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「脱力ネタ」板

1「訊け」管理人:2013/08/15(木) 14:17:56

 こんにちは、現在「試験運用中」です。さてところで「皆さん」は、脱力したことは、御座いませんか?

 そんな方はこちらで、どうぞ「脱力ネタ」をご披露ください。いやその脱力ですが、キチンと成仏させましょう。

 それではどうぞ、皆さんの「脱力ネタ」のご披露です・・・・

682うのはな:2014/03/18(火) 14:41:58
>コピペですが、「しません」ではなく「できません」でしょ(笑)。そんな説明はナイんですからね(笑)。

いいえ。投稿はあるけど、探したりコピペするのが面倒なんです。
とにかく、トキ掲示板のことはトキ管理人に確認してみてください。

 あなたは、以前にも藤原先生の引用をしたのは僕でトキさんはそんなことをしていない
といってましたが、そのあとトキさんの投稿がみつかったから出しときました。
こないだ見たら、いまだにここで誌友会の話やパソコンの話をしていました。
それもトキ掲示板で説明済み終了したものです。

 うのしんで新・掲示板おめでとうございますなんていってましたが、
別版ができたら、ぼくのブログの苦情をここに持って来ていいわけですね。
そしてトキ本島やうのしんで終了した話をそのときの私の過去一文を
これが愛に溢れる文章、なんて再掲していて、他の人にうのはなさんのことが
気になって仕方がないのではと書かれていました。

 そんな人と話してもややこしいから余計な理屈はいらないから出て行きなさいといったのに
ずいぶん、別版で遊んでましたね。今後は別版に顔を出さないでください。
この投稿など移転削除でもいいですよ。
 あなたと遊ぶために来たのではなくて、苦情をいいにきました。
 あとはひとりで粘着粘着と騒いでいてください。

683うのはな:2014/03/18(火) 14:46:27
 あちこちから議論を断られてる人がそういうと説得力がありますね。
本流掲示板で誌友会失敗。運動の定義がどうたらと書いてからアクセス禁止。

トキ掲示板で誌友会失敗。参加者の家族やそれ以外の人々に悪影響出て
司会役退陣。大熊先生の運動について書いてクレーム。

 なにかの因縁かもしれませんが、がんばってください。

684うのはな:2014/03/18(火) 14:47:07
このこと。

 うのはな先輩からは、こんな事を学びましたよ。ええ、議論で大切なのは、事実ではなく「肺活量だ!」と(笑)「相手を決め付けて、追い込んでイクんだ!」と(笑)本当に、楽しい3年間でした。ありがとうございました。

685上記について:2014/03/18(火) 14:49:00

 あらかじめ、お断りしておきますが、コピペを出せ証拠を出せ出せと
しつこくいわれても応じません。悪しからず。

686私はヘタレな神の子さん(だははは):2014/03/18(火) 22:56:30
5181 名前:うのはな 投稿日: 2014/03/18(火) 22:49:56
トキさんも朝昼夜とパソコン見る時間はあるみたいですね。
 本部モニターさんより素早い反応じゃないですか(笑)

 ここは、このサイト内では生長の家の名前をはずすのにやっきになって
 傍流だけになっていますが、ネットでは生長の家の名で出ています。

5182 名前:トキ 投稿日: 2014/03/18(火) 22:51:31 いえいえ、うのはな様も神の子であり、仏の子ですから、礼拝しましょう。

ただ、本板でうのはな様への反論、異論は御控え下さい。
こちらの別板では、どんどんうのはな様への共感や反論を御願いします。

合掌 ありがとうございます

687私はヘタレな神の子さん(だははは):2014/03/19(水) 11:36:54


うの・・・・・・・・・

688初心者:2014/03/19(水) 12:54:01
病気が治ったからこれは真理だ。これが生長の家を支える基本原理ですよね。ところで「これは真理だ」の「これ」ってなんなのでしょう。「これ」ってなんですか?

「これ」とはつまり病気を奇跡的に治した摩訶不思議なる力のことですよね。この力を「これ」といっているわけです。「この力こそが真理なのだ」と、こういうことをいっているわけですよね。

生長の家では病気治しに利用できるものを真理と呼んでいるわけです。利用できれば、それがなんであっても真理です。利用できなければそれは虚説です。こういう単純な図式が、生長の家では成り立っています。総裁のいっていることは病気治しに利用できない。だからこそ総裁のいうことはすべて虚説なのです。

『生命の實相』はたしか「生命の實相がそのままで円満完全であることを自覚すればメタフィジカルヒーリングとなります」ではじまりますよね。この一文から読み手が受け取るメッセージは「真理は病気治しに利用できる」ということ以外にありません。「メタフィジカルヒーリングが起こる」と聞いて「純粋に真理を追い求める真の求道者になろう」と思い起こす読み手は間違ってもいないということです。

『生命の實相』は全編が真理の利用の仕方について説かれた書物といってよいのではないですか。「真理を利用して奇跡を起こしたい」と欲する人々が読む書物といってよいのではないですか。雅春先生と倉田百三氏による「寂光論争」がなんであったかというと、「自分は真理を病気治しに利用したいとは思うがそんなに都合よくは利用できないと考える」とする倉田氏にたいして、「真理は病気治しに利用できます」と雅春先生が応答されたものではなかったですか。「真理の利用可能性」ということが問題にされた論争ではなかったですか。

倉田氏にしても真理を利用したい立場にあるわけですから、「利用できる」とする雅春先生に反対する理由はどこにもなかったはずです。あの論争は、論点などはじめからどこにもなくて、倉田氏が欲したごとく、「利用できる」との結論をえて予定調和的にことが運んだ論争であったということがいえるでありましょう。

このように『生命の實相』は、メタフィジカルヒーリングにはじまって寂光論争にいたるまで、全編が真理の利用可能性について説かれたものであるといって過言ではないとおもうのでありますが、いかがでありましょう。

「利用する」ということでいえば、これは天然資源にもあてはまります。生長の家の考え方の根本が「真理を利用する」ということにあるとするなら、こうした考え方が「資源を利用する」とする考え方にむすびつくのは当然のことといえます。「人類の幸福のために真理を利用せよ。国家の繁栄のために資源を利用せよ」。本流がいっているのはけっきょくこういうことです。

総裁の思想的立場は「資源を都合よく利用するな」であり「真理を都合よく利用するな」であるといってよいでしょう。こうした立場にあることをもって「虚説」とみなされているわけです。資源にしても真理にしても、自分に都合よく利用してよいものなのか。これが問われているのではないでしょうか。

689初心者:2014/03/20(木) 14:08:52
総裁のかかげる環境運動が、「悪化した地球環境をよくしようとする運動」と考えていたのでは事実を見誤るでしょう。真理や資源を人間中心の考え方で都合よく利用するのはそろそろやめにしましょう。こうした思想が総裁のかかげる環境運動の背景にあるということを考える必要があるということです。

雅春先生と現総裁は、その考え方や生き方において対極にあるといわざるをえません。雅春先生の考え方というのは、どちらかというと享楽志向なのですね。健康問題であれ、経済問題であれ、人間関係の問題であれ、それが人生を存分に享楽できる状態にあることをもって「善」といっておられるように感じます。

うらやましいことに、若き日の雅春先生は幾人かの女性と深くかかわっておられたようです。いくつかの罪悪感をおぼえながらも、享楽する生き方を、若き日の雅春先生は肯定的に選択しておられたのです。そうした享楽志向が教えにまったく影響していないと考えることはできません。国家の繁栄とともに人々が享楽へと向かうのは、ローマ帝国の盛衰をみればあきらかでしょう。人々を享楽へと駆り立てないではおかない国家の繁栄を、雅春先生が教えの根本に立てておられることに、若き日の享楽的な生き方の影響をみてとるのはそれほどむつかしいことではないような気がいたします。

雅春先生の教えから、「享楽」ということをわたしはどうしても連想してしまいます。現総裁は、意識的にではなくおそらく無意識的に、雅春先生の教えに「享楽」の二文字を感じとっておられるのでしょう。そうした無意識からの知らせにまるで反発するかのように、現総裁はあまりにもストイックで禁欲的な生き方をつらぬいておられるように感じます。総裁がらみのスキャンダルといえば、イヴの夜にローストチキンを食べたかもしれないといったことぐらいでしょう。こういうことをスキャンダラスに取り上げなければならないほどに現総裁は享楽的な生き方を否定しておられるということです。

どちらかといえば享楽することを肯定的にとらえておられたともいえる雅春先生と、享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方をつらぬいておられる現総裁とでは、その考え方に大きな食い違いが生じるのはむしろ当然のことといえます。雅春先生は人間を中心におくことで、真理であれ資源であれ、それを人間のために利用するという方向で教えを説いておられたにちがいありません。現総裁は、真理を否定しているのではなく、そういう方向性を、つまりは人間を中心におくという方向性を、享楽志向につながるものとしてたんに否定しておられるのではないか、ということです。

古代ギリシャの人々は、世界をひとつのものとして捉えていたといいます。プラトンはそのひとつのものであった世界をイデア界と物質界のふたつの世界に分離しました。こうすることでプラトンは、それまでは世界から真理を受けとる立場にあった人間を、世界に真理をあらわしだす立場の人間に置き換えたということがいえるでありましょう。

世界から真理を受け取るだけの端役的立場から、世界に真理をあらわしだす主役的立場へと、プラトンは人類を押し上げたのです。世界をふたつに分かつことで人間中心主義がいよいよはじまった。これを古今東西の真理とするなら、生長の家は世界をふたつに分かつことで、まさしくこうした人間中心主義の流れのなかを突き進んでいるということがいえます。

雅春先生の教えが人間中心主義の教えであるということは、それが世界をふたつに分けるプラトンの教説に近いということからあきらかにいえるとおもいますが、これにたいして現総裁の思想は、人間中心主義が開始される以前の、世界をあたえられたひとつの自然とみなす古代ギリシャのそれに近いのではないか、ということをわたしは感じます。現総裁の思い。それは生長の家がかかげる享楽的ともいえる人間中心主義にたいする懐疑であり反発ではないかとわたしが考える理由がここにあります。

総裁のかかげる環境運動とは、それが悪を認める二元論であるから虚説であると否定してことがすむ問題ではなく、真理や資源を自分中心に利用しようとする人間中心主義への疑義であり、そうした人間中心主義をもたらしたふたつの世界への疑義であるとの観点から理解する必要があるのではないかと考えます。

690初心者:2014/03/20(木) 20:12:13
トキさんの掲示板で、HONNEさんという人から以下のような問いかけがなされているようです。

>【享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方】とは具体的にどうのようなものですか?
私は、雅宣さんは享楽も肯定しているし、禁欲的ではないと思っていますが・・・

わたしは総裁がどのような生き方をしておられるのか、正確には存じておりません。ただ、断片的に入ってくる情報から想像的に組み立てたのが「享楽を否定する生き方」というものでした。HONNEさんは総裁のことをよく存じておられるようなので、むしろこちらのほうが、総裁がどのように享楽を肯定しておられるのかを教えてもらいたいくらいです。総裁ははたして、いかなる意味で享楽を肯定しておられるのか、具体的に教えていただければこちらとしても返答のしようがあるとおもいます。

ちなみに、享楽の意味について、わたしは「挑発」ということをキーワードにこれを定義したいとおもいます。美的人生を追求しようと欲しておられた若き日の雅春先生は「そこにあるはずの美」を挑発し、そうすることで逆に「そこにあったはずの美」によって挑発されていたと、このように考えております。挑発し挑発されることで生じる快楽の連鎖。これをわたしは享楽と定義いたしたいとおもいます。

肉体はない。生長の家ではこのように説かれています。肉体がないのであれば病気などあるはずがない。したがって「病気はない」となる。ならば健康はあるのかといえば、肉体がないのに健康などあるはずがない。しかし「健康はない」とは誰もいわない。なぜなのか。

病気は悪であり現象であるから「ない」のであるが、健康は善であり実相であるから「ないとはいわない」と説明されても合点がいくものではない。たとえ実相を持ち出されたところで、肉体はないのであるから健康な肉体もないにきまっている。なのに、なぜ「健康はない」とは誰もいわないのか。

生長の家の人々は病気によって挑発されている。それゆえ「病気はない」とことさらにいわねばならないのであるが、健康によっては挑発されていないので「ない」という必要はとくにない。これが「健康はない」とはいわない理由であると考えられる。

生長の家の人々は、あるはずのない病気があるようにみえていることによって挑発され、「病気はない」ということで逆にあるはずのない病気を挑発する。挑発し挑発されるという関係がここにあるとするなら、これを享楽というしかない。生長の家の人々は病気でさえも享楽の対象にしようと欲する人々ではないのか。たぶんそうなのだろう。

はたして総裁は享楽する人なのか。ローストチキンを食べたかどうかで騒がれるような人物が「享楽する人」であるとは、わたしにはとてもおもうことができない。ここでいう享楽とは、「生物資源や地下資源の収奪」という形で自然界を挑発し、そうすることで自然界からのさらなる誘いを受けるという形で自然界によって挑発される状態をいう。はたして総裁はいかなる意味で「享楽する人」といえるのだろうか。

本流が総裁によって挑発され、逆に総裁を挑発することで「享楽する人々」となっているのはまずまちがいない。総裁がどのように享楽を肯定しておられるのか、教えていただければ助かります。女性スキャンダルはないと聞いております。事実かどうかはわかりません。

どなたかこれをトキさんの掲示板に貼り付けてくださいますでしょうか。

691ジャリ:2014/03/20(木) 20:50:42
おっしゃ

692初心者:2014/03/20(木) 22:18:25
いやー、かたじけない。

わたしはここで、総裁がなぜ環境運動に向かったのか、その理由をあきらかにしたいと考えておるのですけども、雅春先生をけなそうとしているとか、そういう方向へ話がむかっているようですね。

雅春先生と現総裁との考え方のちがいをあきらかにせぬかぎり、しかもなぜそうなったのかをそれぞれの志向性にまで踏み込んであきらかにせぬかぎり、問題はなにも解決せんでしょう。微力ではあってもそれをやろうとすると「雅春先生をけなすのか」とくる。つける薬がないとはこのことですな。

イデア界と物質界、実相世界と現象世界というように、世界をふたつに分ける行為が人間中心主義を生みだしたとする問題提起への反応はないのでしょうか。総裁はこうした人間中心主義に反発を感じているのではないかとするわたしの予想への反論はないのでしょうか。あるいは病気治しに真理を利用せんとすることの是非。人間中心主義におちいった人々は真理を私的に利用することを当然のことと考え、利用にあたってはなんの躊躇も示さなくなる。もちろんこうした利用的態度は生物資源や天然資源にたいしてもあてはまる。こうしたことを問題にしておるのですが、なにか言いたいことはないのですか。

693ジャリ:2014/03/20(木) 23:02:57
貼ってみましたが…iPhoneの限界を感じます。

694私はヘタレな神の子さん(だははは):2014/03/21(金) 04:40:28
>>病気が治ったからこれは真理だ。これが生長の家を支える基本原理ですよね。

695私はヘタレな神の子さん(だははは):2014/03/21(金) 04:43:05
>>病気が治ったからこれは真理だ。これが生長の家を支える基本原理ですよね。

