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TK師との会話

1TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

2ラピ。:2013/07/06(土) 10:48:23
T師匠!

ご訪問、ありがとうございます。

師匠の言葉は私の今の状況を完璧に表しています。

私はかつて がむしゃらに道を歩いていましたが
師匠に出会うちょっと前頃は実はその道からそれていました。

そして師匠と出会うことによって
再び道を歩き始め
至ることができました。

至ってる方、本物は
確実にその道を求めるものを導きます。

私はその頃は訳もわからぬまま導かれていたことを
至って初めて知りました。

だから、もし、
本気で至りたい方がいればその方に言いたい。

まだ至ってない時にはわからない、
知っているつもりでもわかってない世界があるのだと。

だから、それを想像したり考えたりするのではなく
やるしかないのだと。

私はそれをしました。

師匠は私の段階(彼岸)の更なる段階(涅槃)があると
教えてくださいました。
その先へ進むかどうかは流れに任せたいと思います。

そして師匠は自分の道を行け
と背中を押してくださいました。

これからも私なりに真理を表現し続けていきます。

ありがとうございます。

師匠に出会えたことに感謝します。

3TK:2013/08/10(土) 09:51:58
なかなか新装オープンのこの掲示板も関心を引いているようなので、
この場を借りて私からも一言述べようと思います。

私はラピ。さんには縁があって悟りに至るための「激流」の教えを開きましたが、
実際は私にとって教える対象となる人の幅はもっと広いと思います。

その人から苦が少しでも減って、楽が増えればそれで良いと言う観点から、
それなりの教え方が主になるのだと思います。

精神世界とは一体なんでしょうか、人はなぜ今の時代に宗教を求める人がいるのでしょうか。

恐らく、苦しいからですよね。

苦しいから、苦しくて何が何だかわからないから求める。

楽になりたいからと言うはっきりした動機ではないかもしれない、
そこに行ったら楽になれると確信を持ててやっているわけではないのかもしれない。

ある意味では苦しみがあるのは仕方がないとあきらめている、あるいは、
根本動機は生きる事そのものが分からないから、と言うものではないかと思います。

実はこの物質世界とは思いが実現しにくいと言う特性を持っていますが、
その特性が手助けするような形で発生していると思います。

では、悟りとはどんなものかというと、
簡単に言うと今述べたようなことがその人にとってどうでもよくなってしまうということです。

答えを見つけたわけじゃない、疑問そのものがどうでもよくなってしまった。

単純に言えば、迷いがあり疑問があり生きている人がいる、それに対して、
何も考えないで気にならないで生きている人がいる、人間から迷い苦しむ機能が無くなってしまった、
悟りとは、つまり、そのようなものでした。

それは決して「知ったり」「分かったり」「理解」したりすることではありません。

もし、精神世界の心地よさがほしい人は、精神世界に行った方が良い、束の間ここちよく、
その後苦しさが襲ってくる繰り返し、束の間の娯楽ビデオの鑑賞を楽しむような気分で精神世界に酔う事を楽しんでいればいい。
ただその人たちの本心が求めていることはその状態ではないので、やがてそれ自身が苦しくなってくるのだろうと思います。

私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。

苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。

私の話しするのもこれだけです。

全然変わってないですよね。

そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。

(長いので続きます)

4TK:2013/08/10(土) 09:53:59
(前の続きです)
釈迦のこの世を去る最後に私たちに残した言葉にも、その根幹の部分のみが適格に言葉短く述べられているように思います。


大般涅槃経 - Wikipedia(2013年8月8日 (木) 07:40  UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C

>原始仏教経典の涅槃経

中 略

>「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」


釈迦のこの世界で最後に発した言葉が「怠らず努めなさい」なんですね。

それはけっして、「人々のために」とか、「善を為せ」とか、「世界の為に」とかの言葉ではなかった。

この世界で最後に発した言葉は「怠らず努めなさい」なのです。

もしかしたら多くの方々は、この点を勘違いしているのかもしれません。


むしろ、スポ根アニメとかの中の方が「怠らず努めなさい」の要素が強いですし、
現実にスポーツの優れた選手は悟った人に近いメンタルなのです。

私も高成績のスポーツチームの者と話したことがありますが、エゴ少ないですね、人間出来てます、
苦を減らし楽を凄く実現できている、おかしな精神世界の者と比べたら雲泥の差で彼らは達成できてます。
反対に成績の振るわない仲良しクラブ的な所の人と話しても、エゴ多いです、彼らは苦しみ多く生きていますね。


私がここで悟った状態と語りましたが、スポーツも存分に「怠らず努めなさい」のような
要素があるので悟りには身近な状態にありスポーツの世界ではこの意識状態を「フロー」若しくは「ゾーン」
と言うのです。宮本武蔵あるいは柳生宗矩に沢庵禅師が説いたと言われている「剣」「禅」一致はこの辺りの事を指しています。

フロー - Wikipedia(2013年6月11日 (火) 11:13  UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC

>この概念は西欧心理学の中ではチクセントミハイによってはじめて示したと言える。
>しかし、彼はこの心理現象に気づき、それに基づく技術を開発したのは、
>ほぼ間違いなく彼が最初ではないと、彼自身、躊躇なく認めている。
>
>2500年以上前、仏教や道教といった東洋の精神的な伝統の実践者は、
>この訓練を彼らの精神開発の非常に中心的な部分として磨いた。日本の実践者は、
>そのような禅の技術を、彼らの選んだ、剣道から生け花までを含む、
>芸術の形式(芸道など)を習得するために学んだ。

ちなみに私の知っている高成績なスポーツチームでは、厳しい訓練は当然ですが、寮で集団生活をし、
生活の全てがスポーツであるとして、日常の規律の厳守、奉仕の実践と挨拶の重視、
練習前の正座とか、私から見て十分にフローの達成に近づけるための実践要素が取り入れられていました。
強くなるチームは技能訓練以外にも強くなるためのメンタル面の的を得た要素をしっかり踏まえているという事ですね。


精神世界にそれを求める人たちに言いますが、
「心身を鍛えて、よりよく過ごすために私はスポーツ又は稽古事に打ち込みます」と言う人が世の中には多数いると思いますが、
これは悟った立場から見ても立派に理論にかなっています。
私は精神世界にそれを求めてうだうだ知ったかぶりのオタクをしているような人たちよりも、
時々これらの人の方が楽を達成できて人生を前向きに歩いているように思えて仕方がない部分を感じます。

何事につけても、だらだらといい加減にではない、真剣に何かに打ち込んでいる人の姿を目にするのは、それは素晴らしいものです。

悟ると、一般の人の視点から見たらそれは理想的で素晴らしいと言う状態になると思います。

苦が無くなって楽が実現するだけではありません、あえてたとえるなら遊びと同じ楽な感覚で仕事が出来てしまう、
しかもエゴの人と比べたら圧倒的に優位な効率でインスピレーションもどんどんと出てきますし、
楽していい仕事ができると言うのは、一般的には願ったり叶ったりと表現するのかもしれません。

(長いので続きます)

5TK:2013/08/10(土) 09:58:33

(前の続きです)

私は釈迦の我々に残した最後の言葉の「怠らず努めなさい」を成就した者です。

努力に努力を重ねて努力し尽したのでもう逆立ちしても努力ができません、努力不要(不能)の者となりました、
そして、ラピ。さんも私の教えを受けてこれを成就しました。

もしかしたら、私たちのこの「私達は逆立ちしても努力などしません」の成就した後の表現を、
至る前の人が勝手に「努力」するのは駄目なんです不要ですと取った人もいるのかもしれません。

ですが、釈迦が最後に我々に残した言葉は「怠らず努めなさい」の言葉なのです。

本当にスピ系にかぶれて私と同じところまで来た人はいるのでしょうか、
当然スピ系の分からない私に導かれたラピ。さんは私の取り入れた方法で至りました。

それは、私が成就したと認めたとかではなくて本人が自分自身でこの状態に、
意識そのものが変容してなってしまったのです。

次は至った直後のラピ。さんの言葉です。

[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html

>この私はだれですか?
>
>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>
>何もできないのですが
>この私はなんですか?
>
>師匠、これはなんですか?
>
>と送りました。

実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

ただし、的を得た導師とは、ただ普通に暮らしていてこれらの努力や忍耐を要するような出来事をやり過ごさせるのではなく、
あえて、これらの事が過剰に実践者の前に起こる方法を作り出すのです。

それが、ラピ。さんの言っている「激流」と言うものの正体です。

じつはラピ。さんに関して言えば、私と出会った時には、
恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。
もっともこの屁理屈も、ある段階の者には激流を渡るための筏(イカダ)として機能しますが、
同じ屁理屈でも使い回す者が悟ってないとこれが全く同じ言葉なのに筏(イカダ)の機能も果たせない
駄作の単なる屁理屈に大変わりしてしまいます。

達成した私達には内面(心)と言うものが無い、これがほんとうの無心です。
内面が無いから従って外面もないのです、よってヴィパッサナなどの内面観察系の実践は
逆立ちしても実践不可能(完了)です。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>質問者 この知識はあなたの内側からやってくるのでしょうか、それとも外
> 側から来るのでしょうか?
>
> マハラジ
> その表現は当てはまらない。
> 私の内側は外側であり、私の外側は内側なのだ。
> 必要な知識をあなたから得るかも知れない。
> だが、あなたは私から離れていないのだ。

私は以前これを、あなたの前には私がいる、だが、私の前にはあなたはいないと言う言語化で表していました。

至った私達の意識状態は精神の集中の次です、意識の拡散と言う状態になります。
至った私達には精神の集中と言う言葉はありません。

私がここで「努力」と言う表現を使いまわしていますが、それ自身も私は成就者なのでそうでない人とは違うのです、
人間のメンタルの構造の上でどのような作用が起きた時に、この「努力」と言う感覚が発生するのかまで、
熟知したうえでこの表現を使いまわしています。

(長いので続きます)

6TK:2013/08/10(土) 10:03:39
(前の続きです)

「人の為」「世界の為」「人類の為」「神への奉仕の為」「愛と感謝の思いを込めて」大いにやってください、
私もラピ。さんもその実践をして成就したのですからこの件についても胸を張って述べる事が出来ますが、
最終的には実践不能の状態でこの実践は成就を迎えます。私もできるものならまだこれらの実践をするのですが、
逆立ちしても不可能なのです、つまり、意識の状態がこの実践の成就を迎え根幹から変容したと言う意味です。
「清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような〜」スッタニパータと言う
経典に出てくる表現ですが、この状態が完成形ですから。

「人の為」「世界の為」「人類の為」「神への奉仕の為」「愛と感謝の思いを込めて」が出来るうちは大いにやって下さい、
ただし、その実践が出来るうちは私の居る所まではまだまだ全然至っておりませんので、
そのような状態で人に何かを説くなどの行為はくれぐれもしないようにして下さい、
これは説かれた方も当然に至る事が出来ず害がありますが、説いた方にも害があるので、ご法度です。

まず、自分から先に成就をする、それをしないで、あるいはしたと誤認して、人に教えを説く者をイエスは偽善者と呼びました。


マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

ラピ。さんの至った所は、もしも人から認められず否定されるようなことがあったとしても、
本人にとって揺るぐことのないものであるわけですが、私も今回ラピ。さんが成就していただけたおかげで、
ようやく次のような聖典も実績として説く事のできる身の上となりました。


ルカの福音書 6章-40
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

マタイの福音書 7章16-18
>あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、
>いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
>同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
>良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

(長いので続きます)

7TK:2013/08/10(土) 10:04:55
(前の続きです)

私は今まで多くの超える手前で、超えたと自らの誤認により教えを説いたりしている人を何人も目にしてきました。

実は私に出会った時のラピ。さんもそのようだったのですが、私にはそのような経験がありませんので、
今までもそのような人たちを目にしても中々力添えが出来ずにおりましたが、ラピ。さんは
そのような人たちに暗闇の中で灯火をかかげる人となれると私は考えています。

言葉に表現するとあと一歩なのですが、この一歩が全く至ると至っていないのとでは違うのです。
その違いを一番よくわかっているのが今のラピ。さんですから。

至った後のラピ。さんのコメントです。

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1674.html

>はじめの私は師匠に対してかなり偉そうで
>反抗的態度でした、、、。
>(;´▽`A‘‘
>
>だって、私、
>
>自分がすべてを知ってるのだ!
>
>なんて思ってたのですから、、、、。
>(あ〜あ(笑)


次は至る以前のラピ。さんのコメントですが、かなりの自信の持ち主でした。

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。


このような自信満面な人物をどん底、すなわち、その者をこの世界の中で子供を含むどんな人物より一番至らない
愚かな者の立場まで落とさなければならないのです、これは奥義ですが、最後の一歩の入り口はどん底にあるのです。

彼女が聞く準備やその他の準備が整うまでに約4カ月の期間を費やしましたが、飛び越える時は僅か1日で飛び越えましたね。

彼女なら、私に出来なかったことをやれそうな気がします。


『相応部経典』1・4・1・5
>比丘たちよ。私は天界のものであれ、人間界のものであれ、一切の束縛から自由になった。そなたたちも同様に自由となった。
>諸人の利益と幸福のために、また世の人への共感を持って、(天に住む)神々と人間の利益、幸福のために、そなたたちは出かけるがいい。
>
>(なるべく多くの人に教えられるよう)二人して同じ道をゆくな。初めも善く、中ごろも善く、終わりも善く、道理と表現とが備わった教えを説きなさい。
>この上なく完全で清らかな行いを人に示しなさい。
>世間には心の目が(欲望の)塵垢にそれほど覆われていないのに、教えを聞くことがないところから堕落している人がいる。(教えられれば)かれらは真実を悟れるであろう。

8ラピ。:2013/08/10(土) 23:13:06
T師匠、ありがとうございます。

師匠は私を師匠のいるところまで完璧に導いてくださいました。

それまでももちろん、実践を頑張ってました。
でもスピリチュアルな教えによって停滞してしてました。

この停滞。
実はその頃、私にとっては実感のないものでした。
師からビンタをもらい、目が覚めたのですが
それまでは自分が停滞してることすらわかっていませんでした。

師の教えはそんな私を確実に導きました。

まだ、この世界で師の言葉が必要な人、たくさんいると思います。

めったにないチャンスです。

悟りを本気で目指してる方、本気であるのであれば
師は答えてくれると思います。

ただ、本気で、本当に本気で挑んでください。

私のお伝えすることが合わない方もいると思います。
なぜなら至る道は一つではないから。

その時こそ、師の言葉が導いてくれると思います。

師匠、ありがとうございます!!

(*・ω・*)ポッ

9あーみん。:2013/08/10(土) 23:55:40
ラピ。さんに巡り合えただけでもラッキーだと思っていたのですが、
ラぴ。さんのお師匠様のお言葉まで聞けるなんて、
なんてお得な・・(いや違う!)なんて貴重な掲示板なのでしょうか!!^^
(↑この空気で冗談を言おうとする自分が恐ろしいです)

レベルが高すぎて、私には何を質問してよいかも分かりませんが、
ひとつ、どうしても気になったことがあります。。

(現在、エゴに押し負け続けており、実践の方が遅々として進まない私が
お二人に質問する資格があるのかどうか分かりませんが^^;)

エピ。さんとお師匠様は全てメール(ネット上?)でのやりとりだけだったのでしょうか?
直接お会いになったりすることはなかったのですか?

