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近現代史綜合スレ

637とはずがたり:2015/09/07(月) 19:42:37
>>636
いえいえ,こちらの方こそいつも興味深い記事有り難うございます!

638名無しさん:2015/09/12(土) 16:00:57
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150912-00083211-toyo-soci
それでも「君が代」が国歌であり続ける理由
東洋経済オンライン 9月12日(土)6時0分配信

議論の絶えない国歌「君が代」。近代日本を背負った140年余のその生命力とは。『ふしぎな君が代』著者の辻田真佐憲氏に聞いた。

 ──政治と芸術の視点から「君が代」の歴史をひもとくと、新しい理解ができるのですか。

 合意が取れていない議論を延々と繰り返すのはあまりに不毛だ。なぜ問題になるのか。一言で言えばこの歌は近代日本そのものなのだ。1869(明治2)年に誕生して、今まで国歌であり続けている。近代日本のいいところも悪いところも象徴している。まず政治と芸術の視点から、知られざる歴史に迫ったらどうか。

■ 「君が代」が国歌になるまで

 ──誕生秘話にも定説がありませんね。

 明治早々、英国王子の来日で急きょ国歌が必要になる。急場しのぎで、『古今和歌集』の詠み人知らずの短歌に鹿児島で愛唱されていた「蓬莱山」の節をつけて間に合わせたというのが、維新の元勲、大山巌の回想を基にした有力説だが、真説とは断定しにくい。

 ──探究すると説は八つに及ぶとか。

 ここ20年、近代音楽史の研究は進み、「君が代」の論文も最新の研究がいくつか出ている。国歌がこんなに問題になるとは思っていないので、誕生にまつわる資料は皆無だ。昭和になってから伝聞が記述され残っている。誰が歌詞を選んだかは特定できないが、明治政府の誰かが選んだ。それを英国人が作曲し、日本語で歌えるように雅楽の若き専門家の奥好義(よしいさ)らが改訂し、ドイツ人が五線譜に直して1880年に今の「君が代」ができたことはわかっている。

 当時、日本には国歌という概念自体がなかった。だが、なくては文明国扱いされないので、急きょ作らなければならない。いい歌詞はないかと既成のものを探し、最終的に絞られたのが和歌の「君が代」で、『古今和歌集』に載っているもの。『古今和歌集』では、「我が君は」で始まる。それが平安時代末期に「君が代は」に言い換えられたといわれる。

639名無しさん:2015/09/12(土) 16:01:32
>>638

 『古今和歌集』に載っているといっても、決して古臭いわけではない。君というのは天皇だけでなく、将軍という意味や、目の前のあなたという意味でも1000年ぐらいの間に使われ、その人が「千代に八千代に」健康で長寿であるようにとの祝いの歌として使われてきた。歌詞が物語や戯作の中に取り込まれ、江戸時代にはポピュラーソングだった歴史さえある。諸外国でも君主国は皆、国王万歳という国歌を作っている。君を天皇ととらえれば、これはちょうどいいとなったようだ。

■ 近代日本のいいところ、悪いところも象徴

 ──国旗国歌法では作曲者が林広守となっています。

 奥が中心になって作ったがたくさんの人がかかわっている。ドイツ人のお雇い軍楽教師・エッケルトは外せないし、奥は林広季(ひろすえ)と一緒に作ったという説もある。林広守は直接には作ってはいなくて雅楽チームの代表者名義みたいなものだ。

 ──いつ国歌に。

 海軍が宮内省を巻き込んで決めたといっていい。ほかの役所や政府として承認していたわけではない。陸軍は「扶桑」を、文部省は別の「国歌按」を考えて、「君が代」に対抗し始める。ところが、ほかの曲は出来が悪い。詞は長いし、メロディもなじみにくく、「君が代」に勝てない。「君が代」の歌詞は歌い継がれてきたほどだから、よくできている。現代からすると変だといわれるが、メロディも一度英国人が作曲したものを日本人に加えドイツ人も直してハイブリッドに修正されている。ぽっと出のものより当然出来がいい。

 1999年に国旗国歌法ができるまで、法律では多くの国と同様に国歌を定めていない。学校で教える機会があって定着した。天長節をはじめ祝日大祭日の儀式用唱歌として子どもたちが歌う。祝日に歌われていたことで、国歌の資格が定まった。レコードもラジオもない時代だけに、重要なポイントであり、そこに「君が代」が入り込めた。文部省も自分たちの曲は出来が悪いとわかってあきらめた。文部省が受け入れた時点で、デファクトとしての国歌になった。もともと西洋では事実上の国歌というのが普通であり、法律で定めるのは珍しい。

640名無しさん:2015/09/12(土) 16:02:20
>>639

 ──どのように普及していったのですか。

 普及手段は限られている。楽譜を配っても読める人は皆無。本格普及は昭和初期、レコードが普及した時期と重なる。公式の楽譜も用意されて、文部省が単なるメロディラインだけではなくて、どこで区切るか、息継ぎするのかを示した楽譜を作る。学校で教えられ、ラジオでも模範的な歌い方が聞けることで定着する。半世紀ほどかかった。

■ 「君が代」は政治と芸術の関係の古典的問題だ

 ──そして、戦争期です。

 戦争期は、天皇を中心に団結しようというのが当時の雰囲気。「君が代」は都合がいい。「君が代」が必要とされた時期で普及が加速する。ただし厳粛な歌であり、歩きながら口ずさむようなものでない、ご真影に向かって歌うなどと教えられた。国威発揚に大いに利用され、植民地での公民化政策に使われた面もある。

 ところが、戦争に負け、その歌詞では不都合になった。憲法が変わって、天皇は象徴になり、主権は国民。「君が代」ではよくないのではないかとなって、新しい国歌の候補曲公募が次々と行われる。日教組も「緑の山河」を作った。しかし、結局、「君が代」に勝てない。

 ──もめ続けます。

 国民一般はこの議論から一歩引いた姿勢だが、一部の右と左が争い、両者は妥協する気がない。しかも保守的な政権になると強制しようと、教育者に懲戒処分を行ったりした。明治時代にも「君が代」は暗い、歌う気がしないといった批判はあったが、この状態をこれからも放置していていいわけはない。

 ──どうすべきですか。

 世界を眺めれば、歌うことを義務化しているのは中国など一部しかない。欧州はほとんど歌わない。日本はどちらのタイプを選ぶのか。歌わせるのは確かに圧迫感が強い。斉唱が反発の原因だと思うので、「聞く国歌」はどうか。スポーツの国際試合などでもほかの国の国歌は聞く。歌い手にお願いする、歌いたい人は歌うなどでいいのではないか。それが日本の状況に合っている気がする。

 ──政治と芸術の関係とも絡む。

 戦後70年経って政治と芸術や文化を警戒なく結び付けるところが目立ってきた。自衛隊の募集ポスターにアニメキャラが使われたり、少し前の自民党若手議員の勉強会で配られた会の目的に「政策芸術」という言葉があったり。「君が代」は政治と芸術の関係の古典的な問題といえる。これ以上進むと、プロパガンダになってしまう。その線引きが今後の一つの防波堤になると思っている。

塚田 紀史

641名無しさん:2015/09/20(日) 11:00:08
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150909-00016133-president-bus_all
靖国神社参拝論争の運命を握る「ある民間人」とは誰か
プレジデント 9月9日(水)11時15分配信

■参拝を問題化させた三木総理の「基準」

 安倍晋三総理が2013年12月に靖国神社に参拝した。7年ぶりの総理の参拝は、中国や韓国から非難され、さらにはアメリカ政府からも「失望」を表明される異例の事態となった。国が戦死した兵士の慰霊をするのは、世界的に見て普通のことなのに、なぜ外国は総理の靖国参拝を問題視するのか、疑問に思う方も多いだろう。それを理解するために、まず靖国神社の歴史を押さえよう。

 靖国神社は、1869年に明治政府によって「東京招魂社」として創建された。招魂とは、死者の魂を招いて祀ること。当初は、戊辰戦争の官軍の戦死者を祀る神社だった。10年後、東京招魂社は神社の格を上げるという意図のもとに「靖国神社」と改称される。靖国は、国を平和にするという意味。この改称と前後して、内戦の戦死者にとどまらず、国民的な対外戦争の犠牲者も合祀の対象になっていく。

 靖国神社は国が管理していたが、その性格は戦後に大きく変わった。1945年12月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が神道指令を発して、政教分離の原則と国家神道廃止を打ち出した。日本政府には宗教性を薄めて国の慰霊施設として残すか、国から切り離すかという2つの選択肢があったが、選んだのは後者だ。翌年に宗教法人令で靖国神社は民間の宗教法人となり、国のコントロール下から離れた。

 宗教法人となった後も、総理の多くは参拝している。当時は、それが問題視されなかった。問題になったのは、75年に三木武夫総理が終戦記念日に参拝してから。三木総理は私的参拝であることを表明、私的参拝の基準(公用車を使用しない、お供を連れていかない、肩書を記帳しない、玉串料は私費)を示した。それまでは公的か私的かということにこだわらなかったのに、私的参拝を強調したことで「総理の参拝は政教分離の原則に反するのではないか」という論点が浮かび上がった。

■中国とアメリカが参拝を非難する理由

 ただ、問題化したといっても、この当時は国内問題だった。しかし、78年に当時の靖国神社の宮司によってA級戦犯が密かに合祀された。A級戦犯とは、日本を戦争に導いた指導者として東京裁判で罪に問われた人たちのことだ。そして翌年、共同通信と朝日がこれをスクープした。ここからリベラル派の攻撃が激化したが、それでも海外から抗議はこなかった。

 国際問題化のきっかけは、85年の中曽根康弘総理の参拝だ。中曽根総理は終戦記念日の公式参拝を事前に表明。それに対して中国外務省は公式に非難声明を発表した。これを機に、総理の靖国参拝、さらにA級戦犯合祀が外交問題に発展したのである。

 靖国は、国内におけるイデオロギー対立の一大争点となってしまう。リベラルメディアは中国まで行ってコメントを求め、キャンペーンを張る。また、靖国参拝や歴史認識に関する閣僚の失言でも攻勢を強める。靖国参拝は一種の「踏絵」と化して、中曽根総理以降はしばらく総理の参拝が途絶えた。

 その後、96年の橋本総理、01年以降の小泉総理、そして13年の安倍総理と、総理が参拝するたび中国から抗議がきて日中関係は悪化した。

 中国は、なぜ靖国参拝に抗議をするのか。基本としてA級戦犯合祀の問題があることは間違いないが、背景にあるのは中国自身の国内政治である。実は中曽根総理はいったん公式参拝した後、参拝をしていない。自分が参拝すると、仲のよかった改革派の胡耀邦(こようほう)総書記の立場が中国国内で悪くなることを憂慮したからだ。かつては中国にも、胡耀邦のように靖国問題をスルーしてもいいという勢力がいた。しかし、胡耀邦の失脚後、そのラインは途絶えてしまった。その後の指導者は、保守派に配慮して抗議をせざるをえない立場にいる。靖国は中国の国内問題なのだ。

 一方、アメリカはどうか。アメリカにとって日本はかつての敵国。今は同盟国でも、先の戦争は正しかったという右派の歴史認識は絶対に認められない。戦争責任の罪を負ったA級戦犯が合祀されている靖国神社に総理が参拝することに、いい顔はしないのである。

 中国やアメリカにはこうした事情があるので、国の代表が戦没者を慰霊するだけだと説いても通じないのだ。

642名無しさん:2015/09/20(日) 11:00:56
>>641

■A級戦犯の分祀は実現するのか? 

 国内の靖国問題で問われている本質とは、国家の命令で戦い亡くなった人をどうするのかということだ。兵士の犠牲のもとに今の社会があることを忘れると、戦争は誰かがやってくれるから怖くないという風潮が広がり、戦争へのハードルを下げてしまう。その意味で、宗教右派、右派、中間層、リベラルまで、兵士の慰霊を行うことに関して異論はないはずだ。

 ただ、そのやり方については、各立場で考え方の違いがある。ここは意見が分かれるところだが、私はA級戦犯を分祀して、天皇陛下が御参拝できる環境を整えることが、どの立場の国民も納得する落としどころではないかと考えている。A級戦犯の合祀が発覚して以降、天皇陛下の御参拝は途絶えている。御参拝が再開されることは宗教右派も歓迎する。もちろん、何らかの形での靖国神社の国家管理が前提だ。

 しかし、実現は容易ではない。というのも、靖国神社は民間の宗教法人であり、国が介入できないという建前があるからだ。仮に政府が分祀を望んでも、宮司が首を縦に振らなければ動かない。兵士の慰霊は国として取り組むべき重要な仕事なのに、一民間人が外交関係にまで影響しうる問題のキャスティングボートを握っている。そこに靖国の問題の根深さがあるのだ。

■靖国神社と首相参拝の歴史

 【1869年】東京招魂社として創建。戊辰戦争の官軍戦死者を祀る。

 【1879年】靖国神社に改称され、別格官幣社となる。

 【1946年】改正宗教法人令で、民間の宗教法人に。

 【1975年8月】三木総理が私的参拝。公私の区別が論点に。→参拝の「基準」がつくられた

 【1975年11月】昭和天皇、戦後8回目かつ最後の靖国神社御参拝。

 【1978年】松平永芳宮司が独断でA級戦犯を合祀。

 【1985年】中曽根総理が公式参拝。中国が非難声明を発表。

 【1987年】胡耀邦失脚。中国保守派の勢力が拡大。

 【2001年】小泉総理が参拝。以来、毎年参拝。

 【2005年】中国で反日デモ。日本側の対中感情も悪化。

 【2013年】安倍総理が小泉総理以来7年ぶりの参拝。

 ▼靖国神社に合祀されているA級戦犯14名

 [絞首刑]
東条英機(首相)/板垣征四郎(陸軍大将)/土肥原賢二(陸軍大将)/松井石根(陸軍大将)/木村兵太郎(陸軍大将)/武藤章(陸軍中将)/広田弘毅(首相)
[終身刑]
白鳥敏夫(駐イタリア大使)/平沼騏一郎(首相)/小磯国昭(陸軍大将)/梅津美治郎(陸軍大将)
[禁固20年]
東郷茂徳(外相)
[判決前に病死]
永野修身(海軍大将)/松岡洋右(外相)

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日本学術振興会特別研究員・青山学院大学兼任講師 三浦瑠麗(みうら・るり)
国際政治学者。2010年東京大学大学院法学政治学研究科修了(法学博士)。11年東京大学政策ビジョン研究センター特任研究員。13年より現職。著書に『シビリアンの戦争』ほか。
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日本学術振興会特別研究員・青山学院大学兼任講師 三浦瑠麗 構成=村上 敬 撮影=宇佐美雅浩

643名無しさん:2015/09/21(月) 11:18:28
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150921-00045447-gendaibiz-pol
絵空事ではない琉球独立宣言!「本土」の皆様、サヨウナラ
現代ビジネス 9月21日(月)6時2分配信

なぜ琉球人が独立まで求めるようになったのか
 なぜ琉球人が独立まで求めるようになったのでしょうか。

 ネットの世界で飛び交っている、琉球独立運動への偏見に満ちた空虚な言葉によっては、琉球で今起きていることは理解できません。

 あなたの好きな琉球だからこそ、静かに島の人の声に耳を傾けてみませんか。日本人の平和な生活を守るためにも琉球独立が必要であることが分かるはずです。

 今年8月に台湾に行ってきました。桃園国際空港の運行スケジュールの電光掲示板を見ると、「琉球(沖縄)」と表示されていて、大変嬉しくなりました。

 かつて琉球国という独立した国がありました。最近も琉球人というアイデンティティを持つ人が増えています。1972年、琉球が沖縄県になるときに、中華民国(台湾)政府は日本政府に強く反対しました。

 「沖縄は日本固有の領土」と日本政府は考えているようです。しかし琉球の現在の「県」という政治的地位は必ずしも確定したものではありません。

 琉球が日本の一部になったのは1879年でしかなく、しかもその時日本政府が軍事力で無理やり日本の一部にしたのです。

 琉球はアメリカ、フランス、オランダと修好条約を結ぶ独立国家でした。3つの修好条約原本は日本政府に奪われ、今も国の外交史料館にあります。琉球ではその返還運動が盛り上がっています。

けっして他人事ではない
 読者の皆さんはこの本(『琉球独立宣言』)の表紙に少し驚いて手に取るかもしれません。

 日の丸を背景にして「日本から独立する」と訴えています。シーサー(琉球)が赤瓦にしっかりと足をすえており、琉球独立論が事実や理論をしっかり踏まえたものであることが暗示されています。

 琉球の独立宣言はアメリカの独立宣言を参考にして考えました。日本の「同盟国」であるアメリカはイギリスから独立したのです。

 琉球は日本から本当に独立できるのだろうか。何のために独立するのだろう。私たちにとって独立とは世界のどこかのことであり、自分とは関係がないと思っている人が多いのではないでしょうか。

 日本ではこれまで大衆的な独立運動が発生したことがありません。戦後の日本の「独立」もアメリカによって準備されたものでした。そのような日本の中で琉球では本気で独立を目指す運動が活気づいています。

 どこから独立するのでしょうか? 
 あなたが住んでいる日本からです。ですから琉球の独立は他人事ではないのです。琉球人は日本からの独立を宣言します。

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松島 泰勝
1963年沖縄県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、早稲田大学大学院博士課程単位取得。博士(経済学)。専門は島嶼経済。在ハガッニャ(グアム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館の専門調査員、東海大学海洋学部助教授等を経て、現在、龍谷大学経済学部教授。2007年「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」を立ち上げ代表に。’13年「琉球民族独立総合研究学会」の設立メンバーとして共同代表に就任。現在も国内外で多くの講演や交流、活動を精力的に行っている。
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松島泰勝

644名無しさん:2015/09/23(水) 19:48:52
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150923-00010001-tokyofm-life
【誰かに教えたくなる話】「岩倉具視」の子孫はあの有名人!? 偉人達の意外な子孫とは
TOKYO FM+ 9月23日(水)11時40分配信

明治維新で活躍した、幕末の志士たち。あれから150年……彼らの子孫は孫、ひ孫と世代を重ねています。そのなかには、ご先祖様に負けず劣らずの有名人も。そんな「驚きのトリビア」をご紹介しましょう。

まず、お札にもなった政治家、岩倉具視。教科書にも必ず出てくる偉人です。
岩倉使節団として各国を訪問、日本を近代化に導いた重要人物ですが、実は子孫にたくさんの有名人が。
そのうちの一人が、若大将のニックネームでおなじみの加山雄三さん!
なんと、玄孫にあたるそうです。

次に、小栗上野介。
アメリカ相手にひるまない外交を行い、「日本人最高の人物は、小栗上野介である」と言わしめた人物。
幕末の歴史好きから圧倒的な人気を誇る小栗の子孫は……格闘家の、武蔵さん!
相手に対してひるまない……似ている部分が、あるかもしれません。

最後にご紹介するのは、説明のいらない幕末ナンバーワンの人気者、坂本龍馬。
龍馬の末裔であるのは、自然画家の坂本直行さん。
……ご存知ない方もいらっしゃるでしょうか。
では、あの北海道のお菓子屋さん「六花亭」の紙袋の絵を描いた方、と言ったらどうでしょう。
あの有名なイラストを描いたのが、坂本直行さんなのです。
意外なところで、龍馬と六花亭が繋がっていたのですね。

聞いてびっくり、偉人の子孫の活躍ぶり。
調べてみると、面白いかもしれませんよ。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」5月7日放送より)

文/岡本清香

645とはずがたり:2015/09/24(木) 05:13:13

「尖閣は琉球の一部」記載の最古の地図 1804年独製
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E3%80%8C%E5%B0%96%E9%96%A3%E3%81%AF%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%AE%E4%B8%80%E9%83%A8%E3%80%8D%E8%A8%98%E8%BC%89%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3-%EF%BC%91%EF%BC%98%EF%BC%90%EF%BC%94%E5%B9%B4%E7%8B%AC%E8%A3%BD/ar-AAep2Tc?li=BBfTvMA
朝日新聞デジタル 6日前

 自民党の国際情報検討委員会などの17日の会合で、尖閣諸島が琉球(沖縄)に含まれることを示す1804年のドイツ製の地図が発表された。従来最古とされていた地図より60年以上古く、同党は、尖閣諸島領有の正当性をアピールする資料として外務省などに活用を働きかける方針だ。

 地図は、1780年代に尖閣諸島周辺などを探索したフランスの航海家の情報に基づき、ドイツの地図発行人が1804年に作製。尖閣諸島が琉球と同じ色で塗られ、台湾との間に線が引かれている。長崎純心大の石井望准教授がインターネット上の古書店で見つけ、会合で発表した。

 石井氏によると、これまでは尖閣諸島が琉球に含まれていると示す地図は1868年のドイツ製のものが最古とされていたという。

 同委の原田義昭委員長は「はるか昔から先進国が尖閣は琉球の一部だと認識していたと示すもの。外務省や内閣官房のホームページへの掲載など、情報発信を検討させたい」と述べた。(松井望美)

646とはずがたり:2015/09/26(土) 22:28:19
2012年の記事
>史料からは尖閣諸島は中国・清王朝の領土だったが、1895年に日本に併合されたことになっている(日清戦争)。
ハーバード大学歴史学部教授がこういってまっせ。。

アラブの怒りより日中の怒りが怖い理由
All the Asian Rage
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2012/10/post-2734_1.php
日中が尖閣諸島をめぐって躍起になるのは内政の危機においてナショナリズムが切り札になるからだ
2012年10月23日(火)14時16分
ニーアル・ファーガソン(本誌コラムニスト、ハーバード大学歴史学部教授)

 昨今は世界中で怒りがブームになっているようだ。アメリカで制作された映画が預言者ムハンマドを冒涜しているとみたイスラム教徒の怒りが中東各国で炎上。リビアではアメリカ大使を殺害する事件にまで発展した。

 この事件そのものより気掛かりなのは米オバマ政権の情けない対応だが、それ以上に懸念すべきなのはこれとはまったく違うタイプの怒りかもしれない。度を越したナショナリズムに突き動かされた中国人の怒りだ。

 先日は北京駐在のアメリカ大使ゲーリー・ロックが怒れる中国人に取り囲まれた。幸い大事には至らなかったが、私が彼なら50人の中国人ナショナリストに囲まれて「アメリカの帝国主義を倒せ! 勝つのは中国だ!」とシュプレヒコールを上げられれば、良い気分はしなかっただろう。

 彼らが「勝つ」と叫んでいたのは、日本では尖閣諸島、中国では釣魚島と呼ばれる、小さな無人島群の領有権をめぐる争いだ。それは、5つの島と3つの岩礁から成る総面積6.3平方キロ足らずの島しょ群。米アラスカ州に属する2つの小島をめぐってカナダ人がアメリカ大使館前で抗議するようなものだ。

 当事国以外の人間は、まさかそんなことでと思うかもしれない。だが大規模な戦争が小さな土地をめぐって勃発したケースは過去にもある。例えば、第一次大戦の発端はボスニアとヘルツェゴビナをめぐる領有権争いだった。第二次大戦は、実質的なポーランド管理下の自由市グダニスク(ドイツ名はダンツィヒ)をナチス・ドイツが奪還しようとして勃発した。

 史料からは尖閣諸島は中国・清王朝の領土だったが、1895年に日本に併合されたことになっている(日清戦争)。第二次大戦後の45年以降はアメリカの管理下に置かれ、71年に日本に返還されたが、中国も台湾もこの取り決めを認めていない。

貿易戦争勃発を回避せよ

 日本政府は先日、尖閣諸島の国有化を発表し、中国人ナショナリストの感情をさらに逆なでした。ロック大使が襲われた北京をはじめ広州や瀋陽など反日デモは中国全土に拡大した。

 1930〜40年代の血塗られた日中間の歴史を考えればこの事態は深刻に捉えるべきだ。世界第2位と3位の経済大国を、貿易戦争勃発という危機に直面させるのは誰にとっても得策ではない。北アフリカ諸国の取るに足らないアラブ経済とは異なり、日中の経済を合わせると世界経済の5分の1を占める。しかも両国の相互依存度は日増しに高まり、今の中国は日本にとって最大の輸出市場だ。

 それなのになぜ日中両国は岩だらけの不毛な島をめぐって躍起になっているのか。答えは簡単だ。内政の危機にある日本と中国の指導者はナショナリズムという伝家の宝刀を抜きたがっているのだ。

 一方、胡錦濤(フー・チンタオ)の後継者と目される習近平(シー・チンピン)は先週レオン・パネッタ米国防長官に「日本は中国の統治権と領土の保全を損ねるような言動を控えるべき」で、アメリカはこの論争に介入すべきではないと伝えた。強気な発言は経済成長が停滞し、首脳交代の時期も迎えた今の中国では受けがいい。

 同じく先週、米国務省のカート・キャンベル次官補(東アジア・太平洋担当)は上院の外交小委員会でこう発言した。「アメリカは日本の実効支配をはっきりと認めている。これは日米安保条約第5条の明確な適用範囲内だ」

 バラク・オバマ大統領は昨年11月、この条約は「地域の安全保障の要」であり、国家安全保障の重点を中東からアジア太平洋地域にシフトすると明言した。この方向転換は本心なのか口先だけなのか、その真意は分からない。後者だとしたら、次に激高するのは日本だろう。

[2012年10月 3日号掲載]

647名無しさん:2015/09/28(月) 22:30:55
>>623

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150928-00010001-chuokou-pol
「I」と「We」と「Japan」――戦後70年談話の複雑な構造
中央公論 9月28日(月)8時0分配信

 戦後七〇年談話が発表された。「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」など、村山談話をはじめとする歴代談話のキーワードがすべて盛り込まれていることから、個別的な批判はあるものの、おおむね評価する声が多いようだ。

 しかしながら、重要なのは、いかなるメッセージを、誰が誰に対して発しているかである。実を言うと、この談話はかなり複雑な構造をしている。

 その複雑さは、談話を英文で読むとよりはっきりする。

 談話は長短五つのパートから成るが、最初と最後のパートは主語が「We(私たち)」で統一されている。これに対し、近代日本をめぐる歴史観を語る第二のパートは、主語が「Japan(日本)」になる。そして一番ややこしいのは第三のパートであり、「I(私)」と「We」、そして「Japan」が完全に混在する。第四のパートも基本は「We」だが、「Japan」が加わる。

 昔、英作文の授業で習ったように、同じ主語の繰り返しを避け、ある程度言葉を入れ替えるのは、特別なことではないのかもしれない。とはいえ、談話全体が「We」パートと「Japan」パート、そして混在パートに明確に分かれるのは、何ごとかを暗示しているのかもしれない。

