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Japanese Medieval History and Literature
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快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
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なまえ
>筆綾丸さん
おひさしぶりです。
>門
諱としては確かに珍しいですね。
ちょっと思い浮かんだかぎりですが、『三代実録』の時代に藤原門宗という人がおりました。
呪術的な要素は特段感じられない、ごくふつーの四位官人さんでしたが。
あとは後世になりますが、戦国時代の筑後に筑紫広門という武将がおりましたっけ。
この人の先代もたしか「惟門」といって、もしかすると「門」が通字だったのかもしれません。
遠い昔の先人からいただいた「門」かどうかは、さだかではありませぬ。
同時代に活躍した藤原純友の場合も蔑称らしき匂いは感じにくいですね。
蔑称自体は称徳女帝が愛用していたこともあり、歴史の古さを覚えますが。
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筆綾丸様へ
>筆綾丸様
レスが遅くなりましてすみませんでした。お尋ねの件ですが、私が紹介いたしました。
新井敦史著『下野国黒羽藩主大関氏と史料保存』78頁〜84頁に所収されていましたので、お知らせいたします。
それによりますと、領地目録とともに、江戸幕府将軍から領地朱印状というものが発行されます。以下は新井氏の文章を引用いたします。
「領地朱印状は、江戸幕府将軍が各大名に対して、従来の所領を引き続いて領有・支配することを承認する公文書であり、領地目録は、各大名が領有・支配する村々を書き上げた目録である。領地朱印状(石高十万石以上及び従4位下・侍従より上の大名へは領地判物)は、寛文4年(1664)4月5日付けで4代将軍徳川家綱から諸大名に発給され、同日付で領地目録も、御朱印奉行の連署をもって発給された。以後、将軍の代替わりごとに諸大名への所領確認がなされ、新将軍名の領地朱印状と領地目録がセットで発給されていくこととなった。領地朱印状の料紙には楮紙系統の上質紙である檀紙が使用され、領地目録の料紙は斐紙(雁皮紙がんびし)系統の間似合紙(まにあいし)が使用された。(これは、日本歴史学会編「概説古文書学近世編」1989年を参照したそうです。)
黒羽藩主大関氏宛ての領地朱印状と領地目録は、5代藩主大関主馬(増栄 ますなが)が受給した寛文四年4月5日付けのものから、13代藩主大関信濃守(増昭 ますあきら)が安政2年(1855)3月5日付けのものまで、計十組伝存しており、本高18000石の領地について公認されてきたのである。領有・支配する村については、江戸時代を通じて若干の変化が見られるが、本高は、明治維新まで変わることはなかった。
なお、領地朱印状の「上聞」・「御朱印」・「仰付」という文言の前に一字分の空白部分があるのは、闕字といって、その次の文言(「上聞」・「御朱印」・「仰付」)の主体、すなわち将軍徳川家綱に対する署判者(小笠原長頼・永井尚庸なおつね)の敬意を意味している。」としていまして、
小笠原・永井は御朱印奉行という役職のようです。
遅くなってすみませんでした。以上お知らせいたします。
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風と雲と虹と 主題歌(加藤剛 歌)
いろいろ検索しておりましたら、↓見つけてしまいました。
「風と雲と虹と」主題歌に、歌詞があったのですね。
http://video.1st-game.net/youtube/v_78fbJ15xRYI.html
何しろ、将門に関する知識は、「風と雲と虹と」が放送されていた頃、海音寺潮五郎さんの小説を読んだのと、赤城宗徳著(注)の「平将門」読んだのと、この当時地元の郷土史家の講演を聴きに行って得たもので、殆ど止まっております。
>平良文
それで、とりあえず、ネットで検索したところ、平将門の乱のとき、良文は鎮守府将軍として陸奥に赴任中で、関わらなかったような書き方をしていますね。一方では、裏で支持していたようなものもあり。ちょっとした成果は、藤沢市の北部にあります「御所見」という地名の由来が分かった点です。平高望の先祖「葛原親王」の御所に由来するようですね。
http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/gosyomi/gosyomi.htm
(注)赤城宗徳さんは、今年農林大臣になり、すぐに辞めさせられてしまった赤城徳彦さんのお爺さんです。国会議員でありながら、郷土史の研究していたようです。(恐らく国会議員になる前に地元にいたときに執筆されたものでしょうが)
>亜季多幸孝さま
>武蔵国村岡
適切なフォローありがとうございました。投稿文の中で触れるべきでした。
>むらじさま
>「風と雲と虹と」(完全版)
おー、買われましたか。その投稿私です。なかなか見るのも大変ですね。
>釈さま
>この「村岡」を苗字と考えれば、武士の苗字の、ひじょーに早い例
なるほど、ありがとうございました。
>筆綾丸さま
>奉書
興味深く拝見いたしました。
>浪漫派さま
何となく、釈さまと会話がかみ合っていないのは、浪漫派さまが、鈴木小太郎さんのサイトから来られて、この掲示板をその掲示板と思われているからではないでしょうか。
この掲示板は、日本中世史アーカイブスの掲示板でもあり、管理人さんは、「釈由美子が好き」さまと、「鈴木小太郎」さまと2人いらっしゃるんです。恐らく浪漫派さまは、小太郎さんに呼びかけているのですよね。小太郎様は、きっと今勉強モードなのではないでしょうか。
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バタフライ効果
相国入道さま
御丁寧に、痛み入ります。とてもよくわかりました。
此儀両人奉行依被(闕字)仰付執達如件、なる文言から察するに、御朱印奉行と
いうのは、常置職というより、奏者番のうち、特に二人に命じた臨時職という感じ
がしますね。
黒羽藩と福岡藩を分けるのは、十万石の壁ですね。十万石未満で従四下侍従とい
えば概ね老中で、この場合は、御判物奉行、ということになりますか。
奏者番は譜代大名がなるので、小笠原長頼と永井尚庸は大名ということになりま
すが、前者を甲、後者を乙としますと、甲または乙にくだす領地目録は、奉行を
どうしたのでしょうね。
甲乙両名のままとすると、甲乙→甲、甲乙→乙となり、双方代理的な法律行為に
なる。甲乙→乙の場合は甲→乙へ、甲乙→甲の場合は乙→甲へ、執達されたもの
とみなすとすれば、連署といういわば連帯責任の所在が不明となり、法的な瑕疵
が発生するといえなくはない。したがって、甲乙にくだす領地目録に限り、甲乙
とは別の二人を御朱印奉行に命じれば、このような瑕疵を回避できる。小笠原長頼
と永井尚庸への領地目録が残っていれば、事情がわかって面白いのですけれども。
将軍の代替りのとき、禁裏料(たしか一万石前後)については、どのような領地
目録が作成されたのでしょうね。
幕府御用達日本橋越前屋紙納入→納戸口→小者→書院番→奏者番→老中内覧→
将軍御朱印並花押→奏者番→書院番→小者→納戸口→継飛脚→同心→与力→
京都所司代→武家伝奏→関白→典侍→逆鱗→払下げ→典侍→掌侍→女嬬→納戸口
→小者→禁裏御用達四条烏丸雁金屋漉返し→四畳半金泥屏風の裏貼り→島原吉野
太夫・・・バタフライ効果のような、こんなこと、よもやあるまいが(笑)、
文書の形式がわからないですね。
http://www.bashouan.com/pbPhoto_bk5.htm
http://www.bashouan.com/pbKurobane_ds.htm
芭蕉庵桃青の接待役、黒羽藩家老浄法寺桃雪の知行高は、五百石前後かしら。
むらじさん
藤原門宗という人が既にいたのですか。私の妄想は空中分解しました。
NAO4@吟遊詩人さま
御所見は面白いですね。
浪漫派さん
独逸浪漫派、ロマン派音楽、ロマン派絵画・・・と色々ありますが、浪漫派さんの仰る
のは、日本浪漫派と解してよろしいでしょうか。
以前、大津の義仲寺を訪ねたとき、保田與重郎の墓があり、非常に驚いたものでした。
保田は義仲の同行になったのか、と。
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こちらこそ
>筆綾丸様
こちらこそ、ご丁寧なレスありがとうございます。近世の古文書様式については、まだまだ解明されていない点がたくさんあります。新井氏の著書もその点を、大関氏の視点から見た意欲作です。これから徐々に解明されていくはずです。
>NAO4@吟遊詩人さま
「風と雲と虹と」私も見ていた一人です。関東のことを扱うということで興味深く見ていました。この番組でちょっと逸話があります。この作品に下野国府が登場するのですが、たまたま、この番組を見ていた、当時の栃木県教育長が、下野国府はどこにあるのだということになりまして、発掘調査がはじまったという、文化不毛の県といわれた栃木県では珍しい事例がありました。下野国府は、開発される前でしたので国史跡として残ることが出来ました。
また、書き込みにありました、平将門を演じた加藤剛さんが歌った主題歌は、番組では一度も演奏されなかった記憶があります。
一度「スター千一夜」という番組で、加藤さんが生で歌ったのをみています。歌った後で、加藤さんのお話で、奥さんから「もうやめて」といわれたということを覚えています。
「風と雲と虹と」の演じていた人たちを紹介します。
平将門・・・加藤剛 藤原純友・・・緒方拳 藤原秀郷・・・露口茂
平貞盛・・・山口崇 平良将(将門の父)・・・小林桂樹
平国香(貞盛の父)・・・佐野浅夫 平良兼(将門の叔父で将門の妻の父)・・・長門勇
平良文(将門の叔父)・・・渡辺文雄 平良正(将門の叔父)・・・蟹江敬三
藤原忠平・・・仲谷昇 武蔵武芝・・・宮口精二 興世王・・・米倉斉加年
源経基・・・菅野菜保之 源護・・・西村晃 源扶(源護の長男)・・・峰岸徹
鹿島玄道・・・宍戸錠 鹿島玄明・・・草刈正雄 良子(実名は不詳なのだそうですが将門
の妻)・・・真野響子(このかたは、「風林火山」で諏訪御料人を演じた柴本幸さんのお母
さんです) 桔梗・・・森昌子 という方が演じていました。
この番組で、関東にもすごい歴史があるんだなと改めて確認したのを覚えています。
赤城宗徳氏の『平将門』は、国会議員在職中に執筆したものです。赤城氏も、平将門が正統な評価をされるようにということで執筆されたようです。それにしても忙しい中でこれほどの文章を書かれたのには、本当に敬服します。
>平良文
番組では、平良文の所領は武蔵村岡と放送していた記憶がありますが、多説がありますので、どこが正しいというのは、まだまだ検討する余地はありますね。
>釈由美子さんが好きさん
『尊卑分脈』では、平将門の父は良将となっているのですが、『将門記』では、良持となっていますね。どちらが正しいのか『尊卑分脈』と『将門記』もう一度検討し直す必要がありそうですね。
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筆綾丸さま
遅い返答となりますが、
> このドスの効いた恫喝
こんな話があります。
余談になりますが、ちょっと申し上げます。鯨波(【振假名】トキノ)屏風と申しまして、神泉苑(【振假名】シゼンヱン)にありました。私もズッと以前神泉苑で見ました。これは後水尾院樣の御代のことです。御承知の通り中宮樣は東福門院和子、則ち徳川將軍秀忠公の御女でござります。其の時朝廷から徳川家へ金屏風を一双拵へるやうにとの御命が下りました。ところが急に差上げなかったと見えまして、度々の御催促です。それで遂に献ったのが、彼の鯨波屏風です。これは探幽の筆で、安徳天皇様が壇浦で御入水遊ばす図でござります。則ち徳川家では、朝廷に於て、かれこれ仰(【振假名】オッ)しゃるなら、こんなめに逢はせまするぞといふ意味ですなァ。サー後水尾院様大層御立腹で、早速勅によって神泉苑へ御寄付になりました。ところが神泉苑も明治になりましてから一時廃寺同様になりましたので、東寺へ持って行ったと聞いて居ります。只今でも東寺にござりませう。
下橋敬長談『維新以前年中行事』(上野竹次郎編)「御修法結日」(平井誠二「下橋敬長談「年中行事」 ─ 翻刻と解題 ─」(『藝林』第五十四巻第二号、平成十七年十月)133頁)
> 伊勢海老物語
> 閉門蟄居
嗚呼、赤福を喰することができるのは、何時のことか...
釈さま
釈さまにはタイヘンな状況であったようでございますが、私めは、今、冗談にもならない状況となっております。どのようなことか口外できませんが...
それはさておき、既に御周知のことと存じますが、『將門略記』には、
三世高望王 ── 鎭守府將軍平朝臣良持 ── 將門
とあり、また、平良正も『尊卑文脈』では將門のオジではなくイトコとなっておりますので、平高望の諸子に関する『尊卑分脈』の記載は不正確のようですね。時間があれば、いろいろと書くことはあるのですが、釈さま同様、余裕がありませんので...
むらじさま
お久しうございます。
> 門
勸修寺流の祖、藤原良門もおりますね。他の兄弟と比べて目立たない人ですが。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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短レス。
>おのおの方
管理人業務、怠慢で、すいませんです。
>NAO4@吟遊詩人さん
管理人代行みたいになっちゃってて、すいません。
ありがとうございます。
>筆綾丸さん・むらじさん
すでに亀レス気味ですが、源頼朝の弟に「義門」てのもいますですな。
>むらじさん・NAO4@吟遊詩人さん・相国入道さん
>「風と雲と虹と」
何度聞いても懐かしいテーマ曲ですよねェ〜♪
大河と言えば、まず、これが浮かびます。
>阿哈馬江さん
>『尊卑分脈』の記載は不正確のようですね。
そーなんすよ。三浦なんか、2ヶ所に出て来て、メチャクチャです。
>今、冗談にもならない状況となっております。
>どのようなことか口外できませんが...
具体的には、わかりませんが、どうぞご自愛ください。
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下野国府ですか。
>相国入道さま
>下野国府
「風と雲と虹と」が放送されていたのが、1976年で、下野国府の発掘が1979年↓とありますから、まさしくそうなのでしょうね。それにしても、突然思い立つ教育長は笑えます。
http://www.city.tochigi.tochigi.jp/hp/menu000002000/hpg000001843.htm
場所は、やはり(最初に県庁所在地になった)栃木市なのですね。
いつか、国府跡寄らせていただきます。
>赤城宗徳氏の『平将門』は、国会議員在職中に執筆したものです。
そうでしたか。どうもありがとうございました。
>釈さま
>管理人代行みたいになっちゃってて、すいません。
意識して、そうしているわけではないので、お気遣いなく。
>筆綾丸さま
>御所見
実は、藤沢市には、「葛原」という地名もあるんです。
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平親王
中世の掲示板なのに、平将門の話題となると転がりますね。
>相国入道さま
下野が文化不毛の地とは存じませんでした。
俵藤太以来魅力的な人物を輩出した土地ですよね。
(道鏡以来、と書くといささかさわりがあるかもですが 笑)
(あっ、円仁ならば、問題ないですよね?)
>良子
海音寺潮五郎の原作でもこの名前ですが、名前の由来は父親の良兼からきているのでしょうか。
案外、後世の創作で登場する将門の忘れ形見である良門の名前からヒントを得たものでは?と勝手に憶測しております。
良兼の娘というのも『将門記』の冒頭部分で将門と良兼が「女論」で対立を深めたという記述からそれと推定しているようでして、話題の『尊卑文脈』にも良兼女は出ていなかったように思います。
時がたってしまうと、なにもかもがわからなくなっていくんですね。
>NAO4@吟遊詩人さま
>完全版
そーでした、そーでした。
あれ以来気になっていたんですよ。
>阿哈馬江さま
こちらこそ、ごぶさたしていました。
>良門
おっとと・・・私としたことが。(^^ゞ
最近不勉強なのが、そこはかとなくにじみ出てしまいました。(^^ゞ
良門は内舎人という低い官位で終わった人で、『三代実録』でもほとんど触れられていない人ですよね(もしかしたら皆無かも)。
将門は「平親王」と号したという言い伝えがあるようですが、やや後世に大志を抱き「最勝親王」と名乗った人物のことをフト思い出したりもいたします。
東国という土地は、変革を呼ぶ地と認識されていたものでしょうか。
それとも「化外の地」とされていた未知性が、フロンティア幻想につながったのでしょうか。
>釈さん
>義門
そーでした。そーでした。
「門」の人、探すとけっこういるんですよねぇ。
出勤前のひととき、思いつくことをつれづれに記してみました。
それにしても、外・・・寒そうだなぁ・・・
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将門の叔父たち
>むらじさま
>良子
「良」を共有する叔父たちと将門をつなぐ存在というのはどうでしょう。
しかし良兼の子はみな「公」を持つので、公子のようが命名法としては筋が通るような気が。
架空の名前だし別にいいのですが。
将門記に良兼・将門の間を舅甥と書いた箇所があることから
婚姻関係があると推定する本などが多いように見えますが、
婿でなく甥と書いてあるから一族内の序列を示してる可能性もあるのでは、と思います。
その場合もっとも年長の国香をさしおいて良兼との関係を書いている理由はよくわかりませんが。
その国香は
http://www.geocities.jp/renge4249/takamochishisoku/takamochishisoku.htm
こちらを見ると良持とかの名前で書かれた例があるようです
ほかにもヨシモチ名の人物がいたのか誤記なのか、やたら名前があってわけわかりません。
タカモチの子で最も栄えたものがその都度ヨシモチを名乗ったのとか?
