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Japanese Medieval History and Literature

1釈由美子が好き:2007/06/03(日) 21:01:22
快挙♪ 3
 本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!

  41冊!!!

 売れたと云々!!
 すげェ!! としか言いようがない。

 2日で、71冊。
 快進撃である。

339井上渉子:2007/10/22(月) 21:41:53
>釈由美子が好きさま
>赤い鎧甲
秘密です(笑)。

12月の1日・2日にはシンポジウムもあるそうなので、こちらもよろしくです。

http://wataruko.ameblo.jp/

340:2007/10/23(火) 15:34:50
第3回 赤松氏研究会のご案内
※いつもすみません。よろしかったら、お越しください。

第3回 赤松氏研究会のご案内

1.開催概要
(1)日  時:平成19年12月1日(土) 13:00 開場
(2)基調講演?
  時  間:13:30〜14:30
  講  師:森  俊弘氏(真庭市教育委員会職員)
  タイトル:国人領主草苅氏に関する通史的言説をめぐって−主にその家伝の伝承と変容、定着から−
   ※14:30〜14:40 休憩
基調講演?
  時  間:14:40〜15:40
  講  師:渡邊 大門氏(美作大学地域生活科学研究所客員研究員)
タイトル:戦国期赤松氏の領国構造
   ※15:40〜16:00 休憩

(3)シンポジウム:テーマ「赤松氏研究と美作国人」
   時  間:16:00〜17:00
   パネラー:森  俊弘氏(真庭市教育委員会職員)
        渡邊 大門氏(美作大学地域生活科学研究所客員研究員)
        1名交渉中
   司  会:交渉中

2.場所:美作大学 本館3階 30教室
  岡山県津山市北園町50(JR津山線「津山駅」下車)。お車でお越しの際は、正面玄関の駐車場をご利用ください。なお、京都・大阪方面からは、高速バスが安くて便利です。

3.参加費:無料

4.申込方法
  資料準備の都合がありますので、住所、氏名、所属と下記の内容を明記のうえ、できるだけ申込先にメールで送信してください(当日の飛び入り参加も歓迎します)。なお、メールの使えない方は、上記まで葉書でお申し込みください。

5.申込先
〒708-8511 岡山県津山市北園町50 赤松氏研究会(美作大学内)
渡邊 大門宛(wdaimon@hotmail.com) ※電話でのご連絡は、できるだけご遠慮願います。

主催:赤松氏研究会/共催:美作大学・美作大学短期大学部/後援:津山市教育委員会

☆第3回赤松氏研究会は、福武教育文化振興財団の助成金により開催されます。

341井上渉子:2007/10/23(火) 17:36:25
>渡邊大門さま
管理人さんを差し置いてのレス失礼します。

「第3回赤松氏研究会」のお知らせ「歴史系イベント情報」に転載させていただきました。
何かありましたらお知らせください。

342釈由美子が好き:2007/10/23(火) 23:37:35
爵位の授与。
>筆綾丸さん
 摂政宮のお仕事が具体的にわかって、ひじょーに興味深いっす。


>渡邊さん
 いつも、お知らせ、ありがとうございます♪


>井上さん
>秘密です(笑)。
 あらま。そーなの?

343あまの(夫):2007/10/24(水) 10:33:40
個人的なこと
>釈由美子が好きさま&高遠彩華さま
昨日精神的に落ち込んで、一日寝て過ごしたのですが、何と!細川氏の新刊を高遠さんと売り歩くという夢を見てしまいました。
「10冊でいいんで置かせてください」と何度も頭を下げるあまの(夫)に、テキパキと伝票を切る高遠さん。
いい経験をさせてもらったな〜と、起きてから思いました。
セールスって大変だな〜と。
正夢にならないことを祈る限りです。

344kari:2007/10/24(水) 19:38:24
こんなの載せていいですか。
「『実隆公記』を読む会」のご案内

 就実大学 吉備地方文化研究所 古代・中世史研究会の定例勉強会として、「『実隆公記』を読む会」を始めることといたしました。
 「実隆公記」は戦国期に記された公家の日記で、政治・経済・文化的に重要な情報を含んでいます。
 つきましては、下記のとおり会のご案内をいたしますので、ご参加の程お願いいたします。
 なお、資料準備の関係上、参加希望の方は、あらかじめ担当者(下記連絡先)までご連絡いただけると幸いです。

          記

日 時:2007年12月15日(土) 14:00〜
場 所:就実大学 附属図書館3階 スタディルーム (岡山市西川原1−6−1)

※図書館を初めてご利用される方は、2階の入り口で閲覧手続きまたは利用証の発行手続きを行ってください。ゲート前で、中の職員に呼びかけてくだされば結構です。身分証が必要となります。

その他:(1)今後の運営方法等は、当日確認したいと思います。
    (2)終了後、懇親会を予定しています。

http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/kibi/index.html

*岡山では、かなり珍しい企画になると思います。

345高遠彩華:2007/10/24(水) 20:13:29
正夢かも。
>あまの(夫)さま
お体、ご自愛くださいませ。

>新刊を売り歩く
私が「テキパキと伝票を切る」はないと思いますが、正夢かも…。
万が一冬コミに当選したら、一緒に売り子さんやってくださいね(^_^)v。

>kariさま
横レス失礼いたします。

>『実隆公記』を読む会
距離が近かったらお邪魔したかったのですが、残念です(>_<)。
きっと他にも参加したいと思う方は多いと思いますので、
「歴史系イベント情報」にも転載させていただきました。

346NAO4@吟遊詩人:2007/10/26(金) 06:24:25
金沢文庫行ってまいりました。
●金沢文庫
この時期になると、溜まった休暇の消化が必要になってきます。そこで、昨日は会社を休んで、金沢文庫の「鎌倉北条氏の興亡」見てまいりました。ただ、伊豆守山の北条氏邸の発掘調査結果を特に期待していったので、展示物はさほど多くなく、少々期待外れでした。売店に釈様の新著あるかなあと思って、注意してみたのですが、「非売品」の棚に1冊だけありました。どういう意味なのですかね。
あとは、「川崎市市民ミュージアム」に行けば、3館回ったことになります。
↓の写真ですが、称名寺で見つけた実時の銅像です。春に行った時はなかったと思いますので、最近作ったのでしょうか。

●日野市立 新撰組ふるさと歴史館
時間があまってしまったので、日野まで足を伸ばして、「幻の真慈悲寺を追う」を見ようとしたのですが、駅から歩いたのが運のつきで、道に迷ってしまい、最終入館時間に間に合いませんでした。バスのほうがお勧めです。また、挑戦しようと思います。日野の街は、近世の雰囲気が残っていて、街も面白そうですね。

>はぎつきみたえさま
>ガスパッチョの信長
亀レスですが、本当面白いですね。TVでも見ましたが、インターネットでも公開しているので、何度も見てしまいました。

●NHK その時歴史が動いた 「石見銀山・毛利一族の戦い」
たまたま見てしまったのですが、ゲストに中世史家の方が出ていましたね。HNKのこの人選で良かったのかなと疑問に思いましたが、それほど重要な発言は求められていませんから、(暴走しなければ)誰でも良いのかなあとも。でも、できれば、石見銀山に関係した方をお呼びしたほうが良かったかも。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003756.jpg

347釈由美子が好き:2007/10/26(金) 19:15:00
ちょいと、ヘタばっていた釈です。
>はぎつきさん
 うどん屋の話なんですが、お時間のある時に、是非書いてくださいませ。

  ↑ みなさん、お楽しみに。


>あまの(夫)さん
 おひさっす♪

>精神的に落ち込んで、一日寝て過ごしたの
 どんぞ、おだいじに。

>細川氏の新刊を高遠さんと売り歩く
 夢の中で働かせてしまい、誠にもって申し訳ありません。
 ありがとうござります。

>正夢にならないことを祈る限りです。
 はっはっは。
 正夢になったりして。あ〜、恐い、恐い。


>kariさん
>いいですか。
 いいですよ。・・・・・なんつって。

 冗談抜きで、良か企画ですね。
 アーカイブズでも、こんな感じで、1つの史料を読むゼミみたいのできないかしら?


>高遠さん
 守護又代官(共同管理人代行)みたいな役目をさせてしまい、すいませぬ。
 ありがとござんす。

 あと、転載、どもです。


>NAO4@吟遊詩人さん
>展示物はさほど多くなく、
 文書が、おもしろいの、たくさん出てるんですよ。
 ただ、どこの博物館で展示やっても、文書は人気無いみたいですね。
 ま、読めたり、背景がわかったりしないと、どこが、おもしろいか? わからんですからな。
 彫刻とか絵なら、ビジュアルで楽しめますから、やっぱ人気高いみたいす。

>どういう意味なのですかね。
 えと、近いうち、お知らせしまつ。

348筆綾丸:2007/10/26(金) 20:19:58
松平大膳大夫
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.roppongihills.com/jp/feature/018/i8cj8i0000016byq.html
松平大膳大夫(毛利)三十六万石の上屋敷が六本木ヒルズになったことを考えますと、
森の銀と丘の株は時の流れを超えて密通してるな、という感がしますね。銀と株の
月下氷人は、政所別当の大江広元(1148〜1225)でしょうか。
現在のユネスコ事務局長は松浦晃一郎(山口県出身)で、世界遺産登録決定時の首相
は岸信介の孫で、政治的に見え見えの露骨なものであり、石見銀山なる世界遺産は
政治ゲームの産物のようですね。
政治的な「歴史」が好きなNHKの、自分が政治的な組織であるということの自己
射影なのかもしれませんね。
問題のテレビは見ませんでしたが、長州閥のしぶとさといいますか、松平大膳大夫の
旧家臣(?)は、なんと主君思いなのだろう、と感心しました(笑)。

349はぎつきみたえ:2007/10/26(金) 21:26:46
それではうどん屋物語をば。
 …というわけで、みなさま、頼朝とうどん屋の伝説をご存知でしょうか。
 私も釈由美子が好きさまに「そのようなたいそう面白い伝説がある」と教えていただきまして、
 ここ一ヶ月ほどそれを描いたものを探していたのですが、つい2日ほど前にようやく見つけました。
 うどん屋さんのどういう伝説かといいますと…。

 それは昔の物語。
 石橋山で大敗した頼朝は、真鶴から船で房総半島に渡りました。
 ようやく到着したものの、お腹がぺこぺこ。
 するとそこへ仁兵衛といううどん屋が現れまして、頼朝一行にうどんをふるまったのでした。
 頼朝は喜んで、彼に笹りんどうの紋を与えたので、仁兵衛は家名を“笹屋"と改めました。
 さらに、仁兵衛の活躍は続きます。
 なんと彼は、敵に胡椒を投げつけて見事撃退するという大殊勲を立てるのであります!

 この物語はちゃんと屏風に描かれて現在まで伝わっているのでした。
 その名も「笹屋の屏風」(そのまんま)。
 興味のある方は、こちらが詳しいですよ。
       ↓
 http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/koizumi/koizumi93.htm

 残念ながらいまはうどん屋「笹屋」は残っていないのですが、
       ↓
 http://gyotoku-z.la.coocan.jp/mati-kaiyuten2000-02.htm#2

 笹屋の屏風は市川市歴史博物館にあるそうです。でも、常設展示じゃないかも。
 仁兵衛の活躍だけなら、『歴史読本』昭和58年新春号(通巻361号)に、笹屋屏風の仁兵衛胡椒で活躍場面が載っています。

 胡椒なんて、高級品だったのではないかと思うのですが、惜しげもなくまくあたりが仁兵衛の忠義を感じさせますね〜。
 うどんやなら小麦粉でもいいのに、とか、効き目的には七味のほうが効くんじゃないか、と個人的には思うのですが(笑)、
 でも、どう転んだらこんな伝説が生まれるんでしょうかね〜。しかも屏風に書いてまで!って、面白いですね〜。

 私のへたくそな説明では面白さが十分伝わらない気がするので、紹介したHP、ぜひご覧になってみてください。

>NAO4@吟遊詩人さま

 信長のCM、切ないですよね。ネットでも見られるとは知りませんでした。
 東京ガスじゃない地方のみなさま、ご覧になってみてくださいまし。

>称名寺で見つけた実時の銅像
 先日金沢文庫に行ったときには気づきませんでした。
 なんだか妙に現代人ぽいですね。

350NAO4@吟遊詩人:2007/10/27(土) 07:03:56
うどん とか
「うどん」といえば、先日、史料講読講座の前に、小岩の立ち食いうどん屋で、昼食を取っているところを、法眼殿に目撃されてしまい、恥ずかしい思いをしましたが。でも、好きなんですよね。立ち食いうどんが。

>はぎつきみたえさま
>頼朝とうどん屋

近世の話なのでしょうが、なかなかこの話、面白い要素を含んでいますね。
正倉院御物にあるとのことで、胡椒の日本伝来は、奈良時代。
頼朝の時代にあってもおかしくない。

何で、うどんに胡椒が使われているかというと、唐辛子の伝来前には薬味として使われていたようで、これもおかしくない。

さて、唐辛子はというと、南米原産なので、新大陸発見前に日本に伝来しているはずも無く、頼朝の時代には無かったということになりますでしょうか。
ちょっと行徳行って見たくなりました。史料講読講座で小岩に行くついでに行って見ましょうか。

>称名寺で見つけた実時の銅像
>なんだか妙に現代人ぽいですね。
わたしも、そう思いました。
それなら、大河「北条時宗」の池畑慎之介さんに似ているかと思ってしまったのですが、そうでもなく・・・


>筆綾丸さま
>長州閥のしぶとさ
そういうことなのですか。

何で銀山ごときを世界遺産にするのか疑問に思っていたのですが、世界的な大鉱山だったと説明されると、それなりに納得しておりました。ヒッタイトの鉄採掘遺跡(そんなの無いみたいですが)とか、殷の銅山(これも見つかっているのかどうか知りません。)の方がよほど重要だと正直思っておりました。

>釈編集長さま
>文書が、おもしろいの、たくさん出てるんですよ。
>ただ、どこの博物館で展示やっても、文書は人気無いみたいですね。
>ま、読めたり、背景がわかったりしないと、どこが、おもしろいか? わからんですからな。
なるほど、そうですか。まだまだ、勉強不足ですね。

金沢文庫、平日で空いているのをいい事に、いいおやじの小生が端末操作のクイズ(初級者編と上級者編がある)で遊んだりしておりました。永井先生監修の「補助解説冊子」も笑えました。(受付で言わないとくれませんでしたので、お子様用なのでしょうね。)

351高遠彩華:2007/10/27(土) 11:10:09
金沢文庫のともしびショップに
実は、関係各位の御助力をいただいて(ありがとうございます)、金沢文庫のともしびショップ(売店)に、『鎌倉北条氏の神話と歴史ー権威と権力ー』を置かせていただいております。売価は1500円です。
金沢文庫においでの際に、御覧になってくださいませ。

ちなみに、行かれた方はご存知かと思いますが、ともしびショップには図録や『金沢文庫研究』、専門書や概説書の他にも絵はがきや双六、手作りグッズなどもありますし、食事もできるしでオススメです(^-^)。


>NAO4@吟遊詩人さま
>一冊だけ非売品で
↑の交渉の過程で、見本に置かせていただいたものなのです。

352亜季多幸孝:2007/10/27(土) 11:58:01
小岩の立ち食いうどんといえば
>NAO4@吟遊詩人さん
先月も件のうどん屋で昼食取られてませんでしたか?(笑)

353釈由美子が好き:2007/10/27(土) 13:06:48
うどん屋屏風。
>はぎつきさん
>「笹屋の屏風」
 早速のご紹介,ありがとうござります♪
 スゴい調査能力ですな。

>『歴史読本』昭和58年新春号(通巻361号)
 私の見たのは,↑ のグラビアなはずだす。

 んで,前にお話しましたよーに,私の記憶によりますと,そば屋でして,戦う鎧武者に混じって,前掛け姿のそば屋が鎧武者の顔面めがけて,そば粉をブッつけているというナンだかもースゴいシーンがあったことになっておりました。

 実際は,うどん屋で,バラ撒いたのはコショウだったンですなァ。
 記憶とは,いい加減なモノであります。

 それにしても,合戦に参加するうどん屋,武器はコショウ・・・・・う〜〜〜ん。素晴らしい♪


>筆綾丸さん
>松平大膳大夫(毛利)三十六万石の上屋敷が六本木ヒルズになった
 とっきのな・が・れに,身をま・かせ〜〜〜〜♪


>NAO4@吟遊詩人さん
>ちょっと行徳行って見たくなりました。
 行徳は,ホントにタダのフツーの町っすよ。
 「笹屋の屏風」が見れるなら,市川市歴史博物館に行ってみたいすねェ。

>永井先生監修の「補助解説冊子」
 カエルのヤツですか? あれ,おもしろいすよね。


>亜季多さん
 なんで,そんなに,みんな,立ち喰いうどん屋をのぞいてるの?