私が過去に読んだ「悟り・覚醒」等に関する本では、マスターの存在無しで悟ることは
非常に困難であり、ある程度準備が出来たものはマスターの導きが必要になる。。とありました。
中でも、直接そのマスターの「在る」の意識に影響され、弟子が「悟りの一瞥」のようなものを体験し、
その体験により、一気に「目覚め」が深まることがあるとか。。
これもやはり余計な知識なのでしょうか。。?

あ、まあ、私の場合はまだその「準備」すら全く整っていない状態ですので、
もしそういったことが必要になるとしても、実践が順調に進んだ、先の先の話に
なるかとは思うのですが^^;

ふと、ラピ。さんとお師匠様の場合はどうだったのかな?と気になりました。
もし、差支えなければ教えて頂けますか。。?

10ラピ。:2013/08/11(日) 07:44:10
あーみん。たん、おはよう!

うん、このチャンスを逃すのはもったいないですよ。
これが最後の最高のチャンスです。
エゴが何を言おうが実践です。ここが分かれ道になります。

残念ながら私たちは 実践をしない人たちの力になることはできません。
自分自身が進むしかないのです。
私たちはきっかけをお伝えすることはできますが、ただそれだけです。

私と師匠のやり取りはメールだけです。
確かにマスターの存在なしで至るのは困難だと思います。

私は師匠に出会う前に ある実践をとことんやっていまして
激流を渡り彼岸に足を突っ込み、また戻ってきた経緯があります。

そして結局 相対的世界に落ち着いて スピリチュアルにはまってしまいました。
そこで長い間停滞していました。

激流の終りまで行きかけたのに、行きかけただけではまったくだめなのです。
確実にわたり終える必要があります。

いくら彼岸に足を突っ込んだと言っても、そこから戻ってしまったのでは
全然ダメで、一度からまたやり直しなのです。

>言葉に表現するとあと一歩なのですが、この一歩が全く至ると至っていないのとでは違うのです。

まさしくこのことです。渡り終えなければ全く駄目です。
彼岸に足を突っ込んだ、だからそれがどうした?それでは意味がない、です。

ちなみに実践をし続けて、光を見たり幸せな気分になって
それで至ったと思う人もいると思いますがこれも全くダメです。

この経験は無駄ではないと思いますが
「その経験、だからどうした?」です。
さらに実践し続けてください。実践ができなくなるまで。

師匠がこう書いてくださっていました。

>恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。

まさしくあと一歩、あと一歩のところで停滞していました。
この停滞は私だけでは気付くことはできず
師がいなければ至れませんでした。

「楽」は実現できていましたが、まったくそれでもダメでなのです。
「楽」の実現、だからそれがどうした、まだまだだ!という感じです。
私は単なる低次元、相対次元の屁理屈の酔っ払いでした。

なので、本気で至りたい方に必要なのは
目を覚まさせるビンタだと思っています。
師は私の目を覚ましてくれました。

私が酔っぱらっていることを師は私の文面ですべてお見通しでした。
マスターからしたら至ってないものは 丸見えなのです。

続きます(*・ω・*)ポッ

11ラピ。:2013/08/11(日) 07:45:06
10の書き込みの続きです。

>直接そのマスターの「在る」の意識に影響され、弟子が「悟りの一瞥」のようなものを体験し、
その体験により、一気に「目覚め」が深まることがあるとか。。

これについてですが、少なくとも私にそれはありませんでした。

悟りの一瞥は実は私自身の実践で体験しており
確かにその一瞥があったからこそ師の言葉によって導かれ
至ることができたのかもしれません。
(ただ、この一瞥もまれなことらしいです。)

ちなみにこの相対的世界にいる時は
いろんな思考や思いに支配されているので
マスターの「在る状態」に気付ける人はいないでしょう。
悟りの一瞥を得ることは難しいでしょう。

だからマスターはその思考や思い、それらの幻想をぶった切るために
とことん下まで 至ってないものを落とします。まずはそこからです。

>このような自信満面な人物をどん底、すなわち、その者をこの世界の中で子供を含むどんな人物より一番至らない
愚かな者の立場まで落とさなければならないのです、これは奥義ですが、最後の一歩の入り口はどん底にあるのです。

まさしくそれです。最高の奥義です。
これがなければ私は至れませんでした。
この奥義がなければ至れませんでした。

だから私にとって師は必要でした。

大切なのは常に立つ位置を低くし、ひたすら実践です。

あーみん。たん。
厳しいことを言えば、エゴを言い訳にして
実践を怠けてる、私からしたらそうとしか言えませんよ?

まだまだですね。スタートラインにも立ってないです。

だから兎にも角にも実践です。
とことんエゴの声を無視して実践してからですね。

私は師からの「悟りの一瞥」はなかったし、
師のそばにいてあったとしても、至る前の私であればそれを勝手に解釈し、誤解し
受け取れてなかったでしょう。
その一瞥はあってもないことと同じです。

だからマスターのそばにいて同じ時間を過ごしても
次元が全く違うのでマスターのその状態を知ることはできないでしょう。

ひたすら実践をしてある瞬間、空っぽになる時があります。
(エゴの声が静まる時)
これだけではまだ静まってるだけでエゴはいますので至れてないのですが
この空っぽの状態なら、一瞥を味わうことはできるかもしれません。

ただその一瞥は師がいなければできない、ということではないと思います。
ひたすら実践をしていれば勝手に一瞥を経験しているでしょう。

だからまずはとことん実践してその状態まで進んでください。

そして、実践中、何かありましたら掲示板の「悟りを目指している方」に書き込んでね。
その都度、対応できると思います。

私が今回書いたこと、師の書き込みにすべて書かれてますので
じっくり読んでね。
(*・ω・*)ポッ

12TK:2013/08/11(日) 09:44:52
一言述べますが、書店に行けば、あるいはネット上で、スピ系の本、又はサイト、セッション、
死ぬまで酔わせてもらえるような手段は沢山ありますので、
そのような方には今の時代は願望が手ごろに叶ってとてもラッキーな時代だと思いますよ。

ただし、これはこのサイトを見ている人の中にいないかもしれませんが、
本当に切羽詰まったような人、このような人たちにはかなり厄介な時代です。

何かの高次元の手掛かりがなければアセンションは無理です。

ただし、私自身は僅かながらの聖典を師にしましたので、生きている師はおりませんから、
一般的には無師独悟に分類される事になると思います。

メールと言う手段であろうとも、生きた師なら聖典よりなおいいわけです。

ただし、はっきりと言いますが、生きた人間を師として求めた場合、今は失敗するケースが多いです。

ラピ。さんが運がよかったのだとお考えいただいた方が良いと思います。

今は仏教でいう所の「末法の世」と言う時代です。


まっぽう(‥ポフ)【末法】
仏語。三時の一つ。釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期で、仏の教えがすたれ教法だけが残る最後の時期とされ、
一万年の間とする。日本では正法・像法各千年の後、永承七年に末法にはいったとする。末法時。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


つまり確実なものとして教法だけが残っているとされています。

これもとらえ方で、教法だけは確実な手掛かりとなるものがあるのだと捉える事も出来ます。

「私は至りました、本物です」と複数の者が口をそろえてこのように述べても、本当かどうか判断が着きませんね、
忠告しておきますが、実際にはほとんど全てと言っていいほど、期待にかなうものではないと考えて下さい。
もっとも始末に負えないのは、ほとんどの本物宣言は悪気とかそういうものでは無くて、
本人自らの誤認によるものだと思います。

私自身は人を師として求めたら、今の所までは至れなかったと思っています。

その場合、今のラピ。さんの悟りは無かったわけです。

私もネット上で本職の僧の方や様々な方と話をしましたが、未だかって私がまともに対話を交わした人の中で
私の所に至っている人など誰もいませんでした。

適当な事を言われて、成就の印可を授けられたような人も何人もいるようです。

そして、そのでたらめな成就認定をされた人が、また、さらに他を成就認定していく、
この辺りは、「末法」の予言の通りです。

大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


釈迦の遺言は、今の我々に対して末法を予言していたようなものでした。

>レベルが高すぎて、私には何を質問してよいかも分かりませんが、

ここもポイントです、分かりやすいものほど次元の低さの証であり受け入れやすく、
だからこそ外れなのですが人が飛びつきます。

ラピ。さんは実に運が良かった、ただ、それだけだと思います。

13ラピ。:2013/08/11(日) 22:31:36
☆ TK師匠  あーみん。たん

はい!
あーみん。たんにお返事した内容は
師が本物であること前提で書いてしまいました。

今のこの世界、本物はほとんどいないみたいです。
偽物に師事してしまうと逆効果ですね。

私が運がいいというのは
TK師という本物に出会えたからです。

もし、偽物に師事したのなら、まったく至ることはできなかったと思います。

でも実は私は師を求めてはいませんでした。

でも縁があって師匠とメールのやり取りをしているうちに、
「ん?これは??」というなにか直感的なものがありました。

私はTK師だからこそ師匠と呼ばせていただきました。

TK師に出会わなければ、私には師はいなかったと思います。

(*・ω・*)ポッ

14あーみん。:2013/08/13(火) 01:02:04
ラピ。さん、たくさんのお返事ありがとうございます。
ラピ。さんが辿って来られた道がよく分かりました。。
きっと壮絶な体験も色々あったんでしょうね。。
でも実践が始まったきっかけが、特に出来事があったわけではなく、
ふと自分のわがまま気づいた、それだけです、というところに少し驚きました。
そして、ラピ。さんが実践されて来た長い年月を思うと、
これからの自分の行く道を考えて、つい気が遠くなってしまいますが^^;
もう多分、嫌でもこの道しか残されていないというか、失敗しながらでも進むしかないですね。
実践方法は、皆さんがされているように、そのうち私も私のオリジナルを見つけたいなと思います。
それまで、ラピ。さんのおすすめ「自分を捨てて、喜んで何でもしよう」を
私なりに努力して行こうと思います。

本当にありがとうございます。

あ、もうひとつだけ・・
ラピさんのお返事の最初の部分なんですが、
私は自分の考えが正しいと思って、その正しさを主張したかったわけではないんです。。
ただ、まずは出来るだけ自分の考え方、感じ方を、ありのままに
さらけ出して、ラピ。さんにお伝えすることが必要だと思いました。
私なりの、よかれと思ったやり方でした。
でも、そうですね。。自分の正しさを主張しているような文章になってしまっていたのかもしれませんね。
でも決して自分が正しい、なんて思って文章を書いているわけではないんです。
どうあがいたって「自我」は何が正しいかを判断することは出来ないんだってこと、
本当に身に染みて分かっているつもりです。(ときどき忘れてるかもしれませんが)
でも誤解を生むような書き方になってしまってすみませんでした。

私は少し、悟った方のことを、まるで超能力者のように思っていたようで、
多少文章が変でも、こちらの気持ちを汲み取ってくれるだろう。。なんて、
勝手なイメージを持っていたようです。とんだ勘違いですね^^;すみません。。

あと、私にとっては悟りの道も「スピリチュアル」だと思ってましたので、
解釈の違いという誤解もあるのかもしれませんね。

「誤解」はほんとうにやっかいですね^^;
世の中、この「誤解」さえなくなれば、どんなに生きやすくなるか。。と思います。
まるで罰ゲームのルールを無理やり課せられているように感じます^^
でもやっぱり必要だからあるんでしょうね。いや、意味なんてないんでしたね。
だから人は自分の好きなように意味を付けて生きていこうとするんですね。。
(↑あ、これも「これが正しい」ってことじゃないです。単なる私の考えです。)+

15あーみん。:2013/08/13(火) 01:04:54
↑ごめんなさい!板を間違えて投稿しました!
「悟りを目指している方」への投稿のつもりでした!

16ラピ。:2013/08/13(火) 03:29:32
あーみん。たん、了解です。

この書き込みを移動させますね!
(*・ω・*)ポッ

17TK:2013/08/14(水) 11:13:34
さて、この掲示板にもスピ系にかぶれている人がいますが、私もラピ。さんも
ぶっちゃけスピ系をけちょんけちょんにコケにする者の立場をとっているわけですが、
ぜひスピ系で至りましたと言う自称覚者さんがもしいたらここに出てきてもらいたいものだと
思いませんか。

我々にとって悟りとは、何かを理解したり知ったりする事ではなく、
メンタルそのものの機能が変わってしまう事だったわけですが、
当然我は本物ですと言う方が居れば、その方がもし偽物か自らの誤認によるものであれば、
我々と対話を少しすると本当に意識の機能が変容していない方は見事にそれが明らかになってしまう事になります。

我等はスピ系では無い方法で至りましたと言う立場ですから、そのスピ系で至ったと言う自称覚者さんたち、
色々な人のために我等と少しここで話をしてみようではありませんか。

私もそのような自称覚者さんたちと実際に対話してみたいと思います。

どちらにしても、至っていない人たちの大いに力になれる対話になると思いますが、ただし、
いられたらの話しですが。(笑)

ま、いないでしょうけど、このように私がここで呼びかけるだけでも、誰もいないイコール、
スピ系がダメだという事のあかしに繋がって、途中の人の参考になりますね。

私は実際スピ系と言うのは学んでないので良くわかりませんが、
スピ系だったという至る前のラピ。さんを知っているので、
間接的に駄目な教えと位置づけているわけです。

私と至る前のスピ系ラピ。さんとの間では確か、
ラピ。さんはある程度悟りを達成できていると言う認識だったと思いますが、
私にしてみたら、ただの堕落して酔っぱらっている人でしかありませんでした。

酔っぱらって幸せな気分に浸っているというのと、酔いからさめて至った状態とは当たり前ですが違いますね。

精神世界知識を大量に詰め込んで、理解力でカバーできる範囲をうんと広げて、
我々の本当に至った者の変容したメンタルの状態を理解力と知識量で受け答えをして、
例えば自分と言うのは幻です、この世界には実態が無いんです、あなたは私ですとか、
自分は悟った者だとして言っている人、いますよね、これはもちろん本人の悟った至ったの誤認の典型例です。

至った我々は、「理解力」と表現できるようなマインドの次元のものなどないのです。
「理解力」をすっかり捨て去って、バカを極めると我々のようになるのです。
つまり、アプローチの位置づけとしても「理解力を増やすと言うのとは真逆」です。


中部経典 無畏王子経より

>「世尊よ、寸分違わない、鋭い答えでした。
>このような答えは、前から用意するのですか。
>どこまで用意すれば、こんな答えを出せるのか。」
>
> 「王子よ、本質を悟る者は、細部が分かる。
>すべてを用意しなくとも、真実を悟れば良い。
> 真実から辿れない、現実など無いと知りなさい。」

(続きます)

18TK:2013/08/14(水) 11:14:30
(前の続きです)

ただ言える事は、マインドだエゴだといかにも駄目なもののように言いますが、現実には、
正しい方向でマインドにエゴに、これらを強める事でかなりの幸せを作り出すことが可能なのですから、
むしろ真逆に位置する悟りにはこだわらず、正しい方向でマインド、エゴを大いに強めて、
まず、幸せになれます、これをやってみて下さい。
強める限界まで来たら次に進めばいいわけで、まずは、マインド、エゴを正しい方向で強める事、
私はこれが、スピ系で出てくる「ワクワク」と言う教えに値するものだろうとして、
その「ワクワク」と言う教えを詳しく調べたわけではありませんが、
評価出来るものではないかとの位置づけをしています。