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お知らせ
はじめまして、の方々が多いかと思います。
現在葛飾区郷土と天文の博物館で「特別展 関東戦乱〜戦国を駆け抜けた葛西城〜」を開催中です。特別展関連企画としてシンポジウムを開催します。
申込締切が近くなったので、再掲させていただきます。
??????シンポジウム 「葛西城と古河公方足利義氏」
シンポジウムでは、今回の展示によって抽出された諸問題や展示の内容をより深く討議し、広く区民を対象に葛西城や葛西地域の戦国時代における歴史的な位置付けを試みます。
??????■開催日 12月1日(土曜日)・12月2日(日曜日)
??????■内容
??????第一部 12月1日(土曜日)13時〜17時
??????記念講演「古河公方足利義氏と東国」佐藤博信氏(千葉大学)
??????報告1 「葛西時代の足利義氏」長塚孝氏(馬の博物館)
??????報告2 「小田原北条氏と古河公方」黒田基樹氏(駒澤大学)
??????報告3 「足利義氏の元服」平野明夫氏(國學院大學)
??????第二部 12月2日(日曜日)10時〜15時20分
??????記念講演「葛西城と戦国考古学」小野正敏氏(国立歴史民俗博物館)
??????報告1 「小田原北条氏と葛西城」谷口榮(当館学芸員)
??????報告2 「武蔵における戦国前期の武士勢力とカワラケ」田中信氏(川越市教育委員会)
??????報告3 「小田原北条氏のカワラケと漆器」佐々木健策氏(小田原市教育委員会)
??????第三部 12月2日(日曜日)15時20分〜16時50分
??????全体討議(講演・報告者参加)
??????■会場 講堂
??????■費用 1,000円
??????■定員 100人
??????■申し込み 往復ハガキに、『葛西城シンポジウム』、参加される方全員の氏名、年齢、住所、電話番号を書いて、11月21日(必着)まで。多数抽選。電子申請でもお申し込みいただけます。
詳細は下記をごらんください。
http://www.city.katsushika.lg.jp/museum/ev-tenji.html
図録に付属しているCD−ROMには、中世前期・後期及び本土寺過去帳の葛飾郡に関わる史料がデータベースとしておさめられています。
話の流れを切ってしまってスミマセン。
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つれづれ。
しばらくお休み中だった「クイズ・ここはどこ」、井上が乱入して出題しています。気が向いたら覗いてみてください。
>NAO@吟遊詩人さま
ちょっと亀レスになってしまいましたが「御所見」の地名の由来の紹介、実は昔の職場だったので(笑)興味深く読みました。
「こんないな(ry で『御所』ってなんだろう」と疑問に思いつつそのままにしていましたが、由緒ある土地だったのですね。
>古高家の一族さま
特別展自体ももちろんですが、どうしても行けない方には図録とCD−ROMだけでも必見の出来ですね。
お世話になっている知人(笑)に図録を進呈したら「『葛西城の発掘資料は持っていたがこうして図録にまとまってみると見やすくてよい」と好評でした。
シンポジウムもぜひ参加したいと思います。申し込んでいるけど、当選するといいな。
そして突然私信失礼します>むらじさま
先日メールをお送りしました。届いておりますでしょうか。
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龍
釈由美子が好きさん
義門をググりましたら、小太郎さんのページがでました。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yugimonin-to-sonoshuhen.htm
阿哈馬江さま
下橋敬長の談話、面白いですねえ。
波の底にも都の候ぞ・・・。
『禁秘抄』のシニフィエを何故理解できぬ、とこんどは絵で恫喝し、後水尾は、
百も承知とばかりに、神泉苑の龍にくれてやった訳ですね。
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門の付く人。
「クイズ・ここはどこ」、 ↓ で井上さんが書いてくだすってる如く、再開してますんで、よろしゅうに♪
>筆綾丸さん
「門」が名前に付く人、探すと、それなりにいますけど、将門がちょー!!! 有名な反逆者なので、イヤがる人もいたかもしれまへんねェ。
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将門とか
>平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー
↑帰省したついでに行って参りました。何しろ小さな歴史民俗資料館なので、展示スペースは狭く、こじんまりとやっております。八千代町内もしくは、近隣の市町村の方々、たまたまこの地方を通りかかった方々で、将門が好きな方は、お寄りください。将門とこの地方の関係がよく分かります。
遠方の方々、わざわざお越しになるほどではないと思います。町内・県内の遺跡のパネル写真、出土物(瓦、陶器片、鉄製品)、江戸時代の文書などが展示されておりました。地元の方が見れば、ここがそうか、あそこがそうかと楽しめるのですが、遠方の方々が来られたら、労力の割には、がっかりするんじゃないだろうかと思います。
私としましては、結城廃寺跡の出土物(「法成寺」と記載の瓦など)に興味がいきました。また、仁江戸(注)という集落と将門の関係がより鮮明に分かって、良かったです。
(注)「仁江戸」は、「にえど」と読みます。「『仁』+『江戸』だ」とか言って、小学校の時に自慢していた友人がおりましたが、名の起こりは知りません。古くからあった集落で、「風と雲と虹と」で森昌子が演じておりました桔梗姫の伝説がございます。
この集落は、鬼怒川をはさんで、将門の生誕地「鎌輪」と隣接しており、この位置関係を今頃になって気がついた次第です。面白いと思ったのは、この地に「五所神社」というのがございまして、「五所(御所)神社」とパネルに書かれており、なるほどなあと思ったわけです。因みに、以前ご紹介しました平良文と関わりのあるとされる下総国「村岡」は、仁江戸集落と接しております。
>井上渉子さま
>御所見
反応してくださると思っておりました。藤沢市では開発が遅れた地区ですが、私は好きなんですよね。近世以前をイメージするのに。(すいません。馬鹿にしてるわけではありません。本当に好きなんですよ。)
それで、よくよく考えると、相模国府は最初は高座郡(国分寺が海老名市、一宮が寒川町にありますので)とのことで、御所見地区って国府に近く、平安時代には結構開けていたんじゃなかろうかと想像してしまうわけです。
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最勝親王
>NAO4@吟遊詩人さん
秋は、展示の季節ですが、今年は特に豊作なようですなァ。
>「五所(御所)神社」
新皇の御所があったつーことなんでしょか?
>信楽さん
>婿でなく甥と書いてあるから一族内の序列を示してる可能性もあるのでは、
養父子関係とか、婚姻関係とか、猶子とか、ホントの血縁関係とは別の関係が系図に影響してる可能性が、確かにありますので、むつかしいですよねェ。
>むらじさん
>やや後世に大志を抱き「最勝親王」と名乗った人物
以仁王ですよねェ〜♪
バラまいた令旨の結果を見ることなく、将門よりも、とっとと負けちゃいましたが。
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桜川市の中世史料展
故郷八千代町の歴史民俗資料館で、桜川市(旧真壁町)の企画展の広告を見つけました。
中世がお好きな皆様には、興味があるのではないでしょうか。
中世文書の他に、真壁城発掘調査現地説明会や、小田城跡の説明会もあるそうです。
>釈さま
中世にのめりこんで、半年ほどになりますでしょうか。イベント情報が入ってくるので、楽しんでおります。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003839.jpg
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百聞は一見にしかず
>NAO4@吟遊詩人さま
「平将門の生きた時代」行かれたのですね。まだ私は、おうかがいしていなのですが、行ってみる価値はありそうですね。それは、実際に行ってみますと、見学してよかったということがよくあります。
例えば、『風林火山』の武田信玄の館跡の武田神社は、わが地元の栃木県足利市の足利氏館跡の鑁阿寺みたく、平地に建っているものとばっかり思っていましたら、実際は高台建っていたということがわかりまして、百聞は一見にしかずだなという典型的な例を見ました。
実際企画展を見てみて、それぞれの人がどのように感じるかということが重要ではないでしょうか。近々行ってみて確かめてみたくなりました。
>下野国府
下野国府では、NAO4@吟遊詩人様にフォローしていただきありがとうございました。本来は、私が栃木市にあるとお伝えしなければならないところ、説明が不足してしまいましてすみませんでした。下野国府の所在地は、栃木市といいましても、現在の町の中心地からは大きく外れているところにあります。それこそ自家用車で行かないと見学できないところにありますので(それがかえって残った原因でもあるのですが)、よろしくお願いいたします。
それから、中世史で八千代町や隣の下妻市を支配していたのは、結城氏の家臣でありました多賀谷氏です。
届いたばかり文献ですが、『常総の歴史』第36号に「下妻の戦国武将多賀谷氏について」佐久間秀樹氏 という論文が収載されていました。
佐久間秀樹氏は、下妻市ふるさと博物館の学芸係長の方です。
『常総の歴史』第36号の定価は1100円です。
購入先は、崙書房茨城営業所
〒315−0014 茨城県石岡市国府4−6−5
電話・FAX0299−24−0595です。
>文献のお知らせ。
崙書房では、下記の新刊書が刊行されました。
千野原靖方著 『常総内海の中世』地域権力と水運の展開です。
印旛沼・手賀沼から霞ヶ浦・北浦・利根川の下流域は、古代・中世には太平洋に湾口を開いた大きな内海であった。平安末から戦国時代にかけての常総内海を中心に繰り広げられてきた水運の実態、当水域支配の様相を考察(本の出版宣伝を一部紹介)。
永年里見氏・千葉氏を考察してきた著者が、常総の水運史を本格的に考察したもので、是非一読をお勧めしたいです。
定価は3800円です。
購入先は崙書房本社 千葉県流山市流山2−296−5 ?04−7158−0035です。
>むらじさま
平将門の乱の話題を出したのはこの私です。八千代町で開催されている。『平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー』の企画展を紹介した折に、「平将門の乱から中世史をみる必要があると唱えている学者の方がいます。」ということ書き込んだことから、このような広がりがおきました。
後、わが県は文化不毛の地といわれまくられて、いつもいつも悔しい思いしています。
たまに、文化的なことを行ったと思えば、宇都宮城には、わけのわからない櫓の復元をしてみたり、昨年本当にあったのですが、県議会議員の質問で、県立図書館の予算が減らされているので、増額してほしいとの要望に対し、栃木県教育長は「県立図書館には今までにたくさんの、蔵書を購入したのだから、いまさら増額する必要はない」という開いた口がふさがらないような回答をしている始末です。
いつになったら、文化不毛の地といわれなくなるのか、お先真っ暗です。
>井上渉子様
足利成氏のファンとのこと、一通、足利成氏の文書が検討を要すから復活した文書がありますのでお知らせいたします。『戦国遺文古河公方編』第272号文書です。全文を掲出いたします。
「就当社怪異注進、巨細御披見候、佳例之由申上候、目出候、
就之弥祈念可然候、謹言、
八月十四日 成氏(花押)
鷲宮神主殿 」
『戦国遺文』では、佳例が徳例となっていること、写本の悪さから検討を要すと記してたのですと、佐藤博信先生は述べておられたのですが、実は栃木県の足利市から、双鉤填墨(そうこうてんぼく ふたえ文字でに書き写すもの。かごうつしともいって輪郭のなかを墨でうずめるもの)写しが出てきまして、この文書は検討を要する文書ではないということが確認されました。
詳しくは、『松龍史談』第7号 菊地卓氏 「下野国一社・八幡宮から発見された「足利成氏書状写」について」で述べられています。
意味は、栃木県立博物館の荒川善夫氏から示教されたそうでそれを公開しますと「当社(鷲宮神社)で不思議な奇端があったとの注進があったが、手紙を披見しました。このような奇端はめでたいことが起こる前兆だと鷲宮神社が申し上げてきたが、自分にとってもめでたいことだと思います。これについてなお一層祈念していただければ幸いです」ただ、荒川氏の意味では、鷲宮神社が、足利市の一社八幡宮になっています(文書の写の宛所が擦り切れているためです)。足利市の一社八幡宮がこの文書を保存してくれたことによって、成氏の文書が復活したことで、編者の佐藤博信先生も大変喜んでおられました。
なお、『松龍史談』ですが、価格は1,000円です。
購入先は、〒326−0005 足利市大月町666 松龍山蜜蔵院
? 0284−41−7723にお問合せください。
>釈由美子さんが好きさん
先日は、中前勉の見学会があった日に横浜でお会いしたのですが、どうしてももう一つ、見学したい企画展があったため、ご一緒できずに本当に申しわけありませんでした。
その企画展は、神奈川県秦野市立桜土手古墳展示館で「鎌倉御家人の館」という企画展を開催しています。期日は平成19年9月22日(土)から11月26日(月)までです。
入館は無料です。
地元である秦野市の東田原中丸遺跡で、白いかわらけが出土したそうで、白いかわらけはどういう用途で使われたのかは解明されていないそうです。この東田原中丸遺跡は、源実朝の首塚(みしるしづか)の近くにある遺跡だそうで、なぜ実朝の首塚があるのかというと、伝承では、実朝が公暁に鶴岡八幡宮で暗殺された時に、実朝の首をこの地に収めたそうです。また、この遺跡は有力御家人の一人波多野氏の館跡ではないかとも言われているそうで、今後もこの遺跡を発掘していくそうです。
また、この資料館では次の文献も発売していました。
『秦野市史研究』第6号と第18号です。
第6号には、下山治久氏「中郡郡代大藤氏とその文書」
武俊次氏 「波多野本庄北方考」の論稿が収載されています。
大藤氏は、後北条氏の有力家臣のひとりで、下山氏はその文書の紹介分析を行っています。武氏の論稿は波多野氏の所領についての紹介をしてるものです。
第18号には「波多野氏シンポジュウム」を収載しています。
熊谷忠興氏「越前の波多野氏と永平寺について」・藤村耕市氏「波多野氏傍流の広澤・和智・江田氏について」・波多野近二氏「三河国の森下波多野氏について」・関恒久氏「相模河村・松田沼田氏について」・湯山学氏「相模武士団の中の波多野氏について」です。
第6号は昭和61年(1986)刊行で定価は700円です。第18号は平成10年(1998)に刊行で定価は800円です。
問合せは、秦野市立桜土手資料館 〒259−1304 神奈川県秦野市堀山下380−3 0463−87−5542にお願いいたします。
http://navi.city.hadano.kanagawa.jp/
今回の企画展見学は、本当に「百聞は一見にしかずの」連続でした。
長くなりましたが以上お知らせいたします。
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どうもありがとうございました。
>相国入道さま
>『常総の歴史』第36号に「下妻の戦国武将多賀谷氏について」佐久間秀樹氏
>千野原靖方著 『常総内海の中世』地域権力と水運の展開
面白そうな文献紹介いただきありがとうございます。私の通った高校が一部下妻城(多賀谷城)址内にあったこともあり、多賀谷氏には興味はあったのですが、以前は判りやすく書かれた本が無く、現在に至るもあまり知らないのが正直なところです。どうもありがとうございました。
下妻城って、平城で大した事ないと思っていたのですが、常総地方って、川や沼が多かったせいか、そういった地形を利用した水城のような城だったらしいですね。
↓のブログ、往時を連想できて、面白いです。
http://shioyatsure.seesaa.net/article/52838436.html
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今日は寝るので、
>おのおの方
すいません。レス、今度書きます。
このごろ、管理人業務怠慢で、申し訳ござんせん。
「クイズ・ココはどこ」、よろしゅう。
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すいません。
>おのおの方
私、しばらく地下潜行します。
今日も本屋さんから原稿の進捗状況確認の電話が掛かって参りまして、マジ、シャレにならなくなって来てしまいました。
ブログだけは、なんとか続けるつもりですので、すいまんせんが、よろしくお願い申し上げます。
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結城2題
結城市民文化センターアクロスでは12月2日に市民劇「結城合戦物語」を上演するそうです。http://www.mmjp.or.jp/yuki-across/
茨城県立歴史館では来年1月20日まで「信長・秀吉・家康と結城水野家」を開催します。
水野家は家康の生母伝通院の実家であり、近世では結城に1万石を領しました。天下人の文書を中心に展示します。信長の「天下布武」など、この3名の文書をまとめてみる機会はそうないと思います。ぜひお越しください。予算の関係で図録はありません。
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/
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水野家
>水戸御史太夫さま
ご無沙汰いたしております。「結城2題」ご案内ありがとうございました。
水野家というと、天保の改革の「水野忠邦」を連想してしまい、しかも墓が、結城市山川にあるので、結城藩水野家と水野忠邦を結び付けてしまうのですが、同祖とはいえ、水野忠邦の唐津藩水野家の旧領「山川藩」が、たまたま結城藩と隣接していたということなのでしょうね。
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歌舞伎
NAO4@吟遊詩人さま
幡随院長兵衛と大立回りを演じた、おおうつけのカブキ者水野十郎左衛門は、たしか、
水野日向守勝成の孫でしたね。
歌舞伎で思い出しましたが、成田山と関係の深い成田屋は将門の敵になりますから、
平将門が歌舞伎になることはあり得ず、市川団十郎が将門を演ずることは、日本史上、
永遠のタブーなのでしょうね。菅原道真くらいなら、人畜無害ですが(笑)。
釈由美子が好きさん
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0206258400
この本で、以仁王の件りを立ち読みしましたら、福原の話がありました。
福原は高麗人が風水思想に基づいて計画した都で、清盛の別荘は風水で云う明堂だ、
と。著者は、『高倉院厳島御幸記』の文言を傍証の一つにしてますが、歴史はその
ように見れば、そのように見えてしまうものだ、という好例かと思われました。
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幡随院と藤沢
>筆綾丸さま
「幡随院」と言うと、「幡随院長兵衛」を連想し、ネットでも殆ど、長兵衛が検索に引っかかりますが、元はといえば、浄土宗の幡随院の側に長兵衛が住んでいたために、こういう名前になったわけですよね。
ところで、幡随院の開基であります「幡随意」上人は、現在の藤沢市(注)の生まれでして、藤沢市善行に生誕地「幡随院」がございます。個人宅だそうなのですが、どこから見ても立派なお寺の格好をいたしておりまして、とても不思議なのです。この敷地内に、上人の産井があるそうですが、公開はされていません。最初写真を載せようと思ったのですが、個人宅なので、控えようと思います。
恐らく、↑のネタは筆綾丸さまも、藤沢に所縁のある井上さまも、ローカルすぎて知らないのではないかと思い載せて見ました。
http://press.jodo.or.jp/newspaper/1990/199002_276_4.pdf
>水野十郎左衛門
系図でどういう位置にあったのか意識していなかったのですが、改めて調べて見ると、おっしゃる通り、水野日向守勝成の孫のようです。勝成自身豪傑で、問題児だったようで、十郎左衛門は、その血を引いて泰平の世に適合できなかったのでしょうか。
>成田屋
なるほど、そういうことになりますか。
私の故郷では、将門を敬ってなのか、祟りを恐れてなのか、成田山に参拝しないという家が結構あるそうです。
(注)「藤沢」というより、かつては、藤沢近郊の「相模国善行寺村」なのでしょうが。
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「博物館」と「講座」セットで
連続投稿お許しください。
昨日は、第6回史料講読講座でしたが、講座の開かれる「小岩」が、企画展「関東戦乱」が開催されている「葛飾区郷土と天文の博物館」に近いので、両方楽しんでしまおうと、目論見まして、上手くいきました。
●企画展「関東戦乱」
文書といい出土品といい充実した展示でした。博物館の予算がよほどあるのか、考古学ボランティアの層がよほど厚いのかといった印象です。
低地の城なので、木製品の出土物がしっかり残っているのが、珍しいところでしょうか。
井上様の「義氏くん」もしっかり活躍しておりました。
博物館もさることながら、最初に興味を持ったのは、最寄り駅の京成「お花茶屋」駅から、博物館までの道が、下町には異様に広くまっすぐだった点でして、「何かの跡であろう」と思いながら進んでいきますと、道路の一部が親水公園という公園になっておりまして、説明書きがありました。元々は「曳舟川」という水路だったようで、納得いたしました。
●史料講読講座
第6回となりますが、実躬卿記に記録された「御教書」を題材にいたしました。細川さんの学説の「『嘉元の乱』の真相」を拝聴できて、うれしいやら楽しいやらでした。
京成「お花茶屋」から、JR「小岩」方面にどうやって抜けようかと思いましたが、京成「小岩」から、JR「小岩」行きのバスに乗り、途中で降りて、小岩区民館へ行きました。見慣れない道なので、よく分からなかったのですが、下町のおばちゃんは親切で、途中まで案内してくださいました。ありがとうございました。
余談ですが
・私のHNが日本史に合わないとのご指摘もあり、「琵琶法師」使って見ました。
他板さんの都合もあるので、今日だけの限定版でございます。
・昼食は、顔見知りの方に目撃されないよう「お花茶屋」駅前の松屋で「牛飯]セットで!
