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哲学・宗教質問箱
169
:
Sekko
:2007/06/06(水) 20:38:16
聖書の話
聖書の解釈って、古来、神学論議も哲学論議も個人の思弁もオカルト読解も山のようにあるんで、簡単には紹介できませんが、すごく単純にいうと、キリスト教はイエスは人間として生まれたのだから当然人間の特定の歴史と文化の文脈上の存在なのだから、旧約聖書でそれを明らかにするというスタンスだと思います。でも、イエスが生まれて死んで復活したからには、その前の出来事はもう無視、ではなく、成就したことになって、基本的にその後のことを制約しません。ユダヤーキリストーイスラムの三つの「アブラハム系一神教」ノうちユダヤ教徒イスラム教は戒律がありますが、キリスト教はユダヤの戒律宗教がキリストによる罪の購いで成就されたので、生活の全部を管理するいわゆる戒律はないんです。戒律を形として守るよりも、心の持ち方が大事だということになりました。逆に言えば、自分の行いを自分の良心に照らして絶えずチェックしなければなりません。でもそのおかげで、ローマ法の発達していた世界に広がることができたし、今もインカルチャレーションということで、ローカルな伝統と共存しやすいですね。ヨハネの福音書も普通は一種の象徴文学ということでスルーです。ネロンによるキリスト教迫害とか、執筆時の状況や危機感もあるでしょう。
キリスト教では20世紀前半に、聖書の非神話化という作業が盛り上がった時期があります。精神分析学的解釈というのもありました。今は一段落していますが、原理主義的になったり、恣意的になったり、目をそらしたり、いろんな段階や局面を経ていますから、普通の人は変だと思うところにはそれなりの距離をおいてつきあっているのでしょう。
では、ユダヤ教の人がどうやって破天荒な物語をありがたがっているのかというと、これも、一部の原理主義者は別として、今の普通のユダヤ人には、共同体のアイデンティティというか、帰属性を意識させてくれるよすがというところでしょうね。フランスのムスリムもみんなでラマダンの断食をすることで世界の仲間とつながっていると思うようです。理屈とかは別の連帯の次元でしょうね。
私は個人的には、戒律の多い共同体は苦手です。特に食べ物の戒律にうるさいところは苦手です。殺生が嫌で肉を食べない、というのはすごくリスペクタブルだと思うんですが、うろこのない魚がだめとか、ひづめがどうこうとかいうのは、要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除につながるんで嫌いなんです。また屠殺するときに動物の頭をこれこれの方向に向けてこれこれの祈りを唱えてからならOKというのも、御都合主義とは言えないまでも、そういうのは呪術の領域だよなあ、とか思ってしまいます。
まあ、普通の本でもいろんな読まれ方をするんですから、聖書と共に生きてますと言う人がみな同じ見解を持っているわけでも同じ接し方をしているわけでもないでしょう。また、聖書の言葉は、定義上、啓示であり、神の言葉なんですから、人間が「ここが変だ」と考えたり突っ込みを入れたりしたくなるのとは別のレベルの言説なんでしょう。ただ、これも定義上、神と人の間の一種の契約なんですから。双方向に通じるものがあってこそ意味を成すともいえます。契約に応じるという信仰のレベルに入らない限り、「わけの分からない本」であり続けるのかもしれませんね。「いまここで」分からなくてもノーマルなんでしょう。
良く、この世で罪のない赤ん坊が殺されたりするのは神も仏もいない証明だ。とか言う人もいますが、「罪のない赤ん坊が殺されるのが絶対悪である」という確信自体に私はむしろ神の可能性を感じます。聖書の中のある種の記述が「自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレード」と大羊さんが認識できるってこと自体、私は正義の存在を信じちゃいます。悪は、ある実体ではなく、いつも、人間のある選択の結果なんですよ。
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