ただ、「ワクワク」で気を付けるのは「正しいと判断できる行為でワクワク」ここがポイントだと思います。
「正しくないと判断できる行為でのワクワク」は駄目です。
ただし、言っておきますが悟りに至る方法は「ワクワク」ではありません、
どちらかというと「ワクワク」とは反対の気分を味わってもらう事となります。


中部経典 無畏王子経より
>真実であって、かつ至福に役立つならば、相手が喜んで聞きたがらないような言葉でも如来は口にする。


「ワクワク」する事をやっていると言う意味では、「理解力」と「精神世間知識量」にものを言わせる、
誤認による自称覚者さん等も、こちらから見たら酔っ払いの集団にしか見えませんが、
それはそれでもまともなのかもしれませんね。
ただし、イエスからは怒られそうです。

マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」


スピ系というのは例えば、次のようなものの事を言うのでしょうか。

ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>すべてでひとつである。
>偶然というものはない。
>弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>与えたものが返ってくる。
>すべてのものは聖なるものである。
>人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
>どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。(現実は中立である)
>アファーメーション(確認する)


かなり、うさんくさい教えですね。
賢者とされる人とかぶるような言葉を巧みに取り入れながら、でたらめな編集をして、
結論として全く使い物にならない酔っぱらうには都合のいい内容です。

こんなものを良く広めるなと、感心します。

魔王サタン、天使の体裁をした悪魔の教えとでも言えばいいのか。

ご都合主義の、理論も何もわかりもしない者が、
賢者の吐き捨てた言葉の種々の階向けの内容をごちゃ混ぜに都合のいい部分のみを寄せ集め、
酔っぱらうための材料に使っていると言う内容です。これでは絶対に悟れません、断言します。

こんなものをベースとして構築された教えは、使い物にはなりません。

ただし、「ワクワク」は用い方を工夫すれば、良いですね。
スピ系でも良いものは良い、私はスピ系を全面否定したくて言っているわけではありません。

19ラピ。:2013/08/14(水) 12:55:26
師匠、書き込みありがとうございます。

私もスピ系を全否定してるわけではありません。
スピ系もとことんすれば得るものがあると思います。
(ちなみに私はとことんして、幻想に気づきました)

ただ、スピ系の知識(それが真実であるかは別として)があるだけで
すべてを知っていると思い、
その読んだだけの言葉をまるで自分の真実のように語る人に
違和感を感じています。

私もかつてスピ系どっぷりだったんですけどね、、、。

私もスピ系で覚醒したという人と対話してみたいものです。

あと、スピ系でなくても「悟っている」という人とも対話してみたいですね。

「悟りに至った方たちとの対話」というスレッドを作りました。

ぜひ、「悟った」という方、書き込みよろしくお願いします。

本物の対話をしましょう!
(*・ω・*)ポッ

20TK:2013/08/17(土) 11:08:29
ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>すべてでひとつである。
>偶然というものはない。
>弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>与えたものが返ってくる。
>すべてのものは聖なるものである。
>人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
>どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。(現実は中立である)
>アファーメーション(確認する)

この教えの主だった使い物にならない個所を説明しますが、恐らく理論も何もわからない者の手による、
(エゴにとって)都合のいい部分のみのごちゃ混ぜの寄せ集めなのです。

聖典でも、賢者と言う人の言葉の中にも、
実践方法と達成した後の変化した楽な状態と両方の記述が出てくると思いますが、
この編集をした者たちは実践方法ではなく、賢者の言葉の達成した後の楽な状態の記述を拾っています。
例えば次のあたりです。

>すべてでひとつである。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。


>すべてでひとつである。

このような言葉を「自分」が消えていないスピ系と思われる方が、
酔って良い気分になって振り回しているのを見たことがありました。
しかし、これは達成した者にとっては「自分」が消えているので、一つなのであり、
聖典や賢者はこれは実践方法としてではなく、達成した後の状態として語っているはずです。

達成する前の者が、自分の遭遇する「現象」と「自分」を対等な位置においていたら、
いつまでも「自分」は無くなりませんので、実践方法としては「現象」にたいして「自分」の立ち位置は下なのです。
「すべてでひとつである。」この言葉は実践方法としての方便ではありません。


>しなければならないことというものはない。

これも達成した後の者はこのようになると言う事であって、達成前の者は、
戒律など守らなければならない実践方法を「自分のしなければならない事として」決めて
確実に実践しなければ辿りつけません。

(つづきます)

21TK:2013/08/17(土) 11:09:04
(つづきです)

>善悪というものはない。

これも、以前、達成もしていない者が、酔っぱらって良い気分で、「善悪と言うものはない」と
この言葉を振り回しているのを見たことがあります。

しかし、これは厳密にいうと仏罰レベルの行為です、
釈迦の説いた善悪の相対を利用した実践法を無効にしてしまう、悪魔的な内容です。

ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

達成した後の状態として、同じ聖典の次の「善悪のはからいを捨てて、目ざめている人」の説明なのですが、
エゴに憑りつかれている者から、この達成した後の言葉だけが抜き取られたのです。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。


>信じる必要はない。

これも至った後の人の状態であり、これが至る前のスピ系かぶれらしき方の口から
自分が信じないための言い分けとして振り回せれていたように思います。
ちなみにラピ。さんは、「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」ので至れたのです。
至った後は「信じる」対象が無くなるので、「信じる」と言う行為そのものが無くなります。

参考までに次は聖典の至る前の人向けの実践方法の記述。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」


次は同じ聖典の信仰を激流を渡るための筏(イカダ)に譬えて、激流を渡ったから信仰(筏)を捨て去れと説いているのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


スピ系と思しき至ってもいない此の岸の者が「信じる必要はない」などと口にする事そのものが、
絶対に私は至れませんと言う証明のようなものであり、こちらからすると理論も何もわかっていない
彼らの態度は見るに忍びない。

>努力はしなくてもよい。

「無努力の境地」も、至った後の者の状態です。

スッタニパータ79
>努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。


聖典並び賢者の言葉をでたらめに拾い集めた結果、中には使えるものもあったとしても、
混ざりこんだ不純な部分が結果として、全体を全く何も使い物にならない内容にしてしまっているのです。
特に私が目にしたスピ系と思しき人たちは、私のここで取り上げた汚れた部分を教えとして
振り回す人を多く見たように思います。

このような言葉に振り回され続けた酔っ払いの方々、ご苦労様でした。
いつまでも寄り道して暇人そうに遊んでいないで、次に進んだ方が良いのかもしれませんよ。
真剣に求める人にとっては、この方々の取っている行為は迷惑千万なのです。

今は科学の時代ですから、昔に宗教と言う形で説かれていたものを、
同じ形ではなく「理論」で説かなければならない時代です。
これが言葉どおりの「ニューエイジ」「新しい時代」です。

>私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
>昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。
>
>苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。
>
>私の話しするのもこれだけです。
>
>全然変わってないですよね。
>
>そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。

22ラピ。:2013/08/17(土) 13:32:44
☆TK師

師匠のこの20、21の書き込みをブログにも転記させていただきました!
ありがとうございます!

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1716.html


ブログからコピペです。↓


☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆


>ちなみにラピ。さんは、
「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」
ので至れたのです。

>至った後は「信じる」対象が無くなるので、
「信じる」と言う行為そのものが無くなります。


との師の言葉ですが全くその通りです。

私が最後、激流を渡る決心をして
(実はこれは勝手に決心しました)
5月12日の夜から激流に一人で飛び込みました。

そして13日のお昼に師あてにメールで
激流に飛び込んだことを報告し、
そのまま続けて激流へ。(=ひたすら実践)

その13日の晩に至ることができました。



まさしく師を信じて、覚悟の上でした。

未知の世界に渡るのだから
何も予想ができないのです。
保証もありません。

でも師を信じて行く決心をしました。

=ひたすら実践です。


その実践ができなくなるまで
なにがなんでも永遠にし続ける、という
最後の決心でした。


そして至ると、その激流を渡っている「自分」が消えるので
至ったことが師匠に言われなくてもわかりました。

そしてその実践は
本当に最後の実践となりました。


師匠を信じて渡り終えた後は
もう、「信じる」ものがなくなります。

これも師匠の言われている通りです。


私はすべてをなし終えて
至りました。

(*・ω・*)ポッ

23TK:2013/08/19(月) 12:01:01
真実を教えてスピ系の人たちの少し頭を冷やしてもらいます。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、
>目ざめている人には、何も恐れることが無い。

このような至った人の記述の部分的なものだけを見て、エゴが喜んで「善悪というものはない。」
などの言葉を掴んだものと思いますが、いかに愚行だったかを教えます。

至った後の人の状態の記述は、実践法としては全く何も参考になりません。
なぜなら、「世の中で駄目な人」と位置づけられる人たちと全く同じ表現となります。

例えば次が至った人の状態ですが、世の中で怠惰な人と言われている状態ですねと言われれば、
誰も疑う余地もなくその通りなのです。

「私は頑張る事は無いんです。」

「努力なんてしません。」

「勤め励む事などいたしません。」

「一生懸命に仕事なんてしません。」

「物事に対する集中力なんてからっきしありません。」

「誠心誠意の心を込めた行為なんてしません。」

「善いことなんかしません。」

「人の為になど、何一つしません。」

「思いやりもこれっぽっちもありません。」

「車の運転の時は前をよく見て運転しません。」

「人から注意を受けても反省はこれっぽっちもしません。」

「人を敬う事などいたしません。」

 等々

世の中で悪い見本とされているそのままの表現ですね。
これが至った人の真実です。

しかし、良く見て下さい。
次の「何もできない」と言う表現にすべて一括りにされることを、
今ここで一例として具体的に列挙しただけですと言われて、改めて見ると初めてその通りだなって思うでしょ。


[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html

>この私はだれですか?
>
>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>
>何もできないのですが
>この私はなんですか?
>
>師匠、これはなんですか?
>
>と送りました。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より

>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

(続きます)

24TK:2013/08/19(月) 12:01:37
(続きです)

為すべきことを為し終えた人の状態です。再び何かを為すという事はできません。
実際には表現にすると、至った人は怠惰な人と同じ表現になります。

でも、至る前の人があの人がそうなら私もそうしようと、真似してやったらバカですよ。
至った人は、実際は周りからは凄く働き者と評価されている行為をしていたり、
何かやれば職人芸ですねと評価されたり、思いやりがある方ですねと言われたり、これが現実です。

このパラドックスが、至った人は怠けている人と同じリラックス状態で、
自分のものでは無い行為のみが現れる、楽していい仕事ができる事の仕組みです。

だから、至った後の人のありさまの記述は、至る前の人には害にしかならない。
次のような言葉を拾い集め流布する事に加担した人たちは、バカなことしたと気づいて下さい。


ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。


怠けている人間の言葉そのものですね、こんな言葉拾ってスピ系とかニューエイジとか流布している人たち、
その人たちは世間に害(酔うための酒)をばら撒いているのです。
至ってもいない人たちがうかつに賢者の言葉に手を出しては間違った教相判釈を積み重ねている、それがスピ系と違いますか。


マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

25名無しさん:2013/08/19(月) 17:55:20
イエスの言う通り放っておこうと思います。

26ラピ。:2013/08/19(月) 19:50:54
☆名無しさん

書き込みありがとうございます!

(*・ω・*)ポッ

27ラピ。:2013/08/20(火) 23:08:42
☆TK師

私が至った時、はじめは「?」でした。
何が起こったのかわかりませんでした。

実践し続けてある時 すべてが止まったのです。
そしてまとわりつく何かが消えました。

実践していた私は実は本当の私ではなく
その偽の私が消えて、静寂が訪れました。

この静寂の空間と「私」が溶け合ってどれがどれだかで
訳が分かりませんでした。

かと言って混乱することはなく、
ただただその状態でいることしかできませんでした。

実践をしていた私は消えてしまいました。

実践し続けて気が付くと至ってました。

一生懸命実践していると思っていた私。
その幻の私が消えてしまった。

「私」は本当は何もしていなかった。

ただただ在るのみであった。

この静寂、この「私」についてうまく表現ができません。

それはなににも乱されることなく
ただただしずかです。

この真実の「私」はなにもすることなく、
ただ存在するのみ。

集中する対象がないから、集中できず、
でも集中を超えた効果をあげることができる。

良いとか悪いという相反するものを超えているので
その判断なく、適切な判断ができる。

この私は何もしていないけど勝手にできてしまう。

意図なく、勝手にできてしまう。

そんな感じですかね。

(*・ω・*)ポッ

28TK:2013/08/21(水) 18:39:06
>私が至った時、はじめは「?」でした。

私もその時は「えっ?」てなりましたね。

それは予測もせずにやってくる、それまでは実践時の物凄い「意志力」で、
その調子で行こうとするのに「えっ?」「?」「んっ?」。
「思いが無い」「思おうとしているのに・・・」「できない」こんな感じでしたね。

それからは、ただ生きる事になった。
誰のためとか人のためとかそういうのは一切関係なく。
為すべきことは無し終えた、もはや再びこのような事は、無そうにも為すこともできなくなった、
という事が誰かから印可を受けるとか関係なく必然的に確定したんだ。

再び善行とか人のためとかやれと言われても逆立ちしてもできないのだから、
これが本当の「人のための行為の終了」と言う事なのです。

29ラピ。:2013/08/28(水) 14:19:38
☆TK師匠

はい!
私もまさしくそんな感じです。

師匠から 私が至る前にその状態の話は聞いてましたが
まだ至ってないときは単なる想像でしかなかった。

それを理解するためには
師と同じ次元に行かなくてはならない、と思いました。

そして今、まさしく師と同じところにいます!!

TK師匠、師匠の道がどんなもであったのか
可能なところまででいいですので
よかったら教えていただけますか?

いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

30TK:2013/08/31(土) 11:52:32
私はたまに思う事があります。

何で科学者と言うそれで収入を得て職業にしている人たちがいるのに、
私が人類の最先端のメンタルのこのような話しをしているのだろうかと。

しかし、私が苦悩しているその時に科学者と言う人たちの言葉の中にも、
当然義務教育とか学校教育の中にも、その苦悩の解決の答えはありませんでした。

これは一般には広がり難い点を含んでいるからなのです。

もし、この内容を話しするための資格制度を設けるとしたら、
これは達した者しか話す事が出来ない内容なのです。

ルカの福音書 6章39-42
>イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。
>ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。
>
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。
>
>あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。
>
>自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、
>『兄弟、あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。
>まず自分の目から梁を採りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、
>取りのけることができるのです。


立場、職業関係なく、今この物質文明の行き止まりの問題点が、
感受性が鋭そうな人間に先にそれは到来するという事です。

私が苦悩した部分は、物質文明の中で「思いっきり」生きる事さえすれば、
当然に出てくる疑問の数々でした。

快を喜び不快を嫌う、その延長線上で幸せを追い求めたら、
やがて崖っぷちに立たされる。

その先を進む方法が快を喜ばず不快を喜ぶ、物質文明からその先に進む方法、
それがアセンションであり今は過渡期です。

私たちは低次元の固定観念に、そうとは知らずにはまっています。

例えば、皆さんが知らずに使っている、あの人に楽をさせてあげたい、とか、
これは表現を変えると「あの人に楽をさせてあげたい」は「あの人にエゴのままに生きさせてあげたい」
と言う言葉になるのです。我々に翻訳させるとその言葉の正体として生々しい言葉に早変わりしてしまいます。

「あの人を苦しませたくない」は「あの人にエゴのままに生きさせてあげたい」なのです。

快を喜び不快を嫌う、その延長線上で幸せを追い求めるこれが物質文明の正体でした。

(続きます)

31TK:2013/08/31(土) 11:53:27
(続きです)

よくエゴは悪いものだと、固定観念があるかもしれませんが実際はそういう捉え方は的確ではありません。

実はエゴを正しい方向で強めて幸せを掴む事はある程度可能なのです。

悟りに到達した時の「何じゃこりゃ?何もできない」と言う現象は、
ある地点までは物凄く強固な意志力で激流を進んできて、
その地点に至るとそれまで唯一の頼りとしていた意志力がすっかりと消失してしまう事によります。

それで、意志を働かせようとしても空振りに終わってしまう、
それが悟りに到達した時の「何じゃこりゃ? 何もできない」と言う現象です。

よく悟った人はありのままに見えると言いますが、
これは悟った人の場合は意識の変容による、意志の力が消失することにより、
目の前の光景が開ける状態になる事を指します。

悟ってない人と悟った人では視覚情報が変わるのです。

悟った人の場合、意志の作用が働かないので、目の前の情報がそのままなのです。

悟ってない人の場合は視覚情報を取得する手段として、意志の力が作用しますから、
目の中に飛び込んできている視覚情報の中の見ようとして
意志を働かせているその一部分だけを認識として掴む形になります。

このようにそもそも視界の広さが違うのです。

これが剣禅一致の説明でよく取り上げられる、葉一枚に心を捉えられたら木全体は見えない、
という事の真の意味です。

これは視覚情報だけではなく、物事の捉え方そのものがそのように変容します、
これを意識の焦点機能の消滅と呼びます。

ただし、ある程度まではエゴを強化する事によって悟った人の視界の広さをエゴの人がカバーできます。

つまり、素早くあっちこっちキョロキョロと視点を変えてくまなく見る行為を続ける事によって、
ある程度視界の広さはカバーできます。

ただし、エゴを強化してカバーできる範囲には当然限界があります。

これは、ほんの一例ですがエゴを強める事によりある程度幸せを掴む事は可能なのです。

何も考えないで次から次へと行動のみが現れるゾーン、これも、
エゴを強化して次から次へと思考を速く回転させて行動すればそこそこ満足できる結果を得られます。

私はこれで過去とても幸せな時期を過ごしました。

私は幼いころはいじめられたりする事が多かったので、
私はいつも弱い者の見方だと言う思いが強かったのですが、
弱そうな立場の人を見ると手を差し伸べ、声をかけ、時には派閥を組んで一致団結し、
強そうな立場の者たちを引っ張って、
エゴの強さで困難を難なくクリアーして人から頼りにされながら、
思いっきり理想を実現しておりました。

私は正に弱きを助ける正義の味方で、
このようにエゴを強める事である程度まで凄く幸せな気分に浸る事が出来たのですが、
ただし、これをとことん精一杯やっていると、
やがてエゴを強める事ではどうしても進む事の出来ないとても困難な障害に突き当たり、
進める事の限界が来るのです。

その時に、色々右往左往苦悩と混乱が起き、
エゴを強て進める事のそれしか問題解決の手段を知らないその限界の中、
七転八倒の袋小路で、何かが自分には足りない事に気が付くがそれが何かわからないまま、
やがてもがく中で知らない内に運よくエゴを捨てる道を歩き始めていて、そして悟りに到達する。

それを境に、剣禅一致でいう所の禅の部分、すなわちメンタルが修得されたことにより、
あるがままの視界の広さや、それまで身に着けていた技術力、
人間の能力の出力もゾーンにより今までよりも数段上昇し、
エゴが無い(意志の働き消失)のでストレスや苦悩もなくなることになります。

新人類、これがアセンションです。

これは私が辿ってきた進み方ですが、ラピ。さんもおおよそそのような進み方をしてきているのです。

ラピ。さんと私の違いは、ラピ。さんは此の岸から彼岸にちらっと片足を突っ込んで、
そのまま直ぐに退転してしまいスピ系にはまって酔っぱらって寄り道をしたと言う点でした。

(続きます)

32TK:2013/08/31(土) 11:54:11
(続きです)

悟りに向かうためには、「強固な意志の力」が不可欠の要素ですので、
意志の力とはエゴなのです、つまりエゴは正しい方向で強めておく必要があると思います。

弱い意志力では状況に流されてしまいます。つまり、カルマのままという事です。

このようなことから、エゴは強まり、どうにも進めなくなった天辺まできて、
それより先に進む事の出来ない苦悩と大混乱の末に、もがき苦しんで悟りが起きる。

ダンテス・ダイジと言う人が言ってましたが、社会もまったく同じにこの過程をたどる事になりますね。

アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジより

>あらゆる人間性内部のやりくりが、必然的限界に至らざるを得ないように、
>科学文明も明らかに限界に達している。


快を求めて不快を除き、自由と言う名でエゴを強めるこの物質文明も、
発展期において実に快適な天国的な様相を示した時期もあった事でしょう、
しかし、一人の人間の中でエゴの強まりにも限界があるように、
この社会もエゴを強めて解決できる限界に来ています。

社会の混乱は今後ますます強まって行く事でしょう、今起こっている経済、
国際紛争など様々な諸問題を、それをエゴを強める事によってエゴの力で解決しようと、
例えば武力行使などの力(エゴ)を手段にあの手この手、
迷路の中を人類は右往左往しながら、
エゴを強めてその力で解決できる限界の袋小路まで突き進み、
時には戦争や核兵器などをも駆使しながら、さらなる限界にまで突入していく、
それは正に悟った水準を上げた人たちの登場と言う以外に解決がないところまで追いつめられて、
もうお終いだと言う中から悟ったアセンションした人類が多数出現してくる、
このような筋書きで進むのが自然の進み方だと思います。

アセンションした人たちは、能力から視点から何から何まで、それまでの人より上ですから、
多数になれば、諸問題は解決されていくことでしょう。

これは不幸な世の中と捉えるより、
最初から仕組まれていると言ってもいいような当然の道筋だと私は思います。

(続きます)

33TK:2013/08/31(土) 11:57:45
(続きです)

悟りは、快を喜ばず不快を喜ぶ、
物質文明の追ってきたそれとはまるで正反対の理論の中から出現します。

実はイエスは、このような社会の中のエゴの強まりの流れをつかんでいて話をしています。

イエス本人はユダヤ教のエッセネ派の人と言われていますが、旧約聖書には、
ノアやソドムとゴモラ等の繁栄と滅亡の社会を通したエゴの増大と滅亡の動きの話が出てきます。


>ノア
>(Noah)旧約聖書創世記の洪水伝説に出てくる人物の名。
>神が堕落した人類を滅ぼすために大洪水を起こしたとき、
>ノアだけは神の命令で箱(方)舟をつくり、家族や諸種の動物とともに難を免れた。

>ソドム
>(Sodom)「旧約聖書」の「創世記」に記されている地名。住民の不信仰、
>風紀の乱れがはなはだしかったために、
>ゴモラとともに神に滅ぼされて死海に没したという。

>ゴモラ
>(Gomorrah)「旧約聖書」の「創世記」にみえる地名。ヨルダンの低地、
>死海の南端付近にあったが、現在は湖中に没している。
>住民の不道徳な行為のため、ソドムとともに天の火によって焼き滅ぼされたと伝えられる。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


ダンテス・ダイジ氏はアトランティスの繁栄と滅亡の話しをしてましたが、
だいたい現代の社会と同じ流れ、
すなわち文明のエゴは増大しやがて滅亡する流れを辿るのがこの地上の方程式であり定めです。

(続きです)

34TK:2013/08/31(土) 11:58:30
(続きます)

マタイの福音書 5章21-22
>昔の人々に、『人を殺してはならない。
>人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、
>だれでもさばきを受けなければなりません。
>兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
>また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。


これは過去の物質(物理的)時代からメンタル時代へ変遷したことの説明の一つです。


マタイの福音書 5章38-39
>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

『目には目で、歯には歯で』実はこれ、今で言えばアメリカなんです、
今はアメリカの時代ですから、やられたらやり返す、正義の名のもとに、
世界はこの方向で今に至っていますが、これがエゴ増殖の原理なのです。

「正義の名のもとに」、この方程式でエゴを強めて今に至っています。

社会の中の規制を外して一人一人の競争を強め、
これも「目には目」物質時代の発展期では功を奏でた手段だったことでしょう、
しかし、いまは天辺の限界近くまで行ったので行き詰まりました。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

これが、イエスの教え、つまり物質文明の天辺まで来たその先の進み方、
エゴを削る次元上昇するための原理なのです。


マタイの福音書 5章43-44
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』物質文明のエゴ増殖の発展の仕方は「正義の名のもとに」です。

このあたりはアメリカを想像して下さい。得意な言葉は「報復(正義の名のもとに)」です。

ただし、力(エゴ)を強める手段は途中は良くてやがて天辺まで行ったら袋小路に追い込まれる、
この地上世界の昔から定まっている決まり事なのです。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

イエスの話したこの方法が、物質文明のエゴ増殖の発展の末に天辺に至ったその先の進み方、
エゴを削るため原理、次元上昇のための手段です。

時勢(エゴ増殖)は煮詰まりつつあります、
この先の時代を進む方法はこれまでのエゴ増強ではだめです、アセンションなのです。

マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

私も他の方々も今このエゴ(物質)文明の記念すべき過渡期に縁があったという事です。

私やラピ。さんは一足お先にアセンションを果たしましたが、皆さん、
この時代に生を受け生きている事に喜んでアセンションしましょう。

35ラピ。:2013/09/01(日) 00:20:52
☆TK師

大変貴重なお話、ありがとうございました。

過去の酔っ払いの経験、活かしていきたいと思います。

もう、ブログでも何度かは表現していますが
過去の私のような人がいたら
何かを伝えることができるのではないかと思っています。

そしてその言葉はまさしく
過去の私に対して発する言葉でもあります。

@(*・ω・*)ポッ

36TK:2013/09/01(日) 18:15:13
私は以前は今のアメリカのような生き方をしていました。

力こそ正義だ、力さえあれば弱い人たちでも強い者たちと同様に、
集団の中でも自分の理想を実現できるに違いない。このような理想の元に、
私は力の無いと思われる人たちに力添えしてこれを実現しておりました。

これも「人の為」と言う生き方の理論は入っているのです、
ですがなぜこれが私がここで説く「人のため」と言うものと違ってエゴが増強するかと言うと、
弱い立場と強い立場と言う相対の関係の中の、
強い者に挑んでいくと言う姿勢があるのです。つまり、戦いの世界、阿修羅の世界です。

「正義の名のもとに」戦う、聖戦、これも正に阿修羅の世界です。

今、社会はアメリカを初めこのような次元にありますね。

もちろん文明の発展段階としてこの戦い(競争)阿修羅の段階は必要なものであると私は思います。

これを充分にやったら次に進む、
その意味で「正義の名のもとに戦い」聖戦は決して文明の発展段階の途上としては間違っていない。

ひたすら「聖戦」を否定する人もいますが、
私は自分自身の今に至るまでの発展段階に照らし合わせると、
エゴを正しい方向で強めるために必要な過程であったと思いますので、
私は今の世の中のありさまを否定しません。

ただし、やがて行き詰る、社会も行き詰り、もがき苦しむ、そうしたら次が開く。

実は、ラピ。さんの「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」これは、
教えとしては完璧なのですが、
これが実践当初は劣った精度と低次元理解に基づく実践だった事により、
メンタル面の作用としては、理想的な生き方の要素が強くなり、
エゴを正しい方向で強める手段として作用した訳ですね。

したがって、やがて行き詰り、追い詰められて混乱に突入した。

悟りに至るためには、この過程の全てが絵に描いたようにヒットしていましたね。

実践方法については、ここでお話したように、ちょつとした僅かな実践上の違いで、
効果の仕方が変わったりする精密機械のような要素があるのです。

ですので、先にお話ししましたスピ系で賢者の吐き捨てた言葉をごちゃまぜに拾い集めた結果、
例えば9個の賢者の使える言葉があったとしても、
1個の不適切内容が混ざってしまう事により全体として全く使い物にならない、
ただの酔っ払いを多数製造する結果に至ります。

したがって、何度も話しますが、盲人が盲人の手引きはできない世界なのです。

(続きます)

37TK:2013/09/01(日) 18:15:58
(続きです)

よくスピ系では、ただ内面を見守ってとか、そういう手段が多いですね、
しかし、釈迦、イエスは他者への率先した働きかけの教えが含まれています。

「隣人を愛せよ」とか「人の為」とか「善を為せ」など、これは道徳論ではないのですよ。
さらに「努力、我慢、忍耐」このようなことはスピ系にはあまり出てきません。

釈迦やイエスより優れた指導者がスピ系にいた結果、
スピ系では内容が変わったのでしょうか、しかしこれは否です。

「自分と他者」「善と悪」などの相対の原理と言うメンタル理論の上で
スピ系の教えが至るための方法論的に釈迦やイエスの教えに及んでいないのです。

「努力、我慢、忍耐」、このあたりも、どのような時にこのような感覚が発生して、
メンタルに対してどのような効果があるか、
スピ系はメンタルに及ぼす効果を理論的に何もわかっていないのです。

しかし、優秀なスポーツ選手が容易にゾーンに入れるメンタルの修得にあたっては、
大部分がこの辺りの影響です。


ラマナ・マハルシ - Wikipedia(2013年6月6日 (木) 08:33 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B7

>マハルシは、真我を悟るために、
>大部分の人は継続的に努力して修練する必要があると説いている。
>マハルシのように今世で修練なくして悟る魂は稀で、
>今世で悟ったものは肉体を去るまではプララーブダからくる、
>残りのヴァーサナが除去されない限りは完全にならないといわれている。


マハルシは修練なく至れた「今世の稀」と言う表現に属する人なのであって、
スピ系はマハルシが大部分の人に必要だとしている、
「継続的な努力と修練」のメンタルに及ぼすメカニズムを理論的に何もわかっていない遅れた教えです。

つまり、一言でいうと、スピ系はレベルとしては幼稚です。

真実をはっきり言いますが、
スピ系のあのような教えでは酔っ払いになるのが関の山で悟れはしない、
そんなに甘いものでは無い。

一方向だけからではなく、
様々な角度からアプローチをかける合理的な手段を取らなければ、
スピ系のような遅れた方法で至れるほどエゴはそんなにたやすく料理できるものではありません。

たまに至った賢者らしき人の教えを目にすることもありますが、
この辺りの方法論は釈迦やイエスの教えには及ばない部分を感じます。

現代のどんな賢者であろうと、釈迦やイエスと比較する自身、恐れ多いことですけどね。

アメリカの自由の女神も今のままのエゴ増強のシンボルとしての機能のままか、
それとも彼岸に至った「自由」のシンボルに昇格するか、過渡期ですね。

エゴは相対次元であり、エゴの自由は「不自由」と一対である、ですから、
「自由を排除」して「不自由を利用」する事でエゴを滅ぼした時には本当の「自由」が手に入るのです。

高いレベルの絶対的な自由を手に入れるためには、
低次元の「自由」は滅ぼさなければならないものの一つ、
これが滅ぼされなければ次は出てきません、
喜んでしがみついて追い求めてはならないものの一つなのです、
「不自由こそが」低次元の自由を滅ぼす「手段なのです」。