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鯰と鞭
琵琶法師さま
浄土宗新聞の記事を読みながら、慶長期に九州の基督教徒達が浄土宗に帰依したの
なら、寛永期の島原天草の乱はどのように説明するのだろう、と疑問に思いました。
有馬ミゲル直純は、ころびバテレンで有名な人ですね。背教者伴夢が、キリシタンと
どう付き合ったのか、気になりました。
神田山新知恩寺裏長屋在幡随院長兵衛は根っからの浄土宗門徒で、対するに、やぶ
にらみの旗本退屈男水野十郎左衛門成之はニヒルな無神論者で、気に入らねえな、
野郎の仏心に焼入れてやるか、となったのかもしれませんね(笑)。
http://nifty.bk1.jp/product/02942985
この本に、秀吉が城普請の前田玄以に宛てた消息があり、これが、地震と鯰を結び
つけた最古の史料だそうです(同書89頁)。
「ふしみのふしんなまつ大事にて候まま・・・」
伏見の城普請は鯰に留意すること・・・文意がやや不明ですが、興味深い消息ですね。
本日の大河ドラマでは、忍城主の成田氏が、この無礼者め、とガクト謙信に鞭でひっぱ
たかれてました。
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成田氏
>忍城主の成田氏が、この無礼者め、とガクト謙信に鞭でひっぱたかれてました。
どなたかフォローしてくださることを期待しつつ。
成田長泰が上杉政虎(謙信)に打ち据えられた話は、『関八州古戦録』に載っている話だそうで有名な話なのでしょうが、「成田氏が八幡太郎義家にも下馬の礼を取らなかった。」ということで、どれほどの名門なのかと思ってしまいました。http://www.digistats.net/clan/na/narita2.htm
ネット検索では、藤原北家基忠流とあります。源義家の生年は、1036年〜1106年、藤原基忠の生年は、1056年〜1098年で、ほぼ同年代であり、成田氏が成立しているとは思えないのですが、あるいは、基忠と義家の関係を下馬の礼を取らないことを許されたとしているのでしょうかね。
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再掲させてください。
就実大学 史学会主催 公開講演会
日時:平成19年12月1日(土) 14:00〜
場所:就実大学 T館611教室(〒703−8516 岡山市西川原1−6−1)
講師:西山 克 氏(関西学院大学教授)
演題:「怪異学の誕生 ― 妖怪・怪異・予兆」
入場無料。 詳細は http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/history/kouen0411.html
へアクセスしてください。
同日ですが、以下のようなご案内を頂いております。
説話文学会・仏教文学会 合同例会
12月1日(土)14:00〜 於 甲南大学5号館21教室
プログラム
1、シンポジウム「説話と意匠」
「三角五輪塔の起源 ―重源創案説を問い直す―」
奈良国立博物館 内藤栄 氏
「中世〜江戸初期の扇絵と絵物語から」
学習院女子大学 徳田和夫 氏
2、講演 16:00〜
「宇治拾遺物語の問題性」
早稲田大学 小林保治 氏
※参加無料。
http://www.konan-u.ac.jp/frame/access_index.html
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親鸞にふられました。
こちらで以前話題になった、築地本願寺境内の「カフェ・ド・シンラン」。
本日、開店時間に合わせ、行ってまいりました。
…が、「今日は14:00からの開店になります。」
何で今日に限って!!
今からここで約2時間30分もつぶせない!
泣く泣く帰ってまいりました。
日祝がお休みだというのは抑えてたんだけどなあ。
リベンジしたいけど、往復の交通費を考えるとちょっと二の足を踏みます。
築地本願寺にははじめていったのですが、本堂が大きくて教会みたいなところでした。
自由に出入りできるのがうれしい。
いすに座ってぼ〜っとしているのが心地よかったです。
で、12月15日、こちら築地本願寺で「TOKYO BOUZ COLLECTION」というのが行われるそうです。
個人的には「東京ボーズコレクション法要 世界の平和を願う」が気になります。
「日本仏教を代表する宗派が一堂に集結。特徴ある袈裟や衣を間近に披露し、ご自慢の声明を聞かせ…」
私は予定がほかにあるのでいけないのですが、声明に興味のある方、いかがでしょうか。
面白そうですね。
http://www.jbf.ne.jp/2007/12/tokyo_bouz_collection.html
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御教書
釈由美子が好きさん
お忙しいところ、恐縮ですが(ブログに書くべきかもしれませぬが)。
駿河守宗方、依有陰謀之企、今日∧午/刻∨被誅了(中略)仍執達如件
嘉元三年五月四日 相模守判
遠江守殿
越後守殿
この御教書は、直前に連署の時村が殺されたため、執権の単独署名となったもので
あり、御教書は、本来、執権と連署の両名で出すものであるから、これは珍しい例
といえる。しかも、連署すべき連署が地の文の謀反人に殺害されたがゆえに連署で
きなかった、という意味においても、非常に珍しい単独署名の御教書であって、
物騒な鎌倉時代においても、とりわけ珍重すべき一品である。・・・こんな解釈で
よろしいですか?
同様の御教書は鎮西探題(並びに長門探題)にも、同日付で直接通知されたはずで、
執達を一旦受理した六波羅探題が、両探題名で同じ内容を間接的に通知したのでは
ないだろう、と解してよろしいですか。
両探題は南方より北方が格上だから名宛人の位置は北方が前にくる、これとパラレル
に、執権と連署の署名は執権が前にくる、というのが鎌倉期の書式のようですが、
江戸期では前後が逆転する、つまり、老中連署の場合、格上の老中は後にきて、これ
とパラレルに、名宛人が複数の場合は、格上の者が後にくる、という書式になるよう
に思われます。
公用書において格式の上下は重要ですが、鎌倉期と江戸期で、なぜ前後の逆転が起き
たのか、下克上思潮の射影のように、それは室町時代のいずれかの時期に発生したも
のであろうか、という疑問を覚えました。
六波羅探題について、鎌倉の職制に倣い、執権と連署に準ずる者を探題の中に同時に
設置すれば済むと思いますが、北方と南方というと、あたかも別個の機関のような趣
があるものの、これは単に名称の問題にすぎず、北方が執権に準じ、南方が連署に準
ずる、したがって、両者連名でないと、六波羅の執達は有効にならない、どちらか
一方だけの執達は通常ありえない、と解すればよろしいですか。
承久の変後の朝廷対策を考えますと、内裏と仙洞の相対的な位置関係から(?)、
北方は主として天皇に、南方は主として上皇に、それぞれ対応するものとして律儀に
設置された、そして、こんな律儀なことを考えたのは几帳面な義時だったにちがい
ない、というようなことはないでしょうか(笑)。
嘉元の乱と云い、平禅門の乱と云い、ともに大地震後のクーデタ(と云うより、
逆クーデタと云うべきか)だというところが、妙に気になりますね。鯰が地震の原因
で、地震が乱の原因とすれば、三段論法により(?)、乱の原因は鯰である、と言え
なくもないですね。鯰と地震の正の相関について、鎌倉時代は、まだ発見できなかっ
たようですけれども。
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>筆綾丸さん
すいません。ボチボチ、ブログに書きやす。
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「真慈悲寺」シンポジウム
以前、日野市の「幻の真慈悲寺を追う」展を紹介させて頂きました。
その時に「鈴木小太郎さん」からシンポジウムの詳細がわかったら教えてとの事でしたので投稿します。
また、「NAO4@吟遊詩人」は見に行かれたそうですね。感想文拝見しました。
さて、シンポジウムの件ですが、下記のようです。
参加者の応募状況はわかりません。
なお、この日は展示の最終日ですので、シンポを聞いてから展示を見るのは無理と思います。
【概要】
日時 12月16日(日) 午前10時から午後4時
場所 日野市役所 5F505会議室
定員 先着100名
申込先 日野市郷土資料館 042-592-0981
資料代 (予価)1,000〜1,500円
研究報告
・「真慈悲寺」の地理的・歴史的環境 渋江芳浩(あきる野市文化財保護審議会委員)
・「幻の真慈悲寺」調査事業プロジェクト 小黒恵子(日野市郷土資料館)
・関東御祈祷所について 今野慶信(新宿歴史博物館)
・経筒と瓦から見た真慈悲寺 深澤靖幸(府中市郷土の森博物館)
・真慈悲寺を巡る丘陵地の遺跡について 斎藤進(東京都埋蔵文化財センター)
・地域の中の中世寺院 斎藤慎一(江戸東京博物館)
コメンテーター 峰岸純夫(都立大学名誉教授)
以上です。
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鎌倉遺文研究会延期
みなさまご無沙汰しています、うさたろうです。
さて標題の件ですが、鎌倉遺文研究会の次の例会は予定が変更になり、
12月8日(木)の18時から、会場は早稲田大学文学部第2研究棟
第7会議室となったそうです。
報告の詳細は以下の通りです。
報告者:児嶋貴行氏
題目:「代銭納制のメカニズムの再検討」
[報告者の一言]
代銭納制のメカニズムは佐々木銀彌氏の研究によって明らかにされている部分が多く
、貨幣史研究等でも参照されているが、その成立の背景や条件を改めて検討すると、ま
だ研究の余地が残されている。事例の再検討を通じて、メカニズム解明の手がかりを得
たいと考えている。
以上、ご連絡と告知でした。
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でしゃばってしまいますが
>筆綾丸さま
>実躬卿記
文書の書式もさることながら、「凡珍事珍事」と書かれている「時村暗殺→首謀者宗方の誅伐」の図式の裏に、「得宗家 対 北条庶家」を読み取り、貞時首謀者説を組み立てた細川さんの学説「嘉元の乱」が、面白いのでございます。
結論急いでしまいました。皆様、編集長ブログをどうぞ。
>中世初心者さま
その節は、「幻の真慈悲寺を追う」展ご案内くださりありがとうございました。結構楽しませていただきました。京王百草園にも、いずれ寄らせていただこうかと思っております。
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百草園
NAO4@吟遊詩人さま
百草園も是非おいで下さい。
梅の名所ですのでその頃が一番と思います。
それから、昨年の梅がとうに散ったあと、おそらく四月下旬頃だと思いますが、真慈悲寺プロジェクトが現地ガイドをやってました。
私は参加してないので状況がわかりませんが、確か、来年もやると聞いたような……。
お詫び;先の投稿で「NAO4@吟遊詩人」さまを呼び捨てにしてることに気づきました。ごめんなさい。
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Nacht der langen Messer(長いナイフの夜)
NAO4@吟遊詩人さま
レーム粛清を題材にしたルキノ・ヴィスコンティの「La caduta degli dei(邦訳名:
地獄に堕ちた勇者ども)」を思い出しました。貞時がヒトラーで、時村がレーム、と
いう構図になりますか。
中村直勝『日本古文書学 上』では、親王又は内親王が下達する文書に「教」というもの
が中国にあり、御教書は中国の制度を取り入れて摂関家が初めて用いたもので、後冷泉
天皇の治暦期における関白頼通のものを最古の例として挙げています。
また、江戸期のものですが、聖護院門跡御教書もあります(491頁)。
・・・依聖護院御気色、執達如件
慶長三年十二月五日 法眼(花押)
僧都(花押)
僧官(僧正、僧都、律師)と僧位(法印、法眼、法橋)の相互関係も、面倒臭そうで
すね。
以下は蛇足です。
直勝さんは、院宣、女院令旨、御教書、長者宣などを準公用文書に分類し、広義門院令旨
を例示したあとで、
「法理上、広義門院は女院であって上皇ではないから、院宣の出せるわけはない。その
非法を敢てして足利尊氏は後光厳天皇を擁立したのであった。古文書等には関係のない話
ではない。院宣の出せない身分が、出した院宣は無効である。古文書学上からもこの挙は
断然排斥すべきであり、後光厳天皇以下の北朝は、たしかに偽朝である。古文書学の権威
が如何に大きいか。一例として併叙したのである」(455頁)
と憤慨してます(笑)。
院宣ですら、遡及すれば、私的要素が強いもので、院政の確立と軌を一にして権威(オト
リテ)を帯びたにすぎず、要するに、継続すれば有効になるというだけのことですね。
古文書学の権威(オトリテ)の問題ではない、と思いました。
「織田信長が”藤吉郎女どもへ”宛てた消息は、完全に私文書であり、私事であるに拘
らず、”天下布武”の朱印が押してある。だから、形式上の異法であるからと言って、
それを偽文書であるとして、片附けるわけには行かぬ」(548頁)
禿鼠の浮気など悋気せずともよい、と諭す手紙に「天下布武」の朱印を捺すのは、天才
ならではの独創ですが(笑)、氏の如くしかつめらしく考えず、これは Sophisticated
な駄洒落の如きものだ、と解すればいい。
-
先日八千代町に行ってまいりました。
>NAO4@吟遊詩人 さま
私も先日、八千代町の「平将門と八千代地方」行ってまいりました。思った以上に平将門の乱の、遺跡の紹介・出土遺物の展示など従来知られていなかったものまで紹介されていました。新たな発見がたくさんあり、もう一度行ってみたくなりました。
それから、先日NAO4@吟遊詩人 さまからご紹介されました。桜川市歴史民俗資料館(旧真壁町)の企画展も併せて見学してまいりました。『加茂部文書』は、永享12年簗田景助書状は、結城合戦の源安王丸(足利持氏遺児)挙兵に関するもので、その原文書が展示されていました。どれも必見のもので、NAO4@吟遊詩人さまのみならず皆様も是非いらしてください。
期間は、両館とも12月16日までです。(休館は月曜日です)開館時間は、9時から5時まで。
それから、NAO4@吟遊詩人 さま、このHNが、日本史にあわないとの、ご指摘を受けて琵琶法師さんと改めておられましたが、吟遊詩人も琵琶法師も、私は同一のものと考えています。はるか昔ですが、吟遊詩人を研究していたヨーロッパの方が、もうすたれてしまった吟遊詩人の詩を復元するために、琵琶法師の演奏を参考にしようと、わざわざヨーロッパ(確かギリシャだったと思いますが)に琵琶法師を呼んで「平家物語」を演奏してもらったというニュースを見たことがありました。ですから吟遊詩人というHNが日本史にあわないとは、私はとても思えないのですが。
それから、下妻城のご教示ありがとうございました。あの周辺の城郭は地形を生かしたつくりになっているのが多いのですね。やはり現地に行って確認することが以下に大事かということ再確認しました。
>企画展のお知らせと図録のお知らせ
?企画展のお知らせです。埼玉県ふじみ野市の市立大井郷土資料館で
「中世のムラ」という企画展を開催しているそうです。
期間は12月9日(日)までです。図録が200円で販売されているそうなので、期間がありますので、皆さんも是非参加してください。
連絡先は049―263−3111です。休館は月曜日です。時間は9時から18時まで
?1市3町合併記念 『新市誕生・指定文化財展』
期間12月9日(日)まで月曜日が休館。12月7日も休館
場所は、埼玉県熊谷市立文化センター 3階美術展示室。ここに、熊谷市立熊谷図書館が入っています。時間が9時から17時までです。
そこで、注目なのは熊谷市の民家から、『足利尊氏御判御教書』が発見されその文書が展示されていますので、お知らせします。文書の全文は
「永福寺雑掌申、武蔵国、春原庄内平塚郷事、早任寄附之旨、
沙汰付下地於彼雑掌、可被執進請取之状、如件、
観応3年7月28日 (花押)足利尊氏
仁木修理亮殿 」
とあります。その文書はその後個人から、熊谷市に寄贈されたそうです。
同時に、成田氏の事跡を記した「成田記」も展示されていますのであわせてお知らせいたします。
それから、終わってしまった企画展を紹介してしまって申しわけありませんが、先日まで、埼玉県の朝霞市博物館で、「もんじょ」と「ぶんしょ」古文書解読と記録保存という企画展を開催していました。その図録で埼玉県立文書館に所蔵されています。『安保文書』(あぼもんじょ)が全点カラー写真で集録されています。定価は1000円です。 朝霞市博物館にあるはすでので、048―469−2285に問い合わせてください。
>うさたろうさん
鎌倉遺文研究会の開催日は、12月8日ではなくて、12月6日(木)ではなかったでしょうか。それから、発表者は小嶋貴行氏ではないでしょうか。間違っていたらすみません。
-
簡単なレスで申し訳ありません。
>相国入道さま
>桜川市歴史民俗資料館(旧真壁町)の企画展
状況お話いただきありがとうございました。何とか時間を作って行ってみたいと思います。
>HNが、日本史にあわないとの、ご指摘
ご心配いただきありがとうございました。「琵琶法師」は1日限定ですので、面白いことは面白いのですが、旧に復しております。
>筆綾丸さま
>貞時がヒトラーで、時村がレーム
「嘉元の乱」で、貞時は「へたれた」という表現を細川さんはされておられました。まあ、徹底的に北条庶家を潰すのではなく、抗争の過程で腰砕けになり、宗方に責任を押し付けて逃げてしまったということのようです。
>私事であるに拘らず、”天下布武”の朱印が押してある。
