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鷹目遊里史板
1
:
鷹目
:2006/03/12(日) 14:04:22
一流への道
≫活魚料理店の水槽を撮らずして一流とは言えないでしょう。
道は険しいな・・・。
>bananaさん
情報ありがとうございます。そちらも次回候補に入れておきます。会場選定が一番悩みます(笑)。
671
:
鷹目
:2011/03/02(水) 22:11:33
鍋の材料
>膳所裏さん
先日、その一本の横断歩道を見てきました。
駅や線路の変更、道の変更などで客の流れが変わったと言うのは聞きますが、あの一本横断歩道が明暗を分けたかもしれないとは本当に寂しい限りです。
片山津で「温泉こんにゃく芸者」と言うのも凄いですね。小池朝雄や常田冨士男、味のあるいい役者さんですね。
『全国花街めぐり』では片山津の芸者についてはこう書かれています。
「鴨」というは元湯女の異名で、宿屋の仲居が客の酒の相手もし枕席にも侍ったのだが、 最近それが芸者に変りつつあるあるのである。
さてこんにゃくは芸妓や娼妓の異名で使われていたかというと実際、根室で私娼の異名で使われていたそうです。
ちなみに呉でも引っ張りの別名で鴨という異名が使われていました。
>今紫さん
件のA、個人宅かマンションなのか分かりませんが、更地に基礎の墨だしがありました。
ただ歌舞練場はしばらく大丈夫のようで怪談会や創作舞踊のイベントが催されるようです。
機会があれば何度でも足を運んであげてください。
>掛川のすずもとさん
はじめまして。貴重な静岡情報ありがとうございます。
2011年3月27日まで静岡にガンダムがいるようなので都合がつくようなら(現時点では厳しい状況ですが)、十九首遊廓、初咲新地、掛川市二の丸美術館共に見に行きたいと思います。
>T-レッドさん
5、6年うわさ聞かないですね。ゴム人間と同じく都市伝説??
672
:
膳所裏
:2011/03/05(土) 17:22:00
大阪六遊廓
秀吉の肝いりで、五条〜七条間の遊廓の歴史が始まったと五条楽園の廓内では密かに伝え続けられてきたそうです。
これを裏付けるものは何もないのですが、あの辺りは新日吉神社(いまひえじんじゃ)の氏子ですのでひょっとするとひょっとすればひょっとするかもしれません。
秀吉の幼名の日吉丸は後年創作されたものらしいのですが何か裏が有りそうです。
この新日吉神社より豊国廟にいたる参道に明治三十一年、大阪の六遊廓が寄贈した一対の大灯篭があり、新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部の名が台座に彫られています、南甲部は南地五花街として、乙部は明治末の焼失を受け、すったもんだのあげく飛田に移った難波新地のことなのでしょうか?
調べたのですが分りませんでした。
新町のフォーラムでパネリストの人見佐知子先生もこの事に触れられましたが、どうしても豊国廟と六遊廓を結びつけることが出来ないとの事でした。
実はここには秀吉=朝鮮出兵の先駆者=大陸進出を目論む軍部が豊国神社を再建=それに乗っかり海外での遊廓権益を目指すむ大阪の業者という図式がありました。
人見先生に是非このことをお伝えしたかったのですが、生憎その後ずーと立ち代りお爺さん連中が先生をブロックしていたので、とうとうその機会を逸しました。
私の人生で佐和子先生とお近ずきになれた、たった一つのチャンスだったはずなので、今思い起こしてもあのお爺さんたちがうらめしい・・・
ところで、温泉芸者シリーズには、温泉スッポン芸者、温泉みみず芸者、温泉ポン引き女中(白浜舞台)などがありましたが私は見ておりません。
673
:
夕凪
:2011/03/07(月) 01:02:52
南五花街遊廓組合
1932年の南五花街遊廓組合規約に下記の条項がありました。
本組合ハ組合員ヲ左ノ通リニ分チ事務ヲ処理スルモノトス
第一部 特殊料理屋、芸妓扱席(検番)、芸妓置屋、芸妓
第二部 呼揚貸座敷、娼妓扱所貸座敷、娼妓小方貸座敷
一つの組合を、芸妓関係の組合と、娼妓関係の組合に分けてたそうです。
膳所裏さんの書かれている、南甲部、南乙部と言う名称について、
直接触れた資料は見当たりませんでしたが
おそらくは、芸妓と娼妓関係の業者が各々寄贈したのではないでしょうか。
(参考)ttp://tenyusinjo.web.fc2.com/sinmatiyukaku/8meijigeigikaihou/meijigeigikaihou.html
674
:
膳所裏
:2011/03/08(火) 16:27:41
羊羹色の羽織男は要注意
さすが夕凪さん。昨日気になって調べなおしたら日本遊里史(465ページ)にこの件に関する記述がありました。
私の推測とはうらはらに難波新地乙部遊廓は南甲乙部とは別に存在していました。
ご推察の様に南地甲部は芸妓中心で乙部は娼妓と見てよいのですが、厳密に云うと、甲は送り込み、乙は居稼店(てらしみせ)として当局が区別をつけた事です。
つまり南地甲部にも送り込みの娼妓がいたことになります。
さて、大阪の六遊廓が灯篭を贈ったころから娼妓が自由廃業を求めた訴訟沙汰が盛んになったので、これに対する大阪の遊廓側の防御策も載っていました。
“先づ、南地甲部遊廓では事務所と置屋との内意を受けて娼妓は、
第一 客人の人相を見極むる事、
第二 言葉づかいに注意すること、
第三 羊羹色の羽織と古洋服を着し口ひげを蓄へたる者には最も注意すること、
第四 客人が寝所に入りたる時は娼妓との談話を立ち聞きすること、
第五 以上は一々事務所に届出ること を命じた、
同乙部遊廓(居稼店)では到底外面的の手段では不可能と諦め専ら自己反省を求むるために時々僧侶を聘して因果応報の道理を言ひ含めることゝし、又松島遊廓なる某楼では廃業の意思のあるものを密告したものには甲一円、乙五十銭、丙二十五銭賞与を出し・・・”
これではとても根本的な解決にはならなかったでしょうね。
ところで次の日曜に私も愛知の蒲郡を徘徊しようと思っています。
勿論、古着に羊羹色のジャケットを羽織り、無精ひげで・・・
675
:
鷹目
:2011/03/21(月) 20:32:27
生駒にて
さて前日、遊楽さんからお聞きした情報を元にオフの段取りで生駒新地の旅館へお話に行ってきました。
まずは生駒新地関連のお話。
・宝山寺の旅館街は、船場の旦那衆が聖天さんにお参りに来た時の宿としてが始まり。
・新地の芸妓は最盛期は200人ほどのいた。
・温習会も行っていたが、お稽古や着物代にお金がかかるので辞めた。
・いまはコンパニオン芸妓というべき感じ。
・自分ところで料理を作っている店は2軒ぐらい(うろおぼえです)。大体は仕出し。
・宴会からの予約花、泊まりもOK。
・旅館組合ではずれたこと(派手な営業活動のこと?)をしないよう申し合わせているとか。
で、次はオフの内容。
・開催日は日曜。時間は夕方5時ごろから3時間程度。
・料理は特製すき焼き(鍋+おつくり一品+漬物+ごはん)。飲み代入れて会費6000〜7000円程度。ただし、人数によって先方と相談いたします。
・遠隔地からの方には、そこで宿泊も可能です。朝食つきお一人様7000円。
今からの段取りだと5月開催が余裕ももててベターかと思います。
後は皆さんからの意見(メール、MIXI、伝言板などから)を考慮してまとめたいと思います。
平日の夕方からで急に冷え込んだ日だったからかもしれないが、むちゃくちゃ繁盛している印象はなかったです。
676
:
夕凪
:2011/03/26(土) 21:16:14
新千日歓楽街 (鶴橋)
大正9年(1920年)の天王寺、玉造間市電開通と、城東線桃谷駅の発展につれて、
郷土鶴橋の大阪市に接する地区を有望視する実業家があらわれ、
東大阪にこれといって歓楽街が無い点に着目、
市電細工谷停留所より鶴橋町の中央部に入る道路以前の沼地を埋め、
先ず土地の発展を期する為に大正11年ごろ(1922年)
アメリカ某サーカス団を呼び興行を行いました。
又今の野球場に当る一帯に納涼博覧会を2ヶ月にわたって開催し、
衛生、犯罪等の参考館や八幡のやぶしらず(化物屋敷、仕掛によって幽霊を出す)等
涼味をさそう催し物を行って好評を博しました。
又北部一帯は新千日と名づけ、劇場、温泉劇場を
新世界のラジウム温泉に対抗して建設に取りかゝり、常設映画館2ヶ所等も計画し
先ず東大阪隋一を誇る鶴橋劇場を完成しました。
(中略)
これと同時に、飲食店、呉服屋、月賦販売百貨店、カフェー等が立ちならび、
中でもカフェー富士軒、鰻まむし出雲屋支店等一流商人の進出を見たので、
東大阪隋一の歓楽街はこゝに完成するかに見られました。
しかし大正末期の産業界の不振により不景気の訪れるとことなり、
資金の行きづまりがあったものか、温泉劇場の建設は基礎工事を行ったのみで、
工事中止の止むなきに至ってしまいました。
?????????????????????????????????????????????? 1956年の資料より
677
:
夕凪
:2011/03/27(日) 21:01:51
新千日歓楽街の計画と鶴橋公園
温泉市場が開設せられて、
その後此の方面の盛況は持ちこたえるかとも思われましたが、
次第に衰微しはじめ太平洋戦争の開始と進展につれて、
疎開地帯に指定されたので
ついにあとかたも無くなってしまいました。
空き地は、当時戦争による食料不足から、
近隣の人々が自家農園に利用するところとなりましたが、
戦後は市の公園設置計画により
昭和23年(1948年)地元有志の努力によって、
公園及野球場の完成を見るに至り、
さらに北側には大阪府立聾学校が建設され、
道をへだたてゝ日本理容専門学校が設立せられるに至りました。
678
:
新今里X
:2011/03/29(火) 00:16:15
奈良新風土記 生駒
1982年の新聞に生駒を取材した記事があり、花街に関する部分を資料として少し転載させてもらいます。
『この町には、花街の風習がいまも根強く生きている。例えば「花代」。線香一本で時間を計っていた時代の名残か、いまも三十分きざみが守られている。三十分は一本と呼ばれ、夕方六時から十一時まで、一人の芸者さんを五時間拘束すると十本となる。
ところが、単純計算できない約束ごとがある。その一つが「入り花」。最初の一時間に限って二本を三本と計算する。さらに、六時から九時までの三時間に、他の客から指名がかかり、居残ろうとすると「もらい」「かえし」といって、六本が十二本にはね上がる。』
679
:
膳所裏
:2011/03/30(水) 14:50:40
生駒ぞめき
生駒市誌によりますと、生駒新地の誕生は大正三年、大軌鉄道(現近鉄)が生駒鉄道を設けたことが発端で、花街の歴史も大正四年に大阪南地の巴席がここに置屋をおいたことから始まりました。
この巴席の芸妓は「不破」や「呂之助」など、赤穂浪士にちなんで芸名をつけたそうです。
当初は大阪出身の業者大阪党と生駒出身の料理屋側の生駒党で何事も対立していましたが、松川生駒分署長のもとで、置屋側と料理屋側が共同出資して「生駒芸妓株式会社」が生まれました。
大正十年には旧新町演舞場の建物をそのままこの地に移転し、生駒座として新な生を受け、温習会もここで行われました。(現在は跡形もありません。)
昭和に入ると、洋式の舞踏場の建設が大阪府で許可されなかったこともあり、牧山と云う人が洋館のスマートなダンスホール「生駒舞踏場」を作ると、最盛期にはダンサーも百人を数え、大阪の会社の重役連中が連日押しかけたそうです。
戦後は生活環境の変化に加え、涼しい生駒もキャッチフレーズも冷房装置の普及でその意味を失いだんだん勢いを失いました。それでも昭和四十八年に芸妓はまだ百五十人もいたそうです。
現在の生駒で私がお勧めするのが元旅館を改装され雑貨屋&カフェとして若きご主人が営むナイヤビンギさんです。
2階の客室を利用した個室空間の窓際でコーヒーを啜りながら、浪花の恋の寅次郎の中で寅さんが松阪慶子扮する大阪芸者ふみと仲睦まじく歩いた宝山寺に続く参道を片肘ついて眺めれば、
“生駒新地は気楽なところ
三味や太鼓で日を暮らす”
野口雨情が作詞した「生駒新地流し」で歌われたかつての賑わいに思いを馳せるのも、そう難しくは無いようです。
680
:
夕凪
:2011/04/03(日) 22:24:59
和歌山の娯楽
●花柳界
和歌山市:東廓、番廓、新和歌検、不老園(芸妓224)、
カフェー街(元寺町、築地、その他を合せ女給593)
酌婦検番、天王新地、阪和新地、手平新地(その他を合せ397)
新 宮 市:大王地検番芸妓105、浮島遊廓娼妓95ほかに酌婦40、女給100
海 南 市:旭検番、寶検番、日の出検番(芸妓44、酌婦157)
歓楽街 黒江新地、名草新地、東新地
1936年の資料より
●ひょっとして、上記の手平新地が、例の“ 新天地 ”では ・・・・ !?
