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Japanese Medieval History and Literature
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黒印状
NAO4@吟遊詩人さま
奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 下巻」(吉川弘文館)を眺めていると、また驚い
たことに、「伊勢慶光院黒印状」がありました(729頁〜)。原文は漢文で、尼寺宛にし
ては異様な感じがしますが、釈文を全文、引用しますと。
今度東国在陣に就きて、祈祷の祓の太麻ならびに熨斗鮑三折到来、遠路の懇情喜び入り
候、将亦、造営の山口祭の事執行せしむるの旨、先ず以って然るべく候、作事の趣、
かれこれ平井弓右衛門尉申すべく候也、
(天正十年)四月十五日 信長(黒印)
(宛所欠く)
注釈は以下の通り。
祈祷の祓は慶光院が伊勢神宮で祓に用いる玉串。太麻は伊勢神宮で捧げる神符。あわびの
肉を薄くむき、のばして干したものが熨斗鮑。古くは食用としたが、後には儀式の肴や
進物の添えものなどにした。慶光院清順尼の努力によって戦国時代の伊勢大神宮(皇大
神宮・豊受大神宮)の遷宮が行なわれた。永禄六年(1563)の外宮(豊受大神宮)の正
遷宮、また天正十年信長の寄進による皇大神宮の正遷宮は、清順尼の勧進などの功によ
ることが多大である。信長が山口祭の執行されて結構だといったのはこの理由による。
信長が武田氏を滅ぼして安土に凱旋するのは、天正10年4月21日ですから、慶光院は、
武田氏の滅亡を祝して、間髪を入れず、信長の武運長久を賀したのでしょうが、清順
という尼さんは、なかなかの政治家です。慶光院は信長の父信秀の代からも、織田家
と関係があるようですけれども。
慶光院主の政治的な運動を考えますと、千姫の場合も、純粋な信仰心から出たものでは
なかったろう、という気がします。奇貨置くべし、つまり、これで徳川家との絆を強固
にできる、という打算があったのではないか。
お万の方が家光に見染められて「生贄」になった時、慶光院としては、いやさか、弥栄、
これで我が寺も安泰でおます、と言祝いだような気がしますね(笑)。
この黒印状のすぐ後、信長は死にますが、訃音に接して、慶光院主がどのような顔をし
たのか、目に見えるようです。
広告は仕方ないのですね。
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