上記出典を明記せよ。 生長の家は「病気がない」と言うのが基本原理である。

696初心者:2014/03/21(金) 08:41:14
「出典を示せ」というのはやめたまえ。「ちがう」とおもうのであれば、自分の意見を堂々と書きたまえ。

病気が治らなくても、「病気なし」とする雅春先生の教えを真理とあなたは考えるのか、ということですよ。それでも「病気なし」というのであればそれでよい。

奇跡が起こらなくとも、あなたは雅春先生の教えを「真」とみなすのか。病気が治るからこそ、奇跡が起こるからこそ、「真」とみなすのではないのか。「病気が治ったからこれは真理だ」というのは、こういうことをいっているのですよ。「ちがう」というのであれば、自分の意見を堂々と書きたまえ。

しかし、どうして「出典を示せ」などと周縁のことばかりかみついてくるのか。人間中心主義について応答したまえ。

697「訊け」管理人:2014/03/21(金) 10:11:29

 こんにちは。キャバ嬢とギョーザを食べてたら、火傷して「口の中ベローン」となった、訊け管理人です。登場が遅れましたが、さて・・・・・

>>>わたしはここで、総裁がなぜ環境運動に向かったのか、その理由をあきらかにしたいと考えておるのです<<<


 ああ、なるほど。そういう意味なんですね。そういう意味での一連の〝各ご投稿〟なのですね。いやなんか、一見すると「極論のオンパレード」風味だったので(昨夜読んだ際)、返答に窮しておりました。「どの点から語ろうか」と小一時間ほど、昨夜はうなっていましたよ(笑)。でも、投稿の目的が判明し、現在やや、すっきり。

 で、感想ですけども、極論(?)めいた点から雅春先生や総裁を検証してみるのは、おもしろいと思います。そしてそんな作業の過程で、一見、雅春先生を〝蔑んだかのような〟、そんな投稿も現れることでありましょう。けどもそんな際は、反論を寄稿すればよいのです。さて私の方は、年度末にて激務です。時間を見つけて以下の件など、感想を寄せようと思います。



――――――――――――――――
病気が治ったからこれは真理だ。これが生長の家を支える基本原理ですよね。ところで「これは真理だ」の「これ」ってなんなのでしょう。「これ」ってなんですか?「これ」とはつまり病気を奇跡的に治した摩訶不思議なる力のことですよね。この力を「これ」といっているわけです。「この力こそが真理なのだ」と、こういうことをいっているわけですよね。
――――――――――――――――

・・・まあ、この点だけにサクッと返信を致せば、答えは、「そうですよ」です。「病気が治ったから真理」、なんです。で、「病気(ごとき)が治せなくて、真理と申してよいのやら?」が、生長の家だと思います。語弊があるといけないんで、補足しますけども「完全なる者のみが神」です。これが、雅春先生が発見された、神でした。で、完全である故に病気くらい、治せてアタリマエ(※)という、そんな次第ですね。非常にシンプルだと思います。

 で、「病気が治せない真理」なんてもの・・・「あるの?」という。それが、生長の家だと思います。「病気が治らない・・・・それが真理ですか?」です。たとえば藤原敏之先生は、こんな点から講話されておられます。

 ・・・・まあ議論の流れ次第で必要ならば、続編を書きます。(現在仕事中のためご容赦)



<註>

※ 完全である故に病気くらい、治せてアタリマエ

 正確には雅春先生は、「誰ひとりとして病気になっていない!」、そんな光景を発見されたのでした。ですんで正確には、治す必要すらナイという・・・・そしてそれが「人間神の子」の五文字ですね。

698初心者:2014/03/21(金) 10:49:55
訊けさま

いつぞやもそうでしたが、うのちゃんを相手にするときはいくらでも時間がとれて、わたしを相手にするときは「時間がない」となるようですな。

ところで、「病気が治るからこれは真理だ」はいいのですよ。「これ」とはなにか、これをはっきりさせましょう、といっているのですよ。私がおもうに、雅春先生がぜんぜん別の教えを説いておられたとしても、雅春先生の筆力をもってすれば病気ぐらいは治せたはずなのですね。わたしはこのようにおもいますが、このあたり、いかがでしょう。

「これ」とはなにか。それは「真理」ではなく雅春先生の「筆力」でしょう。

そう、極論です。最初に大きく囲い込んでおいて、それから囲いを徐々に小さくしていく。このほうがやりやすいでしょう。囲いを小さくするためであれば、訊けさんは力を貸してくれますよね。

雅春先生の弟子たちが「とるにたらぬ人間知」だの「真理を知らぬ迷い人」だのと、わたしを侮蔑することをいいますから、そんな弟子たちを育てた雅春先生を侮蔑するような表現をもちいたとしても、文句をいわれる筋合いではないでしょう。文句があるなら、雅春先生の名をけがす不肖の弟子たちにいいなさい。いえ、訊けさんにいっているわけではありません。

699ジャリ:2014/03/21(金) 12:08:17
本流の人は初心者さんは総裁だと言われるけど私は絶対に違うと確信しています。

それは細かい検証では無く、暖かさなんです。総裁の書かれたものからは暖かさを感じられない。

同様に雅春先生の書かれたものからは暖かさを感じるけど雅宣さんのはあったかくない。

何でなのかわからない。そこに祈りがあるか無いか。筆力を産み出している何か。

700初心者:2014/03/21(金) 12:12:00
以下のごとく述べている人がいます。

>「生長の家」は「病気治し」等の現象に奇蹟を起こすのが目的の宗教ではないのですよね。
信徒が「人間神の子」の自覚を深め、「実相独在」を悟ることが目的なんですよね。

ここで述べられていることこそが、人間中心主義が最終的にゆきつく「約束の場所」なのですねえ。上記の引用文にもしめされているように、人間中心主義は「心こそが大事」、「意識こそが大事」という意識中心主義へと簡単にむすびついてしまうところがありますよね。

極論、かまします。心などほんとうはどうでもいいのですよ。どんな心であろうとも、そんなことは本質的な問題ではない。しかし人間中心主義におちいった人は、「心こそが大事」といいはじめる。誤った考えです(すごい極論)。

ではなにが大事か。それは言葉ですよ。言葉こそがすべてなのです。古代ギリシャの人々は、きっとこのように考えていた。それが、プラントがイデア論を唱えて世界をふたつに分けたことで人間が世界の主役に躍り出て、「主役であるのだから心こそが大事」となったのですよ。引用文がしめすように、生長の家もおなじということがいえます。

小林秀雄が『言葉』と題する一文をのこしています。本居宣長が「意は似せやすく姿は似せがたい」といった。『言葉』は宣長のこの言葉についての評論です。

「意」とは「言葉の意味」というより「心」と考えたほうがよいでしょう。「姿」とはもちろん言葉です。心は似せやすい。だからそんなものはどうでもいい。言葉は似せがたい。だからこそ言葉は大事なのだ。ほんとうに大事なのは、心ではなく言葉なのだと、宣長はこういうことをいっているのですよ。

○今世の浅薄な心のままに、古を学ぼうとする自分の真意が、君にわかろう筈がない。

宣長は世間にはびこる浅薄な心のままに、あえて古の歌の姿を学ぼうとした、ということでしょう。心を清めて、神の子の自覚を得て、それから古歌を学ぼうとしたのではないのですよ。言葉とはなにかを考えぬいた宣長には、世間の人たちが「大事だ」という心などほんとうはどうでもいいものだということがわかっていた。だからこそ「浅薄な心のままでもよい」と考えた。しかしこのことは「君にわかろう筈がない」。

○歌の道を知るとは、歌は言葉の粋であると知る事だ。言葉は様々な価値意識の下に、雑然と使用されているが、歌はおよそ言葉というものの、最も純粋な、本質的な使用法を保存している。それを知ることだ。

言葉の「最も純粋な、本質的な使用法」とはなんでしょう。それは心を清めて神の子の自覚を得るという使用法ではない。たとえば西行。「心なき身にもあはれはしられけり」と歌った西行にとって心が大事であったはずがない。「自分が和歌を詠むのは、たんに風景や文物に心を動かされて詠んでいるのではない。それを超えた歌という形の中にあるもの、形に見えないもの、その向こうにあるえもいわれぬ真実をつかまえたいとおもう。それは仏道で悟りを得るのと同じことなのだ」と西行がいっていること。このことこそが言葉の「最も純粋な、本質的な使用法」なのです。

西行にとっても心は似せやすいものであり姿は似せがたいものであった。心というものはとらえどころのないあやふやなものだから、どうとでもいいくるめることはできる。どうとでもなる心を真理に似せることなど、誰にとってもたやすいことだ。西行にとっての問題は、自分ではどうすることもできない言葉の姿をいかにして真理に似せるかということであった。西行がいいたいのはこういうことでしょう。

古代ギリシャの人々にとっても、このあたりの事情はおなじであっただろう。ギリシャ人にとってもおそらく心はどうでもよかった。人間中心主義が登場して「心こそが大事」、「自覚こそが大事」といいはじめた。おそらく総裁は、冒頭の引用文で示されたような、「心こそが大事」といいたげな人間中心主義者のおそれをしらぬ言い分に、強い不信感をいだいておられるのでしょう。

環境破壊は世界を二分して考える人間中心主義がおこしたもの。「心こそが大事」とするあやまった真理観もまた世界を二分して考える人間中心主義がつくりだしたもの。総裁がもしもこのように考え、あるいは直観しておられるとするなら、環境運動への傾斜の理由がおぼろげながらもみえてくるのではないでしょうか。

701「訊け」:2014/03/21(金) 12:13:01

>>>わたしを相手にするときは「時間がない」となるようですな。<<<

 そりゃ、そうですよ。貴殿に返答する際には雅春先生のご著書ですが、最低でも見直しをしますので。マチガイがあったら、たいへんですからね。

>>>「これ」とはなにか。それは「真理」ではなく雅春先生の「筆力」でしょう。<<<

 そうとも、言えるでしょう。けども、数々の奇蹟を個人的にも体験した私は、先生の筆力も「真理と観ます」でしょうか。神が降りているとしか、考えられないですね。(・・・・ちなみに無宗教時代の私ならばこんな投稿見れば、「ナニ言ってやがる」になったでしょうがw・・・それを今では「雅春先生=神がかり」とまで断言してるんで、不思議です)

 ・・・・ところで、あの、志恩さまの体験談はお読みになられましたでしょうか。これ↓ですけども、

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1308876271/1937

 ・・・・これなんかも、奇蹟です。で、この奇蹟なんですけども「雅春先生の本を読んだ方が起こした奇蹟」ですよね。

 書かれてアル真理が真理でなかったら、こんな事、起こらないと思うのです。私個人も以前、脳梗塞の方を治しましたケド、これ、「訊けが治したんじゃナイ」わけです。「書かれてあることが真理だった」、故に、こんな、キャバクラ狂いの野球脳男でも「脳梗塞を治せた」と、こうなるワケですね。


 ・・・また、思いついたら書きます。




追伸

 ・・・・トキ掲示板の方はなんか、貴殿の意図を解することが出来ぬ方が大勢、おられますね(笑)

702「訊け」:2014/03/21(金) 13:20:49


>>初心者さま


 さてその、「総裁はなぜ?」なんですが・・・・・・なぜ環境問題に舵を切られたのか、理由はサッパリわかりません、「私個人は」、ですね。で、どなたもその方面の検証を、忘れているとは思います。その意味で今回の貴殿ご提案は、有意義だと、思います。

 これ、本流にとっても有意義だと思うんです。検証もなされずに〝当てずっぽうに批判している〟のが、本流だからです。検証した上で「堂々の批判を」行えば、本流にだって人は行くと思います。今までみたいに当てずっぽうの批判では、かっこ悪いですよね。

 ・・・・ちなみに「総裁はなぜ環境問題を?」ですが、収集した情報だけで物申してみますと、「愛国運動へのアンチテーゼ」だと思ってます(あくまでも現時点はそう、感じているの意)。愛国運動のアレルギーで、環境問題へと舵取りをされた、こんな言葉は複数の関係者から聞いたことがあります。あまり高尚な理由はなかったんじゃないのか、それが(あくまでも現時点での)私見になりましょうか。まとめれば現総裁ですが、「愛国運動アレルギーの払拭のために、アンナ事(環境問題)を開始した」に、なりはしないかと。




703「訊け」:2014/03/21(金) 13:34:07
>>初心者さま



 (以下はひょっとすると、テーマからズレるかもしれません。それでもどうしても、貴殿に聞いてみたいと思いたちまして投稿、致します。よろしかったら、ご教授ください・・・・)


 突拍子もない、話をします。まあ、「まったく関連がナイ」とは言えない、そんな範囲でのブレですんで、どうぞお許しください。テーマは「天皇万歳!を叫んでイタ者どもが最も、天皇の御心を解していなかった」というモノです・・・・・・・・・長ったらしいんで、サクっとまとめますけども、「どうして?」と思うのです。どうしてあの当時、「天皇バンザーイ!」を叫んでいた人たちが最も、「天皇を御心を軽視できた?」のでしょうかね?(陛下の御心は「不戦」でした。けど、「陛下のために〜!!!」を叫んでいたモノどもが、もっとも、あの、〝四方の海〜〟を軽視したワケでしょ?あれが不思議)

 ・・・・この、「○○のために!」を叫んでいる者が、「最も裏切り行為を働く」と言う心理です。これって、何でしょうかね。いやこれ、「本流と雅春先生との関係にも如実に」現れて、いると思えるからです。「雅春先生を守れ!」と叫んでいる者が最も、あの、第一巻巻頭の「天地一切と和解せよ」ですが、軽視してます(笑)。こんな現象って、どんな風に解説されているもんでしょうか。昔の哲学者かなにかでこれ、この問題ですが、「明快に解説した方」など、おられませんかね。おられましたら、どうぞご紹介ください。いや、さっぱり意味不明なんですよね、あの行動は・・・・・・・・天皇陛下万歳!そう叫んでいる者が最も、「陛下の御心を軽視できるのはなぜか?」そして、雅春先生を守れ!そう叫んでいる者が最も、「御教えを軽視できるのはなぜか?」




704「訊け」:2014/03/21(金) 13:40:08
>703補足


 初心者さま

 703の問いかけを補足しますけども、彼らはどうやって「精神状態」ですが、維持できるんでしょうかね。その点が、ナゾなんです。やっぱ、「言いまくり」しか、ないんでしょうか・・・・当時の軍人もそうでした。本流もそうなんでしょうかね。そして、教団もそうなのかも、しれませんね。

705さくら:2014/03/21(金) 14:06:50
>>702
>「愛国運動アレルギーの払拭のために、アンナ事(環境問題)を開始した」に、なりはしないかと。


訊けさまは、生長の家以外の人の考えを、無碍に、嫌悪だとの感情論や「虚説」と言わない方のようなので、話せそうなので書かせて頂きますが、
これは、「反応」の結果としてそのようになったのであり、
元々は、「人間中心主義」からの脱却ということが、その主張だったように思うんです。
たとえば、「神を演じる前に」では、科学万能になり、人間が神を演じるように生命操作することへの警告を発していました。
申し訳ないのですが、
宗教団体の総裁として雅宣総裁は、宗教的なセンスといいますか、信仰的な素養があまりおありではないということは、言えますが…
もともと、宗教とは本来、自然万物を礼拝することを説いているではないか、という宗教観を言いたかったみたいですね。
(でもその点でも、神道や仏教的な知識の間違えも、散々指摘されていましたが…。)

706初心者:2014/03/21(金) 15:17:50
訊け様

>・・・・ちなみに「総裁はなぜ環境問題を?」ですが、収集した情報だけで物申してみますと、「愛国運動へのアンチテーゼ」だと思ってます(あくまでも現時点はそう、感じているの意)。愛国運動のアレルギーで、環境問題へと舵取りをされた、こんな言葉は複数の関係者から聞いたことがあります。あまり高尚な理由はなかったんじゃないのか、それが(あくまでも現時点での)私見になりましょうか。まとめれば現総裁ですが、「愛国運動アレルギーの払拭のために、アンナ事(環境問題)を開始した」に、なりはしないかと。

