目の高さだが、下限の0.001%しか払えない加盟国は50カ国余りにのぼる。

 野寺は「ILOにとって日本は“お得意さま”だからむげにはできない」とした上で、こう続ける。「だが過労死は、日本だけが突出して議論している特異な問題というのがILOの考えだ」

 日本の不名誉として、世界に知られてしまった「karoshi」は、日本が先進国であるかぎり、自力で解決すべき国内問題なのだろうか。だとすれば、毎年死者が出続ける状況を放置することは、もはや許されない。

(敬称略)


=第1部おわり

237チバQ:2012/03/24(土) 22:26:07
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120323-00000046-mai-soci


<労働契約法改正案>「裏切りには慣れっこ」非正規社員複雑
毎日新聞 3月23日(金)13時53分配信

 5年超で有期雇用を無期に転換できるとする労働契約法改正案が23日、閣議決定された。だが、労働問題の専門家は5年に届く前での雇い止めを警戒。法案の不十分さも浮かぶ。

 神戸市の長田郵便局集配課で10年間働く福本慶一さん(32)は半年ごとに労働契約を更新する非正規雇用の契約社員だ。営業職で正社員と同じ勤務だが年収は300万円未満。課の約80人の半数が非正規雇用という。

 4年前の朝、上司に呼ばれ、耳を疑った。「非正規社員に払う賃金の予算がない。次の更新から8時間勤務を6時間に縮めたい」。時給制なので賃金25%カットを意味する。「同意しないと雇用期間満了となる可能性もある」と雇い止めを示唆された。福本さんは仲間と職場で組合を作り、通告を撤回させた。

 今年1月、正社員登用試験の不合格通知が届いた。試験は10年、当時の亀井静香・郵政担当相の「日本郵政グループで非正規10万人を正社員にする」との号令で始まった。だが、その年に正社員となったのはわずか8438人で福本さんは不合格。2度目の挑戦でもだめだった。10万人にはほど遠く、逆に雇い止めの動きもある。「僕ら30代は裏切られるのに慣れっこ。でも期待した。子供を授かり普通に暮らせる、と」。結婚にはほど遠い。

 今回の法改正に、福本さんは「無期雇用の安定感は今の半年更新とは全然違う。でも本当にそうなるのか」と複雑な表情だ。労働問題に詳しい棗一郎弁護士は、非正規雇用労働者の支援集会で「合理的理由のない有期雇用を禁止する『入り口規制』が必要だ」と根本的な不備を指摘した。【井上英介】

 ◇解説 雇い止め対策不十分

 働く期間をあらかじめ定めた有期雇用に導入される新ルールは、会社側が一方的に労働契約の更新を拒否する「雇い止め」の防止が狙いだ。08年秋のリーマン・ショックで大量の有期雇用労働者が雇い止めに遭い、社宅を追われ路上生活を強いられる事例も相次いだ。

 その後もパートやアルバイト、派遣・契約社員など非正規雇用の労働者は増え続けている。国の10年の統計では1756万人で、有期雇用はその7割にあたる約1200万人とみられる。

 有期雇用は現在、原則3年が上限だが、会社は3年ごとに契約を更新しながら長期間働かせることができた。新ルールで無期雇用に転換されれば労働者は雇い止めの不安から解消されるものの、経営側の意向をくみ、会社を離れていた期間が6カ月以上あると、期間の積み上げがゼロに戻る規定(クーリング期間)が盛り込まれた。このため、5年を超える前での雇い止めを許す余地がある。

 さらに、無期雇用に転換しても、会社側は賃金や待遇などの条件を正社員並みに改善する必要はない。低賃金にあえぐ非正規雇用の現状を変えるには、今回の法改正だけでは不十分だ。【井上英介】

239チバQ:2012/03/30(金) 22:08:17
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20120330dde012040004000c.html
特集ワイド:内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと

政権に入った2年間について語る湯浅誠さん=西本勝撮影 ◇ブラックボックスの内部は「調整の現場」だった
 08年末の「年越し派遣村」村長として知られる湯浅誠さんが今月7日、内閣府参与を辞任した。政府の外から貧困対策を訴えてきた社会運動家が、政権内に入って約2年。中に入って見えたものは?【山寺香】

 ◇求められれば関わり続ける
 湯浅さんが最初に内閣府参与になったのは、民主党に政権交代した直後の09年10月。派遣村村長として政府を厳しく批判してきた人物の登用は、注目を集めた。10年3月に一旦辞任し、同年5月に再任用された。

 この間の政権の変化をどう見ているのか。

 「漠としたイメージで言うと、従来の自公政権から一番外れたのが鳩山由紀夫政権でした。そこで提示された格差・貧困政策の方向性はおおむね歓迎すべきものでしたが、その後の菅直人政権で少し戻ってきて、野田佳彦政権でかなり戻ってきた。菅さんのころから、かつての自民党の幅の中に収まってきたと感じています」。しかし、辞任の理由はこの揺り戻しではない。

 「辞任したのは、直接関わってきた生活困窮者らの雇用や生活、住居などを総合的に支援するパーソナル・サポート・サービスが制度化の軌道に乗ったことと、ワンストップ相談支援事業が事実上来年度の予算を確保でき、仕事に一区切りがついたため。関わった事業のめどが立ったから辞める。それは10年の時も同じで、自分の中で決めた基準です。仮に今民主党の支持率が高かったとしても、辞めていますし、今後首相や政党が代わっても、求められれば関わり続けるつもりです」

240チバQ:2012/03/30(金) 22:08:53
◇利害複雑で結果責任伴う
 社会運動家が政府に入って見えたことは何か。それは、政治が「調整」の現場であることだったという。

 「90年代にホームレス問題に関わっていたころ、社会や世論に働きかけて問題を解決したいという思いはあったが、その先の永田町や霞が関に働きかけるという発想はなかった。こちらが投げ込んだ問題は、ブラックボックスを通して結果だけが返ってくる。『政治家や官僚は自分の利益しか考えていないからどうせまともな結論が出てくるはずがない』と思い込み、結論を批判しました。しかし参与になって初めて、ブラックボックスの内部が複雑な調整の現場であると知ったのです」

 ブラックボックスの内部では、政党や政治家、省庁、自治体、マスコミなど、あらゆる利害関係が複雑に絡み合い、限られた予算を巡って要求がせめぎ合っていた。しかも、それぞれがそれぞれの立場で正当性を持ち、必死に働きかけている。「以前は自分が大切だと思う分野に予算がつかないのは『やる気』の問題だと思っていたが、この状況で自分の要求をすべて通すのは不可能に近く、玉虫色でも色がついているだけで御の字、という経験も多くした」

 そして、こんな教訓を得たという。

 「政府の中にいようが外にいようが自分は調整の当事者であり、『政府やマスコミが悪い』と批判するだけでは済まない。調整の一環として相手に働きかけたが結果が出ない−−それは相手の無理解を変えられなかった自分の力不足の結果でもあり、工夫が足りなかったということです。そういうふうに反省しながら積み上げていかないと、政策も世論も社会運動も、結局進歩がないと思う」

 それは、自らに「結果責任」を課すということだ。思わず聞いた。ブラックボックスの中身って、知らない方が楽じゃありませんでしたか。

 湯浅さんは「それはありますね」と苦笑した。「でもね、複雑なことについて、その複雑さが分かるというのは悪いことではありません。物事を解決していくには、複雑なことの一つ一つに対応していく必要があります」

 ◇シンプルとは「切り捨て」だ
 しかし今、それとは逆に、複雑な調整過程を力で突破しようという「強いリーダーシップ」が支持を集めている。代表的な人物は、橋下徹・大阪市長だろう。

 「橋下さんが出てくる前、小泉純一郎政権のころから、複雑さは複雑であること自体が悪であり、シンプルで分かりやすいことは善であるという判断基準の強まりを感じます。複雑さの中身は問題とはされない。その結果の一つとして橋下さん人気がある。気を付けなければならないのは、多様な利害関係を無視しシンプルにイエス・ノーの答えを出すことは、一を取って他を捨てるということです。つまり、世の中の9割の人は切り捨てられる側にいる」

 長年、切り捨てられる側を見続けてきたこの人の言葉は、ずしんと重い。

 「けれど、自分たちが切り捨てられる側にいるという自覚はない。なぜなら複雑さは悪で、シンプルさが善だという視点では、シンプルかどうかの問題だけが肥大化し、自分が切り捨てられるかどうかは見えてこないからです。それが見えてくるのは、何年後かに『こんなはずじゃなかった』と感じた時。本当はそうなる前に複雑さに向き合うべきですが、複雑さを引き受ける余力が時間的にも精神的にも社会から失われている。生活と仕事に追われ、みんなへとへとになっているんです」

 この現象は、政治というよりも民主主義の問題だと言う。

 「民主主義って民が主(あるじ)ということで、私たちは主権者を辞めることができません。しかし、余力がないために頭の中だけで降りちゃうのが、最近よく言われる『お任せ民主主義』。そのときに一番派手にやってくれる人に流れる。橋下さんはプロレスのリングで戦っているように見えますが、野田さんはそうは見えない。要するに、橋下さんの方が圧倒的に観客をわかせるわけです。でも残念ながら、私たちは観客じゃないんです」

241名無しさん:2012/03/30(金) 22:09:08
 ◇誤解も含めて自分の責任と
 約束の1時間があっという間に過ぎた。湯浅さんは20分後、東京駅から大阪行きの新幹線に乗るという。もう少し話を聞きたいと、東京駅に向かう車に同乗させてもらった。

 本当のところ、政権内に入ってみてよかったですか?

