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哲学・宗教質問箱

147Sekko:2007/05/20(日) 21:24:33
日本人とキリスト教
 バロックバレーの研修がようやく終わったのでここを見るとなんか盛り上がってました。ありがとうございます。後、室内楽とオーケストラ、生徒の発表会などというイヴェントが少々あり、その他はいよいよ無神論の本に集中です。
 この無神論の本を準備していくうちに、神とか信仰の問題がよりよく分かるようになりました。要するに、神を信じていた人がそれを失うのが無神論なんですよね。最初から無関心とか信じてない人は、否定すべき対象がない。否定するということは、その対象と真っ向から向かい合って対決することなんです。昔、私は典型的な「普通の日本人」だったので、たとえば、大羊さんやあんとに庵さんみたいに、イエスの復活?まさか、あるわけないよね、とか、いまいち信じられない、なんて考えたこともありませんでした。たとえはすごく変ですが、「ミッキー・マウスの耳って、大きすぎて不自然じゃない?」とかいう問いを立てないみたいなもので。
 大人になって無神論になった人の「神っていなかったんだ、自分はずっとだまされていたんだ、」という愕然とした恐怖の記録(あるいは呪縛が解けた自由の記録)って、読んでも実感がなかったんです。サンタクロースがいないと知ったって、親がそっとプレゼントを置いといてくれる善意のメカニズム自体がサンタクロースなんだなあ、とか思うタイプなので。
 しかし、子供の頃から、困った時の神頼みってのはありました。どうにもならない時「神さま、助けて、」と言うのは。これは「神さま、仏さま」と同義で、別に一神教の神ではなかったのですが。ある日、そういう超越した存在はなくて、すべて「脳内神さま」だったとしたら・・・という仮定をたててみたら、ちょっとショックでした。じゃあ、今まで祈ってたのは一体なんだったんだとか思って、無神論者の絶望をちょっと実感できました。それと平行して、信仰、疑い、棄教、回心、無神論、ニヒリズム、とか、ミニサイクルで、ぐるぐる何回転もシミュレーションしました。もし日本にずっといたら、そういう実感のシミュレーションはできなかったと思います。今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。私の場合、他のみんながそう言ってる信仰の共同体の真ん中で、「私は実はちょっと、ここのところは信じられないんですけど・・・」なんて敢えていうことで、そこにいる人を不快にさせたり悲しませたりしてはならないという原則が優先的になります。私個人が心の中で信じているとかいないとかはその場ではたいしたことじゃないと思えるんで、優先事項にならないんです。「私の信仰」とか絶対的なものがあるんでなく、文脈や関係性のうちに、他者をリスペクトすることを優先することで選択される感じですね。
 でも、トリノの聖骸布とかの話を読んでると、復活もありかなあと思います。いわゆる栄光の体じゃなくて、傷口が開いたまま、では血まみれではなかったのかとか、使徒にさえすぐに分かってもらえなかったというのは、殴られた痣と腫れで面変わりしていたからなのか、いろいろ考えてしまいます。『カトリック生活』という月刊誌の5月号と6月号に知人の写真家と編集者の話が載っています、二人ともカトリックではないんですが、カトリックの巡礼マニアです。6月6日には、『聖骸布の男』というムック(講談社)が出ます。聖骸布の実物大ポスター付。彼らと一緒に去年の夏、実物大精密写真を見に行って、みんな魅せられた感じになりました。私はポジ画像の布の繊維に残った血の跡があまりにも生々しくて、すごく残酷、すごくかわいそうだと思いました。無限の神が有限の人間になるって、結局こういうことなんですよ。あまりいいたとえじゃないですが、3次元の存在の神が、2次元の紙の上でアニメみたいに展開するこの世の出来事を眺めてるとします。その2次元の表面は神の3次元に全面的に触れているんですけど、空間概念はないんですね。そこで神が、2次元の人間たちを救おうとして2次元の世界に入っていく、もちろんそこでは神も2次元的でしか存在できない。この上には神の国という3次元があると説く。でも2次元には結局彼の居場所はないんです。血のしみを残して追い出されるんですね。でもそのしみも、2次元の世界はすべて、アニメ原作者だった神のいる3次元と境界を接していて、いつもコンタクトを受けているんです。ええと・・・話が変なほうに逸れました。あまり深く考えないように。
 ここに書きたかったのは、私が「日本人とキリスト教」で連想する二つのエピソードの紹介です。一つはプロテスタントの家に生まれて幼児洗礼を受けた知人(団塊の世代)の話。当然まったく普通の人で、普通にふるまってるんですが、私にとっては、その年代で、プロテスタントであることで、子供の時に自分は他人と違うという意識は相当芽生えたはずだろうとすごく好奇心を持ったんです。質問したら、全然そんなことはない、マイノリティ意識はまったくないと言うんです。私がしつこく聞くと、そういえば、と中学時代のエピソードを話してくれました。昔の公立中学は、制服はもちろん丸坊主におかっぱとかいう髪型の校則のあるところが多かったんです。彼の中学もそうでした。だけど、お母さんが、自分たちはクリスチャンなので、と学校にかけあって、彼だけが3年間たった一人坊主頭でなかったそうなんです。その人はすごく自然に、なんでもないような感じで話すので、私は返す言葉がありませんでした。でも頭の中にはありとあらゆる「つっこみ」が渦巻いていました。えー、それって、めちゃトラウマなんでは・・・ヌーディスト・ビーチでコート着てブーツはいてるような感じでは? いじめの原因にならないかとか、いや、そもそも、クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ、それをOKして例外を認めた学校側も相当変では・・とか。
 私は校則のドレスコードなど、すごく嫌いでした。何度も注意されました。だから、個人の表現に関する校則を守らないというのは気にならないんです。でも、中学くらいでは、たとえ、うちの子には髪型を自由に選択させます、それが教育方針ですので、って親が学校に乗り込んだとしたら、嫌がる子の方が多いんでは。昭和40年代くらいの話でしょう。日本のクリスチャンって、日本人じゃないんだなあ、とか思ったエピソードです。
 もう一つのエピソードは、普通の仏教の家に生まれて、自分で思うところあって洗礼を受け、その後でカトリックの司祭になった人の話。日本でカトリックの司祭になる人って、家代々カトリックという幼児洗礼組が圧倒的に多いかと思います。洗礼を受けるのでさえ先祖の墓は誰が守るって話になるのに、生涯独身の司祭となると、もっとむずかしいのは想像できます。でも、その司祭は、両親がそろって洗礼を受けたんですよ。なぜかというと、「お前が司祭になるのに親が仏教では肩身が狭いんじゃないかと思って」というんです。もちろん、両親の宗教で差別されるようなことはありません。そんなこと言ってたら、ますます日本に聖職者なんていなくなります。だから、この人なんかは、親に洗礼を勧めたわけでもなく、逆に、司祭になることに反対されないかということの方が気がかりであってよさそうです。それが、親のこの言葉・・・
 私の義理の妹はカトリック・ファミリー(といっても日本の仏教と同じで、他に選択肢のない檀那寺や氏神さま状態の村の話)で生まれて育ち今はチベット仏教の尼僧です。独身誓願もしてます。家族の誰も反対せず、チベット・コミュニティーと交流してます。しかし、彼女の立場がよくなるようにみんな仏教徒になろうという発想は絶対ありえないですね。
 「お前が司祭になるのに親が仏教では肩身が狭いんじゃないかと思って」・・・すごく日本的だと思いました。この親にとってはイエスの復活がどうとか、三位一体がどうとか何の障壁にもならなかったに違いありません。神は息子だけじゃなく、両親も呼んだんですね、きっと。


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