そうだったのですか。この書状は有名ですが、面白いですね。
>中世初心者さま
>百草園も是非おいで下さい。
>梅の名所
なかなか、ゆったり過ごせそうで、よさそうですね。
-
御筆様
NAO4@吟遊詩人さま
中村直勝『日本古文書学 中』に、おどろいたことに、「伊勢内宮周清上人願文」があり
ました(218頁〜)。
ある観世音菩薩座像の胎内文書として、秀頼自筆の六字名号(南無阿弥陀仏)と一緒に、
この願文が出てきた。千姫(秀忠娘・秀頼室)は、大坂城落城後、桑名藩主本多忠刻に
再嫁し、慶光院周清上人の知遇を得た。忠刻の姫路転封に伴い、播磨姫と呼ばれたが、
産む児産む児、悉く夭折するので、占ってもらうと、秀頼の祟りと知れた。播磨姫
あわれ、と願いを容れて、上人は願文を奉納した。能筆の長文ですが、一部、釈文を
引用しますと。
・・・我等屋敷に、秀頼様を、斎ゐ置かせられ、御神体には、御筆様を籠め申候、末代、
我等寺の御座候うちは、代々申置、御神体と崇がまへ申候へく候・・・
けんな九年の九月きちにち いせないくうしゆせい上人 (黒印)
ひてよりさまへの御くわんしゆ(願書)
慶光院というお寺の御神体は、元和九年以後は、御筆様(秀頼自筆の六字名号)だった、
ということになるのですね。おどろきました。
この願文を読むと、慶光院は千姫の縁で徳川家と深い関係になったのかもしれませんね。
邸内に秀頼を斎き祀り、御神体を御筆様としたのですから、家光に見初められた剃髪の
佳人も、さぞや、複雑な心境だったでしょうね。
不謹慎な言い方になりますが、幽冥境を異にする秀頼様を、そこはかとなく裏切るよう
な、なんかこう、嫌な嫌な佳い感じ・・・perversion はひとり家光だけのものではな
かったのである(笑)。
御筆様の筆跡をみますと、決して能筆ではないものの、これが自裁直前のものかと思う
と、心なしかふるえているようで、なんだか哀れですが、さはさりながら、南無阿弥陀
仏とあるからには、秀頼の信仰は浄土宗系だった、と解していいのでしょうね。
追伸:書き込みの後に、広告が勝手に入ってしまい、削除できません。解決方法教えて
ください。
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Re:御筆様
>筆綾丸さま
>「伊勢内宮周清上人願文」
面白いお話ありがとうございました。徳川家と慶光院の関係は、千姫に遡るのですね。
姫路城に、千姫化粧櫓というのがあるので、本多家に嫁いだことは知っていたのですが、桑名時代があったのですね。
秀頼自筆文が、御筆様として残っているのも面白いお話です。
追伸:恐らく、広告はブログのように、最初の投稿文のみではないでしょうか。ちょっとやってみますね。
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黒印状
NAO4@吟遊詩人さま
奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 下巻」(吉川弘文館)を眺めていると、また驚い
たことに、「伊勢慶光院黒印状」がありました(729頁〜)。原文は漢文で、尼寺宛にし
ては異様な感じがしますが、釈文を全文、引用しますと。
今度東国在陣に就きて、祈祷の祓の太麻ならびに熨斗鮑三折到来、遠路の懇情喜び入り
候、将亦、造営の山口祭の事執行せしむるの旨、先ず以って然るべく候、作事の趣、
かれこれ平井弓右衛門尉申すべく候也、
(天正十年)四月十五日 信長(黒印)
(宛所欠く)
注釈は以下の通り。
祈祷の祓は慶光院が伊勢神宮で祓に用いる玉串。太麻は伊勢神宮で捧げる神符。あわびの
肉を薄くむき、のばして干したものが熨斗鮑。古くは食用としたが、後には儀式の肴や
進物の添えものなどにした。慶光院清順尼の努力によって戦国時代の伊勢大神宮(皇大
神宮・豊受大神宮)の遷宮が行なわれた。永禄六年(1563)の外宮(豊受大神宮)の正
遷宮、また天正十年信長の寄進による皇大神宮の正遷宮は、清順尼の勧進などの功によ
ることが多大である。信長が山口祭の執行されて結構だといったのはこの理由による。
信長が武田氏を滅ぼして安土に凱旋するのは、天正10年4月21日ですから、慶光院は、
武田氏の滅亡を祝して、間髪を入れず、信長の武運長久を賀したのでしょうが、清順
という尼さんは、なかなかの政治家です。慶光院は信長の父信秀の代からも、織田家
と関係があるようですけれども。
慶光院主の政治的な運動を考えますと、千姫の場合も、純粋な信仰心から出たものでは
なかったろう、という気がします。奇貨置くべし、つまり、これで徳川家との絆を強固
にできる、という打算があったのではないか。
お万の方が家光に見染められて「生贄」になった時、慶光院としては、いやさか、弥栄、
これで我が寺も安泰でおます、と言祝いだような気がしますね(笑)。
この黒印状のすぐ後、信長は死にますが、訃音に接して、慶光院主がどのような顔をし
たのか、目に見えるようです。
広告は仕方ないのですね。
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昨日は
>皆さんこんばんは、
本日は、葛飾区立天文博物館で「葛西城と古河公方足利義氏」のシンポジュウムに行ってまいりました。本日は200人を越える聴衆で立錐の余地がなかったです。
その中で、佐藤博信氏の講演「古河公方足利義氏と東国」の中で、従来検討の要アリとされてきました文書が、実は芳春院殿(足利義氏の母で北条氏康の妹)文書ではないかという提起がありました。
(通)
文書は、「諸役之事、此者無相違可透也、仍如件
葛西様
(印文 日本王天下光)
弘治4年2月18日
福田小次郎」 『戦国遺文古河公方編』825号文書。
この文書は、茨城県古河市の『福田文書』に所収されているもので、従来は印文が、不明ということから、検討の要ありとしていた文書だったそうです。
しかし、『簗田文書』の原文書が発見され、芳春院殿契状『戦国遺文古河公方編』1259号文書の印文が「日本王天下光」と記載されていることから、『福田文書』は、検討の要ありではないという発表をされていました。
佐藤氏のみならず、長塚氏・黒田氏・平野氏の発表も参考になるものばかりで、本当に充実したものでした。明日も参加したかったのですが、仕事の関係でおうかがいすることが出来ずに本当に残念です。今度記録として刊行されると思いますのでそれを参照できればと考えています。
>NAO4@吟遊詩人 さま
お詫びとお知らせがあります。
お詫びですが、11月30日の書き込みで、NAO4@吟遊詩人さまを呼び捨てに書いてしまった場所がありました。後で確認してわかったのですが、呼び捨てにしてしまい本当にすみませんでした。該当の部分は訂正しておきます。
お知らせは、先日書き込みました。ふじみ野市立大川郷土資料館の企画展『中世のムラ』見学してまいりました。八千代町の歴史民俗資料館同様に、コンパクトにまとめてあり地元の、資料を駆使して紹介しているところが本当によかったです。
場所ですが、東武東上線ふじみ野駅から、循環バスが出ています。大川総合庁舎前で下車してください。郷土資料館というよりは、図書館はどこですがと聞かれると、図書館の中に入っていますので、そのほうがわかりやすかったです。
昨日・一昨日と連休でしたので、一昨日は、ふじみ野市の企画展を見学した後に、江戸東京博物館の『江戸博カルチャー』家永遵嗣氏の「北条早雲の時代」を聴講し、昨日は葛飾のシンポの前に日野市の「幻の真慈悲寺を追う」の企画展を見学してまいりました。どれも、充実したもので本当によかったです。
>中世初心者さま
はじめまして、昨日は、「幻の真慈悲寺を追う」見学させていただきました。本当に充実した展示内容で本当によかったです。12月16日のシンポジュウムのご案内ありがとうございます。その日は、仕事の関係でお伺いすることができず本当に残念です。ご成功お祈り申し上げます。
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CD−ROM
>筆綾丸さま
>清順という尼さんは、なかなかの政治家です。
そうですね。この頃の伊勢神宮がどのような立場にあったのか(為政者にとって、どのような意味のある神社であったのか)近世・近代の位置をもって推し量るのは危険だと思いつつ、中央政局と巧みに関わりあっていたということでしょうか。
まあ、とにかく古文書とは面白いものなのですね。
細かいことですが、この文献に出てくる「平井弓右衛門尉」って弓衆かもしれませんね。
もしかしたら、六角氏の重臣で娘を浅井長政に嫁がせたという平井氏と関係あるのだろうかと勝手に推測しました。
慶光院文書については、↓のHPを見つけました。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/22/saiho_keihikarin%20monjo.htm
>相国入道さま
なかなか精力的に展示会やらシンポジウム回られているようですね。中世の考古学としては、朝倉氏の一乗谷遺跡に匹敵するような調査であったとか。一乗谷は史跡公園として素晴らしかった(十数年前ですが)ので、であるなら、発掘跡地をみても面白いかもと思っています。今度史料講読講座の前時間に、葛西城周辺へ行ってみようかと思っています。
●CD−ROMの中身
第六回史料講読講座の帰りに、一緒に勉強させていただいている方から
「先日、行った企画展「関東戦乱」で、図録と一緒についてきたCD−ROMの中身は何?」と聞かれていたのですが、やはり史料でした。写真ではなく活字になったものです。ファイルメーカーで作られており、使いやすそうです。製作者に中前勉の方々のお名前がたくさん並んでいます。1500円の図録についているので、これだけの情報量を何と格安なお値段でいただけるのでしょうかと思った次第です。ただ、アマチュアの場合、どう生かすかですが。
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慶光院シューマン
NAO4@吟遊詩人さま
慶光院の歴代院主は、
? 守悦
? 寶山智珪
? 清順
? 周養
? 周清
○「お萬の方」(永光院)
? 周賢
? 周長
? 周貞
? 周榮
? 周香
? 周奧
? 周億
? 周恭
? 周昌
とのことですが、四代目以後の通字「周」が気になりました。
相国寺は、義堂周信をはじめ、周麟、周鳳・・・というように「周」を継ぐ僧が一杯い
ますが、慶光院は四代目から臨済宗になったのではないか、と思いました。
もしかすると、お萬の方は「周萬」と言い、周清を「しゅせい」と訓じたように、
「しゅまん」と訓じたのではなかったか(笑)。
ちなみに、浪漫派音楽の巨匠ロベルト・シューマンの妻の名はクララでしたね。
平井弓右衛門尉についての注釈はありませんが、可能性は高いですね。
ほぼ同時期の信長黒印状から、信長に祝儀を贈った面々を列挙しますと。
? 京都上京中・・・革袖物十
? 山城醍醐寺理性院・・・巻数・ゆがけ二具
? 真田昌幸・・・馬一疋黒葦毛
? 山城青蓮院尊朝法親王・・・扇子
? 伊勢外宮神主中・・・御祓一万度・熨斗三拾把
? 本願寺・・・太刀一腰・銀子三百両・端午帷五・肩衣袴
? 山城三千院最胤法親王・・・不明
なんだか、涙ぐましいばかりの御祝儀です。過去の経緯があるせいか、本願寺は気張っ
てますが、青蓮院の扇子は、抑制が効いていて、お洒落ですね。
残存史料の制約がありますから、なんとも言えませぬが、伊勢の内宮が信長の為に御祓
を十万度した、というようなことは、まさか、なかったのでしょうね。
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勝手に留守番
>筆綾丸さま
>慶光院は四代目から臨済宗になったのではないか、と思いました。
ネットで調べて見たのですが、その形跡はありませんでした。3代清順が臨済宗の尼といった記述はあるので、初めから臨済宗なのかもしれませんね。
>もしかすると、お萬の方は「周萬」と言い、
お見事でございます。(笑い)
>奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 下巻」(吉川弘文館)
これまた、面白そうな本ですね。
>青蓮院の扇子
本当に涙ぐましいです。
ところで、前の投稿に書こうとしたのですが、確証がつかめず、削除してしまったのですが、「慶光院」の建物(現在は祭主職舎)は、豊臣秀吉が造らせたそうです。(伊勢神宮 所功著、講談社学術文庫 p146〜147)
●気になっていた展示
歴史読本1月号に次の記事があり、気になっております。
「島津氏一門家の雅と由緒」
期間:開催中〜平成20年2月3日
場所:鹿児島県歴史資料センター 黎明館
これは、第一回史料講読講座で教材にした「越前島津家」と関わりのある展示のようです。
紹介文に、
重富(越前)島津家が拠り所とした中世に断絶したとされる越前島津家(島津氏初祖忠久の二男家)の歴史と由緒、近世の越前島津家の再興をめぐる動き・・・・
でも、ちょっと遠い!
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女房奉書の木瓜紋の留袖?
NAO4@吟遊詩人さま
臨済宗相国寺派で足利将軍家と関係が深い、というようなことでしょうか。
こういう方面では、秀吉は信長の政治理念の律儀な継承者なのでしょうね。
『増訂織田信長文書の研究』は面白いです。
上巻口絵に信長制札があり、これは信長の古文書第一号で16歳の時のもの、藤原信長
という署名になっています。この制札は、第二次大戦の空襲で焼失したそうですが、
花押は足利氏の武家様花押で、ひどく平凡なものです。16歳の頃は、まだ唯の真面目
な秀才という感じです(笑)。
信長が義昭に異見した、有名な17ヶ条の最後の一条に驚きました(上巻575頁)。
諸事に付きて、御欲にふけられ候儀、理非にも外聞にも立ち入らざるの由、其聞え候、
然らば不思議の土民百姓にいたる迄もあしき御所と申しなし候由に候、普広院殿様を
左様に申たると伝え承り候、それは各別に候、何故御かげ事を申候哉、是を以つて御
分別参るべく候哉の事
おまえは欲深で、道理も外聞もあったものではなく、悪しき御所と仄聞する。普広院も
悪しき御所と言われたと聞くが、同じようなものだ。なぜ、そんな陰口をたたかれるの
か、よく反省したらどうか。
普広院は義教のことなんですね。これはたぶん、言うことを聞かなければ、義教のよう
な死に様になるぜ、という恫喝であって、なかなか凄味がありますね。
下巻に、「三条西実枝宛正親町天皇女房奉書」というのがあります(253頁)。
神泉苑を東寺に返還するようにと信長に言われた(たたいま右大将とのより、もとのこと
く東寺へ返しつけられ候)ので、このよし心得よ、三てう大納言とのへ、という内容の
ものですが、驚嘆すべきことに、この料紙の袖に信長の朱印が捺されている由。
この女房奉書が宸筆なのかどうか、著者は言及されてませんが、天皇の女房奉書の袖に
朱印を捺す、などという大胆不敵なことをしたのは、日本の歴史上、信長だけではないで
しょうか。料紙の袖は至高の空間で・・・「藤吉郎女どもへ」の朱印は料紙の奥にありま
したけれども。
「東寺神泉苑文書」としてあるそうですが、実物を見てみたいですね。
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伊勢におります。
>筆綾丸さま
別に調査に来たわけではないのですが、勤続20年ということで、休暇をいただき、今伊勢におります。明日、伊勢神宮と徴古館に行ってみる予定です。
慶光院と足利家の関わりですが、wikiを見る限り、そもそも中世に尼寺を認めたのは、足利家なのではないだろうかと思えるのですが。つまり、元々臨済宗か律宗しか尼寺は無かったのではと。みなさま、御批判お願いします。
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面白いもの見つけました。
>筆綾丸さま
今日、徴古館で、慶光院のことを聞いてみました。詳しい方は居なかったのですが、「遷宮上人??慶光院記??(浜口良光著 神社本庁長老慶光院少宮司を祝う会)なる本を見せていただきました。「周」の字の由来は書いてなかったのですが、お萬の方が慶光院門跡だというぬは、誤りだと。
家光が20代頃に慶光院門跡の継承はなかった。また、山本家と関わりのない公家の姫君がこの時期慶光院門跡を継ぐはずはないとも。
慶光院がお萬の方慶光院出という噂を知るのは、時代が下がって、周恭のときとか。お萬の方は尼だったのだろうが、慶光院とは、関わりないとのこと。当たり前だとおもっていたことが、そうでは無かったという事例です。
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大奥の妄想
NAO4@旅の空さま
大変な行動力に驚嘆しております。とても興味深いお話、痛み入ります。
周恭尼となると、ほとんど幕末ですね。
剃髪にすれば美少年かと見紛うばかりのどこかの町娘を拉致してきて差し出すと、男色の
家光は錯覚して本気になった。・・・時が流れ、お万は伝説の人になり、本当の背景が
不明になった。由緒正しい尼寺の出身にちがいない、と誰かがいい、伊勢に慶光院という
尼寺があるわ、と誰かが言い、噂に尾ひれがビタビタくっついて、いつの間にか「史実」
になった、というようなことかもしれませんね。
あるいは、お万の方などという女性は、存在しなかったのかもしれませんね。
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ちょっと浮上。
原稿(書評)が1コ出来たので、浮上しますた。
>NAO4@旅の空さん
>勤続20年
素晴らしい。カタギですね。
私は今まで1度も就職したことがありません。
>伊勢神宮と徴古館
良いですねェ〜♪
>筆綾丸さん
>大奥の妄想
そー言えば、よしながふみ氏の『大奥』(白泉社)、3巻、いつ出るんでしょかねェ?