354釈由美子が好き:2007/10/27(土) 13:14:33
ともしびショップ♪
>おのおの方
 高遠さんが ↓ にカキコしてくださいますたよーに,多くの方々のご尽力によりまして,

  神奈川県立金沢文庫の売店「ともしびショップ」さん

 に,拙著『鎌倉北条氏の神話と歴史ー権威と権力ー』を置かせて戴くことになりました。

 だから,行かれた方は,買ってください(← なりふりかまわぬ販売姿勢)。

 ちなみに,前著『鎌倉政権得宗専制論』も1冊だけ置いてあります(ここ数年,タナ晒し)。
 こっちは,とりあえず値段を見て,驚いてください。
 奇特な方は,買ってください。


>高遠さん
 ありがとー♪

355あまの(夫):2007/10/27(土) 18:37:52
再度宣伝
日本仏教綜合研究学会第6回大会日程
    期日 平成19年12月8日(土)9日(日)
    大会会場 : 山形大学小白川キャンパス
    エクスカーション:慈恩寺・若松観音
    懇親会・宿泊:天童温泉 ほほえみの宿滝の湯
   参加費 : 大会・エクスカーション・宿泊・懇親会  20,000円
        大会・エクスカーション・懇談会     14,000円
        大会・エクスカーション         4,000円
        大会               1,000円


12月8日(土)
中条家文書の公開             11:00〜12:00
受付                   12:30〜13:00
富田正弘教授講演
    中世寺院文書の世界        13:00〜14:00
エクスカーション慈恩寺・若松観音見学   14:15〜16:30
宿泊ほほえみの宿滝の湯          17:00
懇親会                  19:00〜21:00


12月9日(日)
受付                    9:30〜10:00
会長の挨拶 松尾剛次(山形大学)     10:00〜10:10
研究報告(報告30分・質疑20分)
? 長岡 龍作(東北大学)        10:10〜11:00
    彼岸・因果・表象
    −仏教美術への開かれたアプローチとして−
? 永井 晋(神奈川県立金沢文庫)    11:10〜12:00
     延慶年間の山門強訴と京都の諸勢力
? 佐藤 弘夫(東北大学)        13:00〜13:50
    板碑を通して見る中世東国の宗教世界
講演(講演50分・質疑10分)
  末木 文美士(東京大学)       14:00〜15:00
     顕密体制論以後の仏教研究
総会                   15:00〜

>井上さま
 家にもやっと案内状が届きました。
 ご興味がおありでしたら、メールフォームがありますので、そちらでお問い合わせ下さい。

 http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~kmatsuo/nichibutsu/top.html

356はぎつきみたえ:2007/10/27(土) 19:54:38
照れ照れ
>釈由美子が好きさま

 お褒めに預かり、光栄の至りでございます!嬉しい!照れ照れ。
 ごくたま〜には、こんな風にお役に立てることもあるかと…。

>NAO4@吟遊詩人さま
>何で、うどんに胡椒が使われているかというと、唐辛子の伝来前には薬味として

 知りませんでした。
 唐辛子は伝来前ということで、七味は不可能だったのですね。
 うどん粉と胡椒なら、そりゃあ胡椒のほうが攻撃力が高そうです(笑)。
 …でも、頼朝の時代のうどんって、まだ麺状じゃなかったような気も…。
「こんとん」とかいうお菓子に近いものであった記憶があるのですが、それでも胡椒かけたのかしら?

 もし笹屋うどん店が残っていたら、例えばこちらで希望者を募って「頼朝を助けたうどん屋のうどんを食べようツアー」とかできたのにな〜と思います。残念。

 私、関東地方はそば文化圏だと思っていたので、(こちらに出てきたときに蕎麦屋の多さに仰天したものです)蕎麦屋じゃなくてうどん屋だった、というのも大変意外でした。

357筆綾丸:2007/10/27(土) 20:30:04
暫定リスト
NAO4@吟遊詩人さま
佐渡金山、武田氏の黒川金山、佐竹氏の阿仁銅山、土肥金山、足尾銅山、人形峠の
ウラン鉱床、由緒正しい糸魚川の翡翠・・・いくらでもあるのですよね。
京都御所、桂離宮、修学院離宮、旧江戸城・・・が世界遺産にならないことが、日本
の面白いところですね。微妙な問題になりますが、世界遺産などというグローバル・
スタンダードに対して超然としていなければならん、ということなのでしょうね。

釈由美子が好きさん
仰る通りですね。

はぎつきみたえさま
面白い話題ですねえ。

358むらじ:2007/10/27(土) 22:43:04
いろいろ と
しばらく覗いていないでいたら、面白いお話ばかりが目白押しですね。

>はぎつきみたえ様
>うどん伝説
いやぁ、面白かったです。^^
こうゆう話があるから、ここはやっぱりイイですね。
>すごい調査力
面目躍如と申し上げておきます。
あわせてNAO4@吟遊詩人様の考証力にも感服です♪

>高遠様
すごい!すごい!すごすぎる!
金沢文庫のショップは、いいですよねぇ。
といっても、二度しかいったことがないのですが。
女性職員の方々の接客がとても爽やかで、もう何年も行っていないのにとても印象に残っています。

>釈さん
>とっきのな・が・れに,身をま・かせ〜〜〜〜♪
うっかりMDかけちゃったじゃないですか(笑)。

359NAO4@吟遊詩人:2007/10/27(土) 22:50:19
目撃者は2人だったようです。
>亜季多幸孝さま
研究報告はいかがでしたか? 発表前の緊迫した?お時間に、コメントいただき、ありがとうございます。法眼殿にうどんを食べているところを目撃されてしまったのは、先月のことで、同じシーンをお2人に見られてしまったのでしょうね。因みに、件の立ち食い蕎麦屋は、第3回と第4回の史料講読講座前に利用させていただきました。第1回のときは、サンロード商店街をもう少し、区民館に接近した立ち食い蕎麦屋に入ったのですが、醤油が濃すぎて、その後敬遠しています。

>はぎつきみたえさま
そうですね。鎌倉時代は麺ではないでしょうね。
ちなみに、唐辛子の朝鮮伝来は、日本からというのが定説になっているそうで、「倭辛子」と呼ばれていたそうです。NHKで放送された韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」で解説していたように記憶しています。

>釈さま
>カエルのヤツですか? あれ,おもしろいすよね。
そうです。

特に両手を腰に当て、胸を張って、「えっへん とくい とくい」と言っている「北条氏」カエルと、鬚を生やした「後醍醐天皇」カエルが面白いです。

よくよく見て見ると、北条カエルたちの中で、貞顕カエルの着物だけが柄がついております。これって、隠されたメッセージなのですかね。

>筆綾丸さま
>世界遺産などというグローバル・スタンダードに対して超然としていなければならん、ということなのでしょうね。
そうですね。世界史的な価値と日本史的な価値は違うのでしょうね。

>むらじさま
こんばんは。ご無沙汰です。「考証」というか、遊んでおります。スイマセン

360釈由美子が好き:2007/10/28(日) 09:22:13
カエルなど。
>あまの(夫)さん
>日本仏教綜合研究学会第6回大会
 お知らせ、どもです♪


>はぎつきさん
 ひさびさの大笑いネタ、マジ、ありがとござんした。

>こんな風に
 そー言えば、鶴岡の大銀杏の時も、盛り上がりましたなァ。


>筆綾丸さん
>世界遺産
 鎌倉の町が、丸ごと世界遺産になる運動やってますよね。

  http://www.elec.shonan-it.ac.jp/kamakura/


>むらじさん
>すごい!すごい!すごすぎる!
 ホンマですわ。ありがたいことであります。

>うっかりMDかけちゃったじゃないですか(笑)。
 わはは。んじゃ、もういっちょ、懐かしいのを。

 ゲ・タを・鳴らァしィて♪ ヤツが来る〜〜〜〜♪


>NAO4@吟遊詩人さん
>貞顕カエル
 新ブログ「ナマズ貞顕のひとりごと」(http://blog.goo.ne.jp/kanesawahojoh/)の10月12日「変幻自在」で、自分でも言うてますが、最近、金沢貞顕は変身が特異なよーで。

361はぎつきみたえ:2007/10/28(日) 18:12:24
こっそり。
>釈由美子が好きさま
>そー言えば、鶴岡の大銀杏の時も、盛り上がりましたなァ。

 あ、覚えておいででしたか。
 …一応、今も調査続けております。苦戦中。
 わかったところまでだけでも、今年中にまとめたいと思っているのですが、ごらんいただけるようなものにまだなっておりませんで。
 詳しいことは内緒(というほどのものでもないけど)です。

>むらじさま
 お久しぶりです。お元気そうで何より!
 楽しんでいただけたようで嬉しいです。

362釈由美子が好き:2007/10/29(月) 00:02:54
銀杏の話。
>はぎつきさん
>今年中にまとめたいと思っているのですが、
 是非、がんばってください。

 論文として完成して、公表をご希望されるのであれば、その場をご紹介できると思います。

363NAO4@吟遊詩人:2007/10/30(火) 00:08:54
三館制覇
いちいちご報告することではないのですが、
この10/28(日)川崎市市民ミュージアム「『つわもの』どもの光と影 ー稲毛三郎とその時代ー」を見てまいりました。これで、金沢文庫、横浜市歴史博物館と連携企画3館見たことになります。

川崎市市民ミュージアムは、思いっきり、ヴィジュアルな展示を追求しているなあという印象です(大鎧まで展示しておりました)。考古学的な成果をずいぶん集めて、素人にも興味を持てるように展示しておりました。私としては、永福寺経塚から出土した、経筒などが見られて、うれしかったです。
文書の価値はよく分からないのですが、頼朝の下文や、北条義時の下知状は、文例を史料講読講座でお教えいただいているせいか、美しい書体だと思いました。

実は、子供たちを、等々力緑地の釣り池で釣りをやらせると言って連れ出したものですから、博物館であまりゆっくり見ていられなかったのが残念でした。そうそう、中前勉関係者4名の方に偶然お会いしてしまいました。皆様、あまりご挨拶もせず、博物館から出てきてしまい、失礼いたしました。子供たちが待っていたもので、少し焦っておりました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003774.jpg

364kari:2007/10/30(火) 00:35:49
なぜか。
奈良国立博物館に行って参りました。

上を仰ぐような仏像ではなくて、本当にそのままの目線で見られるようなものばかりでした。それにしても、人が多かった・・・。

 くだくだしい説明は省きますが(図録 400円で全国発送)、一番びっくりしたのは、丈六の「小野市 浄土寺所蔵 阿弥陀如来立像」です(明らかに鎌倉初期。慶派)。
 しかも、常設展の側。
 実は、私も所蔵の事実すら知らなかったのです。
 上半身が「裸」で、その都度に布をかけたらしく、どう考えても「来迎会」に使用したとしか思えない、かつ「台車で」引っ張ったらしいから尋常ではないです。ということは、来迎菩薩面(25面ある)の存在と考えあわせて、薬師堂(多分、そこに所蔵してたんだろう)と浄土堂を結ぶ来迎会に用いられてたんだろうなあ、と。

 あ。これで重源による来迎会の徴が得られてよかったです。
 光背の頂に光るのは「阿」または「鑁」の字で、ますます重源の「阿」字観と阿弥陀仏の一体感が思われました。

 でも、何で今まで知らなかったんだろう?
 恥ずかしいなあ。

365釈由美子が好き:2007/10/30(火) 01:58:29
写真、きれいですね♪
>NAO4@吟遊詩人さん・kariさん
 博物館見学、お二人共、成果があったよーで、良ございますた。


>NAO4@吟遊詩人さん
>等々力緑地の釣り池で釣りをやらせると
 釣果は、いかがでしたか?

>文例を史料講読講座で
 お役に立ったなら、幸いでござります。


>kariさん
>薬師堂と浄土堂を結ぶ来迎会に用いられてたんだろうなあ、と。
 やっぱ、その道に詳しいと、目の付け所が、ちゃいますなァ。

366kari:2007/10/30(火) 14:36:50
言葉足らずでしたが。
編集長さま ありがとうございました。
下記の内容、何だか文章がおかしかったので、補足しておきます。

奈良国立博物館の第59回正倉院宝物展(於 新館)を見に行ったのですよ。
で、まさに黒山の人だかりで、ようやく途切れてきたのが、最後の正倉院文書のあたり。しかし、戸籍などの帳簿であっても、熱心に見入る年配の方が目立ちました。
「そうか、文書に役所の印がべたべた捺されているのは、数値や固有名詞を書き換えられないようにするためなのだな」とあらためて実感したりしました。

で、本館の常設展で、播磨浄土寺所蔵の裸形阿弥陀如来立像に出くわしたわけです。
本当に恥ずかしい話、私、この像の存在を知らなかったのでした。かつて同寺の宝蔵には二回ほど入れて頂いたことがありますが、多分その時は目にしなかった・・・と思います。木像重源坐像はしっかり鎮座してましたけどね。

裸形であるのは、法会のたびに衣服を着せるからで、かつては立像を台車で引いた、との口伝がキャプションに記されていました。浄土寺には鎌倉期の二十五菩薩面も所蔵されており、『南無阿弥陀仏作善集』に言うところの「迎講」すなわち来迎会に使用されたものに、間違いありません。ちなみに昭和20年代くらいまで、藁人形に菩薩面をかぶせて行進させる「ライコウボサツ」なる行事があったと伝承します。

立像は浄土堂の本尊阿弥陀如来像と比べても全く遜色なく、おそらく快慶の手になるものと断じてよいと思います。興味深いことに光背の頂には「バン(金剛界大日如来)」の字が描かれており、天台浄土教と真言を融合させようとした重源の営為を感じました(「ア」の字、と下に書いたのは間違いでした)。

しかし、これだけ大きな仏像を台車で引いて、来迎会を行なったわけですから、その衝撃たるや、当時の人々にとって如何ほどのものだったか・・・。
ゴゴゴゴ、と音をたてて巨大な金色の阿弥陀如来が行進する。そのまわりには二十五の菩薩が「お練り」をしながら歩いて行く。陽光が、散花と仏像の金箔に反射して・・・って、これは物凄い図ですよ。当麻寺の練り供養だって、こんなに度肝を抜くようなものではないはずです。

重源は、偉い、というか、凄い坊さんです。

367釈由美子が好き:2007/10/30(火) 20:10:08
>言葉足らず
>kariさん
  ↑ つーか、次のカキコで詳しく書いてくだすったので、より想像とかがふくらみますた。
 あたくしが「想像がふくらむ」と言うと、なんか、やらしいかしら? ひっひっひ。
 でも、見かけはマジメそーだったり大人しそうで、とても、そんなこと考えてなさそーな人に限って、かえって、やらしいことで、アタマがパン! パン! だったりしますね。
 ・・・・・あれ? ナンの話だ?

>まさに黒山の人だかり
>熱心に見入る年配の方が目立ちました。
 やっぱ、歴史の好きな人って、たくさんいるンすよね?
 そーゆー人の需要に応えられるように、アーカイブズも、もっとガンバらにゃ。

>ゴゴゴゴ、と音をたてて巨大な金色の阿弥陀如来が行進する。
>そのまわりには二十五の菩薩が「お練り」をしながら歩いて行く。
>陽光が、散花と仏像の金箔に反射して・・・って、
 目に浮かぶよーっす♪
 昔は、今みたいな高層建築やデカいオブジェなんか無いから、仏像も今の我々が感じるより、ずっと巨大に昔の人の目には映ったことでせう。
 一大イベントであり、見物の人々は、熱狂したんじゃないすかね?

368相国入道:2007/11/01(木) 23:53:46
御礼と企画展とシンポジュウムのお知らせ
>皆さんこんばんは

 10月27日(土)に開催されました。益子地蔵院のシンポジュウムには、生憎の大雨の中30人近い方々がお集まりいただきまして本当にありがとうございました。この掲示板を見ていらした方もおられまして、本当に厚く御礼を申し上げます。

 益子氏のことは、紀清両党といわれながら、清党の芳賀氏と比べてほとんど史料が残っていないことがわかりました。
 文書で見てみますと、受給文書が3通。発給文書8通です。発給文書のうち写しが2通。
原文書は6通ですが、これは全て伊勢御師の佐八(そうち)文書です。
 後は、鎌倉時代は『吾妻鏡』。南北朝時代は『太平記』。室町時代は『鎌倉大草紙』。
 戦国時代は『関八州古戦録』というように、益子氏は記録の世界にしか登場しません。
 紀清両党といわれながら、清党の芳賀氏よりも、益子氏が主家の宇都宮氏に重用されなかった理由は、南北朝の内乱で、宇都宮氏は南朝忠節を尽くしていましたが、途中で北朝方に、宇都宮氏と芳賀氏が転じます。それでも益子氏は、南朝に忠節を尽くしたために、宇都宮氏に重用されなかったのが一つの理由だったようです。
 その後益子氏は、芳賀氏よりも重用されないまま、天正17年(1589)に、主家の宇都宮国綱によって滅ぼされてしまいます。
 こうして、戦国最末期に益子氏が滅亡していますので、史料が残らない一つの理由ですが、今後は、周辺領主の史料の検討。益子町域の景観の調査から検討する必要があるなと発表を終えて強く感じました。

 >企画展のお知らせ。

  平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー

 会期 11月3日(土)から12月16日(日)

 場所 茨城県八千代町歴史民俗資料館

 講演会 11月25日(日)午後1時半から

 講師  阿久津久氏

 題名  未定

 場所 八千代町中央公民館

 問合せ 八千代町歴史民俗資料館 電話0296−48−0525


 >シンポジュウムのお知らせ

 再考 上行寺東遺跡と中世の六浦

 日時 11月10(日)午後1時から午後5時半まで

 場所 関東学院大学金沢八景キャンパス フォーサイド21 F−202教室

 演題 午後1時から午後3時半まで

  上行寺東やぐら群の発掘調査      小林義典氏(玉川文化財研究所)

  上行寺東遺跡を考える         橋口定志氏(豊島区教育委員会)

  中世都市・鎌倉と上行寺東遺跡     馬渕和雄氏(鎌倉考古学研究所)

  中世六浦と上行寺東遺跡        西岡芳文氏(神奈川県立金沢文庫)

 総合討論   3時40分から5時半まで

 資料代と参加費を徴収するそうです。

 問合せは 西岡芳文氏(金沢文庫内)045−701−9069です。

 このシンポジュウム私は、仕事の関係でお伺いすることは出来ませんが、皆さんふるってご参加ください。

 以上お知らせいたします。

369釈由美子が好き:2007/11/02(金) 20:38:40
秋はシンポや展示の季節ですな。
>相国入道さん
>この掲示板を見ていらした方もおられまして、
 おお! 素晴らしい♪

 新たなお知らせ、ありがとうござんす。

370筆綾丸:2007/11/02(金) 21:08:58
ソウルと忠臣蔵
ソウルで、焼肉と濁酒(マッコリ)を、堪能してきました。

敬天寺石塔(国宝86号)の十層構造は、ダンテ『神曲』天国界の十層構造に似て、いわゆるプラトンの完全数を表象し、半跏思惟像(国宝83号)の cogito 的な人差指は、ダ・ヴィンチ『受胎告知』における天使ガブリエルの Annunciazioneの人差指に似て、つまり、思惟とは絶対者のお告げを意味し・・・。前者は、木造は石造でどこまで近似できるか、という極限の芸のようですね。
http://www.seoulnavi.com/miru/miru.php?id=11
http://www1.ths.titech.ac.jp/~nakanisi/k_archi/k086.html
碁盤のマトリックス(19×19)を参考にしたのかな、と思いながら、ハングルを少し覚えてみました。愚民有所欲言。
訓民正音の制定後約五百年、李氏朝鮮第四代の王名を冠するイージス艦は恐るべき性能ですが、当初はアン・ヨンボクと命名するつもりだったのですね。韓国海軍は、艦名に人名をあてるようですが、この感覚は日本にはないようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%93%E6%B0%91%E6%AD%A3%E9%9F%B3
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=87782&amp;servcode=400&amp;sectcode=400
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%BE%8D%E7%A6%8F

