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Japanese Medieval History and Literature

488NAO4@吟遊詩人:2007/12/15(土) 08:10:42
またまた、勝手に留守番
>筆綾丸さま
>無象静照はたしか中国留学を経験していて、以前から関心があるのですが、どのような
解説がありましたか。

図録「特別展 正福寺展(東村山ふるさと歴史館)」には、残念ながら、無象静照について、人物等の
詳細は書かれておりません。
・北条時頼と書簡のやり取りのあった石渓心月(仏海禅師)の弟子である。
・法兄(ほうひん)である宋朝僧大休正念が来日した。
・無象静照(法海禅師)は、文永2年(1265)に帰国し、
 博多の聖福寺、その後鎌倉の大慶寺ん住職を勤め、
 仏心寺(京都市)、宝林寺(宮津市)、興禅寺(高萩市)の開山でもある。
と書かれているくらいでしょうか。特別展でも同じような記載であったと思います。


>政子が「源家」というのは、どうも納得がゆかぬのですよ、

実は私は、逆に納得がいってしまったのです。

「相模三浦一族とその周辺史(鈴木かほる、新人物往来社)p179」に、
北条時政が遠江守、北条義時が相模守、北条時房が武蔵守に任官したのに対して、
和田義盛が上総国司を望んだが、尼政子が「源氏以外は受領の例はない」として許容しなかった。
という話があり、政子は、自分は勿論一族の北条氏も平氏ではなく源氏の一族と見ていたのではないかと思えたからです。
→政子を「源家」としても問題なさそう。

また、嘉禄二年(1226)4月4日、執権北条泰時が将軍家の追善供養を修めた際、頼家の娘竹御所が参列したにもか
かわらず、頼家の供養はされず頼朝、政子、実朝の法華経のみが奉納されている(吾妻鏡)。
頼家は、仏になっても不吉とされていたようである。
「相模三浦一族とその周辺史(鈴木かほる、新人物往来社)」p169
→どうも、頼家は(北条氏に暗殺された可能性が高く)忌み嫌われた。

などが、その理由でございます。ご批判賜れば、ありがたく。


>はぎつきみたえさま
>「落第忍者乱太郎」
アニメは時々見ているのですが、そんな深い背景があるとは、知りませんでした。


>相国入道さま
またまた、ご案内ありがとうございます。




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