 「個人的にはよかったですが、『あっち側に取り込まれてしまった』という意見をはじめ、誤解はいろいろ生まれました。それは、私の責任として議論していかないといけない。参与を辞めて2週間ほどたちますが、毎晩のように飲み歩いて、議論していますよ。あちこちで納得いかないと言われながらね」

 車が東京駅のロータリーに滑り込む。問題解決のための働きかけ方は変わっても、目指すビジョンは変わらない。「2年前と変わりませんね」。そう言おうとしたが、軽く片手を上げ、湯浅さんはもう足早に改札口に向かっていた。

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 ◇「特集ワイド」へご意見、ご感想を
t.yukan@mainichi.co.jp

ファクス03・3212・0279

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 ■人物略歴

 ◇ゆあさ・まこと
 1969年、東京都生まれ。95年からホームレス支援活動に関わる。東大大学院在学中の01年、NPO「自立生活サポートセンター・もやい」設立。「反貧困ネットワーク」事務局長。

毎日新聞 2012年3月30日 東京夕刊

242名無しさん:2012/03/30(金) 22:09:39
http://mainichi.jp/seibu/news/20120327sog00m040005000c.html?toprank=onehour
話題:現場発:「貧困ビジネス」野放し/生活保護受給者『食い物』に/各自治体は対応苦慮
 生活保護費を狙う「貧困ビジネス」−−。生活保護受給者らに無料または低額で居室を提供する「無料低額宿泊所」の規制が立ち遅れている。社会福祉法上は都道府県や政令・中核市が指導監督権限を持つが「現行法では宿泊所の定義があいまい」(厚生労働省保護課)で、無届け施設が少なくない。民主党の議員連盟が規制強化に向け法案提出を目指すが、与野党対立で立法化は遅れており、各自治体は対応に頭を痛めている。【斎藤良太】

 福岡市博多区や長崎県諫早市、東京都新宿区など少なくとも全国10カ所でアルコールや薬物依存症患者のリハビリ施設を運営している団体がある。90年代半ばから活動を始め、全入所者は数百人に上るとみられる。

 博多区内の2施設では、団体が借り上げている周辺のアパートなどで暮らす男女計約60人が福岡市から生活保護を受けている。2カ所とも宿泊所の届け出はしていない。そして、団体側は取材を一切拒否している。

 元入所者らによると、入所者の多くは元ホームレス。衣食住は保証されるが「金銭管理は一切(施設に)任せる」ことが入所条件だ。入所者が自治体から受け取る毎月の生活保護費約10万円の大半を施設側が管理し、入所者が自由に使えるのは3000円程度。外出も制限されるという。

 事実上の囲い込み状態を苦にして施設を退所し、別の支援団体が保護するケースも少なくない。しかし、「お金や行動が自由になると、酒やギャンブルに走ってしまう」(元入所者)と納得している入所者も多い。

 この団体への各自治体の対応はさまざまだ。札幌市は06年以降、団体の施設入所者からの保護申請を原則却下し、要保護の人には別の施設を紹介している。同市保護指導課は「運営形態は貧困ビジネスの最たるもので、貴重な税金を使うことは許されないと判断した」と話す。

 那覇市では07年、入所者に転居を指導した。「依存症の治療目的で生活保護申請していたのに、治療活動していないことを当時の担当者が問題視した」(同市)ためだ。指導後、団体は同市内の施設を閉鎖。入所者約20人を同市役所ロビーに置き去りにしたという。

 一方、福岡市保護課は、団体の運営方法に疑問を抱きつつも「ホームレスの社会復帰を支援する施設は不足しており、頼らざるを得ない」と明かした。

 こうした団体は、ほかにも全国に存在する。中には劣悪な住環境で高額な利用料を請求し生活保護費を吸い上げるケースも少なくない。民主議連が議員立法を目指す「被保護者等住居・生活サービス提供事業の業務適正化法」は、無届けを含む宿泊所や類似事業など現行法では対応が難しかった施設も規制対象とし、金銭管理は知事などの承認が必要になる。

 ただ、規制強化で施設運営から撤退する業者や団体が増えれば、元ホームレスが生活できる場をどう確保するのか。NPO法人北九州ホームレス支援機構(北九州市)の奥田知志理事長は「悪徳業者排除のため法規制は必要だが、規制だけでなく、健全な施設には行政が助成するなど支援強化策も不可欠だ」と指摘する。

   ◇  ◇

 貧困ビジネス 主にホームレスを勧誘し、生活保護を申請させて住宅などを提供する代わりに、高額な家賃・食費を徴収するビジネス。企業や団体が社会福祉法に基づく「無料低額宿泊所」を運営するのが一般的だが、住環境が劣悪で無届けの施設も少なくない。10年には名古屋の任意団体幹部が所得税法違反の罪で国税局から摘発されるなど、規制の動きが進みつつある。

243とはずがたり:2012/04/01(日) 19:56:48

小泉カイカクのせいで増えたんちゃうの?其れは兎も角所得の正確な捕捉が不可欠ではあると思われる。

生活保護給付10%下げ=自民が改革案、衆院選公約に
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-120401X964.html?fr=rk
2012年4月1日(日)16:04

 自民党の「生活保護プロジェクトチーム」(座長・世耕弘成参院議員)がまとめた生活保護改革案が1日、分かった。「働ける世代」の受給者が増えていることから、職業訓練など自立支援プログラムを充実させることにより、生活保護からの脱却を促進。給付水準を10%引き下げ、全体で歳出を8000億円削減する。同党は次期衆院選公約に目玉の一つとして盛り込む方針。

 生活保護受給者は2011年に208万を超え、過去最多を更新。支給総額も既に3兆円を突破した。自民党は民主党政権の「ばらまき」体質も背景にあるとみて、「自助」を基本に違いをアピールしたい考えだ。 

[時事通信社]

244チバQ:2012/04/20(金) 22:40:03
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120419/dms1204191601016-n1.htm
「数々の特典がつく生活保護は働くより得」という若者増加中2012.04.19
 現在、生活保護受給者は210万人に迫る勢いで増加の一途を辿っている。全国で最も生活保護受給者が多いのは大阪市で、18人に1人が生活保護受給者だ。

 この増加傾向はもちろん、昨今の不況の影響はあるだろうが、それだけが問題ではない。まず原因として挙げられるのが、高齢者の増加だ。基礎年金だけでは生活していけない高齢者の受給が年々増え続けているのだ。生活保護を受けている被保護世帯の約半分近い数が高齢者世帯となっている。

 そして、もうひとつの要因として挙げられるのが、本来なら「働ける」世代であるはずの20代、30代の若者の受給者が増えている点だ。あるケースワーカーはこう話す。

 「派遣労働の拡大や非正規雇用の増大が原因ですが、若い世代の人たちのなかに、生活保護への抵抗感が薄れていることがいちばん大きいのかもしれません。昔は生活保護を受けずに頑張りたいという気持ちがあったものですが、いまは当然の権利として主張する人が増えていますから」

 若者の間では、生活保護はネット上で「ナマポ(生保)」と呼ばれ、どうすれば申請が通るかなどの情報交換が当たり前のように行われている。

 彼らが生活保護を受けたがるのには、実は理由がある。それは、生活保護受給者には、数々の“特典”があるからだ。生活保護受給者の相談に乗ったり、援助するケースワーカーを10年以上務め、著書に『野たれ死にするくらいならどんどん生活保護』を持つ多村寿理さんは、こう説明する。

 「生活保護受給中は、原則として医療費や介護費、家賃(地域ごとに上限あり。最大5万3700円)は無料。さらにNHKの受信料、住民税、国民年金なども免除されます。またJRの運賃や光熱水費の減額もあります」

 定職がありながら年収200万円以下の「ワーキングプア層」と呼ばれる人々は月収約17万円。一方の生活保護受給者は地域によって受給額の差はあるが、10万〜15万円ほど。ワーキングプア層が家賃、税金、社会保険料などを支払えば、“特典”を手にした生活保護受給者に比べて可処分所得(=自由に使えるお金)が下回ってしまうケースも出てくる。

 これでは、「生活保護のほうが得」と、多くの低所得者層の若者が生活保護を受けようとするのも、もっともな話だ。

 また、年金を受け取るよりも生活保護のほうが得というのも問題となっている。40年間、真面目に働いて、真面目に国民年金を納めてきた人の月々の受給額は約6万6000円。前述したとおり、生活保護受給者は10万〜15万円。若いころに年金保険や健康保険料も払わずにきた人間が、最後に行政に泣きついて、生活保護をもらい、年金を納めてきた人の2倍以上の収入を得ているのだから、あまりにバカげた話である。

 「いまの制度が続くとすれば厚生年金などがあるサラリーマンは別ですが、年金も納めないで、老後は生活保護をもらったほうが得であるなどという風潮が出てくるのも否定できません。