では、また潜ります。すいません。ぶくぶく・・・・・・・・。
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追加
>筆綾丸さま、皆様
>行動力
たまたま熊野に行こうとして通りがかっただけでござます。
慶光院の話ばかりすると、中世好きの皆様を退屈させてしまうかもしれませんが、先の情報を発信してしまったので、もう少し付け加えますと、「周」の通字を含めて、慶光院に関する調査は、皇學館大学図書館か、神宮文庫で調べたらと言われましたが、そこで調べている時間がなかったので、引き上げてきました。ご興味のある方はそちらで調べられてはと思います。
さて、先の本には、慶光院と織田家、浅井家、豊臣家、徳川家の関係が書かれています。筆綾丸さまが書かれている信長の黒印状がありますので、慶光院と織田家の関係は自明ですが、清順上人の実家が近江源氏の山本家なので浅井家とも親しかったというのです。それで、お市の子である淀殿、お江与とも親しく、淀殿の慶光院宛文書が残っており、お江与も男子が授からなかったので、慶光院上人に相談して家光を授かったとか。千姫との関わり合いも、浅井家繋がりで説明できるわけです。
ただ、この辺の話になると、もう少し史料を押さえる必要があると思います。
なお、内宮までの道すがら、千姫の菩提を弔っているという寂照寺という寺を見つけました。千姫は江戸で亡くなったはずですが、経緯は調べておりません。
また、徴古館図録を見ると、件の黒印状徴古館にあるようです。常設はされてないようです。
>釈編集長さま
お疲れ様です。かたぎが良いかどうかはわかりません。
伊勢は、歴史的に興味深い国ですね。
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NAO4@旅の空さま
もっと続けてください!
お願いいたします。
ただし、明日から数日の間、インターネットに接続できない環境となりますので、後でまとめて拝見ささえていただきます。どうぞ、よろしく!
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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月僊
NAO4@旅の空さま
http://www.mie-kyobun.or.jp/Tayori/Rekishi/Rek021.htm
http://www.hyakugo.co.jp/mie/03/10/k03.html
寂照寺は月僊に関係があるのですね。月僊の名は、何となく知っていたのですが、まさか
千姫ゆかりのお寺とは、おどろきました。
慶光院は、時の権門とのバランス感覚が絶妙なんですね。
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6日でした。
>相国入道さま
鎌倉遺文研究会の日程は、ご指摘の通り6日でした。
明日ですね。
ご指摘ありがとうございます。
お名前は「児」嶋さんでよいようですよ。
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こんなの載せていいのかな。
怪異・妖怪ものが多いと言われそうですが、お許しください。
就実大学考古学クラブ主催講演会
「天狗はどこから来たか?」
講師 杉原たく哉 氏
2007年12月21日(金) 午後4:40〜6:10
就実大学 A館210教室(2階) 〜入場無料〜
http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/history/kouen0411.html
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三鱗
和歌山県新宮市の神倉神社近くで、たまたま立ち寄ったうどん屋で面白いもの見かけました。
神棚にかかっていた幕に三鱗紋がくっきりとあるではないですか。
北条氏と関わりのある神社でもあるのかと思い、店主に聞いたところ、京都に「巳さま」とかいう商売の神様があるとか。お稲荷さんは、狐ですが、こちらは蛇だとか。旅先なので、携帯では、この神様検索しきれないのですが。
>筆綾丸さま、Armadjanさま
お話お付き合いいただき、ありがとうございます。
慶光院ネタはもうあまりないのですが、実際に、慶光院まで行ってみました。お土産物屋が並ぶ「おはらい町」の中にあり、誰かに教えていただかないとちょっと分からないと思います。参宮案内所で聞いたら、若いお嬢さん方ちゃんとご存知でした。
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宇賀神
↓どうも馬鹿なことを書いてしまったようです。
「巳様(みぃさま)」とは、宇賀神であり、弁財天と神仏習合した神様のようですね。
北条の「三鱗」は、時政が江ノ島弁才天に参詣した折に、龍神が残していった鱗に因んで作ったとされているので、北条家の家紋というより、弁財天の表象として先にあったと考えたほうが良いようです。
江ノ島には、三鱗紋のマークがいたるところにありますが、外国人に「このマークは何だ?」と聞かれて、「歴史的に有名なファミリーのエンブレムだ。」と以前答えたことがあり、とんでもない出鱈目を教えていたことに気がつきました。
●黒羽藩大関氏と水野家のつながり
この掲示板を読んでないと、旅先で見た↓の写真の手水鉢にも興味を持たなかったのでしょうが、新宮市の神倉神社と阿須賀神社に似たものがあります。
神倉神社の解説によると、
新宮第2代城主水野重良が、下野国那須城主大関高増の母の延命と繁栄を祈願して、寛永8年(1631年)同社に寄進したもの。大関高増のは母は水野重良の父重仲の養女で、高増の父政増の夫人。
材質は黒雲母花崗班岩で、巨大な一枚岩を刻んで仕上げている。正面に願意や年号・寄進者名・奉行名が彫られている。阿須賀神社にも同種の手水鉢が寄進されている。
とありました。
この水野家とは、紀州藩徳川家の家老になった水野家です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003883.jpg
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付家老
NAO4@吟遊詩人さま
熊野はいかがですか。むかし、新宮城の下を車で通過したことがあります。
新宮の水野氏は、尾張徳川の成瀬氏と同じく、付家老というやつですね。
石高は三万石を超え、並の大名より上にもかかわらず、あくまで家老にすぎないから、
参勤交代はなく、殿様の参勤交代につき従うだけで、江戸に(上・中・下)屋敷はなか
ったのでしょうね。
一万石未満の旗本でも、大名並に参勤交代をした交代寄合というのがいましたけれども。
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黒羽藩大関氏関係の話 その2
>筆綾丸さま
紀州藩の付家老と言うと、新宮城主水野氏3万5千石の他に、田辺城主安藤氏3万8千石がいたようで、興味深いです。
この他に、一門家老として三浦氏1万5千石があったということです。この三浦氏、元は正木氏で、先祖は相模の三浦氏で、一族のお万が家康の側室となり、紀州頼宣、水戸頼房の生母となったことから、外戚として家老に招かれたようです。
>熊野はいかがですか。
よかったです。歴史的に興味深かったのもありますが、精神的にも癒されました。(笑)
熊野三山、新宮近辺の名所、高野山などを巡ったのですが、いつか熊野古道を巡礼したいなあとも思いました。
フランスからスペインにかけてのサンチャゴコンポステーラの巡礼路にも憧れていたのですが、日本にも十分魅力的な巡礼路はあったのでですね。
熊野本宮で、時宗の石碑を見つけました。時宗では、今でも上人の代替わりがあると、熊野本宮でその催しがあるとのこと。
時宗の念仏聖たちが、それまで貴族や皇族のものであった熊野参詣を一般民衆に広げたのですね。
●高野山で見かけたもの
高野山奥の院に続く参道の両側には、近世の大名家や、現代の資産家の墓・供養等がたくさんあります。織田家、上杉家、武田家など、よほど著名な家は、案内マップにもしっかり書いてあるのですが、それ以外は例え大名家でも、丹念に見てないと見逃してしまいそうです。それなのに、やはり何かの縁でしょうか、↓見かけてしまいました。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003885.jpg
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企画展のお知らせ
>企画展のお知らせをいたします。
東京都東村山市立ふるさと歴史館におきまして、下記の企画展を開催していましたので、お知らせいたします。
『正福寺展』12月16日まで
時間9時から午後5時まで 月曜日休館
図録400円。入館は無料です。
この正福寺は、臨済宗のお寺でが弘安元年(1278)と北条時宗を開基として仏海禅師(石渓心月)を勧請開山、法海禅師(無象静照)を住職(実質開山)に創建されています。
伝承によりますと、北条時宗が武蔵野に鷹狩りに行った折この地で病を得て命が危ぶまれたので、地蔵と観音に祈念し、名号陀羅尼を唱えたところ、右手に錫杖、左手に丸薬を持った一人の黄衣の僧が現れた。時宗の問いに、近くの草庵の僧であると答えて、左手の丸薬を時宗に与えたら、たちまち病が平癒して、この地に「正福寺」を創建したそうです。
またこの寺は、北条時頼の開基との伝承もありますが、多説があるようです。
この正福寺の地蔵堂は、都内唯一の国宝だそうで、今年は創建600年にあたるそうです。ちなみに、地蔵堂の創建は応永14年(1407)で創建者は未詳だそうです。
また、正福寺には、北条氏の家紋三鱗があります。閑静なお寺ですので、企画展共々見学にはよいです。さらに、ふるさと歴史館の近くには、新田義貞の鎌倉攻めの折に戦死した飽間氏の板碑が所蔵されている徳蔵寺があります。レブリカはよくみることがありますが、この際本物も見てみるとよいです
徳蔵寺の近くには、新田義貞が鎌倉攻めのときに戦った久米川古戦場の碑があります(ここでは、中先代の乱のときも合戦があったそうです)。この地域だけでも結構見ごたえのある史跡がありますので是非見学してみてください。
帰りには、甘いものがほしくなると思いますので、東村山名物「だいじょぶだぁ饅頭」か「だいじょうぶだぁどら焼き」を購入して帰られるとよいです。
ここに住んでいる人たちは、有名な音頭の歌詞と同じく「情けが厚い」人たちばかりでした。
>うさたろうさん
児嶋さんでよいのですか、すみませんでした。メールでは小嶋さんになっていました。
私はおうかがいできなくて申しわけありませんでした。
以上お知らせいたします。
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実朝の墓は?
>相国入道さま
企画展「正福寺展」ご案内いただきありがとうございます。いろいろ興味深いお寺ですね。
ただ、期間が1週間しかありませんね。行けるかどうか。
>筆綾丸さま
「織田信長文書の研究(奥野高廣著、吉川弘文館)」上、下、補遺・索引 図書館にありましたので、借りてきました。感動の反面、あまりの大部なのに驚いております。
●高野山のお話
高野山へは、旅している間に突然行きたくなって、予定を変更して行ったものですから、あまり下調べをせずに行きまして、片っ端から見ていきました。ただ、この掲示板の都合上、高野山にあるという「実朝の墓 or 供養塔」は押さえないとなあと思ったわけです。
ただ、事前に高野山のどこにあるのか調べておかなかったものですから、現地で携帯で検索をかけてみると、「金剛三昧院」が、最も可能性があると思え、行ってみました。北条政子が頼朝と実朝の菩提を弔ったのは確かであり、そのために国宝の多宝塔↓がありました。
ただ、「墓or供養塔」のような標識は無く、元々そういう形ではないのかもしれません。ただ、金剛三昧院の方に聞いてみるくらいのことはしたほうが良かったかなあと悔やまれます。ネットでも、実朝の墓というと、秦野の首塚と鎌倉寿福寺の墓は写真が見られるのですが、高野山に関しては、あるとは書かれていますが、写真とか実態を示すものが見つかりません。追求しておく価値はあったなあと本当に後悔しております。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003887.jpg
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蜘蛛巣花押と機械仕掛けの神
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/kenzobutsu/taho.html
高野山のこの解説は色々と変なものですが、数年前に見たとき、とても美しいフォルム
なので、驚きました。北条政子のイメージと合わず、大工の優れた技量のお蔭で、二位尼
はえらく得してるな、と思ったものでした(笑)。
「増訂織田信長文書の研究」は、ほんとに面白いですね。
天正8年「近衛前久宛朱印状案」(下巻478頁)の文面をみますと、近衛前久の名を呼
び捨てにしていて、両者の関係を知る上で、これはとても興味深いですね。
天正8年「本願寺顕如光佐宛黒印状」(下巻522頁)に、本願寺が信長に進上したもの
として、「三副一対 徽宗筆」とあって、これには驚きました。現在残っていれば、間違
いなく国宝だと思いますが、もしかするとこれは、亡国の天子徽宗の絵らしく、本能寺
の変で焼失したのではないか、つくづく勿体ない、と思いました。
下巻の末尾(848頁)に、信長の花押の経年変化があって、佐藤進一「花押を読む」に
説明がありますが、(7)〜(9)の原拠は何なのか、さすがの碩学もわからない、と降参
されてます。前から気になって仕方ないのですが、誰か解明してくれないかな、と思
っています。
トポロジーではありませんが、(5)と(6)はおそらく(3)と(4)の変形で、そうなると、
(7)〜(9)もその延長線上にあるもので、「信長」の字を崩したものではないか、とは
思っています。これは蜘蛛の巣のように見えますが、なぜ、こんなフォルムにしたの
だろうか(笑)。
信長の内面を理解する上で、この「蜘蛛巣花押」は非常に重要なものであって、世界中
のトポロジストは、サーストン予想の研究をしばらく中断して、この花押を解読しなけ
ればなりません(笑)。
永禄11年(1568)9月、信長上洛時、山城国の寺々に出した禁制の中に、「西八条
偏照心院」宛のものがありますね(上巻202頁)。
峰岸純夫氏の著書にあったと思いますが、こういう場合の禁制は、漫然と待っていたの
では出してくれず、ぜひ禁制をください、とお願いに行かないと駄目なんですね。
従って、この場合も、西八条偏照心院の住職が、信長(の側近)の所にお願いに行った
可能性があります。
側近「西八条偏照心院の妙齢の尼が、禁制の件で参っておりますが、いかが取計いま
しょうか」
信長「西八条偏照心院? なんだ、それは?」
側近「昔々、坊門家の姫君が鎌倉に嫁ぎ、ゆくりなくも亭主を謀殺され、泣く泣く磯の
浜千鳥、是や此の逢坂山の不如帰、と都に戻り、亡き夫の菩提を弔うため、
清和天皇六世孫経基王所縁の邸跡に、金剛偏照、一宇の庵を結び・・・」
信長「くどい。簡潔に申せ」
側近「は。右大臣実朝公の菩提寺」
信長「実朝か。ふん、そんな奴もいたな。許す」
信長の最後の官職が右大臣だったのは、単なる偶然である、と語り伝えるとなん。
同じ時に、本能寺に禁制を出しているのは(同書204頁)、デウス・エクス・マキーナ
(機械仕掛けの神)といいますか、後年のキリスト教との関係を暗示するかのような、
どこか運命的なものがありますね。
翌年に「偏照心院宛丹羽長秀奉書」があるので(同書337頁)、この寺の窓口は信長の
重臣丹羽長秀だったのでしょうね。
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コミケ情報♪
コミックマーケット73(2007年コミックマーケット冬)のお知らせです。
[場 所] 有明・東京国際展示場 (東京ビッグサイト/有明臨海副都心)
http://www.bigsight.jp/
[開催日] 2007年12月29日(土)〜31日(月)
日本史史料研究会の本を販売します。
○12月30日(日曜日。2日目)
サークル名:「北斗公館」
ブース :西地区(西2ホール) けー12b
★予定は未定ですが、『太平記』4コマ本を出すはず。
★委託販売
・中島善久編・著『官史補任稿 室町期編』
(日本史史料券研究会研究叢書1、2007年、1500円)
・細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史−権威と権力−』
(日本史史料券研究会研究選書1、2007年、1500円)
宣伝だけして、また潜行します。すんません。ぶく、ぶく・・・・・。
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高野山
>NAO4@吟遊詩人さま
高野山にはリフレッシュ休暇をもらったときに行きました。
結縁灌頂に参加して↓
http://www.shukubo.jp/00_kechi.html
金剛三昧院に泊まったのです。
夢に出てこい〜!!と、強く念じて寝ましたが、実朝には会えませんでした〜。
西室院というところに「源家三代墓(供養塔)」がありますが、確かな由来などは存じませんです。
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源氏三代墓。
>NAO4@吟遊詩人さま
>はぎつきさま
西室院の源氏三代墓、↓これです。
先だって高野山に連れて行っていただいた時に、お参りしてきました。
しかし、どれが誰のお墓なのかわかりませぬ(^_^;)。
高野山へも、町石とかを見にまた行きたいものです。いいところですよね〜。
>釈由美子が好きさま
>冬コミ
宣伝、ありがとうございます(^_^)。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003891M.jpg
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おおこれですか!