(参考)ttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:VdW08hzvbgoJ:www.nwn.jp/screen/waga1/text1/2.html+%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1+%E3%80%80+%E6%96%B0%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%80%80%E6%89%8B%E5%B9%B3&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp
681
:
夕凪
:2011/04/04(月) 00:00:58
尼崎の娯楽
●花柳界
尼崎検番(芸妓40)
西本町北通、神田新地はカフェー街として有名である。
1936年の資料より
682
:
膳所裏
:2011/04/04(月) 16:50:51
どうにもとまらない
又聞きの又聞きですが、岡山の西大寺に裸祭りの日にだけ遊廓になった建物が一軒現存しているとの噂を手がかりに、日本三大奇祭の一つが行なわれる瀬戸内の門前町を訪れました。
阪口祐三郎伝の全国花街所在地にも載る三業地の方は、色々お話を聞くことができた西大寺文化史料館の裏の新町通りにあり、今でもかすかにその色香を感じることができました。
遊廓の方はそこから3キロほど離れた大井川の河口の九蟠(くばん)にあったとの事なので行ってみました。
かつて新田開発の為、この辺りを一蟠から十蟠まで区画し互いに競わせることよりお上が開発を進めたらしいのですが、現在はこの九蟠と三蟠のみが地名として残っています。
実際建物の有った場所は地元のタクシーの無線ネットワークでも分からず、漸くお話し頂いたの九蟠の古老に記憶の隅をさぐって頂き、遊廓は土手下の住居地でなく、最上稲荷神社の辺りの川に入り込んだかつての舟付き場にあったという情報を得ましたが、当時の建物はどこにも見当たりませんでした。
どうも、西大寺にかつて遊廓があった。裸祭りの日にも男どもが押しかけた。
“遊廓で弁天様を拝めるのでわざわざ祭りにいかなくてもここで充分御利益いただける”
という様な話が何でも自分に都合よく聴いてしまう私の耳には今でも遊廓の建物が残っているというように響いたようです。
九蟠を後にするタクシーの中で、昔何気なく聞いたあの人の歌が頭の中に聞こえてきました。
うわさを信じちゃいけないよ
私のこころはうぶなのさ
いつでもでも楽しい夢をみて
生きていくのが好きなのさ
683
:
新今里X
:2011/04/04(月) 22:23:07
昭和42年のイコマ
昭和42年の雑誌記事より転載(伏字にて自主規制アリ)させてもらいます。
『聖天様を祭っている生駒は知る人ぞ知る大阪の××××の聖地である。これがまたいい。近鉄奈良線の生駒駅下車、ケーブルであがると紅燈の段々道に出るね。ここにいるのが生駒の芸者衆である。料理旅館の門をたたき、女将に依頼すればいいのである。
芸者の花代とか線香代とかは、いくら聞いてもさっぱり見当がつかないものだ。こういう時には食べて飲んでイクラ、と大ざっぱなとろを、総額でまとめてたのんでしまうほうがいい。
(中略)
芸者さんを午前零時以降に呼ぶようにアレンジしてもらえば料理ともで一万円ですむ。早くから来させるとやはりチト高いのが難といえば難。
やってきたのがポチャポチャとした芸者であった。いくら×××芸者とはいえ、一応はスソを引いてコンバンワー。差しつ差されつ、コタツのなかで指を握ったり、×の×に×を入れたり、はては×を××て××××××× (以下略)』
684
:
新今里X
:2011/04/05(火) 17:00:45
九蟠ストリートビュー
九蟠にもgoogleの魔の手がおよび昨年あたりにストリートビューが公開されてしまいました。(笑)
土手(防潮堤かな?)から撮影したらしき俯瞰気味の古写真と照らし合わせて見ると当時の建物は現存していない状態でした。
古写真をストリートビューで確認しただけなので自信はなかったのですが、膳所裏さんが書き込みしていただいた場所と合っているので確信できました。
常夜燈や稲荷神社の玉垣などには何か書かれてましたでしょうか?
西大寺の方は地名だけなら西大寺新地が気になるところです。(笑)
昭和37年に廃線になったそうで町並みから昭和のニオイが…というか時間が止まった感じですね。
ぼくの場合はロケ地めぐりをしてました。
685
:
新今里X
:2011/04/05(火) 21:15:20
廃娼県は新地だらけ!
昭和9年の市街地図で新天地となってるところは手平なので夕凪さんが書いてくれた昭和11年の手平新地と同一の可能性はありそうですね。
地図上では新天地の地名と都市計画道路の点線が隣接してて、現在では新天地の文字のところにちょうど国体道路があります。
都市計画は戦争をはさんでも受け継がれてますから、もし新天地が手平新地なら国体道路完成よりもかなり早い時期に立ち退きで姿を消したのでないかと思います。
名草新地は初耳ですが名草山からすれば紀三井寺あたりかな?
昭和15年に和歌山市に編入されたそうなので、昭和11年なら海南市に含めて書かれててもおかしくないです。
それとも、海南の歓楽街は大正初期まで市内に散在してたそうなので、その一箇所が名草郡から名草新地を名乗って残ってたとしてもおかしくないです。
後に海南検番組合になる「旭検番、寶検番、日の出検番」で、旭検番は黒江新地、日の出検番は東新地というのは分かってますが、そういえば寶検番はどこか、黒江新地だったような気もするけど、ちょっと記憶にないです。
検番の次に歓楽街として「黒江新地、名草新地、東新地」と書かれてるので書き順から寶検番が名草新地かな…と想像してしまいました。
686
:
新今里X
:2011/04/05(火) 22:07:50
尼崎は兵庫県ではないと思う
>夕凪さん
尼崎検番(芸妓40)が西本町北通ということですか?
神田新地は西本町北通ではないですよね。
だいぶ前に古地図を頼りに尼崎の検番か芸妓組合だったかを見に行ったのは大物の方でした。
そこから西本町北通に移転したのか、別にもあったのか…
西本町北通あたりも何もなかったような。
687
:
膳所裏
:2011/04/06(水) 20:00:06
はらたいらに1000点
>新今里Xさん
まさに常夜燈の辺りが遊廓だったのですが、常夜燈には何も刻まれてはいませんでした。
玉垣には寄贈した青楼や芸妓の名が彫られていることが有るので私も注意して見る方なのですが、何も無かったと思います。
ただ、最上稲荷神社の記念碑に
“この地は元禄五年岡山藩主池田綱政が時の郡代津田永忠に命じて干拓した沖新田の一部であり地名は干拓工事の番号を以って当初沖新田九番と呼ばれ今日の九蟠に至っている
九蟠港は吉井川河口という地の利を得て岡山藩の商港として江戸や大坂方面との往来も盛んに行なわれ繁栄を極めた”
とあり、この地が港型と開発造成型を併せ持った複合型遊廓であったことが窺い知れます。
ところで、日本遊里史の遊廓一覧に九蟠も載っているのですが、貸座敷二軒に対し娼妓数も二人になっています。
これは何を物語っているのでしょうか?
ここで三択です。
? 一つの貸座敷に一人ずつ鬼の様に客をとる伝説の二人の娼妓がいた。
? 鑑札を持つ娼妓は二人だが、何人もの芸妓がいて娼妓の仕事の分野にも入り込んでいた
? 昭和の始めには、大井川を高瀬舟で物資を輸送する時代は過ぎ、賑わいは失われ、遊廓渡世は風前の灯であった。
う〜ん ?を選んだ竹下景子に1000点!
688
:
新今里X
:2011/04/07(木) 22:58:07
どんな二人だったか気になる…
三択なら三蟠wですね。
ただ繁栄を「極めた!」ことがあったのかどうかは疑問です。
番付などに名前が出たことないのでは…?
689
:
新今里X
:2011/04/07(木) 23:41:09
尼崎の遊廓設置出願
明治29年9月、尼崎町内別所村字小役人町
大阪や西宮の遊廓に対抗するためと町中の私娼を撲滅するために出願
明治32年6月、尼崎町字築地町
尼崎町字築地町に限定するは不可なるにつき他の地域を撰定すべし
明治32年7月、大物村字田町
結局遊廓設置の出願は全部却下されたようですが、大物には昭和10年ごろの地図に尼崎芸妓共同組合や立花楼など料理屋らしい建物がありました。
先日、夕凪さんが書いてくれてた尼崎検番とは同じ年代なので、別の花街になるのかもしれません。
余談ですが駅前のジャンボって元トルコですよね。(笑)
690
:
膳所裏
:2011/04/10(日) 17:58:04
九蟠の番付
日本遊里史の遊郭一覧を基に廓番付を作ってみました。
まずこの遊郭一覧を見て思うのは娼妓側からのみ廓をみていることで、東京でも名古屋でも芸者のみの三業地は一切載っていません。
ところが関西には祇園甲部にもそこそこの娼妓が在籍しており、有名処の花街は殆ど名前を見ることができ、西と東の廓の仕組みの違いがわかります。
また、上七軒の貸座敷33軒に対し娼妓2人を見ればこの表にいわゆる芸妓のみの本茶屋が含まれているのは明らかです。
ですから順位のつけ方は一覧に載っていない芸者数を推測する為に、貸座敷数を娼妓数で割ったその指数が高いものから花街度が高いとしました。
もちろん無茶苦茶な論理なので突っ込まないでくださいね。
では、昭和の初めごろ、娼妓が在籍した花街の番付です()内指数。
東大関、上七軒(16.5) 西大関、金沢北廓(9,7) 東関脇、堺乳守(6) 西関脇、堺竜神(5.9)
東小結、先斗町(5.1) 西小結、祇園甲部(4.7) 東前頭一、金沢東廓(4.7) 西前頭一、四日市南町(2.2) 東前頭二、堀江(2.1) 西前頭二、金沢西(2)
なんとなくそれらしい名前が並ぶのが不気味です。
ちなみに飛田は0.1で洲崎は0.09でした。
尚、貸座敷数プラス娼妓数の合計が10を切った箇所は異常値が出る為対象外にしたので残念ながら番付に九蟠は載りませんでした。
691
:
鷹目
:2011/04/11(月) 16:14:45
オフ会の日時アンケートです。
春オフの日時アンケートです。
日時はスケジュール調整サービス伝助(下記URL)よりお願いします。伝言板からでもOKです。
オフの概略は以下の通りです。
・開催時間 未定 (候補日 2011年5月8日(日)、22日(日)、29日(日)
午後5時より3時間程度
・会場 生駒宝山寺 某旅館
・料理 特製すき焼きセット
・会費 約7000円
お願いします。
http://densuke.biz/list?cd=TErzu6e9Tz3gzscn
692
:
鷹目
:2011/04/20(水) 17:23:51
遊里史研究会、2011年恒例春のオフ会案内
春オフ会の案内です。
・開催場所:奈良県生駒市門前町宝山寺新地内 料理旅館古賀
・アクセス:近鉄生駒駅から生駒ケーブルに乗り換え宝山寺駅下車。徒歩約5分
・開催日時:2011年5月22日(日) 午後5時より3時間程度
・料理:特製すき焼きセット
・会費 約7000円
備考:宿泊される方は宿泊料(朝食つき)7000円
いつものメンバーには近日中にメールしますが、連絡先が変っていない方は下記出欠等幹事長の出欠登録のみ、この日記へのコメントだけでも結構です。
http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=duz501blo1ffgpyv
初めての方は、必ず下記よりお申し込みください。
http://form1.fc2.com/form/?id=172867
皆様のご参加をお待ちしております。
693
:
夕凪
:2011/04/24(日) 10:44:03
行こうか灘町帰ろうか茶町こゝは思案の道笑町
●米子花街
と云はれるだけあって、米子市灘町は米子市におけるたった一つの色街だ。
と云へば恐らく人間に性欲に自覚あるものは、
遊廓か、それとも芸妓が居る一角だと思うだろう。
いや御想像の通り灘町は公許された私娼窟だ。
○灘町遊廓
世間で一般には遊廓と呼んでいる。しかし形式的は私娼窟たるを失はない。
何故なら灘町30有余の遊廓に働く女性は娼妓としての鑑札でなくて
酌婦として許されているだけだ。だから公娼でなくて私娼だ。
しかし、灘町に遊ばれる人々達よ、私娼だとて軽蔑したり、危険がる必要は更にない。
安心して通ひつめるなり、一夜の享楽に耽るも御随意だ、
決してそのために警察の御厄介になる必要はない。
名称は私娼であっても実質は公娼の設備になって居り許されているのだ。
1936年の資料より
694
:
膳所裏
:2011/04/24(日) 19:49:52
米子