 いずれにせよ、稼働年齢層の就労収入が減り、年金もあてにできなくなって、生活保護に対する風当たりが厳しくなっている昨今ですが、簡単に保護にならないためのセーフティーネットをきっちり完備することなど、社会保障制度の全般的な見直しが必要であると思います」(前出・多村氏)

 ※女性セブン2012年4月26日号

245チバQ:2012/04/20(金) 22:41:15
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004985652.shtml
未払い残業代求めたら…会社解散、全員解雇 
 高齢者介護施設などで職員と事業者の間で賃金や休暇など労働条件をめぐるトラブルが絶えない。尼崎市の訪問介護施設では未払いの残業代を職員が求めたところ、事業者が「経営が成り立たない」と赤字を理由に5月末での閉鎖を決めた。全職員を解雇するといい、この職員は「正当な賃金を要求したら会社がつぶれてしまうのか」と困惑している。(中部 剛)

 施設は同市稲葉元町、クローバー訪問介護センター。高齢者専用賃貸住宅「ハート・ピア尼崎」内にあり、主にこの住宅内の高齢者を訪問介護している。昨年、夜間勤務の職員2人が、残業代や割増賃金に未払いがあり、休憩も十分に取れていないと訴え、同センターの運営会社「バックオフィス」(大阪府豊中市)と労使交渉を始めた。

 同社は、尼崎労働基準監督署から改善を指導されたが、労働条件はその後も変わらなかった。2人は労働基準法に反しているとし、昨年12月、同労基署に告訴した。

 労使交渉でバックオフィスは一定の責任を認めたが、未払い分の額について2人と折り合わず、労働審判に持ち込まれた。神戸地裁で調停があり、今年3月、同社が2009〜11年の未払い分計約300万円を2人に支払うことでまとまった。

 その後、同社は2人に賃金カットを提案。2人が拒否すると、3月末、債務超過を理由に「自社の解散手続きに入る」と連絡してきた。

 センターには正規、非正規20+ 件の介護職員、ケアマネジャーら18人がいるが、会社解散に伴っていずれも解雇。同社は訪問介護を引き継ぐ事業者を探しており、「次の事業者に雇用してもらえるよう働き掛ける」と職員に説明し、高齢者専用賃貸住宅の利用者や家族にも通知した。

 バックオフィスの男性部長は「このまま続けても赤字が広がる。引き継ぐ事業者のめどもついた。スムーズに引き継ぎたい」と話すが、未払いの残業代を求めた職員は「私たちのせいで会社をつぶすといっている。求めたのは正当な賃金だ。あまりにも乱暴な話で納得できない」と憤っている。

(2012/04/19 16:00

246名無しさん:2012/04/23(月) 23:56:35
http://www.asahi.com/job/news/TKY201204200844.html
NTT、30代半ば以降の賃下げ計画 再雇用費に充当2012年4月22日


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 NTTグループの主要各社が来年度から、30代半ば以降の社員の賃下げを計画していることがわかった。浮いた人件費を、新たに導入する65歳までの再雇用制度に回す。政府は来年度から、企業に60歳以降も働き続けたい人の再雇用を義務づける方針で、人件費の総額を抑えるために追随する動きが広がりそうだ。

 各社が今月上旬、来年度からの新しい賃金制度への移行を労働組合に提案した。朝日新聞が入手した資料によると、入社から10〜15年ごろまでは今の制度とほぼ変わらないが、それ以降は60歳の定年まで賃金の上がり具合を従来より抑える。30代半ばからの賃下げには「働き盛りには異例の措置で、転職を誘発するおそれがある」(別の労組関係者)との声もある。あわせて65歳までの再雇用を制度化する。

 具体的な賃下げ幅は示していない。人件費総額が変わらない場合、50代では今より年収が100万円ほど減る例もあるとみられる。

 NTT東日本や西日本など主要各社は2002年度に、51歳以上の社員の多くを子会社に転籍させて、賃金を最大30%下げる制度を導入した。今回の計画は、それ以来の大がかりな賃金制度の見直しになる。

 厚生年金の報酬比例部分の支給開始年齢は今、60歳だが、来年度から男性は61歳になり、その後も段階的に上がって2025年度から65歳になる。このため政府は今国会に高年齢者雇用安定法の改正案を提出しており、成立すれば65歳までの希望者全員の再雇用が義務づけられる。(内藤尚志)

247チバQ:2012/05/14(月) 21:58:14
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20120513-OYT8T01097.htm
[京の深層]宇治市生活保護 申請者に誓約書強要「違法」


「心を圧迫」府が特別監査
 宇治市の生活支援課のケースワーカーが生活保護の申請者に対して法的根拠のない誓約書を強要していた問題が広がりをみせている。生活保護を受給している世帯からも誓約書を取っていたことが判明。市は「組織的な関与はない」としているが、誓約書を取っていたケースワーカーは計19人に上り、府は市に対して特別監査に乗り出した。(倉岡明菜)

 「異性と同居しない」「生活保護費削減のため、(男性側に)子どもの養育費を請求することを誓う」。生活保護の申請に訪れた女性が3月1日、市役所の相談室で男性ケースワーカーから示された〈誓約書〉。65歳未満や母子世帯などに分けて、数多い制限が書き込まれ、職員が守られていないと判断した場合には保護を廃止し、異議は申し立てないなどとされていた。

 女性は約4時間にわたって説明を受けた後、署名・押印を求められた。後日、女性が別の職員に話したことから、問題が発覚した。

 そこで、市は全ケースワーカー(24人)に聞き取り調査を実施。新たに2人が申請者に対して、別の誓約書を取っていたことがわかった。3人は「不正受給を防ぎたかった」「制度について知ってもらいたかった」と理由を説明したという。

 生活保護の申請権を侵害している恐れがあると判断した市は、誓約書を取った6世帯を訪問するなどして誓約書に効力のないことを告げ、「不適切だった」と謝罪。市民団体などの抗議に対し、市は「誓約書を求めた職員が誤った認識を持ち、管理も不十分だった」として、職員個人の問題だけではなく、市の指導不足もあったとの認識を示した。

■  □

 しかし、誓約書問題は申請者だけにとどまらなかった。市内の生活保護の受給1822世帯(3月21日現在)全件を調べた結果、38世帯から39枚の誓約書を提出させたことも明らかになった。収入の申告や車の使用禁止などを求めており、市は「個別具体的な援助の中で、自立を助長するためだった」とするが、「もう2度と引っ越しはしない」などとするものもあった。

 ある自治体の担当者は「生活保護制度の説明について『言った』『言わない』となるのは誰しも避けたいこと。そうしたことを防ぐために誓約書という形を取ったのでは」と推し量る。

 19人ものケースワーカーが誓約書を取っていた事実を府は重く受け止めており、担当者は「受給者への誓約書については直ちに違法とは言えないが、保護費を止められるのではないかと心理的な圧迫を加えるものは不適当」とし、中身を詳しく精査している。

□  ■

 長引く景気の低迷などにより、市では2006年度1504世帯だった受給世帯が09年には1697世帯、11年度は1826世帯と、全国同様に増加し、財政上大きな負担になっているのは事実だ。生活保護法では、自治体は生活保護受給者に対して必要な指示、指導ができ、受給者が従わない場合は保護を廃止・停止できるとしている。

 しかし、吉永純・花園大教授(公的扶助論)は「申請者にまで誓約書を書かせる権限は行政にはなく、明らかに違法」と指摘。「1枚の誓約書だけで自立を促すほど、受給者の抱える生活問題は甘くはない。受給者の状況を分析し、対等な立場で自立への展望を共に認識し、意欲を引き出す支援が、ケースワーカーには求められている」と話す。

 市は職員の研修や管理体制の見直しなどに乗り出した。再発防止のためには、より一層の取り組みが求められる。

(2012年5月14日 読売新聞)

248とはずがたり:2012/05/16(水) 13:34:04
>>247
偽装離婚して母子家庭に成ったりするケースもあるみたいだし,そういうのには夫側に自治体が訴訟で財産差し押さえたり出来るないのでしょうかね?
ややこしいケースも多いだけに,誓約書くらい書かせても何の問題ないだろうに,偉そうに問題だとか云ってる奴は現場しらないんちゃうか。
まあこういう圧迫で心折れちゃうのが本当に必要な弱っている人達で,厚顔無恥の平然と公費にたかっている連中には何の効果もないのかもしれないけど。。

249とはずがたり:2012/05/16(水) 17:11:59

生活保護、209万7400人=8カ月連続で最多更新―厚労省
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120516-00000069-jij-soci
時事通信 5月16日(水)12時33分配信

 厚生労働省は16日、今年2月に全国で生活保護を受けた人が前月比5499人増の209万7401人になったと発表した。昨年7月にそれまで過去最多だった1951年度を上回って以降、8カ月連続で最多を更新している。受給世帯も152万1484世帯と過去最多。
 同省は、リーマン・ショック以降の経済低迷などが増加の原因と分析。「伸び率は徐々に落ち着いてきているが、今後東日本大震災の被災者の受給開始も想定されるため、しっかり対策を打っていきたい」としている。