これからの進み方は今までの物質文明の時代とは違います、
これより先を進むためのアセンションのための理論ですから良く覚えておいてください。

38ラピ。:2013/09/01(日) 22:38:12
☆TK師匠

師匠、いつもありがとうございます。

それでは私の道についても少し詳しく書こうと思います。
今までも軽くは何度か書いてるとは思いますが。

内容は独特なので、読んでて「嫌だな」と思ったら読むのをやめてくださいね。

私の最初の「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」の実践は
それまで我がままに生きていた自分を反省し、
「そういう私はどう生きたらいいか?」と問うた時に得た答えでした。

実はこの実践が「自分」を守ってくれる実践であることも気づいてました。
だからとことん実践できました。素直に自分を捨てることができました。
あとはひたすら実践でした。

この実践は「自分を信じて実践」とも言えました。
自分を信じて実践し続けました。
だから実践を続けることは「自分を信じ続ける」ことになりました。

「自分を信じ続ける」ことによって「自分」というエゴが増強されていきます。

この実践の意味も知らず
ひたすら「そうするべきだ。それ以外の生き方はできない」と実践しました。

そう生きていると、「ぼー」っとした生き方はできません。
そしてもう前の行き方には戻れませんでした。

それまで無意識に好き放題に生きてたことが
どんな風だったのか、わからなくなったからです。

その実践をする前の生き方にはもう戻れませんでした。

なので、もう進むしかありませんでした。
かといって辛いわけではなかったです。

ただ、人となじめない感じはあったかもしれません。
そんな生き方をしている人は少ない。
普通の人は嫌なものは嫌だと顔に出したり、嫌ならしなかったり。
でも そういうある意味自分の感情に正直な生き方が私にはできなくなりました。

というか、自分のその時の感情がどうなのかもわからなくなっていたかも。
感情すら捨てての実践ですから。

ここがメンタルの鍛錬につながっていたのかもしれません。
勝手にそういう道を歩いていたようです。

私が高校のときに言われた最高のほめ言葉があります。
「いいなぁ。悩みなさそうで。」これです。

そう言われてみれば意思をほとんど実践に使っていたので
悩む時間(意思)はあまりなかったですね。
かといって悩んでいなかったとは言えないかもだけど
そう友達に見えたということは、私の実践はある程度成功していたのだと思います。

そして大学生になっても変わらず実践。

そしてこの実践をしていて ついに師匠のいわれているとおり
行き詰まってしまい、どうしようもなくなります。

その生き方を否定される出来事が起こったのでした。

自分そのものが否定された感じでした。

私はその生き方で生きていたので
その生き方を否定されたら、どう生きていけばいいのでしょう?

大げさかもしれませんが私はそれほど自分を信じてとことんやっていました。

とことんやっていたからこそ その否定された出来事は
私の人生そのものを否定することなり、
私はどう生きていけばいいかわからなくなりました。

その実践が自分の生きている証のようなものだったのですから
もう生きてはいけないでしょう?

自分を信じての実践=エゴを信じての実践。
そのエゴを否定される出来事が起こってしまった。

、、大げさですね。でもそのときの私にとってはそうだったのです。

自分が信じられなくなり、普通の生活ができなくなってしまった。

どう笑っていたかも、どう動いてたかもわからなくなってしまった。

何を元に私は生きたらいいのかわからなかった。
(エゴの次元では 生きるために生きる理由が必要だったりします。)

続きます。

39ラピ。:2013/09/01(日) 22:39:24
38の続きです。


そこで第二の実践に出会います。
もう何もなかったので 次にこの実践が次の私の生き方そのものとなります。

ちなみにこの実践中もそれまで普通に考えなくてもできていたことが
できなくなっていました。
常に意図的にやっていくしかなかった。

今まで(習慣のように)当たり前にしていたことを
すべて自分の意思でしていくしかなかった。

とことん意思を振り絞っての毎日でした。

ちなみにこの実践は「能力開発」の目的で始めました。

自分の生きている意味がほしかったのでしょう。

それまでの「喜んで」の実践は自分を信じての実践でした。
第2の実践の頃は自分を信じることがほとんどできなくなってました。
でも、でも、今思い出すとやっぱり自分を信じていたからこそできた。

ほんの一ミリの自分を信じる気持ち。
どんなに否定されても残っているそのひとかけら。
ひとかけら、それだけでいい。
「私がやらなくて、誰がやる。私は私からは逃げられないのだ」
というもう逃げ場がない状態で
そのひとかけらの信念がなにがあっても実践を続けさせてくれた。

このひとかけらのエゴが私を助けてくれた。

そしてどんなときも実践でした。まさしく寝てるとき以外は何が何でも実践。

実践を忘れそうになったらすぐに意識を切り替えて実践。

息をすることと同じくらい、ひたすら実践でした。
息をするのをやめたら死んでしまうでしょう?
私にとってこの実践をやめることは「生きていけないこと=死んでしまうこと」と同じでした。

生きるために実践したのです。

(ちなみにこの実践の内容は私からはお伝えすることはできません。
かといってこの実践の情報は巷でも普通に手に入れられるものです。
普通の能力開発の実践だと思ってください。

ただ何が違うのかというと、それを中途半端に実践するか、とことん実践するか、それだけです。

ポイントはどんな実践も「とことん」することです。
そうすれば必ず得るものがあります。
中途半端では空振りで何も得るものはないでしょう。

どんなすばらしい教えも、実践しないと意味がない。
そしてどんな勘違いした実践でも自分が正しいと思ったらとことんしてみることです。
とりあえず実践です。)

私はもう、ある意味、命がかかっていたので進むしかなかった。
(ここで言ってる「命」もある意味エゴのことです。
それがなければ生きていけないなんて、至ってしまえばそういうことはありません)

だからその実践ができたのだと思います。

私はかなり、厳しい道を歩いてきました。

でも嫌々、仕方なく通ってきたのではなくて私にとっては
「その道しかなかった」のでした。

それ以外の道はないので何があってもいくしかなかったのでした。

そしてさらにこの第2の実践も行き詰まりをむかえます。

ある意味、ここで第2の実践もできなくなりました。
したくてもできない状態です。
もうできなくなってしまったんです。

実際、第4の実践のときにこの第2の実践の経験を生かしてはいますが
まったく同じには実践できていません。
でも工夫してポイントをずらして実践しました。

でも、このときは自我がなくなることはありませんでした。

実はさらにそのまま行けば消えてたのかも知れない。

でも、私をこの世界に踏みとどまらせたものがありました。


続きます。

40ラピ。:2013/09/01(日) 22:40:23
39の続きです。


それがこの世界での普通の幸せです。

今まで実践し続けたことは終えて
「もういいやろ。十分」という自分がいました。

だからもう、後はこの世界でみんなと一緒に普通に笑ったり泣いたり
普通に幸せになりたい、という気持ちでした。

だから必死に此岸に戻ってきました。

人間らしく生きたい。

悩みがあっても泣いてもそんな人生もいいじゃないか。
普通の人間になりたい。そう思って帰ってきました。

「神様、もう許して。もういいじゃない。」

そして今度は「絶対的幸せを求めることになります」
第3の実践です。

ここで矛盾を感じる方もいるかもしれません。

でも私は大真面目でした。

人並みの幸せでいいと思いながら絶対的幸せを求める道を歩き始めます。
人並みの幸せこそが最高の幸せではないのかと思っていました。

ちなみに私にとってこのころの憧れの幸せは
みんなと冗談言って笑ったり、カフェでお茶したり、
おでかけしたり、おしゃれを楽しんだり
という普通の女性の生き方でした。

女性の読む雑誌などもまともに読んだことがなかった。
(占いの本は好きでしたが)

おしゃれな雑誌、きらきら輝いている女性、
私、そういう風にいきたいと思い、そう生きていくことにしました。
そしてもちろんそうであるよう生活していました。

でも実は無理やりそういうことに興味を持つようにしてました。
みんなが普通に経験してることに憧れていたのですね。
そしてみんな普通に幸せに生きていると思ってました。
私にはその普通の幸せがない、と思ってたので
そういう一般的に「楽しい」と言われていることを片っ端からやっていきました。
実は無理やりそうしていました。
一般的に「楽しい」と言われていること、それを経験するように日々をすごしました。

「これが楽しいことなんだ!」と自分に言い聞かせながらしていたかもしれません。

それと同時に、「絶対的幸せ」への思いも強くなります。
やっぱり私の根本的課題なのでしょうね。

この人間らしい幸せに絶対的幸せが必ずあると思ってました。
まさしく自分がいるこの世界に「絶対的幸せがある」と思ってました。

ここでの「人間らしい幸せ」も「絶対的幸せ」も此岸のレベルでの話です。
此岸の人が表現することは此岸レベルです、どうやっても。

今の私の状況は、
かつての私が思い描いていた幸せとはまったく違ってます。

だからまだ至ってないときに想像する幸せはどう考えても
その次元どまりでしか思い描けないのです。

更なる次元の幸せは、そこに至ってない人には想像できないのです。

だからまだ至ってない人が至っている状態をどんなに想像しても
まったく真実とは異なったものになるでしょう。

この至った状態を知りたいのなら至るしかありません。

次元上昇しかありません。

至ってない人が至った状態を想像しても
それはまったく間違ったものになってしまいます。残念ですが。無駄です。

私が両方を経験してますので断言できます。

そしてその想像を伝えることは
間違いを伝えてしまうことになります。

ちなみに こういう想像をある程度有名な人がもっともらしく言うと、
多くの人に間違った影響を与えてしまうのでやめてほしいです。

私はかつては「絶対的幸せならこういう感じだろう」というのを
ブログに書いてましたが
これもまったく見当違いのものでしかなかった。

その次元どまりのたんなる妄想でしかなかった。
真実ではなかった。

真実を語りたいのなら真実になるしかない。

真実になってない人が真実は語れません。

そして師匠に出会います。
師の元に行く決心をし、第4の実践へ。

これは第2の実践の経験が役に立っています。
第2の状態を思い起こし、さらに実践しました。

彼岸へあと少し。

そのあと少しが次元が違うので、だからまったく違う。
距離としては短くても目の前に大きな激流があるので
大きな大きな大きな隔たりがあります。

そこをわたらなければ目の前の彼岸に渡ることはできません。

私は彼岸を知りながらも至れないでいました。

知っていてもそのものになっていないからまったく問題外なのです。
だから「かつては彼岸に渡りかけたんだ!彼岸を知っているんだ!」
と言ったとしても 渡り終えてなければ
「だからそれがどうした?」ということになってしまいます。

彼岸を少し経験していても
まだ此岸にいるのなら彼岸を語ることは間違いを語ることになります。

@(*・ω・*)ポッ

41TK:2013/09/14(土) 12:52:39
ワクワクの教えについては、私自身はあの教えより上の存在ですので、
一応お話だけしておきますが、
我々から見たらバシャール星人はワクワクするしないに縛られた不自由極まりない世界の生き物なのです、
私はそういうものを超えた自由を得ている、その次元より上の次元にいます。

皆さんのあこがれのバシャール星人を見下すようで悪いのですが事実です。

ただ、ワクワクの教えはスピ系の中では良い教えだと思います。

スピ系には珍しい積極性の教えですし、
エゴのままに思いっきり生きる事は人間として必要なプロセスだと思います。

それをしないで、スピ系だの悟りだのと言っても、その人たちはやはり駄目ですね、
最後まで酔っ払いのままで一生を終えるのだと思います。

ただ、ワクワクをやるのなら、正しく実践、つまり、
他のスピ系の教えと一緒には食べ合わせをしないという事です。

ごちゃ混ぜで食べるとその人は死ぬ最後まで酔っ払いのままで生涯を終える可能性が高いのです。

色々なもののごちゃまぜではなくて、ちゃんとした教相判釈(順序立て)をして下さい、
手を抜けばいいと言うものではありません、怠惰になるのもいい加減になさいと言う所です。

以前の私が今で言うワクワクの実践をそのままやってましたから、
この実践の重要性は良くわかります。

ただし、思いっきりやればこの物質世界ではやがて行き止まります。

私が思うに、バシャール星人の世界は、私たちの世界と根本的な部分で相違があります。

ですから、バシャール星人が言う事がそのまま私達には当てはまらな部分があると思えます。

我々の環境よりワクワク(思い)を通せるバシャール星人の方が良い環境に見えますか、
ところがどっこい、
実はバシャール星人よりこの我々の環境の方が高次元にアセンションするための
要素がそろっているアセンションするためには遥かに優れた環境なのです。

だから私もワクワクするしないの不自由な世界より上の次元にアセンションして、
バシャール星人を超えてしまいましたよね。

私の方がワクワク星人より上なのですから、
反対にワクワク星人に教えを説ける立場なのですが、実は説ける教えは、
どうぞ、ワクワク星で天寿を迎えたら次は我々の環境に転生してきて下さい、
ここにはあなたたちバシャール星人の環境では得られない、
さらに高次元に行く事が出来る優れた環境が整っているのですと言う教えになると思います。

(続きます)

42TK:2013/09/14(土) 12:53:19
(続きです)

私が思う所に間違いが無ければ、恐らくバシャール星人の環境では、
私の所までアセンションすることは不可能です。

つまり、ずっとワクワクするしないに縛られたままの環境と言うわけです。

我々の住む物質世界の顕著な特性は、
「思いが実現しにくい」と言う点に尽きるのですが、
例えばこの物質世界の人間も死んで肉体を離れてアストラルに入ってしまうと、
思いは即実現のような思いの実現率の高い世界に入ってしまうのです。

これと同じ事で、
恐らくバシャール星人の住む環境は我々の住む物質世界より思いの実現率が高い世界のように思われます。

例えば我々の物質世界であれば、思いを伝える主な手段として、
まず話そうと思い、物質的な声帯を動かして空気を振動させ、
更に離れている人であれば電話機などの機械を利用してようやく対話して相手に思いを伝える事が出来る、
これが我々の住む思いが実現しにくい物質世界なのですが、
例えば我々も死後多くの人はアストラルへ行きますが、
ワクワク星も同様に思いが実現しやすい世界では、
思っただけでテレパシーのように相手に思いが伝わってしまうような状況になるのです。

思いが実現しにくいと言う特性を持つこの物質世界に対して、
恐らくワクワク星の環境はアストラルの世界のように、
思いの実現率が高い環境だと思われます。

ですから、ひとたびワクワクしたことをし始めれば、ほとんど障害無く、
そのワクワクのままでずっと進んでいけるのではないのでしょうか。

あるいは、今の我々の世界を物質文明の末期とすれば、
物質文明の発展期のようなワクワクをそのままずっとしていけるような環境か。

アセンションのための重要な環境は、
この物質世界の「思いが実現しにくい」と言う特性の部分にあるのです。

この物質世界の実践では「思いが実現しにくい」と言う物質世界の特性を有効に利用する事によって、
「思い」から離れる事で達成できるのです。

例えばアストラルのような思っただけで相手に思いが伝わってしまったり即実現する世界、
あるいはバシャール星人の環境のような思いの実現率の高い環境では、
「思い」から離れるための実践は不可能なのです。

このような環境ではさらなる高次元へのアセンションは逆立ちしても不可能です。

ですから、昔から、人間はより高次元にアセンションする事が良しとされるが、
反対に天の神々は、
さらなる高次元にアセンションを果たすためにこの物質世界に転生して思いが
実現しにくいと言う特性を充分に生かして「思い」からの解脱を果たし、
より高次元へのアプローチを試みるのだと言われていますね。