鄭大聲『朝鮮半島の食と酒』(中公新書)に、こんな話がありました。
唐辛子は、16世紀半ば、ポルトガル人により豊後にもたらされ、さらに、和冦や倭乱により朝鮮半島に伝わった。加藤清正などは、目潰しに唐辛子粉をぶん投げた、という口伝もある(同書37頁〜)。
唐辛子は、沈菜(キムチ)にとって、革命的なヌーベル・キュイジーヌ( nouvelle cuisine )だったというわけですね。16世紀中葉の豊後といえば、新進気鋭のクリスチャン大友宗麟の頃ですが、邪宗は唐辛子のように刺激的だったのだろう。ひとたび味わうと、病みつきになる、が、人はさらに刺激的なものを冀求するようになる、たとえば殉教というようなものを。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B4%8E%E5%93%B2%E4%B9%85
旅の間、湯川祐光「瑤泉院ー忠臣蔵の首謀者・浅野阿久利」(新潮文庫)を読んでました。
著者の経歴は全く知らなかったのですが、本因坊戦の棋譜のように精緻な構成で、これ以上の忠臣蔵は、もう出ないのではないか、と感じました。
内蔵助は、江戸出府の途次、箱根権現に詣で、曾我兄弟のものと伝わる墓石を削って御守袋にしのばせていた、とはじめて知りました。
あとがきの、私にとって瑤泉院はベアトリーチェのような存在、とは、心憎い表現です。元禄の貴婦人はパルファムとして伽羅を焚いてますが、これは、歌舞伎『伽羅先代萩』のア・プリオリなラスト・ノートと読むべきなのだろう。
数カ所、疑義を覚えましたが、割愛します。

371NAO4@吟遊詩人:2007/11/03(土) 21:48:25
ポルトガル語で
よく「暑いですね〜」などと、しゃべる自動販売があるのは知っていたのですが、今日は神奈川県大和市の普通の街中の自動販売機で、「オブリガード(=ありがとう)」とポルトガル語で挨拶されて、びっくり。以前大河「信長」で、ルイス・フロイス役のナレーターが、番組の最後でこの言葉を使っていたので、意味は分かったのですが、何故日本の街中でポルトガル語? 大和市って、かつて難民定住センターとかがあったり、米軍厚木飛行場が近かったりと、外国人が多いせいかなとまじめに考えてしまったのですが、インターネットを検索してみると、普通の自動販売機で、英語・ポルトガル語・中国語、各地の方言をしゃべるのがあるようですね。
http://www.dydo.co.jp/dydo/release/050201.html

>kariさま
お久しぶりです。言い直して書き込んでいただき、ありがとうございます。きっと正倉院展と関係あるんだろうなあと思いつつ、なかなかイメージが湧かなかったのですが、補足いただいてよく分かりました。書き手はこうでなければいけません。

>相国入道さま
>平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー
このご案内は、ひょっとして、私のために書いていただいたのでしょうか。でしたら、どうもありがとうございます。八千代は小生の生まれ故郷であり、今年初めに、ご案内いただいた「石に込められた祈り」を見に歴史民俗博物館に行かせていただきました。その折、住所氏名を書いてきたためか、私にも案内状が着ております。11月は帰省する予定があるので、その時に行かせていただこうかと思います。なにせ、交通の不便な田舎なので、もし来られる方がいらっしゃったら、自家用車またはレンタカーがお勧めです。休館日は月曜でございます。
http://www1.town.yachiyo.ibaraki.jp/sisetsu/rekishi/

>益子氏
詳しくは知らないのですが、故郷が近いということもあって、「益子氏」とか「真壁氏」とか興味はあるのですが、御講演にはいけませんでした。残念です。

>釈編集長さま
>釣り果
亀レスです。餌付け係の小生があまり釣れるつもりでやっていなかったものですから、「ゼロ」ですね。でも、自分としては、ボンヤリとプカプカ浮いてる浮きを見ているのも、何とも気持ちよく感じられる歳になりました。

>筆綾丸さま
韓国の文化というのも、興味深いものがありますね。
>アン・ヨンボク
この方、どんな方かと思ってしまいましたが、ご紹介のサイトでよく分かりました。
>忠臣蔵
そんな面白い本があるのですか。ご紹介ありがとうございます。

372釈由美子が好き:2007/11/04(日) 10:30:40
ちょとバテてますた。
>筆綾丸さん
>ソウルで、焼肉と濁酒(マッコリ)を、堪能してきました。
 え、え?! また旅に出ておられたンですか?! スゴいフット・ワークですね!

>唐辛子
 日本経由で朝鮮に渡った話は、どっかで聞いてましたが、詳しくは知りませんでした。
 ありがとごじゃいます♪

>曾我兄弟のものと伝わる墓石を削って御守袋にしのばせていた、
 受験生みたいですね。


>NAO4@吟遊詩人さん
>「オブリガード(=ありがとう)」
 ポルトガル語を使う国の人なら、わかりましょーが、大半の日本人(含・わし)を含め他の国の人は、「?」でしょーに。
 かと言って、いろんな国の言葉で「ありがとう」を言われても、長いですしねェ。
 実際のとこ、役立ってるんですかねェ?

>亀レスです。
 一瞬、亀が釣れたのかと思っちゃいますた。

373はぎつきみたえ:2007/11/04(日) 20:53:23
秋はほんとに忙しい。
 以前こちらで相国入道さまからご紹介のあった、那須与一伝承館に行ってまいりました。

 http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/organization/sangyou_bunka/bunka_sinkou/yoichidensyoukan.html

 那須与一だけでどれだけ展示が出来るものか?と思っていたのですが、見くびってごめんなさい。
 那須家の当主は今36代目で、青森にお住まいだそうなのですが、大田原市に寄託した資料は約700点!
 展示されているのはその一部、とはいえ、頼朝からもらったという白旗あり、扇の的の時にはいていたという太刀あり、
 絵巻や屏風に書かれたいろいろな与一の姿を見比べられたり、コンパクトながら面白うございました。

 人形と映像での「扇の的」再現劇場もありまして、
 与一は超美形の若者、義経は、自信がないと一度は大役を辞退する与一に「俺の命令が聞けないのかあ!!」といじめテイストが入っており(笑)、
 的扇のそばの姫(玉虫御前といいましたか?)にいたっては
「あんな距離から矢が届くとお思いなのかしら?お〜っほっほっほっ!」と、まるっきり悪の女幹部のようで面白かったです。
 子どもは喜びそう。

 レストラン館では「与一御膳」が800円とお値打ちです。
 ソフトボールのような大きさと形の野菜のかき揚げがど〜んとでてきます。私は半分食べてギブアップしました。

 この那須与一伝承館は「道の駅」に併設なので、免許を持っていない私は、公共交通機関でどこまで近づけるかと危ぶんでいたのですが、
 東野交通バスの八幡神社前、もしくは大田原市営バスの那須神社前というバス停で降りれば目の前です。
 その代わりバスの本数はとっっっても少ないので、下調べはご十分に。

 ほかにも大田原市とその周辺には興味深い史跡がいろいろあり、次の機会があれば作戦を練って泊りがけで出かけたいと思っております。
 日帰りはやっぱりきつかった〜。

374釈由美子が好き:2007/11/05(月) 11:06:14
那須与一と野菜のかき揚げは、どんな関係があるんですかね?
>はぎつきさん
>相国入道さまからご紹介のあった、那須与一伝承館に
 おお! 素晴らしい♪
 ここもお役に立ったようで、嬉しゅうござります♪

>資料は約700点!
 げげ! スゴいですね!

>人形と映像での「扇の的」再現劇場
>悪の女幹部
 ガキんちょ、喜びそうですね。

>ソフトボールのような大きさと形の野菜のかき揚げがど〜んと
 見た目、おもしろそーだけど、胃がもたれそう。

>日帰りはやっぱりきつかった〜。
 お疲れざまでじだ。

375はぎつきみたえ:2007/11/05(月) 18:38:27
かき揚げの謎
>釈由美子が好きさま
>かきあげ

 レストランでの料理には、大田原市の地場野菜を使っています!というのが売りだそうです。隣の建物でもたくさん売られていました。
 最近流行の地産地消ですね。

376筆綾丸:2007/11/05(月) 20:03:03
人生いろいろ
釈由美子が好きさん
国立中央博物館の名宝鑑賞後、地下鉄で景福宮に行き、風水の本を参考に、旧国立中央
博物館(旧朝鮮総督府)址を歩きながら、
http://www.nhk.or.jp/special/onair/071022.html
風水をポアンカレ予想(定理)で解けば・・・などと愚考するうちに偏頭痛に襲われ、
マッコリを飲んで寝たのでした。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4166604805.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%BA%90%E9%99%A2
引用の書に、歴代将軍の正室一覧表があり(13頁)、秀忠と正室の院号に、崇徳院が
分身の術で身を隠していることに気づきました。
台徳と崇源は、天海(か崇伝)による命名なのか、真相は知りませぬが、幕府の瓦解
は崇徳の祟りかと、念のため家康の戒名をみると、安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士で、
すでに崇徳がいたのですね。これでは滅びますね。
漢語では金蓮は纏足を意味しますから、徳蓮社というと、清朝末期における纏足の
秘密結社(?)のような感じがします。
徳川家の祖は、吾妻鏡文治5年(1189)6月9日における、鶴岡塔供養先陣随兵徳河
三郎義秀のようですが、こういう地味な名の発見は、眼光紙背のレッスンの賜なの
でしょうね。
なお、ウィキには崇源院の三度目は秀忠とありますが、三度目は九条道房で、これ
も没したので秀忠の継室となった、と引用の書にありました。
島倉千代子の歌のように、数奇の人生ですね。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/jinseiiroiro.html

NAO4@吟遊詩人さま
http://japanese.tour2korea.com/03Sightseeing/DestinationsByRegions/03_1.asp?kosm=m3_1
次回は、草梁倭館址や古都慶州などをみたい、と思っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%85%89%E9%99%A2
山本氏の書に、家光の側室、お万の方、の話があります。
「・・・二条家の支流冷泉家の一族で、六条宰相藤原有純の息女である。十六歳の時、
伊勢の慶光院に入室する。慶光院は、伊勢の内宮に付属する尼寺である。院主の格式
は、門跡同様の高いものだった。三年目に院主となり、慶光院を名乗った。そして
寛永十六年(1639)三月、継目の御礼(相続の挨拶)のため、江戸に下ることになった。
江戸城で家光に拝謁したところ、家光は慶光院が一目で気に入った。そのため伊勢に
帰ることを許さず、そのまま江戸に留め、還俗させて側室にしたのである。・・・
もともと男色好みだった家光には、剃髪した美しい尼が理想の美少年のように見えた
のかもしれない」(同書51頁〜)
剃髪の美しい尼が、名作『瑤泉院』を読み解くキーワードになります(笑)。

377NAO4@吟遊詩人:2007/11/06(火) 03:37:16
亀と真慈悲寺
なんかこのサイトで紹介されている展示会を1つ1つクリアしているようですが、この日曜日
日野市「新撰組ふるさと歴史館」で開かれております特別展「幻の真慈悲寺を追う」を見てまいりました。
吾妻鏡にあり、武蔵国のどこかにあったのは確かなのだが、長らく場所が特定できなかった真慈悲寺が、京王百草(もぐさ)園から、多量のかわらが出土したことや、百草八幡神社に残されておりました銅造阿弥陀如来坐像背銘から、現在の京王百草園に特定できたというワクワクするお話。展示は、真慈悲寺址から出土した瓦、江戸時代に発見され現在は奈良博に収蔵されてい経筒3点、これと比較するために、中世の他の寺院から出土した瓦、日常品など。分かり易く百草園のある丘陵をジオラマで表すなどヴィジュアルな展示で、見ごたえありました。

なにせ、消えた寺ですから、展示会に中世の文書はありません(写真だけ)で、近世の文書が少し。日野市は、真慈悲寺の調査に金をかけないために、考古学ボランティアを養成、この方たちの成果発表の場であったのかもしれません。この日のガイドさんも、学芸員ではなくボランティアだとか。本当に経費を浮かせています。でも、学芸員と違い一般人ですから、私が水を向けたら、中世の遺跡の話ばかりではなく、古墳時代にまで遡ってお話を聞かせていただきました。

ちょっと想像してしまったのは、中前勉の方々をガイドさせたら、学芸員より安くて(あるいはボランティアで)、良質なガイドになるだろうなあということ。

今回は、車で行ったのですが、「新撰組ふるさと歴史館」には駐車場はないものの、市役所の周りの駐車場(無料)を利用してよいとのことで、停める所には困りませんでした。図録はありません。8頁ほどのカラー印刷の解説を無料でくださいました。

*少し違和感があったのは、ガイドの方が、江戸時代初期に百草の地を領し、この地に松連寺という寺を建てた小林正利という旗本を「地頭」と紹介していた点です。江戸時代に地頭というのはおかしいという気がしたのですが、家康が関東入府後に関東各地(特に武蔵野)に配された旗本たちはこう呼ばれたわけですかね。薩摩藩にも「地頭」という呼名が残っているようだし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD
http://www.asahi-net.or.jp/~HM9K-AJM/musasinorekisi/edo/muranijitougayattekita/muranijitouga.htm

>釈編集長さま
>亀が釣れた
そいえば、鎌倉の池ってよく亀がいませんか?鶴岡八幡宮とか円覚寺とか。藤沢にも亀のいる池があります。どういうことなのでしょうかね。今日の写真は藤沢の池で撮った亀の写真と、↓のどっちにしようか迷いましたが、無難に、「日野宿本陣」でございます。

>はぎつきみたえさま
お疲れ様です。お話を聞くと「那須与一」と「かき揚げ」惹かれますね。

>筆綾丸さま
>これでは滅びますね。
でも、一般には、「270年続けば、十分なのでは。」と思ってしまいますが。

>ポアンカレ予想
って、トポロジーの話を、実用には・・・

>草梁倭館址や古都慶州
そうですね。百済の都「扶余」などは、どうでしょうかね。

>慶光院 お万の方
ドラマ「大奥」とかに良く出てきますね。それにしても、山本博文さん盛んな執筆活動をしていますね。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003788.jpg

378釈由美子が好き:2007/11/06(火) 12:12:22
外来生物。
>はぎつきさん
>最近流行の地産地消
 本来、そーあるべき姿ですわなァ。


>筆綾丸さん
>家康の戒名をみると、安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士で、
>すでに崇徳がいたのですね。これでは滅びますね。
 つっても、江戸幕府は265年も保ちましたから、祟りがあったとしても、だいぶ効き目は落ちてますわなァ。

>こういう地味な名の発見は、眼光紙背のレッスンの賜なのでしょうね。
 そ〜言えば、ホントの御先祖は賀茂氏だとか、すごい以前に、ここでも話題になりましたねェ。
 家康も藤原名乗ったりした挙げ句に、徳河見つけ出したわけで、なりふりかまわん感じです。


>NAO4@吟遊詩人さん
>このサイトで紹介されている展示会を1つ1つクリア
 ホントに、そーですね。筆綾丸さんと並ぶフットワーク。

>現在の京王百草園に特定できたというワクワクするお話
 確かに。地味な調査の先に「ワクワク」があるのですなァ。

>本当に経費を浮かせています。
>中前勉の方々をガイドさせたら、
 経費をうまく浮かせれば、シンポとかもできますよねェ。

>鎌倉の池ってよく亀がいませんか?
>どういうことなのでしょうかね。
 誰かが自主放生会をやらかして、その後は自然増殖なんでしょねェ〜。

 称名寺にも、いっぱいいますよね。
 もっとも鎌倉に限りませぬ。ちょいとしたお寺や神社の池には、亀、たくさんいますわな。
 うちの近所ですと、亀戸天神の池は、亀だらけです。
 石の上に乗ってる亀の上に更に亀が乗ってたり、亀同志で積み重なってますわい。
 でもって、過半数が成長したミドリ亀(アカミミ亀)なんですよね。
 国産のクサ亀・イシ亀が圧され気味。

379kari:2007/11/06(火) 16:24:40
大田原といえば・・・。
はぎつきみたえさま。
大田原牛は、たしか1キロ20万円とか。で、その頭部は那須の温泉大明神に供えるそうです・・・すいません、嘘です。でも、大田原の牛肉がバカ高いのは事実です。
まさか、レストランで出してませんよね?

