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哲学・宗教質問箱

95KAORU:2006/10/10(火) 12:07:27
B16がくれたもの
古川様、あんとに庵さま、竹下先生。B16の発言に関する皆様のやりとり、勉強になります。
しかしながら(古川さんの疑問に答えることになりますが)、ものすごい論客たちを前にして話すべき内容を持ち合わせていないというか。
ただ、古川さんの『教皇として発言は慎重であるべきだった』というところは分かる気がします。どっかの知事が大学などの講演でこんな発言をしてた、というのを批判する記事はよくあるし、それを読んで私たちはいろんなことを判断します。でも、もちろん、皆さんのおっしゃるようにだからといってそれを暴力に結び付けてはいけないと思います。
B16の発言について、新聞などではほとんど詳しい内容は分かりません。たぶん私が読み落としているだけなのだと思うのですが、新聞を軽く読む限りでは『教皇の発言が一部のイスラム教徒に批判されて教皇は遺憾の意を表した』ぐらいにしか読めませんでした。だからマスコミの報道の仕方がおかしいというお話もなんだかピンと来なかったです。ただ、私はマスコミというものについてあまり信用していないので(つまりその報道の仕方は往々にして偏りがあり、世論を煽ろうとする傾向もままあると思っているので)、これがとても興味のある話題であったならいろんな方面から調べただろうなぁとは思います。そして、マスコミを判断する材料をまた増やしたことでしょう。
で、私は、宗教の世界もこの掲示板のようにガシガシ言いたいことが言えたらいいのにと思いました。暴力とかじゃなくて、例えとっかかりは揚げ足取りだったとしも、こんな風な言葉によるバトルはいいことではないかと思います。いろんな立場の人がいていろんな考え方があって、立場を変えればこうなるんだなぁ〜って考える想像力ってとても大切で、それがなければ互いに寛容になれはしないですよね。暴力のない平和な世界を築くためのキーワードのひとつは寛容ではないかと思っています。
なんだか、脈絡のない文章でスミマセン。自分で言いたいこともよく分かってないし、それにも増して文章力がないんですけど、私も何か書きたくなっちゃって口を挟みました。
考える機会を与えてくれたB16に感謝です。

96古川利明:2006/10/10(火) 21:53:38
相変わらずよくわかりません
 皆さんの書き込みを読みながら、非常に世の中の現実から遊離しているなあと感じます。まあ、竹下さんはジャーナリステックなところもきちんと踏まえているので、たぶん、今度の教皇発言問題が、どういうところで世間を騒がせているかというのはわかっていると思います。教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。すごく私は、とりわけ左派的な市民運動にありがちな独善性と排他性を感じます。「反戦平和」だとか、「憲法改悪反対」だとか、誰の目から見ても文句がつけようのないフレーズを、目を吊り上げて言って、それで満足しきっているっていうのか(そういうのは、案外、女性が多いですよね。でも、別に女性一般がすべてそうだとは全然、思っていませんので、念のため)。たとえ説教のうちの全体のごく一部であれ、あのムハンマドの引用に、どうしてイスラム系の人たちが過敏に反応してしまったのか、そこに目をやって考えてみようとする精神のしなやかさと、想像力が欠けているのではないかと、私は思います。まあ、「マスコミ報道は低劣だ」と言うことで、自己を正当化するしかないんでしょうが、そんな姿勢でいると、より世の中から遊離してしまいますよ。なんていうんですかねえ、もう少し「清濁合わせ呑む」ようなキャパを期待するのは、私のないものねだりというものなのでしょうか(苦笑)

97Sekko:2006/10/10(火) 23:57:49
あるジャーナリストの死
 日本では多分北朝鮮の核実験(地震とか誘発しないのですか?)のせいで目だっていないと思いますけど、先週末、チェチェンを支援しプーチンの批判をしていたロシア人女性ジャーナリストが自宅の前で銃弾を4発受けて暗殺されました。都合の悪いことを言われたら力で圧殺、ペンを剣で斬って捨てるというのは、宗教原理主義だけではありません。
 「教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。」と古川さんは書いておられますが、これが誰が聞いてもごもっともでないところが問題なんですよ。「隣人は牽制、うちだけが大事」、「民族、宗教が違うと連帯なんて不可能だし、する気もない」、と思う人のほうが多いし、動物としての生存戦略としてもほとんど自然です。
 そこを、あえて「不自然」な理想を唱えるのが宗教家だの「左派市民運動の女性」だのだとしたら、それは貴重なのではないかと今は思います。私も「市民運動家」とか風紀委員とか委員長みたいなのって苦手だったのですが、この時代、もしあらゆる宗教のリーダーがそろって「汝の隣人を愛せよ」と信者に言ってくれたら嬉いですよ。ローマ法王、あんたが目を吊り上げて暴力を糾弾し平和を唱えなくてどうする。
 清濁併せ呑むキャパばかりが支配すれば、目を吊り上げて清を唱える人はいつの間にやら濁から殺されるのです。
 まあ、実際の戦略は、突撃で解決するものではなく、交渉、取引、妥協とか、雌伏とか、いろいろやらざるを得ないのは当然ですが、それこそ、役割分担の妙があってもいいと思います。宗教家と称する人は、神の名で人を殺さず、理性と愛が大事と説けばいいし、感情をむき出しにして市民運動をする人や、ヒューマニズムに駆られて戦地に赴き人質になって国に迷惑をかける人がいてもいいのです。そんな人がまったくいなくなっちゃったら、その方が怖いですよ。だって、「清濁併せ呑む」技は、それこそ微妙なバランス感覚を研ぎ澄ませ続ける必要があって、「清」や「濁」に振れる人あってこその高度な技ですから。そして、「清」に振れる人を揶揄するより、「濁」に振れる人をきっちり批判しましょう。
 まあ、古川さんの言ってること(相変わらずわかんないと言ってること)はなんとなく分かりますけど。でもまあこの話題はこの辺ですね。考えるタネに移民と奴隷の話を近くUPしますので、それについてまた感想を聞かせてください。

98聖アシジのフランシスコ(前世):2006/10/30(月) 01:38:55
本来の環境保護に目覚めましょう。
私の独り言2006/最終内容。より多くの人に愛が届きますように!
これから私が話すことは、ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
何が正しくて、何が違っているという内容ではなく、まず私の主観をおつたえします。経済そのものが生きずまり、大変な状況のように思えますが、
景気も回復し大丈夫のように見た目ではそう思います。しかし、地球環境からして考えるに、起こっている社会の実態とスクラップ・アンドビルドは
個々の気づきを促し、それぞれのカルマが刈り取られ成功しているようにみえます。しかし、地球環境=経済の実態は密接な関係にあります。用は
日本国内においては多くの人が無駄に働き(非効率)、環境を破壊しながらエネルギーを生産、それを稼ぐために余分に働いているのが実態です。
神から出た無限のエネルギー(ソーラーパネル)は活用されず、金儲けの手段に成り下がり、豊かな国であるはずなのに、貧乏を好んでいます。
多くの国で稼いだお金は預金され、金が金を生むと金貨極上のごとく信じています。
無限のエネルギーを活用しなかったら、今後必ず、危機を生むことでしょう。
私が思い、涙が出てた内容は、悪の連鎖の行き着く先は、地球の崩壊はもとより宇宙の崩壊にいたることでいす。今の宇宙は7度目の宇宙です。
近隣の惑星の方に迷惑をかけることとなるでしょう。
全人類のカルマを日本人が全て刈り取るか、そのまま見ていて、最後の審判を拡大させ、多くの方の命を消し去るか。地上に天国を作るか、多くの人を本人が気づくまで待つて手遅れになるかです。
多くの富を抱え込んだまま、滅んでいく日本の姿は、世界の7不思議となるでしょう。
地球環境から見てもう時間がありません。お金もうけで地球は救えないのです。
まずは地球あっての、各個人のカルマの刈り取りが可能であり、地球あっての審判です。
スクラップ・アンドビルドとは悪の国アメリカのやり方です。
神の国日本は、創造的・破壊です。言葉の通り受け止めるべきだと思います。
創造が先です。でなければ、悪のエネルギー連鎖反応がおこり、その後は誰にも止められません。
経営上はスクラップ・アンドビルド有効です。
しかし、地球を消し去ってから取り戻せないと思うのです。


私のような若いものでも、財政赤字、北朝鮮核問題、省資源、過労働、殺人、犯罪。これらのすべての原因は一つだとわかります。、神の無限のエネルギーの蛇口をひねれば、地球は救われるのです。自分たちを救う前にまず地球が先です。地球あっての私たちです。ファチマ第3の予言も、因果の理法、エネルギー連鎖反応からして、地球の最後を女性の宇宙人が通告した内容です。
タイムリミットは、マヤ暦が終わる2012年12月22日、このタイムリミット地球崩壊をさすものではありません。
しかし、地球が崩壊しないとも言い切れません。私たちの未来は不確定性理論です。
これらのことは、地球に住まわせてもらっている私たちと宇宙との約束事です。
その約束を果たす時が来たということです。

ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、またある人には、生活には困らない。ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
ですから、人の話は、半分聞いておいてください。全てを信じたらだめです。あなたらいしすばらしい個性が無くなるからです。
あなたの良きインスピレーションにお役立てください。

一消費者より、無限の愛をこめて。

99Sekko:2006/10/30(月) 05:30:07
これ何ですか?
下のこれって、「宗教」というキーワードに反応して来るスパムですか?
それとも、善意の警告メール? 「私のような若い者でも」とあるから若い方なんですね。
どうかもう少しリラックスして楽しいことを考えたりしてみてください。「無限の愛」ありがとうございました。

100:2006/12/26(火) 02:26:14
Massimo from Amsterdam
Shu no go-koutan oyobi shin-nen no o-yorokobi moushi agemasu. Watakushi wa ahita kara Roma de shin-nen o sugoshi masu. Takeshita-sama no rainen no go-takou to go-katsuyaku o o-inori moushiage masu.
Koko suujitsu, watakushi wa, "ika ni shinu ka?" to "ika ni ikiru ka?" itsuite kangaete imasu. Kitto sono hutatsu wa onaji koto ka, arui wa sugoku chikai mono dato omoi masu.
Tanoshii kyujitsu o!

101Sekko:2006/12/26(火) 08:36:16
よいお年を
 ローマでお正月、いいでしょうね。私は、母と石垣島でお正月です。私は沖縄は初めてです。3年前に私の息子が母に那覇での正月をプレゼントしたので、今度はもっとディープなところになったみたいです。
 今、聖ヨセフについての本を書いているんですが、聖ヨセフはカトリックで早いうちから「善き死」の守護聖人だったんですよ。死のシーンは福音書には出てこないんですが、聖書外典などを通してすごく有名だったんですね。イエスは彼の実子じゃなさそうだし、妻ともセックスレスの関係だったとされていて、普通に考えたら味気ない人生にも思えるんですが、血縁とか結婚じゃなくても、他者(聖母子)の人生に親密にかかわって他者の命の役に立てたということで、生と死が充実して完結したのかもしれません。イエスの生と死はそれをさらに先鋭化したと言えるのかも。血を分けた子を得て自分の財産を継承させたいなんていう願いの方がよくあることですが、そんな基準をぶっとばしている彼らが「聖家族」としてキリスト教社会のモデルになっていたことって、なんか新鮮だなあとこのごろ思ってます。
 いかに生きるかといかに死ぬかは一続きなんでしょうけど、そしてキリスト教の伝統の中には善き死の準備みたいなのがずっとありましたが、事故とか天災で死ぬこともあるし、終わり方はなかなかコントロールできないと思うので、とりあえず生き方にポリシーを持っとくべきだなあ、とか思ってます。

102:2007/01/08(月) 22:24:33
S.Etienne
Sei Joseph ni kansuru go-hon o kaite orareru tono koto, totemo tanoshimi desu.
Joseph to iu sei-ja wa chimei-do no takasa no wari ni minkan shinkou no level dewa jimi na sozai to iu ki ga shimasu. Gensei-teki na gan-kake niwa imahtotsu yowai youna....
1962nen ni toki no houou JohnXXIII ga missa no shiki-bun no naka de sei-jin namae o rekkyo shita inori-bun (Communicantes)??ni Joseph no namae o kuwaeta toki no kyoukai naibu no han-nou mo sorehodo ookiku nakatta youdashi.
Sonna jimi na kare no shirare zaru bubun o, mata sude ni shirarete iru bubun mo atarashi shiten de shoukai shite itadaketara kitto tanoshii deshoune.
Tokoro de, Watakushi no temoto ni Etienne to iu sei-ja no sei-ibutsu ga arimasu. Kin-iro no youki no chuuou no garasu goshi ni sono hone to nahuda(?) o miru tabi ni "Ittai donna hito?" to omoi, kensau suruto machi no namae shika dete kimasen.
Sokode shitsumon desuga, Takeshitai-sama wa sonna sei-jin kiita koto arimasuka? Moshi?? St.Etienne ni tsuite nanika go-zonji deshitara oshiete kudasai.
Yoroshiku onegai itashimasu.

103Sekko:2007/01/09(火) 13:04:14
St.Etienne
サン・エチエンヌは、町のサッカーチームが強いので、検索しても真っ先に町の名が出るんでしょうか。でも、すごくメジャーな聖人というか、使徒です。最初の殉教者といわれる聖ステファノ、ステパノのフランス語読みです。石打刑で死に、使徒言行録に書いてあります。聖人の名はヨーロッパ各国でそれぞれ読み方が違いますが、(ペトロがピエールとかピーターとかピョートルとかパブロとか・・・)確かに、ステファノとエチエンヌは想像つきませんね。ステファノは有名だから、フランスにもステファンヌという男の名があります。Stephanと書くんですが、an はフランス風鼻母音でなくアンで、フランス人は「ン」をうまく発音できないので、ステファヌと聞こえます。ドイツならシュテファン・ツヴァイクとかいますよね。英語圏ならStephen となり、ステファン・キングとか。とにかくメジャーな名です。フランスではエチエンヌもステファヌも女性名っぽい響きですが、一応男性名です。女性ならStephane と語尾にe がつきますが発音は同じですね。なぜ、ステファンがエチエンヌなったかという音韻変化の話はまた別のことです。Massimoさんが最初の殉教者の骨を持ってらっしゃると想像するのは楽しいですね。

104:2007/01/09(火) 21:21:17
Bikkuri shimashita
Sou dattn desuka. Etienne wa Stephen datta towa souzou mo shite imasen deshita. Benkyou ni narimashita. O-tazune shite yokatta desu. Totemo kuwashii o-kotae o arigatou gozaimashita.
Jitsu wa, nafuda niwa tsuzuki ga atte, "S.Etienne de Mur???" to aru node, sakihodo "stephen" no keyword de kensaku shita tokoro, kare wa St.Stphen of Muret (St.Etiennede muret) to iu10seiki no shikyou datta koto ga wakari mashita.
Saishyo no junkyou dewa nakatta keredo, mattaku betsu no jidai, betsu no bashyo de ikita hito no jinsei no konseki to kakwatte iru nnoga totemo fushigi na kanji desu.
Itsuka St Etienne no yukari no chi o otozurete, jimoto no kyoukai ni sei-ibutsu o kizou dekitara kuyou ni narukana, nadoto kangaeru watakushi no seishi-sei wa kanari nihon-teki desune.

105ふじやさだすみ:2007/02/09(金) 08:19:10
不思議の国
サウジアラビア」読了。P.187[常住坐臥」は行住坐臥では? 然し、坐臥に常住はアラビアならでは。ともあれ、ペラペラに軽い著作の濫発は玄侑宗久に変る所無し。HPが派手な所も共通。とはいえ、開けて看る様では、やはり浮薄。慙愧。

106Sekko:2007/02/09(金) 18:30:56
ミスです
 ご指摘ありがとうございます。タイプミスによる誤変換がそのまま通ってしまったケースですね。残念ながら、どの著作にもこのような単純ミスはもちろん、勘違い、思い違いを含めいろいろなミスがあります。こちらで把握してるものも読者に指摘してもらったものもあります。重版で訂正できたものもありますが、いずれ、正誤表をこのサイトに載せるつもりです。単純ミスはまあいいのですが、事実関係の誤認もたまにあって、申し訳なく、気になっています。ミスに気がついた方は、質問箱ではなく、著作紹介の感想コーナーに入れてください。正誤表に反映させます。なお、この質問箱では、人生相談などはOKです。このサイトは、ネット上の健康相談に感激した後、自分も質疑応答のボランティアができたらという動機から作ったものなので、そのへんをよろしく。

107Greencurry:2007/02/10(土) 21:38:17
合格祈願
こんにちわ。いつも楽しく拝読しています。日本は今受験シーズンです。この時期に神社などへ行くと「合格祈願」だとか「合格お守り」だとかの文字がよく目に付きます。
で、ふと疑問に思ったのですが、キリスト教の方々は目的に応じて行く教会を選んだりするんですか?「聖女の条件」の中でリタを聖人としている教会に訪れる人が多いというお話は載っていましたが、例えば私なんかは学問の神様は菅原神社、病気平癒ならここ、縁結びはあっち、という風にいろいろ使い分けていますが(←神様に失礼?)そういうことをキリスト教徒の方もするのですか?
私は聖人の話を読んで、日本の神道の神様みたいだなぁと思いました。聖人も神様も得意分野があって、それにあわせて人々に利益を与えている感じがして。
でも、フランスでどこの教会へ行っても、神社のように看板があって「聖人:○○、○○に効きます」なんていうのは見たことないし。日本のように気軽な感じではないのでしょうか?

108Sekko:2007/02/11(日) 03:27:14
聖人について
 キリスト教(といっても特にローマ・カトリックの話ですが)の聖人信仰は確かにそれ以前にあった多神教の神々を置き換えた面があって、得意分野別というのがあるにはあります。そして、その分野別やら、また自分の洗礼名や出身地や職業などの守護聖人をひいきにして祈願するというのはよくあることですし、この病気にはこの聖人が効くという本なんかも出ていますから、気軽に(あるいは必死に)祈ってる人もいるでしょう。別にその聖人のチャペルのあるところに行ってろうそくを捧げなくてはいけないということもないです。でもそうしたら、もっと「効く」ような気がするのは東西を問わず同じですね。ただ自分と相性のいいマイ聖人を信仰している人もいます。詳しくは『聖者の宇宙』をご覧ください(今年中に文庫化される予定あり)。
 それで、話の核心はこれからです。実際、困ったときの神頼みという民衆のレベルでは、自助努力や自己責任のピューリタンや無神論者と違って、カトリックの人や大多数の日本人は、まあとりあえず祈願しとこう、いいということには何でもすがろうという、同じ行動をとります。でも、今は21世紀、ちょっと考えたら、合格祈願することでみんな合格するなら試験は存在しないようなものだし、年に一回5円や10円の賽銭を投げてすべての人が学業成就とか病気の平癒とか商売繁盛とか、機会均等にかなえてもらえるとは、だれもすごく真剣に信じてませんよね。この辺のあまりのムシのよさというのを、みなどう処理しているのか、あえて考えないでスルーしているのか、私はいつも疑問でした。初詣の人ごみの中で、中には病気の快癒など真剣に祈って千円札を投げている人もいるのに、私のどうでもいいような願いを神が気にとめるはずがない、優先順位というものがあるはずだ、あるいは人事を尽くして天命を待てというように、まず努力をし尽くしてどうにもならなかった人が救われるべきだ、となんとなく思っていたのです。
 ところが、キリスト教の聖人信仰には、その基盤に「代祷」というのがあるのです。その根拠がはっきり現れてるのは旧約のヨブ記の42−7〜9 です。簡単にいいますと、ヨブは神の前にすごく善人で、彼の3人の友人たちは、悪いやつなんです。それで神は悪い友人たちに腹を立ててます。当然彼らは神に懲らしめるだろうと思いきや、神はこういいます。「私はお前たち3人に対して怒っている。・・・・しかし、今、雄牛と雄羊を7頭ずつ私のしもべのヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえを捧げれば、私のしもべヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。私はそれを受け入れる。・・・お前たちに罰を与えないことにしよう。」そして彼らはそれを実行し、神はヨブの祈りを受け入れました。
 分かります? 神の怒りをかっている悪いやつでさえ、聖人にとりなしてもらえたら、助かるんです。代祷システムとはこういうことです。そこを踏まえないと、何か、聖人信仰は多神教みたいでまずいから、ヒエラルキーをちゃんとするために、聖人に祈るのは聖人を通して神の恵みを祈っているという建前にして一神教の筋を通してるんだろうとか考えがちです。でも、代祷の本当の意味は、救いに値しない罪ある者も聖人の徳に免じて(あるいは便乗して)救ってもらおうというところなんです。日ごろ何の努力もせずに自業自得で窮状に陥った、日ごろ神に感謝を捧げていたわけでももちろんない、常の行いも正しくない、むしろ、後ろ暗いところがあるし、たたけば埃も出る、そんな人が、それでも、願いをかなえてほしい、と直に、神に祈願したらどうなります? なんか、だめに決まってるというか、やぶへびで、罰が当たりそう、大体、今の窮状がすでに神に下された罰だったりして・・・ と私なんか思っちゃいます。
 そこで、聖人の登場。私はこの通り、救いに値しない人間ですが、聖人さま、生前苦労をしのび、神に仕え、我欲を捨てたあなたさま、ちょいと神さまに無理をきいていただけませんでしょうか・・・・というのが、代祷のプロセスなんです。これ、わりと好きです。自分が神の覚えがいいとはとても思えないけど、仲介人として評判のあの聖人に頼めば・・と、もちろんこれもムシがいいんですが、それなりに腰が低い。祈願の根底には、どこかに謙虚がないと落ち着かないと思うんです。そうでないと、お金がほしいと神に頼んだ、帰り道で1万円拾った、わーい、ラッキー、ということになり、ラッキーは自分の幸運で、別に神に感謝という心につながらない(というか、1万円ネコババしていいのか?)。ともあれ、「神と私」ってなんか勝手に特権関係を幻想して、願いをきいてもらえて、とか思い込むより、全然へたれの私、ツールとしての立派な聖人、ルールとしての祈りや捧げ物、その向こうに立ち現れるかもしれない神、コミュニケーションとしての恵み、という複合した関係がいいなあと思うんです。
 ちなみに、それでは、凡夫は祈りにおいて、ひたすら聖人に便乗してればいいのかというと、それはたとえばこう言われております。イエズス会のルイ・ブルダルー(1632−1704)という人がその著作『万聖節の説教』という本の中で、「神は、天国にいる聖人たちに、地にいる信者のために祈るように命じられた。そして、地にいる信者たちは、煉獄で苦しんでいる死者たちのためにとりなしの祈りをするよう命じられた」と言ってます。つまり、生きてる人たちは、罪を重ねつつ、聖人にとりなしてもらうことで、なんとか生き延びていますが、死んでしまうとさすがにこれまでの悪行があるので、天国へ直行というわけにはいかない、煉獄で、懲役みたいにお勤めしています。それを見越して、生き残った人たちが、死者のその刑期が短くなるように祈るのです。これは直接神に祈ってもOK。なんといっても自分のことじゃないから、無私の徳で効果も期待できます。日本の仏教で、生前何の戒律も守らず煩悩に溺れて殺生しまくっていた人たちが、死ぬとあわてて戒名をもらって、49日の中宥の期間に、残された人たちががんばって回向して供養して、晴れて成仏してもらうというのと似てます。カトリックの死者もこうやって、煉獄から出してもらって、無事天国にたどり着き、今度は自分も聖人の端くれとして、生きてる人の祈願のとりなしをする側に回るわけです。祈りの連鎖、救いの連鎖です。
 人は自分のためには有効に祈れない、という感じがします。いつも他人のために祈り、また自分のためには他者や、聖人たちが祈ってくれる。「神と私」ではなかなか無理な気がするし、他のもっと必死な人や有徳の人の「神と私」にまけそうな気がする、しかし、自分の犠牲や自分の善行を他の人のために役立てるのなら、少し有効かも、と思えます。祈りや恩寵は、こうしたネットワークの中で大きな力を持っていくのかもしれません。
 自分のことはできるだけ自助努力、困ってる人、苦しんでいる人、死んだ人たちのためには祈る、利他の祈りなら有効だと信じる、これはすなわち、聖性というものを認めるということです。たとえ普段は聖性と正反対の生き方をしていても、聖人がどうして神の覚えがよいのかをみんながどこかで納得している。利他を聖として認める、こういうスタンスがすきです。

109:2007/02/18(日) 06:06:28
Amsterdam kara
"Katazukeru beki shigoto ga takusan ari, karada no guai mo waruku nai noni guzuguzu daradara to sugoshite jiko-ken-o ni naru toki ga aru."---'Barokku ongaku wa naze iyasunoka'??182page--
Masashiku koko suu-shuukan no watakushi no shinkyo desu. Tabun Oranda no tenki sei deshou ne.
Jitsu wa 3 shuukan mae ni, hisashiburi ni Paris de shuumastu o sugoshimashita.
Nichi-youbi niwa, yuujin ni sasowarete St.Gervais St.Protais Kyoukai no missa ni shusseki shimashita. Fransu-go ga wakaranai nagara mo jikken-teki na reihai wa srenari ni omoshiroi mono deshita.
Hontou wa, watakushi hitori de Raten-go (latin) no missa ni yuku tsumori??de imashita. Watakushi ni totte Fransu-go yori wakari yasui koto mo saru kotonagara, dentou-teki na Raten-go no missa wa esoteric na miryoku ga arimasu.
Oscar Wilde no "The Picture of Dorian Gray" no naka de, Dorian ga Katorriku no tenrei ni miryou sareu byoushya ga arimasu ga, choudo ano youna kanji o oboe masu.
Motomoto mizoku-gaku (folklore) ni kyoumi ga atte,kirisuto-kyou ni kagirazu shuukou-girei o miru nowa suki nano desu ga, sore towa betsu ni, Takeshita-san no "Seijyo no Jouken" no naka de shoukai sarete iru, Garia-tenrei no St.Rita kyoukai ya, Quartier Latin ni aru St.Nicolas du Chardonnnet kyoukai nado, koshiki ni nottota reihai ga totemo suki desu.
Fransu dewa, dentou-teki na tenrei ni kan shite dokuji na kangae kata ga aru you ni kanji masu. toki niwa??sono utsukushi-sa no tame ni Uyoku (Right wing) no propaganda ni tsukawaretari...
Soko de shitsumon desu ga, Takeshita-sama wa dento-teki na tenrei (reihai) ni tsuie don-na fuu ni o-kangae desuka? Kore, jitsu wa mae kara ukagatte mitakatta koto desu.
Itsumo nagara yominikui roma-ji deno shitsumon go-youshya kudasai mase.