こういう説明はもちろん成り立ちますけども、訊けさんも気づいておられますように、これでは宗教が環境運動に傾斜した理由説明として不十分すぎますね。宗教が傾斜したとなれば、それなりの理由づけをする必要がある。わたしはこのように考えます。

環境運動がなぜ真理にむすびつくのだろうか。こうした疑問をもった人は少なくないでしょう。
こうした疑問にたいして、これまでどのような説明がなされてきたのでしょう。「なるほど」と納得できるような説明がなされてきたのでしょうか。「愛国運動への抵抗」ではなんの説明にもなっていないのではないですか。おそらくいかなる説明もなされていないのでしょう。もしそうだとすれば、これがゴタゴタの原因のひとつなのですよ。

説明がなされればそれに賛同する人と反対する人があらわれて議論のなしようがある。これほどまでにゴタゴタする必要はない。しかもそうなれば、対外的にも宗教団体として恥ずかしくない姿勢を示すことができる。

教団と本流の双方が「なにも説明しない」、「なにも議論しない」というのであれば、ここでやってみるよりほかはないでしょう。わたしはいちおう言いたいことを言いましたので、なにか言っていただければとおもいます。

>雅春先生を守れ!そう叫んでいる者が最も、「御教えを軽視できるのはなぜか?」

和解の仕方がわからんのですよ。知恵がたらんのですよ。

707さくら:2014/03/21(金) 16:13:27
>・・・・ちなみに「総裁はなぜ環境問題を?」ですが、収集した情報だけで物申してみますと、「愛国運動へのアンチテーゼ」だと思ってます(あくまでも現時点はそう、感じているの意)。愛国運動のアレルギーで、環境問題へと舵取りをされた、こんな言葉は複数の関係者から聞いたことがあります。あまり高尚な理由はなかったんじゃないのか、それが(あくまでも現時点での)私見になりましょうか。まとめれば現総裁ですが、「愛国運動アレルギーの払拭のために、アンナ事(環境問題)を開始した」に、なりはしないかと。

ですから、度々言いますが、
「環境運動」を真理に結びつけようなんて発想はなくて、もともとは、
自然崇拝の、宗教の本来の意味に立ち返ろうという「信仰運動」にしようと思ってやったんです。
しかし、エコロジー、つまり、ロジックとしてしか「運動」に結びつけられなかったんです。結果として。


ある意味、宗教がイデオロギー化したときに、極端な国家主義に走ることがあることへの「アンチテーゼ」だったからと、言えると思いますが、
本来そんなことで、対立して、
宗教の運動を、「エコ、ロゴスの運動」にしなくてよかったんです。
だから、ライフスタイルの提案や、森の生活が限界なんです。

信仰的な活動をするなら、大熊先生がされているような、生命尊重の運動や、救済運動になったでしょう。

708初心者:2014/03/21(金) 17:21:36
さくらちゃんへ

>ですから、度々言いますが、
「環境運動」を真理に結びつけようなんて発想はなくて、もともとは、
自然崇拝の、宗教の本来の意味に立ち返ろうという「信仰運動」にしようと思ってやったんです。
しかし、エコロジー、つまり、ロジックとしてしか「運動」に結びつけられなかったんです。結果として。

自然宗教に立ち返ろうということですね。自然宗教であれば、人間の意識がどうであるかは問題になりません(人間中心ではなく自然中心だから。もちろん神の子の自覚も必要ない)。

総裁が自然崇拝という形で宗教のほんらいの形に立ち返ろうとしておられたとすれば、人間中心主義からの脱却を図ろうとしておられたと考える根拠になりますね。ただこのとき、雅春先生の教えはどうなるのか、ということです。いかなる理由説明もなく切り離すことはできませんね。環境運動に真理をむすびつけようとの発想がたとえなかったとしても、啓示宗教が自然宗教へと変化した理由を真理とむすびつけて説明する義務はとうぜんのごとく生じます。そうしなければ、「雅春先生の教えはどうなった?」となって混乱が増すだけですから。

さくらちゃんは、信仰運動であるはずのものがなぜエコロジーになってしまったのか、このことを問うてらっしゃるのですね。このあたりはたしかに、「ほんらいの宗教への回帰」では説明がつきません。なぜそうなったのでしょう。

それはですね、「挑発」という言葉がキーワードになるような気がいたします。かつて自然は畏怖の対象でしたね。自然にたいする畏怖が自然崇拝にむすびついたはずです。ところが人間中心主義の考え方があらわれたことで、自然は畏怖の対象から挑発の対象となったのです。つまりですね、総裁がかかげる自然崇拝への回帰とは、自然を畏怖の対象へといきなり回帰させることではなく、挑発の対象からまずははずすということであったはずなのです。自然を挑発の対象からはずすために「まずはエコロジーから」、との発想になったのかもしれませんね。

いずれにしても、「雅春先生の教えはどうなったのか?」の疑問に答えるためにも、環境運動と真理との関係をきちんと説明しておく必要がありそうです。

709初心者:2014/03/21(金) 20:52:41
いくら「自然信仰への回帰」といっても、いまさらアニミズムの世界にもどるわけにはいかない。総裁はどうなさるおつもりなのでしょう。

ドイツ観念論にシェリングという哲学者がいましたね。そのシェリングは「自然はいま自分にたいして沈黙したままでいるけれども、自分の魂が自然の言葉を代弁できるようになれば、自然はみずからを開示し、隠された秘密を語りかけてくるだろう」とこのように考えていた、というよりも、生き生きとこのことを実感していたという。

「自然の言葉を代弁する」。ここに注目しましょう。西行がやろうとしていたのがこれだからです。西行は和歌を詠むことで自然の言葉を代弁しようとしていたのですね。

自然の言葉ってなんだ?自然に言葉があるといっても、生長の家の人にはたぶんわからない。わからないからこそ、世界をふたつに分けるのがよいことだと思い込んでいる。

「自然には言葉がある」というのはわかりきったことでしょう。人間は自然の一部。その人間に言葉あるってことは自然にも言葉があるってこと。ただし自然の言葉は人間が使う言葉よりもはるかに複雑で、そこで使われている語彙や文法は人間の知るところではない。

こうした自然の言葉を西行は、人間が理解できる言葉に変えようとした。そのためには姿を似せるよりほかはなかったってことだ。そしてシェリングもおなじことをいっている。わかる人にはわかるんだよなあ。

自然には言葉がある。自然はなにかを語っている。自然はなにを語ろうとしているのか。それを言葉で言い当てるのが「真理を言い当てる」ってことなのです。道元の「万法すすみて」とはこのことを言っている。これ以外に真理を言い当てる方法はない。霊的直観はたぶん自然の言葉には効かない。霊は霊のことしかわからないから。しかも、それができれば誰も苦労はしない。歌を詠む必要はどこにもない。

総裁はたぶんこのことを知らない。たとえ知っていたとしても、言い当てるための方法を知らない(あたしは少しばかり知ってるよ)。自然信仰といっても中途半端なものになりそうだ。

でもね、総裁は世界をふたつに分けようとはしていないみたいだから、いつか自然の言葉を聞けるようになるかもしれない。世界をふたつに分けた人って、自分が世界でいちばん偉いと思っているだろ。そんな人間に自然はけっして語りかけたりはしないけど、総裁にはそのうち語りかけてくるかもしれない。

710初心者:2014/03/21(金) 22:06:42
地球はいまポストアトランティス期の第五時空にある、とシュタイナーはいっている。第五時空とは自我が物質体とむすびつくための時空間だ。物質体には宇宙の叡智が埋め込まれている。第五時空にいたって、自我はようやく物質体とむすびつき、宇宙の叡智を知る手がかりを得た。

まことに残念なことではあるが、生長の家は宇宙の叡智が埋め込まれている物資体を「ない」といって否定している。そのために、自我が物質体とむすびつけずにいる。本流掲示板で騒いでいるバカものどもをみてみろ。物質体とむすびつけぬ自我はあのようになってしまうのである。あわれなことというしかない。

711初心者:2014/03/21(金) 23:21:22
訊け様

たとえばの話です。総裁がもしも、世界を現象と実相とに分ける生長の家の教えは必然的に人間中心主義へとむすびつくと、みずからの体験や理論的な考察からこのように判断なされたとします。そしてまた人間中心主義は環境破壊を引き起こす直接的な原因になったともお考えになられたとします。こうしたことから総裁は人間中心主義を地球からほうむりさろうと決断なされて、雅春先生の教えを封印なさるとともに、人間中心主義にたいする批判や対抗などの意味を込めて、教団の舵を環境運動の方向へきられたとします。

ここで質問です。以上のごとく想像することの問題点があるとすれば、それはどのような問題でしょう。「総裁がそのようなことを考えるはずがない」というような問題ではなく、筋書きとして不自然な点があるかどうか、筋書きじたいが稚拙であるかどうか、筋書きに説得力があるかどうか、筋書きにこれを述べるだけの意味や価値があるかどうか、こういったことに関する問題点があるとすれば、それはどのような問題点であるとお考えでしょうか。

712志恩:2014/03/22(土) 06:40:07

初心者様のご投稿文は、長たらしくて意味不明ですので、
最後の711でおっしゃった雅宣総裁のお考えのポイントのみ、書かせて頂きます。
……………………………………………………………
初心者様ー

>>総裁は人間中心主義を地球からほうむりさろうと決断なされて、

雅春先生の教えを封印なさるとともに、

教団の舵を環境運動の方向へきられたとします。

ここで質問です。
以上のごとく想像することの問題点があるとすれば、それはどのような問題でしょう。

「総裁がそのようなことを考えるはずがない」というような問題ではなく、
筋書きとして不自然な点があるかどうか、筋書きじたいが稚拙であるかどうか、

筋書きに説得力があるかどうか、

筋書きにこれを述べるだけの意味や価値があるかどうか、
こういったことに関する問題点があるとすれば、
それはどのような問題点であるとお考えでしょうか。<<
…………………………………………………………………………………………

初心者様は、雅宣総裁を代弁されて、⬆のようにいわれました。

>>雅宣総裁は、「生長の家」の看板は、使いながら、

元々の生長の家の教えを葬ってしまい、

ご自分が、やりたい「自然への回帰」運動のみを、

生長の家総裁という地位と遺産を利用して、生長の家の組織を使って
 やりはじめられました。

(雅宣総裁は、個人救済は、しないことも、公言されてます。)

そして、初心者様は、710では、本流派の皆さんのことを、口汚く罵り、
この運動についてですが、みなさん、なにか、問題点があるでしょうか。
筋書きに不自然さは、あるかどうか、とか、おっしゃっています。

なにをか いわんやです。

713志恩:2014/03/22(土) 07:01:17
トキ様掲示板より(過去文)

「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板

272 :義春:2011/11/06(日) 01:21:05 ID:SjZg29/2
(略)
この頃、体調が思わしくなく、かなり身体を壊しているのが自分でも分かっております。
26の時の癌でガタがきたのです。此処まで再度あちこちに転移した癌を乗り越えただけでも僥幸というものかもしれません。
ですので私は長生きは望んでおりませんが、母の孝行の為に、少しの間でも良い、それだけでも元気に生きたいものです。

草葉の陰から見守る楽しみがあるのを喜びつつ、論文を完成させて頂きます。

この七つの燈台こそが「人類救済」だと信じています。



トキ様掲示板の信仰/体験板での「救済」についての発言集
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311411528/?q=%B5%DF%BA%D1

714初心者:2014/03/22(土) 07:14:38
志恩様

>そして、初心者様は、710では、本流派の皆さんのことを、口汚く罵り、
この運動についてですが、みなさん、なにか、問題点があるでしょうか。
筋書きに不自然さは、あるかどうか、とか、おっしゃっています。
なにをか いわんやです。

あなたは本当に何もわからない人なのですね。トキさんの掲示板でわたしを口汚くののしったのは誰ですか。あのユタカという婆子と志恩さん、あなたでしょう。わたしがいつ「本流のみなさん」をののしりましたか。「バカども」とは「ふたりの婆子」をいっているのですよ。あなたのことをいってるのですよ。「なにをかいわんや」などと偉そうな口をきくのはやめなさい。あなたはどこまでも恥を知らぬ人だ。

715初心者:2014/03/22(土) 07:28:10
ここでなにをそうとしているのか、要点をまとめておきます。

①教団の環境運動は真理の観点からもまっとうなものであることを説明する。
②イデア論としての唯神実相論への疑問を提示する。
③自然宗教へと回帰することの意味を基礎づける。

以上です。

716初心者:2014/03/22(土) 07:38:13
現総裁はプロティノスであると仮定いたしましょう。プロティノスはサッカスの弟子です。サッカスはインドの釈迦族の一員ともいわれ、エジプトのアレキサンドリアまで旅をしたあと、ローマにたどりついたといわれています。

プロティノスはサッカスの薫陶をうけるとともに、プラトンのイデア論の研究にいそしみました。プロティノスの思想は新プラトン主義といわれていますが、じっさいにはプラトンのイデア論を否定しています。

プラトンによってふたつに分割された世界をひとつの世界にもどしたのがプロティノスなのです。プロティノスは、プラトンを否定しながらも、なぜかプラトンの看板をかかげているようです。

総裁に期待するのは、雅春先生によってふたつに分割された世界をほんらいのひとつの世界にもどしていただくことです。総裁には現代のプロティノスになっていただきたい。これがわたしの望むところです。

717初心者:2014/03/22(土) 07:56:46
プロティノスの思想は、ドイツ観念論をへて、その霊的能力において雅春先生にまさるともおとらぬ大哲学者、ルドルフ・シュタイナーにひきつがれていますね。

プロティノスからシュタイナーへといたる流れがなにをなそうとしたのかをひと言でいえば、プラトンによって覆い隠された、古代ギリシャの霊的秘儀の復活であったといってよいのではないでしょうか。

かつて、本流掲示板で一白鳩会員さまから語りかけられたとき、わたしはこのことを語ったように記憶しています。その結果、わたしはたちまちにして総裁と同一人物とみなされるようになってしまいました。

総裁がなそうとしておられること、それは、雅春先生によって覆い隠された物質界の叡智を復活させることである、とわたしは考えております。

718「訊け」管理人:2014/03/22(土) 08:28:43

>>711初心者さま
>>さくら

 いやーさすがです。(一連のご投稿を拝読し)>>711の様な疑問が、ちょうど浮上していたんです。さて、以下のご投稿ですが、

>>>(>>711提示の仮前提に関し)筋書きとして不自然な点があるかどうか、筋書きじたいが稚拙であるかどうか、筋書きに説得力があるかどうか、筋書きにこれを述べるだけの意味や価値があるかどうか、こういったことに関する問題点があるとすれば、それはどのような問題点であるとお考えでしょうか。<<<

 この面に関して、語ってみようと思います。そして返信のテーマですが、「雅春先生は『人間中心主義』ではナイ」というものになりましょうか ――

 ・・・さて総裁ですが、雅春先生の御教えを「人間中心主義」と解釈されておられたとするならば、「根拠はナイことになろう」と考えます。雅春先生の御教えが環境破壊をもたらすとは、到底考えられません。理由はなにか・・・・それは、こうです。

 雅春先生の教えは「天地万物をすべて神として礼拝する」と言うものです。(※1)