「We」パートは、国内外に向けて、日本政府としての決意を語る部分であろう。本来、内閣による談話とは、そのような部分が中核になるはずであり、その意味では談話の始めと終わりが「We」パートになるのはきわめて自然である。

 これに対し、「Japan」パートはやや特異である。特定の歴史観を一政治家、もしくは一政党として示すならともかく、歴代の内閣をかなりの程度拘束するこの種の談話に、踏み込んだ歴史観を盛り込むことは、それ自体として論議されてしかるべきである。

 というのも、西洋列強による植民地圧力に対して近代日本が立ち上がり、日露戦争で勝利したまではよかったものの、その後世界恐慌のダメージで孤立し、国際秩序への「挑戦者」になってしまったという歴史観は、けっして自明でも中立的でもないからである。とくに日露戦争の勝利は「アジアやアフリカの人々を勇気づけました」という件には、海外からの異論もありうるだろう。このパートはやや、国内向けの印象が強い。

 問題の第三パートであるが、主語が混在していることには理由がある。元々の日本文の主語がきわめてあいまいなのである。そのため、主語を明示しなければならない英文だと、「I」と「We」、そして「Japan」が混じってしまうのである。英訳者の苦心がうかがえる。

 それではなぜ、日本文の主語があいまいかといえば、これにも理由がある。談話のキーワードである「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」がすべてここに集中しているのである。「植民地支配」や「侵略」はその主語が明示されず、「反省」や「お詫び」の主語で「私たち」は避けられている。結果として、この部分に関して、安倍首相の価値判断がわかりにくい。

 パートによって語りかける相手が微妙に変化し、あるパートではあえてすべてが宙づりになっていることは、談話が文章として出来が悪いことをけっして意味しない。むしろ、日本政府が世界や日本国民に対して、いかなるメッセージを発するべきか、実に微妙である現状をよく示しているのかもしれない。だとすれば、この複雑さを自らの行動を通じていかに明確化していくかが、日本政府の次なる課題となるはずである。
(了)

宇野重規=政治学者
最終更新:9月28日(月)8時0分

648とはずがたり:2015/09/29(火) 09:10:34
韓国 小中学校で「慰安婦」に関する教材を導入-新華社
2015年09月28日 13時41分
http://www.xinhuaxia.jp/social/81278
ECC0DA3A91A82A87DE909BC94080AA4D

【新華社】 韓国はこのほど、小中学校に「慰安婦」に関する補助教材を導入している。韓国女性家庭部の金姫廷(キム・ヒジョン)長官は「韓国青少年が歴史を正しく把握し、正しい歴史観を持つことが狙いである」と語った。

韓国女性家庭部と教育部がこの教材を共同で作った。金姫廷長官によると、以前の歴史教科書では「慰安婦」に関する内容はあるが、少ない。2015年が韓国光復70周年に当たり、日本の社会で「慰安婦」歴史を歪曲した声が多数出ていることから、韓国はこうした専門教材を作る必要性を認識している。

金姫廷長官は、この教材を通じ、韓国の青少年に平和と人権の貴重さを認識し、歴史的悲劇を繰り返すことを回避してほしいという。

韓国の公式データでは、日本が朝鮮半島を植民地支配した1910年-1945年の期間中、朝鮮半島の女性8万-16万人は日本軍の「慰安婦」として連行された。金姫廷長官によると、韓国政府は2016年3月にユネスコに、「慰安婦」に関する資料を「世界記憶遺産」に組み入れるよう申請した。韓国は国際社会から「慰安婦」問題に関する関心を喚起し、戦争の性的暴行の土壌を根源から根絶やしにすることが狙いである。女性家庭部はそれに向け、専門委員会を設立し、関係部署や学界、民間機関と共に資料の収集や記録を後押しする。これらの資料は録音や治療記録、関連する訴訟の内容、ほかの「慰安婦」被害国及び民間団体活動などを含む。

(翻訳 李継東)

649名無しさん:2015/09/29(火) 19:51:26
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150929-00000087-jij-pol
政府会計の戦後処理終結へ=旧外地の剰余金など7億8000万円
時事通信 9月29日(火)15時18分配信

 政府は29日、1945年の終戦とともに廃止された朝鮮総督府など旧外地の特別会計を正式に終了させる決算処理を行う政令を閣議決定した。
 44年度と45年度の2年分に生じた剰余金に、特会の積立金を加えた合計で約7億8000万円を2015年度の一般会計に繰り入れる見込み。財務省は「国の会計上の戦後処理はこれで全て終結する」(主計局担当者)と説明している。
 旧外地特別会計は「朝鮮」「台湾」「樺太」「関東州」「南洋」の5地域の現地政府運営などのために設けられ、計10会計に上る。終戦に伴いこれら特別会計は廃止されたが、終戦後の混乱で決算関連書類が散逸し、決算処理が行われない状態が続いていた。

650名無しさん:2015/10/03(土) 13:56:24
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151001-00010000-nipponcom-pol
鼎談:「安倍談話の読み方」
nippon.com 10月1日(木)14時33分配信

8月14日に安倍晋三首相が出した「戦後70年談話」。その意義づけや海外の受け止め方、今後の東アジア国際関係に与える影響などについて、談話の土台となる「21世紀構想懇談会」報告書作成に深く関わった3人が意見を交わした。

「リアリスト安倍」がとったバランス感覚
――8月14日に安倍晋三首相が出した「70年談話」。内容についての率直な感想を伺いたい。

白石 それなりにいいものができたなと思う。3つの意味がある。1つは、安倍首相という人はリアリストであると同時にナショナリストで、2013年の12月に靖国神社に参拝したが、私自身は、あれで「ナショナリスト安倍」は打ち止めで、その後は「リアリスト安倍」でいくと見ていた。それが確認できた。とてもバランス感覚の良いステートメントだった。

この談話を安倍さんが出し、しかも内閣として承認されたものとして出たことで、これから80年、90年と仮に談話が出るとしても、あそこからもう右には行けない。その意味で歯止めができ、国内世論としてぶれる余地がなくなった。これが2つ目のポイントだ。

3番目に、2013年12月に安全保障戦略が出ているが、あれと今回の談話はペアで考えるとよい。談話は世界の中の日本、アジアの中の日本を歴史的に振り返り、1930年代、40年代に国策を誤ったという趣旨の内容となった。戦後の日本はこれと断絶するかたちで存在し、これから先もそれが日本の基本的な方向だと明らかにした。これによって、まさに安全保障戦略と整合的なステートメントになっている。中曽根政権時代から30年、ずいぶん時間がかかったが、落ち着くべきところに日本の大戦略の議論が落ち着いたと思う。

戦後70年と、未来を語る談話
川島 今回の談話は(戦争に至る)歴史についての話だと思われがちだが、やはり戦後70年と未来の話を語っている点が特徴だ。これまで(戦後)日本が進めてきたことをしっかりと受け止め、未来について説明し、自らの歩みに歴史的な裏打ちを与え、将来を展望した点に意味があった。

特に平和国家であることや、(各国と)和解を進めたという経緯を述べたが、これは現在の安保法制を意識してのことだろう。また、通商レジームに戦後ずっと貢献してきたとしていることは、TPPを意識しているのだろう。日本が進める安全保障政策であれ通商政策であれ、「こういう歴史的な背景があるのですよ」ということ説明している面があると一読して感じた。

一方で、やはり驚きもあった。首相はこの1年間、さまざまな演説をしている。その中の歴史に関連する部分と私ども(21世紀構想懇談会)の報告書、それに村山・小泉談話をミックスして談話をつくるのだろうと思っていたが、今回の安倍談話にしかないフレーズというのがいくつかある。日露戦争の評価の内容が出てきたり、「謝罪を子々孫々で受け継がない」という部分など。それらが特徴としてあると思う。

海外の受け止め方については、私は中国が専門だが、「あれなら中国も拳を振り上げて厳重抗議するということにはならないだろう」というのが一読した印象だった。温家宝・元中国首相がかつて村山・小泉談話の中で評価した部分を、私は懇談会の提言書で引用した。それを受け継いでこれからもやっていくということなのだろう。そうした意味では従来の政権と基本的に同じスタンスだった。

651名無しさん:2015/10/03(土) 13:57:34
>>650

最保守の安倍首相が村山談話引き継ぐことに意味
細谷 歴史家E.H.カーの「歴史とは、現在と過去との間の尽きることのない対話である」という有名なフレーズがあるが、まさに安倍談話は、過去と現代が一体になっている。今回の場合は先の大戦、あるいは戦前の日本の行動の反省の上に立って、戦後は平和国家としての道のりを歩み、それを堅持するということで、過去があって現代がある。また現在の国際情勢であるとか、日本の置かれた立場というものがあり、そういった拘束の中から「過去にどう向き合うか」という歴史の言葉を選んでいる。

日本はとりわけ過去20年間、リベラルと保守の間で非常に厳しい歴史認識をめぐる対立があった。今回の談話はその亀裂、対立を乗り越え、その両側の立場というものに配慮していると思う。最もリベラルな首相であった村山首相の談話を、最も保守である安倍首相が引き継ぐという意味では、ある意味ではかなり幅広い、ナショナルなコンセンサスになり得る談話だと思う。首相の1年前、あるいは2年前の歴史認識に関する発言と比べると、これまで持っておられた歴史認識を「広げて深めた」と思う。報告書を相当丁寧に読まれたことが、談話の内容につながったのではないか。

安倍談話の枠組みつくった懇談会報告書
――21世紀構想懇談会の報告書の(提言)作成過程では、「侵略」の定義について一部に異論があったとも聞いている。懇談会メンバーの中で激しい対立などはなかったのか。また、報告書の骨子はどのように決まっていったのか。

白石 それぞれのテーマで実際に報告があると、委員の議論そのものは1人2-3分ぐらいしかできない。回数も時間も限られている。

川島 要は(懇談会の場で)誰が何を発表するかという発表者が重要。彼らの発表内容が、(委員からのコメントを踏まえた修正を経て)提言の骨子になった。委員ももちろん大事だが、毎回の会議で委員に求められた役割は、報告に対してコメントをすることだった。そのコメントには非常に大きな幅があった。もう一つ特徴的なのは、会議が終わってすぐに密度の濃い議事録を公開した点。メディアはそれを読んで記事にしたが、その記事に対する反応で、世論の動向を見たという部分はあったと思う。

議論するテーマは初めから決まっていて、「歴史」1回、「戦後」3回、「未来」1回。それぞれの発表者は決まっていた。委員と発表者それぞれのメンバー(一部重複)とアジェンダセッティングが決まった段階で、ほぼ(報告書の)枠組みは出来上がっていたかなという感じだ。

652名無しさん:2015/10/03(土) 13:59:31
>>651

「侵略」、「国策の誤り」めぐり、歴史家メンバーは認識共有
――その懇談会の構造が色濃く反映されて、談話が出てきたと考えていいのだろうか。

白石 提言は懇談会で作ったが、談話は官邸が決める。そこは切れている。これはわれわれも理解の上で懇談会に入っている。同時に、懇談会の議論からあまり逸脱した談話は出せないだろうとも思っていた。その意味では、微妙な緊張関係にあった。

――細谷先生は第4回会合で報告されたが、懇談会の雰囲気とか、委員とのやりとりはどうだったのか。

細谷 特段事前に強い要望もなく、かなりの程度、自由にお話しさせていただいた。懇談会ではプロフェッショナルな歴史家の方々の中では、とりわけ20世紀前半の歴史をどう見るかということについて、例えば「侵略」や「国策を誤った」ということについて、その認識を共有していたと思う。

一方で、懇談会の提言を前提として、安倍首相がどういう言葉を選ぶかというのは、最初の段階では分からない。緊張感があったと思うし、また、かなりの程度不確定な部分があったのだろう。

談話の内容で、私にとって想定外だったのは、「過去」の記述がここまでたくさん入ったことだ。提言では戦後の和解をかなり強調していたので、戦後の部分が大きな字数を占めると思っていた。村山談話というものを引き継ぐ立場も明確だった。言葉の使い方も、「戦争の苦痛をなめ尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さん」というように、具体的な言葉を使って踏み込んでいる。首相は21世紀構想懇談会に出席する中で、相当いろいろと悩んで、またご自身で勉強されて、考え方も少しずつ広がり、変わっていった部分があるのかなと思う。

目の前の政治、国際関係も談話のトーンに影響
白石 メディアは談話の字句にものすごく関心を持ち、中国、韓国の反応に注目したが、少しピント外れだったのではないかと思う。安倍首相は、そもそもそのようには考えていなかったのではないか。むしろ日本国民に対してどのような談話を出すか、日本の同盟国である米国、さらにはパートナー国の人たちにどういうメッセージを出すか、もっと広く考えていたのではないかと思う。

その意味で、僕は、一昨年のオーストラリア議会での演説、それから今年4月のバンドン(インドネシア)でのアジア・アフリカ会議60周年を記念する首脳会議の時の短い演説、5月のアメリカ議会での演説、こういうものはすべて一連のもので、その締めくくりとなるのが今回の談話だと考えたほうがいいと思う。

川島 全くそのとおりだ。ただ、意外な展開もあった。安保法制の国会審議が延び、談話発表が国会会期中になってしまった。加えて安保法制ももめて、7月は支持率も下がった。談話は本来会期外に公表されるはずだったのに、国会運営や世論の動向と深く関わるものになったということだ。そのため公明党はもとより、さまざまな配慮をする必要が生じた。より詳細な談話の作成過程、特に7月の最終週と8月の半ばまでに、どういうせめぎ合いがあって、ああいう長い談話になったのかというのは、やがて検証されるだろう。

細谷 国会審議が延びたというのはかなり大きい。安倍談話が閣議決定になるという時点で、公明党が了承できないものということはあり得なかったと思う。もう一つは、昨年のAPECサミットから日中関係が比較的好転していること。日本も中国も、日中関係を改善しようという動きを示しており、歴史認識をめぐってそのような動きを傷つけるような言葉や姿勢というのは示さないという配慮が、双方の側にあったと思う。9月3日の習近平主席スピーチも、日本に対してそれほど厳しい言葉は含まれていない。結局、歴史認識や談話というのは、現在動いている政治の中で作られるのだとも感じる。関係改善の中で、双方が慎重に言葉を選んだのだろう。

653名無しさん:2015/10/03(土) 14:01:28
>>652

かみ合った日本、中国双方の対応
白石 懇談会の議論でのキーワードは「謝罪」ではなく「和解」だった。そこは大きな合意があった。

細谷 そういった意味では1998年の日中共同宣言に戻ってきたと思う。この時の宣言は日中関係を前に進めようという、かなり強い意志があった。今もまた、日中両国とも関係を前に進めようという意志が色濃くみられている。

双方の努力によって歴史和解を進める。そして、その和解を基礎として、現代の2国間関係を好転させる。おそらくこのサイクルを日米、日豪、日英などでやってきたということを談話で強く示唆することによって、当然ながらこれを日中にも、もちろん日韓にも応用可能だということが、「和解」という言葉を強調した大きな意味だと思う。それが私は、今後の日中関係や日韓関係にも効果を持つのではないかと思う。

川島 98年の日中共同宣言というのは、実は「日本側が今後村山談話を順守」すると言っている。また98年の江沢民の訪日は、覚えていると思うが、あれは日本国内からの不満が強く(※2)、共同宣言の文章は素晴らしいが、日中が融和する気にならなかった。その後、2007年4月12日に温家宝が日本の国会で演説をして、そこでこれまでの日本の歴史問題への取り組み、村山談話と小泉談話を評価した。だが、その当時、日本の自民党政権は1年ごとに首相が交代する状況で、中国からのメッセージにきちんと対応することができなかった。

そういう意味では98年、2007年ともに日中の対応はちぐはぐというか、ちょっとかみ合っていなかった。今回は細谷さんがおっしゃるように、日本が安倍談話を出して、9月3日に習近平が割に日本を批判せずに、平和国家中国を強調した。そうした意味では今回、日中はお互いようやくかみ合ったという感じだ。

今後の対中国・韓国関係と歴史問題
――ただこれから先、逆に東アジアは緊張関係がかなり高まっていく流れもある。南シナ海も全然決着がついていない。その中で今回の談話の意義をどう考えればいいのか。今後、日本がアジアの中で生きていく中で、この歴史問題と安倍談話が、どのような意味合いを持ってくるのだろうか。

白石 歴史問題というのは、基本的に現代の問題だと考えた方がよい。例えば、かつて中曽根政権の時には、靖国参拝は憲法の問題だった。しかし、今では完全に外交の問題になっている。重要なことは、日本政府の要人、特に首相、大臣の職にあるような人たちが不用意なことを言ってはいけない、ということだ。「首相談話を出したが、結局、本音は違うじゃないか」といった議論にまたなることのないよう、できる限り注意したほうがいい。

中国の指導者は非常に戦略的に外交関係を考えているので、日本の政治家が不用意なことを言ったり、したりすれば、モラル・ハイ・グラウンド(道徳的な高み)を占めようとはするだろう。しかし、国内問題もあり、このカードをあらゆる機会に使うといったことはなかなか考えにくい。

韓国にとっては、このカードは非常に使いやすい。国民的に「日本はけしからん」という空気があるので、政府もあらゆる機会に使おうとするだろう。韓国はいま、非常に大きな戦略的選択のプロセスにある。安全保障においてはアメリカ、中国とうまくやっていればそれで十分、経済的には中国への輸出が鍵となっている。したがって、これからの韓国の安全保障を考えても経済発展を考えても、アメリカのリバランシングに引っ張り込まれて、アジア太平洋の安全保障のネットワーク化のようなことに関与して、中国から警戒されるのは避けたい。歴史認識の問題がある「日本が悪い」と言って、事実上G2との関係をうまく管理することで、安全保障と経済発展の両方を達成しようという戦略的な選択をしようとしているように見える。日本としても、クールに対応するしかない。

654名無しさん:2015/10/03(土) 14:05:09
>>653

日中韓米:国際政治は大きな分岐点に
川島 大きな国際政治の分岐点に、今、来つつあるということはたぶんみんな分かっていて、特に中国とアメリカの関係が今後どうなるかということが一番大きな焦点になる。中国は一帯一路という構想を出して、周辺の国と、あるいはユーラシア全体を自分のやりやすい空間にしていこうとしている。おそらく中国は、東シナ海、南シナ海、太平洋というのは厄介な空間で、日米と直接ぶつかることは、かなりコストがかかることを今、学びつつある。だからこそ、「西進」をイメージ化したのだろう。だが、これは「東」を無視することを意味しない。

そういう中でアメリカも安全保障体制を組み直しながら、日本に対してもさまざまな要求をしてくる。韓国はまさに米中の中間にいて、ある種の選択を迫られている。相当うまくバランスを取っていかないと無理だという問題に、韓国は直面していると思う。

中国の場合は、歴史認識問題というのは共産党の正統性の根幹に関わるが、白石先生がおっしゃるように、あまり歴史カードを使うことも危険。反日デモは、やっても必ずしも取り締まりを受けないので、そこでまたいろいろな問題も噴出してくる。だから国際宣伝とかさまざまな面で日本に対して厳しいことをやり続けると思うが、国内ではやり過ぎないようにする。この両面のかじ取りを中国はやってきていて、9月3日もまさにそれが現れたかなという印象だ。

でも今回、韓国の朴槿惠大統領は8月15日に、安倍談話を踏まえた演説を行っている。談話が出た後の14日の夜から一生懸命に頑張って、加筆修正したようだ。そういう意味ではかなり努力をした。このようにして日中韓3国がともに歴史をマネージしてみせたのが8月から9月ではなかったか。まだこれからさまざまなことがあるかもしれないが、対立のエスカレーションを一定程度防ぐことを世界に見せることができたという意味では、一つの例としてよかった。

655名無しさん:2015/10/03(土) 14:05:27
>>654

歴史を政治の道具として悪用しないために
川島 談話の中の「謝罪を子々孫々まで受け継ぐかどうか」という議論だが、これも国内で議論が進むといいと思う。ドイツなどでは、戦争犯罪を分類している。ヤスパースの議論にもあるが、そもそも戦後生まれは戦争の時に生きていないわけだから、戦時下の事象に対して刑事的な罪があるはずはないという。でも戦後に生きているわれわれは、ある種の和解に対しては責任があるとか、罪を弁別して考えている。

日本では、そういう議論はあまりない。東アジアの国々も「日本民族全体、そして戦前も現在も同じ民族」として責任を追及する面がある。しかし世代が進むにつれ、べつにドイツに全て学ぶ必要はないが、日本や東アジアでも「何がそもそも悪いのか」、「何に対して責任があるのか」ということについての議論がもう少し哲学的に進むと、日本でも中国でも受け入れられるものができるのではないか。

そういう意味で今回の談話は、若干ドイツを参考したかなという思う箇所があり、興味深い。「日本の和解に協力してくれた個人や国家に感謝する」というのは、メルケル・ドイツ首相の言葉に近い。そういうところが入ったのは面白いかなと思う。

細谷 ドイツを参考にしたというのは、おっしゃるとおりだと思う。3月にメルケル首相が来て、あのような演説をしたことが(※3)大きかったと思う。メルケル首相が非常に強調したのは、フランスなどの周辺国が和解の精神で手を差し伸べてくれたということ。あれは明確に、ギリシャをはじめとして歴史を修正しようとする国に対するけん制だと思う。

つまりはヨーロッパの中でも誠実にドイツと和解を求める国と、今のギリシャのように現在の問題を解決するために歴史を利用、あるいは悪用し、歴史をゆがめてドイツに対して優位に立とうとする国に分かれている。その中で、相当強い言葉でメルケル首相はギリシャをけん制したと思う。

ドイツや日本が真摯に歴史に向き合うということは必要だが、「現代の政治問題を解決するために歴史を道具として悪用するということは避けるべきだ」ということの理解というものも、これからの国際社会に必要ではないか。

nippon.com別館

(※1)「戦後70年談話」の作成に向け、安倍首相が設置した私的諮問機関。正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」。
2015年2月から6月に6回の会合を行い、8月6日に報告書を提出した。

(※2)中国の江沢民主席は訪日中、日本の歴史教育を批判する発言を行い、天皇と小渕恵三首相に過去の歴史に基づいた謝罪を要求した。

(※3)メルケル首相は訪日中の講演で、隣国フランスの寛容さが独仏の和解を進め、欧州統合という平和の土台を築くことができたと強調。東アジアの歴史認識をめぐる問題に直接は触れなかったが、和解に向けて双方が“謝罪と寛容”を示す努力が必要であると示唆した。

白石 隆(SHIRAISHI Takashi)nippon.com編集主幹。政策研究大学院大学学長、ジェトロ・アジア経済研究所所長。専門は国際関係論、東南アジア政治。1950年愛媛県生まれ。東京大学大学院国際関係論修士課程、米コーネル大大学院博士課程修了。21世紀構想懇談会(※1)で委員を務めた。

川島 真(KAWASHIMA Shin)nippon.com編集長。東京大学総合文化研究科教授。専門はアジア政治外交史、中国外交史。1968年東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授などを経て現職。21世紀構想懇談会委員。

細谷 雄一(HOSOYA Yuichi)nippon.com編集委員。慶應義塾大学法学部教授。専門は国際政治史、イギリス外交史。1971年千葉県生まれ。慶大大学院政治学専攻博士課程修了。北海道大学法学部専任講師、慶大法学部助教授などを経て、2011年から現職。21世紀構想懇談会では第4回会合で、「米国、豪州、欧州との和解の70年」に関連する発表を行った。

656とはずがたり:2015/10/08(木) 17:32:51
韓国国民年金公団、靖国神社支援企業に投資=韓国ネット「移民を決意した」「朴大統領は日本で暮らせば?」http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20151007/Recordchina_20151007057.html
レコードチャイナ 2015年10月7日 21時52分 (2015年10月8日 17時22分 更新)

2015年10月5日、韓国・YTNによると、日本の戦犯企業らに毎年数千億ウォンの投資をしていることが分かり、批判を受けていた韓国の国民年金公団が、靖国神社を支援する日本の企業らにも莫大な投資をしていたことが明らかとなった。

新政治民主連合のイン・ジェグン議員が国民年金基金運用本部から受け取った資料「日本企業への投資内訳」によると、靖国神社のカレンダーを作り、日本の首相や閣僚の靖国神社参拝を定着させようと主張する「凸版印刷」に対して、韓国の国民年金公団は、最近5年間で30億ウォン(約3億円)を投資していたことが分かった。さらに富士通や三菱重工業など37の企業にも1兆5000億ウォンを投資していたが、それらの企業は会社の代表が日本の右翼団体「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーだという。

国民年金公団は「収益性やポートフォリオなどを考慮すると、戦犯企業らを別に取り除くことは難しい」と話しているという。

657とはずがたり:2015/10/08(木) 17:34:03
北京日本人学校の生徒激減 反日宣伝、大気汚染の悪化影響か
共同通信 2015年10月8日 12時49分 (2015年10月8日 12時54分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20151008/Kyodo_BR_MN2015100801001216.html

 【北京共同】中国北京市朝陽区にある日本人学校(奥田修也校長)の小学部と中学部を合わせた児童・生徒数が9月末に400人を割り込み、ピーク時の2007〜08年から約4割減少したことが8日分かった。中国メディアなどによる絶え間ない反日キャンペーンや大気汚染の悪化が背景にあるとみられる。
 同校の児童・生徒数は13年に600人、14年に500人を割り、先月末は398人となった。最多だった07〜08年の688人から約4割減少したことになる。
 同校は1974年に北京日本人学童補習校として開校、76年に北京日本人学校となり、中国経済の発展に伴って生徒数が増え続けた。

658名無しさん:2015/10/10(土) 21:40:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151009-00010004-shincho-int
元植民地が日本びいきなワケ 「あの頃はモラルがあった……」
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 10月9日(金)13時28分配信

■貨幣経済をもたらした
 前回の記事では、『日本を愛した植民地』(荒井利子・著)をもとに戦前、日本の委任統治領だったパラオの人たちが、戦後も日本に好意を持ってくれていることをお伝えした。

 なぜ彼らは今でも日本時代を懐かしむのか。同書では数多くの島民の生の声を紹介している(以下、引用は『日本を愛した植民地』より)