二年前に花園町遊廓(旧灘町遊廓)を訪れました。
町外れにかなり広めの胴筋をもつほぼ長方形の区画・・・典型的な新地様式です。
蝙蝠をかたどった壁がある印象的な料亭?をふくめ数件の当時の建物が寂しげに佇んでいました。
福の神の役瓦を持つ別の棟もありました。
そういえば福知山の猪崎でも同じ役瓦を見たことがあります。
明日は三重の田丸遊廓に行ってきます。
鬼が出るか蛇がでるか、 ちょっとワクワクしています。
695
:
夕凪
:2011/04/25(月) 07:33:53
神社三業組合の料理・特殊カフェー
・神社三業組合(宇治山田市神社湊):引本屋、真砂屋、丸万、小田屋、美咲家、愛国楼
・田丸支部(渡会郡田丸町):いろは
・尾鷲支部(北牟婁郡尾鷲町):嘯月、光月
1950年の資料より
696
:
膳所裏
:2011/04/26(火) 16:29:57
田丸
田丸は有りや無しやと問われれば・・・有りでした。
ネットで何も掛かってこないのであんまり期待はしていなかったのですが、実際行って見ると・・・これが大有りでした。
手がかりは全国遊廓案内の田丸駅西南二丁だけでしたが、下車後五分程ですんなりと勝田町にかつての色里を認めることが出来ました。
土地の人に現存する いろは、山一、小林、ナルセの各妓楼やかつての芸者置屋の位置を教えていただき、ここは値段の高い古市からあぶれた遊客がお値ごろ感で利用された事なども教えて頂きました。
その足で図書館に行き玉城町史に遊廓の1ページを見つけました。町史によれば、もともと新田町(シンデマチ)に文政二年、町奉行が客屋(茶屋ではありません)を許したことから遊廓の歴史がはじまり、幕末には常磐屋、川崎屋、大西屋、堺屋、瓦屋(新玉屋)、駒屋の妓楼と中井屋、二葉屋の揚屋があり、この辺りでは古市、松阪に次ぐ規模を誇ったそうです。勝田町の記述は町史全四巻の内“明治七年に、勝田町に姿を変え、貸し座敷として再開された。”のみ・・・遊廓の存在を隠そうとする意図がヒシヒシと伝わります。
その後、町史に詳しい人がいることを図書館の人に教えて頂き、連絡まで取って頂き公民館まで出向きました。迎えてくれた、皆が先生と呼ぶお爺さんがが膨大な史料から探すこと小一時間、とうとう大正から昭和初期の勝田町の全てのお店が書かれた地図を頂くことが出来たので再び現地に戻り地図を右手に再確認。
現存しないのが、遊廓…美よし楼、銀波、金波、丸一 旅館…登喜和楼、川合屋、山本旅館
置屋…お福屋、鈴の屋、丸屋、かじや、山田屋
ほぼそのまま残るのが妙見側から入ると
遊廓いろは(妙見の向かい、屋根下壁の紅がらと緑が印象的)
遊廓山一(クランクを曲がり右側路地手前Pの手前)
遊廓銀花(その路地かど、近所の人がナルセと呼んでいた店、見ごたえ有り)
旅館小林亭(銀花の斜め前、今は民家、二階の窓の前に松、笹、梅?の彫り)
そして外城田川にかかる大橋(現在架け替え)に至ります。
帰路伊勢市の神具店で火打ち石を買いました。家に帰りカチカチすれば、成程閃光が飛び銭形平次気分が味わえます。
ところが厄除けの切り火としては有りですが、発火装置としてはこっちの方は無しですね。
697
:
膳所裏
:2011/04/28(木) 16:15:17
お知らせ
“京都 舞妓芸妓の奥座敷”などでお馴染みの相原恭子さんが5月3日に京都駅ポルタプラザに於いてお話会を催します。
タイトル:「京都花街」格子戸うらのおはなし会
時間: 第一部 13:00〜13:40
第二部 15:00〜15:40
内容 舞の披露、おはなし会、記念撮影会
698
:
鷹目
:2011/05/02(月) 18:41:54
お知らせ 2
試験的にですが、心ある学生グループが中心になって大和郡山洞泉遊廓旧川本邸が一般に無料公開されます。
日時:2011年5月5日(木) 10:00〜16:00
ただ試験的な実施なので突然中止になる場合、今後どうなるかわかりませんが、お時間のある方は是非行ってみてください。
詳しくは下記ブログにてご確認ください。
*ttp://kmachi.narasaku.jp/
699
:
膳所裏
:2011/05/05(木) 16:26:50
町名変更
以前、福井市の足羽公園の近くに有ったといわれる遊廓跡を探し回ったことがあります。
渡辺寛によれば榮新地は(旧、畑方西・東と長居町)
全国遊廓案内では石場畑方(旧桃園)
上村行彰は玉井町(旧伊勢町、大将軍町)を挙げています。
この玉井町も今は無く、現在は、つくも2丁目、足羽3丁目、桃園1丁目、有楽町、左内町と毛矢3丁目に当ります。
情報は錯綜、私自身は福井市史も読んでいないので、上の遊廓が同じ場所なのか、移転したのか今でも分りません。
ただ、明治以降この地で複数以上の町名変更があったのは確かで、これが混乱の元であるのは間違いの無い所です。
結局、その日、寡黙で親切なお蕎麦屋のご主人に教えて頂き、更に車で送っていただき、現在の有楽町に丸窓で紅がらの貸し座敷とパッチワークの様なトタンで覆われた当時の建物を確認することが出来ました。
町名は歴史であり、そこに住む人の誇りです。ビルが乱立する都会ならまだしも、地方都市までそれに倣うのは文化の自殺行為と言えます。
ある市が町名変更の理由をホームページに載せています。
?もしもの時に、救急車、消防車等がすぐに来られない。(生命にかかわる場合がある。)
?郵便物、荷物がなかなか届かない場合がある。(時間や経費の無駄。)
?来客者がお宅をさがしたり、あなたがお宅の場所を伝える場合に苦労する。
?役所等の公簿の整理が煩雑になり、住民サービスに影響がでる場合がある
??は理由にすら成りません。慣れ親しんだ町名のほうが分かり易いのに決まってます。
?は手数かけて調べさせて、その為の郵便番号でしょうが。
そして一番最後に本当の理由をもってくるのが小賢しいというかズルイというか・・・
そんなに仕事を減らしたいのなら、いっそ町名を全て廃止して記号と数字にしたらどうか?
それは出来ない?
いや、あなた達がやってきたのはそれと同じことなのですよ。
何故こんなに怒っているかというと・・・洞泉寺に今日行けなかったからなのです。
700
:
膳所裏
:2011/05/06(金) 16:56:00
待合 津の国屋
>夕凪さん 有難うございます。まさか榮新地の絵葉書が存在するとは・・・数日前に新吉原の仮宅の内部の絵葉書がヤフーのオークションにあったのですが、入札が五千円なので迷っている内に終了したようです。 旧川本邸の動画も拝見しました。おかげさまで今日からゆっくり寝れそうです。
実は鳥羽の遊廓、津の国屋の内部を見せて頂いた事があります。商工会議所が管理されているのですが、内部の保存状態は大変悪く、自己責任ということで何とか二階に上がりましたがいつ床がぬけるかヒヤヒヤしながら、それでも荒れ放題の庭も含め一応拝見しました。
印象的だったのは二階上がり口の手すりに掘られていたJ、Q、Kとクラブ、ハート、スペードの彫りで、ダイヤだけが有りません。これはお金をもって登楼する客がダイヤという洒落ですかねー。
角屋に似せた外観は整備され状態は良く、楓をあしらった玄関はここでしか見たことがありません。
津の国屋の正面に建つ鳥羽みなとまち文化館は船上遊女“志摩のはしりかね”の筆者で知られる風俗研究家の岩田準一の家で、彼が師匠でもある竹久夢二のタッチで描いたハシリガネが津の国屋の二階で船を待つ様子を描いた屏風もあります。
その他、渡鹿野島がモデルといわれるパノラマ島奇譚を書いた江戸川乱歩の展示もあり結構楽しめます。私も始めて知ったのですが、岸本水府もこの辺りの人だった様です。
鳥羽の遊廓跡にはその他、立派な三層楼で現在スナックである旧白子屋やかつて海が三階から望めたという旧料亭、太平楽などの建物も有りました。
鳥羽の商工会議所としても、かつての遊廓の建物を街中の地図で示したり、津の国屋の内部修理の見積もりを考えたりされていた様なのですが、どうも“負の遺産として”という修飾句が付きまとい今ひとつ踏み込めないようでした。
しかし鳥羽はまだまだ理解がある方で
「これでは家族の為身を売って死んでいった遊女達も浮かばれぬわ!」
私が海原雄山なら目をかっと見開き、箸を置きその場を立ち去りたくなるような時もありました。
701
:
新今里X
:2011/05/06(金) 21:58:28
あまり参考にはなりませんが
8年ほど前になりますが有楽町に行きました。
昭和初期の地図で遊廓は現在の足羽2丁目付近だったので、有楽町から南の方も少し歩いてみたのですが、何かあったおぼえはないです。
702
:
膳所裏
:2011/05/07(土) 15:33:02
有楽町
私が訪れたのは2年前でした。JR福井から見ると花月橋を渡ってすぐ右手の区画なのですが、連れていってもらえなければ分りませんでした。
丸窓のお宅は建物が大きい割りには塀も無く玄関前に小さな庭が有るだけなので、料亭でも、旅館でもなく、そのものだったと思います。
紅がらは時代を経ており、周りから浮き出た一種異様な佇まいでした。
703
:
新今里X
:2011/05/07(土) 21:54:55
栄新地と有楽町
栄新地や有楽町で検索してみたらホームページやブログの記事が少ないですね。
ぼくも訪れた当時に資料がなくてこの掲示板にも書けず、そのまま忘れてホッタラカシになってました。
荷風歓楽のロザーナさんのリストはこの掲示板のログも取り入れて整理されてるはずですが、さきほど見てきましたがやはり掲載がなかったです。
偶然ながら駅から歩いてすんなりと有楽町に入ったもので、すぐ分かる場所だから最近ブログなどやってる人が多数取り上げてるやろうと思い込んでました。
現地での印象は栄新地と有楽町は戦災や都市計画などで少しだけ移動してるように思えました。
取り急ぎ近場の図書館で基本的な史料を集めて調べてみます。
704
:
新今里X
:2011/05/08(日) 00:00:12
『廓の子』
加藤てい子さんの『廓の子』、未読の方にはかなりオススメです。
地名や遊廓の名称を変えたりしてますが、おそらく栄新地を舞台にしてるのではないかと思われます。
遊廓の娘として育てられたヒロイン鳥見亜納の子供の頃の出来事から、成長して妓楼を廃業するまでの物語です。
廓内での事件や出生の秘密など通俗小説的なところもあって楽しめますし、初期のコバルト文庫のようなジュブナイルっぽい感じもあります。
NHKの連続テレビ小説でドラマ化してほしいくらいです。
705
:
膳所裏
:2011/05/08(日) 11:55:08
道を聞くなら蕎麦屋に限る
チャカ チャンリン チャンリン チャンリン デンデーン
「場所がわからねーとき、おめーならどーする」
「そりゃーおまわりさんにきくだろう」
「おまわりさんは頼りにならねー だいたい他の土地の巡査が地図をひろげてうーんと唸るか、第一 派出所はいつ行ったって空じゃねーか」
「なら、駅員か?」
「やつらぁ ボンクラさー こねえだも田丸で東西逆を教えやがって ひでー目にあったばかりよ」
「観光案内所なら間違えあるめー」
「ところがどっこい やつら知ってる事は知ってるが 知らねー事は何も知らねー」
「そりゃーそーだろ じゃあ おめーさんならどーする」
「蕎麦屋に聞くさ」
「えっ 蕎麦屋? おかしーだろ なんで蕎麦屋なんでィ」
「そりゃ 藪で迷ったら 蕎麦屋しかあるめー」
>新今里Xさん Googleでは分かりにくいのですが Yahoo地図で見ると有楽町に不自然なロータリーが有ります。
当時の遺構かも?
706
:
ぼわぞー
:2011/05/08(日) 15:12:54
奈良の舞妓さん
最近いろんなイベント続きでとても楽しいですね。
先日の川本邸見学の後は、久々に木辻を歩いてきました。
ビックナラのアーチ横の格子の家が建て替わっていてショック。
遠からず、静観荘だけが町の名残になってしまいそうです。
元林院を歩いていたら、ちょうど芸妓さんのお稽古の時間。風情がありますね〜。
で、こんなチラシも見つけました。春(初夏?)と秋の、年に2回やってはるそうです。
ならまちナイトカルチャー
奈良の舞妓と奈良の唄
ttp://www1.kcn.ne.jp/~narazai/nightspring.html
・日時/5月17日(火)・24日(火)20〜21時
・料金/500円
・定員/先着100名(予約可能)
・会場/ならまちセンター(猿沢池の近くです)
センターの方に聞いたら、まだ席は余裕があるとのこと。
でも、毎回、舞妓ちゃんの会は人気があるから、
前日までには予約してくださいね〜と、のどかなお返事でした。
17日に行ってみようかな〜と思います。
707
:
新今里X
:2011/05/08(日) 20:20:15
いろいろと
>>膳所裏さん
あのロータリー風の道路って真ん中に植え込みか噴水でもあったんでしょうか?