250とはずがたり:2012/05/17(木) 03:21:34

<農地再生>就労支援しながら耕作放棄地で野菜作り
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120516-00000050-mai-soci
毎日新聞 5月16日(水)16時5分配信

農園でゼンマイ採りをする「土と緑の谷 未来農園」のメンバーら=大阪府柏原市で、鈴木英生撮影

 失業中の若者やホームレスの就労を支援しながら、高齢化で放棄された農地の再生を目指す珍しい取り組みが大阪府柏原市の元棚田で進んでいる。耕作放棄地について調査する神戸大研究機関研究員の綱島洋之さん(36)らによるプロジェクト「土と緑の谷 未来農園」だ。20代から60代の十数人がそれぞれの自立生活に向けて、野菜作りに汗を流している。

 きっかけは、元棚田の地主の坊下(ぼうした)明信さん(63)が一昨年10月に綱島さんに持ちかけた相談だ。約20年前から耕作放棄地になっていた元棚田約60アールを「遊ばせておくのはもったいない」と声をかけたところ、2人を中心に「未来農園」づくりを進めることになった。関西で以前から野宿者らの支援を続けている中桐康介さん(35)=大阪市住吉区=の協力も得ることができ、文部科学省の研究事業として認められ、2年間の事業費約340万円を確保できた。

 昨年7月から始まり、ジャガイモやキャベツなど約15種類を育てる。メンバーは週1、2回、農園に通っている。ここでの農作業は、職業訓練に近く、仕事への自信を取り戻して就労を目指す。堺市北区の小林誠さん(29)は「目立たないが人の役に立つ仕事の大切さを農業で知った」。大阪市西成区で野宿をする津山泰則さん(60)は「故郷に似た環境で働けて幸せ」と話した。

 行政も注目する。大阪府雇用対策課の船岡敏和課長補佐は「将来性のある試みとして応援したい」と話している。【鈴木英生】

251チバQ:2012/05/17(木) 22:31:14
http://www.sankeibiz.jp/econome/news/120517/ecd1205171825001-n1.htm
ワタミ、労基法抵触か 労使協定結ばず残業2012.5.17 18:24
 居酒屋チェーンのワタミフードサービス(東京)の一部の店舗で、労働基準法に定められた労使間の正式な手続きを経ずに、従業員に残業をさせていたことが17日、同社への取材で分かった。

 時間外労働をさせるには、労働組合か、挙手や投票によって従業員の過半数の支持を得た労働者代表が「時間外労働・休日労働に関する協定(三六協定)」を企業側と結ぶ必要がある。しかし労組がない同社では、店長がアルバイトの中から代表者を指名し、協定を結んでいた店舗があった。

 厚生労働省は「労基法に抵触する可能性が高い」としている。同社では入社2カ月後の平成20年6月に自殺した女性社員=当時(26)=が「長時間労働による精神障害が原因」として、今年2月に労災認定されている。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012051702000093.html
労働条件 言うがまま 協定 店長指示でバイトが署名
2012年5月17日 朝刊

「挙手による選出」と明記されたワタミフードサービスの不正な三六協定届


 あらかじめ時間外労働の上限時間が書き込まれた三六協定届に、店長の指示でアルバイトが署名する−。新入社員森美菜さんが過労自殺したワタミフードサービスでは、違法な手続きで、従業員に時間外労働させていた。会社から一方的に提示された労働条件を、受け入れるしかない従業員。労使対等とは名ばかりの実態が浮き彫りになった。 (中沢誠、皆川剛)

 森さんが働いていた「和民京急久里浜駅前店」(神奈川県横須賀市)。この店の三六協定届には、労使協定を結ぶ労働者側の代表は、「挙手による選出」と印字されていた。しかし、男性アルバイトは「協定届を見たことはないし、挙手で代表を選んだこともない」と打ち明ける。

 「会社側から三六協定の説明を受けたことはない」。首都圏で店長や副店長を務めた男性(30)も、そう証言する。男性は同意した覚えのない協定届を根拠に、毎月三百時間ほど働いていた。

 ある現役店長は「全従業員の意思を確認する時間もない」と明かす。自分の店の時間外労働の上限を知らない店長までいた。

 ワタミによると、毎年の協定更新の際、店長が経験の長いアルバイトの中から代表を指名。すでに時間外労働の上限時間が記載された協定届を印刷し、アルバイトが署名をして本社に返送するやり方が常態化していた。

 ワタミの辰巳正吉・ビジネスサービスグループ長は「大きな不都合やクレームは起こらなかったので、踏襲してきてしまった」と話している。

 <三六協定> 時間外労働を例外的に認めた労働基準法36条の規定から取った通称。同法で定める労働時間は1日8時間、週40時間。この時間を超えて働かせるには、労使合意に基づき書面で上限時間などを定めた協定を結び、労働基準監督署に届け出ることを36条で義務付けている。協定にも月45時間の上限はあるが、上限を超えて働かせられる「特別条項」もあり、労使の力関係で時間外労働は青天井になりうる。

◆労働者の声反映を

 労働問題に詳しい鵜飼良昭弁護士の話 三六協定を結ぶ際に、「百二十時間も働けない」という労働者の声が反映される適切な運用ならば、過労死は防げただろう。労使協定は労働時間や賃金控除など、さまざまな労働条件に影響する問題で、組合のない企業でも、労働者が声を上げられる法制度や環境づくりが大切だ。

252とはずがたり:2012/05/25(金) 16:29:22

一度認められるとその後の状況の変化があっても行政には判らないかね?

次長課長:河本準一さん母の生活保護、「返納したい」
http://mainichi.jp/select/news/20120525k0000e040240000c.html
毎日新聞 2012年05月25日 12時21分(最終更新 05月25日 13時08分)

 人気お笑いコンビ、「次長課長」の河本準一さん(37)が25日、東京都新宿区の吉本興業東京本部で会見し、母親の生活保護受給について適切でなかったと明らかにし「むちゃくちゃ甘い考えだった。5、6年前の分から返納したい」と謝罪した。

 河本さんによると岡山市在住の母親は14、15年前、病気で仕事を辞め、生活保護受給を申請。河本さんは福祉事務所から、面倒を見られないかと問い合わせがあったことを明らかにし、「2、3年前に芸人になったばかりで当時の年収は100万円を切っていた。できないと書いて送り返した」と説明。テレビ出演などの仕事が増えた5、6年前からは「福祉事務所と相談して母への援助額を増やし、問題ないと思っていた。来年の保証もない不安定な仕事だが、それでも親の面倒をみておられる人はたくさんいる。収入が増えてからも受給を続けたことは考えが甘かった」と認めた。仕送り額や受給額については一切明らかにしなかった。返還方法は弁護士と相談して決めるという。母親は今年4月、受給を辞退している。

253チバQ:2012/05/26(土) 00:04:01
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120525-00000108-mai-pol
<生活保護費>支給水準引き下げを検討 小宮山厚労相
毎日新聞 5月25日(金)21時17分配信

 小宮山洋子厚生労働相は25日の衆院社会保障と税の一体改革特別委員会で、生活保護費の支給水準引き下げを検討する考えを示した。また、生活保護受給者の親族らが受給者を扶養できる場合、親族らに保護費の返還を求める考えも示した。

 生活保護をめぐっては、人気お笑いコンビ、「次長課長」の河本準一さんが同日の記者会見で、自分の母親の受給について「適切でなかった」と謝罪した。生活保護受給者は209万人(今年2月時点)と過去最多を更新し続けているが、親族の扶養義務が徹底されていない点も一因とされており、永岡桂子氏(自民)が小宮山氏の見解をただした。

 厚労相の諮問機関、社会保障審議会は現在、生活保護費の支給水準を検証中。都市部では保護費の方が基礎年金より高く、自民党は「生活保護の給付水準の10%引き下げ」を掲げている。保護費カットへの対応について小宮山氏は「御党の提案も参考にしながら検討したい」と述べた。

 また、受給者の親族に一定の所得などがある場合について「一般的には、高額収入があり十分扶養できるのに仕送りしないケースは制度の信頼を失う」と批判し、「明らかに扶養可能と思われる場合は家庭裁判所への調停手続きを積極活用する」と語った。【坂口裕彦】

254チバQ:2012/05/29(火) 20:29:58
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012052602000099.html
過労社会 防げなかった死<上> 急成長ワタミ「労使一体」
2012年5月26日 朝刊

 ワタミフードサービス(東京)に入社して二カ月で自殺した森美菜さん=当時(26)=の同僚だった元男性社員(26)は、入社時の本社研修を忘れない。

 同期の一人が会場で「労働組合はあるんですか」と尋ねると、人材開発部の社員が即座に答えた。「うちにそんなものはないし、必要ありません。問題が起これば迷わず相談してください」。会場がざわめいた。

 四年たった今も、ワタミグループに労働組合はない。「創業者の渡辺美樹氏は社員を家族と言ってはばからない。その思想が背景にある」と元幹部は説明する。だが、“娘”だった森さんの葬儀に渡辺氏の姿はなかった。

 ワタミの法令順守担当の塚田武グループ長は「わが社は労使対等というより労使一体。問題があれば内部通報制度もあり、従業員の意見を集約する機能を十分果たしている」と話す。

