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「脱力ネタ」板

722初心者:2014/03/22(土) 09:48:18
さくらちゃんへ

>端的にいえば、
一、宗教の教義や論理を根拠にして、
自分が信じた理想の正義、または善を実現するために
都合の悪いもの、邪魔になるもの、またその反対になる考え方を、
「悪や虚説」として、排除する、
という二項対立の考えに陥るものと、
二、宗教行や祈り、感謝の生活を大切にしていく信仰心。
「理想実現」を掲げるというより、
人や物の奥にある「理念」や神性を礼拝する生活。
(二項対立がないので、何かを排除するという発想はない。)
本来の信仰、信仰運動は、わたしは、こちらだと思っています。

これはそのとおりですね。自分の考えと異なる考えを「悪や虚説として排除する」のが、人間中心主義におちいった人物にありがちな行動パターンなのですね。なにしろ、現象はすべてが自分の心の影なのですから、他者の考えといえどもそれは自分の心の影であり、それが「悪や虚説」としてみてえているとすれば、それは自分の心の影としてそのようにみているだけだから、それを「ない」といって否定するのはあたりまえ、となるわけです。

相手がどんなに傷つこうとも、すべては自分の心の影なのですから、「虚説」として否定するのはあたりまえなのです。

ところで、「人や物の奥にある理念や神性を礼拝する」とはどういうことなのでしょう。理念や心性は自分の心の影ではないですね。つまり、生長の家の人々とは、心の影の部分とそうでない部分とを瞬時に、しかも完璧に見分けて、そうでない部分だけを礼拝する能力を身につけた人々であるということなのですね。こんなことができる人たちなんですねえ。

でも、総裁は「こんな器用な真似は自分には無理」と考えられたんですねえ。もっと難易度の低い宗教はないか。このように考えられて、「心の影」というようなややこしいことは考えずに、「すべてを神として礼拝する」という自然宗教へ切り替えようとしておられるということなのですね。

>(イタリアの哲学者ヴァッティモは、西洋形而上学は絶対的価値、真理、普遍といったものを主張する、「強い思考」であり、暴力性がそなわっているとして距離を置くと、言いました。
宗教でも、絶対的価値観、真理、高い理想や正義を主張した時、時に暴力的なものがあります。
…対して、弱い思考というと、誤解されそうですが、
宗教において、なにか…大切なものは、世間の権力や、制度などに対して変革するなどの「力」は、本来求めないものだと思っています。)

イタリアのジャンニ・ヴァッティモですか。アメリカのローティとならぶ「弱い思考」の提唱者ですね。さくらちゃんはヴァッチィモを読んでおられるのですか。いやー、おそれいりました。

いま人類に必要なのは、ローティの唱えるアイロニズムの発想ですよね。ヴァッティモは読んだことがありません。ローティに影響されたわけではありませんが、暴力的な思想はアイロニズムの欠如から生じる、というのはたしかなことのように感じられます。相手の考えていることを「虚説」と言ってのけられるような人々には、たしかに暴力性のようなものを感じます。


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