たしか善通寺の遊廓入口の広場も池があったとか、ここもそういう趣向を凝らしてたのかな?
ぼくが訪れた時は赤い旅館に看板があり「旅館 ●●● 泊750円」と書かれていました。
転業した時分の宿泊料だと想像するのですがいかがなもんでしょう?
気になるのが建物の減り方が早いようで、平成16年の福井豪雨で被害があったのかも知れません。
ぼくはなるべく地元で場所を聞かないようにしています。
地域によっては蔑まれてる場合もありますし遊廓や赤線だったところを調べたりするのに後ろめたさもあってちょっと聞きづらいです。
地元の方に話を聞く場合は、ある程度場所を把握してからにしてます。
同行者がいてて迷惑がかかりそうな時や、一日中歩き回って手がかりもないときなんかは仕方なく道を尋ねることありますけどね。
現役のところはタクシーで聞けば即ご案内ですけど、それも旅費をケチってタクシー乗る機会が少ないもので…(笑)
デジカメとブログが普及した頃からいろんな方の遊廓赤線跡巡りを読ませてもらってると観光案内所などに問い合わせをする方がけっこういるのに驚いてます。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥の諺もあるし効率の良さを考えてのことはよく分かりますが結果は同じでもスタンスの違いを感じてしまいます。
逆に後ろめたさを感じる自分の方が気にしすぎなのかなぁと思ったりもします。
>>ぼわぞーさん
ならまち情報おおきにです。
秋だけかと思ったら5月もやってるんですね。
500円は安すぎかも…
24日にしたら濃厚なスケジュールになりそうで。
-参考-
ありがたいことに去年の秋の分アップされてる方がいますよ。
ttp://www.youtube.com/watch?v=KgnC6DQckBw
ttp://www.youtube.com/watch?v=PdhxBRj_sjE
ttp://www.youtube.com/watch?v=CQbLUdTeEyM
708
:
鷹目
:2011/05/08(日) 23:49:12
軽薄短小の傾向
何もかもすっとばして結果だけ見ているという傾向のところが圧倒的の多いですよね。一部には文献当たったり、地図見たりとして、最終的に案内で聞いたりのところもありますが。
探すという楽しみ、もう一度見直してほしいです。
まあ、何も考えずに無茶やってあちこちに迷惑掛けている人には理解できないでしょうけどww。ホンマやりすぎ多すぎ。
709
:
新今里X
:2011/05/09(月) 00:31:23
和歌山市の遊里の変遷
『和歌山史要 増補4版』和歌山市役所1952年に和歌山市の遊里の変遷が6ページにわたって解説されてましたので、とりあえず下記に遊里名を古い順に書いておきます。
北新博労町(1624年頃)
中之島遊所
元市場信心講
新内日参講
萩原遊廓
安原遊廓
(明治維新)
新内
番丁遊廓
新和歌浦検番
和歌浦不老園
東廓
番廓
(戦災焼失)
東廓組合
和歌山市芸妓組合
新和歌浦社交婦倶楽部
阪和新地・天王新地・葦原区などに各社交婦組合(なぜか設立時期など記述がありません)
詳細は前後の増補版も調べて後日書こうと思います。
追記:新天地劇場(戦災焼失)
710
:
新今里X
:2011/05/09(月) 11:01:27
自分への反省も含めて
>>鷹目さん
判断のつきにくい一軒家の画像を指して「ここはそうかな」とか「ちょっとにおう」とかの曖昧なキャプションや掲示板での議論はいろいろと迷惑がかかるので表現に気をつけないといけないですね。
711
:
膳所裏
:2011/05/09(月) 11:18:40
廓の男
私の場合、旧廓の人とお仕事をしたりお話しをする機会が多く大分と感覚が麻痺している部分が有ると思います。結構訪れたさきで名紙交換したり、後から連絡を頂いたりすることが有ります。
ただ、この感覚が当然会の趣旨に合わないことも充分理解できまので、もしそうであれば影で応援する側に回りたいと思います。
>新今里Xさん 訪れた時はロータリの存在自体に気付きませんでした。後、昭和22年の福井大地震。お隣の丸岡の富田町はこの時に消滅したそうです。
712
:
鷹目
:2011/05/09(月) 16:00:02
(無題)
>膳所裏さん
なかなか名刺交換して後から連絡を貰うなんてなかなか出来ない行動だと思いますので是非続けてください。
それが記録に残す手段になるとます。
やはり一番問題なのが新今里Xさんの書いている方々ですね。
デリケートな問題だけに現状当会でも色々と議論や異論はでたり、話し合ったりします。いまだ答えのでないところであり、模索している部分もあります。
でも現役のところの屋号写ったままの写真アップしたりと、思慮のなさを感じるブログ等が多すぎます
問題提起以前の問題ですわ。
。
713
:
膳所裏
:2011/05/09(月) 20:03:18
観亀神社大祭
なんとも急な情報なのですが、ご案内頂いたのが今日で、私自身知ったのが今日です。
*ttp://gion-east.jp/top.html
万一いける方がいらっしゃれれば得がたい体験となるのは私が保障します。是非会社休む
か、なんなら離職して行ってください。
氏子総代は祇園東の取締りが努められます。
観亀神社はかんきじんじゃです。どなたかのブログでかんかめと書いてありました。
きっとバチがあたるとおもいます。
714
:
鷹目
:2011/05/09(月) 20:13:24
イベント
>膳所裏さん
情報ありがとうございます。何も仕事が入らなければ行ってみようと思います。
奈良の舞妓さんのほうは、夜予定がすでに入っているので行けません(泣)。
しかし、今年の五月は面白い催し物いっぱいですね〜。こんな年も珍しいなぁ。
715
:
:2011/05/12(木) 16:37:57
清娯園
先月愛知県の半田、亀崎を訪れ亀崎の名旅館、望洲楼さんのご主人とお話することが出来ました。
この望洲楼は伊藤博文も宿泊した創業安政年間、東海屈指の名旅館で、今でも松川二郎が絶賛した八勝館さんや十州楼さんと親交があるようです。
後日私の知る限りの情報(といっても阪口祐三郎伝にある半田の花街に関する数行の記載)をお送りしたところ隔月発行の「はんだ郷土史だより」を送っていただきました。
記事の中で半田、亀崎の「女の夜ばい」「色どころ」について情報や感想を求めています。
遊里史板の趣旨から離れる部分もありますがもし望洲楼さんに関する記述を含み何か資料等ございましたら教えてください。
“半田、亀崎女の夜ばい”の俗謡がいつごろから流布し、またどうして全国区になったのか? 郷土史だよりでは?この地は船乗りが多く、女房が留守中忍んでいった。?半島独特の住宅構造で若者は親と別に寝起きしたのが交際を容易にした。?この地は見合いを“呼び合い"と言うが、それが揶揄され“夜這い”となった、等の説を紹介しています。
√伊勢じゃ松阪 尾張じゃ名古屋ョ 半田亀崎や 色どころエ 一度は行ってこい!
ソリャおもしろい
もう一つは平成の今でも大島町で歌われる“色どころ”に関してです。
半田町案内によれば昭和三年、半田では六千人の人口で芸妓60名、亀崎にはそれ以上の芸妓がいたそうです。(望洲楼にお抱え芸妓がいたのは大正までだそうです)
清娯園に関しては半田、亀崎ともご存知の方はいらっしゃいませんでしたが興味は示しておられました。
気長に待ちますのでもし何かの折でも見かけましたらこの“色どころ”についても教えてください。
名古屋ですから“呼び合い”が“よびゃ〜い”ときこえるのですかね?
716
:
夕凪
:2011/05/16(月) 01:07:04
清娯園の有名舗
今里、香取、大安、千歳、春、お染、玉壽司、三日月、歌仙、美喜家、
福壽、お舟、宮壽家、ダリヤ、菊屋、喜美福、五月、明月、新広光
1950年の資料より
※半田市字南大股ってなんかヤラシイ !?
717
:
夕凪
:2011/05/16(月) 02:28:45
幻の 『全國花街めぐり』 後篇
ご存知『全國花街めぐり』(1929年)の巻末で著者である松川二郎氏は
具体的に花街名をあげて後篇の編述中であると述べています。
その中で同氏は、花街めぐりの興味は寧ろ後篇の方に在り、
前篇では三都を始めとして大物は殆ど網羅しているが、
後篇には、地方や外地の花街を収めるつもりであると述べてます。
しかし残念な事に未刊に終わってしまったようです。
ところが先日1930年に創刊された雑誌で下記の記事を発見しました。
●後篇 全國花街めぐり 松川二郎
これは昨年7月誠文堂から出した「全國花街めぐり」の続篇である。
いずれ本年11月頃には単行本として発行される筈なのであるが、
読者から頻りに其の出版を督促してくるので、
取敢ず本誌上に掲載することにした、
花街案内もまた旅行案内の一部だからである。
そして同誌には10頁にわたって伊勢松阪、伏見中書島、岩代郡山の
三花街が紹介されてました。
尚、この雑誌の編輯者・発行者・印刷者はすべて松川二郎となっています。
でもネットで調べた限りでは第2号以後はヒットしませんでした・・・・
718
:
膳所裏
:2011/05/16(月) 17:40:51
濡れ衣
>夕凪さん
さっそく有難うございます。ある程度資料まとまったら、先方にお送りしようと思います。
今、四日市のネットカフェで高速バスの時間待ちしています。
先ほど、鈴鹿神戸(かんべ)の旧十日市町と旧常盤町にてそれぞれ転業旅館一軒ずつ、
そして白子(しろこ)でも転業旅館三軒と妓楼名をそのまま冠したアパート(マンション)二軒を見てきました。
お昼を頂いた白子の旧廓内のおすし屋さんはもと玉突場だったそうです。
白子の隣の千代崎にも遊廓があったので行ってきました。土地の古老によれば漁港のそばに「ちょうかろう」
という建物があったらしいのですが明治、大正の話のようです。
千代崎のおばあちゃんに「そんなもんとっくの昔に無くなったわ!今頃きてもおそいわ!」と決めつけられました。
「ちがう、ちがう、遊びにきたんじゃ無いって。」
あきれた痴れ物と映ったようです。
719
:
膳所裏
:2011/05/26(木) 13:40:10
お知らせ
角屋さんでご主人が文化講座されています。
*ttp://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/
720
:
夕凪
:2011/06/05(日) 17:44:53
幻の 『全國花街めぐり』 後篇 その後
5月16日に書き込んだ雑誌について、もう少し調べてみましたが
やはり続刊の有無は確認できませんでした。
ただ第2号となる8月号の予告チラシを確認する事ができました。
残念ながら、そのチラシには 「 後篇 全國花街めぐり 」 の文字はありませんでした。
また松川二郎氏自身も様々な事業を興したりした為、
発行予告はしたものの、実際に8月号が刊行されたかどうか謎のままでした。
※このチラシの裏面全面は旅行時代社主宰による
2泊3日の『八丈島遊覧』ツアーの参加者募集広告となっています。
尚、このツアーのリーダーは松崎天民・松川二郎の両氏でした。
(参考)
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai05/tz0514.pdf
721
:
膳所裏
:2011/06/08(水) 15:16:58
鞆の浦
再訪しなくちゃ
*ttp://imawosetuniikiru.at.webry.info/201103/article_7.html
*ttp://ameblo.jp/arisorou/image-10810156958-11068495760.html
722
:
膳所裏
:2011/06/10(金) 15:05:56
八丈島のキョン
松川二郎が「全国花街めぐり」を出版した昭和4年に上村行彰の「日本遊里史」も出ました。さらに宮武外骨もこの年「売春婦異名集」「アリンス国辞彙」を上梓しました。
翌5年には「全国遊廓案内」が出版され、向島でダンス芸者がお披露目されたのもこの年の12月で、大阪でも大和屋の阪口祐三郎が芸妓の質を憂えて「芸妓読本」を出しました。
おりしもカフェーの最盛期、全国での芸妓と女給の総数が拮抗してましたので、大都市では女給が芸妓をかなり上まっていたことでしょう。
京都では先斗町の舞妓のレビュー団が東京の公会堂で開演してますし、この年京都だけでヤトナ倶楽部が43軒ありました。
祇園にも振袖花魁がいたり、太夫までいたり・・・
これに娼妓や私娼まで加えると・・・日本全国半ばこれ妓院
松川二郎でなくても、たまには本土を逃げ出し、八丈島でキョンと戯れたくなったことでしょう。
723
:
膳所裏
:2011/07/04(月) 12:51:29
和歌山 海南
昨日海南の旧二新地を歩きましたが両新地とも芸者のみの花街だった様です。
市の中心部にある西新地は現役のスナック街で30〜40の看板の中、由緒ありげな料亭、割烹、旅館などがあり、今は民家のお宅の玄関奥にタイル張りの丸窓(元芸者置屋さん?)なんかも有りました。
駅近く、矢張り川向こうの東新地は完全に退役されているのですが、民家の中でとてもいい味を醸し出しておられました。つた屋(廃屋)、末廣(民家)などの屋号がのこり、カフェ調のカラオケ、料亭、旅館などもありました。
近所の方にお聞きすると、芸者町としては両新地とも昭和40年頃まで賑わっていた様で、
東新地の芦原温泉(現役銭湯)は夕刻ともなると芸者衆でいっぱいだったそうです。
