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哲学・宗教質問箱
152
:
あんとに庵
:2007/05/22(火) 20:09:26
共同体
どもどもです。
・共同体のこと
いじめの話が出ていますが、共同体というものに付物の宿命ではありますね。教会に限らず、或いは教会もまた一つの共同体なので。だから逃げ道として、複数の共同体を持てるというのが一番いいだろうなぁとは思います。
・ピラトさん
ピラトはトリック・スターですね。彼、個人というより、シンボリズムなんですが。彼的な立場に立つことって往々にしてあるとき自分はどう振舞うか?ということでもあるんでしょう。ピラトさんはあれら物語の中では第三者的な客観的人間として美味しい立場とも言えたり。
ユダのほうが気の毒な気が・・・(^^;
・関係性ということについて
sekkoさん
>今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。
キリスト教というのは関係性の宗教だなとは思います。三位一体の構造からしてそうですよね。ミサもまた「交わり(コミュニオ)」が大切だと言われます。それは神と人との関係でもあり神を通じた人とのかかわりというものが教会でもあり、二千年に渡る多くの人々との交流でもあるなぁと。
聖骸布に関わっていった人々も、その繋がりの中にあるなぁとか、考えてしまいます。なにかそういう過去の、或いは遠いところの人とも同じキーワードで繋がっていける面白さはありますね。
>クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ
このエピソードは笑えた。
・土日のミサ
迷える大羊さんがご指摘の通り、確かに土日の休みがない職場の方だと大変かもしれません。つっても教会もない土地で信仰の話などが出来るネットがある現代はそんなに辛くないかな。
・「与えられた」信仰
Fusakoさんがおっしゃる与えられたってのは「縁・えにし」みたいなものではないかな。なんでもそうですが「出会いに敏感でありたい」みたいな。縁を受け入れる。自然にあるものを素直に受け止めるような、そんな信仰。自然体の信仰。そういうのはいいなぁと私も思います。
迷える大羊さんの人生の中でキリスト教が縁あるものとして現れたのはいま現在ですが、それがまたどういうところに流れ着くかは、これもまた神様にしか判らないことかもしれません。神と大羊さんとで対話していくことなのだろうなと。
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