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Japanese Medieval History and Literature
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筆綾丸様へ
>筆綾丸様
レスが遅くなりましてすみませんでした。お尋ねの件ですが、私が紹介いたしました。
新井敦史著『下野国黒羽藩主大関氏と史料保存』78頁〜84頁に所収されていましたので、お知らせいたします。
それによりますと、領地目録とともに、江戸幕府将軍から領地朱印状というものが発行されます。以下は新井氏の文章を引用いたします。
「領地朱印状は、江戸幕府将軍が各大名に対して、従来の所領を引き続いて領有・支配することを承認する公文書であり、領地目録は、各大名が領有・支配する村々を書き上げた目録である。領地朱印状(石高十万石以上及び従4位下・侍従より上の大名へは領地判物)は、寛文4年(1664)4月5日付けで4代将軍徳川家綱から諸大名に発給され、同日付で領地目録も、御朱印奉行の連署をもって発給された。以後、将軍の代替わりごとに諸大名への所領確認がなされ、新将軍名の領地朱印状と領地目録がセットで発給されていくこととなった。領地朱印状の料紙には楮紙系統の上質紙である檀紙が使用され、領地目録の料紙は斐紙(雁皮紙がんびし)系統の間似合紙(まにあいし)が使用された。(これは、日本歴史学会編「概説古文書学近世編」1989年を参照したそうです。)
黒羽藩主大関氏宛ての領地朱印状と領地目録は、5代藩主大関主馬(増栄 ますなが)が受給した寛文四年4月5日付けのものから、13代藩主大関信濃守(増昭 ますあきら)が安政2年(1855)3月5日付けのものまで、計十組伝存しており、本高18000石の領地について公認されてきたのである。領有・支配する村については、江戸時代を通じて若干の変化が見られるが、本高は、明治維新まで変わることはなかった。
なお、領地朱印状の「上聞」・「御朱印」・「仰付」という文言の前に一字分の空白部分があるのは、闕字といって、その次の文言(「上聞」・「御朱印」・「仰付」)の主体、すなわち将軍徳川家綱に対する署判者(小笠原長頼・永井尚庸なおつね)の敬意を意味している。」としていまして、
小笠原・永井は御朱印奉行という役職のようです。
遅くなってすみませんでした。以上お知らせいたします。
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