海南の名物ずぼら焼きという回転焼きの店がありましたが、なんとなく和歌山らしいと思いました。
724
:
膳所裏
:2011/07/08(金) 15:47:20
美濃太田
美濃太田駅の線路沿いに延びる大楽通りが赤線であったと複数の方がネット書いておられますが、私の伺ったところに拠りますと、旅館のある辺りは花街だった様で、遊廓の建物は一番奥の点滅信号のすこし先で現在ブラジル人経営の自動車屋のスペースに1軒だけありました。
地元に詳しい方を紹介いただきお聞きしたところ、そこからほど近い太田宿のほうにも遊廓があったとの事なので訪れてみました。
中仙道の宿場であり、木曽川の太田の渡しが江戸中期まであり、醸造地であり、花街が育つ条件は充分揃ってます。
江戸時代旅籠を営み現在公開されている小松屋さんも明治期を通じ遊廓の建物でした。さらに薬局の向かいのパーキングにもかつて建物があったそうです。
近所の方によれば、太田本町1の信号から音羽湯、上町の枡形あたりが芸、娼妓の町だったようです。
江戸期には太田宿辺りが栄え、鉄道が敷かれると大楽通りにも繁華街が出来たという推測はたやすいのですが、市史もなにも読んでいないので詳しい事は分りません。
また、両者の距離も近すぎますし、免許の件も有るでしょうし・・・
もう一度調べたい所でした。
725
:
新今里X
:2011/07/10(日) 20:45:44
鹿が散歩する元林院
夕方から奈良町に行って来ました。
まずは南に歩いて木辻の現状を見てきました。
旅館の静観荘と住宅で使われてる数軒のみ、錦市場の奈良劇場の部分も無くなっていました。
泉亭の名前が残っていた●●家住宅が取り壊されて雰囲気が変わってしまったように思います。
それから南市へ行くとスターミュージックの跡地にオシャレな感じのカフェが建ってました。
風俗店はコスチュームサロントップレディー・ホテルヘルス奈良町ロマン倶楽部・奈良で唯一の回春性感マッサージ夢咲姫が歓楽街の灯を守り続けています。
元林院に入ると稽古をしてるのか三味線の音色が聞こえてました。
そして4〜5匹の鹿とすれ違い、まんぎょくの前に来るとちょうど営業時間になったようで店の明かりが点灯しました。
残念だったのは数年前にまで残っていた奈良町では珍しい木造3階建ての笹乃屋旅館が無くなってました。
笹乃屋はもとは大正時代に建てられた2階建てのお茶屋で、昭和初期に3階建てに増築されたそうです。
<<参考>>
ttp://www.top-lady.net/
ttp://naramachi.gone.jp/
ttp://yumesakihime.net/
726
:
膳所裏
:2011/07/12(火) 14:07:31
元林院の鍾馗様
京都が発祥と言われ、家の軒先で睨みをきかす鍾馗さんですが、京、大坂、滋賀を中心に東海でも、特に花街や花街跡を中心に見かけます。
鍾馗さんが向かい合わせになると喧嘩をするので、向かいの家はしゃれでお多福を置き気をそらす場合が有るのですが、実際アパ祇園ホテルの裏にそんなお多福さんが有ります。
形は色々あり、今里と橋本に子鬼を足蹴にしている鍾馗さんがいます。
不思議なことに元林院のみ軒上でなく、どの家も屋根の上に鍾馗さんがいましたので何か曰くがあるのでしょう。
・・・お知らせ・・・
そろそろ祇園祭りですが甲部舞妓さんや芸妓さんに500円で「おおきに」といってもらいエビスの生ビールがジョッキで飲める大変たのしいイベントが7月15日(宵々山)、八坂神社前の四条通りで19:00から催されます。
今年でたしか4回目なのですが、告知も何もしないのでそんなに人も群がることもなく写真撮り放題ですよ。
727
:
膳所裏
:2011/07/27(水) 17:37:55
浜島
少し前になりますが、三重の浜島を訪れました。京都から高速バスで伊勢市まで行き、路線バスに乗れば片道3690円で充分日帰りができます。
実は勝手に寂れた漁村をイメージしていたのですが、古い建物を保存しつつも新築は伝統にのっとり建てられていますので、町全体に統一感が有り、人通りも盛んでした。
町の中央に町並活性塾があり、館内にある足湯につかっていたおばあちゃん達は九鬼氏の末裔が如く張りも活気もあるのですが、いかんせん方言が容赦なく、私には半分も理解できませんでした。
妓楼といえば、表通りの家の多くが木制の細工をもち、皆貸座敷に見えるのですが、実際は9軒あった妓楼の内、田端楼、一萬楼、三光楼、常磐楼、光月楼は既に替えられていました。それでも海辺に佇み、氷屋から水産業に転じた大成楼は現在人は住んでおられませんが貸座敷の姿を留めております。(大成楼は煉瓦の棟を持つ独特な構造なのですが、転業の際改築したと思われます)
芝居小屋の浜島座は現在浜島診療所で、その隣が足湯ですので、活性塾はかつて検番のような機能を持っていたのかもしれません。
お昼に殻付きの海老やら、出し巻きやら色んな具が入るうどんを頂いた喫茶店はかつてカフェだったそうで、その並びにある、かつての姿をとどめた吾妻楼と吉川楼を教えて頂きました。
かつてこの吾妻楼と吉川楼の間に半弓という名の射的場があったそうです。
この浜島に鼻欠けえびすがあります。漁師さんがハナを取る(一番を取る)為にゲン担ぎでエビス像の鼻を削るらしいのですが、このエビスさん、実は浜島の遊所で遊びすぎて鼻が欠けたのに違いありません。
728
:
膳所裏
:2011/08/02(火) 16:21:45
天竜二俣
日曜日に静岡の二俣の吾妻町に有った遊里跡を訪れました。天竜本町で降りると、メインストリートのクローバー通りの入り口より少し先がその場所で、廃業した銭湯も有り、そこそこ雰囲気もあるのですが、当時の遺構は無く、妓楼名を冠した転業旅館が1軒佇むのみです。
つい最近まで、通称三軒屋?と呼ばれた建物も有ったのですが、現在空き地です。こちらを教えて頂いた年配の方が、三軒屋には小部屋が沢山有ったと仰ったので「いよう大将、隅におけないね、この色男!」と言おうかと思いましたがやめました。
かつて二俣は芸者衆100人を数えた大花街でこの辺りでは浜松と勢いを二分していたそうです。
文献では見ないのですが、クローバー通りの先、横山町にも公許遊廓の一画があったとの情報があり訪れましたが、多分ここにも当時の建物は無い様でした。
ただ、途中の陣屋と呼ばれる立派な木造三層の旅館は見もので、今をときめく数寄屋橋二郎が昔ここで修行されたそうです。又、本田宗一郎もこの辺りの人だったそうです。
さて、十八切符を利用して日帰りのため往復10時間は電車の中です。
おかげさまでこの間“サンディ、リック、ユッカ、ブラース”と共に魔界をさまようもう一人の“ぜぜうら”もこの間バッタバッタとモンスターを倒し、レベルも30から32に上がりました。
“ぜぜうら”は私と同じ、失われた楽園を探す星の守り人で真の勇者なのです。
729
:
鷹目
:2011/08/05(金) 03:04:21
泉州楼
南海電鉄沿線の遊里といえば、堺と貝塚が有名ですが、その間、岸和田にも遊里がありました。花街として繁栄し、昭和の後半には消滅いたしました。
中心となった地区にはその痕跡が全く見えず、外周部にぽつりと小料理屋が残るのみです。花街があったということを知らなければ、なぜこんな場所にといぶかしむだけです。
さて中心になった地区には痕跡は残っておりませんが、かなりはなれたところの小さな神社の玉垣に僅かに痕跡がありました。
当時岸和田花街随一と呼ばれた料亭泉州楼。その銘が刻まれた玉垣が存在します。
たまたま偶然見つけ、神社前の年配のご婦人に聞いてもなぜ神社にの玉垣があるのか経緯は判りませんでした。
岸和田花街に関しては、岸和田在住の内田幸彦氏の著書での記述が比較的まとまったもので、あとは名称のみ本の少しの記事が『坂口祐三郎伝』等に見出せるのみです。
こうして忘れられていった、忘れられそうになっている遊里、日本にはまだまだあるのでしょうね・・・。
730
:
新今里X
:2011/08/05(金) 13:58:14
西中島・東中島
西中島・東中島での遊廓(娼妓貸座敷営業)許可された日が資料によっていくつかあるというのを以前に書いたような記憶がありますが一応下記が確実なところです。(西中島が明治12年2月2日となっているのは誤植だと思います)
●岡山県になってからの動き
芸娼妓渡世出願者情実取糺ノ為必本人ヲ出頭セシム…明治9年4月11日
売淫罰則ヲ定ム…明治9年4月13日
娼妓並貸座敷規則…明治9年4月22日
西中島許可…明治10年2月2日
東中島許可…明治10年10月8日
もちろん許可以前にそれなりの営業をしているのは間違いないところです。
現在は都市計画で公園にする予定になっています。
そのせいか、1995年、2001年、2002年と訪れましたが建て替わることなく空き地が増えていたように思います。
もともとの岡山港が中島の南辺りの西岸にあり、戦後まで瀬戸内海からの旅客船など汽船も旭川を上ってここに着いてたそうです。
昔の船着場と京橋の間には大阪の歓楽街に因んで名付けられた千日前という商店街があって、最近は寂れていますが雰囲気は大阪の千日前と通じるものがあります。
児島湾の入口にある九蟠の遊廓があまり栄えた風でないのは吉井川方面の積み降ろし以外は素通りだったのではないかと想像しています。
西中島に遊廓が許可された翌日の明治10年2月3日に芝居興行も西中島に許可され旭座という芝居小屋ができ、この旭座が後の木下サーカスの発祥となるそうです。
-花街の唄本より-
備前岡山小唄 渡る京橋中橋小橋 なぜに足りない戀の橋
岡山おどり あさひ川には白魚のぼる もゆる思いのかがり船 君に逢うとてきのうもきょうも 通う京橋中橋小橋
731
:
膳所裏
:2011/08/06(土) 18:31:59
(´Д`)
岡山県史で岡山市の遊廓史を補足させて頂くと、
明治12年 岡山区西中島町女紅場に金七拾四円を岡山区役所より下賜される。
同年 中島町娼妓の梅毒検査が月4回から8回になる。
明治17年 山陽新報の記事で客は芸者の芸を買わず、芸者も三味線を碌に弾けず、不器用な籐八拳を 一生涯の宝とする・・・などの記載あり。芸者は鯰猫と揶揄される。
明治33年 第六高等学校が岡山に設立されることになり、中島の移転問題もちあがれど実現せず。
明治40年 陸軍第17師団が岡山に設置され、中島遊廓も繁盛。
大正5年 岡山券番内で娼妓のみならず、芸妓にも検黴が行なわれるという噂が立つと、真っ先に?????????? 婆さん株がこれに反対、中古芸者や豆芸者まで「そんな阿保らしいことがおまへうか」 「人権蹂躙だわ」「姐さんどうしましょう」「ほんとうに情け無いわ」と雷同する。
同年 岡山券番南券が芸妓検黴反対の檄文を中券、神林券にもとばす。
同年 中島の移転問題が再発、中島は旭川の水路の要枢なので運送業や倉庫業に譲るべきという
のが趣旨
大正6年 芸妓検黴問題で芸妓叉々騒ぐ。
大正15年 娼妓外出許可に対し、これに反対した楼主側が陳述すれど警察側は自由外出許可の方針を固める。
昭和9年 室戸台風の被害で旭川大改修時にまたも中島遊廓の移転検討されるが移転せず。
以上二日前届いた“おかやま街歩きノオト、第6号”も参照・・・あ、ばれた、まさか本当に最後の一冊と
は・・・ごめんなさ(´Д`)うわ〜なぐらんでくれ、なぐらんでくれ〜 (´Д`)
732
:
新今里X
:2011/08/11(木) 19:57:06
築地小唄
築地絵の街 唄の町
生きた人形の 花の町
磯の香りに 風吹き寄せりゃ
岸の夜桜 花吹雪
色もほんのり 湯上り化粧
そぞろあるきの 仇姿
詣る弁天 築地の守り
奉納相撲に 人の波
船の焚火 赤々燃えて
和霊祭の 舟わたり
涼む夕辺の 屋形のすだれ
風がそろりと 覗き岩
積る想いを 鬼ヶ城
主に見せたや 今朝の雪
うつす鏡の 樺崎みなと
にくや別れの 舟が出る
膳所裏さん好みのネタだと思うんですが、写真板に書き込みしただけで過去ログに入ってないはずなので書いておきます。
最近某MK先生らしきブログで紹介されてるのとは違う歌詞もあり、お店が宴会用に用意してる小さい唄本に載ってました。
733
:
膳所裏
:2011/08/12(金) 18:38:11
花街 見るguy 人畜無害
小唄、端唄も好きですが、都々逸や川柳の方が好きです。
“三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい”という秀逸な都々逸がありますが、
“三千世界の鴉を締めて、主と朝寝がしてみたい”
京の花街では無粋な殺すを使いません。ちょっとした違いですが、こういった積み重ねが洗練された環境をつくりあげたのだと思います。
都々逸より好きなのが旧遊廓巡りです。
私の場合、観光案内所でダサめの自転車を借り、首から大きいカメラをぶら下げ、目的地で道端に自転車を停め、やはり案内書で頂いた地図をひろげ途方に暮れたりします。
こうすれば、地元のかたが「何処をお探しかな?」と声をかけて下さいます。
“この街の 女郎屋探し 面目ねえ”
とでも言った心境ですが、女衒じゃあるまいし・・・さすがに私でももうちょっと気の利いた聞き方をします。
いわゆる現役にはなるべく近づかないようにしているのですが、やっぱり気になる所は気になりますので、上記のスタイルで訪れます
“この人は 迷って来たのさ それだけさ”
無邪気で人畜無害な旅人を装うにはもってこいの方法だと思っています。
734
:
新今里X
:2011/08/22(月) 12:57:08
ちょっとお尋ね
>膳所裏さん
下記の岡山市の遊里史年表のことですが、どれが県史に記載されていたものでしょうか?