 ここではザックリと書きますが、雅春先生の教えはそうです。「天地万物をすべて神として礼拝する」のが、雅春先生ですので総裁が「ホンキで環境保護をお考えだった」とするならば、「聖典をもっと読め運動」ですよ(笑)やるべきことは。

 雅春先生を敬遠するよりはむしろ、「聖典をもっと読め!運動を展開すべきだった」と、思います。(※2)ですんで御貴殿からのご提案ですが、以下のご文章は、少々ムリがあるような気が致します。議論を行っていく上での、ムリと云う意味ですが、

>>>世界を現象と実相とに分ける生長の家の教えは必然的に人間中心主義へとむすびつくと、みずからの体験や理論的な考察からこのように判断なされたとします。そしてまた人間中心主義は環境破壊を引き起こす直接的な原因になったともお考えになられたとします。こうしたことから総裁は人間中心主義を地球からほうむりさろうと決断なされて、雅春先生の教えを封印なさるとともに、人間中心主義にたいする批判や対抗などの意味を込めて、教団の舵を環境運動の方向へきられたとします。<<<






<註>

※1 雅春先生の教えは「天地万物をすべて、神として礼拝する」と言うもの

 ・・・まあ、そう礼拝した結果としての「治病効果はあり」ます。そして、その治病効果の点を指して「人間中心主義」と言う方が、おられるのかもしれませんけども根本は上記です。雅春先生の教えは治病の面からみれば「人間中心主義」に見えるかもしれませんが、根本は違います。

※2 雅春先生を敬遠するよりはむしろ、「聖典をもっと読め!運動を展開すべきだった」と、思います。

 『生命の實相』には直接的には環境問題、扱われてはおりません。ただし天地万物一切を神として礼拝していけば「自然と整ってくる」という思想は、40巻を通じていろいろなところで語られております。『生命の實相』を読めば環境破壊など、起こりようがナイと思います。同著では「唯物論の闘争が悪因」とされておりまして、「神の深遠なるご配慮を観じれば、どこにも闘争の必要はナイじゃないか」という思想が繰り返し出て参ります(あくまでも趣旨に於いて)これが、谷口雅春先生の御教えです。

719さくら:2014/03/22(土) 09:04:26
>>708
>信仰運動であるはずのものがなぜエコロジーになってしまったのか、このことを問うてらっしゃるのですね。

いえ、そうではありません。


イデオロギー的な運動と、信仰運動の違いは、私の中では、一応納得した部分があるので。
(「見える神道」「見えない神道」の歴史や、以前学ばせて頂いた、ロゴス中心主義の概念など参考になりました。)

端的にいえば、
一、宗教の教義や論理を根拠にして、
自分が信じた理想の正義、または善を実現するために
都合の悪いもの、邪魔になるもの、またその反対になる考え方を、
「悪や虚説」として、排除する、
という二項対立の考えに陥るものと、

二、宗教行や祈り、感謝の生活を大切にしていく信仰心。
「理想実現」を掲げるというより、
人や物の奥にある「理念」や神性を礼拝する生活。
(二項対立がないので、何かを排除するという発想はない。)

本来の信仰、信仰運動は、わたしは、こちらだと思っています。


(イタリアの哲学者ヴァッティモは、西洋形而上学は絶対的価値、真理、普遍といったものを主張する、「強い思考」であり、暴力性がそなわっているとして距離を置くと、言いました。
宗教でも、絶対的価値観、真理、高い理想や正義を主張した時、時に暴力的なものがあります。
…対して、弱い思考というと、誤解されそうですが、
宗教において、なにか…大切なものは、世間の権力や、制度などに対して変革するなどの「力」は、本来求めないものだと思っています。)


わたしが言いたいのは、
訊けさまが仰るように、
生長の家の真髄の信仰に戻れば、
ほんらい、自然を礼拝する(仏教の「山川草木国土悉皆成仏」や神道的な自然崇拝)ということです。

それを、イデオロギーや、理論のお勉強ばかりで理解すると、
上に書いた、
「一、自分が信じた理想の正義、または善を実現するために
都合の悪いもの、邪魔になるもの、またその反対になる考え方を、
「悪や虚説」として、排除する、
という二項対立の考えに陥るもの」
のように主張になり、

そのやり方や考え方は、いくら綺麗事や正義で正しいことをいっても、信仰姿勢とは、程遠いと感じるということです。



…総裁の問題で、いちばん気になっているのは、
なぜ、生長の家の信仰の対象となる、重要なシンボル的なものを、
否定するような方針になるのか、という点です。


聖地、聖経、宗教行事、宗教体験、そして、聖典、信仰的に信徒に信頼される方…
そういうものを軽視する方針、
信仰に力を持たせるものを、団体から無くして行く、という。


…そして、まったく、関係ないですが、なぜ、雅子様は、伊勢神宮に参拝されないのでしょうか。

とにかく、宗教行事を、疎かにすることは、どういうことかということです。

720「訊け」管理人:2014/03/22(土) 09:29:08

>>さくら

 うん、いいこと言った(笑)さすが、マネージャー(笑)

 で、以下の点だけにスポットライトを当てるケドも、以下の点で>>703にも関連して来るのよ。(あの、「○○バンザイ!」派がどうして、その、重要なハズの○○を否定しちゃうのか?の問題)

――――――――――――――――
聖地、聖経、宗教行事、宗教体験、そして、聖典、信仰的に信徒に信頼される方…
そういうものを軽視する方針、
信仰に力を持たせるものを、団体から無くして行く、という。
――――――――――――――――

 ・・・・いやホント。不思議な現象なのよ。

 いやところで雅宣総裁だけども、掲示板の投稿に反して「雅春先生を重視されてイル」のよね(笑)『生長の家ってどんな教え』を読めばよく分るんだけども、総裁も重視、しているのよ。で、ここからがワカンナイ点なんだけども、その、雅春先生を重視しているハズの総裁が、「雅春先生を否定するかのような行動を採る」という、ね・・・・戦時中の軍人のごとしですよ。『生長の家ってどんな教え』を書けるくらいの総裁が、つまり、雅春先生をよく学んでおられる総裁だけど、「どーして信仰に力を持たせるものを、団体から無くして行く」のだろうね。この点がホントに、不思議(※)

 ・・・・なんで、ああなって仕舞うんでしょうかね(笑)本流も、総裁も(笑)

 私の疑問は現在、ここにアルんだけどもね。




<註>

※ この点がホントに、不思議

 まあ、本流説は「信徒激減を防ぐため」らしいね(笑)カタチだけでも雅春先生を看板にしとかないと、信徒が減るから。だから外形的には「雅春先生を重視しているかのように振舞っているのだ!」との事。
 でもこれ、信じられないね(笑)

 だって本流説では総裁は、生長の家を「崩壊させるために存在」してんでしょ(笑)ならば雅春先生をカタチだけでも重視する姿勢、「採らないハズ」だよね(笑)そんな目的が、あるのなら。

721初心者:2014/03/22(土) 09:47:28
訊け様

雅春先生の教えは「天地の万物を神として礼拝する教えである」とされるのですね。もしもこれが事実であれば、雅春先生の教えはイデア論ではなくプロティノスの思想であるといってよいでしょう。

物質界とは自然界でもありますが、ここには宇宙の叡智が埋め込まれていますね。自然界を一者の流出ととらえる。これがプロティノスの思想です。

自然界を一者の流出ととらえるなら、世界を現象世界と実相世界に分ける必要などどこにもないはずです。ふたつに分けずとも唯神実相論は成り立ちますね。それを雅春先生はなぜかふたつの世界に分けられたのです。なぜ分ける必要があったのか、これがわかりませんね。

天地の万物を神として礼拝する教えでありながら、なぜ雅春先生は天地の万物を、実相世界から切り離されたのでしょう。切り離さずとも、それを「一者の流出」とみなせばよいではないですか。一者の流出として礼拝すればよいではないですか。なぜ「現象はない」と否定する必要があったのでしょう。「天地の万物は一者の流出であるから神として礼拝する」。これでよいではないですか。

わたしのいう人間中心主義とは、「悪としてみえている天地の万物は自分の心の影であるから、自分はこの心の影である天地の万物に真理の光を照射してほんらいのあるべき姿としてあらわしだすのだ」というように、世界を自分の意識で処理しようとすることです。

「実相をみる」といいながら、生長の家の人々は、世界を自分の意識のなかで処理しようとしているのではないですか。もしそうであれば、これを人間中心主義といいます。

世界を自分の心の影とみなすこと。これが人間中心主義です。世界を自分中心に組み立てること。これが人間中心主義です。

722初心者:2014/03/22(土) 09:48:18
さくらちゃんへ

>端的にいえば、
一、宗教の教義や論理を根拠にして、
自分が信じた理想の正義、または善を実現するために
都合の悪いもの、邪魔になるもの、またその反対になる考え方を、
「悪や虚説」として、排除する、
という二項対立の考えに陥るものと、
二、宗教行や祈り、感謝の生活を大切にしていく信仰心。
「理想実現」を掲げるというより、
人や物の奥にある「理念」や神性を礼拝する生活。
(二項対立がないので、何かを排除するという発想はない。)
本来の信仰、信仰運動は、わたしは、こちらだと思っています。

これはそのとおりですね。自分の考えと異なる考えを「悪や虚説として排除する」のが、人間中心主義におちいった人物にありがちな行動パターンなのですね。なにしろ、現象はすべてが自分の心の影なのですから、他者の考えといえどもそれは自分の心の影であり、それが「悪や虚説」としてみてえているとすれば、それは自分の心の影としてそのようにみているだけだから、それを「ない」といって否定するのはあたりまえ、となるわけです。

相手がどんなに傷つこうとも、すべては自分の心の影なのですから、「虚説」として否定するのはあたりまえなのです。

ところで、「人や物の奥にある理念や神性を礼拝する」とはどういうことなのでしょう。理念や心性は自分の心の影ではないですね。つまり、生長の家の人々とは、心の影の部分とそうでない部分とを瞬時に、しかも完璧に見分けて、そうでない部分だけを礼拝する能力を身につけた人々であるということなのですね。こんなことができる人たちなんですねえ。

でも、総裁は「こんな器用な真似は自分には無理」と考えられたんですねえ。もっと難易度の低い宗教はないか。このように考えられて、「心の影」というようなややこしいことは考えずに、「すべてを神として礼拝する」という自然宗教へ切り替えようとしておられるということなのですね。

>(イタリアの哲学者ヴァッティモは、西洋形而上学は絶対的価値、真理、普遍といったものを主張する、「強い思考」であり、暴力性がそなわっているとして距離を置くと、言いました。
宗教でも、絶対的価値観、真理、高い理想や正義を主張した時、時に暴力的なものがあります。
…対して、弱い思考というと、誤解されそうですが、
宗教において、なにか…大切なものは、世間の権力や、制度などに対して変革するなどの「力」は、本来求めないものだと思っています。)

イタリアのジャンニ・ヴァッティモですか。アメリカのローティとならぶ「弱い思考」の提唱者ですね。さくらちゃんはヴァッチィモを読んでおられるのですか。いやー、おそれいりました。

いま人類に必要なのは、ローティの唱えるアイロニズムの発想ですよね。ヴァッティモは読んだことがありません。ローティに影響されたわけではありませんが、暴力的な思想はアイロニズムの欠如から生じる、というのはたしかなことのように感じられます。相手の考えていることを「虚説」と言ってのけられるような人々には、たしかに暴力性のようなものを感じます。

723初心者:2014/03/22(土) 10:08:34
ところで、絶対的真理の発想におちいりかねない形而上学が暴力性をともなうのは当然なのですが、形而上学という発想じたいが世界をふたつに分ける発想なのですね。プラトンが世界をふたつに分けたことで暴力的な形而上学がはじまった。つまりは、こういうことですね(じっさいにはじめたのはアリストテレスといわれているようです)。

「虚説」に象徴されるように、生長の家の教えを信じる人々に暴力性がともなうのは、「真の生長の家の教え」が形而上学であることと関係しているのかもしれません。

724「訊け」管理人:2014/03/22(土) 10:09:37
>>初心者さま

>>>天地の万物を神として礼拝する教えでありながら、なぜ雅春先生は天地の万物を、実相世界から切り離されたのでしょう。<<<

 結論から申せば、「切り離しておりません」です。雅春先生は実相と現象とを切り離してはおられず、むしろ、「実相一元」を説かれました(※)その、貴殿云われるところの「プロティノスの思想」が何なのか、当方には理解は出来ません。しかし、雅春先生ですが、実相と現象を「切り離す」ということは、行ってはおられませんね。その点をこの段階では、述べてみます。雅春先生のご主張は、「実相一元」です。



<註>

※ 雅春先生は実相と現象とを切り離してはおられず、むしろ、「実相一元」を説かれました

 むろん対機説法として恰も、その、「実相」と「現象」ですが、「切り離されているかのように説明」されている箇所、それは多々あります。普通の人間には理解が、ついて行き難いからでしょう。そのための方便として恰も、実相と現象が「別ものであるかのような」切り口から、説明されたのだと思います。

725初心者:2014/03/22(土) 10:25:56
訊け様

雅春先生が世界をふたつに分けられたのは、「善のみ」ということを説明するにはそうするしかなかったからでありましょう。世界を「一者の流出」としたときには、一時的に悪があらわれますから、これを認めるわけにはいかなかったのでしょう。

もっともその悪にしても一時的なものであって、いずれは消え去るものですが、「今すぐに消したい」となったときには、世界をふたつに分けて、ひとつの世界を「ない」とするしかなかったということですね。しかしこれにはそうとうな無理があって、人間中心主義の出現といったような矛盾を露呈させた、ということではないでしょうか。

ところで雅春先生は「ヘーゲルの国家観」を述べておられるようですが、そのヘーゲルの真理観によれば、「奇跡が起きたからこれは真理だ」とするような真理は「もっとも貧弱な真理」となるようです。

726初心者:2014/03/22(土) 10:45:55
訊け様

「切り離した」と書けば「切り離してはおられない」との答えがよせられるだろう、ということは予想しておりました(ていうか、「期待していた」といったほうがよいかも)。

そうなんですよね。「現象はない」わけですから、天地の万物が現象であるはずがありませんよね。だって天地の万物はここにありますもの。現象ならあるはずがないでしょう。

天地の万物とは物質体ですね。物質体は実相であり実在なのです。もちろんそれは心の影でもありません。

でもね、たとえ方便とはいえ、ふたつに分けたことで問題が起きてるんじゃないですか。絶対に起きてますでしょう。

727「訊け」管理人:2014/03/22(土) 11:47:00

>>>世界をふたつに分けて、ひとつの世界を「ない」とするしかなかったということですね。しかしこれにはそうとうな無理があって、人間中心主義の出現といったような矛盾を露呈させた、ということではないでしょうか。<<<

 ここの意味が、よくわかりませんね。ところで雅春先生ですが、「ないとするしかなかった」のではナイと思いますよ。むしろ雅春先生のお悟りでは「無かった」わけです。現象ですが、そんなものはナイと。「ナイものはナイ」と。

 で、どうしてこれが、「人間中心主義の出現といったような矛盾を露呈させた」という貴殿の疑問になるのかも、意味を解せずにおります。



>>>「切り離した」と書けば「切り離してはおられない」との答えがよせられるだろう、ということは予想しておりました<<<

 そりゃ、そうですよ。雅春先生は「切り離してはいない」のです。
>>>でもね、たとえ方便とはいえ、ふたつに分けたことで問題が起きてるんじゃないですか。絶対に起きてますでしょう。<<<