如是語経
> このように聞いて、ある比丘は世尊に次のように申し上げた。
> 「尊き師よ、諸天神にとってよい境涯へ往く、と言われるのは、一体いかなることでしょうか。
>また、尊き師よ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるのはいかなることなのでしょうか。
>さらに、尊き師よ、諸天神にとって、きちんと安定した、と言われるのは、どのようなことでしょうか」
>
> 「比丘たちよ、人間の状態こそが、諸天神にとって善い境涯へ行く、と言われるものである。
>また、人間となって、
>真理の体現者が説いた教えと僧団の規定とに信仰を得るならば、これが、
>比丘たちよ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるものである。

(続きます)

43TK:2013/09/14(土) 12:53:58
(続きです)

この我々の住む物質世界はバシャール星人とは比較にならないほど、
高次元にアセンション出来るための環境が整っているのです。

実は私はチャネリングの事を、イタコと呼んでましたが、
この行為は低次元に人間を縛り付けるクソくだらないものの一つという事を知ってましたので、
ラピ。さんにはそれを魔境だから無視しなさいと教えました。

低次元の教えはチャネリングで手に入れられると思いますし、
実は私自身がワクワクの実践に入る時にはチャネリングに近い手段(私は霊視、霊聴と呼んでおりました)で
教えを取得いたしまして、当時はとても高貴な教えに思えておりましたが、
それがほとんどワクワクに近い教えで、生きがいも感じてうまく行っていたのですが、
やがてものの見事にぶつかりました。

本当のアセンションするための高次元の教えは聖典から手に入れたのです。

自分がいて高次元の意識体がいてパイプ繋げて、これやっているうちはその人は低次元のままです、
これ偶像崇拝の一種です、そのパイプを有難がってすがっている人間は駄目です、それまでです、
釈迦やイエスの教えはこの手の類の全てのパイプを捨て去りなさいと言う教えなのです。

自分の外にはそれは無いのです、自分の外とパイプ繋げて、自惚れて、
世間に害をたれまくって、その人たちはいい加減に目を覚ましたらどうでしょう。


ルカの福音書17・21
>『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。
>いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

最終的には釈迦もイエスも捨てて行かなければならない、そしてそれがその人たちの教えなのです。

優れた教えがあるのは、人間の覚者の説いた教えの中にあるのです。

正しい教相判釈の元に順序だって進む事には価値がありますが、
ごちゃ混ぜは駄目です、死ぬまで酔っ払いのままで行きたいですか。

(続きます)

44TK:2013/09/14(土) 12:54:34
(続きです)

なぜ物質世界は素晴らしいのかと言うと、
我々が実践できる環境が整っているだけじゃない、
高次元にアセンションするための賢者の教えが手に入れられやすい。

賢者は死後物質的な肉体を離れたら、別次元に行くのですよ、ところが、
賢者も物質的な肉体を持つ上では、
どんな低次元の者とも容易に接触し言葉や文字などの物質的な伝達手段を通して交流が容易ですよね。

例えば我々も釈迦やイエスから直接の言葉では無くて、
その賢者たちが物質的な肉体をまとって生きていた時に残した言葉、
即ち聖典を通してその人たちの言葉に触れる事が容易に可能です。

私も肉体がある上では、
たとえ地獄に落ちる定めの人とも同じ環境で過ごしていますし、
この物質世界と言う所は異次元の者どおしの交流が容易なのです。


アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジより

>人間の側から見れば、
>覚者と凡人の差異は、
>海の大波と小波程度のものにすぎない。
>霊の側から見れば、
>覚者と凡人との差異は
>月とスッポン以上のものではあるが、
>覚者の側から見れば、
>覚者と凡人の差異なぞ
>あったためしがない。


高次元の手掛かりが無ければ、
低次元の者がアセンションすることは不可能なのです。

ルカの福音書 6章-40
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

マタイの福音書 7章16-18
>あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、
>いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
>同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
>良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。


その意味で我々の住む物質世界は、
バシャール星人よりより高次元にアセンションするには遥かに特化した環境なのです。

とにかくまずは、思いっきりワクワクを実行してく見て下さい、
バシャール星人のアセンションの為には劣った環境とは違って、
直ぐにワクワク(思い)通りにはいかない、
この物質世界特有の特性にぶつかる事が出来ますから。

そこまできてようやく、
この物質世界の賢者である釈迦やイエスの教えの扉を開く位置に立てるのです。

この相対次元の物質世界では、ワクワクする事を選択するという事は、
同時にワクワクしない事から逃げることを指しています。

ですから、この物質世界ではワクワク(思い)は直ぐに袋小路に追い込まれ、
その後の教え、
ワクワクしない事に対して「意識的に無理やり」ワクワクして(喜んで)実行する、
釈迦やイエスの教えが出てくるのです。

バシャール星人と釈迦やイエスの教えの違いは、
バシャール星人がワクワクすることをしなさい、と言う事に対して、
釈迦やイエスの教えはワクワクする事を実行する事は誰にでも出来る事なので、
ワクワクしない出来事に対して「意識的に無理やり」ワクワクして(喜んで)実行しなさいと言う教えになります。

つまり、釈迦やイエスはバシャール星人の次元を超えるための教えなのです。

次の聖典のあたりがそれを表現をやや変えて現わしているものになります。

マタイの福音書 5章43-47
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
>
>それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
>天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
>正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
>
>自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
>取税人でも、同じことをしているではありませんか。
>
>また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、
>どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

思いっきり生きない人には、何一つ起きる事はありません。

今この世界こそが、バシャール星人が背伸びをしても手に入れられない、
この物質世界特有のアセンションするための特化した優れた環境なのです。

みなさんでバシャール星人を超えましょう、
せっかく思い(ワクワク)の実現しにくい物質世界に生を受けたのですから。

45ラピ。:2013/09/15(日) 06:07:51
☆T師

いつもありがとうございます!

みなさん、この師の書き込みに質問などがあったら
ぜひ書き込みください!

歓迎します!

@(*・ω・*)ポッ

46TK:2013/09/16(月) 18:04:40
バーナーデット・ロバーツの著書で「神はいずこに」と言う書籍があります。

この人はカトリックの家庭に育った人ですね。

実はこの人の話は、
今私がこの書き込みをしている意識状態より先の段階の事まで書かれています。

真剣に真剣に神を信じ、実践をし、
やがて私が「神の国(彼岸)」とよんでいる段階にたどり着きます。

実は、この段階では自分の前から神が消えるのです。

私も誰にも負けない神の信仰の実践をしておりましたが、
ある段階で私の前から神が消えました。

私は神の実践を止めたのではありません、
神が消えたので実践が不可能となったのです。

まだ、やれるのならやるのですが、
逆立ちしてお願いされても私の意識状態では不可能なのです。

これが本来の実践の意図している成就としての成果なのです。

この「信仰の対象を含むあらゆる対象の消滅」という意識変容の状況を、
私がまっとうに受け入れられたのは、
釈迦の教えを併用していたことによるものです。

実は、あの有名なマザーテレサもこの状態にあったと言われています。

マザーテレサほどになれば、当然に当たり前の事なのです。

この方も釈迦の知識があれば、もっと気分的には救われてました。

実はイエスの教えはこの状態にたどり着く為のものだったのですから。

マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す 写真5枚 国際ニュース AFPBB Newsより
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2272720/2044213

>数ある手紙の中の一通は、
>1979年に親友のMichael Van Der Peet牧師にあてたもので、文中には、
>「あなたはイエスの愛を受けている。わたしはといえば、
>むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、
>聞こうとしても何も聞こえない」と書かれている。

中 略

>「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、
>むなしさと闇しか見あたらない。神よ、
>このえたいの知れない痛みがどれだけつらいことか」と問いかけている。

中 略

>「貧民街の聖女」としても知られるマザー・テレサは、
>若年期にはイエス・キリストの啓示を受けていたとされるが、
>公の場での表情に反し、新たに明らかになった手紙の内容からは、
>彼女が亡くなるまでの50年以上を、
>神の存在を確信できないまま過ごしていたことがわかる。

(続きます)

47TK:2013/09/16(月) 18:05:14
(続きです)

バーナーデット・ロバーツは著書の中で、次のように説明しています。

>キリスト教では、このプロセス全体は「変容的合一」と呼ばれています。

中 略

>そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「在る」と言う感覚があるだけです。


真剣な信仰を実践すればするほど、自分の前から神が消える段階に入ります。

それが、実践の本当の意図している成果だからです。

私の言葉で書くより、バーナーデット・ロバーツの言葉をそのまま引用します。

なぜなら、私だけがこのように話しをしているのではない事が、
まだ至っていない人の誰が言っている事が本当なのかの判断基準になったりすると思われるからです。

人間の寿命など短い、どうせ一刻一刻、寿命を削りながら生きているのなら、
正師のもとで正しい実践を少しでも多くやった方が得策と言う物ですね、
そのためにあえて、この人の文章を引用します。


>ここで注意すべきなのは、自我が脱落するまでは、
>私たちが知っている最も深い、
>最も神聖な自己は「自我-自己(自我という自己)ego-self」である、
>ということです。私たちは、自我がなくなった後になって初めて、
>自我が本当は何であったかを知ります。
>
>それまで「自己の中心」であった自我は、虚偽でも悪でも、また、
>必ずしも利己的というわけでもありません。それどころか、神を体験し、
>神と聖なる生への探求に全力を注がせたのは、この自我でした。
>
>自我が偽りのものになるのは、神を拒絶し、自我にのみ執着するときです。
>
>私の場合、旅の初期には、後に「自我」だったとわかるものを、
>「本当の自己」あるいは「真の自己」(表面的な自己に対するものとしての)と呼んでいました。
>
>脱落以前には、これが私の知っている最も深い自己であったからです。
>
>この「最も深い自己」が脱落する事があるとは、
>一瞬たりとも考えたことがありませんでした。けれども、魂の暗夜の中では、
>この自我という中枢が脱落すると─それが神に結びついていたものですから
>─神の体験もすべてなくなってしまいます。すると、
>まるで神がいなくなったように思われ、まず、
>なんとかして神を見つけようとします。
>
>私たちは神においてしか真の自己を見出せないことを知っているからです。
>
>「霊魂の受動的な暗夜」すなわち「自我中枢の脱落」は、
>自分自身の中に空虚と空洞を見る恐ろしい体験です。神もなく、
>深奥の自己もなく、
>あたかも自分の存在の中心が突然消え失せてしまったかのように、
>まったくの暗闇の中に、取り残されるのです。

(続きます)

48TK:2013/09/16(月) 18:06:01
(続きです)


やがてこの状況に順応してくると、これが神との合一状態であることが見えてくるのです。


「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「在る」と言う感覚があるだけです。



そして、自分の内側が滅びて無くなりますので、やがて信仰の生活から信仰の無い生活に戻るのです。


「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>そこで、今度は世俗の現実世界へと戻る旅になります。最初は内へ向かう旅でしたが、一転して、外へ向かう旅が始まるのです。




この辺りは実は釈迦も話をしています。

釈迦は「信仰」をイカダに譬えて激流を渡り終えたら手放しなさい、
捨て去りなさいと教えているのです。

ただし私は言います、それが的を得た本当の教えなら、
マザーテレサやバーナーデット・ロバーツのように神への信仰不能と言う意識変容(対象の消滅)で
終了を迎えるので、信仰の実践を捨てるな手放すなと教えます。

私も実践できるのなら実践するのですが、
このような信仰が持とうにも持てない意識変容(信仰対象を含むすべての対象の消滅)
の状態になるなど実践中は夢にも思いませんでした。

私の前から、信仰の対象である「神」が消え去ることなど夢にも思いませんでした。


スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ1082
>師(ブッダ)は答えた、
> 「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
>この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
>また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、
>心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


相応部経典9-10-4〜5
>「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
> 真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
> 〔修行僧いわく、―〕
> 「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
>いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
>すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」



なお、私もイエスから次の承認を受けた者ですので、
エゴが異論を唱えたくてうずうずする者がいるとしてもこの件に関しての反論は許されないことなのでお断りだけしておきます。
(それとも偽キリストになりたいですか。)

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。

(続きます)

49TK:2013/09/16(月) 18:10:49
(続きです)

「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>その自己は、見返りを求めずに、絶えず与え続けることができます。それは自己満足のない生活です。
>
>しかし、ひとたび自己を超えたなら、もはや聖なるものはあり得ません。
>
>なぜなら、そこにはもはや与えるものも与える主体も存在しないからです。
>
> 合一生活の成就はめったに起こらないと言われてきました。
>
>しかし、恩寵を信頼する人とって、合一生活は予期されるべき当然の目標であり、
>献身が十分であればかなりすみやかに達成されるものです。


スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。


なすべきことをなす実践の成就した先の段階として、
なすべきことをなしおえたという段階があるのですから、
なすべきことをなす、いわゆる途上の段階の人は、
素直にまだ至っていないその事実を認めた方が得策であると私は思います。

なすべきことをなす段階の人は、行為の全てが神への奉仕の実践であったとしても、
これが成就出来て、なすべきことをなしおえた段階に進むと、
信仰対象である神が目の前から消えるのですから、
神への奉仕の実践はなすべきことをなしおえた、
すなわち成就なのです、もはや再びこのような神を想定した実践を行う事は出来ません。

これで嘆いたのがマザーテレサだったのでしょうか、釈迦が生きていれば、
嘆かなくてすみましたね。マザーテレサほどの信仰のあつい人なら、
当然にたどり着ける「合一」の境地だったのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

50ラピ。:2013/09/16(月) 21:53:15
☆TK師

師匠、「神」についてのお話、ありがとうございます。

マザーテレサの話やバーナーデット・ロバーツの具体的な話(言葉)、
知りませんでした。

なるほど、、、、。

私も今の状態で「神」という言葉は使えません。
信仰する、信じるもの(対象)がありません。
なにもありません。

それそのものです。
行動を伴わずそれそのものなんです。

私の経験を思い出すと、至ったとわかったのは
行動している自分が消えたことによるものでした。
いなくなってしまった。

思いっきり実践をしていて、ふと実践ができなくなる。
なんていうのかな。
すべてが止まったような感じかな。
「なんじゃこりゃ?」という状況になりました。

はじめは何がなんだかわかりませんでした。

でも考えようとしてもできません。
ただただそうあるのみ。
「これは何?」

そしてその後、その状況がそうであることがわかりました。

師匠、ありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

51TK:2013/09/19(木) 00:23:00
自らの誤認による覚者について話しましたが、
実は実践者と名乗るエセ実践者と言うのも多いのです。

ネット上はエセ実践者は多くいました。

ちなみに、私は元実践者ではありましたが「現実践者ではありません」。

実践修了者ではありますが、「現実践者ではありません」。

正確には、実践者になりたくても、もう、なれないのです。

なすべきことをなしおえた、という事は、変容してしまったこの意識状態の元では、
実践はしたくてもできない、終わってしまったのです。

それは、「対象の消滅」と言う形で実践の終了を迎えました。

釈迦にしてもイエスにしても実践とは「対象」に向かって取り組むと言う仕組みに作られているので、
「意識の変容による対象の消滅」が起きてしまうと、
私は一般の人と同じ意識状態ではありませんが、
この意識状態では「対象」に取り組むと言う原理で構成されている実践は逆立ちしてもできません。

