[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
哲学・宗教質問箱
185
:
Sekko
:2007/07/09(月) 02:12:41
読みました。
司教への手紙、読みました。ラテン語司式許可についての二つの懸念に答えていますね。一つは、第二ヴァチカンの精神と逆行するのでは、典礼の改新を否定するのではという懸念。これには、第2ヴァチカンがその前の典礼の無効を宣言していないこと、ある意味、ラテン語司式はまだ生きていること、二つは標準典礼と特別の典礼(日本語が良く分からないので適当です)としてすみ分けうる、との見解ですね。古い司式に愛着を持つ人も少なくなく、若い世代でもラテン語ミサにこそ神秘を感じると言う人がいることも。そして、新しい司式が、自由に変形され展開されてもよいという誤解によって、その精神が逸脱しているケースを批判されています。新しいものを自己裁量で使うよりは、伝統に磨かれたラテン語司式の方がよい、というニュアンスです。改革派だったラツィンガーが、相対主義に絶望して保守に戻ったという経緯を反映しています。また、1988年にJP2がルフェーヴル派に最後まで歩み寄った分裂回避の姿勢に触れ、これまで、各司教がケースバイケースで判断することに頭を悩ましてきた苦労を軽減するとも。
第二の懸念は、この許可により、カトリック界がラテン語派と新司式派に2分され混乱するのではないかというもので、これには、ラテン語司式を執り行うにはラテン語はもちろん、最低限の学習が必要なので、誰にでもできるわけではなく、新司式が主流として残るだろう、と言っています。キリスト教は、これまで意見を異にするものを切り離していくことで分裂していったが、今は意見の違うものと共存、統合を図りたい、それによって互いにインスパイアして、豊かになればいい、という感じです。すべての司教は3年後に実際どういう状況になったかを報告して、問題が起きていたら解決策を講じたいということです。
新旧の両司式には、矛盾はない、典礼の歴史は常に広がりと進歩の歴史で断絶の歴史はない、前の世代にとって聖なるものであったものは我々にとっても偉大で聖なるものであり続ける。突然禁止されたり害のあるものだと言うことにはhなり得ない、ともあります。確かに、科学や思想のパラダイムが変わったりするのと違って、聖なるものや美なるものを通して、超越の世界と関わる典礼では、古いものが無効になるということはあり得ないでしょう。
実際、ラテン語ミサのために無数の美しい曲が生まれて宗教を超えた文化財産になっているように、文化資本としてのラテン語ミサは生きています。先日書いたブリテンの戦争レクイエムでも、英語の詩とラテン語の典礼部分が絶妙に配合されていて、互いに互いの強さや深さを補強していました。「新しいものが古いものを駆逐していく」ような市場原理みたいなものとはかけ離れています。
問題は、Massimoさんのおっしゃるように、ラテン語派がしばしば独善的原理主義と重なることですね。彼らが新司式を完全に排除する排除するのはその価値と聖性を認めないということで、よろしくない、とB16も釘を刺しています。 でも、この手紙でB16は、司教に「寛容」と「Charite(愛徳、憐れみ)」と「慎重さ」とを期待しています。それにすごく好感が持てました。誰もがこの3つを肝に銘じていれば原理主義の罠にもとらわれないんでしょう。長くなるので一応これで。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板