110Sekko:2007/02/18(日) 21:18:19
ラテン語ミサについて
 どうも、バロックの本から変なとこ引用しないでくださいよ、ぐずぐずだらだらなんて、誰のことかと思ったら、私なんですね。赤面。今はそんな生活卒業、といいたいところですが、今もだらだらモードは基本で、もともと脱力系なんです。しかもだんだん猫化して、自己嫌悪もなくなりつつあります。
 それで、ラテン語典礼ミサですね。『ドリアングレイの肖像』を例に引いておられますが、私の場合は、仏文に近くてキリスト教に興味を持った普通の日本人ならかなりの確率でそうだと思いますが、ユイスマンスの『出発』(田辺貞之助さんの訳あり)に出てくる、カトリックに改宗したユイスマンスの分身であるデュルタルという主人公がこれでもかこれでもかと書く、パリのサンシュルピスやサンセブランの典礼の美しさに強い印象を受けました。彼は礼拝の華麗さの中に神の恩寵とか召命とかを聴くのですが、まあ美に淫しているのと霊的幻想を自分で統合した面もあります。
 個人的には、音楽や歌が充実してる礼拝はもちろん好きです。と言うより、全然自分で歌うチャンスのない典礼って苦しいのではないかと想像します。特に修道会なんかで、来る日も来る日も、日に何度も聖務があるとしたら、コーラスの充実してるとことか音楽への関心の高いとこを基準に選ばないと私には無理です。もし自分で修道会を作るとしたら、フランス・バロックのモテットとかを駆使した、歌手や楽器奏者の充実した典礼にして、収入源は修道者による音楽教授とコンサートにしたいです。私がこういうと、そこに入れて、という仲間が何人かいました。そういうバロック時代のモテやミサ曲はみなラテン語ですから、そういう意味では当然ラテン語に親近感があります。また日本からルルドに来る人に、ラテン語で祈ると他の巡礼者と共通語になり、連帯感ができてうれしいという話も聴きました。隠れキリシタンのオラショとか、ラテン語の名残をきっちり伝えてて感動ということもあります。
 そういうことは別として、私は古式豊かなミサを特に探していくということはないです。ミサ曲のコンサートには行きますが。なぜなら、やはり、フランスでは、B16になってからやや変わりつつあるわけですが、ラテン語ミサ=教条主義者という図式があって、そういうとこに集まる人には違和感を感じ、警戒心を覚えるからです。何ごとも、「こだわる」と「とらわれる」ことになりがちで、そこに単なる美意識だけでなく宗教心が加わると、なおさらやっかいだと言う認識もあります。
 第一、典礼だけ言うと、カトリックよりも東方教会のほうが壮麗豪華なものが多いですし、実際、清貧の中で福祉活動をしているパリのカトリックの修道院でも、礼拝は東方教会風で「この世で天国を垣間見る」風の立派なものにこだわっているところもあります。また、貧しい国の教会も、儀式の壮麗さで非日常的な祝祭空間を提供し、信仰心の支えとなっているところもあります。時代や場所や、人それぞれの欲求に応じていろいろなチョイスがあるのがいいのかもしれません。私の個人的な状況では、戦争も飢饉もない場所で、劇場にも美術館にもアクセスのいい年中祝祭のような大都市でばかり生活してきたので、宗教にまで美を要求しようとは思わず、典礼はニュートラルでシンプルで分かりやすくてさりげないのでOKです。その点フランス語の普通のミサは日常と乖離してないのでナチュラルかなあと思います。日本語のミサは翻訳のカタカナ世界で外界と比べて特殊感が残るかもしれません。文語の祈りとかはそれなりに伝統感があって好きですが、一度イグナチオのフォークミサに顔を出しましたが、美的には「けっ」という人もいますが、私は何でも歌えたら好きです。要求水準が高くありません。後は、massimoさんと同じく、フォークロリックな興味はすごくあるので、そういう意味では、ローカルでディープな典礼を拝見するのは大好きです。
 でもスピリチュアルなものと美しいものを結びつけようとする人間の心理は重要な意味を持っていますね。真善美が一体化するという直感はすてきですが、それがまた真善美原理主義みたいなものに傾かないよう要注意かなとも思ったりします。

111Greencurry:2007/02/23(金) 00:40:11
聖人のお話で
Sekko様、ご回答ありがとうございました。(って、いつの話〜?!という感じですが。すみません、なかなか時間がとれなかったのと、あまりのご名答に頭が固まってしまいました。。。)
で、拝読して、連想したのですが、仏教においてのお地蔵様の役割です。あまり仏教に詳しくないので確かではないのですが、お地蔵様は衆生を天国(?)へと導いてくれる存在らしいです。
なんでも、悪いことをして閻魔様によって地獄行きを決定されたときなども、「そこをなんとか」と閻魔様をとりなしてくれて、地獄に落ちないように努力してくれて、「今度は正しく生きるのやぞ」と導いてくれるそうなのです。
あと、ダライ・ラマ法王さんがよく「慈悲の心、利他の心」と言ってます。
人を救うのは常に慈悲の心なのかなぁと思いました。
ありがとうございました。

112:2007/02/24(土) 21:07:43
聖霊
Sekko様、「ヨーロッパの死者の書」「聖女伝」「聖者の宇宙」を読んで啓発されることが多く、とても感銘しました。
ところで質問ですが、イエスの死の後で使徒や信者に自分たちの信仰に確証を与え、勇躍困難な伝道に赴かせた最大の原因となる事件は、五旬祭における聖霊降下の体験だったと思われます。そして使徒たちは、その後の伝道において、聖霊を受ける体験を重視し、祈りや按手などで、信者に聖霊を受けさせようとしたことが使徒行伝からわかります。
しかし聖霊を受ける体験は、その後次第に下火になっていったようです。その理由はどこにあると思われますか? またその経緯に関する研究がありますか?
このことは、その後三位一体説によって聖霊をいわばイエスに限定しようとした問題含みのニケヤ公会議、そのなかに聖霊への言及がない信者信条を定めた第2回公会議への流れと密接に関係するように私には思われます。
さらに聖霊との直接接触を望む聖者願望者を修道院に囲い込もうとしたカトリックの方針とも多分関係するでしょう。

113Sekko:2007/02/24(土) 23:55:52
聖霊について
 なかなか微妙な問題です。特に近頃、たましいがどうとか前世がどうとかという言説が日本で無批判に出まくっているので、「実証不可能なこと」との関係性についてすごく気になってます。「実証不可能なこと」、たとえば先祖霊の姿とか聖霊とか守護天使とかオーラとか、そういうのを信じること自体は人間性の一部だと思ってます。自分が霊に接触したとか御出現を見たりお告げを聞いたと信じることも、人間の認知のメカニズムから言っても、大いにあると思います。でも、ある特定のAさんにだけその能力がありAさんの言うことだけが真実だと、Aさんでない多数の人に信じさせるのは、組織や制度の問題だと思うんです。
 西方カトリック教会に関しては、はじめは使徒による洗礼を受けていない人には後から使徒が按手して聖霊を与えるというやり方から、聖霊は堅信(confirmation)にシフトしていきました。
堅信の歴史については研究書があります。洗礼でも聖霊パワーをもらえますがそれは神の子にしてもらえることで、その後「霊的な成熟」を経てから、堅信式で司教によって、キリスト者の使命を果たせるように聖霊パワーをもらいます。聖霊の七つの賜物といって、イザヤ書(11.2−3)にインスパイアされたもの(知恵、分別、力、思慮、勇気とか)を受けることになってます。
 とにかく制度化された聖霊の授与はこの司教による堅信式がメインになっていて、これについては司教が聖霊の授受を管理しているわけです。その他に、確かに、気のように、宇宙エネルギーのように遍在している聖霊のイメージも確かにありますが、組織できない個人の体験は、普通は「実をもって木を判断する」と処理されるのでしょう。あと、集団で聖霊が降りてくるのを待って、口々に異言を発するってのも、聖霊降臨以来、キリスト教系世界でいまだにいろいろな形である現象ですね。しかし問題は、そのような聖霊の降り方とか受け方が、人々をばらばらにするのか、結びつけるのか、ということではないでしょうか。旧約の神がバベルの塔を壊して人間たちが互いに言葉が通じなくなったというエピソードと、キリスト昇天後の聖霊降臨で人々が世界中の言葉を話せるようになったエピソードは、一種「対」になっていて、聖霊ユニヴァーサリズムの可能性を語っているものとして平和への希望を抱かせてくれます。聖霊降臨に異宗教間対話の根拠を見ようとする本を読んだことがあります。参考にコピーします。

De Babel à Pentecôte. Essais de théologie interreligieuse, Claude Giffré, Paris, Cerf, Coll. "Cogitatio Fidei" n° 247, 2006, 363 p., 39?.

114:2007/03/02(金) 15:04:37
(無題)
Sekko様、お忙しいでしょうからお返事は2,3週間後だろうとチェックしていなかったので、すぐのご返事に驚きました。ありがとうございました。
 聖霊付与まで人間(司祭)がコントロールし得るものとされて、ある意味で制度化されていることを知って、少々驚きました。聖霊はおのれの欲するところに吹く、というような言葉があったような気がしますので。私は若い頃から聖書は好きで新約は繰り返し読みましたし、旧約も通読いたしましたが、キリスト教のドグマのため、また形骸化したとしか思われないため、教会には足を踏み入れたことがなく、そんなことも知りませんでした。
 (なお、私は若い頃、一種の宇宙意識的な見神体験 ― W.ジェームスの「宗教経験の諸相」の分類では突発的回心と言われるようなもの ― をいたしましたが、それはどんな準備もなしに突然訪れ、どのような宗教教義とも結びついていませんでした。)
 聖霊体験がほんものかどうかを簡単に識別する客観的手段がない以上、おっしゃるとおり、果実を見てその木を知る、のが最も確実な方法と言えるでしょうし、その際「神の力は人々を結びつけ、悪魔的な力は人々を分かつ」というのが一つの基準になるだろうという考えには、私もまったく同感です。(なお私は感情を刺激するなどの人間的手段によって生じる、いわゆるエクスタシー体験は信用していません。)その意味で、たとえばマザー・テレサは、間違いなく聖霊の働きを受けていたのだろうと感じます。彼女は宗教によって人々を分けませんでしたから。
 ところで、ご返事がいただけたので、もうひとつまったく別の質問をさせてください。
 最近、トマス福音書や、マリア福音書などに関する研究の書物を興味ふかく読んでいますが、最近の報道では、「イエスの墓」(イエスに子供がいたという推測を示唆するらしい)に関するテレビ番組が米国で近く放映されるらしく、インターネット上に、早速それに関するサイトがつくられています。
 キリスト教教会は(カトリックもプロテスタントも)もちろんこれらの報道や、教会のドグマの正当性をおびやかしかねない学問的研究に対して、(中世のように弾圧はできないでしょうから)完全無視の態度をとり続けるのではないかと私は思いますが、Sekkoさんはどう予想されますか? また最近の研究の進捗状況から考えると、これらの説に対していつまでも反発や無視ではすまされなくなり、(決定的な証拠はなかなかでないでしょうから)時間はかかるかもしれませんが、かたくなな態度だけでは、将来ガリレオの天動説に対して地動説を守り続けようとした教会のような立場におかれる危険があるのではないかと思いますが、どう思われますか? もちろん個人的なお考えで結構です。

115:2007/03/02(金) 15:19:23
(無題)
すみません、地動説と天動説を反対にしてしまいました。もちろんガレリオの地動説に対する教会の天動説です。

116Sekko:2007/03/02(金) 17:40:43
イエスの墓について
 ちょうど2日前に、ある編集者からそのイエスの墓についての話を教えてもらい、意見をきかれました。その時に返事したのをまずコピーします。

「知らなかったですよー。
ネットで検索したら、確かに今日のフィガロの朝刊に載っていました。
ドキュメンタリーのダイジェスト版も見ました。
 ヨセフとイエスとユダって親子の骨があって、DNA鑑定で親子だったってだけで、その名の刻み方も考古学者からみたら「?」で、たとえ、ほんとでもヨセフもイエスもユダもマリアも当時最もありふれた名なので、このタイプの墓所と骨箱を作れるくらいに裕福な(ナザレのイエスさんちはそうでなかったし、代々の墓がベツレヘムならともかくエルサレムにあるのも無理がある)一家族の墓だったというだけですね。家族の骨に親子関係があるのは当然だし。
ドキュメンタリーの中でも、インタヴューされたまともな学者はまともに答えてました。
 それに確かオカルト世界でのイエスの子供は女の子では? その方がなんとなく納得いきます。
まあ、このドキュメンタリーの背景には商業主義はもちろんですが、エルサレムに対するユダヤの所有権を正当化するイデオロギーと政治的意図があるので、前のユダの福音書なんかのヴァリアントだと思われます。結局、天の父なる神のDNAを採取して鑑定する以外、「科学的証拠」は挙げられないわけで、屏風の虎をまず出してくれ、という話になりますね。
 ジェームズ・キャメロンって、そんな変なやつだったのか、というほうが印象的です。 」

 私には、イエスの「体」をそんなに気にする人がいまだにいて、それがメディアのマーケットになること自体が不思議です。教義の事実性を確認したいというならまだ分かりますが、聖書の内容や教義は実証とは関係なくそのまま受け入れるかどうかが信仰なので、基本的には「事実性」は問われません。それでも考古学的にちらほら「ほんとだったらしい」という発見みたいなのが今でもニュースになります。でもたいてい商業性はないですね。逆に、「教義は嘘で事実はこうだ」みたいなものが商業価値を持つのは、まあしょうがないです(今度のドキュメンタリーも、キリスト教最大の行事である復活祭前の四旬節の真ん中を狙ってるんですし)。
 でも実際は、今となっては、教義の事実性も、反事実も、「科学的に検証」というのは不可能な気がします。「事実」じゃなくて「真実」を標榜する信仰のディスクールには合わないし、意味がないし・・・ 私が興味を持つのは関係性とその文脈、その変化なので。
 4月の復活祭に、講談社からトリノの聖骸布についての本(解説を書いてます)が出ます。実物大の精密写真付です。こちらは、受難や復活のストーリーが「事実」だったんだ、という逆のベクトルですね。モノが介在してるので、昔からフェティッシュな信仰が寄せられ、巡礼者に多くの回心や、「奇跡」を起こしてきました。「事実」がどうあれ、そういう信仰を生んだダイナミズムがおもしろいです。私の興味を引くには、つなぎ、結びつける要素が必要です。聖骸布は、20世紀後半からむしろモノとしての信憑性を次第に増してきたので、そういう好奇心も刺激されますが。
 今回の「イエスの墓」の骨では、復活昇天を信じる人々の信仰心の基盤と合わないので、それをありがたがって祈る人もなく、したがって「奇跡」も起こらないでしょう。ただの否定の材料なので、私にはあまり意味はありません。
 その墓のイエスさんのDNAと聖骸布の血痕のDNAが合ってたりしたら、俄然、野次馬としての興味はわきますが。

117:2007/03/05(月) 09:43:55
日本から
久しぶりの里帰りです。私も竹下さんのフランス・バロック修道会に対抗(?)してルネサンス・ポリフォニー&マドリガル修道会を創立しようと思います。
 冗談は別として、竹下さんの典礼についてのお考えがうかがえて、とてもうれしかったです。「年中祝祭」、なるほど私達の日常は非日常的なものがあふれていますね。「ハレ」に囲まれた「ケ」、とでもいうような。
 私個人としては、典礼にもっと多様性があって、それらが共存しあっていたらもっと楽しいかなと思います。英訳聖書に例えれば、わかり易い New Revised Standard Version が普及している一方で、翻訳の下敷きになった King James Version が今でも健在なように。極端な強迫性革新主義と同様に教条原理主義も私の好むところではありません。

118Sekko:2007/03/06(火) 18:13:56
Massimoさんへ
おしゃべりルームの方にいれます。

119:2007/04/23(月) 21:18:49
竹下先生はカトリック信者ですか?
先生のご著作を多年にわたり読ませさせていただき(最近では「カトリック生活」の「スピリチュアルとカトリック・ライフ」)、カトリックのリッチさ、人間臭さ、可愛いさなどに心惹かれます。先生のように、カトリックを歴史的、社会的、文化的に広く、鋭く研究され、透徹した見解をお持ちになると、いわゆるカトリック教義をそのまま信じることは困難になるのではないか、と推察します。先生の信仰のよりどころを教えてくだされば、助かります。小生は、9年まえ家内に迫られてカトリックの洗礼をうけましたが、その後、カトリックを研究すればするほど、自分が異端的になっていくのを感じます(キリストは、人間として生まれ、苦悩のうちに死んだが、その愛を説いた生と死は多くの人を感動させ、「神」を感じさせた、というのが小生の信じる核心です。カトリックが成立の初期に切り捨てた、異端の中に、より素直な、生々しいキリスト像があったのではないか、と思えてなりません。その意味で、「異端」研究の先生の最近のご著作を期待しております。吉田重信

120Sekko:2007/04/23(月) 22:32:09
ご愛読ありがとうございます。
 私もカトリックってちょっと可愛いかなと思ってます。B16も可愛いと思えてしまうので。最近彼がイエス評伝を出しまして、イエスはキリスト教世界の所有物ではない、と言ってました。今「無神論の系譜」というテーマで書いていて、こわもての無神論者の本をいろいろ読んでいるんですが、彼ら(ヨーロッパ人)は、西洋の倫理規範はみんな「ユダヤ−キリスト教」に呪縛されているからよくない、と糾弾するんですが、日本人の私から見ると、他の文化でも宗教や表現は違っても同じような倫理規範はあるので、何を基礎にしていてもそれを非宗教化したフィールドで、共存を図ればいいと思うんです。交通標識をグローバル化しても、事故なく移動しあえるという目的が果たされれば、それがもとは特定文化のシンボルだったとしても別に目くじらたてなくてもいいんじゃないか、という感じです。
 人間の共同体としての教会や教義は、世に連れ人に連れ変わっていく面もありますから、それもあまり気にしません。自分がど信じるかとか、あまり自分を主体に考えないんです。ツールであれば充分です。私をどう使うかということは、きっと大きい力が導いてくれると信頼しています。教義のあれこれについて納得しなければツールとして自分を差し出せないという危機が訪れれば、その時には回心の体験があることを期待しますが、ぬるいままでもツールとして見切り発車したまま一生を終えても別にいいです。
 知り合いのシスターや神父さんで、「竹下さんを聖霊の光が導いてくれますように」とか、「頭がよすぎて道を踏み外さないようにお祈りしてます」とおっしゃってくださる方がいますので、安心してます。私が自分で祈っても無理でしょうが。全体として、自分よりも弱い人とか、困ってる人とかのお役に立てるよう心がけてさえいれば、教義的に異端とかたいそうなことにならないと思います。
 次に出るのは講談社選書メチエから8月10日に聖ヨセフの本です。タイトルは未定。聖ヨセフって、なかなかすてきですよ。B16の名前もヨゼフですね。

121:2007/05/01(火) 01:12:45
お礼
間髪を入れず、実に含蓄のある回答をいただき、感激しました。長年の「わが信仰」に対する後ろめたさが、和らぐとともに、少し安心できる気になりました。
日本のカトリック神父の中には、井上洋二神父や、藤原直達神父(内観運動を指導)のように、カトリックを日本文化の中に当てはめたり、類似性を見つけて、説くひともおられますが、やや牽強付会の感がぬぐえない思いでした。他方、梅原猛先生のように、「西欧の多神教は行き詰っているが、日本は多神教なので救いがある」との説も、本当かナと考えていました。竹下先生は、西洋文化に心身的に文字通り肉薄して、その理解の中で、カトリックの人類共通性を説いておられるようで、日本人の西洋文化、その表象としてのカトリック理解もここまで進み、普遍的になってきた、と心強く感じます。−−−偉そうな言い方でごめんなさい。
他方、「バロック音楽は何故いやすのか」をワクワクしながら読んでおります。とくに、バロック・ジェスチュエル、振り付け譜の紹介は、目から鱗が落ちる気がしました。オードレーの母親、マルティーヌとのやり取りには、涙が出ました。
吉田重信

122迷える大羊:2007/05/11(金) 00:21:48
カトリックへのためらい
 皆さん、こん??は。ノンクリスチャンですが、結婚前提に付き合っている彼女がクリスチャン(福音系)である関係でキリスト教に関わりを持つこととなりました。彼女はできれば、私にクリスチャンになってもらいたい思いがあるようで、私も彼女の教会(プロテスタント福音派)に通ってみましたが、どうにも感覚や考えが合いません。

 独自にいろいろ教会を訪ねてみた結果、カトリック教会が当初思っていたのとは違い、意外とリベラル(他宗教の慣習に対し寛容、逐語霊感説のような硬直した聖書解釈をしないなど)な部分に惹かれ、クリスチャンになるならカトリックがいいのかなぁ、と思っています。しかし、ひっかかる点がいくつか・・・。

 1.自殺、離婚に対する厳しい姿勢。近くのカトリック教会や信徒の方々に聞いたとこ    ろ、さすがに今は葬儀をしないとか、離婚は何がなんでも認めない(婚姻の無効宣言   で対処するそうですが)みたいなことはないみたいですが、それでも「罪人」として   これらをやってしまった人は肩身の狭い教会生活を送るのか?聖体拝領停止などのペ   ナルティを課せられてしまうのでしょうか?

  別に今から離婚や自殺の心配をしているわけではないけれど、人生何があるかわからな いし、この二つをせざる得ない事態に陥ることもあるかもしれません。ある意味、一番神 や教会の救いが欲しいときに罪人扱いされ疎外されるのは酷いし、これでは何のために神 や宗教に関わるのかわからない、と思ってしまいます。実際はどうなのでしょうか?

 2.他の教派の信徒との結婚はどうなのか?ダメってことはないでしょが、ある意味ノン   クリスチャンとの結婚以上に面倒かも。お互い 、同じ神を信じる者同士という思い   込みがあるだけ、却って考えの違いが鼻につく、なんてことがありそうな気がする。
   まあ、彼女は福音派といっても比較的緩いところではあるけれど、それでも、カトリ   ックにはやや冷淡な傾向があるような感じがします。
   これまた、どなたかパートナーがクリスチャンだけど他教派、なんて方がいらっしゃ   れば、メリット、デメリット併せて聞かせていただきたいものですが。

 3.あと私が心配してもしょうがないことですが、神父、信徒ともに高齢化が著しく、将  来大丈夫かしら?なんて思ってしまう(大きなお世話ですが・・)

 最後、3はともかく、上の1、2が気になります。実際のカトリック国の現状なども含め
 どなたか体験、見聞、御意見などをいただければ幸いです。

123Sekko:2007/05/11(金) 07:25:49
大羊さんへ
 私は身近にはフランスの例しか分からないので、これを読んでる方のなかで、カトリックとノン・カトのカップルの方やカトリックで離婚された方がいらっしゃれば情報ください。
 私の知ってるフランスの例では、カトリックで、法律的に離婚した女性で、聖餐を続けられるように再婚しないという人がいます。つまり宗教の秘蹟としての結婚は生きているので(取り消しは結構手続きが大変なので)、法律上再婚しなければ、不倫の立場に陥らないそうです。それで、いったん離婚したら、後は事実婚だけ、で教会には行き続けているわけです。もちろん教会法にのっとった結婚取り消しがない限り、秘蹟としての結婚はもうしてもらえません。
 欺瞞じゃないかと思われるでしょうが、大半のフランス人は、洗礼を受けていても、教会に定期的には出入りしてないので、離婚したら教会とも縁が切れます。でも再婚で生まれた子に洗礼を受けさせるのは可能です。不倫で生まれた子になりますが、子には罪はないので。再婚しないで教会に行き続けている人はミサにあずかることにそれだけこだわっているわけですから、本当は別の相手と暮らしてるだろう、とか勘ぐられて追い出されることはありません。そんなことしたら誰もいなくなります。今の教皇は離婚者の聖体拝領OKの方向で動いてるようですから、実際、緩和されるでしょう。DVの被害を受けて離婚する女性などは確かに被害者であって、教会から罪人あつかいされると困ります。聖体拝領は、資格の問題ではなくて「必要」の問題だから、といわれるのを聞きました。絶望した人の「緊急避難」としての聖体拝領は、責められません。まあ、法律婚した後で、教会で結婚しようという人は、神を仲人にしようと思うわけですから、結婚生活で何か困難に出会った時、二人で仲人に相談、という初心に帰る方法ができます。
 カトリックの結婚式は、その前に何度か通って、結婚についてのレクチャーを受けることが課せられているので、それなりの覚悟や準備もできますから、悪くはないと思います。片方がカトリックでない場合は、生まれる子供はカトリックの教育を受けさせるという夫婦の合意に署名させられるケースもあります。でも、なんというか、少なくともフランスでは、老舗の伝統宗教なので割と大まかです。特に都会ではコミュニティ感があんまりないので。離れても追ってこないのは確かです。他の宗派間の結婚は昔はややこしかったのですが一時楽になり、今また他宗派との共同ミサは認めないとか、保守化も一部始まっています。
 日本ではキリスト教はマイノリティだし、それだけに同じ教会に属する人の共同体意識も強くて、離婚などで「肩身の狭い思い」とかが出てくるのかどうか、私にはよく分かりません。
 今は自殺者は全然ペナルティがないです。立派な葬儀ミサも可能です。まあ、自殺はやめて下さい。離婚は相手のあることなので、自分の努力だけではどうにもならないケースがありますけど、自分の生殺与奪の権力への誘惑には負けないでください。もちろん病気その他で判断力がなくなり、衝動的に自殺ということはあっても、それは事故みたいなもので、残された人があまり罪の意識にとらわれないように願います。キリスト教によって、「自分の主人は自分ではなくて、命は神から授かった不可侵のものだ」と思うことで少しでも自傷や自死の歯止めになるのならいいのですが。
 神父、信徒の高齢化、これは難しい問題ですが、ゼロになって「営業停止」ということにはならないでしょう。中南米やアフリカではカト人口も増えているので、外国人神父の「調達」というのは必ず可能ですし。そういう「開かれたコミュニティ」に向かっていくほうが健全ですし、ユニヴァーサルなところがカトリックの魅力でもありますから。
 でもフィアンセの方が福音派ということですが、今の日本で若い方が福音派というのはこだわりが大きいと思うので、大羊さんの感覚や考えが合わない場合、将来それがつまずきにならないようにちゃんと話し合っておいた方がいいと思います。ちゃんとした宗教には必ず「利他」とか「自己犠牲」の要素が入ってるはずで、結婚にもそのテイストが必要ですから、互いがそういう感覚を持つのは結婚がうまくいく秘訣かもしれませんし。以上、とりあえず書いてみました。

124迷える大羊:2007/05/11(金) 15:44:50
ありがとうございます
 Sekkoさん、早速、ありがとうございます。

 >事実婚

 日本の浅はかなおフランスかぶれの一部マスコミや識者は、これを「形にとらわれない新しいライフスタイル」みたいなふうに取る人々がいますが、実際は離婚、再婚が宗教的に難しい(非カトリック国に比べ)という理由も大きいのですね。

 結婚式については、彼女の母教会で行う予定ですので、あまり問題はないかな?とは思いますが。まだ、クリスチャンならカトリックがいいかな?くらいの認識で、結婚の時点では私はカトリックにはなっていないでしょうし。
 仮に私がカトリックになった場合、問題は幼児洗礼など子供の問題でしょうか?何やらもめそうなイヤな予感がします。

>福音派

 意外に思われるかもしれませんが、福音派は若者比率が結構高いです、私の知る限り。プロ・カト問わず他の伝統的な教会が軒並み高齢化している中で、福音系の教会だけは若者(20、30代)比率が高めなんですよね。私にとってはよくこんなこと(聖書はすべて真実、聖書に反する進化論は邪道みたいな)を素直に信じられるなぁ、って感じですが。まあ、率直に言って、何も深く考えなければ、福音派の教会の方が楽しいかもしれません。ゴスペル歌ったり、フォークソングの礼拝があったりするし、新参者に対する対応も細やかだったりするし(それが煩わしい、という方も当然いますが)。

 別に高齢者ばっかりがいけない、ってわけではないですが、奉仕の負担が大きくなりそうだなぁ、とか俺が老人になった頃には誰も仲間がいなかったりして、なんて不安にかられますね・・。

 >神父

 近くのカトリック教会の神父さんの働きぶりなどを見て感じますが、こんなハードな仕事(いろいろな意味で)、果たして成り手がいるのか?いつも疑問に思っていました。カトリックは信徒には寛容(離婚問題を除いて)な宗教ですが、その分、聖職者に対する要求がハードになっているシステムなのだな、と感じます。

 特に独身制は納得できるところと、いいのか?これで?って思うところとがありますね。確かに妻子を抱えての聖職者生活は大変だし、独身ならば貧乏しても、とんでもない僻地に飛ばされても平気、というメリットがありますが、一方で健康な男性なら沸きあがってくる異性への欲望をどう抑えるのだろう?孤独感はどう克服するのか?そういう煩悩を克服できても世俗の一般人と付き合えない「変人」になったので困るし・・、とある意味矛盾するような条件を神父は兼ね備えていなくてはならないですよね。そんな人、日本人、外国人問わず、そう何人もいるものなのか?と思ったりもします。

 何より問題なのは、カトリックは結婚、離婚に関する考え方が他教派に比較して堅いわけですが、果たして結婚生活を送ったことがない聖職者が離婚問題、男女や家庭の微妙な問題に適切な判断を下せるものなのか?という疑問が大きいですね。この辺り、カトリックの方々はどう考えているのでしょう?
 まあ、修道士なら独身でも全然OKだと思いますけど、神父、司祭は世俗の一般信徒と付き合わないといけませんからね。

 自殺の問題に関しては、安心、納得できました(いや、今自殺したいなんて考えてませんよ、念の為(笑)) 。もちろん、そんなことは無いほうがいいに決まってますけど、もしも、ってことはありますからね。大体、自殺を企てる場合、心は壊れていて、まともな判断などできないでしょうし。

 問題は結婚に関する事柄ですね。他教派に関する態度が保守化していることは気になります。また、近くのカトリック教会や信徒の方々、こういうBBSなどでもう少し広く詳しく、事情を探ってみたいところです。

 彼女は私のカトリック志向については特に何もいいません。「同じ神様信じてくれるだけでありがたい」てな感じなのかな?でも聖餐が一緒に受けられないのが気になるみたいです。彼女自身は思想的にカトリックと合わないというより、礼拝のスタイルや福音派の家族的な人間関係に慣れた身からすると愛想がない、そっけなく映るところがダメみたいですね。
 今のところ、結婚にまつわる諸問題がカトリック道への障害ですね。聖公会あたりの方が無難かな?と思ったりもします。

 カトリックの知人、友人がいない、私にとってこのサイトは貴重です。これからも、お相手いただければ幸いです。

125Sekko:2007/05/11(金) 19:47:34
福音派
 フランスの郊外でも福音派は進出していて、やはり若者に人気です。カトリックは文化の背景になってて地味だし、親がすでに教会離れしている、周りのマグレブ移民はモスクに通っている、ということで、共同体への渇望が福音派に向かわせるようです。温度が高いところにいくんですね。このサイトのカトリック・ウオッチングのところにも書きましたが、今日はB16がブラジルで初のブラジル人の聖人を聖別する日です。ブラジルは一昔前はほぼ全員カトリックの国だったんですが、パフォーマンスのすごい福音派に何千万という人が転向したことで知られます。それに対抗して、カトリックでもロック・ミサとかやって、民衆のカト離れを防ごうとしている有名な神父がいます。確か今日はその神父とB16が共同司式を行うミサがあるような・・ラテン語ミサOKのB16とロック・ミサの神父〈若くて、身長2メートルで、大迫力の人です〉の組み合わせ・・・とにかく布教戦略上、福音派はカトリック批判してますから、なかよく共存という関係ではないですね。信者にとっては、派手な方、より燃えることのできる方へ引き寄せられるんで、特にトランスがカタルシスになるようです。アメリカのドキュメンタリー映画、『ジーザス・キャンプ』って知ってますか? 福音派と聖霊降臨派が共同で、子供たちのキャンプを組織して、イスラムには神のために命を捧げる若者がいるんだからキリスト教でも可能だみたいに、原理主義的なことを教えて、最後はやはり子供たちがトランス状態になってブッシュの等身大写真に群がって「God bless you!!!!』とか言って泣き叫んだりするんですよ。平均的日本人や平均的フランス人が見たらどん引きの光景なんですが、カトウオッチングでも書いたように、今日聖別されるカトリックの聖人でも、祈りを書いた紙を丸めて毎日飲んでたら奇跡が起こるとかそういう話なんですから、郷に入れば郷に従えというか、問題は、何の宗派だとかいうことでなく、ある場所、ある時代で、ある人々が求めているものは何で、宗教はそれにどう応えることができるのかということですよね。
 カトリックは過ちも含めていろんな歴史を通過してきたので、清濁や、知と情や、合理と神秘や、伝統とインカルチャレーションやなんかを併せ呑む柔軟性というか懐の深さというかがあるように思いますが、単にエントロピーが増大してカオスに向かっているのかもしれませんね。
 独身の聖職者に家族問題でごちゃごちゃ言われたくないという声はフランスの田舎のおばさんとかよく言ってるのを聞いたことがあります。でも、人間、自分の経験したことしか語れないというのであれば、文学だって成立しませんからね。カトリックは、イメージとしては、聖職者や修道者を神に捧げることで、一般信者は比較的楽に生きられたという歴史があります。人が堕落すればするほど、必ず、清らかに生きるグループが出てくる自浄力はおもしろいです。そして、フランスのような国では、一昔前と違って、聖職は直接は権力にも結びつかないし、世俗的な意味ではいいことはあまりないですから、それでも敢えて聖職につく若い人は、ほんとうに人間が好きで、使命感と召命を感じ、無私でエネルギッシュなすてきな人も少なくありません。昼間、自分をすべて人々のために捧げるので、夜は疲れはてて、ようやく神と二人きりになれると言う若い司祭の言葉を聞いたこともあります。
 すごーく変なことかもしれませんが、弱肉強食の競争社会ではとても生きたくない、生きられないと思いながら出口の見つからないタイプの引きこもりとかニートとか若年ホームレスの人の中には、聖職者や修道士という形で自分の人生を他者に向けていく選択肢があれば命の輝きを取り戻せる人もいるんじゃないかと想像します。つまり、聖職者とかのアイデンティティなしに、孤独とか、性的飢餓の状態にある人は社会的弱者や障害者もふくめてたくさんいるとはずで、それは聖職者の孤独なんかよりもっとずっと辛いと思うんです。使命感とともに独身を受け入れた聖職者は別に気の毒とは思いません。妻子など、守るべきものがないからこそ自分をかけることもできるでしょうし、そういう「犠牲」によって、尊敬を得たり、説得力を持ったりすることもあるでしょうから。別に禁欲してるから偉いとかは私は思いませんが、少なくとも、私は、新興宗教の教祖なんかで、奥さんがいて、子供もたくさんいて、美食してるような人は、即うさん臭いと思ってしまいます。
 修道士や司祭で結婚して教会から離れたり出された人も知っていますが、それは離婚と同じで、事故もあれば運命もあると思うので罪とは思いませんし、家族を持ち一回り大きくなって、また共同体に尽くせるとか両立できる人もいます。ケースバイケースですね。奇跡を起こすカリスマだったミリンゴ司教という人がいますが、統一教会で韓国人女性と結婚しちゃったり、その後ヴァチカンに軟禁されたり、いろいろ大騒ぎでしたが、4人の妻帯司祭を叙階するまでは破門宣告は受けなかったです。カトリックも、独身誓願は選択肢の一つというように変わっていくかもしれません。他の方の考えもきかせてください。