>高遠彩華さま、はぎつきさま
>西室院の源氏三代墓
お教えいただき、ありがとうございます。写真あったのですね。ところで、源家三代とは、頼朝→頼家→実朝ですよね。まさか、頼信→頼義→義家じゃあないですよね。
何となく、頼家はお気の毒ですが、こういうところに出てくるのが不思議な気がしたもので。
今度行くときは、宿坊に泊まって、ゆっくりしたいと思います。
>筆綾丸さま
文書から、織田政権が浮かび出てきますね。明らかに天下統一を掲げて、勢力を拡大していたのが分かりますし、近衛前久をこき使っていた。巻末の解説もなかなか面白いです。
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ありがとうございます
>源氏三代墓
>高遠さま
写真ありがとうございます。
ネット検索したんですけどいい画像がなかったので。
…花がどれも見事に枯れてますね(^_^;)。
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源家三代墓
現在は西室院(正確には多聞院)内に位置する源家三代墓(近世地誌『通念集』では頼朝・実朝・政子)は、頼朝庶子貞暁が師の仁和寺隆暁から譲られた一心院にあったもので、鎌倉期の石塔と評価されているようです。
参照 山陰加春夫「高野の聖たちー高野山一心院谷の場合ー」(『密教文化』218、2007年)
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勝手に留守番
*昨日は、どうも掲示板を運営している「tea-cup」のサーバー移動で、ほぼ終日この掲示板にアクセスできなかったのではないかと思います。管理人に代わりまして、お詫び申し上げます。
>通りすがり様
>源家三代墓 (近世地誌『通念集』では頼朝・実朝・政子)
お教えくださり、ありがとうございます。頼家ではなくて、政子だったのですね。
納得いきます。
>はぎつきみたえさま
>結縁灌頂
なかなか、凄いですね。マニアックというか。
>高遠彩華さま
「町石」って、亜季多さまが、金石文のところで載せている案件ですよね。そうか、大門まで行かなかったなあと後悔しております。もう少しこのサイトよく読んでおけば良かったと思っております。
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昨日
掲示板にアクセスできなかったのは、パソコンの異常じゃなかったのですね。安心しました。
源家三代墓、頼家が抜けてるとはお参りしておきながら知りませんでした。というわけで、
>通りすがりさま
ありがとうございます。
鎌倉で売ってる源氏最中も、頼朝・実朝・政子なんですよね。
何でいつも頼家は仲間はずれなのでしょう。可哀想。
>NAO4@吟遊詩人 さま
>結縁灌頂
狙って行ったわけでなくてまったくの偶然だったのですが、面白いですよ〜!
宗教に頓着しない方は経験してみてはいかがでしょう。結構不思議な気分になれますです。うちも浄土真宗です。
で、ついでに個人的には「信者じゃなくても救うぜ!!」という弥勒菩薩様を頼りにしておりますが(笑)。
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昨日の掲示板。
昨日の深夜2時から今朝方1時くらいまで、teacupの掲示板が使えなかったようです。
>NAO4@吟遊詩人さま
私も管理人でも管理人代行でもないですが、忙しくて出てこれないお二人に代わりまして御礼申し上げます。
お留守番していただいて、ありがとうございます。
>町石
そうです。
二月騒動関連とか、平頼綱の町石とか、ちゃんと調べて行かなくてほとんど見落としてしまったのです。
それでも、明智光秀のお墓とか島津氏墓所とか、いろいろ興味深いものが見られましたが。
また機会があったら、高野山へはリベンジしたいものです。そしてふたたび金剛三昧院に泊まりたい。
>はぎつきさま
>画像
案内文があったら、写真に撮っていたと思うのですが、見つからない…(^_^;)。
>花が枯れている
確かに(笑)。
でも、池に咲いていた蓮の花は綺麗でした〜。
>通りすがりさま
>源家三代墓
貞暁にもゆかりのものだったのですね。
御教示、ありがとうございます。
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正福寺展
先週1週間一人旅で遊んでおりまして、遊び癖がついてしまい、今週も適当に仕事をしておりまして、半休を取って相国入道さまにご紹介いただきました正福寺展に行ってきました。
正福寺地蔵堂って確かに古い建物ですね。また、色々史跡があって東村山って面白いところです。もしかして、鎌倉街道沿いって、いろいろ面白いものが残っているかもしれませんね。
徳蔵寺にある元弘の板碑ですが、新田軍の鎌倉侵攻を史実として裏付けるという点で重要なものなのですね。
ちょっと、板碑の解説を見ていましたら、北海道から九州まで分布していると書かれておりまして、「北海道」という文字を意外に思いました。私の歴史知識では、蝦夷地に日本の勢力が到達するのは江戸時代頃で、鎌倉〜室町時代では蝦夷地に日本の勢力が及んでいるとは思えなかったからです。最も古いものは、貞治の碑と言われ、1367(貞治6)年2月と記載されているそうです。この時代に、和人が住んで昆布などの取引をしていたようですね。
http://www.domaibun.or.jp/nenpo8.pdf?? (p61〜p62に記載)
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無象静照のこと
NAO4@吟遊詩人さま
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
蝦夷地とは意外ですが、この地が配流先に選ばれたのは、花山院忠長が初めてですか。
無象静照はたしか中国留学を経験していて、以前から関心があるのですが、どのような
解説がありましたか。
近世地誌『通念集』をググってみますと、寛文期の成立のようなので、江戸の初期では、
頼朝・実朝・政子が源家三代と観念されていた、という時代思潮の表れでしょうか。
政子が「源家」というのは、どうも納得がゆかぬのですよ、かりに「将軍」であったとし
ても(笑)。
真ん中の墓石が頼朝で、長幼の順で(将軍宣下の順)、左(向かって右)が頼家、右
(向って左)が実朝、と考えるのが、鎌倉時代として自然のような気がするのですが。
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頼家見ぃつけた!
頼家っていっつもスル〜なんだよね〜と考えていたのですが。
「落第忍者乱太郎」という漫画をご存知でしょうか。
主役のクラスメイトの中に、
「皆本金吾」くんがいます!
お父さんは「皆本武衛」なので、
この場合の皆本金吾くんの名前の元ネタは今川了俊じゃなくて頼家です!!
よかったね頼家〜!(違?)
作者の尼子騒兵衛さんは竹崎季長をこよなく愛しておられる方で、
以前NHKの歴史番組でも熱く季長を語っておられました。
『落第忍者乱太郎』も、時代考証がしっかりしていて、小学生向けの連載とはいえあなどれません。
(というか、最近はさり気に高度な内容になりつつある)。
アニメしかご存じない方、機会が合ったらぜひ原作をどうぞ。
当時の火薬の作り方とか、火縄銃の連射方法とか、歴史雑学知識満載で、
私、この漫画大好きです。
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自治体史の刊行・著書・企画展のお知らせ
?自治体史刊行のお知らせ
『新横須賀市史』資料編古代・中世?が刊行されました。
内容は、鎌倉幕府滅亡から戦国時代末の小田原北条氏滅亡までの三浦一族の姿を示す史料・三浦郡を支配した北条氏規の関係史料を編年で1286点集録。また、三浦一族の系図を十種掲載しています。
先に、『新横須賀市史』資料編古代・中世?とともに、鎌倉・南北朝・室町・戦国時代の三浦氏の史料が一堂に収載されているのはおそらく今回が初めてとのこと。
三浦氏研究のみならず、各時代の研究者にとっても必携の資料集と思いますので是非購入をお勧めいたします。
定価は、各4,000円。
購入先は
直接は、横須賀市役所本庁舎一階市政情報コーナー・各行政センター・役所屋にて販売。
郵送は、現金書留で市政情報コーナー宛にお送りくださいとのこと。送料は450円(切手で可)2冊以上または、他の刊行物とあわせて購入される場合は、送料を市政情報コーナーにお問合せください。
横須賀市役所 市政情報コーナー
〒238−8550 神奈川県横須賀市小川町11番地 ?046−822−8186
『市史研究横須賀』も刊行中。現在6号まで発刊されています。
内容は中世のみ掲出いたします。
第1号 2002年(平成14)2月刊行
≪史料紹介≫ 新出の北条家虎朱印状について 真鍋淳哉氏
第2号 2003年(平成15)1月刊行
『吾妻鏡』にみえる騎射芸 近藤好和氏
≪史料紹介≫ 新出の津久井村宛里見義康制札について 真鍋淳哉氏
第3号 2004年(平成16)2月刊行
≪座談会≫ 「資料編古代・中世?」発刊に向けて 古代・中世部会
対談者 山中裕氏・山田邦明氏・近藤好和氏・高橋秀樹氏・真鍋淳哉氏
天文後期における北条氏の房総侵攻 黒田基樹氏
大明寺の寺史と彫刻 上杉孝良氏
第4号 2005年(平成17)3月刊行
三浦一族を読み直す 高橋秀樹氏・真鍋淳哉氏
第5号 2006年(平成18)3月刊行
無量寺聖観音菩薩像とその周辺 上杉孝良氏
本市域の南北朝・室町期の武蔵型板碑 渡辺美彦氏
≪書評≫『新横須賀市史』資料編古代・中世? 上杉和彦氏
第6号 2007年(平成19)3月刊行
≪座談会≫ 「資料編古代・中世?」発刊に向けて 対談者 山中裕氏・山田邦明氏・黒田基樹氏・高橋秀樹氏・真鍋淳哉氏
定価は各500円となっています。購入先は『新横須賀市史』と同じ場所ですので一緒に問い合わせてください。
?著書のお知らせ
『中世東国の内海の世界』霞ヶ浦・筑波山・利根川 が発刊。
この本は、昨年の8月茨城県立歴史館におきまして開催されましたシンポジュウム「中世東国おける内海世界ー霞ヶ浦周辺の新しい歴史像を描くー」を基に編集された著書です。
ここの掲示板に参加さている方も沢山出席されていたのを記憶しております。
内容は以下の通りです。
総論 東国の内海の世界
内海論から見た中世の東国 市村高男氏
「常総の内海」香取平野の地形と歴史時代における環境変遷 久保純子氏
第1部 武士と城館
内海世界をめぐる武士勢力の連携と競合 高橋 修氏
中世小田の歴史的景観 広瀬季一郎氏
中世筑波北条の歴史的景観 大関 武氏
戦国期における真壁城と周辺の景観 宇留野主税氏
第2部 津・湊と開発
古河公方領国における流通 内山俊身氏
常陸国「海夫注文」ノート 飛田英世氏
江戸崎土岐氏旧臣による新田開発 盛本昌広氏
第3部 宗教と文化交流
中世霞ヶ浦における律宗の活動 桃崎祐輔氏
中世「出島」の宗教文化 千葉隆司氏
顔料が語る中世筑波の文化交流 朽津信明氏
【特論】
色川三中の史料収集をめぐって 宮内教男氏
発行は高志書院03−5275−5591 定価は3,500円+税です。
『鎌倉』第104号刊行 中世関係のみ掲出します。
建長寺の釈迦三尊図と十六羅漢図 村野真作氏
日中禅僧の交流 福島洋子氏
古河公方家臣畠山内匠頭試論 佐藤博信氏
(特集 鎌倉学)
鶴岡八幡宮の諸堂について 浪川幹夫氏
鎌倉彫志料考 吉野洋三氏
問合せ 鎌倉文化研究会〒248−0016 鎌倉市長谷3−11−2
??????????長谷寺宝物館内?0467―22―6300
?企画展のお知らせ
金沢文庫では下記の企画展を12月6日から平成20年2月11日まで
『学僧 湛睿の軌跡』を開催しています。湛睿は、鎌倉末・南北朝期に活躍した称名寺第三代長老にあたります。鎌倉幕府滅亡・中先代の乱・足利尊氏の後醍醐天皇への反乱・千葉氏の内乱を記した土橋の動乱を直接記録しています。特に中先代の乱は湛睿が称名寺にいたときに発生しディアルタイムで記録してるのは本当に必見です。
湛睿は、泉州久米田寺(当時は久米多寺 大阪府岸和田市)にも赴き学問を修めたそうです。久米田寺は、以前ここの掲示板でも話題になっていましたね。
私は、室町幕府2代将軍足利義詮花押が、高師直の花押を模したものから、足利様花押に変化した直後の文書を所蔵しているところでも有名なお寺です。
そうした貴重な資料が展示されています。また、来年の1月19日から展示替えがあるそうですので併せてお知らせいたします。
また、源家の話題が出ていますが、『金沢文庫研究』319号に
「源家一門考」 永井晋氏の論稿がありまこしたのでこちらもお知らせいたします。
今回の企画展の図録・『金沢文庫研究』ともに定価は800円です。
問合せは金沢文庫045−701−9069にお願いいたします。
長くなりましたが以上お知らせいたします。
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またまた、勝手に留守番
>筆綾丸さま
>無象静照はたしか中国留学を経験していて、以前から関心があるのですが、どのような
解説がありましたか。
図録「特別展 正福寺展(東村山ふるさと歴史館)」には、残念ながら、無象静照について、人物等の
詳細は書かれておりません。
・北条時頼と書簡のやり取りのあった石渓心月(仏海禅師)の弟子である。
・法兄(ほうひん)である宋朝僧大休正念が来日した。
・無象静照(法海禅師)は、文永2年(1265)に帰国し、
博多の聖福寺、その後鎌倉の大慶寺ん住職を勤め、
仏心寺(京都市)、宝林寺(宮津市)、興禅寺(高萩市)の開山でもある。
と書かれているくらいでしょうか。特別展でも同じような記載であったと思います。
>政子が「源家」というのは、どうも納得がゆかぬのですよ、
実は私は、逆に納得がいってしまったのです。
「相模三浦一族とその周辺史(鈴木かほる、新人物往来社)p179」に、
北条時政が遠江守、北条義時が相模守、北条時房が武蔵守に任官したのに対して、
和田義盛が上総国司を望んだが、尼政子が「源氏以外は受領の例はない」として許容しなかった。
という話があり、政子は、自分は勿論一族の北条氏も平氏ではなく源氏の一族と見ていたのではないかと思えたからです。
→政子を「源家」としても問題なさそう。
また、嘉禄二年(1226)4月4日、執権北条泰時が将軍家の追善供養を修めた際、頼家の娘竹御所が参列したにもか
かわらず、頼家の供養はされず頼朝、政子、実朝の法華経のみが奉納されている(吾妻鏡)。
頼家は、仏になっても不吉とされていたようである。
「相模三浦一族とその周辺史(鈴木かほる、新人物往来社)」p169
→どうも、頼家は(北条氏に暗殺された可能性が高く)忌み嫌われた。
などが、その理由でございます。ご批判賜れば、ありがたく。
>はぎつきみたえさま
>「落第忍者乱太郎」
アニメは時々見ているのですが、そんな深い背景があるとは、知りませんでした。
>相国入道さま
またまた、ご案内ありがとうございます。
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墓の怪
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html
『吾妻鏡』嘉禄2年(1226)4月4日には、たしかに、右大将家・右府将軍・二品とあり、
また、故二品のため、大倉新御堂に三重塔建立が始まった、とあり、頼家は全く除外され
ているので、これだけみると、「源家三代」は頼朝・実朝・政子の三人の如くにみえな
くもありません。
しかし、前年嘉禄元年(1225)7月11日の二位尼死去の条をみると、二位尼は大将軍の後室
で、二代将軍の母儀だった、とあって、この記述における「源家三代」は、頼朝・頼家・
実朝である、というふうに読めます。気になるのは、次の文で、政子を呂后になずらえて
いることです。『史記』では、「高祖本紀」のあとに「呂太后本紀」を置いて、呂后は
「皇帝」扱いなんですね。『吾妻鏡』の編者は、『史記』に倣い、源氏三代の後に、別姓
の二位尼が、実質的な将軍として君臨したが、呂后が劉姓でないように、二位尼は源姓で
はない、呂后が皇位の簒奪者なら、二位尼も将軍位の簒奪者だろう、と暗示してるように
思われなくもありません。嘉禄2年4月4日の記述だけで、「源家三代」を帰納するのは
早計ではあるまいか。
また、政子を「源家三代」に擬制してしまうと、頼家の遺児竹御所を頼経の正室にした政
治的意味がなくなってしまうように思われます。高齢(28歳)の竹御所鞠子を少年の頼経
に強引に嫁がせたのは、源家の血を絶やすまいとする政治判断ですよね。
『吾妻鏡』の竹御所の記述が気になり、死去の前後をみますと、文暦3年(1235)7月27日
条の竹御所一周忌に、竹御所の姫君の御除服の儀があった、とあります。一年の服喪で
すから、この姫君は竹御所の実子とみていいのでしょうね(猶子や養子の服喪期間がわ
からぬのですが)。これは、頼経の子だろうか、連れ子だろうか、と思いました。
後者とすれば、竹御所は頼経に嫁ぐ前に、誰かと結婚して子をなしていたのか、と思い
ましたが、そんなこと、ありえないですよね。これは、ただ単に、竹御所の子である姫
君ではなく、竹御所なる姫君(御台所)という意味かな。
頼経と竹御所の婚儀の翌年(1231)2月20日に、頼朝の遺児貞暁が高野山で死んでます
が、『吾妻鏡』同年6月22日条に、貞暁は所領を西園寺家の若公に遺領した、という
記述があり、なんで西園寺家なのか、と疑問に思いました。高野山での生活の面倒を
西園寺家がみていたのかしら。あるいは、北条氏に殺されていてもおかしくなかった
のに、西園寺家が奔走して助命してくれた恩返しでもあったのかしら。・・・どうも
よくわかりません。
高野山の金剛三昧院多宝塔は、貞応2年(1223)に政子が建立を命じ、元仁2年(1225)
10月に入仏供養が行われたとしますと、政子は多宝塔の建立とともに、多宝塔と同じ敷
地に、三基の墓石の造立も命じたのではないか。この三基は、頼朝・頼家・実朝の三人
であったが、入仏供養の時、政子は直前に死んでいないので、玉突きの原理で三人の
うち一人が弾き出され政子が納まった、頼家と実朝のどちらが弾き出されてもよかっ
たが、いちばん影の薄い頼家が弾かれて、爾後、「頼朝・実朝・政子」三代の墓と伝承
されるようになった・・・と妄想してみました。
政子が源家の菩提を弔うとして、いくら鬼女でも、自分の腹を痛めた頼家を除くなどとい
うのは、人間性の問題として、不自然ですよ(笑)。我が子を殺めることは、母性として