 たとえば1925年生まれのパラオ人、フジオさん(仮名)はこう語っている。

「日本時代が良かったっていうのは、まあ金もあったし、自由で、品物はたくさんありましたから。何でも出来たっていうのがいいところでしょうか」

 実はパラオに貨幣経済をもたらしたのも日本。島民たちは初めて手にした現金を持って、デパートやお店に買い物に行き、珍しい日本の商品を買うのが楽しみだったという。

 差別がなかったわけではない。島民は飲酒を禁じられていた。

 それでも生活の満足度は高かったようだ。

「お前は日本人だと言われ、日本人、日本人という教育を受けていました。お酒を飲めないのは差別と感じていたけど、それ以外で差別と感じるようなことはありませんでした。

 日本人の奥さんたちも、自分の子どもと同じように扱ってくれました。

 シンガポールが落ちたというと、パラオ人も日本人も一緒に提灯行列しました。今でも(自分のことを)日本人と思っているパラオ人もいます」

■アメリカ人の先入観

 ここで疑問を持つ人もいることだろう。

 日本時代が良かったとしても、戦後、解放されてアメリカの支配下に置かれてからのほうがもっと良いはずではないか、と。

 実際に、島民も、

「ドイツ時代から日本時代になって生活レベルが上がった。また新しい時代になれば、もっと良い時代になるに違いない」

 と当初は考えていたようだ。

 ところが、話はそう簡単ではなかった。

 アメリカは日本統治時代のミクロネシアを知らなかったため、島が経済的に栄えていたことなど知らなかった。戦後、アメリカ人が見たパラオの人たちは疎開先から戻ってきたばかりだったので、ボロボロの衣服をまとい、体中が汚れた姿だった。それを見たアメリカ人は、それがパラオ人の真の姿だと思い込んでしまったのだ。

 そのため、アメリカ人は勝手に「パラオ人には原始的な生活をさせておけばいい」と考えたのである。その後、誤解は解けたのだが、それでもなお島民がアメリカ時代を高く評価しない理由があるのだという。

■自由を嘆く老人たち

 それは皮肉にも彼らがもたらした「自由」の弊害だった。

 アメリカはドイツや日本とは異なり、島民に指図をせず「自由」を与えた。しかし、多くのパラオの人々にとって「自由」とは聞いたことのない言葉だったため、混乱が生じてしまう。

 日本人の父親を持つトミオさん(仮名)の話。

「戦争が終わって、アメリカが来て、だいぶ違った生活になりました。アメリカ人は日本人と違って、『おまえたち、あれやれ、これやれ』っていっさい言わないで、『おまえたち、自分でやれー、好きなようにやれー』って。

 だからそこで私たちは初めて自由って何なのかアメリカ人から学びました。その自由とは、何でもしたい放題、好き勝手にやっても良いことだと受け止められた」

 当初、「自由」を謳歌していたのだが、島民たちは「自由が間違って理解された」ことを悔いている。酋長の言うことも聞かれなくなり、秩序が壊れてしまったのだ。

 パラオ人女性の話。

「日本時代は子どもが結婚しないで生まれたら、みんなから白い眼で見られたものなのに、今は結婚しなくても平気で子どもを産む。私生児はたくさんいます。今の若い人は自由になったのだから、何をしてもいいと言って、年寄の言うことなんか聞きません」

 別のパラオ人女性の話。

「アメリカは自由すぎる。学校で乱暴しても喧嘩しても、先生は殴らない。日本の学校では先生に殴られたけど、良いことと悪いことを教えてくれた。今の子どもたちに怒ると、『今と昔は違う』と言われる。殴られたからこそ、私たちは学ぶこともできた」

 お気づきのように、彼らの語る「日本」は、現在の「日本」ではない。おそらく彼らが今の日本の実情を見たら、驚き、また悲しむのかもしれない。しかしそうした「美しい誤解」もあって、今でもパラオの人たちは日本に好意を持ってくれているのだろう。『日本を愛した植民地』は、国が国を統治するという行為について新しい視点を与えてくれる力作である。

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659名無しさん:2015/10/10(土) 22:15:44
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000066-san-pol
日本、ユネスコ拠出金凍結も 本来の目的にそぐわず「断固たる措置取る」
産経新聞 10月10日(土)7時55分配信

 中国が申請していた「南京大虐殺文書」が記憶遺産に登録される見通しになったことについて、日本政府筋は「断固たる措置を取る」と述べ、ユネスコの分担金拠出などの一時凍結を検討する構えを見せている。

 平成26(2014)年度のユネスコ予算の日本の分担率は米国の22%に次ぐ10・83%で、金額は約37億1800万円。米国が支払いを停止しているため、事実上のトップだ。さらに分担金以外でも、さまざまな事業に対する任意拠出金があり、同年度のユネスコ関係予算は計約54億3270万円に上る。

 外務省首脳は「日本の分担金はトップクラス。(ユネスコ側が)日本からの申し入れに真剣に耳を傾けることに期待したい」として、中国の申請案件の登録が認められた場合は拠出金の凍結もあり得るとのシグナルを送り、慎重な審査を求めていた。

 一方、中国の分担率は6位の5・14%で日本のほぼ半分。任意拠出金も日本より少ない。しかし、中国の動きに詳しい関係者によると、中国は、記憶遺産の周知を図る名目で関係者を中国に招待するなどしているという。記憶遺産事業だけでなく、アフリカでの女子教育などにも中国は積極的に支援を行っており、「さまざまな形でボコバ事務局長の思いに応えている」との指摘もある。

 中国の登録申請を受け、“防戦”に回った日本も傍観していたわけではない。「審査を行う国際諮問委員会メンバーに対し、ユネスコ加盟国は働きかけられない」(日本外務省筋)ことから政府はその動きをつまびらかにしていない。しかし、「政府は関係する分野の専門家などと協力し、委員側に日本の主張を伝えてきた」(与党議員)という。民間団体もパリのユネスコ事務局を訪問し、英文の反論文を提出している。

 記憶遺産は、人類にとって歴史的価値のある貴重な文書の保護などを目的とする。中国が日本を貶(おとし)めるために利用する「南京大虐殺文書」の登録が本来の目的にそぐわないことは明らかだ。政府関係者は「今回の申請も受理も理解できない」と述べ、記憶遺産事業の見直しもユネスコに働きかけるべきだと強調した。

660名無しさん:2015/10/10(土) 22:57:20
新・大中華世界的話題
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1440116307/300

300 名前:名無しさん[] 投稿日:2015/10/10(土) 16:35:01
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000212
日中韓が「歴史戦争」=ユネスコ舞台に-聯合ニュース

 【ソウル時事】韓国の聯合ニュースは10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が推薦した南京事件に関する資料が登録されたことを報じ、日中韓の3カ国がユネスコを舞台に「歴史戦争」を繰り広げていると指摘した。
 聯合は「中国が併せて申請した『日本軍の慰安婦資料』は登録目録に含まれなかった」と報道。「日本政府の強い反発がユネスコに影響を与えたという分析もある」と伝えた。
 さらに、韓国が日本の植民地時代の「強制動員」の記録の世界記憶遺産登録を目指していることに触れ、「日本政府が強く反対するとみられる」と分析、歴史をめぐる論戦が続きそうだと指摘した。 (2015/10/10-15:27)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000065
日本の制止実らず=中国申請の「南京」認定-ユネスコ記憶遺産

 【パリ時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京事件」に関する資料の登録が決まった。日中間で事実認識に隔たりがあり、論争が続く中での認定。日本政府はユネスコに慎重な対応を求めてきたが、受け入れられなかった。

 南京事件は、日中戦争時の1937年12月に旧日本軍が南京を占領した際、多数の中国人を殺害した事件。ユネスコが公表した中国の申請書類によると、当時の日本兵が撮影した写真や米国人神父による記録映像、中国人女性の日記などが登録対象とされている。
 南京事件に関しては、犠牲者の規模などをめぐり日中で見解が分かれる。記憶遺産への登録は、中国側の歴史認識に「お墨付き」を与えることになりかねず、日本政府はかねて「ユネスコの政治利用だ」(菅義偉官房長官)と反対してきた。
 一方、中国が同時に提出した「従軍慰安婦」に関する資料は登録リストに記載されていない。中国側は申請書類で、大戦中の日本軍が中国などで、住民女性を「性奴隷」として奉仕させるため、「強制的に徴用した」と説明。当時の軍の内部資料がこうした事実を裏付けていると主張し、認定するよう求めていた。慰安婦女性が強制的に連行されたとの見方は日本では否定論が強い。
 中国の再申請などを通じ、慰安婦の資料が将来認定される可能性は消えていない。韓国も日本の植民地時代の「強制動員」の記録について、記憶遺産への登録を目指し、来年にも申請する方向。日本政府は引き続き、ユネスコを舞台とした「歴史戦」への対応を迫られそうだ。(2015/10/10-05:53)

661名無しさん:2015/10/10(土) 23:12:45
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000007-jij-int
シベリア抑留資料、記憶遺産に=「南京事件」も登録―ユネスコ
時事通信 10月10日(土)2時6分配信

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10日、重要な歴史文書などの保存を目的とする世界記憶遺産に、第2次大戦後のシベリア抑留者に関する資料「舞鶴への生還」(京都府舞鶴市申請)と、政府推薦の国宝「東寺百合文書」を登録したと発表した。
 日本からはこれまで慶長遣欧使節の関係資料など3件が登録済みで、今回で計5件となる。
 中国が推薦した南京事件に関する資料も登録された。過去には旧ソ連からの独立を求めたバルト3国の「人間の鎖」や植民地に関する記録など、国により立場が異なる案件の登録例もあるが、歴史的評価や事実認定が固まっていない事柄の登録は異例。従軍慰安婦資料については不登録だった。
 シベリア抑留資料は、舞鶴港に帰還した抑留者の手記など、舞鶴引揚記念館が所蔵する570点。抑留中の生活や心情を、シラカバの樹皮にすすで作ったインクでつづった「白樺日誌」や、息子の生還を待ち続ける母親の姿を歌ったヒット曲「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの手紙などが含まれる。
 東寺百合文書は京都市の東寺に伝わる、8〜18世紀の約1000年間にわたる約2万5000点もの古文書群で、足利義満の直筆や織田信長の書状もある。寺院運営などの仏教史に加え、当時の社会状況や和紙発展の歴史を示す貴重な資料で、1997年に国宝に指定された。
 いずれも日本ユネスコ国内委員会が2014年6月に推薦を決定。4日からアラブ首長国連邦のアブダビで開かれたユネスコ国際諮問委員会が審査していた。

662名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151010-00045700-gendaibiz-pol
自民党「憲法改正」の系譜〜吉田茂・鳩山一郎・岸信介、それぞれの憲法観 「戦後レジームの正体」第7回(前編)
現代ビジネス 10月10日(土)11時1分配信

鳩山一郎の改憲論
 1952(昭和27)年9月12日、鳩山一郎は日比谷公会堂で政界復帰の第一声の演説を行った。憲法改正と、ソ連との国交回復交渉を訴えたのである。

 ――憲法はいうまでもなく独立国が拠って立つ根本法である。ところが現在の憲法は占拠下に占領軍の手によってつくられたものであり、しかも非武装が前提になっている。平和を追求するためには自衛の軍備を持つ必要がある。

 吉田茂首相は戦力は持たないと言っているが、保安隊(後の自衛隊)がある。これはあきらかに戦力であり、この大矛盾を解消するには憲法改正が必要である――。

 これが鳩山の強い主張であった。吉田茂首相はその矛盾をごまかしているのだというわけだ。

 さらに、東西冷戦が厳しくなってきて、米ソ戦争が始まれば、このままでは日本は戦場になってしまう。ソ連はアメリカの基地がある日本を攻撃する。だから、ソ連との国交をなるべく早く正常化すべきだというのである。

 当時シベリアには4万人以上の日本人が抑留されていた。このことも重大な問題になっていた。

鳩山一郎と吉田茂の食い違う「記憶」
 ところで鳩山一郎は戦前から穏健派の政治家であった。そして戦後に自由党(結党時は日本自由党)を結成してその総裁となり、敗戦の翌年1946(昭和21)年4月10日の第1回総選挙で、自由党は141議席(進歩党94、社会党93)を獲得して第1党となった。

 そこで鳩山が首相になることになったのだが、その直前にGHQが鳩山は公職追放令に該当すると政府に通達した。

 鳩山が戦前に自著でヒトラーを礼賛したことや、文相時代に京都帝国大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授の辞任要求をしたことなどが原因だとされたが、鳩山自身は、総選挙を前にして厳しい共産主義批判をしたことがソ連の横槍となり、GHQに睨まれたと捉えていたようだ。

 そして、幣原喜重郎内閣の外相だった吉田茂を口説いて首相にした。鳩山は、その事情を『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社)で次のように書いている。

 「吉田君が総裁を引受けることになった時、四ヵ条かの書いたものを向うから持って来た。この書いたものはその後何うなったか、紛失してしまったが、あの時二人でこんな話をした。自分は政党のことは全く関係がなくて分らんから、政党の人事については一切君の方でやってくれなきゃ困る。政党は一切君の力で押えてくれ。但し内閣の人事については干渉してくれるな――とこう吉田君が私に話した。

 又吉田君は自分は金はないし、金作りも出来ない。金の心配は君の方でやってくれなきゃ困る。俺は辞めたくなったら何時でも辞めるんだ。君のパージが解けたら直ぐ君にやって貰う、とこういって吉田君はこれを四ヵ条に書いて私のところに持って来た」

 吉田茂も『回想十年』(新潮社)の第一巻で、「鳩山君を麻布市兵衛町の外務大臣官邸に呼んで、最後の話し合いをした。私はそのとき、三つの条件を出した」と明かしている。

 「金はないし、金作りもしないこと、閣僚の選定には君は口出しをしないこと。それから嫌になったら何時でも投げ出すことの三点であった」

 これが三つの条件であり、「パージが解けたら直ぐ君(鳩山)にやって貰う」という項目は吉田の『回想十年』には入っていないのである。

 もっとも吉田は「長くやろうという気はなかった」と書いているのだが、鳩山が1951(昭和26)年8月に追放解除になり、52年10月の総選挙で当選しても、吉田は権力の座を固守し続け、54年12月まで通算7年2ヵ月も首相の座に居続けた。

663名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:42
>>662

「自衛隊は軍隊ではない」という主張
 なお、鳩山は自衛隊の存在は違憲であり、だからこそ憲法改正が必要だと主張し続けたのだが、吉田は、朝鮮戦争が起きてGHQの要請で警察予備隊が発足し、それが保安隊になり、自衛隊となっても「再軍備反対」の姿勢を変えなかった。

 『回想十年』第二巻の中で、「一体、私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい」と言い切り、その理由を三つ挙げている。

 「米国はその戦勝の余威を以て、且つまた世界に比類なき富を以て、あの巨大な軍備を築き上げたもので、他の国があれに匹敵し得る軍備を持つということになれば、それこそ大へんな負担であり、仮りにその負担に堪え得るとしても、あれだけの費用をかけてさえ、果して今日の米国の如き進歩した高度の武装を実現し得るや否やは疑問とされるそうである。況んや、敗戦日本が如何に頑張ってみても、到底望み得べきことではない。これが私が再軍備に反対する理由の第一である。

 第二に国民思想の実情からいって、再軍備の背景たるべき心理的基盤が全く失われている。第三に、理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っておって、その処理の未だ終らざるものが多い」

 そして、警察予備隊が、保安隊、自衛隊となっても、吉田は「戦力ではない」と言い切り、憲法改正には否定的であった。

 ところで、鳩山一郎は51年8月5日に追放を解除されたのだが、その5、6日前に脳溢血で倒れた。68歳であった。

 追放解除が近いという空気になり、音羽の鳩山邸に、三木武吉、安藤正純、大野伴睦、石井光次郎などが集まって、鳩山の追放解除後の政治活動を論議していた。安藤たちは自由党復帰を提案した。三木は断固として、新党結成を主張し、鳩山も三木の説を強く支持した。激論となり、鳩山は途中でトイレに立って、そこで倒れたのである。

 鳩山の再起を賭けた闘病生活がはじまった。

 そして51年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印が行われた。日本は独立したのである。吉田は講和条約と、その日の午後に結ばれた日米安全保障条約とに調印した。両条約が発効するのは52年4月である。

664名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:17
>>663

権力の座に居座り続けた吉田茂
 鳩山の体調が回復すると、鳩山陣営の三木や河野一郎たちが、吉田側に、約束どおり政権を鳩山に渡せと執拗に迫った。

 だが、吉田は鳩山側の要求を拒否した。吉田は『回想十年』第一巻で次のように書いている。

 「鳩山君の病?よく独立再建の国務に堪え得るや、重責に堪ゆるの明かならざる限り、私として党総裁および総理大臣の重任に鳩山君を推挙するのは、情誼はともかく、総理大臣として無責任であると感じ、これを躊躇せざるを得なかった」

 建前はともかく、ホンネは獲得した権力を手放したくなかったのである。そして鳩山たち公職追放組が大量に政界に戻ってくることに大変危機感を募らせ、吉田は追放解除組の選挙準備が整わないうちに先手を打って総選挙を行った。

 そこで冒頭に記した日比谷公会堂での鳩山一郎の復帰第一声となったのである。

 鳩山は脳溢血の後遺症を抱えながらの選挙戦で、自由党ではあったが、反吉田、というより悲願は吉田首相打倒であり、主張は憲法改正と日ソ交渉であった。

 吉田は自衛隊は軍隊でないと言っているが、これはごまかしであって、あきらかに軍隊であり、それもしっかりした軍隊であらねばならない。そのために憲法改正が必要である――と、鳩山は吉田批判と憲法改正を直接的に結びつけた。

 選挙は熾烈な分裂選挙となり、自由党は240議席を獲得して過半数は握ったが、追放解除の反吉田派も大量に当選し、三木は鳩山グループの強硬派を集めて自由党内に反吉田の民主化同盟を結成した。

 そして翌53年、吉田の「バカヤロー」発言で、吉田内閣不信任案が出されると、民主化同盟の22人はこれに賛成したので不信任案は可決され、ふたたび総選挙となった。

 この総選挙以後、吉田支配体制は崩れ、さらに保全経済会事件や造船疑獄などの汚職事件で吉田内閣は末期症状を呈すようになった。

 一方鳩山の方も、分党派自由党を結成したり、かと思うと吉田の自由党に復党したりと試行錯誤を重ねるのだが、54年11月に、改進党、日本自由党(1953年結党のミニ政党)、自由党の反吉田グループという三派合同による日本民主党を結成した。所属議員数は衆院121人で、自由党の185人に迫る第二勢力となった。

 仕掛人は三木と、幹事長となった岸信介であった。ここで、鳩山を上回る強硬な憲法改正論を主張し続けた岸信介について記すことにする。

665名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:50
>>664

軍隊に逆らった岸信介
 岸信介は、1896(明治29)年11月13日に山口県の山口町(現山口市)で生まれた。日清戦争に日本が勝利して、山口県の下関市で講和条約が調印された翌年である。

 1920(大正9)年に東京帝大を卒業すると、岸は先輩たちのすすめを拒んで農商務省に入省した。官僚の花形は内務省と大蔵省であった。

 岸は農商務省の官僚となって欧米を視察し、とくに強い印象を受けたのがドイツであった。第一次世界大戦で惨敗し膨大な賠償金に喘ぎながら、「国家統制化」という名の産業合理化運動で経済再建の成果を上げていたのである。ドイツモデルは、岸が学生時代から抱いていた国家社会主義のイメージと見事に重なっていた。

 1936(昭和11)年、二・二六事件が起きた年の10月に、満州国実業部総務司長、(翌年、産業部次長)として満州というフロンティアに赴任した岸は、産業開発の五ヵ年計画を遂行し、国家社会主義的な統制経済を徹底させた。

 岸の統制経済は満州では成功し、時の関東軍参謀長だった東条英機にも高く評価された。そのためもあってか、東条が首相になると岸は商工大臣に引っ張られている。

 なお、満州を離れるとき、岸は記者たちに「出来栄えの巧拙はともかくとして、満州は私の描いた作品である」と語った。満州については自信に満ちていたわけだ。

 東条に商工大臣として迎えられながら、岸はオポチュニスト的優等生ではなかった。

 1944(昭和19)年にサイパン島の日本軍守備隊約3万人が玉砕し、日本本土が完全にB29の攻撃射程に入ると、岸は「サイパンを失っては戦争継続は不可能」だと東条に主張したが、東条は「そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるか」と一蹴し、岸を辞めさせて内閣改造を図ろうとした。

 だが、岸は断固として辞任を拒否し通し、そのために閣内不一致で東条内閣は総辞職に追い込まれてしまった。岸は東条政権を潰した後、憲兵隊につけ回され、身の危険にさらされ続けた。

 1945(昭和20)年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わった。約310万人の日本人がこの戦争で命を失った。そして9月15日に岸は戦犯容疑者として占領軍に逮捕された。

 「名に代へて この聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代までも伝へ残さで」

 逮捕される直前に岸が山口の田布施の自宅で詠んだ歌である。

 A級戦犯を裁いた東京裁判について、『岸信介回顧録』(廣済堂出版)で次のように述べている。

 「東京裁判はドラマとしては壮大で、また深刻きわまりなかったが、今は、人間の知恵の浅さを思い知らせたことと『文明』の名に汚点を残したという記録に過ぎないのである。

 こういうわけで、巣鴨に収監されている間も『我々は、法律に違反した犯罪人である』という意識は全くなかった。あるものは勝者対敗者の関係であった。その関係において、敗者は勝者の手によって裁かれ、処刑されるのはやむを得ないと覚悟していた。

 従って、死は免がれないものの、それまでに我々の意見、立場を堂々と主張し、日本だけが悪事を働いたという一方的な押し付けに反駁し、彼らの理非曲直を明らかにして真実を後世に伝えん、と意気軒昂といってもよい心境であった」

 さらに岸は、占領初期のGHQの基本方針について次のように述べている。

 「日本の軍事力や工業力の抹殺はいうまでもなく、このような日本人の精神構造の変革、つまり日本国民の骨抜き、モラルの破壊に主眼があったことは間違いあるまい。

 日本人の復讐心の芽をつみ、日本人は欧米人種に比べて劣等であることを思い込ませ、現在の敗北と苦痛は、あげて日本人の不法かつ無責任な侵略によってもたらされたものであることを徹底させるために、天皇の権威の否定から戦争犯罪人の逮捕、神道及び神社への公共資金による財政的支持の禁止、果ては、歌舞伎忠臣蔵の上演禁止に至るまで、日本の国民生活の全分野にわたって強制、干渉、監視が仮借なく実施された。そしてその集大成が、今の日本国憲法である」

666名無しさん:2015/10/10(土) 23:33:17
>>665

東京裁判を生き延びる
 それでは岸は現在の憲法をどう捉えているのか。

 「吾々は先づ第一に吾々国民の自由意思に基く吾々の憲法を持たねばならぬ。憲法は云ふまでもなく独立国の拠って以て立つ根本法である。現行の憲法が占領下に於て時の占領軍の最高司令官から押し付けられたものであり、原文が英語で書かれた翻訳憲法であることは今日では公知の事実である。斯くの如き憲法を持って居る独立国は古今東西に其の例を見ざるところである。

 (中略)唯単に憲法九条だけの改正の問題ではない。民族の魂が表現せられた憲法であるべきであって、日本の土と血に繋って居る民主主義を内容とする憲法であるべきものと確信する。祖国を吾々の手に依って防衛すると云ことは独立国として当然の義務であると同時に権利である。他国の軍隊を国内に駐屯せしめて其の力に依って独立を維持するといふが如きことは真の独立国の姿ではない」(岸の後援会誌『風聲』1954年1月号より)

 1948(昭和23)年12月23日の午前零時すぎ、東条英機、土肥原賢二、松井石根たちA級戦犯7人の絞首刑が執行された。そしてその翌日、クリスマス・イブの日の朝、岸は児玉誉士夫、笹川良一など他の18人のA級戦犯容疑者とともに巣鴨拘置所から釈放された。

 そして追放解除が近づくと、岸は新党を旗揚げして、全国を演説して回る計画を立てていた。それに対して新聞記者が「戦犯容疑者や追放解除者が日本再建の音頭を取るのはおかしいという意見もあるが」と問い質すと岸はひるむことなく答えた。

 「私は巣鴨生活で過去のいっさいは清算したつもりだ。自分としては政治の再建に携わる資格はあると思う。東条英機内閣の閣僚だった、軍の手先だったと言われるかもしれない。それはある程度、事実だからやむを得ない。現在の気持ちとしては、元商工相とか翼賛政治会総務とか、そんな過去の経歴にこだわる気持ちは毛頭ない」(『憲法政戦』塩田潮 日本経済新聞出版社)

 国民の多くは、戦争の影を引きずり、強いこだわりを抱いていたのだが、開戦と戦争遂行に深くかかわった岸は、過去の清算は終わったと言い切った。

 そして52年4月19日に、日本再建連盟を結成し、岸は顧問に就任した。

 岸の狙いは吉田政権の打倒であった。

 岸にとって、吉田政権とは、GHQが日本弱体化のために日本人の骨抜きを謀るべく押し付けた憲法を押し頂き、誇りも理念もなくひたすら政権の延命だけを図る存在でしかなかった。また戦前派や追放組の中には岸と同じ思いの人間が少なからずいた。

 明日公開の後編につづく

田原 総一朗

667名無しさん:2015/10/11(日) 12:44:37
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151011-00045702-gendaibiz-pol
ゼロからわかる「55年体制」〜自由民主党はこうして生まれた 「戦後レジームの正体」第7回(後編)
現代ビジネス 10月11日(日)11時1分配信

 前編では、「現憲法維持」の吉田茂、「改憲論者」の鳩山一郎、そして鳩山を上回る「強硬な改憲論者」岸信介の三者三様の憲法観を紹介した。今回は、戦争指導者としてA級戦犯容疑をかけられた岸信介がいかにして政界に復帰し、吉田茂政権を打倒したか。自民党が誕生した経緯を解説しよう。

A級戦犯から再び政治の舞台へ
 岸は講和条約が発効した28日に追放解除となった。

 そして10月1日に総選挙が行われた。再建連盟は40人以上の候補者を立てたが、岸自身は出馬しなかった。「A級戦犯容疑者」であった岸を選挙民がどう捉えているかを計りかねていたのである。

 だが再建同盟は、総選挙で惨敗した。

 そこで岸は作戦の練り直しを余儀なくされたのだが、それを見て、岸の実弟で自由党幹事長であった佐藤栄作が強引に入党させた。

 実は、岸は惨敗後に「戦う民主主義」を標榜する西ドイツの実情を知るために現地へ旅立ったのだが、その間に吉田の「バカヤロー」発言による内閣不信任、そして衆院解散、総選挙となり、佐藤が岸の留守中に自由党への入党と立候補の準備を済ませたのである。