126nao:2007/05/11(金) 21:40:56
信仰
私は無宗教の夫とつれそつて、半世紀。最近夫をなくし、仏式の葬儀でおくりました。結婚したときは、私だけがカトリツクで、夫はそれをみとめてくれましたが、夫の両親は子どもの洗礼についてはすごく怒りました。でも当時はそれがカトリツク信者の約束事で私は針の筵で、それに耐えました。夫はなにも言わず、ゆるしてくれました。夫の家は真言宗ですが、彼は別段仏教にくわしかつたわけではありません。日本人が大抵そうであるように、宗教はたいして問題にならない人生をおくりました。私は彼が別の派のキリスト教だつたら、とてもこまつただろうとおもいます。信仰というものは理屈じゃないので、カトリツクをみとめてくれないキリスト教の派でしたら、争いがたえなかつたろうとおもいます。無宗教だから、カトリツクのことはわからなくても「家内はカトリツク」とわりきつて、平気でした。大羊さんは信仰をおもちなのでしょうか?それが気になるところです。どの教団もへんな、わかりにくいことだらけです。教義だつて、洗礼をうけていても判らないことばかりでした。でも信仰が先にあると、おかしなことも、だんだん、なるほどなあ・・と納得がゆくようになるものです。カトリツクの「マリアの被昇天」という、玄義がありますね。へんですよね。でもこれが20世紀中ごろに宣言されたものなんです。科学精神一辺倒の現代の知性がみとめたんですよ。ユングはこの教義をとても偉大だとほめました。河合はや雄氏は「不思議な教義を知性のすぐれたヨーロツパ人が信じているという事実が大切だ」といわれました。要するに、少しずつ納得が行きそうな、感じがしてくる教団は健全だとおもうのです。どうも、おかしい・・とおもいつずけるようなら、やはりその教団にはおられないとおもうのです。司祭の独身制などは聖書にかかれていませんから、妻帯者も独身者も司祭になれる時期はきつとくるでしょう。老齢化もそう、いちがいにいえませんよ。他民族がはいつてくることもあるでしょうし。あまり心配せず、はいつてしまわれてから、悩むのもいいとおもいます。福音派とカトリツクはかなりしんどいかな・・とおもいます。カトリツクつて、やめる方いないんですよ。案外いい加減みたいですが、芯のところは「くさつてもなんとか」みたいなところがあるんです。福音派がそうなら、やはり大変でしょうね。でも日本人というのはお互いに干渉しないで、カトリツク、プロテスタントで仲のいいご夫婦も身近にいますよ。お相手次第でしょうか?なんだかまとまりのない話になりました。ごめんなさい。

127迷える大羊:2007/05/12(土) 01:16:07
教派間結婚
naoさん

 初めまして。レスありがとうございます。

>信仰

 今のところ無宗教です。結婚予定の彼女の信仰がどういうものなのか?理解するべく、キリスト教を探求している最中です。ただ、福音系は私にとって理解しづらい部分、束縛感を感じる部分が多く、その反動なのか、カトリックの清濁併せ呑む、いい意味での節操のなさ、意外とリベラルで現実的なところが気に入って、シンパシーを持ちだしている、といった立場、状況です。もっとも第二バチカン会議以前のゴリゴリのカトリックでしたら、全く鼻にもひっかけなかったでしょうけど。

  とまあ、偉そうにカトリックがどうの、福音派がどうのと述べていますが、本当のところ、神を信じるという心境がどういうものなのかわかっていないし、そもそも自分は宗教に向いているのかどうかも今のところよくわかりません。

>子供の洗礼

 ああ、やはり揉めたのですね。そうだろうな、と思いました。その辺りの事情は近くのカトリック教会の神父さんもよく御承知なのか、子供は「なるべく」洗礼を受けさせてね、といったおっしゃり方でした。

>マリアの被昇天

 意外と違和感ありませんでした。むしろ、こういう風に、信じてみた方が気分的にいいかもしれない、と思いました。あくまで信仰の教義の上での話なので別に問題ないかと。

 福音系教会で違和感を感じることの一つに、私にとって聖書とはあくまで信仰の上での真実をあらわしている書物としか思えないのですが、福音系教会の場合、それらを「科学的、物理的、歴史的にも事実」と言い張る信徒や聖職者が多いことでした(全部が全部の信徒、聖職者そうだというわけではないですけど)。

>福音派

 といってもいろいろありまして、彼女は穏健な方かと。遠藤周作や曽野綾子、矢代静一などカトリック系作家の作品もよく読みますし、聖霊降臨派などは彼女や彼女の母教会の人々にとってもちょっと異様に映るようです。深く突っ込んで付き合わなければ普通のプロテスタント教会です。ただ、使っている聖書が「新共同訳」ではなく、「新改訳」であること、牧師さんは遠藤周作氏の作品については「立場が違うので読まない」というところなんかは、ああ福音派だなぁ、ということを改めて認識させられますが。

>カトリックとプロテスタントの夫婦

 カトリックとプロテスタントが血みどろの争いを展開した歴史があったり、教派の違いが社会的な差別につながったりする欧米と違い、日本にはそんな歴史も背景もない。大体、クリスチャン自体が人口比1%以下ですし。極端な話、どちらが、どれが合うか合わないかの問題に過ぎないとも思うので、よく話し合えば確かに共存も可能かもしれませんね。僕が通った福音系の教会にも御主人がカトリックという女性の方がいましたし、夫婦ではないけど、僕が訪ねた、近くのカトリック教会の神父さんも御兄弟がプロテスタント教会の牧師さんで、当人も元プロテスタント信徒だったそうですし。そう考えれば、日本にいる限り大した問題ではないかもしれません。残る問題は子供ができた場合でしょうね・・。

 ところでどうでもよい話かもしれませんが、naoさんの洗礼名ってもしかして「モニカ」ですか?いや、深い根拠はありませんが・・(笑)。

128nao:2007/05/12(土) 09:24:31
子どもの洗礼
大羊さん お返事頂きありがとうございました。まだキリスト教模索中でいらつしゃるんですね。お相手のかたが遠藤周作をお読みになるときいて、少し安心しました。遠藤先生が「沈黙」を発表されたときのカトリツクの反発すごかつたですものね。それが、いつのまにか、皆わかるようになつて・・遠藤先生はそれをよく口にしておられました。(少し関わりがありましたので)。福音派についてはよく知りませんので、聖書を物理的にもその通り・・と解釈するのだとすると、これはやつかいなことになりますね。カトリツクは「・・と・・」の宗教で、プロテスタントは「・・のみ」の宗教だといわれてますね。カトリツクは聖人信仰など、多神教にも通じるものをいれこんでいますし、聖書のみでなく、聖書外伝もつかいます。だからふくれあがつて、肥えてしまつて、『マリア信仰』にのめりこんだりする人もでてきます。だから、保守的なヴアテイカンが必要なんでしょうね。プロテスタントは「聖書のみ」で派がおおすぎて、牧師の数だけ、解釈がことなるといいますから、これも大変ですね。日本人の場合、ご縁でどちらかになるようです。私はカトリツク教会しかしらなかつたので、そうなつたんですですが。
子どもの洗礼はその後、思わぬご縁をうむことになりました。娘がカトリツクの方と結婚して、その子ども達3人もカトリツクになり、意外な展開におどろきました。息子もカトリツク式の結婚式をしました。お相手はプロテスタントの大学出身。息子は教会からはすつかりはなれましたが、結婚式で神父さんから、3回講義をきき、その神父さんの話では基本的なことは全部わかつてますよ・・ということでした。息子の子どもがまたプロテスタントの高校にいつていますが、宗教間のややこしさはなにもありません。基本的に彼らはキリスト教的教養だけはあるといつたことでしょう。次の世代はまたどうなりますか、何代か先が楽しみですね。私の霊名はレジナ・マリアです。モニカとおもつてくださつたのは母性を感じていただいたのかも・・それならうれしいですね。大羊さんの悩みは皆考えるべき大事なことだとおもいます。あれこれかいているなかで、何かにご自分の方向性の参考になるものがあれば、幸いです。どのような方向にゆかれるか、これからも発信してくださいね。
竹下先生の知性は幅広く、しつかりした指針があたえられますので、竹下先生なしには、私も生活できない点が多いです。ありがたい先生ですね。フランスにおられるので、ヨーロツパの状況もおしえていただけて、すごく頼りになります。ああ・・そういう方のおられるということも、方向の指針になりますね。ようするに、ひとがどのようにそだつているかということで、自分の所属をきめる。これもいいですね。私は大好きな神父さんが、人生をかけておられたので、カトリツクになりました。いまも大好きなベルギー人の神父さんがいて、この方のような生きた信仰を持ちたいとねがつています。おおくの素敵なカトリツクの友人も支えになつています。おおらかで、芯が強い、そういう友人がつくれそうかどうか、よくお考えくださいね。

129迷える大羊:2007/05/12(土) 09:34:44
フランスでも
 福音派は若者が多いんですね。私はその考え方に馴染めず、離れましたが、すべてがイヤなのか、というとそんなことはなくて、先ほども書きましたが、新参者に対する対応ですとか、聖職者と信徒間のコミュニケーションなどは伝統的教会より熱心で上手ですよね。

 仮に孤独感や挫折感に悩んでいる、落ち込んでいる若者がいたとして、訪ねても黙って放っておかれ、聖職者は遠くから仰ぎみるだけって感じの教会と積極的に迎え入れ、話を聞いてくれる教会があれば、どちらに安心感、居心地のよさを覚えるかって問題ですよね。少々おかしなことをいっていても居心地が良さそうなところ、楽しそうなところに流れるのではないかなぁ、って気がします。

 もちろん、これには個人差があって、私なんかはちょっと様子をみにきただけなのに、あれこれ聞かれたり、礼拝の最中に紹介されたりなんかするのは煩わしいですし、変に熱いのも、なんだかうっとおしく感じるタイプです。

 あとカトリックの場合、教会一つあたりの信者数がとにかく多いので、一人一人いちいち相手にしていられないって問題もあるでしょう。カトリックや伝統的教会で聖職者とじっくり話そうとすると、ある程度厚かましさが必要だな、と感じました。フランスの場合は存じませんが。

>清濁、合理、神秘を併せ呑む

 そうですね、それがカトリックの魅力ですね。ラテン語OKのベネディクト16世とロック・ミサ神父のコラボレーションですか?みてみたいものですね〜。そういうカトリックの層の厚さ、幅の広さみたいな長所が日本でも広く一般に知られるといいですね。私自身、キリスト教に関わる以前は、カトリック?旧教だろ?なんか自殺すると村八分に遭う、恐ろしく保守的な教団だろ?みたいなイメージというか偏見ありましたから。

>「ジーザスキャンプ」

 これもみてみたい。怖いものみたさ、っていうかなんというか(笑)。しかし、今のアメリカはこの手のクリスチャンが結構な勢力があるみたいで、笑うに笑えない状況らしいですね。

>独身制

 なんだか批判がましく聞えることを述べてしまいましたが、聖職者の独身制は広く宗教全体を見渡せば普通の考え方なのかもしれませんね。プロテスタントの牧師は建前の上では聖職者ではなく、あくまで「信徒代表」だから妻帯OKなんですよね?確か。

 仏教も本来、僧侶、聖職者は独身でなければならないはずですけどね。明治になって政府より、僧侶も妻帯して良い、となると皆こぞって結婚しちゃったけど、教義の上で結婚OKなのは確か浄土真宗だけであるはずです。
 カトリックの第二バチカン公会議みたいなことをやってこれからは結婚してもいい、という教義を打ち立てたならわかりますが、なし崩しに「お上がいいっていってるもん」てな感じで結婚OKになっちゃうのはいかにも日本的と思うのは私だけでしょうか?

 独身だと孤独感がだとか、異性欲などの煩悩をどう克服する、なんて低次元な発想をしてしまう私は俗人中の俗人、信仰というものがわからない、宗教に向いていない人間なのかな、と己の「罪深さ」をちょっぴり反省してしまいました。

130迷える大羊:2007/05/12(土) 22:27:02
LET IT BE
 カトリック関係のサイトなら、是非、話題にしてみたいことがありました。実は私、ビートルズ好きなのですが、彼らのラストシングル「LET IT BE」って今にして思うと、讃美歌、それもカトリックの賛美歌みたいだなぁ、と思うことしきりです。「悩んでいると母マリアが現れて、知恵の言葉をささやくのさ、なすがままに・・」だなんて、カトリック教会のミサで流れても違和感のない曲です。

 この曲の実質的な作曲者はポール・マッカートニーですが、名前からしてアイルランド系っぽいし、アイルランドはカトリック国ですもんね。調べるとポール本人はどうかわかりませんが、彼の母はメアリーで、熱心なカトリック信徒でした。父親のジムはあまり熱心でない英国国教会信徒だそうです。多分、母親の名と聖母マリアをひっかけた歌詞なんでしょうね。ついでにいうと、ビートルズの主要メンバーで、なおかつ曲を作っていた、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは教会のパーティで出会ったそうですが、どこの教派の教会だったんだろう?と興味が膨らみます。

 あと、「愛こそはすべて」だとか「イマジン」だとかいかにもクリスチャン的な感じのする曲だし、「キリスト教なんて関係ない」という顔をしている彼らも、なんだかんだいってもキリスト教圏の人間なのだな、と思いました。ロックミュージシャンというと福音系のペンテコステ(プレスリー、パット・ブーン、ガンズ・アンド・ローゼスのアクセル・ローズ)が多いのですが、カトリックからもビートルズという大物を排出し面目躍如といったところでしょうか。

131迷える大羊:2007/05/17(木) 00:27:46
信仰を持つメリット
 連続投稿失礼致します。私の背景は下の投稿を参考にしていただくとして。単刀直入にお尋ねしたいのですが、キリスト教、カトリックを信じるメリット、信じてよかったことは一体なんでしょう?
 もちろん、キリスト教やカトリックが信じれば、お金儲かる、健康になる、災難から逃れられるなどの、いわゆる現世利益を目的にする宗教ではないことはわかりますし、そんなことはハナから期待していません。

 キリスト教の場合、神道などの他の日本の伝統宗教と違い、教義を理解し、信仰を告白し、洗礼を受け、教会員として礼拝、ミサへの参加、奉仕、献金を主体的に行わなければなりませんよね。そこまで自覚的な行動を要求されるからには、それにみあった何かメリットが欲しい(しつこいようですがストレートな現世利益ではなく)、とつい考えてしまいます不謹慎ですかね?

 生きがいでしょうか?そうだとして、それは仕事や趣味で得られるそれとはどう違うものなのでしょうか?皆さんの経験、御意見をお聞かせいただければ幸いです。

132Sekko:2007/05/17(木) 03:18:41
メリットについて
 この質問はある意味新鮮でした。別に不謹慎とか思いません。すごく本質的だと、私には思えます。「私にはこういうメリットがあったとかいうお答えもあるかもしれません。でも、私の考えていることを言ってしまいますと、いわゆるメリットはありません。というか、メリットとデメリットでものごとを選択するという当然の処世術や世界と違う世界を見られるというのが、メリットと言えば言えるかもしれません。私たちの世界には、努力すれば報われるとか、強いものが勝つとか、消費した時間や労力には対価があるとかいうのが普通です。でも、信仰の世界には、そういうギヴアンドテイクの物差しはないということ自体が、私たちを別の形で、生かせてくれます。
 イエスは、祝福されて神の国にいける義人とは、洗礼を受けた人だとか、献金した人だとか言ってません。飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませ、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねた人だと言っています。最も小さいもの、弱者にしたことがイエスにしたことだと言っています。フランスで8歳の子を対象にしたカテキズムの最初の時間に出た時、担当神父は、「ここで教えるのは、キリスト教的生活とは、他者の生活をより快適にするように努力することだということです」と言いました。私はこれがとても気に入りました。もしみんながこう努力すれば、搾取も戦争もないと思ったからです。そして、宗教の名に値するものは、こういう利他のメッセージを必ず含んでいるはずだと思いました。キリスト教は、全知全能の神の他に、人間として最悪の殺され方をしたイエスを救世主とします。渇いて、裸で、死にました。33歳で磔にされて窒息死するより、80歳で弟子に囲まれて大往生した仏陀の人生の方が、多分、だれでも好むかと思います。でもこの過激さが、「最も弱い人に寄り添う」というキリスト教の根本を作っているのでしょう。
 現実には、とりあえず、自分の身の回りで自分よりも困っている人とか、自分よりも弱い人のために、自分の相対的に強い部分を差し出してお手伝いします。絶対的強者とか弱者はいなくて、だれでも病気や老いや自己や障害で弱くなったり、また元気になったりとかします。たとえば、子が小さい時は強い親が助けて守り、子が大きく強くなって親が老いて弱くなれば子が親を助けて守る。恩返しとか義理とか、誰は誰に何々すべしという固定的なものではなく、生きているその時点で、自分より弱いほうをアシストするということです。これに最近、「強い立場の者と弱い立場の者の利害が対立した時は、強い立場の方が譲歩すべきである」というのを私は付け加えました。結構難しいです。でも、迷った時はこれらの原則に従うことにしています。
 これさえ守れば、キリスト教的人生です。それと、共同体の一員として期待される振る舞いをするというのはまた別ですが。メリットと言えば、昔は自分を犠牲にして何かに仕えてきた人も目についたでしょうが、今は、みな自分の損得を考えて生きています。価値観も、年収とか偏差値とか、数で表されるものばかりです。そんな世界で、なんか、方向が全然違う、「自分は他の人のためにいる」みたいなことをどこかで誰かが声に出して言ってくれること自体が貴重だと思います。これからご結婚ということで、人生の中で幸せと力にあふれていらっしゃる大羊さんには多分ぴんと来ないかもしれませんが、人は自分では自分を幸せにできないように思います。できるのは欲求充足で、それももちろんできないことだってあるし、欲求が次から次へと湧いてくることもあります。でも、人を幸せにするのは比較的楽です。笑顔とか、優しい言葉とか、仏教でもこれらは金と関係ない布施とされています。大羊さんも、フィアンセの方が、笑顔で優しいことを言ってくれるのが、どんなプレゼントよりも嬉しいでしょう?
 私の若い頃は、結婚しても家事を分担するとか、何でも平等にというカップルがたくさんいました。そんな中で、その公平感が仕事や育児などで崩れたら、女性が「損をしている」と思ったり、結婚にメリットがなかったとか言い出したりするのです。その時々に、より疲れていない余力のある方が、寄り疲れている人をフォローしカバーし、助けるだけでいいのに。
 とにかく、自分のメリットとか、自分の生きがいとか、自分探しとか、自己実現とか、自分の幸せとか、「自分の何々=自分教」の世界から解放してもらえること、自分よりも他者が大切ということがこの世にあるんだということを忘れないためにこそ、宗教はいいなあと思います。その時に、カトリックのシスターや、司祭さんたちが独身誓願してるってことは、私のような俗人には、彼らがまず他者のことを考えて自分を犠牲にしているというシンボルに見えて、信頼感をそそります。家庭を持ってる人には責任というものが出てくるし、家族が自分のエゴの拡張になることもあるし、一人なら自分の時間を100%捧げるということで、「時間を捧げてこそ愛」みたいな実感もあるので。いくら奇麗事をいっても、誰かがその人を必要にしている時に、「ちょっと待って、忙しいから」と言うのは、寄り添うことになりません。今、この質問を見て、やることをすべて放り出してすぐにレスを書いてるのも、私なりの「キリスト教的生き方」であるのはいうまでもありません。
 組織の中の権力の誘惑というのはどこでも大きいでしょうが、子供とかいないと少なくとも子孫に権力を残すという誘惑はないでしょうし、服従とか清貧とか誓ってる修道者もすごいなあと思います。もちろん、聖職者が天使だというわけじゃないし、いろんな人やいろんな状況やいろんな歴史があるでしょうが、私にとっての今のカトリック観の基礎はこんな感じですね。実際、私の日本のカトリックの知り合いの方たちはすてきな人が多くて、それも信頼の根拠ですね。やっぱり、共同体って、一人一人の人間の魅力も必要ですし。取りとめなくなりましたが、一応返事に代えます。他の方のご意見も歓迎です。

133nao:2007/05/17(木) 09:41:39
愛するということ
大羊さんの質問は本当に皆がお返事しなければならない、大切なことだとおもいました。私は竹下先生のように、知的に問題をうまく整理できませんので、思いのままにかかせていただきます。遠藤周作先生の「侍」という小説ご存知でしょうか?支倉常長がローマからかえつたとき、日本はキリスト教弾圧のさなかで、彼は最後に処刑されることになつてしまいました。彼が刑場に向かうときにそばにいた人が「ここからはあの方が同行されます」といいます。この小説の一番すごいせりふです。私はこの言葉とともに、生きられることがキリスト教の最大のメリツトだとおもつています。夫を焼き場の扉が閉まるまでみおくらねばならなかつたとき、私はやはり夫にこの声をかけました。この言葉に慰めをえられるのは、信仰なくして無理なことですね。私も人生の終わりに近い年齢になつて、自分がお棺の中にいる姿を想像することがあります。しかし「あの方が一緒におられる」とおもうと、恐怖がさつてゆきます。信仰というのは「愛する」ということに尽きます。お子様がおできになるとき、「子どもつて、こんなに可愛いんか」とおどろかれることでしょう。これつて、理屈じゃないですよね。ただただ、可愛いんですよ。それと同じでただただ、キリストに恋するというんでしょうか?私は信仰から、はいつて、勉強はいくらしても結局、わからん(学生時代4年熱心に勉強しましたが・・)ということで、飛び込んでみよう、そうすれば、何かがはつきりする、とおもつたんです。それは予想たがわず、はいつてから、信仰は信念をつくり、人生を単純化し、「愛することだけ」かんがえていれば、よろしい、ととても楽になりました。愛する優先順位は竹下先生とのお付き合いで私も単純です。とにかく、身近にいるかたでこまつている人に手をさしのべる。そこにキリストがいる。そうおもつています。少々癪にさわる人にも、彼が弱い立場にいるとき、私は感情を流しその人のためにいうごくことができるようになりました。いつの間にか、「愛」が先行する人生がつくられていつたわけです。信仰がなければ、癪にさわる奴なんて、許せん!といつておればすみますが、自分も人に癪にさわる人間かもしれず、その償いに、なにかできるなんて、幸せなことだとおもつているんです。キリストが一番惨めな姿でなくなつたことはおおきいです。だれもあんな苦しみにはたえられません。すべての苦しみを凝縮させて、人間を救う神つて、他にはみあたりませんよね。私は夫の介護、自分の病気で随分おおくの方の情けをうけました。このときも自分ができることは「この善意の人のために祈る」ということだけでした。それで、「申し訳ない」から「きつとあなたに幸せがおとずれますように、いのつていますから、当てにしてね」ということができるようになりました。お相手もそえれがとても嬉しいようです。「申し訳ない」なんてばかり言われていると、たまりませんからね。それから、戦うべきときには、かなり勇気がでてくるというメリツトがあります。夫の介護中、随分施設の方と、やりあいました。けんか嫌いの私にも「愛する」ということのためにはこんな勇気がでるんか!!とびつくりしました。これもキリストの勇気を感じてきたからでしょうか?竹下先生のおことばのように、信仰はあれか、これかという対立をこえた世界に目がひらかれてくるという、すごいお恵みだとおもいます。こういう世界にひらかれてゆくのは、一定の「儀式」なしには危険なんです。やみくもに無意識界に参入すれば、カルト的にもなりますし、病人にもなる可能性がでてきます。シャーマンが厳しいイニシエーションをへなければ、できないように、洗礼という扉を通ることがひつようなのです。それだからこそ、「神体験」の世界が理性を破壊せずかえつて、するどくさせるのだとおもいます。信仰の世界は広大です。これなくして、見られない世界の広さは人生をたしかに豊かにしてくれることでしょう。献金はまつたく自由にされています。身分におおじていればいいのです。その強制力もどの教会をえらぶかの指針となるかもしれません。あれこれ書きました。老婆の強みは長い人生をどう生きたかおしらせできることですね。少しはお役にたちましたら、幸いです。

134迷える大羊:2007/05/17(木) 23:42:34
うーん
SEKKOさん、いつも、御丁寧にありがとうございます。

>とにかく、自分のメリットとか、自分の生きがいとか、自分探しとか、自己実現とか、自分の幸せとか、「自分の何々=自分教」の世界から解放してもらえること

 つまり、意識を自分中心の狭い視野から開放され、他人や広く人間全体に向けることができるようになるということなのですね?でも、私にできるのか?なんだかとても難しく感じます。
 やっぱり私は自分が一番かわいくて関心があります。自分を救う、安定させることで手一杯なのに、他人のことなんて、とつい考えてしまう私は俗人中の俗人、罪な存在としかいいようがないし、信仰を持った場合、現実の自己中心な自分と信仰上の教えとのあまりのギャップに却って悩まされそうな気がします。

>年収とか偏差値とか、数で表されるものばかりです。そんな世界で、なんか、方向が全然違う、「自分は他の人のためにいる」みたいなことをどこかで誰かが声に出して言ってくれること

 アメリカのハードボイルド小説のセリフに「強くなくては生きていけない、優しくなくては生きている資格がない」といったものがありますが、信仰とはこの「資格」の部分なのでしょうか。これは分かる気がします。いかに稼いだかだとか、勝ち組入りしたとかしないとかで決まる世の中なんて、考えただけで息苦しい。そんなものと無縁の世界が一つくらいなくては、世の中、本当に殺伐とするばかりだと思います。

>組織の中の権力の誘惑というのはどこでも大きいでしょうが、子供とかいないと少なくとも子孫に権力を残すという誘惑はないでしょうし

 それは、なるほど、と思います。例えばローマ教皇が家族を持ち、その地位が北朝鮮のごとく世襲制だったりしたらなんて思うとぞっとしますし、それでは必ず、腐敗、公私混同が発生し、信徒の信頼も得られないでしょうしね。カトリックのように上下関係がはっきりし、組織も大きい教団はこれくらいのケジメが必要なのかな?と思いました。

 でも、ここまで、無私に徹して、神に、人に尽くせる人の心理、気持ちに対しては敬意は持ちますが、「どうしてそこまでできるの?」と思ってしまいます。考えれば、考えるほど私は俗人中の俗人です。こんな私でも、キリスト教的、カトリック的には赦されるのでしょうか?果たしてそのメンタリティを理解することができるのか?なんだか、お話を伺うと自信がなくなってきます・・。

135迷える大羊:2007/05/18(金) 00:33:03
同伴者イエス
naoさん、いつも御丁寧にありがとうございます。

>彼が刑場に向かうときにそばにいた人が「ここからはあの方が同行されます」といいます。この小説の一番すごいせりふです。私はこの言葉とともに、生きられることがキリスト教の最大のメリツトだとおもつています

 いわゆる「同伴者イエス」という考え方でしょうか?私は個人的にいろいろなキリスト教の本に当たりましたが、遠藤氏のこの感覚、信仰のあり方が一番理解しやすいものでした。一人になっても、あの世へいっても常に側にいてくれ、話しかけることができる相手がいる、というのは人の精神安定にとても大きく寄与するかもしれない、と考えることはあります。
 蛇足ですが個人的にメンタルな面でのキリスト教解説書でいいな、と思ったのは遠藤周作氏の「私にとって神とは?」(光文社)と日本基督教団の牧師で同志社大の付属高校で聖書科教諭の富田正樹氏の著作「信じる気持ち」(日本基督教団出版局)ですね。

>キリストに恋するというんでしょうか?