そりゃ、誤読される方がおられれば、問題は起きるでしょう。以下に聖典からの引用などを紹介、させて頂きます。雅春先生ですがそのふたつを「分けて」など、おられませんよ。


『生命の實相』第27巻127頁より謹写――

 彼は「事実に面しては」という。しかしその「事実」とは何ぞや。現象のみ、本来無きもののみ。しかもこの「本来無き現象」をありと観るかぎり、彼のごとく実相一如の世界に没入する体験を得るとも、何人も「われらは弱し、われらは完からず」と嘆ぜざるをえないのである。しかし、これを「事実」というのはまちがいであるのである。知れ、事実というは実相のみであるのである。だから実相の実在のみを強調し「弱きものは無し、完からぬもの無し」と、いっさいの悪を空(くう)じ去って、しかして「一切皆善の実相的事実」のみを肯定するとき、われらは現象的事実をも征服しえて、「われらは弱し、われらは完からず」と現象的事実に征服された弱音を吐く必要がなくなるのである。
 生長の家はかく「実相皆善」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。「現象あり」と観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。「現象も現象として在るのであって、かく本体界のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界とを混同するものである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われらは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象界無しと自覚するがゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。

 「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。

<了>

728さくら:2014/03/22(土) 12:21:42
初心者さま

>722
そうです、訊けさま。

ちょっと、勝手に、割り込みますね。


「イデオロギー」
に対抗するというなら、
そういう宗教的な悟りの、
本来の生命を礼拝することに徹した、「信仰運動」に、戻ることでよかったのに、
「エコ、ロジー」を、組織の方針にした、失敗です。
(…想像するに、組織の抵抗や変革は、大変ですよ、。
雅春先生も、政治運動に力を入れて、本来の信仰が疎かになったと言われたことがありましたしね。)

…ただ、訊けさまは、いつも本流と言われる方の主張だけを問題にしていますが、
「真の生長の家」を学ぶといって雅春先生のご文章を熟知し、
指導的立場と言ってる人で方でさえ、
一時的にでも、「虚説」を排除しましょうと、主張したとき、
その指導下の方たちは何の疑問を感じず賛同したのを見たりして、
一見正しくみえる文章で雅春先生を主張してるから同じ信仰観だ、とは個人的には思っていません。

汝ら天地一切のものと和解せよ。
〈…但し、「悪や虚説」を排除して。〉

みなさま、仲良しの実相を顕現しょう!
〈…但し、理解と共感ができない「悪や虚説」を排除して。〉

日本国実相顕現のため、虚説は排除だ!

…どれも立ち位置や思考の方向性は同じで、信仰観が違うという意味で一種の「暴力性」が感じられます。)



その世界だけで「正しい」ことを言えば通用する、というのは、ある意味、怖いことだし、
生長の家やを学ぶというのは、
幅広い宗教的な素養、行や、社会的経験など、「良識」やバランス感覚こそ大切なんだ、と再確認しました。)




環境運動云々、
わたしは、それより、
雅宣総裁が、
確信犯と言われるのは、
「宗教的なもの」を否定する問題の方だと感じているのですが。

729ユタカ:2014/03/22(土) 12:27:58
>>雅春先生も、政治運動に力を入れて、本来の信仰が疎かになったと言われたことがありましたしね。)

いつ、どこで言われましたか? また、出典を明記して下さい。
証明されるまで信じられません。

なぜなら、晩年に雅春先生に直接お会いしたかたから
「組織が大きくなって、もう僕のいう事は通らないんだよ。」とおっしゃったとご本人から聞いています。
場所は長崎の公邸でです。

730さくら:2014/03/22(土) 12:55:18
>>729
いま手元に持ってないので、転写できず申し訳ないのですが、
平成15年度の教修会のテキストになった、

「歴史から何を学ぶか」

の中に、出典が明らかになっています。

政治運動の反省を書かれて、信仰が疎かになったので、信仰を求める信徒が多数さった事実があると、
明記されています。

わたしは、いま転写できませんし、
これを論点に、貴女と議論する気はないので、どなたかにお借りできれば良いですね。


>>「組織が大きくなって、もう僕のいう事は通らないんだよ。」とおっしゃったとご本人から聞いています。

この言葉は、伝聞ですね?出典はないのですね。

でも、あり得ることでしょうね、組織というものは。

731ユタカ:2014/03/22(土) 13:37:15

この言葉はご本人と公邸に行き、私は玄関におりましたが、

お話になったご本人かた直接聞きました。

ですから、さくらさんの>>雅春先生も、政治運動に力を入れて、本来の信仰が疎かになったと言われたことがありましたしね。)

は全く信じられません。 きっと出典など存在しないとまで思ってしまうほどです。

732初心者:2014/03/22(土) 14:06:39
>>727
訊け様

>ここの意味が、よくわかりませんね。ところで雅春先生ですが、「ないとするしかなかった」のではナイと思いますよ。むしろ雅春先生のお悟りでは「無かった」わけです。現象ですが、そんなものはナイと。「ナイものはナイ」と。

世界とはすべてが根源的な一者の自己表現であって、現象というものはどこにもありませんでした。ところが雅春先生という人があらわれて、「現象はない」と言いはじめられたのです。現象というものはそれまで本当にどこにもなかったのです。ところが、雅春先生が「現象はない」といわれたことで、一部の人々のあいだで現象というものが姿をあらわしたのです。

その一部の人々に向かって、雅春先生は「現象はない」とお説きになられました。いったいなにが起こったのでしょうか。それは、もともとなかった現象を雅春先生がおつくりになられて、それを「ナイものはナイ」といって否定なさるという出来事であったのです。雅春先生は、なぜこのような手の込んだことをなされたのでしょう。

それはですね、ここにある苦しみを今すぐ消し去るには、ないはずの現象をつくりだして、それを「ない」と否定するしかなかったからです。ないはずの現象をつくりだすことでしか、ここにある苦しみを消し去ることができなかったからです。人々の苦しみを消し去るためには、ないはずの現象をつくりだして、それを「ないとするしかなかった」ということです。

>で、どうしてこれが、「人間中心主義の出現といったような矛盾を露呈させた」という貴殿の疑問になるのかも、意味を解せずにおります

それまでどこにもなかったはずの現象を雅春先生がおつくりになられたことで、一部の人々は、ふたつに分割された世界を認識するようになりました。「現象はない」ということをすんなりと受け入れられる人もいましたが、受け入れられない人もいました。

受け入れられなかった人々は、ないはずの現象を自分の「心の影」と思い込むようになりました。そして現象を自分中心にコントロールしようとしはじめたのです。雅春先生が現象をおつくりにならなければ、このようなことはたぶん起きてなかったでしょう。

じっさいにも雅春先生は、#727の引用文のなかで「現実人生の支配力」という言葉をもちいておられるではないですか。人間中心主義がもちきたしたもの、それが「支配することへの執着」なのです。

733初心者:2014/03/22(土) 14:21:02
ところで訊け様、対機説法の件ですが、ほんらい対機説法とは相手にあわせて個別になすものではないのですか。「対機」とは相手にあわせることではないのですか。どうやれば文書伝道で、不特定多数の人々にあわせた説法ができるのでしょうか。矛盾がつぎからつぎと出てきて、読み手は混乱するばかりではないですか。

いったいなにが真実なのか、どうやってみわければよいのですか。「真の生長の家の教え」といっている人のように、どれが対機説法でどれが「真の教え」であるかをみわけられる人ならよいですが、そうでない人はどうすればよいのですか。

734さくら:2014/03/22(土) 14:37:19
>>731

「歴史から何を学ぶか」
には、雅春先生のお言葉の出典は、
明らかになっています。

このテキストでの、教団側の論理云々はともかく、

それよりわたし自身は、
「信仰運動」の方を推進することへの意味が、納得できる箇所がありましたので、参考にしました。

>>「組織が大きくなって、もう僕のいう事は通らないんだよ。」とおっしゃったことと、

と、

>>ですから、さくらさんの>>雅春先生も、政治運動に力を入れて、本来の信仰が疎かになったと言われたことがありましたしね。)

は全く信じられません。 きっと出典など存在しないとまで思ってしまうほどです。<<

という論理関係は、これを読んだだけでは、いまひとつ理解ができませんでしたが…、


わたし個人では、
雅春先生の言う、日本の実相顕現とは、
宗教的な祈りにある、という方を、信じているものです。


お互い信じる信仰観で、
それぞれの道で、頑張りましょうね。

ありがとうございました。

735ユタカ:2014/03/22(土) 15:27:36

>>「歴史から何を学ぶか」
には、雅春先生のお言葉の出典は、
明らかになっています

読んでみたいものです。
いくら明らかと言っても、それを此処に貼り付けしてくだされば、
一目瞭然となりますよ。

736初心者:2014/03/22(土) 16:18:15
訊け様

>まあ、本流説は「信徒激減を防ぐため」らしいね(笑)カタチだけでも雅春先生を看板にしとかないと、信徒が減るから。だから外形的には「雅春先生を重視しているかのように振舞っているのだ!」との事。
 でもこれ、信じられないね(笑)
 だって本流説では総裁は、生長の家を「崩壊させるために存在」してんでしょ(笑)ならば雅春先生をカタチだけでも重視する姿勢、「採らないハズ」だよね(笑)そんな目的が、あるのなら。

ようするに、本流説とは、総裁は教団の崩壊を防ぎつつ崩壊させようとしている、ということなんでしょ。でもですね、本流は、「総裁は教団を崩壊させようとしている」と主張しているときは、「総裁は教団の崩壊を防ごうとしている」と主張していたことを忘れることができるんですね。もちろん、逆の主張をしているときにも、もう片方の主張を忘れることができます。だから、本流にしてみれば矛盾はどこにもないわけです。

雅春先生の教えにも似たような矛盾があるのではないですか。たとえば、「実相には形がある」といいつつ「形がない」といってみたり、、「現象世界は一者がつくりだしている」といいつつ「ひとりひとりがつくりだしている」といってみたりといった具合にです(「出典を示せ」といわれても、雅春先生のご著書は手元にないので無理です)。

ようするに、「矛盾はいっさい考えない」、これが生長の家のやり方なのです。「矛盾はいっさい考えない」とは、「矛盾するものはけっしてむすびつけない」ということです。これが生長の家のやり方ですから、総裁にかんしても「矛盾するものはけっしてむすびつけない」とするいつものやり方が効果を発揮するわけです。ちなみに、矛盾するものをむすびつけると、人間知として否定されます。

737さくら:2014/03/22(土) 16:28:49

>>735
前にも謹写したんです。
春さまとのやりとりのために。
(最終的には、春さまは、話の分かる方でした。)


ここでは、
これを論点に、
今後もだれとも、
そして、貴女とも、議論のようことをする気には、一切、まったくないので、

貴方が、それほど執拗に願われてるなら、
いつか読めると思いますよ。

がんばってください。

合掌、ありがとうございました。

738初心者:2014/03/22(土) 18:19:48
訊け様

>われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。

#727で引用されていた上記の雅春先生のご文章ですが、これがまさしく、わたしのいっている人間中心主義なのですよ。

雅春先生がいっておられるのは、実相の完全性を現象の不完全に投影してこれを完全なものに変える、ということですよね。「征服」とはつまり不完全をなくすということですよね。

問題は誰が投影するのか、ということです。もちろん投影するのは人間ですよね。人間が投影することで不完全を征服するということですよね。

このことには、じつはふたつの問題があります。ひとつはこれが人間中心主義であるということです。人間には現象を支配しコントロールする力がある。こういうことをいっているわけですから、これはあきらかに人間中心主義の考え方です。

さらに別の問題があります。この問題こそが、雅春先生の教えを完全否定する問題なのです。

訊けさん、上記の引用文で雅春先生がなにをいっておられるか、わかりますか。雅春先生は「主観と客観を一致させよ」といっておられるのですよ。わかりますか?実相を主観、現象を客観と考えればわかりやすいでしょう。

主観と客観は一致しない。ソシュールによってこのことが証明されています。一致は不可能なのです。この不可能を雅春先生は要請しておられるのです。雅春先生の教えは、ソシュールによって完全否定されています。

739「訊け」管理人:2014/03/22(土) 19:26:01

>>初心者さま

>>>このことには、じつはふたつの問題があります。ひとつはこれが人間中心主義であるということです。人間には現象を支配しコントロールする力がある。こういうことをいっているわけですから、これはあきらかに人間中心主義の考え方です。<<<


 いやなぜ「問題」なのか・・・・・それが、わかりません。この種の中心主義ならば、むしろ、喜ばしいのではナイでしょうか。いや、この種の考えがなければ人間は、「状況に流される」であるとか「ニヒロズムに陥る」ということに、なりはしないですか。また、ここで雅春先生が云っておられる概念は、〝人間中心主義〟ではなく実は、「神」です。私はそのように読みました。

 人間(肉体の)には力はナイのだ、と。実相一元を主張されておられるご文章ですからこれを、「人間中心主義として」解釈されるのは、少々ムリはないでしょうか。また、以下の点ですが、


>>>引用文で雅春先生がなにをいっておられるか、わかりますか。雅春先生は「主観と客観を一致させよ」といっておられるのですよ。わかりますか?実相を主観、現象を客観と考えればわかりやすいでしょう。

主観と客観は一致しない。ソシュールによってこのことが証明されています。一致は不可能なのです。この不可能を雅春先生は要請しておられるのです。雅春先生の教えは、ソシュールによって完全否定されています。<<<


 これは、貴殿の解釈が間違いだと思います。雅春先生はそのような主張は、されておられません。先生のご主張は「主観と客観を一致させよ」では、ありませんよね。よく、読まれてみてください。先生のご主張はそのようなものではなく、「主観も客観もナイ、ただ、実相あるのみ!」には、なりませんか。たしかに方便的に、「現象に投影していくのだ」「征服していくのだ」との説明文は見えますけども、これはあくまでも、対機説法なのであって、本論ではナイでしょう。(※)あくまでも先生のご主張は、

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 の部分だと、思います。これが>>727掲載の、聖典の内容だと思いますけども、いかがでしょう。

 ご返答をお待ちします。





<註>

※ これはあくまでも、対機説法なのであって、本論ではナイでしょう。

 「主観と客観」ですが、雅春先生は「仮にあるかのような前提で」語ってくださるワケです。そしてそんな面の配慮がおありですから、私のような凡人にも伝わりやすいのだと思います。ですけれども、この、対機説法を捉えてそして、「谷口雅春は、主観と客観を認めている!」とか云われる方あらば、それは、間違いです。クドイですがそれは、単に(私のような凡人向けの)対機説法であり、方便だからです。本筋の主張で雅春先生は、未だかつて一度たりとも「実相も現象も、ある」とはご主張あそばされては、おられません。

740初心者:2014/03/22(土) 21:16:58
訊け様

>人間(肉体の)には力はナイのだ、と。実相一元を主張されておられるご文章ですからこれを、「人間中心主義として」解釈されるのは、少々ムリはないでしょうか。

人間には力がないということですね。では「実相をみる」といっている人たちは、なにをなさろうとしておられるのですか。「実相をみる力が自分にはある」とおもうからこそ「実相をみる」といっているのではないのですか。

いったいぜんたい、こういう人たちはなにをなそうとしているのですか。「実相をみる」というとき、この人たちは全員が神になっているということですか。神になって世界を変えようとしているということでしょうか。

