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「脱力ネタ」板
708
:
初心者
:2014/03/21(金) 17:21:36
さくらちゃんへ
>ですから、度々言いますが、
「環境運動」を真理に結びつけようなんて発想はなくて、もともとは、
自然崇拝の、宗教の本来の意味に立ち返ろうという「信仰運動」にしようと思ってやったんです。
しかし、エコロジー、つまり、ロジックとしてしか「運動」に結びつけられなかったんです。結果として。
自然宗教に立ち返ろうということですね。自然宗教であれば、人間の意識がどうであるかは問題になりません(人間中心ではなく自然中心だから。もちろん神の子の自覚も必要ない)。
総裁が自然崇拝という形で宗教のほんらいの形に立ち返ろうとしておられたとすれば、人間中心主義からの脱却を図ろうとしておられたと考える根拠になりますね。ただこのとき、雅春先生の教えはどうなるのか、ということです。いかなる理由説明もなく切り離すことはできませんね。環境運動に真理をむすびつけようとの発想がたとえなかったとしても、啓示宗教が自然宗教へと変化した理由を真理とむすびつけて説明する義務はとうぜんのごとく生じます。そうしなければ、「雅春先生の教えはどうなった?」となって混乱が増すだけですから。
さくらちゃんは、信仰運動であるはずのものがなぜエコロジーになってしまったのか、このことを問うてらっしゃるのですね。このあたりはたしかに、「ほんらいの宗教への回帰」では説明がつきません。なぜそうなったのでしょう。
それはですね、「挑発」という言葉がキーワードになるような気がいたします。かつて自然は畏怖の対象でしたね。自然にたいする畏怖が自然崇拝にむすびついたはずです。ところが人間中心主義の考え方があらわれたことで、自然は畏怖の対象から挑発の対象となったのです。つまりですね、総裁がかかげる自然崇拝への回帰とは、自然を畏怖の対象へといきなり回帰させることではなく、挑発の対象からまずははずすということであったはずなのです。自然を挑発の対象からはずすために「まずはエコロジーから」、との発想になったのかもしれませんね。
いずれにしても、「雅春先生の教えはどうなったのか?」の疑問に答えるためにも、環境運動と真理との関係をきちんと説明しておく必要がありそうです。
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