 恋、で思い出しましたが、諸外国の場合はどうなのか、存じませんが、日本のキリスト教会の場合、女性比率がとても高いことに驚きます。単に私の気のせいではなく、カトリック中央評議会の統計をみても信徒の男女比は4:6。女性の方が多いんですよね。ネット上の知人であるお坊さんの話によれば、お寺には女性はあまり来ないとのこと。どうして、キリスト教は女性が多いのか、改めて不思議に感じます。

>自分も人に癪にさわる人間かもしれず、その償いに、なにかできるなんて、幸せなことだとおもつているんです

 立派だとは思いますが、自分がそんな心境に本当になるものなのか、とても想像がつきません。実は私、短気、というのとは違いますし、普段は怒ることがないのですが、一度「この野郎」と思うとかなり熱くなるタイプでして、徹底的に怒り、ケンカするタイプです。周囲はびっくりしますし、あまりいいことではないのでしょうが、怒るときは徹底的に怒らないと、ストレス溜まってつらいです。まして、そんな相手の為にどうこうなんて絶対に考えないタイプ。そんな自分ですから、上のような心境が実感としてわからないのです(多少反省はしますが)。やっぱり、キリスト教に向いていないのかなぁ、なんて考えてしまいます。

>「愛することだけ」

 月並みですけど、結局のところこれに尽きるんですよね。でも、これがある意味では、一番難しかったりして、と思ってしまうのですが(身内だけなら簡単ですけどね)。

136Sekko:2007/05/18(金) 17:15:53
大羊さん
 >でも、ここまで、無私に徹して、神に、人に尽くせる人の心理、気持ちに対しては敬意は持ちますが、「どうしてそこまでできるの?」と思ってしまいます。考えれば、考えるほど私は俗人中の俗人です。こんな私でも、キリスト教的、カトリック的には赦されるのでしょうか?果たしてそのメンタリティを理解することができるのか?なんだか、お話を伺うと自信がなくなってきます・・。

 っておっしゃいますが、それこそ、「何々できる人が共同体に入れてもらえる」というメリット(資格という意味で)の問題じゃないんですよ。そうしないと偽善者の集団になってしまいます。でも、利他を頭の隅においとけば、他人への怒りがおさまった時とかに、そこはかとなく自責の念が湧いてくると思うので、そのことで、次の怒りの時に少し陰影が出てくるかもしれない。「自分中心主義」の絶対王政の中に、反対勢力も敢えて温存しとくのは、危機管理としてある種のセーフティネットを用意するためにはいいことですよ。
 特に子供には、家族や「お母さん仲間」や先生などとは別にまったく無償で時間を割いてくれるカテキストのおばさんなどが存在しているということを見せるということはすごく貴重だと思います。そうでもしないと、いまどき無償でやさしくしてくれるなんて、それこそカルトの勧誘かと疑ってしまいますから。
  どの国でも教会に行くのは女性が多いですね。日本の場合は、男性は、親の宗派で葬式を出して位牌を守って、というような縛りがあるので、キリスト教の家に生まれなければ、成人洗礼は社会的にも心理的にもブレーキがかかるのでしょう。女性はミッションスクールに通って影響を受け洗礼を受けるという「おじょう様カルチャー」もあるので、そんな女性が結婚して、男の方は自分の親を看取り、引退してから、やっと、次は奥さんに自分が看取られたいということで、ようやく洗礼を受ける人もいるみたいです。リタイアして暇な分、教会の共同体という場を与えられて、いろいろ活動を始める人もいるようですね。
 まあ、信仰というのは、基本的に「呼ばれる」「召される」ということで、迷われているということは、きっとイエスの方ではもうとっくに大羊さんを見つけて「同行」しているのかもしれません。
 私は苦労が少ないせいか、この世で親切な同行者たちにめぐまれてるせいか、「あの方に同行して欲しい」とか切実に思ったことがありません。もし、刑場に向かうとか、激痛で断末魔のとこにいるとかいうシーンになったら、その私より相対的に弱そうな人はもう手近に見つからないと思うんで、その時は、その時こそは、受難のイエスに寄り添ってあげたいですね。一人じゃないってことで慰めてあげたいです。元気に生きてるときはセーフティネットを張っとく、でもそれが敗れたらあっさりあきらめる、で、奈落の底で、手足に釘を刺されて「渇く」と言ってるイエスに、私がそばにいてあげるからね、と言って一緒に苦しむ。そいで、私の方が死んで、イエスもお花畑も視界から消えても、まあ、そんなもんだと思って、「下界?」で私に祈ってる人や私を愛してくれた人たちに何かできないか考えますよ。「だめもと」です。

137nao:2007/05/18(金) 20:26:43
年齢ということ
大羊さんはこれから、結婚なさるというとてもお若いかたですよね。まず私の年齢の半分以下であることはまちがいありません。3分の1、かもしれません。「かなりあつくなるタイプ」。けつこうです。男らしいじゃありませんか!でもそれが「キリスト教にむいていない」とはまつたく検討違いだとおもいますよ。
私は女ですが、ひどく癪にさわる奴はわすれません。思い出すたびにむかむかします。でも大羊さんより、半世紀ほども長くいきてきて、やつぱり、自分もひどいや!とおもうことがおおいんですよ。これは年のせいで少しはわかつてきているのと、キリストがやはり自分の内面に絶えず語りかけるものがあるからだ、とおもうんです。自分の償いになるとおもえてきたのはまあ・・この年になつて、やつと・・てところかな・・。言葉がたりませんでしたね。
私はキリストが最初はわからなかつたんです。わかつたのはマリアでした。「マリアを通じてキリストへ」と最初にであつた神父さんがおしえてくださつたので、そのうち、キリストがわかるだろう、とおもつて、何十年もたちました。そして、やつと、いまごろキリストの十字架の意味もわかつてきたようなわけです。こんな信者もいるんだいうことを知つていただけると、うれしいです。
私は大羊さんのように、ご自分の意見を上手に表現される若いかたを最近みたことがありません。嬉しい限りです。サイト上でまじめに応答してくださることは、本当に素晴らしいことですし、年齢をこえて、いろんな方が大羊さんと会話してくださることをねがつております。
内緒ですが、キリスト教会にはへんな自信家がいるんですよ。自分の考えが絶対とおもつているやつかいなひとがいるんです。そんなの、聖人ぶつてて、一番きらいです。そんなひとにであわれることがないように・・とねがつております。大羊さんのような正直なかたこそ、皆キリスト教会にむかえたいのではないでしょうか?もし、私たちの教会に大羊さんのような正直なかたがきてくださつたら、大歓迎ですね。
どうか、なつ得のゆくまで、まよつてください。もうキリストがご縁のない方ではなくなつていますね。竹下先生のご明察のとうりだとおもいます。
それから、『自己実現』ですがこれには自分の能力を最大限にのばしてゆく、ということと、宝石の原石をカツトしてひかり輝くという二つの意味があるとおもいます。若いときは能力をのばす、しかし、やがて、限界がみえてくるときがあります。そんなとき、自分の何を捨てるか、かんがえてゆくのも「自己実現」だとぽもいます。後者のほうがじつはひどく難しい。そんなとき、キリスト教は「愛する」ことを最優先するので、カツトの方針がたちやすいようにおもいます。
大いに、競争OK.でもいつかはそれが空しくなるという引き出しもあると、「時」がくれば、その引き出しをそつとあけてみるということもいいのではないでしょうか?
理想を前面にたて、自分の至らなさに、こんなことでは・・と考えるひとがいますが、それは不自由な生き方だとおもうのです。自分をおおいに楽しむやり方が、キリスト教と出会いそうな「時」がきましたら、どんなに嬉しいかとおもつた次第です。きつとそうなることをねがつております。竹下先生と私は20歳の差があります。少しぼけ始めた、老人の独り言とおかんがえください。

138迷える大羊:2007/05/19(土) 01:17:10
キリスト教あれこれ
Sekkoさん

 いつも、お疲れのところ恐れ入ります。

>日本の場合は、男性は、親の宗派で葬式を出して位牌を守って、というような縛りがあるので、キリスト教の家に生まれなければ、成人洗礼は社会的にも心理的にもブレーキがかかるのでしょう

 実はクリスチャンならカトリックと思った理由の一つにこの辺りの問題についての対応が現実的だったことがあるのですよ、カトリック教会って。近くのカトリック教会の神父さんの話では、葬儀はノンクリスチャンの家族とのことも考え、仏式で執り行った後、非公式でカトリック式の葬儀も上げる、という対応もできるし、分骨も可能とのこと。

 なんといってもホッとするのはプロテスタント福音系の教会と違い、お焼香などを「偶像崇拝、異教崇拝」などといって拒否したり、タブー視したりする信徒や聖職者が少ないこと。私の近くのカトリック教会の神父さんなどは、むしろ、積極的にお焼香しなさい、という立場です。未信者の分際でいうのもなんですが、お焼香ってそんなにクリスチャンのアイデンティティに関わることなんですかね?ごくごく一般的な日本人でお焼香に信仰を問うたり、踏み絵的な意味を見出している人なんてどれくらいいるんでしょう?それを異教崇拝とかなんとかいって拒否するのは大変自己中心的な、それこそ愛に欠けた行為のように私には映ってしまい、福音派プロテスタント教会から離れた理由の一つになってます。

 あと、若い男、働き盛りの男が宗教などに頼るのは女々しい、という感覚は確かにあるかもしれません。私の友達(もちろんノンクリスチャン)も「信じれば救われるなんて甘いんだよ」なんていってますし、カトリック東京教区のサイトの掲示板でも、ノンクリスチャンの夫を持つ女性信徒の相談で、上の女の子が生まれたときは幼児洗礼OKだったけど、男の子のときは「男に宗教はいらない」ってことで幼児洗礼を反対された、なんて話が出てました。

>男の方は自分の親を看取り、引退してから、やっと、次は奥さんに自分が看取られたいということで、ようやく洗礼を受ける人もいるみたいです。

 有名人では元巨人軍で野球解説者の故青田昇氏、寅さんの故渥美清氏がそのパターンのようですね。あと、いわずとしれた長島茂男氏(大学は聖公会系ですね、そういえば)の夫人、亜希子氏はカトリック信徒のようですから、茂男氏もそろそろ・・ってことはないか(笑)

>まあ、そんなもんだと思って

 信仰のあり方は人様々なのですね。ところで、クリスチャン、カトリック教徒はイエスを「神」(それもあの意味不明な三位一体論とセットで)と信じなければならないのでしょうか?実のところ、私にとってイエスは欠点も弱点もある(聖書にはイエスが故郷では評判が悪く、家族仲も良くなかったことを推理させる記述もあるし・・)、至って普通の人間だと思ってます。その普通の人間が神を連想させる生き方をしてみせた、ひたすら人を愛することに徹してみせたところに意義というか、偉大さみたいなものを感じる、というのが私のイエス観(遠藤周作の「イエスの生涯」の影響が大きいのですが)なのですが、これは「異端」ってことになるのですかねぇ。
 イエスが完全無欠で超能力を駆使する「神」だなんて話はなんだか、その辺の怪しげな新興宗教の教祖様みたいで却って信じる気持ちが失せてしまいます。
 ちなみに福音系プロテスタント教会では「それではダメなんですよ、あの方は単なる偉大な思想家、宗教家ではないんです」ということでした。

139迷える大羊:2007/05/19(土) 01:56:21
クリスチャンあれこれ
 Naoさん
 いつも、参考になる話、ありがたく拝見させていただいております。

>私は女ですが、ひどく癪にさわる奴はわすれません。思い出すたびにむかむかします。

 いや、ホっとします。こういう話を聞くと。皆が皆、「敬虔」な人々だったりしたら、却って怖くて、引いてしまいます(笑)

>私はキリストが最初はわからなかつたんです

 確かにわかりづらいところはあります。私には現在進行形の話しです。まあ、奇跡なんかは信じなくてもあまり差し支えないかもしれないけれど、問題は復活と贖罪思想ですね。これらはキリスト教の核ですものねぇ。

 復活なんかも最初はホラー映画のように死体が動きだすんかい?アホラシと思ったものです(すみません)。やがて、そういう意味ではない、精神的なものであることがわかりますが、それにしても、あまりに非合理で、困り果てます。贖罪思想も理屈はわからなくもないけれど、そもそも、2000年以上前のユダヤ人宗教家の刑死が、一体全体、21世紀の日本という、あらゆる意味で一番遠いところにいる自分に一体どう関わってくるのか、今一つ実感が薄いことがありますね。
 私も年を取らないとわからないのでしょうかね。

>自分の考えが絶対とおもつているやつかいなひとがいるんです。そんなの、聖人ぶつてて、一番きらいです。そんなひとにであわれることがないように・・とねがつております

 まあ、それは宗教に限らず、どこの世界にも必ずいますよね、そういう人。実は私の職場にもそういう人いましてほとほと困ってます。ただ、宗教の場で厄介なのは「神」が絡むことでしょうね。客観的にみれば、明らかに自分の思い込み、意見、偏見を語っているだけなのに「これは神の御心」だなんて神の御威光をバックに自分を正当化しようとする人は確かにいそうです、というかいます。そういう人や出来事をみると「これだから宗教っていうのは・・・」なんて思ったり、思われたりしますよね。まあ、折角、心の洗濯をしに教会に行くのに、また煩わしい人間関係が一つ増えただけだった、なんてことがないように、お祈りするしかないのかな?

>竹下先生と私は20歳の差があります。少しぼけ始めた、老人の独り言とおかんがえください

 大体、見当がつきましたが、公の場での明言は女性への礼儀として避けます(笑)。でも、ボケどころか、年代的にIT、パソコン関係が苦手な方が多い中、これだけの書き込みが出来るなんて大したものです。うちの母などパソコン、インターネットはもちろんのこと、携帯電話すら、怪しげです(笑)

>自分をおおいに楽しむやり方が、キリスト教と出会いそうな「時」がきましたら

 そうですね、無理をしても仕方のないことですし、長続きはしないでしょうね、まあ、焦らず、自然体で行きたいものです。それにしても、クリスチャンの彼女との出会いがなければキリスト教にこうして関わることもなかったでしょう。やはり、何かしらの縁がキリスト教と私の間にはあるのでしょう。先のことはそれこそ「神のみぞ知る」ですね(笑)

140Greencurry:2007/05/19(土) 09:24:50
信仰とは?
大羊様、皆様、

大羊さんの信仰するメリット・デメリットという疑問が印象に残り、
皆様のやりとりを拝見していて、信仰ってなんだろうなあと思いました。
私はキリスト教徒ではないし、宗教にも詳しくないので、あまり語るべき言葉を持っていません。
ですが、遠藤周作の本は好きでだいたい読んでいます。
『沈黙』に出てくるイエス像が私の考えるイエス像にもっとも近いです。
そういう点では大羊さんと似ているかもしれませんし、ひょっとしたら多くの日本人がそう感じるかもしれません。

それで、今週は、宗教とは?と会社の行き帰りに満員電車に揺られながら考えてました。
ずっと以前、祖母が亡くなったとき、斎場の帰りに見た夕暮れの空がとても美しくて、
その美しい空にひときわ光の強い星がひとつ出ていました。
その星を見て私の叔母(亡くなった祖母の娘)が『見て、きれいな星が出てる。きっとおばあちゃんだよ。』と言いました。そばにいた数人はみんな『ほんとだ、おばあちゃんだ』と言って、小さな感動に包まれました。
その時に私は宗教のはじまりってこんなものじゃなかったのかなぁ?と思いました。
星とおばあちゃんは何の関係も無いのに、何の迷いも無く星がおばあちゃんだと思える。
おばあちゃんが亡くなったのはとても悲しいのに、もう病院のベッドで機械につながれてもいなくて、痛みもなく、きっと自由で楽になっていると思えて、悲しみが少し和らぐ。
(クリスチャンなら「神のもとへ帰った」と思える場面かもしれません)
信仰って私たちの悲しみを癒してくれるのじゃないでしょうか?
そういえば、前に拉致被害者の家族の人が「今まで自分を支えてきたのは信仰だ」
と言っているのを聞いたことがあります。(そこしか聞こえなかったので詳しくは分からないですが)
宗教のよい面はそういうところではないかと思いました。
だから、「聖戦」なんていう、人の悲しみを増やすようなのは、宗教の名を利用しているだけだと思います。

なんだか、幼稚な話で失礼しました。
みなさんが高度なお話をされているので、投稿しようかどうかと迷ったのですが。。。
大羊さんが大いに悩まれて幸せなご結婚をされることをお祈りしています(あ、これも宗教的だなぁ)

141あんとに庵:2007/05/19(土) 11:45:02
横入り失礼します
迷える大羊様
はじめまして。
実存世界やなんかで竹下先生にお世話になっているものです。日本の離島(カトリック教会なし)に住むカトリック信者です。
naoさんからこちらでの会話のお誘いをいただき参りました。

いくつかの疑問点、出された命題について記してみようかと思います。まずご質問への回答として。

・キリスト教、カトリックを信じるメリット、信じてよかったことは一体なんでしょう?

メリットという発想がなかったです。子供の頃に教会に通わされ、中高とカトリックの学校に行き、その時洗礼受けようかと勉強したこともあります。しかしすぐに思春期固有の反抗期がきて、シスターや神父に「けっ」てな感じになって離れましたが。
祖母も聖公会之女学校出身で家族の死生観というか、なにか基礎となるアイディンティティ、思考がキリスト教徒だなぁと実感したので、カムアウトする為に洗礼受けたです。うちの父が「お前はどう考えても耶蘇なんだから洗礼受ければ?」と言ったのが教会に再び通うきっかけになりました。
それとわたくしは独身で、しかも自由業という、家族や仕事等のなんらの共同体に属していないので、そういう疑似家族的な共同体にちょいとした憧れがあったんですね。ほんとうは共同体に属するって面倒くさいじゃないですか。嫌な他人(めんどくさい家族)と付合わなきゃならん。でもそういうむかつくことも含め、他者と一緒にいるってのが、まったくの孤独な状況だと憧れになったりするんですよね。で、教会も当然人間の作る共同体ですからむかつくこともあります。なんじゃこいつ?と思うこともありますが、そういう迷惑の掛けあいってのが共同体ってモノなんだと思ってます。あと、親との共同体以外の逃げ場が欲しかったというか・・・。逃げ場って必要かも。

ところで、教会に戻る時にキリスト教会ならどこでもいいや。と思っていたので、近所にある福音派の教会に行こうかなと悩んでいたすが、ふとしたきっかけで知りあった福音派の牧師先生に「君はカトリック以外考えられないから、カトリック教会にいった方がいいよ」と言われまして、カトリック教会に行きましたです。今思えばその牧師先生は本質をついていたと思います。向き不向きの共同体があるんですよね。だから教派がこれだけあるんだと思います。もっともいまやカトリック教会もプロテスタントの日本キリスト教団や、福音派のようなメインラインの教会すらない小さな離島に住んでしまいましたが。(でも隣の島から神父様がうちに来てミサ挙げてくれるんですよ)

・奇跡、復活について

私がかつてした告解の一つが「わたくしはからだの復活、永遠の命ってのが信じられんのです」というモノでしたが神父様はそれは罪ではないし「わたくしも判らないことです」「皆が死ぬまで考えることでしょう」という回答をいただきました。未だそれがなにか考えています。

・人間イエス

迷える大羊さんがおっしゃるように、これこそキリスト教の中心的課題で、あきらかに弱い人間であるイエスがナンで神よ???を考えることが神学のひとつだったり。「み言葉が神になる」ということがキーワードかもしれません。ちなみにわたくしもあきらかに人間だろう?優れた思想家だったんじゃない?と思っておりましたが、今はその「み言葉が神になる」ことゆえに神だと考えています。しかし、ここに至るには30年を要しました。
ちなみに神でもあるイエスが、悩んだり、トンでもなことを母親にいい放ったり、空腹のあまりにイチジクの木に八つ当りをしたりするのは、人でもあるからなんですね。人としてこられた神というのそのように人でなければいけないのです。それこそがまさにキリスッと教の中心を為す神学の根底にあり、迷える大羊さんの疑念はすごく健全で、神学世界の入り口に立っておられるなと思います。

142nao:2007/05/19(土) 12:32:02
お礼
あんとに庵さま 早速願いを聞いていただき、投稿していただきまして、本当にありがとうございました。なんだか大羊さんの母親になつたみたいな感覚で(失礼!)今回はおおくのかたに是非参加していただきたかつたのです。皆さん、竹下先生から多くをいただいているかたが、この機会にどんどん発言してくださいますよう、先生にかわりまして、お願いもうしあげます。
大羊さんのおかげで、自分の信仰つてなんかな?とかんがえはじめました。うまくかけないのに、驚いている始末です。おかしなものですね!普段は信仰抜きに生活できていないのに!またおもつたことをかかせていただきます。まずはお礼まで。グリーンカレイさん、また新鮮な問題提起でしたね。考えさせられます。

143迷える大羊:2007/05/19(土) 20:15:28
信仰の威力
GreenCurryさん

 初めまして。お応え、ありがとうございます。

>「沈黙」

 いい作品だと思いますが、発表当初(1966年)はカトリック教会からは猛烈な反発があり、遠藤氏はミサの最中、司祭より名指しで非難されたそうですね。確かに主人公が最終的に踏み絵を踏んで、棄教してしまうクライマックスは保守的なクリスチャンには耐え難いものがあるかもしれませんねぇ。何カ国語かに翻訳され、好評を博し、ノーベル文学賞候補にも上ったらしいのですが、結局受賞できなかったのはキリスト教国である欧米諸国でもこのクライマックスに賛否両論があったのと、あまりに日本人的なイエス、キリスト教理解が、今ひとつ受け入れられなかったせい、と聞いたことがあります。

>信仰って私たちの悲しみを癒してくれるのじゃないでしょうか?

 なんとなくはわかりますけどね。ちなみに私の彼女がクリスチャンになったのは、実母が小学5年か6年のころ病気で亡くなったことがきっかけです。彼女にとってつらい時期を支えてもらった「恩義」があるせいか、キリスト教に対する思いいれは人一倍で、私みたいに、やれ奇跡がどうのこうのだとか、聖書にはとんでもないこと書いてあるぞ、みたいな疑義は全く生じる余地がなかったみたいで、本当に素朴に信じてます。
 彼女に限らず、熱心な信者の方というのは肉親との死別とか失業、事業の失敗とか何か強烈に日常生活の価値観に疑問を感じる出来事を体験された方が多いように思えます。とある教会で話をした女性信徒の方(私と同年代30代)などは嫁姑などの家庭問題、育児問題に悩んでの末の入信でしたし。あくまで私の見聞きした範囲での話しですが。

>「聖戦」なんていう、人の悲しみを増やすようなのは、宗教の名を利用しているだけだと思います。

 大部分はそうかと思います。でも、話をややこしくする原因にはなってるんじゃないかなぁ、とは思います。例えば、パレスチナ紛争におけるイスラエルはどう考えても侵略者の立場ですが、ユダヤ教の経典である旧約聖書では彼の地は「神から与えられた土地」になってますよね、確か。これじゃあ、まともな話合いなど成り立ちようがないですよね。

 ちなみに私は旧約聖書があまり好きではないのです。単純に登場人物の相関、状況背景が分かりづらく、読みにくい、というのもあるし、苦労して読んでみても、侵略、虐殺、とんでもない話(同性愛者は死ね、だとか、親に反抗する子供は石投げて殺せとか、兄弟を売り飛ばす話とか)のオンパレードで、こんなおっかなくて、ビンラディンもびっくりの過激な破壊行為をやたらと繰り返す神様を本当に「主」として崇めなくちゃならないの?と聞きたくなってしまうんですよね。
 クリスチャンの皆さんは、旧約聖書ってどう思っていらっしゃるんでしょうね?話が脱線しました、ゴメンナサイ。また、お相手下さい。

144迷える大羊:2007/05/19(土) 21:11:39
横入り歓迎いたします
あんとに庵さん

 初めまして。信仰歴について興味深く拝見させていただきました。

>父

 お父上はクリスチャンなのですか?もし、そうでないとしたら、ずいぶんとキリスト教に理解のあるお父様ですね。大概のクリスチャンでない日本人はキリスト教に悪い印象はほとんどないもっていないけれど、自分や自分の身内が洗礼を受けるとなると抵抗する人が多いじゃないですか。父親ではなく、私の会社の先輩の話ですが、彼女がクリスチャンです、という話をすると、「へぇ〜、いいじゃない、でも、日本人なのになんで?」ってな感じの反応をされました。どこか、自分とは遠い世界のファンタジー的な感覚があるんでしょうね、キリスト教に関しては。

>疑似家族的な共同体

 まあ、これはジョークですけど、なんだかヤクザ組織に似ているような(笑)。あちらの方々も、見習い(求道者?)から始めて、修行(公教要理教育?)して後、盃を交わし(洗礼?)、構成員(教会員?)になるってプロセス、互いを兄弟に擬して、兄だとか姉だとか呼び合うこと(カトリックではあまり聞かない気がしますが)、シノギ(生活手段、稼ぎ)は各人の自由で上納金(献金)を組織に納める、などなど・・・。

 極端な話、違いは悪いことをするとヤクザ、善いことをするとクリスチャンになる、くらいかな、なんてね。最大教派のカトリックはさしずめ山口組みたいなものかな、などとくだらないこといろいろ、考えました。しつこいようですが、あくまで冗談ですよ、怒らないで下さいね(笑)。でも、伝統的教会は高齢化が進み、若年者が不足しているようですが、あちらの方々の世界もそれは同様だったりするなど、妙に共通点があったりして・・・。

>向き不向きの共同体があるんですよね。だから教派がこれだけあるんだと

 そうですね、でも、それが逆にキリスト教のいいところだと思います。一つの教会がダメだからといって即、キリスト教の世界から去らねばならない、ってことがないのですから。また、それがキリスト教の奥深さかと・・。組織、人間関係の面倒さなど気にならないくらいの生き甲斐、というか信じ甲斐のあるものを見つけられればいいんですけどね。

>「わたくしはからだの復活、永遠の命ってのが信じられんのです」というモノでしたが神父様はそれは罪ではないし「わたくしも判らないことです」「皆が死ぬまで考えることでしょう」という回答

 そうでしょうね。真面目に考えて、信じれば信じるほど却ってワケがわからなくなりそうな気がしますよ。信徒になってもそうなんですね。でも、それだと、信仰告白の時はどうされたんですか?あまり、心底からは信じていないけど、とりあえず「信じます」と答えたとか?また、カトリックの信仰告白ってどんな内容なんでしょう?

>み言葉が神になる」ということがキーワード

 うーん、今の私にはよくわかりません。あと、神でもあり人でもあるっていうのも。昔のテレビヒーローの仮面ライダーやウルトラマンみたいに変身するとか??(笑)。あと、それだと、神が神に生贄をささげ罪を償ったってなことになっちゃいそうな気がしますし。
 別にふざけたり、茶化しているつもりは全くないのですが、真面目に考えれば考えるほど、よくわかんなくなる、というのが率直な感想です。

>離島

 それは大変ですね。離島でも伊豆大島ですとか佐渡島なんかにはカトリック教会があったりしますから、そういうところではないのですね。出張ミサなんてあるんですね。ただでさえ、信徒数のわりに人手が不足し、忙しい神父さんがそこまで行くのもまた大変だな、ご苦労様です、と声をかけたい気分ですね。
 お相手ありがとうございます。

145あんとに庵:2007/05/19(土) 22:35:47
どもども
迷える大羊様

父はクリスチャンではないですが神戸育ちなもんで。聖書も若い頃に読んでいますし、勉強もしたようです。でもバリバリの日本人です。しかも右翼。読んでる本が「正論」取ってる新聞が「産経」・・・ですんで本人は「俺は神道の民だ!」といいながら、永平寺に座禅組みに行ったり、寺の檀家の集まりに行ったり、教会に誘うと大きな声で聖歌をうたったりしています。典型的無節操ともいえるほどの宗教観の日本人です。
あと、子供の頃の環境での馴染があるから抵抗感もなかったのだと思います。父はそのあたりは国境なき思考です。
なんでもいいから宗教心をきちんと持つことが大切だと考えているようです。母なども同じ考えなので教会に関わることには賛成でした。

ヤクザとの関連ですが、ヤクザ組織の家族制って実ははみ出し者を救う機能はありますね。どこにも行けないつまはじきのものを受け入れる懐の深さ故に昔のヤクザ組織は、世間より仁義を大切にしていたわけで。ゆえに失礼ではなく、寧ろ本質ついているかもです。

近代合理主義以降の現代の風潮の欠点を挙げるとするなら、「家族」的なるモノ、血縁でない他者との関わり合いの希薄さが挙げられるかもしれません。やくざもカトリックもその古臭いシステムの中で他者との関係性を大切にするという点では共通してますね。

ま、ローマ時代の伝統的存在といえば、マフィアとカトリック教会。マフィアのファミリーってローマ貴族のあり方が起源だったり。

>でも、それだと、信仰告白の時はどうされたんですか?