>これは、貴殿の解釈が間違いだと思います。雅春先生はそのような主張は、されておられません。先生のご主張は「主観と客観を一致させよ」では、ありませんよね。よく、読まれてみてください。先生のご主張はそのようなものではなく、「主観も客観もナイ、ただ、実相あるのみ!」には、なりませんか。たしかに方便的に、「現象に投影していくのだ」「征服していくのだ」との説明文は見えますけども、これはあくまでも、対機説法なのであって、本論ではナイでしょう。(※)あくまでも先生のご主張は

「病気はない」とおもうとすれば、これは主観ですよね。ふつうに考えれば、「病気はない」という主観と「病気が消えた」という客観的出来事の一致をもって「これは真理だ」ということになりますね。主観と客観の一致をもって「これは真理だ」といいますよね。

でも訊け様はそうではないといわれる。一致は必要ないといわれる。ならば訊け様は「病気が治るから雅春先生の教えは真理である」となぜいっておられるのでしょうか。主観と客観とが一致したから「これは真理だ」といっておられるのではないのですか。

一致が必要ないのであれば、治ろうが治るまいが、どっちでもいいことでしょう。「奇跡が起きた」とことさらに言い立てる必要もないでしょう。

ところで、雅春先生は「現実人生を支配する」といっておられますよね。これも対機説法の方便ということですか。主観も客観もなければ支配のしようがありませんから、これも方便ということなのですね。これをはっきりさせてください。

741初心者:2014/03/22(土) 21:43:22
訊け様

よくはわからないのですが、生長の家では「いいことを思えばいいことがあらわれる」といいませんか?もしいっているとすれば、これは主観と客観の一致ではないのですか。

雅春先生は「いいことを思っていいことをあらわしなさい」と信徒のみなさんに要請しておられるのではないのですか。このようなかたちで、主観と客観の一致を要請しておられるのではないのですか。

742初心者:2014/03/23(日) 08:52:25
イデア論とはなにか、というと主観と客観の一致なのですね。主観としてあらわれたイデアと、客観としてあらわれている物質界とをいかにして一致させるか。これがイデア論がなそうとしていることなのです。

では、古代ギリシャの思想がなんであったかというと、それは言葉の一致です。言葉の姿をいかにして一致させるか。これが古代のギリシャ人たちがなそうとしていたことです。

主観と客観の一致と言葉の姿の一致。むつかしいのはどちらでしょう。ふつうに考えれば、言葉の姿を一致させるほうがたやすい、となりますね。でも事実は逆です。

主観と客観の一致は不可能なのですね。不可能であるからこそ、逆に「一致できた」と簡単におもえてしまうのですね。

言葉の姿は一致させることができます。ここでいう言葉の姿とは、自然の言葉の姿と、人間の言葉の姿です。このふたつの言葉の姿は一致させることができます。

一致させられるということは、一致しているかどうかがわかってしまうということです。一致していなければ、「一致していない」ということが実感としてわかってしまいます。「この言葉は一致していない」ということがじっさいにわかってしまいます。

無数にある人間の言葉のなかで、自然の言葉に一致させられるのは、おそらくひとつだけでしょう。このたったひとつの言葉をみつけださなければならないのです。みつかったときには、「一致した」との実感があります。

しかしこれは簡単なことではありません。しかも自然の言葉は、「一致した」とおもえた瞬間に、まるで狩りの獲物が逃げていくかのようにその姿を変えてしまいます。その変化した姿にふたたび言葉を一致させなければならなくなります。もしかしたら自然は、このようにしてみずからの言葉を語りかけているのかもしれません。

主観と客観の場合は、一致を確認するすべがありません。たとえ一致してなくても「一致していない」ということが実感としてわからないのです。そのために人は、なんとなく一致しているような気になってしまいます。

「意は似せやすく、姿は似せがたい」と本居宣長がいっているのはこのことです。主観と客観は似せやすいが、言葉の姿は似せがたい。宣長はこういうことをいっているのです。

宣長がいうように、和歌は、自然の言葉の姿と人間の言葉の姿とを似せるためのいとなみであるといえそうです。もしそうであれば、古代のギリシャ人たちがやろうとしていたこととおなじことを、日本人はずっとやりつづけてきたということになります。

西行はいいました。「自分が歌を詠むのは、たんに風景や文物に心を動かされて詠んでいるだけではない。それを超えた歌という形にの中にあるもの、形に見えないもの、その向こうにある、えもいわれぬ真実をつかまえたいとおもう。それは仏道で悟りを得ることと同じことなのだ」。

いっけんすると、歌を詠むということは主観と客観とを一致させることのようにおもえますが、ほんとうはそうではありません。西行がいうように、歌を詠むのは、自然の言葉の姿と自分の言葉の姿とを似せるためであるのです。そして、このことが「仏道で悟りを得ることと同じである」と西行はいっているのです。

一致したか一致してないかがわからぬような心など、ほんとうはどうでもよいものなのです。言葉こそがすべてなのです。自己をはこびて万法を修証させようとするはイデア論であり、迷いなのです。万法すすみて自己を修証するとは、万法に言葉の姿を似せようとすることであり、これこそが悟りなのです。西行はこういうことをいっているにちがいありません。

※言霊としての和歌は主観と客観を一致させようとするものであり、この意味ではイデア論といえるのかもしれません。

743初心者:2014/03/23(日) 16:59:40
古代のギリシャ人は、大地には真理が隠されていると考えていました。その大地からいかにして真理をあらわしいだすか。ギリシャ人はつねにこのことを問題にしていました。

プラトンがイデア論を唱えたことで状況は一変します。イデア論は、イデアの真理によって大地をいかにして照らしだすか、ということを問題にしていたからです。イデア論以降、大地は、真理が隠された場所ではなく、真理を照射する場所であるとみなされるようになりました。真理を照射するのはもちろん人間です。

たいへんに大きな変化があったということがわかります。極論すればこれは、大地が人間の運命を決めていた時代から、人間が大地の運命を決める時代への変化なのです。

イデア論の登場によって、大地中心主義から人間中心主義への大転換がおこなわれたのは間違いありません。人間中心主義とは、「人間が天地万物の価値を決める」とする、思い上がった発想をいいます。

総裁は、時計の針を逆転させ、人間中心主義から大地中心主義へと回帰しようとしておられるにちがいありません。

744初心者:2014/03/23(日) 17:29:35
訊け様

先ほどの投稿で、「真理を照射するのはもちろん人間です」と書きましたが、「照射する」とはどういうことかおわかりでしょうか。それは「それがなんであるかを真理の言葉で言い当てようとすること」なのです(「物質はない」とは、物質の非存在を真理の言葉で言い当てようとすることです)。

日本人は真理を言葉で言い当てようとはおそらくしてこなかったですね。むしろ自然がそのつど語りかけてくる真理を言葉に変えようとしていたのではないでしょうか。

「物質はない」、「現象はない」、「実相は完全である」。このように、真理を言葉で言い当てたがるのはなぜなのでしょう。なぜ生長の家の人々は、このようなことを延々とやりつづけているのでしょう。ふつうの日本人がおそらくはやろうとしていないことを、なぜ延々とやりつづけるのでしょう。

いったいなにがそうさせているとお考えですか。わたしには「主観と客観とを一致させたい」とする衝動にとりつかれているとしかおもえないのですが、いかがお考えでしょう。

745初心者:2014/03/23(日) 20:03:02
病気治しと環境破壊から自然をまもることと、どっちが大事だとみなさんはお考えですか。いくら病気を治しても、自然が破壊されたらおわりです。どっちが大事かはあきらかでしょう。

このようなことをいえば、なぜ宗教団体が環境運動をやるのか、ほかの団体や個人にまかせておけばよいではないか。このような批判が返ってきますね。

宗教がやらないとダメなんです。環境破壊の原因は人間中心主義にあるんです。人間中心主義をなんとかしないかぎり、問題はなにも解決しないのです。そして、それができるのは宗教だけなのです。生長家が率先して自然宗教へと回帰し、大地中心主義を世の中に広めなければならないのです。

このように書けば、「そのように考えるのは悪を認める二元論だから虚説だ」との批判が生長の家の人からよせられますね。もちろんですから、こうした批判にも対応する必要がでてきます。

こういうときには、「そうして批判する生長の家こそ人間中心主義である」と逆批判するしかありません。真理を言葉で言い当てようとすることじたいが、すでに人間中心主義なのです。「物質なし」といってしまえば、これだけで立派な人間中心主義なのです。ですから、この逆批判はまっとうな批判なのです。「虚説」といってるほうが虚説なのです。

総裁は真理を言葉で言い当てようとしておられますでしょうか。おそらくそれはないですね。言い当てようとしておられたなら、いまのような批判は受けずにすんでいたでしょうから。

批判を覚悟であえて言い当てようとはなさならなったとすれば、これは「さすが」というほかはありません。

746初心者:2014/03/24(月) 06:49:07
訊け様

わたしのいう人間中心主義を定義します。

「言表と出来事との一致をもって真理とみなすこと」。

これを定義にいたしたいとおもいます。ちなみに、「言表」とは「言葉で言い表すこと」です。

たとえば「病気はない」と言表してじっさいに病気が治れば、言表と出来事とが一致したのでこれを真理とみなすのが人間中心主義です。

したがって、「言葉で真理を言い当てられる」とおもうことも人間中心主義です。あるいは、「言葉で真理を言い当てたい」と欲するのも人間中心主義です。

ようするに、そのものの価値、たとえばそれがあってよいものなのか、あってはならないものなのか、といったようなことはすべて「人間が決める」、と考えるのが人間中心主義です。

この意味で、生長の家は人間中心主義といえます。

747初心者:2014/03/24(月) 06:52:36
訊け様

#711の投稿でわたしは、「筋書きの妥当性」を訊けさんに打診いたしましたが、訊けさんからは「雅春先生は人間中心主義ではない」とのご返信をいただきました。

どうでしょう。雅春先生の教えは、これでもやはり人間中心主義とはいえないとお考えでしょうか。雅春先生は、言表と出来事との一致をもって真理としておられないのでしょうか。あるいは生長の家の方々がそのように考えておられるとはいえないのでしょうか。いかがでしょう。

イデア論は「言表と出来事との一致」をもって真理とみなそうとします。こうした真理観が「ものの価値は人間の言表によって決まる」との思い込みを生みだしました。言表とは主観でもありますから、イデア論は「物の価値は人間の主観によって決まる」との思い込みを生みだしたということになります。これが、のちに環境破壊をもたらす人間中心主義のはじまりです。

748初心者:2014/03/24(月) 07:44:41
総裁が宗教家として適性を欠いているとみなされるのは、以下の3つの理由によるものと考えられます。

①人間性に問題がある。
②真理を語れない。
③救済を否定している。

以上の3つが「適性を欠いている」とされる理由であるとおもわれます。人間性はいくらでもごまかせる、というのはトキさんの掲示板の事例でもあきらかでありますから、これは問題にいたしません。

真理を語れない。これが事実であるとして話をすすめます。事実は、語れないのではなく、語ることを欲しておられないのです。

真理を語るとは、真理を言葉で言い当てようとすることです。すでに定義いたしましたように、これは人間中心主義です。総裁は人間中心主義を否定しておられるわけですから、真理を言い当てようとなさるはずがありません。

真理を語ろうとすれば、どうしても人間中心主義におちいってしまいます。人間中心主義を否定していながら、それでも真理を語ろうとするのは矛盾なのです。

「自然環境をまもりましょう」といいつつ、それでも真理を滔々としゃべれる人物など誰が信用いたしますか。

総裁が救済を否定しておられるとすれば、その理由は、救済が人間中心主義にむすびつくと知っておられるからです。

「病気はないのです」といってしまったら、この時点ですでに人間中心主義を認めたことになります。人間中心主義を否定しておられる総裁がもしも、「心をいれかえて、これからは個人救済もやります」といわれたなら、このひと言で総裁の信用は地に堕ちるでありましょう。

個人救済と環境問題を計りにかけられたとき、総裁は環境問題の解決を優先されたのだとおもいます。

以上が、総裁が真理を語ろうとなされない理由であり、個人救済を否定される理由と考えられます。総裁は、宗教家として節度ある判断をなさっておられるのではないでしょうか。

このようにいったところで、みなさま方は、総裁を余計に否定なさるかもしれません。逆効果といえば逆効果でありますが、なぜそうなるのか、その理由を考えるのはけっして無駄ではないと考えます。

749「訊け」管理人:2014/03/24(月) 08:40:10

>>740初心者さま

 論点が多岐に渡りますが、いくつかに絞って語ってみます。ここでは以下二点に絞って、返信してみます。その二点とは、

○ 雅春先生は「主観と客観の一致を要請している」のか否か
○ 人間中心主義は、問題なのか

○  これです。これに関して以下、雅春先生のご主張を紹介して参ります。


<雅春先生は「主観と客観の一致を要請している」のか否か>

○  再度申し上げますが雅春先生は、そのような思想を紹介されては、おられません。>>727にて紹介させて頂いた如く、雅春先生のご主張は明快に、「実相一元」です。一元なのですから「一致させるもナニもない」のです。一致させるもナニもなく、「ただ実相一元」というのが、光明思想です。これが先ず、述べたい点です。

 ・・・・で、次に「方便」「対機説法」の面から、この件を語ります。いやたしかに一見しますと、貴殿云われるが如くです。雅春先生ですが恰も、実相と現象との二つを、「ある」と看做しておられる気する、そんなフシを感じる記述箇所は、ございましょう。その点で貴殿ご主張の趣旨は、理解できます。しかし、先にも述べましたように「それ」らの記述は、あくまでも「方便」「対機説法」です。(※1)光明思想の本筋ではナイのでありこれら(「方便」「対機説法」)を以て雅春先生が、「実相と現象を分けて解釈している!」と主張される方がもしもあらば、当方返信は「その主張は少々ムリがある」になります。

 ・・・・・で、補足めいた話などを一点。「心の法則」に関してです。

 雅春先生は聖典の前半では、この、心の法則を説かれておられます。そしてその記述箇所では確かに、「実相と現象と、ふたつがあるかのような」記述のされ方が、なされております。ですがその後、何巻だったか失念しましたが雅春先生が突如、「今から本当のことを語るのであります」と、主張を一転される箇所があるのです(※2)。

 ・・・今、その箇所を見つけられナイため、紹介できないのが残念ですけども雅春先生は、「心もない」ということを主張あそばされる箇所、これがあります。前半部分で語られてきた「心の法則」ですが、それすらも「ナイのですよ」とご説明、される箇所なのです。

<人間中心主義は、問題なのか>

 さて、貴殿のご定義は>>746にて、確認致しました。けれども、「なぜそれが問題なのか」が、不明です。これを問題とされる理由は、いったい何なのでしょうか。




<註>

※1 先にも述べましたように「それ」らの記述は、あくまでも「方便」「対機説法」です。

 現象を仮に「ある」として記述された方が、私のような凡人には伝わりやすいワケです。その意味で雅春先生における「矛盾」(=貴殿からご覧になられれば矛盾でしょう)とは、私にとっては「愛念」に映ります。雅春先生は、「実相と現象を混同していないか!?」てな批判を浴びるリスクを(敢えて)採られて、私の様な凡人にも分り易いように説明を、されておられると思うためです。たとえば雅春先生が、「この方のガンが治ったのであります」 ―― こんな記述をされておられたとしるならば、「ほら見ろ!谷口雅春は『ガンがある』ことを前提に語ってイルじゃないか!」てな批判をすることは、カンタンだと思います。ですがその、「ガンが治ったのであります」の「治った」とは、私のような凡人向けの「方便」なのであり「対機説法」なのです。光明思想の本筋では「ない」のです。


