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哲学・宗教質問箱
136
:
Sekko
:2007/05/18(金) 17:15:53
大羊さん
>でも、ここまで、無私に徹して、神に、人に尽くせる人の心理、気持ちに対しては敬意は持ちますが、「どうしてそこまでできるの?」と思ってしまいます。考えれば、考えるほど私は俗人中の俗人です。こんな私でも、キリスト教的、カトリック的には赦されるのでしょうか?果たしてそのメンタリティを理解することができるのか?なんだか、お話を伺うと自信がなくなってきます・・。
っておっしゃいますが、それこそ、「何々できる人が共同体に入れてもらえる」というメリット(資格という意味で)の問題じゃないんですよ。そうしないと偽善者の集団になってしまいます。でも、利他を頭の隅においとけば、他人への怒りがおさまった時とかに、そこはかとなく自責の念が湧いてくると思うので、そのことで、次の怒りの時に少し陰影が出てくるかもしれない。「自分中心主義」の絶対王政の中に、反対勢力も敢えて温存しとくのは、危機管理としてある種のセーフティネットを用意するためにはいいことですよ。
特に子供には、家族や「お母さん仲間」や先生などとは別にまったく無償で時間を割いてくれるカテキストのおばさんなどが存在しているということを見せるということはすごく貴重だと思います。そうでもしないと、いまどき無償でやさしくしてくれるなんて、それこそカルトの勧誘かと疑ってしまいますから。
どの国でも教会に行くのは女性が多いですね。日本の場合は、男性は、親の宗派で葬式を出して位牌を守って、というような縛りがあるので、キリスト教の家に生まれなければ、成人洗礼は社会的にも心理的にもブレーキがかかるのでしょう。女性はミッションスクールに通って影響を受け洗礼を受けるという「おじょう様カルチャー」もあるので、そんな女性が結婚して、男の方は自分の親を看取り、引退してから、やっと、次は奥さんに自分が看取られたいということで、ようやく洗礼を受ける人もいるみたいです。リタイアして暇な分、教会の共同体という場を与えられて、いろいろ活動を始める人もいるようですね。
まあ、信仰というのは、基本的に「呼ばれる」「召される」ということで、迷われているということは、きっとイエスの方ではもうとっくに大羊さんを見つけて「同行」しているのかもしれません。
私は苦労が少ないせいか、この世で親切な同行者たちにめぐまれてるせいか、「あの方に同行して欲しい」とか切実に思ったことがありません。もし、刑場に向かうとか、激痛で断末魔のとこにいるとかいうシーンになったら、その私より相対的に弱そうな人はもう手近に見つからないと思うんで、その時は、その時こそは、受難のイエスに寄り添ってあげたいですね。一人じゃないってことで慰めてあげたいです。元気に生きてるときはセーフティネットを張っとく、でもそれが敗れたらあっさりあきらめる、で、奈落の底で、手足に釘を刺されて「渇く」と言ってるイエスに、私がそばにいてあげるからね、と言って一緒に苦しむ。そいで、私の方が死んで、イエスもお花畑も視界から消えても、まあ、そんなもんだと思って、「下界?」で私に祈ってる人や私を愛してくれた人たちに何かできないか考えますよ。「だめもと」です。
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