 親会社のワタミは創業十四年で東証一部に上場。〇五年にはチェーン店が五百を超えた。社長だった渡辺氏の「二〇〇八年千店舗達成」の大号令に加え、介護分野など事業の多角化にも乗り出す。

 ある店長経験者は「むちゃな拡大路線で現場にひずみが生まれていた」という。元取締役も「会社の急成長の裏でコンプライアンスが追いついていなかった」と語る。

 森さんが自殺した〇八年前後は、ワタミフードサービスで労務管理の問題が噴出した時期だった。三十分単位で勤務時間の端数を切り捨てていた残業代の未払いが発覚し、アルバイトの解雇をめぐる訴訟も起きた。

 ワタミフードサービスは、この年を境に時間外労働の上限を全店一斉に短縮。店舗のパソコンで一分単位で出退勤時間が記録できるシステムに改めた。

 塚田氏は「いけいけドンドンの創業時と違い、会社が大きくなると法令順守が求められるようになり、企業として成熟していった」と説明した。

 ワタミの中堅幹部によると、今年二月、森さんの労災認定を、会社は驚きを持って受け止めたという。中堅幹部は「労働基準監督署は不認定だったし、労務管理も改善が進んだ。森さんの件は社内的には終わった話で、青天の霹靂(へきれき)だった」と明かした。

 森さんの労災認定の際、神奈川労働者災害補償保険審査官が指摘した、森さんの月百四十時間の時間外労働について塚田氏は「当時から異例だった」と言い切る。

 だがワタミフードサービスでは今も、従業員の意思が反映されないやり方で三六協定が結ばれ、労働基準法に抵触する状態が続く。従業員は、経営側の言うがままの労働条件を受け入れるしかない。

 渡辺氏は森さんの労災認定後、短文投稿サイト「ツイッター」に「労務管理ができていなかったとの認識はない」と書き込み、批判にさらされた。

 今月、渡辺氏に三六協定の手続きが適正かなどについて取材を申し込んだが、回答は「遺族と協議中のためコメントは控えさせていただきます」だけだった。

   ×  ×

 手帳に「誰か助けて」と書き残し、新入社員の森さんは自ら命を絶った。「過労死」という言葉が生まれて、今年で三十年。過労死はなくなるどころか、年々増え続けている。会社の利益を追求するあまり、人命が軽視されていく。彼女らの悲鳴はなぜ届かなかったのか。過労死を生む背景に迫る。

255チバQ:2012/05/29(火) 20:30:48
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012052702000161.html
過労社会 防げなかった死<中> 外食大手「うちだけじゃない」
2012年5月27日 朝刊

吹上元康さんがレシピなどを勉強したノートを読み返す父親の了さん=京都市北区で


 「『過労死ライン』を超える時間外労働を認めているのは、うちだけではない」

 二〇一〇年八月の大阪高裁。大手居酒屋チェーン「大庄」(東京)が提出した資料には、他の外食大手十三社十八店で会社側が労働者と合意したとされる残業時間が列挙されていた。月百三十五時間、百二十時間、百時間…。厚生労働省が過労死と関連が強いとする八十時間を上回る数字が並ぶ。

 吹上元康さん=当時(24)=は〇七年四月に同社に入った四カ月後、心機能不全のため死亡した。労働基準監督署の労災認定は下りたが、両親は会社と取締役個人を相手取り裁判に持ち込んだ。過剰な長時間労働を認めていた経営者の姿勢を正したかった。

 吹上さんは大津市の「日本海庄や石山駅店」に配属され、午前九時に出勤し午後十一時すぎまで働くのが常だった。高裁は吹上さんの残業時間を、月七十八〜百二十九時間と認定した。

 自分より経験のあるアルバイトにも気を使い仕込み作業を率先してこなしていたと、同僚は法廷で証言した。「八歳の時の作文で、『食堂屋になりたい』と書いた。自分の店を持つ夢を抱いて入社したが、調理師免許を取る前に倒れてしまった」と、父了(さとる)さん(63)は悔やむ。

 吹上さんの店では当時、時間外労働の上限は百時間とされていた。長時間労働を認めてきた責任を問われた大庄側の反論は率直だった。

 「外食産業界では、上限百時間の時間外労働を労使間で合意するのは一般的だ。他の業界でも、日本を代表する企業でも同様だ」

 過当競争の業界で、自社だけが「健康第一」でやっていては生き残れない。経営側の論理が透けて見えた。

 昨年五月の判決で、坂本倫城(みちき)裁判長は「長時間労働を認識できたのに放置し、改善策を何ら取らなかった」と、社長以下取締役四人に計約一億円の賠償を命じた一審判決を支持。経営者個人の責任をあらためて認めた。

 大庄の主張は日本の働き方を象徴している。総務省の昨年の「労働力調査」によると、二十〜五十九歳の男女の一割強に当たる約五百三万人が「過労死ライン」を超えて働いている。坂本裁判長は判決で「労働者の健康は何よりも守らなければならない」と繰り返し、警鐘を鳴らした。

 厳しい就職戦線をくぐり抜け、やっと内定をつかんだ若者が毎年、過労で倒れていく。「判決は画期的だが、経営者が労働者の命と健康を守る自覚を持たなければ、事態は良くならない」。三十七年にわたり過労死遺族からの相談を受けている水野幹男弁護士は、こう話す。

 吹上さんの裁判で大庄側は、判決を不服として上告した。

256チバQ:2012/05/29(火) 20:31:15
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012052802000082.html
過労社会 防げなかった死<下> 命より大切な仕事って
2012年5月28日 朝刊

過労死防止基本法の制定を目指し議論を重ねる寺西さん(右)と岩城弁護士=大阪市阿倍野区で(提供写真)


 働き過ぎから心身ともに追い詰められる「過労社会」をつぶさに目撃してきたのは、女性たちだ。ある日突然倒れた夫や子どもを日々、会社に送り出してきた。

 「国に要請しても裁判に訴えても過労死は減らない」

 約二百五十人の過労死遺族でつくる「全国過労死を考える家族の会」代表の寺西笑子(えみこ)さん(63)=京都市=は昨年十一月、衆院議員会館でマイクを握った。議員らを前に「過労死防止基本法(仮称)」の制定を訴えた。

 寺西さんは一九九六年、そば店で働く夫を過労自殺で失った。労災申請しようと、新聞に載っていた電話相談「過労死一一〇番」にかけた。

 応対したのが現在、「過労死弁護団全国連絡会議」事務局次長を務める岩城穣(ゆたか)弁護士(55)だった。「まだ自殺の認定基準はなく、現状では認定は難しい」と寺西さんに告げた後、こう持ち掛けた。「新たな基準を作るために僕も頑張っている。一緒に頑張りませんか」。以来、寺西さんは岩城弁護士と行動を共にしてきた。

 「過労死」という言葉は、三人の医師が八二年に出版した書籍に初めて登場する。当時は、労働者の急死の原因を解明し、労災認定を求めようと、一部の弁護士や医師らが活動を始めたばかり。岩城弁護士は「会社の責任を問う発想はなかった」と振り返る。

 八八年に大阪の弁護士らが始めた過労死一一〇番をきっかけに、遺族が立ち上がる。各地で家族の会が設立され、九一年に全国組織となった。遺族は弁護団と連携し、労災申請や企業の責任を問う裁判を次々と起こした。

 労災認定に数年、裁判ならばさらに数年。会社から協力は得られず、遺族自身が過労を示す内部資料や同僚の証言を集めて回った。勝訴すれば、成功例として会員の中でノウハウを情報交換した。会員の裁判が先駆けとなって判例も生まれ、過労死への社会的関心も高まっていった。


 寺西さんも十年かけて会社側に責任を認めさせ、裁判で和解。家族の会は、労災認定の基準を緩和させる原動力となった。過労死の主因である「脳・心臓疾患」と「精神障害」の労災認定率は、九七年に約13%だったのが、二〇一〇年には約30%にまで伸びた。

 「日本人は身を粉にして働くことを美徳としてきた。法律を作り、こうした働き方を考えるきっかけにしたい」と寺西さん。基本法に、国や企業の責任を明確にし、政府の重点施策に過労死防止を盛り込むことなどを求めている。

 家族の会などは現在、全国で署名活動を行っており、すでに十六万人分が集まった。六月六日に再び、議員会館で集会を開く。

 「命より大切な仕事って何ですか」。家族を奪われた女性たちの訴えから、過労死根絶へ大きなうねりが起きつつある。

  (中沢誠と皆川剛が担当しました)

257チバQ:2012/06/02(土) 19:55:49
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012060102000216.html
<過労社会>和民に労基署勧告 不正な残業是正を
2012年6月1日 朝刊

 居酒屋「和民」などをチェーン展開するワタミフードサービス(東京)が不正な手続きで従業員に時間外労働させていた問題で、労働基準法に抵触すると判断した労働基準監督署が五月下旬、関東地方の和民など三店舗に是正勧告したことが分かった。

 親会社のワタミによると、是正勧告を受けたのは、二〇〇八年に過労自殺した森美菜さん=当時(26)=が働いていた神奈川県横須賀市の店舗も含まれている。ワタミフードサービスは既に改善報告書を労基署に提出した。