 選挙区は岸も佐藤と同じ山口二区で、佐藤は1位、岸は3位(定数5人区)で当選した。

 岸は1年生議員ではあるが、大勢のいわば子分を抱えて岸派を形成する大物で「台風の目になる」と注目されていた。

 総選挙で、第1党は吉田自由党が199、重光葵の改進党が76、そして鳩山の分派自由党が35となり、革新側は左派社会党が72、右派社会党66と、保革両陣営とも多党乱立状態であった。

 岸は、吉田自由党に属しながら、実は反吉田で、占領政治の打破、そして憲法改正のために保守合同を目指していた。

 ところが、米ソ冷戦が際立ってきてアメリカは日本に防衛力増強を要求するようになり、分派自民党の限界を感じた鳩山が、防衛力強化のための憲法改正、そのために憲法調査会を設置することを条件に自由党に復党した。そして、佐藤の進言で、岸が新設の憲法調査会の会長となった。

 「だが、吉田は憲法改正が簡単に実現するとは思っていない。岸が反吉田で動き出さないように憲法調査会という玩具を与えて適当に遊んでいてもらう魂胆であった。

 ところが、岸は憲法改正を通じて政界再編を実現する考えである。一も二もなく飛びついた」(憲法政戦』塩田潮、日本経済新聞出版社)

 岸は54年3月12日、憲法調査会の発会式で挨拶した。

 「現行憲法は現在とはまったく違った環境の下でつくられたものです。いまや全面的に再検討すべき時期にきている。もし改正の要ありという結論に達したら、具体案を決め、国民大多数の支持を得られるようにしなければならない」(前掲書)

 吉田自由党は鳩山たちを復党させて、岸にも玩具を与えて安定するかに思えたのだが、造船疑獄に火がついて、4月20日に、検察は佐藤幹事長に対する逮捕許諾請求決定した。

 現職の幹事長が逮捕されれば、吉田内閣は崩壊を免れ得ない。吉田の指示で、犬養健法相が翌21日に指揮権を発動して佐藤逮捕を強引に阻止させた。

 だが、この事件で国民の吉田政権への不信感は決定的となり、5月に吉田内閣の支持率は23パーセントとなってしまった(朝日新聞)。

 こうした世論に呼応して、いやむしろ先んじて、吉田自由党を含む保守陣営内で「吉田降ろし」の動きが活発となり、指揮権発動の1週間後には「新党結成促進協議会」がつくられた。公然と吉田抜きの保守合同合作がはじまったのだ。

 中核となったのは三木武吉、石橋湛山、河野一郎、そして岸信介であった。岸は協議会改め「新党結成準備会」の事務局長となった。巣鴨拘置所から出所して約5年半、追放解除となってわずか2年余で、岸は新党運動のリーダーの一角となったのである。

668名無しさん:2015/10/11(日) 12:47:29
>>667

自由民主党の誕生
 保守合同のためには、鳩山自由党、重光改進党と、首相であり総裁である吉田を排除した吉田自由党を合体させなければならない。

 岸は、まず鳩山と重光、さらに三木、石橋らを加えた会談を実現させ、保守合同で一致させた。さらに吉田が頼みとする副総理の緒方竹虎には、「とりあえず鳩山を新総裁にして、次は必ずあなたを総裁にする」と約束して、吉田からの離反を図った。

 10月20日、新党結成準備会拡大大会が開かれ、12日後、11月1日に鳩山が新党結成準備委員長となった。つまり鳩山が新党総裁になることが確定したわけだ。舞台裏を仕切ったのは岸と、保守陣営きっての策士である三木武吉であった。

 そして11月24日の日本民主党の結成となったのである。衆参あわせて142人の議員が参加した。

 総裁は鳩山、副総裁は重光、そして岸は幹事長となった。三木武吉は総務会長になったが、緒方は日本民主党には参加しなかった。

 このとき、吉田自由党の衆院議員は180人で、数の上では民主党を大きく上回っていたが、総務会長の大野伴睦をはじめ、少なからぬ自由党議員が、実は反吉田であった。岸、三木たちの根回しが自由党の隅々までいきわたっていたのである。

 11月30日に臨時国会が召集されると、岸は左派、右派社会党の書記長を口説いて、吉田内閣不信任案を提出する態勢を固めた。

 岸は三輪寿壮など右派社会党にパイプを持っていたのだ。民主党と左、右社会党が結束すれば、不信任案は可決される。そこで吉田は衆院を解散しようとしたが、それを支持したのは子飼いの佐藤と池田勇人だけで、緒方をはじめ議員の大半が解散に反対した。

 こうして吉田はついに通算7年2ヵ月で辞任に追い込まれたのである。

 12月9日、後継首相指名選挙で、鳩山が指名された。三木と岸が、早期解散、総選挙を実施するための「選挙管理内閣」だといって左、右社会党を説得したのである。

 鳩山は55年1月に衆院を解散した。ワンマン吉田の長期政権に厭きた国民の多くが、脳溢血に倒れて、舞台裏を三木や岸にまかせた、いわば担がれ神輿としての弱々しさを歓迎して「鳩山ブーム」が起き、民主党は124議席から185議席へと大きく伸び、逆に自由党は180議席から112議席へと激減した。

 だが、三木と岸は、勝ったとはいえ危惧を強めていた。過半数にほど遠い少数政権であったうえ、左・右社会党が21議席も増やして156議席も獲得していた。

 岸たちは、社会党の左・右が合併し、近い将来政権奪取するのではないかと危機感を抱いていたのだ。現に左、右社会党内では権力奪取のための合併話が進んでいたのである。

 三木と岸はなんとしても保守合同を急がねばならないと思い、自由党で強い影響力を持つ大野伴睦に目をつけた。大野と三木とは東京の市会議員の時代から不倶戴天の間柄であったが、三木は「このままでは赤化の危機にさらされる」と大野を口説き落とした。三木と岸の作戦は成功した。

 10月13日に政権奪取を目指して社会党が統一された。そして1ヵ月後、11月15日に民主党と自由党が解体されて自由民主党が誕生した。いわゆる55年体制がスタートしたのである。

 ただし、このときは「総裁」は空席で、鳩山、緒方、三木、大野の4人が代行委員となった。岸はあえて一歩退くかたちで、しかし抵抗なく幹事長となった。このあたりが岸の手堅さであり、したたかさである。

 実は、岸が「初代総裁は鳩山で、ただし日ソ交渉を花道にして早晩緒方に譲る」と大野たち自由党の幹部に話をつけ、自由党の顔を立てるために、結成時は「総裁」の空席というかたちをとったのだ。

669名無しさん:2015/10/11(日) 12:48:48
>>668

防御態勢の確立と国家社会主義
 22日に、鳩山は首相に三選された。三木、岸、大野、石井光次郎の密約では、翌56年4月には緒方が総裁に選ばれ、首相に就任することになっていた。ところが緒方は56年1月28日に急死した。67歳だった。7月4日には岸が頼りにしていた三木武吉も死去。71歳だった。

 三木と岸の作戦は、鳩山を早晩引退させて、緒方に「権力」という贈り物をして、緒方から首相の座を岸に禅譲させるということになっていたのだが、岸の目論見は潰えた。自力で権力を奪取せざるを得なくなったのである。

 なお岸は『風聲』56年1月号に、「巣鴨の拘置所で送った三年三ケ月の生活及びそれに続く追放時代より一貫して把持し来つた私の政治的信念」として次のように書いている。

 一、憲法の改正と防衛態勢の確立
二、自由主義国家群との連繋の強化と東南アジアに対する経済外交の推進
三、放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進による経済自立の達成
四、教育制度の根本的改革による道義の昂揚

 岸のいう防御態勢の確立とは、GHQが日本弱体化を狙って作成した憲法九条を改正して交戦権のある軍隊、つまり自衛軍をつくり上げることであった。それと「放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進」という指摘には、国家社会主義による満州経営の自信が底流にあったのであろう。

 なお、岸は小選挙区制の実現を自民党の主目標の一つにした。憲法改正のためには各議員の総議員の3分の2以上の賛成を獲得しなければならず、そのためには小選挙区制の実現が必要だと考えていたのである。

 鳩山も憲法改正を主張したが、これは反吉田という意味合いが強く、首相になって政治生命を懸けたのは日ソ交渉であった。もっとも一時は北方領土問題で完全に行き詰まったが、日本側が棚上げすることで妥協し、56年10月19日にモスクワで日ソ国交回復の共同宣言が発表された。

 日本側にソ連との国交回復を急がなければならない事情があったのだ。シベリアに抑留されたままになっている数多くの日本人(帰国がかなったのは2689人)の帰還問題に加え、ソ連が賛成してくれないと国連加盟ができなかったのである。日本の国連加盟が実現したのは12月18日であった。

 鳩山はソ連から帰国すると、11月2日に退陣を表明した。吉田と違って権力に執着しなかった。病?で気力を失っていたともいえる。引退後2年2ヵ月余で死去した。

 岸は権力奪取のため、それなりに根回しを計ったようだが、頼りの三木がいなくなり、1885年に日本で議員内閣制が発足して以来はじめての総裁選挙となった。岸、石井、そして石橋湛山の三者が立候補した。岸派が3億円、石橋派が1億5000万円、石井派が8000万円をばらまいたともいわれる金権選挙でもあった。

 第1回目の投票で、岸は1位とはなったが過半数に達せず、決選投票では2、3位連合が功を奏して、石橋が首位となった。ところが首相となった石橋が体調を壊し、代わって岸が念願の首相となった。衆院議員となって3年10ヵ月しかたっていなかった。

670名無しさん:2015/10/11(日) 12:49:50
>>669

国民の要望に応えようとしたつもりが……
 岸首相の狙いは、もちろん憲法改正と防衛態勢の確立であった。だが、自民党内からも、経済界からも、何と社会党からも不平等な日米安保条約を改正すべしという意見が強く打ち出された。

 1951年9月8日、サンフランシスコで対日講和条約の調印が行われた日の午後、サンフランシスコ郊外の米軍の駐屯地で吉田茂が日米安全保障条約に署名したのだが、この安保条約はいわば米軍による占領の延長で、米軍が、日本のどこにでもどれだけでも望むがままに基地をつくることができて、それでいて日本を守る義務はなく、期限も決まっていなかった。その意味ではきわめて不平等な条約だったのである。

 そこで、実は鳩山内閣時代に、重光外相が安全保障条約の改正を図ったのだが、ダレス国務長官にすげなく扱われて失敗していた。このとき、岸は重光の対米交渉に同席していたのである。

 しかもこのとき、ニューズウィークのハリー・カーンがダレスに「岸こそ現在日本では最も重要な政治家であり、岸と秘密裏に会うべき」だと書き送っている。現にダレスは時間をとって岸と会っていた。

 また、岸から、日本の共産化を防衛するために資金を援助してくれと頼まれて、ダレスは長期間、大量のカネをCIAに用意させていた、ということだ(『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子 幻冬舎文庫)。

 ようするに岸はダレスに信用され、CIAのカネという尋常でないアメリカとのパイプを有していたことになる。

 岸には重光外相がダレスとの安保交渉に失敗した理由がわかっていた。重光外相は対等条約を望み過ぎたのである。ダレスが意地悪く「アメリカが万一攻撃を受けた場合に、日本は軍隊を国外に派遣して、アメリカを助けてくれるのか」と問うたのに対して、重光外相は答えを持っていなかった。憲法改正を行って、自衛隊を交戦権を有する軍隊にしない限り海外派兵はできない。

 だから、重光外相の交渉に同席したとき、岸は安保条約改正の前に憲法改正が必要だと考えたのである。

 だが自民党内や経済界だけではなく社会党からも不平等条約の改正を求める意見が強まって、岸は考え方を変えた。それに、マッカーサー駐日大使との幾度もの会談で、相当の安保条約改正は可能だとの感触を持っていたのだ。

 だから、岸は、いわば世論の要望に応えるつもりで安保改正に取り組んだのであった。アイゼンハワー大統領訪日の予定も取り付けた。

 そして両方を実現させて国民の支持が高まったところで選挙を行い、3分の2以上の議席を獲得して、念願の憲法改正を行おうとにした。繰り返し記すが、岸にとっては、安保条約改正は国民の要望に応えて支持を盛り上げる手段のつもりだったのである。

 日米安保条約とその改定についてはあらためて記すが、60年の安保条約改定は、岸が予想もしていなかった大騒動となり、岸は日本を戦争に駆り立てる大悪党として集中攻撃された。60年の安保騒動である。

 岸は、自民党の中でも孤立して、結局安保改定と心中するかたちで首相を辞めざるを得なかった。憤死である。そのために念願の憲法改正にも、小選挙区制の導入にも、手をつけることができなかった。

 第8回につづく

田原 総一朗

671名無しさん:2015/10/11(日) 13:25:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000104-san-soci
世界記憶遺産登録 「これで戦友浮かばれる」シベリア抑留経験の90歳男性
産経新聞 10月10日(土)14時35分配信

 「これで死んでいった戦友たちも浮かばれる」。舞鶴引揚記念館でボランティアガイドを務めるシベリア抑留経験者の原田二郎さん(90)=京都府綾部市=は、登録決定をほっとした様子で受け止めた。

 原田さんは陸軍の衛生兵として従軍。昭和20年10月にロシアのハバロフスクの収容所に送られ、その後約4年間をすごした。

 「次々と仲間が死に、いつ自分の番かと不安で仕方なかった。引き揚げ船が舞鶴に着くまでは安心できなかった」

 原田さんは戦後約50年にわたり抑留体験について口をつぐんでいた。「捕虜となって生き延びたことは恥ずかしいこと」という思いがあったからだ。だが、地元の人たちに請われて徐々に体験を語りはじめ、今は記念館を訪れる小中学生らに、当時の体験を語るようになった。

 心境の変化があったのは、仲間への思いからだ。抑留生活では多くの仲間が死んでいったが、自分が生き残ることができたのはシベリア抑留の経験を語り継いでいく役割を託された、と思うようになったのだという。

 「今の子供たちは平和をあたりまえのことと思っているが、もっと真剣に考えてほしい」と語る原田さん。「記憶遺産に登録されて、シベリア抑留や引き揚げのことを世界中の人たちに知ってもらうことは、言葉にできないぐらいうれしい」と話した。これからも、体力が続く限り抑留体験を語り継ぐ覚悟だ。

672名無しさん:2015/10/11(日) 14:10:02
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000267
記憶遺産、被害強調=「広島・長崎と並ぶ惨事」-中国

 【北京時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された旧日本軍による南京事件は、中国にとって「アウシュビッツ強制収容所、広島・長崎(への原爆投下)とともに第2次大戦の三大惨事」(国営新華社通信)とされる。中国は登録を受け、犠牲の大きさを強調しつつ、自らが主張する「歴史」の宣伝を続けていくとみられる。

 中国メディアによると、登録決定を受け、中国のユネスコ代表は「資料の真実性と唯一性に対する承認であり、完全性に対する最高の称賛であり、世界的な意義がある」と語った。
 アウシュビッツ収容所と広島の原爆ドームは既に世界文化遺産に登録されている。中国は昨年2月、南京が攻略された12月13日を「国家哀悼日」に定めており、「南京大虐殺記念館」(南京市)の朱成山館長は「記念日の制定で国内の認知度が大きく上がり、記憶遺産登録で世界の人々が共通認識を得た」と解説した。
 今回申請された資料は、中国人女性や外国人の日記、米国人牧師や旧日本軍が撮影したとされるフィルム・写真、南京軍事法廷の判決書、生存者の証言など全11組。
 南京軍事法廷の記録は「犠牲者30万人以上」とする中国の主張の根拠となっている。女性の日記は中国版「アンネの日記」とも呼ばれ、フィルムには日本兵に襲われ体中に傷を負った妊婦が写っているという。ただ、申請書類がそろって公開されているわけではなく、不透明感が残る。
 「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70年」の今年、中国は内外で戦争被害を訴え、戦勝に果たした中国の役割を強調してきた。中国側は「資料に記載されているのは中日両国の憎しみではない」(研究者)と言うが、登録には至らなかった「従軍慰安婦」の資料についても再度登録を目指す可能性があり、歴史をめぐる日中の摩擦は消えそうにない。
 南京大虐殺記念館では学者や生存者を集めた座談会を開催。広場には記憶遺産登録を記念した石碑の設置を計画しているという。(2015/10/10-18:37)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000296
中国の南京事件資料

 新華社電によると、南京事件の世界記憶遺産登録で中国が申請した資料は次の通り。
 (1)住民らの避難地区にいた中国人女性の日記
 (2)米国人牧師の16ミリ撮影機とフィルム
 (3)日本軍が撮ったとされる写真16枚
 (4)当時、中国人から提出された暴行の写真
 (5)南京軍事法廷の判決書
 (6)南京軍事法廷での米国人の証言記録
 (7)生存者の証言記録
 (8)当時の調査委員会の調査表
 (9)南京軍事法廷での犯罪証拠
 (10)市民からの上申書
 (11)外国人の日記
(北京時事)(2015/10/10-20:29)

673名無しさん:2015/10/11(日) 14:10:13
>>672

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000210
中国の歴史宣伝を懸念=日本政府、「政治利用」抗議

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に南京事件の資料が登録されたことを受け、中国の登録申請を「ユネスコの政治利用」としてきた日本政府は10日、在北京日本大使館を通じて中国外務省に抗議した。政府はまた、中国が「犠牲者30万人」とする主張を既成事実化し、日本の「負の歴史」を宣伝することを強く懸念。今月末にも開かれる日中韓首脳会談を控え、対応に苦慮しそうだ。

 南京事件をめぐり、日本政府は「犠牲者数は諸説あり、確定していない」との立場。川村泰久外務報道官は10日に発表した談話で、「日中間に見解の相違がある」とした上で、今回登録された資料について「完全性や真正性に問題があることは明らかだ」と指摘した。
 今回の登録を機に、中国が南京事件に関する対外発信を強化し、中国の主張が国際社会で「史実」として広まることを日本政府は警戒。これまでも「過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調することは極めて遺憾だ」(菅義偉官房長官)と繰り返し中国側に抗議してきたが、今後も冷静な対応を求めていく考えだ。
 一方、政府はユネスコに対しても「政治利用」を許したとして抗議する方針。ユネスコに1割強の分担金を拠出している立場から、記憶遺産事業で「中立性」を確保するよう制度改革を主導したい意向だ。(2015/10/10-20:07)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000313
「ユネスコへの妨害やめよ」=記憶遺産、日本に反論-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は10日、南京事件に関する資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録されたことについて「歓迎」する考えを表明した。日本政府の非難に対しては「歴史を直視したがらない誤った態度だ」と反論。「中国にとやかく言ったり、ユネスコの正常な業務を妨害したりするのを直ちにやめる」よう求めた。
 また「歴史を心に刻み平和を大切にし、未来を共につくり、人類の尊厳を守る役割」を、これらの資料が十分に果たせるよう保護・普及を図ると表明した。
 その上で、南京事件は「国際社会公認の歴史的事実」であり、「全人類の共通の記憶」になるべきだと強調。日本に対し「歴史に責任ある態度で、侵略の歴史を直視し深く反省し、誤りを正すよう促す」と述べた。 (2015/10/10-22:02)

674名無しさん:2015/10/12(月) 09:53:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151012-00010001-nishinp-pol
「岸信介を傘下に納めた」日米双方の思惑が築いた蜜月関係
西日本新聞 10月12日(月)8時30分配信

 憲法改正を目指し、対米自立を望んだ岸信介元首相は、首相に就任する前から米国の冷戦戦略に取り込まれていた―。そんな認識を示す文書を、日米外交に深く携わった元米国務次官補が残していた。孫の安倍晋三首相の政治姿勢にも強い影響を与えた岸氏だが、背景を探ると、もう一つの顔が浮かび上がった。

 文書はワシントン近郊のジョージタウン大図書館にあった。戦前戦後に在日米大使館で勤務し、1960年の日米安保条約改定時には極東担当の国務次官補を務めたグラハム・パーソンズ氏の文書コレクション。パーソンズ氏は、退官後の80年代前半に書いたとみられる未刊行の自伝で、岸氏に関してこう語っていた。
 「戦犯(容疑者)だった岸氏は50年代半ば、大使館のわれわれによって傘下に納まった。その後、(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」(「傘下に納まった」の原文は「cultivate」。和訳は文書を見つけたオーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ教授と吉見俊哉東大大学院教授の共著「天皇とアメリカ」=2010年刊から)
 63年の同僚宛ての手紙にも「われわれは54年、岸を傘下に納めた」。そこには有望な政治家と見なす岸氏を取り込んだ、との視点が鮮明にうかがえる。
 55年の保守合同で自民党が誕生する直前の混乱期。保守派リーダーの一人だった岸氏は、米国とどうつながっていたのだろうか。

民主、自由両党の合同前に
 保守合同前夜の1955年7月9日午後、東京の在日米大使館。当時の民主党幹事長だった岸信介元首相は、大使館のジョージ・モーガン参事官に招かれた。「キングサイズのスコッチ・アンド・ソーダ」を片手に約3時間半。モーガン氏の質問に冗舌に答える岸氏の姿があった。

 膨大な米公文書の調査などを基に戦後の日米関係を米国側の視点で描いた「『日米関係』とは何だったのか」の著者、米アリゾナ大のマイケル・シャラー教授(68)が90年代に見つけた大使館から本国への報告文書には、その時の様子が詳しく記録されている。
 民主、自由両党の合同はまだ時期が公になっていなかった。民主党を主導する岸氏は、合同が11月ごろになるとの見通し、新党首選びの状況、憲法改正や積極的な反共外交政策の採用、再軍備促進といった新党の政策などについて情報を「提供」(シャラー氏)。社会党の動向に関する推察も伝えた。いずれも米国側が欲していたとみられる。

675名無しさん:2015/10/12(月) 09:55:57
>>674

岸氏こそ米国の政策に合致
 岸氏は戦前、在日米大使だったジョセフ・グルー元国務次官とじっこんだった。同氏が日本で立ち上げたロビー団体の米誌東京支局長は、民主党幹事長時代の岸氏の英会話の家庭教師。支局長らは米政府に日本の政治状況などを報告、岸氏を売り込んでいたという。
 50年代、反共のとりでとして日本に安定した保守政権の誕生を望む米国の思惑をよそに、54年12月に退陣した吉田茂首相の後を継ぐ鳩山一郎、石橋湛山両氏はそれぞれソ連との国交回復、日中関係改善を志向。もともと反共・反ソで保守合同の強力な推進者、岸氏こそ米国の対日政策に合致する政治家だった。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸氏をさらに「磨いた」とシャラー氏は語る。
 シャラー氏によると、50年代半ば、在日米大使館員が岸氏と会ったり、酒を飲みに行ったりしたとの記述も文書に散見された。岸氏がモーガン氏と会った当時の首席公使が、岸氏を「傘下に納めた」と記したグラハム・パーソンズ氏。大使館と岸氏とは深い結びつきができていたとみられる。

蜜月関係が権力へ導いた
 シャラー氏は「岸氏は米国に取り込まれたというより、むしろ積極的に取り入ろうとしていたと私は考える」。日米安保条約の不平等性の解消を目指した岸氏だが、「米国の信頼を得なければ、それは成し遂げられないし、信頼されれば国内での自身の政治力も増すという計算もあっただろう」とみる。
 55年、鳩山政権からの条約改定申し入れを一蹴した米国は、57年の岸政権からの交渉提起には応じ、60年に改定は実現した。
 一方でシャラー氏は、岸氏が首相就任後、米中央情報局(CIA)と秘密の資金提供の関係を結んだと著書で明記した。「権力の座に駆け上がる過程で米国と築いた濃密な関係が、資金提供の土壌になったのもまた事実だ」と指摘した。

岸氏の戦略「独立のために従属」
▼「岸信介証言録」などの著書がある原彬久・東京国際大名誉教授
 「cultivate」の意味について、私は「米国は自分たちの望む方向に動くように岸氏を取り込んだ」というニュアンスに受け取った。米国は岸氏を利用しようとしていた。彼らは岸氏を高く評価していたが、利害関係とは別のところで尊敬したり評価したりはしない。そんな生やさしい世界ではない。一方、岸氏も国内外の共産勢力と戦うため、米国を利用しようとしていた。だから米国の信頼を得るために情報を提供することもあろう。政治家として熟察し、いろんな計算の下で動いていたといえる。
 CIAから資金提供を受けることは道義的に問題ありだが、当時は革新勢力も旧ソ連から資金援助を受けていた。強力な保守政権を築き米国から何とかして自立したい、選挙で革新勢力に負けたくない、との思いから岸氏はきわどい政治判断をしたのではないか。
 逆説的な言い方だが、米国から独立するために従属する―というのが、皮肉にも岸氏の対米戦略だったと考える。

西日本新聞社

676名無しさん:2015/10/13(火) 22:43:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000582-san-pol
世界記憶遺産 維新・今井幹事長「大変遺憾、登録手続き間違っている」
産経新聞 10月13日(火)20時31分配信

 維新の党の今井雅人幹事長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された件について「大変遺憾だ。歴史的検証がはっきりとなされていない中での登録は手続きとして間違っている」と批判した。

 政府・自民党からユネスコへの拠出金の削減を検討する意見が出ていることに関しては「どういうやり方かはともかく、対抗措置を講ずるのは当然だ」と強調した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000543-san-pol
世界記憶遺産 共産・山下書記局長「ユネスコ拠出金削減検討は国際社会の理解得られない」
産経新聞 10月13日(火)15時57分配信

 共産党の山下芳生書記局長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、中国により登録申請されていた「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録した件に関し、政府・自民党からユネスコへの分担金拠出の削減を検討する意見が出ていることについて、「日本政府の主張が認められなかったからといって、拠出金削減を検討するなどという対応は国際社会の理解を得られないだろう」と述べた。

 山下氏は「南京事件については、どの程度の規模だったかについては議論があるとはいえ、大虐殺が行われたことは動かしがたい歴史的事実だ」と強調した。

677名無しさん:2015/10/13(火) 23:47:01
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000093-mai-pol
<ユネスコ分担金>二階氏「のうのうと…よいのか」停止検討
毎日新聞 10月13日(火)21時1分配信