大田原は黒羽町と合併したために、東部には黒羽芭蕉の館があります。那須与一伝承館とともに、同窓の人間が学芸員を務めています。いずれもお勧めですね。

筆綾丸さま。
ポアンカレ予想の番組は私も見ました。
何か変だな、という感覚はしていたのですが、おそらく観測を一切しないで宇宙の形を測る、というところに違和感があったようです。空間の形状は如何に複雑でも、分割すると8種類の形に収束される・・・ということは、要するに人間の考えうる、あるいは認識しうる形状に上限がある、というだけの話で、外側にある宇宙そのものとは何の関係もないのではないか、との疑問が湧きました。
ずっと以前、筆綾丸さまが「時計の時間と、実際の時間とは何の関係もない」ともらした際のそれと、似たような問題を感じたのでした。

380阿哈馬江:2007/11/06(火) 20:03:01
雨の、マッコリ ・ 新大久保(←別に、深い意味はありませぬ)
またしばらくご無沙汰してしまいました。

筆綾丸さま

 本日、ようやく、倉富勇三郎日記についての本を購入しました。同記には、たいへんにナマナマしい記述があることは、すでに十年ほど前から聞き知ってはいたのですが、現物を見る機会は今日にいたるまでありません。講談社のPR月刊誌『本』に、著者と原武史氏の対談があり、そこにもいろいろなことが書かれております。
 さて、

> 二条家の支流冷泉家の一族で、六条宰相藤原有純の息女である。

 これは、これは、実に奇怪な一文で... 「支流」という表現に目をツブることはできても、六条家のご先祖サマ、有房は、藤原氏だったんでしょうかねぇ... 「山本氏」というのは、かの、"氷雪"で訴えられた御仁のことでしょうか?
 なお、「慶光院」は、明治に入ってから、(摂関家の)二条家かどこかから養子を取り、一家を立てましたが、結局、華族になりそこねてしまっております。「慶光院」につきましては、次の論文がございます(既にご存知の方もいらっしゃるとは存じますが)。

 小島鉦作「慶光院清順・周養の事蹟と慶光院文書の歴史的意義 −−大神宮式年遷宮の伝統に関する一考察−−」(小島鉦作『伊勢神宮史の研究 小島鉦作著作集 第二巻』(東京都文京区本郷、吉川弘文館、昭和六十年五月)、二七一〜二九一頁。初出、『宮地直一博士三十年祭記念論文集 神道史の研究』(国学院大学神道史学会編。叢文社、昭和五十五年十一月)、二三〜四一頁)

釈さま

> ホントの御先祖は賀茂氏だとか、すごい以前に、ここでも話題になりましたねェ。

 掲示板で話題になったことについては記憶にないのですが、「家康」の「家」は、八幡太郎にちなんでいるんですよね?
 ともかく、どうぞご自愛たまわりますよう。

http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html

381筆綾丸:2007/11/06(火) 21:38:33
グランド・スラム・・・
NAO4@吟遊詩人さま
http://en.wikipedia.org/wiki/Geometrization_conjecture
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E6%B0%B4
Thurston classified the 8 model geometries satifying these conditions; they are listed below and are sometimes called Thurston geometries.
8個の幾何は、なんとなく、易の八卦に似ていますね。宇宙がどのような構造であろう
とも8個の基本的な幾何に還元できる、というサーストン予想は、全く理解できませぬ
が、恐るべきものですね。
NHKスペシャルの黒板の絵において、c→ a( c )は龍脈、上図は亀、下図は鳥、右図
は龍、左図は虎で、四神相応のトポロジーを表し、数式中の sinθは、李王朝の宮殿と
漢江が作る直角三角形において、最適値を求める場合の正弦で・・・数学者たちは、
宇宙的視点から、風水のトポロジーを論じているところなんです(笑)。
国博のショップで八卦のお守りを買い、カジノでブラック・ジャックをしましたが、勝
てませんでした。

http://www.shinchosha.co.jp/book/116441/
この本に、こんなことが書いてあります(258頁)。
・・・雑誌では、特集中心に編集されている歴史科学協議会の『歴史評論』が研究者と
一般歴史家双方を対象としていて、現在の学界の水準を知るのに最適である。より専門
的な雑誌に、史学会の『史学雑誌』、歴史学研究会の『歴史学研究』、日本史研究会の
『日本史研究』がある。これらの雑誌はレフリー制をしいており、私が大学院生の頃、
この四誌に投稿して採用されることをグランド・スラムと呼んでいた。その達成者は
意外に少ない。・・・
グランド・スラム達成者は、現在まで、どのくらいいるのでしょうね。
かく申す私はグランド・スラマーである、という自慢話なんでしょうか?

釈由美子が好きさん
禁中並公家諸法度第一条の「 天子諸芸能ノ事、第一御学問也」は、天皇の上位概念
としての法を意味するはずですから、崇徳など眼中にない、ということでしょうか。
大御所と将軍と関白の連署による法的効果が天皇に及ぶ、とするのは、法理的には変な
感じがしますが。関白ではなく後水尾(と後陽成)が署名する、ということは、やはり
不可能だったのですかね。

kariさま
数年前、冬の寒い日、モンパルナス墓地に、ポアンカレの墓を訪ねたことがあります。
変哲のない墓石でしたが、ああ、これがポアンカレか(?)、と妙に感動したもので
した。
サーストン予想は、プラトンのイデアではありませぬが、トポロジストは「実在」を
信じているのでしょうね。トポロジーはもちろんですが、難しい問題ですね。

阿哈馬江さま
慶光院の解説は、いろいろ問題があるのですね。私は何も知らず、信じてしまいました。
『枢密院議長の日記』では、関東大震災のとき、皇族の遺体を駆逐艦「夕凪」で輸送
した、という話には驚きました(336頁)。
また、五・一五事件の翌朝、倉富は総理官邸に行き、犬養毅を弔問したところ、秘書官
が、総理のデスマスクをとっているので案内できません、と言われた、というところ
などは、おそろしくリアルですね(357頁)。

382NAO4@吟遊詩人:2007/11/07(水) 04:09:32
慶光院
>阿哈馬江さま、筆綾丸さま
なかなかお話の内容に着いて行けず、お恥ずかしい限りですが。
ネット検索していて、なんとなく分かりました。
あらわに書くと、野暮なのでしょうが・・・

「慶光院」ですが、伊勢神宮の神宮寺の1つで、尼寺でしたが、第六世「慶光院」院主が、徳川家光に見初められ、還俗して「お万の方」と称した。還俗したのであるからこの方を寺名の「慶光院」と呼ぶべきではなく、「永光院」と呼ぶべき。

この神宮寺「慶光院」と関わりのある家系(尼寺なので、院主の子孫とは思えないが)に、「慶光院」という苗字の家が現れ、「慶光院利彰」という方が、摂家「二条家」の分家男爵二条正麿氏の娘文子さんと結婚して一家を成したということでしょうか。
また、「慶光院」という苗字を調べておりますと、伊勢神宮の禰宜の方にこういう苗字の方がいらっしゃるようですね。

*なお、閑院宮典仁親王(明治天皇の高祖父)は、119代光格天皇の父であったために、「慶光天皇」→「慶光院」と明治になって諡号されているので、同名であり、検索のときに若干混乱いたしました。

>六条家のご先祖サマ、有房は、藤原氏だったんでしょうかねぇ
六条家(羽林家)は、久我家(清華家)から出たので、藤原氏ではなく、村上源氏ということですね。

>グランドスラム
山本博文さんがどんな方なのか良く知りませんが、江戸時代に関する本を読む限り、分かりやすく、経済的視点からも鋭く分析されているような印象を持っておりますが。

>「サーストン予想」と「風水」
今日のところは、「慶光院」で疲れてしまいました。また、後で考えさせていただきます。

383筆綾丸:2007/11/07(水) 20:23:31
いとやんごとなききは・・・
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.pref.kyoto.jp/kaidai/kaidai-ro.html
http://members.at.infoseek.co.jp/jsjtm/hyaku79.html
歌学の六条藤家との混乱でしょうか。六条藤家なら、有という通字は、おそらくない
のでしょうね。

阿哈馬江さま
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/kuratomi/kuratomiandKorea.htm
「皇室典範第39条によれば、皇族の婚嫁は同族同士かまたは特に天皇の許しを得た
華族にかぎられていた。ここで李王公家一族は皇族か否かが問題になる。皇族だと
すれば国内法上問題は生じないが、皇族の中に異民族を含めることになる。それに
対しては「皇統の破壊」であるとして、きわめて強い反対が予想される。他方、
皇族でないとすれば、皇室典範の改正を要する」(3の(2))
「朝鮮総督ハ天皇ニ直隷スルトアルヲ内務大臣ノ監督ニ属セシメタリ、朝鮮総督ノ
陸海軍統帥権ヲ認メサル結果トシテ」(資料4)
・・・私が風水の本を参考にウロウロしていたところで、倉富勇三郎は、こんな
興味深い問題を追求していたのですね。
http://www.ndl.go.jp/modern/column/S043/S043-001r.html
ソウルで韓国人と話していましたら、マサコと云うので、さるやんごとなき
おほん方を連想したのですが、李方子のことでした。

釈由美子が好きさん
六本木ヒルズの前身について書いたとき、あんな田舎になぜ上屋敷があったのか、
と疑問に思いましたが、山本氏の書に、こうありました。
萩藩の留守居役が幕府の屋敷奉行に入知恵してもらい、六本木の地を下屋敷として
賜り、お殿様が日比谷の上屋敷から引っ越してきたので、上屋敷になった、と(90頁〜)。
http://www1.cncm.ne.jp/~itoyama/kenka.html
山本氏は、赤穂浪士討入と長崎喧嘩騒動の類似性として、元禄期のかぶき者的気質をあ
げていますが、
http://jparchives.sakura.ne.jp/incident/medieval/db/tohgokubusidanseisen.html
深堀氏は、西遷御家人なのですね。

384はぎつきみたえ:2007/11/07(水) 21:02:37
牛ステーキ
>kari さま
>大田原牛

 レストランで出ていたらそっちを食べています(笑)。

 今、ふとしたことで手に取った雑誌『歴史公論』(昭和54年3月号)の、「頼朝・頼家・実朝 源氏政権と北条氏」を読んでいます。
 ずっと昔の雑誌なので、書かれている内容は、今となっては間違っていることがわかっているものもあるのでしょう。
 鵜呑みにしないようにしているのですが、とても面白いです。

 そのなかに、頼朝の天皇観について書かれているコラムがあります。
 文治二年の四月に頼朝が京都に送った奏状には「天下の正道のあるべき姿」が書かれており、
 「院や天皇そして頼朝といえども正道に背くことは許されないという頼朝の思想は、絶対的・超越的な天皇の権威を否定し、「道理」の思想として発展し、院や天皇政治に対する批判の道を開いたのである。」と、あるのです。

 書いた方は「鈴木英雄」氏なのですが、どういう方なのかわかりません。
 私も不勉強で、恥ずかしながら思いあたる方がありません。すみません。

 頼朝の天皇観なんて考えたことがなかったのですが、これは今でも通じる論なのですか?
 何か参考になる資料等ありましたらご教示いただけると嬉しいです。

385kari:2007/11/08(木) 20:32:07
この方でしょうか?
はぎつきみたえさま。
さすがに大田原牛は出せないでしょうね。幾らになるやら見当もつきません。

お尋ねの件ですが。
鈴木英雄「北条時行」(安田元久編『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』 新人物往来社、1990)
http://www12.ocn.ne.jp/~sakumo/siryou2.html
鈴木英雄「天皇養母考―白河院政の成立をめぐって―」(安田元久先生退任記念論集刊行委員会編『中世日本の諸相 上』吉川弘文館、1989)

同姓同名の方は多いので、同一人かどうか確かめるのが難しいですが。

386釈由美子が好き:2007/11/09(金) 08:30:31
すいません。
>おのおの方
 管理人が姿消してて、すいません。
 ここんとこチョー忙しく、水曜日に一段落したんですけど、そしたらバテてしまいますた。

387阿哈馬江:2007/11/09(金) 14:34:12
新羅三郎の後胤、清順尼
筆綾丸さま

 倉富勇三郎についての本、現在、余暇を見て読んでいる最中ですが、一親等の関係者が存命である人を実名でエゲツなく書いている点については、あまり甘心できませんね。ま、面白いといえばソレなりにオモシロイのですが...

> マサコ

 ごく最近、小田部雄次氏の本が出ましたが、文春文庫にも入っております本田節子『朝鮮王朝最後の皇太子妃』(文藝春秋、一九八八年七月)と比較して、どのような新情報や新見解を提示することができているかに注目したいです。

 小田部雄次『李方子――一韓国人として悔いなく』
 (ミネルヴァ日本評伝選)
 ミネルヴァ書房、二〇〇七年九月
 http://book.asahi.com/review/TKY200710230304.html

 なお、数ヶ月前、小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』(小学館、一九九一年十一月第一版)を古本屋で50円で見かけたので、購入しております。

> 皇族の中に異民族を含めることになる

 関係する論文として、次のようなものもあります。

◎ 島善高「大正七年の皇室典範増補と王公家軌範の制定」(『早稲田人文自然科学研究』第四九号、一九九六年三月、一〜四九頁)

 また、このようなものもあります。

◎ 金英達「朝鮮王公族の法的地位について」(『青丘学術論集』第十四集(財団法人韓国文化研究振興財団。一九九九年三月)、一一五〜一五三頁)

 なお、李方子の実家である梨本(宮)家に関連して、次のような『朝鮮日報』記事があります。コメント等は差し控えたいと思います。できれば御返答の方も...
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%A8%E6%9C%AC%E9%9A%86%E5%A4%AB

NAO4@吟遊詩人さま

> 慶光院

 先日の書き込みは、出先から、記憶だけに頼って書きましたので、アイマイな内容が多く、失礼いたしました。あらためて、以前に調べておいてありましたことを、書いてみます。
 まず、古いものですが、次のような論文があります。

◎ 平出鏗二郎「宮と慶光院との關係」『史學雜誌』第十七編第五號、明治三十九年五月、四八〇(六〇)〜四九二(七二)頁
◎ 平出鏗二郎「宮と慶光院との關係(承前)」『史學雜誌』第十七編第九號、明治三十九年九月、九四七(六九)〜九六七(八九)頁

 これによって、慶光院上人の歴代を挙げますと、次のとおりです。

? 守悦 明治三十八年十一月十八日、贈正四位。
? 寶山智珪
? 清順 山本左京進義里(山本義定の十九世孫)の女子。
     明治三十八年十一月十八日、贈從三位。
? 周養 宇治の山幡四郎右衞門經政の女子。
     山本義時(もと經時。山本義里の養子)の姉妹。
     明治三十八年十一月十八日、贈正四位。
? 周清 山幡四郎右衞門經政の外孫。山本義時の猶子。
○「お萬の方」(永光院)
? 周賢 山本家の出身。
? 周長 山本家の出身。
? 周貞 山本采女末慶の女子。
? 周榮
? 周香
? 周奧 山本家の出身(山本家の血脈、斷絶)。
? 周億 勸修寺經逸の女子。
? 周恭 一條輝良の女子。勸修寺經逸の猶子。
? 周昌 慶應二年六月遷化。

 ちなみに、上記の山本家とは、近江国の“もうひとりのヨシツネ”の家のことであります。
 また、明治以降の慶光院家については、断片的な情報しかありませんが、一応、こちらが現在把握しているのは次の程度です。

  宮橋盈子 のち慶光院盈子
   明治二年四月廢寺、「宮橋」氏を稱す。
   明治四年七月、士族に編入。
   明治三十六年、慶光院に復姓。
  慶光院利敬(よしゆき)
   盈子の養子。二條齊敬の男子。
   明治八年二月十三日生。
   昭和十三年二月十八日歿。
    長女の敏子(明治三十七年二月十八日生)は、
    上野正雄(北白川宮能久親王の男子)の妻。
  慶光院利彰
    妻、文子(あやこ)(大正九年十月生)は、
    二條正麿の女子で、二條弼基の妹。
  慶光院俊
   二條弼基の次の伊勢神宮大宮司となる。

 ところで、やや蛇足気味ですが、

> 「慶光天皇」→「慶光院」と明治になって諡号

 これは、「ウィキペディア」にもそのように出ているようですが、典仁親王を「慶光院」とするのは誤りであります。典仁親王につきましては、弊帳より、本日公開いたしました

 『親王・諸王略傳』 典[典仁]
 http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssr/3t4/te850001.html#18840319

をご覧いただければ幸いです。

http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html

388筆綾丸:2007/11/09(金) 20:24:14
切腹
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4334031994.html
『続視聴草』所収の「赤穂義士切腹図」(48〜49頁)は、細川家の場合で、
「元禄十六年二月四日御預リ被成候十七人之者何モ切腹被仰付四ツ過ヨリ七半過
ニスキ□仕廻申候」(□はズか)
とあります。
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/knowledge.html
これは、四ツ(午前10時頃)から七ツ半(午後5時頃)までに、17人の切腹を執行
せよ、と読めるから、一人あたりの所要時間は、執行済の遺骸の処理などを含め、
60×7÷17≒24で、おおむね20分、と解してよいのだろう。
おそらく中入りなどはなく、幕府の検使以下列席者はずっと正座して待ち、そうして、
切腹の順番はたぶん旧家禄の多寡に基づき、浪人中とは云いながら、身分低き者は、
ひとり消え、ふたり消え・・・と延々待たねばならぬ。
極度の緊張から、入眠時幻覚におそわれた者もいたろう。幻覚を破るのは、ケキョ、
化虚、ケキョ、鶯の初音である。もしくは、主君の曹洞禅よろしく、道元のトート
ロジーである。内匠頭刃傷の理由は、正法眼蔵の如く不可解で・・・と、自分の名
をよぶ声がして、立ち上がる。
如上の計算を、松平家(10人)、毛利家(10人)、水野家(9人)に当て嵌めると、
20×10÷60≒3.3(h)、四ツ過ヨリ八ツ過ニスギズ、つまり4時間以内で執行せよ、
という命令が幕府から下されたはずで、午後2時には全て終了していただろう。
井上哲次郎氏旧蔵『切腹口決』(同書110頁)によれば、畳の敷き方(数)には、
? 極上舗様、? 上ノ舗様、? 中ノ舗様、? 下ノ舗様、という差別があったらしい。
最初の絵に戻って切腹人をみると、「上ニ白風呂敷畳三畳」とあるから、細川家お預
けの赤穂浪士は、17人が平等の扱いを受けたとして、?か?のいずれかであった可能
性が高い。?〜?の差異の条件はわからぬながら、赤穂浪士の待遇は、極上舗様だっ
たのではあるまいか。
以上は、すこし強引な推量でありますが、幕末の堺事件の時は、?であったのか、?
であったのか・・・。
同書に、薩摩の近思録崩れで切腹した樺山主税の話がありますが、この人は、以前話題
の樺山資紀とどんな関係がある人なのだろう、と気になりました。

阿哈馬江さま
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31963422
数日前、この本を読みましたが、慶光天皇は尊号問題の人ですね。黄昏少将(松平
定信)は、なぜ、あんなに依怙地になったのか、よくわからないですね。政治家と
して度量の狭い奴だな、という印象を受けますね。
小田部雄次氏は、以前話題の『華族』(中公新書)でズッコケましたので、ご紹介
の本は、どうしたものか、と思っておりました。

389はぎつきみたえ:2007/11/09(金) 21:12:22
ありがとうございます。
>kariさま
>鈴木英雄氏

 情報ありがとうございます。
 …うぐぐぐ、事典の北条時行の項を書いている方かもしれなかったとは、気づかなかったのが恥ずかしい…。灯台下暗し。

>同姓同名の方は多いので、同一人かどうか確かめるのが難しいですが

 確かに多そうですね〜。でも、時行の項を書いていらっしゃる方であることが濃厚なので、放ってはおけぬ。
 なんとかどんな方か調べてみようと思います。

390NAO4@吟遊詩人:2007/11/10(土) 07:00:28
ありがとうございました。
>阿哈馬江さま
「慶光院」に関する貴重な調査データ公開いただきありがとうございました。
ネットでは、ここまで到達できないと思います。本当にありがとうございました。
尼寺であった、慶光院から、「慶光院」という苗字の家が派生した理由も分かりました。

ちなみに、「慶光天皇」は、「きょうこうてんのう」と読み、
「慶光院」は、「けいこういん」と読むのですね。

ところで、「慶光院」に関してお詳しい理由というのは、伊勢神宮の神宮寺ということで、史料とかで重要なものを持っているとか、清順尼の果たした役割が注目に値するということからなのでしょうか。

>近江国の“もうひとりのヨシツネ”の家
↑一応知っておりますが、山本家と「慶光院」の結びつきは、初めて知るもので、驚きでした。ところで、山本家は山本義経の後、多くの家に分かれたようですが、慶光院と関わりのある山本家は、戦国〜江戸期には、どこにあったのでしょうか?