信仰告白はミサの度にやります。ニケアコンスタンチノープル信条といいます。検索すると出て参ります。カトリックの教義の全てが詰まっています。「クレド」ってラテン語で言いますね。
そのクレドの「からだの復活を信じます」と言う度に「うにゃぁ@?」となっておりましたので告解したのです。
で、神父様の回答を聞き、判らないことは信じますとは言えないけど信じないとも言えないのが「わからない」ということナンだなと。たぶん自分が死に直面していないから呑気に考えているのかも。でも友人が死んだ時、再び会うために復活を信じたいよなぁと思ったのも事実なので、その「復活の希望」ゆえに信じてみたいとは思っています。

イエスが神になる>

イエスは変身するんではないんですが、笑)生まれた時から完全な人である完全な神って考えるのがキリスト教なんですが、まぁ、普通はなんだそりゃ?ってなりますよねぇ。変ですよ。これは。

この辺り、三位一体論が形成されていく推移を読むとなるほどなぁと思います。ギリシャ哲学的素養を必要とするので、私にはかなり難解で大変でした。あと青野太潮さんというプロテスタント神学者の著作は助けになりました。これを紹介してくださったのはルーテルの牧師さんでしたが、青野氏は福音派の方だったかと記憶します。まぁ、どんなキリスト教派の人も悩みぶつかる問題なんでしょうね。真剣に考えるとわからなくなるから多くの人が、著作書いたり読んだり、2千年間それをし続けているのだと思います。
ゆえにそれがなにかを考えることが信仰の一つの営みだったりします。イエスが神って、それってどういうこった?って考え続けることもまた、祈りの一つなんだと思いますね。

146nao:2007/05/19(土) 23:44:36
目にみえないもの
今「博士の愛した数式」テレビで見おわつたところです。そのなかで「一直線」というのがありました。線分は実は永遠につづく目にみえないものの一部分なのだ、というんですね。イエスは線分、神は永遠。その二つは一つ。でも神は永遠。イエスは永遠で有限。有限が無限と一体。これこそ、考えるに値するテーマですね。三位一体のような判りにくいものをまじめに考えつづけてきたヨーロツパの知性にこちらもまじめにとつくんでみてやろう、とかんがえるのも面白いかもしれません。

カトリツクは人間関係がややこしかつたら、よその教会のミサにゆけばいいという逃げ場所があります。私の知人はキリスト教会でいじめにあつて、よそにゆきましたが、そこでもまたいや・・・な目にあつて、もうどこにいつたらいいんかわからん・・となげいていました。どこの教会にも出入りできるつて、すごいことなんですよね。

あんとに庵さんがはいつてくださつたおかげで大羊さんは、ものがいいやすくなられたみたい。あんとに庵さんて、ブログでもこの魅力ありますね。大羊さんもお邪魔してください。

ではお休みなさい。

147Sekko:2007/05/20(日) 21:24:33
日本人とキリスト教
 バロックバレーの研修がようやく終わったのでここを見るとなんか盛り上がってました。ありがとうございます。後、室内楽とオーケストラ、生徒の発表会などというイヴェントが少々あり、その他はいよいよ無神論の本に集中です。
 この無神論の本を準備していくうちに、神とか信仰の問題がよりよく分かるようになりました。要するに、神を信じていた人がそれを失うのが無神論なんですよね。最初から無関心とか信じてない人は、否定すべき対象がない。否定するということは、その対象と真っ向から向かい合って対決することなんです。昔、私は典型的な「普通の日本人」だったので、たとえば、大羊さんやあんとに庵さんみたいに、イエスの復活?まさか、あるわけないよね、とか、いまいち信じられない、なんて考えたこともありませんでした。たとえはすごく変ですが、「ミッキー・マウスの耳って、大きすぎて不自然じゃない?」とかいう問いを立てないみたいなもので。
 大人になって無神論になった人の「神っていなかったんだ、自分はずっとだまされていたんだ、」という愕然とした恐怖の記録(あるいは呪縛が解けた自由の記録)って、読んでも実感がなかったんです。サンタクロースがいないと知ったって、親がそっとプレゼントを置いといてくれる善意のメカニズム自体がサンタクロースなんだなあ、とか思うタイプなので。
 しかし、子供の頃から、困った時の神頼みってのはありました。どうにもならない時「神さま、助けて、」と言うのは。これは「神さま、仏さま」と同義で、別に一神教の神ではなかったのですが。ある日、そういう超越した存在はなくて、すべて「脳内神さま」だったとしたら・・・という仮定をたててみたら、ちょっとショックでした。じゃあ、今まで祈ってたのは一体なんだったんだとか思って、無神論者の絶望をちょっと実感できました。それと平行して、信仰、疑い、棄教、回心、無神論、ニヒリズム、とか、ミニサイクルで、ぐるぐる何回転もシミュレーションしました。もし日本にずっといたら、そういう実感のシミュレーションはできなかったと思います。今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。私の場合、他のみんながそう言ってる信仰の共同体の真ん中で、「私は実はちょっと、ここのところは信じられないんですけど・・・」なんて敢えていうことで、そこにいる人を不快にさせたり悲しませたりしてはならないという原則が優先的になります。私個人が心の中で信じているとかいないとかはその場ではたいしたことじゃないと思えるんで、優先事項にならないんです。「私の信仰」とか絶対的なものがあるんでなく、文脈や関係性のうちに、他者をリスペクトすることを優先することで選択される感じですね。
 でも、トリノの聖骸布とかの話を読んでると、復活もありかなあと思います。いわゆる栄光の体じゃなくて、傷口が開いたまま、では血まみれではなかったのかとか、使徒にさえすぐに分かってもらえなかったというのは、殴られた痣と腫れで面変わりしていたからなのか、いろいろ考えてしまいます。『カトリック生活』という月刊誌の5月号と6月号に知人の写真家と編集者の話が載っています、二人ともカトリックではないんですが、カトリックの巡礼マニアです。6月6日には、『聖骸布の男』というムック(講談社)が出ます。聖骸布の実物大ポスター付。彼らと一緒に去年の夏、実物大精密写真を見に行って、みんな魅せられた感じになりました。私はポジ画像の布の繊維に残った血の跡があまりにも生々しくて、すごく残酷、すごくかわいそうだと思いました。無限の神が有限の人間になるって、結局こういうことなんですよ。あまりいいたとえじゃないですが、3次元の存在の神が、2次元の紙の上でアニメみたいに展開するこの世の出来事を眺めてるとします。その2次元の表面は神の3次元に全面的に触れているんですけど、空間概念はないんですね。そこで神が、2次元の人間たちを救おうとして2次元の世界に入っていく、もちろんそこでは神も2次元的でしか存在できない。この上には神の国という3次元があると説く。でも2次元には結局彼の居場所はないんです。血のしみを残して追い出されるんですね。でもそのしみも、2次元の世界はすべて、アニメ原作者だった神のいる3次元と境界を接していて、いつもコンタクトを受けているんです。ええと・・・話が変なほうに逸れました。あまり深く考えないように。
 ここに書きたかったのは、私が「日本人とキリスト教」で連想する二つのエピソードの紹介です。一つはプロテスタントの家に生まれて幼児洗礼を受けた知人(団塊の世代)の話。当然まったく普通の人で、普通にふるまってるんですが、私にとっては、その年代で、プロテスタントであることで、子供の時に自分は他人と違うという意識は相当芽生えたはずだろうとすごく好奇心を持ったんです。質問したら、全然そんなことはない、マイノリティ意識はまったくないと言うんです。私がしつこく聞くと、そういえば、と中学時代のエピソードを話してくれました。昔の公立中学は、制服はもちろん丸坊主におかっぱとかいう髪型の校則のあるところが多かったんです。彼の中学もそうでした。だけど、お母さんが、自分たちはクリスチャンなので、と学校にかけあって、彼だけが3年間たった一人坊主頭でなかったそうなんです。その人はすごく自然に、なんでもないような感じで話すので、私は返す言葉がありませんでした。でも頭の中にはありとあらゆる「つっこみ」が渦巻いていました。えー、それって、めちゃトラウマなんでは・・・ヌーディスト・ビーチでコート着てブーツはいてるような感じでは? いじめの原因にならないかとか、いや、そもそも、クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ、それをOKして例外を認めた学校側も相当変では・・とか。
 私は校則のドレスコードなど、すごく嫌いでした。何度も注意されました。だから、個人の表現に関する校則を守らないというのは気にならないんです。でも、中学くらいでは、たとえ、うちの子には髪型を自由に選択させます、それが教育方針ですので、って親が学校に乗り込んだとしたら、嫌がる子の方が多いんでは。昭和40年代くらいの話でしょう。日本のクリスチャンって、日本人じゃないんだなあ、とか思ったエピソードです。
 もう一つのエピソードは、普通の仏教の家に生まれて、自分で思うところあって洗礼を受け、その後でカトリックの司祭になった人の話。日本でカトリックの司祭になる人って、家代々カトリックという幼児洗礼組が圧倒的に多いかと思います。洗礼を受けるのでさえ先祖の墓は誰が守るって話になるのに、生涯独身の司祭となると、もっとむずかしいのは想像できます。でも、その司祭は、両親がそろって洗礼を受けたんですよ。なぜかというと、「お前が司祭になるのに親が仏教では肩身が狭いんじゃないかと思って」というんです。もちろん、両親の宗教で差別されるようなことはありません。そんなこと言ってたら、ますます日本に聖職者なんていなくなります。だから、この人なんかは、親に洗礼を勧めたわけでもなく、逆に、司祭になることに反対されないかということの方が気がかりであってよさそうです。それが、親のこの言葉・・・
 私の義理の妹はカトリック・ファミリー(といっても日本の仏教と同じで、他に選択肢のない檀那寺や氏神さま状態の村の話)で生まれて育ち今はチベット仏教の尼僧です。独身誓願もしてます。家族の誰も反対せず、チベット・コミュニティーと交流してます。しかし、彼女の立場がよくなるようにみんな仏教徒になろうという発想は絶対ありえないですね。
 「お前が司祭になるのに親が仏教では肩身が狭いんじゃないかと思って」・・・すごく日本的だと思いました。この親にとってはイエスの復活がどうとか、三位一体がどうとか何の障壁にもならなかったに違いありません。神は息子だけじゃなく、両親も呼んだんですね、きっと。

148Fusako:2007/05/21(月) 21:28:49
私とキリスト教
私は、中学・高校とプロテスタントの学校に通いました。長老派だったでしょうか。でも、プロテスタントの中の宗派はおろか、カトリックとプロテスタントの違いも定かでない、という程度の興味しか、昔も今もキリスト教には抱いていません。
わたし自身は無宗教、しいて言うなら「自分教」などと人には言っています。
でも、年をとって、昔、学校で学んだいろいろなことが、如何に自分の中に入っているか、不思議なもの、キリスト教の学校で良かった、と思っています。
クリスチャンになる、というつもりはないのですが、学校で教わったことにとても多くを負っています。で、キリスト教自体には肯定的な感じを持っています。その、肯定的な感じは、もっぱら、聖書と聖歌から来ていますね。聖書は好きです。その一番の理由は、聖書がセクトの言語で書かれたものではないこと。教団・宗派、はもとより、閉鎖社会・サークルの中での「業界用語」で閉鎖された社会を作る人々、が好きではないので。それから、聖書について好きなのはその内容。若いときにはわからなかったり、それから納得できなかったことが沢山ありましたが(放蕩息子の喩えとか)、今は、そうした喩えを興味深く思います。
聖歌、というのは、主として賛美歌ですけれど、美しい歌とハーモニーに満ちた学校生活だったのは恵まれていたことでした。ハーモニー、つまり、違う音色の人たちの美しい調和、から毎朝が始まる、毎朝の音楽を楽しみにする暮らし。一番感じやすい年頃にそういう生活を送れたことには感謝しています。感謝は、親と神様に。
で、この「神様」というのが、結局、今に至るまでわたしの中に残っているキリスト教ですね。宣教師の先生も多い学校で、英語教育にも力を入れていました。で、聖書や英語から学んだのが、「与えられたもの」という観念ですね。人は「生まれる」のではなくて、was born 生み出してもらうものですし、人の心の深いところに届くものは、自分で選んだものではなくて、touched、moved のように思いがけなく捉えられるものですね。
端的に、最も大切なものは、人間が自分で選べるものではなくて、与えられた、選択の余地のないもので、そのように、与えられたものを大切にしなければならない、ということが、「神さま」の教えの中心として残っています。誰も、自分を選んで生まれることはできないし、自分の親も子どもも選べない。結婚も、まあ、計算で選ぶ結婚も多いですけれども、恋愛は、自分で選ぶのではなくて、fall in してしまうのが本来でしょうし。
そんなことが、学生時代からの「教え」として入ってしまっているので、逆に、わたしは特定の教義に入らなくなってしまったのかもしれないです。メリット、デメリット、よりも、人間が自分で選ぶ教義、これが他のものよりも良いから、というような説明のつく教義、神様、なんて、逆になんだか変、という気がするんですね。
というわけで、自分で選ぶことなどできないままに与えられた、自分自身や自分の子ども、をはじめとして、与えられたものを大切にすることが信仰であろう、と考えています。
久しぶりにここのやりとりを読んで、ちょっと入れて頂こうと思ったのですが、まとまりのない抽象的な感想になってしまいました。

149迷える大羊:2007/05/22(火) 00:54:09
イジメ、ですか・・・
>私の知人はキリスト教会でいじめにあつて

 イジメ、イヤですねぇ。キリスト教会でイジメって、なんだかなぁ、まさに神も仏もあらへんわ・・って気になっちゃいますねぇ。まあ、クリスチャン、とかカトリックとかいっても別に普通の人間であるわけで、水ひっかけられたり、かぶったりしたくらいで変われれば苦労しないよ、ってところなんでしょうが。しかし、選りによって、信仰の場でイジメに遭うなんてと職場とか学校でイジメられるよりつらいでしょうねぇ、何が原因なのかはわかりませんが。人間関係の苦からは教会でも逃れられないものなのですね。

>なんでもいいから宗教心をきちんと持つことが大切だと考えているようです。母なども同じ考えなので教会に関わることには賛成でした

 あ、うちの親もそうです。ちなみに父は無宗教ですが、宗教は好きで、聖書やコーランには詳しいですし、母はとある仏教系新興宗教の信者です。そんなわけで、平均的日本人がキリスト教に関わる際につきものの反対、抵抗はないですね。

>二ケア・コンスタンチノープル信条

 近くのカトリック教会で買ったの祈祷書らしきものに載ってました。確かに「からだの復活」とありますね、弱りましたね、これは、どう読んでも生物学的復活を信じろ、といっているようにしか・・。あと、ちょっぴり気の毒な気がするのがローマ総督ポンティオ・ピラト。彼からすれば、何の興味もないユダヤ教内部の内輪もめに巻き込まれたあげく、2000年以上にわたって、基督教が続く限り、ミサや礼拝の度に責められ続けるのですから、たまらないよなぁ、と思うのは私だけでしょうか?素直さが足りませんかね?私。告解した方がいいのかしら??(おっと私はカトリック教徒ではありませんでした)

>そこで神が、2次元の人間たちを救おうとして2次元の世界に入っていく、もちろんそこでは神も2次元的でしか存在できない。この上には神の国という3次元があると説く。

そういえば、詳細は忘れましたけど、少年時代にそんな感じの話のSF小説を読んだ覚えがありますね。

>ますます日本に聖職者なんていなくなります

 本当に神父さんって不足してますよね。近くのカトリック教会の神父さんも確かもう70歳近く。年齢の割りにはとてもお元気で精力的に活動されていますが、彼が倒れたり、亡くなったりしたら、あの教会はどうなるのだろう、と心配してしまいます。他にもそんな教会いっぱいあるんじゃないですかねぇ?何しろ、プロテスタントの牧師以上に求められる条件が厳しくてそうおいそれと養成できませんしね。

>自分で選ぶことなどできないままに与えられた、自分自身や自分の子ども、をはじめとして、与えられたものを大切にすることが信仰であろう

 趣旨はなんとなくわかるのですが、そういわれてしまうと、もうそれ以上何もいえなくなってしまうし、「与えられた」という機会や実感のない人、未信者で理屈で理解するより仕方がない人間は、そこでもうキリスト教との関わりはお終い、ってことになってしまうのでは?。そんな人(他力本願的に信仰が与えられる人ですね)どれだけいるんだろ?それこそ、日本人の1%以下にじゃないか、困ったものだなぁ、というのが率直な感想です。

 ところで、先々週のカトリック教会のミサの説教では、共同体の交わりを大切に、要するにミサにはちゃんと参加しましょう、とのことでしたが、現在の日本で、土日がきちんと休みになる職場の人っているようで、実は少ない気がします。かくいう私も、以前は工事関係で土日完全休みなどとても望めない状況でしたし、他にも仕事がサービス業、警察、消防関係等など、充実した教会生活を送ることが難しい人々はクリスチャンになるのは難しいのでは?私も今は土日が休める職場ですが、将来はわかりません。

 一応、カトリック教会では平日の早朝や土曜日もミサをやっているし、プロテスタントでも平日に祈祷会をやっていたりしますが、こういった職業の方はどうしても教会生活からは疎遠にならざるを得ないですよね。
 何回か職を変わったり世の中を曲がりなりにも泳いだ実感からすれば、今の日本で土日きちんと休め、それでいて生活をできるだけの定収入がある人というのはわりと恵まれた部類に属する人々ではないか、という気がします。
 こうした元々恵まれている人々のみに信仰が与えられ、人が休んでいるときにも働く人々、癒しが一番、求められる人々にはなかなかその恩恵に授かれない、というのもちょっと矛盾しているような気がします。
 といって、基督教にとって主日は変えられない、変えようがないものですし、難しいところですね。
 なんだかまとまりのない文章ですが、皆様、またお時間あればお相手下さい。

150nao:2007/05/22(火) 09:02:18
あれこれ
いじめにあつた知人という人はプロテスタントの70名位の教会でした。かなり知識人の多い地域の教会です。その中に、自分の考えを押し付ける教会役員がいて、この人にいじめられたんです。その人はいじめとはおもつていなかつたようです。転会するためにこまつたことは、住所がかわらないのに、転会は不可能といわれたことです。それで彼女は教会になつていない、集会にゆき、またそこでも、考えをおしつけられてこまつたというのです。そこは10名もいないところでしたから、毎回苦労したそうです。
考えをおしつけられる・・これが一番こまつたことですね。大羊さんがいつしゃつたように「神」が加担してくるような押し付けはエゴに神を利用しているわけで、許せません。
転会なんて、厄介なことやらなくても、ミサに自由にゆけるというのがカトリツクのいい点なんです。

151nao:2007/05/22(火) 09:06:01
あとで
どこかに手がふれたらしく、途中ではいつてしまいました。宅急便がきましたので、またあとで、続きをかきます。ピラトのこと、同じことをかんがえていました。あまりにもしつうこい、というか、あんなにやられたら、ピラトがかわいそうです。なんとかしてあげてほしい・・とおもいますよ。

152あんとに庵:2007/05/22(火) 20:09:26
共同体
どもどもです。

・共同体のこと

いじめの話が出ていますが、共同体というものに付物の宿命ではありますね。教会に限らず、或いは教会もまた一つの共同体なので。だから逃げ道として、複数の共同体を持てるというのが一番いいだろうなぁとは思います。

・ピラトさん

ピラトはトリック・スターですね。彼、個人というより、シンボリズムなんですが。彼的な立場に立つことって往々にしてあるとき自分はどう振舞うか?ということでもあるんでしょう。ピラトさんはあれら物語の中では第三者的な客観的人間として美味しい立場とも言えたり。
ユダのほうが気の毒な気が・・・(^^;

・関係性ということについて

sekkoさん
>今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。

キリスト教というのは関係性の宗教だなとは思います。三位一体の構造からしてそうですよね。ミサもまた「交わり(コミュニオ)」が大切だと言われます。それは神と人との関係でもあり神を通じた人とのかかわりというものが教会でもあり、二千年に渡る多くの人々との交流でもあるなぁと。
聖骸布に関わっていった人々も、その繋がりの中にあるなぁとか、考えてしまいます。なにかそういう過去の、或いは遠いところの人とも同じキーワードで繋がっていける面白さはありますね。

>クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ

このエピソードは笑えた。

・土日のミサ

迷える大羊さんがご指摘の通り、確かに土日の休みがない職場の方だと大変かもしれません。つっても教会もない土地で信仰の話などが出来るネットがある現代はそんなに辛くないかな。

・「与えられた」信仰

Fusakoさんがおっしゃる与えられたってのは「縁・えにし」みたいなものではないかな。なんでもそうですが「出会いに敏感でありたい」みたいな。縁を受け入れる。自然にあるものを素直に受け止めるような、そんな信仰。自然体の信仰。そういうのはいいなぁと私も思います。

迷える大羊さんの人生の中でキリスト教が縁あるものとして現れたのはいま現在ですが、それがまたどういうところに流れ着くかは、これもまた神様にしか判らないことかもしれません。神と大羊さんとで対話していくことなのだろうなと。

153Sekko:2007/05/24(木) 18:29:20
放蕩息子
Fusakoさん、ちょうどこのサイトの猫のコーナーにUPした記事に放蕩息子のたとえが出てきます。よかったら読んでください。

154迷える大羊:2007/05/26(土) 00:17:43
復活とは?
 先のあんとに庵さんとの対話にも出たことでありますが、イエスの復活って皆さん、どこまで信じますか?他の水の上を歩いた、といった類の奇跡はシャレで済むようですが、この復活はキリスト教の根幹にあたる教義ですから、いい加減にスルーするわけにはいかない、と思い投稿してみました。

  一口に復活を信じるといっても、主に三つのパターンがあると思われます。
 1.文字通り体ごと復活した。信者もこの世の終わりには体の蘇りがあると信じる。アメ リカの田舎、南部あたりにはいっぱいいそうですね、こんな人。

 2.イエスの復活は弟子たちの心の中に起こった体験である。イエスを裏切った弟子たち に対する恨みを叫ぶどころか、救いを祈って死んで行ったイエスに対する罪悪感、感動な どが入り混じった複雑な感情が巻き起こした、心の現象とする立場。

 3.イエスの復活は信者一人一人にイエスの精神が生きている、という心のあり方
   私なんかは信仰するとすればこの立場が一番受け入れやすそうな気がしますが。

 しかし、前のやりとりでも出てきたように、二ケア・コンスタンチノープル信条にはしっかりと「からだの復活」とあるし・・・。

 さて、皆さんはどの立場でしょうか?私個人の考えでいえば、たとえ、クリスチャンになったにしても1のホンマもんの生物学的復活だけは勘弁してくれ、という立場です。

 大体、イエスが肉体的に復活したからって、「だからイエス様はすごい、だからイエス様は神なんだ」と連呼したところで私の生活の実感が深まるとも思えないし、すごいのはあくまでイエス様だけであって、自分自身、あるいは自分が大事にしている人たちも、死んでしまったら、まず間違いなく蘇生なんかしないわけで、そんなオカルトじみた教義が一体、私たちの何の現実的な問題の解決になっていくのか、さっぱりわかりません。そんなこと本当にイエスが望んでることなのかなぁ、とも思ったりします。
 別に普通に21世紀の科学でものを考えりゃいいじゃないか、と思うのですが、こんな考えは一般的なクリスチャン、カトリック教徒からは受け入れられませんかね?

155nao:2007/05/27(日) 20:09:36
いまだに答えられず
いやあ・・大変な問いですね。お返事できないことだけ、あやまつておきます。そのうち何かかけるとおもうんです。ごめんなさい。それほど、本質的な問題なので、うかつにお話できないつて、おもつています。竹下先生、あんとに庵さま、よろしくお願いいたします。

156Sekko:2007/05/28(月) 01:00:34
フランスの信者の種類、復活のことなど
 フランスで私がとってるカトリック系総合週刊誌の今週の特集は信仰についてでした。面白い話が満載なので、少しずついろんなところで紹介していきます。ここでは、その中でフランス人信者の七つのグループという分類を紹介します。フランスはカトリック教会の長女といわれているくらい、カトリック的伝統は根強く、洗礼率で言えば軽く過半数がカトリックです。先だっての大統領候補12人のうち10人が洗礼を受けていてカテキズムも受けていました。でも、日常的には、日本人の仏教徒と同じで、家族の行事以外にあまり宗教色がありません。
 そんなフランスのカトリック(または元カト)の7つのグループ。

その1 迷わない派 「信じる、そして疑わない」
  ?道程 信者でプラティカン(実際に毎日曜教会に行く人のこと)の家庭に生まれ、ごく若い頃にラディカルな神体験をした。信仰は人生の本質に関わる。教区の中心人物
  ?座右の作家  十字架のヨハネ、ベルナノス、パスカル
  ?我慢できないもの  過激な無神論者、おざなりな聖歌、日曜にサッカー観戦かミサかを選べると思っている輩、社交のために教会で結婚式を挙げる人
  ?感動すること  神のみ心の徴し、回心の体験談
  ?教会でいつ会える?    最低限、毎日曜日

その2 探求派  「信じる、でも疑う」
  ? 信仰の中で育ったが、組織と愛称が合わなかった。教会の見解のいくつかには賛成できない。無垢な純粋派の信者にはいらいらする。あの世の存在には懐疑的だ。しかし信者だと公言して教区民としてふるまったりエキュメニカルな活動(超宗派的活動)や、宗教交流に参加するのは抵抗がない。
  ? シルヴィ・ジェルマン、モーリス・ベレ、ティヤール・ド・シャルダン
  ? 教条主義者、懐疑によって信仰を拒否する人
  ? 霊的探求をする人の話、希望
  ? 毎日曜、または、行事の日、または必要を感じた時。

その3 失望派  「信じていたがもう信じない」
  ? 組織や、教会の言説にうんざりしたか、病気や近親の死などで傷つい他後で教会から離れた。哲学や精神分析学や科学と出会って、確信が揺らぎ、自分のすべての土台を検討している。
  ?ニーチェ、アンドレ・コント=スポンヴィル
  ?真実を独占する信者、信仰は理性を無視していいとする輩
  ?ピエタ像やカテドラルのラインの美しさ
  ?結婚式、葬儀、ヴァカンス先での観光

その4 見習い派  「信じていなかったが、今は信じる」
  ?無神論かアグノスティックか、子供に宗教教育をしない家庭で育つ。 ある、出会い、読書、審美的なショックや、試練などが神への欲求を目覚めさせた。または、超越なしの人間の虚栄に気づかせてくれた。
  ?クローデル、エティ・ヒレスム、ジャン=クロード・ギユボー
  ?信者への軽侮や、教会の後退
  ?親しい人たちの懐疑、受け入れてくれたコミュニティの信仰
  ?毎日曜または、行事のある日

その5 悶々派  「信じてないけれど、疑う」
  ?出身は関係ないが、自分の存在の意味について自問している。宗教にも哲学にも満足な答えを得られない。
  ?レジス・ドブレ、パオロ・コエリョ
  ?盲目的な信者、神秘家、教条主義者、実証主義者
  ?修道院の静謐さ、祈りの熱意
  ?葬儀、結婚式、偶然

その6 ボーン・アゲイン派 「再び信じ始める」
  ?クリスチャンの家庭で育ったが、教会から遠のくことや形而上的疑問によって信仰を失った。ある出会いや、根本体験により、教会に戻った。信仰の中の自由を見出した。今は、信仰は人生の中心的位置を占める。新たな生である。
  ?リジューの聖テレ−ズ、マクス・ガロ
  ?社会的慣習によるカトリック信者、戦闘的無神論者
  ?集団で熱くなること。信仰コミュニティへの帰属意識
  ?毎日曜か行事の日

その7 回心派  「宗教を変えた」
  ?よその大陸か、他の宗教文化の中で生まれたが、出会いや、住んだ社会の影響によって、キリスト教の神を知った。キリストの人間性と神の慈悲に心を打たれた。
  ?リュスティジエ、レイモン・パニカール、聖アウグスチヌス
  ?ぬるいキリスト教徒。近親者と離れるリスク
  ?キリストの姿。聖餐の秘蹟。
  ?毎日曜、教会内組織、祈りのグループ

 以上です。日本ではカトリックはマイナーだから、成人が信者になろうかという時はいろいろな自問が渦巻くでしょうが、カトリックがなんとなく風景になっているフランスではこんなにグラデーションがあるわけです。実際、キリストの肉体の復活を字義通り信じるかというような根本的な教義についても、アンケートをとったら信じると答える人は年々少なくなっています。その乖離についてすごく悩んでいる人は実際問題としてすくないです。日本で、南無阿弥陀仏と唱えて、本当に阿弥陀仏がいて極楽に連れて行ってくれると字義どおり信じるとか、お宮参りにいくが天照大神の話を字義どおり信じるとかいうような感じです。
 もちろん、キリストの肉体の復活を少なくとも、使徒たちが信じなかったら、キリスト教は成立していなかったでしょう。でも、彼らが昔の無知の人だから肉体の復活などを信じたのだろうと思うのは間違いで、その頃だって、すごく信じられなかったんですよ。それでも、一応、そういう不思議なことが起こったというのでいろいろ書き残されて、それを基にして、キリストの十字架上の死と3日後の復活がなぜ人類すべての罪の購いとなり救済になるのかという神学が延々と築き上げられていくわけです。で、三位一体の話とか、父なる神に関するところは超越に属することで、実証的な頭ではもとより理解できないんですが、人間イエスの死やその肉体の復活っていうのは、まだ「こっちの世界の出来事」だから、いろいろ想像の余地があります。シンボリックな意味はもちろん山のように積めるでしょうが、事実関係はやはり気になるところです。
 私は、不思議なことに「そんなことあり得ない」とか思ったことはありません。世の中には私の想像や理解を超えたことがいくらでもあるので、何でもあり得る、というのが基本です。この前も書きましたが、イエスの復活のことで不思議だったのは、例のトマスの話で、脇の傷に指を入れろとか何とかいう話で、トランスフィギュレーションのように光り輝く栄光の体、この世と存在のモードが違うような体で復活したのではなく、傷口が開いたままの体というところでした。ラザロが起きてきたように、イエスもほんとに「よっこらしょ」と目が覚めたのなら、そして遺体をつつんだ亜麻布を残したなら、どうやって墓石をどけたり服(死ぬ前に着てた服は兵士にとられて人々がくじで分け合ってますし血まみれだった)を調達したのか分かりません。生々しい傷があったということは、メル・ギブソンのパッションじゃないですが、足の棒で頭をがんがん殴られたり、鞭打たれたり、転んだり、手足の釘跡ももちろんだし、かなり悲惨だったはずなんですよ。そんな姿で、姿を現したら、みんなびっくりだと思うんですが、エマオに向かう途中で旅を共にしてイエスのことを話題にした二人の使徒なんか、いくら「目をさえぎられていた」といっても、とにかく気づかないんですよね。普通っぽければ気配とか、声とか、話の感じとかで分かりそうだし、まさか血まみれで裸ってことはないだろうし、不思議です。その他にも、自分だと証明するために積極的に手と脇を見せたみたいだから、顔はどうなんだ、顔や背格好はそんなに説得力のないものだったのか、殴られた痣や傷や瘤や窒息死の苦悶で変形してたのか、とか、すごく気になります。
 まあ、普通の人が、最後の審判の時に体が復活する時は、栄光の肉体ってことで、死んだ時の病気とか傷とか状態に関わりないそうなのでほっと安心です。イエスはなんといっても死後から復活まで実質一日半しか経過してなかったんだから別なんでしょう。それに、そう、そのときの人ですら、むごたらしく刑死したはずのイエスがもしきれいな体で現れたりしたら、栄光の体だと言ってありがたがる代わりに、替え玉だと言って退ける率が高かったんですね。きっと。人は見たいものだけを見るのかもしれません。
 もう復活の話自体は、実証レベルじゃなく教義レベルの話なんで、「科学的にあり得るから信じられる」とかいう話ではないです。誰かから「あなたは私を信じられますか?」と言われて、「信じる」と答えるのは、その人のこれまでの実績を調べてある程度リスクを減らすことはできたとしても結局一種の賭けですから、直感や期待感によって決めるしかない。永遠にこの人を愛しますか?と言われて、永遠かどうかなんて分からない、と理性的に答えるのは変でしょう。愛とか希望とか信頼とか信仰とかは、自分の限界(理性とか利害)を超えてひたすら相手に向かっていくんですから。
 しかし人間の肉体を持ったイエスが人として死んで、人として生き返ったという話を、具体的なものとして考えさせるよすがは、前にも書きましたが、なんといってもトリノの聖骸布の存在ですね。こういうコアなオブジェが残っているのは好きです。まあこういうのを持ち出すと、オカルト的で信仰のつまずきになるという人も必ずいるんですが、「好奇心」には負けます。等身大ポスター、ご一見ください。あ、今発売の文藝春秋Specialという増刊号に「スピリチュアルとのつきあい方」という文を載せています。ご参考にどうぞ。

157nao:2007/05/28(月) 20:46:34
あれこれ
竹下先生がお書きくださつたことで、もうなにも書く必要なさそうな気がしているのですが。すこしつづつてみます。まず大羊さんがだされた3ッはどれもYESだしどれも単独ではNOだと思います。つまり理性の範疇を超える問題なので、『信じる』ことしかない。でも復活したイエスから、聖霊が降されて、弟子達が世界中に宣教にむかつたわけですから、これを信じないかぎり、キリスト教徒ではないわけですよね。
じゃあ・・いわしの頭も信心からでいいのか・・いやそういうわけにはいかない。理性が健全でそれを超越した「物語」として、認識できないと、ダメでしょうね。
「信じる」という行為は理性より先にあるし、永遠にもつながるとおもいます。子どもは自分の親を認識するまえに信じているし、親がなくなつても自分をまもつてくれていると、信じていろ。
大体自分という人間が時間的、場所的にこの世にヒトリしかいないつて、信じていますよね。これを疑う人はまずいない。でもホントウにそうなの?信じるしか仕方ないすよね。
復活の体つて、なんだかあるような、ないような、考えてもわかんないから、聖書にかいてあつて、そのことから、キリスト教ができたんなら、信じるほかないですよね。
でも「信じる」ことから、人生が豊かになるし、何よりその「枠」があることで、かえつて自由に生きられるつてことは信仰の強みですね。