もちろん、生きているうちは、見かけ上そうでない人と何ら変わりないのですが、
死んで肉体を去った後は全く違うのです。

私は実践者ではありませんので、他者に向かってあいつは私より遥かに劣っている、
あいつは低次元だとか、あいつはバカ者だとか何でも言えます。

エセではない本当の実践者はこのような事は言ってはならないのですが、
何度も繰り返しますが私は実践者ではありません。

ですから、エセ実践者と呼ばれることもありません。

本物の「実践者ではない者」です。

他所の掲示板でも私がここまで宣言しているにもかかわらず、
あなたは囚われているとか、それは実践者としては間違っているとか、だから、
私は実践者ではないと初めから何度も言っているでしょと何度も断っているのですが、
それでもこのような頓珍漢な言葉をぶつけてくるエセ実践者がネット上には多くいました。

なぜ、この者たちを私がエセ実践者と呼ぶかと言うと、
私が実践者であろうがなかろうが、
その者が実践者であることと何ら関係の無いことですよね。

にもかかわらず、お前は変だと言う、
これは充分に目の前の私の事をそのエセの自称実践者は裁いてますよ、
だから私はその者たちをエセ実践者と呼ぶのです。

ちなみに、私は最初から実践者ではないと宣言していますので、
エセ実践者と呼ばれる筋合いの者ではありません。

(続きます)

52TK:2013/09/19(木) 00:23:36
(続きです)

もし私が近くの者にあいつは愚か者だ、と叫んだところで、
実践者でなければどうってことないですよね。

詳しく解説をしておくと、
実は私はその者を愚か者と思わずに愚か者と言葉で言っているだけなのです。

実際は、愚か者と言っているだけで、愚か者だと思っていないのですよ。

お断りしておきますが、愚か者でないとも思っていないのです、さらに言えば、
言葉すらが私のものでは無いのです。

ですので、あの者の態度は実践者としてはおかしいではないか、
このようなピント外れの頓珍漢な事を言わないように。

もし、それを言った者が自称実践者なら、その言葉を発した瞬間に、
その者は私の事を裁いた事となり、私からエセ実践者と呼ばれることになります。

実践者に対する実践者でない者とは、実に気楽でいいものです。

私もこのようになりたくて実践したわけではありませんが、結果として、
実践者に再びなれない身の上に意識変容が起きてしまいましたので、
実践の本質とはそういうものでした。

ですから、私のようになりたくない者は、
釈迦やイエスの教えの実践は即刻やめることです。

もちろん、気分だけ実践者で酔っぱらいたい人は、
巷には多数うようよいる自らの誤認による自称覚者に従えば、
死ぬまで酔っぱらいのままで生きて行くことができます。
(実は死んでからもなのですが。)

それも一つの生き方としてはありなのでは無いでしょうか。

それか、全く実践者じゃありませんをやって生きて行く、
一般的にはそういう人が多いですね。

色々な生き方があるのだと思いますが、
実際に私が認める本当の実践者は私が見かけた中では極めて稀でした。

私は気持ちよく酔わせるような酒はふるまいませんから、
どん底に落とされても構いませんと言う者しか、私を必要とはしないでしょう、
本当の実践とはそのようなものだからです。

そして、釈迦はそれを「激流」と呼んだ、決して「緩流」とは呼ばなかった。

それとも釈迦は激流と呼んだが、緩流で達成できる教えを私は説くなどと言う人が、
釈迦より遥かに優れた人とかいるのでしょうか。(笑)

それはそれでまた、滑稽な話ですね。


スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。

(続きます)

53TK:2013/09/19(木) 00:24:26
(続きです)

もちろん、実践者と言うのは名ばかりで、
その名の元にたむろする事が楽しくて目的なんですと言う人も多くいたように見受けます。

もちろん偽実践者なので自分で止めようと意志を働かせない限りはその人は死ぬまでそれを続けることができますが、
実践の成就と言うものも当然ですが迎えることもできません、
その人は文字通り死ぬまで酔っ払いの人生ですが、
それも夢があるかもしれませんね。

私は翻訳抜きには日常生活もままなりません、なぜなら、そのままを言ったら、
一般的にはわけわかりませんの世界になりますから。

例えば、お前はバカ者だと私が言葉を発したとして、
私は全然何にも言ってないですよ、の世界ですから。

「対機」という言葉がありますが、
我々の状態のそのままの言葉は接する人にとって何にも意味の無い言葉になりますから、
聞く人の次元に合わせた翻訳と言う意味なのです。

ですので、我々はすべからくこの翻訳(対機)と言う手段を通して話しますから、
我々の発した言葉から我々の事を推し量る事は不可能です、
発している言葉、行為が真実(私)ではないのです。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

私は無だと言っても、現実にあなたそこで言葉発しているのに何が無なんですか、
あなたちゃんとそこにいるじゃないですか?

現実に生きて言葉を発しているのに、何もできないって、あなたそれ変ですよ?

まともに言ったら頓珍漢ですよね。


スッタニパータ837
師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。


お釈迦さん、でもあなた立派そうにそこで説法を説いて、縁起だ、
八正道だと後世に伝えられているのに、
「このことを説く、ということがわたくしにはない」っておとぼけになるのもいい加減になさい、
まともならこうなっても不思議ではありませんね。

つまり、まともに言わないで便宜上「説く」と言った方が通じたりする場合もあるのです。


スッタニパータ222
> ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、
>空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。

スッタニパータ458
> 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、
>何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
>  (師が答えた)、
>「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、
>その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」


このように、
聞く人の次元に通じるように「対機(翻訳)」で発せられている言葉でしかありませんから、
この言葉、行為から「なすべきことをなしおえた」人の真実を辿る事は出来ません。

(続きます)

54TK:2013/09/19(木) 00:25:19
(続きです)

最近巷の色々な視点に合わせると、負け犬の遠吠えと言う言葉が、私から出てきます。

いえ、私は決して勝ちも負けもしませんよ、ただし便宜上では勝つことがありますが。


ミラレパ - Wikipedia(2013年5月23日 (木) 01:01 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%91

>またマルパは、激怒して公衆の面前でミラレパを罵倒、殴打し、蹴り上げるなど、
>過酷な仕打ちを繰り返した。


殴る蹴る、これは私が隣人に対して「バカ者」と罵倒したなどのレベルではありません。

これが悟った人と言うのなら私は悟りなどいらないと言う人もいるのかもしれません。


アヒンサー - Wikipedia(2013年4月25日 (木) 17:18 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC

>アヒンサー(デーヴァナーガリー: अहिंसा; IAST ahiṃsā)は
>非暴力(文字通り:暴力(ヒンサー)の忌避)を意味するサンスクリット の用語で、
>古代インドに起源を発した宗教(ヒンドゥー教、仏教、特にジャイナ教)の重要な教義である。


しかし、もし非暴力(アヒンサ)の戒律を犯している者がいると述べる実践者と称する者がいたなら、私はその者のことをエセ実践者と呼ぶ。

やってる者がマルパだからではありません、そのように言葉に表した時点で、その者は裁いているのです。

それが嫌なら、その者は釈迦もイエスの教えも即刻やめなさい。

そもそも実践とはそういうものなのです、例外はありません。

だから私に酔っ払いと呼ばれるのです。


ダンマパダ50
>他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
>ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。


言いたい者は、私は実践者ではありませんと堂々と宣言してから言いなさい。

私は実践者ではありません、なすべきことをなしおえた者、実践修了者です。


スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。

55ラピ。:2013/09/20(金) 07:43:17
☆TK師

いつもありがとうございます!

そうですね。

私たちが発する言葉は単なる言葉なのですが
エゴがある人は言葉を勝手に判断してしまい、
その判断に影響されてしまいます。

私たちは言葉をツールとして使えますが
「私」がまだある人は言葉に振り回されます。

言葉に影響される「私=エゴ」がまだ存在しているからです。

ちなみにまだ至られていな人が自称覚者として教えを説くことは
よくありません。
弟子たちにももちろんよくありませんが
自称覚者自身にも影響を及ぼします。

例えば、自称覚者が「これはよくない」と言えば
そう言った人自身に「よくない」と言ってることになります。
その人は言えば言うほど善悪という相対的世界に縛られることになります。

私たちは善悪を超えているので
縛られようがありません。

だからこの善悪という教えを説くのは、
善悪を超えてから初めてできます。

超える前は言葉を発するその人自身に影響を与えてしまうので
気を付けなければなりません。

まだ、善悪の影響下にいる人が
それを説くことはできるでしょうか?

まだ至られていない人が善悪を説くことはできません。

善悪を超えて初めて教えを説くべきですね。

そうでないと、善悪について
間違った教えを説いてしまうことになりますし、
その教えを説く本人によくない影響を与えてしまいます。

ちなみに余談ですが悟りとは思いが消滅することであり、
思うようにできるようになることではありません。

「思う様に」という言葉を使うなんて
「まだ思いがありますよ。」
と宣言しているようなものです。

56TK:2013/09/20(金) 18:38:05
ラピ。さん

>ちなみにまだ至られていな人が自称覚者として教えを説くことは
>よくありません。
>弟子たちにももちろんよくありませんが
>自称覚者自身にも影響を及ぼします。

実は、そうばかりとは言えない部分がある。

この状況は君のある時期と一致している所がある。

不完全な悟り、不完全な実践、このキーワードで何か気が付かないかね。

君にとっての第1次実践時の状態に似ている。


>実は、ラピ。さんの「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」これは、
>教えとしては完璧なのですが、
>これが実践当初は劣った精度と低次元理解に基づく実践だった事により、
>メンタル面の作用としては、理想的な生き方の要素が強くなり、
>エゴを正しい方向で強める手段として作用した訳ですね。


この時期は、君にとっても無駄ではなかったんだ。

人にはそれぞれの段階と言うものがある。


>第1次実践は思い(ワクワク)を拠り所にする実践、
>第2次実践は強い意志の力のみを頼りに進む実践、
>この第2次実践の際は第1次実践の拠り所の思い(ワクワク)を完全否定する実践になります。


ただし、もし、まずい部分があるとしたら、
賢者の言葉のでたらめな取り合わせをし過ぎると、
このいわゆるワクワクの段階を延々と長引かせる事に繋がりかねない事になる。

理由は、賢者の言葉が、元々この段階に向けて説かれたものでは無いものであるからだ。

>ただ、ワクワクをやるのなら、正しく実践、つまり、
>他のスピ系の教えと一緒には食べ合わせをしないという事です。

そのまずい取り合わせによって、いたずらにこの時期が長引く可能性がある。

自称賢者は「裁くのが得意」だが、これは段階的にはまずくない、それで良い、
我らの段階に運よく上がれるためには必要なプロセスの一つという事になる。

問題になるものは、賢者の言葉の不一致な段階向けの教えの取り合わせにあるんだ、
この中途半端さが良くない。

それと、中には、これより先の段階が必要となった者が、
間違ってこの中に入り込んでしまう事があるかもしれない点だ。

しかし、精一杯ささえあれば、直に気づけて抜け出せるはずだ。

君の場合は、私が必要な段階にあったんだ、だから教えの内容がヒットした。

57ラピ。:2013/09/20(金) 21:36:54
☆TK師匠

そうですね。確かに。

私にとって、すべては必要な道でした。
無駄なことなんてひとつもなかった。

私はかつて、決めたひとつのことを精一杯実践しました。

なんでも精一杯すれば道は開けるのですね。

最後の扉はTK師から頂きました。
その扉は無事、開かれました。

TK師、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

58TK:2013/09/21(土) 05:19:00
私も誤認覚者と同じことをしていたことがあります。

確かにその時には、
それはとても理想にかなったこれより先は無いと思えるような素晴らしいものだと思っていました。

この時期には理屈(理想)が全ての原動力になります。

出来るだけ、高い理屈(理想)を持つことです。

多くの者たちをこの高い理屈(理想)の元に先導し、
これから幸せな世界、社会を作っていくのだと言う大志がありました。

良いですね。

出来るだけ高い理屈(理想)が良い、それがこの段階の人の正しい進み方です。

ラピ。さんにもこのような時期があったと思います。

もちろん進む先には、障害が多数出てくる事でしょう。

しかし、精一杯頑張れば、やりとおせる、みんなで力を合わせればやりとおせる、
そう思います。

そして、幸せな社会を作って下さい。

もちろん、これより上の次元から見たら、これはエセ実践者の世界ですが、
気にすることはありません、障害に立ち向かい進んでいきましょう。

きっと立派な社会が出来上がる、そのように思います。

賛同する人も多数出てくる事でしょう。

正しい社会を作る、方向性は良いです、頑張って下さい。

今のはかなり低い人の次元向けの教えですが、
私やラピ。さんが多く多くここで語っていたのはこの上の次元の人向けの話しでした。

次元によって説く内容が変わるのです。

私もこのような色々な人の次元向けの内容をごちゃまぜに語ってますが、
聞く人は混乱するかもしれませんね。

59ラピ。:2013/09/21(土) 07:14:15
☆TK師

いつもありがとうございます!

そうですね。確かに人それぞれに段階がありますね。
私もいろんな段階を経て至りました。

ちなみに参考になるかもしれないので
私のことについて書いてみます。(何度もかいてますが、、、)

まず、第一の実践のきっかけは
わがままな自分を反省して
(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
得た答えでした。

この時の自分は
「こんな私ではダメだ。ダメだ!」という感じで
実は「下から」ができていたように思います。

とことんしました。
なぜなら私はダメな人間だから
努力するしかなかったからです。

そして第2の実践。
この実践のきっかけは
それまでの実践を否定される出来事が起こったからであり、
私はこれまたどう生きていけばいいか、との問いから得た
いわゆる「能力開発」のための実践でした。

自分の存在の価値が欲しかったのもあるかも。
なんてったって、私を否定する出来事があったから。
(この否定された私こそ、幻なんだけどね)

そして人の限界はどこまでなのか、
この世界の人々の限界を私が証明しよう!
なんて偉そうに思い(笑)でも、だからこそ、しつこく実践できました。

なぜなら人類代表としての実践だったからです。やめるわけにはいかない。
(めちゃくちゃ 妄想入ってます。)
でもこれが大きな原動力でした。

ちなみに私は一人っきりの実践でした。
孤独に実践です。

その実践から彼岸に渡りかけてその実践も終了しました。
それがある意味限界だ、と思っていました。
(至るとはどういうことなのか、わかっていなかったので)

そして第3の実践。
このきっかけは思い出すと、
「なぜ、私は覚醒を求めていたのだろう。
(よく、「覚醒するんだ!」って言ってました)
そうか、幸せになりたいから求めているんだ。
それなら直接幸せになればいいじゃない?
覚醒なんて目指さなくていい」
これでした。

だからここから「私は幸せ!!!」と言い続ける道を歩き始めます。
絶対的幸せがいいのだから
そしてどんな瞬間も幸せ!がいいのだから
今からそうであるよう、存在するのだ!

