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哲学・宗教質問箱

181Sekko:2007/07/06(金) 08:26:42
生贄のこと
 フランスのカトリック界は、先ごろ、過去に破門されてスイスで活動していたラテン語司式のモンセニョール・ルフェーブル系の司祭らをヴァティカンが受け入れた事実についてすでにすごく困惑していました。第二ヴァティカン公会議の精神を死守しようとする人が多いフランスのカトにとっては大問題なわけです。ミサにおける「犠牲」のシンボリズムもすごく大きな問題ですね。
 昨日、サン=ドニのバジリカ聖堂で、80歳になるクルト・マズール式のブリテンの戦争レクイエムを聴きに行きました。1994年に同じ場所でロストロポヴィッチがこの曲を指揮した記念だそうです。
 二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパ人の平和への決意のような英語の詩(Wilfred Owen)が、ラテン語レクイエムと交互に現れます。その中で、アブラハムが神に言われて息子のイサクを犠牲に捧げるシーンがあります。本来なら、アブラハムが刃を振りかざしたところで、神が止めて、その代わりに一匹の羊が見つかるという話です。ところが、Owenの詩はこうです。

Offer the ram of pride instead of him.
But the old man would not so, but slew his son,
And half the seed of Europe, one by one...
Half the seed of Europe, one by one...

つまり、せっかく神が、イサクの身代わりの羊を用意したのに(そんなくらいなら、最初からアブラハムの信仰を試すなど無体なことをするなという突っ込みはなしです)、アブラハムは、イサクを殺し、それから、ヨーロッパの子供を一人ずつ、半減するまで殺していった。それが、ヨーロッパの人口が激減した二度の大戦のことです。人は、神の名において自分の子達を犠牲にし続けたという怖ろしい詩になっています。ここの部分は血が凍るみたいに歌われ、その次のSanctusの冒頭で、ソプラノがSanctus,Sanctus,Sanctusと3度絶叫するのが臓腑に打ち付けられる気分になりました。
 宗教であれ、戦争であれ、人が人を屠るシーンでは、聖への侵害があり、神なしに実存を支えられなくなる瞬間があるのかもしれません。


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