文芸春秋special,2007,SummerNo.1 早速買いにゆきました。竹下先生の「スピリチュアルとのつき合い方」とても良くまとめられていて、他の人とくらべて、格段論旨が上だとおもいました。大変参考になりました。大羊さん、是非読んでみてください。今回は「心の時代を生きる」日本人と宗教  になつていて、大特集 あなたは宗教を信じますか? の記事が面白いです。2,3しか読んでいませんが、人は何かを信じることなく、生きられないことだけはよくわかりました。

7つのグループ、面白いですね。私はどのあたりかな?1ではなさそう。1−7、すこしずつ、はいつていそうです。

158迷える大羊:2007/05/28(月) 22:27:57
うーん
 毎度、お世話になります。人のキリスト教、宗教に対する思いは様々ですが、私が信者になるとすればその2のタイプ、ありえないのがその1タイプかな?(笑)。あまりにも熱心すぎる、信じすぎる人を見ると感心するよりはイライラしたり、ついおちょくりたくなってしまうタイプかも(彼女の前ではできませんが・・・)。テイヤールド・シャルダンなんかいいですねぇ。こういう聖職者がいるから、カトリックって信用できそうな気がしたりします。

>もう復活の話自体は、実証レベルじゃなく教義レベルの話なんで、「科学的にあり得るから信じられる」とかいう話ではないです永遠にこの人を愛しますか?と言われて、永遠かどうかなんて分からない、と理性的に答えるのは変でしょう

 いや、そういうお話ならわかるんですが、しかしですね、私が当初関わったプロテスタントの牧師さんは、聖書やら奇跡を本当に字義通りに、「科学的にも」真実と、信じている感じでしたよね。。もちろん、進化論なども反対で、最初の学び会でいきなり、唯物論である進化論をとるか、神をとるか、みたいな話をされて、こりゃいかん、俺には合いそうにない、と思いました。復活については詳しい話をしないまま通うのを止めちゃいましたが、多分、「からだのよみがえり」を文字通り信じている可能性大です。
 カトリック教会に流れた(といっても信者になってないけど)のも、こういう多分にファンダメンタルなキリスト教理解への違和感と反動って面もあります。

 で、こういう聖職者、教会や信徒を見て知っていますから、「復活」のキーワードを聞くとなんだか落ち着かない気分になってくるんですよね、「まさか、とは思うが・・」とつい疑り深く、あれこれ突っ込みたくなるのですよ。
 聞くところによれば、アメリカにはこの世の終わりの蘇りをものの喩え、言葉のあやではなく、「本当に」信じている人たちが結構いて、金のある人などはエバーミング、つまり近親者や自分の遺体を完璧な防腐処理を施し、完全防虫の地下室で冷凍保存し、来るべき「復活の日」に備えているらしいですね。あとダーウィン嫌いで、「理科の」時間に創造論を教えろと主張する人々、産婦人科医をリンチにかける中絶反対主義者など、アメリカのクリスチャンの話を聞くとなんだか鳥肌が立ってきて、俺はこんなイカレた連中の仲間にはならんぞ〜、と叫びたくなります。

 ところで、こういう極端な人、いわゆるファンダメンタルな人々は、カトリックよりはプロテスタント、ヨーロッパよりはアメリカに多いってところがいろいろと興味深いところですね。日本の教会でもアメリカから入った教会はややファンダメンタルなところが多い感じがします。

 とまあ、なんだか「復活」にいちゃもんをつけるようなことばかりいっているように思われるかもしれませんが、確かに「復活」がないと、師は売るわ、逃げるわ、とぼけるわなんてやっていた情けない弟子たちが、どうしてあらゆる困難、殉教すら恐れない人間になったのかに関する説明がつかず、キリスト教のストーリーが続いていかないですよね。
 本当に何があったんでしょうね??下手な推理小説より謎に満ちてますね・・。

159nao:2007/05/29(火) 09:32:08
ご紹介
ご存知でしたら、失礼!小説2冊ご紹介。
?エリツクーエマニュエル・シュミツト著「小説 イエスの復活」NHK出版
イエスは自分が神の子でありメシアであることを最後まで疑つていた。一方、イエス磔刑をみとめたローマ総督ピラトは消えた死体の謎を、現代人と同じように合理的に解明しようとした。どうしても復活が信じられなかつた。二人の告白の物語は、生身の人間が(神秘)にどう立ち向かうかを描いていく。そして、ピラトの心境は死体のゆくえを追ううちに変化し、癒されていく。臨場感あふれ、心地よい読後感が残る小説。(裏表紙より)

原題は「ピラトによる福音書」です。ピラト側からみたイエスの復活は大羊さんのピラトの疑問と復活への疑問に、小説ではありますが、大いにこたえるものになるでしょう。私はシュミツトの「モモの物語」(いぶらむおじさんとコーランの花たち)をよんで、好きになり、この本を知りました。フランスではベストセラーになり、演劇化され、東京でもあつたそうですが、地方住まいの私は、やつと今頃、しつた次第です。

?M.スコツトペツク「死後の世界へ」集英社
精神科医、主人公ダニエルの死後の世界がかかれています。小説です。死後の体の有様が想像されていて面白いです。光の玉になつたり、そのままみえたり、だいぶ前によみましたので、わすれましたが、復活を考えるときの一つの助けになりそうです。スコツトペツクはご存知のように、「愛と心理療法」でベストセラになつたアメリカのプロテスタントの精神科医。「平気でうそをつく人」はすごく役にたつ本でしたね。
2冊の本でやはりシュウミツトのピラトの合理精神での復活の追い方のほうが面白く、役にたちました。
大羊さんの出会われた最初の牧師さんは私にはどうも・・。そういう考えのかたもいらつしゃるんですね。そんなんで、自由にいきられるんかな・・魂の自由がひろがらないような宗教はゴメンです。「この枠のなかで自由にふるまいなよ」というのが好きですね。枠のありかたはやはり、鍛えられ、修羅場をくぐつてきた末にできあがつている枠。人類の知恵が長くかかわりつづけてきて、なおかつ、命を保つている枠。そんなものなかなか、わからないですけど・・ご縁でみつかるのでは。

160迷える大羊:2007/05/30(水) 23:02:13
毎度お騒がせします
 毎度、お世話になります。?も?も初めて知りましたね。「ピラトによる福音書」ですか?確かにピラトの心境は興味ありますね。思うに、私にとって聖書のキャラクターの中でピラトが、ある意味一番感情移入できる人物、というか気持ちが分かる人物かもしれませんねぇ。私もピラトの立場なら聖書に記述されている通りの行動を取るでしょうね。何の縁もゆかりもない、ユダヤ教の内輪もめなんか興味ないし、そんなことのためにせっかくの総督職を棒に振りたくない、でも、目の前のイエスは明らかに無実、死刑にするにはあまりに忍びない、ああ弱った、どうしよう、そんなこと俺知らないよ、あんたらで勝手にやってよ、俺のせいじゃないって気持ち・・。銀座の教文館で探してみますか。ちなみに私は首都圏在住です。

 そうそう、あとキリスト教についてはもう一つ重大な疑問がありました。信徒の人に向かって面というと激怒されそうで、なかなかいえないし、ここでも嫌われたらどうしよう、と思いながら、質問しますが、イエスを神と崇めることと、天皇陛下万歳だとか、北朝鮮の将軍様万歳(マンセー)とかいって崇拝するのと、質的にどう違うのでしょうか?あと、オウムの麻原尊師の「空中浮揚」を信じることと、イエスの「奇跡」を信じることの違いもなんだかよくわかんなかったりします。どれも、これも私にはいわゆる同じ「現人神」信仰のような気がしてしょうがないのですが・・・。この内、天皇陛下は戦後「人間宣言」をされていますが、キリスト教の世界でイエスの「人間宣言」が為される日はありえるのでしょうか?

 これがイスラム教ですと、ムハンマドは「最高の預言者」で特別扱いはされていますが、一応「人間」ですので、話がまだすっきりしているのですが・・・。

 実をいうと、福音派だろうがカトリックだろうが、キリスト教会に行く限り、このイエス礼賛、崇拝は必ずあるわけで、そのたびに「いいんだろうか?これは一種の個人崇拝ではなかろうか?この民主主義の時代、科学の時代に現人神だなんて・・」と思ってしまうことが、躓きになっております。ただでさえ、疑問を感じるところに奇跡だ、復活だなんてさらに話をややこしくするものが入ってくるところが、困ったところです。

 あと、オウム(現アレフ)の麻原代表には去年死刑判決が下りましたが、まがりなりにもキリスト教の歴史に触れた身で考えるに、死刑はマズいような気がします。つまり、今もなお残る信徒たちに「尊師は我々の罪をその死で贖われたのだ!」ってことで、却って、その信仰、団結を強化することになるような気がしてしょうがないんですよね。そして、数々の迫害に耐え抜き、数百年後は日本の国教に・・・、なんてことになったら怖いな・・。

 不愉快な疑問かもしれませんが、またお時間があれば御意見聞かせていただければ幸いです。

161Sekko:2007/05/31(木) 01:19:18
イエス万歳
「イエスを神と崇めることと、天皇陛下万歳だとか、北朝鮮の将軍様万歳(マンセー)とかいって崇拝するのと、質的にどう違うのでしょうか?」って。ぜんぜん違いますよ。だって、イエスはもう人間としてはこの世にいないんですから。

 イエスを救世主だと認めるとか、三位一体の話とかは、また別です。私は、人が現在生きてる人を拝むのに抵抗があるんです。人だった菅原道真を神に祀って拝むのは平気というか、気にならないんですが、信者に断食させて自分はメロンを食ってるような「尊師」とか、自分は何々の生まれ変わりとか大宇宙の霊神とか、他称自称してる人は、生理的にすごく嫌です。
 カトリックは教皇とか偉い人にもまあ、イエスの生まれ変わりと言わせてるのでなく聖ペトロの継承者で、神に関しては仕え人というスタンスなんで受け入れられます。聖人や奇跡やなんかも、生きてる間は認められなくて、死んでからのみの称号であるところが好感をもてます。世界中から聖女のように尊敬されてきたマザー・テレサですら、死後の祈りの中で起こった奇跡だけが審査されて聖女の道を進むのですから、それはもうシンボリックな世界、スピリチュアルな世界です。宗教だからそれでいいのです。でも、今生きてる人が奇跡を起こすとか、癒すとかで崇拝されるのは、どこか間違ってる、と思うんです。
 私はチベット仏教のセンターに時々行くんですが、そこのリンポチェ(活き仏)の前でみながはいつくばってお辞儀をします。それは彼という「人間」を拝んでいるのではなく、彼が体現している「智慧」を敬して拝んでいるのだ、と説明されます。そのリンポチェはすごくいい人なんですが、子供の時からある仏の生まれ変わりだと認定されて召使に囲まれて大事に育っているので、亡命の身とはいえ要するに貴族なんですね。みんなに拝まれるのが普通の状態なんです。ダライラマもそうですが、子供には罪がないとはいえ、リンポチェを出したら一族にコネと権力ができますから、大人の欲望や権謀術策が渦巻きます。私なんかから見たら、子供の人権を侵す問題だと思うくらいです。とにかく人は、生きてる限り、多くの人から神のように拝まれる状態というのは、その人にとっても、周りの人にとっても健全でない、と感じます。
 もちろん、死んでもうものを言わない神や、目に見えない超越者を掲げて、それとチャネリングできるとかその名を騙って権力を掌握したり独裁者になったりする人もいて、それもまあ、神を自称する人よりもっとたちが悪いこともあります。やはり、その神や神の周りに成立した言説を注意深く検討して、モラルの方向として納得いくものかどうかを判断するのがいいと思います。神でなくとも、奇跡を行わなくとも、「正しい人」というのは必ずいるし、そういう人は、別に人から拝んでもらおうと思わないものです。
 それにイエスはわざわざ人間宣言しなくとも、一応、100%人間で、かつ100%神ということで落ち着いているので、人間性は100%引き受けてると思います。だからこそ、「超能力」を発揮せずにむざむざ殺されたんでしょうし。数々の聖人たちも、人間出身で、死後にスピリチュアルな存在として神と人を結ぶ存在として認識されてると言う意味では、死者の霊魂を神として祀る神道なんかと似てますね。祖霊信仰なんかも心理的には近く、生きてるときはうるさいと思っていた祖父母や両親とかも失ってからは心の支えになり、素直に手をあわせて加護を願う心境になるのも良くある話です。
 そんなわけで、周りの人の思惑や権力の誘惑なども鑑みて、今生きている生身の人を崇めるのと、歴史に洗われててスピリチュアルな評価の定まった人、生きてる時に残した言行に共感のもてる人、などを崇めるのはリスクも含めてまったく違うというのが私の答えです。

162迷える大羊:2007/07/01(日) 01:13:12
イエスタブー
 いつもお世話になります。

 誤解を招くと困りますが、イエスを否定しているつもりは毛頭ないです。彼の倫理的、道徳的な教えは傾聴に値しますし、無私の心を唱えた史上初の人物、と思っております。
 おっしゃるとおり今生きていて権力もある人間を崇めるのとは違うし、実害を与えたわけでもなく、イエス自体には何の問題もありません。

 苦手なのは、なんていったらいいのか、周囲のイエスへの妙な気がね、気遣いなんですよね。
 例えば、ハリウッド映画「ベンハー」などでは、イエスは後姿しか描かれないし、最近はそこまで気を遣わないにしても、教会の一般的なイエス理解から外れたイエス描写は、欧米社会で必ずすったもんだの騒ぎになりますでしょう?例えば、スコセッシ監督の「最後の誘惑」だとか、近いところでは「ダビンチ・コード」だとか。イエスに子供がいて何がマズいのか?どこがどう侮辱したことになるのか?未信者の私には理解に苦しむところです。作品自体はあんまり面白いものでもないのに、こんなことで騒ぐから余計注目されて、却って逆効果、って気がしますが。

 また、ビートルズのジョン・レノンが1966年、イブニングスタンダード誌のインタビューで「ビートルズはキリストより有名(もちろん、一種の比喩でキリスト教の欧米社会での影響力低下について語っただけで、イエスについては評価している)」と発言したところ、アメリカ南部の保守的なクリスチャンの猛反発を食らい、レコードが焼かれ、ビートルズのアメリカツアー中にも数々の脅迫電話、脅迫状が舞い込み、ジョン・レノンは急遽、釈明会見を開く、なんて騒ぎもありました。

 またまた、ジョン・レノン(本当にこの人とキリスト教会って相性が悪い)の話になりますが、彼の曲「BALLAD OF JOHN&YOKO」って曲がアメリカとカナダで一時放送禁止なったことがありますが、一体全体何が理由で?と思ったら「キリストさんよ、気楽じゃないぜ」って部分がまずかったんだそうです。これまた、未信者には、「え?こんなことで??」てな感じで理解に苦しみます。こういう事例を聞くと、もう二千年以上前の人物に対して、なんでここまで気を遣ったり、タブーがあったりするのか?素朴に疑問を感じるんですよね。

 日本でも、天皇陛下は映画やテレビドラマでは姿を出せない、なんて時代が長くあったし、今でも、正しい、間違っているは別にして、故昭和天皇の「戦争責任云々」などという意見を公の場で表明しようとすると右翼団体から銃撃されたり、かなりの抗議と勇気を覚悟しなければならない、ってところがありますよね。なんか、基本的な構図が似ているような気がしてしょうがないんですよね。

 あと遠藤周作氏の「イエスの生涯」も私の知る限り、一部のクリスチャン、教会関係者にはあまり評判が良くないらしいんですよね。これまた、未信者の私には何がどうマズいのか、分からないのですが、要するに、奇跡も行えない、無力な男イエス、というのは一部のクリスチャンにとって耐え難いイエス像であるらしいんですよね。これも、私にはすごく理解に苦しむ話。本当にイエスが人生がうまくいかない人間、弱い人間の味方だ、ってことなら、超能力を駆使する神がかりな超人である必要なんか全然ないじゃないか、そんなものを求めるなんて、それこそキリスト教が否定する「御利益」信仰なんじゃないの?と思ったりするんですけどね・・・。

 あれやこれやで、基本的に日本の「天皇タブー」も欧米の「イエスタブー」も私には同じに見えてしまって、自分の心の中に、こんな理不尽でワケのわからないタブーというか、足かせみたいなものを新たに作るのがイヤ、っていうのが、うまく言葉にできたかどうかはわからないけれど、キリスト教にイマイチ踏み込めないの一つになっているんですよね。
 まあ、考えすぎかなぁ、と思うこともありますけど。

163Sekko:2007/06/03(日) 21:46:51
イエスのフーリガン
 日本のことは詳しくわかんないのですが、アメリカはかなり特殊です。「欧米のイエスタブー」とひとくくりになさっていますが、欧と米ではだいぶ温度差があります。ビートルズはイギリス人だからその辺が自分でも理解できなかったんでしょう。今のヨーロッパではイエスを含む「キリスト教」全体が、個人の私的領域か、文化とか伝統の事象と理解されてるのですが、アメリカでは政治とか社会の事象ですから。今無神論についての本を書いてるのですが、アメリカの無神論は別個に取り上げてます。アメリカって、これから無神論が旬になりそうな国です。今年3月ピーター・スタークが米国議会初の無神論者議員としてカミングアウトしました。社会的に影響力のある人で無神論者にカムアウトを勧める団体の運動が効を奏しつつあるのです。これって、フランス的には(多分日本的にも)、考えられない事態です。無神論が意味を持つのは、信仰が社会的アイデンティティの核だからです。サウジアラビアなんて、イスラム教から離教イコール国籍離脱ですから、日本やフランスのように宗教が歴史に洗われてヌルくなった「古い」国にいると、想像もつかない状況は今も地球上にたくさんあるわけです。神でもあるとされるイエスと違って預言者でしかないはずのムハンマドのカリカチュア(私から見ると政治的妥当性は別としてべつに過激でもなく、フランスにはローマ教皇やイエスのカリカチュアの方がひどいのがよくある)をめぐって大使館が焼き討ちされたり教皇の失言で罪のない修道女が殺されるとか、原理主義者やそれを煽る人もいるわけですし。それに比べたらイエスのフーリガンたちはまだちょっとましかもしれません。それに、まあ、イエスをめぐるイエス万歳の人たちがまあましと思うのは、たとえば他の現人神のご真影とかなら、勲章をいっぱいつけてるとか、ロイヤルファミリー写真でも立派なお城で立派な衣装とか王冠とか、そういう見た目の立派さがありますね。彼らをたとえば裸で描いたら、即、冒涜じゃないですか。それなのに、イエスって、欧米系では13世紀以来磔刑像が多いですからね。もう、外観としては最悪ですね。『最後の誘惑』の映画だって、文句をつけた人は、イエスの幻想みたいなシーンよりも、本当は、全裸のイエスを赦せなかったんじゃないかと思います。でも中世の磔刑図には結構全裸のものもありました。そこんとこの葛藤が、他のシーンに向かったんじゃないかと私は思ったんですが。
 ともかく、「私は最も小さきものの中にいる」、みたいなことが口だけでなく、まあ、誰でも普通はああいう死に方はしたくないという図像が前面に出ているんですから、それなりの説得力があります。倒錯的ともいえばいえますが、本当につらい人や迫害されてる人が、最後の救いを十字架のイエスに求めたりする心境も分かりますね。天国に行けば美女に囲まれるとか楽な暮らしがし放題、というタイプの慰めより、なんか、十字架上で永遠に苦しみながらさらし者になってる人が共にいる、みたいな。まあ、それでは、教義的にもっと本質的である復活の栄光の影が薄くなりそうなんで、十字架は十字架の形だけでシンボリックに、イエスは復活のイエスを強調して、という教育的配慮も近年は多くなされてます。
 もう一つ、これはすごく論議になってるとこなんですが、カトリックが救済における宗教的多元性をみとめるかどうかにおいて、多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16−12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。

164迷える大羊:2007/06/04(月) 00:43:25
アメリカって・・・
>アメリカはかなり特殊

 確かにそうですね。私が最初に行った教会も彼女の教会(聖書を丸ごと信じる保守的、私からみるとファンダメンタルな信仰)って大体アメリカ起源のプロテスタントですもんね。それにしても、キリスト教を知らず、欧米社会の事情に関心が薄かった時期は、なんとなくアメリカ、プロテスタント=進歩的、リベラルでヨーロッパ、カトリック=保守的、聖書を丸ごと信じる、というイメージがあったのですが、実態は全然違う、というよりむしろ逆なんで驚きました。。ジョン・レノンの「ビートルズはキリストより・・」発言もヨーロッパでは全く読み流されているんですよね。

 それにしてもアメリカといえば、世界一科学が進んだところ、ってイメージがあるんで、そういうところで、創造科学(つまり、聖書に書いてあることはすべて「科学的」にも正しいことを証明するトンデモ科学)が結構幅を利かせていて、創造論を「理科」の時間に教えろ、という主張が一部の州で法律で大真面目に可決されてしまうことにびっくりします。

 1996年にヨハネ・パウロ教皇は進化論を認める旨の発言をされていますが、この発言の背景には「あんなワケわかんない人たち(同じキリスト教徒として)と一緒にしないでね」みたいな意味もあったのかなぁ、と勘ぐりたくなります。カトリックにあまりその手の原理主義者が見当たらないのは北米出身者の比率が低く、アメリカの宗教状況の影響をあまり受けないせいかもしれない、と思うのですがどうでしょうかね。

>ムハンマドのカリカチュア

 イエスフーリガンのイカレぶりばかり話題にしましたが、これもなんだかなぁって感じですね。それこそ、ムハンマドは「人間」なんだから、何をカリカリしているのか?と思いますね。でも、これはイスラム教やムハンマドそのものの冒涜に対する怒りというよりは、西洋人に自分たちの信仰、文化をおちょくられた悔しさなんじゃないかなぁ、って気がします。イスラム諸国も中世の時代、ヨーロッパ諸国より経済的にも軍事的にも優位に立っていた時代は、ヨーロッパ人からムハンマドについて何をいわれようが全然歯牙にもかけなかったと思うし。

>カトリックが救済における宗教的多元性をみとめるかどうかにおいて、

 私がカトリックに好感をもったのはこの宗教的多元性を認めているところなんですけどね。福音系教会ですと、「本物の神とは〜」みたいな話が多く、焼香ダメ、七五三ダメ、みたいな調子でウンザリしたもので、カトリックの異教の風習や考えも良いものは積極的に取り入れ、その土地、その土地の文化風習を認める姿勢はとても新鮮で感心したものですが。そうでない人も当たり前ですが、いるんですね。

 とにかくアメリカの宗教事情はとても興味深いですね。著作が出来上がりましたら是非拝見させていただきます。

165流れ梅:2007/06/04(月) 11:23:03
横入り失礼致します。
Sekkoさま、迷える大羊さま>

ここ数日のログを拝見していて、一応、イエスタブーと言われているものと菊のタブーと言われているものは性質も由来も違いすぎるんじゃないかと思いました。ただ、こんなこと書いて右翼認定されても嫌で、書き込みを躊躇しておりました。ですので、以下の内容は右から左に受け流して頂けますと感謝しますし、今回のみでお邪魔をいたします。

皇室というのは、日本とくに日本神道の「祭祀権」を持つお家であるのだと解釈されると分かりやすいと思います。歴史のある仏教寺院の縁起を見ても皇室が関わりになっているところは多いです。天皇家が直接の為政者であったのは平安朝くらいまでのことです。あとは武家が「征夷大将軍」なる位を賜る形で統治をしていました。鎌倉が足利幕府になろうと、戦国の世を誰が平定しようと、そういう皇室のスタンスは変わってないわけです。江戸初期の「紫衣事件」(http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/sii-ziken.htm)みたいなことはありましたが。

そのスタンスが変質をしてしまったのは、「明治維新」と呼ばれる、薩長土肥の徳川幕府に対するクーデターがきっかけでしょうか。彼らは「官軍」になるために『天皇の権威』を有効に利用したと思います。大政奉還も、江戸城無血開城も、「賊軍」に成り下がった側がそれを理解してのことでしょう。ただその後にこれまでの日本神道のあり方を変えて、政治的なイデオロギーのために使ったこと、また廃仏毀釈などを行い、他の宗教と皇室を徹底的に分離したことは、間違いだったのではないかな、と個人的には思います。
というのは、神社神道側の人たちは決して「戦前の国家神道を神道のあり方と考えてない」ようなのです。聞くところ、明治政府があれこれと神道の祭祀に干渉をしてきたそうで、そのために出来なくなってしまっていた祭祀があったそうです。戦後、その出来なくなっていた祭祀が復活したそうでして、つまりは神社神道すら厳しい統制下にあったことには変わりが無かったということなんです。キリスト教ほどに酷い弾圧は受けなかったじゃないか、と怒られればそれまでなんですけど。長い時間かかってるかも知れませんが、現状として神社神道は<全体としては>元の形に戻りつつあると考えてよろしいかと思います。
また、皇室もそうであると思います。皇室というのは祭祀などは勿論ですが、一貫して、日本の伝統文化を継承し守る役割も負ってきたお家です。渡来文化の保護、慈善事業への関わりもしてきています。海外公務が出来たのは戦後ですが、美智子皇后が「皇室は祈り」と発言されたように、戦後の公務の一つの大きなポイントに「戦没者(戦争被害者)慰霊」などが挙げられると思います。

皇室は為政者としてのロイヤルには成り得ないですし、実際、明治から昭和にかけてもそう成り切れなかったのでは?成り立ちや歴史上のことから考察すれば、日本にヒトラーのような独裁者が出来なかったのはそういう皇室の性質ゆえかも知れないと個人的には思う事があります。

166迷える大羊:2007/06/04(月) 23:25:05
横入り歓迎いたします
流れ梅さん はじめまして。別に右翼だなんてちっとも思いませんよ。貴重な知識をお教えいただいてありがとうございます。「紫衣事件」のことはとんと知りませんでした。おっしゃる通り、本来の神道と国家神道は別ものだし、長い日本の歴史の中で、ここ百年くらいの天皇家のあり方の方がむしろ特殊なのはわかります。元々、西洋社会にキリスト教という宗教の核があることを見聞した明治の元勲たちが、日本にもキリスト教に対抗する、宗教、価値基準を持たねばならない、という発想で始まったものらしいですからね、国家神道って。

 ところで美智子皇后、で思い出しましたが、日本の皇族を見て不思議に思うのは神道の祭祀の家のはずなのに、何故か神道系の学校の出身者がなぜか少なく、それどころか、ミッションスクールの出身者の方がむしろ深く入り込んでる感じがするところですね。美智子皇后はカトリック系の聖心女子大出身、雅子妃はこれまたカトリックの田園調布双葉学園出身、さらに現天皇陛下の家庭教師はエリザベス・バニング夫人、エスター・ローズ夫人でいずれもクウェーカーのクリスチャンだったりします。どうなってるんだろ、と思うのは私だけですかねぇ?
 あと、上流階層、名門のお嬢様というとミッションスクールを思い浮かべるのはなぜだろう?とも思いました。日蓮女子学院だとか、阿弥陀女学校みたいな感じの仏教系学校は思い浮かべないですもんね、なぜか(笑)

167Sekko:2007/06/05(火) 05:04:04
私も歓迎します
 私も天皇家は祭司の家系として貴重で、その意味でよく残ってくれたと思います。確かに明治の国家神道の創設で大変な役割を担わされましたが、たとえこの先いわゆる天皇制がなくなっても、日本の伝統的な祭祀の保存のために国が保護していくべき職能じゃないでしょうか。歴史の中で権力に結びついた宗教や芸能は時代と共に立場が変わっていきますが、フランスで1905年以前のすべての教会が国に没収された後でもカトリック教会が無償の店子として活動を続けているように、多様な社会の中で伝統的シンボルが生きているのはいいことだと思います。能でも観世宗家には文化庁から助成金がでているように、天皇家の祭祀はどんな形でも続けて欲しいです。でも今の時点では皇族には投票権がなかったり、微妙な立場なので、外から入ってくる女性などはますます困難が大きくなるでしょう。誰かが国や国民のため専心して祈り続けているというのは決して意味のないことではないと思います。
 特に、日本の神道は、自然神や神話の神や家康など権力者が神に祀られているのを別としたら、「非業の死を遂げた人」の祟りを恐れて祀った霊が多いですね。荒御霊を鎮魂して守り神にしてしまうような。民間宗教としても、死んだ人=ホトケが、時間をかけてカミという習合守り神になっていくというイメージでした。仏教と習合してからは、死者は回向によって49日で仏になり、49年で集合的祖霊神に融合という感じです。
 それでいうと、第2次大戦で非業の死を遂げた人たち(それは戦死者たちだけでなく戦災で死んだ民間人も先般で処刑された人もみんな)、もう49年を経ていて、昭和天皇と今の天皇が鎮魂を祈り続けたと思うので、みんなカミになってくれたかなあと思いたいです。天皇は戦犯の合祀問題などでさっさと靖国参拝を控えましたが、天皇の名の下に始まった戦争の被害者はいわゆる戦死者だけではないのだから、多分皇居ですべての人の鎮魂を続けてくれたのでしょう。こういう職務の家に嫁ぐからには、祈りとか宗教観の合う女性が大事ですよね。自己犠牲と利他を勧め、死者への敬意を大事にするなら何教でも通ずると思います。
 確かに、戦後皇室をカトリックに改宗させるという陰謀があったという暴露本が去年出てましたよね。マッカーサーがアイルランド系でカトリック、吉田茂もカトリックということで、なんかそれらしいお話なのかもしれませんが、皇室がカトリックになっちゃったらそれこそ国家神道の元で非業の死を遂げた人たちが浮かばれないですよね。神道祭司としての存在理由も消えてしまう。あり得ないですよね。
 現天皇陛下の家庭教師が絶対平和主義のクエーカー教徒だったというのは好感が持てますね。平和憲法を是非擁護して欲しいです。

168迷える大羊:2007/06/06(水) 00:16:47
聖書って・・・
 毎度、お世話になります。キリスト教に関する疑問って真面目に考えれば考えるほど出てくるのですが、実は聖書っていうのも私にとってはよくワケのわからない本だったりします。もちろん、いいメッセージがたくさんあることは十分に認めます。前にも述べた通り、イエスの倫理、道徳的な教えは時代を超えて不滅だと思うし、十戒など、人の守るべきルールをよくこれだけシンプルにまとめたものだ、と関心もします。まあ、そんな聖書きれいな部分は教会に行けばいくらでも聞かせてもらえるわけで、あえてここで触れる必要もないでしょう。

