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哲学・宗教質問箱
173
:
nao
:2007/06/16(土) 10:09:18
反省無用じゃないですか。
投稿を控えられるとおききして、さびしい思いをしております。「不快な点が多々あつたのでは」なんて、誰もおもつていませんよ。きつと。大羊さんの問題は信者自身の問題なんです。みな「言葉」がたりないんです。竹下先生、流れ着いた梅さんには本当に敬意を表します。あんとに庵さんにも。これを見ている多くのかたは発言したくても、言葉に窮するのだとおもいます。
先日「仏教とキリスト教の接点」本多正昭著、行路社、を著者からいただきました。本多先生は師にして畏友。先生は高校の先生をやめて、九大の哲学科に入学、求道生活の末ゆきついたのが、カトリツクでした。すべてをすてて、ドミニコ会にはいり、マニラで神学研究。西洋神学に凄い違和感を感じ、心身症に。ドミニコ会をやめて、帰国。大学の先生になり、仏哲中山延二博士に出会い、仏教の「即」の論理に目覚め、以後キリスト教改心の言葉の表現は「即」をもつてしかできないと考え、それをいろんな論文でかいてこられました。
これはむつかしいのですが、神と人間の関係を表現するのに、ピツタリの言葉をもつています。
ながくなりますので、省きまして、最後にいかに改心の言語化がむつかしいか、この本に紹介されていたハンド神父という方(日本で禅を修めアメリカで禅指導されたかたでつい2年ほど前になくなられました)の言葉をおつたえいたしましょう。これが結論になつています。
ハンド神父の声
1、キリスト者にとつて本質的な特徴は、イエスの神体験に参入すること、イエスを通して神に参入することである。
2、しかし、イエスの神体験に関する教会的表現は、ユダヤ、ギリシャ・ローマなどに特有な知的枠組みによつておこなわれてきている。
3、とりわけ教会史最初の五世紀の間に入念に練り上げられたニケア公会議による信仰箇条は、明らかにキリスト体験の西洋的な表現なのであり、これがそのまま東洋に、したがつて日本にも伝道されてきた。
4、しかしそうした中でも、非西欧的・とくに東洋的伝統の枠組みで表現されてきたキリスト体験を、改めて創造的に再表現するという試みは、最近、やつとごく少数のクリスチアンによつて敢行されはじめたばかりである。
5、アジアの司教団が、初めてこの新しい方向付けの必要性を公言したのは、つい1998(平成10年)4月のアジア・シノドスにおいてであつた。
非西欧の伝統に潜む神の声を、神学的に再構築してゆくという重大な課題は、21世期がとりくむべきキリスト教の重大な使命として受け継げられているのである。
以上です。いかに信仰の言語化がむつかしいか、とくに日本でそれがむつかしいか、おわかりいただけるのではないでしょうか。そんなとき、竹下先生が現教皇の枢機卿時代の信仰問答を訳しておられ、大羊さんにとてもいい、とメールくださいました。ハンド神父とはまたちがつて、西欧知性のはつきりした回答ですが、素晴らしい訳文にできあがりつつあります。まもなく紹介していただけるものと、期待しております・
大羊さん、彼女とうまくいつてるようで、なによりです。お二人の愛情こそ、イエス理解の鍵をにぎつているはずです。神こそ、愛なんですから。どうか、いい愛情をはぐくんでいつてくださいますように。信者になるかならないかは生涯にわたつて、お考えになればいいことで、あせる必要はいつさいないとおもいます。いまは大いに楽しんでいただき、またなんでもぶつけてきてくださいますよう、ねがつております。
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