※2 「今から本当のことを語るのであります」と、主張を一転される箇所があるのです

 まあ正確には、「一転でも何でもナイ」のですがね。雅春先生は心の法則を説かれつつも、「実相一元の世界」つまり、「現象などナイ」世界を聖典前半でも、繰り返し主張されておられます。(何回か通読すれば、それがわかります)

750「訊け」管理人:2014/03/24(月) 08:52:49

>>749主張の補足

 「谷口雅春と云う人物が『心の法則』(横の真理)のみしか語っておられなかったならば、初心者さまの批判・疑問は的を射ている」 ―― そんな話です。


 ・・・・重要ですんで繰り返しますが、その、「実相と現象のふたつを扱っているではないか」(趣旨)という貴殿の疑問に関する当方返信は、既述の如しです。それらはあくまでも「方便」「対機説法」です。仮に谷口雅春という人物が実相一元を説きながらもたまに、「・・・・そのご婦人のガンが治ったのであります」というような記述をしておられようが、矛盾はナイのです。その記述に於ける「ガン」「治った」とはあくまでも、(私の様な)凡人向けの対機説法なのであり、「こんな風に書かないとワカンナイ」ための方便なのです。光明思想の本筋とは、違いのです。ここのところが、私が主張したい点です。

 まとめますが、貴殿が種々ご提出あそばされた疑問の数々ですがそれらは、あくまでも、「心の法則」に関することです。「谷口雅春と云う人物が『心の法則』(横の真理)のみしか語っておられなかったならば、初心者さまの批判・疑問は的を射ている」 ―― それが現段階での、率直な感想です。




752「訊け」管理人:2014/03/24(月) 08:54:38
(×)光明思想の本筋とは、違いのです。
(○)光明思想の本筋とは、違うのです。

753さくら:2014/03/24(月) 09:14:34
>>748
初心者さま

①仕方ありません。

②真理を語れないとは、なにを持って真理というかわかりませんが、
生長の家の教えの基本は、ほぼ正確には「解説」されているのですよ。

(もしかしたら、初心者さまが言われる、大地の真理や身体性を否定されておられないのかもしれません。
実相と現象二元論にしてはいけない、ということも書いて、
「真性」を味わうことが大切である、と言ってます。)

確かに、総裁は人間至上主義を否定していますが、
それは、生長の家の真理からくるとは、言われてはいません。
科学万能主義や、原理主義(わたしにはロゴス中心主義ですが、)を、否定されていると思います。


ただ、問題は、そこに、「宗教的な力」をもたせることを、否定されている節がある、ということなんです。

わたしの本は、聖典とは、呼ばないで下さい、
総本山を、聖地と呼ばない。

生長の家の体験談で「奇跡」が起こるというのは、ほとんど真理とは関係ないことが多い、とも言われていました。
(これは、心理学の知識を用いられて、宗教的奇跡の認識とはなにか、など、考察されていたように思います。)

③救済。

環境問題に取り組むことが、総裁の考える、救済だったんです。
でも、わたしはこれは、何度もいうように、組織の方針にしてエコロジー運動にして、
宗教的なものを、否定していることに、問題があると思っています。

754さくら:2014/03/24(月) 09:22:38
訊けさま

訊けさまは、
「虚説」の考えを認めて、それを排除しましょう、という指導も、
対機説法であり正しい、というお考えですか?

755「訊け」管理人:2014/03/24(月) 09:35:06

>>754さくら

 いやまた、こりゃなんか、モノスゲエこと聞いてくんな、オマエ。

>>>訊けさまは、
「虚説」の考えを認めて、それを排除しましょう、という指導も、
対機説法であり正しい、というお考えですか?<<<

 ・・・・・OKとしようか、虚説の排除は。いや、たとえば、藤原敏之先生は練成会を妨害シタ奴に対し、「出て行け!」って云ったらしいね(笑)これ、虚説の排除とも、言えなくもナイ。なので排除だけど、OKとしよう。だけどもね・・・・・・・・まあ、排除の前に「やり取りは必須」だろうね。(アタリマエだけど)

 問題なのは、やり取りもせずに「排除」なんだろうね。

 「オマエは間違っている!」「雅春先生に反している!」・・・・・そんな言葉は多々、掲示板に踊れども、未だかつて一度たりともその言っている本人が聖典を、「読んでいたためしがナイ」よね(笑)読まずに「お前は間違っている!」だからね(笑)これじゃ、笑われるよね。ですんでまあ、排除もOK(と仮定)して、だよ?排除OKとしても前段での「やり取り」くらいは、まあ、必須じゃないかなあと、思うんだ(アタリマエだけどもね)



756「訊け」管理人:2014/03/24(月) 09:39:12


 ・・・・て、云うか排除だけども、オレはOKとは思ってないからな(笑)。



追伸

 まあ、「やり取りをしている最中の、珍文妨害」だけども、あれは排除(?)でいいんじゃ?いやだって、だよ・・・・・・政治経済の話をしている最中に、だよ、たとえば、「昔の彼氏の話」とか開始する参加者いたら、これ、迷惑でしょうよ(笑)まあ、こんな場合は排除(て、いうか「ふさわしい場所へお戻り頂く」ことは、必要だと思うがね(笑)

757さくら:2014/03/24(月) 09:50:58
…すみません、いきなり、話の途中で。
わかってます。

虚説を、排除は、
わたしにとりましては、
信仰の、本質的な、部分なんです。
人間的に、どう誤解されても、なんにしても、
どうしても、「信仰」において、譲れない、一点があり…。

…もう、話はそれるかもしれませんが、(女ってこれだから、…って言わないで、、汗)
実は、きのう、宇治の友人から久しぶりに電話があり、
榎本一子先生から、榎本恵吾先生がわたしを覚えていて下さっていた話を聞いて、おどろきました。
…晩年の、小さな出会いさえ心をとめて頂いた深いご愛念に、今になって気づき、思わず涙が出ました、。


久しぶりに、先生の「葩(はなびら)さんさん」を読んで、さらに、泣きました。

「無神」も、思い出しました、
一部、謹写させて下さい。


『もしも、神というものがあって、その神に向かって誰かが「神は無い」と言ったとすれば、
神は、「その通りである。私は無いのである。」と言われるであろう。
 そして逆に、その人に対して、「あなたによって私は生かされているのであります」といって礼拝されるのではなかろうか。

 神ご自身が『私が全宇宙の生みの親である。〇年〇月〇日。』などというものを、どこかに建てておられるとは、どうしても思えない。もしも、そういうものがあれば、そんなものを、自ら建てられるようなものを神と呼ぶ訳には行かない。

 神は全宇宙を創造し給うていながらその姿を消しておられるのであります。

 神は、人間を礼拝し給うているのであります。

春には花を咲かせ、野山を緑でかざり 雨を降らせ、陽を明るく
 風を渡らせて、何とかして人間を喜ばせてやろうとしておられるのである。

 生きた花々草々をもって、神は我らを供養し給うているのであります。
 しかし、依然として神はご自分を消しておられるのであります。

 どこまで消しておられるか。

 それは、神がお生みになった人間に「神は無い」といえるようにしておられるまでにであります。
 「神は無い」という声も、神のいのちによって人間はそう言っているのであります。そこまで神ご自身で、無神になっておられるのであります。

 「神など無い」と言えば言うほど、そこに、神の無神の聖なる輝きが、証明されているのではないでしょうか。

 日本神道の幽の幽なる神とは、ある意味でこのことを言っているのかもしれません。
宗教も、真の宗教はこの神の無神なる輝きをうつしたものであるはづである。
宗教が「この教えがお前たちを救ってやるのである。この教えにふれなければ、あなたは救われない。」というようなものであれば、即、それは神ではなく、愛ではなく、聖なるものであるという訳にはいかないのである。

 人前に立って「救ってやった。救ってやった。」というところには、聖なるものはないのである。

 説法も、お経も、そこにもし「この説法を聴かなければ救われない」とか、「この本を、このお経を読まなければ救われませんよ」というのを、少しでも残しておれば、それは無我ではなく、愛でもないのである。
それは無神の聖なるいのちの流れとは、およそかけはなれたるものでありましょう。』

758さくら:2014/03/24(月) 09:51:18
こういうご文章に接していると、
真の生長の家の教えのどこから、
「虚説」の考えを排除する、混乱する人とは距離を置く、という人を傷ける発想が、どういう指導で出てきたのだろう、と思えてしまうんです。

でも、だからこそ、他を見ず、信仰の原点に帰ります。

759「訊け」管理人:2014/03/24(月) 09:55:59

>>>「虚説」の考えを排除する、混乱する人とは距離を置く、という人を傷ける発想が、どういう指導で出てきたのだろう、と思えてしまうんです。<<<

 だよな。それは、基本だと、思うんだけどもね。なんで、できないんだろう・・・・

 あなみに「あの」(「あの」を強調)、あの、無免許掲示板スラも、こんな方針ダケは、あるんだぜ?(笑)

――――――――――――――――
「生長の家光明掲示板・第二」のルール/Regras

④これから本掲示板の宣言や方針に対して疑問や質問を提出する「去就に迷える信徒様たち」が多く現れます。それらの人達には、その人達の気持ちを汲んで説明を行ってください。決して、「我々が正しいのだ。貴方が間違っている、わかっていないのだ。」で終わらないようにご留意願います。「去就に迷える信徒様たち」が離れていくような書き込み文には、管理人が警告などを行います。

――――――――――――――――

 ・・・・・・。(小爆笑)





760初心者:2014/03/24(月) 11:03:12
訊け様

「主観と客観の一致」ということでわたしが言っておりますのは、雅春先生の教えの矛盾とか、そういうことではないのです。

わたしがいいたのは、雅春先生の教えは、言表と実際の出来事との一致を必要としているのかしていないのか、ということです。

「物質はない」との教えでありながら「物質」が本当は実在していたというように、言表と実際の出来事が一致していなくても、雅春先生の教えは成り立つのか、ということです。

「病気はない」との教えでありながら、病気が治るという出来事がひとつも起こらないというように、言表と実際の出来事が一致していなくても、雅春先生の教えは成り立つのか、ということです。

761初心者:2014/03/24(月) 12:01:24
訊け様

>さて、貴殿のご定義は>>746にて、確認致しました。けれども、「なぜそれが問題なのか」が、不明です。これを問題とされる理由は、いったい何なのでしょうか。

具体例で話したほうがよいですね。

「総裁のいっていることは虚説だ」といってる人は今もいますね。これにたいして、「どこが虚説なのか、具体的にいってみろ」と回答を要求したところで、ロクな答えは返ってきません。しかしそれでも、総裁を「虚説」といいつづける人がいます。

こうしたことから、客観的事実とは関係なく、「虚説」という言表はその人にとって絶対的な事実であることがうかがえます。自分が「虚説」と言表すれば、それとおなじ出来事が客観的世界でも起きているとその人は信じきっている、と推測されます。

ここで問題にすべきは、世間のごくふつうの人々も「虚説」という表現をもちいるのか、ということです。わたしは聞いたことがありません。「あの人のいってることはおかししいんじゃないか」とか「「あの人のいってることは自分の考えとちがう」とか、こういうのは聞きますけど、「虚説」といって相手を否定する人とは出会ったことがありません。

世間の人々というのは、気に入らぬ言い分ではあっても客観的に評価しようとはしますよね。ところが、「虚説」といってる人にはこれがない。客観的に評価しようという気がまったくないのです。なぜこうなるのかといえば、「病気はない」といえば病気がないのが絶対的事実であり、「実相がある」といえばこれが絶対的事実となる世界に、そのひとが住んでいるからなのです。

「虚説」といってのけられる人というのは、言表と客観的事実とが絶対的に一致する世界に住みつづけている人なのです。そのために、言表をうたがおうとはしなくなった人なのです。「虚説」と言表すれば、それがその人のなかで客観的事実となってしまう人なのです。生長の家は、こういう人々を大量につくりだしてきましたよね。

わかりますか。言表と客観的事実とが絶対的に一致する世界が真理の世界なのです。真理の世界とは、世間の常識とはおよそかけはなれた、言表の帝国なのです。ひとたび言表すればそれが真実となってしまう言表の帝国なのです。「真の生長の家の教え」と言表するだけで、それが事実とは関係なく絶対的真実となってしまう世界なのです。

言表と出来事との一致をもって真理とすることがなぜ問題かといえば、事実がしめすように、客観的評価とは関係なく、自分の言表と客観的出来事とをいともやすやすと同一化させてしまう人物をつくりだしてしまうことにあるのです。こういうことを疑問にもおもわない心理状態をつくりだしてしまうことにあるのです。

言表の帝国に住みつづけている人はどうなるとおもいますか。その人の言表が世界の価値をすべて決めてしまうようになるのです。「虚説」と言表すれば、客観的評価とは関係なく、もはや相手にはそれだけの価値しかないのです(ここでいう「価値」とは真理にかかわるものですから、個人的評価ではなく絶対的価値基準による評価となります。それだからこそ「虚説」とみなされるのです)。

天地万物の価値は人間が決める。これが人間中心主義です。「虚説」といってる人は、総裁の絶対的価値を、たんに言表することによってすべて自分中心に決めているのです(自分の言表は、真理に照らしてすべて真実ですから、こういうことが可能になります)。

言表と出来事との一致を真理とみなすような人は、ついには、自分が「真である」と確信する言表はすべてが絶対的真実であると思い込むようになります。これを問題ととらえるか、とらえないか、それは訊けさん次第です。

763初心者:2014/03/24(月) 12:27:24
さくらちゃんへ

とりあえず、ちょっとだけ書きます。

>神は、人間を礼拝し給うているのであります。

訊けさんに「天地の万物を神として礼拝する」と書かれたときには、「これこそが人間中心主義の思い上りだろうが」と反発を感じ、「天地の万物に礼拝される」と書くのがほんとうだろうがと、じつはそのとき考えたのです。

榎本先生のことはほとんど存じておりませんが、生長の家にありながら真理を悟った稀有な人物ととらえております。

764「訊け」:2014/03/24(月) 13:10:11

>>初心者さま


>>>言表と出来事との一致をもって真理とすることがなぜ問題かといえば、事実がしめすように、客観的評価とは関係なく、自分の言表と客観的出来事とをいともやすやすと同一化させてしまう人物をつくりだしてしまうことにあるのです。こういうことを疑問にもおもわない心理状態をつくりだしてしまうことにあるのです。<<<

 「じゃ、真理とはなに?」でしょうね、私の疑問は。「果を見て樹を知る」のが、どうして問題となるのでしょうか。百歩譲って、雅春先生の御教えが「真理ではない」ことが科学的に、証明されたとしましょう。カミオカンデを超えるような実験施設が創設されそして、そこで「谷口雅春の真理は否定された!」と、なったとします。それでも私は、信じますけどもね。

 いや、谷口雅春先生は、偉大だからです。なぜならば、「あれだけの奇蹟が生まれている」のですよ・・・・一例だけにしますけども、志恩さんの体験談など、普通、医学の力を以てしても果たされなかった事でしょう(参考:志恩さんの体験談http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1308876271/1937

 ・・・・・これだけの奇蹟が起こっているものを、私は「真理と呼びたい」ですね。で、「コッチが真理だ!」な方がおられようとも、否定は致しません。「病気は治らないけど、こっちが真理!」そんな方がおられても、よしとします。(ただし、そんな方の御著書を読む気には、なれないでしょうね)




765「訊け」:2014/03/24(月) 13:22:02

>>初心者さま



 まあ、>>761に関して申せば、「未読暴走」です。生長の家が大量生産している、のではなく、「聖典の未読」です。未読のまま、相手方を決め付けていく行為です。でもこれ、『生命の実相』が生んだわけでは、ナイみたいですよ。