 ◇世界記憶遺産に「南京大虐殺」 菅官房長官が表明

 菅義偉官房長官は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺」に関する資料が登録されたことについて、日本がユネスコに拠出する分担金や任意の拠出金の停止、削減を検討すると表明した。分担金などの支出は年間約42億円(2014年)にのぼり、ユネスコに制度改革を促す狙いがあるが、野党の一部からは慎重論も出ている。

 菅氏は会見で「(日中両政府の)意見が全く違う中で登録され、公正であるべき国際機関として問題だ。政治的に利用されることがないよう制度の透明性を強く求めたい」と述べ、登録の審議が非公開である点などを問題視し、制度見直しを求める考えを改めて示した。

 外務省によると、日本の2014年のユネスコ分担金は約37億2000万円。10.8%の分担率は加盟国では米国(22%)に次いで2番目に多い。これに加えて任意で約5億円の拠出金もある。米国は11年以降、パレスチナのユネスコ加盟に反発して分担金の支払いを停止しており、日本は実質的には最大の拠出国だ。

 自民党の二階俊博総務会長は会見で「協力金を一生懸命納めておきながら、日本の意見や主張はどこまで通っているのか。のうのうと引き下がってよいのか」と指摘した。

 自民党の国際情報検討委員会の原田義昭委員長が会合で「南京大虐殺、従軍慰安婦の存在をわが国は全く否定しようとしているときにもかかわらず記憶遺産で取り上げるのは承服できない」と発言するなど、党内には、政府の公式見解とは異なる主張もくすぶっている。相次ぐ支出見直し発言には、こうした党内事情も反映しているとみられる。

 共産党の山下芳生書記局長は会見で「日本政府の主張が認められなかったからといって拠出金削減を検討する対応は国際社会の理解を得られない」と批判した。【高本耕太、小田中大】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000525-san-pol
世界記憶遺産 民主・細野政調会長「ユネスコの分担金削減あっていい」
産経新聞 10月13日(火)12時47分配信

 民主党の細野豪志政調会長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された件を受け、「記念遺産になるまでのプロセスに不明確な部分がある。(日本がユネスコに拠出している)分担金の削減を検討することはあってもいい」との見解を示した。

678名無しさん:2015/10/15(木) 22:54:30
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151015-00000570-san-eurp
ロシア、日本の記憶遺産登録の撤回を要求 シベリア抑留資料で 日本は「パンドラの箱を開けた」と非難
産経新聞 10月15日(木)20時46分配信

 【モスクワ=遠藤良介】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に日本のシベリア抑留資料が登録されたことについて、ロシア政府は15日までに、ユネスコの「政治利用」だとして登録の撤回を求める方針を固めた。露ユネスコ国内委員会のオルジョニキゼ書記が国営ロシア通信に対して明らかにした。日本政府は、中国の申請で「南京大虐殺文書」が登録されたことを同様に「政治利用」と批判しており、この問題は日中露が入り乱れる構図となった。

 オルジョニキゼ氏は「ユネスコに政治問題を持ち込むことには反対だ」と述べ、日本が登録を申請しないよう事前に申し入れていたことを明らかにした。今後はユネスコと日本政府の双方に登録撤回を働きかけるとしている。

 1945年の第二次大戦終戦後、ソ連軍が満州や朝鮮から約57万5千人を連行して強制労働を課し、約5万5千人が犠牲となったシベリア抑留。ロシアではこの問題の認知度が非常に低く、終戦後の出来事であるにもかかわらず、抑留者が「軍事捕虜」と称される。

 オルジョニキゼ氏も、抑留者は「大戦後の48〜56年に帰還した軍事捕虜だ」との認識を示し、「捕虜たち自身の回想によれば、その扱いは妥当なものだった」と主張した。

 中露両国は今年、首脳が互いの「戦勝70年行事」に出席し合うなど、歴史認識をめぐる「共闘」を演出している。対日戦での中ソの協力関係を誇示することで「戦勝国」の立場を強化し、日本への圧力とするのが狙いだ。

 オルジョニキゼ氏は、世界記憶遺産をめぐる「パンドラの箱」を開いたのは抑留資料を申請した日本だと批判。ただ、中国の「南京大虐殺」についても「同様のことは多くの国であり、問題は2国間で解決するべきだ」と指摘し、戦争関連の出来事は世界記憶遺産にそぐわないと述べた。

 「南京」と異なり、シベリア抑留の規模や犠牲者数に関する見解は日露間でおおむね一致するが、ロシア側は犠牲者1万5千人超の資料を開示していない。

 菅義偉官房長官は15日の記者会見で、「シベリア抑留の申請は舞鶴市の姉妹都市であるナホトカ市の理解と協力を得ている。広い意味で世界的な重要性があるということでユネスコの委員会から推薦された」と述べ、ロシアと連携して進めているとの見方を示した。

679名無しさん:2015/10/17(土) 16:41:01
http://www.asahi.com/articles/ASHBH54VFHBHUHBI01D.html
「シベリア抑留」登録、ロシアが撤回要求へ
モスクワ=駒木明義2015年10月15日19時17分

 ソ連によるシベリア抑留に関連した記録がユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界記憶遺産」に登録されたことについて、ロシア・ユネスコ委員会のオルジョニキゼ書記が14日、「ユネスコで政治的な問題を扱うべきではない」として撤回を求める方針を明らかにした。

 ノーボスチ通信によると、オルジョニキゼ氏は「ユネスコに政治問題を持ち込むべきではない。戦争に関連した遺産を登録することは控えるべきだ」と指摘。日本とユネスコ事務局に対して、シベリア抑留に関する記録の撤回を働きかける考えを明らかにした。

680とはずがたり:2015/10/18(日) 08:11:46

慰安婦の登録、ユネスコが中韓共同申請を奨励か
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151013-OYT1T50071.html?from=yrank_ycont
2015年10月13日 19時02分

 【北京=竹腰雅彦、ソウル=宮崎健雄】中国外務省の華春瑩フアチュンイン副報道局長は12日の定例記者会見で、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が登録を申請し、今年の選考で見送られた「慰安婦に関する資料」について、「(ユネスコ側に)関係国との共同申請を奨励する意見があり、中国は真剣に考慮し検討する」と述べた。

 いわゆる慰安婦に関する資料については、韓国政府も記憶遺産への登録準備を進め、これまでに中国への協力を表明しており、今後、中韓両国が共同申請を目指す可能性がある。

 中国外務省副報道局長の発言について韓国外交省報道官は13日、「韓国の民間団体が(『慰安婦に関する資料』の世界記憶遺産)登録と国際協力を推進していると知っているが、具体的内容は把握していない。民間団体が判断しなければならない」と述べた。

2015年10月13日 19時02分

681とはずがたり:2015/10/18(日) 08:12:01
>>679

「シベリア抑留」記憶遺産、露が取り下げ要請
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151017-OYT1T50089.html?from=yrank_ycont
2015年10月17日 20時13分

 【モスクワ=緒方賢一】ロシアの国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)委員会のグリゴリー・オルジェニキーゼ書記は16日、シベリア抑留に関する資料の世界記憶遺産への登録について、露外務省でモスクワの日本大使館幹部と会談し、登録申請を取り下げるよう求めた。


 日本側は要請を受け入れない姿勢を示した。

 会談で同書記は「申請はユネスコの政治利用につながりかねないので見直してほしい」と語った。日本側は、「政治利用する意図は全くない」と強調した。

 世界遺産総合研究所(広島市)の古田陽久所長は「世界自然遺産・文化遺産では登録後の抹消が2例あるが、世界記憶遺産では聞いたことがない」と話した。
     ◇
 日本政府は資料について「ユネスコが求める『真正性』を完全に満たしている」(外務省幹部)との立場だ。ロシア側の抗議は当たらないとし、申請の取り下げには応じない方針だ。

2015年10月17日 20時13分

682とはずがたり:2015/10/18(日) 08:13:37
次は中共による中国国民大虐殺だな

2015.10.17 20:55
韓国メディア「腹立たしいが反論は困難」 文春“ベトナム韓国軍慰安所”報道
http://www.sankei.com/world/news/150513/wor1505130021-n1.html

 韓国軍がベトナム戦争中に、サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-という「週刊文春」のスクープ記事の余波が、韓国国内で広がっている。同国メディアが、朴槿恵(パク・クネ)政権に対し、軍による慰安所運営の実態を調査するよう注文をつけたのだ。自国の恥部を、明らかにできるのか。(夕刊フジ)

 「週刊文春の『韓国軍トルコ風呂』報道、腹立たしいが反論は困難…」

 ハンギョレ新聞(日本語電子版)は4月25日、こんな神妙なタイトルの記事を掲載した。問題としたのは、同誌4月2日付春の特大号に掲載された、TBSの山口敬之ワシントン支局長(当時)による衝撃リポートだ。

 文春記事は、山口氏が米国で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたという内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言なども盛り込まれている。

 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心(強制連行)は崩壊している。それでも、韓国が「解決」を求め続けていることを念頭に、山口氏は「もし韓国政府がこの問題を黙殺したり、調査もせず否定したりするなら、彼らこそ都合の悪い事実に背を向け、歴史を直視しない国家であることを、国際社会に対して自ら証明することになる」とリポートを結んでいる。

 ハンギョレは「腹立たしくはあるが反論しにくい主張だ」と指摘し、韓国政府に対して「慰安所の運営・管理に軍当局がどこまで介入したのかなどを明らかにするための調査と後続措置に乗り出さなければならない」と促しているのだ。

 夕刊フジで「新・悪韓論」を連載する、ジャーナリストの室谷克実氏が背景を分析する。

 「私の知る限り、文春報道を取り上げた韓国メディアはハンギョレだけだ。同紙は韓国内では左派メディアと位置づけられており、軍に対して批判的な報道が目立つ。『アンチ軍』の立場から文春のスクープに飛びついたのだろう。一方、他の韓国メディアの中には『軍と対立したくない』という空気が強く、ハンギョレの報道を追いかける可能性は低い」

 ハンギョレはこれまでにも、韓国の恥部といえる、韓国軍によるベトナム民間人虐殺疑惑や、「基地村女性」「洋公主(ヤンコンジュ)」などと呼ばれた米軍慰安婦の問題を取り上げてきた。

 今回の報道が、政府や軍への本格的追及につながるとは考えにくい。ただ、報道がなければ「韓国の人々は、軍の慰安所に言及した公文書の存在を全く知らされなかった」(室谷氏)だけに、その意義は大きいといえそうだ。

683名無しさん:2015/10/18(日) 12:01:34
>>681

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151016/k10010272441000.html
記憶遺産に抑留資料 「政治利用ではない」
10月16日 16時17分

ユネスコ=国連教育科学文化機関の「記憶遺産」に、いわゆるシベリア抑留などに関する資料の登録が決まり、ロシア側が「ユネスコに政治問題を持ち込んだ」として日本を批判していることについて、馳文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、政治利用ではなく批判は当たらないという認識を示しました。
ユネスコ=国連教育科学文化機関は、今月開かれたユネスコの国際諮問委員会で、日本が申請していたいわゆるシベリア抑留や、戦後、旧満州などから引き揚げた人たちに関する京都府舞鶴市の資料を「記憶遺産」に登録することを決め、ロシア側は「ユネスコに政治問題を持ち込んだ」などと、登録を申請した日本を批判しています。
これについて、馳文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、「舞鶴市は姉妹都市であり、抑留者を乗せた引き揚げ船の多くが出港したロシアのナホトカ市の当局と意を通じ合い、申請に同意を得ていたと聞いている」と述べました。そのうえで、馳大臣は「政治利用すべきではないという観点に立ち、姉妹都市とも連携して合意を得たうえでの申請となっており、政治利用には当たらない」と述べ、ロシア側の批判は当たらないという認識を示しました。

684とはずがたり:2015/10/20(火) 22:13:01
>毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された
笑。木戸孝允すげえw

黒田清隆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86

黒田内閣は、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗によって大隈が襲撃され、翌 明治22年(1889年)10月に倒れた。改正の条件に外国人の裁判官を置くという別の不平等を持ってきたことが、国内の反対を受けたのである(辞職後2か月間三条實美内大臣が首相を兼任)。なお、この時に、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件(明治22年(1889年)12月15日夜)を起こして政府内から非難を浴びて謹慎している。

酒乱
平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。ある時、酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。

685名無しさん:2015/10/20(火) 23:02:07
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151020-00000056-asahi-pol
「シベリア抑留」登録、ロシアが取り下げ要請 日本反論
朝日新聞デジタル 10月20日(火)18時34分配信

 岸田文雄外相は20日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が世界記憶遺産に登録したシベリア抑留に関連する記録について、ロシア政府が日本政府に取り下げを求めたと明らかにした。日本側は「政治利用の指摘は当たらない」と反論したという。

 16日、在ロシア大使館にロシア外務省から要請があった。岸田氏は「申請に先立って(京都府)舞鶴市関係者が在大阪ロシア総領事を通じて、申請の経緯と趣旨を説明したと承知している。引き続き理解を求めていく」と述べた。

朝日新聞社

686とはずがたり:2015/10/23(金) 00:06:50
日本軍による南京大虐殺はなかったと云う論。
なんで政治家があんな妄言を繰り返すのか不思議だったけどそれなりの体裁をとっているのだな。ひょっとしたらなかったのかも。
皇軍の規律正しさや無謬性を強調するのではなく,旧日本軍の愚かしさや蛮行を認めて帝国主義を非難し日本軍国主義体制を全面否定した上でそれでも南京虐殺はなかったのだというならもっと信頼置けるんだけどなーw
そういうスタンスの人はいないのかな?

四度あった南京大虐殺(リニューアル保存版)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2668.html

687名無しさん:2015/10/24(土) 17:13:37
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2015102300389
ロシアに説明済み=シベリア抑留資料登録-菅官房長官

 菅義偉官房長官は23日午前の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産にシベリア抑留の資料が登録されたことに対するロシア政府の批判について、「申請に先立って、京都府舞鶴市の関係者から在大阪ロシア総領事を通じて申請の経緯と趣旨を説明済みだ。だからロシア側も事前に承知をしている」と述べ、同国の主張は当たらないとの考えを示した。 (2015/10/23-11:51)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2015102300096
細菌兵器の死者「120万人」=中国と日本がまた応酬-国連総会委

 【ニューヨーク時事】中国の傅聡軍縮大使は22日、国連総会第1委員会(軍縮・国際安全保障)での大量破壊兵器に関する討論で、第2次世界大戦中、旧日本軍が中国で化学兵器や細菌兵器を組織的に開発、使用し、民間人が多数犠牲になったと非難した。細菌兵器による死者について、「未完成の統計」を根拠に「広島と長崎の原爆犠牲者数の4倍に当たる120万人以上」と主張した。
 化学兵器は1131回使用され、多数の民間人が犠牲になったと指摘。中国に遺棄した化学兵器の処理を急ぐよう日本に要求した。その上で「日本は戦争から70年たっても、歴史の隠蔽(いんぺい)と言い逃れにこだわっている」と批判した。
 これに対し、日本の佐野利男軍縮大使は、日本政府が中国の主張を裏付ける客観的な記録を持っていないと説明。化学兵器の使用回数には「疑問があり、誇張されている可能性がある」と反論した。遺棄兵器については「処理計画は着実に進展している」と強調した。 
 傅大使は20日、日本が核物質を大量に保有していると指摘し、核兵器開発に乗り出す恐れを主張。佐野大使がこれを否定し、応酬となった。(2015/10/23-06:47)

688名無しさん:2015/10/24(土) 18:31:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151021/k10010277181000.html
国連総会「核武装」で日中が応酬
10月21日 9時01分

国連総会で軍縮問題を扱う委員会で、中国の軍縮大使が、「日本は原子力発電所の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを大量に保有しており、核開発に乗り出す可能性がある」と指摘したのに対し、日本の軍縮大使は核武装の意図はないと強く反論するなど、双方が応酬しました。
ニューヨークの国連本部では、今月上旬から国連総会で軍縮問題を扱う第1委員会が始まり、20日には各国が核軍縮を巡る立場を表明しました。
この中で、中国の傅聡軍縮大使は中国が核軍縮に取り組む姿勢を強調する一方で、日本が原子力発電所の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを47トン以上も保有しているうえ、国内には核武装を求める声も根強くあるとして、日本が核開発に乗り出す可能性があると指摘しました。
そして、「なぜ日本はこれほど大量のプルトニウムを保有しているのか。日本はごく短時間で核兵器を保有することができる状況にある」と述べ、日本側に説明を求めました。
これに対して日本の佐野利男軍縮大使は、日本はIAEA=国際原子力機関の査察を受け入れ、すべての核物質を監視下においているとしたうえで、「専守防衛を基本方針とする日本は、他国への軍事的な脅威になることはない。非核三原則も堅持している」と述べ、核武装の意図はないと強く反論しました。

689名無しさん:2015/10/24(土) 20:57:46
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00022309-hankyoreh-kr
日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(1)
ハンギョレ新聞 10月24日(土)15時9分配信

朴槿恵(パク・クネ)政権が推進する韓国史教科書国定化方針に対して、日本の市民社会が憂慮している。彼らの反対理由を知るため、日本が1903年から施行した小学校教科書国定化の流れと、その結果作られた教科書の内容を調べてみた。そこで発見できたのは、教科書を通じて国民の精神を支配して、無謀な侵略戦争に若者たちを駆り立てた日本政府の悪しき本音だった。すべての悲劇は一件の偶然な紛失事故から始まった。

 日本が朝鮮の支配権などを巡ってロシアと一大決戦を行うべしという世論が高まった1902年11月のある日のことだった。 東京の品川駅周辺を歩いていた一人の住民が、田畑に落ちている革カバンを発見し警察に申告した。 カバンの中には手帳一冊と当時の教科書の大手出版社だった普及社の社長、山田禎三郎(1871〜1930)の名刺が入っていた。 警察にはすでに山田氏からカバンをなくしたという紛失届けが出されていたので、カバンは間違いなく山田氏のものだった。

 カバンを受け取った担当警察官は好奇心から手帳を開いて内容を覗き見た。 その中には韓国の広域自治体長に相当する日本の各県知事、視学官(奨学官)、その他教育関係者の名前とその横には金額のような小さな数字がびっしり記されていた。 それを見て何か尋常でないと感じた担当者は警視庁に連絡し、警視庁は東京地裁検事局にその事実を通知した。1カ月程度の内偵の末に検察はその年の12月17日、今回の事件を教科書出版社が教科書採択権限を持つ教育関係者らに大規模なわいろを上納したものと規定し、事件を公開捜査に切り替えた。 以後、日本の政官界を揺るがす大型贈賄スキャンダル「教科書疑獄事件」の始まりだった。

■修身・歴史・国語から国定化

 この事件を契機に日本政府は1887年5月、「教科用図書検定規則」制定以来16年間にわたり維持してきた小学校教科書の検定制度を撤廃し、本格的な国定化を進めることになる。 その名分はもちろん「国民の精神を統制するため」ではなく、「教科書採択を巡る業界の不正を一掃する」だった。

 今月12日、韓国政府が2017年度から中学・高校で使われることになる韓国史教科書を、朴正煕(パクチョンヒ)政権の維新時期に導入された国定制に回帰すると明らかにした後、それを憂慮する日本の市民社会の強い反発が相次いでいる。「子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会」など24の教科書・歴史関連市民団体は16日、声明で「かつて日本は日露戦争直前の1903年から敗戦の1945年までの42年間の長きにわたって国定教科書を使用し、その結果、多くの日本人が侵略戦争を『聖戦』と信じこみ、アジアの人々を殺戮した」と指摘した。 日本の朝日新聞も19日付社説で「民主化して30年近くたつ韓国は、多様な価値観が存在する先進国である。いまになってなぜ、歴史教科書のみを国定化せねばならないのか理解に苦しむ」と朴槿恵(パク・クネ)政権を遠回しに非難した。

 日本の市民社会はなぜ韓国の教科書制度に強い関心と憂慮を明らかにしているのだろうか。 その背景には日本人が過去の軍国主義時期に体験した辛い経験がある。

 日本のNHK放送が1982年5月に放映したドキュメンタリー「明治教科書疑獄事件 〜国定化への道〜」によれば、日本政府が教科書疑獄事件を活用して教科書の国定化を周到綿密に貫徹していく過程が描写されている。

 検察が事件を公開捜査に切り替えて1カ月にもならない1903年1月9日、教科書国定化案が閣議に提出され、続いて3カ月後の4月13日には小学校令が改定され、修身・日本史・地理・国語の4科目国定化が立法化された。 まさに電光石火のような動きだった。 当時、日本の国会で政府のこのような動きに反対したのは根本正議員(1851〜1933)だけだったと伝わる。

690名無しさん:2015/10/24(土) 20:57:58
>>689

 当時、日本の教科書国定化を指揮したのは、明治の軍人、児玉源太郎(1852〜1906)だった。児玉は事件発生の直前である1902年9月18日、桂太郎首相(1848〜1913、朝鮮強制併合当時の首相)に教科書界に蔓延したわいろ不正の摘発を急ぐよう手紙を送った。 わいろ事件の摘発を契機に国定化方針が確定すると、彼は1903年7月に桂内閣の内務大臣と文部大臣を兼任し、教科書国定化を本格的に指揮していく。 こうして見ると、日本の教科書国定化と戦争遂行のための「忠良な皇国臣民養成」はコインの両面だった。

 以後、日本の教科書は国民精神改造の道具に変わって行く。日本が最初に国定化を推進した科目が、人間の思想に関連する修身・歴史・国語科目だったという事実がこれを象徴的に示している。

 それとともに既存の検定制教科書の内容が大幅に修正され始める。 滋賀大学附属図書館が2006年11月に出した『近代日本の教科書のあゆみ-明治期から現在まで』によれば、「これまで多くの検定教科書が神代(日本の歴史で神話の時代に該当する時期)を省略してきたが、国定教科書では神代から始める歴史教育を復活させた」と指摘している。 これは日本の子供たちが自国の歴史を石器時代という“考古学的事実”ではなく「(日本の創造神である)天照大神は天皇陛下の先祖」という“主観的神話”から習い始めたことを意味するわけだ。 戦争末期に使われた『初等科国史』下巻は、日本が起こした満州事変と大東亜戦争を「東洋平和を確立するためのもの」と正当化し、「私たちは一生けんめいに勉強して…立派な臣民となり、天皇陛下の御ためにおつくし申しあげなければなりません」で終わっている。このような天皇中心の歴史観は、靖国思想などと結びついて「日本は神国なので絶対に戦争に負けない」 「天皇のために死んで靖国で会おう」という盲目的な国家観につながっていった。 当時の日本政府の宣伝戦がどれほど乱暴だったかは、朝鮮総督府が発行した機関紙である毎日新報の紙面をいくつか見るだけで容易に感じをつかむことができる。
(2)に続く。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:10月24日(土)15時33分

691名無しさん:2015/10/24(土) 20:59:36
>>690

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00022310-hankyoreh-kr
日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(2)
ハンギョレ新聞 10月24日(土)15時9分配信

1902年、教科書わいろ事件を活用し 
1945年まで国定教科書を使用 
石器時代でなく建国神話で始まり 
盲目的国家観で戦争を美化 
侵略戦争を“聖戦”と信じこませ 
日本を占領した連合軍司令部の 
最初の措置は既存教科書にあった 
戦争美談を墨で消せとの命令 
形ばかりの検定制という批判はあるが 
“国定化”は良くないという合意がある

■ねつ造された「水兵の母」

 国民を戦争に動員するために日本政府が最も心血を注いだのは「戦争美談」だった。 当時の小学校5年用国語教科書に収録された美談「水兵の母」を見よう。

 明治27〜28年、戦争(日清戦争)が終わらんとしている時であった。ある日、軍艦高千穂の一水兵が手紙を読みながら泣いていた。通りかかったある大尉がこれを見て、余りにめめしいふるまひと思って、「こら、どうした。命が惜しくなったか。妻子がこひしくなったか。軍人となって、軍に出たのを男子の面目と思はず、そのありさまは何事だ」と鋭く叱った。水兵は驚いて立ちあがり、しばらく大尉の顔を見つめていたが、「それは余りなおことばです。私には、妻も子もありません。私も、日本男子です。何で命を惜しみませう。どうぞ、これをごらんください。」といって、その手紙をさし出した。

 兵士の母親が送った手紙であった。「聞けば、そなたは豊島沖の海戦(忠清南道牙山近海で起きた日清戦争の緒戦)にも出でず、八月十日の威海衛攻撃(日清戦争で日本軍の勝利が事実上決定された戦闘)とやらにも、かくべつの働きなかりし由、母はいかにも残念に思ひ候。何のために軍(いくさ)には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に報ゆるためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとやさしくお世話なしくだされ、一人の子が、御国のため軍に出でしことなれば、定めし不自由なることもあらん。何にてもえんりょなくいへと、しんせつに仰せくだされ候。母は、その方々の顔を見るごとに、そなたのふがひなきことが思ひ出されて、この胸は張りさくばかりにて候」

 中内敏夫・一橋大学名誉教授は著書『軍国美談と教科書』(1988年)でこのエピソードに関して、「名も無き母子家庭の老母とその息子、このような家庭の母親が一人息子を国家のために喜んで差し出して、天皇の戦争に身を捧げるよう願っているという文は、軍の指揮部が見れば国民教育の絶好の素材になっただろう」と指摘した。しかしこの母子の現実は日本軍部が願った模範的モデルとは相当な乖離があった。 水兵の実際のモデルは、現実には病弱で豊島沖海戦が起きる前に船から下りるよう命令を受けたことがあり、エピソードが出た後にほどなくして人々の目を避けて鹿児島県の故郷へ帰り3年後に病死したためだ。

 当時の軍国美談の中では現実を巧妙に歪曲したりねつ造したという疑いが濃厚なものが多い。 最も代表的なものは第1次上海事変が進行中だった1932年2月22日、上海郊外の鉄条網陣地を破壊するために爆薬筒を持って肉弾攻撃を敢行した江下武二、北川丞、作江伊之助の3人の工兵を指す「肉弾3勇士」の美談だ。当時、日本のマスコミは作戦遂行のために命を捧げた三勇士を称賛する記事を書き立てたが、兵士たちが亡くなったのは死を覚悟した勇猛な作戦の結果ではなく、導火線の長さを誤って計算した“ミス”だったことを暗示する関係者の証言が出てきた。

