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哲学・宗教質問箱
132
:
Sekko
:2007/05/17(木) 03:18:41
メリットについて
この質問はある意味新鮮でした。別に不謹慎とか思いません。すごく本質的だと、私には思えます。「私にはこういうメリットがあったとかいうお答えもあるかもしれません。でも、私の考えていることを言ってしまいますと、いわゆるメリットはありません。というか、メリットとデメリットでものごとを選択するという当然の処世術や世界と違う世界を見られるというのが、メリットと言えば言えるかもしれません。私たちの世界には、努力すれば報われるとか、強いものが勝つとか、消費した時間や労力には対価があるとかいうのが普通です。でも、信仰の世界には、そういうギヴアンドテイクの物差しはないということ自体が、私たちを別の形で、生かせてくれます。
イエスは、祝福されて神の国にいける義人とは、洗礼を受けた人だとか、献金した人だとか言ってません。飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませ、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねた人だと言っています。最も小さいもの、弱者にしたことがイエスにしたことだと言っています。フランスで8歳の子を対象にしたカテキズムの最初の時間に出た時、担当神父は、「ここで教えるのは、キリスト教的生活とは、他者の生活をより快適にするように努力することだということです」と言いました。私はこれがとても気に入りました。もしみんながこう努力すれば、搾取も戦争もないと思ったからです。そして、宗教の名に値するものは、こういう利他のメッセージを必ず含んでいるはずだと思いました。キリスト教は、全知全能の神の他に、人間として最悪の殺され方をしたイエスを救世主とします。渇いて、裸で、死にました。33歳で磔にされて窒息死するより、80歳で弟子に囲まれて大往生した仏陀の人生の方が、多分、だれでも好むかと思います。でもこの過激さが、「最も弱い人に寄り添う」というキリスト教の根本を作っているのでしょう。
現実には、とりあえず、自分の身の回りで自分よりも困っている人とか、自分よりも弱い人のために、自分の相対的に強い部分を差し出してお手伝いします。絶対的強者とか弱者はいなくて、だれでも病気や老いや自己や障害で弱くなったり、また元気になったりとかします。たとえば、子が小さい時は強い親が助けて守り、子が大きく強くなって親が老いて弱くなれば子が親を助けて守る。恩返しとか義理とか、誰は誰に何々すべしという固定的なものではなく、生きているその時点で、自分より弱いほうをアシストするということです。これに最近、「強い立場の者と弱い立場の者の利害が対立した時は、強い立場の方が譲歩すべきである」というのを私は付け加えました。結構難しいです。でも、迷った時はこれらの原則に従うことにしています。
これさえ守れば、キリスト教的人生です。それと、共同体の一員として期待される振る舞いをするというのはまた別ですが。メリットと言えば、昔は自分を犠牲にして何かに仕えてきた人も目についたでしょうが、今は、みな自分の損得を考えて生きています。価値観も、年収とか偏差値とか、数で表されるものばかりです。そんな世界で、なんか、方向が全然違う、「自分は他の人のためにいる」みたいなことをどこかで誰かが声に出して言ってくれること自体が貴重だと思います。これからご結婚ということで、人生の中で幸せと力にあふれていらっしゃる大羊さんには多分ぴんと来ないかもしれませんが、人は自分では自分を幸せにできないように思います。できるのは欲求充足で、それももちろんできないことだってあるし、欲求が次から次へと湧いてくることもあります。でも、人を幸せにするのは比較的楽です。笑顔とか、優しい言葉とか、仏教でもこれらは金と関係ない布施とされています。大羊さんも、フィアンセの方が、笑顔で優しいことを言ってくれるのが、どんなプレゼントよりも嬉しいでしょう?
私の若い頃は、結婚しても家事を分担するとか、何でも平等にというカップルがたくさんいました。そんな中で、その公平感が仕事や育児などで崩れたら、女性が「損をしている」と思ったり、結婚にメリットがなかったとか言い出したりするのです。その時々に、より疲れていない余力のある方が、寄り疲れている人をフォローしカバーし、助けるだけでいいのに。
とにかく、自分のメリットとか、自分の生きがいとか、自分探しとか、自己実現とか、自分の幸せとか、「自分の何々=自分教」の世界から解放してもらえること、自分よりも他者が大切ということがこの世にあるんだということを忘れないためにこそ、宗教はいいなあと思います。その時に、カトリックのシスターや、司祭さんたちが独身誓願してるってことは、私のような俗人には、彼らがまず他者のことを考えて自分を犠牲にしているというシンボルに見えて、信頼感をそそります。家庭を持ってる人には責任というものが出てくるし、家族が自分のエゴの拡張になることもあるし、一人なら自分の時間を100%捧げるということで、「時間を捧げてこそ愛」みたいな実感もあるので。いくら奇麗事をいっても、誰かがその人を必要にしている時に、「ちょっと待って、忙しいから」と言うのは、寄り添うことになりません。今、この質問を見て、やることをすべて放り出してすぐにレスを書いてるのも、私なりの「キリスト教的生き方」であるのはいうまでもありません。
組織の中の権力の誘惑というのはどこでも大きいでしょうが、子供とかいないと少なくとも子孫に権力を残すという誘惑はないでしょうし、服従とか清貧とか誓ってる修道者もすごいなあと思います。もちろん、聖職者が天使だというわけじゃないし、いろんな人やいろんな状況やいろんな歴史があるでしょうが、私にとっての今のカトリック観の基礎はこんな感じですね。実際、私の日本のカトリックの知り合いの方たちはすてきな人が多くて、それも信頼の根拠ですね。やっぱり、共同体って、一人一人の人間の魅力も必要ですし。取りとめなくなりましたが、一応返事に代えます。他の方のご意見も歓迎です。
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