735
:
膳所裏
:2011/08/22(月) 14:41:36
まわし
遊女が泊まりの客に対して、複数の客を取ることを廻しといいますが、この風習は花魁と遊客との間に悲喜こもごもの物語を生み、江戸の吉原の性格に大きな影響を与え、落語の題材をも提供したのはご存知の通りです。
この廻しは関東以東の風習で、一般に東京式といわれ、廻しをとらない関西は大阪式と呼ばれました。それではこの東京式と大阪式の境界線が何処にあるのかを全国遊廓案内で調べてみました。
それによると昭和初期、関東58ヶ所の遊里で廻しをとらなかったのが平塚と大磯のみ、東北でとらなかったのが塩釜と一戸町北館の2箇所、北海道は全て廻しをとっていました。
中部地方を見ると豊橋を含め東方面は東京式で、お隣の岡崎以西が大阪式で廻しをとりませんでしたので境界はこの2都市の間に有ったようです。長野がすべて廻しをとってた一方、岐阜は全く廻しをとりませんでした。新潟は基本とらなかったのですが、新発田は馴染み客が登楼ればとり、中条は内緒でとっていたと有りましたので境界線上のグレーゾーンでした。
岡崎以西で唯一廻しをとっていたのが三重県なのですが、これは古市に遊客が多く、大阪式ではさばけなかったからなのでしょうか?いずれにしても愛知以外は基本県単位でとるか、とらぬかでしたので条例のような物があったのでしょうか?
そもそもなぜ関東は廻しをとり、関西は廻しをとらなかったのか?当然廻しをとれば楼主はうるおい、遊女の年季も早く明けれるのでしょうが、遊女側にも肉体的のみならず、精神的にも大変な苦痛を強いるわけですし、叉お客側も廻し制度は、多少料金は安いのですがあまりメリットが有る制度とも思えません。
この廻しについて情報あれば教えてください。
新今里Xさん>家のパソコンつながらないので明日までお待ちください。
736
:
膳所裏
:2011/08/23(火) 12:16:37
岡山県史
新今里Xさん>
下の年表、上から?〜?とすれば、???以外が岡山県史からの引用です。
かなり省略していますので、オフ会の時頂いた名刺宛にコピーお送りしておきます。
737
:
新今里X
:2011/08/23(火) 13:50:10
おおきにです。
お手間取らせてすみません、30巻でしたらコピーは結構です。
お気遣いおおきにありがとうございます。
お礼がてら既読かもしれませんが下記に九蟠の古写真や笠岡など遊里の記事がありましたよ。
『岡山県性信仰集成』岡山民俗学会 ほとんどは凸凹の集成ですけど…(笑)
5〜6年前に写真板に笠岡の報告をしたときの元ネタです。
738
:
櫻新地
:2011/08/23(火) 13:55:54
違います
東大阪ではなく“つたや”は東成の大今里です。
739
:
新今里X
:2011/08/23(火) 14:33:22
ア、ナルほど
ネットの記事をウロ覚えで書いてたものを修整していただきありがとうございます。
造園業増田組が東成郡大今里にあったということでしょうか?
もしそうなら地元発祥でちょっとうれしいですね。
740
:
新今里X
:2011/08/25(木) 01:22:30
西成ちゃうで東成やで
飛田遊廓は東成郡にできた遊廓…、といってもぼくは西成区から西成郡を連想してしまいます。
今さらという感じですが、日本橋に用事があったついでに、帰りのルートを南寄りに変えて見てきました。
飛田遊廓ができた頃の東成郡と西成郡の境界は単純に現在の飛田本通商店街(動物園前一番街)でした。
もちろん飛田側が東成郡、今池側が西成郡です。
その後、飛田遊廓の地域は1925年に大阪市住吉区になり、1943年に住吉区から西成区に編入されたそうです。
まぁなんというか、いつものごとく商店街をぶらついてきただけですが、東成郡と西成郡の境界だと思えば新鮮な感じで……やっぱしいつもといっしょか。
741
:
膳所裏
:2011/09/01(木) 19:01:05
串茶屋はいかにして廻しを取る様になったか その一
小松の串茶屋の遊女保存会が手作りで綴った“遊女を偲ぶ6”に、いかにして串茶屋がまわしを取るようになったかの経緯について書かれた興味深い文章があったので紹介させて頂きます。
小松のある石川県は金沢を中心に芸妓と娼妓の区別が曖昧であるという独特の廓文化を持った土地柄で、全国遊郭案内はこの辺りの雰囲気を主計町(かずえまち)を引き合いに出して次のような説明を試みています。
「(主計町は)貸座敷の許可地では無いが、さればとて検番制度でも無い。金沢百万石という偉大なる力が斯うした芸妓とも娼妓とも付かない一種変態的な物を生んだものと思われる。但し女は芸妓の鑑札を所持して居る。中には二枚(鑑札)の女も居る」・・・が、多少尋ねあぐんでいる様です。
他県の個々の遊郭に関しては、まわしの有る無しはお客にとって重大な関心であるはずなので、案内書としても出来るだけ触れているのですが、こと石川県の項では小木町に通し花制(=廻しをとらない)と有るのみで、大きく情報が欠如しています。
以上の独自性を理解して頂いた上、私なりに足したり引いたりして書いていきます・・・
742
:
膳所裏
:2011/09/02(金) 14:42:24
その2
まずは串茶屋の歴史から・・・北陸街道沿いの一寒村に過ぎなかった串茶屋に人が集まる様になったのは小松城主、前田利常が那谷寺の復興工事を命じたからで、その促進の為職人達の慰安所として串茶屋に「郭」の営業を許可したのが寛永17年(1640)頃といいます。
ただ、1678年刊「色道大鏡」中の日本遊郭惣目の25遊所で敦賀六軒町、三国松下、今庄新町が載るのに串茶屋が省かれているのは、北前船が寄港し物流の通り道だった敦賀、三国そして近畿と北陸を結ぶ今庄と違い、外様の加賀に向かう宿場町では地元の客が殆どで全国区の知名度は得られなかったのでしょう。
しかし文化文政には、お隣の大聖寺藩の若侍の利用も盛んで、水茶屋時代からの木屋、府中屋を始め中屋、駒屋、山屋を御三家とし、松屋、高瀬、新屋(あたらしや)、大新、小新等20数件が軒を並べ、昼夜弦歌の絶えない街道一の色里となり、遊女の数も100を超えました。
743
:
膳所裏
:2011/09/03(土) 18:09:38
その3
当初、遊女がブタコと陰口を叩かれたぐらい低級な遊郭だった串が江戸後期に北陸街道一の遊所と成り得たのは、徳川十一代将軍家斉が江戸文化の頂点を作りあげた頃、串ではその気運にのり木屋甚三郎という楼主が廓改革にのりだし、木屋を春雲楼と銘打ち、什器は輪島塗、九谷焼のみならず諸国の名器を集め、お職と言われた花魁には琴、三味線、笛、胡弓、舞踊の遊芸を習わせ、さらに茶の湯、生け花、和歌まで学ばせたので花魁の中には詩歌はもとより書画にまで達するものがおり、他の茶屋もこれを見習ったので廓は栄え、富田景州等の文人、墨客が集い、串茶屋はちょっとした文化サロンの様相を呈しました。
また、島原のなます言葉、吉原のありんす言葉の向こうを張り(!そう言えば向こうを張るも廓言葉からきたんでしょうか?)大聖寺の町人言葉を参考に、居ないーおんならん、行ったーいきなった、など“串のおんなる言葉”と言えそうな独自の言葉を編み出し遊女に使わせました。
串の都に対する思い入れはいじらしい程で、実際祇園祭りを勧請し八幡社に合祀し毎年7月15日には祇園祭りを催した事でも痛いほど伝わってきます。
吉原に太夫がいたのは遠い昔のことで、この頃の江戸の花魁は遊芸とは真逆の存在で、舞や演奏は廓芸者に任せきりでしたし、島原も既に享保年間(1800頃)には馬琴に“島原の廓、今は大いにおとろえへ、太夫の顔色万事祇園におとれり”とありますので、遊女に古式豊に遊芸をさせ、それを楽しむ等という文化は吉原では笑い話にすら成らなく、長崎の丸山や串のように中央から離れた一部の所の方に僅かに残ったのかもしれません。
744
:
膳所裏
:2011/09/04(日) 15:06:34
その4 まわしアルアル待つのが大事
さて、この串茶屋でちょっとした事件が起きたのが宝永の始めといいますから1705年頃、串に郭の認可がおりてほぼ半世紀が過ぎたあたりで、場所は茶屋街の中央辺り、かのう屋とよしだ屋の間にあった間口三間、奥行き八間、石屋根、紅格子、中二階造りの“よごの屋”でした。
*この話が収録されていたのは遊女の墓保存会が編んだ串茶屋遊女を偲ぶ(6)で筆者には池田、小柴両氏の名前があります。
この時代まで串ではまわしを取ることはご法度で、もし事が発覚すれば死罪になってもおかしくない程の重大犯罪でした。もし仮に一人の遊女に二人の馴染み客がかち合えば、遊女はより馴染みの方を選ぶ事ができ、あぶれた方は楼主を通して他の店に泊まらせるようになっていました。
その際、他の店に行く客に“お引き花”と称する屋号染めの手拭を渡す風習があり、これにより客どうしの女を取った取られたの遺恨は残らないと考えられていました。
この実話(と思われる)物語の登場人物は、よごやの女主人で先代の一人娘のおふで、今庄の荒物屋の使い走りをしていた時代によごや先代の助次に見込まれて婿養子になった弥六、よごやには、すて(28才)、よね(36)、まん(19)、おこん(27)、みつ(42)のひさぎ女と言われた遊女がいて、この話の基になる日記を残した21才のりんは三番格付けで、前部屋三帖床の間付きの六帖間で15才の飯盛り女おさいと寝起きしていました。
そしてよごやの一番格女郎すての常客で藩が設けた十飛飛脚の、25,6才の松任在住の新七という日に焼けた金払いもいい色男の新一、金沢の鷹匠町の水内左近の下回りで、季節毎、大聖寺の支藩に丁銀を届けて帰る斉木三佐という四十がらみの士分格の男、そしてみつの客でその夜居合わせた、年の項なら六十齢のご隠居で、「この無粋新参!なにをほざく」とわれがねの叱声で間一髪修羅場を収めた加賀藩横山家の従士頭、上坂何某という白髪の老人。
このよごのやの出来事の後、串に「士分の登楼のときは刀槍のたぐい下足帳場おあづけのこと、放歌高吟慎みのこと」そして「きざみ花以后お構いなきこと」つまり廻しをとっても罪にならないというお定めが支藩からのお触れで出ました。
果たして串茶屋の運命を変えたその事件とは!・・・オフ会の時プリントでお渡ししますね。(´Д`)
745
:
:2011/09/10(土) 01:59:22
ご無沙汰しております
たいへんご無沙汰しております。
最近、必要があって、2つほどレポートをまとめました。
「鳩の街 旧赤線カフェー建築の現状」
(その1:はじめに)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080000/
(その2:建物編1)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080001/
(その3:建物編2)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080002/
(その4:資料編1)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080003/
(その5:資料編2)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080004/
「欲望は電車に乗って ― 都電と赤線 ―」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160000/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160001/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160002/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160003/
いずれも未熟なものですが、ご覧いただけたら幸いに思います。
746
:
夕凪
:2011/09/25(日) 23:39:20
売春摘発第一号 (飛田の巻)
始発電車がそろそろ出るという午前4時近く、新地周辺のあちこちの家から、
首をすくめるようにして男たちが出てくる。一見して“朝帰り”とわかるその男たちを、
待ってましたとばかり、物陰から飛出してつかまえるのは、
前日から徹夜の張込みをつづけていた刑事だ。
朝帰りの客から「前夜泊まった場所」「あっせん者の人相」「相手の女の子の様子」
「支払額」などの情報をとるのだが、なかなか口を割らない男たちに対して、
強制力のない職務質問では詳しい答えを得るのことは困難で
折角の職務質問も徒労に終わることが少なくなかった。
廃業届以後は、新地の業者たちも自分の店で女に客をとらせるような
厚かましいことはさすがにしなくなった。
すべて出張売春。
この事実をつきとめるための張込みは一層困難だった。
女の出てくるのを待って、夜どおし土砂降りの雨の中を
コウモリガサに顔を隠して立ちつづけた事も再三。
こうしてキャッチ出来たのは、新地業者で相当数のものが今年になってから
阿倍野界隈の旅館を買取り、そこを根城に偽装売春を続けているという事実だ。
阿倍野付近は西成署の管轄ではない。
所轄がちがえば捜査がスムースにいかないのは当局の通弊、
これをねらったのが業者たちの作戦だが、
藤原係長ら6人の捜査本部員は2班に分かれて
新地→旅館の偽装ルートの確証をにぎった。
そして4月4日午前9時 ―― 。
阿倍野区阿倍野筋1の9●旅館「美空荘」から、しどけない格好で出てくる
2人の女を藤原係長は、連日の張込みで赤くはれた目にみとめた。
サンダルばきの2人の女は刑事に尾行されているとは知らず、小走りに道を急いだ。
行先は、果して、飛田新地内の旧特飲店「美空」だった。
2月28日で一斉に模様替えをした。