692名無しさん:2015/10/24(土) 20:59:47
>>691

 このような“神話ねつ造”は戦争を遂行した日本大本営の得意技だった。 大本営は特殊潜水艇に乗って1941年12月8日米国の真珠湾を攻撃した海軍の「九軍神」、日本軍として最初に守備隊全員が降参せずに決死抗戦し全員が死亡した「アッツ島玉砕」などを大々的に宣伝して戦争美化の道具として使った。 しかし九軍神の潜水艇は何ら軍事的成果を上げられなかった失敗した作戦であり、アッツ島の兵士は全員玉砕したのではなく一部は生き残り米軍の捕虜になったという事実が以後の研究と実態調査を通じて明らかになっている。 韓国で発見できる似た事例としては、1968年に「僕は共産党が嫌いです」という言葉を残して共産軍に殺害されたという「少年イ・スンボク」のエピソードが挙げられる。 このエピソードは永く国民学校道徳教科書に載り、その痕跡が今でも小学校の校庭の一画に放置された銅像として身近な所に残っている。

 日本の歴史教育が再び大転換することになった契機は1945年8月の敗戦だった。 戦争が終わった後、日本を占領した連合軍最高司令部(GHQ)は軍国主義的な教科書が日本を戦争の道に導いたという判断の下、どのように過去と断絶した新しい歴史教育を樹立するかを検討することになる。 占領軍が取った最初の措置は、既存の教科書から天照大神から始まる日本の建国神話や戦争美談を墨で消すよう命令することだった。 連合軍最高司令部は次に日本政府の介入を排除して民間学者が参加した新しい教科書の編纂に乗り出す。

 日本の歴史学者の家永三郎(1913〜2002)ら4人の学者が東京大学史料編纂所に集結したのは1946年5月17日だった。 彼らは連合軍最高司令部所属の米軍将校とともに、特定のイデオロギーを宣伝しない▽軍国主義・超国家主義的神道教育をしない▽天皇の業績が歴史の全てではない▽経済・文化など民衆の歴史を扱う、という原則に則り、新しい小学校用歴史教科書『国のあゆみ』を執筆する。当時の作業の意味について、家永三郎は1977年に放送されたNHK特集ドキュメンタリー「戦後教育の開始」で「不十分な教科書だったが、日本の歴史が神の降臨ではなく石器時代から始まるように変わったのは大きな意味があることだった」という証言を残している。 以後、日本は1948年に教科書検定制を復活させ、本格的な戦後歴史教育を始めることになる。

■歪曲教科書採択率が6.4%まで上がる

 それから60年余りの歳月が流れた今、日本の検定制は再び大きな危機に直面している。 2012年12月に登場した安倍晋三政権が、教科書の執筆と検定の基準になる学習指導要領解説書や教科書検定基準などを詳細化し、各出版社が教科書にどのような内容を入れるかを逐一定めているためだ。 そのため日本の市民団体は現在の教科書検定制について「形だけの検定であり事実上の国定制」と批判している。 その上、安倍政権は日本の侵略戦争を美化する育鵬社教科書など歴史わい曲教科書が一線の学校でより多く採択されるよう種々の支援を惜しまない。 それによって2001年に登場した歴史歪曲教科書は、2016年から使われる中学校教科書基準で採択率が6.4%まで上がっている。

 それでも日本では、韓国の朴槿恵政権のように戦争前のような国定制に回帰しようとする動きはない。 過去の歴史の悲劇を通じて“越えてはならない一線”に対する社会的合意が存在するためだ。 かつての日本の教科書の問題点を指摘したが、維新時期の韓国の国定教科書も盲目的な愛国心と反共主義を強調したという点で特に変わりはないと言えるだろう。 歴史は朴槿恵政権の今回の措置をどのように記憶するだろうか。 時代に逆行する韓国政府の国定化の試みは成功できるだろうか。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:10月24日(土)15時9分

693とはずがたり:2015/10/24(土) 21:18:19
解りやすいかもw

護国戦争
http://hosokawa18.exblog.jp/17900986/
北洋軍閥についてゲームの攻略本チックに見ていきます。

694名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:22
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150810-OYT8T50122.html
占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102
2015年08月11日 05時20分

おくの・せいすけ 1913年、奈良県生まれ。東大法卒。38年、内務省入省。自治事務次官を経て63年衆院選に自民党公認で初当選し、13回連続当選。文相、法相、国土庁長官などを歴任し、2003年に政界を引退した。現在、アジア福祉教育財団名誉会長。

 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

 ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基さんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗に迫り、受諾を承知しなかった。「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。

 官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

 問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。

695名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:34
>>694


役所一転「上司」はGHQ

 1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷しょうい弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。

 あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。

 5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕ごうへ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。

 焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。

 翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。

 4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。

 「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」

 それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府(※)の官制原案を書いた。

 6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。

 7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。

 15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音ぎょくおん放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。そして最後は阿南惟幾これちか陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。

 15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

占領下の日本 改めて実感

 玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城きゅうじょうの前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。

 軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。

 玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。

 名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。

 出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。

 日本が占領下にあることを改めて実感したな。

(聞き手 編集委員 福元竜哉 撮影 鈴木竜三)
 ※地方総監府 連合国軍の本土上陸で国土が分断される事態に備え、1945年6月、内務省が全国8区域(北海、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)に設置した地方行政機関。地方総監には、管内の知事への指揮権など強力な権限が与えられた。同年11月に廃止された。

696名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:44
>>695


「日本再起のきっかけに」…天皇の地方巡幸

 内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。

 この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

(福元)
2015年08月11日 05時20分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

697名無しさん:2015/10/25(日) 18:37:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151025-00000052-jij-n_ame
83年、戦争「一触即発」=ソ連、演習偽装の攻撃警戒―米機密文書
時事通信 10月25日(日)16時17分配信

 【ワシントン時事】米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は24日、冷戦時代の西側の先制核攻撃に対するソ連の警戒の深さを分析した米機密文書を公開した。
 1983年に行われた北大西洋条約機構(NATO)の軍事演習の際、「米国は不用意にソ連との関係を一触即発の状態に陥れた恐れがある」と指摘している。
 NATOは当時、核戦争を想定した演習を毎年実施。83年11月の「エイブル・アーチャー(優れた射手)」と題した演習では、同9月の大韓航空機撃墜事件を受け、対ソ関係が緊張する中、実物に似た模擬核弾頭を搭載した航空機を動員するなど、新たな手法を取り入れた。
 これに対し、ソ連側は東ドイツをはじめとして、空軍が高度な警戒状態に入り、情報収集活動も大幅に強化。実際に危機が起きた時と同様の警戒態勢を敷いた。報告書は「米国が演習を隠れみのに利用して攻撃に着手するとソ連軍首脳は真剣に危惧していた可能性がある。少なくともソ連にとって戦争の恐怖は現実味を帯びていた」と結論付けた。
 公開されたのは、1990年2月に米大統領の諮問機関、対外情報諮問委員会に提出された報告書。公文書館が情報開示請求を通じ入手した。

698名無しさん:2015/10/26(月) 22:44:54
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015102500216
安倍首相がコンサート鑑賞=日本人抑留者建設の劇場で-ウズベキスタン

 【タシケント時事】安倍晋三首相は25日午後(日本時間同日夜)、昭恵夫人とともにウズベキスタンの首都タシケントにあるナボイ劇場を訪れ、コンサートを鑑賞した。

 同劇場は第2次世界大戦後、旧ソ連による強制連行で抑留された日本人が建設に携わったもので、1966年の大地震でも倒壊を免れた。コンサートでは、出演者が日本の唱歌「ふるさと」を合唱する場面もあり、首相は盛んに拍手を送っていた。
 これに先立ち、首相と昭恵夫人は日本人抑留者が埋葬された墓地を参拝した。 (2015/10/25-23:53)

699名無しさん:2015/10/26(月) 22:46:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151022-00039496-crankinn-movi
アンジー監督作『アンブロークン』公開決定、日本軍捕虜となった元五輪選手の半生描く
クランクイン! 10月22日(木)8時0分配信

 ハリウッドの人気女優アンジェリーナ・ジョリーが映画監督として、第二次世界大戦で日本軍の捕虜となったオリンピック・アスリートの半生を描いた最新作『不屈の男 アンブロークン』の日本公開が決定した。

 映画の舞台が日本でもあるにも関わらず、国内公開がないことに違和感を感じた製作のユニバーサル・スタジオと配給のビターズ・エンドが、「戦争を描くいろいろな形の映画があるべき」というスタンスから合意。シアター・イメージフォーラムの賛同も得て、日本での公開決定が遂に実現。

 本作の主人公は、1936年のベルリン・オリンピック5000メートルで驚異的なタイムを叩き出したルイ。第二次世界大戦で空軍パイロットとなるも、搭乗していた爆撃機が海に不時着。47日間の漂流の末、日本軍に見つかり、捕虜として収容所に送られてしまう。収容所では、ルイに対して病的な執着を見せるワタナベ伍長の執拗な虐待が待ち構えていたが、彼は不屈の精神で耐え抜き、終戦によって遂に解放されるのだった。

 ルイ役を演じるは『300 <スリーハンドレッド> 〜帝国の進撃〜』『名もなき塀の中の王』のイギリス人俳優ジャック・オコンネル。そして、ワタナベ伍長役に抜擢されたのは、ミュージシャンのMIYAVI。アンジーに才能を認められて、俳優としてハリウッドデビューを飾った。

 『不屈の男 アンブロークン』は、2016年2月よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー。

700名無しさん:2015/10/26(月) 22:48:30
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00000001-withnews-ent
これは「反日」映画なのか? 批判を覚悟、捕虜虐待の軍曹演じた決意 「アンブロークン」のMIYAVI
withnews 10月25日(日)10時0分配信

 「日本軍の捕虜虐待を強調している」――。作品や原作に対するそんな反発が米国での公開前からネットを中心に広がり、日本での公開が一時は暗礁に乗り上げたアンジェリーナ・ジョリー監督の米映画「不屈の男 アンブロークン」。「反日」批判から劇場探しも難航したが、ようやく来年2月、まずは東京で公開されることになった。世界ツアーなどを重ねるミュージシャンのMIYAVIさん(34)が、捕虜に苛烈な態度をとり続けた実在の渡辺睦裕軍曹役をなぜ演じ、批判をどう受け止めたか。ロサンゼルスで語ってもらった。

「受けるつもりはありませんでした」
 2013年5月ごろ、東京の事務所にキャスティングディレクターの奈良橋陽子さんがやって来ました。彼女は映画については触れず、「どういう音楽をしてるんですか」「どんな映画が好きですか」と聞いてきた。「どういう俳優が好きですか」という質問には、ほんとにたまたまなんですが、「アンジェリーナ・ジョリー」と答えた。奈良橋さんはそれでも何も言わず、「英語で何か話してください」と僕の動画を撮影しました。

 出演依頼について聞かされたのはその後です。アンジーはネットで僕の動画も見たようです。

 でも、受けるつもりはありませんでした。まず、自分には演技の経験がない。脚本の内容を聞き、賛否両論を巻き起こす可能性を感じたこともありました。

 アンジーと会ったのはその年の7月。ブラッド・ピット主演「ワールド・ウォーZ」のプロモーションのため、一緒に来日していた。ブラッドはすごく気さくで、部屋に入ってきた瞬間、「WHAT’S MY NAME? WHAT’S MY NAME?」って、僕の曲を口ずさんだんですよ。アンジーをすごくサポートしてました。

 でもその時も、出演は決心していなかった。だけどアンジーが開口一番、こう言ったんです。「ルーイ(ザンペリーニ)の人生を通じて、どれだけ人間が強くあれるか、ゆるせるかというメッセージを届けたい。そのためには軍曹の役が必要。すごくセンシティブだけれども、そこを乗り越えたメッセージを日本の人にも伝えたい」。僕が音楽でやろうとしていることと、すごく近いと思った。

701名無しさん:2015/10/26(月) 22:48:55
>>700

「どのみち誰かがこの役をやるなら、僕が」
 戦争といってもいろんな見方や意見、立場がある。同じ日本軍にも捕虜と一緒に音楽を作ったり、いい関係を作ったりした人たちもいる。その中で、渡辺軍曹がどうであったか。お会いしたことがないので僕たちの描写がすべて正しいとは言えませんが、戦争という、一部を除いて誰も望まない状況の中で、渡辺氏も含め、みんなが葛藤を抱えていたと思う。

 ルーイ自身、本当に苦しい時間を過ごした日本に戻ってきて、地元の人たちや子どもたちと長野五輪の聖火リレーで走り、みんなが笑顔になった。アンジーはこの瞬間にかけて全てを作り上げた。僕もその実際の映像を見て、やる意義があると思った。これを届けるためなら僕は悪役にだってなるし、でもただの悪役ではなく、人間性を含めて演じたいなと思いました。どれだけできるか、不安もありましたが、どのみち誰かがこの役をやるなら、僕が責任をもってやりたいと思いました。

 渡辺謙さんたち日本の俳優を世界に出そうとやってきた奈良橋さんがこの作品に関わっていることも、出演を決めるうえで、すごく大きな判断材料になりました。

「撮影中は、よく瞑想してました」
 撮影中もいろいろ悩みながら、自分なりに、憂いの部分を表情や言葉で出すようにしました。撮影中は、よく瞑想(めいそう)してましたね。

 渡辺氏の手記も読みましたが、彼もお母さんに会いたい気持ちがあった。戦争中も、日本が負けていく中で、恐れがあったと思う。

 ルーイとは米国で会うことができた。渡辺氏と会うことができなかったルーイが、僕と会ってどんな反応をするか、アンジーもプロデューサーもすごくナーバスになっていたんですが、ルーイはほんとに陽気で、一緒に連れて行った僕の娘たちと遊んだりして、チャーミングだった。
 ルーイは「僕は何もいま思っていない。渡辺氏に会いたかったのは、それを伝えたかったためだ。長野五輪の聖火リレーに参加したのもほんとに大事な思い出だ」と話していた。渡辺氏の親族にも伝えてほしい、と言っていた。

 同じ直江津捕虜収容所にいた元米兵にも会いました。彼は戦後、直江津に行っていて、実は日本食が一番好きだそうです。

702名無しさん:2015/10/26(月) 22:49:17
>>701

「『偏った反日映画』とは、まったく思っていない」
 2020年に東京五輪を迎える。同じことを絶対、繰り返しちゃいけない。過去を忘れると、同じことを繰り返してしまいかねないと思う。戦争がいかにむごいか、僕たちに何をもたらすか。この作品は国境を超えた教訓になると僕は思う。日本がダメだという話ではない。

 この作品が「偏った反日映画」だとは、僕は一貫してまったく思っていない。むしろ逆です。原作の記述には異論があり、だから僕は懸念していました。でもアンジーは、映画は原作とは切り離して、ルーイの人生や強さに焦点を当てたいと言った。正直、日本人として見るのは心が痛い部分もありますが、日本が70年、戦争してこなかったことに対して、もっとプライドや自信を持つべきだと思う。あの戦争を乗り越えられているなら、受け入れられるはずだと僕は思う。ルーイも、乗り越えた時に初めてゆるすことができたんだと思う。

 米国の人たち、日本のことが大好きですよ。日本がその後、戦争していないことをみんな知っている。それゆえの敬意がある。日本を嫌いな人に会ったことないですよ。「シンドラーのリスト」を見てドイツを嫌いにならないでしょう。

 一方、この映画に出演したことで、ネットで僕は「反日」だと言われています。オヤジは在日コリアンから日本国籍を取得、母は日本人。つまり僕はハーフコリアンですが、日本人として生まれ、日本人として育ってきた。韓国語はまったくしゃべれないし、サッカーや野球の日韓戦では当たり前に日本を応援してきた。海外でプレーする時も日本人としてやってきた。僕は日本で活動し、ファンもたくさんいる。日本のことを悪く言うだけの映画だったら出るつもりはなかった。

「もうこれからは当たり前に世界の中の日本」
 日本の人たちにもこの作品を見てほしい。今年1月の放送映画批評家協会賞授賞式でも、隣に座っていたアンジーが「ルーイの人生を通して平和のメッセージが届けばいいね」って話していました。

 昨年6月、ロサンゼルスに拠点を移しました。日本向け、世界向け(と分けるの)じゃなくて、もうこれからは当たり前に世界の中の日本。それが音楽家としてあるべき姿だと思う。

 昨年末にNHK紅白歌合戦の出演が終わると、すぐに米ナッシュビルに飛び、(複数のミュージシャンで楽曲を作る)「ライティング・セッション」をやった。放送映画批評家協会賞授賞式では、以前日本で前座をやったことのあるジャレッド・レトに久しぶりに会い、「『アンブロークン』見た。すごいよかったよ〜」と言われました。ニューヨークではクリス・コーネルと会ったりして。米国ではグラミー賞受賞者など歴史を作ってきた人たちと会える機会が多くて、刺激を受ける。音楽家として、そういう環境に自分を置きたかった。

703名無しさん:2015/10/26(月) 22:49:57
>>702

「外のことを知らないと、自分のこともわからなくなる」
 英語を勉強し始めたのは約8年前。それまでアジアや欧州に行ったことはありましたが、通訳を介したコミュニケーションと、直接やりとりするのとでは全然違うと感じた。音楽に言葉はいらないとはいえ、僕はもっともっと勉強したいと思い、当時、音楽活動をいったんやめてロサンゼルスに来ました。

 在米中は発電機を買って、カリフォルニア州のベニスやサンタモニカの海岸沿いでストリートパフォーマンスをやってました。ダンサーの友達を作り、踊ってもらって。ロックやジャズ、ヒップホップ、ポップは西洋の文化。そこから何かを得るには英語が必要だった。その中でアジア人の自分がギターを弾く意味を見つけたかった。

 語学学校に行き、わからない単語はすぐ聞き、友達をいっぱい作った。毎晩勉強しましたが、ほんとに、泣いてました。その時間は本来音楽に費やせるはずなのに、英語という基本スキルがないことへのフラストレーションがあった。今でも、それはある。

 渡米は5歳と4歳の娘たちの教育のためでもあります。これからの時代、ネットと英語は必須。日本語の教育もし、日本文化も大事にしながらですが、世界で当たり前に戦える土壌にいさせてあげたい。外のことを知らないと、自分のこともわからなくなるのではないか。そんな風に思っています。(聞き手・藤えりか)

704名無しさん:2015/11/02(月) 22:57:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151031-00000003-sasahi-peo
【秘話発掘】横井庄一さんは殺される寸前だった! 知られざる“元日本兵生還劇”の舞台裏〈dot.〉
dot. 10月31日(土)7時14分配信

 終戦を知らないまま、グアム島に28年間も潜伏し、奇跡的な生還を果たした元日本兵・横井庄一さん(享年82)が生誕して100年。週刊朝日では、現地で横井さんを発見した男性を07年8月に取材している。その際にこの男性は、これまで語られなかった“新事実”を明かしていた。年老いた証言者が見た光景とは--。(週刊朝日2007年8月24日号に掲載した記事をニュースサイト「dot.」編集部が再編集しました。年齢は07年8月当時)

 「恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました」

 1972年、28年ぶりに祖国の土を踏んだ元日本兵・横井庄一さんが発した第一声は、あまりにも有名である。

 太平洋戦争の記憶が薄らぎつつあった時代に、日本社会に衝撃を与えた奇跡の生還劇。横井さんが亡くなって10年目の7月末、本誌は横井さんの発見者であるマニュエル・デグラシア氏(74)をグアム島に訪ねて、あらためて発見当時の状況を語ってもらった--。

 1972年1月24日、グアム島南部のタロホホ村に住むデグラシアさんは、義兄と2人の息子と一緒に、タロホホ川付近のジャングルへ鹿狩りに出かけた。夕暮れが近づき、周囲が暗くなりつつあった。

 義兄の後方を歩いていたデグラシアさんは、獲物がいないか辺りをうかがっていた。すると、生い茂った草むらがゴソゴソと揺れているのが見えたという。

「最初は村の猟師仲間だと思いました。左から右に動いた影を見ると、どうも村人ではない。目を凝らして見たら、ヒゲがのび放題でボロボロの服を着た日本人らしき男だったんです」(デグラシアさん)

 グアム島南部では戦後になってからも、旧日本兵が発見されていた。魚を捕るウケを右肩に担ぎ、左手にもうひとつのウケを持って腰をかがめながら歩く日本人らしき男性。その人こそが横井さんだった。

 デグラシアさんは、目の前に現れた横井さんを見ると、大きな声で叫んだ。

 「日本兵だ!」

 突然の出来事に顔を引きつらせた横井さんは、両手を合わせて命乞いをするようなしぐさをした。

 横井さんは当時の状況を、手記『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』(文藝春秋)にこう記している。

〈私は無我夢中で目前の現地人に飛びついて銃をひったくりに行きましたが、体力の相違か無念にも押し倒されてしまいました。「ニホンヘイカ」と日本語で尋ねられ、やがて、横にいた何人かが「ツイテコイ」と両側から私を立たせました。で、私は「もうどうでもせよ」という気持で、あとからしょんぼりしょんぼりとついて行きました〉

 だが、デグラシアさんによれば、実際に見た状況と手記の内容は食い違っているという。

「横井さんは体力が衰えていたためでしょうか、ほとんど抵抗しなかった。あまり伝わっていない話ですが、実は私の義兄は横井さんを殴りつけたうえに、射殺しようとして銃の引き金を引こうとしたんです」

 射殺直前--。手記にはこのような記述はいっさい見当たらない。いったい、どういうことなのか。

 デグラシアさんの記憶をもとに、当時の状況を振り返ってみよう。

 デグラシアさんの義兄は横井さんが日本兵だと認識すると、素手で殴りつけて失神させ、殺意に満ちた恐ろしい形相で銃口を向けたという。

 その様子を見て驚いたデグラシアさんは、大声でこう叫んだ。

 「やめろ!」

 一緒にいた息子とともに羽交い締めにして制止しようとしたが、義兄はそれを振り切ってなお、引き金を引こうとした。デグラシアさんは再び叫んだ。

 「彼を殺してしまったら、われわれも殺人者になってしまう!」

 その言葉を聞いた義兄は我に返り、横井さんの射殺を思いとどまったという。

 ここまで横井さんに憎しみをぶつけた理由は何だったのか。残念ながら、義兄は7年前に亡くなったが、デグラシアさんがその心境をこう代弁した。

705名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:07
>>704

●肉親を殺害した日本兵への恨み

 「実は義兄は日本兵をひどく恨んでいた。1950年にジャングルに潜んでいた残留日本兵に弟と甥を殺されていたんです。殺され方もあまりに無残だった。銃殺されたり、ナタのような刃物で切り殺された。肉親を奪われた義兄の怒りはすさまじく、『絶対に犯人を捜し出してやる』とよく言っていたものです。それに2人の遺体は、横井さんを発見した場所の近くで見つかっていたんです」

 事実、横井さんが“容疑者”として疑われていたフシもある。

 グアムの警察当局は発見当初、横井さんが先の2人を殺害した可能性が否定できないとみていたようだ。殺人事件の再捜査を求めるか否か、警察はデグラシアさんの義母に問うてきたというのだ。

 これに対して、義母は警察の申し出を断ったうえでこう語ったという。

「遺体となってしまったが、子供は私のもとに帰ってきた。すでに犯人は許していますので、捜査をやり直す必要はありません」

 義母はカトリック信者として、残留日本兵もまた戦争の被害者で、責めることはできないという慈悲の精神を持っていた--デグラシアさんは義母の心情を代弁している。

 「日本兵も被害者」。日本兵に子供を殺された母親にそう言わせたグアム島の戦争とは、そもそもどんなものだったのか。

 太平洋戦争の主導権を米軍に握られていた1944年。サイパン島を攻略した米軍は7月21日、約5万5千人の兵力でグアム島に上陸した。

 グアム島は戦前、米国領だったが、開戦直後に日本軍に占領されていた。

 だが、6月に米軍はマリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊を壊滅させ、マリアナ諸島の制海権、制空権を奪取した。グアム島に残された約2万人の日本軍守備隊は、援軍や補給のない絶望的な戦いを強いられた。

 日本軍は7月25日、上陸した米軍に対してマンガン山から夜襲による総攻撃を試みるが、米軍の機銃掃射の前に次々に倒れ、3日後には司令官の高品彪中将が戦死する。

 生き残った日本軍は密林地帯に逃れて抵抗を試みるが、8月11日には小畑英良中将が大本営に向けて「己の身を以て、太平洋の防波堤たらん」とした決別の電報を打った後、叉木山(マタグアック)の地下壕で自決する。日本軍の組織的戦闘は終結し、米軍は全島を制圧した。

 日本軍は捕虜になることを厳しく禁じていたため、食料も武器もなく追い詰められた兵士には自決した者も多い。2万人いた日本兵のほとんどが二度と祖国の土を踏むことはなかった。追い詰められた日本兵が、現地住民を虐殺する事件も発生した。
 グアム島在住の日本人男性(50)はこう語る。

「私も30年ぐらい住んでいますが、いまだに高齢者から肉親が日本兵に殺された話を聞くことが多い。日本兵につけられた傷跡を見せてくる人もいます」

 島南部の密林に逃げた兵士のなかには、横井さんもいた。終戦後も投降を拒み続け、28年間、ジャングルのなかで自給自足の生活を続けることになる。

 日本軍が玉砕した叉木山は現在、「南太平洋戦没者慰霊公苑」として整備されている。日米両軍の戦没者を祭る慰霊塔が設置されているほか、敷地内の「平和寺」と書かれた建物には仏像も安置されている。ただ、日本軍兵士の鉄兜などの遺品が一部ガラスケースに展示してあるが、乱雑に置かれ、まったく手入れされていないようだ。

「以前に比べて訪れる人も少なくなってきています。駐グアム米軍が定期的に芝刈りを行っていますが、国営ではないので管理は不十分な状態です」(前出の日本人男性)

 一方、アサン湾の高台には現地住民と米軍の戦没者の追悼碑があった。現地住民は約1万6千人、米軍は約2500人の戦没者の一人ひとりの名前が金属製プレートに刻まれている。ところが、今年7月上旬には、一部のプレートが剥がされ、くず鉄として中国に輸出される事件も発生している。
 戦争の記憶は確実に薄らいできているのだ。

706名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:25
>>705

●一本橋を悠々と渡った横井さん

 横井さんの発見時に話を戻そう。

 デグラシアさんは「不測の事態」に備えて、横井さんを後ろ手に縛り、安全な場所に保護しようとした。

 「発見現場から400メートルほど離れた畑に、私のジープを駐車していました。それに乗せて自宅まで連れていこうと思いました」(デグラシアさん)

 横井さんは空腹を我慢できなかったのか、「食べもの、ある?」と日本語で尋ねてきたという。

 デグラシアさんは、息子が携帯していたパンケーキを横井さんに食べさせた。

「パンケーキは口のなかでパサつくから、一口食べただけで、それ以上は食べなかった。水も飲ませてあげました」(同)