>筆綾丸さま
赤穂浪士討入、長崎喧嘩騒動、西遷御家人深堀氏、興味深く拝見しました。ありがとうございます。

>六本木ヒルズの前身  (=毛利家上屋敷)
ご存知かもしれませんが、新撰組の沖田総司の墓は、本当にすぐ近所の「専称寺」という寺にありまして、年に一度総司忌が開かれています。一度だけ参加したことがあるのですが、長州藩と沖田の関わりがあったのですね。(沖田は、白河藩下屋敷の生まれなので、当たり前といっちゃ当たり前なのですが。)

>幕末の堺事件
なるほど、ここで出てきましたか。



>はぎつきみたえさま
>頼朝の天皇観
よく、頼朝は旧体制を破壊しようとしていたのか、大姫を入内させようとしていたことから、やはり、旧秩序に捕らわれていたとか、アマの間で話題になることがあるのですが、この辺のお話にまとまりがつくようであれば、お教えいただけるとありがたいです。

391阿哈馬江:2007/11/10(土) 15:10:57
六条
梨本宮家に関連する先日の書き込みに、リンク先の誤りがありました。出先からの書き込みですので訂正できません。お詫び申し上げます。

 http://www.chosunonline.com/article/20040511000075

NAO4@吟遊詩人さま

 慶光院上人に関する情報は、すべて、紹介いたしました論文に基づいております。山本家についても、平出鏗二郎論文に書かれている程度のことしか知らないのであります。

 ところで、永光院について、かなり以前(おそらく二十年近く前)に入力(PC9800機を使って)してあった情報が出てきました。卜部典子『人物事典 江戸城大奥の女たち』(新人物往来社、一九八八年十二月)の六一〜七一頁を要約したものです。

「お万の方」(永光院)
六条有純の長女。
母は戸田采女正氏鉄(うじかね)(摂津尼崎五万石)の養女(実は弟帯刀為春の娘)。
寛永元年(一六二四)生。
寛永十三年(一六三六)、伊勢の慶光院に入る。
寛永十六年(一六三九)、慶光院第十七代院主となる。十六歳。
慶光院は、伊勢国度会郡氏の伊勢大神宮の別当で、院の格式は高く、門跡並みで、紫衣を賜わった。東下のときは、道中御朱印伝馬人足がつけられ、江戸霊岸島に屋敷を持っていて、江戸参府の際の宿所となっていた。屋敷内には伊勢皇大神宮がまつられていたが、毎年正月には将軍家から鏡餅がおくられるのが慣習になっていた。慶光院主は、内宮の御師で三百石を賜わっている山本大夫の娘が代々なるのが例になっていた。寛永十六年(一六三九)三月、慶光院の跡目相続のお礼に、江戸へ下った。江戸城に登城し、紫衣姿で、将軍家光にお目見えした。すると、彼女の美貌を見て、家光は、彼女が伊勢へ帰ることを禁止して、江戸に留めおいて還俗させ、「お万の方」と改名させた。
お万の方は、春日局にも気に入られた。お万の方は、尼であったので、髪が伸びるまで、田安屋敷に住み、その後、本丸大奥へ移った。大奥女中の行儀しつけ方を勤める。
家光は、お万の方を、他の侍妾とは別格に扱った。春日局が死んだ後、特に家光から、「以後春日同様、諸事念入申付べし」と命じられ、御手当として、別に百人扶持を賜わった。
お万の方は、大奥の制を華美なものに改め、大奥の女たちは、すべてお万の方のおかげであると喜んだ。
慶安四年四月二十日、家光が没したときも、落飾せず、依然として本丸にとどまった。二十八歳。
のち、名を「お梅の方」と改め、大上臈となり、賄料として毎月百口、金子百両を賜わった。
明暦三年(一六五七)正月の振袖火事によって本丸が炎上したため、家光の御台所「中の丸殿」(鷹司信房の女、孝子)とともに、小石川の無量院に移る。本丸復旧後も、大奥において重きをなした。
正徳元年(一七一一)十月十一日、八十八歳で亡くなった。
法名、永光院相誉心安法寿大姉。
小石川の無量院(現在の小石川三丁目)に葬られた。無量院の墓地は、雑司が谷墓地に移されているが、お万の方の墓碑は残っていない。
「第二の春日局」と言われたほど、権力を持っていた。

 〜〜〜〜〜

 「グランドスラム」(ケッ    勝手にヤッテてくださいな)のセンセイ(でイイんですかね?)も、上記の出典を参照されているのでしょうかねェ。

 なお、六条有純の父は、下冷泉の方の冷泉家から養子に入っております。


筆綾丸さま

 家近良樹『幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白』
 (中央公論新社、二〇〇七年十月)

 私も買いましたが、まだ読んでおりません。タイトルに「鷹司関白」とあるのにコタエられず、ツイ、買ってしまったものです。

> 黄昏少将(松平定信)は、なぜ、あんなに依怙地になったのか、よくわからないですね

 一応、通説では、一橋の治済を「大御所」にしたくなかったからだ、などと言われているようですが、実際のところは、どのようであったのでしょうか?

> 『華族』(中公新書)でズッコケましたので

 いや〜 あはははは

> ご紹介の本は、どうしたものか、と思っておりました。

 私は、もちろん、定価で購入するつもりは毛頭ございません。古本屋で三割五分引以下の値段のがあれば、買おうとおもいます。

http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html

392釈由美子が好き:2007/11/10(土) 23:27:20
新刊紹介。
 ここんとこ、管理人業務をサボってる釈さんですが、今日も、新しく出た論文集の紹介で、お茶をにごさせて戴きやす。
 すんません。


  阿部猛氏編『中世の支配と民衆』(同成社中世史選書4、同成社、2007年11月)

●A5判・306頁・7000円 ISBN978-4-88621-408-9 C3321

【内容紹介】
 中世の地方権力と民衆の支配・被支配の関係を中心テーマとする十数本の論文を集積し、さまざまな角度から中世社会の実態を究明する。

【目次】
阿部猛氏「開発神話・ノート」
坂口勉氏「田楽・さるごうの起源研究に関する一視点―研究史と物語史料の検討から―」
中野栄夫氏「「上寿」考」
浜田久美子氏「『本朝書籍目録』について―奥書の検討と系統整理―」
平群さやか氏「国司申請荘園整理の研究」
鈴木由美氏「中先代の乱に関する基礎的考察」
鈴木哲雄氏「称名寺領下河辺庄赤岩郷と「ちやうせう書状」」
海津一朗氏「「民衆の城」の社会史―紀伊国南部荘高田土居と職人集団―」
鈴木敏弘氏「周防国国衙領の一形態」
藤井崇氏「義弘期大内氏の分国支配について」
小森正明氏「室町公家社会の一断面―九条政基詠五十首和歌と甘露寺親長―」
薗部寿樹氏「近世宮座における輪番神主と専任神主―大和国大安寺村宮座記録から―」

  http://homepage3.nifty.com/douseisha/rekisi/tyuusei/sennsyo/sennsyo.html#t4



 日本史アーカイブズ的には、6つ目の「中先代の乱に関する基礎的考察」が、注目! ですな。

 去年の4月、「金沢貞冬の評定衆・官途奉行就任の時期について」(『鎌倉遺文研究』17)でデビューしたばっかの日本史アーカイブズ副会長鈴木由美氏、早くもセカンドシングル発表! なのであります♪

393筆綾丸:2007/11/11(日) 10:13:39
『禁秘抄』という恫喝
阿哈馬江さま
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?isbn_cd=4642033785
前に書いたことが気になり、この本の、第四部「江戸幕府の成立と朝廷」第三章「禁中並公家中諸法度の性格」を読んでみました。
昭実と秀忠と家康の連署の意味について、著者は、次のように書きます。
「日下に署名する者は最下位で、日付に遠い、家康が最上、ついで秀忠、そして昭実の順となろう。・・・そしていま一つ看過してはならないのは、上下の問題のみならず、日下が文書作成者であるということであろう。・・・(この法度は)大御所家康が中心となり作成されたものであるが、形式的にはこれに加えて幕府と朝廷の代表の三人が署名する形をとっており、朝廷の代表というべき関白二条昭実が日下に署しているのは、この法度が形式的には朝廷側の作成にかかることを意味していることになろう。そして、連署の上下を示す大御所家康、将軍秀忠、関白昭実の順は、権力の大小の順を象徴するものであったろう」(580頁)
「(法度の)第一条は、天皇を君主として位置づけ、君主としての勤め、それにふさわしい教養を身につけることを勧めたものであって、暗に大政は朝廷になく幕府にあることを、朝廷と幕府が認め合ったもの、すなわちこの条文こそ朝廷より幕府への大政委任を示すものであった、と考える」(595頁)
以上、僭越ながら、興味深い解釈ですが、私の関心は、この連署において、関白ではなく、なぜ天皇(後水尾)が署名しなかったのか、ということなので、疑問は氷解しませんでした。このあたりの法理を追及した論文はないものでしょうか。
この本を読んで、非常に驚いたことがあります。第一条のほぼ全文が『禁秘抄』からの引用だ、ということです(590頁)。我が国の法制史上、はじめて天皇を規定した法が、ほかにも色々あるだろうに、なぜ『禁秘抄』からの引用なのか。著者の言及はありませぬが、これは家康の恫喝と読めるのではないか。つまり、家康は、承久の変における鎌倉幕府の処断を想起しながら、幕府に逆らえば順徳院のように流すこともありうるから、重々、心せよ、と恫喝したのではないか。第一条に順徳院の『禁秘抄』を引用されたことで、朝廷は震えあがったのではないか。このドスの効いた恫喝・・・家康という人は、つくづく恐い人だ、と思いました。

第五部「伝統の継承と再編」第二章「即位潅頂と二条家」に、
「・・・二条家は幾度かの危機を乗り越え、即位潅頂の家であり続け、弘化四年(1847)の孝明天皇即位大礼において二条斉敬が即位潅頂を勤める。これが天皇への即位潅頂の印明伝授の最期であった」(740頁)
とあります。二条家は、足利将軍と徳川将軍の偏諱を受けてきて、将軍家斉の偏諱を受けた斉敬が最後の即位潅頂を勤めた最後の関白であった、というのは、とても面白い現象ですね。とともに、禁中並公家中諸法度に署名した関白二条昭実は、最後の足利将軍義昭の偏諱を受けているわけですから、昭実・秀忠・家康の連署を見ていますと、昭実という文字が、織田・豊臣をすっ飛ばして、足利幕府から徳川幕府へ権力を移行させた接ぎ木のように見えてきますね。

ちなみに、この労作が第一回「徳川賞」に選ばれているのは、なんとなく象徴的な感じがしました。

黄昏少将は、宝暦・明和の思想事件の影響を考慮していたのかな、という気もしますね。ここで譲歩すると、また尊王の連中がつけあがる、と。

394NAO4@吟遊詩人:2007/11/11(日) 11:02:54
だんだん分かってきました。
>阿哈馬江さま
「山本家」「慶光院」「永光院」に関しまして、早速レスいただき、ありがとうございました。たまたま、書店で「伊勢神宮(所功著、講談社学術文庫)」という本を見つけまして、購入して見ました。慶光院とは、室町・戦国期に途絶えがちになっていた伊勢神宮の式年遷宮を復活させたという意味で功績が大きいのですね。その意味で、勧進を行った初代守悦、3代清順の業績は特筆に価するようですね。
また、この本では、清順は紀州(注)出身と書かれており、山本家は紀州にあった可能性があります。

ところで、「永光院」に関する記述
>慶光院第十七代院主となる
は間違いですよね。(先の所功さんの著書には、3代清順のときに、後奈良天皇から、「慶光院」の号を勅許されたとあります。清順を3代としますと、永光院は6代目になりますか。)


>釈さま
>鈴木由美氏「中先代の乱に関する基礎的考察」
「人生の半分をかけて、時行を追いかけた」著者の努力の成果が結集しているのでしょうね。とても興味深いです。


(注)色々調べていると、この紀州とは、東紀州を意味し、清順上人の生誕地は、三重県熊野市紀和町という伝承と合致いたしますでしょうか。

395ぽこ:2007/11/11(日) 13:02:32
鈴木英雄氏について
>はぎつきみたえさま

 鈴木英雄氏についてなお調べられるご予定ということなので、
 不要かもしれませんが、老婆心ながら知っている限りのことを。
 kariさまが書いてらっしゃるのが一番入手しやすいものと思われますが、
 それ以外の業績として
 『日本思想大系48 近世史論集』所収「大勢三転考」の校注、
 「惣領制小考」(『学習院大学文学部研究年報12号、1966年)
 があります。思想大系付属の月報から「昭和6年生まれ、昭和33年
 北海道大学卒業、共立女子大講師」であることがわかります。
 (ちなみに『中世日本の諸相』の執筆者紹介では共立女子大教授に)
 いずれにせよ、共立女子大学に長く在籍しておられるようなので、
 ここの紀要等をあたるのが一番早いかもしれません。
 「天皇養母考」は源頼朝の天皇観とは直接何の関係もありませんが、
 院政期の天皇家を家族史的に考察している内容なので、鈴木氏が
 この時期の天皇(または天皇家)をどう捉えているかという点に
 おいては多少の参考になるかと思います。
 なお、中世史の方がなぜに『近世史論集』の校注、と思われるかも
 しれませんが「大勢三転考」の内容は古代・中世の歴史ですので、
 こちらも歴史観という点からは面白いと思います。

396はぎつきみたえ:2007/11/11(日) 17:55:24
御礼!
>ぽこさま

 はじめまして。はぎつきみたえと申します。
 どうぞよろしくお願いいたします。

 鈴木英雄氏の件について、どうもありがとうございました!
『中世日本の諸相 上』が、地元の図書館にあるので、きっとそこに執筆者紹介もあるだろうと思っていたのですが、それより先に詳しくお教えいただいて、助かりました!
『日本思想体系』もあるようなので、いっしょに見てみたいと思います。

 私と同じく『大勢三転考』って何?初めて聞いた、という方、よろしければどうぞ↓

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8B%A2%E4%B8%89%E8%BB%A2%E8%80%83

>NAO4@吟遊詩人さま
>頼朝は旧体制を破壊しようとしていたのか、大姫を入内させようとしていたことから、やはり、旧秩序に捕らわれていたとか、アマの間で話題になることがある。

 そうそう、そうなんですよね。
 頼朝についての本なんて山のようにありますから、ぼちぼち見ていこうと思っています。
 とりあえず買っただけで安心して読んでない自分の本棚から…(笑)。
 何か興味深いことを見つけたらお知らせしますね。

 それにしても、疑問に思うこと、知りたいこと、あとからあとから出てくるので、できるだけ長生きしたいな〜、と、ぼけ〜っと思ったりします。

397:2007/11/11(日) 18:06:44
お礼
前略、
鈴木小太郎様

本居宣長の紫文要領を読んでおりましたところ、わからない単語に出会い、
グーグル検索で「ごくねち」(極熱)を検索したところ、あなた様のサイトで
岩佐美代子氏に関連する引用を読むことが出来ました。

まことにありがとうございました。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/iwasa-miyoko-tomoakikun.htm


私は、日本浪漫派から、神風連、そして神風連に影響を与えた国学とさか
のぼって、本居宣長の原文にたどりつきました。

近代以降の評論家たちの評論に惑わされることなく、古典を原文で読むこと
がとても大切な気がしておりますので、あなた様のサイトの存在に感謝し
申し上げます。

どうか今後ともご研鑽をつまれるようお祈り申し上げます。

398相国入道:2007/11/11(日) 22:11:43
レスが遅くなりました。
>はぎつきみたえ様

 私の書き込みを見まして、那須与一伝承館に行かれたと事。こちらこそありがとうございます。KARI様も書いておられますとおり、芭蕉の館をはじめとしまして歴史の宝庫です。先日、芭蕉の館のKARI様の同窓の方とお会いする機会がありまして、芭蕉の館を含めて見学しててみたいとのその方にお話しましたら、「お待ちしています」といっておられて、大変喜んでおられました。
 また時間をかけて見ていただけるのなら、臨済宗の古刹雲巌寺(うんがんじ)に行かれてもよいです。ここの紅葉は本当にきれいで、気が落ち着く場所でもありますので是非いらしてください。

>NAO4@吟遊詩人さま

>平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー
このご案内は、ひょっとして、私のために書いていただいたのでしょうか。でしたら、どうもありがとうございます。

 とんでもございません。実をいいますとそれだけでの理由ではありません。
NAO4@吟遊詩人さまも、書かれておりますとおり、私にも資料館から企画展の案内をいただきまして、皆様に周知した方がよいと考えて書き込みました。
 平将門の乱は10世紀の半ばですので、古代史に分類されますが、中世を見る場合、平将門の乱からみるべきだと唱えている学者の方のおられるのです。中世の原点を知るうえでも必要ではないかと考えまして、この掲示板に書きこまさせていただきました。
 それと地方の企画展は、思わぬものをやっていることが多いです。
 皆さん、地方での中世関係の企画展のご情報がございましたら、どんどん書き込んでいきましょう。

 >釈由美子さんが好きさん

 鈴木由美さんすごいですね。私も負けないようにがんばらなければと思っています。
私自身、先々週から先週にかけまして、歴史漬けの週でした。こんな経験は、学生時代以来なかったのですが、久しぶりによい刺激を受けました。
 後は、自分の研究にいかせればと考えています。

 >KARIさま

 『実隆公記』の輪読をやっておられるとの事、『実隆公記』の輪読というのは、はじめての試みではないでしょうか。遠方でおうかがいすることはかないませんが、ご成功お祈りしています。

 最後に著書のご紹介をします。

 『下野国黒羽藩大関氏と史料保存』
  「大関家文書」の世界を覗く
  新井敦史著
  随想舎 定価2800円。
内容 第一章 戦国期大関氏の動向と権力構造
   第二章 関ヶ原合戦期〜近世前期における大関氏の動向
   第三章 「大関家文書」の世界を覗く
   第四章 「大関家文書」の収納状況
   第五章 黒羽藩主大関家による史料保存

中世末から近世末期まで大関家がどのような形で史料保存を行っていたのか。また、戦国期の大関氏の動向など興味の尽きない内容となっています。皆さん是非一読をお勧めいたします。