大部分の店が灯を消した中で執拗な何軒かの業者は、特飲店の看板を待合に塗り替えて
なお営業を続けた「美空」もその執拗な業者の一人だった。
「美空」の経営者は、新地の業者と一緒に廃業届は出したものの、
これまでの売春のウマイ汁が忘れられず、転業直前の2月中ころ、
阿倍野筋1丁目の旅館を買取り「美空荘」として娘に営業させていた。
ポン引が、「美空荘」に客を連れてくると、経営者の娘は「美空」に電話をかける。
「美空」から「美空荘」までは目と鼻の距離。
電話一本で、女が「美空荘」にやってくるまでは10分とかからない。
夜の大阪にはびこる偽装売春の手口は、しだいに巧妙化してゆくようだ。
1958年5月発行の新聞社系の週刊誌より
747
:
夕凪
:2011/09/26(月) 01:03:48
「まわし」 にみる 植民地的合理性
上方にまずあった公娼を、元和元年(1615年)江戸で吉原として起こすと、
各藩の城下町にもこれをまねるものが増えてきた。
そして五街道の宿場には原則として飯盛りと呼ばれる下女兼用の公娼が許可された。
関八州とよばれた関東各地も、城下町と宿場にはこうして遊女が公認されたのである。
ことに参勤交替が行なわれ、物資流通がさかんになると、
遊女の需要が増し、一方農民の零細化と貧窮が進むとその供給を増した。
ついに私娼もこれに加わって、だるま、ざるそば、草もち、牛人坊などと
関東地方で呼ばれた。江戸にまねて、けころ、よたかと呼んだ場合もある。
この伝統があったので、明治後の公娼数(大正末年調べ)も東京は5,778人に対し、
神奈川2,638人、埼玉109人、千葉259人、茨城231人、栃木773人と多数を抱え、
関東の習慣である「まわし」制により遊女の接客数は関西の2.7倍に達した。
関西の売春風俗は一応古い伝統にもとづいて仮結婚式の形を一部に取り入れているのに、
関東は全く徹底した性の商品化が行なわれ、まわし制などを行なったのは注目に値する。
これは、江戸での植民地的合理性の表れの広がったものであるが、
この習慣は関東にひろくひろがって、
三河の国を境に、東西性風俗の区別とさえなった。
1969年発行の新書より
748
:
夕凪
:2011/09/27(火) 01:08:11
売春摘発第一号 (尼崎の巻)
ここには 難波(ナニワ)新地、新天地、パーク、浮世小路、杭瀬新地など
市内数か所に赤線地帯があった。
これらはいずれも終戦時のドサクサまぎれに場所を構わず
自然発生的にできたものだが、
付近住民のゴウゴウたる非難が市や警察当局を動かし、
業者もついにたまりかねて、
数年前同市内初島、神崎の2か所に集結移転した。
しかし一部の横着な業者や、移転資金のないものがいぜん元の場所にとどまり、
青線、白線的営業を続けていた。
だから売春防止法発効の4月1日午前零時に行なわれた尼崎署の取締りは、
転業の意志を明らかにしている初島、神崎両赤線地帯の監視よりも、
むしろもぐりの多い、移転前の5新地に主力が向けられたのだが、
同夜はついに1件の違反も発見できずに終わった。
が、その日以後も当局は監視の手をゆるめなかった。
しかし県下の他都市では1件また1件と検挙の実績があがるのに、
尼崎市内だけはどういうものか1件も引っかからなかった。
ところがある日、難波新地からつい目と鼻の場所にある派出所へ、
同新地内のS子という女が「私を逃がしてほしい」と駆け込んできた。
これをきっかけとして、暴力による“ 管理売春 ”の事実が明らかになったので、
7日未明を期して正服警官を含む十数名の署員が踏み込み、経営者を逮捕、
同家に換金同様の身の上で残されていたM子ら3人の女性が助け出された。
こうして第1号の逮捕者が出たため、同市の業者に与えられた心理効果は大きく、
これで本気に転業を考えるものが増えるだろうと当局ではみている。
1958年5月発行の新聞社系の週刊誌より
749
:
夕凪
:2011/09/30(金) 22:04:51
業者の絞る知恵 (飛田編)
大阪の赤線飛田の業者はすでに周辺の阿倍野区松崎町で旅館買収、
総工費1,600万円でSホテルを建設、他に15軒ばかりが飛田資本で運営、
白線地帯がでかきあがるのではないかと見られている。
???????????????????? 1957年発行の別の新聞社系の週刊誌より
750
:
新今里X
:2011/10/01(土) 23:37:12
Sホテル?
ホテルSNWの前でおばちゃんが客を引いて女の子(もちろん熟女)が顔見世するシステムやったのは飛田の流派やったからかな。
751
:
夕凪
:2011/10/20(木) 09:40:08
ホテル三菱東京UFJ ?
記事の載ってた週刊誌にもイニシャルで「Sホテル」て書かれてます。
手許にある1963年の住宅地図で「Sホテル」を 探したんですが、
「S」と「ホテル」を信用するんやったら、場所柄からいっても
「 ホテル 鴻池・山口・三十四 」が「 Sホテル 」である
可能性が一番高いですよね。
( 記事が原因(?)で挙げられたとか無かったとして !? )
新今里さんの頃も顔見せしてたとは知らんかったです。
※住宅地図では「ホテル」が前に付いてました。
※余談 :「鴻池・山口・三十四」の合併で○○○!
阿倍野筋1丁目の「美空荘」も探したんですが
当然ながら見つかりませんでした。
また松崎町や阿倍野体育館付近で「唄子」も探したけど
こちらも残念ながら見つかりませんでした ・・・・・
752
:
T-レッド
:2011/10/22(土) 00:38:30
水中エアステーション♪
『美空』はありますが、『美空荘』が見当たりませんなぁ。
松崎町のSに関しては、ホテル『3〇』の他に、ホテル『シ〇〇』というのがアベノプールの近くにありました。
この辺りは、ホテル・旅館がかなり多かったようですね。
ちなみに、『3〇』跡の角には、(毎日ではないけど)今でも不審者が立ってますよ。
753
:
夕凪
:2011/10/03(月) 23:42:52
ポン引団と戦う青年会
赤線の灯も消えようというご時世に、
白昼堂々ポン引きが横行している街がある。
大阪市西成区飛田本通商店街界隈がそれ。
所轄西成警察署では特別巡ら隊15名と私服警官を何人か出すほか、
昨年8月からは大阪府警察本部から機動他30名の応援を得て
毎日午後2時から午前2時まで取締りに当ってきた。
ところがポン引きの方は一層組織化し、
取締りの眼をくぐって朝7時ごろから姿を現わし、
出勤者や学生まで引っぱるという悪質ぶりを発揮している。
このままでは通る人もなくなると、
たまりかねた商店連合会では、
この7月青年会を決成して街の浄化に乗り出し
「被害を受けそうなときは最寄の店へお入り下さい。お助けします。」
と通行人に呼びかける一方、
その暴行ぶりをカメラにおさめて警察へ届けるなど、
街をあげて暴力ポン引き一層に努力を続けている。
??????????????????????1957年12月発行の新聞社系グラフ紙より
●掲載写真の解説より
1.ポン引き団の手先はすべて婦女子だ
売春を勧誘すれば市条例違反、
つきまとえば軽犯罪法違反、
腕力で写真のように引っぱれば強要罪になる。
さらにこうした女を雇使し また売春させるボスは
売春防止法でまず懲役2年になる。
2.通行人が抵抗すれば見張りの用心棒がかけつけて
?? 通行人をどこかへ連れ去り金品を強奪するという。
3.私服刑事を見張るため自転車に乗った男がウロウロし
刑事を発見すると伝令に早変わりするそうだ。
4.売春防止法が発効すれば、ポン引き団のこれら手先は
同法第5条違反で6ヶ月以下の懲役になる。
5.西成署では管内を6つの警戒区に分け、
取締りにつとめた結果、この春約300人いたポン引きも
半減したが、まだまだ安全といえない。
※.大阪飛田遊廓付近の安宿はポン引き団の巣だ。
張込みの刑事は毎夜4、5人のポン引きの女を捕らえて
いるがあとを絶たない。
女たちは捕まりそうになると例外なく全力で逃げるので
女と刑事の追っかけっこが毎夜のように夜の街で展開
されている。 ※他ページの写真解説より
754
:
新今里X
:2011/10/05(水) 01:38:52
ウラ取り
昭和33年 阿倍野筋1丁目9xに「旅館美空荘」ありました。
昭和35年「旅館美空荘」のまま。
昭和37年「旅館美空荘」ではなくなり社員寮になってる。
自分の記録としては平成元年に「旅館美空荘」の北隣の近代建築らしき住宅と向かいの廃業したラブホは撮影してました。
まいどまいどのウロおぼえですが「旅館美空荘」敷地は立ち退きで建物が無かったような気がします。
「ホテル春日野」「南山荘」や「阿部野橋温泉」「錦飲食店街」「旭横丁」などは後まで残ってました。
2005年10月23日の「チャイナドレスを堪能したい!」オフ会のときに散策した一帯は、再開発の名の下に全部Q's MALLの餌食になってしまいました。
昭和33年の松崎町のSホテルですが「新大阪ホテル」というのもあったようで、のちに「新大鉄ホテル」に変わって、その後モータープールになってました。
レッドさんが指摘してくれてた「ホテル シ〇〇」は昭和40年頃から営業のようでした。
2軒のSホテル候補も含めて密集している宿泊施設の名前は「栄竹」「福久寿」「銀泉」「美山」「朝日」「三喜荘」「今一」「桃源荘」「すずらん」などなど。
話の分かる旅館(飛田直営)はどれなのかとても気になります。
ぼくが学生時代、天予備の向かいあたり遠目にオ×コみたいな楕円のネオンサインの旅館があったけどアソコはいったい…(笑)
755
:
T-レッド
:2011/10/12(水) 02:57:00
女工哀史
最近、何度か洞泉寺・K本邸にお邪魔する機会があったので、大和郡山の小話をひとつ。
やはり、この辺りの産業と遊所とは密接な関係があったようです。
大和郡山は金魚の養殖で有名ですが、他に紡績産業も盛んでした。
戦後、JR郡山駅前には大○○紡績工場があり、九州から大量の女工が働きに来ていました。
しかしその実情は、紡績工場の賃金では郷里に仕送りもできず、やむなく洞泉寺、あるいは東岡町で働く・・・
という女工も少なくなかったそうです。
洞泉寺・東岡町の両遊廓が現役の頃、婦女子は、夜の外出時には特に気を付けたとのこと。
二つの遊廓が至近距離にある大和郡山の町は、一部そんな雰囲気でした。
郡山の町も、紡績工場の存在により、発展・衰退という経緯があったようです。
また、箕山新地には検番がありましたが、新地内だけでなく
、少し離れた所にある料亭『O川』にも芸妓を派遣することが多かったそうです。
新地内では、(小)料理屋に呼ばれ、二階でドンチャン騒ぎ・・・
という遊び方でした。
※以上の話は、箕山新地(大和郡山市○○町)出身の方からお伺いしました。
756
:
夕凪
:2011/10/17(月) 02:18:02
尼崎のアオセン地帯
尼崎〜出屋敷ヤミ市地帯を構成する社会的要素として無視できないのは
アオセン*地帯(非公認の売春業者・地帯)であろう。
『尼崎の戦後史』によると、敗戦後市内に多数出没した接客婦(「パンパン」)について、
約150の業者がおり、1954年10月には中央警察署管内220業者、接客婦約1,000人とも
言われるほどに膨れ上がったという(348頁)。
Mさんによると、阪神尼崎駅から出屋敷駅にかけての地域では、
中央商店街より南、線路に沿った一画に、2階建てのこうした業者が集まっていたという。
市内のこうした業者は、昭和20年代末から、
売春防止法が制定・施行される30年代前半頃までに移転し、
新地で営業を再開するようであるが、
ヤミ市時代、こうしたアオセン地帯がこの周辺にどのような要素として存在していたのか、
客層や業者の性格などの事実を追いながら検討する必要があろう。
*ここでは当時の一般的な呼称であった「アオセン」を使用したが、
尼崎のこの周辺をアオセンと呼ぶことはあまりなかったようである。
Mさんによると、線路をはさんだ南側が寺町にあたるため
「テラマチへ行く」などと表現することはあったという。
1996年発行の地域史研究雑誌より
757
:
夕凪
:2011/10/17(月) 02:40:36
「 特飲街 」 と 竹谷派出所
戦後竹谷派出所のその北側とその東の周辺は、
パーク座などを中心とした「特飲街」と呼ばれた所で、
夜には売春婦が袖引きをしていた。
初島の遊郭を戸ノ内(神崎新地)に移した時(ママ)、
竹谷や杭瀬などの特飲街もいっしょに移した。
その時K○子議員が中心だった。
ここの派出所は「昭和29年、大洲橋派出所から分かれて開設。
特飲街の密集地。喧嘩・暴行・傷害・酔っ払いなど多い。
夜は売春婦が良民の袖を引き、うかうか夜道を歩けないといわれていた。
・・・・・ また付近には工場寮があって、給料日には、街がにぎわう」とある。
1997年発行の尼崎の戦後苦しかった時代の生活の記録集より
758
:
新今里X
:2011/11/18(金) 21:24:59
竹谷派出所の北側とその東の周辺 昭和30年代の地図より
北側というのは派出所の北の公園になってるあたりにひとつの歓楽街があったようです。
かほる・びわこ・一声・喜多八・白雪・江戸っ子・みや・千代鶴・風・二見帝・ツルカメ・琴の浦・天龍・みき
など。
その東の周辺というのはパーク飲食店街・現在のかんなみ街だと思います。
当時の屋号は、みさ家・とんねる・初の家・ピンク・朝日・小舟・水月・敷島・寿・富美家・すみれ・清美・ゆき・松の家・千代の家・しぐれ・大八・千成・衆楽など。
とんねるは現在の通称トンネルとはちがって前に果物など売っていた方の角がとんねるでした。
兵庫県警察史に掲載されている売春防止法施行当時のかんなみ街と思われる写真がありますが現在とさほど変わってないような…
あと出屋敷駅の駅前にもスタンド街があるのですが、現在は駅前の広場になっています。