不自然ではありませんが、すでに亡き我が子の菩提を弔わないのは、母性として非常に
不自然なんですね(笑)。
「源家三代の墓」の当初の姿は、頼朝・頼家・実朝であって、多宝塔供養の直前という
絶妙な時期に政子が死んだので、頼家を蹴落として政子が割り込んできた、ということ
ではないしょうか。それは政子の本意ではなかった筈だ。・・・もちろん、ただの妄想
にすぎませんが。
追記
「嘉禄二年(1226)4月4日、執権北条泰時が将軍家の追善供養を修めた際、頼家
の娘竹御所が参列したにもかかわらず、頼家の供養はされず頼朝、政子、実朝の法華経
のみが奉納されている(吾妻鏡)」
ですが、『吾妻鏡』には、「頼家の娘竹御所が参列したにもかかわらず」などという文
はないので、著者が何を引用したのか、不思議ですね。また、『吾妻鏡』の記述から言
いうるのは、頼家についての言及がない、というだけであって、頼家の供養があったか
どうかは不明である、ということになりますね。
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花押と射影
相国入道さま
「室町幕府2代将軍足利義詮花押が、高師直の花押を模したものから、足利様花押に
変化した直後の文書」
佐藤進一氏の『花押を読む』には、たしか、高氏の花押は高時の花押を模して、「高」
と「氏」を合体したもので、これが将軍家の武家様花押の濫觴であり、師直の花押は
高氏の花押を模したものである、他方、直義の花押を継承した鎌倉公方は将軍家に
対して独自性を主張した、とあったかと思います。
そこで、疑問なのですが、将軍家の義詮が執事如きの花押の真似をする、などという
ことが、あの時代、ありうるものなのでしょうか。
花押の謂わば射影として、高氏→師直→義詮ではなく、あくまで、高氏→義詮であって、
かりに師直と義詮の花押が瓜二つであっても、師直→義詮とはならないような気がする
のですが、いかがでしょうか。
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足利義詮の花押について
>筆綾丸さま
足利義詮の花押が高師直を模したものと指摘してるのは、佐藤博信氏の論文「足利義詮の花押について」で紹介されています。
文章を引用いたします。
「年少の鎌倉殿義詮の元服式と御判始は、時の関東管領(上杉憲顕と高師冬)の主導によって幕府との関係において政治的に執り行われたと評価される。その両者の際立った性格の相違は、時の幕府内部の二大政治勢力の拮抗(足利直義と足利尊氏、高師直の対立に象徴される)の所産であったわけであるが、その段階的相違は当時の関東管領間力のバランスの変化(高師冬の権力強大化)に対応するものと考えられる。それは、結果的には上杉氏は名としての一字を高氏は実として花押をとったともいえないのである。こうしたこと自体、鎌倉殿義詮がその二大政治勢力の狭間に存在していたことを雄弁に物語る事実ではなかろうか。」としています。さらに佐藤氏は「これまでの直義の地位の後継者としてのみならず将軍職の後継者として義詮を京都で迎えたであろう高師直には、前途洋々たるものがあったに違いない。その限りでは、将軍の執事であってそれほど独自権力基盤を持たなかった高氏(こうし)であるが、あくまでも義詮を通じて「第二の北条氏になる可能性は必ずしも絶無ではなかった」(この点は石田善人氏「室町幕府論」参照しています)ようにおもわれるのである。」としています。しかし高師直が観応の擾乱によって滅亡したため、義詮は足利様の花押に改判したとも、佐藤博信氏は指摘しています。『中世東国の支配構造』思文閣出版1988年に所収されていますので見てください。
また、鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉朝宗の花押を模しているということ(同書所収「足利持氏花押について」)も、指摘していますのであわせてお知らせいたします。
それから、筆綾丸様『織田信長文書の研究』が話題に上がっていましたね。私もこの本がほしくて、出版社に何度も問い合わせたのですが、重版準備中で中々再販がでませんでした。古本屋で見つけてもとても手の届くような金額ではなかったので、コピーをとってその場をしのいだという思い出があります。
大学を卒業してもついに出版されずに、それからしばらくして再販された時は真っ先に購入したことは言うまでもありません。
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歴史観
勝手に留守番をさせていただいておりますが、私は歴史のプロではなく、ここに集うプロ系の方のような、一次資料に基づく議論ができないのが、口惜しくもあり、読者の方に申し訳なくも思うのですが、今後も少しづつ勉強させていただき、自分の歴史観を形成いたしたく考えております。
>筆綾丸さま
私が、「源家」を「頼朝、実朝、政子」と聞いて、納得してしまったのは、先にあげました本を通して、この考えを受け入れる素地が出来上がってしまっていたからでありまして、ご指摘のように、他の多くの史料を読みこなして総合的に判断したわけではございません。
ただ、「頼家が忌み嫌われていた。」と言われて、納得してしまう理由は他にもございまして、頼朝、政子、実朝の墓は鎌倉にあるのに対して、頼家の墓は修善寺のみで、鎌倉には供養塔すらないためであります。これは、頼家が祟るのを恐れたためではないかと思ってしまうわけです。
>高齢(28歳)の竹御所鞠子を少年の頼経に強引に嫁がせたのは、源家の血を絶やすまいとする政治判断ですよね。
実朝が暗殺されたとき、すでに宮将軍の下向の内諾が得られていたと言いますから、この際、源氏の血は関係なくなっていたのではないかと考えられるのですが。
宮将軍の実現を後鳥羽上皇に反故にされて、摂家将軍として女系で源氏の血をひく三寅くんを鎌倉殿に押し立てたわけで、竹御所を娶らせたのは、「源家の血を絶やすまい」としたのではなく、新将軍を北条氏としてよりコントロールしやすくするために、政子の息のかかった姫を嫁がせたと考えられるのですが。
5代将軍頼嗣の正室は、執権北条経時の妹ですよね。この辺から推測しても、源氏の血というより、北条家の意のままに動かせるかどうかということが重視されたのではないでしょうか。
東国武士団にとって、清和源氏という血は必須ではなく、自分たちの利益代表となり、訴訟を裁く象徴であればよく、高貴な血を引いていればそれでよいということではないでしょうか。
>相国入道さま
>『織田信長文書の研究』
>再販された時は真っ先に購入したことは言うまでもありません。
本当に、歴史が好きなのですね。
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見渡せば花も紅葉も・・・反定家風
NAO4@吟遊詩人さま
頼家と公暁に対して、鎌倉は冷酷すぎますね。権力闘争ですから、邪魔者を消すのは止む
を得ぬにしても、菩提くらいは弔ってやれよ、と義憤(?)を感じますね。
「新将軍を北条氏としてよりコントロールしやすくするために、政子の息のかかった姫を
嫁がせた」
仰る通りですね。源家の血というのは、なんと言いますか、共同幻想のようなものなので
しょうね。
竹御所鞠子は、周囲に強面のおじさんや魔女のようなおばさんがいたにしても、なぜ、
とっと出家しなかったのか、俗世に生きていても北条一族に利用されるだけなのはわかり
きったことじゃないか、つくづく馬鹿な女だ、という思いがあります(これは決して
侮蔑の言葉ではありませぬ)。
相国入道さま
御丁寧にありがとうございます。早速、読んでみました。
鎌倉殿義詮の補佐は、上杉氏と高氏の二人で、前者は直義派、後者は尊氏派である。
義詮元服の時は、前者の影響の下で義の字が択ばれ、数年後の御判始の時は、後者の影響
の下で師直の花押が択ばれた。つまり、上杉氏は名として一字を取り、高氏は実として
花押を取った、と。
注(9)「花押の重みは、形式的な一字よりはるかに大きい」という文言からしますと、
鎌倉殿義詮をめぐる争いは、高氏の勝ちということになりますか。花押には花も実も
あった、と。しかし、花も実もない義の字が室町将軍家の通字となった、というところ
が歴史の綾ですね。義の字を原拠に、三代義満が公家様花押を創出して、絢爛と花開く
訳ですから。最後に見渡せば花も紅葉もあったのは義である・・・と。とても面白い現象
ですね。
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桜川市歴史民俗資料館
今日の書き込みは、あまりウラが取ってありません。ご容赦ください。
昨日、12月16日(日)は茨城県桜川市歴史民俗資料館で開かれております「桜川市の中世史料展」の最終日でしたので、ちょっと無理をして行って参りました。
この歴史民俗資料館狭いし、結構年季も入っているのですが、展示してあるものは結構凄いですね。加茂部文書(北条時政下文)とか、真壁長岡古宇田文書(関東下知状)など見入ってしまいました。実家の近所でありながら、この地域あまり来たことが無く、中世の史料が豊富で、歴史のある地方なのですね。
それで、思ったことが2点ございまして、
(1)この近所のつくば市に「北条(ほうじょう)」という地名がございまして、高校生の頃から不思議な地名だと思っておりました。どうも、北条得宗家の所領だったのではないかと思えてきました。
(2)桜川市民俗資料館の関東下知状を眺めておりますと、署名は「陸奥守平朝臣」「相模守平朝臣」で、やっぱり北条氏は、しっかり「平氏」を自覚しているよなあと思いまして、先の投稿で
>尼政子が「源氏以外は受領の例はない」として許容しなかった。
というのは、やはり変な話だよなあと思ったわけです。政子が自分を源氏だというのは許せても、縁戚とはいえ、北条氏を「源氏」とは言わないだろう。これが、もし「源家」と言うのなら、まあありうるのかなあと思ったわけです。
桜川市民俗資料館があるのは、旧真壁町でして、鄙びた町ですが、行ってみると城下町の町割が何となく残っておりまして、結構面白いです。国指定史跡「真壁城址」も開発されずに田んぼとなって残っていたので、往時を連想するのになかなか良いです。
>筆綾丸さま、相国入道さま
>足利義詮の花押について
面白く拝聴いたしました。ありがとうございました。
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すぐに第2回。
第2回「『実隆公記』を読む会」のお知らせ
下記のとおり会のご案内をいたしますので、ご参加の程お願いいたします。
なお、資料準備の関係上、参加希望の方は、あらかじめ担当者(下記連絡先)までご連絡いただけると幸いです。
記
日 時:2008年1月12日(土) 14:00〜
場 所:就実大学 附属図書館3階 スタディルーム
※図書館を初めてご利用される方は、2階の入り口で閲覧手続きまたは利用証の発行手続きを行ってください。ゲート前で、中の職員に呼びかけてくだされば結構です。身分証が必要となります。
その他:終了後は、懇親会を予定しています。
http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/kibi/index.html
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最後の晩餐と鯨
kariさま
『岐阜県史 資料編 古代・中世 補遺』(184頁)をみていましたら、下野守東常縁が
宗祇禅師に宛てた書状がありました。
秘蔵の黄門の色紙一枚を賊に奪われ、余念止みがたきところ、奇特にも再領し、一入
感涙候、最近、郡上八幡の山中に庵を結び、憚り乍ら、小倉山荘になぞらえ、老の
すさみ所とせばや・・・老後はなににつけても涙もろく候て・・・穴賢、(文明十四
年カ)極月十八日、というようなものです。
15世紀後半における定家の有り様がわかって面白い書状ですが、実隆の日記には、宗祇
から受けた古今伝授や定家の色紙などについて言及した箇所はありますか。
NAO4@吟遊詩人さま
相国入道さま
『織田信長文書の研究』で、最も衝撃を受けたのは(笑)、尾張水野直盛宛黒印状
(下巻266頁)でした。著者は天正五年に比定してますが。
鯨一折到来候、細々懇情、別而悦入候、猶参上之時可申候也
正月十六日 信長(黒印)
水野監物(直盛)殿
おどろいて、中村直勝『日本古文書学 上』をみると、「細川家文書」として、織田信長
黒印状(折紙)があり、日付は正月十二日(年号不明)、宛名は長岡兵部大輔(細川
藤孝)、馬蹄形の黒印、印文は天下布武で、料紙の袖に追而書として、次の如くありま
した。
追而此鯨、去九日於千多郡取之由候て、到来候、則禁裡御二御所進上候、我々服用の
すそわけに遺之候、随分規模可得其意候
水野監物は、信長にいろんなモノを献上してますが、知多半島の沖合で、晩冬から初春に
かけて、鯨は獲れたようですね。
信長没年の天正十年(1582)の「御湯殿上日記」1月6日条に、信長から禁裏へ初鯨が献上
されて摂家と精華家に分配された、とあり、また、「言経卿記」同月同日条に、京都所司
代春長軒村井貞勝を介して、正親町天皇と誠仁親王並びに公家衆に初鯨の献上があった、
とあり、さらに、「兼見卿記」同月同日条に、吉田神社の兼見・兼治父子には初鯨のお
裾分けはなかったが、大炊御門経頼が分けてくれた、とあります。
以上の日記から、鯨肉が年頭の御進物だったことがわかりますね。
年の初めに鯨を食べるのは三河地方の風習だったのでしょうが、宮中で年頭に鯨を食べた
のは、もしかすると、これがはじめてかもしれないですね。宮廷食文化における信長の
革命か(?)。
この年の六月、本能寺で信長が死ぬことを考えますと、年頭に京都の御所と安土の天守閣
で鯨肉を喰らう風景は、レオナルドのウルティーマ・チェーナを髣髴とさせるものがあり
ます。
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百々橋と百々御所
『織田信長文書の研究』の続き。
もうひとつ興味を惹かれたのは、天正3年11月6日の新地給与です。これは、荘園制を朱印
制へと発展させた画期的なものだと著者は云い、多くの朱印状が例示されてますが、門跡
寺院とともに、尼門跡寺院へ新地給与しているところです。
ひとつは、三時知恩寺。これは、崇光の入江殿がはじまりで、義満の女(覚性仙尼)が入
って知恩寺と称し、称光の皇女(了仙尼)が入寺して比丘尼御所となり、住持は入江殿と
呼ばれた。
ひとつは、曇華院。開山の智泉尼は順徳の裔の四辻宮尊雅王の女で、初め瑞雲山通玄寺
を建て、さらに一宇を造り、のち両寺を併せて曇華院とした。
ひとつは、宝鏡寺。景愛寺の住持であった後光厳の皇女(華林恵厳禅尼)は、同寺内の
荒廃した福尼寺を興して西山宝鏡寺とした。後水尾の皇女(久厳尼)が入寺して比丘尼
御所となり、百々御所と呼ばれた。
ひとつは、宝鏡寺南御所。宝鏡寺内にあり、室町将軍家の女が入った。
これら尼門跡寺院に対する信長の宗教政策は、興味深いものですが、とくに百々御所が
面白い。
宝鏡寺の門前には、昔から、百々橋という橋があり、これが御所の通称になったようで
すが、安土のソウ見寺に至る道に橋を架け、信長は百々橋と命名したのですね。これ
は、宝鏡寺門前の橋の名を借用したのではあるまいか。
とするならば、信長はなぜ、己の寺に至る道に、尼門跡寺院に関係の深い名など採用し
たのか。もしかすると、この百々橋という名は、亡母土田夫人追慕の表象ではあるまい
か。母の産道(参道)を通って我が身(ソウ見寺)に至る、と考えれば、これは信長ら
しい合理的な象徴行為である、と言えなくもありません(笑)。
蛇足ですが、13世紀末の弘安年間に、無外如大は仏光国師の命を受けて五辻大宮に一宇
を建立し、寺号は「景仰仏姉母大愛道」に由来する景愛寺で、この寺の後身とも云うべき
ものが、百々御所こと宝鏡寺ですね。
さらに蛇足ですが、曇華院開山の智泉尼と石清水八幡宮祠官の善法寺氏との間に生まれた
娘の一人が義詮の側室となって義満を生み、もう一人の娘が後光厳の典侍となって後円融
を生む。従兄弟の義満に苛められ、後円融は精神に錯乱をきたして、正室三条厳子(後の
通陽門院)を峰打ちにしたり、俺はもう腹を切るぞと持仏堂に籠って拗ねたり・・・と
珍妙な事件が続発したのでしたね。
石清水八幡宮の祠官は、田中氏と善法寺氏の両者のようですが、田中氏に宛てた信長の
朱印状もありますね。平氏の信長は、源氏の神様も手厚く遇しているようですね。
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いや、とてもそこまでは。
筆綾丸さま。
古今伝授の記事ですが、とてもそこまでは目が届きませんでした。
今は、とりあえず主要登場人物の姓名を確定するので手一杯です。冒頭、文明六年の正月五日条までしか進んでいませんし。いずれ、何かあったらお知らせするつもりです。
その手の分野については、
宮川葉子『改訂新版 三条西実隆と古典学』風間書房、一九九九年
が詳しいようですね。
それはそうと、『実隆公記』には比丘尼御所が、もう嫌になるぐらい出てきますね。
安禅寺・三時智恩寺(院とも)・通玄寺・曇華院・宝鏡寺・同大慈院(南御所)・真乗寺・大聖寺、とおおよそは後花園院の娘たちですが、法名すら分からない場合が多いです。先行研究も苦闘しているようですね。
大塚実忠「比丘尼御所歴代」『日本佛教』二六号〜三二号、一九六七〜七〇年
荒川玲子「景愛寺の沿革」『書陵部紀要』二八、一九七六年
山家浩樹 「無外如大と無着」『金沢文庫研究』三〇一、一九九八年
大石雅章「比丘尼御所と室町幕府」同『日本中世社会と寺院』清文堂出版、二〇〇四年
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西
kariさま
いつも質問ばかりで恐縮ですが、なにかわかりましたら、お教えください。
御紹介の「比丘尼御所と室町幕府」は、ゾクゾクするような題名ですね(笑)。早速、
さがしてみます。
実隆が宗祇興行の連歌に脇句を送ったものがありますが、その時の筆名は、西、なんで
すね。時代が下って、近衛前久・信基父子が里村紹巴と連歌をした時の筆名は、前久が
杉、信基が春、の一字なんです。
堂上貴族が地下人と地下連歌をするとき、筆名を一字にするのは、三条西実隆の創始で
あろうか、などと妄想しました(中院家には、肖柏という世捨人のような連歌師がいま
したけれども)。
転法輪三条は輪、正親町三条は町、万里小路は里、甘露寺は露、西洞院は洞、花山院
は鼻・・・などという連歌の切紙が出てくれば面白いな、などと思っています(笑)。
追記
『静岡県史資料編7中世三』を眺めていましたら、大永5年(1525)9月21日の駿府百韻