 しかし、よくよく読んでみると(聖書を読むことは大変骨が折れる作業ですが)、それ以上にトンデモな話が多い文書だったりするんでびっくりします。特に旧約の部分。いやはや、すさまじい話の連続。サムエル、列王記、歴代誌など果てしない血みどろの内戦、スプラッターもどきのクーデターでいっぱい、それも加害者としての話の方が多かったりするし、申命記や民数記を読めば、親に反抗する子供、同性愛者は石投げて殺せ、とあるし、尾ひれとウロコのない魚、つまりタコやイカかな?は食べてはいかん、ともある。また、浮気を疑われた妻はゴミだかチリだかの入った水を飲み干さねばならないらしいんですね。

 かつてオウム真理教の犯罪が世をにぎわせていた頃、評論家はこぞって「彼らの教義は殺人とテロを肯定する部分があって危険だ」などと語っていましたが、それいうなら、このユダヤ・キリスト教の教典は一体??。まさに自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレードではないか、これを信仰している、というキリスト教徒、ユダヤ教徒は一体全体、何を信仰してるんだろう、この旧約の部分をどう考えているんだろう?、との疑問がわいてきます。

 新約は旧約に比べると変な部分は少ないけれど、それでも、ヨハネ黙示録、というきわめつけのトンデモ文書があって聖書の最後を締めくくっています。なんだか話がぶっ飛んでいてわかりづらいんですが、最後の審判の間に神に捧げられるのは14万4千人の童貞の男たち、なんだそうで、思わず「はぁ?」と声に出してしまいました。独特の、あまりに逞しすぎる想像力、この聖書記者は、何か変なクスリでもやりながら書いたのでは??と疑りたくなる文書です。

 なぜ、キリスト教はこんなとんでもない文書を聖典として残しておいたのでしょうか?キリスト教の歴史においていくらでも編集、改訂する機会はあったと思うのに。また、キリスト教関係の出版物を読むと「聖書とともに生きています」みたいな人が出てきますが、これらの人々はこういう聖書のダークな部分についてはどう考えているんでしょうか?私が読んで気づくくらいのことが、私など、比べ物にならないくらい聖書を読み込んでいる彼らが知らないはずはないと思うのですが・・・。

>確かに、戦後皇室をカトリックに改宗させるという陰謀

 え、そんな陰謀本だとか、陰謀のウワサがあったんですか?初耳です。まあ、私個人は都市伝説の一種なんじゃないの、と思いますが。

169Sekko:2007/06/06(水) 20:38:16
聖書の話
 聖書の解釈って、古来、神学論議も哲学論議も個人の思弁もオカルト読解も山のようにあるんで、簡単には紹介できませんが、すごく単純にいうと、キリスト教はイエスは人間として生まれたのだから当然人間の特定の歴史と文化の文脈上の存在なのだから、旧約聖書でそれを明らかにするというスタンスだと思います。でも、イエスが生まれて死んで復活したからには、その前の出来事はもう無視、ではなく、成就したことになって、基本的にその後のことを制約しません。ユダヤーキリストーイスラムの三つの「アブラハム系一神教」ノうちユダヤ教徒イスラム教は戒律がありますが、キリスト教はユダヤの戒律宗教がキリストによる罪の購いで成就されたので、生活の全部を管理するいわゆる戒律はないんです。戒律を形として守るよりも、心の持ち方が大事だということになりました。逆に言えば、自分の行いを自分の良心に照らして絶えずチェックしなければなりません。でもそのおかげで、ローマ法の発達していた世界に広がることができたし、今もインカルチャレーションということで、ローカルな伝統と共存しやすいですね。ヨハネの福音書も普通は一種の象徴文学ということでスルーです。ネロンによるキリスト教迫害とか、執筆時の状況や危機感もあるでしょう。
 キリスト教では20世紀前半に、聖書の非神話化という作業が盛り上がった時期があります。精神分析学的解釈というのもありました。今は一段落していますが、原理主義的になったり、恣意的になったり、目をそらしたり、いろんな段階や局面を経ていますから、普通の人は変だと思うところにはそれなりの距離をおいてつきあっているのでしょう。
 では、ユダヤ教の人がどうやって破天荒な物語をありがたがっているのかというと、これも、一部の原理主義者は別として、今の普通のユダヤ人には、共同体のアイデンティティというか、帰属性を意識させてくれるよすがというところでしょうね。フランスのムスリムもみんなでラマダンの断食をすることで世界の仲間とつながっていると思うようです。理屈とかは別の連帯の次元でしょうね。
 私は個人的には、戒律の多い共同体は苦手です。特に食べ物の戒律にうるさいところは苦手です。殺生が嫌で肉を食べない、というのはすごくリスペクタブルだと思うんですが、うろこのない魚がだめとか、ひづめがどうこうとかいうのは、要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除につながるんで嫌いなんです。また屠殺するときに動物の頭をこれこれの方向に向けてこれこれの祈りを唱えてからならOKというのも、御都合主義とは言えないまでも、そういうのは呪術の領域だよなあ、とか思ってしまいます。
 まあ、普通の本でもいろんな読まれ方をするんですから、聖書と共に生きてますと言う人がみな同じ見解を持っているわけでも同じ接し方をしているわけでもないでしょう。また、聖書の言葉は、定義上、啓示であり、神の言葉なんですから、人間が「ここが変だ」と考えたり突っ込みを入れたりしたくなるのとは別のレベルの言説なんでしょう。ただ、これも定義上、神と人の間の一種の契約なんですから。双方向に通じるものがあってこそ意味を成すともいえます。契約に応じるという信仰のレベルに入らない限り、「わけの分からない本」であり続けるのかもしれませんね。「いまここで」分からなくてもノーマルなんでしょう。
 良く、この世で罪のない赤ん坊が殺されたりするのは神も仏もいない証明だ。とか言う人もいますが、「罪のない赤ん坊が殺されるのが絶対悪である」という確信自体に私はむしろ神の可能性を感じます。聖書の中のある種の記述が「自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレード」と大羊さんが認識できるってこと自体、私は正義の存在を信じちゃいます。悪は、ある実体ではなく、いつも、人間のある選択の結果なんですよ。

170迷える大羊:2007/06/10(日) 10:14:37
聖書の話2
 いつも、参考となるお話、ありがとうございます。

>要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除

 私もそう思います。ところで、普通の人は聖書の「変だ」と思うところはそれなりに距離をおいて付き合っている、とのことでしたが、私の見聞の範囲ではどうもそうでない人も結構いらっしゃるようなので、あれこれツッコミを入れたくなるのですね。前にも触れましたが、私が最初に関わりをもったあるプロテスタント教会の牧師さんは、聖書の創造論を、信仰の上だけではなく、物理的にも信じているフシがあって、「進化論という唯物論、無神論をとるか?それとも神をとるか?」などといわれて、とてもついていけない、と思ったものですし、キリスト教会(もちろん教派によるが)の同性愛者、性的マイノリティへの極端な差別、嫌悪はこの旧約聖書の申命記の一節からきているのでは?と思うからです。(別に私もその手の趣味はないが)

 今から15、6年前、クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」などという暴言を吐いたとか吐かないとかいうことで揉めた「府中青年の家」事件なんてトラブルも詳しくは知りませんが、あったようですし。
 また、戦争行為などを正当化したがるクリスチャン(ブッシュ大統領みたいな)は旧約聖書の「目には目を・・」の部分を強調したがる気もします。要は聖書ってどうとにでも使える部分があるんじゃないかと。確かに貴重な書物には違いないのですが、あまり信じすぎるのもどうか、と思ったりするんですね。

 その辺りの聖書への疑問が「聖書のみ」が信仰の対象となるプロテスタント、特に福音派教会への疑問となってしまったわけです。
 ところで、私の彼女はその福音派なんですが、いいづらいですね、この辺の話。下で述べたような聖書のダークサイドの話をすると、上げ足をとっている、とかキリスト教をバカにしているみたいな風に思われちゃうみたいで。でも、そういう誤解に対しては「だって聖書にちゃんとそう書いてあるんだけど・・」というしかないですね。

 あと、中絶問題はキリスト教関係者の重大関心事と思いますが、聖書に中絶問題について意見を表明している箇所ってありましたっけ?私自身は妊娠中絶に関しては、反対派も賛成派もどちらの言い分も分かる気がして、態度を決めかねる議論ですが。

 と、まあ聖書についていろいろ能書きを垂れましたが、実のところ、今まで何人かのクリスチャンの方と話しをしてみましたが、意外と聖書なんて大して読んでない人多いなぁって感じもします。手前ミソで恐縮ですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」なんて思うことも多かったりします。

 実際のところ、信仰生活において聖書の果たす役割って意外と小さいのでは?という気もします。私の知る限りでは、クリスチャンホームに生まれてそのまま信仰するようになったとか、身近な神父さん、牧師先生がいい人で、とか付き合いで、とか、もっと切実な、肉親の死(彼女の場合はこれ)だとか失業、だとかで神仏に頼りたくなった時期に出合ったのがたまたまキリスト教だったとか。
 それらは教義とは関係ない、単なるきっかけの問題なのかもしれないですね。仏さんを信じる人が皆仏典を読んで、南無阿弥陀仏だとかの意味を正しく理解しているか、っていうとそんなことは全然ないし。

 そう考えると、私みたいに妙にあれこれこだわるタイプって、素直さが足りないのかな?と思ったりもします。でも、納得いかないところはきちんと納得いくまで問い詰めないと気がすまないし、わけがわかんないのに信じる、という気持ちは私にはない、もうこれは性格だからどうしようもないですね、、我ながらカワイくない、と思いますが。

171流れついた梅:2007/06/11(月) 13:41:27
ええと、またお邪魔してしまいます。
昔、私のいた共同体というのが「超教派」でして、福音派からペンテコステ、カトリックの聖霊派の方もいらしたところでした。ですから、大羊さまのお話拝見しておりますと、非常に思い出すところが多いなあ、と思いつつ拝見しています。

大羊さまの彼女である方を通じて、大羊さまは福音派をご覧になっていると存じますが、福音派がアメリカの多数派を占めたのは'80〜'90年代くらいのことだと記憶しております。昨年か一昨年引退した、と聞いていますが、ビリー・グラハムという名前をお聞きになったことがありますか?こういったテレビ説教師の成功によって、福音派は今まで多数派を占めていたメインラインと呼ばれる各教派(会衆派、長老派、聖公会、ルーテルなど)から改宗者を得ています。
メインラインの教会の神学と福音派の神学が相容れないところからも、溝が出来たようです。
つまり、聖書を科学的に分析し、批評的な研究・解釈を支持するあまり、処女懐胎やイエズスの神性の否定に至る、そこまで行ってはや宗教性をも失ってしまった自由主義神学への反動として、聖書の一字一句をそのままに受け取るというファンダメンタルが生じてしまった、と。

個人的には、それぞれに行き過ぎたところを感じるところがあります。

>クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」
これは典型的な行き過ぎの一例でしょうね。カトリックでは信者個別の問題として、相談があるならのる、という感じだと思います。

>戦争行為などを正当化したがるクリスチャン
ブッシュ大統領のブレーンを見る限り、軍事産業の関係が多いのではないでしょうか?ブッシュがキリスト教の教えと繋げて、イラク派兵その他の話をしたなら別ですが、アメリカというのは、多民族・他宗教国家ですので、一概にそうは言えないのでは?また、クリスチャンの軍人や従軍司祭・牧師などもいるわけですが、それについてもブッシュ大統領のようにお考えになられますか?

>中絶問題
そもそもは十戒の『殺すなかれ』『姦淫するなかれ』からきているものではないでしょうか。故に「命はどこからはじまるか」という生命倫理の問題として考えている中での流れと解釈します。以下、ご参考ください。これはカトリックの公文書ですが。

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅 いのちの福音
http://www.japan-lifeissues.net/writers/doc/gol/gol_evangeliumvitae-ja1.html

プロテスタントの成り立ちについても、ルターの発表した「95箇条の論題」があくまでも神学的な問題として意見交換を呼びかけたものであるにも関わらず、当時の為政者に政治利用された側面は否めません。事実、ドイツはその後30年間の内戦状態となりました。
ルター派が国教となった北欧などは、そういった問題の発生が無かったようですが、次々と出来てくる教派と既存の教会との共存が困難だったことから、アメリカへの移住があったものと思われます。教派についてはそれぞれに在り方というのがありますが、非常に残念であるのは、プロテスタントの方々が初代教会からカトリックが積み上げてきたものを捨てることで、アイゼンティティを保っているように感じられることですね。
例えば、彼らが捨てていった教会美術、そして典礼。そもそも、欧州ではさほど識字率は高くなかった。羊皮紙本を筆写する時代には、聖書なんてものはなかなか一般人には入手が難しかったのです。そしてかさばります。教会や修道院は、図書館の役割を果していました。字の読めない人たちにも聖書の内容が分かるように、絵画やステンドグラスが作られ、また典礼において人々に分かりやすく伝えることもしていたわけです。

そういった時代の人々の信仰は、非常に素朴であったかと思います。
神学を修めるのは聖職者だけで良かった、みたいな。しかし「無知だった人々のもの」それだけで、その時代の人々がもっていた信仰を否定することは出来ないのでは?
さて、今は、情報に飢えることが考えられない恵まれた時代です。
世俗の者でも信者でなくても、神学オタクにはなれるんですが、単なる神学オタクと信者・聖職者との見分けは、知識云々ではなくどうしてもついてしまうものなのです。そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。
勿論、理性のない信仰は私もどうかと思うのですが、信者さんにとっては「自分と神だけの間の問題であること、そうしたいこと」も多いはずなので、そこはある程度は心やって下さいますと感謝いたします。信仰を持つきっかけについても、その人にとっては大切な部分であるところを論評の的にされてしまっては、大概の方は傷つかれるのではと思いますので。

まあ、私の指導司祭だった方は、「疑って、疑って、疑いなさい。疑う余地が無くなったら信じなさい」と仰ってました。あれこれこだわるタイプも、素直さが足りないタイプも大羊さまだけでは決してないのじゃないか、と思うので、これはお笑いまでに。

172迷える大羊:2007/06/11(月) 23:20:18
まずは反省します
>そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。

 これは、イヤミに聞えますね、我ながら。素直に以後気をつけ、反省します。もちろん、自分が聖書読んでる、エラいのだ、といっているつもりなどないし、思っているわけでもありません。おっしゃるとおり、頭でっかちで、宗教オタクぽくなってしまっている自分をやや自嘲気味にいってみた意味もあるのですよ・・。いや、実は彼女にもそのようなこと言われたことあります。でも、一方で今まで宗教に縁がなかった人間は理屈で理解する以外ないし、「それは理屈じゃないの!」って切られてしまうと、もう何もいえないし、困ったところです。

 彼女と付き合いだした当初、正直、なんでこんなこと素直に信じられるんだ〜?とも思いましたし、教会の独特なムードに最初は大変緊張したものでした。彼女と宗教の話をする際はそれなりに慎重を期しているつもりではあるけれど、たまにそういう話になると、「なんでこんなことで怒られるのだ?」といった戸惑いもたくさんありました。傷つかないように、というのも十分、分かるのですが、一体、何に気をつければ良いのだろう?という戸惑いもありますし、宗教やら信仰やらに対する反発(つまり、変なことを変といって何が悪い、とか、焼香しないとか、神社行かないって何事よ、何でそんなことに気を遣わなきゃならないんだ??神が人を作ったって、じゃあどこの神?天照大神かい?等など・・)がない、というとウソになります。
 一方で私は無神論者ではないし、イエスに対する敬意はあるし(本当ですよ!)、理解してみようという気持ちがないわけではないし、遠藤周作氏の著作のような、理解しやすい信仰のあり方もある。そう思って教会もいろいろいってはみたし、聖書読解も自分なりにトライしてみましたが、でも、その「信じる気持ち」というか、その思考様式はやっぱりよくわからないところが多いです。

 そしてそのわからないこと、彼女にとても面と向かっていえない疑問をここでぶつけていた、というのが実情です。未信者なら当然いだく疑問だと自負してはいたのですが、不快な点が多々あったのであれば、素直にお詫び申し上げます。
 それも「信仰心」に対する無知ゆえのものです。

 最近は彼女も私にクリスチャンになってもらいたい、みたいなことは言わなくなりましたし、私もなんとなく、信仰を持つ人間に対する付き合い方の要領みたいなものを呑みこんできたところがありまして、うまくいっております。
 やはり、宗教と政治の話は慎重に行うべきですね・・・。当分、発言、投稿は自粛することにいたします。

173nao:2007/06/16(土) 10:09:18
反省無用じゃないですか。
投稿を控えられるとおききして、さびしい思いをしております。「不快な点が多々あつたのでは」なんて、誰もおもつていませんよ。きつと。大羊さんの問題は信者自身の問題なんです。みな「言葉」がたりないんです。竹下先生、流れ着いた梅さんには本当に敬意を表します。あんとに庵さんにも。これを見ている多くのかたは発言したくても、言葉に窮するのだとおもいます。

先日「仏教とキリスト教の接点」本多正昭著、行路社、を著者からいただきました。本多先生は師にして畏友。先生は高校の先生をやめて、九大の哲学科に入学、求道生活の末ゆきついたのが、カトリツクでした。すべてをすてて、ドミニコ会にはいり、マニラで神学研究。西洋神学に凄い違和感を感じ、心身症に。ドミニコ会をやめて、帰国。大学の先生になり、仏哲中山延二博士に出会い、仏教の「即」の論理に目覚め、以後キリスト教改心の言葉の表現は「即」をもつてしかできないと考え、それをいろんな論文でかいてこられました。
これはむつかしいのですが、神と人間の関係を表現するのに、ピツタリの言葉をもつています。

ながくなりますので、省きまして、最後にいかに改心の言語化がむつかしいか、この本に紹介されていたハンド神父という方(日本で禅を修めアメリカで禅指導されたかたでつい2年ほど前になくなられました)の言葉をおつたえいたしましょう。これが結論になつています。
ハンド神父の声
1、キリスト者にとつて本質的な特徴は、イエスの神体験に参入すること、イエスを通して神に参入することである。

2、しかし、イエスの神体験に関する教会的表現は、ユダヤ、ギリシャ・ローマなどに特有な知的枠組みによつておこなわれてきている。

3、とりわけ教会史最初の五世紀の間に入念に練り上げられたニケア公会議による信仰箇条は、明らかにキリスト体験の西洋的な表現なのであり、これがそのまま東洋に、したがつて日本にも伝道されてきた。

4、しかしそうした中でも、非西欧的・とくに東洋的伝統の枠組みで表現されてきたキリスト体験を、改めて創造的に再表現するという試みは、最近、やつとごく少数のクリスチアンによつて敢行されはじめたばかりである。

5、アジアの司教団が、初めてこの新しい方向付けの必要性を公言したのは、つい1998(平成10年)4月のアジア・シノドスにおいてであつた。
非西欧の伝統に潜む神の声を、神学的に再構築してゆくという重大な課題は、21世期がとりくむべきキリスト教の重大な使命として受け継げられているのである。

以上です。いかに信仰の言語化がむつかしいか、とくに日本でそれがむつかしいか、おわかりいただけるのではないでしょうか。そんなとき、竹下先生が現教皇の枢機卿時代の信仰問答を訳しておられ、大羊さんにとてもいい、とメールくださいました。ハンド神父とはまたちがつて、西欧知性のはつきりした回答ですが、素晴らしい訳文にできあがりつつあります。まもなく紹介していただけるものと、期待しております・

大羊さん、彼女とうまくいつてるようで、なによりです。お二人の愛情こそ、イエス理解の鍵をにぎつているはずです。神こそ、愛なんですから。どうか、いい愛情をはぐくんでいつてくださいますように。信者になるかならないかは生涯にわたつて、お考えになればいいことで、あせる必要はいつさいないとおもいます。いまは大いに楽しんでいただき、またなんでもぶつけてきてくださいますよう、ねがつております。

174Fusako:2007/06/18(月) 21:56:08
竹下さんにおたずね
「猫のコーナー」にお書きになっている、不当感を持つ三つの寓話、それは、わたしがやはり若い頃に納得できなくて、今は深く納得するものです。で、これについての田川さんの説をご紹介いただきましたが、日本人だけでなく、フランス人もやはり似た反応をするのですか?

175Sekko:2007/06/19(火) 19:40:33
そうですね
 大体そうです。というより、フランス人は、日本人なら違った反応をするんじゃないかとむしろ期待するんですが、フランス人も日本人も、同一労働の同一賃金とか、たくさん働いてたくさん稼ぐ、というような近代資本主義の労働観がきっちり刷りこまれているんで、同じです。こういう話では、たいていインド人が、そういう刷り込みとは別の宗教観を維持しているみたいなので、インド人の意見を聞きたいですね。

176Fusako:2007/06/19(火) 21:34:13
連帯のフランスでも
そうなんですか。だとしたら、アメリカ人なんてそういう新約の教訓にもっと反発しそうなものですが、狂信的なプロテスタンティズムはむしろアメリカにあるということが興味深いです。

177Sekko:2007/06/19(火) 23:48:58
ジーザス・キャンプ
 福音派(ここではペンテコスタ教会)の主催する子供の休暇村のドキュメンタリー映画『ジーザス・キャンプ』、日本でも見れますか? それによるとアメリカ人の8千万人が福音派かそのシンパだというのです。地球の人口の3分の1は15歳以下だそうで、彼らを戦士にするのが宗教の使命だというようなことを言ってまして、委員長タイプの女の子が胎児の模型とかを握り締めて涙を流して中絶反対とか叫んでるんです。自分たちの「罪」の改悛に対しても涙また涙です。
 あんまりすごいんで、いじめの問題などに直面してる教師とかが、この福音派の女性牧師ほどの演出力や演技力や使命感があればいじめっ子を完璧に改心させられるだろうにとか思ってしまいました。
 7歳から9歳の間に刷り込んだイデオロギーは一生残ると言ってました。学校教育を受けないですべて家庭教育という子供が少なからずいて、その75%は福音派だそうです。学校で子供にあんたは動物だ、自然の存在だといわれるより、神に創られた神の子だと言ってあげたいというのです。子供にこそ多様性を呈示すべきなんだし、複数の違ったレベルのディスクールも伝達できると思うんですが。「あんなとこに子供を入れる親が悪い」と思います。中絶にしても、私は女性の選択優先派で、しかしB16が中絶反対というのはOKという立場なんで、結構いろんな人と議論になります。

178:2007/06/22(金) 23:44:14
Jesus Camp
Suu-kagetsu mae ni CNN news de, mijikai eizou to tomo ni shoukai sare mashita. Zuibun mae no koto de shikamo hontou ni mijikai eizou datta no desu ga, atama o hageshiku furinagara goukyuu shite ayamaru kodomo o mite, nani ni tsuite shazai shiteirunodarou to omotte shimaimashita.
Mita chyokugo wa shokku deshita ga, yoku kangaereba, ginrui no rekishi ni oite wa ma-atarashi mono dewa nai to omottara, shourai o hikan suru kimochi wa yawaragi mashita. Kodomo no jousou niwa mochron warui to omoimasu.
??Tariban demo nitayou na koto o yatte iru to iu hito mo imasu ga, watkushi kojin wa souritsu toushyo no Iezus-kai(Jesuits) o rensou shite simai mashita.

179Sekko:2007/06/25(月) 01:33:57
お久しぶりです
 そうなんですよね、キャンプの人も、タリバンのコーラン学校では子供たちを、宗教のために命を捧げる戦士に教育できるんだから、キリスト教もできないはずはない、といってるんです。キリスト教でも、有名な小児十字軍ってのがあって、でも、そのほとんどは奴隷商人につかまったりしました。ある種の子供は、純粋に高揚するんで、それ自体はいいんですが、それを利用する大人たちが必ずいることが問題なんですよね。
 日本のような国では福音派といっても、戦闘的なコンテキストがなく、イデオロギーとも結びついていないと思うので、ああいう展開にはならず、ただ、理想に燃えて熱くカタルシスとしての異言語り(ペンテコスタ派の場合)に留まるのではないかと想像するんですが・・
 日本人はあまり人前で羽目をはずさない国民性があるから、ダンスのレッスンでも普通の人は即興とか苦手なんです。人前で大声で叫ぶとうのも苦手だし。でも、そのおとなしさを評価して認めてくれる共同体が崩壊したら、うまくガス抜きの装置がないと、カルトも含めていろいろな危うい「奴隷商人」に取り込まれて行くのかもしれません。
 創立当初のイエズス会もそうですが、今も南米中心に教皇直属の「キリスト軍団」ってのがあるじゃないですか。
こういうの。 http://www.legionduchrist.org/
これって、時代錯誤っていうか、ネーミング自体、怖くないですか? 前から注目してるんですけど・・・こういう人たちが非の打ち所なく控えているからこそ、教皇ってのは、理性80%くらいの冷静な人にやってもらいたいですね。

180:2007/07/06(金) 05:24:45
B16 no Kyourei
Kondo no doyoubi ( 7/7 ) ni Benedict XVI ( B16 ) ga arata ni kyourei (Motu Proprio) o koufu shimasu.
Naiyou wa, tsui 40-nen kurai mae made kyoukai-nai de futsuu ni okonawarete ita, Kyuu Roma-tenrei = <frui Laten-go no missa> o jiyuu ni kyoshiki suru koto ga??dekiru to iumono desu.(*imamade wa kisei ga arimashita.)

Shin-Kyuu no missa no ookina chigai wa, Laten-go toiu kotoba no chigai??igai ni, genzai wa : Missa=Bansan (shokuji o tomo ni suru) to iu gainen ni taishite, mukashi wa : Missa=Hansai (ikenie o sasageru) to iu gainen no moto de kyoshiki sarete imshita. Mottomo, seizen no Jean Guitton ni yoreba, ima mo missa nimo "hansai" no gainen wa nokkotte iru keredo "mokisatsu saretei iru" noda soudesu.

Jitsu wa watakushi wa kono "ikenie" toiu kangae-kata ga suki desu. Ima no jibun-tachi no shiawase wa dawrka no doryoku ya kurou no ueni aru toiu "gisei ni taisuru kanshya" ni tsuujiru youni omoimasu. Mata, KyuYakuSeishyo no shikou nimo tsunagaru you nimo omoimasu.

Mukashi no missa-tenreisho konna inori ga arimasu :
....Daignez, Seigneur, jeter un regard de complaisance et de bonte sur ces dons, et agreer ce Sacrifice saint, cette Hostie sans tache, comme il vous a plu d'ageer les presents d'Abel, le juste, vorte serviteur, anisi que le sacrice d'Abraham, notre Patriarche, et celui que vous a offert votre grand pretre Melchisedech...??(...Korera no sasage-mono o odayaka na on-manazashi o motte kaerimite kudasai.??Shimobe de aru gi-jin Aberu no sonae-mono, warera no taiso Aburahamu no ikunie, dai-saishi Merukisedeku ga kenjou shita kumotsu o ukeire tamouta youni...)

Mochiron, furui mono wa subete sugurete iru mitia na kyokuron niwa hantai desu.

Tokoro de, kinou, Fransu shikyou-dan no osa de aru Bordeax no Richard suukikyou ga shikyou tachi o Pari ni atsumete, kono atarashii kyourei??no atsukai ni tsuite hanashi-ai o motta sou desu. Shousai ni tsuite wa mada kiite imasen ga, douyara atarashii kyourei wa amari karera ni kangei sarete inai you desu.

Dochraka ippou ga, mou katahou ni totte kawaru to iu nodewa maku, shin-kyuu souhou ga o-tagai kara manabi, katorikku no tenrei ga yori yutaka ni nareba yoi to omotte imasu.

181Sekko:2007/07/06(金) 08:26:42
生贄のこと
 フランスのカトリック界は、先ごろ、過去に破門されてスイスで活動していたラテン語司式のモンセニョール・ルフェーブル系の司祭らをヴァティカンが受け入れた事実についてすでにすごく困惑していました。第二ヴァティカン公会議の精神を死守しようとする人が多いフランスのカトにとっては大問題なわけです。ミサにおける「犠牲」のシンボリズムもすごく大きな問題ですね。
 昨日、サン=ドニのバジリカ聖堂で、80歳になるクルト・マズール式のブリテンの戦争レクイエムを聴きに行きました。1994年に同じ場所でロストロポヴィッチがこの曲を指揮した記念だそうです。
 二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパ人の平和への決意のような英語の詩(Wilfred Owen)が、ラテン語レクイエムと交互に現れます。その中で、アブラハムが神に言われて息子のイサクを犠牲に捧げるシーンがあります。本来なら、アブラハムが刃を振りかざしたところで、神が止めて、その代わりに一匹の羊が見つかるという話です。ところが、Owenの詩はこうです。

Offer the ram of pride instead of him.
But the old man would not so, but slew his son,
And half the seed of Europe, one by one...
Half the seed of Europe, one by one...

つまり、せっかく神が、イサクの身代わりの羊を用意したのに(そんなくらいなら、最初からアブラハムの信仰を試すなど無体なことをするなという突っ込みはなしです)、アブラハムは、イサクを殺し、それから、ヨーロッパの子供を一人ずつ、半減するまで殺していった。それが、ヨーロッパの人口が激減した二度の大戦のことです。人は、神の名において自分の子達を犠牲にし続けたという怖ろしい詩になっています。ここの部分は血が凍るみたいに歌われ、その次のSanctusの冒頭で、ソプラノがSanctus,Sanctus,Sanctusと3度絶叫するのが臓腑に打ち付けられる気分になりました。
 宗教であれ、戦争であれ、人が人を屠るシーンでは、聖への侵害があり、神なしに実存を支えられなくなる瞬間があるのかもしれません。

182:2007/07/06(金) 23:54:02
Fraternite St.PieX
Maido no koto nagara, yominikui roma-ji no choubun o yonde kudasatte arigatou gozaimasu.

Watakushi ga omouni, Fraternite St.Pie X ( Mons.Lefebvre no sousets shita shisai no kai )??no mondai-ten wa furui Laten-go tenrei to iu yorimo,??"katolikku-kyoukai dake ga yuitsu tadashiku,??zettai ni machigaeru kotoga nai!"??to iu rinen no moto de, hansei toka jiko-hihan o shinai koto dato omotte imasu.

Sonna karera no tokoro ni??"Nazisu no dai-gyaksatu nante decch-age da!"??nante shuchou suru hito ga kekkou atsmatte iru noga kowai desu.