759
:
新今里X
:2011/12/04(日) 23:55:19
かんなみ街の聞き書き
かんなみ街に組合があるのか疑問に思って10年ほど前に思い切って中で何度か聞いてみたことがあります。
結果としては組合というものはないということでした。
やはりあれだけの店の数で営業しているということは何らかの寄合はあると思うのですが、その辺はどこの誰だか分からないような人間に言うべきことではないのかも知れません。
以前に掲示板に書いていたこともあるかと思いますが下記が2003年頃までの聞き書きを整理したものです。
昭和25年、芝居小屋パーク座の施設としてパーク飲食店街が開業、建築されたのは昭和23年という人もいました。
開業当初から特殊飲食店であり、赤線だったそうです。(最初は許可されての開業だったのではないかと想像しています)
当時は出屋敷駅からかんなみ街付近までの間にも同様な営業をしている店が多数あっとのこと。
昭和33年の売春防止法施行以降も飲食店の建前で営業を続け、パーク座が廃業の折り土地建物を各々の店子が買い取ったそうです。
現在まで営業が継続できた一因に各店鋪の家主が違っていることもあるのではないかという話でした。
もうひとつ、●●小学校の東側、東●●町に新天地があったそうです。
ここは現在はとっくに廃業しており、普通の住宅街となっています。
760
:
夕凪
:2011/12/11(日) 15:33:04
2007年5月の活動 ― そして 12.13 (予習編?)
●5月「まちづくりひろば」のご案内 Date:2007-04-30 (Mon)
不思議の空間・飛田新地って、ほんとは何? なぜあそこにあるの?
釜ケ崎一帯とはどういう関係?釜ケ崎訪問者にどう説明したらいいの?
〜釜ケ崎の歴史見直しシリーズ続編〜
発表者:加藤政洋さん(立命館大学 文学部助教授)
5月は釜ケ崎地域に隣接する、いわゆる旧飛田遊郭を引き継ぐ
飛田新地の街についてもっときっちり基本的な視点を得るために、
これをテーマとします。
これは興味本位のものとか、勉強のための勉強とかではありません。
自分たちの地域を案内するときに
飛田地域についてはどう説明すればいいのか、
視点が定まっていないからです。
そういう実践上のニーズにこたえて、この機会をもうけました。
きちんと聞いてくれる方なら、どなたでも歓迎。
■加藤政洋さんのコメント
**************************
飛田新地誌ことはじめ
大正5(1916)年に開廓して以来、遊廓、特殊飲食店街(赤線)、
そして料亭街(?)と変遷してきた飛田新地。
この土地の歴史にはさまざまな出来事が織り込まれていますが、
90年という時間のなかで、あるいは現在の特異な風景に目を奪われて、
とかく忘れられがち、あるいは見落とされがちになっております。
今回は、飛田の来し方をたどり、基本的な事実関係を掘り起こしつつ、
地域のなかの位置づけについても考えてみたいと思います。
**************************
釜ケ崎のまち再生フォーラムのHPより(一部略)
761
:
新今里X
:2011/12/19(月) 18:42:52
2011年12月13日 釜ヶ崎のまち再生フォーラム 報告
当日都合よく参加できましたので、ほんまに簡単ですみませんが報告しておきます。
釜ヶ崎のまち再生フォーラム
定例「まちづくりひろば」
飛田の語り方を考える・その(2)
〜話題の新刊『さいごの色街 飛田』の著者をお招きして〜
ゲストスピーカー:井上理津子さん(フリー・ライター)
まったく混み具合がわからなかったので少し早めに到着。
開始直前には30〜40名で部屋がいっぱいでした。
参加者の自己紹介などあったようですが20分ほど抜けていたのでぼくの方ではどんな方々がいたのか不明。
以前に立命館大学の加藤政洋教授がゲストのとき、釜ヶ崎と飛田新地はセットに思われているが実際は別のものという話がありましたと前置き。
それから『さいごの色街 飛田』著者の井上理津子さんの紹介。
続いて井上理津子さんが語る出版されるまでの経緯・裏話。
興味を持つきっかけ
取材の糸口と試行錯誤
プロセス・ジャーナリズム
飛田新地での出会い
取材内容の虚実
書ける事と書けない事
新地組合への取材
警察への取材
某自由業の方への取材
ある経営者の思い
取材の終わりと出版
新地組合への報告…などなど
参加者からの質問や意見交換
新地の女の子の表情
相撲協会
新地に勤める事情…などなど
著書へのサイン会、並行して部屋の片付け。
散会後、三丁目百番で二次会 (都合により不参加)
忘れてる事もあるかと思いますが大体こういった流れでした。
762
:
遊楽
:2011/12/20(火) 12:47:23
東遊郭(×)⇒東新地(〇)
北浜に…とお尋ねしたのは、性格同様あまりにも雑把ですみません。
場所が場所だけに岡場所と推測するには失礼だし、高麗橋辺りの旦那衆が
「新町」まで歩いて行くとすると直線距離でも十丁以上はあると思います。
「酔うて、そこまで行くのしんどいなぁ」なんて感じで、こじんまりとした
花街もしくは遊興街として存在したんじゃないのかな?と勝手に推察して
いるのですがσ(^^;)、淡路町「御霊神社」付近という事で情報の方どうぞ、
よろしくお願いいたしますm(_ _)m
※今里Xさん、その節はありがとうございます。カメラはやはりあの方向で
購入を決めました(^_^)v
763
:
新今里X
:2011/12/20(火) 13:23:01
(無題)
南地から分裂したとこでもないですか?
764
:
遊楽
:2011/12/20(火) 13:57:16
南地六花街(!?)
飛び地にしてはちょっと遠いですものね…どこかの文献でもなく、
ネットで探してもやはり東新町といえば名古屋…○| ̄|_
昔、老松町界隈の古老にお聞きした話をノートに控えてあった
覚書程度のものなので、やっぱり私の聴き損じでしょうかねぇ(^^;)
お騒がせして申し訳ありません。もし、なんらかの関連情報が
ございましたら…ということで結構ですのでまたご教授よろしく
お願いいたします。
765
:
新今里X
:2011/12/31(土) 03:11:25
(無題)
南地から独立してその地域で営業してたらしいということは知ってますが何も調べてませんのでぼくの方では詳細は不明です。
あの辺りには古い店も何軒かありますので、一度聞いてみたらどうでしょうか?
並行して図書館で調査するなど、掲示板で聞くより楽しみが多いかと思いますよ。
766
:
新今里X
:2011/12/31(土) 03:18:44
○○○人もビックリ
最近××機能が危機的状況に陥ってる新今里Xです。
それはさておき、以前より調査中の松島新地の老舗料亭について報告させてください。
お年寄りから若い人までこの名前を聞けば松島新地が頭に浮かぶという料亭「■■▼ー▼」
はじめて足を踏み入れた●十年前にはもう印象的な名前の看板があったように思います。
しかし遠い記憶なので定かではありません。
それが気になって調べてみると昭和20年代には「■■▼ー▼1」と「■■▼ー▼2」が松島新地で営業していたようで「2」の方は喫茶店だったそうです。
古い地図などから推定すると現店舗は50年以上前からあの路地の角地で営業していたようです。
同新地では他にも数軒は同じ場所で50年以上続いてる老舗料亭があり、中には移転しながら続いてる店もあります。
特に料亭「■■▼ー▼」を調べていたのは昭和20年代にしたらちょっと先取りしたようなかっこいい店名だったからです。
なんだか南欧の響きがする名前なので料亭ではなくイタリア料理の店でもいけるかも…と思います(笑)。
特に語学が苦手だった自分としてはインターネットの翻訳をヤリマクルしか能がないので、いろんな言語を当てはめてみました。
イタリア・スペイン・ポルトガル語などは意外としっくりくる翻訳がありませんでした。
ロシア語では「コームナタ(部屋)」という単語もありましたがやはり店名としたら違和感があります。
もちろんスッキリするために以前から×ろ×ろと調査を進めてもいました。
その結果分かってきたことは、言い伝えによればインドの言葉で「癒しの家」「憩いの場所」などと言う意味を持つこと。
戦後の松島新地復興当時から営業していたのではないかということ。
某風俗BBSの書き込みに「宮殿」や「城」という訳を書いてる方がいるようですが、あれは違うはずですと証言もありました。
ウラ取りということで、ときどき立ち寄るインド料理の店の店員さんに「■■▼ー▼」という言葉がインドに無いか聞いてみたところまったく「???」という感じでした。
しかしまぁインドで使われてる多数の言語の中にうずもれているのかも知れません…
戦後南方より復員された方も多いのでインドはインドでもインドネシア語という可能性もあるかもと思ったりもします。
残×感のある報告ですみませんが、何か分かることがあればご意見いただければありがたいです。
肝心の店名が伏字なのはご迷惑がかからないようにとの配慮ですのでお察しください。(もちろん読めますよね)
767
:
夕凪
:2011/12/31(土) 12:38:44
カフエ指定街の誕生:長野新地
●カフエを集めて長野新地
南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。
場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。
町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工
こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。
現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。
1933年4月の大阪※日新聞より
768
:
夕凪
:2012/01/10(火) 06:37:22
長野温泉郷の誕生:長野新地
●河内長野に? 温泉郷 ?
??河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
付近一体の温泉開発を計画していたが、
このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。
近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。
この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
明治の末から大正にかけ、
同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。
その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)
将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。
1961年3月の※日新聞より
769
:
夕凪
:2012/01/10(火) 07:21:43
料理旅館業についての御願い:長野新地
●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)
(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
最近 旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。
両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。
かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
その営業内容が証明されるのであります。
特に最近においては町名も公園通りと変更し
その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。
(申請年月不明)
※今年末年始にかけての河内長野に関する一連の書込は
某郷土史研究会の資料からの引用です。
(=新聞記事等は孫引きになります。)
770
:
夕凪
:2012/01/20(金) 01:46:50
長野温泉と長野新地
●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。
温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、
南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。
●長野新地の生まれたのはS・8年都市計画法ににもとづくもので、
用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。
当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
花見時や松茸狩時の非常時体制300〜400人であった。
その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、
長野温泉として脚光を浴びたのは
S・38〜40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
当時は観光ブームもあって隆盛っをきわめた。
1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋
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