 企業が従業員に時間外労働をさせるには、労働基準法三六条に基づき、労使間で労働時間の上限などについて合意した「三六(さぶろく)協定届」を労基署に提出しなければならない。ワタミフードサービスの場合、店舗ごとに従業員の過半数の同意で選ばれた従業員の代表が、会社側と三六協定を結ぶ必要がある。

 同社の三六協定届には、従業員の代表者について「挙手で選出」と記載されていたが、実際は店長がアルバイトの中から代表を指名する不正なやり方が常態化していた。

 ワタミの担当者は本紙の取材に「今後は、店長が従業員の中から代表を推薦し、書面で過半数の従業員から同意を得る選出方法に改める」と説明した。ワタミフードサービスは六月末までに全店の協定届を出し直す方針。

 ワタミフードサービスの不正な手続きを指摘した本紙の報道を受け、厚生労働省は五月十八日付で全国の労働局に、労基署で三六協定届を受け付ける際、労働者側代表の選出方法について不正な疑いがあれば、窓口で確認を取ることを徹底するよう通達を出した。

258とはずがたり:2012/06/04(月) 09:40:07

朝日新聞デジタル
2012年6月1日17時30分
西成版「戦略会議」、大阪市が構想 特区実現へ原案作り
http://www.asahi.com/politics/update/0601/OSK201206010003.html

 大阪市は6月、西成区で医療や雇用、高齢化などの抜本対策を進める「特区構想」の実現に向け、労働者の街・あいりん地区に詳しい学識者やホームレスらの支援活動に携わるメンバーを集めた専門チームを立ち上げる。今秋までに構想原案をまとめ、橋下徹市長に提案する。

 座長に就く予定の鈴木亘学習院大教授(社会保障論)は、大学院生の時から西成でホームレスの健康問題などを研究し、橋下氏の要請で市特別顧問に就任。すでに関係団体との調整や情報収集を進めている。

 メンバーはほかに、水内俊雄大阪市立大教授(都市社会地理学)や松村嘉久阪南大教授(観光地理学)ら観光政策やあいりん地区に詳しい研究者のほか、地元住民らと街づくりを進める「萩之茶屋まちづくり拡大会議」事務局長の寺川政司近畿大准教授や、「釜ケ崎のまち再生フォーラム」事務局長のありむら潜氏も参加。

259チバQ:2012/06/11(月) 22:03:43
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120428/waf12042807000004-n1.htm
【自殺考 被災地から(1)】
津波で助かった命 妻はなぜ、闇の海へ
2012.4.28 07:00 (1/3ページ)[自殺問題]

震災から1年の今年3月11日。岩手・大槌湾に「3」「11」の数字をかたどった船が浮かべられた
 岩手県釜石市。未曾有の大津波から1年がたった。三陸のリアス式海岸特有の入り組んだ湾は、波も立てず穏やかな表情を見せていた。あの日から5カ月あまりが過ぎた昨年8月、この海へ一人の女性が身を沈めた。当時54歳だったその女性は、震災後、避難所の運営にも携わるほど快活な人だったという。津波で助かった命が、なぜ海へ向かわなければならなかったのだろう。

 女性の夫(64)が暮らす仮設住宅は、自宅からほど近い学校のグラウンドにあった。あたりは春を前に、最後の雪が積もっていた。

 2DKの仮設住宅には、妻が自宅から持ち込んだという家財道具があふれていた。生花が供えられた仮の仏壇には満面の笑みをたたえる女性の遺影があった。「お見合いで結婚したんだけど、もう30年も一緒だったんだなあ」。夫は写真に目をやりながら笑った。

 震災まで、家族は夫婦と長男(27)、そして夫の両親の5人暮らしだった。漁業関係の仕事につく夫を支え、自らも積極的に近所付き合いを行う、明るい女性だったという。

 3月11日。自宅にいた女性は間一髪で高台に逃れたが、自宅で横になっていた当時97歳の義父は、黒い津波にのまれ、自宅近くで冷たくなって発見された。

 遠く離れた内陸部の体育館で始まった避難生活で、女性は当初、避難所の運営に携わり、食事の配布などを手伝っていた。しかし、次第に「眠れない」などと、体の不調を訴えるようになったという。


「助けてあげられなかった」自責の念と喪失感


 「おとうさんを助けてあげられなかった」。よくそう言って自分を責めていたという。しかも、亡くなったのは義父だけではなかった。女性の親友や、幼い頃から親しかったいとこまでもが津波で命を落とした。

 「津波で話し相手が一気にいなくなってしまったんですよ」。夫は大きな支えを失った妻の気持ちを思いやった。

 7月、仮設住宅が建って、遠い避難所から地元に戻れることになった。多くの被災者が喜ぶ中で、女性は暮らしていた町へ戻ることを嫌がった。「帰りたくない。海を見たくない」。海辺の町は、忌まわしい記憶と直結していたのだ。ようやく家族だけの生活が始まっても、彼女の不調が改善されることはなかった。


長男の結婚待たずに


 8月20日午前4時ごろに目を覚ました夫は、隣で寝ていたはずの妻の姿がないことに気付いた。散歩にでも行ったのかと、しばらく待ってみたが戻ってくる様子はない。不安になって、心当たりを探し回った。

 海辺で妻のバッグが見つかった。亡くなった親友からもらったものだった。知人が船を出し、波間を漂う妻を見つけてくれた。

 長男の結婚が年内に決まっていた。7月に行った両家同士でのささやかな会食では笑顔で、結婚する日を楽しみにしていたという。「なんでなのかなあ。そのうち孫も生まれるだろうし、これから楽しいこと、いっぱいあるのに」。夫はうつむいた。


生と死の境界、曖昧に


 震災から5カ月を経てもたらされたひとつの訃報。

 「なぜ」。遺族はもとより、被災者を支援してきた周囲の人々もショックを隠せない。

 女性が自ら死を選んだ本当の理由は誰にも分からない。ただ、被災地で聞いた50代の女性の言葉が耳に残っている。

 「釜石では震災で1000人以上の命が失われたんです。奥さんと息子さん夫婦を亡くした方や、80歳のおじいちゃんと孫2人だけ残った家庭もある。ここでは生と死の境界があいまいになっているんですよ」

(文化部・佐々木詩)






 内閣府と警察庁が先週公表した統計によると、日本では14年連続で3万人以上の人が自殺によって亡くなっている。なぜ自ら命を絶たなければならないのか。第1部では、被災地の自殺と心のケアについてリポートする。

260チバQ:2012/06/11(月) 22:04:31
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120428/waf12042812000013-n1.htm
【自殺考 被災地から(2)】
折れる心 自殺を決める「使命の有無」
2012.4.28 12:00 (1/3ページ)[自殺問題]

東日本大震災から1年を迎えた今年3月11日、思い思いのメッセージが書かれたキャンドルライトが灯された=岩手県釜石市(頼光和弘撮影)

家計簿に記されていた“絶望”


 震災から5カ月あまりたった8月20日。海に身を沈めた女性は、日記代わりにしていた家計簿に、こんな言葉を書き付けていた。

 「子供の能力しかなくなった。本当に長い間お世話になりました。ごめんなさい。片付けもできなくなり 子供になりました」

 妻の行方が分からなくなって心配した夫が、妻の枕元に置かれていた家計簿で、この走り書きを見つけた。その文字は震えるようなつたない筆跡で、家計簿の上下を逆さにして書かれていた。

 自宅にいた義父を津波で亡くし、親友やいとこも失いながら、避難所でも仮設住宅に移ってからも、忙しく動き回っていた女性。とくにお盆は自宅に訪ねてくる親類のための応対に追われ、多忙を極めた。

 その反動か、お盆が過ぎると、夕食を作る気力もなくなっていたという。そんな妻に夫は「適当に食べるから気にするな」と声をかけていた。

 「彼女はまじめで責任感があり、家事などを忠実にこなしてきたタイプでしょう」。精神科医の片田珠美さんはこう分析する。

 「お世話をしていた義父を失い、助けられなかったことに罪悪感を感じていたのでしょう。また主婦として、料理や掃除の役目をきちんと果たせなくなったことで、『自分は存在価値がない』と思うようになってしまったのではないでしょうか」


「眠れない…」それは前兆だった


 避難所で「眠れない」などと体調の不良を訴えた女性に対し、看護師や医師は、女性を別のスペースで生活させるなどの措置をとり、女性は一時的に回復した。仮設住宅に移ってからも、避難所にいるときからみてもらっていた看護師が定期的に訪問していた。亡くなる2日前にも、看護師が面談に訪れ、様子を確認していた。

 しかし、夫には今も心に引っかかる出来事がある。仮設住宅に移ってから妻の状態が再び悪化した際、精神的な治療を受けようと、避難所で受診した医師のもとへ妻を連れて行った。ところが−。

 「『熱があるからうちでは診られない』と言われたんです。ほかの病院に連れて行っても同じこと言われて、仕方ないから内科で熱冷ましもらって帰った。もっとちゃんと心のケアが受けられていたらなあ。『ストレス病』なんて、おれは知らないもの」


