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Japanese Medieval History and Literature

393筆綾丸:2007/11/11(日) 10:13:39
『禁秘抄』という恫喝
阿哈馬江さま
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?isbn_cd=4642033785
前に書いたことが気になり、この本の、第四部「江戸幕府の成立と朝廷」第三章「禁中並公家中諸法度の性格」を読んでみました。
昭実と秀忠と家康の連署の意味について、著者は、次のように書きます。
「日下に署名する者は最下位で、日付に遠い、家康が最上、ついで秀忠、そして昭実の順となろう。・・・そしていま一つ看過してはならないのは、上下の問題のみならず、日下が文書作成者であるということであろう。・・・(この法度は)大御所家康が中心となり作成されたものであるが、形式的にはこれに加えて幕府と朝廷の代表の三人が署名する形をとっており、朝廷の代表というべき関白二条昭実が日下に署しているのは、この法度が形式的には朝廷側の作成にかかることを意味していることになろう。そして、連署の上下を示す大御所家康、将軍秀忠、関白昭実の順は、権力の大小の順を象徴するものであったろう」(580頁)
「(法度の)第一条は、天皇を君主として位置づけ、君主としての勤め、それにふさわしい教養を身につけることを勧めたものであって、暗に大政は朝廷になく幕府にあることを、朝廷と幕府が認め合ったもの、すなわちこの条文こそ朝廷より幕府への大政委任を示すものであった、と考える」(595頁)
以上、僭越ながら、興味深い解釈ですが、私の関心は、この連署において、関白ではなく、なぜ天皇(後水尾)が署名しなかったのか、ということなので、疑問は氷解しませんでした。このあたりの法理を追及した論文はないものでしょうか。
この本を読んで、非常に驚いたことがあります。第一条のほぼ全文が『禁秘抄』からの引用だ、ということです(590頁)。我が国の法制史上、はじめて天皇を規定した法が、ほかにも色々あるだろうに、なぜ『禁秘抄』からの引用なのか。著者の言及はありませぬが、これは家康の恫喝と読めるのではないか。つまり、家康は、承久の変における鎌倉幕府の処断を想起しながら、幕府に逆らえば順徳院のように流すこともありうるから、重々、心せよ、と恫喝したのではないか。第一条に順徳院の『禁秘抄』を引用されたことで、朝廷は震えあがったのではないか。このドスの効いた恫喝・・・家康という人は、つくづく恐い人だ、と思いました。

第五部「伝統の継承と再編」第二章「即位潅頂と二条家」に、
「・・・二条家は幾度かの危機を乗り越え、即位潅頂の家であり続け、弘化四年(1847)の孝明天皇即位大礼において二条斉敬が即位潅頂を勤める。これが天皇への即位潅頂の印明伝授の最期であった」(740頁)
とあります。二条家は、足利将軍と徳川将軍の偏諱を受けてきて、将軍家斉の偏諱を受けた斉敬が最後の即位潅頂を勤めた最後の関白であった、というのは、とても面白い現象ですね。とともに、禁中並公家中諸法度に署名した関白二条昭実は、最後の足利将軍義昭の偏諱を受けているわけですから、昭実・秀忠・家康の連署を見ていますと、昭実という文字が、織田・豊臣をすっ飛ばして、足利幕府から徳川幕府へ権力を移行させた接ぎ木のように見えてきますね。

ちなみに、この労作が第一回「徳川賞」に選ばれているのは、なんとなく象徴的な感じがしました。

黄昏少将は、宝暦・明和の思想事件の影響を考慮していたのかな、という気もしますね。ここで譲歩すると、また尊王の連中がつけあがる、と。




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