399釈由美子が好き:2007/11/12(月) 14:00:08
ご挨拶。
>ぽこさん
 いらっしゃいませ♪
 御教示、ありがとうございます。
 今後とも、よろしくお願い申し上げます。


>浪漫派さん
 いらっしゃいませ♪
 今後とも、よろしくお願いもうし上げます。


 ・・・・・・・・と、管理人の業務のみにて、去る。
 すんません。

400筆綾丸:2007/11/12(月) 20:16:29
伊勢海老物語
NAO4@吟遊詩人さま
三代清順は、織田信秀の伊勢神宮への献金と同時期ですから、織田家と慶光院主の間は、後奈良帝を介して、ある種の関係で結ばれていたのかもしれませんね。
「むかし、女、ありけり。式年遷宮は、織田弾正忠家のお蔭にて、ゆめゆめ忘るべからず、ひとたび生を受け滅せぬ者の有るべきか、と言ひおきて、儚くなりにけり」(『伊勢海老物語』第参段「清順尼御遺戒之事)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85
正徳の頃、八代目周貞は、赤福を、はや一口に食ひてけり。
「命が延ぶるようよ・・・極楽、極楽。あら、もう終わり?」
「ええ。従五位下能登守、山田奉行大岡忠相様の、きついお咎め。大公儀を畏れぬ所行、以ての外、家門断絶に処すべき所、思し召しにより、一等減じ、屹度、閉門蟄居を命ず・・・」
「ふーん、何をしたのか知らないけれど、やむをえまへんエ」
「お奉行さまは、この功により、江戸町奉行へ御栄転の由」
「和光同塵らしからぬ・・・うふふ」
院主の尊顔に、意味ありげな微笑が、泥中の蓮の如くぽっと綻びる。
「餞別は、桑名の蛤になさい」
「伊勢エビではなく?」
「はい。蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ、と申します故」
慶光院主と山田奉行の間に、なにか秘すべき事情の、ありやなしや(『伊勢海老物語』第伍段「周貞尼御遺恨之事」)。

401NAO4@吟遊詩人:2007/11/12(月) 22:57:59
村岡
>相国入道さま
>地方の企画展は、思わぬものをやっている

なるほど、そうですか。それじゃ、期待できますね。私の故郷八千代町は、凄い田舎(なにしろ、鉄道が通っていない!)で、とても全国区の歴史の話なんかできないと思っていたのですが、将門との関わりは結構あるんですね。
↓のサイトに将門伝説が書かれており、面白いです。
http://www.asahi-net.or.jp/~np4m-hrok/masakado.htm

また、検索していると、南相馬市でも、企画展「将門伝説」やっているようです。
http://www.city.minamisoma.lg.jp/hakubutsukan/kikaku.jsp

*何度も言いますが、八千代町へ行きたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、自家用車、またはレンタカーがお勧めです。バスは1時間に1本あるかないかです。下妻からタクシーを使う手もありますが。

●村岡
八千代町と接している集落に「村岡」(旧千代川村)という集落があります。将門の叔父平良文は、坂東八平氏の祖ですが、村岡良文とも言い、この地(下総国村岡)から村岡を名のったという説もあります。実は、藤沢市にも「村岡」という地名はありまして、この相模国村岡が、村岡良文の起源という説もあるそうです。私は、たまたま、子供の頃は下総国村岡の近くに、今は相模国村岡の近くにおりますので、不思議な縁だと思っております。

>筆綾丸さま
>伊勢海老物語
う〜ん。芸術ですね。

>はぎつきみたえさま
>それにしても、疑問に思うこと、知りたいこと、あとからあとから出てくるので、できるだけ長生きしたいな〜、
同感でございます。

>『大勢三転考』
どうもありがとうございます。思想史的なお話ですね。陸奥宗光の父親が紀州藩で何か問題を起こしたという記憶はあったのですが、国学者だったのですね。

402亜季多幸孝:2007/11/12(月) 23:31:13
村岡
昨日某会で遠足をやっておりまして、偶然、武蔵国村岡(現埼玉県熊谷市)の付近を通りがかり、村岡良文の話題が出ました。
NAO4@吟遊詩人さんもお書きになられてるように、村岡の地名は相模・下総国そして武蔵と三ヶ所もありまして、今でも
「村岡五郎良文の住んでいた場所は何処なのか」
という論議がありますね。
勿論、地元は我田引水よろしく自分の所こそ、となる訳で、実際にどこもそれなりの根拠があるわけですが(逆に決定的な証拠もないのですが)、今野慶信氏によれば、三ヶ所を移動したのではないか、ということの様ですね。

403高遠彩華:2007/11/13(火) 01:11:06
御礼と勝手に宣伝。
>釈由美子が好きさま
>阿部猛氏編『中世の支配と民衆』
ご紹介、ありがとうございますm(_ _)m。

>NAO4@吟遊詩人さま
>相国入道さま
ありがとうございます。
北条時行を追いかけている期間が、人生の半分を越えてしまいました(笑)。
機会があったら、読んでやってくださいませ。


そして以下は勝手に宣伝です。

滝山城跡ガイドブック『甦る滝山城』出版記念シンポジウム
「北條の城を掘る−甦える北條流築城術−」

日時:平成19年12月2日(日) 13時〜16時
場所:東京純心女子大学 江角記念講堂
   ※東京純心女子大学へのアクセスマップ
   http://www.t-junshin.ac.jp/access.htm
対象:どなたでも参加できます。
参加費用:200円(資料代)

第1部:基調報告
?鉢形城の庭園遺構について
 石塚三夫氏(鉢形城歴史館、学芸担当)
?小田原城、山中城にみる北條流築城術
 小笠原清氏(小田原城郭研究会代表)
?滝山城に眠る謎の遺構
 中田正光氏(城郭研究家)

第2部 討論
コーディネーター:三池純正氏(戦国史研究家、作家)

主催:滝山城跡群 自然と歴史を守る会
共催:滝山城跡文化協会
後援:八王子市、八王子市教育委員会、道の駅「八王子滝山」、加住地区住民協議会、創価大学

404:2007/11/13(火) 06:09:43
(無題)
おはようございます。

>釈由美子が好きさん、
どうかこちらこそ今後ともよろしくお願いします

今日は実は別のことをグーグルで検索して、あなた様のHPにたどりつきました。
鈴鹿俊子さんです。(川田順の奥様)

どんな方だったのかなあと、検索して、古本でもみつけようと思って、おりました。実は最近、辻井喬の「虹の岬」を読んで、意外と面白かったのです。


あと、今月号の角川の「短歌」で、短歌賞次席を貰った方は、大学のご同期くらいにあたるのではありませんか?

405釈由美子が好き:2007/11/13(火) 12:20:07
老いらくの恋。
>浪漫派さん
>鈴鹿俊子さんです。(川田順の奥様)
 わたしは短歌は、全く無知なのですが、かろうじて存じておりますた。

>大学のご同期くらいにあたるのではありませんか?
 え? そーなんですか?

406筆綾丸:2007/11/13(火) 20:09:12
奉書
相国入道さま
http://www.cbs.ne.jp/kurobanehan.htm
ご質問で恐縮ですが。
目録の末尾は、寛文四年四月五日、永井伊賀守(署名・花押)、小笠原山城守
(署名・花押)、大関主馬殿、とあるようにみえます。
寛文四年の老中は、山本博文『お殿様たちの出世』(新潮選書2007年6月)の巻末
一覧表によると、酒井忠清、阿部忠秋、稲葉正則、久世広之なので、この文書は、
いわゆる老中奉書ではないようです。
永井・小笠原両名は若年寄だろうか。しかし、相手が一万八千石の小大名とはいえ、
若年寄が大名に対し、執達如件とは言えないはずで、職掌上、若年寄ではありえまい。
いや、朱印状の御威光のもと、若年寄であっても、この場合は、分を超えて威張ること
ができるのか。
朱印状はいわば厳かな鏡文のようなもので、添付の本書は簡略な形式になるとして、
さて、永井・小笠原両名の職掌は、何なのか。公式の文書に守名があるので、従五位下
相当職か。また、この文書形式は何と呼ぶのか。
ご存知でしたら、お教えください。

はぎつきみたえさま
http://www1.ocn.ne.jp/~hyamaki/210hosomichi/0403kurobane/kurobane.htm
玉藻稲荷神社には、実朝の歌碑まであるのですね。
的が扇ではなく狐だ、というところが実朝の哀しさですね。屋島の沖合で扇を翳
したのは狐だったかもしれない・・・。本歌は人麻呂か。
 我が袖に霰たばしる巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため
http://www.bk1.jp/product/02649506
こういうのは、お読みになりましたか? 第一部「実朝編」の実朝君に目新しさはあり
ませんが、安徳帝がコロコロしていて、うんと可愛いですよ。

NAO4@吟遊詩人さま
「子供の頃は下総国村岡の近くに、今は相模国村岡の近く」
妙見大菩薩の御加護が篤いようですね。
『北斗の拳』のケンシロウは将門の輪廻転生の権の姿ではないか、と私は睨んで
います(笑)。

高遠彩華さま
 仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる
 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ
『梁塵秘抄』ではありませぬが、このごろ、時行君は夢にお見えになりますか?

407はぎつきみたえ:2007/11/13(火) 20:21:51
>筆綾丸さま
 私、けっこう筆綾丸さまとシンクロするみたいで、ここ見ているときに筆綾丸さまのカキコが入るのですよ。
 特に決まった時間にココを開いているわけでもないのに、いつも不思議だな〜と思っております。
 今日もまた、ちょっと浮気してココに帰ってきたら、お会いしてしまいました。

>玉藻稲荷神社
 そうなんです!歌碑あるんですよ!
 那須の篠原は私、一番お気に入りの歌なんです。
 音が聞こえる和歌なので。

 ただ、歌碑の存在を知ったのが現地についてからでして、時間がなくて玉藻神社までいけなかったのです。
(往復に8時間かかって、栃木にいたのは2時間だけ)。
 リベンジ狙ってます。

>『安徳天皇漂海記』
 …買ったんです。今、目の前の書棚にあるんですが、未読です…。
 買うと安心してしまうのが私の悪い癖でして…。
 ダイエットの本買って安心して甘いものを食べちゃうわけでして…(女性の皆さまは多く同じ経験をお持ちかと思いますが(笑))。

408高遠彩華:2007/11/13(火) 23:00:52
夢で逢えたら。
>筆綾丸さま
>時行君は夢にお見えになりますか?
残念ながら、今に至るまで一度も、夢でさえも会ったことはありません(>_<)。

「夢にだにあふことかたくなり行くは 我やいをねぬ人や忘るゝ」
ではないですが、相手に思われていなければ夢にも出てきてくれないというのは本当なんだなあ、と思った次第です。

409釈由美子が好き:2007/11/14(水) 18:48:54
村岡五郎良文。
 良文、平高望の息子で、国香や良将の弟ですから、桓武平氏第2世代で、貞盛や将門には叔父さんに当たりますが、将門の乱には、ぜんぜん顔出しませんねェ。何してたんですかね?

 一応、『尊卑分脈』(吉川弘文館、新訂増補国史大系、4巻)の系譜載せときますね。

 桓武―葛原親王―高見王―高望王(平高望)―┬―国香―貞盛……→伊勢平氏とか北条とか。
                      │
                      ├―良兼
                      │
                      ├―良将―将門
                      │
                      ├―良孫
                      │
                      ├―良広
                      │
                      ├―良文……→千葉やら秩父やら。
                      │
                      ├―良持
                      │
                      └―良茂……→三浦とか。


 そー言えば、良文の通称は、みなさんご指摘の如く、「村岡五郎」ですが、この「村岡」を苗字と考えれば、武士の苗字の、ひじょーに早い例と言えると思いまする。

 良文とタイマンはったんで有名な嵯峨源氏の源宛も、『尊卑分脈』(上記の1巻)によれば、通称「箕田宛」で、この「箕田」も苗字とすりゃ、早い例ですわいや。
 それにしても、宛、ひいオジィちゃん左大臣源融なのに、すっかりグレちゃって。

 と、たまには参加してみる。


>高遠さん
>一度も、夢でさえも会ったことはありません(>_<)。
 実は、もう、ず〜〜〜〜〜と前から毎晩毎晩夢で会っているにもかかわらず、目覚めたあーたが、ぜ〜〜〜〜〜んぶ! 忘れちゃってるてーこともあるンでないの?
 『寄生獣』にも、そんな話があったわよ。

410むらじ:2007/11/14(水) 20:38:45
おひさです。
うううっ・・・(><) 恐ろしく高い買い物をしてしまった!
この板でどなたかが書かれていた「風と雲と虹と」(完全版)。
なるべく安いトコで注文したのですが、そんなコトより「実躬卿記」でも追いかけるべきだったかなあ・・・と反省しきりだったのですが。
折も折。↓
>釈さん
私の行動、読まれてました?^^;;;

そういえば海音寺潮五郎の原作では、良文ちょい役で参加しております。
将門と小競り合いをやって負ける役なんですな。
(ちなみに『将門記』にはそんなことは一行も書かれていないはず)。
大河ドラマの放送のほうではそのシーンはなかったやに記憶していますが、新珠美千代演じる将門の母親を戦乱が始まる前に引き取るシーンだけ登場したように思います。
・・・と、史実とはぜんぜん関係のないレスですみませぬ。m(__)m

411筆綾丸:2007/11/14(水) 21:00:51

http://www.kyuhaku-db.jp/souke/introduce/02_6.html#1
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6162.html
http://ikr031.i-kyushu.or.jp/jd/html/jd06fhan01.html
http://homepage1.nifty.com/gorozo/real/data/system.htm
ネットで調べてみました。
目録の作成者は奏者番のようで、寛文印知の領地目録は、奏者番奉書、とでも呼びたく
なりますが、ただ、この奉書だけでは法的強制力は発生しない。将軍の添え状と一緒に
するには、老中では濃すぎるので、やや薄い奏者番を奉行とし、所領安堵の権限は老中
へ委任せず、将軍の専権に留めておく、ということなのでしょうね。
興味深いのは、将軍の添え状が、黒羽藩は朱印で福岡藩は花押、というところですね。


将門の「門」は、前々から、名として不気味な感じがしているのですが、朝廷による
蔑称というような可能性はないのでしょうか? 獄門の「門」というような・・・。

412むらじ:2007/11/14(水) 21:35:42
なまえ
>筆綾丸さん
おひさしぶりです。
>門
諱としては確かに珍しいですね。
ちょっと思い浮かんだかぎりですが、『三代実録』の時代に藤原門宗という人がおりました。
呪術的な要素は特段感じられない、ごくふつーの四位官人さんでしたが。
あとは後世になりますが、戦国時代の筑後に筑紫広門という武将がおりましたっけ。
この人の先代もたしか「惟門」といって、もしかすると「門」が通字だったのかもしれません。
遠い昔の先人からいただいた「門」かどうかは、さだかではありませぬ。
同時代に活躍した藤原純友の場合も蔑称らしき匂いは感じにくいですね。
蔑称自体は称徳女帝が愛用していたこともあり、歴史の古さを覚えますが。

413相国入道:2007/11/15(木) 01:13:46
筆綾丸様へ
>筆綾丸様

 レスが遅くなりましてすみませんでした。お尋ねの件ですが、私が紹介いたしました。

 新井敦史著『下野国黒羽藩主大関氏と史料保存』78頁〜84頁に所収されていましたので、お知らせいたします。

 それによりますと、領地目録とともに、江戸幕府将軍から領地朱印状というものが発行されます。以下は新井氏の文章を引用いたします。

 「領地朱印状は、江戸幕府将軍が各大名に対して、従来の所領を引き続いて領有・支配することを承認する公文書であり、領地目録は、各大名が領有・支配する村々を書き上げた目録である。領地朱印状(石高十万石以上及び従4位下・侍従より上の大名へは領地判物)は、寛文4年(1664)4月5日付けで4代将軍徳川家綱から諸大名に発給され、同日付で領地目録も、御朱印奉行の連署をもって発給された。以後、将軍の代替わりごとに諸大名への所領確認がなされ、新将軍名の領地朱印状と領地目録がセットで発給されていくこととなった。領地朱印状の料紙には楮紙系統の上質紙である檀紙が使用され、領地目録の料紙は斐紙(雁皮紙がんびし)系統の間似合紙(まにあいし)が使用された。(これは、日本歴史学会編「概説古文書学近世編」1989年を参照したそうです。)
 黒羽藩主大関氏宛ての領地朱印状と領地目録は、5代藩主大関主馬(増栄 ますなが)が受給した寛文四年4月5日付けのものから、13代藩主大関信濃守(増昭 ますあきら)が安政2年(1855)3月5日付けのものまで、計十組伝存しており、本高18000石の領地について公認されてきたのである。領有・支配する村については、江戸時代を通じて若干の変化が見られるが、本高は、明治維新まで変わることはなかった。
 なお、領地朱印状の「上聞」・「御朱印」・「仰付」という文言の前に一字分の空白部分があるのは、闕字といって、その次の文言(「上聞」・「御朱印」・「仰付」)の主体、すなわち将軍徳川家綱に対する署判者(小笠原長頼・永井尚庸なおつね)の敬意を意味している。」としていまして、
 小笠原・永井は御朱印奉行という役職のようです。
 遅くなってすみませんでした。以上お知らせいたします。

414NAO4@吟遊詩人:2007/11/15(木) 04:40:10
風と雲と虹と 主題歌(加藤剛 歌)
いろいろ検索しておりましたら、↓見つけてしまいました。
「風と雲と虹と」主題歌に、歌詞があったのですね。
http://video.1st-game.net/youtube/v_78fbJ15xRYI.html

何しろ、将門に関する知識は、「風と雲と虹と」が放送されていた頃、海音寺潮五郎さんの小説を読んだのと、赤城宗徳著(注)の「平将門」読んだのと、この当時地元の郷土史家の講演を聴きに行って得たもので、殆ど止まっております。

>平良文
それで、とりあえず、ネットで検索したところ、平将門の乱のとき、良文は鎮守府将軍として陸奥に赴任中で、関わらなかったような書き方をしていますね。一方では、裏で支持していたようなものもあり。ちょっとした成果は、藤沢市の北部にあります「御所見」という地名の由来が分かった点です。平高望の先祖「葛原親王」の御所に由来するようですね。
http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/gosyomi/gosyomi.htm