混乱収まるにつれ増す危険


 大津波を生き延びた被災者に襲いかかるさまざまなストレス。とくに大事な人を失った被災者の心の負担は計り知れない。

 「ただ、意外に思われるかもしれませんが、震災から1年、少なくとも岩手県では、自殺は前年に比べて減少しています」

 そう話すのは、岩手県障がい保健福祉課で自殺総合対策にあたる小川修特命課長。県が公表した昨年3月から今年1月までの自殺者数は、大船渡、釜石、宮古、岩泉、久慈の沿岸5署管内で83人。前年同期と比べると15人少なかったという。内閣府の統計では、福島、宮城両県でも、自殺者は前年を下回っている。

 片田さんによると、大規模災害の発生直後は、命が助かったことへの感謝や生きることへの使命感から、自殺は減少する傾向にあるのだそうだ。

 「ですが、災害発生後の混乱が落ち着いてくると、気分の落ち込みから鬱状態になる人も増えてくる。がれきの処理も進まず、目に見える形で復興が進まない状況では今後、傾向が悪化する恐れがある」と片田さんは警告する。

 震災から1年が過ぎた被災地。長引く仮設住宅での暮らしは、新たに孤独死やアルコール依存の問題を増加させるおそれがある。これらを「消極的な自殺」と表現する精神科医もいる。長期的な継続性が必要といわれる心のサポートは、まだ始まったばかりだ。

(佐々木詩)

261チバQ:2012/06/11(月) 22:05:06
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120429/wlf12042907000000-n1.htm
【自殺考 被災地から(3)】
心の防波堤 津波の経験でも「話す」重要性
2012.4.29 07:00 (1/4ページ)[自殺問題]

雨がやみ、雲の切れ間から太陽がのぞく。被災した建物やがれきの向こうに虹がかかった=昨年10月、岩手・釜石市の大槌湾(大里直也撮影)
 岩手県釜石市の小佐野地区。釜石から内陸の遠野方面へのびるJR釜石線沿いにある仮設住宅には、約50世帯が住んでいる。

 訪問したのは3月3日。仮設住宅の談話室として使われている一室には、支援物資として送られた豪華なひな人形が飾られ、女性たちがいなり寿司を作っていた。時折男性がのぞいては目を細める。

 ひとときの華やいだ雰囲気のなかで、相談員の菊池美奈子さん(44)は住民に声をかけた。

 「これからも楽しいイベントをやっていきましょうね」


心の相談員 自らも傷抱え


 釜石市の社会福祉協議会が中心になって行っている被災者の相談事業。相談員が被災者を訪ね、生活に対する不満や心身の相談を聞き、行政や医療機関に橋渡しをする。

 昨年8月にスタートし、23人の相談者が自宅や仮設住宅、「みなし仮設」と呼ばれる賃貸住宅で暮らす被災者を訪問している。市内を8地区に分け、地区担当の相談員を固定したことで、住民と相談員の間には信頼関係がうまれているという。

 「今でも3月11日当日の話をする方が多い。すぐに泣きだす人もいれば、1時間とか2時間とか、ずいぶん長いこと話してくれる人もいます」

 「でも、話してくれる人はまだいい」と菊池さん。「私は大丈夫」という人や、仕事などで家を留守にしがちでなかなか会うことができない若い世代のストレスが気になっている。「なかなか会えない住人に会えたときは、本当にほっとします」


「あなたの被災は…」に声を詰まらせ


 「高熱が出たのでお医者さんに診てもらったけど、インフルエンザじゃなかった。これから仕事にいってもいいですか」

 2月中旬、ある女性の相談員から事務所に電話があった。

 相談員をとりまとめる高田健二さん(61)は、「お医者さんの言うとおりにした方がいいけれど、大丈夫なら出てきてもらえるかな。ここで何かしていた方が気が晴れるかもしれないよ」と指示した。

 相談事業のスタートから半年あまりが過ぎ、相談員にも疲れが出てきている。相談員は30人くらい必要だが、現状では23人しかいない。当然、相談員一人ひとりの負担が大きい。

 「熱が出たのもきっと疲れのせいだろう。みんな被災者だからな」と高田さんは言う。

 被災地で相談にあたる相談員がつらいのは、相談員自身もほとんどが津波で自宅や肉親を失っていることだ。電話をかけてきた女性相談員も自宅が流されて、狭い仮設住宅での生活を余儀なくされている。一緒に暮らす高齢の親類にも気を遣う。

262チバQ:2012/06/11(月) 22:05:33
 菊池さんも実家が津波で流された。見回りをする中で、津波の経験を聞くとつらくなり、どう対応していいのかわからなくなることもある。「訪問した人に、逆に『あなたはどうだったの』と聞かれ、つい自分のことも話してしまう。私も話す機会があるだけいい方です」と声を詰まらせた。


“ご用聞き”の精神で寄り添う


 高田さんは、相談業務は“ご用聞き”のようなものだという。

 「人の心はうかがい知れない。活発な人でも命を絶ってしまう。原因がわからないから、残された人びとは思い悩む。見回りをすることがどこまで人の命を守れるのかわからないけれど、私たちは訪問を通じて『いつも見守っていますよ』というメッセージを発信していくしかない」

 震災から1年。「一周忌を迎えて、故人への思いを新たにすることで、心の症状が出てくる人が増加することもありえます。見回りにはいっそう神経を使います」と高田さん。

 被災者の心に寄り添う人びとは、自らも心の傷を抱えながら、手探りで見回りを続けている。

263チバQ:2012/06/11(月) 22:06:26
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120429/wlf12042912010013-n1.htm
【自殺考 被災地から(4)】
七回忌までは癒えぬ傷 「黙々と耳を傾ける」支援を
2012.4.29 12:00 (1/3ページ)[自殺問題]

高台の津波避難所に向かう急坂に掲げられた「津波避難所」の案内板。何気ない風景も生々しい記憶を呼び起こす=岩手県釜石市(松本健吾撮影)

動き出したネットワーク


 震災直後、さまざまな団体が心のケア支援に被災地に入っていたが、長期的・継続的なケアを行うため、自治体はそれぞれ、県や医師会などと連携したネットワーク作りに奔走している。

 釜石市では昨年5月ごろから、全国心理業組合(東京都港区)や、自治医大の同窓会有志などの団体が、それぞれ現地に入り、被災者の心のケアを支援していた。市はこれらの団体との連携を進め、「釜石市こころのケア対策関係者連絡会議」を立ち上げ、1月から実質の運用を開始している。

 ネットワークでは市内を8つに分け、それぞれに「生活応援センター」を設置。1人ずつ保健師を配置した。さらにセンターを3つに分けて全心連が2カ所、岩手県臨床心理士会が1カ所を担当。相談を受け付け、必要に応じて訪問やカウンセリングを行う。また、釜石保健所などを通じて、医師との橋渡しも行う。

 自殺対策を担当する健康推進課は、市役所本庁舎にほど近い、釜石のぞみ病院の2階の保健福祉センター内にある。午後6時すぎ、夕食をはこぶカートの音だけが響く病院で、このフロアにだけはこうこうと明かりがともり、職員たちが忙しそうに動き回っていた。

 保健師の洞口祐子さんはこの日、ネットワークに関する会議に立て続けに出席し、ようやく本来の保健師としての業務に手をつけようとしていた。家には寝に帰るだけ。それでも、睡眠時間が取れなかった震災当初に比べれば、よくなった。

 動き出したネットワークを周知したい。軌道に乗せて被災した人みんなに目を向け、心や体の不調を発見したい、という強い思いが彼女を突き動かす。


ボランティアはありがたい ありがたいけれど…


 洞口さんには、悔しい思いがある。

 昨年秋ごろ、病を抱える被災者の対応した。入院治療が必要だが、仮設住宅を離れることをなかなか了承しない。職員らは日に何度も訪問し、住人を説得して入院の段取りを決めた。

 その直後に、看護師資格を持つボランティアがこの被災者を訪問した。ボランティアは市の対応状況を知らず、「なぜこのような状態でここにおいておくのか」と叱責の電話をかけてきたという。

 「住人の方も混乱しました。入院当日の交通手段の確保まで、念入りに段取りを考えたのに、また一から始めないといけなくなるところだった」と洞口さん。住人は無事に入院することができたが、後日、ボランティアが所属していたNPOの代表らが市の仮庁舎を訪れ謝罪したという。

 市の対応を知らないボランティアがそれぞれ活動し、統率がとれない現状はいまもある。受け入れる行政には歓迎したいと思う半面、困惑を抱えていることの事実だ。生活応援センターで活動する保健師らには「違う人が来て、毎回同じようなことを聞かれる」という苦情も寄せられているという。心のケアが心の負担になりかねない。

 「心のケアの支援で活動したいと電話してくださる団体は、お断りすることもあります。でも、私たちの知らないところで活動している団体に関しては把握すら難しい」

ただ「聞いてくれる」だけでいい


 被災した人のなかには話したいことをたくさん抱えている人がいる。被災者が語る話に、ただ耳を傾けるという「傾聴」は、心のケアにとってとても大切なことだ。「被災者の話を聞いてくれるボランティアは来てほしい。でも、傾聴に徹してほしい」。それが洞口さんの本音だ。