連歌として、次のようなものがありました(大坂天満宮御文庫所蔵、同書311頁)。
千秋をも隔てぬ菊のまがきかな 梅
紅葉の山の庭の松が枝 宗長
てる月のうつろふ軒端夜ならで 相
宗長は柴屋軒宗長ですが、なんと、梅は正親町三条実望、相は正親町三条公兄とのこと
で、私の寝言もまんざらではなかったようです(笑)。正親町三条は、親子で駿河の
太守のお世話になっていて、実隆としばしば書状を交わしていたようです。実望は駿府
で文字通り客死しました。今川家は豊かだったのですね。実隆は寿桂尼から贈られた
富士海苔を内裏に献上してますが、海苔と鯨の差は大きいようですね。
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Re:百々橋
>筆綾丸さま
面白いお話ありがとうございました。安土の「百々橋」って、総見寺山門下にある橋ですよね。そんな名がついているとは初めて知りました。無粋ですが、私なりに「百々(どど)」ググってみたり、語源事典にあたってみたりしました。
●日本地名語源事典(吉田茂樹、新人物往来社)では、
「ドウドウ(動動)」の約化した地名で、川音の高い場所を言う。
とありまして、宝鏡寺の門前の「百々橋」も安土の「百々橋」も同じ語源と考えるのが自然ではないかと思いました。
●私の妄想ですが
もし、安土の「百々橋」を後から信長が命名したとすると、宝鏡寺の門前の「百々橋」が、応仁の乱で東西両軍が向かい合ったことから、戦国の始まりと考えられますので、宝鏡寺前の「百々橋」から始まった戦国の世を、安土の「百々橋」で終わりにしようという信長の天下一統の意思表示ではあるまいか。
と思ったわけです。
◎「千姫」関係で
歴史読本2003年5月号「特集 信長と26人の子供たち」を読んでいまして気づいたのですが、
信長の娘「五徳」と家康の嫡男「信康」の次女「久仁」は、本多忠政に嫁いでいたのですね。この話どっかで聞いたようなと、思い返してみると、千姫は秀頼と別れた後、本多忠刻に嫁いでいるという話がありましたよね。ということは
「久仁」の父方(信康)の祖父は徳川家康、母方の曽祖父は織田信秀(信長の父)
「千姫」の父方(秀忠)の祖父も徳川家康、母方の曽祖父は織田信秀(お市の父)
となり、「本多忠刻」から見ますと、母親と妻が、血統上似たような立場になります。
母と妻が似ていたかどうかは分かりませんが、血統上近い忠刻と千姫の間の子供が健康に育つ可能性は低いのでは?、と思われ、千姫が子供に恵まれず、伊勢の慶光院に相談した話と、全ての話がつながってくるのです。
>kariさま
面白く、有益な情報ありがとうございました。
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ドドバシ・カメラ
NAO4@吟遊詩人さま
http://it.wikipedia.org/wiki/Camera#Arte
イタリア語の CAMERA(カーメラ)は、暗箱、ウィルソンの霧箱、燃焼室、ゴッホのアル
ルの部屋、立法府の上院・下院・・・というように守備範囲が広く、日本語化したカメラ
とはかなり違いますね。
百々橋は、どよむ、に由来するのではないか、と日葡辞書をみますと、Doyomu とあって、
遠くから大声でわめく、また、大砲などが轟音を立てて鳴り響く、とありました。
応仁の乱のとき、橋の此岸と彼岸で、東軍と西軍がどっと鯨波の声をあげたので、爾来、
Doyomu 橋→百々橋、となったのではあるまいか(笑)。
また、この Doyomu は、百笑(どめき)や百目鬼(どうめき)に通ずるので、百々橋カメ
ラとは、ひとりでに不気味な音を発生する箱で、陰陽師が使ったものではあるまいか。
いずれにせよ、日葡辞書にも採集されているくらいだから、宣教師の報告により、ローマ
法王庁は、宝鏡寺と安土の百々橋カメラの実態を把握していた可能性がありますね。
五徳と信康には子供がいたのですね。はじめて知りました。
追記
さきほど、この映画を見てきました。
http://www.cinemacafe.net/news/cgi/release/2007/10/2723/
千姫は谷村美月という女優さんが演じてました。
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補足:ドドバシ・カメラ
>ウィルソンの霧箱
って、この掲示板では異色な感じがしますので、補足させていただきますと、
高校の物理に出てくる荷電粒子を見ることができる実験器具です。イギリスのウィルソンが発明したのでこの名があります。
>百目鬼(どうめき)
をググってみると、↓のサイトが見つかり、平将門 or 藤原秀郷との係わり合いが語らえています。
http://www.st.rim.or.jp/~success/domeki_ye.html
>「茶々」
「和央ようか」ですよね。見たいような、(南蛮鎧姿の淀殿が)見たくないような。
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トホホな治天としてやったりの将軍
と申しますと、こちらのアーカイブスの史料にも入っている
kariさまが以前見事な現代語訳をしてくださった後円融天皇の格好悪いエピソードでございますが。
今『室町の王権』(今谷明 中公新書)を読んでいます。
この本の中にも上記のエピソードがでてきます。
こちらの掲示板であのエピソードを読んだときは「アホウな治天だなあ」と思っただけだったのですが、
この本で前後の事情を知ったら、急に後円融天皇がひどく気の毒に思えてきてしまいまして、
「確かにめちゃくちゃだけど、なんか私がこの人の力になってあげられることってないかしら」などと、
没後614年後の今にしみじみ考えてしまったりしたのでした(遅)。
(私は地位に弱い人間なので、将軍だったら2割増し、天皇だったら3割増しといろいろ上げ底にしてしまいます(笑))
とりあえず来年、お墓参りでもしてこようかなあ。
調べましたら、お一人でなくみなさんでお眠りになっているようですね。↓
http://www5e.biglobe.ne.jp/~itiiti/rm_fukakusanokitanomisasagi.htm
さて、私、年末年始にお客様を迎えることになりまして、
ばたばた忙しくなりそうなのです。
こちらにお邪魔するのも今年はこれが最後かと。
早々ですが、ご挨拶申し上げます。
本年も、皆様に大変お世話になりました。
ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
また、変わらぬご教示ご指導のほど、重ねてお願い申し上げます。
来たる新しい年に、皆様のご健康とさらなるご活躍を祈念いたします。
良い年をお迎えくださいませ。
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ひさびさに出て来て宣伝。
再興中世前期勉強会2008年正月例会
♪ 書評会:細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』 ♪
日時:1月12日(土)14:00〜
場所:国士舘大学 世田谷キャンパス6号館 6106教室
小田急線梅ヶ丘駅下車、徒歩15分
東急世田谷線松陰神社前駅下車、徒歩6分
渋谷駅南口バス乗場18番「世田谷区民会館行」バスで終点下車、徒歩1分
http://www.kokushikan.ac.jp/campus_map/setagaya.html
内容:細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』
(日本史史料研究会、2007)の書評会
評者:秋山哲雄氏・鈴木由美氏・松吉大樹氏
つまり、10月に出たわしの本の書評会でござい。
誰でも参加できますので、興味のある方は、是非お出でくださいませ♪
宣伝だけでナンですが、では潜行いたします。ぶくぶく・・・・・。
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しばらくご無沙汰いたしております。
kariさま
お久しぶりにご挨拶申し上げます。
比丘尼御所については、私も興味があるのですが、勉強不足で、史料どころか先行研究さえも十分に把握することができない有様です。とりあえず、自分の手元にある(筈)の物件は、次のとおりであります。
木原弘美「天王寺妙厳院御比丘尼御所 ──中世大坂の寺院史についての試み──」(京都女子大学史学会『史窓』第五十八号、二〇〇一年二月、二三三〜三四二頁)
荒川玲子「景愛寺の沿革 ── 尼五山研究の一齣 ──」(『書陵部紀要』第二十八号、昭和五十二年(一九七七)三月、五七〜六九頁)
荒川玲子「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」(『書陵部紀要』第三十八号、昭和六十二年(一九八七)二月、一八〜三一頁)
菅原正子「中世後期の比丘尼御所 ──大慈院の生活と経営──」(『学習院女子大学 紀要』第六号、二〇〇四年三月、三七〜五四頁)
井野口有一・堀井令以知・中井和子『尼門跡の言語生活の調査研究』(風間書房、昭和四十年(一九六五)八月)【←これは値が高かったですが、昼食代と電車賃を節約して購入したものです】
内田美代子「室町時代における尼寺と尼」(京都橘女子大学歴史学会『橘史学』第10号、一九九五年十一月、二七〜四七頁)
『門跡尼寺の名寶』(霞会館資料第十六輯。東京都千代田区霞ヶ関、霞会館、平成四年(一九九二)六月)
※「門跡尼寺の名寶展」圖録。小田急美術館(平成四年八月十九日〜八月三十日)、和歌山市立博物館(平成四年九月五日〜十月四日)
今東光『古都の尼寺』(写真 葛西宗誠。京都、淡交新社、昭和三十六年(一九六一)十二月)
清岡純子『尼寺』(毎日新聞社、一九六七年四月)
※ 著者は「元子爵清岡家の三女」
雲輪瑞法『瑞法の尼寺めぐり』(東京都渋谷区渋谷、大法輪閣、昭和五十年(一九七五)三月)
谷口陽子『大聖寺控 ──京の尼門跡の聴き書など──』(私家版。東京、一九八六年九月二版)
山本静山『花のこころ 奈良円照寺尼門跡といけばな』(主婦の友社。昭和四十二年(一九六七)六月第一刷、平成二年(一九八九)四月第十八刷)
佐藤心弦・水野克比古『京の古寺から17 霊鑑寺』(京都、淡交社、一九九七年九月)
澤田惠〓【玉催】・水野克比古『京の古寺から22 宝鏡寺』(京都、淡交社、一九九八年二月)
以上、一般書も多いのですが...
また、先日、本屋で新刊書を手に取って見ましたところ、
菅原正子『中世の武家と公家の「家」』
(吉川弘文館、二〇〇七年十二月)
中に、
「中世後期の比丘尼御所 ―─ 大慈院の生活と経営」
が再録されておりました(お金がないので、買ってはおりません)。
NAO4@吟遊詩人さま
筆綾丸さま
昨日購入いたしました、
松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』
(歴史文化ライブラリー246)(吉川弘文館、二〇〇八年一月)
に、慶光院についての記載もありました。詳しくは、是非、本書を手に取られてみてください!
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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年末ですね。
>はぎつきみたえさま
>こちらにお邪魔するのも今年はこれが最後かと。
今年は、色々と楽しませていただきありがとうございました。
今年の話題として気になっていたのですが、
>カフェ・ド・シンラン
予定通りだと、28日(金)閉店ですね。話題性から言うと行ってみたかったのですが、今から会社休んで駆け込むほどのものでもないでしょうし、次の奇特?な企画を楽しみにしております。
>鈴木英雄氏の件
何となく、気になっていたのですが、調査進展ございましたか。
来年でも、良かったら、お教えください。
>釈由美子が好きさま
>♪ 書評会:細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』 ♪
御著書やはり名著だと思います。学術論文なのに退屈しませんし、いちいちなるほどなあと思いながら読んでおります。
>阿哈馬江さま
>比丘尼御所
いつのまにか引き込まれているのですが、色々ご紹介ありがとうございます。
>松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』
(歴史文化ライブラリー246)(吉川弘文館、二〇〇八年一月)
是非読ませていただきます。
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今日で何とか仕事納め。
阿哈馬江さま
比丘尼御所の関連論文についてご提示頂きありがとうございました。
そもそも、皇室関係は女子の実名が分かりづらく、法名の把握もままなりませんね。その寺院文書が残っていればよいのですが、それもほとんど活字化されていないでしょうし。
『大日本史料』の本文脇に名の注記があるのを見て、「一体、どの史料を根拠にしているのだろう」と悩むことも多いです。
とりあえず、文明年間の比丘尼御所には、後花園の皇女が圧倒的に多いということだけは分かります。
はぎつきみたえさま
古い証文のご引用ありがとうございます。
最近、『ZEAMI』という専門誌が発刊されまして、その4号(2007)に桃崎有一郎「足利義満の公家社会支配と『公方様』の誕生」という名論が掲載されています。それを読むと、つくづく義満というのは「権力の予期理論」(宮台真司)をうまく利用した権力者であるなあと感じます。
http://www.shinwasha.com/76-8.html
-
密子と犬公家
阿哈馬江さま
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E3%81%AE%E9%9B%AA
円照寺は月修寺のモデルですね。映画では、若尾文子が門跡を演じてましたね。
綾倉家は難波家の末で、家祖は、建保7年(1219)1月27日の実朝の右大臣拝賀に参列
した刑部卿三位宗長ですね。綾倉家には「刑三記」という秘伝の日記があって、実朝暗殺
や承久の変について重要な記述があるそうですが、残念ながら、未見です(笑)。
『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』
購入して、パラパラ、ながめています。
慶光院最後の院主が密子の盈子というのも面白いですが、三条西家と春日局の関係も興味
深いものがありますね。
「押小路家・壬生官務家の両家を両局といふ。地下官人の上首に位して、堂上などと縁組
し、堂上のまねをなせり。古人両局を評して、犬公家といへり。諺に蓼に似てタデに非ざ
るを犬蓼といふ。公家に似て公家に非ざるを犬公家といへり」(同書110頁)
なかなか強烈な表現ですね。
NAO4@吟遊詩人さま
慶光院シューマンは、同書に書いてあることが、どこまで本当かわかりませぬが、通説
のようですね。
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筆綾丸さま
> 慶光院最後の院主が密子の盈子というのも面白いですが
圓照寺の山本靜山門跡も、大正天皇の"密子"説(三笠宮との双子)がありますね。
kariさま
> 比丘尼御所
kari さまも便覧として御利用されているのではないかと存じますが、服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』(小学館、二〇〇二年十二月)の巻末の表がたいへんに便利ですね。ただし、室町期に関してはまだまだ検討の余地が残されているようであります。
> 『ZEAMI』という専門誌
何と! 専門誌らしからぬ誌名... さっそく確認してみなければなりません。
NAO4@吟遊詩人さま
> 是非読ませていただきます。
願わくば、感想もお聞かせくださいませ。
釈さま
どうぞ、あまり御無理なさりませんよう。
はぎつき様
良きお年を!
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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日本史史料研究会研究会会報『ぶい&ぶい』発刊。
日本史史料研究会研究会が会報『ぶい&ぶい』(無為 無為)を発刊しました。
『ぶい&ぶい』vol.001
A5版・本文19頁
価格:200円
[目次]
小論 「勝地」について 生駒 哲郎 1頁
書評1 中島善久著『官史補任稿 室町期編』
(日本史史料研究会研究叢書1、2007年5月) ??久保木圭一 3頁
書評2 細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』
(日本史史料研究会研究叢書1、2007年10月) 鈴木 由美 5頁
書評3 服藤早苗編『女と子どもの王朝史―後宮・儀礼・縁』
(森話社、2007年4月) 久保木圭一 9頁
※頒布をご希望の方は下記アドレスまでお願いします。
http://www17.plala.or.jp/t-ikoma/page032.html
※30日のコミケでも売ります。
>NAO4@吟遊詩人さん
>退屈しませんし、いちいちなるほどなあと
ありがとごじゃいます♪ いひひ。
>はぎつきさんはじめおのおの方
本年は、ありがとうございました。良いお年を♪
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003925M.jpg
-
附弟
>阿哈馬江さま、筆綾丸さま
>『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』
この本では、お万の方は、慶光院の「院主」では無くて、「附弟」の誤りであると書かれていますね。「附弟」とは、「法統を継ぐ者」とありますが、結局「将来、院主になる弟子」ということでしょうか。
大きな収穫ですが、こう判断した出典が書かれていないのが、残念です。(お万の方が主題ではないので、手抜きではないのですが。)
>阿哈馬江さま
まだ、感想を書けるほど読んでいないのですが、江戸時代の公家社会を知る上で、有益そうですね。
>釈編集長さま
>ぶい&ぶい
何と斬新で、奥深い命名なのでしょうか。(恐らく、音が先にあったように想像いたしますが) 名前もさることながら、生き仏研究者Iさまの論文が読みたいです。
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