 印象に残っている光景もある。ジープを止めてある場所に行く途中、丸太で作った“一本橋”を渡ったときの出来事だ。デグラシアさんは縛られたままでは横井さんが渡りにくいと思い、縄を解こうとした。

 だが、横井さんは後ろ手のまま、身軽に橋を渡っていった。その姿を見たデグラシアさんは、横井さんの身体能力の高さに驚いたという。

「手を縛られたまま、軽々と渡っていくので、たいへんびっくりしました。現地の人でもこわごわ渡っている橋でしたから」
 横井さんを乗せた車が自宅前に着くと、音を聞きつけた子供たちが家から飛び出してきた。

 「獲物は捕れたの?」と子供たちが目を輝かせて尋ねると、「これが獲物だよ」とデグラシアさんは横井さんを指さした。

 子供たちが不思議そうに見つめながら、「この人、誰なの?」と尋ねると、「名前は知らない」とデグラシアさんは答えたという。

 その後、ロープを切って横井さんを家の中に招き入れた。デグラシアさんは横井さんがおなかを空かしていると思い、家族に食事の支度をするように指示した。

 目の前に出されたのは、牛のテールスープと白米、マカロ(アジに似た魚)のスープなどだった。

「白米はペロッと平らげたけど、テールスープの牛肉は残していました。牛肉は口に合わなかったようですけど、マカロのスープは魚も全部食べました」

 デグラシアさんは、日本兵を捕まえたことを伝えるため、タロホホ村の村長がいる事務所に出向いたが、村長が通夜で不在だったため、場所を教えてもらい、村長の行き先に向かった。

 通夜に出席していた村長を呼び出して、日本兵を保護したことを伝えた。だが、まったく信じてもらえなかったという。

「村長は『ウソだろ』と言って、なかなか信じてくれなかった。私が『本当ですよ』と強く言うと、村長は非常に驚いていました」

 デグラシアさんは、横井さんから事情を聴くため、村長の事務所に連れていった。通訳として、現地住民と結婚した沖縄出身の女性に協力を仰いだ。警察や政府など関係各所に連絡すると、パトカーや白バイが村長の事務所に集結した。

707名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:35
>>706

●「殺害されても仕方ない状況」

 「私は、横井さんが村長の質問に答える様子をそばで見ていた。聞かれた質問には時間をかけて答えていた。自分が置かれた状況を整理できなかったのか、横を向いたり、上を向いたりして、まるで言葉を探しているようだった。困惑した表情も浮かべていた。殺されるのではないかと恐れていたのでしょう」(デグラシアさん)

 確かに、横井さんは警戒心を解いていなかったようだ。このときの状況について、前出の手記ではこう記されている。

〈家の中から日本人らしい人が出てきて日本語で何か訊かれたりしましたが、ハッキリ覚えておりません。そのうえ警官が来て、村の連中も物見に押しかけてきて、部屋中ごった返すなかで調べられました。多少日本語もまじっていたようですが訊かれる意味はろくに分らず、まるで見世物みたいに引き回されている気持でした〉

 横井さんは15年間、タロホホ川流域の洞穴を住み家にしていた。昼間は魚やエビ、ネズミなどを捕獲したほか、ジャングルの植物を口にして飢えをしのいだ。

 現在、横井さんが住んでいた洞穴はどうなっているのか。記者も実際に確認しようと試みたが、現地住民によると、すでに大半が崩落しており、近くに立ち寄ることができず、放置されている状態だという。

 横井さんの妻、美保子さん(79)は、夫が発見された翌年に横井さんと洞穴を見学している。

「当時はまだ縦穴が残っている状態で、下まで下りることができました。ですが、横穴は天井がすでに崩れており、奥まで行くことができませんでした。内部はたいへん蒸し暑いうえに息苦しかったことを覚えています。こんなところで生活していたなんて、信じることができませんでした」

 ところで、美保子さんは、横井さんが「銃殺寸前」だったことを知っていたのだろうか。

「いえ、主人からは何も聞いていません。初めてお聞きしました。現地の方は日本軍に対する感情がよくないので、主人が発見された時点で殺されても仕方ない状況だったと考えています。ケガもなく、主人を日本へ無事に帰してくださりたいへん感謝しております」(美保子さん)

 かりに発見者がデグラシアさんでなければ、横井さんが過ごした日本での“第二の人生”はなかったかもしれない。

(金子哲士)

708とはずがたり:2015/11/12(木) 13:43:38
中国にはなぜ「親日派」がいないのか(『橘玲の中国私論』あとがき)
橘玲 | 作家
2015年3月16日 16時11分配信
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tachibanaakira/20150316-00043897/

中国には「知日派」はいても「親日派」はいない。中国で「親日」のレッテルを貼られると、「漢奸」「売国奴」として社会的に抹殺されてしまうからだ。

これには歴史的な経緯がある。

日中戦争が泥沼化し、首都南京を攻略しても終戦のきっかけがつかめないなか、軍部は謀略によって傀儡政権を樹立することを計画する。白羽の矢が立てられたのは国民党の創設メンバーでありながら蒋介石と対立していた汪兆銘で、参謀本部第八(俗称「謀略」)課長影佐禎昭(かげささだあき)らが工作の中心となった。

1938年7月、汪兆銘の密使として極秘裏に日本を訪れた国民党政府の外交官、高宗武に対し、陸軍大臣、板垣征四郎は「日本は従来の因縁によって、どうしても蒋介石とは両立せぬ、もし蒋に代わって汪兆銘が出るならば、条件を寛大にし,、十分面子を立てるようにして、決して漢奸に終らしめることをしない」と約束した。

日本の敗戦によって、南京の傀儡政府も崩壊した。汪兆銘は終戦直前に病死していたが、その後を継いだ陳公博ら政権要人の亡命を日本政府は受け入れた。だが「戦勝国」である中国国民党政府から彼らの逮捕・送還を要求されると、政府と外務省はパニックに陥った。

外務省の決めた対応策は、「日本政府が信義をおろそかにするものではないことを力説する」としながらも、「結論的に日本政府の公式的な意見は、これを述べることなく、逆に陳主席の意向を引き出し、その次第によってあらためて処置を考える」というものだった。陳公博らの亡命工作を指導した小川哲雄(南京政府軍事顧問兼経済顧問補佐)はこれについて、「要約すれば、日本側から、中国に帰ってくださいとは、とうてい言えないが、帰ってもらえば助かる。何とか主席の面子を傷つけることなく、帰国の雰囲気に話をもってゆきたいということである。誠に虫のよい話。もはや正面きった信義論などどこかに吹き飛んで、厳しい現実に立った妥協が全面に出てきた」と述べている(劉傑『漢奸裁判』中公新書)。

日本に居場所のなくなった陳公博は中国に帰国し、ただちに処刑された。南京政府首相・汪兆銘は、敵国・金と和解するために愛国の英雄、岳飛を処刑した南宋の宰相、秦檜(しんかい)と並び、中国の歴史上最悪の漢奸となり果てた。日本の政治家や官僚は保身のために平然と「信義」を捨て、彼らを見殺しにしたのだ――こうして「親日」と「売国奴」は等号で結ばれることになった。

日本の保守派には中国の歴史認識や反日教育を批判するひとが多いが、元をただせばそこにはすべて理由がある。彼らがときに異常なまでに激高するのは、日本が侵略者であるかぎり、中国側の主張に理があることがわかっているからだろう。理屈で説得できなければ、あとは相手を恫喝するほかはない。

709名無しさん:2015/11/12(木) 22:59:20
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151111-00000002-sundaym-pol
<サンデー時評>日本しか発信できないもの 核めぐる2人の語り部物語
mainichibooks.com 11月11日(水)11時39分配信

 ◇倉重篤郎のサンデー時評 連載75

しつこいようだが、ラグビーワールドカップの感動が続いている。理由はエディー・ジョーンズ前ヘッドコーチ命名の「ジャパンウェイ」という戦略にあるような気がする。

 日本人の体格には不適とされたアングロサクソン好みのラグビーの世界でも、俊敏さ、体力、技術、チーム力、真面目さといった日本的特質を強化するニッポン方式によって、十分に国際水準に到達することができる、その新鮮な発見が、あらゆるところで驚きと共感を広げているのではないか。

 もちろん、単なる日本回帰ではない。体力・健康管理に最先端の技術を使い、世界から一流のコーチを呼び、チームも外国出身選手を多数起用した多国籍的構成であった。国際化と日本化を同時追求し、国際インフラの活用で日本的特質を深掘りしたことが、選手たちの潜在能力をコアコンピタンス(他にマネのできない核となる能力)にまで高めあげたわけである。

 この鮮やかなお手並みには脱帽だ。商売柄、日本政治にもジャパンウェイの可能性を模索したい。今週は、そんな覚悟や使命感を持って発信しようとしている2人の語り部について語りたい。いずれも、発信の中身は、核にまつわるものである。すなわち、前者は「ヒロシマ、ナガサキ」であり、後者は「フクシマ」である。

 1人目は柴田優呼(ゆうこ)さん。朝日新聞記者を経て中国、米国で学位を取得、現在はニュージーランド・オタゴ大の助教授(日本文学専攻)だ。彼女は近著『"ヒロシマ・ナガサキ"被爆神話を解体する――隠蔽(いんぺい)されてきた日米共犯関係の原点』(作品社)で以下の問題を提起した。

 日本は戦後70年を機に原爆の語られ方(言説)をいま一度見直すべきである。

 なぜならば、従来の言説は、米軍占領期の言論統制下でスタート、いまだに「永久敗戦」たる日本と、「永久勝戦」たる米国との間のいびつな日米関係に縛られており、本来その被爆体験が世界史的、人類的に共有すべき衝撃、意義に見合う言説となりえていない。

710名無しさん:2015/11/12(木) 22:59:51
>>709

 ◇被爆体験と原発事故 核の倫理的抑止力を世界に向けて語れ

 例えば、原爆「投下」という表現。原爆による「攻撃」、「原爆を落とされた」といった表現を避け、「投下」という機械的で中立的な表現にすり替わった。

 被爆の語られ方も然(しか)り。放射能汚染被害の深刻さは十分な言及が行われてこなかった。柴田さんは、その典型的事例として、被爆ルポの原典ともいわれるジョン・ハーシー『ヒロシマ』(1946年『ニューヨーカー』誌掲載)をやり玉に挙げ、空爆前後の落差を詳報することで爆発の威力は印象付けられているが、長期的被害や放射能の影響はわずかにしか語っておらず、あたかも自然災害的な一過性の出来事の如(ごと)く描かれている、と指摘。また、ハーシー本がひな型化し、原民喜、峠三吉ら被爆作家の作品は国際的に認知度が低い、という。

 そして、被爆体験を矮小(わいしよう)化する言説を被爆神話と呼ぶとすれば、それを作り上げてきた責任はまぎれもなく日米両国にある。米国は原爆を正当化するため、日本はその米国の姿勢を結果的にサポートしたために。それは被爆体験の隠蔽であり、大きな犠牲の対価として本来人類が知るべきことを知らせなかった罪における共犯者だという。

 この共犯関係を解消しよう。被爆体験者がいなくなる前に、米国に遠慮せずに体験の真相を語り、国際社会の言論に介入し、交渉、説得すべき時である。日本にしかできない貢献の一つだという。

 2人目は、菅直人氏である。

 2011年に首相を退陣して、はや4年。この間、外遊15回。米国、欧州、台湾、韓国の反原発市民団体から呼ばれ講演、あるいは、各国の原発や最終処分場などを視察して回った。日本国内よりも外国での存在感の方があるようだ。史上最大級の過酷な事故に遭遇し、行政トップとしてその収束作業に当たった人物は、世界を見渡してもそんなにいない。あえて言えば、スリーマイルのカーターとチェルノブイリのゴルバチョフか。

711名無しさん:2015/11/12(木) 23:00:20
>>710

 3・11についてはこう語る。原子炉が立て続けにメルトダウンした際には、首都圏も含め半径250キロが避難区域化、5000万人が避難しなければならない、というシミュレーションが出て、戒厳令に近い強権の発動と、皇室や国家機関の避難まで検討した。日本一国で5000万人もの難民問題が生じる可能性が出てくるほどの事態だったのだ、というと欧米の聴衆は鋭い関心を向けてくる。

「今世紀中に原発はなくなります」とも説く。その理由として、コスト高という経済原則、原発なしでもこの2年間電気不足はなかったという実績、再生可能エネルギーの充実、司法の変化(地裁での原発運転差し止め判決)を挙げた。実際に、菅氏が海外に赴いた15回のうち、3カ所(米サンディエゴと韓国・古里で廃炉、台湾で建設凍結)で変化があった。

 柴田さんの「日米共犯」説には強く同調したい。そもそも核という最終兵器の軍事的抑止力を支えるものは何か。広島、長崎が立証したその恐るべき破壊力と非人道性が独裁者に対してすらその使用を躊躇(ちゆうちよ)させるという倫理的抑止力とはいえないか。その意味では、世界で一つしかない日本の被爆体験の希少さを我々はもっと大事にし、自分のものとして、国際問題解決のために有効に使うべきだろう。そこにはジャパンウェイのあるべき一つの姿が見えてくる。

 菅直人氏の脱原発伝道師としての国際的な仕事ももっと注目されていい。原発推進派には目の上のたん瘤(こぶ)であろうが、日本にしかない体験を臨場感と証拠をもってここまで発信できる人はいない。小泉純一郎、細川護熙両元首相と連動できればもっと強力なジャパンウェイになると思うが、いかがか。

712名無しさん:2015/11/15(日) 11:52:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151114-00010001-tokyofm-life
もしも、お相撲さんの頭に「まげ」がなかったら……
TOKYO FM+ 11月14日(土)12時0分配信

ちょんまげ・月代(さかやき)が当たり前だった江戸時代から明治に入り、何といっても変わったのは「髪型」。そんな髪型の変化で影響を受けた、ある職業の話を紹介します。


人々の生活を大きく変えた明治維新。
そんな明治を表わす言葉に「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
というものがあります。
散切り頭……そう、明治時代、「断髪令」が政府から布告されました。
正確には「散髪脱刀令」。
ちょんまげと、刀を持つことをやめさせる令です。

一般庶民が次々と髪を切っていくなか、困っている人々がいました。
そう、力士たちです。
髷(まげ)があってこその力士……切るわけにはいかない。
ですが、政府の命令は絶対。一体どうすればいいのか悩んでいたのです。

明治時代、相撲は「江戸の名残りの庶民文化」として、低俗だと思われる節がありました。
髷を結ったまま行うなど、新しい時代にふさわしくない……
一時は存続の危機すらあったのです。
そんな危機を救ったのは、2人の人物。
明治天皇と、大久保利通です。

明治天皇は、大の相撲好きでした。
なんと、自分自身も相撲を取り、あの山岡鉄舟と組み合ったこともあったとか。
力士隊長と言われた伊藤博文とも、
何度も相撲を取ったのだそう。

明治に入り、断髪令とともに「裸体禁止令」が出されました。
力士たちがそれを拒否することにより、
罰金や、むち打ちの刑など、辛い目にあっていたなか、
救いの手を差し伸べたのが大久保利通。
「大相撲だけは髷を残したい。伝統を大切にして力士にだけは髷を残しましょう」
そう、明治天皇に手紙を書いたのでした。

相撲好きだった明治天皇はこれを受け、承諾。
もし、このやりとりがなかったら、
お相撲さんの頭には髷がなく、洋服を着て闘っていたかもしれません。
いえ、もしかしたら相撲という文化すら残ることが難しかったかもしれませんね。

江戸の時代から庶民に愛され、今や国技となった「相撲」。
たくさんの人物に支えられ、私たちも楽しむことができるのですね。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」6月3日放送より)

文/岡本清香

713名無しさん:2015/11/16(月) 23:54:11
日本は中国とは違う、西欧に一目置かせた伊能忠敬
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151116-00045273-jbpressz-bus_all

714名無しさん:2015/11/17(火) 22:34:39
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151117-00000019-pseven-life
「明治維新を全否定」の歴史本 会津地方で大ベストセラーに
NEWS ポストセブン 11月17日(火)16時0分配信

「吉田松陰は山県有朋が創った虚像である!」
「久坂玄端は天皇拉致未遂犯である!」
「勝海舟は裏切り者である!」
「長州藩はテロリスト集団である!」

 このように、新聞広告にはなんとも刺激的な惹句が並ぶ。日本を近代化に導いたと教えられてきた明治維新を全否定する歴史書が、ベストセラーになっている。ヒットの背景を探ってみると、やはりあの“遺恨”があった。

 歴史書としては異例の5万部を超えるヒットとなっているのは、「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」のサブタイトルを冠した『明治維新という過ち』。出版元・毎日ワンズの松藤竹二郎社長がいう。

「立花隆氏が週刊文春、斎藤美奈子氏が週刊朝日の書評で取り上げて話題になりました。ただし、読みもしないで新聞広告を見ただけで抗議をしてくる人も多いんです」

 著者の原田伊織氏は69歳で、作家のほかクリエイティブディレクターとしても活躍する人物。なぜこんな刺激的な歴史本を書こうと思い立ったのか。

「子供の頃から、自国の歴史を否定する風潮に疑問を感じていました。洋の東西を問わず、戦争に勝った方が自分たちに都合のいいように歴史書を書く。ただし、どの国も戦後100年も経てば必ず当時を検証するものです。ところが明治維新後に生きた日本人はその検証をやってこなかった。そこで明治時代以降の歴史を一冊にまとめておくべきだと思ったのです」

 なかでも原田氏が鋭い筆鋒を向けているのが吉田松陰である。一部を抜粋する。

〈松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。(中略)今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である〉

〈思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっちあげた虚像である〉

〈松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである〉

715名無しさん:2015/11/17(火) 22:35:07
>>714

 そして〈長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松陰の主張した通り(中略)軍事進出して国家を滅ぼした〉と原田氏は主張するのだ。他にも、久坂玄瑞を天皇拉致未遂犯として糾弾し、勝海舟を〈長州・薩摩に幕府を売った張本人〉と指弾するなど、維新の志士、英傑たちをなで斬りにしている。

◆幼稚園のお遊戯は「白虎隊」

『明治維新という過ち』はある地方で突出して売れているという。長州と遺恨の深い福島・会津である。

「会津若松市の方からの反響はもの凄く、『よくぞ書いてくれた』という激励の言葉をたくさんいただいた」(原田氏)

「『長州テロリスト』の言葉を見て、即買った」(48歳会社員)という人も珍しくないようで、同市内では100冊以上売れた書店もあるという。

 明治維新において、会津藩は長州藩・薩摩藩を中心とする新政府軍から「賊軍」の汚名を着せられ、徹底的な弾圧を受けた。会津戦争では「白虎隊の悲劇」に代表される数多くの犠牲者を出し、しかも新政府軍が犠牲者の埋葬を禁じたため、会津の人々は家族の遺体が野に晒され、鳥や獣に食い散らかされる悲惨な状況を目の当たりにしたとされる。

 この時の遺恨は150年経った今も消えていない。2007年、山口県出身の安倍晋三首相が会津若松市を訪れて「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語り、2011年7月には東日本大震災の義援金などへの謝意を伝えるため会津若松市長が萩市を訪れたが、市長は「和解とか仲直りという話ではない」と語った。

 歴代の会津若松市長が和解を拒否してきたのは、市民レベルで“反長州”が根強い証左でもある。

「幼稚園のお遊戯会の出し物といえば、白虎隊の剣舞。ラストシーンでは刀を抜いて、お友達と刺し違えて倒れるんです。それが当たり前と思って育ってきたので、長州に対して敵対意識が芽生えるのは当然ですよ」(会津在住・50歳会社員)

「亡くなった祖母の口癖は『薩長から嫁はもらうな』。社内の県人会では年配の先輩たちが酔っぱらって『薩長の首を取れ!』とわめくのが恒例になっている」(会津出身・35歳会社員)

 なかには、「会津を通る国道が“49号線”という縁起の悪い数字なのは長州の嫌がらせ」(会津在住・58歳公務員)と真顔で語る人もいる。会津の人たちが同書を読んで溜飲を下げたのは当然かもしれない。

※週刊ポスト2015年11月27日・12月4日号

716名無しさん:2015/11/17(火) 22:39:16
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151117-00010010-agora-soci
日本軍の最大の罪 『毛沢東』 --- 池田 信夫
アゴラ 11月17日(火)18時31分配信

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)
遠藤 誉
新潮社
★★★★★

中韓との歴史論争は、80年代以降の現象である。韓国では全斗煥、中国では江沢民が初めて「歴史問題」を外交の場に持ち出した。特に重要なのは後者である。江沢民の父は汪兆銘政権(日本の傀儡政権)の幹部であり、それを隠すために「反日」の姿勢を強調したのだ。

毛沢東は、日本に対して歴史問題を持ち出さなかった。なぜなら彼も汪兆銘の協力者だったからだ。彼は日本を恨むどころか、戦後に何度も「日本軍が国民党を倒したことに感謝する。日本軍がいなかったら、われわれは政権を取れなかった」と公言している。

毛沢東の主要な敵は蒋介石であり、彼を倒して政権を取るために日本と協力し、国民党軍の内部情報を日本軍に通報した。その拠点になったのが、北京にあった「岩井公館」で、毛沢東の指令で岩井と連絡を取っていたスパイが潘漢年だった。

毛沢東はソ連の支援を受けていたが、中共軍は貧弱で、国民党との内戦で劣勢だった。しかし国民党の内部情報を得ていた毛沢東は、張学良を使って1936年に西安事件で「国共合作」させた。このとき毛沢東は「日本軍に対して団結する」と宣伝し、中共軍は全滅をまぬがれたのだ。

翌年から始まった日中戦争では、国民党軍が南京や重慶で消耗戦を強いられていたとき、毛沢東は延安に逃げ、汪兆銘を通じて日本軍と蒋介石を倒す交渉をしていた。中共のスパイが、国民党の軍事拠点の位置や作戦計画を日本軍に通報した記録が残っている。

だから毛沢東は「南京大虐殺」に一度も言及したことはない。敗戦で日本軍が投降すると、その装備を奪って国民党軍と戦い、蒋介石を台湾に追放した。そして対日工作を行なったスパイをすべて抹殺・投獄し、口を封じた。

毛沢東は日本軍と戦って勝ったとは思っていないので、日本に賠償も求めなかった。9月3日の「抗日戦争勝利記念日」を盛大に祝ったのは、習近平が初めてだ。日本軍の最大の罪は、国共内戦で(結果的に)共産党を支援して毛沢東に政権を取らせたことであり、それは今も世界情勢に大きな影響を与えている。

池田 信夫

717とはずがたり:2015/12/20(日) 21:50:47
「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」って?
http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2013/06/post-266.php
2013年06月29日(土)16時10分

「海を渡ったオキュパイド・ジャパン」という、ちょっと興味深い展覧会が開かれている(於:六本木ヒルズ森タワー49階/アカデミーヒルズ入口の展示スペース)。

 オキュパイド・ジャパン(Occupied Japan)とは、第2次大戦後の「占領下日本」のこと。民間貿易が再開された1947年から、サンフランシスコ講和条約が発効した52年まで、日本からの輸出品には「MADE IN OCCUPIED JAPAN」の刻印を付けるようGHQ(連合国最高司令官総司令部)から命じられていた。

718名無しさん:2015/12/23(水) 09:25:27
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015122300084
自民歴史勉強会、コメントせず=米国務省

 【ワシントン時事】米国務省のトルドー報道部長は22日の記者会見で、自民党が日本の近現代史に関する勉強会の初会合を開いたことについて「コメントはない。日本政府に問い合わせてほしい」と述べた。米政府としては議論の推移を注視する構えとみられる。
 会見では極東国際軍事裁判(東京裁判)が取り上げられる可能性を指摘する質問も出たが、報道部長は「(第2次)世界大戦中に起きたことについて私たちには私たちの見解がある。しかし、今回の動きは日本の政権の動きであり、論じるつもりはない」と語った。 (2015/12/23-07:40)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015122200879
「侵略否定」なら反対=記憶遺産の選定過程見直し-中国

 【北京時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産をめぐり、日本が選定過程の見直しを求めている問題で、中国外務省の洪磊・副報道局長は22日、日本を念頭に「(見直し問題を)政治化しようとし、侵略の歴史を否定・美化する目的があるなら、国際社会は断固反対する」との見方を示した。
 中国が申請した「南京事件」の関連資料が記憶遺産に登録されたことを受け、日本政府は選定過程の透明性確保などをユネスコに要求。ユネスコは複数国が関係する申請案件について、関係国間の事前協議を求める方向で検討しているが、洪副局長は「加盟国の希望を十分に反映すべきだ」と訴えた。 (2015/12/22-20:05)

719名無しさん:2015/12/25(金) 06:17:59
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151225/k10010352391000.html
「ロン・ヤス」関係の原点 外交文書で明らかに
12月25日 5時27分

中曽根元総理大臣は、自民党の総裁予備選挙に立候補していた1982年11月、アメリカの政府高官と会談し、「総理大臣に選ばれた場合には、翌年1月にもアメリカを訪問したい」と伝えていたことが、外務省が公開した外交文書で明らかになりました。当時、外務省は、貿易摩擦で両国関係が悪化していたため、訪問には入念な準備が必要だとしていましたが、就任直後のアメリカ訪問という中曽根氏の強い意向が、のちに「ロン・ヤス」と愛称で呼び合う関係の原点となりました。
これは、当時の中曽根総理大臣のアメリカ訪問に関する情報を記録した外交文書で明らかになりました。
それによりますと、1982年11月18日、自民党の総裁予備選挙に立候補していた中曽根氏が、日本を訪問していたアメリカ政府高官と会談し、「総理大臣に選ばれた場合には、翌年1月にもアメリカを訪問したい」と伝えていたということです。
その直後に総理大臣に就任した中曽根氏のアメリカ訪問を巡っては、当初、外務省が、貿易摩擦で日米両国の関係が悪化していたため、入念な準備が必要だとして、1983年の4月末から5月初めの大型連休を利用した訪問を、「ほとんど唯一の実行可能な案」として検討していました。
しかし、結果的に中曽根氏の強い意向を受けて、総理大臣就任直後の1月18日に、アメリカでレーガン大統領との初めての首脳会談が実現し、のちに「ロン・ヤス」と愛称で呼び合う関係の原点となりました。
また、外交文書では、中曽根氏が日米首脳会談の1か月前の1982年12月18日、大河原駐米大使に、首脳会談に臨む姿勢として、「レーガン大統領と『レッツ・ゴー』の精神で意気投合したい。信頼関係を強化し、日米関係の円滑化を図りたい」と述べていたことや、当時、課題となっていた日本からアメリカへの武器技術の供与について、「自分が決断すればいいことなので、いけると考える。国会が止まることも覚悟して対処する」と述べていたことも明らかになりました。
日米外交史が専門の東洋英和女学院大学の増田弘教授は「中曽根氏は、いち早くトップどうしで信頼関係を築くことが日米関係にとって極めて重要だと考えており、中曽根氏自身の対米戦略や外交方針が文書の中に色こく出ている」と話しています。