(注)赤城宗徳さんは、今年農林大臣になり、すぐに辞めさせられてしまった赤城徳彦さんのお爺さんです。国会議員でありながら、郷土史の研究していたようです。(恐らく国会議員になる前に地元にいたときに執筆されたものでしょうが)

>亜季多幸孝さま
>武蔵国村岡
適切なフォローありがとうございました。投稿文の中で触れるべきでした。

>むらじさま
>「風と雲と虹と」(完全版)
おー、買われましたか。その投稿私です。なかなか見るのも大変ですね。

>釈さま
>この「村岡」を苗字と考えれば、武士の苗字の、ひじょーに早い例
なるほど、ありがとうございました。

>筆綾丸さま
>奉書
興味深く拝見いたしました。

>浪漫派さま
何となく、釈さまと会話がかみ合っていないのは、浪漫派さまが、鈴木小太郎さんのサイトから来られて、この掲示板をその掲示板と思われているからではないでしょうか。
この掲示板は、日本中世史アーカイブスの掲示板でもあり、管理人さんは、「釈由美子が好き」さまと、「鈴木小太郎」さまと2人いらっしゃるんです。恐らく浪漫派さまは、小太郎さんに呼びかけているのですよね。小太郎様は、きっと今勉強モードなのではないでしょうか。

415筆綾丸:2007/11/15(木) 20:20:09
バタフライ効果
相国入道さま
御丁寧に、痛み入ります。とてもよくわかりました。
此儀両人奉行依被(闕字)仰付執達如件、なる文言から察するに、御朱印奉行と
いうのは、常置職というより、奏者番のうち、特に二人に命じた臨時職という感じ
がしますね。
黒羽藩と福岡藩を分けるのは、十万石の壁ですね。十万石未満で従四下侍従とい
えば概ね老中で、この場合は、御判物奉行、ということになりますか。
奏者番は譜代大名がなるので、小笠原長頼と永井尚庸は大名ということになりま
すが、前者を甲、後者を乙としますと、甲または乙にくだす領地目録は、奉行を
どうしたのでしょうね。
甲乙両名のままとすると、甲乙→甲、甲乙→乙となり、双方代理的な法律行為に
なる。甲乙→乙の場合は甲→乙へ、甲乙→甲の場合は乙→甲へ、執達されたもの
とみなすとすれば、連署といういわば連帯責任の所在が不明となり、法的な瑕疵
が発生するといえなくはない。したがって、甲乙にくだす領地目録に限り、甲乙
とは別の二人を御朱印奉行に命じれば、このような瑕疵を回避できる。小笠原長頼
と永井尚庸への領地目録が残っていれば、事情がわかって面白いのですけれども。
将軍の代替りのとき、禁裏料(たしか一万石前後)については、どのような領地
目録が作成されたのでしょうね。
幕府御用達日本橋越前屋紙納入→納戸口→小者→書院番→奏者番→老中内覧→
将軍御朱印並花押→奏者番→書院番→小者→納戸口→継飛脚→同心→与力→
京都所司代→武家伝奏→関白→典侍→逆鱗→払下げ→典侍→掌侍→女嬬→納戸口
→小者→禁裏御用達四条烏丸雁金屋漉返し→四畳半金泥屏風の裏貼り→島原吉野
太夫・・・バタフライ効果のような、こんなこと、よもやあるまいが(笑)、
文書の形式がわからないですね。

http://www.bashouan.com/pbPhoto_bk5.htm
http://www.bashouan.com/pbKurobane_ds.htm
芭蕉庵桃青の接待役、黒羽藩家老浄法寺桃雪の知行高は、五百石前後かしら。

むらじさん
藤原門宗という人が既にいたのですか。私の妄想は空中分解しました。

NAO4@吟遊詩人さま
御所見は面白いですね。

浪漫派さん
独逸浪漫派、ロマン派音楽、ロマン派絵画・・・と色々ありますが、浪漫派さんの仰る
のは、日本浪漫派と解してよろしいでしょうか。
以前、大津の義仲寺を訪ねたとき、保田與重郎の墓があり、非常に驚いたものでした。
保田は義仲の同行になったのか、と。

416相国入道:2007/11/15(木) 21:20:36
こちらこそ
>筆綾丸様
 こちらこそ、ご丁寧なレスありがとうございます。近世の古文書様式については、まだまだ解明されていない点がたくさんあります。新井氏の著書もその点を、大関氏の視点から見た意欲作です。これから徐々に解明されていくはずです。

>NAO4@吟遊詩人さま

 「風と雲と虹と」私も見ていた一人です。関東のことを扱うということで興味深く見ていました。この番組でちょっと逸話があります。この作品に下野国府が登場するのですが、たまたま、この番組を見ていた、当時の栃木県教育長が、下野国府はどこにあるのだということになりまして、発掘調査がはじまったという、文化不毛の県といわれた栃木県では珍しい事例がありました。下野国府は、開発される前でしたので国史跡として残ることが出来ました。
 また、書き込みにありました、平将門を演じた加藤剛さんが歌った主題歌は、番組では一度も演奏されなかった記憶があります。
 一度「スター千一夜」という番組で、加藤さんが生で歌ったのをみています。歌った後で、加藤さんのお話で、奥さんから「もうやめて」といわれたということを覚えています。

 「風と雲と虹と」の演じていた人たちを紹介します。

平将門・・・加藤剛  藤原純友・・・緒方拳  藤原秀郷・・・露口茂

平貞盛・・・山口崇  平良将(将門の父)・・・小林桂樹

平国香(貞盛の父)・・・佐野浅夫  平良兼(将門の叔父で将門の妻の父)・・・長門勇
平良文(将門の叔父)・・・渡辺文雄 平良正(将門の叔父)・・・蟹江敬三

藤原忠平・・・仲谷昇  武蔵武芝・・・宮口精二  興世王・・・米倉斉加年

源経基・・・菅野菜保之 源護・・・西村晃  源扶(源護の長男)・・・峰岸徹

鹿島玄道・・・宍戸錠 鹿島玄明・・・草刈正雄 良子(実名は不詳なのだそうですが将門
の妻)・・・真野響子(このかたは、「風林火山」で諏訪御料人を演じた柴本幸さんのお母
さんです) 桔梗・・・森昌子 という方が演じていました。

この番組で、関東にもすごい歴史があるんだなと改めて確認したのを覚えています。
 赤城宗徳氏の『平将門』は、国会議員在職中に執筆したものです。赤城氏も、平将門が正統な評価をされるようにということで執筆されたようです。それにしても忙しい中でこれほどの文章を書かれたのには、本当に敬服します。

>平良文
 番組では、平良文の所領は武蔵村岡と放送していた記憶がありますが、多説がありますので、どこが正しいというのは、まだまだ検討する余地はありますね。

>釈由美子さんが好きさん
『尊卑分脈』では、平将門の父は良将となっているのですが、『将門記』では、良持となっていますね。どちらが正しいのか『尊卑分脈』と『将門記』もう一度検討し直す必要がありそうですね。

417阿哈馬江:2007/11/15(木) 22:40:57
 
筆綾丸さま

 遅い返答となりますが、

> このドスの効いた恫喝

 こんな話があります。

 余談になりますが、ちょっと申し上げます。鯨波(【振假名】トキノ)屏風と申しまして、神泉苑(【振假名】シゼンヱン)にありました。私もズッと以前神泉苑で見ました。これは後水尾院樣の御代のことです。御承知の通り中宮樣は東福門院和子、則ち徳川將軍秀忠公の御女でござります。其の時朝廷から徳川家へ金屏風を一双拵へるやうにとの御命が下りました。ところが急に差上げなかったと見えまして、度々の御催促です。それで遂に献ったのが、彼の鯨波屏風です。これは探幽の筆で、安徳天皇様が壇浦で御入水遊ばす図でござります。則ち徳川家では、朝廷に於て、かれこれ仰(【振假名】オッ)しゃるなら、こんなめに逢はせまするぞといふ意味ですなァ。サー後水尾院様大層御立腹で、早速勅によって神泉苑へ御寄付になりました。ところが神泉苑も明治になりましてから一時廃寺同様になりましたので、東寺へ持って行ったと聞いて居ります。只今でも東寺にござりませう。

 下橋敬長談『維新以前年中行事』(上野竹次郎編)「御修法結日」(平井誠二「下橋敬長談「年中行事」 ─ 翻刻と解題 ─」(『藝林』第五十四巻第二号、平成十七年十月)133頁)

> 伊勢海老物語
> 閉門蟄居

 嗚呼、赤福を喰することができるのは、何時のことか...


釈さま

 釈さまにはタイヘンな状況であったようでございますが、私めは、今、冗談にもならない状況となっております。どのようなことか口外できませんが...

 それはさておき、既に御周知のことと存じますが、『將門略記』には、

  三世高望王 ── 鎭守府將軍平朝臣良持 ── 將門

とあり、また、平良正も『尊卑文脈』では將門のオジではなくイトコとなっておりますので、平高望の諸子に関する『尊卑分脈』の記載は不正確のようですね。時間があれば、いろいろと書くことはあるのですが、釈さま同様、余裕がありませんので...


むらじさま

 お久しうございます。

> 門

 勸修寺流の祖、藤原良門もおりますね。他の兄弟と比べて目立たない人ですが。

http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html

418釈由美子が好き:2007/11/16(金) 00:35:50
短レス。
>おのおの方
 管理人業務、怠慢で、すいませんです。


>NAO4@吟遊詩人さん
 管理人代行みたいになっちゃってて、すいません。
 ありがとうございます。


>筆綾丸さん・むらじさん
 すでに亀レス気味ですが、源頼朝の弟に「義門」てのもいますですな。


>むらじさん・NAO4@吟遊詩人さん・相国入道さん
>「風と雲と虹と」
 何度聞いても懐かしいテーマ曲ですよねェ〜♪
 大河と言えば、まず、これが浮かびます。


>阿哈馬江さん
>『尊卑分脈』の記載は不正確のようですね。
 そーなんすよ。三浦なんか、2ヶ所に出て来て、メチャクチャです。

>今、冗談にもならない状況となっております。
>どのようなことか口外できませんが...
 具体的には、わかりませんが、どうぞご自愛ください。

419NAO4@吟遊詩人:2007/11/16(金) 05:37:49
下野国府ですか。
>相国入道さま
>下野国府
「風と雲と虹と」が放送されていたのが、1976年で、下野国府の発掘が1979年↓とありますから、まさしくそうなのでしょうね。それにしても、突然思い立つ教育長は笑えます。
http://www.city.tochigi.tochigi.jp/hp/menu000002000/hpg000001843.htm

場所は、やはり(最初に県庁所在地になった)栃木市なのですね。
いつか、国府跡寄らせていただきます。

>赤城宗徳氏の『平将門』は、国会議員在職中に執筆したものです。
そうでしたか。どうもありがとうございました。

>釈さま
>管理人代行みたいになっちゃってて、すいません。
意識して、そうしているわけではないので、お気遣いなく。

>筆綾丸さま
>御所見
実は、藤沢市には、「葛原」という地名もあるんです。

420むらじ:2007/11/16(金) 06:47:35
平親王
中世の掲示板なのに、平将門の話題となると転がりますね。

>相国入道さま
下野が文化不毛の地とは存じませんでした。
俵藤太以来魅力的な人物を輩出した土地ですよね。
(道鏡以来、と書くといささかさわりがあるかもですが 笑)
(あっ、円仁ならば、問題ないですよね?)
>良子
海音寺潮五郎の原作でもこの名前ですが、名前の由来は父親の良兼からきているのでしょうか。
案外、後世の創作で登場する将門の忘れ形見である良門の名前からヒントを得たものでは?と勝手に憶測しております。
良兼の娘というのも『将門記』の冒頭部分で将門と良兼が「女論」で対立を深めたという記述からそれと推定しているようでして、話題の『尊卑文脈』にも良兼女は出ていなかったように思います。
時がたってしまうと、なにもかもがわからなくなっていくんですね。

>NAO4@吟遊詩人さま
>完全版
そーでした、そーでした。
あれ以来気になっていたんですよ。

>阿哈馬江さま
こちらこそ、ごぶさたしていました。
>良門
おっとと・・・私としたことが。(^^ゞ
最近不勉強なのが、そこはかとなくにじみ出てしまいました。(^^ゞ
良門は内舎人という低い官位で終わった人で、『三代実録』でもほとんど触れられていない人ですよね(もしかしたら皆無かも)。

将門は「平親王」と号したという言い伝えがあるようですが、やや後世に大志を抱き「最勝親王」と名乗った人物のことをフト思い出したりもいたします。
東国という土地は、変革を呼ぶ地と認識されていたものでしょうか。
それとも「化外の地」とされていた未知性が、フロンティア幻想につながったのでしょうか。

>釈さん
>義門
そーでした。そーでした。
「門」の人、探すとけっこういるんですよねぇ。

出勤前のひととき、思いつくことをつれづれに記してみました。
それにしても、外・・・寒そうだなぁ・・・

421信楽:2007/11/16(金) 14:07:24
将門の叔父たち
>むらじさま
>良子
「良」を共有する叔父たちと将門をつなぐ存在というのはどうでしょう。
しかし良兼の子はみな「公」を持つので、公子のようが命名法としては筋が通るような気が。
架空の名前だし別にいいのですが。

将門記に良兼・将門の間を舅甥と書いた箇所があることから
婚姻関係があると推定する本などが多いように見えますが、
婿でなく甥と書いてあるから一族内の序列を示してる可能性もあるのでは、と思います。

その場合もっとも年長の国香をさしおいて良兼との関係を書いている理由はよくわかりませんが。

その国香は
http://www.geocities.jp/renge4249/takamochishisoku/takamochishisoku.htm
こちらを見ると良持とかの名前で書かれた例があるようです
ほかにもヨシモチ名の人物がいたのか誤記なのか、やたら名前があってわけわかりません。
タカモチの子で最も栄えたものがその都度ヨシモチを名乗ったのとか?

422古高家の一族:2007/11/16(金) 16:32:21
お知らせ
はじめまして、の方々が多いかと思います。
現在葛飾区郷土と天文の博物館で「特別展 関東戦乱〜戦国を駆け抜けた葛西城〜」を開催中です。特別展関連企画としてシンポジウムを開催します。
申込締切が近くなったので、再掲させていただきます。

??????シンポジウム 「葛西城と古河公方足利義氏」
シンポジウムでは、今回の展示によって抽出された諸問題や展示の内容をより深く討議し、広く区民を対象に葛西城や葛西地域の戦国時代における歴史的な位置付けを試みます。

??????■開催日 12月1日(土曜日)・12月2日(日曜日)
??????■内容
??????第一部 12月1日(土曜日)13時〜17時
??????記念講演「古河公方足利義氏と東国」佐藤博信氏(千葉大学)
??????報告1 「葛西時代の足利義氏」長塚孝氏(馬の博物館)
??????報告2 「小田原北条氏と古河公方」黒田基樹氏(駒澤大学)
??????報告3 「足利義氏の元服」平野明夫氏(國學院大學)

??????第二部 12月2日(日曜日)10時〜15時20分
??????記念講演「葛西城と戦国考古学」小野正敏氏(国立歴史民俗博物館)
??????報告1 「小田原北条氏と葛西城」谷口榮(当館学芸員)
??????報告2 「武蔵における戦国前期の武士勢力とカワラケ」田中信氏(川越市教育委員会)
??????報告3 「小田原北条氏のカワラケと漆器」佐々木健策氏(小田原市教育委員会)

??????第三部 12月2日(日曜日)15時20分〜16時50分
??????全体討議(講演・報告者参加)

??????■会場 講堂
??????■費用 1,000円
??????■定員 100人
??????■申し込み 往復ハガキに、『葛西城シンポジウム』、参加される方全員の氏名、年齢、住所、電話番号を書いて、11月21日(必着)まで。多数抽選。電子申請でもお申し込みいただけます。

詳細は下記をごらんください。
http://www.city.katsushika.lg.jp/museum/ev-tenji.html

図録に付属しているCD−ROMには、中世前期・後期及び本土寺過去帳の葛飾郡に関わる史料がデータベースとしておさめられています。

話の流れを切ってしまってスミマセン。

423井上渉子:2007/11/16(金) 17:41:50
つれづれ。
しばらくお休み中だった「クイズ・ここはどこ」、井上が乱入して出題しています。気が向いたら覗いてみてください。

>NAO@吟遊詩人さま
ちょっと亀レスになってしまいましたが「御所見」の地名の由来の紹介、実は昔の職場だったので(笑)興味深く読みました。
「こんないな(ry で『御所』ってなんだろう」と疑問に思いつつそのままにしていましたが、由緒ある土地だったのですね。

>古高家の一族さま
特別展自体ももちろんですが、どうしても行けない方には図録とCD−ROMだけでも必見の出来ですね。
お世話になっている知人(笑)に図録を進呈したら「『葛西城の発掘資料は持っていたがこうして図録にまとまってみると見やすくてよい」と好評でした。
シンポジウムもぜひ参加したいと思います。申し込んでいるけど、当選するといいな。

そして突然私信失礼します>むらじさま
先日メールをお送りしました。届いておりますでしょうか。

424筆綾丸:2007/11/16(金) 19:30:18

釈由美子が好きさん
義門をググりましたら、小太郎さんのページがでました。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yugimonin-to-sonoshuhen.htm

阿哈馬江さま
下橋敬長の談話、面白いですねえ。
波の底にも都の候ぞ・・・。
『禁秘抄』のシニフィエを何故理解できぬ、とこんどは絵で恫喝し、後水尾は、
百も承知とばかりに、神泉苑の龍にくれてやった訳ですね。

425釈由美子が好き:2007/11/18(日) 01:27:29
門の付く人。
 「クイズ・ここはどこ」、 ↓ で井上さんが書いてくだすってる如く、再開してますんで、よろしゅうに♪


>筆綾丸さん
 「門」が名前に付く人、探すと、それなりにいますけど、将門がちょー!!! 有名な反逆者なので、イヤがる人もいたかもしれまへんねェ。

426NAO4@吟遊詩人:2007/11/18(日) 02:55:06
将門とか
>平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー
↑帰省したついでに行って参りました。何しろ小さな歴史民俗資料館なので、展示スペースは狭く、こじんまりとやっております。八千代町内もしくは、近隣の市町村の方々、たまたまこの地方を通りかかった方々で、将門が好きな方は、お寄りください。将門とこの地方の関係がよく分かります。

遠方の方々、わざわざお越しになるほどではないと思います。町内・県内の遺跡のパネル写真、出土物(瓦、陶器片、鉄製品)、江戸時代の文書などが展示されておりました。地元の方が見れば、ここがそうか、あそこがそうかと楽しめるのですが、遠方の方々が来られたら、労力の割には、がっかりするんじゃないだろうかと思います。

私としましては、結城廃寺跡の出土物(「法成寺」と記載の瓦など)に興味がいきました。また、仁江戸(注)という集落と将門の関係がより鮮明に分かって、良かったです。

(注)「仁江戸」は、「にえど」と読みます。「『仁』+『江戸』だ」とか言って、小学校の時に自慢していた友人がおりましたが、名の起こりは知りません。古くからあった集落で、「風と雲と虹と」で森昌子が演じておりました桔梗姫の伝説がございます。
この集落は、鬼怒川をはさんで、将門の生誕地「鎌輪」と隣接しており、この位置関係を今頃になって気がついた次第です。面白いと思ったのは、この地に「五所神社」というのがございまして、「五所(御所)神社」とパネルに書かれており、なるほどなあと思ったわけです。因みに、以前ご紹介しました平良文と関わりのあるとされる下総国「村岡」は、仁江戸集落と接しております。

>井上渉子さま
>御所見
反応してくださると思っておりました。藤沢市では開発が遅れた地区ですが、私は好きなんですよね。近世以前をイメージするのに。(すいません。馬鹿にしてるわけではありません。本当に好きなんですよ。)
それで、よくよく考えると、相模国府は最初は高座郡(国分寺が海老名市、一宮が寒川町にありますので)とのことで、御所見地区って国府に近く、平安時代には結構開けていたんじゃなかろうかと想像してしまうわけです。

427釈由美子が好き:2007/11/19(月) 11:19:20
最勝親王
>NAO4@吟遊詩人さん
 秋は、展示の季節ですが、今年は特に豊作なようですなァ。

>「五所(御所)神社」
 新皇の御所があったつーことなんでしょか?