 震災から1年が過ぎたが、心のサポートは7回忌を迎えるまで必要といわれる。心折れそうな人びとに対して、何を、どこまで行えば必要十分な支援となるのか。答えが出ない問いの中で、心のケアに携わる人間たちは動いている。

(佐々木詩)

264チバQ:2012/06/11(月) 22:07:08
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120430/wlf12043007000002-n1.htm
【自殺考 被災地から(5完)】
5月に増える自殺 「働く喜び」が支える心の安定
2012.4.30 07:00 (1/3ページ)[自殺問題]

魚市場が再開し、イカやサバなどが水揚げされる。漁師たちはこの光景が早く日常になることを願っている=岩手県釜石市
 大津波は漁業にも大きな打撃を与えた。北海道から千葉県まで、漁船や加工施設など漁業関連の損失は約1兆2千億円にものぼるという。復興に向けて漁を再開した関係者もいれば、いまも職を失ったままの人も少なくない。


津波への恐怖か 生活への不安か


 住み慣れた海辺の集落を離れ、岩手県釜石市内の山間の仮設住宅で一人暮らしをする女性(60)は、震災前まで同県大槌町の冷蔵施設で働いていた。沿岸部の工場はほとんどが流されたため、同じような仕事はない。60歳という年齢と、自動車の免許を持っていないことがハンディとなり、新しい仕事を見つけられずにいる。

 「震災直後は津波を思い出して眠れず、薬をもらったりしていたけれど、先月失業手当が切れてからは、仕事が見つかるか心配で眠れない」。心配し訪ねてくれる友人の姿を見ると、涙がこぼれるという。

 被災した人たちが「心配で夜も眠れない」というとき、それが災害の恐怖によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)なのか、生活再建のめどが立たないために希望が見いだせないのか、という点は見極めが必要だ。前者に必要なのは心のケアだが、後者に必要なのは就労支援だ。

 釜石市の心のケアを担当する健康福祉課の保健師、洞口祐子さん(53)も「精神的なケアだけでは限界がある。就労支援が心のケアにつながることを感じます」と話す。

 内閣府と警察庁が発表した昨年の全国自殺者数は、5月に急増。震災を受け、4、5月に企業倒産が増加したことなどから、「震災をきっかけに経済リスクが広がり、自殺に影響した可能性がある」と指摘した。経済不安は自殺と密接に関わっている。


もともと仕事のない地域…


 釜石市の国道283号沿いに、「ハローワーク釜石」がある。釜石市と隣接する大槌町などの求職者が仕事を探しにやってくる。30台ちょっとの来館者用駐車場には午前中からひっきりなしに車が出入りし、ほとんどのスペースが埋まっている。

 ハローワーク入り口付近の掲示板に貼られた求人情報に熱心に目をやっていた、市内に住む女性(42)は、働いていた水産加工会社が津波で流されて職を失った。国の求職者支援制度を利用し介護の資格を取得したが、なかなか求人がないという。「もともと仕事がないところに震災だもの。いっときよりは増えたけど、難しいね」とため息をついた。

 岩手労働局によると、岩手県沿岸部の雇用保険受給資格の決定者数は、1万2546人(1月22日現在)で、前年の3倍近くに膨れあがっている。昨年10月から、雇用保険の給付期間を最大210日延期する措置が取られたが、条件に満たなかった被災者から、給付期限がきている。


海の仕事で食べていきたい


 岩手労働局では昨年4月から、車を流され移動が制限される被災者らのため、臨時に採用した就職支援ナビゲーター30人を避難所や仮設住宅に派遣する出張相談会を実施している。雇用保険の給付に関する質問を受けるほか、端末を利用してリアルタイムで求人情報を提供している。

 当初からナビゲーターとして活動している田中寿さんによると、釜石市の求人はほぼ震災前の水準まで回復しているという。しかし、その多くが雇用期間限定の非正規雇用。もちろん被災者には、突然奪われた仕事への愛着がある。田中さんは「被災者の多くは一つのところに長年勤めてきた。職選びにも葛藤を抱えています」と分析する。

 漁業関係者が住民の3分の2を占める釜石市箱崎町では、残った船などを使って共同で漁を再開した。しかし漁獲は震災前の3割ほど。60代の漁師は「今年、海で食べられないと貯金を切り崩して生活することになる、そうなればもう漁業に戻れなくなる」と危機感をつのらせる。

 心の安定のためには、生活の安定が必要だ。なすべき支援は、まだまだ多い。

(佐々木詩)


=第1部おわり

265チバQ:2012/06/11(月) 22:45:32
http://jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012060800182
昨年5月、自殺者2割増=震災後の社会不安遠因か−政府白書
 政府は8日午前の閣議で、2012年版自殺対策白書を決定した。11年の自殺者数は前年比1039人減の3万651人と14年連続で3万人を超えた。月別では東日本大震災後の4月から6月までの3カ月間は前年を上回り、特に5月は3375人と前年同月比21.3%の大幅増だった。
 自殺者は10年から2年連続で減少し、11年は14年ぶりに3万1000人を下回った。こうした中、震災後に一時増加した理由として、生活苦や家庭内不和、健康問題などを挙げた。ただ、地域的な偏りはみられないことから、内閣府は「大震災で全国的に社会不安が広がり、増加につながったのではないか」と分析している。(2012/06/08-09:47)

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266チバQ:2012/06/12(火) 20:15:03
http://mytown.asahi.com/mie/news.php?k_id=25000001206120001
男性「パワハラだ」会社「適切な指示」
2012年06月12日


2008年度上期業務計画で、男性は「再就職探索活動に専念し、それに見合った行動を起こす」と、会社側から方針を示された。

 「あなたの仕事は転職活動」。職場でこうした指示を受けたとして、明和町の50代の男性が「退職を迫るパワーハラスメントだ」と訴えている。転職できずにいると、細々と与えられていた業務も一時はすべて取り上げられた。一般労働組合に加入し、団体交渉をしたものの、会社側はパワハラなどの事実を否定。約5年間、問題が解決していない。


 男性が働いているのは、県内のメーカー子会社。


 男性の説明によると、勤続25年近くで管理職だった5年前、社長から転職活動を勧められた。「従わないのならば降格する、などと言われ、怖くなって同意してしまった」


 納得できないまま、出勤後にハローワークに通う日々が始まった。


 男性の勤務先の会社は取材に、「社内規定に基づいた再就職活動支援で、本人の同意もある」と説明。社長は「男性は一度も拒否していない」と主張する。


 一方、男性は「普通の仕事がしたいと伝えたが、『新天地を探すことが仕事だ』と言われた」と話す。会社によると、制度を使い転職した社員はいない。約1年半に及んだ転職活動を取りやめたところ、「すべての仕事を取り上げられた」と訴える。


 それでも会社にとどまる意思を示した男性に対し、会社が与えたのは、所属部署内のごみ箱の中にあるごみの重さを一つずつ量り、それぞれパソコン上に記録を残す仕事だった。男性は「ごみ箱の配置図も作るように命じられた」。使う人の都合で位置が変わるたびに作り直したという。


 会社は「ごみとごみ箱の削減に役立った。ほかの社員がごみ捨てに行く数分を節約できるようになり、その分を作業に充てられた」として、適切な指示だったと主張する。男性は「意味のない作業だった」と訴えており、説明が食い違う。


 男性はこれまで、胃潰瘍(かいよう)やストレス性のうつ病を患い、2度休職した。食べ物の味がしなくなったり、眠れなくなったりした。収入を断つわけにもいかず、うつ病の再発を防ぐために、精神安定剤を服用して働いている。


 現在も監督責任のある職級なのに、段ボールなどを片づける仕事しか与えられていない。


 男性は、一般労働組合に加入し、会社側と17回の団体交渉をしたが、解決には至らなかった。


 社長は、男性に仕事の能力はあるとしながらも「監督職としての適性に乏しい。周りの人ともうまくやれない」と話している。


■職場のパワハラ 無料で電話相談


 三重一般労働組合(ユニオンみえ)は23、24の両日、職場でのパワハラの相談に無料で応じる「パワハラ・ホットライン」(059・225・4088)を開設する。


 ホットラインは、午前9時半〜正午。秘密厳守。津市桜橋3丁目のユニオンみえ事務所でも面談できる。


 24日には、午後1時から津市桜橋2丁目の三重教育文化会館で、パワハラ問題に詳しいジャーナリストの金子雅臣さんによる講演会もある。入場無料。


■立証難しいケース多い


 厚生労働省が設置した有識者会議は今年3月、パワハラの典型例として、身体的な攻撃▽精神的な攻撃▽人間関係からの切り離し▽過大な要求▽過小な要求▽個の侵害――の6類型にまとめた。しかし、これは法律ではないため、改善するかどうかはあくまでも職場の努力という見解だ。


 パワハラ裁判の経験がある津市の加藤寛崇弁護士は「客観的証拠が少なく、立証と違法性の判断が難しいケースが多い」と指摘する。「仮に裁判所がパワハラを認定しても刑事罰はなく、慰謝料も安いため、泣き寝入りも多いだろう。企業にとってパワハラのリスクが低いので、抑止が働きにくい」(保坂知晃)


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