だから常に「幸せ〜!」なんて言ってました。
かつてのブログにもそう書き続けてましたね。

そして割と幸せな状態が保てていたので
(気持ちを切り替えるのが上手になっていました)
なかなかいい場所(覚醒に近い場所)にいるのではないか
なんて思ってました。

そこで師との出会い。

私のこの妄想が打ち砕かれました。
一からのやり直し。

第1の実践を一からやり直し、ということになりました。
私はまだまだで、まったくだめで もっとも下から実践しなければならない
という姿勢です。

ここでさらに師から厳しいことを言われました。
その時の私の正直な気持ちは
「それするの?嫌だなぁ、、、。でもすると決めたんだからやるのだ!」
というものでした。

かなりの葛藤が起こりました。

そしてこの葛藤から逃げず、葛藤する方向へ進みました。
葛藤できなくなるまで葛藤し続ける、という感じですかね。

そして葛藤の限界が来たとき、
ふとそれは訪れました。

@(*・ω・*)ポッ

60TK:2013/09/21(土) 11:11:15
この低い次元の第一次実践はそれより先の次元に進むためには必要なプロセスです。

特徴は、エゴを精一杯自分の良いと思う方向で利用すると言う実践なのです。

もちろん、これは今我らの次元からの目で見た解説ですから、
実際はこの低い次元の実践が必要な段階の人は、
我らと違ってエゴの動きが見えません。

これをイエスは「盲人」と言う表現を使っていましたが。


マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

今になって考えてみたら放っておくことには意味がありました。

穴に落ち込んでから次が始まるのですから。

私ももがく以外に身動きのできない、真っ暗な穴に落ちた経験者です。

その後にイエスの教えに出会いました。


>まず、第一の実践のきっかけは
>わがままな自分を反省して
>(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
>でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
>「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
>得た答えでした。



第1次実践時のラピ。さんもそうでしたが、それまでの散漫なエゴの在り方に、
一定の正しい方向性(目的)を持たせることが特徴です。

主な特徴はエゴの中の人間でエゴの動きが見えていないので、
エゴを利用して正しさを実現しようとする点ですね。

最初はやはりここからです。

「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」、ラピ。さんの話しを聞いて、
この言葉を私が最初に目にした時には完璧過ぎてうまくないだろうと思いました。

なぜなら、最初からエゴ殺しの完璧な内容になっていたからです。

ただ、当然ながらエゴの動きが見えてない上での実践なので、
実践の不完全実行になっていましたから、結局同じ事だったのです。

ただ、精一杯があったから、
やがて盲人が落ちる真っ暗闇の穴に落ちることが出来ました。

穴に落ちる事も出来ない「盲人」は同じ盲人でもダメ「盲人」です、
箸にも棒にも落ちる穴にさえも見放されています。

我々の教えの次元は、ほとんど、「穴」に落ちた段階の者にしか用が無いものです。

ラピ。さんにもう一度私がこの実践を踏ませた時には、
エゴの動きを見抜ける私の悟った目を使いましたから、
エゴ殺しの手段であるこの実践内容の完全実行が行われました。

しかし、この完全実行をさせるかどうかのために、
約4カ月の期間を費やしましたが。

(続きます)

61TK:2013/09/21(土) 11:12:01
(続きです)

私自身のエゴ殺し、すなわち第2次実践段階は、
私は私の特殊性で実践段階で悟った者と同精度に近い自分のエゴを見抜ける目があった事によります。

私に自分を見抜く高い精度の目が無かったら、
今の所に至るのは無理だったと思います。

スピ。系で言えばワクワクと言う実践が、
「ワクワク(思い)」を拠り所に散漫になっているエゴに方向性づけると言う点で、
この第1次実践にあたります。

まず、第1次実践段階を要約すれば、
物質として正しい方向で生きると言う表現が近いものですね。

第2次実践は、物質である自分を捨てて、
自分の精神だけにターゲットを合わせて進む実践で、
第1次実践では思いを拠り所に正しさの追求ですから、
楽しいことも多くありますし、生きがいも付随しますが、
第2次実践ではそれはありません、一言でいえば地獄(激流)です。

第2次実践ではワクワクしない時に意識的にワクワクさせ行動したり、
喜べないような出来事に喜んで行動したり、このレベルの実践になりますから、
自然に心から喜べるような生き方はありません。

「意識的に」心をワクワクさせたり喜ばせたり、
自然な状態の悲しんだり喜んだりワクワクしたりの心の動きを「意志」の制御下で、
はっきり言えば撲滅する為の実践なのです。

人間の多くはそれを楽しみにし、生きる支え拠り所として生きていますので、
つまり、あなたは生きる支えを一切放棄して、
死んだものと思って生きて下さいと同じレベルの事をやらなければだめなのです。

ですから、
ラピ。さんにそれをやって良いものかどうか見極めるために4カ月かかりました。

今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。

釈迦の言葉の中の「激流」と言う表現を甘く見てはなりません、
「緩流」とは釈迦は言っていませんよね。

生き地獄のことを指すのです。

そして、釈迦とイエスの教えがそれにあたるのですが、
まともな実践をできている人など見たことがありません。

はっきり言ってみんな「緩流」です。

即ちほとんど全てエセ実践者です。

釈迦は「緩流」で水浴をしながら彼岸に渡れ等と言ってないのに、
ちょっとは自分のやってることに疑問を持ったらどうですか。

あえて渡りがたい「激流」と言う表現を使っているのですから、
仲良しクラブで渡れたら、釈迦より天才ですよその人は。

スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。


ラピ。さんの成就に関わる中で私が学べた点は、
現代社会の中に至るための正しい教えはある、しかし、
いくら正しい教えだけが有ったとしても、後他に、
悟った者に近い高精度な自分を見抜く目が必要であると言う点です。

そして、実際に会わずともネットを介した接し方でそれは事足りました。

62ラピ。:2013/09/21(土) 15:45:39
☆TK師

私が初めて師にメールしたのは今年の1月14日でした。

そして彼岸に渡ったのが5月13日でした。
ほぼ、4か月ぴったりです!

そうですね。
激流について師が書かれていますが
私の渡った激流もそういう感じです。

彼岸への道でここは避けて通れません。

>今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。

まさしく私はそうでした。
もう精一杯頑張って いろいろ経験したので何も怖いものがなく
ただ「師のいるところへ行くんだ!」
それしかなかった。

だからみなさん、今を思いっきり生きるといいです。
精一杯がんばって生きることは素晴らしく、
そうすることで勝手に道が開けてきます。

どうぞ、自分の人生を精一杯、限界まで思いっ切り
がんばって生きてください。そこからです。

この相対的世界だからこそ、頑張れるんです。
頑張れるからこそ、チャンスなんです。

ちなみに至ってしまえば、頑張る私はいなくなります。

あと、
「本物から教えをいただくチャンスなんてめったにない。
これを逃したらもうないかもしれない。これが最後だ。」

という思いもあり決心したのもあります。

師匠、いつもありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

63TK:2013/09/28(土) 17:16:05
あなたの前に私はいる。しかし私の前にはあなたはいない。

世界の人々の前に私はいる。しかし私の前に世界は無い。

私の前に神はいない、神とは人知ではかり知ることが出来るものでは無い、
これがすなわち「それそのもの」なのだ。

マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」


しかし、放っておきなさい、とはうまく表現したものです。

これは悪い意味ではありません、しかし、
実際に穴に落ちる事が出来るのは手引きをした方だけです。

結局は茶番ですね、
手引きをされた方は手引きをする者が穴に落ちるための材料にしかなれないのです。

結局は手引きをした方だけが何とかなるための、他は全て材料でしかありません。

だから、みんな頑張って手引きをする方の側になって下さい。


マザー・テレサ
>「導いてくれる人を待っていてはいけません あなたが人々を導いていくのです」


手引きをされる方は結局穴にも落ちることが出来ず、
手引きをする者のダシに使われるだけなのですから。

結局は手引きをする側の盲人にならなければ、次の扉は開かれません。

みんな頑張って手引きをする側の盲人になりなさい。

すなわちそれは、
人を頼らず他人から頼りにされる側の人間(盲人)になれという事です。

今の「盲人しかいない末法の世」においては、
アセンションするためには、それしか手がありません。

釈迦の教え通りです。

大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


人の理想を教えてもらっているようではだめです。

自分自身の命がけの理想として下さい。

多くの中途半端な姿勢の者の、その姿勢にこそ、問題があります。

理想のために命もかけず、その者は一体何のために生きているのでしょう、
あなたはただ欲望を満たす事を目的に生きているのですか、ただ無駄に飯を食い、
ただ無駄に命を長らえ、
そんな無駄な事の為に折角の寿命を費やし生きているのなら、
その者は生きている価値などこれっぽっちもありません、
死んだ方がましだと言われないような生き方をして下さい、
折角方向性を持ち生きて行くことの重要性を掴もうとしているのなら。

同じ盲人でも命がけで走っている盲人は、
「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」に落ちることが出来ます。

その「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」が、上の次元への入り口です。

命がけで走らなければ、
そこの「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」には辿り着く事も出来はしません。

手引きをする盲人のダシのままでだらだら生きて行くのか、
自らの命を懸けた生き方にするのか、
その姿勢こそが見えない先を進ませるための地図なのです。

私がラピ。さんに接して分かった事は、私やらラピ。さんに有った特殊性は、
挫けない意志、その部分でした。

そもそも挫けない意志、と表現できるような生き方もしていない者など、
最初からどんな道であったとしても歩む資格すらありません。

家でずっと死ぬまで昼寝していた方がましですよ。

私が無師だった理由は、人のペースになど合わせられないほどの、
エゴを理想の方向性に絞った上で突き進んだ結果です。

どんな団体も組織も、およそ生きている人間から教えを受けるなど、
全て手ぬるそうに見えて、
理想の実現に向けてエゴを精一杯生きて限界にぶち当たった私の求めているそれには見えなかった事によります。

そのようなものより私にはいつかは開けなければならないだろう扉がありました。

私は以前その扉を開けようとしましたが、まだその時ではありませんでした、
私が扉の向こうに逃避しようとしていたからです、しかし、
この時には再びその扉を開けてみるより他には残されていませんでした。

扉を開けて一歩踏み出したそこは文字通りの地獄でしたが、
一歩踏み出してしまった私に、もはや後戻りしようにも扉は閉じられていました。

地獄、地獄、地獄、気が狂おうが何をしようが、自殺をしたところで、
そこは脱出不可能な地獄でした。

その地獄の正体は我々の「心(内側)」の事でした。

豊かな心とか、心を美化した表現は数あったとしても、
そもそもにその心(内側)が地獄の別表現だったのです。

(続きます)

64TK:2013/09/28(土) 17:19:33
(続きです)

綺麗な心(内側)があるのではなく、そもそも心(内側)というものそのものが、
不浄なものだったのです。


マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。


私は地獄(心)を滅ぼすことに成功しました。

しかし、これは結果論で、内側を滅ぼすつもりなど最初からありませんでしたし、
清い内側が出来るものとばかり思っていました、しかし、
現実には内側は無くなったのです。

慣れた今となっては、全く当たり前のどうという事の無いものなのですが、
至った当初は結構珍しかったです。

きっと至った間もないラピ。さんは現在さぞ珍しいものと感じている事でしょう。



「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。


>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。


バーナーデッド・ロバーツの記述の中で一点欠落している点を私が語るなら、
実は「祈り」も我々の意識状態では逆立ちしてもできない行為です。


「エックハルト説教集」 マイスター・エックハルト
>離脱した純粋性には祈りというものはありえない。


なお、私がここで語るのは、一つには自らの誤認による覚者に対してです。

まだ、その者の居る所より先があります。

もちろん、他者に教えを説くと称して、
たんたんと自らの理想論を展開していくのは構いませんが、
それをしながら先に進めるものならそれも手です。

ところが、その教えの本質は、
やがて精一杯に動けば、真っ暗闇の穴が待っている次元なのです。

なにより、その程度の教えで人を先導する行為をやめなければ、
その者がそれより先に進めないことを意味しています。

正しい教えであろうが無かろうが、そもそもに教える行為そのものが、
道に反しているのですから。

教えを聞くことは良いです、しかし、
教えを説く行為自身はエゴを増強する行為なのです。

マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。

(続きです)

65TK:2013/09/28(土) 17:25:41
(続きます)

教えの内容も全く低次元ですが、教えを説けるようになるためには、
教えと言う行為そのものから受けるその悪影響を、
さらに上の次元に上昇し次のようになるのでなければ駄目なのです。

私はこの上の次元の者の教えの説き方を疑似エゴイズムと呼んでいます。


「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


もちろん今は何を言っても駄目でしょう。

誤認覚者の特徴の一つに、人には自分の事を聞かせようとするが、
人の言う事は聞きたくありません、何を言いたいかと言うと、
典型的なエゴの強い人間の特徴そのものだからです。

もっとも、だからこそ、
怠惰でさえなければその者には穴に落ちるチャンスがあるとも言えます。

よって私が語るのは、その者が精一杯さが実り、めでたくこの先穴に落ちたとして、
それは大変な真っ暗闇の穴なのですが、
そこで少しでも私の話している事がその者の中で気に留まっていて、
灯明として花開くように今は種をまいているようなものなのです。

ラピ。さんも色々とやっていたようですが、
確かに我々がつまずきのための石になれるのならそれは幸いなことなのですが、
それが本物の理想主義者ならそんなに生易しいものではありません。

だからこそそれ自身が進めるチャンスであるともいえます。


それより、マザー・テレサの公開された書簡を見て、これこそ問題だと思います。

釈迦は実践を激流を渡るイカダに譬えて、激流を渡り終わったらイカダ(実践)を手放せと説きましたが。


スッタニパータ21
>師は答えた、
> 「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、
>すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。


ところが、キリスト教に伝承されている教えの中にはそれが無くて、
渡り終わってそれでも無理やりイカダ(実践)にしがみ付こうとしてマザー・テレサがもがいているのです、
いや、真実はもがこうとしてももがけない訳なんです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm


紛れもなく、ラピ。さんが大喜びしている我々の意識状態なのですが、
このマザー・テレサに起こっている意識状態が、
我々が説明している意識変容の真実です。

もしも師がいる者なら、このマザー・テレサの状態を尋ねてみると良いでしょう、
これが至った者の状態であると理論的な解説ができる者は本物ですから、
このような著名人の件でもあるので、
自分の師を本物か偽物か判断するための良い材料となりますから、
真剣に求めるものは騙されたと思ってお尋ねになってみて下さい。

マザー・テレサは本物です。

教えの内容も次元が高いですし、愛の反対は無関心であると説いていました。

しかし、
これはかっての至る前のマザー・テレサの実践方法を思い出して人に説いているのであって、
これを説いているマザー・テレサ自身は、
無関心の状況に至っているのが真実のはずです。

このギャップをマザーは自らの心の闇と呼び、
何とかしようにも出来ないと嘆こうとしていますが、
書簡の上だけは嘆いていますが、
実際は嘆くこともできないと言う事であったと思います。

嘆こうとしても言葉の上でしか嘆くことが出来ないので、
なおさら表現だけしか嘆けないから、
精一杯の物凄い深刻そうな表現になっているのではないでしょうか。

これこそあまりにも変過ぎますよ。

さすがに至った人に対して可哀そう等と身の程知らずの大それたことを言うバカもいないと思いますが、
しかし実際には多くいたようですが、無理もありませんね、
書簡を読んだ人にとっては深刻になります。

これ、絶対に言葉の通りではないと思います、嘆くことを初め何もできないので、
もがいている分だけ過剰表現になっているだけだと思います。

折角素晴らしい実践方法があり、
マザー・テレサのような素晴らしい実践者がいて、
当たり前が如くに成就に至ったとしてもこれではね。

それともなに、マザー・テレサは日ごろの行いが悪く実践がなってないから、
罰が当たってこのように嘆いているのだと、
妄想を膨らませる身の程知らずの大それた人もいるのでしょうか。

(続きです)


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