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Japanese Medieval History and Literature

497筆綾丸:2007/12/19(水) 20:34:44
百々橋と百々御所
『織田信長文書の研究』の続き。

もうひとつ興味を惹かれたのは、天正3年11月6日の新地給与です。これは、荘園制を朱印
制へと発展させた画期的なものだと著者は云い、多くの朱印状が例示されてますが、門跡
寺院とともに、尼門跡寺院へ新地給与しているところです。
ひとつは、三時知恩寺。これは、崇光の入江殿がはじまりで、義満の女(覚性仙尼)が入
って知恩寺と称し、称光の皇女(了仙尼)が入寺して比丘尼御所となり、住持は入江殿と
呼ばれた。
ひとつは、曇華院。開山の智泉尼は順徳の裔の四辻宮尊雅王の女で、初め瑞雲山通玄寺
を建て、さらに一宇を造り、のち両寺を併せて曇華院とした。
ひとつは、宝鏡寺。景愛寺の住持であった後光厳の皇女(華林恵厳禅尼)は、同寺内の
荒廃した福尼寺を興して西山宝鏡寺とした。後水尾の皇女(久厳尼)が入寺して比丘尼
御所となり、百々御所と呼ばれた。
ひとつは、宝鏡寺南御所。宝鏡寺内にあり、室町将軍家の女が入った。
これら尼門跡寺院に対する信長の宗教政策は、興味深いものですが、とくに百々御所が
面白い。
宝鏡寺の門前には、昔から、百々橋という橋があり、これが御所の通称になったようで
すが、安土のソウ見寺に至る道に橋を架け、信長は百々橋と命名したのですね。これ
は、宝鏡寺門前の橋の名を借用したのではあるまいか。
とするならば、信長はなぜ、己の寺に至る道に、尼門跡寺院に関係の深い名など採用し
たのか。もしかすると、この百々橋という名は、亡母土田夫人追慕の表象ではあるまい
か。母の産道(参道)を通って我が身(ソウ見寺)に至る、と考えれば、これは信長ら
しい合理的な象徴行為である、と言えなくもありません(笑)。
蛇足ですが、13世紀末の弘安年間に、無外如大は仏光国師の命を受けて五辻大宮に一宇
を建立し、寺号は「景仰仏姉母大愛道」に由来する景愛寺で、この寺の後身とも云うべき
ものが、百々御所こと宝鏡寺ですね。
さらに蛇足ですが、曇華院開山の智泉尼と石清水八幡宮祠官の善法寺氏との間に生まれた
娘の一人が義詮の側室となって義満を生み、もう一人の娘が後光厳の典侍となって後円融
を生む。従兄弟の義満に苛められ、後円融は精神に錯乱をきたして、正室三条厳子(後の
通陽門院)を峰打ちにしたり、俺はもう腹を切るぞと持仏堂に籠って拗ねたり・・・と
珍妙な事件が続発したのでしたね。
石清水八幡宮の祠官は、田中氏と善法寺氏の両者のようですが、田中氏に宛てた信長の
朱印状もありますね。平氏の信長は、源氏の神様も手厚く遇しているようですね。




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