 その、榎本先生いわくですが、原因は「聖典の軽視」です。運動に特化して行ってしまい、聖典を「ぜんぜん読んでいない青年会員が増えた」、そんな記述がございます。そして、吉田國太郎先生が、嘆かれたという・・・・

 ところで、以下にも返信しますが、

>>>天地万物の価値は人間が決める。これが人間中心主義です。「虚説」といってる人は、総裁の絶対的価値を、たんに言表することによってすべて自分中心に決めているのです(自分の言表は、真理に照らしてすべて真実ですから、こういうことが可能になります)。<<<

 それでは雅春先生は、人間中心主義では「ない」です。雅春先生のは「神中心主義」になりましょう。そしてその神とは、「ただ善のみ」という、そんな存在です。ですんで雅春先生は、人間中心主義では「ない」です。




768初心者:2014/03/24(月) 13:46:56
さくらちゃんへ

>②真理を語れないとは、なにを持って真理というかわかりませんが、
生長の家の教えの基本は、ほぼ正確には「解説」されているのですよ。

たとえばですね、雅春先生のご文章を貼りつけるのは上手でも、真理を語れない人っていますよね。ですから、ほぼ正確に語られたとしても、それは語っておられるのではなく、さくらちゃんが書いておられますように、「解説」しておられるだけなのではないでしょうか。

総裁はおそらく、「真理はこんなに素晴らしいんだ!」というようには真理を語っておられませんね。「生長の家ではこのようにいわれています」というように、真理を淡々と解説しておられるのではないかと想像しております。

「総裁が宗教家として適性を欠いているとみなされるのは」の投稿でわたしがいいたかったのは、「偶然かもしれないが、総裁がなさっておられることに矛盾はない」ということなのです。どう矛盾がないかはすでに書いたことですので、ここでは書きませんけども、もしも偶然でなく意図してやっておられるとするなら、たいした深慮遠謀家というしかありません。

いずれにしても、騒いでいる連中というのは、深いところをみることができずに、浅いところだけをみている連中であるのは間違いありません。

「真理とはなにか」といえば、総裁がいっておられますように、「病気がこうして治った」というのは真理ではないということですね。わたしはかねてより、「真理とは仕組みである」といっておりますが、仕組みを探究していくうちに、「言表と出来事の一致」を真理とみなす従来の真理観とは根本的に異なった「大地の真理」に出会ったといったところでしょうか。

>環境問題に取り組むことが、総裁の考える、救済だったんです。
でも、わたしはこれは、何度もいうように、組織の方針にしてエコロジー運動にして、
宗教的なものを、否定していることに、問題があると思っています。

宗教的なものというより、古代ギリシャ風の環境運動というのはどうでしょう。古代のギリシャでは、大地から真理をあらわしだすのに霊的秘儀をもちいていたのかもしれませんが、現代では大地から真理をあらわしだす方法が哲学的に確立されておりますので、宗教色を否定しつつも宗教的味わいをかもしだすのは可能かと存じます。

たとえば、自然の言葉というのは、人間が言葉をそれに似せた途端に逃げていくものですね。それで追いかけていって、ふたたび言葉をそれに似せると、また逃げて行くことのくり返しとなりますね。こうした仕組みを古代ギリシャ風に「ポイエーシス」と呼ぶことができそうですから、こうした用語をふんだんにおりまぜた、古代ギリシャ風の「大地の真理」を、総裁にはぜひとも実現していただきたいと考えてます。

770「訊け」:2014/03/24(月) 13:58:52
>>初心者さま

 以下の文が「私のこと」を指すのでしたら、このやり取りは終了しましょう。以下です、

>>>たとえばですね、雅春先生のご文章を貼りつけるのは上手でも、真理を語れない人っていますよね。ですから、ほぼ正確に語られたとしても、それは語っておられるのではなく、さくらちゃんが書いておられますように、「解説」しておられるだけなのではないでしょうか。<<<

 いや、そりゃ、そうですよ・・・意味は、わかりますか。「雅春先生はどうご主張されているのか」が、論点だったでしょう。そんな論点に於いては雅春先生のご文章を紹介、していくのが当たり前の態度ではないでしょうかね。(それでも案外、時間はかかるのですよ)。

 また、「病気くらいを治せない真理」なんて、アルんでしょうかね。

 その点はまだ、貴殿のご回答を拝読しておりませんが、いかがでしょうか。病気を治せない真理、「ある」のでしょうか。



771初心者:2014/03/24(月) 14:32:10
訊け様

>「じゃ、真理とはなに?」でしょうね、私の疑問は。「果を見て樹を知る」のが、どうして問題となるのでしょうか。百歩譲って、雅春先生の御教えが「真理ではない」ことが科学的に、証明されたとしましょう。カミオカンデを超えるような実験施設が創設されそして、そこで「谷口雅春の真理は否定された!」と、なったとします。それでも私は、信じますけどもね。

ですから、雅春先生の教えが否定されるとか、そういう問題ではなくて、言表と出来事の一致を真理とみなすような考え方は最終的に人間中心主義にむすびつく、ということをいっておるのです。このことを#761で詳しく説明したつもりなのですが、読んでいただけてないのですか(わかりにくかったとはおもいますが)。

いずれにしても、雅春先生の教えが真理であるかないかを問題にしているのではなく、言表を出来事と一致させることに快感をおぼえた人々がおちいりやすい心理状態を問題にしておるのです(「現象はない」と言表すれば、たしかに気持ちがよいでしょう。そのうち、あらゆることがらにたいして自己中心的な言表をしたがるようになるのです)。

イデア論とは、対象となる相手にイデアがあらわれているかどうかを問題にする思想なのです。生長の家もおなじです。相手に実相があらわれているかどうか、生長の家の人々は、つねにこれを問題にしているではないですか。

そのイデア論によって,大地中心主義から人間中心主義への大転換が行われたということは、すでに書きました。「実相があらわれているかどうか」と、イデア論とうりふたつの発想をする生長の家が人間中心主義の拡大に加担しないとする保証がどこにあるというのでしょう。

>まあ、>>761に関して申せば、「未読暴走」です。生長の家が大量生産している、のではなく、「聖典の未読」です。未読のまま、相手方を決め付けていく行為です。でもこれ、『生命の実相』が生んだわけでは、ナイみたいですよ。
 その、榎本先生いわくですが、原因は「聖典の軽視」です。運動に特化して行ってしまい、聖典を「ぜんぜん読んでいない青年会員が増えた」、そんな記述がございます。そして、吉田國太郎先生が、嘆かれたという・・・・

未読暴走?それなら、総裁を「虚説」というように、「相手方を決め付けて」おられた復興Gさんは「未読暴走」ということになりますね。復興Gさんはたしかに「虚説」という言葉をつかって総裁を批判しておられましたよね。復興Gさんでさえも未読暴走なさったということなのですね。

復興Gさんは#761で述べたケースに、あきらかにあてはまりますね。復興Gさんでさえこのありさまです。生長の家が人間中心主義の拡大に加担しないとする保証はいったいどこにあるのですか。

773初心者:2014/03/24(月) 14:33:50
#770

復興Gさんのことです。

774「訊け」:2014/03/24(月) 14:41:36


>>>「偶然かもしれないが、総裁がなさっておられることに矛盾はない」ということなのです。どう矛盾がないかはすでに書いたことですので、ここでは書きませんけども、もしも偶然でなく意図してやっておられるとするなら、たいした深慮遠謀家というしかありません。<<<

 ・・・ところで貴殿は、総裁御著書は何冊くらい読まれましたか。上記は推測のお話しでしょうか。まあ、よいのですが。 

 そしてまあ、「真理を語れない男」でけっこうな、訊け管理人です。雅春先生のご文章を、貼り付けることだけが上手です。で、その、貼り付けた文章で「人が救われている」わけです。・・・・・・救われていれば、まあそれで、充分ですね。なにも「自分が!」とか、力む必要はナイのでは?自分が真理を語れなくとも、生長の家には聖典『生命の実相』がアルのです。この本さえあれば、(昨日まで普通のおっさん、おばちゃんだったような)普通の人でも、自宅の誌友会で「奇蹟を起こせる」わけです。・・・・たとえそれが「真理と呼ばれなくとも」、私は充分素晴らしいと思います。

 で、こんなタイミングでなんですが、休日の間に起こった「オモシロイ話」などを紹介しましょう。まあ、初心者さまに信じてもらうのが、目的ではありません。まして、「オレさまは、これくらいの信仰者だ!」てな、デモンストレーションをしたいワケでもナイのです。以下は、そんな話です。

 『甘露の法雨』です。このお守りを、「野球のユニフォームの尻ポケットに入れていた」という話です。で、私は迂闊にも、そのお守りを尻ポケに入れたままで洗濯に出したんで、ありました。気づいた時は、焦りましたよ・・・「ぎゃあ!8年間も愛用していたあのお守りが!」と。「たぶん、ズブ濡れでグチャグチャだろうなあ」と。


 ・・・・ところが!なんとその、『甘露の法雨』ですけど、「ぜんぜん濡れてナイ」んです。洗濯を依頼した母に聞いたところ、「キチンと洗濯したわよ」てな返答でした。キチンと、ガンガンに洗濯機をまわしたらしいのですが、普通なら「ズブ濡れ+グチャグチャ+お守り破損」でしょう。でもそれが、「まったく濡れてイナイ」のです。もう、ビックリしましたけどもね。まあ既述の如く、初心者さまに信じてもらうのが、目的ではありません。まして、「オレさまは、これくらいの信仰者だ!」てな、デモンストレーションをしたいワケでもナイのです。でも、私程度の者でも、そんな事が起きるんです(!)。いやホント、「なんで?」なんですけどもねえ・・・





追伸

 で、追伸しておきますがこの、ズブ濡れになってなきゃオカシイ『甘露の法雨』ですけども、これ、書いたままですよ。ホントに「濡れてもイナイ」んです。私、本当にビックリしてます。

775初心者:2014/03/24(月) 15:22:44
訊け様

>また、「病気くらいを治せない真理」なんて、アルんでしょうかね。
 その点はまだ、貴殿のご回答を拝読しておりませんが、いかがでしょうか。病気を治せない真理、「ある」のでしょうか。

あるんじゃないですか。たとえば1+1=2は真理であるはずですが、これで病気が治るとはおもえません。

訊けさんがおっしゃりたいのは、「病気を治せる」というのは真理の必要条件であると、こういうことなのですよね。それなら、なぜ「病気を治せる」ということが真理の必要条件であるとお考えなのか、その理由をお聞かせください。

わたしは必要条件とはおもいませんので、訊けさんがなぜ必要条件としておられるのか、その理由を知りたいくらいです。なにを根拠に病気治しが真理の必要条件とお考えなのでしょう。

もちろん、雅春先生の教えを根拠にした説明は無効です。それでは、我田引水の説明にしかなりません。

ところで、総裁の著作ですが、ただの1冊として読んだことはありません。「偶然かもしれないが」と書いておりますように、すべて想像です。しかし矛盾がないのは事実なんですよ。矛盾だらけの復興Gさんが矛盾のない総裁を「虚説」と批判しておられるのですね。

「総裁と和解を」といっておられた復興Gさんが、「虚説と和解してはならない」といっておられるわけですから、これはどうしたって矛盾ですよね。

復興Gさんの暴走問題についてなにかコメントいただけますでしょうか。

776「訊け」:2014/03/24(月) 15:29:36

>>>なぜ「病気を治せる」ということが真理の必要条件であるとお考えなのか、その理由をお聞かせください。<<<


 単純な、話です。「それが真理だから」という、ものです。人間を幸せにするか否か、です。(←言葉尻を捉えれば、如何様にもツッコミは可能でしょうが)ところで1+1=2なんて、そんな次元の話をしてんじゃ、ないでしょ(笑)これじゃ単なる、言葉コロガシではないですか。

 繰り返しますが、「真理」ですよね、我々が語っているのは。で、「果を見てその樹を知る」ということも、あるのではないですか。つまり、雅春先生の御教えに従いますと、治っちゃうわけですよね。これって、スゴイんじゃないですかね。そして、「病気くらい治せないで真理と呼べるの?」とは単純に、貴殿とのやり取りの中では発生する疑問に、なりましょうかね。



777「訊け」:2014/03/24(月) 15:33:11

>>>もちろん、雅春先生の教えを根拠にした説明は無効です。それでは、我田引水の説明にしかなりません。<<<


 貴殿のやり取りの目的は、「雅春先生の教えではどうなっているのか?」では、なかったですか。そして、その様なやり取りの中では雅春先生のご文章ですけども、引用してやり取りするのは「当たり前の態度」ではないですか。それをスキップして、私のような、キャバクラ狂いの野球脳男のイケンなど聞いたとて、なんの価値もナイと思いますけどもね。



778初心者:2014/03/24(月) 15:38:37
病気の治癒や奇跡の実現の仕組みは、Dブレーンをもちいれば説明可能かと存じます。ただしわたしはド素人ですので、想像的に説明してみることしかできません。たとえ稚拙であっても、それらしい説明はできますので、なにが起きても「不思議」という感覚はありません。じっさいわたしのまわりでも、説明できないような出来事は数知れずおきております。雅春先生の教えとの直接的な関係はないものとおもわれます。

政春先生は、病気の治癒や奇跡を起こす仕組みを発動させることに長けておられたのでしょう。

>「真理を語れない男」でけっこうな、訊け管理人です。

復興Gさんのことだといってるでしょう。

何度でもいいますよ。

貼りつけ上手で真理を語れない人とは復興Gさんのことです。

779初心者:2014/03/24(月) 15:43:38
政春先生って誰でしたっけ?

780私はヘタレな神の子さん(だははは):2014/03/24(月) 15:45:27
>>779

  ブッ(笑)

781「訊け」:2014/03/24(月) 15:48:38


 まあ、ザッと当方の主張をまとめますが、箇条書きにすれば以下の如しでしょうか ―

○ それが目的ではナイにせよ、「真理」であるならばせめて、「人間の病気くらいは治る」ものではないでしょうか。

○ ここにふたつ、「真理がある」とします。片方は「病気(くらい)治り」まして、もう片方は、「治りません」とします。さらには後者は、「科学的に証明された真理」とし、前者は「証明されてイナイ」としましょう・・・・それでも私にとっての真理とは、前者でしょうかね。

○ なぜなら「真理だから」です。真理と呼ばれるもので病気が治らないとは、考えられないからです。

○ あの、志恩さんの体験談をご覧ください。科学的には「治らない」とされた外傷ですけども、「治っちゃった」わけです。これっていったい、どっちが真理でしょうか。(参考:志恩さんの体験談http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1308876271/1937

○ (貴殿ご定義の人間中心主義ですが)それに「雅春先生の思想が該当する」にせよ、問題はナイと思います。実際の雅春先生の思想とは、人間を中心にしたものではなく、「神を中心にすえたもの」だからです。

○ 「虚説を排除せよ」とは、生長の家の思想ではありません。正しくは、(聖典14巻にあるごとく)「相手を悪だと見る目を排除せよ」です。つまり、虚説とは相手方にアルのではなく、あくまでも「自分側にあるもの」とするのが、御教えです。排除すべきは相手ではなく、「自分側の曇った目」を指します。(ちなみに復興Gさまのご発言は、そんなに問題でしたか?ウロ覚えです)

○ また、「雅春先生のお考えでは、どうなのか」の論点に於いて、御著書から引用するのは「当たり前の議論態度」だと、思います。





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