>信楽さん
>婿でなく甥と書いてあるから一族内の序列を示してる可能性もあるのでは、
 養父子関係とか、婚姻関係とか、猶子とか、ホントの血縁関係とは別の関係が系図に影響してる可能性が、確かにありますので、むつかしいですよねェ。


>むらじさん
>やや後世に大志を抱き「最勝親王」と名乗った人物
 以仁王ですよねェ〜♪
 バラまいた令旨の結果を見ることなく、将門よりも、とっとと負けちゃいましたが。

428NAO4@吟遊詩人:2007/11/20(火) 00:31:12
桜川市の中世史料展
故郷八千代町の歴史民俗資料館で、桜川市(旧真壁町)の企画展の広告を見つけました。
中世がお好きな皆様には、興味があるのではないでしょうか。

中世文書の他に、真壁城発掘調査現地説明会や、小田城跡の説明会もあるそうです。

>釈さま
中世にのめりこんで、半年ほどになりますでしょうか。イベント情報が入ってくるので、楽しんでおります。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003839.jpg

429相国入道:2007/11/20(火) 02:07:22
百聞は一見にしかず
>NAO4@吟遊詩人さま

 「平将門の生きた時代」行かれたのですね。まだ私は、おうかがいしていなのですが、行ってみる価値はありそうですね。それは、実際に行ってみますと、見学してよかったということがよくあります。
 例えば、『風林火山』の武田信玄の館跡の武田神社は、わが地元の栃木県足利市の足利氏館跡の鑁阿寺みたく、平地に建っているものとばっかり思っていましたら、実際は高台建っていたということがわかりまして、百聞は一見にしかずだなという典型的な例を見ました。
 実際企画展を見てみて、それぞれの人がどのように感じるかということが重要ではないでしょうか。近々行ってみて確かめてみたくなりました。

 >下野国府
 下野国府では、NAO4@吟遊詩人様にフォローしていただきありがとうございました。本来は、私が栃木市にあるとお伝えしなければならないところ、説明が不足してしまいましてすみませんでした。下野国府の所在地は、栃木市といいましても、現在の町の中心地からは大きく外れているところにあります。それこそ自家用車で行かないと見学できないところにありますので(それがかえって残った原因でもあるのですが)、よろしくお願いいたします。

 それから、中世史で八千代町や隣の下妻市を支配していたのは、結城氏の家臣でありました多賀谷氏です。
 届いたばかり文献ですが、『常総の歴史』第36号に「下妻の戦国武将多賀谷氏について」佐久間秀樹氏 という論文が収載されていました。
 佐久間秀樹氏は、下妻市ふるさと博物館の学芸係長の方です。
 『常総の歴史』第36号の定価は1100円です。
 購入先は、崙書房茨城営業所
 〒315−0014 茨城県石岡市国府4−6−5
 電話・FAX0299−24−0595です。

>文献のお知らせ。
 崙書房では、下記の新刊書が刊行されました。
 千野原靖方著 『常総内海の中世』地域権力と水運の展開です。
印旛沼・手賀沼から霞ヶ浦・北浦・利根川の下流域は、古代・中世には太平洋に湾口を開いた大きな内海であった。平安末から戦国時代にかけての常総内海を中心に繰り広げられてきた水運の実態、当水域支配の様相を考察(本の出版宣伝を一部紹介)。
 永年里見氏・千葉氏を考察してきた著者が、常総の水運史を本格的に考察したもので、是非一読をお勧めしたいです。
 定価は3800円です。
購入先は崙書房本社 千葉県流山市流山2−296−5 ?04−7158−0035です。

>むらじさま

 平将門の乱の話題を出したのはこの私です。八千代町で開催されている。『平将門と八千代地方ー将門の生きた時代ー』の企画展を紹介した折に、「平将門の乱から中世史をみる必要があると唱えている学者の方がいます。」ということ書き込んだことから、このような広がりがおきました。
 後、わが県は文化不毛の地といわれまくられて、いつもいつも悔しい思いしています。
たまに、文化的なことを行ったと思えば、宇都宮城には、わけのわからない櫓の復元をしてみたり、昨年本当にあったのですが、県議会議員の質問で、県立図書館の予算が減らされているので、増額してほしいとの要望に対し、栃木県教育長は「県立図書館には今までにたくさんの、蔵書を購入したのだから、いまさら増額する必要はない」という開いた口がふさがらないような回答をしている始末です。
 いつになったら、文化不毛の地といわれなくなるのか、お先真っ暗です。

 >井上渉子様

 足利成氏のファンとのこと、一通、足利成氏の文書が検討を要すから復活した文書がありますのでお知らせいたします。『戦国遺文古河公方編』第272号文書です。全文を掲出いたします。
 「就当社怪異注進、巨細御披見候、佳例之由申上候、目出候、
  就之弥祈念可然候、謹言、
   八月十四日         成氏(花押)
 鷲宮神主殿                       」
『戦国遺文』では、佳例が徳例となっていること、写本の悪さから検討を要すと記してたのですと、佐藤博信先生は述べておられたのですが、実は栃木県の足利市から、双鉤填墨(そうこうてんぼく ふたえ文字でに書き写すもの。かごうつしともいって輪郭のなかを墨でうずめるもの)写しが出てきまして、この文書は検討を要する文書ではないということが確認されました。
 詳しくは、『松龍史談』第7号 菊地卓氏 「下野国一社・八幡宮から発見された「足利成氏書状写」について」で述べられています。
 意味は、栃木県立博物館の荒川善夫氏から示教されたそうでそれを公開しますと「当社(鷲宮神社)で不思議な奇端があったとの注進があったが、手紙を披見しました。このような奇端はめでたいことが起こる前兆だと鷲宮神社が申し上げてきたが、自分にとってもめでたいことだと思います。これについてなお一層祈念していただければ幸いです」ただ、荒川氏の意味では、鷲宮神社が、足利市の一社八幡宮になっています(文書の写の宛所が擦り切れているためです)。足利市の一社八幡宮がこの文書を保存してくれたことによって、成氏の文書が復活したことで、編者の佐藤博信先生も大変喜んでおられました。

 なお、『松龍史談』ですが、価格は1,000円です。
 購入先は、〒326−0005 足利市大月町666 松龍山蜜蔵院
 ? 0284−41−7723にお問合せください。

>釈由美子さんが好きさん

 先日は、中前勉の見学会があった日に横浜でお会いしたのですが、どうしてももう一つ、見学したい企画展があったため、ご一緒できずに本当に申しわけありませんでした。

 その企画展は、神奈川県秦野市立桜土手古墳展示館で「鎌倉御家人の館」という企画展を開催しています。期日は平成19年9月22日(土)から11月26日(月)までです。
入館は無料です。
 地元である秦野市の東田原中丸遺跡で、白いかわらけが出土したそうで、白いかわらけはどういう用途で使われたのかは解明されていないそうです。この東田原中丸遺跡は、源実朝の首塚(みしるしづか)の近くにある遺跡だそうで、なぜ実朝の首塚があるのかというと、伝承では、実朝が公暁に鶴岡八幡宮で暗殺された時に、実朝の首をこの地に収めたそうです。また、この遺跡は有力御家人の一人波多野氏の館跡ではないかとも言われているそうで、今後もこの遺跡を発掘していくそうです。

 また、この資料館では次の文献も発売していました。
 『秦野市史研究』第6号と第18号です。

 第6号には、下山治久氏「中郡郡代大藤氏とその文書」
       武俊次氏 「波多野本庄北方考」の論稿が収載されています。
 大藤氏は、後北条氏の有力家臣のひとりで、下山氏はその文書の紹介分析を行っています。武氏の論稿は波多野氏の所領についての紹介をしてるものです。

 第18号には「波多野氏シンポジュウム」を収載しています。
熊谷忠興氏「越前の波多野氏と永平寺について」・藤村耕市氏「波多野氏傍流の広澤・和智・江田氏について」・波多野近二氏「三河国の森下波多野氏について」・関恒久氏「相模河村・松田沼田氏について」・湯山学氏「相模武士団の中の波多野氏について」です。
 第6号は昭和61年(1986)刊行で定価は700円です。第18号は平成10年(1998)に刊行で定価は800円です。

 問合せは、秦野市立桜土手資料館 〒259−1304 神奈川県秦野市堀山下380−3 0463−87−5542にお願いいたします。
 http://navi.city.hadano.kanagawa.jp/

今回の企画展見学は、本当に「百聞は一見にしかずの」連続でした。

長くなりましたが以上お知らせいたします。

430NAO4@吟遊詩人:2007/11/20(火) 21:10:47
どうもありがとうございました。
>相国入道さま
>『常総の歴史』第36号に「下妻の戦国武将多賀谷氏について」佐久間秀樹氏
>千野原靖方著 『常総内海の中世』地域権力と水運の展開

面白そうな文献紹介いただきありがとうございます。私の通った高校が一部下妻城(多賀谷城)址内にあったこともあり、多賀谷氏には興味はあったのですが、以前は判りやすく書かれた本が無く、現在に至るもあまり知らないのが正直なところです。どうもありがとうございました。

下妻城って、平城で大した事ないと思っていたのですが、常総地方って、川や沼が多かったせいか、そういった地形を利用した水城のような城だったらしいですね。
↓のブログ、往時を連想できて、面白いです。

http://shioyatsure.seesaa.net/article/52838436.html

431釈由美子が好き:2007/11/22(木) 01:38:14
今日は寝るので、
>おのおの方
 すいません。レス、今度書きます。
 このごろ、管理人業務怠慢で、申し訳ござんせん。

 「クイズ・ココはどこ」、よろしゅう。

432釈由美子が好き:2007/11/22(木) 20:36:17
すいません。
>おのおの方
 私、しばらく地下潜行します。

 今日も本屋さんから原稿の進捗状況確認の電話が掛かって参りまして、マジ、シャレにならなくなって来てしまいました。

 ブログだけは、なんとか続けるつもりですので、すいまんせんが、よろしくお願い申し上げます。

433水戸御史太夫:2007/11/23(金) 00:18:56
結城2題
結城市民文化センターアクロスでは12月2日に市民劇「結城合戦物語」を上演するそうです。http://www.mmjp.or.jp/yuki-across/

茨城県立歴史館では来年1月20日まで「信長・秀吉・家康と結城水野家」を開催します。
水野家は家康の生母伝通院の実家であり、近世では結城に1万石を領しました。天下人の文書を中心に展示します。信長の「天下布武」など、この3名の文書をまとめてみる機会はそうないと思います。ぜひお越しください。予算の関係で図録はありません。
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/

434NAO4@吟遊詩人:2007/11/23(金) 04:26:04
水野家
>水戸御史太夫さま
ご無沙汰いたしております。「結城2題」ご案内ありがとうございました。
水野家というと、天保の改革の「水野忠邦」を連想してしまい、しかも墓が、結城市山川にあるので、結城藩水野家と水野忠邦を結び付けてしまうのですが、同祖とはいえ、水野忠邦の唐津藩水野家の旧領「山川藩」が、たまたま結城藩と隣接していたということなのでしょうね。

435筆綾丸:2007/11/23(金) 20:53:39
歌舞伎
NAO4@吟遊詩人さま
幡随院長兵衛と大立回りを演じた、おおうつけのカブキ者水野十郎左衛門は、たしか、
水野日向守勝成の孫でしたね。
歌舞伎で思い出しましたが、成田山と関係の深い成田屋は将門の敵になりますから、
平将門が歌舞伎になることはあり得ず、市川団十郎が将門を演ずることは、日本史上、
永遠のタブーなのでしょうね。菅原道真くらいなら、人畜無害ですが(笑)。


釈由美子が好きさん
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0206258400
この本で、以仁王の件りを立ち読みしましたら、福原の話がありました。
福原は高麗人が風水思想に基づいて計画した都で、清盛の別荘は風水で云う明堂だ、
と。著者は、『高倉院厳島御幸記』の文言を傍証の一つにしてますが、歴史はその
ように見れば、そのように見えてしまうものだ、という好例かと思われました。

436NAO4@吟遊詩人:2007/11/24(土) 06:14:41
幡随院と藤沢
>筆綾丸さま
「幡随院」と言うと、「幡随院長兵衛」を連想し、ネットでも殆ど、長兵衛が検索に引っかかりますが、元はといえば、浄土宗の幡随院の側に長兵衛が住んでいたために、こういう名前になったわけですよね。

ところで、幡随院の開基であります「幡随意」上人は、現在の藤沢市(注)の生まれでして、藤沢市善行に生誕地「幡随院」がございます。個人宅だそうなのですが、どこから見ても立派なお寺の格好をいたしておりまして、とても不思議なのです。この敷地内に、上人の産井があるそうですが、公開はされていません。最初写真を載せようと思ったのですが、個人宅なので、控えようと思います。

恐らく、↑のネタは筆綾丸さまも、藤沢に所縁のある井上さまも、ローカルすぎて知らないのではないかと思い載せて見ました。
http://press.jodo.or.jp/newspaper/1990/199002_276_4.pdf

>水野十郎左衛門
系図でどういう位置にあったのか意識していなかったのですが、改めて調べて見ると、おっしゃる通り、水野日向守勝成の孫のようです。勝成自身豪傑で、問題児だったようで、十郎左衛門は、その血を引いて泰平の世に適合できなかったのでしょうか。

>成田屋
なるほど、そういうことになりますか。
私の故郷では、将門を敬ってなのか、祟りを恐れてなのか、成田山に参拝しないという家が結構あるそうです。

(注)「藤沢」というより、かつては、藤沢近郊の「相模国善行寺村」なのでしょうが。

437NAO4@琵琶法師:2007/11/25(日) 09:22:44
「博物館」と「講座」セットで
連続投稿お許しください。

昨日は、第6回史料講読講座でしたが、講座の開かれる「小岩」が、企画展「関東戦乱」が開催されている「葛飾区郷土と天文の博物館」に近いので、両方楽しんでしまおうと、目論見まして、上手くいきました。

●企画展「関東戦乱」
文書といい出土品といい充実した展示でした。博物館の予算がよほどあるのか、考古学ボランティアの層がよほど厚いのかといった印象です。
低地の城なので、木製品の出土物がしっかり残っているのが、珍しいところでしょうか。
井上様の「義氏くん」もしっかり活躍しておりました。

博物館もさることながら、最初に興味を持ったのは、最寄り駅の京成「お花茶屋」駅から、博物館までの道が、下町には異様に広くまっすぐだった点でして、「何かの跡であろう」と思いながら進んでいきますと、道路の一部が親水公園という公園になっておりまして、説明書きがありました。元々は「曳舟川」という水路だったようで、納得いたしました。

●史料講読講座
第6回となりますが、実躬卿記に記録された「御教書」を題材にいたしました。細川さんの学説の「『嘉元の乱』の真相」を拝聴できて、うれしいやら楽しいやらでした。

京成「お花茶屋」から、JR「小岩」方面にどうやって抜けようかと思いましたが、京成「小岩」から、JR「小岩」行きのバスに乗り、途中で降りて、小岩区民館へ行きました。見慣れない道なので、よく分からなかったのですが、下町のおばちゃんは親切で、途中まで案内してくださいました。ありがとうございました。

余談ですが
・私のHNが日本史に合わないとのご指摘もあり、「琵琶法師」使って見ました。
 他板さんの都合もあるので、今日だけの限定版でございます。
・昼食は、顔見知りの方に目撃されないよう「お花茶屋」駅前の松屋で「牛飯]セットで!

438筆綾丸:2007/11/25(日) 20:19:25
鯰と鞭
琵琶法師さま
浄土宗新聞の記事を読みながら、慶長期に九州の基督教徒達が浄土宗に帰依したの
なら、寛永期の島原天草の乱はどのように説明するのだろう、と疑問に思いました。
有馬ミゲル直純は、ころびバテレンで有名な人ですね。背教者伴夢が、キリシタンと
どう付き合ったのか、気になりました。
神田山新知恩寺裏長屋在幡随院長兵衛は根っからの浄土宗門徒で、対するに、やぶ
にらみの旗本退屈男水野十郎左衛門成之はニヒルな無神論者で、気に入らねえな、
野郎の仏心に焼入れてやるか、となったのかもしれませんね(笑)。

http://nifty.bk1.jp/product/02942985
この本に、秀吉が城普請の前田玄以に宛てた消息があり、これが、地震と鯰を結び
つけた最古の史料だそうです(同書89頁)。
「ふしみのふしんなまつ大事にて候まま・・・」
伏見の城普請は鯰に留意すること・・・文意がやや不明ですが、興味深い消息ですね。

本日の大河ドラマでは、忍城主の成田氏が、この無礼者め、とガクト謙信に鞭でひっぱ
たかれてました。




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