720名無しさん:2015/12/31(木) 09:43:49
古い記事

http://www.jiji.com/jc/zc?g=&k=201507%2F2015072800658
妥協の産物、歴史は評価=姜尚中・東大名誉教授に聞く-日韓正常化【戦後70年】

 政治学者の姜尚中氏(東大名誉教授)に1965年調印の日韓基本条約や当時の政治情勢について聞いた。

 -日韓基本条約の評価は。
 あの時代、韓国も日本も(条約に)反対のうねりがあった。今から思うと信じられないくらいだ。一切、過去の問題を閑却したことは、妥協の産物だったのだろう。歴史認識は非常に大きな溝があった。当時の状況をそのまま反映させた。
 それでも国交正常化がなければ、日本も韓国も歴史が大きく変わっていた。基本条約は限界があったにしても歴史的によかったという評価をしている。
 -日韓が接近した背景は。
 やはり米国の要請と、戦前からの人脈が両国関係を結び付けた。くしくも朴槿恵韓国大統領の父(朴正熙元大統領)と安倍晋三首相の祖父(岸信介氏=首相退陣後も日韓国交正常化に尽力=)、この二人の力は大きかった。歴史の因果だ。

 -歴史問題はあやふやにした。
 今に通じるところがあるが、歴史の問題はおそらく、それをやりだしたら、パンドラの箱を開けることになるのではないか。それよりは今ある非常に現実的な問題、共産圏の中国、ソ連、北朝鮮の脅威に対抗し、日本、韓国、台湾の3者が連携することを米国としても望んだ。
 -日韓関係は冷え込んでいる。
 かっこ付きの「正常化」だった。韓国は(民主化宣言した)87年以降大きく変わった。民主化の代償だ。民主化のパラドックスともいうが、今起きているぎくしゃくしている面は、日韓の国民同士の交流が増えたからだ。国内世論が多様で、民主的な価値を持つ社会であればあるほどそうだ。要するに変数が多くなったということだ。
 -かつての韓国は軍事政権で世論を抑え、歴史や賠償の不満を抑えていたということか。
 そう思う。よく中国が民主化されたらいいと言われるが、もっと難しい事態が出てくる。歴史の問題が韓国どころではない形で飛び出してくる可能性がある。 (2015/07/28-16:27)

721名無しさん:2016/01/24(日) 17:09:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date3&k=2016012200867
A級戦犯「犯罪人と言うのは抵抗」=自民・稲田政調会長、東京裁判で発言

 自民党の稲田朋美政調会長は22日、BS朝日のテレビ番組収録で、極東国際軍事裁判(東京裁判)に関し、「国内的にA級戦犯は犯罪人だと言い切ることには抵抗がある」との認識を示した。また、「判決に書かれている連合国のストーリーに『違うことは違う』と言うことはサンフランシスコ講和条約に反していない」と主張した。
 東京裁判の結果に疑義を呈したとも受け取れる稲田氏の発言は、戦勝国の米国などの反発を招く可能性がある。同党が安倍晋三総裁直属の機関で進めている歴史研究にも影響を与えそうだ。
 また、稲田氏は憲法9条について「海外から自衛隊は軍隊と見られている。立憲主義の意味からも空洞化している」と指摘。「自衛権行使を認める(と明確化する内容に)、しっかり変えるべきだ」と改正の必要性を訴えた。 (2016/01/22-19:40)

722名無しさん:2016/01/30(土) 14:55:37
http://www.jiji.com/jc/movie?p=mov611-movie03
零戦、日本の大空に再び=爆音響かせ天高く舞う雄姿-海自鹿屋基地

 「零戦里帰りプロジェクト」を進めるゼロエンタープライズ・ジャパンは27日、零式艦上戦闘機(零戦)のテスト飛行を海上自衛隊鹿屋航空基地で行った。操縦桿(かん)を握ったのは、米国で零戦操縦のライセンスを持ち、NASAのテストパイロットを務めていたスキップ・ホルム氏(72)。大勢の報道陣が見守る中、機体は爆音を響かせ天高く舞い上がり、再び日本の大空でその雄姿を見せた。
 この機体を所有するのは同社取締役でニュージーランド在住の石塚政秀氏(54)。当初、購入するつもりはなかったが、契約者が支払いできず、その保証人になっていたため、肩代わりすることになったという。その代金は3億5000万円。牧場や自宅を手放すなどして費用を捻出し、完済するまで2年を要した。維持費などを含め、既に5億円以上は投じていると話す。
 この零戦は、三菱重工業の小牧工場で1942年後半に製造された零式艦上戦闘機二二型。全長9.06メートル、全幅12メートル、重量1863キロあり、最高時速540.8キロを誇った。大戦中、パプアニューギニアで駐機していた時に攻撃を受け、尾翼が折れた状態にあった。これを78年に米サンタモニカの軍事博物館が回収し、修理した。飛行できる現存の零戦は5機のみ。その1機という貴重な歴史的資産となっている。
 戦後、零戦は2度、日本の空を飛んでいる。その時は米国人が所有する五二型であったが、「日本人が所有する二二型の飛行は戦後初」と石塚氏は話す。
 ホルム氏がエンジンを掛けると、爆音が辺りに響き渡った。テークオフの位置までゆっくりと滑走路を進む零戦。加速していくとふわりと宙に浮き、スムーズに高度を上げていった。基地の上空を優雅に旋回し、その性能の高さを披露した。
 石塚氏は、「飛ばすまでにいろいろなハードルがあり、挫折しかけたこともあった」とこれまでを振り返り、「この飛行機から、若い人たちに日本の歩みを知ってほしい」と零戦への思いを話した。【時事ドットコム編集部撮影】

723名無しさん:2016/02/11(木) 15:25:36
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2016021000492
強制連行「確認できず」=慰安婦、国連で説明へ-日本

 国連女子差別撤廃委員会の対日審査が16日にジュネーブで開かれ、慰安婦問題に関するやりとりも行われる見通しだ。日本政府は事前の答弁書で「政府の調査では軍や政府による慰安婦の『強制連行』は確認できなかった」と回答したが、韓国はこれに反論。審査には杉山晋輔外務審議官が出席し、日本の立場を説明する。
 同委員会は昨年8月、女性に関する問題について22項目から成る質問状を日本政府に送付。この中に慰安婦に関する質問が含まれていた。
 日本は今年1月に提出した答弁書で、慰安婦問題について、昨年12月28日に日韓両政府が「最終的かつ不可逆的な解決」で合意したと説明。関係省庁や米国立公文書館の資料、関係者の聞き取りなどの結果、「強制連行は確認できなかった」と回答した。
 昨年12月の日韓合意は「国連など国際社会において、この問題で互いに非難、批判することを控える」とうたっている。韓国外務省報道官は1月末、答弁書に関し「慰安婦の動員、募集、移送の強制性は否定できない歴史的事実だ」と反論。日本に対して「(日韓)合意の精神、趣旨を損なう言動を控えるよう」求めた。
 一方、日本外務省幹部は、答弁書は「何も新しいことを言っているわけではない」と日韓合意への影響はないとの考えを示し、「合意が実現するよう努力していく」と話している。(2016/02/10-14:17)

724とはずがたり:2016/02/14(日) 18:15:03

隠岐漁民、竹島の岩ノリ製造…不法占拠前から
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160208-OYT1T50149.html?from=yartcl_outbrain1
2016年02月09日 07時48分

 韓国が1952年に李承晩ラインを一方的に設定し、竹島(島根県)の不法占拠を開始するより以前の明治後期から大正期にかけて、隠岐諸島の漁民が竹島で岩ノリを摘み取り、製品化していたことが、島根県竹島資料室の調査でわかった。

 同室は「竹島が隠岐漁民の生活拠点の一つとなっていたことが改めて裏付けられた」としている。

 同室が昨年10、12月に隠岐の島町久見地区で聞き取り調査し、夫の母親から竹島産の岩ノリ製造の話を聞いたという作田アイコさん(83)や、作田さんの息子2人の証言を得た。

 作田さんは「夫の祖父(作田芳吉さん、1878〜1955年)が竹島に行き、岩ノリを摘んだことがある。竹島の岩ノリは大きくて長いので、久見では縄のひもに引っかけて干した」などと証言した。

 また、アシカ漁などを行うために島後に設立された「竹島漁猟合資会社」の「生産品勘定帳」(1911年5月4日)を、元県職員が53年に筆写した写し(県立図書館所蔵)には、竹島からノリ1俵を入荷したことが記載されていた。

 県内は「十六島うっぷるい海苔のり」など、岩ノリの主要産地。なかでも隠岐諸島は高品質な岩ノリで知られ、竹島産もそれらと一緒に、長崎や大阪に出荷されていたという。

 県竹島問題研究顧問の下條正男・拓殖大教授は「日本が竹島を持続的に実効支配していた明確な証拠で、我が国固有の領土であることをさらに補強することになった」と話している。

727名無しさん:2016/02/17(水) 00:16:10
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date1&k=2016021600486
「強制連行確認できず」=慰安婦問題で日本説明-国連委

 【ジュネーブ時事】国連女子差別撤廃委員会の対日審査が16日、ジュネーブの国連欧州本部で行われた。杉山晋輔外務審議官は慰安婦問題について、「日本政府が発見した資料の中には軍や官憲による、いわゆる強制連行を確認できるものはなかった」と説明した。

 政府は1月に委員会の質問に対して提出した答弁書で、既にこうした日本政府の立場を回答。これを受け、韓国外務省報道官が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した2015年12月の日韓合意の精神を損なう言動を控えるよう求めた経緯があり、今回も韓国政府の反発が予想される。
 杉山氏は韓国・済州島で女性を強制連行したという故・吉田清治氏の証言によって、強制連行の見方が流布されたと指摘。この内容が朝日新聞に報道され、国際社会に大きな影響を与えたが、証言は研究者によって「想像の産物」と証明され、朝日新聞も事実関係の誤りを認めていると説明した。 
 一方で、12月の日韓合意について、「両国政府は合意内容を誠実に実行に移すべく取り組んでおり、この点は現時点でも全く変わりない」と強調。両国政府の努力に国際社会の理解を求めた。
 中国の委員は加害者の訴追や首相による被害者への書面での謝罪が必要だと訴えたが、杉山氏は「政府がこの問題について歴史の否定をしているとか、何の処置も取っていないという批判は事実に反すると言わざるを得ない」と指摘した。
 答弁書は慰安婦問題について、関係省庁や米国立公文書館の資料、関係者の聞き取りなどの結果、「強制連行は確認できなかった」と回答。韓国外務省報道官は「慰安婦の動員、募集、移送の強制性は否定できない歴史的事実だ」と反論していた。
 委員会は3月7日に審査の最終見解を示す予定。(2016/02/16-22:06)

728名無しさん:2016/02/20(土) 15:29:42
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2016021700419
「強制性否定できない」=韓国当局者

 【ソウル時事】国連女子差別撤廃委員会の審査で日本政府が慰安婦問題に関して「いわゆる強制連行を確認できるものはなかった」と説明したことに対し、韓国外務省当局者は17日、「強制性は国際社会が既に明確に判定した、否定できない歴史的事実」と反論し、「被害者の証言で裏付けられている」と強調した。 
 当局者はまた、慰安婦問題をめぐる日韓合意の精神や趣旨を損なうような言動を控えるよう日本政府に改めて求めた。(2016/02/17-12:26)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2016021700425
慰安婦像設置に懸念=中曽根日米議連会長

 日米議員連盟会長の中曽根弘文元外相らは17日、米民主党のダイアナ・デゲット下院議員ら米議員団と東京都内で会談した。中曽根氏は米国内で慰安婦像を設置する動きがあることについて、「慎重に対応してほしい。米国の日系人、韓国系社会など、地域のコミュニティーを分断する恐れがある」と懸念を示した。これに対し米側は直接には答えず、「慰安婦問題は過去の問題で、もう解決したという認識だ。未来に向かうべきだ」と述べるにとどめた。(2016/02/17-12:37)

729名無しさん:2016/02/20(土) 15:31:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2016021900174
英政府、昭和天皇崩御で対応苦慮=参列者選定「慎重に」-外交文書

 【ロンドン時事】昭和天皇崩御に当たり、英政府が対日関係と国民感情のはざまで対応に苦慮していた様子が、19日に解禁された英外交文書で明らかになった。第2次大戦の歴史を踏まえ、欧米で微妙な評価を受けていた昭和天皇をめぐる「弔問外交」の舞台裏を浮き彫りにした。
 文書は崩御前の1988年9月29日付で、サッチャー政権の閣議内容が記録されている。闘病中だった天皇について、担当者は「容体は深刻で、死は目前に迫っている」と報告。崩御は「日本における一時代の終わりを示唆する」ものの、「日本の政策に重要な影響を及ぼす可能性は低い」との見解を示した。
 閣僚らはその上で、来る葬儀に向けた対応を協議。対日関係は重要である一方、第2次大戦中の日本の行為と戦争捕虜への処遇をめぐり、英国民の間に依然「強い(否定的な)感情」があることから、参列者の選定は「相当に慎重になる必要がある」との考えで一致した。
 89年2月の大喪の礼に英国から参列したのは、エリザベス女王の夫フィリップ殿下とハウ外相ら。当時の資料によると、高位の代表派遣に英国内では元捕虜らから抗議の声が上がったという。(2016/02/19-09:15)

730名無しさん:2016/02/20(土) 15:31:44
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&rel=j7&k=2016022000144
沖縄に核配備、機密扱いせず=写真も公開-米政府

 【ワシントン時事】米政府は、沖縄に1972年の日本復帰まで核兵器を配備していた事実を機密扱いすることを取りやめた。ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館が19日、国防総省による機密指定解除の動きを指摘し、併せて沖縄に配備された核兵器の写真を紹介した。

 国防総省はサイト上で、「1972年5月15日の沖縄の日本復帰前に、米国の核兵器が沖縄に配備されていた事実」の機密指定を解くと表明した。ただ、米統治下の沖縄への核配備は、これまでに公開された公文書から既に明らかになっている。 

 同大学が提示した写真は計3枚。うち2枚は62年10月に嘉手納基地で行われた武器装着の技量を試す競技会で撮影され、「マーク7」「マーク28」と呼ばれる核爆弾と、装着準備に当たる米兵らの姿が写っている。残る1枚は、地下施設の核巡航ミサイル「メースB」を捉えた。
 いずれも空軍が90年に公開したが、爆弾やミサイルの名称が記載されているだけであるため、誰も重要性に気付かなかったもようだという。(2016/02/20-11:58)

731名無しさん:2016/02/21(日) 22:45:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160221/k10010417241000.html
北方領土発言にロシア「歴史的事実わい曲」と反発
2月21日 21時21分

ロシア外務省は、北方領土問題を巡って、日本の外務省の幹部が「第2次世界大戦の結果がすべて清算されたわけではない」と発言したことについて、歴史的な事実をわい曲したものだと主張して反発しました。
北方領土問題を巡って、外務省欧州局の相木俊宏参事官が、ロシアの通信社に対して「日ロ間では、第2次世界大戦の結果がすべて清算されたわけではない」と述べたことを受けて、ロシア外務省は20日、コメントを発表しました。
この中で「日本は降伏文書に調印して、ソビエトへの行動に対するすべての責任を負った」とする見解を示しました。
さらに「日本は、1951年のサンフランシスコ平和条約で、千島列島などを放棄した。ソビエトは、この条約に署名しなかったが、日本の義務には影響しない」と主張し、北方四島は、放棄した千島列島には含まれないとする日本の立場に反論しました。
そのうえで「日本側は歴史的な事実の恣意(しい)的で、わい曲した解釈を公開の場で展開した」として、相木参事官の発言に反発しました。
日ロ間では、4月中旬にラブロフ外相の訪日と安倍総理大臣のロシア訪問の調整が進められていますが、これを前にロシア側は「先の大戦の結果、北方領土はロシア領になった」とする自国の立場を改めて強調したものとみられます。

732とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:01
優秀な人間が『老害』になる理由とは?歴史に学ぶ「慢心」
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E5%84%AA%E7%A7%80%E3%81%AA%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%8C%E3%80%8E%E8%80%81%E5%AE%B3%E3%80%8F%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%90%86%E7%94%B1%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%80%8C%E6%85%A2%E5%BF%83%E3%80%8D/ar-BBpTDRm#page=2
ダイヤモンド・オンライン
神野正史
1時間前

優秀な人間が『老害』になる理由とは?歴史に学ぶ「慢心」: 「優秀であるがために、老害化する」。そのメカニズムとは?c diamond 「優秀であるがために、老害化する」。そのメカニズムとは?
「優秀な人間ほど、その優秀さゆえに、老害化してしまう」。この歴史的事実をどう思いますか?世界史5000年の歴史から生まれた「15の成功法則」を記した『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

2つの「顔」を持つ男
 フィリップ・ペタンという人物をご存知でしょうか。彼は第一次世界大戦において、ドイツの猛攻に屈しそうになったフランスをその魔の手から救った「救国の英雄」として、少なくともフランスでは知らぬ者とていない超有名人です。

 そして同時に、第二次世界大戦において、ドイツの侵寇を前にして、あっさり祖国をドイツに売り渡した「売国奴」としても有名です。

 同じひとりの人物なのに、これほど正反対な顔をもつ人も珍しい。第一次大戦後、あれほど国民から喝采を受けた彼が、それから四半世紀後には死刑判決を受けるほど、国民から憎まれるようになってしまったのはなぜでしょうか。

くすぶっていた男が、どんどん出世できた理由
 彼は、第一次世界大戦が勃発したころ、すでに58歳でした。退役寸前であったにもかかわらず、大佐どまりで、決して期待された軍人ではありませんでした。

 それは彼が無能だったからというわけではなく、ちょうど彼が軍人として脂の乗りきったころに大きな戦がなく、その才を発揮する場がなかったためです。フィリップ・ペタンは、その点、時代に恵まれず、ここまでくすぶっていました。

 しかし、ここで第一次世界大戦が勃発。当時のフランス参謀本部の「積極的攻撃論」がことごとく裏目に出、ドイツ軍は破竹の勢いでフランス北東部を次々と占領していきます。祖国はあっという間に存亡の機!

 このとき、「積極的攻撃論」にひとり異を唱えていたペタンに耳目が集まります。

「そういえば、あのペタンという男だけが「攻撃論」に反対していたっけな」

 最初からあの男の作戦を採っていればこんな状態じゃなかったかも。こうして注目を浴びたペタンは、どんどん出世していき、またその期待に応えて戦果を挙げていきます。「陽」が当たるようになった途端、まさに“水を得た魚”。

兵法の「基本精神」とは?
 そんなとき、ドイツ軍によって包囲されていたヴェルダン要塞が陥落寸前になります。ヴェルダンといえば、フランスの都パリの“絶対防衛線”。ここが敵の手に陥ちてしまえば、あとはパリまでドイツ軍を防ぐものは何もありません。ドイツ軍は、何もなき野を往くが如く、パリに迫るでしょう。つまり、ヴェルダンの陥落は即ち、パリの陥落を意味し、そしてそれはフランスの滅亡を意味します。

733とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:11

 そんな状況化で、ペタンが参謀部からヴェルダン総司令官を拝命したとき、彼は自信満々に宣言しています。「決して敵は通しませぬ! ご安心あれ!」

 彼の採用した作戦は「縦深(じゅうしん)陣地戦術」。

 これは彼が編み出したオリジナル新戦法というわけではなく、「マラトンの戦い」や「カンネーの戦い」、はたまた「三帝会戦」などなど、古くから使い古された戦術とその根本に流れる精神は同じものです。

1、まず、わざと敵に弱点をさらし、敵にその弱点を攻撃させ、2、防御地点を突破されても、あまり抵抗せず、むしろわざと兵を退かせる。3、調子に乗った敵軍がさらに押してきても、敵軍の包囲態勢づくりに尽力する。4、敵軍が気付いたときには前後左右からの包囲が完成しており、潰滅する。

 どんなに時代が移り変わり、兵器が近代化し、戦術が変わったように見えても、兵法の基本精神は変わりなく通用するものです。ペタン将軍は、この戦法でついにドイツ軍の猛攻に耐えきり、これを撃退することに成功します。

栄光の落日
 その結果、ドイツ軍はまもなく降伏し、大戦はようやく幕を下ろしました。この八面六臂の活躍により、大戦勃発の時点では「大佐」だった彼は、戦後、陸軍最高位の「元帥」にまで昇り詰めます。

 国民からは「ヴェルダンの英雄」と讃えられ、どこへ行っても喝采を浴び、独身だった彼は、なんと64にして父娘ほど歳の離れた女性(42)と結婚。

 まさに“我が世の春”を謳歌します。もう歳も歳ですし、このまま満ち足りた豊かな老後生活の中で天寿を全うするかに思われました。

 しかし、ここから彼の転落が始まります。

 一線を退いたあとは隠居でもしていればこんなことにはならなかったのでしょうが、その後も「陸軍最高顧問」という肩書を得て、陸軍の方針に口を挟み続けたのが、のちに彼の人生を狂わせます。

同じ相手に、同じ手は通用しない。
 彼は、自分の成功体験から、独仏国境に強大な要塞建設を支持しました。所謂「マジノ線」です。時代は常に進んでおり、特に手痛い敗北を喫した側は、死に物狂いで敗因を研究し尽くし、対策を練るものです。

 今回勝てたからといって、同じ手で同じ相手に臨むならば、必ずや手痛い敗北を喫することになります。勝ったればこそ、より一層研究を尽くして、相手の対策の上を行く戦略をあらかじめ練っておかなければなりません。「勝って兜の緒を締めよ」とはこのことです。ところが、すでに老境に入っていたペタンにはこうしたことがまったく理解できませんでした。

 人間は歳を取れば取るほど、新しいものを受け容れる能力が衰え、過去の古いやり方がそのまま未来にも通用すると思い込んでしまいがちです。それが「老害」です。

 要塞さえあれば、たとえ将来ドイツ軍が津波の如く攻め寄せようとも、縦深陣地戦術で敵を破ることができる!

734とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:31
>>732-734
 同じ手が通用するのは、敵がよほどのマヌケの場合だけです。しかも、要塞というものは、爆撃機が存在しない時代の遺物です。空から雨あられと空襲を受けたのでは、要塞は護り切れるものではありません。ペタンはそうした時代の動きが見えない“老害”そのものとなっていきましたが、イメージ先行の国民はペタンに期待し続けるという悲劇が生まれていました。

そして売国奴へ
 やがて、第二次世界大戦が勃発します。軍事予算の多くを傾けて造りあげたマジノ線は何の役にも立たず、ドイツ軍はあっという間に英仏連合軍を駆逐しながら、首都パリまで快進撃しました。「嗚呼、もう駄目か!? なんのなんの、ドイツ軍など恐るるに足らず!こっちにはまだ『救国の英雄』ペタン将軍がおられるのだ!」

 こうして、英雄(ペタン)が担ぎ出されます。しかし、このときすでに84歳となっていた彼には、ヒトラーと戦う戦術もなく、気力すら残されていませんでした。

 20年前、“救国の英雄”だったペタンは、そのころ名もなき敗軍の伍長にすぎなかったヒトラーの前にあっけなくその膝を突くことになりました。ペタンは戦後、「売国奴」として裁判にかけられたときに述べています。

「ヴェルダンの功によって、私の軍事的精神は鎖されてしまった。戦後、新しい道具、新しい兵器、新しい戦術が次々と発明され、導入されていったにもかかわらず、私はそれに無関心だったのだ」

 彼が19世紀の軍事知識のまま、20世紀の新しい戦争に対応できず、「時代に取り残された」故の悲劇でした。

 しかし、彼の場合、第一次大戦終了時にすでに老齢でしたので、それ自体は責めることは酷かもしれません。

 彼の罪深きは、先進の精神を失ったこと自体ではなく、それを自覚できず、いつまでも新時代に口を挟んだことです。

老いては「子」に従え
 たとえ若いころどんなに優秀だったとしても、人は老いれば、多かれ少なかれ頭が固くなり、時代に取り残され、古いやり方に固執するものです。

 それは、「常に状況の変化に応じて、臨機応変に対応する」ことができなくなることを意味します。

 したがって、彼は事後のことは潔く後進に譲るべきでした。ペタンは、死刑判決を受けたあと、当時の大統領ド・ゴールによって罪一等を減じられ、無期禁固刑に減刑されます。

 そして、死刑判決から5年後。彼は流刑地の孤島で淋しく人生を終えました。享年95。彼が道を踏み誤ることなく、後進に道を譲っていれば、豊かで充実した余生を送り、現在に至るまで「英雄」として讃えられ続けたでしょうに。

735とはずがたり:2016/02/25(木) 21:16:37

こんな組織があったのか。

軍事参議院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2

軍事参議院(ぐんじさんぎいん)とは、大日本帝国において、帷握の下に在って重要軍務につき天皇の諮詢に応じる国家機関である。1903年(明治36年)に設置され、1945年(昭和20年)に廃止された。
軍事参議院は、天皇の諮詢を待って、参議会を開き、意見を上奏するものとされて、独自に活動することを禁じられた。なお、陸海軍互に相関繋しない事項については陸軍または海軍のみの参議官を以って参議会を開くことが認められていた。

というか,この声明出したのこの組織の協議の結果だったのか。。

事態の収束を図るために軍事参議官も非公式に会議を開き、次の陸軍大臣告示(昭和11年2月26日)が発せられた。
陸軍大臣告示(昭和11年2月26日)
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ待ツ

736名無しさん:2016/03/19(土) 15:34:38
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2016031600745
沖縄の苦難忘れず=菅官房長官

 菅義偉官房長官は16日午後の記者会見で、太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった住民の遺族らによる損害賠償請求が棄却されたことについて、「国の主張が認められた」とした上で、「沖縄が先の大戦で悲惨な地上戦を経験したという苦難の歴史を私たちは忘れてはならない」と述べた。(2016/03/16-17:11)


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