183Sekko:2007/07/07(土) 01:00:45
その通りですね
 実は、最近、改めてヴァティカン2の憲章と、Ratzinger時代のB16の『Dominus Iesus』を読み比べて、Vatican2は、ある意味当然ですが、結局『Dominus Iesus』に直結してるんだなあ、とも思ったところです。でも、実際は、宗教観対話のためにB16は最近、多元派のフランス人を任命しました。この質問箱で一月ほど前に書きましたが、多元派というのは救済における宗教的多元性を認めるということで、基本的にB16 に批判されています。
 コピペしますと、

「多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16−12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。」

ということで、少なくともB16が多元派を採用したということは、プラグマティズムというか、開かれた態度が感じられてほっとします。
 大体において、今のカトリックは、メンタリティにおいて結構はっとするほどモダンなんですが、システムが旧弊なんでそれが見えないんですよね。それに比べると福音派とかは、内容はアナクロでも、経営の仕方がマーケッティングとかメディア利用などにおいてすごく今風なんですね。

 しかし歴史修正主義の誘惑ってのは、興味深いですね。何か普遍的な病理につながってる気がします。

184:2007/07/07(土) 21:22:19
Summorum Pontificium
Tsui ni B16 no atarashi kyourei "Summorum Pontificium" ga demashita.

http://www.vatican.va/latest/laterst_fr.htm

O-jikan no arutoki ni go-kansou o ukagaetara ureshii desu.

185Sekko:2007/07/09(月) 02:12:41
読みました。
 司教への手紙、読みました。ラテン語司式許可についての二つの懸念に答えていますね。一つは、第二ヴァチカンの精神と逆行するのでは、典礼の改新を否定するのではという懸念。これには、第2ヴァチカンがその前の典礼の無効を宣言していないこと、ある意味、ラテン語司式はまだ生きていること、二つは標準典礼と特別の典礼(日本語が良く分からないので適当です)としてすみ分けうる、との見解ですね。古い司式に愛着を持つ人も少なくなく、若い世代でもラテン語ミサにこそ神秘を感じると言う人がいることも。そして、新しい司式が、自由に変形され展開されてもよいという誤解によって、その精神が逸脱しているケースを批判されています。新しいものを自己裁量で使うよりは、伝統に磨かれたラテン語司式の方がよい、というニュアンスです。改革派だったラツィンガーが、相対主義に絶望して保守に戻ったという経緯を反映しています。また、1988年にJP2がルフェーヴル派に最後まで歩み寄った分裂回避の姿勢に触れ、これまで、各司教がケースバイケースで判断することに頭を悩ましてきた苦労を軽減するとも。
 第二の懸念は、この許可により、カトリック界がラテン語派と新司式派に2分され混乱するのではないかというもので、これには、ラテン語司式を執り行うにはラテン語はもちろん、最低限の学習が必要なので、誰にでもできるわけではなく、新司式が主流として残るだろう、と言っています。キリスト教は、これまで意見を異にするものを切り離していくことで分裂していったが、今は意見の違うものと共存、統合を図りたい、それによって互いにインスパイアして、豊かになればいい、という感じです。すべての司教は3年後に実際どういう状況になったかを報告して、問題が起きていたら解決策を講じたいということです。
 新旧の両司式には、矛盾はない、典礼の歴史は常に広がりと進歩の歴史で断絶の歴史はない、前の世代にとって聖なるものであったものは我々にとっても偉大で聖なるものであり続ける。突然禁止されたり害のあるものだと言うことにはhなり得ない、ともあります。確かに、科学や思想のパラダイムが変わったりするのと違って、聖なるものや美なるものを通して、超越の世界と関わる典礼では、古いものが無効になるということはあり得ないでしょう。
 実際、ラテン語ミサのために無数の美しい曲が生まれて宗教を超えた文化財産になっているように、文化資本としてのラテン語ミサは生きています。先日書いたブリテンの戦争レクイエムでも、英語の詩とラテン語の典礼部分が絶妙に配合されていて、互いに互いの強さや深さを補強していました。「新しいものが古いものを駆逐していく」ような市場原理みたいなものとはかけ離れています。
 問題は、Massimoさんのおっしゃるように、ラテン語派がしばしば独善的原理主義と重なることですね。彼らが新司式を完全に排除する排除するのはその価値と聖性を認めないということで、よろしくない、とB16も釘を刺しています。 でも、この手紙でB16は、司教に「寛容」と「Charite(愛徳、憐れみ)」と「慎重さ」とを期待しています。それにすごく好感が持てました。誰もがこの3つを肝に銘じていれば原理主義の罠にもとらわれないんでしょう。長くなるので一応これで。

186:2007/07/09(月) 04:21:33
B16 no yasashisa
Takeshita-san, arigatou gozaimasu.

Jitsu wa, "Dentou Fukken" o takaraka ni utai agete shimatte irunodewa nai ka to, naishin shinpai deshita. Honbun o yonde hotto shite imasu.

dai2Vatican no ketsugi ni tomonau kaikaku ni tazusawatta shikyou-tachi e no kei-i ga kanjirare masu. Watakushi jishin mo, karera no kufuu ya doryoku niwa kanpuku shimasu.

Shikashi sono ippou de, kaikaku o gouin ni okonatta tame ni kyoukai kara shmedasreru hame ni natta hito-tachi ga imasu.
Nagaku shikou-seikatsu o tsuzukeireba, sono shikou ya dentou ga jinkaku to missetsu ni musubitsuku baai ga arimasu. shikashi kyoukai-gawa wa sore ni kizukazu, dentou-teki shinkou o motsu hito no jinkaku o hitei suruyou na koto o shite shimatta youdesu.
Furui tenrei no fukkou-undou ni kakawaru hito ni, tsuyoi Ressentiment o motsu hito ga ooi nomo sono tame dato omoimasu.

Konkai no "Summorum Pontificium" niwa souiu shiitgerareta hitobito ni taisuru itawari mo kanjiraremashita.

B16 no yobikake, "Kokoro o hiroku" (IIcor. 6:13) ni kongo kyoukai ga dou kotaeruka chuumoku shiteimasu.

187Sekko:2007/07/09(月) 05:49:55
改革とは
 企業の改革やら社会の改革や修道会の改革などと違って、典礼の改革というものが真に内容を持つのには実は100年くらいかかるんではないかと思います。ラテン語の典礼は千年もかけて少しずつスピリチュアリティを獲得してきたわけで、そこにはいろんな人の思いがつまっています。審美的な肉付けも、神秘の喚起力も、歴史の刻みも、恐れや陶酔や歓喜や慟哭も。新しい司式を整えて訳したところで、実は古い典礼と簡単に置き換えられたり拮抗するわけではないでしょう。今日の改革が明日実を結ぶというのは、精神の営みや霊的な営みには不可能な気がします。また、聖なるものへのセンシビリティというのは典礼だけではなくいろんな形で養われていくものなのでしょう。私もB16の優しさを感じます。

188迷える大羊:2007/07/12(木) 23:37:52
またお邪魔します
 迷える大羊です。信仰に関して、こちらとしては素朴に疑問に思うこと、反発を感じることを素直に書いたつもりでいても、人によっては心の勘所に触れてしまうことをリアルでもネットでも身にしみて知ったこともあり、宗教問題に関してはしばらく発言を自粛しておりました。しかし、宗教、キリスト教、信仰に関し、またまたいろいろ、知りたいこと、いわずにおれないこともあって、あえて禁を解き、発言します。naoさんにも御心配をかけたまんまですし。(著作の紹介ありがとうございます、遅れましたけど)。

 こちらで、しばらく見ない間に福音派の話題がでておりましたが、この件に関して、私は今まさにリアルタイムで関わっております(彼女が福音派クリスチャン)ので、聞きたいこと、いいたいこと山盛りです。
 なぜ、この福音派の話を蒸し返すか、といえば、いよいよ結婚を控えて、やっぱり、というか、なんというか、彼女の母教会の牧師ともども、私にクリスチャンになってもらいたいという話がはっきりと出ました。

 別にキリスト教全体やイエスに対する悪印象はないんですけど、やっぱりクリスチャンのメンタルな部分は今ひとつよくわからない上、福音派(ペンテコステ系ではないんですが)の人たちの信仰は、私にとってあまりに強烈、という言い方が失礼なら、純粋すぎ、真面目すぎで、私の宗教感覚とはとても合わないんで困りました。

 もちろん、だからといって、このままでいても彼女の信仰とは付き合わざる得ないし、いつかはクリスチャン、というプレッシャーはこの先ずーっとかけられ続けるだろう、考えた末、こんな妥協案を。「わかった、まだ信仰のことはよくわかんないけど、神についての探求は続けるよ。その代わり、教会、教派は俺の考え方に合うところ、近いところにさせてもらうよ」といい、彼女もそれで納得しました。とりあえず、同じ神の下にいてくれればいいようです。

 で、キリスト教や信仰心について大してわかっていない上でいうのもなんですが、今まで、キリスト教会を巡り、神父、牧師などの聖職者の方々に話しを伺った中で、一番考え方に違和感が薄かったのがカトリックでした。理由としては他宗教や異教文化に対する対応が排他的でなく、私の苦手なファンダメンタルな思考様式を方々があまり見当たらないんで、落ち着くんです。あと多神教的な要素があることも、プロテスタント福音派からは批判材料になるんでしょうが、私の宗教感覚からすると、ホッとさせられる要素だったりします。とにかく、あちらは「本物の神とは〜」みたいな話が多くて、そういう考え方は私にとって押し付けがましく思えて窮屈きわまりない。

 彼女は一応、「カトリックでもいいよ」とはいいますし、表立っては批判しませんが、カトリックにはやや冷淡です。彼女の母教会の牧師さんは、遠藤周作などカトリック系作家の作品は「立場が違う」ということでこれまた読みません(理由はなんとなく分かる気がしますが・・)。

 で、何が最終的に言いたいのか、といえば、彼女や彼女の母教会の牧師さんは、夫婦は信仰が同じ、というか同じ神の下にあるべき、という考えなんですが、私的には、同じ神を信じたからといって、感覚や価値観の相違までがぴったり同じになるとは思えないけどなぁ、うまく言葉にならないけど、なまじ互いに同じ神を信じている、という思い込みがあるだけ却って、その感覚、考えの違いが鼻についてしまう、最初からこの人は違う種類の人間と思えば気にならないことが、イラつくなんてことの方がありがちな話のような気がするけどなぁ、とも思ったりします。

 皆さんはどうお考えになるでしょうか?やはり、カトリックと福音系の組み合わせはマズイかなぁ?彼女の方でカトリックじゃなくてもいいから、せめてもう少しリベラルな教派に変わってくれないかなぁ・・、と悶々と考える今日この頃です。

189迷える大羊:2007/07/13(金) 00:58:51
進化論
 またまた失礼します。こちらでしばしば話題になる福音派と今まさにリアルタイムで関わっている迷える大羊です。彼らと関わって思うのは進化論を排斥したがる人がやたらと多いこと。私は結婚式の司式の条件として、福音系(その頃はキリスト教のセクト、教派の関係がよくわからなかった)教会の学び会に行ったことがあるんですが、いきなり「進化論は唯物論、無神論、クリスチャンになるということは神を取らねばならない、したがって進化論は捨てなければ・・・」なんて話をされました。

 また、僕の彼女(福音系教会員)の母教会の礼拝にカナダで宣教活動をしている女性伝道士の方が講演してましたが、内容は子供たちは人間の先祖はサルで、自然にできたものなんて進化論にいつの間にか洗脳されている、それは人間の尊厳を傷つける、創造論も同じように教えなくては、学校でも教えるべき、そんなような内容で、彼女は子供たちに創造論を教える活動、運動をしているそうです。

 また、彼女のクリスチャン仲間(50代くらい)の人とお話する機会があったんですが、彼も曰く「進化論は人に生きる目的を見失わせる、時代がくだるほど生物が良いものになっていくなんて信じられない(進化論はそういう話ではないと思うんですが・・)」そうです。
 彼も、そして彼女も「進化論と同様に創造論も学校で教えるべき」なんだそうです。
アメリカでそういうことを主張する人が現在勢い盛んであることは以前から知識として知ってはいました。でも、この日本で、しかも自分の身近な存在として関わりあうこととなるとは夢にも思いませんでした。

 私としては、これってどこか話しのスジが根本的に違うような気がするんですよね。私は生物学者でもなんでもないですけど、一つはっきりいえるのはあれは科学理論ですよね。別に神の有無やら人としての生き方を論じたものでも何でもない。聖書の創世記とは話の成り立ちがまるで違う話。

 本屋さんの宗教コーナーに行くと、聖書の上げ足取りの本をしばしば目にします。ネットでも、「聖書はここがおかしい、こんなことはあり得ない」なんてことを指摘したサイトがよくあります。まあ、冗談とか話のタネとしては面白いですし、私も大好きです。

 でも、それを元に、つまり現代の科学や常識の基準で聖書を断罪し、「だから、キリスト教はダメなんだ、こんな間違いだらけの本の内容は見直し、キリスト教はその価値観を考え直さなければ・・」なんて大真面目に主張する科学者がいたら、クリスチャンの方々は冒涜とかなんとか言う以前に「アホか」と思うだけでしょう。聖書は別に科学や歴史の教科書として使用されることを目的に書かれた本ではないですものね。

 進化論ぎらいの福音系クリスチャンの方はどうもこの逆パターン、つまり、信仰の基準を全く別次元の話である科学に持ち込んで、ああでもないこうでもない、なんていっているのが筋違い、というのが私の意見なんですよね。この種の人々の中には、進化論や生物学に詳しい人も中にはいて、進化論の問題点をあれこれ指摘し、生き物が神によって作られた「科学的」証拠をあれこれ並べ立てる人もいるんですが、結局のところ、その根拠は聖書にたどりつくし、進化論の問題点が分かる以外にこれといった説得力がなく、どう考えても護教的な立場で語っているだけとしか思えない。
 大体、神の存在が科学的に証明できるんだったら、宗教なんか要らないんじゃ?信仰を深めるためには聖書なんかより、ひたすら生物学、物理学を勉強しよう、という話になるんじゃないのか?ってツッコミを入れたくなってしまうのです。

 学校で教えろ、というと当人たちは大真面目でも、私にはさらにバカバカしい、というか信教、思想の自由上、大いに問題あり、としかいいようがない。彼らは進化論は仮説に過ぎない、そんなら創造論、創造科学も、といいますが、科学の世界に科学じゃないものを持ち込むのは変。思想や哲学の時間に教えるなら全然問題ないと思いますけどね。

 また、創造論はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教みたいに造物主信仰がある宗教の信者にとっては耳に心地いい話ですけど、世の中には、例えば仏教みたいに造物主の考えがない宗教だってあるわけで、そういう宗教の信徒の立場は一体どうなる?彼らからすれば、どこの神様、とは明言されていなくても、明らかにこれは特定の一神教の押し付けと映るんじゃないかなぁと思います。
 つまり、学校の「理科」の時間に創造論を教えろ、と主張する人々って、他宗教、未信者の人々の立場、気持ちに全然鈍感すぎる、と思ってしまうんですね。

 信仰にまつわるデリケートな話は彼女とはなるべくしないようにしてるんですが、これはさすがにあまりにおかしい、と思うんで、彼女に僕の意見を表明したところ、黙ってました。
 それにしても、この類の話(はっきりいってファンダメンタル)はカトリックではほとんど聞かず、プロテスタントの方に多いんでしょうね?この辺りの事情はとても興味深いです。

190Sekko:2007/07/13(金) 02:33:48
そうですね
 遠慮なく来てください。なかなか大変ですね。福音派の原理的創造論って、さすがに日本では強調されてないのかなと想像してたんですが、アメリカなんかとあまり変わらないんですね。キリスト教的文化のベースのある国ならまあそれなりに・・と理解できないではないんですが、日本のような国に生まれて育って、「神のために進化論を捨てなきゃいけない」なんて集団で思えるという自体、私には驚きです。まあ、それが宗教なんで内輪ではそれはそれでいいとして、もしほんとに子供の教育とかに押し付けられたら、嫌ですよね。まあ、アメリカの場合はイデオロギーと結びついて、お金もすごく動いて、ロビー活動とかすごいですが、日本の場合がそうは展開しないのではと思うのですごく危機感はないんですが。
 前に書いたかもしれませんが、全体として、今のカトリックと福音派系を比べますと、カトリックは、内容はすごく近代化しているのにフォームや方法論が古い、福音派は、内容はアナクロニックなんですが、伝道の仕方にメディアを用いたりマーケッティングの手法を取り入れたり、と、戦略がとても新しいのです。カトは、いわゆる古い革袋に新しい酒,福音派は、あたらしい革袋に古い酒、という感じです。そこのところを分かってないと、カトは旧教、古臭い、福音派は新しい、みたいな錯覚を起こすこともあります。

 それで、学問的や宗教的言説じゃなく、善し悪しの判断でももちろんなく、もし、私が大羊さんだったらどうするかということをお答えしますと、私だったら、彼女がそう言ってくれてるんだから、プロテスタントのルーツであるカトリックかルター派か公教会か、穏健な老舗をチェックして、地域の直接の司祭とか牧師に事情を話し、最も人柄に共感を持てて、相談に乗ってくれそうな人がいる共同体に決めます。教義がどうのこうの言っても、結局、直接接する人の人格が大きいですから。最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという思いが届かないのでは悲しいので。それに、彼女がこだわる以上、将来子供ができたり、あるいは人生で試練にあったりした時にも、広い意味でのキリスト者の共同体にいるからね、という安心感を与え、決意を見せたいと思います。その上で、私なら、少しずつ、彼女を原理主義的メンタリティから遠ざける努力をします。彼女の家族全員がそうだとかいうなら至難の業かもしれませんが、少なくとも、遠ざける姿勢を忍耐強く見せて、しかも私が彼女に納得して認めてもらえるほど福音的な誠実なキリスト者であるところを見せていけば、彼女が深みにはまったり(子供の教育のこととかで)するのを避けることができるかもしれませんし、互いに尊重しあうことが本当にキリスト教の精神なのだと分かり合えるかもしれません。


 日本では報道されてないかもしれませんが、5月3日に、ポルトガルの南のヴァカンス地で、イギリス人の医師夫婦の4歳の娘が誘拐されたまま消息を絶つという事件が起きました。二人はアイルランド系でカトリック(といっても教会に通っていなかった)なので、地元のポルトガルの教会が二人を支えるミサに招き、それが非常な支えになったそうです。司祭は夫婦が夜でも好きな時に祈るようにといって教会の鍵を渡してくれたそうです。ある夜、父親は啓示を受け、この事件をメディアに載せようと決心しました。イギリスのサッカーチームとかもみな協力するようになりました。夫婦はポルトガルの聖地ファティマに巡礼に行き、ローマにも巡礼に行きました。アイルランド系の枢機卿の口利きで教皇にすぐ面会できました。教皇は、子供を奪われた同じ状況にあるすべての親に会う用意があると言いました。そのことですごく有名になり、両親に自家用ジェット機を提供する富豪も現れました。小児性愛のために子供を誘拐する組織が裏にあるとも言われています。
 二人は、この苦しい時期、信仰にどんなに助けられ勇気づけられたかを語っています。
 それで、あるカトリックのジャーナリストが、この二人に、「もし、お子さんが結局無事に戻ってこなかったら、あなた方の信仰はどうなりますか?」と尋ねました。
 父親は「すごく揺さぶられると思う、しかし私たちを支えてくれた人々を感謝する気持ちは変わらないのだから、彼らと同じ共同体に残ることになると思う」と答えました。
 母親の答えはこうです。「それはすごくショックなことです。でも、娘が帰ってこないから神を信じなくなり信仰を失うというのなら、そもそも、娘がいなくなった時点でもう神を信じなくなってもいいはずでした。でもその反対で、私は娘がいなくなったときに神を見い出して力と希望を得たのですから、神をもう見失うことはないと思います」

 いろいろ考えさせられます。貧しい国から来たある不法移民で貧しい人がいつもひたすら教会で祈ってるので、「願いが一向に聞き届けられてないことにいつ気づくんだろう」と心配してたことがあるんですが、あるシスターから、「ああいう人たちはね、豊かになったら、神さまを失うもんなんですよ」と言われて、そんなものかと思ったことがあります。
 でも、これから結婚する人にこういうのもなんですが、人生なんて、いろいろ大変なのが基本で、完璧な幸福は夜の嵐の中の稲妻みたいなもの、ある日、夫婦で大きな試練に会わないとも限らないし、そんな時、「そうだ、二人とも同じ神さまがいるんだっけ」と思えることが何かの救いにならないとも限らないです。人間がサルから分化しようが、神に土から造られようが、幸せな時はあまり関係ないので、人がつらい時に互いに結びつけてくれ支えてくれるものがあれば心強いかもしれません。彼女がすでに信仰を持っているということは彼女には今もそれが必要だということなのでしょうから、彼女を愛する大羊さんの人生にも、きっと意味のあるものになっていくのかもしれません。今どこかの共同体を選択したからといって、それは終わりではなく、始まりなので、仕事や家庭とのバランスヤ良好感を模索しながら、一生かけて「真実」みたいなものに向かって船を漕ぎ出せばいいと思います。海は広いので、二人の航跡が違っても、星の位置を手がかりにして同じ方向に向かうことはきっとできると思います。最初から同じ船に乗って安心感から漂流するする人だってたくさんあるのですから。

と、宗教というより人生相談の答えでした。

191nao:2007/07/13(金) 17:18:27
おかえりなさい。
大羊さん、よくこのサイトにかえつてきてくださいましたね。うれしいです。Sekko先生のこの度のご提案はとてもいいですね。私はカトで夫は、なにも宗教について考えないいわゆる仏教徒でしたから、生涯信仰面での話しあいはありませんでした。もし、私が男でしたら、こんな遠慮はしなかつたことでしょう。やはり苦しいとき、同じイエスが側にいてくれるのはすばらしいことです。でも夫婦愛は充分育ちましたよ。信仰だけが夫婦を生かして
いるわけではなく、二人の愛情が結婚生活をはぐくんでゆくんですからね。もつとも信仰と二人の愛情は別ののでありながら、一つという側面もありますが。私の提案は結婚までに何かに籍をおくのがむりなら、結婚後、自由に選ばれたら、いかがかとおもいます。そうすると、彼女が強く福音派を押すかな?その可能性がおおいなら、せつこ先生のいわれるような選択のほうが、身をまもるのによさそうですね。この間アメリカのメガ・チャーチをTVでみて、信仰もビジネスになつたんだなあ・・気持ち悪かつたです。「古い皮袋に新しい酒」なら皮袋がかわつてゆく可能性のほうが反対の場合よりよさそうですね。

192迷える大羊:2007/07/14(土) 11:31:58
弱りました
 SEKKOさん、naoさん

 いつもレスありがとうございます。こういう宗教問題って誰にも相談する相手がいないんですよね。キリスト教の事情を知っている友人、知人なんていやしないし、親はキリスト教に関しては好イメージを持ってはいますが、なんとなくいいんじゃない、って程度でキリスト教にもいろいろあるなんてことはてんで理解していません。牧師と神父の区別もつかないくらいですから、とても相談の対象には・・・。

>最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという

 確かに私もそう思いもしますし、SEKKOさんの御提案は現実的と思いますし、実際に実行に移してみるつもりではあります。カトリック、ルーテルなどの「大手老舗」なら確かにあまり素っ頓狂なことは言い出さないし、まあ、安心でしょうし、一応は同じキリスト教なわけで、なんとか理解と安堵を得られたらいいな、とも思うし。

 ただ、私の方でそれ以前にキリスト教的メンタリティが本当に自分のものになるのか、わかっているのかどうかは疑問ですし(知識はいろいろ増えましたが)、こんな理由、つまり、本当に自分自身が神の必要を感じて、というのではなく、とりあえず配偶者を安心させたい、納得させたいみたいな理由で出入りしていいんだろうか?とも思います。

 前述したように、キリスト教の歴史だとか、教義などの知識は増えましたけど、それが一体、自分の心の問題、人生の問題にどう関わってくるのか、イマイチ実感としてわからなかったりします。こちらで散々書き散らしたように、100%神、100%人ってどういうことよ?とか、賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらないし、「おまえ、罪人」というのも趣旨は理解できるんですが、あまりに罪罪いわれると、イライラしてきたりで躓きだらけですし。

 つまり、今のところ、私にとってキリスト教は勉強や教養の対象としては面白いんですが、自分自身の心の癒しになっているか?というと、今のところ?で、むしろ、彼女のことなどを含め、悩みの対象となっているのが正直な実感でして・・。こんな心境で来られても、牧師さん、神父さんはむしろ迷惑なんじゃないかなぁ、とも思ったりします。本当にこまったなぁ、どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?とすら思ってしまいます。本当に弱りました。

193nao:2007/07/14(土) 16:22:10
今は静観ですね。
いやあ〜わが子にそういわれると、どうしようかなあ〜。と考えてしまいましたよ。今は宗教を外から眺めていたほうがいいんじゃないですか?配偶者は配偶者。自分は自分と割りきつて。夫婦生活つて、それでもうまくゆきますよ。いくら配偶者といつても人の内面にはカツテに入れませんからね。夫と連れそつて、半世紀。でも宗教は別。それでもうまくゆきました。相手がそれを受け入れないときはそもそも、結婚そのものが無理ですから。お二人が愛しあつておられるんなら、「僕は今は宗教に入れない」と宣言して大丈夫でしょう。あまりやさしく、相手を思いやるのも、あとで、後悔することになるんで、はつきりいえば、あつさり「そうね」と応じてくださるんじゃないでしょうか?むつかしいかな〜。

194Sekko:2007/07/14(土) 17:11:19
それなら・・・
 発想を変えてみましょう。ここまでは、大体において「キリスト教理解」という観点からお答えしてきましたが、純然たる人生相談として答えてみます。

>どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?

とおっしゃいますが、問題が「宗教」だと思うから袋小路に入っているので、本当の問題は、アディクションなんだと思います。多くの人は軽重は別としてアディクションを抱えていると思います。煙草や酒がやめられなかったり、買い物依存とか、マザコンやファザコンとか、オンラインゲーム依存とか・・・
 たとえば、般若心経を50回唱えるのが就眠儀式になっていて、一度でもそれができないと不安不眠になる、普段の生活に支障はないが、結婚する相手には知っていて欲しい、できたら一緒に唱えて欲しい、と打ち明けられたらどうします? 般若心経のことはよく分からないけど、「悪いもの」ではないはずだから、やめろというわけにはいかない、自分もその内容を勉強してみよう・・・なかなか難しいし奥深そうで、とても理解したとは思えない、意味も分からないで毎日いっしょにこんなものを唱えるなんて意味がないんじゃないか・・・とか、いろいろ思い悩み・・・なんで、こんなお経なんて厄介なものがあるんだろう・・となるでしょう。
 つまり、問題はキリスト教や般若心経にあるのではなく、アディクションにあるのです。何かに夢中になるのは悪いことではありません。しかしそれが途絶えると心身のバランスに異常をきたすほどの状態であれば、またすでに日常生活に支障をきたしている状態であれば、依存症や強迫神経症となります。
 誰かを好きになったら、その人が慢性病を抱えていると知っても、依存症や強迫があると知っても、心は変わらないでしょう。ある若年糖尿病で一生インスリン注射が必要な女性は、男の人と付き合う前には必ずそれを打ち明けてその反応によって、相手の人間性を確かめていました。それを受け入れてくれる人でも、過剰反応されて、何か食べるたびに、「これ食べていいの?これは?」と聞いてくる人はすごくいやで続かなかったそうです。彼女が結局伴侶に選んだのは、そのまま受け入れてくれて、しかし、その後、彼女の方からそのを話題にしない限り、一度も自分からその病気のことを口にしない人だそうです。
 これは、もちろんアディクションではなくて、日常生活の一部が、カップルでまったく同じようにできなくて、一方がある種のハンディを背負っているというケースです。
 カップルの片方に病気や障害があり、それでも、いや、それゆえにより強くいたわりあったり愛し合ったりしているケースはいくらでもあります。
 宗教でも、たとえば、相手を勧誘せず、週一回の勉強会と礼拝だけは欠かせないからOKしてちょうだいね、といって、何十年もうまくいく場合もあります。でも、それにはおのずと家庭の優先順位を決めておくことが必要になります。片方が具合が悪くて今日は家にいてほしいとか、海外転勤についてきてほしいとか、子供が病気だとか、子供の学校の会合があるとか・・・何があっても宗教の集会を優先するとしたらそれは依存症であり、その宗教がそれを利用して、あるいはそれをほめているとしたらもっと大変です。本当の宗教とは、人を分断するものでなく、結びつけるものであるはずから、宗教内の身内優先で外的宗教行為が一番大事とは言わないはずです。
 私にはもちろん詳しいことは分かりませんが、これまでのお話からすると、彼女はアディクション状態かそれに近いところにあり、しかも、福音派の性質から言って、ひっそりと内面的に信仰するというより説教的な布教を求められていると思うので( 昨日も言いましたように、消費者のマインド・コントロールを含めた企業の販売戦略と同じような部分もあると思います)、アディクションを解くにはかなり困難なレベルにあると思います。それを承知で、自分を守りながら共存していくか、依存度を減らして寛解状態にもっていけるか、あるいは、これが理想ですが、彼女はそういう心の問題の依存を必要としているわけですから、彼女の依存を宗教から少しずつ大羊さんに移していけばいいのです。これもそれはそれで覚悟がいりますよ。神に対抗(?)ですから責任重大です。裏切ることはできません(第一、人間には裏切られるからと言って神を求める人は多いです)。「ぼくの愛の力で何とかなる」と思うのはもっとリスキーです。愛の力で何とかなれば医者もカウンセラーも要りません。そんなわけで、愛する人のアディクションとどう付き合うべきか、これが本当の問題ではないでしょうか?

 後、もう一つ、人生相談でなく信仰の相談だという立場で答えますと、大羊さんが彼女のおかげでキリスト教のことをいろいろ勉強したり、関心を持ったり、このサイトにいらっしゃったということは、何かの導き、仏教風だと「ご縁」だったということかもしれません。大羊さんは神の必要を感じていないとおっしゃいますが、ひょっとして神が大羊さんを必要としているのかもしれません。今はまだその意味が分からないけれど、何か使命を果たしていらっしゃるのかもしれません。少なくとも、私やNaoさんに、大羊さんのお役に立とうという心を引き出してくれました。私やNaoさんにはこのやりとりが糧になっていると思います。ありがとうございました。またいつでも来てください。


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